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相模原の障碍者施設で起きた殺傷事件については「ヘイト犯罪」とみる見方が一般的で、これに対して多くの識者はナチスと同根であるとか、おそましい優生思想だとかと言って被告人批判を行っている。そして被告人もまた「障碍者は不幸しか生み出さない」という動機を述べているのだが、本当にこれはそんな被告人のヘイト思想を背景とした犯罪なのだろうか。そんな疑問を感じていたのだが、さる方のブログでこの殺傷事件の背景には嫉妬があるという見解を紹介しており、なるほどと思った。幸福な者や満ち足りた者は、あまり嫉妬という感情をもたない。不幸な者や不満のある者が嫉妬という感情を他者にむけるわけである。その場合、嫉妬の向かう先はどうも二つある。一つは自分よりも文句なく恵まれている者や自分が望んでも手に入らなかったものを持っている者である。そしてもう一つは自分よりも劣っている、あるいは自分とたいして違わないはずなのに自分のような苦労を免れている者である。かつかつの生活をしている人が「真面目に働くのがばかばかしくなる」と生活保護受給者をバッシングし、リストラの不安や給与の不満をかかえているサラリーマンが公務員をたたくのは後者の嫉妬の典型であろう。そしてまた、相模原の障碍者施設の殺傷事件の犯人も同じような嫉妬を障碍者に持ったのではないか。川崎の通り魔殺人や京アニの放火殺人の犯人に比べると、相模原の障碍者施設殺傷事件の犯人は両親が健在で大学時代までは普通に青春を謳歌していたので「不遇」という印象はあまりない。しかし、彼もまた卒業後は就職がかなわず、障碍者施設に勤務したが、その勤務も入れ墨で解雇されるなど不安定なものであった。そして精神病院の入院歴となると、今後の人生はますます狭まってくる。「こっちも余裕ないんだ」というのは京アニの放火殺人事件の犯人の言葉だが、相模原の障碍者施設殺傷事件の犯人も同じような状況にみえる。おまけに彼の場合は両親が貧しいというわけでもないので、生活保護も認められそうもない。川崎や京アニの無差別殺人事件では。嫉妬の対象は前者、おそらくは自分が望んでも行けなかった学校に行っていたり、自分が望んでも就けなかった仕事をしている人々に向かったのに対し、彼の場合には自分よりも「下」のはずなのに、衣食住の不安もなくのうのうと暮らしている障碍者に向けられたというだけのことではないのだろうか。犯罪の根っこにあるのは「ヘイト思想」というよりは、生活保護バッシングや下級公務員バッシングと同根の嫉妬であったのかもしれない。
2020年01月31日
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この映画を見ながらある有名評論家の言った言葉を考えていた。現代の格差というものは知能の格差による…と。もちろん知能だけがすべてではなく、知能以外の能力で成功している人もいるし、また、優れた知能があっても、他の要件に恵まれずにうまくいかない人もいる。ただ総じて背景にあるものは知能や能力の格差であるというのは、いいにくいのだが、事実ではないのだろうか。この映画を見て、これも格差と差別を描いた映画だと思った。主人公リチャードと母親、そしてその友人を一方の側だとしたら、もう一方には警察エリートやマスコミがいる。警察やマスコミから見たら、リチャードは「母親と暮らすデブ」であり「貧しく孤独な白人男性」で、爆破事件の犯人にぴったりということになる。そして爆発物の第一発見者であるにもかかわらず、彼は警察とマスコミから犯人扱いされて、生活を破壊されていく。その背景にあるのは、エリート達の差別と偏見なのだが、こうした差別は声にだしにくい。黒人だから疑われたとか、女性だから差別されたとかいった類の話の方がずっと感動的に作りやすいし、その主張も差別はけしからんですむのだからずっと簡単だ。リチャードが頼る弁護士が「なぜいくらでもいる弁護士の中から自分を選んだのか」と聞くと「あなただけが対等に扱ってくれた」と言うのだが、もちろん実際にはリチャードと弁護士とは対等ではない。映画の中でリチャードが爆発するように、弁護士に向かって「おれはあんたのようにはなれはしない。おれはおれだ」と叫ぶ場面があるが、個人的にはこの台詞が一番印象に残った。最終的にリチャードの疑いははれるのだが、警察やマスコミが謝罪をしたり、内部で処分が行われたりとかそうしたことは、どうもなかったようだ。そのあたりは、日本も同じようなものだろう。誤認逮捕や犯人扱いの報道など、ときどき起こるのだが、三人並んでぺこりと頭を下げてみせ、誰に謝罪しているのかさっぱりわからないパフォーマンスをやって終わり…というのがほとんどなのだから。最後にこれはアトランタ五輪中の爆破事件に関連しての実話をもとにした映画なのだというが、東京五輪を控え、テロへの警戒の高まる日本でも他人事とはいえない話ではないか。
2020年01月29日
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世の中にはときどきわけのわからないニュースがでてくることがある。昨今の公文書紛失とか改ざんとかの問題を受けて、政府では公文書管理の認証資格を設けるのだという。こうした公文書をめぐる問題が、公文書管理の専門家がいないせいだと思っている人はたぶんあまりいないだろうけど、それはまあおくとする。その上で、公文書管理の認証資格と聞いて変に思わないだろうか。公文書の中には機密文書もあるし、国益を左右する重要文書もある。昨今では公務も民間に委託するのが流行りのようなのだが、公文書管理の業務というのは絶対に民間に委託できないものの一つである。となると、公文書管理を行うのは公務員しかいない。さてその公務員しかできない仕事に、さらに認証資格なり国家資格なりを与えている例はあるのだろうか。公務員の業務はそれぞれに専門性があるのだが、それは業務の中で習得するもので、それに例えば予算専門士とか、補助金鑑定士なんていう資格を設けても屋上屋のように思うし、そうした資格取得のために公務員に研修の一環として大学に税法の講義を聴講させたりとなると、単に大学の救済にしかみえない。もちろん原資は税金である。また、もう一つの考え方として、公文書管理資格の対象を公務員ではなく公務員志望者にするという考え方もある。例えば司書は民間の図書館もあるのかもしれないが、多くは公立の図書館であり、司書資格を持っている者の中から司書が採用される。公文書管理資格も同様に、公務員志望の学生が取得し、その資格者の中から公文書管理に携わる職員を採用するという考えもある。ただ、それが簡単に採れる資格だと、現実の採用試験のおまけのようになるだけだし、逆に非常に高度な資格で、採用にも公文書管理という区分があると、かえって処遇に困るように思う。公文書管理はいくら重要だと言っても、官民問わず花形業務は実際に文書を作り仕事をすすめる業務であって、文書管理の業務というのはあくまでも裏方なのだから。
2020年01月27日
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家に撮りだめておいたDVDで「鎌倉物語」を見た。昔、漫画でいくつか読んだことがあるのだが、有名な作家と若い新妻との生活を描いたもので、ギャグのようなファンタジーのような不思議な感じの物語だった。映画でもこの雰囲気はかわらず、それに映画ならではのCG特撮も見事で面白い。あの黄泉の国に向かう汽車の場面など「千と千尋の神かくし」の一場面を思わせるし、そのもっと前には銀河鉄道のイメージもある。死者は鉄道に乗ってあの世に行く…という発想はいつ頃から始まったのだろうか。そしてまた、死神が黒装束の正装というのは、韓国ドラマの「トッケビ」とよく似ていてこうした死神のイメージもいったいどこからはじまったのか興味深い。映画を見ている間ずっとこの死神はジャニーズ系のタレントがやっているとばかりおもってみていたのだが、キャストをみて「安藤さくら」とあったので、その化け方にびっくりした。いつか映画「コンスタンティン」を観たとき、ティルダスウェントンが天使の役をやっているのを見てすごく印象的だったが、名優というのは人間以外のものの役をやっても、見事にやるものらしい。まあ、全体としては、お暇ならどうぞ…という映画なのだが、この映画が公開されていた頃、総理が鑑賞したと新聞に書いてあって驚いたことがある。決してつまらない映画ではないのだが、責任のある地位についている人が人前で「観た」というような映画とはちょっと違うのではないか。子供や若者ならよいのだが、同年配で、こうした映画について熱心に感動したとかよかったとか言っているとしたら、正直ちょっとあまり知的な人ではないと思うだろう。そういう映画である。
2020年01月26日
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韓国ドラマ「グッドワイフ」をみていたが、実は真ん中あたりでリタイヤをした。最初は知的美人で好感がもてた主人公にあまり感情移入できなくなったのが理由だ。以前見てはやばやとリタイヤした「プラハの恋人」でも、同じ女優が大統領の娘でエリート外交官という役柄で主演しており、どうもこの女優主演のドラマとは相性がよくないのかもしれない。もっとも、「プラハの恋人」は最初から大使館対抗マラソン大会のようなありえない設定だったりして、あまり傑作ともおもえない。その点、グッドワイフは法廷もので、「神の天秤」、「リメンバー」など韓国ドラマの法廷ものや法廷シーンは面白いと思っていたし、「グッドワイフ」もエリート検事の夫の事件をおおきな縦糸にし、それに1話か2話で完結する事件をからめるという構成もよかったのだが、しだいに話についていけなくなったという感じだ。そのかわり以前に利用していたビデオショップが閉店したため、やむなく途中でやめていた「光と影」をまた見始めた。こちらの方は主人公が仇敵のためにすべてを失い、その後、再起して復讐を果たすという韓国ドラマによくある話で面白い。ところでこうした韓国ドラマをみていて気になることがある。現代ドラマではよく家の鍵を暗唱番号で解錠したり、駐車場で自分の車がどこにあるかわからないときにリモコンでライトを点滅させたりする場面がある。ああいった技術は日本でも普及しているのだろうか。様々な人のブログを読んでいるとアジア各国の中でも日本の技術は遅れ始めているといった指摘もあり、ちょっと不安になる。
2020年01月24日
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ネット時代のありがたいところは、なんでも検索できるところだ。昔きいたことのある素敵な歌なのだが、レコードも買う機会(当時は高価だった)もなく、その後、わすれていたのだが、検索するとでてきた。由紀さおりの歌っていた「季節風」という曲だ。男女の別れを女性の側から歌った歌なのだが、じめじめしたところがなく、風がふきぬけるような冒頭の旋律が印象的だった。その少し前に歌った「手紙」の大ヒットからしばらくはこうした手紙にまつわる歌をうたっていたようだ。もちろん、この曲にも「私はあなたに手紙を書いている」というフレーズがでてくる。https://www.uta-net.com/movie/87593/季節風というだけでは季節は特定されないが、歌詞には「表の陽だまり」とか「花屋の店先に季節の花が咲く」とあるので、どうやら春だということがわかる。かつては春には春の歌、梅雨時には雨にちなんだ歌と季節ごとに、その季節を感じさせる歌謡曲が流れていた。そして大みそかには紅白で今年流行った歌をふりかえるというわけだ。それにしても冬晴れとは縁のない曇りや雨の日が続く。まだ、1月なのだが、すぐにでも春一番が吹きそうな気がする。
2020年01月23日
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高齢社会については書いたものは山ほどあるが、高齢社会があるのなら少子社会というものもあるだろう。そしてその少子社会もさらに未婚少子社会と既婚少子社会に分かれるのかもしれない。前者は未婚者が多いので子供の数が少ないという社会であり、後者は夫婦の間の子供の数が少ないという社会である。今の日本を少子社会というのなら、もちろんそれは未婚少子社会だろう。去年の出生数は90万人を切ったというが、第一次ベビーブームでは年間270万人も生まれていたことを思えばその3分の1になったわけである。そういえば街でも子供を見かけることは少ない。電車などで子供や赤ん坊を本当にうるさいと感じるようになったのも、それが普通の雑音ではなく、特殊な騒音になっているからなのだろう。デパートの屋上が子供向けの遊園地になっているなんてのもみかけないし、クリスマスのおもちゃ商戦なんていうニュースも聞こえてこない。テレビも午後6時台や7時台はかつてはチャンネル権のある子供向けの番組ばかりをやっていたと思うが今はそうでもない。アニメやゲームは昔は子供のものと決まっていたけど、今では、中高生美少女を主人公にしたアニメを大人の男がみているし、ゲームも最近では老人もけっこうやっている。子供の次には若者を街でみかけることもあまりなくなる社会になっていき、少子社会は、やがては少子少若者社会になっていくだろう。子供はいつまでも子供ではないし、若者もいつまでも若者ではない。今後は中高年の未婚者が世にあふれることになる。中には年齢とともに健康を損ない困窮していく人もいるだろうけど、それは福祉の問題になる。そしてそうではない中高年については未婚中高年を対象にした市場が拡大していくことだろう。財産を残すことに執着がなく体力もさほど使わずに刺激的な娯楽を求める層はカジノのかっこうな顧客になるだろうし、外国資本の中にはそれもみすえているところもあるのかもしれない。狙うは子供や孫のいない老人のタンス預金。そしてまた、そうした未婚者にはほぼ共通にいえることがある。それは自分に子供がいないので、先の時代のことはあまり考えなくてもよいということ。100年後に人類が絶滅するとか、日本が消えるとかは、自分の死後のことなので関係ない。いわばどっかの恒星がいつ超新星爆発をするか程度の関心しかないわけである。こう考えると、少子社会の社会意識や世論に及ぼす影響というものは確実にある。国家や人類の将来、50年先、100年先のことなどに対する興味関心が薄れていく。また、子孫のために名を惜しめ…とか、残された家族が泣く…とかといった感覚もないので、中にはかなり無茶をやる人もでてくるかもしれない。いはば暴走老人という奴である。
2020年01月22日
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政府の政策の柱として少子化対策がある。ところでこの少子化対策なのだが行う必要があるのだろうか。いったい少子化で何が問題なのだろうか。よくいわれるのは年金の支えてがいなくなる、今は何人で一人の老人を支えなければならないのが、何年後には何人で一人になる云々といった議論だ。しかしこんな議論は奇妙というほかない。少子化対策と言ったところで生まれた子供がすぐに働き手になるわけではない。今から生まれる子供が25歳になる頃、つまり今から25年には団塊の世代は100歳近くなっている。ということは日本の高齢者人口のピークはとうに過ぎており、その後は高齢化率は横ばいとなる。要するに今から少子化対策をやったところで、高齢者人口のピークにはどのみち間に合わず、逆に高齢化の最も深刻な時期に子供も増えることになり、従属人口比率という意味ではかえって全体の負担は増すわけである。もちろんその後も高い高齢化率は続くのだが、それは人口増が抑制的で、多くの人が長生きするような社会では当然のものではないか。いまどき人口爆発がよいとか、長生きが悪いとかいう人はいない。それによい悪いは別にして、社会全体にも子供に対する耐性が失われてきている。昔は路地には子供があふれ、電車内や公共の場所ではピーピーキャーキャー赤ん坊や子供の声が聞こえているのが普通だった。そんな時代に戻るなんてのは無理だろう。昔はなかったような子供の騒音に対する苦情があちこちから起きており、騒ぎまわる子供に眉を顰める人も多いのだから。少子化対策なんかいますぐやめたらよい。そしてその少子化対策に注ぐべき資源をもっと深刻な貧困老人予備軍に対する対策などに振り向けていく方が社会の健全性維持という視点からは重要なのではないかと思う。
2020年01月21日
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岩波文庫の吉川一義氏訳の翻訳がついに完結した。思えば一昨年の12月に第13巻が出て、次は去年の夏ごろに出ると予告されていたのだが、実際に出たのは11月になってからだった。待ちに待った最終巻。ようやく図書館でゲットしたのだが、なんと本文は300ページ程度でさほど長くない。そのかわりに膨大な索引がついているので、全体では600ページほどになる。この本には知らない地名、人名、作品名が頻繁にでてくるので、注がないととうてい読めないのだが、岩波文庫版は注がページ横にあるのがありがたく、さらにありがたいことにはその注が美術や建築に関するものである場合には図や写真もふんだんに使われている。もちろん翻訳の文章が読みやすいことはいうまでもない。最終巻は膨大な長編小説の大団円といってもよいだろう。長い療養生活を終え、再び社交界に戻ってきた「私」はかつての知人が年老い、そして自分も年老いたことを知る。それでも過去は今につながり、かつての友人とかつての恋人の血を引く少女の出現に触発され、「私」は小説を書くことを決意する。人は現在を生きるのみではなく、大きな時間の流れを生きている存在であり、感性に触発され、人の回想はあらゆる時代にとんでいく。第1巻ではそれは紅茶にひたしたマドレーヌの味であり、最終巻では呼び鈴の音であり、人生はなんていう豊饒な感覚に彩られているのだろうか。最終巻まで読むと、ふたたび第1巻を読みたくなるのだが、なんせ全14巻の大長編だ。おそらく全巻をふたたびよみかえすということはないだろう。
2020年01月20日
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最近のニュース報道をみていて思うことを書いてみる。まず、雲隠れ中の河合夫妻の公職選挙法違反疑惑についての報道をみていると、つい外国の法務大臣の疑惑について、これでもかこれでもかと大報道していたことと比べてしまう。自国の法務大臣よりも外国の法務大臣の不祥事について大報道するのってどうみても変ではないか。次に、障碍者施設で起きた殺傷事件についての裁判が始まったが、被告人はかつてこの施設で働いていた時に、溺れかけた障碍者を助けたのに家族から感謝されなかったことが、犯行に至る動機を形成したということを供述している。それなのに、これについての後追い報道がまったくないのが変な気がする。本当にそうした事実はあったのだろうか。仮に事実であったとしても、何も当該家族を特定できるようにしたり非難したりしろというわけではもちろんない。ただ、この事件の背景には歪んだ思想なるものがあり、それはナチスと同じ優性思想であったとされているが、被告人は実際に何年も障碍者の世話を行い、家族(まったく施設を訪れない家族は別として)とも接触をもっていた人物であったことは忘れてはならないだろう。そしてまたこの事件について、一部新聞報道が行っているような男39歳、女40歳というような匿名報道のやり方についても気持ち悪さを感じる。それはちょうど生物学に関連する本で「ヒト」という単語をみたときに感じるのと同質の気持ち悪さなのだが…。最後に、カジノ誘致に関連して議員が逮捕された事件についてであるが、これでカジノ誘致に対する潮目が変わったのではないか。当たり前のことであるが、カジノは公営ギャンブルとは違い、まず、カジノを運営する企業が儲けるものである。それが税収増や経済活性化につながるということを誘致派の人々はいうのかもしれないが、その企業が外国企業となれば、日本人がカジノですった金が外国企業に流れるという構図になる。そして今度の事件でわかったように日本のカジノへの進出をもくろむ外国企業は多い。よく考えればあたりまえなのだが、そんなあたりまえのことに気づかせたことは、この事件の功罪のうちの功の部分なのかもしれない。
2020年01月19日
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詳細はよく知らないが、最近は、文豪をイケメン化したアニメやゲームがあるという。文豪なんとかで検索してみるとすぐにでてくるのだが、最近ではそれを契機に文豪の作品が再び読まれたり、文学館を訪れる人が増えたりする現象があるという。なるほど、教科書に掲載されている文豪の写真はたしかにイケメンが多いように思う。理由は、なんてことはない。戦前は今と違い平均寿命が短く、文豪でもけっこう結核などで夭逝した人が多いからではないか。ちなみにこの夭逝という言葉、才能ある人物に限定された言葉で凡人には使わない。文豪と言っても、若い時期の写真しかないという人がけっこう多く、しかも知性はそれ相応に顔に出るものなので、イケメン率が高いのは当然だろう。そしてまた、昔は写真を撮る機会というのは今よりは格段に少なかったので、残されている写真は少なく、そこがまた想像力をかきたてる。それにしても…と思う。こうした文章で身をたてる人々というのは明治のかなり初期から存在した。文学といった方面でなくとも、新政府に不満を抱いた旧幕臣の中には新聞記者として政府批判の論陣を張った人もいた。こういうものが職業としてなりたつには、金を出して活字を買う人々が一定層いることが不可欠のはずだ。今でも途上国の中には「小説家」という職業自体存在しないところもあるという。それを考えると、江戸時代の終焉までに、相当に文字が普及し、近代化の下地がととのっていたわけで、やはり近代化は明治になって突然始まったのではなく、それまでに下地ができていたのだろう。
2020年01月17日
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韓国映画「パラサイト」が世界的に大好評だという。面白い映画なのだが、そこまで大好評だという理由がよくわからない。先の読めない展開やどんでん返しは荒唐無稽と紙一重でもあるし、それに、正直言って格差を描いたという割には、格差を感じないのはこちらの感性がおかしいのだろうか。たしかに、富豪の高台の家と貧しい一家の住む半地下の家は天地ほどの差異がある。でもそれは衣食住の住居の格差であり、食の差はそれほど描かれていないし、衣服に関しても貧しい一家の娘も息子も服装だけでは貧困家庭の出身だとはわからない。映画の中では半地下家族には「同じ匂い」がするという台詞があるが、これも逆に言えば匂いではわかっても見た目ではわからないということだろう。そして格差の真因だとさえも思う知的格差や情報格差。これも貧しい一家の息子と娘が、富豪一家の息子と娘の家庭教師になり、娘の方は多少インチキなのだが、それでも別に支障なく勤めている。そのうえ、息子はなかなか優秀で難関大学を受験している様子もある。同じ貧しい家族を描いた映画であれば「万引き家族」の方にずっと格差を感じるのは、これが日本映画で背景が身近なことによるのだろうか。「万引き家族」の父は万引きぐらいしか子供に教えてやれないというダメ親父で、母親も似たようなもの。そして祖母の離婚した夫と後妻との間にできた息子の一家が住む瀟洒な一戸建てが万引き一家の木造住宅と対比をなしている。ただ裕福な一家の不出来な娘は万引き家族に入り浸り、家族からは「いないこと」にされているというエピソードは印象的だった。そういえばハンセン病の元患者も家族や親族からは存在を消され、いないことにされていたというが、こうした家族を世間体からか社会的にはいないことにしてしまうのは日本独特の現象なのだろうか。ちょっと気になるところである。
2020年01月16日
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都知事の小池百合子氏がマスコミに登場するようになった頃のことはよく覚えている。単なるアナウンサーではなく、司会もインタビューもコメントもできるような知的タレントがもてはやされている頃で、中でもアラビア語のできる才色兼備の女性ということでマスコミに登場するようになった彼女は異彩を放っていた。英語ができるというのであれば、いくらでもいたのだが、アラビア語というのは珍しいし、なにやら神秘的なイメージもある。しばらくしたら政界に転身し、その後、都知事にまで駆け上がったところは周知のとおり。その彼女について、カイロ大学卒という学歴を疑問視する声があるという。アラビア語のできるカイロ大卒の才媛ということで、マスコミに登場して何十年もたっている。還暦をすぎた今の時点で昔の大学卒業証書の真贋なんてどうでもよいことがむしかえされているのも不思議だ。もっとも経歴詐称は公職選挙法ともかかわり、その辺はタレントのようにはいかないのだろうけど。けれども、卒業したという証明はまだしも卒業していないという証明は難しい。それに卒業させたかどうかは、大学の判断であって、当時のカイロ大学が想像するように一定以上の学力を担保するという意味での卒業をさせていたのかどうかは不明である。政治家がよく外遊の際に博士号を授与されるように、金を払った留学生には別基準で卒業証書を出すということもあったのかもしれない。普通に考えれば、ゼロから始める外国語で短期間に大学卒業レベルまで達するのはよほどの人でなければ無理なのだろうけど、途上国では高等教育は自国語ではできず(語彙がそもそもない)、英語やフランス語で行うところもあるという。ほとんどが英語の授業であれば、アラビア語は日常会話くらいでも卒業には困らないだろう。都知事のカイロ大学卒業の有無などいまさらどうでもよいことのようにも思う。
2020年01月16日
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法科大学院の制度がはじまってまもない頃、さる知人のまたその知人といった人が、「法科大学院の説明を聞いてきた」ことがあった。最初にそんな話をきいたとき、その人はけっこうなところに勤務していて、そしてかなり優秀なかただったので、もしかしたら、いやまさかとは思うが講師のお声かなんかがかかり、そのための説明を聞いてきたのかと思った。ところがさにあらず。法科大学院に入学するための説明を聞いてきたのだという。思えば鳴り物入りで始まった法科大学院で、当初は医学部に入学すればほぼ医師になることができるように、法科大学院に入ればほとんどが法曹になれるかのように喧伝されていた。そんな言葉を信じて夢よもう一度とばかりに仕事を辞め退職金をなげうって法科大学院に入った人もいたのではないか。その人は幸いにして会社を辞めるなんていうバカな選択はしなかったのだが、本当に辞めた人の中には、その後の試験にも合格できずに路頭に迷っている人もいるかもしれない。もしそんな人がいたとしても、そういう人の声がマスコミなどを通じて聞こえてくることはまずないのだが。
2020年01月14日
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,ものごとには様々な面があり、人生もまたひとそれぞれだ。だから、世の中はマスコミ好みの絵になる話ばかりがすべてではない。ハンセン病の元患者について、家族は元患者との縁を切り、その存在をひた隠しにし、彼彼女がいないものとして暮らしていたという話がある。しかし、それはなにもハンセン病の元患者に限らず、それ以外の障害児者についてもありうることだろう。実際に、また聞きではあるが、障害児者施設ではほとんど面会にもこない家族がいるという話を聞いたことがある。こうしたことには、当事者にしかわからない苦悩はあるし、そうした家族の「冷たさ」を社会に蔓延する差別や偏見のせいにする見方もあるだろう。だからもちろん、こういう家族がいたとしても、それをここで批判しようなどという気はさらさらない。ただおかしいのは、マスコミである。障害児者と家族の感動物語ばかりで、施設に預けっぱなしで面会にもこないような家族のことは一切報道をしない。なにもそれを特定して報道しろということではなく、そういう例もあるということも報道しないと、障害児者をとりまく実情についてはわからないのではないか。
2020年01月13日
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格差社会の中を生きる貧しい家族を描いた韓国映画である。とはいえ、そこで描かれる貧困は「絶対貧困」ではないので、二人の子供はそれぞれスマホを持ち、飢餓ともさしあたっては無縁のようである。そうなると自然、日本映画「万引き家族」と比べたくなるのだが、ストーリーはずっと強烈でどんでん返しも多い。どっちが好きかは好みの問題であろう。ただ興味深いのは格差社会を描きながら、この格差が必ずしも搾取によるものではないということだ。映画の原題は「寄生虫」であり、寄生しているのは無職で半地下に住んでいる一家であり、寄生されるのは、若くして企業を経営してバリバリ稼いでいそうな一家である。マルクス主義的階級史観では、寄生地主なんていう言葉で代表されるように、プロレタリア階級は必死に労働をし、生産手段を所有している地主や工場主は遊んで暮らすということになっている。格差を問題視し、平等の理想社会を語りながらも、マルクス主義が説得力を失ってきているのは、格差の性格が違ってきていることもあるのかもしれない。そしてちょっぴりネタバレになるのだが、途中の暴力場面での行動動機…あれは最近の通り魔事件と全く同じではないのだろうか。自分の境遇に対する不満ややりきれなさと幸福なものに対する嫉妬である。だから格差の拡大した社会の人間にとってはあの場面には妙な既視感がある。そしてラスト…主人公の一人は自分が金持ちになる夢に問題解決の途をたくす。彼のような若者が社会の階梯を上るということにどれほどの現実味があるのだろうか。そしてまた思う。映画では凄まじい格差は描かれていても知的格差は描かれていない。主人公たちは富豪の子供たちの家庭教師になり、子供たちの母はちょっとぬけた騙されやすい人物として描かれている。現実にはまさに知的格差、情報格差こどが格差の根底にあるのだが。
2020年01月11日
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昨日テレビをみていたら明智光秀は死んだときにはすでに65歳以上の老人で、しかも死の直前は認知症を患っていたという番組をやっていた。NHKで大河ドラマを盛り上げるために他の番組で同じ時代や人物を扱うというのは、よくあるけれど、これはいくらなんでもイメージダウンではないか。せっかく大河ドラマ主役を射止めた俳優も、認知症老人の役じゃいやだといいそうである。こうした歴史上の人物の年齢には諸説があるのはよくあることだが、老人というのはいくらなんでもないだろう。現代では元気な老人が増えたと言ったって、人間のDNA自体が変わったわけではない。様々な医療技術の進歩のおかげで元気でいられるのではないか。例えば、現代風の歯科治療がなければ、50歳くらいまでにかなりの歯が抜けているという人は多いだろうし、眼鏡がなければ、普通に暮らせないという人も珍しくない。眼鏡も補聴器もない時代に、老人が自ら合戦を指揮して、山の中をしばらく敗走したなんて…とても無理ではないか。番組では、さらに明智光秀の嗅覚がきかなくなったことを示唆するような逸話からレヴィ型認知症ではないかともいう。しかし、これも変だ。徳川家康の接待を信長に命じられたところ、古くなって臭いがでたものを出して、叱責されたというが、いくらなんでも自身で料理をしたわけではない。この挿話だけで認知症を即断するのは無理である。それに、人生わずか50年という時代に、今でいう老人が前面にでてきたら、必ずどっかに記録されるはずだし、肖像画もそれらしく描かれるだろう。明智光秀が老齢で認知症というのは説としてはおやと思わせるが、とても実際とは思えない。
2020年01月10日
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人生なんてこんなもの…読み終わっての感想である。主人公は執事で、彼はその職業に誇りを持ち、有用な仕事をする主人に最高のサービスを提供することで、自分も世界を動かす車輪の中心に近づけることに職業的意義を見出している。かといって決して執事としての境界を越えることはなく、主人の客がたわむれに世界情勢についての意見を聞いた時も、何も答えない。執事にそんなことを聞いたって答えられるわけもないのだから…と。主人公の生き方に身分制度が安定していた時代の古きよき英国を見る見方もあるだろう。けれども、そんな人為的な身分制度のない今の時代だって似たようなものじゃないのだろうか。能力とか才能とかいった神が定めた身分の制約の中で人はそれぞれの人生を生きているのだから。そんな中で世の中の圧倒的多数の人は、ほんの社会の小さな歯車として生き、それでもその職業にそれなりの誇りと矜持を持って生きている。それはこの主人公の執事の職業的誇りと似たようなものなのかもしれない。「身の丈」というと悪い意味にも聞こえるが、実は人生の不幸の多くは自分の能力以上のものを望んで不満を募らせることにあるのかもしれず、そうだとしたら、己の身の丈を知り、決してそれ以上を望まない執事の人生は悪くないともいえよう。そして主人公の尊敬してやまないかつての主人のダーリントン卿は戦後は対独協力者として非難の的になり、失意のうちに亡くなる。これも戦争などの価値観の大激変があると、自分の仕えていた会社、さらには自分が忠誠をささげてきた国家が間違ったことをしていたという経験をすることもある。けれどもそうした主人の評価が地に落ちたとしても、執事としての自己の業績に対する誇りはゆらぐことはない。トップは判断を誤ったとしても、そんなのは黙々と使える側の知ったこっちゃないというわけである。そんな主人公もかつては女性に愛されたことがあった。ただそうした想いにきづくことはなく、女中頭であったその女性は別の人に嫁ぎ、しだいに伴侶との間に愛をはぐくんでいく。必ずしも望み通りの恋愛結婚ではなくとも、夫婦として生活していくうちに、家族としての自然の愛が生まれてくるのも世の中にはよくある話だ。そして物語の最後には「夕方が一番いい時間だ」という見知らぬ男の述懐がある。執事も、そしてかつて彼に想いをよせていた女中頭の女性も人生の夕暮れを迎え、それは一番いい時期のはずだ。人生はいいことばかりではないが、かといってそう悪いことばかりでもない。
2020年01月08日
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最近、理容業・美容業の倒産が急増しているという。ここ30年間で最多の119件が倒産したというが、休廃業や解散も増えている。そういえば、ここ何年かは1000円カットの店ですませている。高額の理容室や美容室とそんなに変わらないし、特に指名とかないので気楽だ。そういえば少し前には菓子店の倒産が急増しているなんていう報道があった。こちらはコンビニのスィーツの質が向上しているせいだと言われ、たしかにコンビニで十分だと思えば、わざわざ高額の菓子店で買う必要はない。まあ、どちらを向いても景気の悪い話ばかりなのだが、こうしたモノが売れない、サービスが売れないという現象には、もう一つ別の背景があるような気もする。それは人口の高齢化である。自分のことを顧みても、若い頃に比べてずいぶんとモノを買わなくなっている。これは収入が減ったという現実的な理由だけではなく、年齢によるとしか思えない要因もある。まず外見にあまり金をかけなくなった。1000円カットだけでなく、洋服も古着を買うこともあるし、それすらも回数はぐっと減っている。次に食べるものにも金を使わなくなる。健康とカロリーが気になることもあって食事の量が減るし、そもそも高カロリーのものを食べたいという気もなくなってくる。高価な菓子が売れなくなったのも、コンビニスィーツに押されたというだけではなく、消費者の高齢化による需要減もあるのではないか。また、本も流行のものや話題のものよりも、名前だけ知っていてまだ読んでいない本や若い頃感銘をうけた名作を読みたくなる。そしてそうしたものは図書館で十分に手に入るので、書店で本を買うこともなくなる。そういえば書店もずっと苦しい状況が続いていると言われてひさしい。それにしても、昔の東京五輪のイケイケムードとはなんという違いだろう。あの頃は、老人の姿をみることはまれでも、子供や赤ん坊はどこにでもいた。路地に子供が群れをなしていたのも当時はあたりまえの光景であった。それでも五輪後には不況がやって来て、その雰囲気は覚えている。今度の五輪は、いまからこんな倒産最多なんていうニュースばかりでその後の不況が恐ろしい。
2020年01月07日
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米国によるイランの軍事指導者暗殺は実質的な宣戦布告ではないのだろうか。そしてその戦争は「有志連合」参加により、日本にとっても無関係ではないはずだ。それなのに、首相は映画にゴルフ、そしてテレビはお正月番組…どうも違和感がぬぐえない。どうなっているのだろう。まあ、それでも平和なのだろう、派遣される自衛隊員が危険になるわけでもなければ、東京も含めて米国の同盟国がテロの脅威にさらされることもないだろう…ということにして、新年に行ったところについて書いてみる。この時期はどこに行っても混雑するし、渋滞に付き合う気もない。正月2日には大平山の謙信平に行ってきた。天気が良かったことと、空気が澄んだこの時期ならではの眺望が期待できるからだ。大平山はちょうど関東平野に山地がつきでたところにある先端の低山で、左手には遠く丹沢山塊と富士が見えるほかは一面の関東平野で、謙信が関東平野のあまりの広さに目を見張ったという話に由来する。本当に空気の澄んだ時だけなのだが、大平山からはるか東京の高層ビル群を望むことができる。地平線に櫛の歯のように林立しているのがそうで、目をこらすとスカイツリーも見つけることができる。お正月でなくとも、空気の澄んだ冬晴れの時にも、きっと見ることができるだろう。
2020年01月06日
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年末に飛び込んできたゴーン元会長の逃亡劇なのだが、不思議なのは日本政府関係者からのコメントがあまりきこえてこないことだ。彼ほどの大物経済人ともなれば一犯罪者の逃亡劇にとどまらず、国際問題でもあるし、日本政府の沈黙も海外からは不可解にみえるのではないか。この逃亡劇については、そのうち「実話をもとにした映画化」が行われる可能性もあるだろう。昔、リチャードギア主演で極東で活動しているビジネスマンが中国で冤罪事件に巻き込まれる映画をみたことがあるが、風習も人種も異なる国で捕らわれの身となる怖さがよくでていた。あんな感じの映画になるのかもしれない。その場合、主演は誰になるのだろうか。もうひとつ、年末に飛び込んできたニュースは米軍によりイラン軍事指導者の殺害がある。これが12月27日に閣議決定した自衛隊中東派遣にどういう影響があるのかも気になる。有志連合というのは意図的な語訳ではないかもしれないが、内容は軍事介入までも想定している。有志連合参加というのは軍事行動への参加の可能性もあるのに、そのあたりがぼかされているようにも思う。平成は一人の戦死者もでない時代であった。どうかそんな時代がこれからも続きますようにと願う。
2020年01月05日
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あけましておめでとうございます。今年がここに来てくださる方々にとって良い年でありますように。新年の各新聞の社説を読む。あの伝説の「千と千尋の精神で」みたいなけったいなものこそなかったが、それでも新聞によって色合いは違う。まず現状認識。Y新聞の社説は、今の日本について安定した政権の下で景気は緩やかに拡大し社会の分断も治安の悪化も起こらず世界がうらやむ状態であるといった趣旨のことを書いてある。これに対してT新聞では、子ども食堂などについてふれ格差や貧困は悪化した状況であると言う。同じものを見て、一方は馬と言い、片方は鹿と言っているようなもので、実態はどちらなのだろうか。また、S新聞の社説では、オリンピックで日本は再生するとあり、再生という言葉を使うからには現状に対して悲観的なようでもあるが、オリンピックと再生の関係がどうもよくわからない。再生には体力が必要で、だからオリンピックが重要だと書いてあるが、オリンピック選手の体力と社会全体の再生とはどうみても関係がない。次に夕刊紙をみてみると、あの悪代官顔の政治家が、れいわ人気について、投票したい政党のない有権者の受け皿になったと言ったうえで野党がまとまれば政権交代が起きると断じている。れいわについて「投票したい政党のない人々の受け皿」なんて言っている時点で、間違っているようにしか思えない。今の社会で、不遇で政治に対してもあきらめていた人々の票をほりおこしたのがれいわだったのではないか。そこがわからず、ただ単に有権者を数としか見ず、どんな社会を目指すかという理念よりも政局しか考えていないあたりで、もうこの人の役割は終わったように思う。とまあ、年頭の社説を読みながら思うところをいろいろと書いてみた。今年も政治ネタはひかえめに、のんびりと書きたいことを書いてみたいと思う。それでは皆様、どうかよろしくお願いいたします。
2020年01月03日
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