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今日、大曽根に行ってたまたま見かけたのが10分でカット!たったの1000円という散髪屋さんのQBハウスだ。散髪に行く時間がなくてほったらかしにしていたのだが、「チャーンス!」とばかりに飛び込んだ。ここは1997年に東京神田に1号店をオープンして以来、国内に160店舗を構えており、1998年にはニュービジネス大賞を受賞している。 では内容はいかに? システムはこうである。店の前に3色灯が灯っており、青なら”すぐ出来ます”、黄色なら”待ち時間5分”、赤なら”10分以上待ち”なのだ。店に入るとまず1000円でチケットを購入する。お金の投入は千円札のみ。両替は出来ない!などこれは省力化のためと説明されていたが、それ以外にも売上などすべて本部の集中管理により、お店の手間が大きく省かれているのも特長だ。 実際のカットはというとカット席へすわり、お好みのカットを理容師に指示する。そしてカット、最後にエアーブラシで髪の毛を吹き飛ばして終了!これで10分という。実際には20分近くかかったが、それでも忙しいビジネスマンたちには実に効率的だ。それに切り方は雑だけど見栄えはいいし、サッパリします! だけどシャンプーはしてほしいな。別料金でもいいし、セルフでもいいから。今日、僕はバーテンダーとして夜、お店に出勤しなければならないのだが、食品業界に髪の毛の混入は禁物だ!大丈夫だろうけど何か気になる。出勤前に銭湯に行こう。そんな客もいるのではないだろうか?難しいかもしれないがその点は改善して欲しい。 以上、1000円クイックカットの店QBハウス飛び込みレポートでした。
2004.11.30
心にゆとりがない私ではありますが、たまには心地よさを味わいたいものです。前にも書いたが普段バーテンダーやっててお客に喜んで頂ける瞬間がとっても好きです。それが自分の糧になっていたりするのですが、先日はあるバーにお客として来店した。私は何故このお店に行くかというと、1.パスタがうまい!2.カクテルが豊富3.ワインが豊富だからなのです。ここの明太子パスタがとっても美味しいのですよ。ピリッと辛い明太子ソースが細い目の麺に微妙に絡んでいてとってもうまいんですよ。因みにパスタって料理は麺となる小麦粉の素材もさることながら茹で具合が少し変わるだけで全く別のパスタになってしまうんですよ。いや本当に。要は味を支えているのは材料ではなくて、料理人に全てかかっていると言う事。コックさんが替わってしまってパスタの味も変わってしまったってよく聞く話ですからね。 あと、お酒、ワイン・カクテルがいくら豊富に揃っていてもある程度うんちくを語れないと飲んでくれないんですね。だから当然、不人気なワイン、リキュールも出てくると言うわけ。それも、お客さんの好みに合いそうなお酒を勧めなければ売れ残ってしまいますよね。 要は、料理もお酒も人なんですよね。 バーというところの仕事はは、あるていどお話が出来る人でないと出来ないですね。それも聞き上手である事が好ましい。 このお店は店長以下3人のクルーで切り盛りしているが3人ともおなじみで仲が良い。この店のオリジナルカクテルなどを飲ませてもらい研究も出来たり、あるいは私のおすすめレシピを教えたり一種の情報交換みたいな事をしてみたりしてみました。 私は今まで心地よい気持ち=酔っ払う だったのですが、このところ酔わなくても心地よい気持ちになれるようになった。それまでの私は”節度のある酒の飲み方”なんて出来なかったのです。恥ずかしい話ですが。 酒を飲む=気持ちよく酔っ払う事 だったのですが。酔っ払わなくても酒を楽しむ事が出来るようになったのは酒を飲み始めて15年もたった今この瞬間からです。
2004.11.29
今度、異業種意交流会の特別企画でカクテル教室を開催しますよ。 居酒屋、バーで普通にメニューとして並んでいるカクテルメニュー。でも意外とどんな味かわからなかったりしますよね。そんなカクテルを身近に感じていただければと思います。カクテルを飲むだけではなく、実際にカクテルを作って体感してもらおうと思います。35種類のレパートリーを持つ現役バーテンダーがわかりやすく指導します。【開催日時】12月18日 14:00~17:00【場所】未定(名古屋市中区あるいは中村区)【参加費】3500円の予定(軽食・シャンパン付き)興味有りの方はinfo@jp-dreampocket.comまで御連絡をください。
2004.11.28
経営者としてやっちゃいかん事はなんだろう? いろいろあるけど、金を使うべき、掛けるべきところにはとことん掛けるべきだという事。変にケチって安物買いの銭失いにならないようにする事だ。よく起業を考えている人たちから相談をうけます。何で僕なのかわからないが、ある程度本気で考えている人がほとんどだ。それで最近はマッサージなど、手に職をつけた人たちが独立を考えている人とよく会います。で、どこでどんな環境で開業したいのか?聞くとほとんどが、「最初はお金がないから自宅マンションで...」といいます。それで、うまくいくのだろうか? 察するところ、チラシをいくら配っても反響がなく、来ても家賃、生活費などを賄いきれるほどの収入にはならずにすぐに頭打ちになることは目に見えている。自宅マンションでマッサージ店を開業してうまくいっている例は聞くけど、それは1.口コミをうまく活用している2.お店としての体裁を整えている3.オーナー自身が地域に顔のきく人であるこれらの条件が整っている事ではなかろうか。推測するところこの3つの条件が必須となるだろう。お客の立場から見ると、「マンションでやってて何か怪しいね」これが第一印象でしょう。そうです。マンションのお部屋は外からは見えないのです。だから、どんな事が行われているのかわからない。あるいは覚悟を決めて来店しなければならないのだろうか?なんとも恐ろしい事を想像しないわけでもない。だからビジターなんてほとんど来やしないのである。 あともうひとつ気をつけなければならないのが、生活感を感じさせない事。洗濯物、台所などが客の目に飛び込んでくると急に冷めてしまうでしょう。食卓には決して食べ残した物や、食器類は置かないほうがよいでしょう。 なんだかんだ言って自宅でやるにしても、お店と居住空間を分け隔てるためにどんな家でも小改造は必要でしょう。 だから安物買いの一心で開業費用をケチってしまうと命取りになってしまうと思う。使いべきところには使ったほうがよいでしょう。
2004.11.27
私はふだんの夜、西区のフレンチレストランでバーテンダーをやっています。昼間とは違うもうひとつの顔なんですが。 この店にはものすごく熱心な職人がいる。シェフの下で働いている彼は寡黙で、あまり自分から話しかける事はない。しかし、料理を作る時はいつでも全身全霊を込めている。ある時はコックであり、ある時はパティシエにもなる。彼が入店してからデザートのレパートリーが増えた。スイーツの中でも焼き物が得意と見えて、いつもケーキ、クラシックショコラ、タルトなどを焼いている。その彼が作ったスイーツが女性客に大変好評を得ている。もの凄く感心するのは作った料理に関するお客様の声をとても大事にしているということ。コックさんは厨房が持ち場だからめったに客席へは行けない。お客とのコミュニケーションは私の仕事だが、客席から戻ってきた私に「デザートどうでした?」と聞いてくる。お客は店員の手前「まずい」とはまず言わないからお客から聞いてくる意見は「何がおいしかった」という声なんだが、彼はその声をとても大事にしているし、時間があれば自分で意見を聞きに行く。大半のお客は創作された料理の意外性に感動してくれているパターンなのだが。昨日、このお店のランチに私は客として来店した。メインのチキンのソテー柚子ソースには感動してしまった。柚子のソースがとっても以外にもチキンとマッチングしている。夕方店に行くと彼が「ランチどうでした。」と聞いてくれた。「柚子のソースに感動したよ」って言うと、「一生懸命作りましたから」とテレながら話す彼に料理に対する純粋な気持ち、ひたむきさを感じ取った。 レストランを運営する上で、リピーターをつかむことが大切だ。コックさんたちは料理を作るのに必死に頑張っているし、私たちはお客とコミュニケーションを取る事を大切にしている。お客のほとんどは女性客なので私たちもやりやすいのだが、心地よく料理を楽しんでもらいたいと思うので、入店の時のメニュー説明で軽く笑いを取って、後は和やかな雰囲気で料理を食べてもらう。メニューを見て迷っているお客にはおすすめ料理を勧めてあげたりする。食後のコーヒータイムには客席へ行って料理の感想など聞いてみたりする。帰るときには「ありがとうございました。お寒いのでお気をつけて。」と声を掛ける。どれほどの効果があるのかはわからないが、お店が総力をあげてお客をもてなした効果がリピートにも繋がっていると聞くとやっぱり嬉しいものである。 因みにクリスマスディナーは満席となってしまった。感謝感謝
2004.11.26
営業会社にとってクローザーはとっても重要な役割を持っている。初期段階からクロージングまで一貫してやっている会社もあれば、見込み客獲得と、クロージングを分業している会社もあり、私もいろんな会社でいろんなクローザーを見てきている。営業トーク、切り返しトーク、引きトーク、プロの方のそれはどれを取っても下を巻くほどのスキルを持っている。が、しかし、悲しい事に”取りたいがために”お客に出鱈目を言ったり、囲い込みをしたりして強引に契約を取ってきているクローザーも多く存在するのも事実である。それを見るにつれ、悲しい気持ちになる。ありもしない事を言ってサインをさせて事実がはっきりするのは1週間以上もあと。そのとき「だまされた」と苦虫をかむお客もいるのではなかろうか。ある営業会社の幹部クラスの人間はクローザーたちに「安さ、お得感を最初に協調しろ!お客に安い!お得だ!といわせろ!」と教育している。購買ムードを高めるには良い。お客の中で安さ、お得感がサブリミナルされ、「買おう」という気になってしまう。 でも我に返ると...あるいは少し気の弱い人だったら...囲い込みでもされたら...「やってみましょうよ」なんて背中を押された時には...まだ全て納得していないままに押されてサインしてしまうでしょう。巷での営業シーンでこんな光景を何度も見かけた。お客は契約内容を100%理解していないケースがほとんどだからしょうがないかもしれないが、営業会社の教育方針にも少し考えるべき点はあるのではなかろうか? あと、営業会社を見ていると「取れ!」の一点張りで、現場で働く営業マンの立場を全然理解しない幹部をよく見かける。だから当然、契約がとれないとやる気を失ってしまう。営業マンのやる気喪失→辞めてしまう→社員を雇用→再度一から教育なんか悪循環を繰り返している営業会社をよく見かける。なかなか戦力となる営業マンが育たないのである。営業ノルマは必須課題!でももう少し楽しくやりましょうよ!と思う今日この頃ですね。私がもし営業会社を立ち上げる時には、売る教育よりも社員のモチベーションを高める教育にウエイトを高めたいと思ってます。だって「売れ!売れ!売れ!」ってやかましく言われるよりも「夢を持て!お前の夢を応援してやるからな!」って言われたほうが気持ちいいし、働きやすいでしょ。人生の目標がない人よりも「社長になりたい!」とか「ベンツに乗りたい!」って思っている人のほうが実際によく働くし、営業やらせても呑み込みはいいし成績もいい。だから私は営業成績を上げるための販売研修よりも、社員に人生の楽しさを教えてあげたい。そう思うのですが、甘いかな?
2004.11.25
このところメディアでも話題になっている名鉄美濃町線。明治時代に開通し、90年の歴史を持つ新岐阜-関間を走る名鉄の路面電車の廃止が正式に決定している。嵩む赤字に名鉄としても耐え切れずに廃止やむなし!岐阜市が存続協議をするもコスト面、道路交通との兼ね合いで断念。岡山の路面電車会社である岡山電気軌道、はたまたフランスの交通大手コネックス社が存続へ向け打診中ということだがいずれにしても2005年3月の廃止には間に合いそうもない状況である。 何年前だったかな、一度所用でこの線に乗車した事がある。当時は廃止された関-美濃間も健在だった。この路線、ふた昔前くらいの”田舎電車”の風情が感じられる。路線は単線で停留所が路上にあったり、田んぼの真ん中を走っていたり、未舗装の道をコトコト走っていたりほとんどが狭い路線の上を走っている。 趣味的にはとっても楽しい路線なのだが、生活路線としてはどうだろうか。いささか時代遅れなのは否めない。安全地帯もなく狭い路上での乗降が不便だったり、渋滞を引き起こしたり。以前も廃止の話が上がったが、その時は将来岐阜市が60万都市になったときには到底バスでは運びきれないからということで廃止を免れ、平成の今の時代まで生き残ったという経緯がある。しかし、名鉄のお家事情では現状の赤字に耐え切れずに廃止を決めたと言うわけだ。 数年前には新車を導入し、バリアフリー化も試みたのだが何とももったいない... 刃物の町関、焼き物の町美濃へは名鉄美濃町線は便利な足です。こちらへのアクセスへは同線でコトコト乗っていくのも良いのではないでしょうか。 あと廃止まで4ヶ月しかありませんのでお早めに。
2004.11.24
いままで食べた駅弁の中でのベスト・オブ・ベストが東北本線一ノ関駅の「かにめし」だ。駅前のあべちうという弁当屋が調製している。 最近の駅弁はキヨスクなどでも売っているのだが、あべちうの駅弁はホームでの立ち売りなのだ。ハッピをきたおじいさんが「べんとー!べんとー!」って言って売っている。その風情も旅情をかきたてられつい買ってしまったのだが、えにもいわれぬ美味しさにほっぺがおちてしまうんです。 ご飯は軽くしょうゆの味付けがなされている。その上にカニの身がぎっしりと詰まっているのです。何とも贅沢な味わいだろうか。ご飯の味付けもしつこくないのでカニとの相性もピッタリ。 そして嬉しいのは気遣いだろう。弁当は駅前で作っているとあってあたたかいまま買うことが出来る。電車の本数もそんなに多くないので多分、電車の到着時間に合わせて弁当を持ってくるのだろう。そんな気配りを感じる事が出来た。昔は近辺の交通の要衝と言われていた一ノ関駅、以前は機関車は沢山の客車をつないでいて駅売りでは飛ぶように売れたと言うが、今はせいぜい2両~3両。飛ぶように売れるわけではないだろう。 昔ながらの味、風情、気遣いを感じられるのが一ノ関駅のかにめしです。
2004.11.23
人気駅弁ランキングでは常に上位ランクされるのが横川駅の「峠の釜めし」である。この駅弁、おぎのやという駅弁屋さんが調製している。釜を模った陶製の容器の中にとり、うずら、ゴボウ、ニンジンなどの具がたくさん盛られている。決して色とりどりというわけではないが、田舎の山の幸をこの釜めしで味わう事が出来る。 長野新幹線が開業する前はこの弁当も横川駅、軽井沢駅のホームで売っていた。この両駅では機関車を付け替えるのに5分ほど停車するので駅弁やさんもこの時に声を張り上げて売っていたのである。ワゴンには保温器が備えられているのであたたかいまま弁当にありつく事が出来る。この駅弁は有名な知名度もあり、特急だと乗客も多いので、駅につくと皆ホームに下りて弁当を買い求めていく。まさに飛ぶように売れる光景が毎日繰り返されていた。わずか5分間の勝負なのだが。そして電車が発車するときにおぎのやのメンバーは電車にむかって整列して「ありがとうございました」と一礼する。この光景がまたすがすがしい気持ちにさせてくれたのを覚えている。 今は新幹線が開通し、この風景も見ることがなくなったが新幹線の中では売っているそうだ。それも釜めしのために特製ワゴンを使っているとの事。それ以外にも上信越自動車道の川中島SAでも売っているので長野方面へ旅行に行かれた方は是非お試しください。
2004.11.22
札幌の方はご存知の方も多いことでしょう。100円ケーキの店リリーは1976年札幌駅地下街にてオープンした聴覚障害者たちが運営するお店でした。鉄道弘済会(のちのJR北海道キオスク)営業部長の小宮山猛氏と、洋菓子メーカー西村食品工業(2003年倒産)の沢村重一社長との幾度かの話し合いによって実現した店でした。西村食品工業とは、かの有名な洋菓子のニシムラです。そう、愛の鬼才のモデルとなった故西村久蔵氏が創業した会社です。そして、社長の沢村重一氏は西村氏の札幌商業時代の教え子でもある。入学しても学資が続かずわずか3ヶ月で中退を余儀なくされたこの沢村氏を引き取り、のちに小樽高商まで卒業している。西村氏にもっとも心酔した一人でもあり、だからこそ就職先をニシムラに決めたと言う人物である。障害者たちの自立施設も少なかった当時、お店の噂は本州にも広く伝わり、福祉とケーキの店として見学者が絶えなかったそうです。このお店は1981年に『100円ケーキの歌』というドラマにもなっている。今となっては福祉のお店は世の中に沢山存在する。障害者たちで運営するケーキ屋さん、クッキー屋さんなども多くあり、おいしいケーキ、クッキーは私たちの口に入ることもたやすいですよね。大きな反響を呼んだのはまさにオープン当時の28年前、福祉のお店が皆無に等しかったからではないでしょうか?そんな折にお店を開いたのは社会貢献という意味が大きかったと思いますし、没後20年を経てしても西村久蔵氏のスピリットが洋菓子のニシムラには脈々と受け継がれていたのでしょう。100円ケーキというのも、多くの人に食べてもらいたいと願った創業当時からのスピリットだったと感じ入ります。お店は会社の倒産にともない閉店したそうですが、札幌市民のなかで根強いファンが沢山いたそうです。【商売のヒントが隠れているかも!】キーワード:人や社会に貢献するニシムラのスピリット、戦後の繁栄の原動力はまさにこれだと思います。福祉のお店を考案することが出来たのも、”貢献”するという気持ちが強かったからこそだと推測できます。
2004.11.21
もう倒産してしまい存在しないが、今日も札幌にあった西村食品工業の話です。北海道の方ならご存知の方も多い筈の”まりも羊羹”これは1953年に発売開始以来、2003年に会社が倒産するまでじつに半世紀にわたって売られ続けていた和菓子です。発案者は、のちの西村食品工業の社長となる沢村重一氏。1950年の当時、ニシムラでは洋菓子以外にも、練羊羹、すずらん羊羹などと造っていたが、ある時屋台で売られていた甘水と見て大きなヒントを得るのです。甘水とはゴム風船に甘いイチゴ水などを入れた円い玉なのだが。彼はそのゴム風船にイチゴ水のかわりに羊羹を入れまりものように丸くして売ったらどうかと考えるのです。が、そうは簡単にはいかなかった。熱い羊羹を風船に注入する方法が至難の業だったのです。羊羹を注入している時に風船が爆発したり、流通途中で破れたりしたそうだ。開発の鍵となるのは風船にあるのだが、1.丈夫なゴム風船2.羊羹の色が透けて見える風船3.楊枝でつつけばつるりと剥けてくれる風船これらが風船の条件となるのだが、”そんな無茶な!”と誰もが思うような開発条件だったらしいです。でも幾度かの試行錯誤の上、理想的な風船の開発に成功し、ついにまりも羊羹は世に出る事になったのです。早速、ラジオで全道にCMを流し、まりも羊羹は北海道観光の先駆けともなって大ブームとなったそうである。その時、一日の生産数は3万個。実にたった4人の職人で生産にあたっていたというので驚きです。4人で3万個生産できる注入器を内部で開発したそうであるが、これに優る注入器は以後も作られていないというから、相当優れた機械を製作したものだと考えられます。そういえば幼少の頃、よく、風船に入った羊羹を食べていた記憶があります。それがニシムラの”まりも羊羹”だったのか定かではありません。北海道とは縁遠い我が家だったから多分それはまがい物だったのでしょう。でも、甘いもの好きな私にとってそれはよだれが出るようなおやつだったようです。ここで学ぶべきところは1.ふと思ったひらめきを大事にしている事2.困難にぶちあたってもめげずに最後まであきらめなかった事ではないでしょうか。また昔なつかしいまりも羊羹が食べたくなってきました。
2004.11.20
今日も愛の鬼才、西村食品工業の話である。倒産した会社とはいえ、学ぶべきところがあまりにも多いのです。 洋菓子のニシムラとして生まれた西村食品、戦時中は水産加工業にも従事しなければならなかったが、戦争が終わり平和の時代が戻るとやがて洋菓子のニシムラとしての看板が復活する。配給パンの指定工場となったことからコッペパンの製造をはじめる。そんな時思いがけず沢村重一氏が満州から復員する。そうです。沢村重一氏はのちに西村食品工業の社長となるキーパーソンです。このとき西村久蔵氏の計らいで専務として入社するのだが、まず目に付いたのが原料不足でありました。当時は洋菓子の原料ある卵、水飴は統制品、小麦粉は配給品でした。なかでも小麦粉の絶対量が不足していたのです。洋菓子屋にとってこれは致命傷ですね。当時は闇米のように闇買いであれば調達できたのですがニシムラでは闇買いはご法度。ではどうしたかというと、北海道中の小麦粉の空袋を集めてきたのです。小麦粉の空袋をどうしたというと、空袋を叩いて袋の片隅や、布に付着している粉を叩き落とす事を考えたのです。空袋といっても北海道中から集めてくるからその量は膨大なものとなったのです。そして予想通り大量の小麦粉を確保できたのです!そして足らない卵は、昆布から取ったアルギン酸を、水飴は澱粉を使って洋菓子を作ったといいます。このアイデア、考え方は至ってシンプルです。あるいは考えつく人もいるでしょう。でもそれを実行したことに凄さを感じ入ってしまいます。わざわざ経済調査庁まで出向いて許可を取ったというのだから驚きです。でも考え方は抜きん出ていると思うし、自由な発想がそうさせたのでしょうね。この行動は前後の物資不足時代ならではのもの。でも、今現在各方面で成功されている方の行動力とも似ていないでしょうか?
2004.11.19
今日も西村食品工業の話であります。学ぶべきものがあまりにも多いのです。洋菓子メーカーとして親しまれてきたニシムラも戦時中は水産加工をしていた時期があったのです。太平洋戦争が始まってまもない1942年2月21日食糧管理法が制定され、洋菓子の原料調達が次第に困難となってしまっていました。そうです「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」をスローガンに国民が一丸となって節約に挑んだ時期でもありました。そんな中にあって、洋菓子は贅沢の象徴。この危機に直面しては洋菓子のニシムラもたまったものではありません。次々と戦地へ送られるもののそれでも100名あまりの従業員もおり、行く末が不安で仕方がありません。朝な夕な話し合う西村久蔵と弟の真吉。廃業を決意するも、久蔵氏の言ったことが難局を乗り切る鍵となるのです。「まさか菓子屋が魚を売るわけにもいかないし。」この言葉に弟の真吉氏は何かをひらめく。「それいけるよ兄さん!アイデアは固定観念からでなきゃいけない。豆腐は四角だと決めちゃいけない。菓子屋が魚を売ってもいいじゃないですか!」こんなやりとりがあったと聞きます。理屈はこうです。米も小麦も狭い日本では土地が限られている。でも海は陸地よりもはるかに広い。北海道は魚は無尽蔵にいる。それを利用しない手はないという事なのです。それで協議の結果削り節を、魚は近海で大量に獲れる鯖と決まったのです。好都合な事にいままでケーキを焼いていたオーブンはそのまま魚を乾燥させる機械に転換することが可能だったのです。思惑が外れて鯖よりも鮫が獲れる事もあったそうですが、予想以上に早い段階で好転し、削り節のニシムラはあっという間に北海道一の削り節メーカーとなっていった。もう60年以上前のことですが、ピンチをチャンスに変えうるアイデアの持ち主西村兄弟には感服します。
2004.11.18
西村食品工業ではマコトなる滋養飲料が売られていた。故西村久蔵氏の弟真吉氏の長男真氏にちなんだ名前なのだが、彼は生まれながらに病弱でこのまま育っていくのか危ういとされていた。それで八方手をつくしてありとあらゆる方法を試みるも梨のつぶて。それで医師に相談するとアルファ澱粉の話を聞かされる。アルファ澱粉とは小麦粉を焼いてその澱粉をアルファ化するということ。これにミルク、水飴をミックスして与えてみたところ、最初はさほど効果が得られなかったものの1週間ほどしてから、赤ん坊の泣き声に力がでるようになり、1ヶ月もすると信じられないくらい元気になったという。この話が人づてに伝わり、問い合わせが殺到したという、それで遂に日の目をみたというわけです。この滋養飲料、最初はわが子の虚弱体質に悩む親たちに無料で配っていたようです。これは金儲けではなく、本当に人助け、貢献のためにやっていたのだなあと感じ入ります。
2004.11.17
この本は私の人生を導いてくれた一冊である。具体的には札付きのワルで行き場のなかった私が更生するきっかけになった本である。出会いは17歳の頃。私の姉が三浦綾子が好きで塩狩峠、天北原野などを持っていて借りて読んでいた。作者が旭川出身だけあって、北海道ネタが多く、ちょっとした旅行気分にひたれるとあって、借りたものは一気に読んでしまった。するとまた読みたくなるのである。そして本屋で出会ったのが「夕あり朝あり」だった。 この本は、株式会社白洋舎創業者の故五十嵐健治氏の生涯を書き綴ったものである。白洋舎はご存知東証一部上場企業でクリーニング業界最大手である。氏はイエスがキリストを開眼した30歳を節目とし、自らも30歳を機に勤めていた三井呉服店(のちの三越百貨店)を辞め、洗濯店を開業する。文字通り水瓶ひとつでのスタートだったのだが、”水を使わない洗濯”としてドイツで普及していたドライクリーニングに着目、今のように飛行機もなく、船でも2ヶ月はかかって渡航していた明治の御世に手探りながら、ドライクリーニングの開発に成功、この分野の創始者となった。以後は幾多の困難を乗り越えながらキリストの愛と奉仕の精神を常に持ち、会社を成長させていく。 この五十嵐氏、明治7年に越後の国新井村(いまの新潟県上越市)に実業家の父船崎四郎、母おけいの子供として生まれるも、2歳のころ母と離別。その後五十嵐家の養子となる。小学校を卒業してからはいくつもの仕事を転々とし長続きはしない。それでも時の生糸商糸屋平八にあこがれ一穫千金の夢を見て東京を目指すも手持ちの資金がなく、全国を放浪する。ロシアへの密偵を企て北海道に上陸するもたどり着いたのは世にも恐ろしい監獄部屋へ入れられ命からがら逃げてきたのが小樽。そこでキリスト教との運命的な出会いを果たし受洗する。その後東京へ戻り、洗濯店を経て三井呉服店へ入社する。以後は白洋舎創業へつながっていく。 この物語、五十嵐氏の間近にいたかのようにリアルに書いているところが見どころである。幼少のころから常に観察していたかのようなリアルさなんです。実は三浦綾子氏と五十嵐健治氏の付き合いはほんの15年ほどだったと聞く。カリエスの病に臥し、旭川で療養中だった当時無名の三浦氏(当時は堀田性)を五十嵐氏がはるばる東京から見舞ったのがきっかけである。その時、五十嵐氏は80歳を過ぎていた。最初は堀田綾子に面会を拒否されながら、まめに足を運びそのうちに親交が深くなったと聞く。 この本に見る五十嵐氏は誰に対しても愛をもって仕えていた人だと感じいる。ワルだった当時の私は、自分の悪事も全て社会に責任転嫁してしまう横着な人間だった。だからたとえ悪人でも愛をもって使える五十嵐氏の生き様をとても理解しえなかったのだが、読んでいくにつれ、愛をもって生きる氏の生き様に共感を覚えずにはいられなくなってきた。氏は一穫千金を果たしたわけでもなく、大金持ちになったわけでもない。でも愛をもって生きたおかげで、誰からも愛されそして幸せに生きてきたのです。 これを書いて久しぶりに10年以上前のピュアな自分を思い出してきた。 いつまでも色褪せない珠玉の一冊三浦綾子著「夕あり朝あり」でした。
2004.11.16
昨日の夜から紀宮さまのご結婚のニュース流れている。久しぶりに明るいニュースを聞いた。 私も婚約をしていた事がある。24歳の時である。”していた”とはすなわち婚約破棄になったからそういっているのですが... 学生時代から付き合っていた2つ年上の彼女と三重-神戸間、約200キロの遠距離恋愛を2年間続けていて「そろそろ籍を入れよう」そんな感じだった。「やっと一緒になれるね」2人で言い合って喜んだ。だが、一緒になりたくてもなれなかったのである。”神戸””三重”どっちに住む?まず持ち上がったのがその問題。彼女は某証券会社の総合職、将来を期待されている人。僕は物流会社のサラリーマンとしてこれから面白いプロジェクトに参入していく身。双方とも全国全世界転勤が職種上最大の前提条件になっていた。お互い仕事を捨てることができなかった。今でいう”週末婚”なども提案したりしたが「何のための夫婦なんだ」そんな事を言い争う日々が続き、両家の親からも反対の声が上がった。結局はお互い仕事を優先しようという事をお互いが自分自身に言い聞かせる形でご破綻となった。 もう6年前の話である。 今その人は別の人と結婚をして幸せに暮らしていると聞いて安心している。
2004.11.15
残念なことに昨年2月に倒産したが、西村食品工業の発祥ともなる洋菓子のニシムラが出来たきっかけをお話しましょう。三浦綾子著「愛の鬼才」にもなった西村久蔵氏の家業である牛乳店が不振に陥りつつあったのです。時は昭和4年、金融恐慌が勃発し多くの銀行が潰れてゆく時代でもありました。それにつれて牛乳の注文も激減していたのですね。いつも一斗樽でいつくもの牛乳が売れ残っていたそうです。それを見た久蔵氏の弟真吉氏が言った一言、「この余った牛乳でシュークリームを作ってみたら」すべてが西村食品工業のはじまりだったのです。その当時素人が店を持つなんて甚だ夢に近い話。それに今のようにオーブンが簡単に手に入る時代でもなかったのですが、彼らはフランス語の洋書を翻訳して何とオーブンを自作してしまうのです。こうして洋菓子店ニシムラは札幌にお出ましする。ここでニシムラは上質な洋菓子を他の店の3分の1ほどの廉価で販売する事に力を注ぐ事になります。シュークリームは3個10銭だったといいます。ここでの久蔵氏の考えはこうです。”札幌のすべての子供たちに洋菓子を食べさせてあげたい。シュークリーム3個10銭なら買えても1個5銭なら買えないという家庭がたくさんある。すると一生シュークリームのうまさを味わえないかもしれない。”だったようです。このことからニシムラが金儲けのために洋菓子屋を開いたのではないということが明らかです。発想としては余った牛乳を活用することにあったと思います。普通の人ならこういう場合「どうせ元手がかからないから」といって思い切り儲けようと考えるかもしれませんね。でもそれをしなかったのです。それ以後、ニシムラが大繁盛したのはいうまでもありません。
2004.11.14
はじめに...先日もお知らせしましたが起業WEB管理人の戸野竜秀さん強盗殺人事件に関する情報をお待ちしております。詳しくは起業WEB(http://www.kigyouweb.com/)をご覧ください。《本題》このところ土日はイベント会社の仕事に就いている。今日も本当はイベントの仕事に行く予定だったのだが...待ち合わせの某駅には誰もいない...急いで会社に連絡をすると別の担当者が出て「明日だよ!」って言われた。いわゆる行き違いというやつだ。昨日の夜、電話があって「明日イベントの仕事なんだけど人が足りないから行って!」本当は今日は別の予定があったのを、困っている様子だったのでスケジュール調整して無理やりその仕事を入れたのだった。「朝の6時に家を出たんだぞ!」「お前らのせいで今日の収入がないじゃないか!」そう考えると血が逆流してしまいそうな憤りを感じてしまったのだが、「困るんだよちゃんと確認してくれなきゃ!」一応、通り一遍の抗議はしたもののそれ以上その人を責めるのはやた。事務所は少人数で常に現場と掛け持ち、彼らは事務仕事は早朝と深夜にやっている。いわゆる”手が廻らない状態”である事は知っているからだ。そんな状況の中、一生懸命動いている事は承認しておきたいと思った。そんな事より、自分も人に対して不快感、憤りを提供している事がよくあるのではなか?払うべきものを払わなかったつい先日までの自分がそう。払えないのが事実なんだが、相手にはそれは伝わらないのは当たり前の事だ。「法的手段に訴えるぞ!」「カニ漁に行って金返せ!」電話で、内容証明で、自宅まで押しかけられて催促が続く日々。「もう自分は終わりだ」がらんどうの自宅で呆然としながら考えていたりした。人間追い詰められるととんでもない事を考えてしまうものである。最後の賭け(廃品回収)に負けた私、支払の催促におびえる日々。「生命保険で何とかしよう」なんて馬鹿なことを考えたりもしてしまった。こんな事を考えたのは初めての経験でした。当座の危機は何とか乗り越えましたが、お金は人間の生活の糧でもあり、それが人に対して喜びを与える事もあるし、怒りを与えてしまう事も今回身をもって知った。でも当座に必要なお金はたかだか10万20万のお金である。今回もたかだか20万弱の支払に困っていたのだが、近い将来を絶望的に考えるより少し遠い将来に希望を持って生きる事を考えました。当座を乗り越えられたのはそう考え直したからだと思っています。油断は禁物、すぐにまた危機が訪れる事はわかっているので気を緩める暇はありません。でも、ご利用は計画的に!決して聞き逃せない言葉であります。今日は自分を省みる事に費やしたいと思う。
2004.11.13
起業WEB(http://www.kigyouweb.com/)を主催し関西では名の知られていた戸野竜秀さん(28)が10月27日大阪北の繁華街で3人組の男に暴行を受け、11月7日未明に入院中の病院で亡くなられました。金目当ての犯行と思われますが、依然犯人は見つかっておりません。戸野さんは不動産会社に勤務しながら起業家になることを夢見て、日々頑張っていた方でセミナー等にも熱心に参加していたそうであります。夢を果たすためにひたむきに生きてきた一人の青年の命を奪った卑劣な事件に深い悲しみと犯人に対する憤りを感じずにいられません。戸野さんのご冥福を心よりお祈りするとともに一日も早い犯人逮捕をお祈りします。事件に関する情報などは大阪曽根崎警察署(06・6315・1234)にて受け付けております。起業WEBサイトについてはニードフォーチェンジの田中克明さんが引き継ぐ事になりました。
2004.11.12
私がこの数ヶ月でしなくなったことがある。それは人を批判すると言う事。批判とはマイナスのエネルギーである。 私は今まで人を批判する事で自分を正当化してきたいわばずるい部類の人間でした。会社員時代も会社や上司に対する不満ばかりで自分が悪いとは微塵も思っていなかった。自分が会社で幸せを見出せなかったのはある意味それが原因だろうと今では思うのだが。切欠は半年前にあるセミナーに参加したことに端を発する。そのセミナーでは3日間窓もない部屋で早朝から深夜まで缶詰にさせられて徹底的に自分を見つめなおすのである。普通の感覚で言えばとっても怪しいセミナーである。「知らぬ間に高い壷でも買わされたらどないしよう?」と、私は身構えてセミナーに挑んだ。 しかしそこで学んだのは徹底的に自己を反省するという事であった。そのセミナー自体、知り合いから紹介されたのだが、あまりにもスタッフや紹介者からのお誘いの電話がしつこくて2ヶ月間自分の携帯も着信拒否していたくらいだ。その後、観念して挑んだセミナーだったのだが、そこで私は自己を省みると言う事を学んだ。今の私が思うのは、人を批判するという人に進歩はありえないという事です。昔の中国共産党の考え方では、批判すればするほど評価されるという考え方があったが、今や中国でもそんな考え方は通用しない。30年ほど前の文化大革命のとき人民は批判闘争に明け暮れ、その結果、10年もの間、生産活動がストップしたのは周知の事実である。私の好きな橋田寿賀子著「大地の子」でもその様子が赤裸々に綴られている。批判する事ほど非生産的な行為はない! そう思っているがあながち間違いでもないと思う。人を批判する暇があったらQC(品質管理)活動に精を出て、職場の生産性を上げるなど会社の士気を高めて業績を上げて自分たちの生活を豊かにする方法はいくらでもあると思う。これは小泉総理の批判ばかりしている永田町の諸氏にもはっきりと申し上げたい。ネガティブ論争はホンネの政策立案に役立つかもしれない。票も獲得できるかもしれない。でもそんな事ばかりしていて国会が空転しているのが現状ではないですか?批判ばかりしている政治家からなにか国益たるもの、国民は享受できましたでしょうか? かなり脱線してしまったが、批判する事に生産的な要素は何もないのである。先日の話だが、私の知人(女性)から「一緒に事業を営んできたパートナーを刑事告発している」との連絡を受けた。パートナーとはその人のフィアンセである。プライバシーに関わる話なので名前は明かせないが、その話を聞いて悲しい気持ちになった。確かにその人の怒り、悲しみは理解できる。というのも、フィアンセの方のデリカシーのなさに私もあきれ返ってしまった。触れられたくない他人の過去の話を本人の目の前で、しかも皆がいる前で平気で言う人だった。その人からすれば裸になること以上に恥ずかしい事、あまりの自己中心的、かつインテグリティ(誠実さ)のなさに私も憤ったのだが。その時点で先が見えているなと思った。詳細は知らないが腹に据えかねる事があったことは本当のよう。でも私がその人に言った事は、 悪い事は言わないから刑事告訴なんてやめとけよ!です。一体刑事告訴なんてして、その人は何を得るのでしょうか?慰謝料がもらえるとか、刑事告訴の手続きがわかったとか、得られるものは所詮そんなものでしょう。がっぽり慰謝料をもらってあとは遊んで暮らすんだ!くらいの気概で告訴するならいいだろう。でも聞く限りでは、自分の腹に据えかねる部分を何とかしたいという気持ちがその人の中で支配的だと感じた。それだったら新しい出会い、生きがいを探す事に注力をすればもっと素晴らしい未来が切り開けるかもしれません。つらい過去を経験してきた話を聞かされているのだが、それならなおさらその人には幸せになってもらいたい。そう思って言った。その後の事は聞いていないが、批判とは出会いも幸せもチャンスも失うものである。そう思わずにはいられない。
2004.11.09
ご無沙汰しています。 10月は半ばから廃品回収の仕事をしていました。目標金額40万円を達成する事を目指して。しかし結果は惨敗。リサイクル会社との契約には至りませんでした。しかし、この仕事の中で学んだ事は数知れず、自分の交渉力、粘りのなさを再認識できるものとなりました。営業経験の長い私よりも、ふてぶてしい態度を取ってお客と接している兄ちゃんたちのほうがよっぽど稼いでいる事実がそれを物語っています。「まじめと誠実が自分の取り柄」だと思ってきましたが、スタッフの方からは「仕事にならないまじめさなんて必要ない」とはっきり言われショックでしたが今考えるとそれも一理あるように思います。 実はこれ、私の最後の賭けでした。2ヶ月前より業績が思わしくなく、10月からは全く成約に至っておりませんでした。資金はどんどん減り、借り入れたお金の返済すらやばい状態に。この仕事で成功すれば巻き返しが図れる。そう思ったのが切欠です。もちろんリサイクルビジネスの将来を期待してのことでもあるが。この賭けに負けたら潔く廃業しようと思っていました。そのつもりで賭けに負けた先週からは日雇いの仕事に出ている。 しかし、私の廃業に反対する声が多数寄せられ正直戸惑った。「やめないで」「続けて」頂く声はそんな声ばかり。誰も廃業に同意する人はいなかったのである。「そんな事言ったって自分の生活が...」そう思った。しかし自分は認識していなかったが、私の影響で起業の準備をしている人、すでに起業した人がかなり存在する事がわかった。今やめてしまうとその人たちの意にそむく事になる。私がやってきたドリームポケットは自分一人のものではないんだと言うことがわかり、何らかの方法で再スタートを図るための方法を模索したいと思う。 私が起業した理由 「幸せになるために」 この一言に尽きる。会社という歯車の中で日々仕事に追われて自分はどうしてもこの組織の中で幸せを見出す事が出来なかった。組合のスタッフでもあったので会社の裏表は知り尽くしていた。職場では常に会社への不満が飛び交っていた。責任者という立場上、彼らにやる気を持ってもらうよう理論武装してなだめるのが日課となってしまったが、おかしいと思っていることをストレートに表現できないジレンマに悩んでいた。組合側に提案された会社案がどうしても納得できなくて猛反論したとしても結局はその案が通ってしまう。通ってしまえば職場では納得できないその案を皆に納得させなければならない。「もはやこれまで」とばかりに、海外転勤の話があった2003年2月、会社に辞表を叩きつけて辞めてきた。 幸せになるために...とは自分だけが幸せになるというわけではない。私に関わっている人すべてを幸せにしたい。そんな事を創業当時も今も考えている。お客、従業員はもちろん、世の中の人たちを幸せの渦に巻き込んでみたい。それが理想の原点だった。 それで今の私はどうかというと貧乏のどん底に突き落とされている。交通費すら節約して歩いたり、3度の食事もなるたけ安く、おなかを満たせるものに終始している。でもこれは全て自分に原因があるわけでこの事実を受け止める事から再スタートを切ることにします。今は白いごはん一杯だけで空腹を満たしていても、沢庵のおかずを得るために一生懸命働いてみます。これは”ささやかな幸せと欲求”ですが、それが積み重なればきっと普通の生活に戻れると思っています。 最後になりましたが、私どもに日ごろから応援してくださるみなさん、本当に有難うございます。そしてご迷惑をお掛けしているみなさん。本当に申し訳ありません。 自己の反省を活かし、いつかきっとみなさんに恩返しできるよう精進したいと思っていますので見守っていてください。 長くなりましたのでこれにて失礼致します。平成16年11月8日 清水きみひと
2004.11.08
紀勢本線松阪から、美杉村地内の伊勢奥津まで43.5キロのJR名松線に一度乗ったことがある。名松とは名張と松阪を結ぶ目的で計画されたからその名が付いた。現在の終点伊勢奥津まで開通したのは昭和10年、沿線は美杉の名の通り良質の杉が産出されるとあって、この輸送に活況を呈した。国鉄再建法にも赤字路線として廃止候補にあがっていたが、代替道路の未整備などによって廃止が取り下げられ現在も存続している路線です。赤字ローカル線には変わりはないが、雲出川の美しい渓谷に沿って走る風光明媚な路線です。 松阪から乗ったディーゼルカーはたったの2両。夏休みとあって、意外と席は埋まっていました。冷房が入っているので涼しい。上ノ庄、権現前と列車は進むが、乗降客はおらず淡々と停車しては発車してゆく、線路は完全に草に埋もれており、現役のJR路線とは信じがたい。付近を通る伊勢自動車道の高架との対比がなんともミスマッチ、あちらからは時代遅れの鉄道路線とうつるでしょう。一志は近鉄川合高岡との乗り換ええきなのでここで乗客が入れ替わる。ここは一志町の中心部なので結構にぎわっているが、これから先はいよいよローカル線の風情を醸し出してくる。井関を過ぎると雲出川が近づいてきて、路線はぴったりと寄り添っていく。渓流釣りや、水浴びをしているレジャー客がたくさんおり、何か涼しそうだ。家城は当線唯一の列車交換駅なので、上り列車と行き違う。この駅では懐かしい腕木信号機が健在、ポイントも転轍機で操作している。白山高校が近く名松線はこの学校のために存在していると言ってもいい。この駅からはいよいよ山深い渓谷へ入っていく。勾配がきつくなり、カーブ区間も増えるので列車のスピードも落ちる。美杉村が建設したリゾート施設の美杉リゾートを過ぎると伊勢八知、ここは村が管理する駅なのでリニューアルされて綺麗になっている。次の比津は山の斜面にへばりついて存在する。周囲には人家も見当たらない。何でこんなところに駅があるのかと疑わしいくらいだ。駅前の踏切がわびしく鳴り響いている。そして終点の伊勢奥津。駅舎は昔のままの残っており、掃除が行き届いているようにみえる。無人駅だが事務室が乗務員宿舎として活用されており、人の臭いがする駅だ。駅前から名張方面への三重交通バスが出ているがここに立ち寄るのは一日にたった4便。年々本数が減っていったと言う。構内の給水塔がなつかしい。 名松線を訪れたのは今から8年前の夏。沿線風景はそのころを変わっていないようだが、乗客数は年々減ってきており、列車は全便1両の運転となっているという。沿線のなかでも美杉村が特に存続のために熱心な自治体なのであるが、人口の減少もあり決して明るい前途ではないらしい。 その中で白山高校への通学輸送が大きな収入源となるのだが、列車はたった一両のため遅延も多いときく、なにより超満員の列車に乗せられる高校生はたまらないだろう。合理化もいいけど、利用者の立場にたった施策を練る事も必要ではなかろうか。 一応これ青春18きっぷでの旅の話です。冬は寒く見所もないかもしれませんけど、夏は車窓風景を楽しめるはずです。
2004.11.07
俗に紀州夜行と言われた列車が存在した。新大阪から新宮まで結んでいた夜行電車で、片道のみの運行だった。この列車、歴史は古く、天王寺-亀山間を結ぶ夜行列車で、そのころは上下とも運行されており、寝台車も連結されていた隠れた紀伊半島一周列車だったのだ。その後、指定券発行の都合により”はやたま”という愛称が付けられたが、国鉄の合理化の影響で電車に立て替え、運転も新宮までとなってしまった。その後は新大阪まで延伸し、利用者の便をはかった。この列車、紀州の各地へは夜中から夜明けにかけて到着するので別名”釣り夜行”、クーラーボックスを抱えた釣り客が多かったのを覚えている。新大阪発車後は通勤客も沢山のっており、新今宮、天王寺とさらに客を乗せて先を急ぐ。列車は6両編成で後ろ3両は紀伊田辺まで。和歌山を過ぎると通勤客の姿はめっきり減り静寂な車内かと思えば、あちこちで釣り客が酒盛りをしている。彼らが降りるのは紀伊田辺など夜中の2時~3時に停車する駅だから寝ないで釣り場へ行くのだろう。船釣りか磯釣りかわからないが釣り場は危険と隣り合わせ。いいのかなあと思う。切り離しのあった紀伊田辺を過ぎると車内も閑散としてわずかな客を乗せて走る。紀伊勝浦に近づいてきたあたりで夜が明ける。早朝の5時新宮に到着。朝日が駅全体を照らしており眩しい。反対側のホームには大阪方面のくろしおが停まっており、こちらは早朝なのに結構あわただしい。ここで一時間ばかり待って、松阪行きの普通に乗り換えた。 この列車、今はもう存在せず、ピーク時のみ紀伊田辺まで運転される。車両も変わってしまったもよう。沿線の那智の滝は早朝がとても綺麗で、この列車は格好のアクセス列車だったのだが。夜行電車の風情あふれる電車。もう一回乗ってみたかった。
2004.11.03
青春18きっぷ愛好者にとって欠かせないのが大垣夜行、いまは快速ムーンライトながらと名前を変えているが根強い人気を保っている。18きっぷのピークシーズンには指定席が満席になるので臨時列車も出ているほどだ。もともとは普通列車として運行していたが、グリーン車2両も連結する15両の堂々たる普通列車で、名古屋地区ではいささか堂々としすぎていたようだ。たしか豊橋の隣の西小坂井では一番後ろの車両がホームにかからないとの理由で、ドアが開かなかった。初めて乗ったときは品川発だったのだが、すでに普通車は満員、あえなくグリーン車に乗った。これが正解だっただろう。ボックスシートはどこもぎっしりと客が乗っているどころか、通路で雑魚寝している輩もたくさんおり、通行すら出来ない。対してグリーン車はゆったりのリクライニングシートでゆったりとしていたので安眠できた。これが大垣夜行との最初の出会い。それ以降、この列車何度乗ったことか記憶がない、旅行に、ビジネスに大いに活用した。なぜビジネスでこれを利用するのかというと単にカネがないから。あと、東京出張時に最終ののぞみに乗り遅れたという理由で利用したこともよくあった。 ピークシーズンにながらの指定席が取れないので臨時列車を専ら利用した。これは空いていて、ボックスシートを占拠することができた。でもこれ、とっても窮屈なのだ。あちこちで寝苦しい格好でのたうち回っている人を見かける。最終的にはエビのように足を折り曲げて寝る姿勢に落ち着いた。 でもそれはもう昔の話、いまのながらは最新の特急型車両を使っているので、ゆったりとしたリクライニングシートに座る事が出来る。最終電車もかねており、出発直後はあわただしいが、通勤客がいなくなれば車内は静寂そのもの、安眠できるのです。臨時便も今や特急型に変わり、こちらはもとのデラックス車両が使われていて、座席が一段高いし、シートもゆったりしているから安心して眠れる。 大垣夜行は伝統ある列車だが、今も若者を中心に根強い人気を保って運行されている。末永い存続を期待したい。
2004.11.02
みなさんは西村久蔵なる人物をご存知だろうか。昭和の初期に札幌で「洋菓子のニシムラ」を創業した人物で、敬虔なクリスチャンです。それで、三浦綾子著「愛の鬼才」として伝記にもなった。没後50年を経てもなお人々に語り継がれる稀有な存在の人です。残念ながら彼が創業した洋菓子のニシムラ(ニシムラ食品工業株式会社)は昨年2月に破産しており、会社自体は存在しえないのだが、彼のスピリットには私も大きな影響を受けました。 彼は明治31年に小樽で生まれる。父は商人として小樽の大店に勤めていたが、あっさりと辞め、札幌で牛乳店を開業する。洋菓子のニシムラが生まれたきっかけはここにあります。中学生のころにすでに洗礼を受けクリスチャンとなる。後に札幌商業の教師となり、実に多くの教え子たちに親しまれたという。そして、久蔵氏の影響を受けてクリスチャンになった教え子も数知れずいるそうである。 彼とこの本に描かれている彼の家族は皆、人に対してやさしく接しているということ。「困っている人はどんなことであろうと助ける」のが西村家の暗黙の了解だったようで、実に多くの人が常に西村家に出入りしていたそうである。そして、家庭の事情で学業が続けられずやむなく退学せざるをえない事が多々あったこの時代にあって、彼は決してそのような生徒を見過ごさなかったそうである。ある人は牛乳配達をしながら、ある人は洋菓子のニシムラで働きながら、学校を卒業していったそうであります。そして、苦学して学校を卒業したものは皆、ニシムラで働きたいと申し出たようです。これだけ人に影響を与え続けられる人も珍しいでしょう。 彼らはまたアイデアマンであったとも思う。洋菓子のニシムラが創業するきっかけも家業が牛乳屋だったから。不況により大量に売れ残った牛乳をどう処分しようか困っていた折、不意に思いついたのがシュークリームを作る事。当時、洋菓子は高嶺の花。庶民の口にはなかなか入らぬ代物だったのだが、全ての札幌市民に食べさせたいとの意気込みではじめたのが洋菓子のニシムラだったようである。後の戦局悪化は平和産業であるこの洋菓子店を幾度と無くピンチに陥れるが、持ち前の柔軟さで見事に乗り切るのである。 彼は昭和28年、多くの人々に惜しまれながら55歳の生涯を閉じる事になりましたが、以降も多くの人が彼の惜しみ、懐かしみ、その功績を称えているそうです。 没後50年を経ても尚、語り継がれている素晴らしい偉人を紹介しました。
2004.11.01
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