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前橋市内のビジネスホテルで40代の女性従業員に乱暴したとして、群馬県警に逮捕された俳優、高畑裕太容疑者は大きくマスコミで報道されている。母親で女優の高畑淳子さんは、息子の謝罪会見まで開いた。痛々しかった。これで彼の俳優としての将来は完全に閉ざされてしまったという報道がなされている。日本では一旦不祥事を起こすと永遠に世間から見放されてしまう。再起不能であるばかりではなく、ひっそりと影をひそめて暮らすか、外国に移住するしか生きていく術はない。この点はアメリカとは全く違う。彼は性的欲望が高まるとそれを抑えることができず、衝動的な行動に向かいやすいという特徴を持っていたようだ。それを悪化させる“トリガー”の役目を果たしたのが、アルコールだった。アルコールでわずかに残っていた理性の抑止力が無くなり、動物的本能といわれる性欲が一挙に表面化して暴走を始めたのだ。一旦そういう状態になれば、食い止めることは無理だと思う。本来人間は性的欲望が高まってくると同時に、抑制力も高まってきて、反社会的な行動に歯止めがかかるようになっている。ところが小さい頃に、親が過保護や自由放任でやりたい放題に子どもを育てているとそのバランス調整機能は育ってこない。反社会的で、自分で自分の行動をコントロールできない放縦児になってしまうのだ。これは幼児期、小児期時代に身につけることで、その時期を逸してしまい、青年期以降に獲得しようと思っても難しい。ほとんど不可能なのだ。高畑裕太容疑者も逮捕後、お母さんと面会した際、「申し訳ありません」と言っていたという。自分でもあとで振り返れば、その時の抑えきれない衝動で取り返しのつかないことをしたという罪悪感でいっぱいになっていることだろう。どうにもやりきれないことだ。この傾向は自己内省力の強い神経質者には問題はないのであろうか。私は神経質者でもこういう傾向は大いにあると思っている。神経質者は本来目指すべき「生の欲望」の発揮は蚊帳の外になって、気になる不安や不快感を取り除くことばかりに意識や注意を向けている。アンバランスで自己閉塞的な生き方をしている。その生きづらさは大変なストレスとなっている。そのストレスは何らかの形で解消しないと、葛藤や苦悩でいっぱいになる。その発散の方法として、一つには刹那的、衝動的な快楽追求へと暴走する下地があるとみている。特に親が過保護や自由放任でやりたい放題な子どもを育てている場合はその方向に向かいやすい。だから高畑裕太容疑者の事件は他山の石として簡単に片づけられない。性犯罪者らの更生をめぐっては、法務省は2006年から、再犯を防ごうと「性犯罪者処遇プログラム」の導入を始めているという。プログラムでは受刑者を再犯リスクなどに応じ「高・中・低」に分類。10人程度のグループを作り、自身の性的特徴、事件に至った要因などを特定させ、性的欲求のコントロール方法などを話し合いの中から探らせていく。受講の効果については12年に法務省が報告書を公表している。それによれば、調査対象者のうちプログラムを受講していないグループの全犯罪の再犯率は29・6%で、受講したグループ(21・9%)よりも再犯の可能性が高かったという。私はそういう傾向のある人は衝動が暴発するような場所には出入りしないようにするしかないと思う。満員の電車やバスなどの公共交通機関は使わない。高畑さんのようにアルコールがトリガーとなる場合は、公衆の席では酒は飲まない。たとえ飲んでも終わるとタクシーなどですぐに家に帰って寝るようにする。あるいはそういう場合、第3者と行動して制御機能を果たしてもらうようお願いしておく。自分には理性が働かなくなるという自覚を普段から自分に言い聞かせていくことである。衝動的行為が最悪どういう結果をもたらすかは普段から十分に検証しておくべきであると考える。そうしないと自分の人生に未来はなくなってしまう。また家族を巻き込んで大変な事態になる。そういう人の自助グループへ参加して、学習して仲間同士助け合うことが必要である。
2016.08.31
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森田理論学習では「私メッセージ」を身につけることをお勧めしている。「私メッセージ」は、私を主語にして、「私はこう感じる」「私はこう考える」「私はあなたがこうしてくれたらうれしい」と発信することです。精神科医の和田秀樹さんも同じことを言われている。「・・・と思います」というのは応用範囲の広いいい方です。たとえば相手を軽くとがめるようなときです。「そういうことはまずいよ」というより「まずいと思うよ」といったほうが相手にやわらかく伝わります。「まずいよ」では「かまうもんか」と押し切りたくなるのに、「私はまずいと思うよ」といわれると「そうかな」と考えるからです。「私は・・・と思うよ」が加わるだけでこちらの意見もワンクッション置いて相手に伝わります。ダイレクトに伝われればダイレクトに拒んだり反論したくなることでも、「私は・・・と思うよ」で不思議に冷静になるものなのです。ほめる時や肯定するときにはそのままストレートないい方でかまいませんが、なだめたりとかとがめたりするときにはできるだけ相手を刺激しないように「私は・・・と思うよ」といったいい方をしてみてください。相手が無理な要求を押し付けてきたとき、即答で「ムリ」と答えるより、一呼吸間を作って、さらには「私はムリだと思うよ」とやわらかいいい回しをしてみる。あるいは自分が発言するときには、「わたしは」とか「ぼくは」といった主語をはっきりさせるという話術もあります。たとえば他人の悪口をいいふらす人はよく、同調を求めてきます。「ね、そうだよな」と相槌を求めてくるのですが、「知らないよ」とか「そんなことはないよ」といい返せばたちまちむくれてしまいます。そういうときでも、「私は知らないなあ」「私はそんなことはないと思うよ」といったいい方をするだけで相手にはワンクッション置いて伝わります。別に相手の悪口を否定したのではなく、自分の感想を述べただけですから、「ああ、そうなのか」と相手も受け止めるしかないのです。(感情トレーニング 和田秀樹 新講社 182ページより引用)これらに対して「あなたメッセージ」では、相手に自分の考え方を押しつけて、相手を自分のコントロール下に置こうという「かくあるべし」の押し付けになってしまいます。非難、説教、命令、指示、禁止、叱責、怒りなどの言葉が自然に出てきます。これでは相手の反発を誘発して人間関係はうまくゆかなくなります。「私メッセージ」や「私は・・・と思うよ」といういい方は、相手に「かくあるべし」の押し付けから離れるいい方になると思います。自分のしゃべったことに相手が拘束されたり振り回されることが無くなります。私の発言によって相手がどう行動するかは相手の自由な選択に任されています。森田理論ではこれとは別に「純な心」を大切にしています。「純な心」は最初に感じた感情、直感を大切にします。最初に感じる感情は不安、恐怖、心配、腹立たしさ、悲しさ、嬉しさ、ハラハラ感、心細さなどです。この感情を私メッセージにのせて、「私はあなたが帰ってくるのが遅いので、何か事故に巻き込まれたのではないかとても心配していたのよ」というようないい方が身についてくるととても好感が持てます。
2016.08.30
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あなたの上司にこんなことを言う人はいませんか。「あなたは何年この会社にいるんですか。本当に大学を出ているの。この仕事に対する能力が無いんじゃないの。同僚に比べて情けないとは思わないの」「いい歳をして、常識も分からないんだから、困った人だ。みんな軽蔑しているよ」「またミスをして。何度注意をすれば分かるんですか。もう外からの電話はとらなくてもいいですよ」「ロクに仕事ができないくせに、こっちの足を引っ張るのはやめてくれ」「私の仕事は君の尻ぬぐいではないんだぞ」「毎月ノルマが達成できないのなら会社のお荷物だし退職しかないな」「何だ、その顔は。言いたいことがあるのなら言ったらいいじゃないか」どこの職場にもいるような上司です。こんなことを言われた時、あなたはどう対応していますか。すぐさま猛反撃を開始して、「あんまりじゃないですか。人をバカにするのもいい加減にしてください」と破れかぶれになることはありませんか。私の職場でもあまりにも腹が立って暴力に訴えた人がいました。すべて退職に追い込まれてしまいました。こうしたケースを森田理論で考えてみましょう。こうした上司は自分の不快な感情を部下にぶっつけて、自分の気持ちをスッキリさせようとしているのです。また、森田でいうと「かくあるべし」の強い上司です。上司の立場を利用して、自分の主義、主張を部下に押し付けているのです。こういうのをパワーハラスメントと言います。部下を自分の思い通りにコントロールしようとしているのですが、部下との確執を深めるばかりです。そのことに気が付いていない上司が多い。このような部下に対する感情攻撃は、不快な感情を取り除こうとして、精神交互作用を繰り返し神経症への泥沼へと陥っていく過程とそっくりだと思われませんか。森田では不快な感情は自然現象なのでどうすることもできない。そのまま持ちこたえていれば、薄まったり、流れていくと言っている。そんなことをやりくりするよりは、目の前の仕事に取り組んだ方がよほど有意義である。そうすれば不快な感情をやり過ごしてよかったということになる。このような上司は森田理論の「感情の法則」を知らないので、不快な感情は意志の力で取り除くことができると思っているのです。そういう意味では、森田理論を知らなくて、対処法が分からないかわいそうな人なのです。それにまともに反発する部下の場合はどうでしょうか。実はそういう人も、上司にバカにされた不快感をなんとかして取り去りたいと思っている人なのです。自分の不安、恐怖、不快感はどうすることもできない自然現象である。自然現象は素直に受け入れる。服従するのだということが、森田理論学習で、頭では理解できていても、実際の行動としては対応できていない人だと思います。残念なことです。では感情攻撃をしてくる上司にどう対応すればよいのでしょうか。基本はまともに取り合わないことです。相撲でいえばがっぷりよつに組まないことです。ぶつかり合うと見せていなす方法が有効だと思います。これで相手が勢い余って土俵を割ってくれればという気持ちでいることです。売り言葉に買い言葉といわれるような対応は、火に油を注いでつらい思いをするばかりです。では具体的にはどうするか。英会話を勉強している人の例。罵詈雑言を頭の中で翻訳するそうだ。「翻訳が難しいと、すみませんそこのところもう一度繰り返してもらえませんか」という。バカと言われれば、「その通りです」。能なしやろうといわれれば、「そうかもしれません」ミスをしつこく攻められれば、「申し訳ありません」。それに対して上司が「申し訳ないで済めば警察はいらない」といえば、反発しないでまた、「まことに申し訳ありません」を繰返す。感情攻撃が長びけば、「すみません。急におなかが痛くなりました。我慢できません。さきにトイレに行かせてもらってもいいですか」と言って中座する。一呼吸置くのだ。そして缶コーヒーを飲んだり、深呼吸をしてみる。誹謗中傷が始まれば、頭の中で好きな人のこと、好きな食べ物、夢中になっている趣味やスポーツのことを考えてみる。上司の感情攻撃がいかにも応えたという演技をする。うなだれて再起不能というような迫真の演技をする。女性の場合はシクシクと泣く演技をする。上司の方に「これはちょっとやりすぎたか」という気が起こるような演技をする。それを他の部下も見ているのだ。だいたい自分の不快感を部下にぶつけることによって、スッキリとしたい上司は会社内をうろついている蝮やハブだと思った方がよい。近寄らない方が無難である。避けられないときでも、絶対に棒などで威嚇してはならない。突きまわしているとトグロを巻いて突然飛びかかってくるのが関の山である。噛みついて毒針から猛毒で攻められたら命の保証はないと心得るべきだ。ここでは対決姿勢を引っ込めて、かわしていくという心構えを大切にしたい。その方法はこれ以外でもいろいろと自分で事前にいくつか用意しておくことだ。そしてその不満は同僚や親しい人に愚痴として吐き出していくことがベターであると思う。そうしないとストレスが蓄積されて最悪、うつ病、胃潰瘍、十二指腸潰瘍になる。
2016.08.29
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生活の発見会というところは、いろんな資格を持った人がいる。弁護士、医師、臨床心理士、税理士、1級建築士、社会保険労務士、司法書士などはよく聞く。合格した人はコツコツ受験勉強を続ける粘り強さのたまものである。読者の人の中には、会社の人間関係、人権を無視したような過大なノルマ、毎日のサービス残業に嫌気をさして、資格をとって、独立開業を目指す人もいるかもしれない。独立開業したいという人からときどき相談を受ける。しかし独立するということは大変なことだ。我々はどちらかというと、対人関係を避けてきたために、営業力が足りない場合が多い。親のあとを承継する以外に、独立開業する人は営業力の有無か勝負を決する。一部の資格を除いて、独立することは人に頭を下げてお願いすることが多い。また、人からプライドを傷つけられるようなことを言われても、すぐに水に流すことができない人は難しい。営業に足が向かなくて、事務所でお客を待っているか、インターネットでクライアントを集めようと思っている限りでは絶対にうまくいかない。また開業するにあたっては関係各所に人脈を広げてネットワーク作りをしないと難しい。人脈がないとステップアップのための勉強会、業務の相談をしたり、仕事を融通し合ったり、苦情処理などのトラブル回避ができない。これらがすべてクリアできる人は独立開業も有望だ。私の取得した社会保険労務士資格試験であるが、同じ受験専門校から20数名合格した。もう10年以上も前の話だ。ときどき風の便りでうわさを聞くが、独立開業して従業員を雇い、年収2000万円を超えている人が2人いる。一人は街中の一等地のビルに事務所を構えている。もう一人は大手の会社を顧問先に持ち、依頼を受けて講演にも走り回っている。残りの人は、そのまま会社に残り人事・総務部などでその資格を活かしたりしている。こういう人が比較的多い。銀行、農協、郵便局などで年金相談員、貯蓄相談員などをして仕事をしている人もいる。ところが悲惨なのは独立開業したにもかかわらず、年収が300万円にも満たない人が多数おられるのである。なかには100万円にも満たない人もおられるようだ。顧問先1軒もてば、基本的には月3万円が理想である。それを30軒確保すればまず成功といわれている。でも労働関係、社会保険関係の仕事を外部に委託している会社は少ない。また外部に委託している会社は、すでに他の同業社会保険労務士が入り込んでいる。その顧問先を奪わない限り自分の顧問先は増えない。これは騒動のもとになり実際にはとても難しい。それでもどうしても資格をとってみたいという人の相談をうけることがある。どうすれば無理なく資格を手にすることができるのか。私は今まで次のような資格を取得した。国家資格として、社会保険労務士、行政書士、宅地建物取引主任者、1級ファイナンシャルプランニング技能士(資産設計提案業務)、民間資格として、日本ファイファイナンシャルプランナーズ協会のAFP、CFP、メンタルケア学術学会のメンタルケア心理士などである。これらはとても難しく思われるかもしれないが、コツがある。それをつかめばだれでも取得できると思っている。でも私はこれらの資格を取得しようと思ったら、お金も自分の時間も犠牲にすることになるので、本当に自分がやりたいこと一つに絞ること。私のように幅を広げて、たいして役に立てず「死格」にだけはしてはならないと思う。お金も時間も無駄になる。その上でアドバイスするとすれば、合格にあたっては合格者を多数輩出している受験校のお世話になること。お金がかかるが、独力で合格することはまず不可能だと思う。受験校は名物講師がいる。その指導にすがることだ。ノートの作り方、受験テクニック、教え方、生活の仕方まで丁寧に教えてくれる。さらに専門校は試験に出そうなところは何年にもわたってよく分析している。それを問題にして模擬試験をおこなっている。それらを反復して学習することだ。試験でそれ以外の問題が出ても、受験者みんなができないと思うことだ。またたびたびテストがあり、優秀者の成績が張り出されるので励みになる。問題は反復して何回も繰り返す必要がある。受験校に行くと学習仲間が自然にできる。励まし合ったり、いろんな情報や学習方法が手に入る。勉強時間はそれぞれの資格に応じて、合格までの最低必要時間がある。それをもとに計画を立てて、年、月、日々の学習時間を設定する。つぎに完璧を目指さないことも大切だ。国家試験の合格はおおむね60%である。また難しい問題は標準偏差値を使っての救済措置もあるので安心して学習に取り組むこと。あとは目標に向かって粘り強く実行することである。どうしても欲しい資格は1年から3年以内を目標にして短期勝負した方が効率がよいと思う。
2016.08.28
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「青い鳥症候群」ということが言われる。若者で、現状に見切りをつけて、理想の恋人、学校、仕事などを求めて行動する人のことをいう。こう言う人の特徴を精神科医の比嘉千賀さんは次のように指摘されている。(1999,9,15の講話より引用)1、 一流大学を卒業して、エリートサラリーマンとして就職したにもかかわらず、すぐに挫折して退職してしまう。2、 謙虚さに乏しく、尊大に見える幼児的万能感を持つ。3、 仕事上の仲間との協調性に欠け、対人関係を円滑に維持することが苦手。4、 忍耐力に乏しく、一定期間の訓練的単純労働にも耐えられない。5、 高い知能や学力とは裏腹に、世間的常識や人情の機微に鈍感で、状況音痴的言動で人目を引くことが多い。6、 何かにつけて批判能力にたけてはいるが、おおむね自己中心的で、現実認識と現実対処能力にかなり歪みがある。7、 自我の発達が未熟で、過去の学力のみ自信を持ち、目標達成のための努力や積み重ねをせずに、労せずに一挙にその成果を得ようとする。8、 比較的能力は高いが、自己不全感の強い他責傾向の強い神経症者。9、 「良い大学、良い会社、良い生活」という画一的な社会価値観の中で、過干渉・脅威気ままに育てられた。これらを見てみると、「青い鳥症候群」の人は、親から、愛着障害、過保護、過干渉、放任などで育ててきたために社会にすんなりと適応できなくなっている。また、あまりにも偏差値重視の学力偏重で生きてきた。雑多な人間関係で揉まれる機会を持てず、対人関係の距離の取り方が分からない。光を当てずに短時間で「もやし」を育てたようなものです。これで自立して生きてゆきなさいと言われても、生きていく基礎力が無いのでどだい無理な話である。でも遅まきながら、人間の再教育をして、社会に適応してゆかないと将来が完全に閉ざされてしまう。さらに、森田神経症に陥るような人は、自分自身に注意や意識が向きやすいという特徴も持っているので一層生きにくくなっている。これらを踏まえて2点ほど提言しておきたい。まず目を外に向けて、目標や課題に挑戦する態度を養成すること。二番目には、対人関係のあり方を見直していくこと。そのためには、学生さんの場合は勉強ばかりではなく、課外活動にも取り組んでほしい。スポーツだけではなく文化系の課外活動もある。どちらでも自分の興味のあるものを見つけてほしい。課外活動に取り組んでいると、勉強以外の目標や課題にも取り組めることになる。大学受験という目標だけではなく、課外活動という目標は将来の人生にとって必ず役に立つと思う。現在は友だち付き合いをしなくても、家でネットゲーム等をして楽しむことはできる。それ以外にも自分ひとりで楽しむ方法はいくらでもある。でもそれはお勧めできない。それだけでは、人と協力して目標に向かって努力するという経験は持てない。また人間関係で揉まれるという経験が持てなくなってしまう。そういう状態で社会に出て、シビアな人間関係で躓くのは目に見えているのだ。社会人の場合は、職場の人間関係だけで大きく振り回されているという人もいるだろう。会社での人間関係はどうしてもとげとげしくなると思います。それはまずいと思います。会社以外の利害関係のない、趣味の会、集談会、町内会などの人間関係作りをお勧めします。次に会社は基本的には、生活費を稼ぐところだと思います。私の経験では、定年まで働いて自分と家族の生活を維持できれば十分だと思います。集談会では「月給鳥」という鳥になって、餌を捕ってきましょうと聞きました。会社では管理職を目指して熾烈な出世街道を突っ走っている人もいました。でもそういう人は一旦管理職失格の烙印を押されると、窓際族として生きていくか、退職するしかないんですよ。そうならないためには、私は会社勤めもクビにならない程度に、ホドホドの取り組みをお勧めしたいと思います。集談会でも生活信条として、「ホドホド道」を勧める人もいます。
2016.08.27
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行動するにあたっては、あらかじめうまくいかない最悪の事態を想定して取り組むとよいといわれる。今日はこの問題を考えてみた。世の中には、一時的な人間関係のこじれや仕事の失敗にとらわれて、すぐに会社を辞める人がいる。辞めてはじめて会社勤めをしていたメリットが分かる。毎月の給料、賞与、有給休暇、社会保険の充実などである。新たに仕事を探してみても、以前の職場以上の待遇を超える仕事はめったにない。こんなはずではなかったと反省してもあとの祭りである。一時的なネガティブな感情に左右されていては家族を巻き込んで苦しむことになる。こういう時こそ冷静になって最悪の事態を想定して検討してみることは有効である。最悪の事態を受け入れる心の準備ができれば、最悪の展開になっても想定内という気持ちがあるので受け入れやすいだろう。また最悪の場合になっても立ち直りは早いかもしれない。ただ神経質な人の場合は、このような忠告は屋上屋になりかねない。そんなことをわざわざ言われなくても、神経質な人はいろいろと取り越し苦労をしている。石橋が壊れないか叩いて念入りに調べて、大丈夫だと分かっても、もしものことを考えて渡らないというのが神経質者である。行動してもうまくいくはずはない。失敗でもすればみんなの笑いものになる。自分の自尊心が傷つく。このように物事を悲観的に考えて、手も足もでないというのが私たちである。最悪の事態を頭の中でこねくり回してケロケツ状態に自分を追い込んでしまう。ケロケツというのは、棒につながれたロバが、そのわずらわしさから逃れて自由に行動したいと思って、格闘しているうちにひもが体中に巻き付いてどうにも身動きが取れなくなった状態をいう。ではどうすればよいのか。最初から悲観的になるのではなく、行動するにあたって障害となる問題点を紙に書き出してみることが有効だ。問題点のストックを思いつく限り集める。たとえばイベントの実施の責任者に抜擢されたとする。とてもではないが自分には荷が重すぎる。できるわけがないと簡単に決めつけてしまうのではなく、それはひとまず横に置いて、まずは実施にあたっての問題点を思いつく限り列挙してみるのだ。まず、大きなイベントの場合、半年先、1年先という場合がある。目標達成までの大まかなスケジュール表を作る。次に実施会場、交通アクセス、予算、講師の選定、参加者の勧誘方法、イベントのプログラム、役割分担表などを考える。大枠が決まると、あとは細かいことが気になるという神経質性格を活かして念を入れて用意周到に準備をすることだ。神経質な人は放っておいても、最悪のケースを想定することが多い。それを逆手にとってその最悪のケースを整理して取り組んでみることだ。それでもできそうにないと思うことはよくある。そういう時は、その理由を考えてみよう。自分一人ではできないのか。何人か集まればできることなのか。あるいは他の人に依頼するとできるのではないか。今の時期ではできないのか。そのうちタイミングが合えばできるのか。経済的な問題で無理なのか。別の見方はできないのか。視点を変えて考えてみたのか。できないといっても確率が悪いだけで、10回のうち8回9回はうまくいかないが、1回2回はうまくいくということはないか。原因が分かれば必ず打開策は見つかる。要するに、神経質者の場合は、最悪のケースを想定して、早々とチャレンジすることをあきらめて指をくわえて眺めているだけという場合が多いのである。神経質者の取り越し苦労は、普通の人が無視してしまうことに敏感に反応するというプラスの面があることを再認識することが大切なのである。我々は強力な遠くを見渡せるレーダーを標準装備しているようなものなのだ。それを活用してこそ神経質性格はとてつもない力が発揮できるのである。
2016.08.26
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大原健士郎先生は、ネオ・モリタセラピーの必要性を訴えられていた。これは森田療法を修正し、現実に則したよりよい森田療法を志向していくことだといわれる。この意見に私も賛成している。その背景として、神経質ではあるが生の欲望が認められない若者が多くなった。また生の欲望の表出様式がさまざまでつかみにくくなってきた。また森田先生の時のような純粋森田療法に適応する患者は少なくなってきた。うつ、躁ウツ病、統合失調症、アルコール、薬物、ギャンブル、ネットゲーム依存症、ひきこもり・不登校などの症状を併発している人も増えてきた。この人たちは、もちろん森田の原法だけでは効果は期待できない。しかし各種の薬物療法や物理的療法を施行し、症状が鎮静化してくると、意外に森田療法的アプローチが奏効するのである。治療者の方も24時間患者と寝起きをともにして、患者の生活指導をする人はいなくなった。今や臥褥から始まる入院森田療法は慈恵医科大学第3病院ぐらいになってしまった。大原先生は、森田療法に家族療法、絵画療法、音楽療法、レクリェーション療法、スポーツ療法、作業療法を拡大して農園を耕したりしてきたといわれる。この点では、私の実践している、森田療法と一人一芸を組み合わせたやり方も大いに可能性がある。国際森田療法学会の発表ではその傾向は顕著であるといわれる。たとえばアメリカのレイノルズ先生は、森田療法と内観療法をドッキングさせている。彼の組織は「国際建設的な生き方協会」と呼ばれ、神経症はもちろん、アルコールや薬物依存者、非行少年、エイズ患者などにも救済の手を差しのべている。倉敷のすばるクリニックの伊丹先生は、森田療法の考え方を難病患者の治療に応用されている。末期のがん患者に対しても、森田療法の精神を活かして、残された日々をいかに有意義に過ごさせるかということに力点をおいた地道な実践をおこなっている。それでは「森田療法の崩壊だ」と酷評する学者もいたそうだ。これに対して大原先生は、そもそも森田は生前、自ら創始した神経症患者に対する特殊療法を改良に改良を重ねて、いわゆる森田療法が樹立されたのである。私は森田の精神を活かして、現実に対応できる理論と技法を案出することこそ、森田的態度であると思う。森田理論は変化の波に乗って自らの変容を促がすことをすすめている。森田理論の真髄を深耕することは当然必要であるが、そこにいつまでもこだわり続けるというのは如何なものか。その方向はマンネリに陥り、観念の空回りを招き、森田理論の空洞化に拍車をかけるものではないのか。その方向を推し進めていくと、日本では森田理論は淘汰されてしまうだろう。そしていずれ海外で森田療法が発展してきて、それを逆輸入する形で日本で再び森田理論が見直されることになるのだろうか。森田理論をある程度極めた人は、既存の枠から飛び出して、新しい森田理論活用の道へと駒を勧める必要があるのではないか。(「不安と憂うつ」の精神病理 大原健士郎 講談社文庫より一部引用)
2016.08.25
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わがままで自己中心的な子どもは放縦児といわれている。放縦児はどんなことをしているか。子どもたちが電車内やレストランなどで通路などを走り回っている。コンサートに来てお菓子をむしゃむしゃ食べながら、話をしている。普段お菓子をたくさん食べているので、食欲がなく、食べ物を突きまわして食卓や床にこぼす子ども。買い物に行くたびにお菓子をせがみ、買ってくれないと床に寝っ転がって手足をバタバタさせる子供。等など。親は子どもの人格を尊重し、注意をしたり、叱りつけたりすることを敬遠している。腫れものを触るような扱いなのである。子どもと親は対等であり、友だち同士のような人間関係を理想としている人もいる。私たち全共闘世代は、親や先生などの権威主義的、支配的な父親像を徹底して嫌っていました。その結果、親子というのは上下関係ではなく対等でありたいと考えました。親子といえども平等で、家庭のなかでも民主主義が貫かれました。その教育方針は、そのまま団塊の第二世代へと引き継がれていったのです。やがて親となった子どもたちは、家庭の中にあっても、子どものことを大事に思えば思うほど、厳しいことを言わなくなる。叱らなくなる。子どもにこびる態度を示すようになる。その結果我慢ができない、耐えることができない、欲望を抑えることができない。刹那的な快楽をひたすら求める人間に育ってしまったのです。これは子どもにとっては大変不幸なことではないのか。幼児期、小学校低学年までは、子どもは自己中心的でやりたい放題です。それは一面で好奇心の発露で、自主的、自立的な大人になっていくために最優先して身につけさせる教育です。ところが行き過ぎに対しては、見逃してはならないと思います。子どもは衝動に従って行動していますので、言葉で注意したぐらいでは分からないのです。怒鳴るか、お尻をひっぱたくぐらいにしないと効き目はありません。特に父親はそういう役割を果たすことが必要です。ここでの注意点を精神科医の高橋龍太郎氏は次のように指摘されています。子どもたちの衝動を封印するには、適切な年代というものがあります。中学生になり第二次反抗期に力を加えれば、親子関係は悪化してきます。それでは手遅れなのです。それ以前の平穏な幼児、学童期という時期に躾という力を加え、子どもたちの衝動を抑え、大人への道筋を歩まさせる。これが親の果たすべき役割なのです。子育ては、森田理論で言うように、まずは子どもの好奇心を発揮して何事にも挑戦的な子どもに育てることが重要です。でもそれだけでは放縦児を生みだします。子どもの暴走には制御を加えてバランスを意識することも重要であると考えます。これは1歳6カ月までの「愛着の形成」が問題なく完成されてからの次の課題となります。いづれにしても子どもを育てる親は、立派な子どもを育てるために、先人たちの知恵を学習することが大切だと考えます。(あなたの心が壊れるとき 高橋龍太郎 扶桑社文庫参照)
2016.08.24
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先日、NHKで「不寛容の社会」という番組をやっていた。「不寛容」というのは、他人のあやまちや欠点を許さない社会のことだそうだ。森田理論にも関係する大変興味深い番組で、心理学者や一般の人が20人ぐらいで議論をしていた。その中で一番目を引いたのは東京大学の鳥海不二夫先生のツイッターの分析の話だった。ALS(筋萎縮性側索硬化症)という患者さん(ホーキング博士もその病気だそうだ)支援のために、「アイス・バケツ・チャレンジ」というのがあった。頭からバケツの氷水を浴びるというものだった。ソフトバンクの孫さん、楽天の三木谷さんたちのチャレンジで有名になった。これに対して賛否両論、ツイッターで67万件もの書き込みがあった。鳥海氏はそのうち31万件を分析された。これによると賛成派と反対派に明確に分かれていた。賛成派の理由は、「活動に賛同した」「みんなで寄付をしよう」「寄付をしたよ」「素晴らしい」「秀逸なプロジェクトだ」「病気を知ることは大切だ」「患者を支援しよう」などだった。反対派の理由は、「売名行為だ」「うさんくさい」「水の無駄だ」「偽善だ」「氷水をかぶって楽しんでいる」「自分が患者だったら喜ばない」「ALS患者は喜ばない」「病気に関心を持つ人はいない」などだった。ツイッターでは誰かがつぶやくと、その意見に対してリツイートがある。自分が賛成の立場だと、賛成の意見にたいしてリツイートする傾向が強い。反対の立場だと反対意見に対してリツイートする傾向が強い。自分と反対意見へのリツイートは1割に満たなかったという。つまり反対意見は無視してしまうのだ。たとえばALS患者が、「アイス・バケツ・チャレンジ」活動や寄付に対して「心から感謝しています」というつぶやきを投稿した。これに対して賛成派の人は100名以上の人がリツイートとしている。ところが反対派の人のリツイートは全くなかったという。これは何を物語っているか。自分に合わない人とは没交渉である。最初から毛嫌いしているのだ。人の意見は聞かなくて、一方的に自分のいいたいことを独り言としてつぶやく。それに対してリツイートされればうれしい。なければそれでもよしという感覚。お互いの反対意見の人の言い分をよく聞いて、よりよい意見の集約を図ろうという気持ちは最初からないのである。相手の考えと自分の考え方の違いを吟味してみようという気持ちはさらさらない。一方的に自分の立場でいいたい放題のことをいう。そして自分のスタンスに合わない人は、敵とみなす。敵はみんなして批判、排除、攻撃してしまうということである。これをネットでおこなっていると次第にエスカレートしてくるという。するとこんなことが起きる。最初反対派だったのに、賛成派の気持ちも分かるというようなリツイートをするような人がたまに出てくる。するとその人は、反対派内で裏切り者として袋叩きされるという。同質性を裏切る行為は背信行為とみなされるのである。森田では二者択一で片方に偏ることを危うい傾向と警戒している。100か0、白か黒、正しいか間違いか、良いか悪いかと価値判断することである。ここで言う賛成派、反対派はその両極端に離れてしまいそれぞれに固まってしまう。そしてそれらが対立しているのである。森田では、真実はつねにその両極端のまん中あたりにあるという。自分の意見が相手と違う場合は、すぐに否定や排除をしないで、相手の言い分をよく聞いて、調和を模索するという姿勢がどうしても必要だ。そうでないと相手といがみ合うようになり、結局は自分自身が自分の首を絞めているということに気づく必要がある。もはや現代人は調和、バランス感覚を失い、議論、話し合いによる事態収拾という道は放棄してしまっているのであろうか。傾聴、受容、共感という温かい人間関係は死語になってしまったのであろうか。今やネットを使って誰でも自由に自分の意見を述べることができる。先日保育園に落ちた働く主婦の「保育園に落ちた、日本死ね」という書き込みは、日本全国で反響があり、国会をも政府をも巻き込む議論に発展した。このようにネットは良い方にも悪い方にも独り歩きして加速度を増して過激になってしまうのである。悪いほうに情報操作されれば数日でネット炎上現象が起きてしまう。その数、2015年は年間1000件に上っているという。書き込みをしているうちに最初は穏やかだった人が、精神交互作用でどんどん憎しみを増大させて生きるか殺すかという精神状態になるのだ。これは意見の合わない人を暴力で攻撃するという危うい社会だ。元々は好感が持てる人だったのにネットの書き込みのせいで、醜い人間に変化してきたのだ。これが始まったのは1995年といわれている。まだ20年しか経っていない。今後ネットの普及で、自分の信念、思想、生活スタイルに合わない人を、有無を言わせずに切り捨てたり、排除する風潮は益々加速されるだろうと思う。その社会は人間同士が戦い、人類の破滅の方向に向かっているように思えてならない。ここにも森田的視点から社会に対して警鐘を鳴らす必要があると思う。
2016.08.23
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私はメンタルケア心理専門士の一発合格を目指してきたが、最終的に不合格だった。学科試験、論文試験は合格したが、第2次試験の面接試験が不合格だった。最終合格率は11%だったという。この時の心境を「純な心」で考えてみた。初一念はやっぱり駄目だったか。ショックだ。初二念では、腹が立ってきた。面接試験にあたっては、「メンタルケア心理専門士認定試験合格虎の巻」というものが、受験校から教材として配布されていた。それによるとたとえばこんな問題が出るとされている。1、 パワーハラスメントについて説明しなさい。2、 臨床動作法とはどういうものか説明しなさい。3、 インフォームド・コンセントについて説明しなさい。さらにQ&Aで、「面接試験では模擬カウンセリングなどをおこなうのでしょうか」という質問について、実技試験の面接では、模擬カウンセリングの実施はありませんとある。テキストの中から「○○について答えなさい」などの知識が問われますとある。ところが実際には3問出題され、そのうち2問はロジャーズの来談者中心療法の手法を使った模擬カウンセリングだった。想定外でそれに向けた準備は全くしていなかった。頭が真っ白になりうまく答えられなかった。今考えれば、模擬カウンセリングがあると分かっていれば、ロジャーズの受容、再陳述、反射、明確化に沿って対策を立てていたことは明白である。多額の学費、大阪までの2度にわたる交通費を使いながら、できる限りの準備をして望んでいるのに想定外の問題を出すというのはどういうことだ。腹が立ったのはそういう理由からだった。初二念というのは、一度湧き起ると次から次へと湧き起るものである。腹が立つ材料はどんどん拡がっていくのである。夜眠れなくなるほど次から次へと浮かんでくる。森田理論では、初二念は、初一念に続いて自然に湧き起こってくるものではあるが、これに基づいて行動を起こしてはならない。いくら腹立たしく思ってもそっとしておくことだ。そんなとき、効果があるのは、初一念の感情を思い出してみることだという。「あんなに準備をしたのに残念だ。ショックを受けた」この感情を思い出して、イライラする感情を抱えたまま、ほとぼりを冷まして、次にどうするかを考えてみよう。そこでイライラしながらその感情を2日ほど放置してみた。すると冷静になり、客観的視点で考えられるようになってきた。そう言えば受験校の講座を受けるにあたり、メンタルケア心理士、メンタルケア心理専門士の講座を申し込んだ。その時たしかカウンセリング技術の訓練の講座も付属してあった。だが私は、それは申し込まなかった。受講料が上がるし、無駄だと思ったのだ。それが今回命取りになったのだ。そんなことは面接試験を受けるまでは全く頭になかった。でも考えてみれば、この試験はカウンセラーになろうと思っている人が受ける試験である。それならカウンセリングの基礎技術の習得は必須の科目である。私のように心理療法一般について学習して知識を身につけたいと思っているのとはわけが違うのだ。片手落ちの考え方をしていたことに気づかされた。試験で問われているのは、私はカウンセラーになりたいという熱意があるのかどうか。ただとれるものなら資格だけでもとっておこうという気持ちで始めたのではなかったのか。そういう意味で、主催者の安易に合格者を排出しないという姿勢は共感が持てる。私の場合、対人関係で怯えながら生活や仕事をしている人たちに、私の身につけた森田理論を使って役に立ちたいという気持ちはある。でもカウンセリングルームを開設して相談業務を開始するには二の足を踏んでいる。それは経営にゆきずまったり、カウンセリングがうまくいかなかったり、医療過誤の訴訟を起こされた時の予期不安が膨らむからである。今考えているのはネットを使ったメール相談や日記指導、森田理論学習の系統的学習の主催である。これならホームページを開設するぐらいで、自宅できそうな気もする。十分な準備を整えて是非取り組んでみたいという気持ちは強い。問題は、将来そういう活動をするにあたって、カウンセリング技術の習得はどういう意味を持っているのか。取り組んでみる価値があるのかどうか。大いに役に立つものなのか。傾聴、共感、受容は生活の発見会の自助活動で30年間も取り組んできた。それ以上のものがあるのかどうか。その点を明確にする必要がある。早速カウンセリングの本を図書館で10冊ほど借りてきた。これから見極めをしてみたい。そんなことを考えていると不合格になったわだかまりは少なくなった。「純な心」の活かし方はこう言うことなのだなとしみじみと感じた。
2016.08.22
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ひろさちやさんは変化には4つあるといわれている。1、 不可逆的変化2、 可逆的変化3、 循環的変化4、 偶発的変化1の不可逆的変化とは、生まれて成長し、歳をとり老人になりやがては死んでいく。生老病死は意思の力でコントロールすることはできない。子ども時代に精神的、身体的虐待を受けて大人になってそのトラウマで苦しむ。トラウマは取り除くことができるかもしれないが、過去に遡って虐待そのものを消し去ることはできない。2の可逆的変化とは、小さい頃家が貧しかったのに、努力して経済的に豊かになる。反対に小さい頃は裕福だったのに、放蕩三昧で中年以降貧困に苦しむようになる。3の循環的変化とは、春から夏、夏から秋、秋から冬というように季節が移り変わるという変化のことである。4の偶発的変化とは、台風、豪雨、地震、津波、雷など自然災害などのことである。あるいは株価や円が上がったり下がったりするような変化である。3と4はほとんどだれでも素直である。夏は暑い、冬は寒い。つらいことではあるが、みんな受け入れて生活している。時々デイトレーダーなどで短時間で株売買で巨額の利益を上げようと挑戦することがある。予測は的中する時は少なく、失敗することの方が大きい。手を出さない方がよい。地震などでも耐震工事をおこなって対策をとるが、これも絶対ということはない。想定外の大きな地震や津波が来た時は早く逃げるしか手がない。2の場合はできるだけ積極的に手を出した方がよいと思う。その中でも将来が末広がりに展望が開けること。本当の意味で他人のためになることは特にそうである。でもこれも程度問題である。例えば野球の素質のない人が練習によって、プロ野球の選手を目指すということがある。また、勉強が苦手なのに、塾に行ったりして偏差値の高い学校を目指す。あるいは、ほとんど治らない病気にかかっているのに臓器移植をして延命を図ろうとする。可能性が少なかったり、精神的に自分を追い込むような目標に固執することはどうなのだろうか。そういう場合は選択肢を広げて、視点を変えてみる。自分の達成可能な目標に切り替えたほうがよい場合があるかもしれない。1は森田理論学習と関係がある。不安、恐怖、違和感、不快感などの感情などは、いったん発生すると取り消すことはできない。不可逆的変化である。自然現象でコントロールできないものであるにもかかわらず、人間の意志でなんとでもなると思っている。松下幸之助氏はなんとかなるものはたしかにある。でもその割合は約1割に過ぎない、他の9割は自然の摂理によって変化しているのであり、人間にできることは受け入れることだけであるといわれている。感情の法則1にあるように、「感情は、そのままに放任し、またはその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、ひと昇りひと降りして、ついに消失するものである」とある。われわれはあまりにもせっかちなのだろうか。そのことをころっと忘れて、あきもせず、不安や恐怖と格闘してしまう。そして神経症の泥沼へと突き進むのである。(諸行無常を生きる ひろさちや 角川書店参照)
2016.08.21
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森田理論学習をしていると「他人と比較をしてはならない」という話をよく聞く。もっともなような気もするが、私はこの意見には、半分は同調しているが、残り半分は反対している。というのは、比べてみないと今現在自分がどんな状態にあるのかはっきりとは分からない。そのよい例は海外旅行だ。日本人と外国人の生活の違いがとてもよく分かる。日本だけで生活していると、井の中の蛙状態で客観的に見ることができない。比べないから自分の今の状態が分からない。そうなると今の生活を見直したり、改善の糸口が見つからない。私はシンガポールとハワイに行ったことがある。シンガポールは1年中日本の夏の暑さが続く。街中はなんともいえない甘酸っぱい香水のにおいがした。四季はない。またチューインガムを道路に吐き捨てただけで逮捕されるという。だから街中はきれいだ。雑草が生えているところはない。水はマレーシアからすべて輸入している。食料もすべて輸入である。だから国としては金融、最先端科学技術、観光で成り立っている。国民所得はアジアでナンバーワンである。高層ビル群が林立している。家にはどこの家にもメイドがいる。家事、育児などはインドネシアから来たメイドが行っている。また食事は家で作るよりも屋台で食べたほうが安いそうである。日本とは違うことが多かった。ハワイはホノルルのあるオアフ島とマウイ島に行った。何かにつけてスケールの大きさと陽気な人々に驚いた。飛行機からパールハーバーが見えたときはどきっとした。マウイ島の海ではクジラが乱舞していた。ポリネシア文化センターでの火を使った踊りには驚いた。マウイ島のハレアカラ火山の山頂(3055M)までバスで一気に上ったのは肝を冷やした。潜水艦での海中探索は初めての経験だった。海はとてもきれいで熱帯魚が乱舞している。日本人では太っているといってもせいぜい100キロぐらいだが、ハワイの人の太り方は尋常ではない。力いっぱい太っているという感じだった。あくせく働いている人は少なく、生活を楽しんで暮らしている感じがした。これらは海外旅行をして始めて気がついたことだ。比較して自分を客観的に自覚することは将来につながることが多いと思う。ただ比較することは弊害もある。比較は一般的には、他人の長所や強みと自分の短所や弱みを比べている。そして劣等感に打ちひしがれて、自己嫌悪や自己否定をしている。あるいは他人の短所や弱みと自分の長所や強みを比較して優越感に浸っている。優越感に浸る人は、自己内省の得意な神経質者にはあまりいないのではなかろうか。比較することの弊害は、比較して違いが分かると、それがどちらがよいとか悪いとか優劣をつけて価値判断をすることだ。比較を欠点や弱点の発見のための手段として使っているのである。シビアな視点で価値評価をしているのである。それはやる気や意欲をなくして、自己否定につながる。森田理論を思い出してほしい。森田は徹底的に事実に柔順であろうとする。そのためには現地に行って自分で確かめる必要があるという。先入観で決めつけてしまうことを嫌う。そして相手に伝えるときはその事実を具体的に生々しく伝えることを基本とする。ここまでで止めておくと問題はない。その先いい悪い、正しい間違いという価値判断を下すことはご法度なのである。価値判断という物差しは、時代の変化によって、その時の状況によって容易に変化するものである。そんなあいまいなものさしで絶対的な価値の判定をすることはお勧めできないのである。結論を言うと、どんどん他人と比較して自分との違いを見つける。肝心なことは事実を事実として認めて受け入れることだ。よい悪いと価値判断をしてはならないのだ。そうすれば自己否定に陥ることなく、今現在の自分から出発して将来に明るい展望が描けるのではなかろうか。
2016.08.20
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高良武久先生は、対人恐怖症の人に、その道のエキスパートになりなさいと言われていました。10年ぐらい一つのことに取り組んでいると、その道のエキスパートになれる。そうすれば人が集まり、人間関係がうまくいくようになる。私の体験からしても確かにその通りだと思う。それは注意や意識が外向きで物事本位になるからである。その中で技術を習得したり、資格を得たり、能力を獲得できる。そして徐々に自信がついてくる。自信がついてくると少々人が自分のことを非難したり、からかったとしても笑ってすまされるようになる。注意や意識が自分の心身に向けられている時は、反省して、自分を責めて、苦しいばかりである。これが全く駄目だと言っているのではない。将棋でも攻めてばかりで、防御を怠ればすぐに負けてしまう。要はバランスの問題である。バランスをとると言っても、目の付けどころは基本的には外向きであることが肝心である。自己内省性はその補助機能として機能している方が安定している。神経質者はコツコツ粘り強いという特徴があるので、道を極めていくというのは取り組みやすいと思う。対象としては自分の仕事でエキスパートを目指す方向がある。自営業などはよいかもしれない。家事、育児、職人、料理人、スポーツ選手、自然相手の仕事、飛行機などの操縦などの特殊技能は奥が深いので取り組みやすい。マイスター、匠、達人への道をきわめている人は多い。会社勤め等の場合は、どうしてもやらされている気持ちになりやすく難しい。とくに製造業の場合は、単純作業で機械なみのスピートを求められるので、そういう方向にはゆきにくい。そういう場合は、会社勤め以外でエキスパートの道を探っていくことになる。私の場合もそうだったので、トライアスロン、スキー、テニス、釣り、森田理論学習、資格試験、一人一芸などに取り組んだ。それなりにコツは掴んだ。今も続いているのは森田理論学習、資格試験の取得、一人一芸である。これらについて詳細は何回も投稿した。ところでエキスパートになるためにはどれぐらいの時間をかける必要があるのだろうか。社会保険労務士試験を取得するために専門学校に通っていた。その時の先生が言うには、合格するためには1000時間が必要だ。1日3時間として、1カ月90時間。1年続けて約1000時間になる。朝早起きして1時間30分。昼休みに30分。家に帰ってから1時間。受験勉強は朝の時間が有効だった。通勤途中も参考書を見ている。先生の講義はテープにとって空き時間に聴いている。専門学校での講義は別枠である。まさに受験漬である。これぐらいしないと合格はおぼつかない。英会話などでは500時間習ったところで、やっと初心者卒業だそうだ。生け花などでも初心者の域を抜けるには、やはり500時間ぐらいはやらなくてはならない。1500時間やると素人でもかなりうまいほうになる。ピアノを1500時間練習した人は、素人としてなら人前で弾くことができるかもしれない。英会話も1500時間を超える頃から急に上手になっていく人が多い。本当の意味でエキスパートになろうと思ったら、少なくとも5000時間、10000時間が必要だといわれている。これは奇しくも高良先生が言われている10年にあたる。その間わき目も振らず練習に打ち込む。ということはその間は、自由に楽しいことをすることはできない。時にはアルコールも我慢しなければならない。時間を積み重ねていくと、霧で暗中模索状態だったのが、急に視界が開けてくることがある。そこからは弾みがついてさらに高みに挑戦する意欲が湧いてくる。これが人生の醍醐味ではあるまいか。その時点では対人恐怖はあろうがなかろうが、とらわれる時間は格段に少なくなっているものである。(無気力の心理学 稲垣佳世子他 中公新書 96ページより一部引用)
2016.08.19
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ロシアの風刺作家のクルイロフにこんな寓話がある。(完訳クルイロフ寓話集 内海周平訳 岩波文庫)豪華な邸宅に住む大金持ちの徴税請負人の向かいに靴直しが住んでいます。この靴直し、めっぽう歌好きで、陽気な男。朝から晩までひっきりなしに歌っています。一方、大金持ちは、破産するのが心配で睡眠不足。そこへ向かいの靴直しの歌でよく眠れません。そこで大金持ちは靴直しの歌を止めさせるために、500ルーブルの硬貨の入った袋を進呈しました。靴直しは袋をつかむと、走るというより飛ぶようにして家に帰った。贈り物は衣服の下に入れて持ち帰り、その夜は地下の穴蔵に隠してしまった。袋と一緒に持ち前の陽気さも!歌が出なくなったばかりではなく、眠りもどこかへいってしまった。(彼も不眠というものを知ったのである)すべてのものが疑わしくなり、すべてのものが彼を不安にさせた。夜中に猫が爪で引っ掻いても、もう泥棒が近づいてくるような気がする。全身に寒気を感じ、耳をそばだてる。要するに、人生が過ぎ去ってしまって、川へ身を投げたいくらいの気持ちだった。靴直しは考えあぐねた末、やっと気がついた。袋を持って徴税請負人のところへかけつけて、こう言った。「ご親切ありがとう。これはあんたの袋です。お収めください。袋をいただく前は、不眠というものがどんなものか知らなかった。あんたは自分の財産を身につけて暮らしなさるがいい。だが、あっしは歌と眠りのためなら、100ルーブルだって要りません」この寓話を森田理論で考えてみたい。森田では欲望は生きる源であると言っている。欲望のない人は哀れなものだと言っている。欲望にはどんなものがあるのか。物欲、財欲、金銭欲、性欲、食欲、飲食欲、名誉欲、出世欲、権力欲、独占欲、所有欲、睡眠欲、排泄欲、完全欲、自己顕示欲、向上欲、健康欲、生存欲、安全欲、所属欲、自己承認欲、奉仕欲・・・。ざっと挙げただけでもこんなにある。これらを求めないということは生物とは言い難い。人間とは言い難い。欲望を持って自然や他者に働きかけることで、自分の生命を維持できているのである。欲望の存在なしに人間は生き延びることはできない。ところが欲望が暴走することは、その思いとは反対に、自分たち人間の破滅を招いてしまうというジレンマに陥ってしまう。そのひとつに原子力発電がある。チェルノブイリ、スリーマイル島、福島原発の放射能漏れの惨事は目を覆いたくなる。これらは人間のあくなき欲望の暴走の果てに起こした事故であった。将来私たちの子孫が末広がりに幸せになる方向に向かう欲望の追求は大歓迎である。ところが今現在の欲望に目がくらみ、刹那的快楽を求めて突き走る方向は如何なものか。欲望の追求は、けっして暴走を許してはならない。人間は進化の過程で、欲望の制御機能を身につけていった。脳でいえば扁桃体や海馬が淘汰されずに残されてきた。森田では、このことを「精神拮抗作用」という。今の人間は欲望の追求に弾みがついて、暴走している状態だ。そして残念ながらもう破滅を味合わないと自己内省できないところにまで来てしまっている。私はいつもサーカスの綱渡りの芸を思い浮かべる。サーカスの綱渡りは、長い竿を右に左に揺らしながら、バランスを取りながら、注意して少しずつ前進している。そうしないとすぐに地上に落ちてしまう。下手をすると命を落としてしまう。森田理論は、欲望と不安の調和を目指している。このことに思いを馳せて、世の中にその真意を訴えていく必要がある。
2016.08.18
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先日夏祭りでの仲間のエイサーの踊りです。三線の伴奏で沖縄民謡を歌われました。服装がきらびやかで、打ち鳴らす太鼓もよかった。
2016.08.17
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太平洋戦争では日本人310万人が命を落とした。東京大空襲では約10万人、沖縄戦では約9万4000人、広島の原爆では約14万人、長崎の原爆では約7万人、旧満州では約20万人の人が命を落とした。なぜ日本は勝てないといわれていた太平洋戦争に踏み切ったのか。私は森田理論学習で学習した欲望の暴走との関連で戦争の歴史を調べてみた。太平洋戦争の前の日本は「日中戦争」を闘っていました。満州に関東軍という軍隊を駐留させていました。1931年の満州事変というのは関東軍が仕掛けた戦争です。1932年に日本は満州国建国宣言をおこなっています。日本はロシアから戦利品として受け継いだ満州の土地の利権と資源を確保して、第2の日本を満州に作ろうとしていたのです。そのために「南満州鉄道株式会社」を作りました。「満鉄」は満州に対する植民地政策を推進する国策会社でした。この地に世界最先端の技術を導入して、炭鉱開発から学校、病院の設立、ホテル経営、上下水道の整備までなんでもおこなっていたのです。これを批判したのがアメリカです。アメリカは日本に対して「中国大陸から無条件で撤退しなさい」という要求をつきつけました。このまま満州への侵略を続けるなら石油の輸出をストップすると勧告しました。1933年、アメリカやヨーロッパの列強は国際連盟総会で「満州国を認めない」という提案を行い可決されました。それに対して日本は直ちに国際連盟を脱退しています。その後日本はアメリカの石油があてにできなくなった時のために、インドネシアの石油をめぐってベトナム、マレー半島に侵攻しました。これにもアメリカは強く反対し、ついに1941年に日本への石油の輸出を禁止しました。当時の日本は、石油の約80%をアメリカに頼っていました。その石油を使って、日中戦争を闘うための戦艦や空母、戦車を動かしていたのです。この時点で日本はもはや裸の王様になったのです。国際的に孤立し、破れかぶれになった日本は1941年12月8日、アメリカに対して真珠湾攻撃を仕掛けたのです。この時点では、連合艦隊長官の山本五十六は1年以内に和議に持ち込めばともかく、勝てる相手ではないと認めています。私は太平洋戦争を調べてみて、日本は日清、日露戦争に勝ち、欲望の暴走が始まったとみています。政府の暴走、軍部の暴走は誰も止めることはできなかった。戦時中は国民の思想弾圧をしてまで侵略戦争に突き走っていたのだ。欲望というのは弾みがついてしまうと、薬物依存にはまったようなもので始末が悪い。森田理論学習で学習したように、普通人間には、欲望が発生すると必然的に制御機能が働くようになっている。でも後悔や後ろめたさが出てくるのは最初だけのことではないのか。最初にそう感じた直感、感性を大切にすることが大切なのではないか。それを無視したために310万人もの人が無念の死を余儀なくされたのである。さらに原爆投下がなかったら、日本が総玉砕されるまで闘おとしていたのだから欲望の暴走は恐ろしい。
2016.08.17
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夫婦の人間関係に2通りあるようだ。一つは、今度生まれ変わったとして、また同じ人と結婚したいと思っている人。二つ目のパターンは、とんでもない。今の配偶者とは絶対に結婚したくない。相手のやることなすことすべてが癪に障る。顔を見ることすら嫌悪感を覚えるという人。一つ目のパターンは、理想的な夫婦のように思える。でもいいことばかりではないようだ。どちらかが亡くなると、残された方は生きる意欲がなくなる。特に男性の場合は数年で自分も亡くなるケースが多い。二つ目のパターンは、表面上夫婦でありながら別の人生を歩んでいるので、あまりダメージは受けないようだ。女性でも男性でも、再婚して新しい人生をスタートさせる人すらいる。でも二つ目のパターンの場合は、普段は夫婦ともに人間的な触れ合いはなく、精神的につらいばかりではなく、いがみ合ってばかりでは身体面にも悪影響が出てくる。なかには、仕事が終わってもすぐに家に帰らず、奥さんが寝静まった頃を見計らって帰宅している人もいるそうだ。こうしてみると基本的には、一のパターンの夫婦がいいようだ。私の知り合いに一番目のパターンの夫婦がいる。二人とも好奇心旺盛でさまざまなことに手を出している。その中で、この夫婦はよく口げんかをする。奥さんはかっとなることはめったにないが、旦那さんはすぐに頭に血が昇る。その場では線香花火のように口げんかをするのだが、見ているとすぐに収まる。それは旦那のほうが引き下がるからである。私が見ていて思うのは、いつも奥さんの方に分がある。それは奥さんが事実を具体的に正しく指摘するからだ。それが第三者から見ていても客観的で正しい。旦那さんが自分のやったことを間違いない。正しいと思っていることを奥さんが「それは違う。あんたは間違っている」と指摘する。すると旦那は絶対に間違ってはいないと反発する。または自分のやり方を通そうとする。一応は反発してみるものの、奥さんが何回も「あんたが間違っている」といわれると、そのうち引き下がっているというパターンがいつも繰り返されている。あんなにいつも奥さんにやりこめられてばかりでストレスはたまらないのだろうか。ところがその旦那さんが言うことには、「うちの奥さんほど協力的な人はいない。だからできるだけ家内のやりたいことはやらせるようにしている」という。小さい衝突はいつも発生しているが、無意識の部分でお互いを信頼しているのだと思う。土台の部分で固い絆で結ばれているのだと思う。海でいえば表面上大波が立って大荒れでも、海の底では波が立っていないようなものだ。これなら口喧嘩でいいたい放題なのも刺激が合って面白い。私の場合は、お恥ずかしい話だが、これが反対になっている。つまり、表面上は波が全く立っていないのだが、海の底は潮の動きが激しいのだ。イヤ、海の底の動きが激しすぎるので、表面上の動きを意識的に抑えているというのが現状だ。森田理論学習では、自分の感情、気持ち、意思、希望などは口に出して吐き出す方がいいと学んだ。それを我慢したり耐えたりしていると、それはストレスとして蓄積されていく。それが限界に達したとき、ひずみの解放が一挙におこなわれる。地震のひずみの解放とよく似ている。素敵な夫婦、素敵な人間関係というのは、相手は自分の思い通りにコントロールできるものではない。だから相手の言い分をよく聞いて、相手を分かろうとする気持ちを十分に持ち合せているのだと思う。この時点では、配偶者と自分の感情、気持ち、意思、希望と違っていてもよいのだと思う。その先は、お互いに勇気を持って話合い、許し合い、妥協点を探す努力を続けることが肝心であると思う。最悪は相手を拒否したり、無視したり、抑圧したり、脅迫したりすることである。
2016.08.16
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認知(受け取り方)の偏りや誤りは、感情、身体、行動に悪影響を与える。例えば訪問営業の仕事をしている人が、ほとんどのお客さんは冷たく断ってくる。そのせいで自分のプライドや自尊心はいつも傷つけられる。などと受け取っていると、感情面では得意先に訪問することが不安や恐怖になってくる。身体面では顔が引きつり、明るさが失われ、会話がぎこちなくなる。行動面では次第に仕事をさぼるようになる。このように負のスパイラルが雪だるま式に加速してしまう。誤った認知のせいで、悲惨な結果を招いてしまう。ただこれとは逆に、認知(受け取り方)の偏りや誤りがプラスに働くこともまれにある。普通の子どもなのに、担任の教師に、「この子はまれにみる知能指数の高い子である」と暗示をかけておく。すると担任の教師は、その子に特別に目をかけて指導するようになる。教師も力が入り、それに応えて子どもも意欲的になり実際に成績が伸びるということがある。これは、「ピグマリオン効果」といわれている。ただこう言う、プラスの認知の誤りはよいが、めったにない。神経症で苦しむ人は、マイナス、ネガティブな認知で実態以上の問題を抱えて苦しんでいる。これを対人関係で見てみよう。異性から見た自分自身に自信のない人は、「自分はどうせモテないだろう」とか、「うまくいっても、どこかで嫌われてしまうだろう」といったネガティブな受け取り方をする。そのような予期を持っていると、異性に対する行動も不安の多い、消極的な行動になってしまう。たとえば、男性Dさんには、彼女にしたい女性がいた。そろそろ彼の胸の内を告白すべきかと思っていた。しかし、彼は「男としての魅力が自分にないのではないか」という考えに悩まされていた。つきあってくれなんて言ったら、笑われるに決まっている。「友だち同士のつもりでいたの。恋人としては付き合えないから、もう合わない方がいいかもね」そんなふうに言われるに決まっている。会えないくらいなら、友だちでもいいから一緒にいたい。Dさんはネガティブな予想を立ててしまった。これに対して彼女の方はどうだったか。決して男性的とは言えないがいろいろと細かい気遣いのできるDさんに、相手の女性は好意をもっており親密なつきあいを望んでいたが、Dさんが何も言ってこないことが次第に気になってきた。「この人、私に優しく接してくれていい感じの人だけど、好きともなんとも言ってこない。これは私に気があるんでも何でもなくて、きっと人がいいだけで、別に相手が私でなくてもよかったのかも」結局、Dさんはその女性に打ち明けることができなかった。その女性もDさんのことをいい人だと思いながらも、特に気になる男性とは思わなくなってしまい、次第に会う機会を減らしていった。実に残念な結果である。読者の皆様も思い出すことがあるかもしれない。これは一つの事例ですから、この反対のケースももちろんあり得る。でもこれは自分勝手な思い込み、先入観、決めつけで相手の気持ちを推測しているだけで終わってしまっている。真実は闇に包まれたままである。このようなやり方では、自分も相手もみすみすチャンスを逃してしまう。そして将来、その時のことを思い出しては後悔の念で嘆き悲しんでしまう。この場合、事実をつかむための努力はできなかったのだろうか。彼女に彼氏がいるのかどうかは手をまわして調べればすぐに分かるはずである。それならまだあきらめもつく。友だち付き合いはしているのだから、彼女に結婚についてどんなことを考えているのかぐらいは聞けるのではないだろうか。結婚したいという願望があるのか、結婚相手の性格とか、どんな家庭を築きたいのか。それらが自分の希望と似通っていれば、あとは見切り発車でよいのではなかろうか。自分で言うのが難しかったら周囲の友だちなどに協力を仰ぐ手もある。何も自分ひとりで立ち向かわなくても方法は他にもある。第三者から「彼があなたのことを好きらしい」というのは、相手に好感を持ってもらえると思う。森田ではチャンスの神様は、前髪はあるが後ろ髪はないと言われる。前髪をつかみ損なったら、もう自分にチャンスは巡ってくることはないと思っていたほうがよさそうである。(ネガティブマインド 坂本真士 中公新書 129ページ参照)
2016.08.15
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今年の夏休みは11日から15日までの5日間である。11日は朝早く空き家になっている実家に帰った。朝5時起きだった。1時間30分かけて帰った。早速墓参りをした。その後すぐに部屋の空気を入れ替えて、太陽熱温水器に水を入れた。そして草刈り機を回して草刈り作業をした。同じところを春先から3回から4回刈らないとすぐに伸びてくる。傾斜面は足が滑って大変だった。畑や田圃が多いので仕事はいくらでもある。11頃まで集中して仕事をして、その後はシャワーを浴びて縁側でゆっくりした。風が入ってくるととてもさわやかで、田舎ではクーラーはいらない。こんな贅沢な気持ちの良い風は、都会では味わえないなと思った。帰りの高速道路は渋滞だった。県外ナンバーの車が多かった。里帰りや行楽だろう。12日は今年最高気温になる予報なので、勤務先の植木に水やりに行こうと思う。そり後は図書館で本を読もうと思っている。13日はチンドン屋のイベントの依頼で島根県の方に朝早くから出掛ける。地域の町おこしと老人ホームの慰問である。その後は焼き肉パーティとヤマメの塩焼きが待っているという。温泉にも入れるそうだ。それが終わると、獅子舞、浪曲奇術、しばてん踊り、どじょうすくいなどの稽古がある。一泊して、14日は午前中に帰ってきて、親戚の墓参りに行く。15日はまた田舎に帰り早朝から草刈りである。11日に刈った草は集めて燃やす。時間があれば近くのワイナリーに行こうかと思っている。今の時期なしやブドウも美味しい。こんな状況で今年の夏休みもあわただしいが充実はしている。
2016.08.13
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私たち神経症で悩む人は完全主義、完璧主義の傾向があると言われている。それでは具体的に何をもって完全主義的傾向があると判断しているのであろうか。これには「自己志向的完全主義尺度」といわれるものがあるので紹介しておこう。次にあげる項目を、全く当てはまらないを1として、非常にあてはまるを6として判定する。その間にあるものは2から5まで自分の任意の程度で判断する。1、 いつも、周りの人より高い目標をもとうと思う。2、 注意深くやった仕事でも、欠点があるような気がして心配になる。3、 「失敗は成功のもと」などとは考えられない。4、 何事においても最高の水準を目指している。5、 どんなことでも完璧にやり遂げることが私のモットーである。6、 些細な失敗でも、周りの人からの評価は下がるだろう。7、 高い目標をもつ方が、自分のためになると思う。8、 何かをやり残しているようで、不安になることがある。9、 物事は常にうまくできていないと気がすまない。10、 人前で失敗することなど、とんでもないことだ。11、 簡単な課題ばかり選んでいては、ダメな人間になる。12、 納得できる仕事をするには、ひと一倍時間がかかる。13、 中途半端な出来では我慢できない。14、 自分の能力を最大限に引き出すような理想を持つべきである。15、 念には念を入れる方である。16、 できる限り、完璧であろうと努力する。17、 少しでもミスがあれば、完全に失敗したのも同然である。18、 戸締りや火の始末などは、何回も確かめないと不安である。19、 完璧にできなければ、成功とは言わない。20、 やるべきことは完璧にやらなければならない。以上、各項目ごとに1から6までの評価ができたら、次の下位検査ごとに得点を集計して平均と比べてみる。A、 完全でありたいという欲求 5,9,13,16,20 平均18.18点B、 自分に高い目標を課する傾向 1,4,7,11,14 平均20.57点C、 ミスや失敗を極度に気にする傾向 3,6,10,17,19 平均14.16点D、 自分の行動に漠然と疑いを持つ傾向 2,8,12、15、18 平均20.16点私の場合はAが20点、Bが21点、Cが28点、Dが18点だった。特筆すべきは、Cのミスや失敗を極度に気にする傾向が際立って高いことだった。一般の人の平均が14.16だから、私の28点は異常値である。これを分析してみた。私の完全主義というのは、普通とちょっと違うようだ。それは、ミスや失敗をすると、他の人から非難されたり、軽蔑されたり、無視されたりする。また弱点や欠点も他人に付け入るすきを与えてしまう。だから他人から、うしろゆびを指されないように無難なところで納めてしまおうとする。つまり、完璧を取り繕って、不完全なところを隠してしまうという傾向が強いのである。本音としては完璧でなくてもよい。でも他人から完璧でないと思われることは耐えられない苦痛がある。そこに不安や恐怖が高まるという傾向が強いということが分かった。完全主義といってもゆがんだ完全主義者なのだった。小さいミスはだれでもある。弱点や欠点も誰でもある。言葉ではよく分かっていても、それを実際には受け入れることができない。逃げたり、隠したり、取り繕ったりのオンパレードである。反対にうまく事が運んだ時は、こんなことはだれでもできることだと素直によろこぶことがない。また自分の神経質性格もマイナス面ばかりに注意や意識を向けて、感受性が強い、粘り強い、向上心があるなどの長所には全く目が向かない。そういうバランスの悪さが生きづらさをどんどん膨らませていたのだということが分かった。森田の両面観で自分を見ていかないと明るい展望は描くことができない。まずはそういう自覚を持って生きてゆこうと思っている。(ネガティブマインド 坂本真士 中公新書 97ページより引用)
2016.08.13
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2016.08.12
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リオデジャネイロ五輪で体操男子個人総合決勝を行い、内村航平選手が92・365点で金メダルを獲得。前回ロンドン五輪に続く2連覇を達成するとともに、団体総合との2冠を手にした。二位はオレグ(ウクライナ)選手で0.099の差だった。最後の鉄棒の着地が勝負の分かれ目だった。内村選手はピタッときまり、オレグ選手は一歩前につんのめった。実は内村選手は、鉄棒のエンドウ(腰を折り曲げる技)でぎっくり腰みたいになったようだ。競技後は歩くのも痛々しい様子だった。よくぞ着地を決めたものだ。この勝負は甲乙つけがたく、最後は神様の采配にゆだねられたようなものだった。内村選手は、先日投稿した「ゾーン」に入っていた。それは次の言葉に現れている。「僕のことを意識してオレグがいい試合運びをしていた。みている人にはおもしろい内容を見せられた。体操の難しさ、おもしろさを伝えられたことが、勝ち負けよりもよかった」鉄棒に臨む前の心境については、「やる前はいつもどおりやることしか考えず、何の欲も出さず、着地を止めることしか考えていなかった。オレグの演技をみないと決めていた。ずっとみていなかった。あとは運に任せたという感じだった。自分の演技さえすれば結果がついてくる。いままでで一番できた試合だと思った」逆転の金メダルについては、「負けたと思った。負けたとしても一瞬、悔しい感じがこみあげてくると思ったけど、割り切れていた。負けていた方が楽だったかも。この先は余裕のある戦いは、絶対できない。オレグと一緒に大きな舞台でやったら、絶対に勝てない」精神的な疲労は「かなり、しんどかった。思い返したら二度とやりたくない。団体の金を取って、燃え尽きそうになった。それでもがんばって、気持ちで持ちこたえた。きょうは1種目も1秒も気持ちを緩めなかった」「ゾーン」に入った人は言うことも違う。そして「ゾーン」に入った人は多くの人に感動と勇気を与える。(この投稿はサンケイスポーツネット記事を参照しています)
2016.08.12
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岩田真理さんがこんな話をされている。ときどき強迫系の人の話を聞いていて、そんなにすごい強迫行為をしていて、風邪をひかないのかしら、身体がどうにかならないかしらと心配になることがあります。ところが、寒い冬に湯船にも入らず、シャワーを浴び続けていても、風邪もひかず病気にもならないのです。とても不思議です。おまけにいろいろなこだわりで食事を抜いてしまったりしていて、それでも平気なのです。(流れと動きの森田療法 岩田真理 白揚社 84ページより引用)これは精神が緊張状態にあるために風邪が入り込む隙間がないのだと思います。森田正馬全集第5巻の中に、武士が戦の中に睡眠をとっているとする。ところが水鳥の羽ばたきの音を聞いただけですぐに飛び起きて戦いの準備を始める。あるいは生まれたばかりの乳児を抱えているお母さんは、寝ていても赤ちゃんがぐずり始めるとすぐに目覚めてめんどうをみる。いずれの場合も、安静時といえども、精神が緊張しノルアドレナリンなどの神経伝達物質が出続けている。これがぐっすりと睡眠をとって状況変化に反応できないとなると簡単に命を落したり、子育てに支障をきたすようになる。だからこう言う状況下では、精神がある程度の緊張状態にある方がよい。強迫系の人やうつ病の人は、病気が軽快して精神的にゆとりが出てきたときは要注意である。過度の緊張状態の時は苦痛から逃れたいという強い希望や意思を持っていたのである。そういう状態で頭の中がいっぱいの時は、それ以外のことを考えるゆとりはない。ある意味では安心である。余計なことを考える余裕がないからである。これは100%症状のことばかり考えている状態です。ところが症状が徐々に軽快したときは、10%、20%、30%と他のことを考えるゆとりが出てくる。そのゆとりというか隙間を狙って風邪が入り込んでくるのである。風邪だけではない。自分の身体のふるえや違和感などにいち早く気づくようになる。あるいはイライラして不安定な自分の心の状態を嫌悪したり、否定するようになる。こう言う状態の時は周りにいる人はよほど注意しておかないと取り返しのつかないことにもなる。森田先生は森田正馬全集第5巻の中で、風邪を引く時の状況について何回も説明されている。それによると、寒い日に外出先から家に帰ってきて、ほっとして、さっそくこたつにもぐり込んで転寝などをはじめる。こういうときに風邪をひきやすいと言われるのだ。その時の精神状態は、緊張状態でピリピリとしていた心身が、急に真反対の弛緩状態に切り替わったのだ。そういうやり方は問題がある。スポーツの選手などが全力走などをおこなうと、すぐに休まないでクールダウンをおこなう。緊張状態を自然に弛緩状態に移していくのである。このソフトランディングが大切なのである。経済活動などでもデフレ経済になると、政府や日銀によってインフレ誘導策がとられる。これも過度のインフレで経済が混乱を招かないように慎重におこなわれている。急激に行うとハイパーインフレを招き、貨幣価値は紙くずにまで落ちてしまうことがある。過去の歴史が証明しているとおりです。我々もこれを見習う必要がある。精神の緊張、弛緩は、サーカスの綱渡りの芸のように墜落しないように長い物干しざおのようなものを持ってバランスを取りながら前進していくことである。過度の緊張状態にあるときは、弛緩状態に序々に下げていく。弛緩状態にあるときは、緊張感で刺激を与えて持ちあげていく。森田理論学習では、バランス感覚を磨き、その能力を身につけることを目指しています。
2016.08.11
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中国の映画監督に王凱歌(チェン・カイコー)さんがおられる。その人の作品に「人生は琴の糸のように」という作品がある。ある盲目の老旅芸人の物語です。彼は三弦の琴を弾き、同じく目が見えない弟子の青年を従えて、転々と各地を放浪しています。この老いた旅芸人には、ある一つの悲願がありました。彼の琴の師匠が生前、彼にいい残した「おまえが千本の弦を弾き切ったとき、琴の中にある処方箋が効力を発揮する。それを持って薬屋に行き、その薬を飲めば、お前は目が見えるようになる」という言葉です。彼はこの言葉を胸に琴の修業をし、彼の演奏は今や神業に近いものになり、部族間の争いですら、彼の琴の音が聞こえてくると止んでしまうほどでした。目が見えなくても覚えておられるように、弦が切れるたびに糸に結び目をつけて数えていた老人は、ある日とうとう千本の弦を弾き切ったのです。喜んで、琴のなかの処方箋を持って街の漢方薬局に駆けつけた彼に、薬局の主は「これは白紙だ」というのです。もとからそこにはなにも書かれてはおらず、千本の弦を切っても、目が見えるはずもなかったのです。(流れと動きの森田療法 岩田真理 白揚社 128ページより引用)この映画は森田理論の「努力即幸福」を思い出させます。結果よりも努力しているその過程の中に幸せ、生きがいは存在している。この人は精進を重ねて、多くの人に感動を与える名演奏ができるようになります。それは過去を振り返って嘆き悲しむのでもなく、将来を悲観して投げやりになるのでもない。今現在の自分を受け入れて、今この瞬間を生きている。今に集中して、懸命に生き切っておられる。それは本人にとっては他に代え難い貴重な体験です。その姿は、他の人にも感動という大きなおすそ分けをすることにもなるのです。生きるということはこう言うことだと高らかに宣言しているようなものです。私はこの話を聞いて津軽三味線の高橋竹山さんを思い出しました。高橋さんも盲目です。寒い冬に村々を回り玄関で津軽三味線を弾いては糊口をしのいでおられました。盲目の自分を嫌ったり、否定しないで、その状況の中で懸命に生きてゆかれました。そしてもくもくと演奏技術を磨きあげてゆかれました。そのうち海外にまで認められる演奏ができるようになりました。ニューヨーク公演では拍手が鳴りやまなかったそうです。高橋さんは、厳しい状況にありながらも、前に進むことをあきらめませんでした。その演奏は、過酷な経験がかえってプラスに働き、魂の叫びとなって多くの人の心に届き、感動を与えていたのだと思います。演奏の時「みなさん赦して下さい。私は冷たい仕打ちをされた時皆さんを恨んでおりました。赦して下さい」と言われた言葉が忘れられません。本来ならこちらが「冷たい仕打ちをしてすみませんでした。赦して下さいね」と謝罪しないといけないのではないでしょうか。高橋竹山さんのエピソードは、2015年12月24日にも投稿していますので興味のある方はご覧ください。
2016.08.10
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最近は寝苦しい夜が続いている。クーラーを使っておられる人が大半だろうと思う。でも使い方を誤ると夏風邪をひいたり、のどの炎症をおこしたりする。要注意だ。一昨日の集談会ではクーラーの温度設定の話が出ていた。最低の人は21度、最高の人は28度だった。それから冷房をギンギンに効かせて布団をかぶって寝ている人もいた。冷房を使わずに除湿、ドライにしている人もいた。私も除湿にして27度に設定している。タイマーをかけて5時間ぐらいで切れるようにしてみたが、暑苦しくて目が覚めてしまう。クーラーのない昔の人は暑い夏をどう過ごしていたのだろうか。驚いたのは、小中学校、高校でクーラー設備のない学校が存在していることだった。今は夏休みだからよいが、暑い時は汗を拭きながら勉強しているのだろうか。集談会でもいろいろと工夫例が出ていたがこれといったものがない。昼間家にいる人は、日中は近くの図書館、大型ショッピングセンターに避難しているという人もいた。確かに夏の昼間、図書館は人であふれている。同じようなことを考える人はたくさんおられる。森田を勉強していると、ストレスを感じるほど寒くなったとき、暑くなった時、どうしたらその寒さ暑さから逃れられるのかという話がある。これについては中国の唐代の洞山良价という禅僧が次のように言っている。「寒さ・暑さのない処に行けばよい」これは軽井沢のような避暑地や南半球の涼しい気候の処へ行けばよいと言っているのか。そうではない。洞山良价禅師は、「寒いときは寒さで殺し、暑いときは暑さで殺してしまえばよい」すなわち、寒いときは寒さそのものになりきる、暑いときは暑さそのものになりきる。それが無寒暑の処だというわけです。こう言われると寒さ・暑さは我慢するしかないと言われているのであろうか。夏の暑いときに水分をとらずに太陽の光を浴びていると、紫外線の影響を受けるし、最悪熱射病で救急搬送されることにもなる。暑さに対して我慢大会のようなことは一害あって一利なしのようにも思える。命にかかわるような我慢は如何なものか。これは、言わんとしている真意が違うと思う。この真意を探ってみよう。暑いのは自然現象である。自然現象は基本的に人間の力ではどうすることもできないものである。それなのに我々は自分の都合に合わせて自然現象をコントロールしようと考えている。暴風雨、台風、地震、津波などはいくら制御しようと思ったところで限界があります。できる限りの備えをする必要はありますが、限界を超える自然現象は基本的には受け入れるしかなすすべはありません。「ものそのものになりきる」とは自然現象に対しては、逆らわないで受け入れてしまう。服従してしまうことを言われているのだ。これは基本的な生活態度としてしっかりとさせる必要があるのではないか。私たちは不安や不快なことがあるとすぐに、よいとか悪い、正しいとか間違いだとか価値の判定をおこないます。そして、悪いこと、間違いと判定したことに対してすぐに対策を立てて、実行に移そうとします。なんでもかんでもこのように対応することはまずいことです。どうにもできないことをコントロールしようとすると、最後にはエネルギーを使い果たして、苦悩を抱えて葛藤するようになります。また自己否定で苦しむことにもなります。コントロールできることと、できないことをしっかりと区別できる能力を身につけること。コントロールできないことに対しては、素直に受け入れて、服従していく態度を養成していくことが大切だと思います。
2016.08.09
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森田理論で「ものそのものになりきる」ということを、スポーツの世界では「ゾーン」に入るというようだ。うまくいくだろうかという不安が退き、今の演技に集中でき、一心不乱の心境にある。「ゾーン」に入らないと、予期不安などに圧倒されてよい結果が出ないため、アスリートたちは、「ゾーン」に入ることを願い、その手立てを見つけて、実践しようと躍起になるものです。ところが実際に、「ゾーン」に入り、想像以上の結果を出した選手達は、一様に、「ゾーン」の中では「結果なんてどうでもいい」と感じ、その直後には「結果はどうでもよかったんですが、最終的には素晴らしいパフォーマンスができて、評価も満点だった」と話します。これは非常に興味深いことです。ベストの結果を出すために「ゾーン」入るべく鍛錬をしてきたアスリートたちが、「ゾーン」に入った途端、結果はどうでもよくなり、それにこだわらなくなっているというのです。「ゾーン」の扉の前に立つまでは、勝利への執着心は、たしかに必要なものでしょう。しかし、「ゾーン」体験では、「こだわりがない」「とらわれない」「結果に固執しない」という特徴がありました。つまり、パフォーマンスをする直前まではベストの結果にこだわり、「ゾーン」を目指してはいても、「ゾーン」に入った瞬間には結果へのこだわりを捨て去り「ゾーン」入れるかどうかにはとらわれないレベルにまで、その意識は変容したということなのです。これはスポーツに限らずその他の世界でも、勝利や記録、その他金銭的報酬、表彰、他者からの評価といった価値判断に執着していると「ゾーン」に入ることはできないのです。物質レベルから意識を離すことが、「ゾーン」の扉をあける鍵なのです。アスリートたちは、「ゾーン」という幸福な瞬間を一度体験すると、再びそれを体験したいと願うものです。彼らは、記録や勝利よりも、その瞬間こそを求めてスポーツをしているのです。このことは、偉大な芸術家も科学者も同じであり、そこに人類共通の幸福感があります。競い合う場での「ゾーン」は、確かに一種の戦いの場です。しかし「ゾーン」に入った人々が実際に手にするのは、調和と満ち足りた気持ちです。ですから、「ゾーン」に入った人にとって、戦いそのものは、二の次になってしまうのです。それよりも、物質と精神の世界が一つになった「ゾーン」というもう一つの世界に出会ったこと、その世界を知ったことの方が重要だと分かるのです。「ゾーン」に入ったアスリートたちの姿を目にした人々もまた、感動し、癒され、元気になれるのは、「ゾーン」という世界が、平和で幸福に満ちた世界だからに違いありません。森田理論の「ものそのものになる」というのは、目の前の課題に対して、お使い根性ではなく、もう一歩踏み込んで一心不乱に取り組んでみることと言われています。すると、感じが発生して、興味が湧き、気づきや発見が生まれてくると言われています。そこから自然に意欲ややる気が出てくると言われています。「ゾーン」の世界へは、「ものそのものになること」で、そのうち自然に入っていけるようになるのではないでしょうか。その世界は結果がすべてではなく、プロセス重視の森田理論にもつながってゆきます。(「ゾーン」の法則 志岐幸子 祥伝社 231ページより引用)
2016.08.08
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灘中高校で国語の授業をされていた橋本武さんという方がおられた。その先生の授業は「銀の匙」という小説を中学の三年間かけて読むというものだった。書いてあることをきっかけにしてどんどん横道にそれる。凧を作り、凧揚げ大会をする。百人一首のカルタ取りをする。とにかく破天荒な授業だったという。ある時、級長をやっていた生徒が言った。「先生、このペースでは200ページ終わらないじゃないですか」その時先生は、「みんなが少しでもひっかかったところ、関心を持ったところから自分で横道にそれていってほしい。どんどん調べて自分の世界を深めてほしい」続けて、「すぐ役立つことは、すぐに役に立たなくなる。何でもいい、少しでも興味をもったことから気持ちを起こしていって、どんどん自分を掘り下げてほしい。私の授業でそのヒントを見つけてくれればいい。だから、このプリントには正解を書いてほしいとは思っていないんです。自分がその時、ほんとうに思ったことや言葉を残していけばいい。そうやって自分が見つけたことは、君たちの一生の財産になります」と言われたそうだ。この「銀の匙」という本は、戦前の東京の下町で育った少年の生活をこと細かく書いてある。現代ではよく分からない年中行事のことが書いてある。四季よりも細かく季節の移ろいを感じられる24節気のことが書いてある。この本を読んでいると、季節のグラデーションを察知する感受性が豊かになる。そして気づきや発見があり、興味を起こして学んでいく姿勢の基礎になっていくのだ。灘中高校は東大合格率日本一に何度もなった学校である。効率一辺倒の授業を連想させるが実態は違っていた。少なくとも橋本先生の授業は違っていた。でも、その授業をきっかけにして、興味や関心はどんどんと膨らんでいった。そして学校を巣立っていった後も自分で考え、創意工夫して、果敢に人生の諸問題に挑戦する人間を沢山輩出されたのである。ここに森田の言わんとする人間教育の原点を見るのである。(奇跡の教室 伊藤氏貴 小学館)
2016.08.07
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ひろさちやさんのお話です。知人のインド人が、病気の父親を看護するため、6ヶ月間会社を休んだそうです。それを聞いたわたしは、「6カ月も会社を休んで、よく首にならずにすんだね」と言いました。すると彼は、「え!日本では、父親の病気で6カ月会社を休めば首になるのですか」と驚いています。「6カ月どころか、6日も休めば首になるよ」と応ずると、インド人は呆気にとられた顔をしました。ところで、その父親は回復せずに6カ月後に亡くなったそうです。そこで病名を訪ねると、「病名はよく分かりません」との答え。実はその6カ月のあいだに医師がやってきたのはたったの2度。病名もはっきりしないまま亡くなったのだとインド人は言います。これらは日本と反対です。(諸行無常を生きる ひろさちや 角川書店 162ページより引用)日本でインド人のようなことをすると、公務員以外はたいてい職を失います。医療を受けさせないのは医療ネグレクトといって本人は厳しく糾弾されます。テレビなどのマスコミに取り上げられ、極悪非道な人間として扱われます。経済発展をして高度な医療を享けられる日本人。医師や看護師は毎日患者を診てくれます。しかし、息子が見舞に行くのは6カ月のあいだにたったの2度。これは少々極端かもしれません。でもあたらずといえども遠からずではないでしょうか。これが親にやさしい日本の子どもの姿です。寝たきりになり認知症があり、特別養護老人ホームに入所した高齢の親を見舞うことは本当に少なくなっているのです。第一都会から通っていると、そのたびごとに交通費がかさみます。何時間もかけて見舞う時間的余裕もありません。たとえ見舞に行っても、親は植物人間になっているのですから、会話はありません。ただ生命を維持しているだけにすぎないのです。これが自分を生んで育ててくれた親に対する態度かと憤ってみたところで、実態がそうなっているのです。おむつを子どもが取り替えるということは全く考えられません。全部専門職の人の仕事となっています。風呂に入れたりシーツを取り換えたり、食事の世話をするのもそうです。狭い部屋に2人、3人と見も知らずの人と毎日生活をさせるのはしのびないと言っても、背に腹は代えられません。悲しいかな、これは近い将来のあなたの姿でもあるのです。すべてを施設にお任せして、お金で済まそうとしているのです。親をものとして扱っているのです。自分はその施設利用代の支払いのためにさらにあくせくと働かざるを得ないのが実態です。自分も人間としてではなく、物として生きていかざるを得なくなっているのです。つまり便利、快適、楽ができる代わりに、働き蜂や、働きアリのように一生涯、金儲けだけのために働かざるを得なくなってしまっているのです。親子の絆、周りの人たちの人間的つながりはどんどん失われているのです。こんな生き方でいいのだろうか。森田理論学習をしていてしみじみと考えさせられます。
2016.08.06
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高良武久先生は、神経質なひとの自己中心というのは、普通言われている自己中心な人とは違うと言われています。一般的には、自己中心的な人は、人に何を言われても平気、身勝手、わがまま、厚顔無恥で無神経、強引、傲慢、横柄な人のことをいいます。こう言う人は周囲の人から嫌われます。自己愛性人格障害の人はまさにこのような人です。神経質な人はひとから嫌われてはいけないという気持ちを持ち合せているために、そういう自己中心的な行為はとらない。ひたすら注意や意識が自分に向かう。自己内省的になる。わずかな他人の言動を大きく拡大して、傷ついてしまう。挙句の果てには、自己否定に陥り、行動は逃避的になる。長谷川洋三氏がこんな話をされていた。海外へ単身赴任をする夫を空港まで見送りに来た奥さん。空港には会社関係の人が何人か見送りに来られていた。それを見た奥さんは、突然何も言わずにその場を離れて車に戻った。というのはこの奥さんは赤面恐怖があった。赤くなった顔を会社の人が見たら変に思うのではないか。きっとそう思うはずだ。さらにそんな醜態は夫にも迷惑がかかるのではないか。夫に迷惑をかけてはならないと考えたのだった。そこでとっさに身を隠そうと思い立ったのだった。神経症の人の自己中心の典型的な例である。これを見て会社の人はどう思うか。なかには体の調子でも悪くなったのかなと思う人もいるかもしれない。でもたいていは、思いやりのない冷たい奥さんだなと思われるのではなかろうか。自分の思いと周囲の人の見方が反対になってしまっているのである。一方で生活の発見会の会員の中には、こんな人がいた。神経症に陥ってつらい日々を過ごしていた人が、森田療法のおかげで、よくなってきた。会社でも仕事本位になり、着実に成果を出して昇進も果たし、周囲の人に評価されてきた。ところが、その人が集談会に来ると自信満々でアドバイスをするようになったのだ。自分の体験をもとにして、叱咤激励するものだから多くの人に煙たがられているのである。岩田真理さんによると、ごく一部の方ですが、神経症を克服した人で、頑固で、自己主張が強く、どこか尊大で、人の気持ちや場の雰囲気などおかまいなく自分のいいたいことを言う人がいます。ときどき「あの人は神経症があった時の方が付き合いやすかった」と評されているのです。この人は、神経質症の症状のために劣等感で苦しんでいたのが、裏返って優越感になっているのかもしれない。(流れと動きの森田療法 岩田真理 白揚社 10ページより引用)こう言う人は根が自己中心的な人であろうか。多少はあたっているかもしれない。私が思うには、この人は「半治り」の人だと思います。「半治り」の人はこういう状態を現す人もいるのである。表面的には、まさに自己中心的な人そのものである。こう言う傾向のある人は、是非とも完治を目指していってほしい。どうして「半治り」状態に甘んじておられるのか。それは森田の完治を、「症状はあるがままに受け入れて、なすべきをなす」ことだけにこだわっておられるからである。森田理論では、治り方は大きく分けて2つあると紹介している。もう一つの治り方は、「かくあるべし」的思考方法を少なくしていくことである。そのことを森田では「思想の矛盾」を解消していくと言っている。「半治り」の人は、半分は治っているのである。いいところまでは到達しているのである。ところがその先、前進することを止めてしまったために、自己中心の弊害が出てきたのである。また、現状の自分を認めることができないために、心の底からスッキリとした展望を描ききれていないのである。「かくあるべし」を修正して、事実や現実を大切にするようになった人は、他人を叱咤激励するようなことはしない。他人の話をよく聞き、受容と共感で相手に寄り添うことができる人である。つまり、厚顔無恥で無神経、強引、傲慢、横柄な人ではなくなる。それはいつも現実、現状、事実から出発できる能力を獲得しているからである。そういう視点で、集談会に参加している人を見ていると興味は尽きないのである。
2016.08.05
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浄土真宗大谷派の学者で安田理深氏がおられる。無位無官の在野の学徒に終始されたが、戦後来日したキリスト教神学者のティリッヒと対談し、ティリッヒを深く感銘させたことが知られている。その安田理深氏邸が、1973年4月隣家からのもらい火で全焼した。ご自分の蔵書、研究論文、ノートなどがすべて燃えてしまった。安田氏は隣人を恨みました。自分の大事なものを「焼かれた」と考えて、仕返しをしてやりたいと思ったそうです。だが彼は仏教徒です。仏教徒が復讐を考えるなんてよくない。隣家の人を赦そうと思いました。彼は、蔵書、研究論文、ノートは、自分で「焼いた」のだと思おうとしました。しかし、どんなにしても、そういうふうには思えません。あれは「焼かれた」のではなく、自分で「焼いた」のだ、といくら自分に言い聞かせても、それは事実とは違いますから無理があります。彼は悶々とした日々を送っていました。ところが、ある日、安田氏はふと思いました。あれは、ただ、「焼けた」のだ。「焼かれた」のでもなく「焼いた」のでもない。ただ「焼けた」のだ。そう思うことで彼の心は鎮まってきたという。(諸行無常を生きる ひろさちや 角川書店 176ページより引用)このエピソードは森田理論と関係があります。「焼いた」というのは、自分の本当の気持ちを偽ってごまかそうとしています。そしてなんともやりきれない不快な感情をなくしたり軽減させようとしています。事実を無視して観念で心の平穏を得ようとしていますので、事態は一向に好転しないで、むしろ悪くなってしまいます。こう言うのは心理学では、合理化といいます。「焼かれた」というのは、他に責任を転嫁して、どう責任をとってくれるのだと相手を追い詰めるやり方です。この心理は蔵書、研究論文、ノートが焼けたのはもはやどうでもよい。それよりもどれだけ損害賠償を請求できるだろうか。できるだけふっかけて、なんなら弁護士を立ててひと財産を作ってやろう。等という風に展開してくる。森田理論では、これは「純な心」ではないといいます。「純な心」を思い出してみることを勧めています。「おしいことをした。残念だ」という初一念を思い出してみることです。その気持ちを味わってみることです。その次に隣人をうらめしく思う気持ちが出てきますが、それは初二念、初三念といわれるものですから、この際無視することです。ポイントは初一念を思い出して、初一念から出発することです。そうすると、焼けてしまった蔵書、研究論文、ノートに気持ちが向いていますから、どうすれば今後の研究に被害を最小限にとどめることができるだろうかと考えられるようになります。その過程で、自分の研究成果を振り返ってみることになり、もう一段階高いステップに昇れることだってあり得ます。「焼けた」というのは事実そのものを見て、それが悪いとかいいとかの価値判断をしない。事実を受け入れ、事実に素直に従うというものです。その事実は心に大きな痛手を与えていますが、時間が経てば少しずつ薄まっていくものです。何よりも心の葛藤がなくなりますので一番安楽な道を歩んでいることになります。
2016.08.04
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伊藤忠商事を大きく育てた人に瀬島龍三氏という人がいる。その人の言葉は森田理論に通じるところがある。1、 目先の現象だけを追いかけてはいけない。大事なのは大枠を掴むこと。変化を読むことが大切である。さらに思考の三原則について述べている。まず、目先にとらわれず、長い目で見ること。次に、物事の一面だけを見ないで、できるだけ多面的に全面的に観察する。さらに、枝葉末節にこだわるのではなく根本的に考察する。2、 激動の時代とは何が起こるか分からない時代のことで、予測されるのは変化のみである。そういう時は、先入観は絶対にもってはならない。本来人間というものは、いつも事実を楽観的にか、悲観的にか、偏って見がちだが、どちらかというと、楽観的に考える習性が強いから、その習性をよく考えて、自分の希望的観測はきちんと整理しておかねばならない。チャーチルも「人間は事実を見なければならない。事実が人間を見ているからだ」と言っている。3、 本来知識などというのは、薄っぺらな大脳皮質の作用だけで得られるもので、それだけでは、人間の信念とか、行動力にはならない。何が大切かというと見識である。次に私の感想である。まず1点目である。森田の学習は基礎編の学習が一通り終わったら、森田理論の全体像の学習から始めるべきであると提案してきた。森田には大切なキーワードがたくさん出てきます。例えば、感じを高める。無所住心、純な心、あるがまま、事実唯真、自然に服従、境遇に柔順なれ、変化に対応、精神拮抗作用、不即不離、事実本位、物事本位、唯我独尊、物の性を尽くす、努力即幸福などである。これらを手あたりしだい学習していくというのは感心しない。事実私もそういう学習方法をとってきたが、20年間森田のことがよく分からなかった。雲をつかむようなものだった。そこで私なりに森田理論全体像を模索してきた。その過程では絶えず修正をしてきた。試行錯誤の連続だった。今では森田理論には大きな4つの柱があると思っている。それから急速に森田がよく分かるようになりました。中身としては、生の欲望の発揮、不安と欲望の関係、認識の誤り、その中でも「かくあるべし」的思考の誤り、事実本位・物事本位の態度の養成などである。これらは単独で深耕して学習すると同時に、相互の関連性の学習を積み重ねることがとても大切である。これはエベレストに登るときに地図を見て登山ルートを確定するようなものである。さらにシェルパーの助言を得て初めて登頂にアタックできるようなものである。次に2点目である。「かくあるべし」押し通そうとしないで、「かくある」事実を受け入れて、服従していくことである。さらに変化の波に抵抗しないでうまく乗っていくことである。これはサーフィンの波乗りに似ている。波に抵抗してはうまくゆかない。波に逆らわないで波にのっていく態度になると、爽快な気持ちを味わうことができる。3点目である。ここでは感じから出発するということを提案したい。好き嫌いという感じから出発すれば間違いがない。感じを大切にしていると、気付き、思いつき、発見、アイデア等がでてくる。すると感情が高まり、こうしたいという欲望などがでてくる。それに手をつけていけば、さらに意欲が高まっていく。生きるということはなにも難しく考えることはない。感じを発生させて、感じを高めていくことだと理解しておきたい。それが最終的に生きがいにまで発展していくのである。
2016.08.03
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集談会で時々、「ひきこもり」について相談がある。それも本人よりも親からの相談が多い。難しい問題だがここで取り上げてみた。神経質性格を持って引きこもっている人は、他人からよく思われたいということを口にされる。ということは他人の言動に従うだけの引っ込み思案の人ではない。プライドや自尊心が強く、負けず嫌いで頑固な人たちなのだ。そのために小さいころから様々な努力をしてきたが、自分の考えているようにはならなかった経験を数多く持っている。次に普通の人が笑ってすませるような、他人のちょっとした言動にひどく傷つきやすい人である。ガラス玉のような繊細な神経を持っておられる。いつもオドオドして周囲に気を使っており、自分の気持ちを抑えて他人に合わせているので、ひどく疲れてしまう。これは、愛着障害の影響が多分にある。また過保護や過干渉などの子育ての影響もある。いつも回避的な行動をとってきたため、対人との距離の取り方が分からず、悪循環を招いてきた。さらに「ひきこもり」の人は、「かくあるべし」の強い人である。こうでなくてはならない。こうであってはならない。すべてを自分の思い通りにコントロールしたいという欲求が強い。完全主義。完璧主義者でもある。現実は理想通りになることは少なく、いつも現実との葛藤に苦悩している。最後にどうにもならなくなると、投げ出してしまう。そして「ひりこもり」の子どもは、親の経済力に依存してモラトリアム状態の生活をしているケースがある。経済的にも精神的にも、ほとんど親に依存しており、自立、アイデンティティの確立に問題を抱えている人である。こういう人は、自分の思い通りにならないことがあると、すぐにひきこもりに向かいやすい。また親も神経質傾向があり、親自身が愛着障害や生育上の問題を抱えていたり、思想の矛盾の傾向があれば、家族をあげて「ひきこもり」の悪循環を加速させていることが考えられる。ひきこもりは引きこもっている本人だけではなく、多分に家族機能不全の問題として取り組む必要があるといわれている。「ひきこもり」は問題が多く深刻であり簡単に問題が解決できるようなものではない。今の私には手に余る問題である。是非ともひきこもりの家族の会の自助グループを見つけて参加されることをお勧めしたい。「全国ひきこもり家族会」の各県の自助グループ、広島県や広島市は、「ひきこもり家族教室」「ひきこもり親の会」「精神科医によるひきこもり相談」などもおこなっている。各県には精神衛生センターがあるのであたってみてほしい。また問題解決にあたっては、「森田療法で読む 社会不安障害とひきこもり」(北西憲二・中村敬 白揚社)に詳しいので参考にしていただきたい。この本は「ひきこもり」本人だけでなく、家族療法やメール相談のことも述べてあり、解決の糸口が見つかる可能性が高いと思います。その中で私の気のついたところを簡単に書いてみたい。繊細な神経の持ち主ということですが、そういう人は非難、説教、命令、指示、禁止、叱責などの人間関係のきついところではすぐに傷つきやすいと思います。特に会社や学校だけの狭い人間関係しかないという状況はつらいものがあります。是非とも、ほめる、励ます、評価する、同情する、存在を認める、信用する、温かい言葉をかけあうという別の温かい人間関係を持っていることが必要だと思います。そのためには、趣味や習い事、スポーツのサークル、資格取得の学校、学校時代の友達、地域社会、親戚、集談会などの自助グループなどの中で気のおけない人間関係を持っておくことが必要だと思います。常に人間関係は対立関係に陥りやすいのですが、そういう時は別の人間関係に助けられるということがあるのではないでしょうか。時と場合に応じて、ひっついたり離れたり臨機応変な人間関係を心がけていると躓くことは少ないのではないでしょうか。また別の人間関係によって励まされたりして、落ち込みからの回復は早いと思われます。つぎに「かくあるべし」を少なくして、思想の矛盾を減少させる方法は、このブログでたびたび取り上げているとおりです。この点については、ここでは繰返しません。過去の投稿を参照願います。「ひきこもり」の人は、この2つの方法は是非取り入れてほしいと思います。あとは自助グループに参加したり、先に紹介した本を読んで「ひきこもり」の状況の認識と改善方法を見つけていただきたいと思います。
2016.08.02
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シンクロナイズド・スイミング監督の井村雅代さん曰く。私、高校生にこう言うんです。(手で三角形を作りながら)今、三角でしょ。「これ、私がマルって言ったら、「マル」って覚えなさい」って。「三角ですって主張するんじゃないの。他人の言った言葉にはまれって言うんです。「一度、人の言葉に100%騙されてその気持ちになりなさい」「これを私がマルだって教えたら「これがマルだ」と覚えなさい。「これがペケや」って教えたら、「マルやのに」って思わないで「これはペケだ」って覚えなさい」って。そんな時がなかったら、あかんねん。自分のことばかり言うんじゃないの」シンクロナイズド・スイミングでは、選手が水上にあげた足の角度が自分の思っている角度と違っていることがよくあります。選手が30度だと思っていても、実際には15度だったということはよくあります。その時に自己主張を繰り返していては、決してうまくはならない。メダルには程遠くなるばかりだ。自分を捨てて、監督やコーチに従うという姿勢が上達のコツです。これは森田理論学習にもそっくりそのまま言えることです。森田先生は森田理論に対していくら疑いを持っていてもかまわない。私の言うことに盲従しているよりは、かえって反発心を持っているぐらいの方がよい。でもそれを態度に表してのらりくらりしているようでは全く進歩することはない。疑いながらも森田先生の指導を信頼して、その通り真剣に取り組んでみる。この姿勢が大切なのである。森田先生は神経症を治すために一生懸命になっておられる。実績も残しておられる。悪い方向に誘導されることはない。こういう場合は、いったん自己主張を抑えて、森田先生にすがってみる。約40日の入院中は指導通りに真剣に取り組んでみる。「守離破」という言葉がある。剣の道でも最初は師範の技を自分のものにするために、自己主張は抑えて取り組む。師匠の言われるままを素直に受け入れて、模倣して真似て技術を身につけていく。この期間は長くて苦しい時期である。そのうち師匠と同じくらいの技術を身につける。この段階で初めて独立して師匠から離れる。そしてその先は自分の編み出した技術を加味して師匠を乗り越えて新しい境地を切り開いていく。これが守離破の「破」にあたる。最初から「離」や「破」を求めるのは全く持って順序が違う。最初は素直な気持ちで「守」に専念することが大切である。こう言う流れに乗るためには、最初はどうしても自分を捨てて、素直に教えを請うということが必要なのである。「そうは言われましても、その考え方、指導方法は違うと思います」とコーチや師匠に自己主張を繰り返していては、師匠も教える気がしなくなる。この手の言動は集談会でも時々お目にかかる。それではあなたの勝手にしてくださいと、匙を投げられてしまう。それではお互いに不幸になってしまう。得るものはなくなり、集談会に見切りをつけて去って行ってしまう。残るのは悶々とした、今までと変わらないつらい生活に逆戻りである。森田理論学習も苦々しく思うことがあっても、その不快感を抱えたまま、素直になれる人が神経症を克服し、「森田の達人」への道へと近づいていく。
2016.08.01
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