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・7,31、土月曜日から毎年夏恒例の、滋賀県五箇荘に二泊する。ここには、妹夫婦が古民家を買い取り自分たちで長い年月を掛けて改造して、別荘というか遊びにしている家がある。江戸時代ぐらいの家らしいので、その時代の生活に近い雰囲気を出すためにテレビ、ラジオはなし、囲炉裏があって便所は外。周りには近江商人の古い屋敷が建ち並び、少し車で行けば琵琶湖で泳ぐこともできる。いつもそこに行っては母や妹と話したり、何をすることもなくボーッとする。琵琶湖にはこの間行ったばかりだが、こちらでは獲られない「陰」をたっぷりもらいたいと思う。しかし熱中症と冷えには注意。昔はそんなこと全く考えずに過ごすことができたものだが。ということで、月曜日から三日間日記はお休みとします。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2010.07.31
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・7,30、金朝の女性合唱団で、続けて金子みすずの曲集の譜読みを進める。今日新しく見たのは「おもちゃのない子」という詩に付けられた曲。文章自体はとても簡単で優しいもの。しかしその内容ときたら、またまた読み切れない深い何かがある。難解と思うのは僕ぐらいかもしれないが、安易に浅く解釈しては危険ではと思わせる。ある団員さんが、ネットでみすずのことを調べて下さった。その中の記事で、彼女の実の弟のことがひっかかるとおっしゃる。この男性は、後にある劇団の創始者として大活躍する人物であるが、まだ小さい子供のころに養子に出され、みすずが実の姉であることを知らずに大きくなる。どうやらこの弟が、ずっとみすずに心を寄せていたという噂もあるらしい。みすずが結婚するときにも大反対して、みすずの夫とも犬猿の仲であったらしい。でももし、みすずもこの弟に心を寄せていたとしたら、解読不可能な彼女の詩もすらすら読み取れる気がする。生まれてすぐ引き離された兄弟が、愛し合うことがあっても不思議ではないと僕は思う。これは今我々の中の勝手な想像である訳だが、そこから壮大なロマンスが広がり、曲に取り組む勢も出る。彼女が自らの命を絶たねばならなかった理由も、その辺に隠れているようにも思える。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2010.07.30
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・7.28.水久しぶりに朝曇っていたので、犬の散歩に行く。少しましにはなって来ているが、未だ腰が痛み元気が出ない。午後と夜のレッスンの間に、NSKのことである人と電話で言い合いになりどっと疲れる。皆それぞれのやり方と考え方で生きており、団体で行動しようとする時に考えが沿わずぎくしゃくすることとなる。しかし黙っていても、また大事故の元となるから難しい。夜のレッスンに、作曲を勉強するべく東京の音楽大学に入学した生徒さんが、久しぶりに歌いに来て下さった。大学に入っても、なお声楽の勉強に力を注いでおられる。将来は是非歌曲やオペラ、合唱曲などを多く作曲して欲しいと望む。レッスンがすべて終了したころには、気が付けば腰の痛みがましになっている。昨日の治療が、少しずつ効果を見せていると考えたい。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2010.07.28
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・7.27.火日曜日ぐらいから腰が痛み、今日には動くのさえ難しくなって来たので、河内長野駅近くの整骨院に朝から出向く。こういう情況の場合はたいがい寝冷えが原因だろうと思っていたが、予想に違わず冷えが原因だということである。この先生もやはり鍼と灸で胃腸を整え、冷えをとって、その後骨を整えるという治療。治療を受けている間、流れて来るラジオの番組に耳を傾けていた。四人の専門家(動物園の飼育係・恐竜の研究者・星座の研究者・植物の研究者)がスタジオに待ち構え、子供たちからの電話を受け、彼らの様々な質問に答えるという番組。ほとんど8歳ぐらいまでの子供たちからの質問。まず「図鑑の中の恐竜たちは色が付いているけど、恐竜をみたこともないのにどうして色が分るのか?」という質問。なるほどと感心する。我々大人はなかなかそんなところの矛盾に気が付かない。「顎の骨の形を見て、それが肉食か草食かを見て、其々の生息する場所から色を想像して塗った、でもあくまでそれは想像である」という答えだった。次は「あと20年後に小惑星が地球に衝突するかもしれないという話を聞いたけど、本当なのか?」という質問。「もし本当に衝突したら、原爆の何百倍の被害となる、でも衝突するか逸れるかはまだ今の段階では分らない」という答え。「かみきり虫はどうしてかみきり虫という名前が付いたの?」という質問には「この虫の名前はかなり昔からあり、昔の人たちはこの虫に自分の髪を切らせて遊んだらしい、だから髪切り虫という名前が付いている、紙切り虫という字ではないのだ」という説明。その他にもいろいろあったが、子供たちの斬新な視点と、その説明につい聞き入ってしまった。その後阿波座に向かい午後、夜とグループレッスン。どちらも有意義なレッスンであった。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2010.07.27
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・7.24.土朝の女性合唱団の後、早道のつもりでいつもと違う路線で奈良に向かおうとして、一台乗りそこない余計に到着が遅くなり練習開始時間ぎりぎり。学園前西部公民館で、NSK混声合唱団。その後日本橋経由で帰る途中、駅の階段の場所が分らなくなりもたもたしていると「ご案内しましょうか?」と一人の女性に声を掛けられる。背は僕よりも少し高く、年はおそらく20代前半。「失礼ですがお名前は?」「茶木といいます、お茶に木曜日の木です」「あだ名みたいなお名前ですね」「よく言われます」「茶木さん、誰かを殺したいと思ったことあります?」「できれば会いたくないと思う相手は何人かいますが、殺したいと思ったことはありませんね、貴女はそう思うんですか?」「いや、私が今そう思っているんじゃなくて、役どころがそういう心理状態なんです」「演劇ですか?」「はい、芝居をやっています。でもどうしても誰かに殺意を抱くという思いに行き当たるまでの経過が、想像できずに悩んでいるんです」「なるほど、そうですね、殺意を抱くということは、裏返せば他人と自分自身の客体としての意識に、強い興味があるということじゃないかな?他人だけに、または自分だけに興味があるだけなら、殺意って存在しないんじゃないかな?」彼女は黙って考えていたが、何となく納得できないような感じに唸った。そんな風に会話しながら、我々は改札に到着した。「どうもありがとう」「私こそ変なこと尋ねてすみません。お気を付けて行って下さい」「さようなら」彼女と別れた後も、僕が述べた答えに付いてずっと考えていた。何だかとんちんかんなことを言ってしまったような後悔が長く続いた。その後家の最寄のバス停でバスを降りると、ほとんど夜の闇が迫っている時刻。この時刻の歩行が、一番危険を伴う。街灯はまだともっていない、でも辺りはかなり暗い。車が来たので避けたら溝に落ち掛け、その拍子に電柱に激突。目の脇に小さなタンコブができる。今日は何だか疲れた一日だった。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2010.07.24
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・7.22.木午後の奈良クラスの後、阿波座に向かいCAC混声合唱団。僕たちが子供のころは、夏に30度を超えると話題になったものだ。家にはクーラーなどという物はなく、扇風機だけで夏が越せた。京都の夏は格別湿気が多いが、20円のカップのアイスクリームと庭先の行水で何とかなった。しかし今日の移動中に思ったのは、湿気の多いこの日本で、これ以上気温が上がるといろんな問題が出て来るだろうことだ。どんどん熱帯化し、ゲリラ雨が酷くなり毒性の虫や爬虫類が繁殖する。皆クーラーが止められなくなり、余計に温暖化が進む。何十億年続いて来た地球の歴史が、たったこの100年ほどで大きく変わり、人も動物も住めない星へと進んでいる。この星で最も害のある生き物によってそうなった。その他の生き物は、深刻な皺寄せをくっている。まあでも、それも初めから決まっていたことなのかもしれない。誰かが書いたシナリオ通りに話は進んでいるのかもしれない。てなことを考えながら、焼け付く日差しの中を歩いた。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2010.07.22
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続いて、我々人間のエゴと常識の関係について考えたい。恐れるべきことは、群集の中で根を張る「常識」という観念である。我々自身も気が付かぬ間に、いろんな筋の通らないことが常識として根を張っている。例えば身近なことで言えば、タバコだ。僕が生まれた時からタバコの常識はそこにあった訳だが、男たちはもちろん当然のごとくあらゆる場所でタバコを吸い、吸殻を道路の上にばら撒いた。吸わない者は横で煙をじっと我慢し、灰皿を片付け続け、ほうきで道路を掃き続けた。何故なら、タバコを吸うことは世間の常識だったから。召集令状を突きつけられた若者たちは、文句も言わずに戦地に送られた。親も一言も国に対して意見することもできず、我が子を死に送り出した。何故なら、お国のために命を投げ出すことは常識だったから。誰も常識に歯向かうことはできない。何時かテレビのフィルムで見た、二度と戻ることのないゼロ戦に乗り込む前に杯を飲み干す若者は、顔面蒼白だった。子供のころ友達の家に遊びに行くと、応接間に大きな鳥の剥製が幾つも飾ってあった。その家のお父さんが狩が趣味で、日曜日になると愛犬を連れて森に入り、銃で鳥をしとめて帰って来るということだ。剥製の鳥たちは、大きく羽を広げ、目を大きく開いて前方を睨んでいた。青く広い空を誇らしく飛んでいる時に、瞬きする暇もなく突如としてその自由を奪われた、言い表せない悲しみのようなものがその応接間には漂っているように僕には感じられた。それは人数を増すと、大きな力となってしまうのだ。そして、どんな身勝手なエゴも正当化されてしまう。「自由」と「エゴ」を取り間違えているものもいた。「何を訳の分らん細かいことに拘っているんだ」と言われようとも「そんなことに拘って何の役に立つのだ」と言われようとも、不条理な常識の影で苦しんでいる人や、悲しい思いをしている者がいる限り「待てよ!」と考えてみることを忘れたくない。群集の渦の中で成長して行く「常識」を僕は心から恐れる。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2010.07.20
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昔アメリカ大陸では白人が黒人を奴隷として扱い、昼は死の労働、夜は雑居房で牢屋暮らしを余儀なくさせ、奴隷たちは余りの過労のため30歳で老人となり死んだ。旧日本軍は、朝鮮半島や中国で農作業に勤しむ罪もない人々を拉致し、家族から引き離して北海道の開拓などで苛酷な労働を課し、毎晩一人ずつリンチに掛け、収容所の職員たちは皆で笑い合った。今まで多くの人々が、劣悪な警察と検察と裁判官の怠慢と体面から、身に覚えのない罪で何十年狭い牢に入れられ、刑場に引き立てられた。子供たちはいろんな生き物を捕まえて来て、時には買って来て家の片隅で小さなケースに入れて飼う。かぶと虫、蝉、カメ、鈴虫、メダカ、蛍などなど。ほとんどの生き物は、ケースの中で短い一生を終えることになる。一昔前は夏休みの宿題で、昆虫採集をする子供もいた。いろんな虫を捕らえては、虫ピンで紙に貼り付けて並べる。もちろんそれらは子供としては当然な行為とされ、周りの大人としてもそれをとがめる者もいやしない。大人たちもそうやって子供時代を過ごして来たからだ。でも考えてみれば、上記に記した例と、それらに基本的に違いはあるのだろうか?しらずしらずに行なっている我々人間の身勝手さ、エゴについて僕は考える。我々は、できるだけ他者の思いに寄り添い、他者の苦痛や悔しさ、願に耳を傾けることのできる心を育む必要があるのではないか?反戦を唱える前に、核廃絶を訴える前に、国の経済を立て直す議論をする前に、日々起こる殺人を嘆く前にその根っこに目を向ける必要はないのだろうか?「一度人間に飼われた生き物は、自然界でどうやって生きていいか分からなくなるから、逃がしてもすぐ死んでしまうことになる。それなら人間に飼われて、食べるものにも不自由のない一生がいいではないか」と大人たちも言う。果たしてそうだろうか?それが本来の幸せなのだろうか?いやそうではないはずだ。カメはすぐ死ぬとしても、自分の目の前に広がるどこまでも広い川の流れの中に身を置いて、果てし無く続く可能性と夢にほんの一度でも心を馳せてみたいはずだ。僕だって子供のころは多くの生き物をケースに入れ、当然彼らが生まれながらに持っている権利「自由」を奪い続けて来た。今さらながら、そのことを深く後悔している。我々生き物にとって最も大切な権利、それは「自由」であると考える。誰かが他者の自由を身勝手さだけで強制的に奪うことは、何にも増して深い罪である。 つづく●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2010.07.19
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・7,17、土今ある女性合唱団で金子みすずの詩に作曲された作品に取り組んでいて、検索して彼女の短い一生を調べてみた。みすずは1903年の生まれ、生きていたら現在107歳。若い時から高名な詩人たちにかなりの賞賛を受けていて「若き天才新人」として将来を期待されていた。ところが、父の勧めで結婚した相手の女遊びが酷く、淋病を移され、愛する娘と一緒にお風呂に入ることすらできなくなった。その上、夫は彼女の才能に嫉妬してか、詩人としての活動を一切許さなくなった。狭い家の中だけの生活を余儀なくされたみすずは、三歳の娘に言葉を覚えて欲しいという思いから、様々な童話を書いていった。それらが優れた作品として、今も伝えられている。その後夫と離婚することとなったが、娘の親権を奪われ、そのことに対しての悲痛な抗議のため、26歳の若さで自らの命を絶ったと言われている。もちろん今とは違い、女性の権利というものは非常に乏しい時代である。様々な抑圧と差別と精神的暴力があったのかもしれない。おそらく、彼女が自ら命を絶った理由は、子供を奪われることに対してだけではなかっただろう。僕が知る限られた彼女の作品から感じ取れることは、他人に対してのとても優しい心と、この世にひとつだけの自分という存在に対しての優しさである。何のことを語っているのか分らない難解なものもある。機会を見つけて、もっと彼女の作品に触れてみたい。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2010.07.17
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・7.15.木朝から何だか頭痛がして、顔がぼーっとして体調が優れない。午後のレッスンの後に30分ほど昼寝をする。目覚めた時には頭はすっきり、活力が溢れて食欲もあった。やっぱり幼児でも中年でも老人でも、昼寝は大事である。その後CDのライナーノーツの訳詩に取り掛かる。中にはほとほと訳すのに骨の折れる詩がある。わざと文法を崩して、はっきりした動詞も据えずに文章がおしゃれにうたわれている。辞書に載っていない単語をふんだんに使い、変化球で内面を表現。全く、外国人のことも考慮して歌を読んで欲しいものだ。夜はCAC混声合唱団。少しずつ9月11日本番の期限が近付いて来る。7月一週目は、僕のCD録音のために日が飛んで練習がなかった。一人の団員さんが部屋に入って来てすぐ僕に「先生、今日はご覚悟を!日が空きましたからね、みんな忘れちゃった」とにこやかにおっしゃった。なるほど、誠その通りであった。皆さんが帰るころに大雨だったら困ったものだなと心配したが、すっかり上がってよかった。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2010.07.15
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・7.15.水昼のレッスンの前に、一人の生徒さんが歯を悪くして、歯医者に通わなくてはならないという話を聞く。よく話を聞くと、前歯、奥歯と合わせて五箇所もの歯の根元と歯茎に炎症を起こし、化膿しているということ。突然そんな何箇所も悪くなるとは不思議だなと思って質問してみると、歯医者がいうには磨き残しが原因だということである。さらに話を聞くと、今までフロスも歯間ブラシも使ったことがないとのことで驚く。他の数人の生徒さん(僕も含めて)は、必ず毎日フロスを使い15分は歯磨きをするという話を聞いて、大きくショックを受けられた。中には一日に昼夜と二回フロスをするという者もいた(それは少々やり過ぎとは思うが)。「今日この告白をしてよかった、帰りにはフロスを買って帰ります」と下を向いておられた。若い時は歯間もなく、さほど手入れをする必要もないかもしれないが、年齢と共に歯茎が痩せ、歯間が開いてくるので手入れは必要となってくるようである。怠ると酷いことになるのだ。夜のレッスンでは、演奏会のチラシのデザインの話になる。いくらパソコンを巧みに操り、特別なソフトを持っていても、デザイナーとしてのセンスを持ち合わせていなければ人の目を引くチラシは作製できないという話。デザインの仕事で食べているプロには、いわゆる人の持っていない才能が必要なのだ。まあ、それは当たり前の話だが、いつも何気なく目にしているチラシには、我々にも真似できそうでできないセンスが隠れていると教えられる。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2010.07.14
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・7.12.月昨日日曜日は、またまた「大草原の小さな家」のDVDを観る。いよいよメアリーの失明の巻。どうしてここまでの苦悩を描かねばならないのかと思わせるストーリー。しかし、実際のローラ・インガルスの日記に記されていたことなのかもしれない。突然メアリーの身に降りかかった失明という事実が、彼女を追い詰め、絶望の淵に追いやる。教員試験を受け教師になるという夢も絶たれ、ボーイフレンドにも距離を置かれ、これから永遠に鏡で自分の顔さえ見ることができない。フォークとナイフで食事することすら出来ないのだ。突然そんな境遇に置かれれば、誰でも一度は死を選ぶだろう。今までずっと祈りを捧げて来た神にさえ、恨みを抱くはずだ。そしてメアリーは故郷にずっと置いて欲しいと泣き叫びながら、遠く離れた町の盲学校に入学することとなる(ウォールナットグローブにはもちろん盲学校はないから)。そこで一人の教師の男性と出会い、視覚障害者としてこれからどう生きて行くべきかを一から教えられる。最初は反抗ばかりしていたメアリーだが、点字の存在を知り(以前のブログで紹介した点字の考案者であるルイ・ブライユの話が出て来た)教師になるための勉強が続けられることを知り、訓練さえすれば何だって自分一人で出来ることを教えられ、少しずつ立ち直って行く。ゆくゆくはその男性教師と共に別の町に住み、新しい盲学校を開くべく奮闘することになる。メアリーがお父さんに向かって言うセリフにこんな一言があった。「不思議ね、盲学校に来たころは絶望してひがんで毎日泣いていた。でも今は希望に燃えてわくわくしている」くしくも彼女の失明が、彼女の巣立ちとなった訳だ。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2010.07.12
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・7.9.金朝昼晩の一日。先日7月2日は、第17回CAソロ発表会を開催した。今回は通常枠よりも少々多い出演人数で、長いコンサートとなった。皆さん普段を超える実力を見せて下さり、僕も驚きの連続だった。長いコンサートにも関わらず、お客様も退屈している暇はなかったようだ。めきめきと実力を重ねて下さっている皆様に、僕も大いに励まされた。先日の発表会で目に付いたのは、本番前に集中して練習して、それを数日続けて行い、声帯の筋肉疲労で結局調子が悪いままで本番を迎えるというパターンである。もちろん青天の霹靂はいつでも起こりうる訳だが、本番に向けて自分で注意できるところは気を付けなければならない。それで「CA声のための十箇条(本番前の心がけ)」なるものを作成した。これを後日生徒さんたちにお配りしたいと思っている。あくまで、僕が今までの経験から自分なりに気を付けている部分を書き上げてみたのだが、神経質になり過ぎてもいけないので(僕は少々細かいことに神経質になり過ぎる傾向があるので)大雑把に大事なことを書いたつもりである。少しでも皆さんの役に立てば嬉しく思う。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2010.07.09
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・7.8.木午後の奈良クラスのレッスンの後に、NSKの第2回演奏会の会場を定めるべく、市内のホールを数人の運営委員と共に訪問する。250人以上の合唱団、そのうち10台以上の車椅子、60人ほどのオーケストラ、それにソリストと指揮者が乗れる広い舞台というのは何処にでもあるものではない。奈良市内の限られた大ホールはすべて公立で、空いているところを抑えようと思うと抽選となる。これがなかなか当たらず、演奏会開催日がいつまでたっても決まらない。様々な問題を想定して、ホール担当者の方と長く話し合う。その後NSK混声合唱団の練習。10月2日に控えているファンドレイジングコンサートの曲目に奮闘する。まだまだ皆さんのお尻には火が付かない。今から火を付けておけば最高の仕上げを望めるのだが、人間なかなか切羽詰らなければ力が出せないものだ。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2010.07.08
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・7.7.水昨日は月に一回の点字レッスン。先月からとうとうライトハウスで行なわれる点字のレッスンを受けることとなり、昨日はその二回目であった。肥後橋にある日本ライトハウスに出向き、マンツーマンのレッスンを受ける。先生は60代男性。もちろん彼も全盲である。長年府の職員として働いて来られ、最近定年されたということだ。「僕は(あいうえお~)よりも先に楽譜の読み方とアルファベットを教えて欲しい、早急に必要なのだ」と要求し、数少ない楽譜の読み方を教えられる方を探してもらった。まずドレミファソラシドと、八分四分二分の音符を習う。「点字は、1809年にフランスのパリの郊外に住んでいたルイ・ブライユという16歳の少年によって考え出されました。彼は教会のオルガニストであり、三歳の時に馬具の職人であった父の仕事場での事故で失明し、オルガン演奏のための楽譜を工夫したところから点字が考え出されたと言われています。しかし今考えても、試行錯誤しながら実に便利で合理的な方法が産み出されたことが分ります。まず点字が六つの点から表現されているところです。もっといろんな数の点で表される可能性だってあった訳ですが、六つの点というのが何とも合理的なのです。当時彼が16歳にして点字を考案した時には、周りの人たちは[健常者が見て分らないものを書いて、何の役にたつのだ]と口を合わせて避難しました。でも視覚障害者たちはそれを受け入れ、その合理性を称えました。結局ルイ・ブライユが42歳でこの世を去ってから二年後に、フランス政府は点字を(文字)と認定したということです。そして今我々は、彼の輝かしい恩恵を受けています。以前私はパリの郊外にある彼の生家を訪ねました。家具やピザを焼く石釜がそのままに残された博物館となっています」もちろん日本語の(あいうえお)は後から日本で考案された訳だが、最初に生み出された点字は、何と16歳のオルガニストの発案だったのだ。その点字が日本に伝わるまで、100年近い年月が掛っているのではないだろうか。いろいろと驚きのお話を聞けた。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2010.07.07
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・7.6.火30日の夜は、今までよりは少々気が楽だった。最も困難な曲はもう収録してしまっていたし、後四曲を残すだけとなっていたからだ。朝10時に始めて、スペンサー氏が次大分県に発たなけれねばならない15時までには何とか終われるだろう。でも最後まで気は抜けない。眠っている間に、どんな災いが我々を襲うか分らないのだ。でも爽やかに朝を迎え、朝風呂の後美味しく朝食。10時からさあ録音。今日もまた別の見学者が数人来られていた。何度目かに僕もスペンサー氏も納得の行く演奏が出来たと思ってゆっくり聴いてみると、僕が語尾の発音を間違っている箇所を発見。もう一度演奏し、音楽的にも発音もOKと思ったら、スペンサー氏の左手にミスタッチ。という具合に、本当にOKとなるまでには根気と継続するエネルギーが必要な訳である。疲れて来るとスペンサー氏の口も悪くなり、品の悪い冗談を言って僕はその度大笑い。全く、笑い過ぎも歌声に響く。思ったより手こずったが、ついに14時半にすべて終了。皆で拍手をする。トーンマイスターと見学の人たちで機材をばらしてかたづけて搬出している間、スペンサー氏を高島駅まで見送る。いまからまた大分まで6時間掛けて移動してレッスンとは、強靭な体力である。しっかりと握手して別れる。その後またホールに戻り、トーンマイスターと挨拶して解散。これから三週間掛けてトーンマイスターが編集を行い、また会ってそれを聴いて問題がなければマスターCDを作製しプレスに出す。それと同時にデザイナーにライナーノートのデザインをお願いし、僕自身で訳した訳詩(まだ後4曲訳せていない)やその他の文字の校正を行い、版下を作成して印刷に出し、プレスしたCDと共に包装してもらう。リリースまでには、やはり数ヶ月掛るだろう。しかし今録音を終えて、清々しい気持ちである。何故かというと、一番心配であった声の調子、体調がとても良かったからだ。録音の日を迎えるまでに、様々な悪い可能性も考えられた。風邪を引く、ノロウィルスに感染する、転んで足の骨を折る、スペンサー氏が手に大怪我をするなど、考えればきりがない。もちろん神経はかなり疲れた。でも三日間の演奏を終えても、不思議なことに声は極めて元気であった。琵琶湖の畔であることが、何か良い作用に関係したかもしれない。さて、CDの出来上がりが僕自身もとても楽しみである。録音に携わって下さった皆様に、心からの感謝を贈りたい。●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2010.07.06
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・7.5.月機材設置に3時間ほど要し、調律も終えたところで29日初日の録音がスタートした。最初はホールの響きに感覚が馴染めず、探りながらの録音。何度かテスト録音をした後、本番。そのうち響きにも馴染んで来て、気持ちよく演奏できるようになって来た。一度通して録音してから、袖に集まって録音を皆で聴く。「一度目よりは二度目の方が出来が良いのが通常なので、もう一度やりましょうか」とあっさり音楽ディレクター(トーンマイスター)。二度目の演奏の後に、間違った箇所や気に入らない箇所を部分録音。そしてそれをコンピューターを使って前の演奏と繋げる高度な技術を目の当たりにして皆で感激。とても神経を使う微妙な作業なので、トーンマイスターも相当疲れると思うが、根気良い仕事ぶり。しかしそのようにして一曲を録音するのに、約1時間半経過。大体どの曲もそれぐらいの時間を必要とし、その日は4曲収録。8時半終了後、スペンサー氏提案のお好み焼きの店に皆で出向く。その後入浴を済ませ消灯。その夜も寝付きは良かったが、朝5時半に目が覚めて眠れない。大浴場で一人で朝風呂の後朝食。さあ二日目が大変だ。「目標は今日のうちに8曲収録です」と朝食を食べながらトーンマイスター。10時過ぎにホール入りし、夜8時半まで掛って集中した作業。今日もまた別の見学者が数人立ち会う。スペンサー氏もいろいろイメージが広がって来るらしく、その場でとても難しい要求を差し出して来る。様々なことに気を使いながらの演奏の上に、スペンサー氏からの突然の要求に神経の緊張が最大限へと過熱する。僕もスペンサー氏も、トーンマイスターもスタッフもさすがにぐったり。しかし余りたくさんの休憩を取っている時間はない。精神的な疲労がかさむが、それでも一番自分が楽しんだ演奏を録音せねばならないと自分に言い聞かせ、心をこめた演奏。やがて関係者全員の根気と粘りで、その日のうちに何とか8曲収録完了。空腹を抱えて居酒屋へ。皆スペンサー氏を交えて話が弾むが、誰も英語を話せないので、僕がドイツ語で通訳するしかなく、そこでも結構声が疲れた。旅館に戻り入浴して消灯。 つづく●大阪の混声合唱団のご案内はこちら●大阪の声楽教室・レッスンのご案内はこちら
2010.07.05
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・7.4.日 6月28日の月曜日の夕方から、滋賀県の高島にあるガリバーホールに向かう。 スタッフの車に僕とチャールズ・スペンサー氏が乗り込み、約二時間。 ホールのすぐ近くにある市の小さな旅館に宿泊。 旅館とは言っても、部屋はそれぞれツィンの広々とした洋室で、ベランダの向こうは広々と琵琶湖が見える。 今はシーズンオフで、我々の関係者の他は誰も宿泊客はなし。 大浴場も使い放題。 さて、とにかく夕食の取れるところを探さねばならない。 「日本食が食べたい」とスペンサー氏がいうので、旅館のフロントの女性に教えてもらう。 でもこの辺りには町らしきものが見当たらず、少し車で走ったところにある駅の傍の居酒屋のようなところに行き夕食を済ませる。 スペンサー氏は何しろ日本食のファンで、西洋の料理は食べようとしない。 お刺身を嬉しそうにほうばっていた。 旅館に戻ると音楽デレクターが到着されていて、あくる朝からの録音の打ち合わせ。 その後入浴して消灯。 いつものことだが寝付きは良く、朝5時ぐらいに目覚めて眠れない。 さすがに初日の前に緊張している様子。 次の朝音楽ディレクターはスタッフと共に9時にホール入りして、機材の搬入と設置。 残りの我々は小用を済ませて遅れてホールに到着。 何もない琵琶湖の畔の丘に、ポツンとホールが建っている。 結構古い建物だが、中に入りホールで音を出してみると確かに素晴らしい音響。 何本も高給そうなマイクが設置され、舞台袖に機材とコンピューターが整えられていた。 しかし見かけない男性が5、6人ほどいる。 紹介されて挨拶する。 話を聞くと、オーケストラのCD録音の仕事というのは結構あるそうだが、ピアノ一台と歌というドイツ歌曲の録音というのは珍しいということで、いろんな所から音響学の専門家たちが見学に来られたということだ。 中には名古屋から見えておられた方もいた。 つづく
2010.07.04
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