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手をロウソクの火に照らしてみると、灯りの方を向いている側は明るく、裏の方は暗い。しかし、どちらも手であるのに、灯りが当たっているか否かで明暗が分かれます。この世も同じで、明暗、苦楽は表裏一体です。自らの人生を明るくしたければ、明るい気持ちで、明るい方を向いて歩き続けることです。この世が暗いといっても、まず自らが一本のロウソクを持っていれば、少なくとも自分の周りは明るくすることができます。その火を次々と隣の人に移していけば、この世は次第に明るくなります。他人のせいにせず、まず自分が一隅を照らすことです。常にプラスの気を発散して明るく生きることです。般若心経の教えを簡単に言えば、「ものには物差しはない、物差しは自分の心が持っている」という教えだということです。ボーナスを百万円もらって喜んでいても、同僚が自分より5万円でも多かったと知った途端にがっかりするのが人間です。大資産家が財を失って残った百万円と職を失った人の得た百万円、同じ百万円でも雲泥の差です。同じものが、気分によって違って見えたり、人によって違って見えます。何事もどう見えるかは、自分勝手な、その時の気分に左右された物差し次第です。
2010.06.30
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清水寺の大西良慶和尚は、よくこんな話しをされたそうです。草履屋と傘屋さんに娘を嫁がした母親がいた。この母親は、雨が降ったら草履屋さんに嫁がせた娘のことを思って「雨で草履屋の商売は上がったりやなあ」と嘆き、天気になったら傘屋さんに嫁がせた娘のことを思って「こんなに天気が続いては傘屋の商売はあかんな」と悲しんでいました。これを聞いた人が、「お母さん、それはあんたの心の置き違えどっせ。晴れたら草履屋さんのお商売を喜んで上げたらよろしい。雨になったら傘屋さんの商売を喜ばはったらええのと違いますか」と言った・・・。また、ボケた母親の下の世話をずっと続けている60歳を過ぎた男性は、「60歳を過ぎてまた子供を授けてもらった。ありがたいことだという気持ちでやらせてもらっております」とさらりと言う。何事も、どう受け取るかで、世の中は180度違って見えてきます。同じことでも、ちょっとした心の置き所一つで、気持ちが180度違ってきます。何事も悪く考えたり悪い面ばかりを見るのではなく、善く考えたり善い面を見るようにすることによって、毎日の生活が楽しく積極的になってきます。
2010.06.30
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湿度が80%近い日々が続き、夜中に蒸し暑くて目を覚まし参っています。月末処理のついでに天龍寺に寄ったら、ハスの花が咲き始めていました。野々宮神社にも寄って、茅の輪をくぐり、今年半年の穢れも流してきました。明日は中学校の同窓会で、修学旅行思い出の奈良へ行きます。私は若草山の下で合流し、昼食をともにしようと思っています。久しぶりに奈良も歩いてみたいが、この蒸し暑さだと気後れもしますね。でも、もう明後日からは祇園祭が始まり、梅雨の明けるのも直ぐだと思います。山鉾の引き回しは土曜日に当たり、人出も多いことでしょうね。15日(木)の宵宵山あたりのほうがいいかめしれませんね。
2010.06.29
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比叡山千日回峰を成就した光永覚道師は、「はたから見れば確かに地獄とも難行苦行とも見えるでしょうが、私は自分から進んで修行させていただいたのですから、難行苦行と思ったことはない。だいたい、難行苦行などと思っていたらやってられないし、修行になりません」と言われました。通勤地獄とか受験地獄とかいう言葉があります。受験でも、夢と目的をもって、それを実現するために勉強する人には、受験勉強は地獄でも何でもありません。だが、このレベルの大学に入らないと格好が悪いとか、自分が望まないのに周りの人からこの大学に入れと言われた場合は、受験は地獄になります。釣りが好きな人なら、夜中までかかって仕掛けをつくり、ちょっと仮眠しただけで朝方に嬉々として出かけていきます。自分のやりたいことなら、寝不足の不快もありません。私たちの若い頃は、夜行のスキーバスもそうでした。人生で思い通りになるものなど、基本的には一つもありません。何かしようと思ったら、困難はつきものです。苦労のない結果などありません。だから、苦労は嫌なことでも辛いことでもなく、実現への希望や喜びにつながるはずです。何事も、自らが主体となり楽しむことです。
2010.06.29
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「人は自分でつまずいても、それを石のせいにする。石がないときは坂のせいにする。坂がないときは靴のせいにする」という外国の格言があるが、とかく人間というものは原因を自分以外に求めがちです。人と道でぶつかれば、つい「どこを見て歩いているんだ」と怒りがこみ上げてきます。でも、仮に相手がよそ見をしていても、自分が前を向いて歩いていたらぶつかるはずがありません。両方がよそ見をしていたわけで、それを相手だけ責めるのでは片手落ちです。「私は嫌な人ばかりにあう」と嘆く人もいます。本当にそうでしょうか? その人の心が人を好きにならないから、相手もそう見えるだけだと思います。上司に嫌われていると思いこんでいた人が、始業開始時間の10分前に出社するように努力し、「おはようございます」と明るく挨拶するようになっただけで、上司の態度が一変したという話も聞きました。世の中が面白くないですか?でも世の中、簡単には変わらないものです。では、どうしたら面白くなるのか? それは、自分自身を変えることです
2010.06.27
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新羅の学僧元暁が、中国留学の夢を抱いて旅にでた。ある夜、山中の洞窟に泊まり、夜中に喉が乾いて目を覚ましまし、ふと見ると、入り口に月を写した美しい清水があります。これ幸いと、一気に飲み干した。まさに寒露の水でした。だが、翌朝になってよく見ると、それはシャレコウベに溜まった汚水でした。その時、「あらゆるものは、己の心の影に過ぎぬ」と悟って故郷へ帰った。恋しているときには輝いて見えた相手が、熱が冷めたら色褪せるようなものです。だとしたら、私たちは美しく高貴な影を見たいものです。例えば、仏や極楽が真にあるか否かは問題ではなく、自分の心の中にどんな影を見るかが問題なのです。この世が低劣にしか見えないのは、世の中が低劣なのではなく、己の心が低劣なだけです。豊かで新鮮な世界に眼を輝かせて生きていける人は、その人の心こそが新鮮で豊かなのだと思います。人生、つらいことを探せば、つらいことばかり。いやなことを探せば、いやなことばかり。うれしいことを探せば、うれしいことばかり。ありがたいことを探せば、ありがたいことばかり。 山本『言葉の散歩道』
2010.06.26
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私が学生たちと付き合うようになって10年余になるが、今年は結婚の便りがもう3件もありました。(我が家の娘たちは30半ばを過ぎても気配もないが)いまだに、そうやって忘れずに知らせをくれるのは嬉しいものです。今日も、京大院を卒業して外資に勤めている若者が、学生時代から付き合っていた中国の娘さんを連れて挨拶に来てくれます。私の家には若者たちが良く来るが、日本の若い娘さんたちは後片付けもせずに帰るが(男の子にはたまに後片付けしていく子がいる)、その子は何時もチャンと後片付けをしていく子だった。そういう当たり前のことを今の日本では躾けていないが、中国ではまだ残っているのかと感心することが多い。そう言う心遣いは総てに通じることで、彼もそんなことにひかれたのかな?残念なことも一つ。昨日、信州の友人からメールがあり、私が好きだった浅間を真っ正面に臨む小屋を撤収したよし。飲酒運転で免停になったり、二度目の脳溢血で倒れたりしたこともあり、小屋まで行くのも難しくなったモノと思われる。信州に行けば何時も、ベランダで浅間を眺めながら飲んだものだが、楽しみが一つ無くなってしまった。これも、歳をとったということの一つの寂しさか?◆この春 ベランダより(前の木はクルミで良く拾ったもの)
2010.06.26
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法句経に「諸法は心に支配され、心を主とし、心より成る。人もし汚れたる心をもって、あるいは語り、あるいは行なわば、苦の彼に従うこと、車輪が牛馬の足に従うごとし。諸法は心に支配され、心を主とし、心より成る。人もし浄き心を持って、あるいは語り、あるいは行なわば、楽の彼に従うこと、影の形に従いて、離れざるのごとし」と説きます。汚れた心とは、「現在に満足していないだけでなく、その現在を憎んでいる」ということ。現在を憎めば、未来はその人に仕返しをして何倍もの苦痛となって返ってくる。浄き心とは、「現在に感謝しているだけでなく、その現在に好意を持っている」ということ。現在に好意を持っていれば、未来も好意をもって報い、数倍した幸福となって戻ってくるという教えだと無能唱元さんは言う。随煩悩にいう様々な思いは、現実に起こっている事実から起きるのではなく、煩悩から起きるそれに対する自分の思い(欲望・理想・ありたい姿など)とのギャップに対する反応として創り出される妄想に過ぎません。つまり、随煩悩の裏には人間の欲望(長生きしたい、健康でありたい、良い生活をしたい、良く思われたい、権力をふるいたいなどという様々な欲望)があります。
2010.06.26
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京都女子大で話すために女性の就職データを集めているが、女性にとっては働きにくい日本の現実が見えてきます。出生率を増やすために子供手当が出されることになったが、それで子供を沢山産もうという気にはならないと思います。出産しても仕事続けたいという常勤者は56.8%いるが、現実は出産半年後に勤めている人は47.7%、以後子供が大きくなるに連れて減り続け、6歳になると38.9%にまで減ります。その代わりパートに切り替える人が増え、出産半年後2.2%だったのが6歳では22.7%までなります。仕事と私生活のバランスを崩す要因としては、女子の場合(男女あまりさはないが)次のようなモノがあります。1.就業時間の長さ 60%2.十分な育休が取れない 56%3.自分の時間を作るための柔軟な就業時間でない 44%4.有給以外の休みを十分に取れない 26%5.子供の面倒を見なければならない 27%給料(お金)の問題はずっと下位要因です。必要なのは手当ではありません。女子が出産後も働きやすくするためには、時間短縮・残業をさせない・フレックスタイムなどの制度の必要性が見えてくるが、現実に制度がある企業は2,3割というのが実態です。一生働きたい女性の方は、結婚・出産・育児などを視野に入れたライフプランを立て、働きやすい環境の企業を選ぶことが大切です。選挙が始まったが、そんな根本的な政策を掲げた政党はありませんね。耳に快い目先のバラマキ公約で選んでいると、消費税は10%程度では済みませんよ。消費税が25%の国もあるように、やがて日本もそうなってしまいます。それも、福祉のためではなく、積もり積もった赤字国債などを返すために。◆夕べは息をのむような夕焼けでした(青空と夕焼けのバランスがすごかった)
2010.06.24
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「せまいな せまいな」といって みんな遊んでいる。朝会のとき石をひろわされると 「広いな 広いな」とひろっていた。小学校四年生の「運動場」という詩だが、人間というものは身勝手なもので、この小学生のように遊ぶときは「もっと広いと良いな」と思い、石拾いをさせられるときは「もっと狭いと良いな」と思います。阪神大震災の時、避難所に、まだ大火災が続いている中を市役所の人が必死でおにぎりを届けてくれた。すると、「おじいさん、お握りを戴きました。1つしか当たりませんから半分ずつ戴きましょう。有り難いことです。すみませんね」と老婦人が押し戴いていました。ところが、その隣の老夫婦の主人は、「今何時だと思うとるんや。夜中の11時過ぎやぞ。わしら、朝から何も食べとらんで。水も飲んどらんのや。それなのに、こんな冷たい握り飯1個か。お前ら、わしらに死ねというのか」と、物凄い剣幕でかみついていました。おにぎり一個という現実は同じでも、その人の心の持ち方ひとつで、ほのぼのとした温かさを感じる人もいれば、怒りをぶちまける人もいます。全てにおいて、心の持ち方次第で人生は楽しくも辛くもなります。
2010.06.24
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昭和42年に金子光晴が孫娘に詠んだ詩が今朝の新聞に載っていました。 君が年ごろといえる頃には も少しいい日本だったらいいが なにしろいまの日本といったら あんぽんたんとくるまばかりだ・・・参院選挙も公示されるが、天下りと無駄遣い、バラマキなどの結果は、1100兆円(一人当たり870億円)近い国・地方の借金で増税論がまかり通るようになりました。ますます住みにくい日本、子供や孫たちが希望の持てる政治をやって欲しいモノです。私たち現役世代も、あまりお強請りをしないで、バラマキ政治には別れを告げたいモノです。
2010.06.24
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人間にとって最大の苦である「死」にしても、「今日、只今」を精一杯生きていないことから「死に対する恐れ」が心の中に紛れ込んでくるのではないでしょうか? 「今日、只今」を精一杯「明るく、楽しく」生ききっていれば、死など考える閑もないし、恐れることもないと思います。人間なんて死ぬから救われるのです。一切皆苦の世界で、永遠に生きていなければならないとなったら、それこそ究極の懲罰だと思いませんか?何かの縁で一つの命が生まれ、波間を漂い翻弄されている間に、また何かの縁(事故、病気、老衰など)でスッと死ぬ。そう考えればいいのです。苦を滅するには、執着しない心を養うことだとよく言われます。少欲知足や布施、五戒なども執着を断つための修行と思います。そうは言われても、なかなかできないのが私たち凡夫です。ではどうするか?難しいことは横に置いて、私は目の前のことに集中するしかないと思います。何故なら、過去に対する思いから後悔や怒り、復讐心、好き嫌いなどの感情が起こり、未来に対する思いから不安や欲求などが起きます。「現在、只今」のことだけに集中していれば、苦など起きようがありません。
2010.06.23
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少し見方を変えれば、色々な縁との出会いで感情が生じるとも言えます。例えば、湖には水が湛えられています。そこに風が吹くと、風が縁となり、波が立ちます。風の強さによって、大波もあればさざ波もあり、三角波もあるし、暴風雨ともなればもの凄いうねりになります。また、岸にぶつかって逆波だって起きます。すべては、水と風が結びついた結果です。私たちの心にも、何らかの縁が働いて波風が立ちます。大波もあれば、さざ波もあるし、逆波だってあります。人と交わり、俗事に係われば係わるほど、波風を立てる縁も多くなり、心穏やかでなくなってきます。一つの波が立つと、玉突き的に次の波を引き起こし、やがて千波万波の波が起こってきます。それを収めようと思ったら、その風を避けるより他に方法はありません。坐禅はその方策だが、最初は色々な雑念が湧いてきて千々に心が乱れるが、集中していると段々と静かな状態になってきて穏やかな心になるそうです。野球選手が、目の前の球に無念無想になって全生命を打ち込んでいるときは、他のことを思いたくても思えないのと同じです。千々に心が乱れるということは、ある意味では目の間のことに打ち込んでいない裏返しともいえます。
2010.06.23
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心は元々は無色透明のはずなのに、「惜しい」とか、「憎い」とか、「もっと欲しい」とか、「悲しい」とか、「可愛い」とか・・・の感情が生じてきます。この愛憎、好き嫌い、多寡、幸不幸せなどという感情は、総て相対的なものです。子供のテストを例に取ると、普段は60点前後の子供が90点を取ったとします。お母さんは、「まあ、素晴らしい」と嬉しくなるはずです。ところが、90点という事実は変わらないのに、平均点が95点と聞いた途端に、大部分の方は「何だ、うちの子は平均以下じゃないの」とがっかりするはずです。講演を聴いて「今日の話は良かった」というのも以前のもっと下手な話との比較だし、「私は金持ちだ」といってももっと貧乏な人に比較して多少金をもっているだけのことです。「幸せ」と思うのだって、不幸せなときに比べての話で、ずっと幸せばかりの世界にいたら、それを幸せとは感じないはずです。例えば、どれだけ美味しいご馳走を出されても、毎日ご馳走ばかり食べていたら美味しくもなんとも無いはずです。ところが、1日、2日でもいいから食べるものもなく腹を空かせていたら、一杯のおかゆでも、一杯のかけそばでも、「こんなに美味しいものはない」といただけるはずです。
2010.06.22
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地獄、極楽も自分の心の持ち方次第です。彦根藩の侍が白隠禅師に、「私は、極楽や地獄というものがよくわかりません。どうかお教え下さい」と尋ねたところ、「武士なら武士らしく、地獄や極楽など考えんでもいい。そんなことを聞くようでは、どうせ腰抜け侍だろう」と冷たくあしらった。侍は怒って、刀を抜いて斬りかかってきた。白隠禅師が逃げ出して本堂の大きな柱の陰に隠れると、侍は「そこに隠れているな」とパッと切りかかってきた。すると、白隠禅師は柱をクルリと回って、「地獄はこれじゃ」と叫んだ。侍は一喝されてハッと我に返って刀を鞘に収め、「仰せになったことよくわかりました。地獄とはまさにこれでございます。申し訳ございませんでした」と丁寧に頭を下げた。すると、白隠禅師は「極楽がこれじゃ」と叫んだ。名聞も名利も幸せをもたらすものではありません。心の御し方が問題です。人間の心の中には、地獄と極楽の両方があります。そのどちらが、いつ、どのように飛び出してくるか分かりません。誰でも自分の心の中に角の生えた鬼を飼っていることを自覚し、角を出さないように心したいものです。
2010.06.21
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昨日は義理の兄の23回忌がありました。20代の孫たちも黙って聞いていたが、訳も分からないお経を聞いているのは苦痛であり、ある意味では修行かも知れないと言ったら大受け。長時間座っていたお陰で、腰の調子がますます悪くなってきました。説教ももう一つで、みなポカーン。仏というと今では死んだ人と思っている人がほとんどだが、仏とは目覚めた人のことです。そう思うと、仏教が分かります。自分のいい加減さに目覚め、「これ一つあれば、他の何ものもいらないというものがあるか」と問いかけているのです。目覚めることが大切なのです、と言われただけで、「目覚めるとは何か」「たった一つのものとは何か」「目覚めるためにはどうしたらいいか」などには一つも触れないし、詳しく例話で話してくれることもない。お坊様が帰られた後で、「何かの受け売りだったのね」で終わり。私のような仕事では、これではお金をもらえないし、次の仕事が来ることもない。お坊様とは良い商売だが、これでは檀家が減っていくのもしようがないですね。この話は、私のブログの序章で述べた次のような話しだと思う。「仏教は本当の幸せへの道を説く教え」限りある人生を、誰もが「明るく、楽しく、自分らしく」幸せに生きるための心の持ち方を説くのが宗教だと思います。仏教も、人生最後の一瞬まで、安らかに、健やかに、精一杯生きるための教えといえます。お釈迦様は「人間の欲望、弱さ、愚かさ、ものの道理のわからなさ、エゴイズムなど」から導き出される迷いから抜け出す道を明らかにされました。 お釈迦様は、「生きるとは苦である。その苦しみには原因がある。苦しみの現れる原因をなんとかして無くすことである。それにも確実な道がある。だから、それを実践してみなさい。私はその方法を実践して、今は完全たる幸福を達成している。私の弟子たちもその方法を実践して、完全たる幸福を達成している。『幸せになりたいけど、自信がない』『そんな話は疑問だ』というなら、その事実を見て信頼をして実践しなさい」と説いています。薬師寺管長だった高田好胤師は「悟りとは決心すること」と言われたが、仏教とは幸せになるための実践の教えです。お釈迦様とその教え、教えに出会って幸福になった沢山の人々(仏・法・僧)とを信頼して、心安らかで幸せな日々が送れるように、自ら釈迦の道に足を踏み出す決心をすることが大切なのです。◆このところの雨で渡月橋のあたりも増水しています
2010.06.20
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この世の中、金や物、名誉や地位のないのが地獄の苦しみの根元ならば、それらに恵まれた人の人生は極楽のごとく喜びに満ちあふれているはずです。でも、現実はニュースを見ればそうでないことは一目瞭然です。イギリス王室のダイアナ妃は、美貌といい、シンデレラストーリーといい、”世紀の結婚”とまでもてはやされ、さぞ極楽であろうと思われたが、人知れずこの世という地獄に苦しみ、自殺未遂は5回にも及んだといいます。雅子妃もそうですね。「田なければ、また憂いて、田あらんことを欲し、宅なければ、また憂いて、宅あらんことを欲す。田あれば田を憂え、宅あれば宅を憂う。牛馬・六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、また共にこれを憂う。有無同じく然り」(大無量寿経)とあるように、金、財産、名誉、地位、家族など、無ければないで、あればあるで地獄だと苦しんでいるのが人間です。これを釈尊は「有無同然」と説かれています。どれほどの財宝や権力を手にして極楽と思えても、本当の地獄の苦悩の根元を知り、取り除かない限り(往生しない限り)人生の重荷は下ろせない・・・地獄から極楽へと逃れることはできないでしょう。その他にも、さまざまな苦労があり、この世は一切皆苦と言われます。
2010.06.20
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お釈迦様は「心が沈みそうなとき、心が沈んではいけない。明るく清らかに心を持って、暗い淀みにするな」と、何事も明るく受け取る大切さを説きます。少女ポリアンナは、どんなに悲しい時や辛い時でも、そこから喜びを見いだそうとします。例えば、人形が欲しくてお願いしたら、慰問箱に松葉杖が入っていました。がっかりしていたら、お父さんが「うれしくなるゲーム」を教えてくれます。「松葉杖を使わなくてもいいから嬉しい」というように。すると、思い出すだけで笑いたくなり、笑っているうちに本当に楽しくなってくるのです。父母を亡くしたポリアンナは、いつもこのゲームで明るく生きていきます。学習塾教師のA君は、大規模クラスを受け持つようになって緊張しコチコチの怖い顔で授業するようになっていた。生徒達は面白くないので、白けた顔であくびをしたりする。悩んでいたときにTV番組で「人を引き付けるには笑顔が大事だ」と、笑顔を作る方法を具体的に見せていた。馬鹿馬鹿しいと思ったが、案外大事なことかもしれないと一週間ほど練習し、その顔で塾へ行ってみると、不思議なことにそっぽを向いていた生徒たちに受け入れられた。「人に良い印象を与えることがいかに大切か」ということを、それで学んだと言います。
2010.06.19
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ついに消費税10%が現実味を帯びてきました。私たちは、政府にお強請りばかりし、「ああします」「こうします」と美味しい餌をばらまく政治家や政党を支持してきました。その結果は、収入の倍以上の支出を招き、莫大な借金を抱えています。でも、政府が打ち出の小槌をもっているわけではなく、その原資は私たちが納める税金と言うことを忘れています。いま、私たちに必要なことは、政府にお強請りすることではなく、菅さんも「最少不幸社会」といっているように、「これだけは」というものを明確にし、小さな政府をつくることではないでしょうか?お強請りばかりを期待して大きな政府、大きな官僚組織になった結果が、仕分けに見られるように官僚たちによる税金の食い散らかしです。これからのエコ社会、何でもエコですよ。そうしなければ、日本も地球ももたなくなって益々悲鳴を上げる結果になります。そんな目で、今度の参院選挙にも臨みたいものです。
2010.06.18
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「悟りとは平気で死ぬことではなく、平気で生きていくことだ」と政岡子規は言ったが、唯心円成会無能唱元さんは「悟とは、ようは陽気に生きることだ」と言われます。つまり、あることを、あるがままに理解し、今という時をできるだけ愉快に生きることだと知り、かつ実践している人が悟っている人というわけです。永遠の命をくださるという『延命十句観音経』を、ひろさちやさんの解説をもとにして意訳してみました。観世音南無仏(この世の全てのことを、観音様にお任せ致します)与仏有因(この世に起こる全てのことには、そうなる訳があると受け入れます)与仏有縁(この世に起こる全てのことは、みな縁のお陰と感謝します)仏法僧縁(何でも自分の好きなことを、他人を気にせず自由にやってみます)常楽我浄(常楽我浄はあの世にしかないと、現実をありのままに受け入れます)朝念観世音(昨日は昨日、明日は明日、今日を命日と思って頑張って生きます)暮念観世音(今日も失敗をしてしまいました。済みませんと素直に謝ります)念念従心起(何もしないから無気力になる。一歩を勇気を持って踏み出します)念念不離心(いつも観音様と一緒です。だから私は孤独ではありません)
2010.06.18
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この間来、はからずも出版の裏事情を書いてきたが、ついに第一線の作家らが自ら電子雑誌を作り配信を始めました。代表者は、「こうした試みはいずれ誰かがやる。埋没しないため、書き手が生き残るためには、いま打って出るしかない」と語る。既存の出版社を通さず、書き手が直接、電子書籍を出す中抜きは、出版社の最も恐れる流れだが、それは出版社が書き手をないがしろにしてきたツケとも言える。書き手は、本がどれだけ売れたかを確かめる術もなく、出版社の言うことを一方的に信じるしかない。だから、ネットで売れ続けているにもかかわらず、印税が支払われないということも起きる。電子出版時代になったら、何部売れているかをリアルタイムで知ることはたやすいことであり、書き手も確認できるようにして欲しいモノだ。また、書き手の印税が本来の10%から、8%や6%にと削られる傾向にあるが、それにも歯止めがかかるようになって欲しいモノだ。10万部とか100万部出るのは希で、一般的にいって、ビジネス書なら初版3千部で5千部も出ればOK、一般書なら初版数千部で2万部も出ればOKの世界です。すると、1400円の本を出しても、書き手の取り分は10%の印税をもらったとしても、3千部で42万円、5千部で70万円、1万部で140万円に過ぎません。印税が6~8%なら雀の涙です。2,3ヶ月、精魂込めて書いてこれが現実です。よほどの人気作家でなければ、年に1冊がやっとですから、今NHKでやっている「ゲゲゲの女房」ではないが、本を出すだけでは食っていくのも難しいといえます。電子出版になると、販売価格は紙の4分の1位に下がるが、取り分(印税相当分)が6割程度になるので、同じように売れれば、書き手の実質的な実入りは増えることになります。例えば、350円で60%の取り分とすれば、1冊当たり210円になり、5千部でれば100万円を超えることになります。出版社は、本気で良い商品を出すために書き手を大事にしなければ、読者からも書き手からも見放されることになるのは明らかです。
2010.06.17
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止悪行善を実践するために「今ある状態を正しく理解すること」と「どうあるべきか」が仏教の問題意識であり、原因の探求と対処、そして解脱への修道を目的とするのが仏教の本来の教えです。仏教を修めるために「戒・定・慧」の「三学」があるが、「戒」は自我をよく制御抑制し、心の善行為の発動根拠となる、つまり自己向上のための意志であり誓いであり願いです。その戒を持すことが出来ていなければ当然禅定を修めることなど出来ず、仏の智慧を現前することなど出来るはずがありません。日本の仏教(大乗仏教)では、極端に言えば「南無阿弥陀仏」とさえ唱えれば極楽にいけると教えてきたが、これでは冒頭の義母のように何もお釈迦様の教えを理解せず、従って実践もしない、エセ信者になってしまいます。お釈迦様が「因なくして果なし」と言ったように、実践無くして結果を得ることは不可能なことです。大切なことはお釈迦様の本来の教えを知り、それを少しでも良いから毎日の生活の中で実践し続けることです。そうすれば、心安らかに生きられるし、商売も繁盛することになります。だが、お坊さんからお釈迦様の教えを聴いたこともないのが現実です。
2010.06.16
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ジーンズが欲しくて始めて近くのユニクロを利用しました。信用して詳しく調べなかった私も悪いのだが、こんな商品を店に並べている店舗もどんなものでしょうか? これで良品?メールで聞こうと思っても店舗にはアドレスもなく、店まで来いだもんね。失望店に行ったら、わざわざこんな加工をしているという。私は古いんですかね?
2010.06.16
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檀家から「義母は、四国や高野山へも参拝し、寺の行事などへも積極的に参加しています。毎日、仏壇にお茶湯やお花、線香やロウソクなどのお供えも欠かさずお勤めもしています。しかし、近所や身内との争い事は絶えず、常に不平を申しております。それは、私に対しても同様です。ご先祖と私たちへの態度の違いに、どうしても仏教、お大師様の教えはどうなっているのだろうかと、信心の薄い私はいつも疑問に思ってしまうのです」と相談を受けたそうです。よくありがちな嫁姑問題ではあるが、その本質は「仏教、お大師様」の教えを普段の生活に生かすことが出来得ていない現実が垣間見えてきます。これが、私たちの現実の姿ではないでしょうか?仏教の在り方の「本質」を端的に表したのが『七仏通戒偈』【=「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」(諸々の悪事を成すことなく、率先して多くの善行をなせば、おのずからその心は浄らかになる。これが諸仏の教えである)】で、自発的な止悪行善を実践すること、つまり戒律を持することによって心を清らかにして行くことが本来の仏教精神のはずです。だが、その「本質」を理解する機会もなく、従って実践できていないのが私たちの現実です。
2010.06.16
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イタリア人は、うまいメシを食ってうまい酒を飲み、大声で歌って、恋をすることが人生にとって一番大切なことだと考える。そして、人生いまわの際に、どれだけ「ああ、面白かった」といえるかが人生にとっての最終決算だと考えているという。あの世には何も持っていけないのだから、最後に「私は面白い人生を送った」と思えるか否かはとても大切なことだと思います。社長や有名人になったとか、お金を儲けたとか勲章もらったとかじゃなくて、あのときにとても楽しい思いをしたとか、いい人と出会って人生の厚みが増したとか、もちろん遊ぶことだけではなく、仕事をとかいろんなことを通してそういうふうな意味合いでの貯金がどれだけできる生き方をしたかは、幸せを感じるうえでとても大切なことだと思います。人生には「いま」しかありません。楽しんだ「いま」の蓄積が過去であり、将来も「いま」何をするかで決まります。あなたの人生を楽しく変えられるのは、「いま」というときしかありません。でも、ただ単に「いま」を刹那的に極楽チョウのように楽しめばいいというのではありません。今日は、明日に続く今日なのです。そう考えたとき、自ずと今日の楽しみ方も違ってくるはずです。
2010.06.15
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小惑星探索機「はやぶさ」が7年60億キロの旅を終えて帰ってきました。いろんなトラブルにも見舞われながら、無事に帰還。イトカワの砂を持ち帰ったかどうかは別にして夢がありますね。それに引き替え人間どもは、あいからず世界中でいがみ合い、憎しみあい、争いが絶えません。菅さんもいろいろな試練が待ちかまえているが、「はやぶさ」のようにうまく解決して、成果を出して欲しいものです。そして、拍手を浴びて、惜しまれつつ退陣して欲しいですね。でも、日本の政治家で、罵声ではなく、惜しまれて送られた人がいましたっけ?新聞の週刊誌の広告を見る限り、今回もなかなか難しそうですね。政治の中身ではなく、裏ネタばかりを報じる週刊誌も虚しいものだが、それも喜んでみる読者=国民がたくさんいるからなのでしょうが?「はやぶさ」が見たイトカワの映像が見られますhttp://spaceinfo.jaxa.jp/hayabusa/movie/story02.html
2010.06.14
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進行性筋ジストロフィーに小さいころにかかると、大人になるまで生きられない人が多い。そんなに辛い病気なのに、8歳の少女は「私は自分の病気が、どんな病気なのか知ってるよ。だけど、今朝目が覚めたら、まだ私の腕に車いすを動かす力が残っていたからうれしい」と笑顔で語る。療養所での長い生活の中で、幼いころから同じ病の人がいつの間にか目の前からいなくなる現実の中で、死の恐ろしさとこの幼さで向かい合い、限りある命なら今日一日を大切に生きていこうとするかのような少女の姿には胸を打たれるものがあります。同病の若者たちのバンド練習風景にも、胸にこみ上げてくるものがあります。体が前に倒れるので、胸のところを幅の広いベルトで止め、ドラムをたたく若者。床に座らせてもらい、ギターを抱えるようにして弾いている若者。そこには命の輝きがある。彼らの演奏には、彼らがもっている生きる情熱を感じます。それに引き換え、五体満足な私たちは、「今日という日の命」を粗末にしているように思えてなりません。「いま」という日を、もっと大切に生きていきたいものです。
2010.06.14
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勤続25年目のサラリーマンが、会社から旅行券をもらって夫婦二人で2泊の旅行に出かけました。妻は、結婚以来の我が家の出来事を思い出すためにアルバムを持って来ていた。写真を見ていた妻が、気がついてみると夫婦二人だけの写真がないと突然泣き出した。1年に4,5回、郷里に帰ったとき以外どこにも旅行もせず、とくに美味しいものを食べることもなしに今日に至った・・・と、神庭遊著『サラリーマン休日講座』の冒頭にありました。いつも何かに追われ、楽しみを先に延ばしてきた。家を建てるため、子供の教育のため、子供の結婚資金のため、それが済んだ頃には老後のためにと、楽しみは先に延ばして始末し続けてきた。先憂後楽の思想は、貧しかった頃からの日本の伝統的な思想で、こんな思いの方は多いはずです。でも、人生には「いま」しかなく、「いま」の連続が人生そのものです。「いま、ここ」を楽しまずに、いつ人生の楽しみ、心の豊かさを味わうことができるのでしょうか? それは何も、刹那主義を勧めるのではありません。明日はもっと良くなろうと努力することは大切だが、今日という日に感謝し、もっと「今」を心豊かに生きていくことも大切です。
2010.06.13
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40代の後半に、「後5年したら、桜前線を追いかける旅をしよう」と友達と約束した。後5年という設定に特別な意味はなく、それは「いつかはきっと」と同意語であり、5年もすれば今よりもゆったりと暮らしているだろうという淡い願望でもあった。ところが、5年たって今、その友はもういない。その友は、病院のベッドで、「もう少ししてからでも十分に間に合うと思っていた。だから、したいことを後回しにしてきた。“いつかはきっと”って」とつぶやいた、と作家の落合恵子さんがエッセイに書いてみえました。子供の頃、「いつかはきっと」「大人になったら」をポケットにいっぱい隠し持っていた。それは同時に、終戦直後の貧しい今日を明日につなぐ励みでもあった。そして大人になってからも、多くの「いつかはきっと」があった。そうやって今より幸せな明日を夢見て、「今、したいこと」を我慢してきました。それを繰り返している間に、いつの間にか人生の黄昏に臨んでいる人も多いことと思います。一番好きなものを最後まで取っておくなんてしないで、「今、したいこと」は今やるに限ります。人生に明日はない。今楽しくなくて、いつ楽しむことができるのでしょうか?
2010.06.11
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首相が替わると当座は支持率が跳ね上がるが、これは有権者が新しい首相に希望を抱いたよりも、「希望を持ちたい」という淡い期待だと思う。(そんな淡い期待も裏切られ続けてきたが)リーダーに求められるのは、思いつき的な施策や、政策につながらない空論ではなく、明確な将来ビジョンを示し、それを実現するための課題と具体策を体系的に示し、国民が納得するように説得する力だと思います。ところがまた、菅さんが訴えるのは「最少不幸」などという語感からして暗い、何かわかったような、わからないようなスローガンです。世界の偉大な指導者たちに共通したのは、ルーズベルトが「恐れなければならないのは、恐れることそのものである」と言ったように、「リスクを恐れず、思い切って、これ、これをすれば、将来は必ず今より良くなる」といった前向きな姿勢です。国民の75%が「10年後は今より良くなっているとは思わない」と将来に不安を抱いている今日、菅さんに求められているのは「これをやれば絶対に今より良くなる」という具体策を提示し、国民を鼓舞することではなかろうか?そんなとき、また亀井さんが辞めるようだが、連立の小政党に振り回されることなく、政策を明確に示して国民を動かし、それを背景に議会を動かし、選挙戦を戦っていって欲しいと思います。選挙とは、もともと政策の実行を期待して選んだのであって(現実はそうでもないが)、ねじれを克服するために少数の支持しか得られなかった政党にかき回されるのでは本末転倒で、もっと毅然たる態度をとるべきであろう。国民も、それを指示するようになってほしいものです。もう一つは、政治家も政治家だが、マスコミもマスコミで、政策論争もほどほどにしておいて、政治家の資金団体がマンガ代やマッサージ代を計上していたというようなことを、まるで鬼の首でも取ったように大きな紙面を割いて得々と報道していることです。政治家の姿勢を正すために、それを国民に知らせることは大切だが、いつもそんなことばかりが大きく取り上げられ、本来の政治が疎かにされ過ぎることには疑問を感じずにはいられません。誰それを支持するとか、何々党を支持するとかが最初にあるのではなく、「みんなで居心地の良い社会を創る」ための未来像と、それを実現するための課題と対策をまず明確に示し(マニフェスト)、その示された政策の実行を期待して人を選び、党を選ぶという姿勢が大切になります。(日本の置かれた現状は、柔らチャンや野球選手などの人気投票的な選挙にうつつをぬかしているときではないのです。それだけ、国民のレベルをバカにされているともいえます。)そのうえで、それを先頭に立って推進するために最適任者のリーダーを選ぶわけだから(間接にではあるが)、そのリーダーの実行に向けての頑張り具合を見守りつつ、自分達も努力していくというスタンスが大切だと思います。先日紹介した小学生の投書ではないが、批判だけでなく前向きな応援もしたいものです。いろんな方の視点を参考に珍しく政治的テーマを取り上げましたが、このところの怒りやイライラがこんなところにもつい飛び火してしまいました。
2010.06.11
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この世のことは『一寸先は闇』で、未来はどうなるかわからないのだから、喜びや期待に胸を膨らませばいいはずなのに、なかなかそうはいきません。多くの人は、まだ起こらない先のことを憂い心配する傾向があります。心配とは、「未来に対するマイナスの先取り」です。「大丈夫だろうか」、「失敗しないだろうか」と心配すればするほど、物事は心配した通りの方向に導かれていくものです。そして、いざ失敗すると、「やっぱり」と、さも自分の予測が当たったように納得してしまいがちです。人間が心配する癖を持つのは、過去に失敗した苦い体験の記憶が強く残っているからです。そしてまた、人は自分の死が未来に必ず起きることを知っているが故に、未来に対して不安を抱きやすいからです。昔の人は、『今日に誠を尽くせば未来はきっと良くなる』ことを生活身上としていました。今あなたが「何を思い、何をなし、何をなさないか」によって、あなたの未来は築かれていきます。つまり、今日の生き方が明日以降の人生を創ります。そういう自覚で生きていれば、わからない先のことを心配するよりも、今日の務めに精一杯取り組むことができるはずです。
2010.06.10
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皆さんには残念ながら出版社とのバトルライブ中継はなくなりそうです。出版が7月から10月に延期されたことを除けば、ほぼ逆転全面勝訴です。今度の原稿にも「不良老人バンザイ」と次のような一節を書きました。「命長ければ辱多く、長くても40歳にならぬうちに死ぬのこそ格好いい」と兼好法師は徒然草七段に書くが、この頃では長生きをすると恥だけでなく辱めまで受けかねません。そんな世の中、人生50年の頃の40歳は、今の時代の65歳ぐらいではなかろうかと思うが、70歳ぐらいまでにポックリ逝けたらと思う人も結構多いと思います。だが、この世で死にゆく不良老人ほど強いものはいません。後のない者に、怖いものなんか何もありません。先のことを考える必要もないのだから、なんだって言いたいことが言えるし、やりたいこともやれます。「不良老人バンザイ!」です。年寄りを邪魔にするのなら、一層、そうやって開き直って、やりたいことをやってみるのも、年寄りの特権ではないでしょうか?まさにこの通りを実践しました。皆さんも、筋を通し、言いたいことを言い(無理押しはダメですよ)、やりたいことをやりましょう。
2010.06.10
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ある男が王様の怒りをかい、死刑を宣告された。そこで男は、「王様が大切にしている馬が空を飛べるようにするから命を助けてくれ」と嘆願した。王様は、「一年以内に馬が空を飛べたら、お前を許してやる」と一年間の猶予を与えた。男は喜んだが、囚人仲間は「馬が空を飛ぶことはない。一年後に死刑になるに決まっている。お前はバカだ」と言った。しかし男は、「ひょっとしたら、一年以内に王様が死ぬかもしれない。あるいは、一年以内にあの馬が死ぬかもしれない。それに、一年以内に俺が死ぬかもしれない。だから、俺は喜んでいるのだ」と言う。こんなユダヤの童話があるが、私たちは、どうにもならない遠い明日のことまでを考えて、あれこれ悩みがちです。仏教では「人生は苦なり」と教えるように、この世はどうせ苦の連続、明日のことまで取り越し苦労をせぬことです。キリストも「明日のことを思い煩うことなかれ。明日のことは、明日自ら思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と言うように、明日のことなど悩んだところでどうにもならないのだから、一日、一日、その日の苦を凌ぐだけで十分だと思います。
2010.06.10
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お坊ちゃん宰相が「もう辞めた!」と会見もなく投げだし、新しい内閣の顔ぶれが新聞紙上を賑わしているが、パット見て「あれ、何か東大・京大卒が多いな」というのが印象です。東大・京大卒のエリートたちは頭(記憶力)はよく、論客としては良いが、行動力は今ひとつ期待できないのではないかと思ってしまうのは、私の偏見でしょうか?彼らは、出来上がった仕組みをそつなく運用するのはうまいが、変革には弱いように思ってしまうのです。これが、私の思い過ごしでなければいいのですが。ところで、7日に本の出版が決まったと思ったら、編集長が私の6月4日付けのブログを読んでへそを曲げられ、出版の雲行きが怪しくなってきました。口は災いの元ですかね。でも、この歳になると言いたいことも言わないでおくと、「物言わぬは腹ふくるる思いする」では無いが、体に悪いので何でも思ったことを言うことにしています。この歳になれば、損得勘定も失うものもなく、命さえも惜しくはないのだから、ある意味では年寄りを敵に回すほど怖いこともないかもね?なんせ、閑な身にはトラブルも一つの娯楽のようなもので、一つこれを楽しんでやろうと思っているのですから。まあ、これで出版取り消しになるようでしたら、ライブ中継なみにブログに書きますからお楽しみに。それともう一つ。ガン闘病中の方が腰痛にもなり、こんなメールが届きました。ここひと月 ベッドと車椅子の生活です。後ろにこけたのは3月末!痛いときはあったのですが、日常生活に差し支えることは無かったのです。ところが、5/4に突然歩けなくなったのです。仙腸骨腰痛といって珍しく、治り難いようです!1週間前は杖で15メートル位歩け体も軽かったのですが少しのことが私にはオーバーだって戻ってしまいました! 動けないのはホントに辛い!がんナンカドウデモヨイはやく動けるようにして。(中略)どういう姿勢をとても車椅子も寝ても痛くてまいります!安楽死薬がほしい!何年も寝ている高齢者はどんなに辛いでしょ!!若い人は元気になって生きてもらわないといけませんが、70近くなるともう早く楽に死にたいだけです!西洋医学は間違いです。人生の終盤★ただでさえいきにくいのに、益々苦しめている。もっと状況を考えて、対処してもらわないと、社会も閉塞状態です!みんな長生きすることに恐怖感もっています!これも一つの考え方で、同じ歳の私にはよくわかります。私自身も、独りで何もできなくなったら自分で始末を付けたいと思うことがあります。◆嵯峨野にもホタルが飛び始めました 週末にはホタル狩りでもいかがですか?
2010.06.09
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親鸞上人が得度しようとしたとき、夜も遅かったために、周りの人に「明日になさいませ」と言われ、「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」と詠みました。「桜は明日も咲いているから、今日は止めて明日見に行こう」と思っていると、夜半に春の嵐が吹いて散ってしまうかもしれません。自分も明日は当てにせず、今できることは今しておきたい、という意味です。誰にも怠け癖があり、つい生き方が甘くなりがちです。やろうと思えは直ぐにできることでも、何かと理由をつけて(嫌なことほど)後に延ばそうとしがちです。そうすればするほど事態は悪くなり、何事も上手くいかなくなります。「いまというとき いまはなし まの字来たれば、いの字過ぎゆく」という古歌があります。「いま」の「ま」の字を発音をしたときには、「い」の字はもう過ぎてしまって帰ってはきません。それほど時は貴重なものであり、総ての機会はあっと言う間に通り過ぎて行きます。ときは今 所は足元 そのことに打ち込む命 永遠の御命 増上寺椎尾法王
2010.06.09
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「過ぎ去れるを追うことなかれ、未だ来たらざるを念がうことなかれ。過去、そは既に捨てられたり。未来、そは未だ到らざるなり。されば、ただ現在するところのものを、そのところにおいてよく観察するべし。揺らぐことなく、動ずることなく、それを見極め、それを実践すべし。ただ、今日まさになすべきことを熱心になせ。たれか明日、死のあることを知らんや」と一夜賢者経は諭します。過去は帰ってこないし、未来はわからない。とすれば、過去を悔やむことなく「今日が最初の日だ」と考えて希望を持って取り組む。「明日がある」と思わずに、「今が自分の最後だ」と考えて全力を投入する。この「今」というものは時間であり、生命でもある。今という時間は常に過ぎていくものであり、今という生命は再び現れることはありません。だから、私は念仏の「念」とは「今」の「心」と書くように、人間の生命そのものではないだろうかと思います。たった一度の人生なのだから、過去にとらわれたり、取り越し苦労ばかりして、暗闇の人生を歩いていてはもったいないと思いませんか。誰かは忘れたが、「人生は微笑を作り出す道場だ」という言葉が忘れられません。
2010.06.08
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過去のことをふりかえり、教訓を見出すのは、賢明なことだ。しかし、過去を生きるのは 賢明なことではない。それは、現在の自分を否定することだから。未来のことを考え、準備するのは、賢明なことだ。しかし、未来を生きるのは、賢明なことではない。それも、現在の自分を否定することだから。そして、自分を否定することは、何よりも大事なものを否定することだ。 スペンサー ・ジョンソン『人生の贈り物』あなたは、思い通りにいかなかった過去を悔やみ、どうなるか分からない未来を思い患っていませんか? だが、「今という一瞬」を大切にしておれば、明日になれば「昨日という過去も」大切にできたことになり悔いることもないはずです。未来も遠い明日にあるのではなく、今「何をなし、何をなさないか」に掛かっています。結局、『今』を大切にすることなしに、あなたの人生を何一つ変えることはできません。今あなたが幸せなら、明日になれば明日という今も幸せなのですから。
2010.06.07
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1年以上前から、ガンで闘病生活を送っている高校時代のマドンナがいます。この1年、メールのやりとりをしたり、帰省したときには会ったりしています。ずっと気丈に明るく振る舞っていた彼女から、こんなメールが届きました。ここひと月 ベッドと車椅子の生活です。後ろに転けたのは3月末!痛いときはあったのですが、日常生活に差し支えることは無かったのです。ところが、5/4に突然歩けなくなったのです。仙腸骨腰痛でめずらしく、治り難いようです!1週間前は杖で15メートル位歩け体も軽かったのですが、少しのことが私にはオーバーだって戻ってしまいました! 動けないのはホントに辛い!ガンなんかどうでもよい早く動けるようにして。彼(旦那)の負担がどんどんふえて手一杯なので、彼もいく整体しかいっていません。どういう姿勢をとっても車椅子も寝ても痛くてまいります!安楽死薬がほしい!何年も寝ている高齢者はどんなに辛いでしょう!! これに応える言葉が見つかりません。安易な言葉なんて何の意味もなしません。思いやりとは、相手の立場に立って対応することだが、悲しいかな、人間実際に同じ目にあってみないと、本当にどんな気持ちなのかを想像できません。下手な想像で対応しても、それは思い上がり。いい加減な言葉は返せません。いま、自分が試されているとき。そこで、下手な言葉を送る変わりに、来月出版する著書(企画会社と衝突しているのでどうかな?)に彼女のメールの一部を掲載したいと了承を乞うメールを送ったところ、気持ちよく了承を戴きました。私のブログが自殺まで考えた人の心に届いたように、「きっとあなたの言葉も 誰かの心に届くものと思います。それは、あなたが何倍にも生きること」という激励とお礼のメールを送りました。彼女の本音の言葉が、キッと誰かの心に届くはずと確信しています。
2010.06.06
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そういう私たちも、人生のいろんなことを経験しながら、うまくゆくこともあれば、うまくゆかないこともあるという現実を、人間として成長、成熟する縁として受けとめることができるようになると、「今」、「今日」を生きるという世界を理解できてくるのではないでしょうか?命の充実を目指すお釈迦様の智慧の世界があって初めて、本当に豊かな人生、人間に生まれて良かった、生きていて良かった、そして生きるも死ぬもお任せしております「南無阿弥陀仏」となってくるのだと思います。そういう「今」、「今日」の積み重ねが結果として1週間になり1ヶ月になり、1年になり10年になってゆくわけです。もう「今」、「今日」しかないんです。そういうふうに、私たちは仏法を通して教えていただくのです。こういうことを、言葉を通して頭で理解することはなかなか難しいことです。お坊さんに「なぜ南無阿弥陀仏なんですか」と質問したら、「なぜ南無阿弥陀仏かは説明できない、数学のように1+1=2というふうには説明できないものなんだ。大きなものにぶち当たって感得するしかありません」と言われました。悟りとは、言葉ではなく、まさに修行と感性で感得する世界なんですね。
2010.06.06
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近代漆芸の名工松田権六は、「欠点の指摘は、発展や繁栄策とはならない。どうすれば作品が良くなるのかの予測を言い当ててこそ尊い真の批判で、この批判こそ創作につながる」と言い、「(岡倉)天心先生の批判は具体的で建設的であり、どこどこが悪いといった欠点の指摘は滅多に言わなかった」とも言っています。日本人は、企業内でもそうだが、欠点や問題点を論って相手の足を引っ張るだけで、ではどうしたらいいかという提案がないのが普通です。欠点や問題点は誰にでも簡単に批判できるが、対案がなければ進歩はありません。普天間の問題にしても、鳩山さんを批判はするが、ではどうするかという対案はなく、知事会にしても大阪知事を除いて誰も当県が受け入れるとは言わない。これでは、何も解決しません。十五歳の高校生の投書に、鳩山さんが辞めるにあたって、「苦心の末に出された政策のあら探しばかりして『有り難う』を言わない国民は、一生懸命に働く母親に文句ばかり言う子供のように見えた。ダメ出しは遠慮無くぶつけておいて、ああして欲しい、こうして欲しいとわがままを言いっぱなしにするのは、無責任すぎる。完璧な政策なんてあるわけがない」とあったが、その言や由、拍手を送りたい。そのうちすぐに、また菅さんの欠点をあげつらうことになるのでしょうね?◆ドクダミで吸い出しでもつくって貼ってみますか?
2010.06.05
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あるお坊さんは「朝起きた時、ああ今日の命がいただけた、今日の命が誕生したんだ”南無阿弥陀仏”と一日の生活をスタートさせていただく。そして今日が終わる時に、今日これで私の命が終わるんだ”南無阿弥陀仏”で休ませていただく、こういう一日を繰り返すことが大事だ」と仰っています。もし目が覚めなかったらそれでお終いだが、運良く明日の朝また目が覚めたら、また今日の私の命がいただけたと精一杯生きさせていただく。そこに、一日一日を本当に大切に生きるという姿勢が生まれてきます。別のいい方をすれば、取り越し苦労、持ち越し苦労をここで区切る訳です。そうやって「今日」という区切りを持つことが、「今日」を大事にすることにつながっていきます。私たちは、どうでもいいようなことも一杯抱え込んでしまいます。彼奴はこんな事を言った、今日はあんなことをしてしまった、明日こそ幸せになるぞ、これが上手くいったらもうちょっと楽になるぞ・・・などと、過去や未来のことばかり考えがちです。プラス価値を上げてマイナス価値を下げることが人生だと思って、そういう物差しで一生懸命に頑張って行くと、結局は残念無念、不幸の完成で人生を終わってしまうことになります。
2010.06.04
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この2日間、来月出版予定の原稿校正に追われていました。以前にも書いたが、企画会社の用をなしていず(校正指示が「漢字を平仮名に」とか「テニオハの使い方」など重箱の隅を突くようなものだけで、内容に対するサジェッションは一つも無し)、これは本来なら出版社の編集部員がやる仕事であり、なぜ自分の印税を割かなければならないかとイライラしてくる。出版業界では97年以降売上の減少が続き、出版不況と騒がれています。その原因としてあげられるのが、活字離れ・娯楽の多様化・少子化などが挙げられ、売れなければ点数を出そうというのか多品種少量化が進んでいます。その結果、出版企画を生業にする会社が目立つようになりました。本を出したという人は沢山いるので、書き手を食い物にしている随分と酷いところも知っています。でも、これらの原因としてあげられているのは外部要因ばかりですよね。外部に原因を求めても何にもなりません。活字離れというが、紙媒体による活字比率の低下はあるかもしれないが、メールやブログ、メルマガ、ネットなどによる文字による情報伝達は増えています。娯楽の多様化や少子化にしても、高齢者は増え続けています。高齢者の娯楽として本を最適です。高齢者はネットよりも紙媒体の方が親しみやすいはずだが、それを意識した本作りはなされていません。ネットや電子出版など、情報発信が多様化する中で、出版社が生き残るには当たり前のことだが商品の充実しかないはずです。それには、ターゲットを明確にし、そのターゲットのニーズを的確につかみ、紙でしか出せないものを出していくしかありません。例えば、今回出す本は高齢者向けだが、若い人が担当していると見えて、年寄りのことがわかっていない。もう一つは著者を大切にすることです。この頃のように、出版社が印税を出し渋るようでは良い書き手は育ちません。私がビジネス書を出している所など、5年以上前に出した本がネット販売では未だにベストセラーのはずなのに印税を一度も受け取っていません。(たまに売上を当社の税理士に確認させますと通知すると振り込みがあるときもある)また、今回のように出版社のコストダウン策としか思えないような行為(企画会社に丸投げして著者の印税から出させる。元原稿そのままなのに私の取り分は6%)が目に余るようでは、そうしたら、大手出版社は企画力もないくせに、社員の給料だけは高く、著者の印税は8%(本来10%)に抑える例も普通に出ている。売れる本を出して交渉力を高め、著者に還元したいと印税20%を目指し設立された出版社の記事を見つけました。頑張って欲しいモノです。
2010.06.04
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「過去や未来に縛られる」とはどういうことでしょうか?それは、持ち越し苦労(過去)、取り越し苦労(未来)をすることです。過去のことを持ち出してうじうじ言うのが持ち越し苦労、その一方でまだ来ていない未来のことをいろいろ心配するのが取り越し苦労です。ある年齢になると同窓会が盛んになるが、過去のことを振り返って自慢したり、あの時ああしとけば良かった、こうしておけば良かったという話に花が咲き、出来ることならやり直しをしたいという思いが切々と伝わってきます。もう終わったことには区切りをつければいいのに、どうしても持ち越し苦労をして愚痴を言いがちです。それは、「今」を生きていない証拠です。 私たちは、「今、ここ」に集中することがなかなかできなくて、過去や未来を行ったり来たりしがちです。そして、「気づいてみれば、あっという間に50年が過ぎたわ」、「もう60年が過ぎたわ」などと嘆いています。お釈迦様は、「人生は”今、只今”、”今日”しかない。過去や明日のことは考えずに、いま目の前のことに全力投球をしろ」と説くが、では、「今」という時間を十分に受けとめるためには、どうしたらいいのでしょうか?
2010.06.03
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またまた首相が8ヶ月で辞任。軽い宰相をもった日本の悲劇は何時まで続くのでしょうか?いま日本は、企業経営で言えば日航どころではなく、とっくに破産しています。なにしろ売上の倍以上の支出で、気の遠くなるような積もり積もった借入金があるのですから。私は企業変革のお手伝いをしてきたが、いま大切なのは、耳に心地よい言葉ではなく、待ったなしのV字回復への執念深い確実な実行力です。知っていても 行わなければ知らないのと同じ。行っていても 成果が出なければ行っていないのと同じ。いま必要なのは、「知行果の一致」であり、知を言葉で説得し、言葉と行動と成果の一致を図ることです。日産自動車を立て直したカルロス・ゴーンさんは、「集中力や信念の強さ、せっかちなことが自分の特徴だと思う。せっかちは、状況次第では強みにも弱みにもなる。会社が迅速な変化を求められている危機的な状況では強みかも知れない」と言うが、そのせっかちさが日産を急激に立ち直らせる原動力にもなったといえます。今度の首相には、着想大局、着手小局(大局的に物事をとらえ、小さな事を疎かにせず確実に実践する)ができ、ゴーンさんのようにせっかちに成果を求めるな人を期待していますよ。◆珊瑚の産卵
2010.06.03
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仏教が教えているのは、今日が目的であるような一日として、「いま、ここ」を大切にどう過ごすかという智慧です。 私たちは、今は満たされていないが、明日こそ満たされるだろうと思って生きています。つまり、欲しい物を手に入れれば満足だという発想です。英語で言えば“I want”という表現になります。“want”を辞書で引いてみると、動詞で「欲する」「したい」、名詞形で「必要、不足、欠乏、貧困」とあります。今が不足、今を不満と思っているから明日がないと困るわけです。「明日こそ満たされるだろう」という未練があるから死にきれないのです。今、出会うべきものに出会っていないから死にきれない。明日こそ、それが実現できるだろうと思う。もしこの不足、不満の状況が50年続いたら満足に行き着くでしょうか。千年生きても、千年間不足、不満、欠乏が続いただけだと思います。それを、私たちは満足の状態に行き着くだろうと考え違いをしているわけです。 お釈迦様は、考え違いをして智慧のないあり方(無明)をしている私たちに、「小さな殻を出て、大きな世界を生きよ」と呼びかけ、命と智慧を届けようとされているのです。
2010.06.03
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私たちは普通、生きるということを、幸せを目指して生きるというように考えます。そうすると、幸せのためのプラス価値をできるだけ増やすと同時に、幸せのためのマイナス条件を下げてゆけば、きっと幸せになれると多くの人は思っています。健康はプラス、病気はマイナス、役に立つことはプラスで、役に立たないことはマイナスです。役に立つ人は良い人で、役に立たない人間は良くない。体が若々しいのは良いことで、老いることはできるだけ先送りしたい・・・。しかし、こういう価値観は必ず老・病・死につかまります。こんな生き方では、老いることはマイナス、病むこともマイナス、死ぬこともマイナスだから、最後は不幸の完成で人生を終わることになります。パスカルが『パンセ』の中で、「明日こそ幸せになるぞ、明日こそ幸せになるぞ、と死ぬまで幸せになる準備ばかりしている」と書いています。言われてみればまさにその通りです。私たちは、今頑張っておけばきっと明日はもうちょっと良くなると期待して生きてきました。明日が目的ということは、今は明日のための準備なんだという気持ちがあるわけです。私が「今」いるここは、明日のための準備、手段、方法の位置にあるということになります。
2010.06.01
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