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子どものけんかの意味を考えてみましょう。けんかには友達とのけんか、兄弟姉妹とのけんかがあります。親との愛着の形成ができて、自発性が育ってきた3歳から4歳の子どもは、友達を求めて遊ぼうとする気持ちが強くなってきます。ですからこの間は幼稚園や保育園に入れて友達と遊ばせることが必要になります。家庭でも多くの人が訪れて、いろんな人と接触する機会を提供することが必要なのです。就学前に友達作りの能力が育たないと、その後になってからは、なかなか友達ができない状態になります。子どもは、いろいろな人と付き合うことによって、人を恐れなくなるものですが、その経験が少なかったことと、愛着の形成が不十分であったことや過保護・過干渉・放任などで自主性、自発性が抑圧されたこと等が組み合わさって、対人恐怖症の人が増えているのです。子どもは誰でも自己中心的ですから、友達遊ぶようになると必ずけんかを始めます。けんかは子どもの自発性に基づく自己主張のぶつかりあいですから、子どもの自立性が順調に成長している証です。もし、友達におもちゃを奪われるような時に、それに抵抗しない子どもは、自発性の発達が遅れているのです。深刻な問題だと言えます。また、けんかになると、すぐに泣いて、お母さんに助けを求めるような子どもは過保護に育てられて、自立心の成長が止まっていると判断でます。お母さんに訴えれば、お母さんが助けてくれて、自分の思い通りのことが実現できると思っているのです。大人になって依存性の強い子どもになってしまいます。子どものけんかは親が口を出さない限り、だんだんと仲良く遊ぶ方法を探るようになります。けんかばかりしていては、友達と楽しく遊ぶことができないからです。楽しく遊ぶには、友達に譲ったり、約束事を決めようとしたりすることが必要であることを、子ども自身で考えるようになります。子どものけんかは大人のけんかとは違います。尾を引くことはありません。子どもはけんかをしてもまた仲直りして楽しく遊ぶことができるのです。親が「けんかをするくらいなら一緒に遊ぶな」というのは、子どもの気持ちを無視した言葉です。子どもはけんかをしながら、だんだんと仲良く遊ぶ方法を学んでいるのです。だから親は、危険な行為以外のけんかは子どもにまかせて、決して口には出さないことです。ましてやどちらの子どもがいいとか悪いとかの価値判断をすることは決してしてはなりません。子どもがいじめられて帰って来た時は、「いじめられて悲しかったね」と言ってその気持ちを汲んでやればよいのです。「もっとしっかりしなくてはダメじゃないの」「だらしない子どもね」「もう一度言って仕返しをしてきなさい」等と言えば、劣等感を植え付けて卑屈になってしまいます。親がいじめた子どもの家に押し掛けたり、電話をして苦情を言う等ということは論外です。次に兄弟姉妹のけんかを考えてみましょう。子どもは4歳までは特に母親を独占したい気持ちが強いのです。下の子どもが生まれても、4歳までの子どもがいる時は、下の子の世話を中断して、上の子どもとのスキンシップを大切にした方がよさそうです。兄弟姉妹同士のけんかは大声を出し合ったり、泣きわめいたりするので、親にとってはイヤになるほどうるさいものです。ですから怒鳴りたくもなります。しかし、兄弟姉妹の仲はけんかをしながら育ちあっていく関係ですから、できるだけ叱らないようにしましょう。うるさければ「外でやって」と頼みましょう。兄弟姉妹にとって心の傷となるのは、親がけんかをさばくことです。お母さんの中には、「どっちが先に手を出したの」等と聞いて、どちらがよいとか、悪いとか判定をしてしまう人がいます。このやり方は兄弟のどちらかを罪人にしてしまうことです。罪人にされた子どもは大きな不満を残すようになります。兄弟喧嘩をしない子どもは問題です。子どもが兄弟喧嘩は悪いことにように思いこんだり、お母さんに叱られることを恐れて自分の怒りを押し殺してしまったりしているのです。多くは、上の子どもにそのような状態が見られます。つまり、幼いころからお兄ちゃん・お姉ちゃんの鋳型の中にはめ込まれて、気持ちを表現する自由を奪われてしまっているのです。しかも、そのような子どもは、行儀がよくて、おとなしい。つまり愛着障害をかかえ、さらに自発性の発達が抑圧を受けて、やる気や意欲が乏しい状態で成長してきたのです。お父さんお母さんは、兄弟姉妹が仲良く暮らしてほしいと願っておられることでしょう。それは大人になった時のことであって、それまではけんかを繰り返すことを当然のことと考え、決して裁かず、ひいきすることなく、比較をしないようにして、子どもが成長するのを待ってあげたいものです。(子どもの能力の見つけ方伸ばし方 平井信義 PHP参照)
2016.05.31
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昨日の引き続きです。子どもの反抗期は3つに分かれます。第1反抗期、中間反抗期、第2反抗期です。「第1反抗期」は2歳から3歳の頃です。そのような子どもは1歳台において「いたずら」が許容され自発性が順調に発達してきており、意欲的な子どもです。第1反抗期の特徴は「イヤ」という言葉が多くなることです。子どものイヤだという言葉を少なくするには、「お母さんは、○○をするとうれしいんだけどな」とか、「お母さんはそれをされるとイヤなの」などと私メッセージで対応することです。あとは子どもまかせるのです。すぐにいうことを聞いてくれないかもしれませんが、お母さんの気持ちは子どもに伝わります。そして、次からの行動が少しずつ変わってきます。思いやりの心が芽生えてくるからです。第1反抗期は「自分でする」と言って親たちの援助を拒否する言葉が多くなるものです。それは何もかも自分でやってみようという自発性・独立心の現れですから、子どもの言葉を尊重する必要があります。なかなか成功しないと、イライラして泣いたりします。悔し泣きです。「ほらごらんなさい」「できもしないくせに」と非難してはいけません。これらの言葉をあびせられた子どもは劣等感で卑屈になってしまいます。そんな時は「この次は頑張ろうね」と、再び挑戦してみようという意欲を刺激しておくことです。「中間反抗期」は7歳から9歳にかけてです。口答えが多くなります。理屈の多い言葉によって反抗する状態がはっきりと現れてきます。親にとってはなんでも反抗されては腹が立ちます。なんでうちの子は素直でないのだろうと思ってしまいます。しかし子どもの発達過程から見ると反抗するというのは、自己主張のできる子どもに育っているということです。普通親は子どもが自分たちの言ったことに素直に従ってくれることを望んでしまいます。これは子どもを親に服従させ、屈服させている状態です。登校拒否や神経症、心身症等で悩んでいる子どもたちの過去は、親に服従する形での素直であって、自分の気持ちに素直になっているわけではないのです。「第2反抗期」は思春期です。中学生の頃です。この頃はアイデンティティの確立。自我同一性、性同一性の確立時期です。つまり自分は何者か。自分はどう生きていけばよいのかを考え始める時期です。精神的に親から離脱していく時期を迎えているのです。それまでに親や教師から教えられたことが本当に人間として正しいことなのか。それらを疑い始め、自分なりの考えを持とうとします。その過程で、親や先生に言われて自分に取り入れてきた価値観を全面的に否定することから始めます。親たちに何か言われても、明らかに不快感を現し、黙秘したり、「うるさい」と言ったりして、反抗するようになります。親はどうしてこんな悪い子になってしまったのだろうと右往左往するかもしれません。心配は無用です。独立心があり、自発的で責任感のある大人に成長するためにどうしても通過しなければならない関所のようなものなのです。ここで慌てて、子どものいいなりになって甘えさせたり、命令、干渉、支配を前面に出して子どもをコントロールしようとしてはなりません。最近、無気力、無関心、無感動、無責任、不作法の五無主義の子どもが増加しています。これらは第2反抗期を乗り越えていなくて、自分が混乱している状態なのです。このように見てくると年齢に応じた反抗期は、子どもの発達にとって必要不可欠なものです。親は子どもの反抗期の持つ意味をよく理解する必要があります。親は子どもに「かくあるべし」を押し付けるのではなく、子どもの成長を見守っていくことが大切なのではないでしょうか。(子どもの能力の見つけ方伸ばし方 平井信義 PHP参照)
2016.05.30
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子どもは成長するにつれて、いたずら、冒険、反抗、けんか、ふざけ・おどけなどの行動が増えてきます。これらについて子どもたちが親の干渉を受けることなく経験を蓄積していくことが大切です。ところが親は自分の「かくあるべし」を前面に出して、間違った対応をしていることが多いものです。今回は冒険するということを見てみましょう。冒険というのは危険のあるものに挑戦するということです。困難と思えるものに挑戦するというのは、意識を内向きから外向きにしてくれます。冒険して、何かを達成したり、乗り越える体験は子どもに自信をつけます。そして自分の存在意義を確かなものにして、自分を肯定することができるようになります。今はいたるところにアスレチックがあります。どこでも家族ずれで子どもたちは活き活きと遊んでいます。なかには大人でも恐怖を感じる遊び道具があります。高いところにロープを張り、板の上を歩かせるもの。ワイヤーロープに滑車とロープをつけて谷の上を移動させるもの。30mの塔の天辺まで登らせるもの。巨大滑り台を滑り降ろさせるものなどいろいろとあります。最初は子どもたちは他の子が挑戦しているのをじっと見ています。そのうち恐る恐る出発点までゆきます。でもなかなか踏ん切りがつきません。でもなにかの憑き物がとれたように思い切って挑戦します。仮に手を離したり、間違った動きをすると大けがにつながります。親は下で見ていて気が気ではありません。もし落ちてケガをしたらどうしようか。真下まで来て落ちたときに抱えるように準備をしています。でもほとんど子どもたちはケガはしません。反対にできたという満足感で得意げです。自信がついて次からは自由自在に楽しむことができるようになっています。もし挑戦をあきらめていたら、悔いが残り、いつまでも自己嫌悪で苦しむようになるのではないでしょうか。これが神経症発症のもとになります。なかには親がそれは危ないからといって、子どもを引きずり降ろそうとしている光景も見られます。これは過保護であり、子どもの成長にとって害になるのではないでしょうか。子どもがせっかく挑戦しようと思っているのに、「やめなさい」等といって禁止をしてしまうのは、子どもの自発性を育てようという教育方針がないのだと思われます。たまにケガをして泣き叫ぶ子どももいます。でもそのケガのおかげで注意力が増し、行動が慎重になるのだと思います。かえってかすり傷を作るくらいの遊びの方がスリルがあります。冒険をしていて失敗すると、すぐに親が駆け寄り、抱き起したりするのは如何なものでしょうか。子どもにとっては困った時はすぐに誰かが助け起こしてくれるものだという気持ちが作られ、転んだ時はわあわあと泣き叫ぶようになります。そうなると依存心が強くなり独立心の発達が遅れます。青年期になってもいつまでも親に経済的、精神的な面で依存するひ弱な子どもになってしまいます。平井さんの夏季合宿で崖登りをさせるそうです。普通は面白そうだと果敢に挑戦する子どもが多いのですが、最近はすぐに「疲れた」「なんでこんなことをしなければならないんだ」と意欲が乏しく、大人を非難する子どももいるそうです。子育ての面では実に嘆かわしいと言わざるをえません。(子どもの能力の見つけ方伸ばし方 平井信義 PHP)
2016.05.29
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5月27日17時過ぎ、オバマ大統領が広島にやってこられた。私は会場の平和公園近くで会議が同時刻にあったため交通渋滞に巻き込まれた。オバマ大統領は岩国の米軍基地から旧広島西飛行場にヘリコプターで来られた。安倍総理は旧広島市民球場にヘリコプターでやって来られた。その間広島電鉄はストップ。道路規制もされた。原爆ドーム前は完全封鎖であった。そのため大渋滞になったのである。各県の警察官の応援体制はすごかった。なかには熊本県警、警視庁の制服を着ている人もいた。熊本県警の人は地震対応で忙しかったでしょうが、応援要請がきたのでしょう。かなり離れた高速道路出口では沢山の警察官が検問を行っていた。さて、オバマ大統領の広島滞在時間は50分であった。その日のうちに帰国するという。50分の中身は、原爆資料館の見学に10分、演説に17分、その他献花、原爆被害者との会話などであった。あっという間の出来事であった。ともあれ現職のアメリカの大統領が、国内の軍人の反対を押し切って広島を訪れたことは驚きだった。来年1月任期切れとなるので思い切った行動ができたのだという人もいる。オバマ大統領は核なき世界の実現をプラハでおこなってノーベル平和賞をもらっている。その一環なのだろうか。しかしロシアと並んでアメリカは最大の核兵器保有国である。それ以外にもイギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、北朝鮮、イスラエルが保有国となっている。またアメリカはドイツ、イタリア、オランダ、ベルギーに核弾頭を実戦配備している。日本は使用済みプルトニュームを多量に抱えているし、アメリカの原子力潜水艦が日本の港を母港としているところを考え合わせると実戦配備されているのと何ら変わりがない。そして一番の問題は、それ以外の現在戦闘地区の国などが核保有国になっている可能性があることだ。特にIS等が保有していると大変なことである。どこかで暴走するという可能性は大いにあるということが非常に不気味である。仮に一発大都市に向けて発射されれば、必ず報復措置を受ける。すると人類の滅亡はにわかに現実味を帯びてくる。これほど核保有国が増えてくると核を持たない国は交渉で不利になってくる。交渉できないということは、その国に経済的にも精神的にも支配されてしまうということである。だから今となっては核のない社会を作るというのは絵に描いた餅を食べようとするようなものである。現実的ではない。もう核を持ってはならないということを宣言しても何の意味もないと思うのである。だったら核が暴発してもよいというのか。そうではない。そうなれば70億ともいわれる全世界の人が絶滅してしまうのである。そういうジレンマの中にわれわれは生きているということである。私はオバマ大統領に原爆資料館を時間をかけて見てもらいたかった。10分だけでは短すぎる。外相会議後にケリー国務長官は時間をかけてみておられた。あそこに入り時間をかけて見ていると、原爆の悲惨さがよく分かる。出たときには、誰でも核戦争は絶対に起こしてはならないという気持ちになる。原爆で亡くなった人は、命をかけてその悲惨さを今に伝えてくれているのである。原爆慰霊碑には、「安らかにお眠りください。過ちは繰り返しませぬから・・・」と刻まれている。本当に過ちは決して起こさないと約束できるのであろうか。このことを実践するためには、核保有国の大統領や首相等が広島や長崎の惨状を直に見学して決意を新たにすることしかないのではないかと思うのである。それ以外にも全世界の人に原爆資料館を見て核爆弾の恐ろしさを感じてほしいのである。
2016.05.28
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子育てがうまくいかずに悩みを抱えている親は多い。集談会でもそういう人がお見えになる。特に不登校、いじめ、引きこもり、家庭内暴力などで相談に見える方も多い。私は子育てにあたっては、信頼できる人に子育ての基本を学ぶことが大切だと思う。できれば子育ての勉強会に参加すること。できなければ下記に紹介することを学習すること。何を学ぶことが必要か。1、 まず愛着の形成です。1歳6カ月までの事です。遅くても3歳までです。これ以降愛着が形成されることはありません。愛着障害は精神的に不安定になり、神経症の原因となります。これを言いだしたのはボウルビィ・Jですが、日本では岡田尊司さんが第一人者です。岡田さんの愛着障害の本で学習することです。2、 次に本格的に子育てが始まります。どんな子供に育てたいのがしっかりとした目標を持つことだと思います。この段階の子育てには平井信義さんの子育て方針をしっかりと学習することです。平井さんの提唱されている目標は大きく分けて2つあります。3、 一つ目の目標は、精力的で自発的な子に育てることです。これは森田理論でいうと「生の欲望の発揮」に邁進している子どもに育てるということです。将来親離れしたとき、他人と協力し合いながらも、経済的にも精神的にも自立して生きていけるような子どもに育てるということです。4、 次に「生の欲望の発揮」が暴走してはなりません。欲望の暴走に自ら制御をかけられる人間に育てるということです。これは森田理論でいうと、人間にはもともと、あくなき欲望を追い求めていくと、それにブレーキがかかるように作られています。車でいえばブレーキが標準装備されているようなものです。アクセルをふかさないと前に進むことはできませんが、ブレーキがないと事故を起こして、最悪命を落としてしまいます。つまり欲望の追求はほどほどのところに抑えて、調和を図ることが必要なのです。これは他人を思いやる心に通じます。以上のことを学習して子育てを進めてゆけば問題児は起こらないと思われます。現状は親が子育ての学習をしないで、無意識に自分を育てた親のやり方を踏襲している場合が多いのではないでしょうか。基準がないので自分の子育てのどこが間違っているのか気がつかない。その結果子どもに深い傷を負わせ、親は子どもの動向にビクビクしながら息をひそめて生活しなければならなくなっている。たとえば、3で述べた「精力的で自発的な子」に育てることは大変に重要です。子どもはもともと好奇心旺盛、精力的、活動的、遊び心いっぱいです。もともと自主的、自発的な芽を持っているのです。それを順調に育てているかどうか。どこの子どもも幼児期はいたずら好きです。くずかごをひっくり返してグチャグチャにします。ティッシュペーパーを引っ張り出して散乱させます。あるいは障子をつついて穴だらけにします。お母さんの化粧道具をとりだして、顔に塗りたくったり、鏡にクリームをつけたりします。親の大事なものをいじくったり、落して壊したりします。つまり、子供のいたずらは親にとっては困ったことが多いのです。物をグチャグチャに散乱させる。いろんなものを壊す。部屋を汚す。着ている服を汚す。言ったことをしない。グズグスしてもたもたとする。そのうち「嫌だ」を連発し、口答えをする。これらに対してあんまりではないか。こんなことを許容していたらわがままで勝手で自己中心の子どもに育ってしまう。ろくな大人にはならない。人に迷惑をかけて大事件を起こすようなことにならないか。自分の不快な気持ちがふつふつと沸いて、そのやりきれない気持ちを子どもにぶっつけないと精神的な病気になりそうだ。そこでしつけと称して、子どもを叱りつける。叩く。命令して、子どもを親の言うとおりにコントロールしようとする。子どもの人格否定をする。子どもがいうことを聞かなくなると、「もうかってにしろ」と子育てを放り投げてしまう。なかには育児放棄をする親もいる。ネグレクトである。こんな悪循環に陥っていることはないだろうか。これは子どもを「精力的で自発的な子」に育てるという目標を放棄している状態です。その目標を放棄してしまえば、将来何らかの問題が発生します。その時に気がついたのではもう遅いのです。その目標がしっかりしていれば、基本的には子どもの自由にさせてあげる。子どものすることは大目に見てあげる。ゆっくりやらせるために時間を長くとってやる。できもしないのに自分でするといった時は、じっと待ってあげる。壊されるとどうしても困るものは片づけておく。そういう意味では、子どもが親に反抗しなくなり、借りてきた猫のようになっている方が問題です。また素直で親や先生の言うことをよく聞く、おとなしくて、礼儀正しい子どもは体力的、精神的に成長してきたときに反抗して、必ずと言ってよいほど深刻な問題を突きつけます。平井先生は、親に「早くしなさい」といわれて、早くするような子どもは、本来の子どもの生き方を廃業している子どもだといわれています。(子どもの能力の見つけ方伸ばし方 平井信義 PHP参照)
2016.05.28
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森田理論学習の「純な心」でいつも例に出されるのが皿を割った時の話です。「しまった、おしいことをした」驚いて思わず繋ぎ合せてみる。ここから出発すればよいが、「こんなところへ皿を置いておくのが悪い」「いまさら繋ぎ合せても仕方がない」「どう言い訳をしようか」等と考えて対応策を考えていると状況は悪化していくということでした。平井信義さんが、子どもがお母さんの食器の収納の手伝いをしていた時、持っていた皿を割った時の対応について説明されています。皿を割ったことにこだわっているお母さんはこんなことを言います。「なにやってるのよ」「あんたがちゃんと持たないからこんなことになるのよ」「不注意な態度のあんたが悪い」「もう手伝わなくていいから、あっちに行ってらっしゃい」言葉だけではなく、なかには叩いたりして体罰をあたえる親もいます。そのうち、「あなたは普段から落ち着きがないからこんなことになるのよ」などと、皿が割れたこととは関係のないことを持ちだして、子どもを非難します。人格否定です。子どもは親から叱られるのをじっと聞いていると嫌になりますから、手遊びなどを始めるでしょう。そうしますと、「人の話をちゃんと聞いていない」などと言って、さらに叱ったり叩いたりします。子どもは皿を割った瞬間「しまった」と思っています。だから親はそれに輪をかけて叱りつける必要はないのです。皿は壊されたけれども、これを機会に、それを子どもの人格形成に役立たせるにはどうしたらよいのか考えてみることです。それには、失敗の体験を成功の体験に変えてあげることが大切です。そのためには「この次には頑張って上手に持ってね」と励ますことが必要です。こうした励ましの言葉によって、子どもは「この次にはこわさないで運ぶんだ」という決意とともに、困難に挑戦しようという意欲が盛んになります。そして子どもが次に挑戦してくる機会を待つことです。次に挑戦してうまくいくと、「ヤッタア」という気持ちになります。親は両手をあげて喜んであげましょう。こういう態度でいると、子どもは小さい成功体験を積み重ねて自信をつけて、自己の存在意義を確かなものにしていくのです。後始末はどうしたらよいでしょう。「自分でしたんだから、自分で片付けなさい」あるいは、「じゃまだからあっちに行ってらっしゃい」と命令し、自分でさっさと片付けてしまうのはいただけません。子どもの人格を伸ばそうとしているお母さんは、こわれた破片がどのように飛び散っているか、それをどのようにすればきれいに後始末できるかを、子どもに教えるために、子どもといっしょに後始末をするものです。大きな破片を取り除いた後、小さな破片は、新聞紙を水でぬらしてそれをちぎってばらまき、それらをほうきで掃くとか、ガムテープを使ってそれに貼りつかせるとか、いろいろな方法がありますから、それらを子どもに教えることは、次に失敗をしたときの後始末を自分できちっとすることのできる子どもを作っていくわけです。つまり子どもは、親がいなくても、壊したものを適切に処理することができるようになるのです。(子どもの能力の見つけ方伸ばし方 平井信義 PHP参照)
2016.05.27
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私は集談会で行なわれている森田理論学習はまだ工夫の余地があると思っている。新版森田理論学習の要点はよくまとまっていると思うが、掘り下げて説明はされていない。そうかといってそれを補う副読本も用意されていない。現在10名以下の少人数で理論学習をおこなっている集談会が主である。学習を先導する先輩会員の参加がないという場合も存在する。これを読み合せている学習会でどれほど学習が深まっていっているのだろうか。マンネリ気味の学習会で人が寄りつかなくなることはないだろうか。テーマとしては、神経症の成り立ち、神経質の性格特徴、感情の法則、行動の原則は森田理論の基礎的学習として申し分のないところである。内容も比較的よい。問題はそのあとである。まず認識の誤りについての説明がない。認知療法であげられている認知の片寄りの学習は是非とも取り入れてほしいところである。それから森田理論の枠組みを説明した学習内容が組み込まれていないのが残念である。森田理論のスキームがわからないので、思いつくままに手あたりしだい、森田のキーワードを学習している状態である。これは木を見て森を見ずという状態である。そうなると、個々の難解な森田の用語の意味はよく分かっているが、実際の自分の生活、生き方に跳ね返ってこないのである。学習のための森田理論学習ではあまり意味はないと思う。実践的で応用的な森田理論学習こそが重要だと思う。私は森田理論全体像が見えてきた時点で、目の前の霧が一挙に消えて視界良好となった。これが分かると森田理論の体得は、一段階も二段階もレベルアップできると思っている。私は、森田理論は4つの大きな柱からなっていると思う。生の欲望の発揮、欲望と不安の関係、認識の誤り(とりわけ「かくあるべし」の発生と苦悩の始まり)、事実を受け入れる生活態度の養成である。学習方法としては、まず森田理論を俯瞰して森田理論の全体像をつかむ。そしてこの4つの柱の学習を深耕していく。またこれらは単独に存在しているのではなく密接な相互関係を形作っている。その関連性の学習こそが大切だと思う。基礎編の学習を終えた後は、応用編とも言うべきこれらの学習内容を基礎にすえるべきであると考えています。この内容はすでにこのブログで説明しているので、関心のある方はキーワード検索してみてほしい。(森田理論全体像など)その上で、森田理論学習のテーマ集を作って、この秋の研修会に提示しようと思っている。この内容は今のところ次のようなものを試作しており、原案はすでにできている。完成までにはまだ相当修正があるかもしれない。1、 生の欲望の発揮とは2、 認識の誤り、認知の片寄りについて3、 神経症が治るとは4、 感じを発生させる、感じを高める5、 リズムに乗る生き方6、 「かくあるべし」人間の特徴7、 事実は4つに分けて考える8、 事実に向き合う姿勢について9、 「純な心」の理解と体験学習10、 「私メッセージ」の理解と体験学習11、 神経症の克服に向けてその1 不安受容モデル12、 神経症の克服に向けてその2 事実受け入れモデルこれは森田理論全体像を学習した人が学習を深めるためのテーマ集である。その日の学習テーマが決まらないときにどれか一つを取り上げて学習する。どのテーマもA4サイズで4枚以内に抑えている。というのはA4サイズ1枚当たり読むのに約5分ほどかかる。2枚で10分。3枚で15分。4枚で20分かかる。これは以前作った「新版 実践的森田理論学習」と「すぐ役立つ 実践的森田理論活用法」というテキストの反省からきている。それぞれA4版で99ページ、66ページあり手軽に読むにしてはボリュームが大きすぎたのだ。渾身の作であったが、集談会などで十分に活用されたとは言い難い。そこで今回は主なテーマを決めて簡単に問題提起をし、後は相互学習で深めてもらうことにした。テーマごとに話合う課題を設けているので、感想、質疑応答、自分の体験談などを交えて30分程度話し合いをして学習してもらいたいと考えている。あとイラストも4枚用意しているので体験学習もしてもらいたいと思っている。特に少人数の集談会を意識して、学習会に参加して役に立ったという気づきや発見をしてもらいたいのである。2人集まればどこでも深まりのある森田理論学習ができることを願っている。
2016.05.26
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「形外先生言行録」より山野井房一郎氏の文章を紹介します。森田先生は、物事を処理するについて能率をあげるべきことを強調されました。それを箇条書きにすると、おおむね次のようであります。1、 処理する仕事が二つ以上あって、自由に選択することができる場合は、まずやさしい仕事から手をつけること。2、 考えてばかりいないで、まず着手すること。3、 一つのことを長時間しないで、仕事の転換を図ること。「休息は仕事の中止ではなく転換にあり」とは、森田先生の名言であります。4、 仕掛けている仕事は、しまいこんでしまわないで、目につくところに出しておくこと。森田先生は限られた時間を有効に使うことを言われている。これは物の性を尽くすこと説明をされているのだと思う。これは物、お金、自分、他人だけでなく時間についても言えることです。のんべんだらりと時間を浪費するのではなく、時間を有効に使うことを勧めておられるのだと思います。自分に与えられた時間を2倍3倍にも活かしてより多くの成果をあげていくこと。緊張感を持って、集中して時間を使うと相当の仕事ができる。その時の心構えを4つに分けて説明されているのだと思います。その内容は、考えすぎないようにして、尻軽く目についたところからどんどん手をつけていく。やりやすいところから手をつけていく。すると弾みがついて、もっと難しい仕事にも自然と手がつけられるようになってくる。一つの仕事を長時間続けていると、疲れてくる。慣れが出てきて飽きがくる。モチュベーションが下がってくるので、そういう時はその仕事を中止して、他の仕事に転換していく。そうはいってもなかなか手足が出ない人がいる。そんな人に対して、山野井さんは次のように述べておられます。相撲でテレビを見ていますと、負けが多い力士について、「自信を失ったからいけないんですよ。必ず勝つとの自信で立ち向かえばよいのですが」等と放送します。スランプに陥ってストライクの出ないピッチャーについても、同じような批評が行われていて、多くの人が、これを不思議とせず、そのとおりに受け取りますが、これは間違っていると思います。森田先生は、そのようには教えられず、自信のないことはやむをえないから、自信のないままに、不安のままにことにあたることを勧められました。古閑先生の語に、「仕事の当初に興味や自信はいらない。まず環境の求むるままに着手せよ。興味は仕事の過程における工夫そのものであり、自信はその完結、終末において生ずるものである」とありますが、名言と思います。自信は小さな成功体験を積み重ねることから生まれてきます。麓から高い山を見て「こんな山はとても登れない」と最初からしり込みしていては自信が生まれることはありません。大きな目標はいくつもの小さい目標に分解し、考えつく限りの出来るだけの準備をして、後は運を天に任せて思い切って挑戦してみることだと思います。たとえ失敗しても次回の成功に向けて、数多くの教訓を与えてくれることになるでしょう。
2016.05.25
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今日は食事のことについて書いてみたい。私は以前、「水分の摂り過ぎは身体を冷やす」という内容の本を読んで、昼間水分を出来るだけ我慢していたことがあった。するとしばらくして尿道結石なった。明け方下腹が痛み出して救急車で病院に運ばれた。尿道結石の痛みは原因が不明の時点では死ぬほどの痛みがある。後で思ったことは、たしかに水分の摂り過ぎは「水毒」といわれるぐらい身体にはよくないのだと思う。体が冷えるもとになるからだ。しかしこれも程度問題である。基本的には適度の水分を補給しないと生理的に身体の変調を招く。ほどほど、中庸を心がけた生活が一番大切だと思う。私の場合はこれがいいと思うと、後先考えられなくなり、盲目になり突っ走ることころがある。これが神経症で苦しんできた一因にもなっているようだ。普段の食生活は基本的に次のようなものだ。もう10年ぐらいにはなると思う。現在朝はニンジン・リンゴジュース一杯だけで済ませている。昼は塩コンブと梅干しを添えて玄米ご飯を軽く一杯。あとはみそ汁である。夜は自由にしている。ほとんど晩酌をしている。といっても350ミリのカロリーオフ、糖質ゼロ、プリン体なしのビールを1、2本飲んでいる。つまみはピーナツだ。たまに焼酎のお湯割り、日本酒を飲むこともある。こちらは少しだけだ。後は刺身が好きなので、イカやタコ、かつおのたたき等をよく食べる。その他小魚をよくたべる。肉は豚肉を少々食べるぐらいだ。野菜は必ず食べている。冬は筑前煮など。夏はトマト、キユウリ、なす等の果菜類が多い。生野菜も多い。その他漬物もよく食べている。間食はせんべいをかじることもある。基本的には間食は控えている。間食をすると太るような気がする。昔の人は一汁一菜の食生活であったという。私もこれがいいのではないかと思っている。私は主食にはこだわりがある。ご飯の基本は玄米ご飯である。それに五穀米を混ぜている。それ以外、週1回は、白米をちらしずし、竹の子等のかやくご飯、チキンライス、カレー、手巻きずし、握りずし等にしている。麺類が好きなので、つけ麺、冷麺、ソーメン、ラーメン、日本ソバ、ナポリタンのスパゲッティなどもよく食べる。特にこの時期は広島発祥のつけ麺が最高である。湯がいたキャベツをたっぷりつけている。トウガラシの効いたタレにやみつきになっている。こんな具合に週に一回ずつは麺類、変わりごはんを楽しんでいる。これになめこやあさりの味噌汁、または豚汁やけんちん汁のようなものがあれば最高の贅沢である。アレンジを工夫すれば、いろいろと食事を十分に楽しむことができる。ただ、私の食事は、孫のような若い人には決して勧められないものだと思う。孫は朝ごはんをしっかり食べたほうがよいようである。代謝能力が落ちてきた私のようなものだからこそ合うものだと思う。あと健康面では毎日のように階段を上り下りする運動がいいような気がしている。今のところ生活習慣病の結果では目立った大きな障害は発生していない。
2016.05.24
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ここ2日間それぞれ1000人を超える閲覧者があった。私は1日500人ぐらいのアクセスが限度かなと思っていたので少し驚いている。新しい閲覧者の方にぜひお伝えしたいことがある。それは森田理論学習の意義についてである。森田療法は神経症克服のための心理療法で思っておられる方は多いと思う。それは少しはあたっているが、ほとんどはずれている。神経症で蟻地獄に落ち込みもがけばもがくほど深みにはまり深刻な状態を招いている人に言いたい。そういう人は治療の幅を広げたほうがよい。どんな治療法があるか。まず薬物療法がある。次にカウンセリングがある。精神療法としては30種類ぐらいある。その一つとして森田療法がある。心理療法全体から見ると極めてマイナーなものである。精神療法の主力は認知行動療法である。その他精神分析、論理療法、人間関係療法、内観療法等は有名である。これは私が説明するまでもなくみなさんがよくご存知かもしれない。さて、「森田理論学習」は神経症が少し改善したところで役に立つ代物なのである。それは神経症が改善し、なんとか生活できるようになったからといって精神的に楽になっていないからである。今や人生90年といわれている。その間悶々と悩み続け、苦しい人生に甘んじて生きていくことはしんどい。それに光をあてて光明を見出してくれるのが、「森田理論学習」なのである。だからここでは森田療法とは一線を引きたい。当面の神経症を治すというなどという次元の低い物ではないからである。「森田理論学習」での柱は大きく分ければ2つである。これが自分のものとなり血肉化できれば、神経質性格者のその後の人生は大きく変わる。人間に生れてよかった。神経質性格に生れてよかったということがしみじみと体感できる。その後は味わい深い人生を送ることができるようになる。その柱の一つは「生の欲望の発揮」ということである。注意したいのは無制限に突き進んではいけないということである。人間の特性として欲望があれば不安が発生する。「生の欲望の発揮」にあたっては、不安に学んで欲望を制御して調和を図っていくということが肝心である。二番目に基本的には「事実を受け入れていく」ということである。これにも注意点がある。すべてではない。一部は将来のことを考えて事実を受け入れるのではなく、対策を講じるという面もある。たとえば地震対策をしておく。生命保険、自動車保険に入っておくなどである。しかし、これは事実の面からみればほんのごくわずかである。基本姿勢は、どんな感情でも、理不尽な出来事でも「事実を受け入れていく」態度を作りあげていくことです。さて「事実を受け入れていく」ためには、事実をよく観察する。両面観で見る。先入観や決めつけは行わない。そして具体的、赤裸々に話すことが大切です。次に大きな障害となっている「かくあるべし」を少なくしていくこと。「純な心」や「私メッセージ」の体得はその手段となります。さらに比較検討することは必要ですが、「是非善悪の価値判断」をしないようにする。事実だけを見つめていく態度を養成していくこと。それ以外の価値判断は余計なことである。「森田理論学習」が目指していることは以上です。とてもシンプルな理論なのである。言葉でいえば簡単ですが、その意味する内容はとても深い物があります。生涯学習として取り組んでも次から次へと新しい発見があります。神経質性格の人が味わい深い人生を全うしたいと思われれば、是非とも深めていってほしいものだと思います。それは一人では大変困難だと思いますので、生活の発見会の集談会のような場で学習を継続することが必要だと思います。人生観を確立するために月1回定期的に集まり「森田理論学習」をしている集いは、私の場合、今のところ集談会以外では見出すことはできない。
2016.05.23
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古代ローマ帝国は、イギリスを含むヨーロッパ全土、中近東全域、北アフリカを支配していた。こうしたローマ帝国の拡大は侵略戦争によってもたらされた。カルタゴを支配下に収めた後は次々に戦争を仕掛けていった。戦争に勝利すると、殺戮と収奪を繰返していった。敗戦国を植民地化し、農地、工場、財産、鉱物資源等を取り上げた。極めつけは人々の奴隷化である。その戦利品は海や陸路でローマに運ばれた。従属国はローマから支配者を送りこんだり、傀儡政権を樹立させて収奪をし続けていった。戦利品や収奪によってごく一部のローマ人は贅の限りをつくした。これは自分たちの果てなき欲望充足のための侵略戦争だったのだ。世界中から暴力と不正でかき集められた巨富の上に築かれた文明は、不健康な奢侈・美食に投ぜられ、非生産的、無益に浪費された。古の健全なローマ人たちの生活、社会が失われて、嘆かわしい現実を露呈するようになった。端的には食の崩壊、人間の奴隷化とその支配、性の退廃等であった。ローマ人は世界中からあらゆる珍味をかき集めた。それらを出来るだけ腹に収めるために食べたものを吐くことを習慣的に行っていたという。食べるために吐き、吐くために食べるというありさまだった。敗戦国の人を奴隷化してどんなことをさせていたのか。大富豪の家では奴隷群をローマ市で使う都市奴隷と田舎の農地や別荘で使う田園奴隷に分けていた。都市奴隷は屋内奴隷と屋外奴隷に分けていた。平均的な元老院議員は、少なくとも500人の奴隷を持っていたという。奴隷は基本的には自由を奪われ、金輪をはめられて管理されていた。屋内奴隷には、服装の管理、食器の管理、化粧係、料理係、接客係等きめ細かく分けられていた。なかには宴会で吐き戻されたものを掃除する専用の奴隷までいたという。夜の饗宴は毎日のように開催され、そこでは金持ちたちが見栄を競い富を見せびらかす格好の場となっていた。性の荒廃ぶりはここで紹介するのもはばかられるほど堕落したものであった。ローマで暮らしていた奴隷はまだましな方だったという。地方で農作業などでこき使われていた奴隷の生活はまさに使い捨てであった。ローマに住んでいた一般人はそのおこぼれにあずかって少なからず文明の恩恵を受けていたので実態がよく見えないように隠されていた。このように無敵を誇ったローマ帝国であったが、必然的に内部から崩壊し、ゲンマン人の攻撃で30年で跡かたもなく消え去っていったのはむしろ当然の結末であった。これは現代人に何を教えてくれているのだろうか。人間は自然のままに放っておくとほとんどの場合欲望の暴走が起きる。そしていったん弾みがついて走り出すと破滅を迎えるまで止まることはない。最後地獄をみて終焉となる。快適で便利な食欲、物欲、性欲のはてない欲望を求めていると、自然の成り行きとして他人の物を侵食するようになる。他人のものを力づくで奪って、自分の欲望を満たそうとする。安易な考えである。そしてさらに自分の欲望をかきたてていく。人間は戦争を繰り返し、殺し合いをしながら、自分たちの欲望の充足のことばかり考えて生きてきたのである。今でも軍事力や武力による戦いが仕掛けられることがある。この戦いに負ければ、戦勝国への隷属の道が待っているのである。それを受け入れることは悲惨な道を受け入れということだ。今や戦争の主力は経済戦争である。経済力がある国が、軍備を背景にちらつかせながら、経済力のない国の資源、財産、富を収奪していく。これは極めて合法的、隠密裏に行われておりその矛盾に気づく人はいない。一部の有識者は果敢に戦いを挑んでいる。武力や経済力で侵略されたものは、その圧力に抵抗出来るだけの力を持っていないとすぐに制圧されて支配されるようになる。抑圧され、被支配される生活は、支配者が滅びるまで甘んじて引き受けなければならなくなる。ですから対等の軍事力を持ち、対等な話ができるように準備しておかないと大変なことになるのは誰にもわかる。きれい事ではすまされない。戦争反対だと表面的なことばかり言っていても、人間の尊厳を脅かし、人間の奴隷化に甘んじることは、もっと人間を窮地に追いやることになる。今多くの国が核を持っている。これに反対する人は多い。これが使用されて人類が滅びてしまうことを考えているからである。もちろん使用されれば人類の将来は閉ざされてしまう。でも反面核を持ち同じ話し合いのテーブルにつくだけの用意をしておかないと、一方的に支配―被支配の関係にすぐ陥ってしまう。きれい事だけでは人間の尊厳は守れないのである。しかし一方ではそのようなことも考えながら、根本的なことは、欲望の暴走は人類の悲惨な歴史の繰り返しの連続であったという事実を見つめて、なんとか欲望の暴走に制御をかけるという文明論を学習する必要があるのではなかろうか。これは今のところ人類は全く手つかずである。巧妙にカモフラージュされて、人間は欲望の暴走への道をひた走っているのである。これこそが最大の問題だと言わざるを得ない。(ローマはなぜ滅んだか 弓削達 講談社現代新書参照)
2016.05.22
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子育てする人には是非とも学習しておいてもらいたいことがある。それは愛着障害のことである。愛着障害を持っている人はとても生きることがつらい。生き地獄の生活を味わうことになるからである。この内容については何度も投稿しているので、関心のある方はキーワード検索で見てほしい。愛着障害は生後6カ月から1歳6カ月の愛着形成期を無難に過ごすことができたかどうかが一番の問題となる。さらにその後3歳までの親との関わり方が決定的となる。問題育児の一例をあげてみると、子育てに無関心な親で身の回りの世話をしてもらえない。育児放棄や虐待を受けていた。この時期に母親が働きに出ていてそばにいなかった。次に生まれた子どもに手がかかり、ほったらかしにされていた。養子に出される。児童養護施設で育てられる。実母がこの時期に亡くなった。両親がしょっちゅういさかいを起こしていた。挙句のはてに離婚した。一方的な過干渉、過保護などの育て方をされた。愛着障害が問題なのは、この期間を過ぎた後では十分な成果を上げることはないことだ。この間、特に母親の間に十分なスキンシップがあったかどうか。母親が子どもの欲求を感じとり、それに対して速やかに応答してきたかどうかが問題となる。これは他人に肩代わりしてもらう事は出来ない。自分を生んだ母親や父親など特別の存在との交流が重要である。それはイスラエルのキブツでの実験で明らかになっている。生まれたての子どもに対して、母親と切り離して、多くの大人が子どもに関わりをもち、かわいがり、十分なスキンシップをしたが、安定した愛着が育っていくことはなかったそうだ。こうした実験はサルでも行われていたが、あまりにも問題が大きく、倫理的な観点から母子隔離・単独飼育は現在行われていないそうです。この時期を無難に過ごし、いったん愛着の絆が形成されると、それは容易に消されることはない。心の中に「安全基地」「ベースキャンプ」を持っていて、そこを足がかりにして冒険をすることができるようになる。そして危険なとき、苦しい時は、安心してそこに退避できる。さらにエネルギーを補給して再び飛び出すことができるようになる。エベレスト登山のような場合、「安全基地」「ベースキャンプ」がないとどうなるか。シェルパや支援部隊がいないと、急な悪天候で容易に挫折してしまう。愛着の絆の形成はそういうものなのだ。(愛着障害 子ども時代を引きずる人々 岡田尊司 光文社新書参照)それでは、愛着障害を抱えた人はそういう運命のもとに生れて来たのだとあきらめるしかないのか。これは必ずしもそうではない。「子育て支援に活かす心理学」という本がある。かすかな希望を持って、この中で紹介されている対策を紹介してみたい。1、「修復的愛着療法」があるそうです。この療法は、まず愛着に問題がある子どもの理解を深める。次に愛することや愛されることへの恐れを解決する。そして、親が子どもをサポートできるように親を支援する。さらに、親自身の愛着関係の見直し、両親の夫婦面接による夫婦の絆の再構築と続きます。2、フライバーグが提唱した「乳幼児―親心理療法」もあります。子ども、親、治療者の3者が治療場面に存在する治療法です。3、親子関係の修復がむずかしいケースでは、親ではない別の人物が愛着の対象になるという方法もあります。その有力候補は、保育士、幼稚園、小学校の教諭などです。(「子育て支援に活かす心理学」 繁多進編 新曜社参照)
2016.05.21
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森田先生はダンスの研究をされていた。藤村とよさんの女子体操音楽学校に講師としていかれた時、何回かダンスをされた事がある。また中野にあったダンス教室を訪ねて生徒さんたちの練習風景を観察されたこともある。「精神とリズム」というテーマで講話をされたこともある。森田先生は精神活動とリズムの関係性に注目して、相互の関係を見きわめて、神経症に役立たせようとしていたのである。森田先生は精神活動も、宇宙の法則通りの動きをしているというのが持論であった。その宇宙はたえず運動している。太陽系では地球等の惑星が太陽の周りをたえず回り続けている。その太陽系も銀河系の中心に向かって2億年かけて1周しているという。その結果、遠心力と求心力の釣り合いがとれて調和が保たれ、お互いに存在出来ているのである。これと同じように精神活動もたえずその時、その場に応じて速やかに変化している。不快な気分も、嬉しい気持ちも時間がたてば消失していくものである。一つの不快な感情にとらわれて格闘したり逃げたりすることは自然の法則に反している。我々はそのたゆまず続く変化の波に乗っていく時が安楽である。不安や快楽にいつまでも身をゆだねようとすることは、自然の法則に反して、自己の存在を消滅させようとするようなものである。独楽は回転しているときが一番安定しています。自転車は前に進んでいるときが、倒れないで安定しています。常に動いて変化しているということが、安定させるためには必要不可欠となります。不安、恐怖、不快な感情も流動変化を心がけて生活すれば、いちばん安楽な対応となります。鴨長明の方丈記の書き出しである。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。(現代語訳)川の流れは絶えないが、それは、もとの水とは違う。よどみに浮かぶ泡は、消えたり生まれたりして、長く残っているものはない。世の中にある人、家も、またこのようなものである。つぎは平家物語の書き出し部分である。祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり沙羅双樹(らしゃそうじゅ)の花の色 盛者必衰の理をあらわすおごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとしたけき者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ(現代語訳)祇園精舎の鐘の音には、永遠に続くものは何もないと言っているような響きがある。まんじゅしゃげの花の色は、栄えたものは必ず滅びるという法則を表している。権力を持ったものも長くその権力を持ち続けることはできない。それは春の夜の夢のようだ。 強い力を振るったものも結局は滅びる。それは風の前にあるちりと同じである。次に森田先生はもう一つ大切なことを言われている。その運動自体には、一定ではなく大小さまざまなうねりがあるということだ。一様ではなく多彩なのである。別の言葉でいえば、波がある。波は高くなったり低くなったりする。また強弱がある。変化がある。つまりリズムがあるということだ。精神状態でいえば、緊張と弛緩がある。ゆっくりになったり早くなったりする。肝心なことは、この波の動きに逆らってはいけないといわれている。自然の動きに合わせることが大切であるといわれている。自然を自分たちの都合に合わせて変えるのではない。人間の方が自然の変化に素早く対応するということが大事になってくる。たとえば船酔いをする人は船の動きに合わせることを勧められている。船が波で打ち上げられる時は自分の身体も持ちあげるような気持ちになり、次に船が沈む時には自分の身体も沈み込むようにすれば船酔いになるということはない。また同じことを長時間していると、慣れてきて、刺激がなくなり、疲れてくる。つまり緊張の波がひと山越えて弛緩状態に入っているのである。そこで上手に別の刺激を与えてやると、精神は再び緊張状態を取り戻す。緊張と弛緩はたえず繰返されている。人間の盛衰は6年周期で繰り返されているという人もいる。1日のうちでも、昼は緊張状態で夜は弛緩状態が繰り返されている。森田先生は、リズムを生活に取り入れることを勧められている。それによって我々の生活機能を引き立たせる効果があるとも言われている。またリズムは仕事の能率を高めることにもなる。たとえば「いい国作ろう鎌倉幕府」のような語呂合わせ。「わっしょい」とか、「エンヤコラセイ」などのかけ声などである。これらは是非とも生活の中に取り入れて活用したいものである。森田理論学習では「変化に対応した生き方」というのは、一つの大きな学習のテーマである。この学習テーマは外すことはできない重要なテーマなのである。
2016.05.20
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1923年(大正12年)9月1日、午前11時58分に関東大地震が発生した。震源は相模湾でマグニチュードは7.9、その3分後7.2、5分後7.3の地震がたて続けに発生している。最大震度は7であった。未曾有の大地震であった。死者・行方不明者105385人、倒壊家屋128256戸、焼失家屋212353戸という記録が残っている。その後東京は大混乱に陥った。森田先生はその時の様子を詳細に記述されている。それは森田全集第7巻の309ページから342ページにある。なおこの内容の一部は「生の欲望」の188ページから196ページまで抜粋が載っている。この中で、根も葉もない流言飛語がどのようにして発生し、人びとを不安や恐怖に陥れ、誤った行動に駆り立てていったのか分析されている。事実を重視される森田先生ならではの分析であり、その内容はまさに圧巻である。流言飛語とは、事実と相違したうわさ、または針ほどのことを棒ぐらいに誇張したうわさが人から人へと伝わることを言う。流言飛語とは、群衆の間に偶発的に、または自然発生的におこるもので、わざとうわさを立てるような計画的なものとは違う。関東大震災では、外国人の襲来があるというものが主なものであった。横浜あたりから発生し、1日か2日で東京、神奈川、埼玉、千葉、群馬などに拡がった。その内容は、外国人が大挙して襲来し、一部のものと共謀し、爆弾を仕掛け、火をつける。井戸に毒薬を投げ込み、略奪、殺人など、あらゆる悪事を働いているというものだった。流言飛語は、同じ境遇にある群衆が、ある事変に当面して感情が興奮し、精神不安になっている時には、何かちょっとしたことがあってもそれをひどく感じ、あるいは、まったく根も葉もないことまで感情的にそれを受け入れて、実際にあるかのように感じるものである。たとえば、恐怖心に支配されてビクビクしているものが枯れすすきを幽霊と見、人を殺してそのたたりを恐れているものがその亡霊に襲われているようなものである。流言飛語は群集の気分と意向に合致したものだけが広まる。それは群集一般が、同じようなことを期待し、渇望しているからである。このような流言飛語は、老人や物知り、警察官や役人など、権威のあるものから出るほど、群集に対する暗示性がつよく、多くの人が言い伝えるようになって、ますます一般の人を信じさせるようになるものである。人間は恐怖の感情にとらわれている時には、いっそう危険なことがおこるかもしれないという想像から、事実無根のうわさでもほんとらしいと思い込むようになるのである。外国人の襲来も、それだけにとらわれて、その他の危険たとえば火災の発生などを防ぐだけの余裕がなくなり、空前の大災害を引き起こすこととなったのである。流言飛語は病気のようなものである。社会が病的になってる時には、いつとはなしに流言が起こり、動乱が発生するようになるといわれている。
2016.05.19
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形外先生言行録56ページの浅羽武一さんの話を紹介します。昭和2年の初夏のある日曜日のことであった。午前中の外来の診療が終わった後に、突然、森田先生が、今日はデパートに買い物に行くといわれた。そして先生より野村兄などわれわれ弟子たちは一枚の十円札をもらった。しかし買い方の条件があった。それは十円札を全部使うこと、つり銭を残さないこと、自分の金を使ってはいけないこと、1時間以内にすますことであった。我々弟子たちはデパートでいざ買うとなると、計算をしつつ、つまらないものを買わないように、むだ使いをしないようにと、大変気を使って、買い物をした。ふたたび先生の家に帰って、皆で買った品物を先生の前にそれぞれ出して、見てもらった。先生は一つ一つ見て批評されて、これは役立つもの、これは役に立たないもの、良い物、悪い物などと教えられた。つまらない物を買った弟子たちは先生の話が身にしみた。先生はこんな具合に、すべて実物指導されて、親切に教えられた。買い物をするときの心がまえを、いろいろと話されて、われわれを指導されたのである。ここで10円札とあるが、当時の1円は現在の1万円にあたるようだ。つまり10円札は現在の10万円にあたる。かなりの買い物ができる額である。この話は、森田先生のお金の使い方に関しての考え方がよく出ていると思う。お金は持って貯めているだけではダメだ。実際に活用しないといけない。活用の仕方はいろいろと創意工夫しなさいということを言われているように思う。さて森田先生がどんなものがよいと判定されたのかはとても興味がある。森田先生は重視されたのは実用的なものだと思う。保存の効く食べ物、消耗品、日常生活ですぐに役立つもの、毎日使うもの、みんなが使うもの。身の周りの物で常日頃あったら便利だろうなと思っているもの。みんなを楽しませるもの。逆に悪い物とされたものはどんなものだろうか。趣向品、贅沢品、珍しい物。すでに持っているもの。ほとんど使い道のない物。使い捨てのもの。すぐ壊れるもの。値段が高すぎて価格に見合っていないもの。高い骨董品。保存がきかなくてすぐに腐るもの。ちなみに森田先生の診療所には壁に次のような張り紙があった。1、 困るもの―菓子、果物・特にメロン、商品券2、 困らぬもの―卵、鰹節、茶、缶詰、金、りんご3、 うれしきものー一輪花、盆栽、チョコレート(瓶詰め)、サンドウィッチ、女中に反物私はこずかいは1年の初めに予算を立てている。それを月ごとに割り振っている。食費、外食代、電気、ガス、下水道料、通信費、新聞・テレビ受信料、交通費、車両代、高速代、所得税や固定資産税などの税金、冠婚葬祭費、田舎の経費、本代、各種保険、交際費、旅行、趣味、厚生費、医療費、衣類、電化製品、毎年発生する各種会費、予備費などである。気をつけているのは、予算の範囲で生活すること。予算管理をしていると、スポーツ観戦、コンサートなどちょっとチケット代が高いと思っても、年間予算の範囲なら思い切っていくことができるようになったことである。生活が苦しくなったら生活必需品のみの生活に徐々に絞ってゆこうと考えている。
2016.05.18
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井形慶子さんがイギリスのこんな夫婦を紹介されている。3人の子どもを抱える働き盛りの父親が週3日しか働かないというのだ。彼は30歳でフルタイムの仕事を辞めて以来、50歳になるまでこのスタイルで生活している。彼の普段の生活は月曜日から水曜日までは配管工として働きます。木曜日と金曜日は家にいて、朝から晩まで家の改装をします。土曜日は子どもたちと過ごす日にしています。一緒に公園や海に出かけて一日中遊ぶ。そして日曜日は休息日です。でもたいていは午後から妻と二人で庭仕事をしたり、ガーデンセンターや栽培所にみんなで出かけ、庭作りのための草花の苗を物色します。元々彼は毎日早朝から6時まで配管工として工事現場で働いていました。そんな彼が30歳になった時、2軒長屋を700万円で買いました。その家は70坪の庭園がありました。しかしべットルームが3つしかなく、室内はまるで廃墟のように荒れ果てていた。すぐに改装しなければならないような状況だったそうです。でも増改築にかけられる費用は全くなかった。そのために彼は配管工の仕事を減らして家の改装に取り組むことにしたのです。たしかに収入はかなりダウンしましたが、妻がフルタイムで働いていたし、食べていくことに困らなかったし、不安や心配は全くなかったという。家の改装の材料は主にゴミ処理施設で子どもたちと一緒に探したという。イギリスのゴミ処理場というのは欲しかったアイテムがタダで手に入る住民のトレードセンターの役割を持っているという。彼は、ここに30回近く通って鉄柵、庭用のアイアンテーブルや蛇口まで調達したという。子どもたちも実によく手伝ってくれた。彼らは父親が一生懸命家を作っている姿を見て自然に協力するようになったのだと思われます。子どもに「勉強しろ」というよりも、よほど教育的な効果があるのではないでしょうか。彼らは30坪の庭を売って改装資金を作りました。残った40坪の庭には家庭菜園を作り、新鮮な野菜を自給自足しました。そして現在、この廃墟だった家は見違えるほど美しい住宅に変わりました。1階、2階の庭に面した部分は増築を重ね、改装後の部屋数は全部で10部屋に増えました。外壁を取り壊し、床を継ぎ足す困難な仕事を含めて、プロの業者に依頼したなら2000万円はかかる仕事を、彼は妻や子どもたちに助けられながら一人でやり遂げたのです。最近プロの鑑定士に査定を依頼したところ5500万円の評価をされたそうです。マイペースで暮らしてきた結果、理想の家が出来上がり、しかも改装費の800万円を差し引いても購入価格の約7倍にも価値が上がっていたのです。何よりも自分たちの生活の為に時間を使うという生活スタイルがとてつもない精神の安定と充実感をもたらしていたのではないかと思われます。こういう人生の考え方というのはとても好感が持てます。(あてにしない生き方 井形慶子 中経文庫 26ページ引用)
2016.05.17
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3歳の子どもが犬に近づき急にワンワンと吠えられたとします。その時のお母さんの対応として、次のようなものが挙げられます。その1 だから近づくなって、いつも言っているでしょ。その2 飼い主にクレームをつける。そして子どもに、「もうやられないから、泣きやんでね」と慰める。その3 こわかったねぇ、こわかった。おっ、びっくりしたねえと言う。その1は、子どもの見方になっているようではあるが、犬と遊ぶ機会を端から奪ってしまっている。こんなことばかりしていると、子どもは引っ込み思案になって冒険をしようとしなくなる。過保護で無気力、無関心な子どもを育てているようなものです。また、これは親の価値観を子どもに押し付けている。これでは子どもはこれから少しでも危険を感じるものには近づくことはしなくなる可能性がある。たとえば田舎でイチゴ狩りをしていてヘビが出てきた。気持ちが悪くなってすぐ逃げたのはよかったが、その後ヘビがまたいつ出てくるかと恐ろしくていちご狩り自体ができなくなった人がいた。また田舎に行くのもイヤと言いだした。ましてや田舎に住むことなんて考えられないというふうにエスカレートしてきた。これと同じ現象が起きる可能性がある。森田理論でいえば親の「かくあるべし」を子どもに押し付けて、親の価値観に子どもを手なずけようとしているようにも見えます。これが高じると子どもは大人になって神経症で苦しむようになります。その2の対応は、その原因を作った飼い主に苦情を言うことで安全を確保しようとしています。少しやり過ぎです。何でも親が先回りして、問題解決をしてしまうので、依存的で無気力な子どもになってしまいます。子どものやる気や自主性は育ちません。命に別状がない限りは、大人は少々子どもがケガをしようが、手出し無用なのではないでしょうか。その3は好ましい対応だと思います。森田でいう「純な心」からの対応です。ネガティブな感情をそのまま受け入れています。これは恐ろしいという感情から逃げないで向き合っているということがいいのです。すると犬がいなくなったあとは、その感情はすっと消えてなくなります。ところがその感情と向き合わないといつまでも、不快な感情に悩まされることになります。この話は森田先生の「神経質の本態と療法」の183ページにも出てきます。犬に吠えかかられた本人の立場で書かれています。幼い子どもは、母にしがみついて、顔をうずめて、泣き叫ぶ。母親に依存しています。普通の大人は、犬をよく見て、逃げるとか追い払うとか臨機応変に態度を決める。注意は犬に向いているので無我夢中である。ところが強迫観念はこのどちらでもない。それは、吠えかかる犬の恐怖に耐えかねないで、一時逃れの目先の安心を得ようとして、その犬を見ないように顔をそむける。その時本人の注意は、自分の不安な心の状態、つまり、自分の胸騒ぎ、脱力の感とか、さむけや震えということばかりに集中し、心を奪われて、現実の対象を忘れ、自分の恐怖、不安の結果がどうなるかということが恐ろしくなる。この場合は、「煩悩の犬追えども去らず」という状態になり、日夜その恐怖に悩まされることになるのである。どちらの話も基本的には不安や恐怖、不快な感情からすぐに眼をそむけないで、対象物をよく見るということが大切なのだと教えてくれている。
2016.05.16
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このランは葉っぱが少なくなり、枯れるのかと思っていましたがきれいな花が咲きました。うれしいものです。ミニトマトもすくすくと大きく育っています。
2016.05.15
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熊本地震の余震はまだ続いている。その恐怖たるや想像を絶するものがある。私は今まで2014年3月の伊予灘地震で震度4から5程度しか経験がない。それでも相当揺れて右往左往した。余震も何回も発生して精神的に消耗した。今回の地震でマグニチュード6と7はその破壊力に16倍の差があることをはじめて知った。その7程度の地震が熊本では2回も発生したという。聞くところによると、震度5以上では人々は恐怖を感じ、物につかまらないと歩くことができなくなる。震度6では家具が倒れ、耐震性の低い建物は倒壊する。高層マンションでは上の階に行くほど大きく揺れるそうだ。眺めがよいなどと喜んでばかりはいられないようである。熊本ではマンションの2階部分が1階部分に崩れ落ちたところがありましたが、取り壊すしか手がないという。ローンを抱えたままどうすればいいのだろうか。私は現在マンションの4階に住んでいる。自分の出来る対策は出来るだけとることにした。まず縦長の家具は横向きに変えた。絵などの額縁を沢山飾っていたが落ちたときのことを考えて取り外した。窓ガラスには飛散防止用フィルムを張った。パソコンのプリンターは上から下に降ろした。いざという時の為にヘルメットを用意した。緊急食料と水を用意した。また防災グッズも一通りそろえた。家の中に地震が起きたときここに逃げたら比較的安心という場所を2カ所確保した。海に近いので津波が来た時は12階に上がることにしている。極めつけは、ほとんどの家具、テレビ、冷蔵庫などを壁に固定した。これには、ポール突っ張り式、ベルトやチェーン、固定金具を使った。その他、家具の下にストッパーやマットを敷いた。とりつける時に注意しなければならないことがあった。金具やベルト、チェーンをとりつける時、下地が石膏ボードというところがある。石膏ボード自体にビスをもんでもスカスカである。石膏ボードをとりつける時は間柱を探し出して、確実に木の部分にビスをもむことである。それを検知するためにプッシュピンという道具がある。1000円ぐらいだった。これは間柱の通っている位置を簡単に見つけてくれるので大変助かった。そこに金具を取り付けた。コンクリートの壁は職人さんに依頼しないとビスが止まらない。ドリルで穴をあけ、そこに鉛のようなものを打ち込みそこにビスをもむことになる。これは騒音問題も発生するので未だ手つかずである。でもこれである程度は安心して眠ることができるようになった。まだの人は是非家具の固定の対策を早急に立ててみてはいかがでしょうか。なにしろ命にかかわることなので早急に対策を立てることが必要だと思います。
2016.05.14
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対人恐怖症の原因は親の養育よるところが大きい。ハリー・ハーローはアカゲザルを使って実験をしている。針金で親をイメージした人形を2体作る。片方には哺乳瓶を持たせる。片方にはその人形を毛布でくるむ。どちらの人形にアカゲザルの赤ちゃんが懐いてくるのかを観察したのである。すると人形を毛布でくるんだ人形に懐くことが分かった。このことから愛着の形成は食べ物を与えるよりも親の接触、温かみ、ぬくもりが重要な役割を果たしていることが分かった。またアダルトチルドレンの原因は、親の過保護、過干渉。親のアルコール依存症。親の長時間の不在等が原因とされている。その結果子どもに「見捨てられ不安」が強くなり、大人になって対人関係の悪化や精神障害を引き起こすと言われている。普通の子育てでは、自分の周りに親がいて世話をやいてくれる。自分が生まれてきたことを親が喜んでくれている。すると自分の心のよりどころを得てくるのだと思う。心の安全基地を持つことができるのだ。その後ろ盾をよりどころとしながら、少しずつ外部との接触を始めることができるようになる。最終的には親から自立して、親から離れていく。ところがそういう育ち方の経験がないとつらい人生が待ち構えている。まず自分は生まれてきてはいけなかったのではないかという疑念が生まれる。そしてひょっとして、自分は親とっては迷惑な存在なのではないか。親にとっては好ましくない人間なのではないか。きっとそうだ。間違いないと思いはじめる。そしてついにそれが確信に変わる。自分が受け入れられない存在だと思うと、周りの人がすべて敵に見えるようになる。自分を攻撃する人間に見えてしまうのだ。それに対して防御態勢を敷かないと踏みつぶされてしまうような被害妄想に悩まされる。自分は孤立している寂しい人間に見えてくる。こんな敵が多い状態では社会に溶け込んで、まともな社会生活を送ることは無理ではないかと思うようになる。社会の荒波の中で仕事をしてゆく自信がなえてくる。適応不安が芽生え、それが確たるものとなる。アパシー状態になるのである。この状態では無条件に相手に甘えるということはできなくなる。また相手の甘えも自分としては受け入れることができなくなる。本来は自分のやりたいことを優先して相手に甘えたり甘えられたりするのだが、それができなくなる。相手の機嫌がことのほか気になるのである。そのうち、相手に何らかの利益をもたらさないと自分を受け入れてもらえないのではないか。自分が相手に甘えるということは取引をするようなものになる。自分の存在自体が相手に無条件に受け入れられる場合もあるということは思ってもみないということになる。次第に自分の思うように人生を生きていくことができなくなる。さらに、自分の欠点や弱み、ミスや失敗は相手を不快にさせるので、絶対にあってはならないと思うようになる。そんなことをすれば益々相手に嫌われて甘えは受け入れられなくなる。だからそういうことは隠す、逃げる、取り繕う、ごまかして相手の眼に触れさせないようにするようになる。さらに表面的な自分を見栄えの良いものに塗り固めることに注意を払うようになる。ありのままの自分を出すことはなくなる。いつも相手の顔色ばかりを気にしているととても生きることがつらい。何のために生きているのだろうと思うようになる。いつも何かに怯えたようになりビクビクして神経が休まることはない。意識は常に対人関係に向けられ、そんな自分を自己否定するようになる。もともと自分は親の養育の犠牲者なのだから、親を反面教師として観察して、自分の生き方を変えてゆけばよいのである。ところが愛着障害の人、アダルトチルドレンの人は、親を憎んではいるが、自ら進んで親から離れようとはしない。それは親を否定しながらも、心の中ではなんとか親に受け入れてもらいたいという未練があるからだ。この傾向は親だけではなく、社会に出てからもそうである。こちらの方が問題としては大きい。自分を非難したり、無視したり、拒否したり、否定する人は自分の周りにたくさんいる。その人たちとの人間関係はある程度距離を置いて、自分の気の合う人を探せばよいのだがそうは考えない。自分を馬鹿にする人との人間関係をなんとか修復しようとする傾向がある。相手の仕打ちに対して耐えたり、我慢したりして仕事をしているのである。その人と距離を置いているが頭の中ではそのことでとらわれ続けている。精神衛生上極めて問題のある対応である。そして自分を引き立ててくれるような人たちは眼中にないかのような付き合い方をする。それはその人との人間関係を修復しない限り、自分の人間関係は永遠によくならず、孤立して寂しい人生に陥ってしまう。そうなれば社会から永遠に抹殺されてしまうという恐怖感からきているのではないかと思われる。集談会でも愛着障害の人、アダルトチルドレンの人は大変多い。かくいう私もそうである。もはや昔に戻って人生をやり直すわけにもいかない。今出来ることは、そのからくりをよく学習して自分の置かれた現状を自覚することである。事実関係をよく見つめてみることである。事実がよく分かるようになれば自然に対応策が見えるようになるものである。その上で親の養育は問題があったのだから、恨んでもよいと思う。精神的には親とは一線を置くしかないと思う。これは別の考え方をしている人がいるかもしれない。私の場合はそう思うというだけのことである。それから対人関係は、会社の人間関係だけで固まることは危険である。集談会、趣味の会、地域社会、PTA、同窓生、親戚関係、ボランティアなどいろんな人間関係があると思う。広く浅く多くの人と時と場合に応じて付き合うことをお勧めしたい。それから愛着障害の人、アダルトチルドレンの人は職業の選び方は注意して選んでほしいと思う。私のようにいきなり訪問営業のような仕事は難しい。私も9年で挫折した。人間関係がそんなにシビアでないような仕事。一人で技を究めていくような仕事。動物や植物を相手にするような仕事。他人から「ありがとうございます」と感謝されるような仕事。等など。私たちに向いている仕事はいくらでも見つかるはずだ。職業の紹介の本など見て間違いのない職業選びをしてもらいたいと思う。
2016.05.14
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こんな川柳がある。「ストレスを減らせと医者が無茶をいう」日本人の実態をよく表現している。でもストレスを減らすことはできない。それは過度の目標管理主義、成果主義でがんじがらめに縛りあげられているからである。こんな働き方は一見合理的で、正しい価値観のように見える。でも働いている人の心と身体の障害を招くような経済合理主義が正しいやり方だろうか。資本主義の今の世の中だからこそ正当化できる価値観ではないのか。NHKの番組に「プロジョクトX」というのがあった。今はもうない。この番組は面白かった。困難を乗り越えて大きな成果をもたらした人たちの奮闘物語だった。ところがよく考えると潤いのある生活、健康管理、家庭団欒はほったらかしという人が多かった。大きな成果を上げたことは素晴らしいが、生活を犠牲にし、心身の不調を招き、家族との交流を断つことに何の意味があるのかという多数の投書によって打ちきりに至ったという話を聞いた。こんな話もある。日本人が海外の新興国で現地の人を雇って仕事をしていた。すると現地の人はあまり熱心に働かない。その日の食べ物にありつけばOKというような働きぶりだ。そこで現地の人にこう忠告した。「まじめに働かないと、将来豊かな生活はできませんよ」現地の人は日本人に尋ねた。「それはどういう生活なのか」日本人曰く。「それは将来一日中自分のやりたいことをして何不自由なく暮らしていくことです。たとえばヤシの木陰でのんびりくつろぎながら、泳いだり魚釣りを楽しむような生活です」それに対して現地の人は、「自分たちは今まさにそんな生活をして暮らしているのだ」これに対して日本人は返答できなかったそうです。今多くの日本人は朝から夜遅くまで働いている。また土曜日、日曜日まで出勤している人もいる。お金がかかる生活のためである。豊かな生活、住宅ローンの返済、子どもの教育等が重くのしかかっているのである。そんな生活を続けていると心身、家庭、子供の将来もうまくいかない。まして自分の生きがいも持てないのはなんとなく分かっている。仮にガツガツ稼がなくても生活できるようになると、精神的に楽になる。家庭も会話が増えて協力的で和やかになる。子どもたちとの接触も増えてくる。なにより子どもたちが将来に希望が持てるようになる。そんな生活を実現することはできないものだろうか。たとえば、釣りバカ日誌の浜チャン的な生き方を目指すのはどうだろう。浜チャンは仕事で会社に貢献することはあまり考えていない。出張に行けば釣りに出かけたりしている。谷敬ふんする課長にいつも叱られている。また三国連太郎が演じる鈴木建設の社長は普段は堅物だが、本音は遊び心いっぱいの人物だ。おせっかいながら、こんな会社はつぶれてしまのではないかと思う。でもノルマにがんじがらめになって働いている会社員からすればうらやましい。私はこれを参考にして表面的には愛社精神を前面に出しておいて、実際の仕事では出来るだけ手を抜くことをお勧めしたい。今の働き方は大いに問題があるのだから罪悪感に苦しむことはないと思う。リストラされない程度に最低限に働くことをモットーとすることだ。ボーナスが人より少なくてもいい。昇格しなくてもよい。月給鳥という鳥になって生活費を稼いでくる程度に働く。残業はしないで定時にはしっかりと退社する。サービス残業は適当なところできりあげる。出世は望まない。出来るだけ平社員でおられるように気をつける。会社のプロジェクトなどにはすすんで手をあげない。何かにかこつけてウソの申請をして有給休暇を出来るだけ多くとる。仕事中は何かにつけてさぼることを考える。そうしないと心も体も持たない。家族がバラバラになってしまう。そういう態度で働くことを基本姿勢として持つことだ。けしからん奴だと思われるかもしれないが、そんなことは百も承知だ。でもそうしないで定年前にむざむざつぶれてしまう人を多く見てきた。考えて見れば、私もノルマのある訪問営業をしていたとき、最低ランクの仕事しかしていなかった。さぼってばかりだった。それはそれで苦しかったが、今考えればそれで心身の健康を維持していたのだ。次の会社でも気持ちは仕事には向いていなかった。その分仕事以外のことにはいろいろと挑戦して楽しんでいた。その方面で生きがいが持てたからこそ、なんとか生きてこられたのだ。あれやこれで定年近くまで勤めていたのだ。頑張って課長、部長等になった人もいたが、成績が上がらず、出向や早期退職に追い込まれた人を何人も見てきた。そんな働きぶりで、結婚したい人は、自分一人では家族を養えないことを宣言した方がよい。夫婦共稼ぎを提案する。そのかわり家事や育児は協力して半分ずつにすることを約束する。そのほうが家族関係はうまくいく。住まいも車も電化製品も十分なものは準備できないことを分かってもらう。そのかわりゆとりある生活、心の底から楽しめる家庭づくりを目指す。ささやかなたのしみいっぱいの生活を目指す。そもそも江戸時代の人の仕事ぶりを見ていると面白い。職人などの仕事は3時ごろにはもう終わっているのだ。帰ってから自分の身の回りの生活のことをしていた。早くから晩酌等を楽しんでいた。武士なども城の外に出ると釣りをしたり、花見をしたり、参拝したり、おいしいものを食べに行ったりしている。つまり仕事と遊びは渾然一体となっていた。また子どもに家督を譲ると隠居と称してのんびり好きなことばかりやっていた。そんな生活がかつての日本人に存在したのである。またこのブログで最近よく紹介しているイギリス人の生活もこれに近い。ちゃらんぽらんなようなように見える働きぶりは時間がゆっくりと流れる。四季折々の生活の中で自然と一体化した人間本来の活き活きした生活を楽しむことができる。我々は苦しんでのたうち回るために生れてきたのではない。人生を楽しみ、人々と仲よく楽しむために生れてきたのである。人生は遊びだと高らかに宣言したいものである。
2016.05.13
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日本のことわざに「過ぎたるは及ばざるがごとし」というのがある。食べ物でもお金でも必要以上にあるというのは問題が生じることが多い。美味しいからといって食べすぎれば、肥満や生活習慣病になる。腹八分目の食生活がちょうどよいのと同じだ。お金があり過ぎれば東京都知事のように湯水のように使う生活になりやすい。少し不足するくらいの収入だと、やりくり算段をする必要がある。いろいろと創意工夫するようになる。つまり人間力が働くようになるのである。イギリスでは「アッパーエグゼクティブ」と呼ばれている上層階級の最低ラインが年収2万5000ポンドといわれている。日本円で約400万円。23%の税金を引くと約300万円となる。大手企業の重役や政府の要人でさえ5万ポンド、日本円で約800万円。ちなみに大卒の初年度の年収は1万2500ポンド、何と約160万円という安さである。大衆紙「The Daily Mirror」2013年4月の発表によると、2012年のケースワーカーの年収は112万円、シェフの年収は182万円となっており、一般庶民の1ヵ月の手取りは2人の合計で24万円程度と言うのが実態です。イギリス人の給料はECの中でも最低のラインであることはあまり日本では報じられていない。英語を教えて生計をたてている在日イギリス人はこういった。「ロンドンにもどった時、シティの証券マンになったケンブリッジ大学の同窓生に会ったんだ。ところが彼はいばって「僕の年収は300万円もある」って言うんだ。ショックだったね。日本で年収300万といえば30代の大卒の専門職ではあり得ない、とても安い給料だ」イギリスの不動産は日本より安くても、食べ物や服など生活必需品の価格はそれほど変わらない。いくら福祉大国の恩恵で教育や医療が無料だったとしても生活はギリギリだ。だから夫一人の収入だけでは暮らしてゆけない。イギリスでは夫婦二人の稼ぎが必要になるのだ。家事は夫婦で分担しているのが普通だ。それがイギリスという国の実情なのだ。これを貧しい国と見るか、あるいは人間力の発揮できる生き方の出来る国と見るか大いに見解の分かれるところである。私は後者の見方をしている。イギリスでは生活費が十分にないので贅沢はできない。家や家具、車、海外旅行、欲しいものをなんでも手に入れながら、なおかつゆとりのある生活を続けるということは考えられない。不要不急なものは買わない。買う時は家族で相談して時間をかけて選ぶ。そして自分たちの持ち物は大事に使う。壊れれば修理して使う。外食はあまりしない。自分たちで作って食べる。物を買う時は慎重に吟味する。多少不便でも我慢して使う。そのかわりガツガツ働かなくてもよい。サービス残業などはないので男性でも5時には家に帰る。夫婦や子どもとの接触する時間を大事にする。イギリスでは時間はゆっくりと流れる。自然の中に身を置いて自然と一体化した生活を送っている。生活の中でささやかな小さな楽しみを沢山作りだしている。日本人は大量消費、物質的豊かさ中心のせわしない生活を送っている。恵まれているわりには精神を病み、身体疾患で悩んでいる人が多い。学校でのいじめは外国にはあまりないそうだ。また日本で自殺者3万人というのは意味がわからないと言う。日本とイギリスのどちらの生活がより人間らしいかと聞かれれば、イギリスの方だという人は多いのではなかろうか。(あてにしない生き方 井形慶子 中経文庫参照)
2016.05.12
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森田理論に「物の性を尽くす」という言葉があります。その物の持っている存在価値を見出して、その価値を高めていく。とことん活用し尽くすということです。そのために気をつけたいことを考えてみました。1、 壊れてもすぐに捨てないことです。出来れば自分で直す。たとえ修理代がかかってもなんとか修理して直すことを基本にする。ましてやすぐに買い替えないこと。2、 どうしても直らないものは、せめて使える部品だけでも再利用すること。3、 普段から自分の持ち物を大切にする。手入れを怠らないこと。手間暇をかけてピカピカに磨き上げること。買った時よりも価値が高まるように心配りをする。4、 欲しい商品にすぐに飛びつかないこと。物が欲しくなったら自分がその商品を持っていないか探してみる。あれば機能面で劣っていても買わないようにする。あれば便利なものでも、自分が似たようなものを持っていればそれを使う。5、 自分に不要なものは役立つ人にあげる。リサイクルショップ、バザー、フリーマーケットなどで引き取り手を探す。6、 自分の読んだ本は他の人に貸してあげる。あるいは欲しい人に差し上げる。7、 一つの物の利用価値を増やして使う。他に別の利用方法がないか考えてみる。捨てられるようなものでも、何かしら役に立つものである。8、 車は出来るだけ買わずに済ます。どうしても必要なときは中古車を買う。必要最低限の装備にする。いつも手入れを行い、ピカピカにしておくこと。レンターカー、カーシェアリング、公共交通機関を利用する。原付バイクを利用する。9、 衣類は必要なものだけにする。破れたりシミがついたら修復して使う。流行にこだわらず気に入ったものを出来るだけ長く使う。こまめにメンテナンスをする。着なくなったものはバザーなどに出す。10、 お金は1000円のものを10000円になるぐらいに価値のある使い方を心がける。家計簿をつけて予算管理を行う。ギャンブルなどにつぎ込まないこと。衝動買いをしないこと。自分の必要以外のお金を持たないように注意する。有り余っていれば役に立つ人のために寄付をしたり、貸してあげる。必要以上にお金を貯めこまないようにする。11、 自分が持っているものでたちまち使う予定のないものは役に立つ人に貸してあげる。12、 自分の持ち物でも出来るだけ多くの人に役立ててもらう。但し管理は自分で行う。物の活用が出来るようになった人は、自分や他人もとことん活用し尽くすようになると思う。
2016.05.11
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森田理論の「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」という言葉の意味を考えてみたい。というのは、この言葉には誤解があるのではないかと思うからである。集談会でこの考え方を実践していくと休息はとれない。一日中動き回ると体を壊すのではないかという話でした。休息をとることはとても大切ではないのか。たしかに「うつ」の人は休息することが重要である。また車を運転している時、眠くなったらすぐに休息をとらないと危険である。また夜遅くまでのサービス残業、土曜日、日曜日の出勤で休みも取れないで過労死する人もいる。学校の教師も部活を含めると週40時間の法定労働時間を軽くオーバーしていると言う。こういう現状を踏まえて、次から次へと仕事をするのではなく、一区切り付いたら十分に休息をとることが必要なのではないかという意見だった。なるほど。一理ある意見だった。でもここで森田が言っていることは意味が違うと思うのである。森田も休息をとれと言っているのだと思う。但し休息のとり方は工夫をしなさいということを言っているように思う。これについて森田先生曰く。休息するのに必ずしも仕事を中止してぼんやりしている必要はない。仕事をやりながら休息をとることができるのである。たとえば、難しい仕事のあとにはやさしい仕事をし、頭をつかったあとには体をつかう仕事をする。というように、仕事の種類や性質を変えていけばよいのである。食事の後には新聞を読むとか、腕で土を掘ったあと足で踏み固めるとか、哲学的なものを読んだ次には歴史伝記を読むとか、一定の変化がある方がよい。たとえやさしい仕事でも、同じ仕事を一日中続けるのは、全く知恵のないやり方である。仕事に変化が多いほど、心身の活動はますますさかんになるのである。どうしてかというと、我々人間の注意作用には、緊張と弛緩のリズムがあって、一つのことに対して、いつまでも同じ強さの緊張で、注意を集中し続けることはできないのである。だから、同時の事物に触れて、注意が多角的に動いている時に精神は最も緊張し、したがって本もよく読める。まとめてみると、森田理論で言わんとしていることは、同じことをいつまでもやっていると、疲れて能率が上がらなくなってくる。また慣れが生じ、マンネリ化して飽きてくる。無理して頑張っていても、やる気やモチュベーションは確実に下がってくる。たとえば本を読んでいたとする。1時間も2時間も読んでいると、頭がもうろうとし、集中力がなくなり、飽きてくるときがある。そんな時は緊張感がなくなり、精神が弛緩状態に陥っているのである。そういう時に横になって完全に眠ってしまう。頭と眼に休息を与える。それは実にもったいないのではないか。頭や眼の休息はとった方がよいのだが、頭や眼以外はそれほど疲れてはいないのではないか。そんな時は頭を休ませて、体を動かすようにするとよい。たとえば洗濯をする。部屋の掃除をする。散歩や買い物などに出かけてみる。そうすれば頭は休息がとれて、体を動かすことで精神状態は新たな緊張状態を引き起こすことができる。森田理論では我々の精神はたえず緊張状態と弛緩状態を繰返しているという。それを上手に利用するのだ。その流れに乗ってゆけばよい。弛緩状態に陥った時、叱咤激励して奮い立たせることは、その流れに抵抗していることになる。疲れた部分は休養をとり、疲れていない部分は新たに刺激していくのが基本だ。観念的に考えると、精神が弛緩状態に陥ってしまうと、もう二度と緊張状態には戻れないような気がする。でもそれは体験のない美しき誤解である。必ず緊張と弛緩は心電図のように規則正しく繰返されているのが事実なのである。その方が時間を有効に使うことができて、効率が良くなる。考えてみると昼間起きて活動している時は、精神はたえず緊張している状態にある。その分バランスをとるために夜になると寝て完全休養するようになっている。これは弛緩している状態です。つまり一日のうちでも緊張と弛緩は繰返しています。さらに昼間だけを見ても緊張と弛緩状態はめまぐるしく繰返されているのだと思います。それはあざなえる縄のごとく複雑に絡み合っているので、私たちはそれらを臨機応変に上手に組み合わせてゆきましょうという考え方なのだと思います。頭の中だけで考えていると、疲れたら休養を取らないといけないとなりますが、事実に即して考えるとこれは硬直した考え方だと言えます。
2016.05.10
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今度の15日に大阪でメンタルケア心理専門士の試験がある。この資格は日本学術会議協力学術研究団体のメンタルケア学術会議が主催している。臨床心理士から比べるとマイナーな資格ではあるが、心理学一般、カウンセリング技術について概略を学ぶことができたことは幸運であった。科目は、精神解剖学基礎、精神医科学基礎、カウンセリング基本技法、精神医科学諸論、応用生活心理学、面接技法、カウンセリング技法、精神予防政策学であった。勉強をはじめてもう2年にもなる。私の場合、まずは専門学校に入ってメンタルケア心理士の学習を始めた。主にテキストとDVDを見て学習する。その後添削問題に取り組んだ。基準点がありそれ以下だと再提出となる。そして最終的に試験を受けて合格すれば資格を得る。この資格取得には約6カ月かかった。次に今度受けるメンタルケア心理専門士の勉強である。これもテキストとDVDを見て学習した。添削問題では苦労したがやっと終了証明書を得た。メンタルケア心理士の資格と終了証明書を持っていることが、この試験の受験資格となるのだ。試験は50問の学科試験と論文の提出。1600字の論文が厄介だ。それに合格すると7月には口頭試験が控えている。覚えること、やるべきことはほぼ終えたが、合否の予想は全く分からない。当たって砕けるしかない。合格した人はカウンセラー開業の資格が得られると言う。しかしこれは野球でいえば、ドラフトで指名されてプロ野球の世界に入っただけのようなものだ。活躍する機会を与えられたと言うだけで、その後の成功を保障されるものではない。益々精進してゆかないと、資格は完全に「死格」となってしまう。心の問題解消のためのカウンセラーの仕事はとても奥が深い。だからやりがいはある。カウンセラーは経験、研修、学習、精進を積み重ねて少しずつ信頼を獲得してゆくものだろうと思う。心の悩みを抱えて苦しんでいる人はどんどん増える傾向にあるので、需要はますます増加してくるであろう。私は実際に神経症で苦しんだ経験があるのでとても興味はある。今のところ、私は生活の発見会の集談会でこの学習を活かしてゆきたいと考えている。アクティブリスニング、リフレクティブ・リスニング、相手の話を聞く際にやってはいけないこと10のパターンなどはすぐに応用したい。それにしてもカウンセリング技術、技法は学習の幅が広く、奥が深いことは実感できた。特に身体の不調が心に与える影響については目から鱗であった。心理検査、知能・発達検査、薬物療法、論理療法、認知行動療法、交流分析、遊戯療法、家族療法、内観療法、ピア・カウンセリング、臨床動作法、サイコドラマ、意味療法、ヘルスカウンセリングなどが学習できたことは大変意義深いことだった。カウンセリング技法の中に、森田療法、人間関係療法は含まれていなかった。これは片手落ちではないかと憤りがあったが、今後認知度を高めていく活動の必要性を改めて感じた。私は森田理論の学習にあたっては、心理学一般、カウンセリング技術を幅広く学んで、そのあとで森田理論を深耕していく必要があると思っている。いわゆるT字型学習である。それは医者が幅広く医学を学んで、その後はそれぞれの専門分野に分かれていくのと似ていると思う。カウンセリングの世界も全く同じであると思う。私の場合は、森田療法、認知療法、人間関係療法を核としたいと考えている。
2016.05.09
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私は最近井形慶子さんの本をよく読んでいる。日本人の見失った本来の人間の目指すべき生活を、イギリス人の生活の中に見出して、いろいろと具体的に紹介してくださっているからである。とても参考になる。こんな話が目に留った。井形さんは、小雨の続く冬場、イギリスの北部やスコットランドを取材する。私にとっては、水をはじくけれども通気性を持つゴアテックス素材のジャンパーは高価だがなくてはならないものでした。ところが長年着続けたうえ、日本を発つ直前、間違えて洗濯機で洗ってしまったため、ジャンパーの防水性が薄れ、雨に服が浸透していることに気づきました。そんな折、アウトドアの店で一着200ポンド(約4万円)のジャンパーを見つけ、買おうかどうか悩んでいました。すると若い店員が、迷っている私に「あなたはすでにゴアテックを着ているのになぜ新しいものが必要なのか」と尋ねるのです。私が「このジャンパーは雨がしみるのでもう役目を果たさない」と言うと、彼は即座に「ゴアテックは安くない。メンテナンスすれば必ず元通りになりますよ」と2本の洗剤を持ってきました。その店員は、「買うか買わないかを決めるのはもちろんお客様です。でも私なら10ポンド(約2000円)の洗剤と保護材を買って、今持っているゴアテックをよみがえらせる道を選びますよ。もう1着買う必要はどこにもないですから」と言った。日本でしたら間違いなく新品を勧められることでしょう。少しでも付加価値の高い商品を売ってより多くの利潤を獲得しようと考えます。それが商売人として当然のことと考えます。みすみす売り上げを放棄する店員に対して、経営者としては決して見過ごすことはできないと考えることでしょう。また新品を売らないで、メンテナンス材料を勧めるのを他の同僚たちに見られたら、バカ者扱いされるか、極端な変わり者とみなされます。それは日本という国が過酷なまでの売上予算を押し付けられ、予算の達成を至上命題としているからです。日本社会では、経済至上主義、売上予算必達が会社で生き残るために骨の髄まで貫徹されているのです。テレビコマーシャルを何回も流し、別にその商品が必要ではない人にまで洗脳し欲望を高めて買わそうとしているのです。すべての日本人が経済の好循環、無限の経済成長を目指さないではおられない状況に追い込まれているのです。子どもたちの人間教育はすべてその路線上にあります。子供たちはその息苦しさを、さまざまな形で反社会的な行動として表面化させています。その結果、自分の身体と心の健康を害し、家族や人々との温かい交流を犠牲にしてまでお金にしがみつかざるを得ないような社会の仕組みを作り上げて、さらにそれを強化しようとしているのです。これから先、日本人はもっともっとお金に振り回される生活でがんじがらめになることでしょう。その道から外れることは、経済的弱者、アウトローとして生きていくしかありません。イギリス人の中には社会全体が、物を無駄にするな、今あるものを修理して大切に使い続けよう。少しぐらい不便であっても今持っているものを優先して使おう。そういう物やお金に振り回されないで生活を楽しむというまともな考え方、暮らし方が根底にあると思います。だから、物を売って生活を成り立たせている店員にまで「無駄な金を使うな」という一言が違和感なく出てくるのだと思います。生きるということは物質的に豊かになることだけではありませんよ。ゆとりある生活、日常生活を楽しめる人生、家族や人々との温かい交流を求める生活を優先しませんか。高価なジャンパーをうまく売り抜けたとしても、その人がお金に振り回される生活スタイルを踏襲している限り、心の安らぎ、心豊かな生活を築き上げることは決して訪れることはないということは断言できるでしょう。(イギリス式月収20万円で楽しく暮らす 井形慶子 講談社文庫 54ページより引用)
2016.05.08
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2016.05.07
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5月5日は子どもの日だ。朝日、読売、毎日新聞は社説で一斉に子どもの貧困、虐待家族について報じていた。たとえば、毎日新聞。親から虐待されている子、生活苦で子の養育ができない親たち……。貧困だけでなくアルコール依存や障害などさまざまな要因が複雑に絡み合って、子供たちを傷つけている。子供はこうした困窮が自覚できず、なかなかSOSを言わないだけで、実態は深刻だ。親のアルコール依存や精神障害、虐待、近親者の自殺、触法などが何重にも絡み合うケースが多い。母の内縁の夫に暴力を振るわれている子、母がうつでゴミ屋敷の中で生活している子もいるが、これが普通の家庭だと子供は思っている。「暴力があってもお父さん、お母さんが好きで、貧しいのは自分のせいだと思ってしまうのです」幼少期に虐待やネグレクトに遭うと、自分自身や社会に関心が持てなくなり、生活習慣を身に着けたり学習したりする意欲が阻害される。ひどい虐待を受けた子の中には、脳が萎縮する例があるとの研究報告もある。努力するために必要な土台がない子に努力を求める理不尽さを認識すべきである。たしかに親によるネグレクト、虐待は日常茶飯事となった。アルコール依存症、過保護、過干渉、放任によるアダルトチルドレンの出現。いじめや不登校、自殺の増加。目を覆いたくなる現状がある。今の子どもたちの多くが自分たちの将来に希望が持てなくなっているのではないか。新聞の社説では2日に「児童扶養手当法」が成立したので、貧困が原因で学校に行けない子どもたちには福音になるようなことが書いてあった。そういう表面的な解決だけではもうどうにもならないところに追い込まれているのではなかろうか。私は親たちが本来の人間の生き方を見失っていることが子どもたちに暗い影を落としていると思う。今の親たちは物質的な豊かさをどこまでも追求していく生き方が唯一絶対的な生き方だと思っているのではなかろうか。その結果働き蜂のように働き続ける。本来家庭は協力しながら家事、育児、教育しながら家族の絆を深めていく場である。そちらがまず優先されるべきである。手をかけることを怠り、日常生活そのものを楽しむことはどうでもよくなってしまっている。ミイラ取りがミイラになり、金儲けに必死になっているうちに、気がついてみたら家族がバラバラになっていた。そして子どもたちにもそんな生き方を限りなく押し付けている。こういう生活の仕方、考え方が閉塞社会を作りだしているのではないか。動物行動学やっているケーニッヒという人が、青サギをたくさん飼っていました。餌とかいろんなものを十分に与えて飼ってみると、最初はどんどん増えてゆくそうです。あるところまで増えていくと、そのうちだんだん減ってきて、そして最後には絶滅したそうです。同じような実験はネズミでもおこなわれていて、環境を整えていくと最初は増えるのですが、やがては減ってしまう。どうゆうことが起きるかというと、卵を産んでもかえさないとか、子供ができても餌をやらないとか、子育てをしなくなるのです。その結果としてサギが減ってしまうということです。つまり自分たちの欲望がある程度叶えられてくると、さらに加速がついてくるのです。その結果子孫の繁栄には気が回らなくなり、社会が保てなくなり、やがてその種は絶滅していくのです。日本社会も少子化といわれて久しい。結婚しない人、結婚しても子どもを作らない人、生んでもせいぜい1人か2人。それは教育費がかかり過ぎる。養育費がかかり過ぎる。子どもをたくさん作ると親子共倒れになるという不安がある。自分たちが出来るだけ物質的に豊かな生活をしたい。無理をして仕事をしてゆけば、ある程度それが可能な社会だと認識するようになると、そのエネルギーは子育てには向かわなくなる。この世に生きている自分さえ楽しく愉快に過ごせればよい。不足分を次世代を担う子どもたちに期待しようという気持ちは無くなる。そうしてあくなき欲望の充足に浸っていくうちに子どもたちは少なくなり、子どもたちは将来に希望を見出すことはできなくなっているというのが実態ではなかろうか。欲望のあくなき追求は宮崎駿の「千と千尋の神隠し」のシーンを思い出す。グルメ三昧でムシャムシャと夫婦で美味しいものをむさぼっているうちに、ブクブクと肥り最後には姿かたちも豚になってしまうという話である。とても見にくいシーンであったが、人間そのものを風刺しているようであった。
2016.05.07
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私のところに神経症を克服したいと言って来られた場合どう対応するのか考えてみました。まず、相手の話をよく聞いて悩んでいる中身を把握します。対人タイプ、強迫タイプ、不安タイプ、普通神経症タイプのどれにあたるのか詳しく聞きます。それらに対してなんとか解消したいという気持ちを持っているかどうか。また自己内省力はあるかどうか。つまり森田適応者かどうか簡単なテストを受けてもらいます。またうつなどの他の精神疾患は併せ持っていないかどうか。そして神経症が日常生活にどの程度影響を及ぼしているのか。他の精神疾患を持っている場合、あるいは日常生活が全く滞っている人は信頼できる精神科医をご紹介します。私の力量の範囲以外です。私の場合は、神経症でとらわれたり苦しみから逃げながらもなんとか生活をこなしている人が対象です。現在よりも症状にかかわり合う時間を少なくしたい。すこしでも生きづらさを解消したいという人が対象となります。具体的にはどうかかわり合うか。日常活動記録表をつけてもらいます。森田でいう日記指導に当たります。2冊用意して1週間ごとに交換します。私は赤字でコメントをつけていきます。次に実践課題を作ってもらいます。布団あげ、食器洗い、靴磨き、部屋の掃除などです。これらが軌道にのると、つぎに気がついたことをメモしていく習慣を身につけてもらいます。そして出来たことを一つ一つ消し込んでゆきます。仕事、勉強、家事、家庭生活、趣味、人間関係などバランスを意識して生活してもらうようにします。最終的には、内向きな注意を外に向けて、規則正しい生活、物そのものになりきり、物の性を尽くす生活に切りかえていくように誘導してゆきます。ある程度の成果が上げてくると、次の段階として、基礎的な森田の学習をしてもらいます。あるいは日常活動記録表の開始と同時に並行して行う場合もあります。私の作成した森田理論のテキストを見て、自分の感じたことを簡単なレポートにして提出してもらいます。これに対しても赤字でコメントを入れてゆきます。これはいろんな認識の誤りに気づいてもらうことと、今後の自分のすすむべき道を見つけてもらうことが目的です。主な項目は、精神交互作用と神経症の成り立ち、神経質の性格の両面性、感情の法則、認識の誤り、不安の役割、不安と欲望の関係、生の欲望とは何か、生の欲望の発揮の手がかり、「かくあるべし」と神経症との関係、是非善悪の価値評価と神経症との関係、事実を受け入れるということ、純な心の習得、私メッセージの習得、治るとはどういうことか、森田理論全体像などです。一方では不安を抱えたまま行動の幅を徐々に広げていくこと。同時に認識の誤りや本来の人間的生き方について森田理論から学んでいく。そして自分の生活の場で活かしていくことです。これは一人では難しいので私がサポートしていくということです。これらをどれぐらいの期間やるのかというのは難しいです。学習項目から見て3カ月から4カ月ぐらいは必要だと思われます。その後は「生活の発見会」などの森田理論を学ぶ自助組織で交流を深めて、さらに森田を深めてゆかれたらよろしいと思います。
2016.05.06
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森田的な生活を身につけている人は、お金のかかる生活とは一線をおいておられるように思います。私の知っている「森田の達人」といわれている人を紹介します。その人は夫婦二人暮らしです。街の中心部からバスで1時間30分ぐらいの田舎に住んでおられます。お伺いしてみると庭に盆栽らしきものがたくさん並べてあります。全部で1000鉢ぐらいはあります。これは亡くなられたお父さんの趣味を引き継がれているものです。その盆栽が変わっています。枝ぶりのいい松の盆栽のようなものはありません。溶岩のくぼみに苔を埋め込みそこに山から採取してきた木を息づかせたようなものです。夏は芽が出てきて、剪定をされます。また毎日の水やりが欠かせません。鉢には水が張ってありました。その方は盆栽の見方について説明してくださいました。盆栽は腰を落として溶岩の隙間を舟が行き交う大自然を連想しながら鑑賞するのだそうです。するといくらでも連想が膨らみそれぞれに違う趣が感じられるそうです。自給野菜を作られています。家庭から出たごみや庭木の剪定ででた小枝などはすべて堆肥にされているようです。食事作りや後片付けは夫婦で分担されています。食器の洗い方にもいろいろと工夫を凝らされて、楽しみながらされています。外食はほとんどされません。普段の生活は、夜は10時ごろに寝て、朝3時ごろに起きて体操をされています。夜が明けると夫婦で毎日散歩を楽しまれています。その時ビニール袋を持って空き缶の掃除をしているそうです。この前は川の中の空き缶を上手に掬いあげる技を見つけたと言われていました。相撲が好きでテレビで取り組み表をつけられています。また新聞に載るクイズもされているようです。本はほとんど読まないそうです。でも「生活の発見」誌はすみずみまで読んで集談会で感想を述べられています。好きな番組はビデオに撮っておいて後で見るようにされているそうです。普段はいろいろと日常茶飯事に忙しいので、それらは雨の日に見るそうです。その方はとてもシンプルな生活をされています。年金だけで生活をされており、貯金はあまりないということでした。それでも贅沢をしなければ十分生活してゆけると言われていました。本当に生活に必要なもの以外は買わないようにされています。必要なものもすべての人が買いそろえた最後になってから買うようにされています。もちろんインターネットなどは必要ないと言われます。でも日常生活は存分に楽しまれています。日常生活の中で様々な工夫をされており、ささやかな楽しみを沢山見つけておられます。たとえば美味しいビールの飲み方、鯛のあら炊きの作り方、カラオケの楽しみ方、季節の草花の鑑賞などです。それを一つ一つ具体的に話される姿はとても輝いて見えます。そういう方と身近にお話ができる私たちは幸せ者だと思います。その方は庭の草取りに次のように説明してくださいました。「急いでとると失敗するので1本1本丁寧にとる。草の種類によってそれぞれ個性がある。丈が長くてもすぐに抜ける草もあれば、小さいのに横に根を張りめぐらせる草もあります。一番難儀をする草は、三つ葉のクローバーに似て、葉っぱは小ぶりで黄色い花をつける奴。大根のような根を張り、引き抜こうとしても葉っぱがちぎれるだけで、大根根は残る。ちょうどトカゲのしっぽ切りのような感じ。そこで、大根根がのぞくまで、表面の砂を取り除いてから、底をはさみ、引っ張ると抜ける。難儀な草だけど抜けると快感になる。しかし、この草、花が咲き終わると、オクラのようなさやをつけ、その中に種がギッシリ入っていて、少しでも触れると、爆弾が飛び散るような勢いで、種をまき散らすから驚きである。どの草でも花をよくみるとかわいいが、多くの種をつけるので、草取りは、花が咲いた時までに取るようにしている。草取りに夢中になっても、長時間やると飽きがくる。そこで森田が役に立つ。「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にあり」しゃがんでの作業から、立ち仕事に転換すれば、腰は休息になり、また別の作業で楽しめる」この話は具体的であり、物そのものになって、いろんなことを発見して、創意工夫されています。なによりも雑草を取ることを存分に楽しまれている様子が手に取るように分かります。このような潤いのある、ゆとりある生活を楽しんでいる人を見て、仙人のような人だという人がいました。お金儲けに明け暮れ、お金に振り回される生活にどっぷりつかっていると考えもしない生活ぶりなのでしょう。私はこういう生活に少しでも近づきたいと思っています。このような生活態度を持たないと魅力ある森田理論をより深く身につけることは難しいのではないかと思っています。
2016.05.05
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山の上に岩国城があります。ここにはロープーウェイで登ります。錦帯橋の向こうは吉香公園があります。とても見どころの多い公園になっています。中国地方に旅行する人は、レンターカーで宮島、錦帯橋、津和野、秋吉台、萩などを巡る人が多いようです。
2016.05.04
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昔、イギリスのテレビで「TOKYO HOUSE-東京ハウス」というドキュメンタリー番組が放映された。その内容は中流階級のイギリス人一家が4人1ヶ月間、東京に暮らし、日本人と同じ生活を送る姿を追ったものでした。住まいはファミリータイプマンションが用意されました。この一家にはそれぞれ番組制作スタッフから日本での仕事も与えられました。イギリスでホテルのポーターだった夫は建設現場で働き、パートタイムの事務員をしていた妻は専業主婦に。息子は日本の高校に通う学生になったのです。1週間で変化が起きました。まず、イギリスで妻と二人で家事にあたっていた夫は、仕事が終わり同僚に誘われ飲みに行く毎日に、帰宅は10時過ぎが当たり前になってきました。彼は家に帰っても「疲れた」を連発し、食事もそこそこに寝室に引きこもって一人テレビを見るようになったのです。近所の夫婦を見て、男がそれほど生活を助けなくても日本では家庭生活が成り立つと感じたのも理由の一つなのです。ところがどれだけゴロゴロしていても彼の慢性疲労は募るばかりでした。同じく、主婦になった妻も予想外のストレスに見舞われていました。狭いマンションの中で夫の分まで一手に家事を引き受け、誰も訪ねてこない家で家事の楽しさを失っていく姿は壮絶でした。変わり果てた妻は、日本の高校に通う息子が帰ってくると靴の脱ぎ方から始まり、えんえんと小言を言うようになりました。一家の夕食もぎこちなくなります。用意した夕食を子どもが食べないというと、妻はついに怒鳴って息子の頭をたたきます。夫はそんな姿をテレビを見ながら「やれやれ」とつぶやきます。やがて夕食の席から息子は消えました。イギリスではいつも家族と夕食を食べていた息子は、学校から帰るとすぐに出かけて友達と遊び歩くようになったのです。出演した夫婦は家庭崩壊の危機を感じて、夫は残業や接待を断りながら、早くイギリスに帰りたいと撮影クルーに真剣に訴えていました。(あてにしない生き方 井形慶子 中経文庫 144ページより引用)この話は笑いごとではありません。日本の多くの家庭そのものの生活ぶりです。我々はその渦中にいるのでどこに問題があるのか全く分かりません。この話はまるで狭いケージの中に押し込められ、最低限の餌と水を与えられ、卵を生み続けるニワトリを連想させます。統計をとられ、生産能力が落ちてくると、有無を言わされず廃鶏として殺処分されるのです。ケージで飼われていたニワトリはケージから出されるとどうすると思いますか。自由を得て好きなところに飛んで行って餌をついばむようなことを連想する人はあまいようです。自由を得たニワトリ同士がけんかを始めるというのです。つまり精神的にはかなりのストレスがたまり、それを発散しないではやりきれない状況に追い込まれているのだと思われます。そういうニワトリを解剖してみると内臓は荒れ果て、筋肉はやせ細っているということです。当然ですね。運動不足、ストレスだらけだからです。日本人はウサギ小屋に住んでいると外国人は言います。まさに家は、テレビを見て、シャワーを浴びてごろ寝するだけの場所です。その証拠に家に中に何日も押し込められているとイライラして気が狂いそうになります。家族が家事や子育てを分担し協力し合う場所ではありません。あなたお金を稼ぐ人、勉強だけをする人、私家事、育児をする人などに分かれています。役割をきちんと果たすことだけを求められて、生活場面で協力し合うことはあまりありません。また家での暮らしが生活の中心ではありません。仕事や勉強など外での生活が中心であり、家庭はそのための手段になっています。けっして家族の構成員がお互いを思いやったり、お互いの絆を深めて、日常生活を楽しむ場ではありません。家族構成員がバラバラに行動し、お互いに無関心で没交渉が建前になっています。つまり家族は「烏合の衆」の集まりであり、孤独で気にくわないことがあると、いつまでも根に持っていがみ合う存在になっているのです。日本人はそのストレスを衝動買い、アルコール、ギャンブル、グルメ、娯楽などで帳尻を合わせているのではないでしょうか。悪循環のスパイラルにはまっているのです。そこでいくらお金を使って発散してもその時だけのものです。永遠に気が晴れることはないでしょう。人生とはそんなものだとあきらめてさえいます。そのうちもっと強い刺激を与えないとストレスは解消できなくなります。これは本末転倒ではないでしょうか。森田理論を深めて学習している人は、すでにそのことに気がついていると思っています。
2016.05.04
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ゴールデンウィークが始まった。先日用事があり広島と岡山間を高速道路で往復した。山陽自動車道である。距離は往復400キロ程度。途中福山、吉備サービスステンションで休憩をとった。眠い時は少し仮眠をとると違う。でも正直言って大変疲れた。帰るとすぐに横になって仮眠をとった。私は普段はあまり高速道路で運転はしていない。普通車でも80キロから90キロぐらいのスピードだと恐怖感はあまりなかった。ところが100キロ以上のスピードになると少し不安であった。100キロ以上のスピードだと、遅い車を追い越す必要がでてくる。その時は加速する必要があるのでとても神経を使う。それとトンネルが多いいのは閉口する。明るいところから急に暗い所に入ると不意打ちを食らったようなものだ。入った瞬間異空間に入ったように感じる。横の壁に車がぶつかるのではないかという不安を感じる。特に2キロから3キロの長いトンネルは憂うつであった。車幅の真ん中を走行することを心がけて慎重に運転している。トンネル内は80キロぐらいが精一杯だ。それ以上になると神経がとても疲れる。ライトも点けたり消したりするので忙しい。インターなどで車が合流する時も気を使う。私は他の車が合流しやすいように、車線変更したり、スピードを緩めたりしている。それからトラックにはとても気を使う。それも100キロぐらいでスピードを出して追い越しをかけるトラックは要注意だ。トラックが後ろから迫って来た時は、出来る限り車線変更するようにしている。それはトラックの運転手の人が教えてくれたのだ。トラックは車線いっぱいに走行する。2階に運転席があるようなものである。どこの運転手も勤務は超多忙でついウトウトする時がよくあると言っていた。また夜の運転はとても気を使う。視界が昼間の運転とは雲泥の差がある。さらに雨が降っていると最悪だ。水しぶきがまき散らされて、霧がかかったような状態になる。車線もよく見えない。そういう時は、前の車の通行した後を追って見込み運転をすることとなる。自分の目で確かめたところを走行したわけではないのでとても疲れる。こうしてみると雨の夜の高速運転はよほどのことがない限り止めた方が無難である。今回は途中車両火災事故があり、40分程度通行を止められた。イライラした。そもそも車の運転での移動は、人間の神経をすり減らし、環境を汚染し、高速代やガソリン代がかかり過ぎてあまりお勧めできるものではないようである。でも6月にはイベントで伊勢志摩まで行くことになっている。片道6時間かかるらしい。憂うつである。くれぐれも交通事故で命を落とすことだけは避けたいものである。
2016.05.03
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大阪に万博公園があります。とても広いです。その一角に日本庭園があります。そこで以前撮影したフジです。大きな池もあり見どころ満載だと思います。
2016.05.02
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4/30の東洋経済オンラインにこんな記事がある。安倍首相は国民に「もっとお金使ってください」と積極的な消費を呼びかけていますが、国民はなかなかお金を使いません。これではお金が貯めこまれるばかりで循環していかない。経済が停滞してしまう。生活必需品はほとんど持っているのにさらにまだお金を使いなさいと言っている。確かに付加価値をつけた便利で魅力的な商品はいくらでもあります。テレビCMで購買意欲を刺激しているので欲しくなる気持ちは分かります。でも、それらを見境なく買って、経済成長の発展に貢献することがよいことなのでしょうか。生活に困窮してくると、それは個人責任ですと言われるのではないでしょうか。新著「ニュースで学べない日本経済」を出版した大前研一氏は次のように言われている。今、日本の企業や家計は潤沢な資産を保有しています。個人資産1700兆円、企業資産350兆円に上っている。これだけお金を持っているのに、使わない。この遊休資産をなんとか使わせなくてはならない。この資金を強制的に市場に導くには、「資産課税」を設けて重くすればいいと言われるのです。資産課税は貯金を持っていること自体に課税するものです。マイナンバー制度が出来ましたので、個人資産、所得は鏡張りとなります。にわかに現実味を帯びてきました。銀行に預けているだけで資産はどんどん目減りしてしまいます。それならどんどん物を買い、人生をエンジョイするために使うようになるはずだと皆思うはずだというのです。昔は生前贈与という制度を使って、生きている間に財産を子供などに譲る人が結構いましたが、今はほとんどの人がこの制度を使っていません。なぜかというと、多くの人たちは、自分の財産を人に譲ってしまったらいざという時に誰も助けてくれないと思っているからです。政府、著名なエコノミストたちすべての人が経済成長の維持、消費の拡大に躍起になっています。でもこの政策は、森田理論からするととても容認はできません。二点あります。まず第一点。お金まみれ、拝金主義がはびこる世の中は、人々の身体と心の健康に深刻に影響を与えています。便利、快適、快楽を求めて安易に物質的な豊かさを追い求めてきた現状をどう分析されているのでしょうか。物欲に走ってきた日本人に本当に心の底から幸せが訪れたと思っておられるのでしょうか。普段の金儲けのための仕事中心の生活の中に生きる喜びを抱えている人がはたして何人おられるのでしょうか。ただ生命を維持するだけで無味乾燥な人生を余儀なくされているのではないでしょうか。ストレスを発散するために物欲や快楽を満たすことのみが目標となり、朝から晩まで仕事を強いられる。人間関係で摩擦を起こしながらもお金儲けのために、必死に働かなくてはならない。さらにそういう生活を子どもたちにも押し付けている。1カ月の生活費が20万も30万もかかる現在の生活の仕組みはなにかおかしい。そういうお金まみれの生活の仕組みが人々を苦しめて、生きがい喪失に陥っている社会に対してどう提言していこうとしているのですか。そういうお金中心の生活の仕方は見直しましょうよという提言はなぜ出てこないのでしょう。日本人の将来はそこら辺りが最も大切なところだと思います。つまり第一点は、そういうお金至上主義の生き方は、人間の生き方を考えてみたときに大いに問題があるのです。毎日の日常生活の中にささやかな楽しみがたくさんある生活がまともな生き方だと思います。今はそういう便利で快適なお金中心の大量消費の世の中から抜け出るということが大変重要な時代だと思います。第二点目。物を大量に消費して、また使えるものも買い変えるというのは、「物の性を尽くす」という考え方の真反対の考え方だからです。物を買い変えるという考え方は、そのもののもつ存在価値を伸ばしていく考え方ではありません。新しく、付加価値の高い商品が出てくれば、古い物は見向きもされず、捨てられてしまうということです。物の価値を見つけ出して、その価値をどんどん高めていこうとしない人は、自分も他人も粗末に扱う人です。森田でいう唯我独尊の世界とは反対です。自己否定、他人否定で八方ふさがりの状況に追い込まれます。
2016.05.02
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