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精神科の女医キューブラー・ロスは、臨死体験者から聞き取り調査をした結果、それらの患者に共通することが三つあったと京都の学会で発表しました。1.肉体と意識が分離し、遺体を取り囲んでいる光景を高い所から見ていた。2.自分より先に死んだ肉親や愛した者が、そばに来て助けてくれようとした。3.愛と慈悲とに満ちた光に囲まれて、その光の源の方向に行きたいと思った。「私はもう一つの世界が我々の死後にあることを信じます」と語り、病気の子供たちに「僕たち、どうなるの?」と聞かれると、「あなたは、サナギの殻をここに残して、あの世で蝶になるのよ」と言えるようになったと告白します。医者から3カ月の命だと言われた9歳の少年から、「大好きなロス先生、命ってなんですか。死ぬってどういうこと。どうして子供が死ななくちゃいけないの」という手紙に応えて、簡単な言葉と絵で人生を描写した色鮮やかな小雑誌を作り上げ、「ほんの短いあいだだけ咲く花もあります……春がきたことを知らせ、希望があることを知らせる花だから、みんなから大切にされ、愛される花です。そして、その花は枯れます・・・でもその花は、やらなければならないことを、ちゃんとやり終えたのです」と言葉を添える。
2010.04.29
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内閣府「国民生活選好度調査」(10年度版)によれば、幸福度は10点満点の6・5(11年前6・3)という。(08年 欧州29カ国平均6・9)◆男女別では女性の方が幸福を感じている 7点以上 男性48% 女性59%◆年代別では30代の幸福感が強い 7点以上 30歳未満55% 30代61% 40代55% 50代55% 60代51% 70歳以上44%◆幸福感で重視することは、 健康69・7% 家族66・4% 家計65・4% 自由な時間や充実した余暇46・7% 仕事の有無・安定41・7% 友人関係38・5% 仕事や趣味などの生き甲斐35・0% 職場の人間関係17・6%◆ボランティアなどへ 参加26% 不参加74% 利用10・9% 利用していない89・1% 寄付などへの貢献 貢献11・1% 貢献していない889%◆企業への期待 給料の安定69・1% 仕事と生活のバランス確保55% 雇用の維持・拡大49・9% 福利厚生の充実23・8% 成果に応じた給料 19・8% 安全・安心な商品やサービスの提供15・7% 休暇の取得促進15・6% 雇用や昇進の機会均等10・1%明日より信州放浪の旅にでますので連休中は休載しますこんな桜が見られるといいのですが
2010.04.28
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私たちは、死を怖がり、取り越し苦労をして心配ばかりしているが、今日を良く生きていれば、それが悔いなく良く死ぬことにつながると思います。ある人は、「生きとし生ける者はすべて、この世のステージにおける役者である。カーテンが降りるとき役が終わり舞台から降りる」と言いました。明治の俳人・歌人の正岡子規は脊椎カリエスにかかって、30歳にならぬ前から死ぬまでほとんど病床にあった人だが、ある日、忽然と悟り、「私は今まで、禅宗のいわゆる悟りということを誤解していた。悟りということは、いかなる場合にも平気で死ぬことと思っていたのは間違いで、いかなる場合にも平気で生きていくことである」と書き残しています。十四世ダライ・ラマは、「誰もが明日を見通すことはできない。そのために、常に明日は不安に満ちている。これは死の恐怖と同じ種類の不安である。人が死を恐れる大きな理由は、死後を見通すことができないからであろう。だが、明日が分からないからといって、その不安のために明日を迎えられない者などいない。同様に、この現世から来るべき来世がある程度見えてくるはずだ。ならば、ことさら死を恐れおののく必要はないだろう」と言っています。
2010.04.28
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告知を受けて、限りある時間を自分らしく生きる人がいます。「抗ガン剤が効かないと余命半年」と夏に告げられた74才の女性は、1週間はやつれた様子だったが、次第に落ち着き、年末にはおせち料理のノウハウを便せんに書いて娘さんに渡しました。娘さんは、「自分がいなくなる日のために準備する母を見ていて、私もその日が来る心構えができました」と言う。告知後は自宅で亡夫の遺影を見ながら懐メロのCDを聞いたり、思い出の品を整理したりしてマイペースで暮らしている83才の祖母を見て、「自分らしく生き続ける祖母を見て、私も余命告知を受けたいと思うようになった」と孫は言う。このように、告知は残る人にも良い影響を与えるようです。一方、49才で肺ガンが移転し完治しないと告知されて「電車のホームから突き落として欲しいと思うことがあります。覚悟できていないので、身辺整理や思いで作りなどする気にならない」と言う人もいれば、55才男性は「5年生存率50%と言われ、先のことが考えられなくなりました。寝ても覚めても『死』の文字が頭にぶら下がっていて・・・」と言い、心療内科で重度の鬱病と診断された人もいます。一般的には、若い人ほど心が定まらないようです。
2010.04.27
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朝から愛宕山に登ってきました。峠で本を読みながら酒を飲み、通り過ぎる人を観察しているのも面白いものです。皆さん、タイムを競うように道を急ぎ、ゆっくりと休憩することもありません。そんなに急いでどこ行くの? と言いたいですね。郵便配達夫も片道1時間の月輪寺までの山道を歩いて配達。ご苦労さんです。もう90歳を過ぎたと思われる媼が、太い杖を斜めについてすがるように独りで登ってみえるのには感動。月輪寺のシャクナゲ(明智光秀が手植えしたもので天然記念物)はまだ少し早く連休辺りが見頃かと思います。例年と比べると10日から2週間近く遅いですね。姫コブシは見頃を過ぎたが未だ大丈夫です。山ツツジも綺麗ですよ。◆月輪寺の時雨桜とシャクナゲ
2010.04.26
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人間として思うようにならない代表が「生老病死」だが、貴方は「あと3ヶ月の命です」というように言われたら貴方はどうするだろうか?ある調査では、8割の人が余命告知を望んでいました。でも、経験談を聞くと、現実の告知を受け止めるのは本人はもとより家族にも重いものがあります。一般的には、余命告知をまず家族にするケースが多いが、家族は「本人に話すべきか」で迷い、亡くなってからも、本人に告知せずに後悔した人がいれば、告知したことを後悔する人もいます。「もし、告知していたら、関係の悪かった娘との仲を修復しようとしたのではないか。弟の妻が『夫を騙して辛い4ヶ月でした』と言ったのもショックでした。豊かな家族関係を作って死なせてやるべきだった」と後悔する兄がいれば、「僕は強くないから余命告知があっても言わないで欲しいと頼まれていたのに、言わないでおいては夫は思いを残す個とがあるかもしれないと思い約束を破ってしまい、見舞いに来た実母に当たり散らすのを見て夫の絶望の深さを知りました」と告知をしたことを後悔する人もいます。一般的に告知後の1週間から10日、患者は絶望や怒りを経験するが、徐々に立ち直るとのことです。
2010.04.26
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一重の桜は終わり八重桜の季節ですね。鴨川沿いにも結構八重桜があります。昨日行った高瀬川の始まり舟入の所やホテルフジタの横もいいですよ。桜越しに大文字を見るのもまた一興。久しぶりにヤイコのお父さんと飲んだが、お孫さんができてご機嫌でした。演奏活動も子育てでお休みらしいですね。我が家はなかなか孫の顔も見られそうにはないが、自分のおじいちゃん顔は想像できませんね。◆夕暮れの高瀬川
2010.04.25
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「生と死は決して両極端の存在ではなく、葉が落ちても木は枯れないように、死は生の中に包括されている。一人ひとりの死は、“命の流れ”という大木から、秋になって枯れ落ちる葉に似ている。しかし、地上への落ち方は一枚一枚異なる。その落ち方に意味があるのではないか。死は忌み嫌うものではなく、普段から死をしっかりと見つめ、よく考えておくことが充実した生に繋がる。正月、結婚記念日、誕生日、お盆、親族の法事の時など、いろいろな機会を通じて死について話し合っておけば、もっともっと生を大切に考えるようになるに違いない。そのことが、親子や夫婦、嫁姑などの縁の不思議さを思い、また改めてその関係を考え直させ、お互いにいつ死んでも悔いのない生き方につながるのではないか」と高尾病院理事長の中村仁一さんは仰います。人生は「諸行無常(万物は常に変化し止まらない)・老少不定(死期に定まりは無い)・一寸先は闇」で、私たちには明日の運命すら知りようがありません。だから、いつ、どのような事態が生じようとも後悔することのないように、死に方について普段から考えておき、今という一瞬一瞬を大切に生きるほかありません。私は、「あと5年の命」と思い定めて5年計画で生きています。
2010.04.25
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私たちは、健康にどれだけ注意をしていても、また何もしていなくても、今日よりも明日、明日よりも明後日と、確実に命は減っていき、日々死に近づいていきます。問題は、そのことをいかに自覚して生きていくかです。吉田松陰は、弟子だった品川弥次郎に、「人間は生まれた時にすでに死ぬ運命が決まっていて、死を免れようとしてどうあがいても無駄である。朝に生まれて夕に死す者もいれば、100歳まで元気に生きる者もいる。それは定まった運命であって、人間の力ではどうしようもない。早く死ぬのが不運で、長く生きるのが幸運かというとそうではない。早く死んでも幸福な者もいれば、長く生きても不幸な者もいる。だから、人間の死のごときは自然に任せておけばいい。死にたくないという心から見れば、何百年生きても満足できないはずだ。死を恐れて苦労するよりも、生きている間のことを考えるがいい。つまり、生きている間に、なすべきことを精一杯に成し遂げればそれでいい。死など恐れるよりも、生を恐れなければならない。“なぜ私は生きているのか”ということを考えて、その生きていることを生きているらしくするには働くほかはない」と語っています。
2010.04.23
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散歩をしていても、桜は八重桜が所々に咲いているだけになり、青紅葉をはじめ新緑がきれいな季節になりました。山吹の花も今を盛りと咲いています。そういえば、子供の頃裏庭にあるヤマブキの芯を押し出して、灯明の芯にしたことを思い出します。太田道灌の古事もありますね。ある日、道灌は鷹狩りにでかけて俄雨にあってしまい、みすぼらしい家にかけこみました。道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか」と声をかけるます。すると、年端もいかぬ少女が出てきて黙ってさしだしたのは、蓑ではなく山吹の花一輪でした。その意味がわからぬ道灌は「花が欲しいのではない。」と怒り、雨の中を帰って行きます。 その夜、道灌がこのことを語ると、近臣の一人が「後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに【七重八重花は咲けども山吹の(実)みのひとつだになきぞかなしき】という歌があります。その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか。」といいます。驚いた道灌は己の不明を恥じ、この日を境にして歌道に精進するようになったそうです。天候の悪い日が多いが、来週の週末からは晴天が続いて欲しいモノです。今年最後の花見に、信州は小布施の近く高山に出かけます。鬼無里の水芭蕉は寒さで今年は遅れているようだが、その分桜は楽しめそうです。ハナモモも見頃と思うし、今から楽しみです。アルプスの展望が素晴らしい奥山田温泉や浅間の峠にある高峰温泉にも泊まり、友達を見舞って、上高地にも寄りたいと思っています。◆週末は松尾神社にでもどうですか?
2010.04.23
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1983年、臨済宗南禅寺の僧堂で勝平宗徹管長(享年61歳)が首をつって自殺した。高血圧(実は肝臓ガン)で倒れて郷里の松山日赤病院に入院し、自房で静養のために南禅寺に帰山して五日目だった。ガンに侵されて苦しみぬいて亡くなられた柴山老師を看病した体験があり、それが引き金になったと思われるとも言われた。禅修行は頭の中でするモノではないとよく言われるが、東大大学院修士を出てエリートコースを歩んだ挫折を知らない管長の弱さか?管長さえも自殺をするように、「生老病死」は人間にとって最大の恐怖です。人間というものは、「オギャア」と生まれた瞬間から死に向かって一歩、一歩、歩き始める旅人のようなもので、行く手には死というゴールが必ず待っています。だから、死に対する恐怖がいつでも人をとらえて放しません。だが、死というものが行く手にちゃんとあり、逃げたくても逃げられないものなのだと自覚し、死というものをきちんと見すえて、そこから改めて生を考え直して良く生きることが、安らかな死を迎えることに繋がると思います。死は嘆くべき出来事ではありません。それは旅の終わりであり、目的地に着いたとき、持ち主が車(肉体)から降りるだけのことです。
2010.04.22
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出版不況と言われる中で、夜中に行列をしてまで「IQ84」を求める人が沢山いたという。ハリポタといい、ごく一部の本だけが何百万部と売れる現象は恐ろしい。ミッシェランの格付けが神戸の店でも、テレビを付ければサプリメントの広告ばかり、政治にしても一挙に民主にながれる・・・、人の評判や格付けに踊らされている人が増えているようです。人の判断に迷わされることなく、もっと自分の目を磨きたいものです。京都人を言うとき、「京のお茶漬け」という言葉が使われることがあるが、これには理由がある。京都には千年以上にわたって国家権力の中心があり、街中が戦乱に巻き込まれる体験を何度もしています。権力が変わると、昨日までの隣人が敵に回るといった経験が繰り返されてきた結果、「一見さん」を信用しない習性が根強く残っているという説があります。(人間が国家権力と隣り合って生きていると猜疑心の固まりになると魯迅も書いている)「京のお茶漬け」というのは落語のネタだが、それに近い言い方は少し前まではあったようです。「もう遅いさかい泊まっていきなはれ」といわれると、「明日は朝早いさかい」と辞退して帰る。「泊まっていけ」というのは「早く帰れ」という暗号だが、はっきりいうと相手は気を悪くして敵に回るかもしれないので、あくまでも婉曲にいうのだ。その暗号を理解できるかどうかで敵を識別する意味もあるが、本当のよそ者が誤解して泊まったら大変なので、こういう表現の間合いはむずかしい。京都に長く共産党府政が続いたのも、このような面従腹背の習性によるものだろうという人がいる。自民党と共産党を競わせ、決して一つの権力にはコミットしない。こうして昔からマルクス主義に親しんでいるので、京都人は社会主義にも幻想を持っていない。そういう土地に育った京都人から見ると、国家が永遠に債務を返済してくれると信じる人や、派遣村で貧しい人々を救えと国家に求める人は、権力に裏切られたことのない幸福な日本人の典型にみえると言った人もいる。変な方向に話が流れてしまったが、ようするに大勢に流されることなく、自分なりの判断、生き方を大切をしたいと思って書いた訳です。その下敷きには、原稿を送った出版社から企画会社を通すように指示されたことへのわだかまりもあるかな?出版不況の中で編集者が自信喪失に陥り、自らの鑑識眼、判断力を放棄し、互助組織的なぬるま湯に浸かろうとする姿勢がコンサルタントの目には許せないのかもしれません。(関係者の方が読まれたら気を悪くせずにね)◆月輪寺シャクナゲ(天然記念物)
2010.04.22
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この地球上に無数に存在する生命(名前がついているものだけで150万種)の中で、しかも一人の人間として生を受けるということが、いかに希有なことであるか。そして、人間は一人残らず100%死ぬ存在であるから、「やがて死すべき者の、いま生命あるは有難し(希なこと)」ということが言えます。こう考えてくると、たとえどんなに今の条件が悪かろうと、「いま、生きてある」こと自体に対して、「おかげさま、今日も生かされている」といった感謝の心を持つことができるのではないでしょうか?ある大学教授は「人は、薄氷の上を渡りながら、自分の踏んでいる氷がそのように薄いものであることを感じないだけである。いつ崩れはじめるかわからない安心感の上にあぐらをかいて、たよりにならないものをたよりにして生きているのである」と言ったが、これは仏教に言う諸法無我に通じる言葉です。そんな儚い生であるからこそ、「今日、只今」の一瞬を大切に、精一杯「明るく、楽しく」前向きに生きていきたいものです。そうすれば、例え今日死を迎えることになったとしても、「ああ、楽しかった」「生まれてきて良かった」「ありがとう」の3語を言って旅立てるはずですから。
2010.04.22
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行きつけの店の一つである飲み屋の女将が4月末で店を閉めるという。店の開店にも係わった縁で、週末にはお別れの会を催すことになった。飲み助はどんな要因で行きつけの店を選ぶのだろうかと考えてみた。よく行く要因として「価格的要因」「味覚的要因」「人柄的要因」「店舗的要因」「関係的要因」「地理的要因」などが考えられる。「価格的要因」とは安い、リーズナブルな価格である、ということ。「味覚的要因」はうまい、美味しい、◯◯がうまい、といった要因。「人柄的要因」は大将の面白さ、従業員の対応、人柄や素養に関係すること。「店舗的要因」はメニュー内容、店舗の広さ、雰囲気などの要素が関係したもの。「関係的要因」は知り合い、友人、相客といったもの。「地理的要因」とは場所が近い、職場の近所にあるなど行きやすい場所にあるということである。分析してみると、行きつけの店を選ぶ要因は一つではなく、会社の帰りに寄りやすい場所、メニューの豊富な店、大将や女将の人柄がよく雰囲気の良い場所、安いところ、美味しい店、同じような話題が通じる相客がいて居心地がよい・・・など複合的な価値で選ばれています。私の場合、相客との関係や居心地の良さが大きく、年金生活者となったこの頃では価格的要素も大きくなっています。私のように一人で出かける客には、相客との相性は大きな要因だと思います。京都の店の場合、紹介、紹介で新しい店に行くことが多いので、最初にどんな店がスタートだったかが以後の店選びに大きく影響します。私のお披露目は三姉妹がやっている気さくな店(おばんざい風の)で、元銀行支店長に連れられて行っただけあって京大総長やホテル支配人などとも気軽に話のできる店(毎日、ポケットマネーで行ける程度の価格)でした。そんな関係もあって、以後の店も比較的文化度の高い客が気軽に飲んだり付き合いのできる店でした。でも、何時も私が若い部類に入る客層だから、一人逝き、二人逝きと、歯の抜けたように寂しくなっていくことが多く、また客だけでなく店の人も同じように歳を取っていくので、閉める店が多くなってくるのも仕方がないかと思うこともあります。この頃では若い人たちの飲酒率も減り、また年配者に連れられて飲みに行くこともなくなり、店の客の新陳代謝が京都のような店では一番の課題なのかもしれません。これも、年寄りの嘆きですかね?マンション隣の側溝にカモの親子が来ていました
2010.04.21
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誰もが、生まれたくて生まれてきたわけではありません。こんな子供が欲しいと思っても、思い通りにはなりません。そして、人は生まれた瞬間から死に向かって歩き始めます。その死もいつ来るか分からず、何時までも生きたいと思っても適うものではありません。つまり、私たちにとって一番大切な生死さえもままならないということは、何かしら目にはみえない力が働いて、この世に送り出され、その役割が終われば一切皆苦のこの世からあの世に帰れるのかもしれません。だとしたら、誰も知る由のないその終わりまで、自分の命をどう使うか・・・。その人の生き様こそ、命の意味なのかもしれません。自分という命の意味をつかみ、その命の役目を果たすことが、生きるということかもしれません。本当の自分というもの、自分へ与えられた命というものが見えなくなることが、人にとっての一番の哀れな姿であるのかもしれません。そう考えると、生きる意味を自分自身の中に確かめることが、「命に意味を吹き込む」と言うことになります。「人生はその人だけの芸術作品」という見方が好きだが、あなたはどんな芸術作品を作り上げますか?
2010.04.21
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お釈迦様は、・なぜ生まれたのだろうか、・なぜ老いるのだろうか、・なぜ病気になるのだろうか、・なぜ死ぬのだろうか、という疑問を持ち、無常という概念に行き着いたと言われています。未来や自分の将来について不安や心配で悩む人は多いが、誰の未来や将来も絶対安心ということはありません。自分だけが不幸を背負ったつもりになりがちだが、そこは皆共通のことと認識することです。つまり、自分を含めて周りの環境全てが絶対的なものと思い込みすぎてしまうことに、「待てよ」と考える心を常に持っていなければなりません。対人関係や恋愛にしても同じです。「相手の気持ちが変わるのが怖い」、「相手に嫌われるのが心配」などと言ったらきりがありません。自分の気持ちが変わらない保証もないのに、相手にばかり絶対的な変わらぬ心を期待する方が無理というもの。自分を含む物事の全てが、実は絶対的なものではなく不確かなものなのです。「不確かなものは悲しいですか?」そう自分に問い掛けてください。絶対的と思っていたものも、実は私たちの心が作り上げた幻想みたいなものです。いや、「絶対と信じたい」という我々の思い込みにすぎません。つまり、この世に存在するものはすべて無常で無我なのです。
2010.04.20
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久しぶりに大阪に出、造幣局の桜の通り抜けに行ってきました。八重桜が主体で数十種類もあるが、桜はやっぱり一重ですね。温かい陽気に連れられて、私を含めて年金生活者が押すな押すな。人の多さにびっくり。京都に帰ってくれば、四条大橋の下でノンビリと釣りをしている人をサギが見ている。やっぱり京都は良いですね。もう東京などは行く気にもならなくて失礼。
2010.04.19
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幸福な人と不幸な人がいるのは何故か。裕福な人と貧乏な人がいるのは何故か。やることすべて成功する人と失敗ばかりする人がいるのは何故か。努力もせずに栄達する人と、どんなに頑張っても報われない人がいるのは何故か。自信に満ちた人と自信のもてない人がいるのは何故か。人気者と嫌われ者がいるのは何故か。病に苦しむ人と元気な人、不治の病を克服する人と、ちょっとした風邪がもとで命を落とす人がいるのは何故か。善人があくせくと働く一方で、悪人がのうのうと暮らしているのは何故か。物事を迅速に達成できる人と一生掛けても成し遂げられない人がいるのは何故か。同じ環境に育った双子でも幸福な人と不幸な人が出来るのは何故か.信心深く親切な人が不幸で、不信心な冷血漢が幸福だったりするのは何故か・・・。 それらの両者に、何らかの行動様式の違いがあるのでしょうか? 実は人生には、「人生は自分が思い描いた通りに実現される」という一つの偉大な法則があります。但し、この法則をうまく人生に役立てるには一つだけ条件があります。世の中には物事の全てを希望的・楽観的に捉える人と、絶望的・悲観的に捉える人がいるが、「プラス発想」の習慣が身についていることです。◆カットは「新鮮美観」さんより拝借
2010.04.19
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昨日は、甥の車で三重県の湯ノ山に行ってきました。山肌の山桜は葉が出かけてはいるが未だ綺麗でした。この頃は顔を合わせるのは誰かの葬儀やお参りばかりで、時には目出度い集いをと開いた従兄弟会も15名が参加し賑やかに過ごすことができました。一番若い姪でも50代、60代以上が殆どの集まりでしたが、「また企画して」と言われ嬉しい限りです。皆に、今日1日を楽しく暮らす工夫をする「1日暮らし」を勧めてきました。帰りに高校の同級生にも会い、食事までご馳走になってしまいました。ガンを患っているマドンナも表面的には元気で、外に出かけられ、食事もしっかりと食べられるので一安心です。明日は天候が良ければ、大阪造幣局の通り抜けの桜を観に行こうかなと思っています。
2010.04.18
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四苦八苦というが、まず前半の四苦とは、生老病死の四つの苦のことです。生まれて老いて病み死んでいく人間の人生全体を苦と認識することです。では、なぜそれらが苦なのでしょうか。それは、生老病死それぞれが、私たちの意識の上において矛盾対立するからです。例えば、いくら「若くありたい」と望んでもやがては老いていきます。「長生きしたい」と願っても、縁が尽きたら死ななければなりません。実は、私たちにとって都合の悪い老病死こそが生きていることの実質なのです。それなのに、執着するから苦が生まれます。後半の八苦は、そのことをもっとはっきりと言い当てています。八苦は先の四苦と、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)の四苦を合わせたものです。例えば、愛別離苦とは愛する人と別れていく苦、怨憎会苦とは嫌な人と出会っていく苦です。まさしく矛盾対立する姿そのものです。しかし、私たちが生きるとは、そういう苦悩する人生を生きることなのです。その意味では、仏教は私たちを苦悩から逃避させるのではなく、苦悩の正体に目覚めさせ、苦悩する人生を引き受けて立ち上がらせていく教えなのだと思います。
2010.04.18
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3 第三のキーワードは「暴力主義」よくよく考えると、この世界、人類は、暴力主義なんですね。この「暴力主義」という心が、とんでもない心の汚れです。考え方自体が汚れている。「悪いことをした人にはちゃんと罰を与えなくてはいけない。殺さなければいけない」という考え方は、結局「暴力主義」の思考なのです。殺したら殺してもいい、殴ったら殴ってもいい、人が何か悪いことをしたら、絶対に忘れないで、その恨みをずーっと持ち続けて、いつか仕返ししてやるぞ、という思考は、とんでもない「暴力主義」です。私たちは何かちょっと気に入らないことを言われるとどうしますか?すぐ言い返しちゃう。「だってあんたがそんなひどいことを言ったんだから、私は言い返したんだよ」と正当化する。例えば人が「あんたバカじゃないか」と言うと、「人に向かってバカとは何だ、バカはお前だろ」と言い返す。言い返したい心が、もう完全に暴力主義なのです。怒りは心の病気です。姑さんがお嫁さんをいじめる場合でも、姑さんがちょっと病気なのです。「お嫁さんに息子も立場も財産も、全部奪われるんだ。息子は私のものなのに」と。その考え方がおかしい。病気です。お嫁さんに全部奪われるのは当たり前です。自分の息子も家も孫たちも、お嫁さんのものでしょう。心正しい姑さんだったら、「ああ、私は今日から隠居だ。では息子も家もよろしくお願いします。何か分からないことがあったら教えてあげますよ」ってくらいの心でいたら楽になるんですよ。そうすれば、相手は若い女の子だから、「お母さん、これどうやるんですか、これはどうですか」としょっちゅう聞いてくれるし、それですごく仲良く楽しく生活できます。暴力主義から足を洗う。私に何か言った人に、「なんで人に向かってそんな失礼なことを言うのか」と言い返しても、相手に通じるわけがありません。そうではなく、「あなたはちょっと心が痛んでるでしょうねえ。何か悩んでるでしょうね」とか、「何か嫌なことでも私がしたんでしょうか」などと心の中で言って、その人の心を慰めてあげる。これが、仏陀の道なのです。「まあそんなことをみんなの前で言うとあなたの立場がなくなりますから、ちょっと二人で後ろに行きましょう。そこで言いたい放題言ってください」と、そう言っただけでも、本人の心は治るはずです。「これはあなたにとってちょっとまずいんだ」と心配している気持ちがすぐに分かるのです。そうやって、怒って心が病気になっている相手を助けてあげる、親切にしてあげる。暴力主義を止める。それだけでもやってみれば、この世界はすぐに良くなります。「平和、平和」とプラカード立ててパレードに行っても、そんなのは全然平和になりません。プラカード立てて平和運動やってる人も、結局は暴力主義者なのです。戦争をする人々を脅してやるぞという気持ちですから。暴力主義は、この心の中にあるのです。みんな暴力主義を持っています。お釈迦様は「それを、取り払って下さい。取り払って、苦しんでいる人を助けましょう」とおっしゃるのです。人が自分を殴りに来るんだったら、その人は病気で何か問題があるのですよ。ですから、人を殴ったりしたらその人にとってもいいことじゃないし、「どうしてそんな気持ちになったんでしょうかねえ」などと、何とかその人を助けてあげた方がいいのです。口で言えば簡単なことだが、これができないのが人間です。私もうかうかと70年近くを生きてきたが、未だに煩悩から解脱できずにいます。まあ、この頃では、何事も「しゃあない」と思うことにしています。あるときから、「財産は残さないことにしよう。生まれてきたときも無一物なら、死んだときも何も残さず、レジスターをガチャンと押したら000と並ぶように去っていこう」と心に決めています。人付き合いにしても、「来る者は拒まず、去る者は追わず」の精神で、「来る人には楽しみを、去る人には幸せを」と願うように心掛けています。気分が楽になるだけでなく、淡い付き合いの方が却って長続きするものです。◆明日から生老病死をテーマにします
2010.04.16
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寒さで野菜の生育が悪いようだが、桜は随分と長持ちしました。でも、もう終わりで青紅葉が綺麗になってきました。昨日は、花が咲き始めた頃に我が家に泊まった人とのご縁が切っ掛けで、6年前に書いた「快老記」の原稿が日の目を見そうです。この世は縁と言うことを改めて感じると共に、上梓されるまでには2ヶ月くらいはかかると思うが楽しみです。
2010.04.16
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2 第二のキーワードは「落ち込み」ちょっとのことで落ち込んでしまう心にも気を付けないといけません。例えば、台風や水害などでやられてしまうと、「はあーだめだ」と落ち込んでしまう。「落ち込み」は、「欲」から生まれる「怒り」の心です。「せっかく家を建てたのに、台風で屋根が飛んでしまった。私はなんて不幸な人間なんだ」などと、あって欲しいものがなくなったり、うまくいって欲しいことに失敗したり、欲が満たされなくて起こる怒りの感情です。たとえ自分の親や子供が死んでしまっても、「縁がなかったんだから、しょうがない」という感じでいなくちゃいけない。いくらかわいい子供でも、その子には業がなくて、病気で死ぬとか、突然誰かに殺されるか、事故で死ぬか、ということが現にあるでしょう。母親にも、子供を成長させて、一人前にして、社会人にしてあげて、結婚もさせてあげて、孫を抱く、母親の喜びを味わうだけの縁がなかったのです。子供にも長寿の縁がなかった。だから「縁がない。まあしょうがない」と考えて、また気楽に生きればいいのです。それしか、人間に考えることはないのです。それは残酷な考え方ではなく、執着のない考え方なのです。逆も同じ。子供が長生きして、立派に成人して、すばらしい社会人になったとしても、父親や母親は「私が育て上げたぞ」などと威張ったり自慢してはいけない。頭が良く、性格が良く生まれてきて、みんなに愛されて、社会で立派な人間になったのも、その子自身の良い業のお陰で、両親が威張っても意味はないのです。そういうふうに、みんな自分の業と縁で生きているのだから、そこを考えて、あまり落ち込むことをしない。怒ることもしない。「あれは嫌だ、この人は嫌だ」などと絶対思わないでいると、その心はきれいなのです。
2010.04.16
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昨日は、愛宕山の中腹にある月輪寺に出かけるつもりで家を出ました。登り口の空也の滝に寄ると、シャクナゲは未だ数輪咲き始めただけで、月輪寺の天然記念物のシャクナゲは未だ蕾で月末辺りかなと思い、登り口周辺の山ツツジを観賞しただけで高雄に行くことにしました。このところ雨も多く、川の水量が増えています。その分、清滝も空也の滝も見応えがありました。山桜も落花盛んで、どこも花びらの絨毯が敷かれたようで良い気分です。ところどころにはスミレも咲き、芭蕉の「山路来て なにやらゆかし すみれ草」の句が浮かんできます。予想通り、斑尾西明寺斜面のツツジが丁度見頃でした。この週末は山ツツジを見にハイキングでもいかがですか?6時間余のハイキングだったが、今朝はまだ太ももが張っていて、古稀になってからの足の衰えが実感されます。
2010.04.15
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この章を終わるにあたって、ある方の法話より「幸せへの3つのキーワード」を。一番目は、「欲」の代わりに「みんな置いて去るものだ」と思うこと。二番目は、落ち込んだり怒ったりしないで、穏やかにいること。三番目は、暴力主義を捨てて、人を助ける気持ちに入れ換えること。それをちょっと実行してみれば、幸福で豊かな生き方がすぐにできます。1 第一のキーワードは「欲」私たちは俗世間に浸り込んで、朝から晩まで欲が頭から離れません。「儲かりたい、儲けたい」と思っただけでは儲かりっこありません。それどころか、あまりにもそんな気持ちが強いと、心が鬼になっているので、みんな嫌がって逃げていってしまいます。不思議なことに、「儲かりたい」という気持ちが消えると儲かるようになります。商売していても、「儲けたい」という気持ちじゃなく、「みんな私の店で売っている品物を待っている、信頼している。みんなを裏切ってはいかん。よい品物をみんなに提供しなければいかん」という気持で自分も楽しみながらやっていると、商売がみんなの役に立ち、店に来るお客も楽しくなります。すると、別に割引セールとか、おまけするとか、そんなことをしなくても売れます。財産にしても、お釈迦様は「欲に関わる思考はあんまりしない方がいい。それは汚れている。財産があっても、これも生きている間だけのことで、それももしかすると台風が来て持って行ってしまうかもしれないし、地震が来て飲み込んでしまうかもしれない。それぐらいのものだから、あまり執着しないでいた方がいい」と思いなさいと教えておられます。当たり前のように言われている姑と嫁の喧嘩にしても、お嫁さんに行ったら、ただまあ「ちょっとこの家にいさせていただく」という感じでいればいいのです。どうせ我々のこの人生といっても、世の中にちょっといさせていただくだけのことでしょう。どこにいても、せいぜい80年間くらいの一生です。それなのに「私のものだ」と思ってしまうと、最悪の状態になるのです。だからお嫁に行っても、財産が突然回ってきても、「あー、これはちょっと預かるだけの話だ。こんなものに足を引っ張られては困る。私は死ぬ時には気楽に死ななくちゃいけないんだ」と欲のない気持ちでいることです。気楽に死ぬどころか、我々は死ぬ時でも、「この財産をあの人に取られたら困る」とか考えて、遺言書まで書く。死んでも離れない。でも死んだらどうしても離さなくちゃいけないんだから、死んでからも財産を管理したがることは、よくない思考。財産に対して、家族に対して、親戚に対して、自分に対して、ああしたい、こうしたいなどと考えることが、お釈迦様がおっしゃる、汚れた思考。そんな思考で人生をダメにしてはいけません。「家族も財産もどんなものでも、みんな結局、捨てて去るものだ。それを知らないのは愚か者だよ」という気楽な気持ちでいるだけで、心は立派に清らかになります。
2010.04.15
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「あれも欲しい、これも欲しい」という欲は、人間の煩悩そのものです。煩悩におぼれて、欲しいものを借金して買えばやがて借金地獄が待っています。では、煩悩を捨てればいいのかとなると、私たちはそれほど意志も強くなく、煩悩を捨てようと思っても不可能なことです。だから、お釈迦様は「煩悩を捨てよ」とは言わずに、「離欲=欲から離れなさい」と説いています。たとえば、欲しい物が安く売っているのを見つけたとする。「ワァ安い。これ欲しい」では、煩悩におぼれてしまったことになります。そこで、ちょっと離れて冷静に考えてみる。とりあえず今日買うのをやめてみる。今日買うのを我慢できたら、もう一日我慢してみる。日が経つにつれて、やがて欲しいとも思わなくなってくるはずです。これが離欲です。物が溢れている中で、私たちが忘れているのはこんな我慢の心ではないでしょうか。我慢できずについ買ってしまった結果、狭い家の中は使わない物であふれています(通販の健康商品が最たるもの)。とりあえず、家族が揃ったときにテレビを見るのを少し我慢してみるのもいいですよ。会話が弾んだり、ゲームをしたりして、家族の関係がしっくりしてきたという声があります。
2010.04.14
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昨日の雨で嵐山斜面の桜は散ってしまったようです。今週いっぱいは御室の桜が楽しめるでしょう。有料ですが、原谷まで足を延ばすことをお勧めします。嵐山の行く春を惜しんでこの画面をお楽しみ下さい。http://classic-midi.com/midi_player/heal/slide2/heal_slide2.htm
2010.04.13
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境野勝悟さんは『利休と芭蕉』の中で、「わび・さび」とは不如意(思うようにならない状態)なときに、その不如意を苦痛に感じないで、「あるがまま」を「そのまま」に肯定して、あせらず、イライラせず、そこを乗り越えていく心である、と書いています。私たちは誰でも、健康や家庭生活、また会社や仕事においても、自分が一番いい状態でいたいと願います。ところが現実は、一生ずっといい状態で生きていけることはまれで、突然、不如意なことが起きてきます。悩みとか苦しみは、突然の変化によっておきます。変化によって大きなショックを受けると、すっかり参ってしまい、頭は空回りして一切の思考がストップしてしまいます。そういうときに、私たちはどうしても過去の栄光や良いときのことを基準に考えがちだが、「生きているだけで楽しい」という「知足」の精神というか、「月も雲間のなくては嫌にて候」(珠光)の精神を身につけることが、この憂き世を楽しく生きていけるコツだと思います。生老病死を始めとした「苦」は、どうにもならないことをどうにかしようとするから起きるのであって、あるがままに受容すれば苦は生じようがありません。
2010.04.13
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この頃のテレビは、芸能人仲間の学芸会のような番組ばかりで見たいものもないが、昨夜は久しぶりに釘付けになりました。一つは「仕事人バンク」で、ウガンダの山間の部落の話でした。日本の山間部とは違って、水不足は深刻で、子供たちが日に3回往復約1時間かけて水汲みをしています。それも、大きなものは20キロもあるポリタンを運びます。その水はと言えば泥水で、その生水を飲み、食事を作ります。病気になるのも当たり前です。貴重な水だから、少量の水を食器洗いや選択、頭を洗うのにと上手く使い廻します。見ているうちに、切なくなって涙が出てきました。その水不足を解消しようと、日本の68歳の井戸掘り職人が上総堀で挑戦します。固い岩盤に苦労してやっと出た水は、後の検査では飲み水に適さなかったようだが、水の出たときの子供たちや大人たちの喜びようといったら。そういえば、私も田舎育ちだから、昭和20年代に我が家の庭で井戸掘りをしているのを見た記憶があります。現在では、金属管を繋いで掘っていたが、当時は竹の太い籖(ひご)を繋いで掘っていました。井戸から風呂まで水を運んだり、薪を集めたり、竈の番は子供の役割でした。また、学校に昼食を持ってこられない子供も多く、給食用の竈を作ることになり、これも64歳の職人が派遣される現地の人を指導しながら作り上げていきます。日本でも、芹沢さんの「人間の条件」などを読むと、弁当を持ってこられずに水を飲んでいる話が出てくるように、戦後の一時期までは良くある話でした。いま私たちが当たり前すぎて何も思わないことの「有り難さ」を思い知らされる番組でした。もう一つは、「半落ち」で、アルツハイマーと骨髄移植問題のからんだ刑事による嘱託殺人事件の話でした。これも重たい問題で、以前に本でも読んだのだが、つい引き込まれてしまいました。我が家は未だにアナログテレビだが(見るものもなく止めようかと買い換えを躊躇している)、こんな番組が多くなればと願う次第です。
2010.04.12
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ペルシャにも、日本の『ウサギとカメ』によく似た話があります。ペルシャの亀は、競争が始まる前に自分と瓜二つの亀をゴールに立たせておくそうです。私たちは卑怯だと思うかもしれないが、砂漠の厳しい環境の中でしたたかに生き抜くには、協力者と力を合わせて二人で果実を分け合った方がよいという教えということです。「ここに二人の人間がいて、パンが一個しかない。そういう場合にどうするか」と砂漠の民に聞くと、「一個のパンを二人で分けて食べる」と答えます。なぜなら、二人でパンを奪い合って、勝った方が一人で食べてしまったら、負けた方は死んでしまいます。それと同時に、砂漠では独りでは生きていけないので、勝った方も死んでしまうからです。厳しい砂漠では、人間同士が助け合っていく以外に生き延びる道はないのです。翻って日本では、二人にパンが何個もあるのに、なおかつ競争して少しでも沢山取ろうと競争に明け暮れているような気がします。この限りある地球は、砂漠の民のように分け合わなければもはや持たない瀬戸際まできています。いい加減に、餓鬼、畜生のような生き方を改めたいものです。
2010.04.12
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夕べの雨に打たれて、道路は花びらの絨毯。咲き始めてから冷え込んで長持ちした嵯峨野の花もそろそろ終わりです。書斎の窓から眺める嵐山斜面の桜も、色あせて葉っぱの色が目立つようになってきました。嵯峨野の花便りも終わりにしようと思います。全国の花便りはこのサイトが便利です。http://bekkan.web.infoseek.co.jp/sakura/sakura_saku.htmlお別れは今パソコンの背景にしている吉野の桜です
2010.04.11
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「お金や欲望は、酒とよく似ている」と斉藤茂太さんは言う。お酒もうまく付き合えば薬になるが、酒に飲まれるようになれば毒にもなります。お金や欲望も成長への引き金となっている間はいいが、金や欲望の亡者となって手段を選ばくなくなると大変です。酒好きな私にすれば、どの段階で酒を切り上げるかは極めて難しい。ほろ酔い加減のうちに止められればいいが、話が弾んでつい深酒をしてしまい後で後悔することが多い。そして、50年間の深酒がたたって今では成人病を気にしています。お金や欲望との付き合い方も、まったく同じだと思います。若い間は適度な欲望を持つことも大切だが、歳をとっても執着しているのは見苦しいものです。天国には何も持っていけないのだし、遺産がどうなるかと未練を残していくのもつまらない。結局、最後はみんな捨てて、生まれたままの裸になって旅立つのですから。人を羨ましいと思う気持ち、憎らしいという気持ち、悔しいと思う気持ちの三つは、若いうちは生きるためのバネになるが、いざ人生を楽しもうと思うと邪魔になります。これをまず捨てると、気持ちはスーッと楽になるはずです。
2010.04.11
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昔から嵯峨野は花見の人で賑わったようです。「花見んと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 咎にありける」と西行法師が嵯峨野のひっそりとした庵室の庭を訪れる花見客で騒がしくなるのを嫌って謡うと、その夜老いた花の精が老人の姿をして現れ「憂き世と見るも 山と見るも ただその人の心にあり 非情無心の草木の花に 憂き世の咎はあらじ」とたしなめる能の一節があります。今年は洛中に出かけることも少なかったが、そろそろ洛中の花見も終わりです。平安神宮の紅垂れも満開となり、来週は御室と原谷が見頃になると思います。御室から原谷まで、ハイキングがてらに歩いてみるのもいいと思います。私は、信州の友達から二回目の脳梗塞が起きそうな予兆があると便りがあり、見舞いがてら信州高山の花見に出かけようと思っています。便りによれば、信州はまだほころび始めた程度らしいので、来週は米寿を迎えた姉の退院祝を兼ねた兄弟会(甥や姪を含めた)を企画しているので、友が持てば20日過ぎの週がいいかなとも思っています。明治生まれの父母はとうになくなり、12人兄弟末っ子の私が古稀を迎えるのだから兄弟や甥や姪といっても推して知るべし。姉や兄も高齢になり、毎年私が企画している兄弟会も最後かなとも思っています。
2010.04.10
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ノンフィクション作家吉岡忍さんは、尾根やジャングルを歩いてたどり着いたミャンマーとの国境に近いタイ北部の山岳民族の小さな村の村長の家に何泊かした。毎朝、吉岡さんがコーヒーを進めるのだが、村長は最初の日にちょっと匂いをかいだだけで、決して口をつけようともしない。とうとう五日目の朝、なぜ口をつけないのかを聞いてみた。すると村長は穏やかな口調で、「もしそいつが一度飲んだら忘れられないくらい美味いものだとしたら、村は困ったことになる。村長のわしは若い者に言いつけて、何日もかかる遠い町まで買いに行かせるかもしれない。そんなことが続いたら、この貧しい村はめちゃくちゃになってしまうじゃないか」と答えた。振り返って、今の私たちはどうだろうか?今ここにある穏やかな生活に満足せず、何か新しいもの、美味しいものがないかと鵜の目鷹の目で探し回り、後先も考えずに飛びついて食い散らかし、あっと言う間に飽きてしまいます。村長の言葉を、森の賢者の声、智慧者の声として耳を傾けたいものです。それが、この限りある地球と共生し、心豊かに暮らしていくためのコツであると思います。
2010.04.10
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昨日は素晴らしい陽気で、桂川を散歩しました。阪急の駅から下の方へ1駅分歩いてみませんか?人も少なく、桜も楽しめます。松尾神社のヤマブキは未だ少し早いが、松尾で橋を渡り対岸を歩くのをお勧めします。嵐山の斜面の桜も良いし、嵯峨芸近くの桜も良いですよ。道路の下に降りて、川面を眺めるのも一興。
2010.04.09
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人は「普通ライフ」よりも「ゆとりライフ」を、それよりもっと「贅沢ライフ」を望んでいる。そして、それが良いことだと思っている。だけど私は、「普通ライフ」よりも「シンプルライフ」を、それよりももっと「足りないライフ」について思う。この中には、「こんなはずではなかったと思う道」と同じ何かがある。「贅沢ライフ」にいては、決して見つけることのできない尊い価値、真実が・・・と多発性硬化症の阿南慈悲さんは語る。「家族に恵まれ、健康でやりたいことをして、食べたいものを食べ、言いたいこと言って、欲しいものはすぐに買い、自分の意のままに欲望を満たすということは、本来の人間の姿から段々と離れていくような気がします。いわゆる世間でいう幸せな人になると、世の中のためにはよくない。つまらない人間になるように思います。やはり、毎日を考え、悩み、いろいろと多くのことを感じ、それで初めて本来の人間の姿が保てるのだと思います。本当の意味での幸せ、これをもっと考えられる人間にならないといけないように思います」と彼女の友達は手紙を返す。「どんな状況の中でも、肯定的に生きていきなさい」というメッセージが熱く伝わってきます。
2010.04.09
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雨の落ちてきそうな天候の中、早朝に渡月橋周辺を散歩。渡月橋を渡った川沿いの桜は今が見頃。阪急の駅に行く手前の桜並木も散り始めで、私の一番好きな頃合いです。法輪寺に登って、嵐山一体を眺め春を満喫。松尾神社まで行って、ヤマブキと桜の取り合わせもよし。帰って信州の友人にメールをすると、桜は1,2輪ほころび始めた程度とのこと。以前脳梗塞で倒れたことがあるが、どうも2回目が来そうな気配がするとの返事も。2年前ガンを宣告されたときに生前葬をしたが、今週末には2回目の生前葬をしようと思うとも。(これは香典集めが目的だろうが・・・会社を潰して以来金欠病も患っている)月末辺りに上高井郡高山の桜でも見がてら訪ねてみようと思う。
2010.04.07
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「なんでもない なんでもない なんでもない なんでもないことが こんなにうれしい」北海道斜里町の鈴木章子さんが、肺癌で亡くなられる前に北国新聞に投書された詩だが、私たちは何でもない幸せに囲まれながら生活し、それを当たり前のこととして意識もせずに生活しています。その素晴らしさを、何かを失う前に気づきたいものです。事故で両腕を失った大野勝彦さんも、「両腕を失ってよかった。こんなに幸せでいいのだろうか。字が書ける。両腕を失うまでは、こんな当たり前のことを喜んだ経験はありませんでした。字の次は絵が描けるように、さらに独りで食事ができ、シャツが着られる。そのどれにも、私は大きな喜びを感じることができました。手があったころでは考えられないことです。本当に幸せです。手を失うまでは、人が涙する話を聞いても何に感激しているのか分かりませんでした。ところが、事故で両腕を失って以来、何と胸が熱くなる瞬間が多いことでしょう。いつも一緒にいるのが当たり前と思っている家族や周囲の人も、実はすばらしい宝物なんですね。周りの人や家族の素晴らしさに気づくようになってから、私は自分の素晴らしさがわかるようになりました・・・」と言う。
2010.04.07
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桜の季節で一番好きなのは散るときです。寒さが続いて、今年に桜は長持ちしたが、嵯峨野の桜も散り始めました。一雨くれば終わりでしょうね?昨日は山の上から天龍寺の庭を眺めようと小倉山に登りました。ところが、木が茂りすぎて見晴らしが悪くなり、麓にある天龍寺の見晴らしは良くありませんでした。でも、山ツツジが綺麗で、この調子なら週末は愛宕山の裏道を上ろうと決めました。山を下りて公園を散歩し、観光客の人たちに穴場を教えたりもしたが、外人さんに道を聞かれても、元々弱かった語学力のせいで十分に意が通じず歯がゆい思いがしました。身振り手振りで、若い女性と話しながら写真を撮ってもあげたが、もう少し語学を勉強しておけばと今頃悔やんでいます。小倉山下の人形作家さんを訪ね、コーヒーを飲みながらのノンビリした一時もいいものです。嵐山温泉で汗を流し、渡月橋を遠望しながら帰ってきました。いま、渡月橋の辺りは満開だが人が多すぎ、早朝に訪れるつもりです。
2010.04.07
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戦争で両足を切断し、右肩にも銃弾を浴びて右手もきかなくなった小沢道雄さんは、ある日、苦しみの原因は五体満足だった昔の自分と比べる心にあると悟った。そこで、本日ただいま生まれ変わることにしよう、両足、切断したまま今日生まれたのだ。たとえ両足がなくても、動けなくても、足のないまま、動けないまま生まれたのだから、何も言うことなし。この足のない動けない状態が始まりなのだ、と心の中で叫んだ。足がないということは、助けを求め願うといった甘えでは片付づきようがない。甘えではどうにもならないところへ行き着いたとき、「本日誕生」という意識が湧いてきたという。1.良いときや良い状態、他人と比べないことです。2.過去を悔み、未来に期待を抱きすぎないことです。3.「いま、あるがまま」の状態に「有り難し(希なこと)」と感謝し、「いま、ここ」を精一杯生ききることです。たとえ自分の生活がいかに惨めであろうと、苦しかろうと、暗い顔をせず、今ある状態を受け入れて、明るくにこやかな顔で一日一日を過ごせば、自ずと幸せな気分になれるはずです。笑顔の人には、女神も微笑みかけてきます。
2010.04.06
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昨日は花遍路を楽しみましたが、歩いていると汗をかくような陽気でした。天神川は街中を流れる用水のような川だが、四条通と五条通の間の桜並木が綺麗でした。妙心寺の紅垂れは未だ少し早く、近くの工事の音で水琴窟の音もかき消されそうでした。宇多野のユースホステルに寄ったら、庭の桜が見事でした。施設も綺麗な上に、会議室も1名100円、宿泊も19歳未満2800円(以上は3300円)と安く、場所が少し不便だがお勧めですね。山越を過ぎれば、いつもの佐野造園で救世教の平和郷でノンビリと寛ぎ帰ってきました。5時間ばかり歩き回ったが、膝が痛くなってきて体力の衰えを痛感しました。
2010.04.06
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『ビルマの竪琴』の水島上等兵のモデルと呼ばれている中村一雄さんは、ビルマの山中を歩いていたときに、雨を避けるために他の兵隊たちと一緒にパコダに駆け込んだ。そのパゴダの中には、戦災を避けるために沢山の反物が収められていた。この反物を背負って町まで持っていけば、相当の食べ物が得られると思った兵隊たちは、10反とか20反とか持てる限り背負い込んだ。中村さんは、沢山背負ってしまったら自分の体力を消耗してしまうと思って、皆に呼びかけたが誰も聞かない。重い反物を背負って町を目指した兵隊たちは、40キロ、50キロと歩くうちにクタクタになって倒れていった。中村さんは2反か3反しか持たなかったので、最終的には一人だけ余力があって何百キロも歩き続け、町に到達することができ生き延びたということです。人間はギリギリのところに差し掛かっても、なおかつ欲望の固まりで、人より多く得たいという気持ちを捨てられないようです。少欲知足というのは凡人には難しいが、足るを知るところに道が開けると思います。何事をするにしても、八分目で押さえておくことが大切です。二分の余裕を持っていないと、世の中の動き、時の流れに対応できなくなります。
2010.04.06
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早朝に散歩がてらに廻ったが、今週末までは大丈夫でしょうか?昨日は嵯峨野にも沢山の人が花見に見えました。高松のみかん園の若者も、家族とご一緒に青春18切符で来たと言って寄ってくれました。甥も交えて農業の活性化を飲みながら話し合う。今は土日を除いて農業研修を受けているようだが、研修先の農園は東南アジアの研修生を使って年商3,4億円を挙げているとのこと。経営としてみたとき、安い労働力を使う必要があるのだろうが、真の農村の活性化という意味では疑問が残る話でした。また、昨日は「釈迦の智慧」のCDを欲しいという方からメールも戴き楽しい日でした。皆さんが休みの時は出ないことにしているが、今日は嵐電沿線(天神川・鳴滝・妙心寺など)の花見をしようと思っています。
2010.04.05
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マレーの原住民たちは、ヤシの実の殻に穴を開け、その中に米粒を少し入れて、そのヤシの実に縄をつけてヤシの木にぶら下げておく。すると、メガネザルがやってきて、片手をヤシの実の穴に突っ込み、中の米粒を握る。すると、拳が抜けなくなる。そうやってメガネザルは簡単に捕らまるという。しかしながら、私たちはこのメガネザルを笑えるでしょうか?一旦手に入れた財産や地位を手放す気になれずに、それに見苦しくしがみついています。はたから見ていると、何もあんなに汲々としなくてもと思うが、本人にすればそうは考えません。その財産や地位を守るために喧嘩をしたり、犯罪を犯したりまでするのが人間です。快適な生活を手放せずに、夏になればクーラーをガンガンかけて冷房病の対策に長袖の服を着ている。クーラーを緩くしたり切ればいいのです。速いからと新幹線で目的地に行き、早く着き過ぎだからと喫茶店や映画館に入って時間をつぶしています。文明とは、そういう無駄を作り出すものです。人生は、放棄することによって、問題が簡単に解決したり気楽にもなれるのにと思うことがよくあります。
2010.04.05
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夕方の散歩がてらに桜見物。少し寒くてゆっくりと花見の気分にも成らずつい酒で温める。昨日の昼間の写真と比べてみました
2010.04.04
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「まだ与えられていないもの」に心を置くのを止めて、「すでに与えられているもの」に心を置いてみるのです。そう、『少女ポリアンナ』(エレノア・ポーター著)のように「いいこと探し」をするのです。あなたに「すでに与えられているもの」を心に思い浮かべてみてください。実に沢山のものが自分には与えられ、後進国の人たちと比べれば、いかに自分が富んでいるかに気がつくはずです。実に多くのものが与えられている現実を忘れ、無限と比べるから不幸な気分にとりつかれるのです。無(ゼロ)と比べたら、知足と感謝の心が湧き出てくるはずです。例えば、ロビンソン・クルーソーとは言わないが、TVでよくあるサバイバルゲームを考えて下さい。また、阪神神戸大震災のときを思い出して下さい。こういう立場に置かれたとき、人は誰でも、生きていく上で最低限度の物(=食料、衣類、火、食べ物を採る道具、雨露をしのげる空間など)さえあるなら、それで満足できるはずです。ところが、私たちは、それよりはるかに多くの便利な物を持っているのに、なおかつ「あれが欲しい、これが欲しい」と、際限のない欲に取り憑かれています。
2010.04.04
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久しぶりの快晴。朝から浮き浮きして花見をしてきました。今日から5日までは、広沢の池端世界救世教の庭園が開放されます。夜はライトアップされるし、向かいの佐野造園も薪でライトアップされます。嵯峨野にお出かけの方にはお勧めです。◆救世教庭園ライトアップと佐野造園の桜
2010.04.03
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欲望には限りがありません。ところが、満たされる量は限られています。そこで、不平不満や羨望にとりつかれて、心の安らぎが失われることになります。例えば、「100万円があったら」と思っていた人が、実際に手にはいるようになってみると、「なんだ、100万円の使い道ってこの程度のものか」ということになり、今度は1000万円が欲しくなってきます。100万円ではなく、自分の欲心に自分が裏切られるのです。そういう不幸に陥らないためには、自分の欲をコントロールする必要があります。そのコントロールの技術の一つが、昔からよく言われる「足を知る」です。足ることを知る心こそ宝船 もののかずかず積みおかずとも安樂の伝授というは他ならず ただ足ることを知るまでのこと事足れば足るにまかせて事足らず 足らで事足る身こそ安けれ (道歌)私たちは、物、金銭、学歴、地位、名誉、恋人、子供、健康など何であれ、自分に「まだ与えられていないもの」ばかりに意識がいきがちです。つまり、「ないものねだり」です。そして、自分には「すでに与えられているもの」は全く忘れています。そこで、一度、心のスイッチを切り替えてみましょう。
2010.04.03
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この頃はストレス社会だと言われるが、それは「いま」に満足することなく、「もっと、もっと」と求めて得られない不満から起きます。人間は無一物で生まれてきて、無一物であの世に帰るのです。人間が生きていくためには、雨露を凌げて眠る畳一枚の場所と椀一杯の食べ物さえあれば十分です。そう悟ったとき、貴方は気楽に生きていけるはずです。物が満ち溢れ、それでも満足できずに、「もっと、もっと」と煩悩に日夜さいなまれ続けている私たちの生活は、決して幸せではありません。とにかく、まず目を開いて、足りているのかいないのかを心眼を開いて観てみれば、十分に足りているものは物で、足りないものは満足する心だということがわかるはずです。「欲しがっているのは、煩悩にさいなまれて目が曇ってしまっているからです。とにかく煩悩にさいなまれた目を、自身の心の内側に向けてください」と清水寺の森清範さんは語る。どうですか、手始めに3日断食でもしてみませんか?たった3日、されど3日。何も食べない2日目が一番爽やかですよ。
2010.04.02
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京都龍安寺の庭に、「吾唯知足」を浮き彫りにした手水鉢があります。四文字が『口』という字を真ん中に共有して、これを囲むように掘られています。四文字で「口」が一つだから、一つの字としては少しずつ足りないが、この「少し足りないな」と思うところが実は丁度よいところで、「満足」では足りすぎるということを教えているという。これは、お釈迦様がお亡くなりになる前の最後の説法を記した『遺教経』に由来しています。少欲(欲望を少なくする) 寂静(煩悩を離れ心を平静に保つ)精進(ひたすらに励む) 不忘念(物事の普遍的なあり方を忘れない)禅定(心を静めて対象に集中する) 修智慧(智慧を修める)認識(正しく考える)の7つを修めることによって涅槃の境地に導かれるだろうという教えだが、昔から「足るを知る者は、身貧しけれども心富む。得ることを貪る者は、身富めども心貧し」と言い、「満足している者は、最も求める者である」と教えます。幸せ感は「充足/欲求」で表せ、欲求を下げれば幸せ感も高まります。食事でも腹八分目が健康によいように、欲望も「少し足りないかな」というところで自分を抑制する、これが『足るを知る』です。
2010.04.01
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