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「森田正馬が語る森田療法」(岩田真理 白揚社 P158)という本から森田先生の治療例を見てみよう。その方は57歳の未亡人で、もう22年も不潔恐怖に悩んでおられた。この女性の症状は非常に重篤で、強迫行為も伴っている。バイ菌が付いているようでものにさわることができない。手洗いを何回も繰り返す。入浴も自分では洗った気がしないので、人に身体を洗ってもらう。この激しい症状を森田先生は1年2カ月かけて根治させたという。彼女は、最初は症状を治そうとするよりむしろ、自分のしたいようにしていたい、ただ気分がまぎれればいいという様子だったし、神経痛があったりして、正規の森田療法は行えなかった。そこでまず、彼女の興味を引きものを見つけるためにさまざまなことをさせてみる。仕事ではなく、趣味、習い事である。そのうちに謡曲と仕舞に興味を持つようになった。森田先生はこれを、「患者の人生の希望を繋ぐためのもの」と表現している。症状のほうでは、それまでは食べ物を食べる時、「この鮭は腹のところに黒いものがなかったか」などという言葉を自分で反復し、それから、その料理を運んできた女中にその答えを間違いなく唱えさせて、途中で言い間違ったり笑ったりしたらまた繰り返させるという、強迫行為をしていた。もちろん、女中にはこれをいっさいやめさせた。誰もこの強迫行為に加担しない。患者は当然納得せず、女中を脅す。金品を渡してこの強迫行為をさせていたが、それもそのうち万策尽きた。掃除や、衣服をほどくなどの作業をさせているうちに、毎日100枚ほど使っていた紙が15枚ほどになり、手袋もとることができた。森田先生はこの患者の入浴を手伝った。最初は同じ入院生の女性が洗ってやっていた。その後、森田先生が3、4回洗ってやり、洗い方を教えると、それから自分ひとりで入浴することができるようになったという。そして頃合いを見計らって、森田先生は最大の恐怖突入をさせる。ある日だしぬけに、銭湯に行くように指示するのだ。それも先生のお母さんと一緒である。しかし彼女は、ここで劇的な展開をする。素直に銭湯に行き、自分の身体を洗ったばかりか、先生のお母さんの背中を自分の手ぬぐいで流すのである。彼女はもちろん、この上なく喜んだ。森田先生はこれを「かけがねがはずれる」体験と呼んだ。彼女は確かに「治ったのだ」先生は「全治」を宣言して、退院させる。退院後は、彼女は子供と暮らすようになったが、もちろん再発はなく、人の役にも立てるようになり、謡曲と仕舞の稽古に熱中していたという。整理してみると世間から隔離して入院森田療法を行った。興味のあることを見つけて行動を促した。強迫行為を無視した。作業をさせた。身体の洗いかたを教えた。頃合いを見計らって恐怖突入させた。これを1年2カ月付きっきりで指導されたのである。本人も最初のうちは大変な葛藤があったようですが、隔離されているためしぶしぶ先生に従わざるを得なかったのだろうと思います。安易に気分に流されるということが、隔離されるという強制力によって抑えられたのだと思います。イヤイヤながらも森田先生の指導に素直に従ったことが完治に結びついたのだと思います。ここが入院森田療法の大きなメリットではないかと思います。ここで安易に気分に流されないということを自分の体験で振り返ってみたいと思います。私は対人恐怖症ですが、飛び込み営業の仕事で症状が出るとすぐに仕事から逃げていました。逃げた時は少し楽になるのですが、そのあとの時間をつぶすのが大変でした。そんな時は、生きていることが空しくなり、何もしないで仕事をさぼるということはこんなにも苦痛なことなのかを身をもって味わいました。また毎日ノルマをこなさないで、事務所に帰った時、上司や同僚の軽蔑したようなまなざしは針のむしろに座らされているようでした。そんな時、先輩と二人で飛び込み営業をするようにという指示を受けました。一週間ぐらいずっと一緒にその先輩と一緒に見込み客を訪問しました。いつもの単独の営業活動ではありません。ですから訪問が苦しいからと言って仕事をさぼるというわけにはいきませんでした。先輩という監視役が付いているわけですから、イヤイヤながらも仕事をせざるを得なかったのです。その時の営業成績は2人分まではいきませんでしたが、一人で飛び込み営業をするよりははるかによかったのを思い出します。一人の時は午前中でその日のノルマが達成すれば、午後はさぼっていたのです。当然成績の悪い日もあるわけですから、平均すれば低実績に甘んじていたのです。その時は一人で船に乗って大海に出されているのと違って、何かあったら先輩がいると思うと何か気が楽になっているように感じました。飛び込み営業はほとんど断られることが多いのですが、一人の時は自尊心が大きく傷つきました。ところが二人の時はあまり傷つくことがなく、次の見込み客のところへすんなりと足が向きました。私の場合は対人恐怖が出てくるとすぐに逃げていたのですが、それを強制的に阻止してくれる第三者のサポートが必要だったのだと思います。逃げ出さないで仕事ができたということは、精神交互作用で対人恐怖症を発症させることはなかったかもしれないのです。今考えると、その職場で二人一組の営業スタイルが仕組みとして確立されていたとすれば、途中でいたたまれずに退職することは防げたのではないかと思います。今の訪問営業は携帯のGPSを利用した位置確認によって監視されているところもあるようです。これはこれで私にはつらいです。単独での営業は、対人恐怖症の私にとってはなんの役目もなく、すぐに退職してしまうのではないかと思います。監視と同時に二人で助けないながらの営業スタイルというのが意味があると思うのです。
2016.11.30
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私の身体は神様からの預かりものではないのか。私は時々そう考えることがあります。一定期間、課題や目標達成のために必要があって借りているものではないか。そう考えると生き方そのものが変わってくると思うのです。そう考えると、借りているものの器量がよくないとか、境遇が悪いとは言っておられません。生まれる前に自分が交渉して納得して借りているものなのですから。それを受け入れて活用して生きていくほかありません。男に生まれるか、女に生まれるか、イケメンや美人に生まれるか否か、障害を抱えて生まれるか否か、裕福な家に生まれるか否か、どんな職業につくか、どんな能力を持って生まれるか、内戦の絶えないところに生まれるかどうか、戦争中に生まれるか平和な時代に生まれるか、日本に生まれるか、アマゾンのジャングルの中で生まれるか。それらはあらかじめ交渉して納得したうえで生まれてきているのではないだろうか。あらかじめ借りている期間も決めているのではないか。人ぞれぞれ違う契約をしてこの世に生まれているとすると、人間はそれを受け入れていくしかありません。それ以上もそれ以下の契約もしていないのですから。一般的に借りているといえば、賃貸住宅、レンターカー、市民菜園などがあります。これらも最初にどんなものがよいのか、自分の希望を出して納得して借りています。納得して借りているものは、不具合が無い限りケチをつける人はあまりいません。私たちがこうして生きているということは、それと似通ったところがあるのではないか。しかし自分の身体や境遇については不平不満を持つ人が多いのが現実です。人と比べて劣っている。生まれた境遇や環境が悪ければすぐにクレームをつけています。元々納得して借りているのだとするとお門違いなことです。さらに借りているものが気にくわないからといって、改造を加えるという人がいます。一旦納得して契約したとすると、それは契約違反にあたります。自己改造に取り組むということは方向性が間違っています。いずれ返さなければならないものは、借りた時の状態で返すのが原則です。また複雑に改造をしていると、元の状態に復元するのに多額の費用がかかります。あるがままの状態を受け入れて、そこを起点にして出発することが大切です。また借りているものは乱暴な使い方をしてはいけないと思います。大切に使わせてもらうことがマナーです。傷つけたり、壊したりすることは論外です。傷んだりするとすぐに修復する。汚れればきれいに洗う。つまりいつも気にかけて、磨きをかけて、ピカピカにして使わせてもらえばよいのです。貸した人があの人に貸してよかったと思うのはどんな時でしょうか。家でいえば傷をつけないで大事に使ってくれた。修復しながら使ってくれたので、経年劣化が抑えられた。レンターカーでいえば無事故できれいに掃除して返してくれた。市民菜園でいえば、貸したときよりも土壌環境がよくなっていた。肥沃な土地に変えてくれた。こうなれば望外の喜びを感じることになります。こうしてみると、自分に貸してくれたことに対して感謝の気持ちを持っている人。借りたものを他と比較してクレームをつけない人。借りたものを大事にして、大切に扱ってくれる人。借りたものに磨きをかけて、貸した時よりも存在価値を高めてくれている人。借りたものを最大限に工夫して存分に活かして使ってくれた人。貸手としてはそういう人には好感を持つのではないか。かえって感動を受けるかもしれない。そしてまた機会があれば、ぜひ貸してあげたいと思うのではないか。反対に貸してあげたものにクレームをつける。乱暴に取り扱い、壊す。傷をつける。貸してあげたものをボロボロにする。資産価値を大幅に減らして戻される。こういう人にはもう二度と貸してあげようと思わなくなる。私が神さまの立場に立てば、もうこの人には人間は任せられない。地球のような惑星に生を授けるとすれば、人間以外のもので認めるしかないということになるのではないか。自分は神様からの預かり物という考え方は、安易に自己否定に陥らず、今現在の自分を最大限に活用する方向に向かうものと心得ている。
2016.11.29
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私の知り合いに生活習慣病の検診は受けたことがないという人がいる。その人の言い分は、肺のレントゲン検査や胃のバリューム検査は放射線を浴びていることだ。こんなことを毎年繰り返していると体に負担がかかり、ガンのリスクが高まる。健康診断を受けて正常範囲と判断された人が、膵臓癌で6カ月後に亡くなった人がいるという。人間死ぬ時節がくると死ぬのが自然だともいわれる。また、その方は体にはいろんな常在菌が住みついていて、体を守ってくれている。だから体をごしごしこする。頭を毎日洗髪することは不要だという。湯船に入り体をさするだけで汚れは落ちる。洗髪は1週間に1回で十分だといわれる。話を聞いていると、健康診断のデメリットはいろいろとあることに気づく。納得できることばかりであった。しかし、健康診断のメリットを全く考慮していないというのが気にかかった。健康診断で自分の体の状態がすべて分かるかといえば、残念ながらNOと言わざるを得ない。でも、血糖値、血圧、尿酸値、コレステロール値、中性脂肪値等は分かる。肝臓、腎臓、肺、胃腸、心臓、血管などの状態は大まかには分かる。完全ではないが大まかに自分の健康状態が分かる。そのメリットについては無視されているのだ。本来はデメリットとメリットを書きだす。比較検討してほどほどの所に落ち着くというのがまともな考え方ではなかろうか。そうなれば必要に応じて定期的に健康診断をすることになるのではなかろうか。60歳を過ぎると不具合箇所がだんだんと増えてくる。経年劣化と言われるものである。それを自分一人で見つけ出すことは難しい。その方は自分のことは自分が一番よく知っているといわれるが、果たしてそうか。目に見えない部分、神経の痛みがない臓器のことまでどうして把握できるというのだろうか。そういう考え方をされていないというのが気にかかった。これを詳しい第3者に調べてもらえば容易に解決する。こんな時は意地を張らずに相手に甘えたほうがよいと思う。考えてみれば、自分の考え方、将来の見通し、主義主張は絶対に正しいと思っている人がいる。「かくあるべし」で何でも押し切ろうとする人である。でも他人から見ると、偏っていて、常識外れに見えることもある。いろんな人の意見を取り入れて吟味していないので、間違いが多い。第三者の目を通して自分のことを理解していくことも必要ではないのか。それは日本人が海外旅行によって、日本の強みや長所、弱点や短所に気がつくようなものである。第三者に客観的に見てもらうことで自分の状態はよく分かる。使用し始めて10年を過ぎた自動車は、経年劣化であちこちに不具合が出てくる。1年に一回は検査をして不具合箇所を探して、修復しながら大切に使用しないと道路上でトラブルを起こすことにもなりかねない。そうなったときは手遅れなのだ。体も同じで、第三者の客観的な視点からの助言を受け入れることは、自分の将来の健康につながる。自分のことは自分で何でも分かっているというのは思いあがりである。できるだけ第三者の意見を取り入れて、多面的に判断することが必要である。ものごとに対して臨機応変に対応することが重要であると思う。
2016.11.28
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対人恐怖の人は思い違いをしているのではないかと思うことがある。対人恐怖の人は他人が自分のことをどう思っているのか気になるという。非難される。無視される。拒否される。虫けら扱いされると途端に不安になる。そしてしだいに、そういう態度の人を敬遠するようになる。そういう予期不安を感じる場所には顔を出さないようになる。いつも自分のことを大事に取り扱ってくれないと、生きた心地がしなくなるのである。いつも重要視されて、いつも一目置かれて、羨望のまなざしで見つめてほしいのである。そのために普段どんな考え方をして、どんな行動をとっているのか。人と比べてすごい能力を持っている。人のできないことをやり遂げてしまう実行力がある。すると自分の望んでいる願いは達成されるという強い信念を持っているようだ。人のまねのできないことができる能力を身につけることが、人間関係を円滑に保つ唯一の道だと心得ている。だから勉強でも、スポーツでも、その他、他人と差別化できるものを見つけると熱心に取り組むようになる。困難な道ではあるが、そのことに果敢に挑戦していくのが神経質者の特徴でもある。私もその一人だった。私は一時国家試験を取りまくることに力を入れていたことがあった。しかしそれは筋違いの努力であることは後で気がついた。何年もかかっていくつもの国家資格を取ってみたものの、人から羨望の目で見られることはない。それどころか、そんなにエネルギーがあるのなら、どうして仕事に振り向けくれないのかといわれるありさまだった。私の目的は達成されたとは言い難く、無駄な努力に終わった。普通の人を見ていると、私のように、人からよい評価をされたいという場合やり方が根本的に違うように思う。それは周囲の人に喜ばれる小さなことを見つけて実行しているのだ。それも常日頃コツコツと継続している。私には人の役に立つことを見つけて実行するという考えは全くなかった。方向性が的外れだったのだ。たとえば、それを国会議員の行動に見る。私は老人ホームや敬老会、町のイベントなどでの慰問活動などをしている。するとある国会議員と一緒になる。またお会いしましたねという話になる。国会議員は土日選挙区に帰ってはそういう場所に時間単位で顔を出しているのである。その合間に結婚式や葬式などにも顔を出す。主だった支援団体にも顔を出しているという。自分が出られない時は奥さんやご子息が顔を出す。家族ぐるみで飛び回っているのだ。土日東京でのんびりと生活を楽しんでいるということは少ないのだ。国会での議員活動とともに、地元民との地道なフレンドリーな関係作りが議員生活を継続するためには欠かせないのである。国会議員の先生の顔を直接見て、握手でもされれば感激する人も多い。雲の上の存在ではなく、友達感覚になってしまうのだ。法案作り、地元への利益誘導なども必要かもしれない。それと並行して、選挙民に寄り添っていますという親近感作りがもっと必要ということなのだ。派手なホームランでなくてもよい。地道なヒットを数多く打ち続けることが、人望を高めて、評価され、結局は一目置かれるという目的を達成することにつながっているように思う。人に好かれる、重要視されるというのは人の役に立つことにいつも目を向けて、休まずたゆまず努力する方が現実的であると思う。比較的成果に結びつきやすい。私のように人のびっくりするようなことをして、驚かして人を引き付けようとするような料簡は自分も大変だが、考えているような成果は上がりにくい。
2016.11.27
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先日の森田理論学習のあとの余興に「ドローン」を飛ばす人がいた。私はかねてから関心があったので、試しに2000円程度のものを買って練習している。ヘリコプターより簡単であった。ヘリコプターはホバーリング(空中で一定期間制止させること)が難しいが、ドローンはまだましだった。ヘリコプターは整備に時間をかけないとうまく飛ばない。ホバーリングをマスターしないと楽しむことはできない。障害物にぶつかると発泡スチロールのプロペラがすぐに壊れる。ヘリコプターはヒロボー製である。研修を受けたがまだうまく飛ばせない。これ以外にプロペラが2段なっているものも持っているが、こちらの方は簡単である。エンジン付きのものも持っているがまだ飛ばしたことはない。
2016.11.26
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「純な心」の初一念とは、自分の身の回りに起きた出来事に対して、「シマッタ」「残念」「ショック」「悲しい」等と感じることである。あるいは他人の身の周りに起きた出来事に対して、「かわいそう」「心配だ」等と感じることである。自分や他人の目の前に起きた出来事に対して最初に湧き起ってくる感情である。これらに対しては、その気持ちを周りの人に、私メッセージとして公言してもよいと説明してきた。初二念に基づく言動は、自分自身に対しても、周りの人に対してもトラブルを発生させる。そういう時は、初一念を思い出して、そこを出発点にして行動するように説明してきた。それでは次のような感情の場合はどう考えたらよいのだろうか。月曜日の朝になって会社に行く気分にならない。会社に行っても仕事をするのが嫌で仕方がない。仕事をさぼりたい気持ちになった。あるいは学校に行って勉強する気にならない。食事を作ったり、掃除をしたりするのが面倒だ。これらは自然発生的に湧き起こってきた感情であり、初一念の感情のように思える。しかしこれは初一念ではないと思う。その証拠に、この気持ちをもとにした言動は、行動を停滞させて、自己嫌悪に陥ってしまう。どこが違うのだろうか。この点明らかにしておく必要があると思う。初一念は身の周りに起きた出来事や事実に基づいて発生する感情である。それに対して会社を休みたいなどというのは、出来事や事実に基づかないで、観念的にふと湧き起こった感情です。観念的な欲望や不安なのである。人間は元々生き生きと課題や目標に向かって挑戦してみたいという気持ちを持っている。しかし同時に、だれでも「休みたい、楽をしたい、人が見ていなければさぼりたい」という気持ちも持ち合わせている。つまり苦労をしないで、楽をして生活を楽しみたいと思っているのである。これらは気分本位、衝動的、本能的欲望のような気がする。幼児や衝動的欲望の制御機能が壊れてしまっている人が陥りやすい行動である。気分本位で衝動的な行動は、後で後悔し、他人には多大な迷惑をかけてしまう。森田では気分本位の行動を諫めている。この二つの感情は区別して考える必要があるのではないでしょうか。それでは、観念的な衝動や不安の感情をどう取り扱ったらよいのでしょうか。会社を休みたい、あの人とはうまが合わない、浴びるほど酒を飲みたい、腹いっぱい美味しいものを食べたい等という感情はどう扱ったらよいのでしょうか。これらは事実を見て感じた初一念と同じように取り扱ってはならないと思う。事実に基づかない気分本位の感情は精神拮抗作用を活用して調和を図ることが大切である。たとえば会社を休みたいと思ったとたんに、休んだら解雇されるかもしれない。給料をもらえなかったら家族の生活を守ることができない。このような反対の感情が対になって湧き起る。2つの気持ちがせめぎ合いをして、折り合いをつけていくのである。そうすることで適切な行動へと向かっていく。あの人とはうまが合わないと思っても、愛想笑いや挨拶ぐらいはしておこうという気持ちが湧き起ってくる。浴びるほど酒を飲みたい、腹いっぱい美味しいものを食べたいと思っても生活習慣病が気になり適度に調整するようになっている。つまり人間にはある感情が湧き起ってくると、必ずそれとは反対の感情が湧き起ってくるようになっている。この二つを対立させて調和を取っていくのが重要です。同じような感情に見えても、その中身は全く違っている。対処の仕方が変わってくるのである。森田理論では「純な心」の体得はとても大事であるが、事実に基づかない衝動的な欲望や気分本位の感情とを混同してはならないのである。
2016.11.26
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ご存知かもしれませんが、厚生労働省の「こころの耳」というホームページがあります。心に関する全国の医療機関が簡単に検索できます。メール相談、電話相談もやっています。役に立つかもしれません。まだ知らない人がおられましたら、一度ご覧ください。
2016.11.25
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不定愁訴症候群という症状がある。これといって原因がないにもかかわらず、慢性的な不安、過敏、緊張、落ち着きのなさ、イライラ、集中困難などの精神症状と、筋肉の緊張、首や肩のこり、頭痛・頭重、震え、動悸、息苦しさ、めまい、ひん尿、下痢、疲れやすい、不眠(寝つきが悪い、途中で目が覚める、眠りが浅い)などの多様な身体症状がある。複数の神経症を伴っているとも言われている。原因としては、引越、子どもの進学、子供の結婚、定年などの環境の変化によって身体に現れる症状で、いろんな検査をしても原因が見つからない。喜ばしいことでも、自分にとって見えないストレスが発生して精神的症状、身体症状として現れる。不定愁訴症候群によく似たものに全般性不安障害というのもあります。何らかの精神的なショック、心配ごと、悩み、ストレスなど、精神的原因と思われる出来事のあることもありますが、まったくないこともあります。また、過労、睡眠不足、かぜひきなど、一般的な身体的悪条件がきっかけで発症することもあります。日常生活上のさまざまなストレスを背景に、いつのまにか発症しているというのが普通です。全般性不安障害はもともと神経質で不安をもちやすい性格の人に多くみられます。特に女性に多く、男性の倍以上といわれています。慢性的な不安、過敏、緊張、落ち着きのなさ、イライラ、集中困難などの精神症状と、筋肉の緊張、首や肩のこり、頭痛・頭重、震え、動悸、息苦しさ、めまい、ひん尿、下痢、疲れやすい、不眠などの多様な身体症状がみられます。何かにつけて過度の不安・心配がつきまとい、それが慢性的に続く(診断基準では6カ月以上)のが特徴で、不安は種々の精神・身体症状を伴っています。多くの患者さんは身体症状のほうを強く自覚し、どこか体に異常があるのではないかと考え、あちこちの病院で診察や検査を受けるのが常です。しかし検査をしても症状の原因になるような身体疾患はみられません。経過は慢性で、日常生活のストレスの影響を受け、よくなったり悪くなったりしながら多くの場合何年にもわたって続きます。途中から、気分が沈んでうつ状態となり、うつ病に移行することもあります。(ヤフーヘルスケア こころの健康より引用)これらの症状で悩んでいる人は、神経症で苦しんでいる人と同様に、不安にとらわれやすいという特徴がある。つまり神経質的性格特徴を持っている人がかかりやすい症状ではないかと思われます。基本的な治療法は、精神科医にかかり抗不安薬などの薬物療法が中心になるいう。でもそれだけではたして改善できているのでしょうか。こういう人は精神科にかかりながら、森田療法を組み合わせるというのはどうだろうか。症状だけにとりつかれていつも症状の相手をしている限りよくならないのではなかろうか。引きこもっているだけでは症状は悪化してゆくばかりではなかろうか。もちろん症状がきつい時は適応できないであろうが、生活の発見会の協力医と相談して、緩やかな森田療法の適応が可能かもしれない。うつ病にしても薬物療法を受けて休んでいるばかりではよくならない人もいるという。その人たちに緩やかな森田療法を取り入れて回復に向かう場合があるといわれている。森田療法で言われているのはそんなに難しいことではない。たとえば人と話をする。話を聞いてもらう。ウォーキングなどで外に出かけてみる。花を育てる。ペットを飼ってみる。公民館に行って自分にあった習い事はないか探してみる。最初のうちは、自分のできる範囲で無理しないで楽しみを見つけて体を動かしていくことだ。内向きの気持ちを少しでも外向きに変えていくことが大変重要になると思う。森田療法は適用範囲がとても広い。そして慢性的な精神疾患に成果をあげている。不定愁訴症候群や全般性不安障害と診断された方は是非とも森田療法を頭の中に入れておいてほしい。
2016.11.25
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今年広島カープで不動の3番打者としてリーグ最強打線を支えた丸選手が、秋季キャンプで打撃スタイルの改造に取り組んでいた。今季は打率2割9分1厘、20本塁打をマークした。立派な成績だ。その打撃スタイルを今後も続けていくのかと思っていた。それだけで今後10年はプロの世界でレギラーを約束されているようなものだ。実は丸選手は昨年大不振に陥った。どうにか打棒を取り戻せないかと、打撃改造を試みたのがつい昨秋のことだ。そこで身につけたのが今年のスタイルだったのだ。グリップの位置を高く、バットを肩に担ぐようなスタイルで右足を高く上げる新スタイルだった。新たな打法を引っ提げて、今シーズンきっちりと成績を残してきたのだった。普通ならこんなによい成績を叩き出したのになぜ変える必要があるのか。誰でも疑問に思う。いま取り組んでいるスタイルは、バットを立て、「ヒッチ」と呼ばれるグリップを下げる動作をなくし、右足はあまり上げない。簡単に言えば、あの苦しんだ昨年の打撃スタイルに限りなく近いのだ。大丈夫なのか。問題はないのか。私はせっかく苦労してものにしてきたのになぜ変えるのかと思っていた。丸選手はこう考えたようだ。「今季は動きが大きいスタイルでやったけど、大きい分だけズレが出た。それが3割を打てなかった原因かもしれない。もう少しシンプルにしようと思う」今年は素人が見ると素晴らしい成績だったのに、それに満足していないのである。本人はきっと打率3割を下回ったのが納得できないのだろうと思う。だからリスクを負ってでも果敢に記録に挑戦してみようというチャレンジ精神が湧いてきたのだろう。そう言えばイチロー選手はオリックス時代「振り子打法」で入団3年目に210本のヒットを打って日本記録を作った。ところが数年後には「振り子打法」を止めてしまった。なぜか。普通に考えると、自分の編み出した素晴らしい打撃スタイルにしがみついてもよさそうな気がする。これについて、専門家の見立てとしては、入団当時は、線が細く、筋力がまだまだ付いておらず、体重移動を大きくしないと強い打球が打てなかったので、振り子打法を選択していたのだという。ああいう打法では、打球は強くなるが、ミートは難しくなります。イチローの天性のミート力があってこその打法です。それに、相手投手も様々な工夫を凝らし、タイミングを外そうとします。それに対応するためには、出来るだけアクションを小さくし、相手投手・投法・球種に対応できる様に、イチロー選手自身も進化しなければなりません。内野安打の多いイチローならば、強い打球を打つ必要が無いと思うかもしれませんが、強い打球を打てるからこそ、守る野手の守備位置が下がり、ヒットゾーンが増えるのです。そういうことを考えて、イチロー選手は過去の栄光を思い切って捨てたのです。そうでないと将来成績が伸びないと踏んだのでしょう。成功体験にこだわりを持っていると、なかなかできることではありません。これは森田理論で言うと、いかに過去に大きな成功体験を持っていようとも、めまぐるしく変化する状況に常に目を光らせ、自らを対応させていくということがいかに大切であるかを物語っていると思う。変化に対応したからといって必ずしも成功するとは限らない。しかし変化に対応していかなければ成功への道は閉ざされてしまう。森田理論は周囲の変化に自らをカメレオンのように素早く対応させていくことを勧めている。それは努力即幸福の世界でもある。
2016.11.24
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私たちは12月のクリスマスの頃にはイチゴがのったケーキを食べる。多くの人は、イチゴは年中いつでもできるものだと思っているのではなかろうか。実際は違う。普通の露地栽培のイチゴは4月の終わりから5月にかけてが旬の食べ物である。12月、本来イチゴができない時にイチゴが実をつけるためには、人間がイチゴの生育をコントロールしているのだ。イチゴが実をつけるためには日照時間が短く、寒い冬を経験することが必要である。そのために炎天下の夏にどんなことをしているのか。苗を高冷地に持って行って、さらに冷蔵庫のようものを使って冬を体験させている。当然日光を遮って育てている。さらに日照時間もコントロールしている。炎天下の真夏の時期に真冬を演出しているのである。その苗を秋になると平地に降ろして、ビニールハウスの中に入れて重油を焚いて、春さきのポカポカ陽気を作りだしている。日照時間が長くなったように操作するのである。そして時期外れの花芽の分化を進めるのである。さらに受粉のためにミツバチの箱を持ち込んでいる。このようにして12月の時期にイチゴが食用として出回っているのだ。自然の摂理を無視して、自然をコントロールすればこんなことは朝飯前なのである。これで一粒のイチゴが高値で取引されて、作っている人に十分な利益がもたらされ、消費者が喜んでくれれば万々歳ではないかという考えなのである。そう言えば夏野菜であるトマト、キュウリ、ナス、ピーマンなどはスーパーに行けば1年中出回っている。自然の摂理に従えば、冬の寒い時期に夏野菜のサラダは食卓に並ぶことは考えられない。これらも重油を焚いてビニールハウスのなかで育てられている。採算が合うという理由で許容されているのである。しかし食べられたとしても栄養はあるのだろうか。人間の身体のバイオリズムは合っているのだろうか。それどころか、夏の暑い最中にミカンを見かけることがある。温室みかんである。寒い最中にスイカを見かけることがある。温室スイカである。こうまでして季節外の野菜を食べる必要があるのだろうか。今や野菜の生理を知り尽くした人間は、野菜を意のままに作ることができるようになったのである。そして自然をコントロールし、自然を征服したかのような錯覚に陥っているのである。本来、冬期は白菜、大根、ニンジン、ゴボウ、レンコン、サトイモ、ネギ、水菜、ホウレンソウ、小松菜などの野菜が旬の野菜である。つまり鍋料理や煮物野菜に適した野菜たちが旬を迎えているのである。それが身体の生理作用にも合っているのだと思う。冬に冬野菜を食べると体が心から温まる。夏に夏野菜が体を冷やして暑苦しさが抑えられる。冬に夏野菜のサラダを食べてなんの身体のためになるのであろうか。今の時代は食べたいものを、食べたい時に、食べたいだけ食べることが優先されている。なんという人間のおごり高ぶった態度であることか。これは森田理論で考えるとゆゆしき問題である。なにしろ森田理論では自然現象は人間が思い通りにコントロールできるものではないといっているのだ。自然現象は受け入れて、自然に服従する生き方を提唱しているのだ。野菜作りの話は、まさに森田の考え方に反している。これらは人間が自然を自由自在に操ろうとしていることではないのだろうか。罪悪感や後ろめたさが一切湧いてこないというのは問題なのではないか。それらはやがて容易に精神世界にも及んでくる。不安や恐怖、違和感、不快感などを、人間はいつでもいくらでもコントロールできると勘違いするようになる。それらを簡単になくして、スッキリとできると思ってしまうのである。そういう誤った考え方が神経症を作りだす原因となっているのではないか。感情を含めた自然現象は、基本的には我々人間の自由は効かない。もっと謙虚になって自然現象を受け入れる。自然に服従して生きていくという気持ちにはなれないのであろうか。残念な気持ちでいっぱいだ。
2016.11.23
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私はネット麻雀をときどき半荘ほどしている。時間は15分から25分の間である。これはとてもよい頭の体操になっている。だから公民館などで年配の人達が健康麻雀をしているのはよいことだと思う。私は麻雀をはじめてもう10年以上にもなる。きっかけは大阪に単身赴任していた時に、20名ぐらいで「マージャン大会」があり、最下位になったことで発奮して始めた。負けず嫌いなのである。最初は役も分からなければ、点数の数え方も分からなかった。教えてくれる人もいなかったので、本を買って必死に勉強した。私の参加しているネット麻雀は20級からはじまって1級まで昇段し、その後1段、2段というように昇っていく。私は現在5段になった。いずれ6段にはなれると思う。現在6段がほぼ最高段位になっている。7段の人もいると聞いたが対戦したことはない。この段階では1段あがるのに2年ぐらいかかる。今は、役の作り方も分かり、相手の捨牌を見て相手の手を類推することもできるようになった。また最初の配牌を見ればすぐに戦術が閃くようになった。捨牌に迷うということはほとんどなくなった。だから捨牌のスピートは格段に速くなった。私のやり方は、まずドラをみる。ドラは一役つくからだ。次に捨牌は1とか9の端牌、あるいは東西南北、白發中などからきっていく。最初から高い手は狙わない。とにかく他の人よりも早く上がることを心がけている。1000点しか付かなくても早く上がる方を選ぶ。そうしないとその間に相手に上がられてしまうからだ。相手に先に上がられては勝負に負けてしまうからだ。つまりリスクが高まってくるのだ。相手が先にリーチをかける時がある。そういう時はすぐにその勝負は諦める。他人の捨牌を見て当たらないものを捨てていく。以前は相手がリーチをかけようがどうしようが、自分も上がるように努力していた。しかしその結果振りこんでしまい取り返しのつかない手痛い損失を被っていた。自己嫌悪に陥り、後悔していたのである。ただこれには例外があって自分の手が8000点の満貫以上の手ができつつあり、あと一手で上がりという場合は果敢に勝負をしていく場合がある。振込覚悟の大勝負である。この場合は、当たれば大きいし、振り込んでしまっても仕方ないとあきらめることができる。それから終盤になって最下位が見えてきた時も、一か八かでいい手を狙うことがある。これはあきらめてしまえばそのまま4位確定となってしまう。それよりは少しでも可能性のある道を探ろうとするのである。但しこれがうまくいく可能性はほとんどないということは分かっている。それから運よく勝ち続けて、勝負の終りが近くなってくることがある。そういう時は1位になることを考えて勝負は降りていく。下手に勝負を仕掛けていって、たまたま振り込んでしまい、1位の座がするりと逃げていくことを数多く経験してきた。よい手ができる可能性があってもすべて降りていく。これは必ず守らなければならないセオリーなのだ。欲を出しては安定した成績を叩き出すことはできない。目的はその勝負に勝つことにあるのだ。こうしてみると麻雀というのは、いくつか重要なセオリーというのがあると思うようになった。それを早く身につけなければならない。そのために有効なのは他人から教えてもらうことが一番だ。また数多くの失敗を経験して、失敗から学んでいくことも必要だ。但しセオリーが分かったからといってずっと勝ち続けることはできない。麻雀というのはそういうものだ。1位、2位、3位、4位になるそれぞれの確率は、上手になりセオリー通りきちんと打つことができれば長い期間で見れば限りなく25%に近くなる。勝負は配牌に大きく左右される。つまり麻雀は運に大きく左右されるのである。決して自分の考えているようにはならない。でも負けが続きどん底に落ちたように思っても、セオリーどおりに打っていれば、いつか必ず波は上昇していく。そこで自分は天才だと有頂天になっていても、次には運に突き放されてしまうこともある。そういう大局観にたって落ち着いて行動することが大切なのである。大きな波に身を任せていれば一番安楽なのだ。麻雀は森田理論で学んだ事と多くの面で共通点があると思うようになった。森田理論にもセオリーと言われる考え方がいくつかある。それを踏まえて日常生活を送っていくことがきわめて重要である。また、森田理論学習で神経症を乗り越えたと思っても、困難な状況は常に付きまとってくる。何をやってもうまくいかず、苦しい状況が続く時がある。そんな時は腐らず森田理論学習で学んだことを淡々とこなしていれば、いずれよい方向に向かうと思う。苦しくても、パニックに陥っても、森田理論学習で学んだことを信じて、セオリー通りに毎日の生活に取り組んでいけばそのうちにいつか必ずトンネルを抜けることができる。肝心なことはあわててしまって、前後不覚に陥って、反森田的な行動をとってしまうことだと思う。
2016.11.22
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高齢者による交通事故が多発している。アクセルとブレーキを踏み間違えての惨事が多い。ブレーキを踏もうと思ったのに、実際はアクセルを踏んでしまったというのである。どうしてそんなことになってしまうのだろうか。教習所に通っていた時のことを思い出してみてほしい。最初に車が動き始めた時は喜びと同時にとても不安であった。ブレーキの位置、アクセルの位置も分からない。ウィンカーの操作、ワイパーの使い方も分からない。バックミラーの見方も分からない。シフトチェンジのやり方も分からない。縦列駐車、車庫入れなどのポイントも分からない。車線変更のやり方も分からない。追い越しのタイミングも分からない。指導員から手とり足とりで教わってまず意識レベルで理解していった。そして恐る恐る動作確認しながらそれぞれの動作を確実に身につけていった。何回も練習して体得してしまうと、もう特別意識しなくても、無意識的行動として間違いのない操作ができるようになった。今は運転中音楽を聞きながら、他人と話をしながら、ときどきナビを見ながらでも無意識に間違いのない操作ができるようになっている。これは無意識だからこそスムーズに正確な操作ができているともいえる。ここで自分の手足の動かし方ははたして間違いはないのだろうか。アクセルは右にあったのだろうか、それとも左にあったのだろうかと考えだすと問題だ。注意の方向が外向きから内向きに変わっている。脳では無意識回路を使っていつも通りの行動ができていたのに、急に前頭前野が出てきて、再考を促しているようなものだ。前頭前野で考えだすと必ず反対の考えが同時に湧き起ってくるのでさらに混乱して収まりがつかなくなるのだ。これはキャッチボールでボールを投げる時に手の振りかぶり方、ボールの持ち方、身体の動かし方にとらわれているようなものだ。本来は力を抜いて相手をしっかりと見て、無意識状態で投げることが必要なのである。意識が内省化してくると、ぎこちない投げ方になる。ついに混乱して投げることすらできなくなる。高齢者の事故の場合、突然脳血管障害が起きる。目の衰え、反射能力や身体的衰えが原因であるといわれる。事実私もそう考えることがある。私は高速道路で100キロ以上のスピードを出すととても緊張する。また遅い車を追い越す時もそうだ。長いトンネルに入る時も急に暗くなり、横の壁が圧迫感を与えて一瞬ぶつかったら大事故につながるという考えが頭の中をかすめる。急に不安が出てきてちょっとしたパニック状態になる。前の車との車間距離がよく分からなくなる。これは高速道路に乗る機会がないのも関係していると思う。それから夜間の通行、雨の日の走行はとても神経が疲れる。これらは大なり小なり誰にもあることであり、その不安を活かして注意して運転することが必要である。高齢者の場合は、それに加えて、若葉マークを付けておく。運転能力が衰えてきていると認識すれば、夜間や雨の日の運転は控える。高速道の運転は差し控えて、時間はかかっても一般道を走行する。70歳以上になると認知テストなどの運転適性訓練があるという。そこで第三者に判定してもらって、運転に支障があるようなら、免許を返上することが自分のためになる。その上で指摘したいことは、運転は無意識に任せた行動が一番安定しているということだ。シフトチェンジレバーを目で追って確認していくようなことはしてはならない。わき見運転につながる。何年も運転を続けてきた人は、どう運転したらよいのかは前頭前野が判断しなくても、もう十分に体に染みついている。それを信じてあげることだ。無意識状態でアクセルとブレーキを踏み間違えるということはほぼ考えられない。その時は前頭前野がししゃり出てきて、本当にアクセルは右だったのか、もしかしたら左についているのではないかと悪魔のささやきを始めているのである。そうなると痛ましい事故につながるのである。
2016.11.21
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やっとこの映画を見てきた。やはり後半部分ではあまりにも悲しくて涙が止まらなかった。主人公のすずさんが成長して、結婚した時代は言葉では表現できないぐらい苛酷であった。すずさんが広島県呉市に嫁いでいったのは終戦の1年前だった。その頃からアメリカ軍による本土空襲は激しさを増した。呉市は戦艦大和を製造した軍港であったため、徹底的に攻撃された。焼け野原にされた。その空襲ですずさんは右手を失った。その時一緒にいた姪は命を落とした。その後広島に原爆が落とされて母親は即死。妹は白血病で苦しむ。兄は戦死。幼なじみが乗っていた戦艦も沈没した。こんなむごいことがあってもよいのか。戦争を引き起こした人たちに対して、怒りが込み上げてきた。すずさんたちは戦時中は食べるものがなくなっていった。配給もどんどん減らされていく。泣きながらも工夫しながら懸命に生きていく主人公と家族。その姿はけなげでかわいそうだった。それに引き換え今の私たちはいかに恵まれていることだろうか。それだけに、今の境遇に感謝しつつ、もっと真剣に生きていかなければという気持ちにさせてくれた。映画館を出ると、この映画を見た人たちの一言メッセージがボードに張り付けられていた。多く人に感動と生きる勇気を与えたのだなと感じた。
2016.11.20
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アメリカの次期大統領のトランプ氏は、選挙に勝つためにオーバーな発言を繰り返してきたのだろうか。トランプ氏の基本的な考え方は、自国の利益優先の保護主義のようだ。アメリカの世界のリーダーとしての地位は捨てるというのだ。これからは自国の利益を確保するために、他国と交渉していくというのだ。今までの政策と180度の転換を図るという。今までアメリカは移民を無制限に受け入れてきた。自由貿易を標榜して経済のグローバル化を推進してきた。世界の平和と経済の安定化のために、今までのアメリカは自らリーダーシップをとってきた。その方法で現在のアメリカはどんどん衰退してきた。アメリカ国内では、海外からの移民が自国民の職を奪った。またグローバル化の荒波をもろに受けて国内工場が閉鎖されて仕事が無くなるケースが増えてきた。そして圧倒的多数の国民は貧困で苦しい生活を余儀なくされてきたのだ。今までよいとされてきた自由で競争第一の資本主義が行き詰ってきたのだ。教育を受けるために借金地獄に陥る。社会保障制度が崩壊する。医療制度もアメリカには国民皆保険制度はない。刑務所が巨大労働市場として幅を効かせている。まじめに働くよりも、犯罪で刑務所に入った方が生命を維持できるというのだ。そのアメリカも1950年代60年代は毎年所得が増えてどんどん生活が豊かになっていった。多くの人が将来に希望が持てた。今は働いてもどんどん生活が苦しくなっていく。どうなっているのか疑心暗鬼なのだ。アメリカ国民の生活環境の悪化は現在の日本の比ではないという。その内容は「貧困大国アメリカ」「貧困大国アメリカ2」(岩波新書)を読めば一目瞭然だ。国民は最低限の生活さえも保障されない国になってしまったのである。長生きすればするほどリスクが高まっていく。そんな国民の不満が、トランプ氏を大統領に押し上げたのだとみている。さてトランプ氏は保護主義によって、自国民の雇用を増やし、海外に展開してきた軍事予算は自国の経済活性化のために使うという。保護主義、ナショナリズムの復興である。移民は受け入れない。刑務所に収監している外国人は強制送還するという。日本の防衛は自国で賄えという。それに反対なら在日米軍駐留経費を全額負担しろという。TPPは海外の安い工業製品が国内の産業を圧迫するので白紙に戻すという。ほんとにそんなことでできるのか。ポピリズムのオンパレードのように見える。私はそれでも経済のグローバル化を推し進めようとする世界の風潮よりも、言葉は悪いが保護主義、ナショナリズムの考え方の方に共感できる。なぜなら、経済のグローバル化は一部の富裕層だけがさらに裕福になる方向に向かうからである。そしてその他大勢の人は最低限の生活を余儀なくされる。それを加速するだけだ。現在世界の1%の富裕層が、世界の富の40%を独占しているという。経済のグローバル化はそういう人たちが政府に圧力をかけて、富の集積を50%にも60%にも拡大していこうというやり方である。政府の打ち出す政策は、そういう人の代弁者の役割を果たしている。国民のためと思っているような政策も、国民の反発を最低限のところで抑え込むことをもくろんでいるのだ。普通なら儲けている人の税金を累進課税で80%も90%近くも吸い上げて、貧困層に再配分するべきなのだ。あるいは社会インフラの整備や社会保障制度や教育につぎ込むべきなのだ。アメリカの一般国民は、自由と自己責任のもとで、長らく置き去りにされてきた。自分たちの生活がどうにもならないぐらいに困窮してきて、やむにやまれない気持ちで反撃をしてきたのだと思う。だからトランプ氏は過激な発言を繰り返してきたにもかかわらず支持されたのだ。問題は大富豪であるトランプ氏が、一般国民の視点に立った公約に掲げた政策を次々に実行してゆけるかどうかにかかっている。それは次の4年後の選挙で国民に審判を仰ぐことになる。森田理論学習をしてきて感じることは、人間の生活というのは、自分たちの生活は自らの力で賄うというのが基本だということだった。安易に他人に依存する生活は、自分たちの生きがいを喪失させていくことだと学んだ。それを膨らませていくと、日本という国は食料を自給するという方向が望ましいと思うようになった。しかし現在の日本は食料自給を完全に放棄している。車などの工業製品や最先端技術を輸出して、儲けたお金で世界中から安い食料を買えばよい。こういう考え方は、日本と日本人を衰退させる方向だと思う。ウソだと思うなら古代ローマ帝国の隆盛と衰退を学習してみることだ。私は経済のグローバル化、TPPでいう自由貿易の推進などは、日本国民を不幸にしていく政策であると考えている。つまりどんどん年金が減らされる。そんなことはさせないといっても財源がないのである。今の年金でもギリギリなのに、将来突然それを4分の3にします。半分で我慢してくださいと言われて納得できるだろうか。国民皆保険制度がなし崩し的に崩壊していく。制度的に持ちこたえられなくなってくる。TPPを進めていくと、保険診療の割合が少なくなって自由診療がどんどん増えてくるという。医療分野も自己責任の世界に入っていくのだ。それよりも問題なのは国民の大多数が飲むや食わずの生活を余儀なくされることだ。そして1%の富裕層がますます富を蓄積していく。そんな時代がすぐそこまで来ているのである。安倍総理がそういう人たちの先頭にたって新幹線や原発の売り込みを行っている。安倍総理は日本経済の復興のためによくやってくれているという評価が高い。しかしそれは1%の富裕層の代弁者であって、真に一般大衆の生活を第一に考えたものではないのである。だから二言目には国益という言葉を声高に繰り返すのだ。国益と国民の利益は一致するものではないと思う。こういうことも事実をもとにして、みんなで真剣に議論してみたいものである。
2016.11.20
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以前森田の学習会で「恐怖突入」ということが言われていた。恐怖突入とは自分が不安に感じていることに思い切って手を出してみることである。行動してみると思い悩んでいたことが、実はそれほどでもなかったということが分かるという。それはそうかもしれないが、現実問題として、神経症でのたうち回っている人ができることなのだろうか。私の体験からして無理だと思う。私は対人恐怖で、訪問営業の仕事ができなくなってしまった。それをつらいだろうが我慢して仕事をしなさいと、何回アドバイスされてもなんの効果もなかった。胃腸神経症の人が物を食べられなくなった。そしてガリガリに痩せてきた。その人は食べなければ死んでしまうことは分かり過ぎるほど分かっているのだ。それでも食べることができないのだ。乗り物恐怖の人も特急電車にのらないと会社に遅れてしまうことは十分に分かっている。それでも予期不安があって乗れないのだ。だからそういう人に「恐怖突入」を勧めることは一害あって一利なしだと思う。認知行動療法のエクスポージャ(曝露療法)は、不安階層表に基づいて徐々に不安に慣れさせて不安を取り去る療法だという。「恐怖突入」と同じ手法である。では「恐怖突入」以外に神経症を治す方法はあるのか。私はあると思っている。それは、外堀を埋める。急がば回れ。兵糧攻めの方法である。神経症に陥っている人の特徴は、気になる一点に神経を集中させて、精神交互作用で蟻地獄に落ちてもがいている人である。もがけばもがくほど深みにはまっていく。症状がきつい時は自力で立ち直ることが大変難しくなっている。そういう人は一旦症状との格闘を止めてみることをお勧めしたい。今まで症状と格闘してうまくいかなかったのだから、いったん棚上げにしましょうということなのだ。それでもふとした瞬間に症状のことがぶり返してしまうでしょう。「ちょっと待て」という気持ちで不安と正面から戦うことを放棄してしまうのだ。私の場合でいえば、仕事に行けない自分をなんとか我慢して仕事に行くように叱咤激励はしない。さぼりまくっている自分を非難しない。そうせざるを得ない何らかの事情があるに違いないと考えているのだ。でもなんとか食いつないでいかないと困る。会社には悪いが、クビにならない程度の仕事ぶりで食いつないでいくことを考えるのだ。それは森田理論学習でいうと気分本位の行動だといわれるかもしれない。気分本位でもいいではないか。一種の開き直りである。今まで何年間も、何十年間も対人恐怖で苦しんできて、思いつく限りの改善の手は打ってきたのだ。それらがことごとくはね返されてきた。うまくいかなかったのだ。これ以上どんな手段を講じても同じ結果に陥るのではないか。だから今の時点では、症状との格闘に対してはやむを得ず白旗をあげた。休戦宣言をしたのだった。そこにつぎ込んでいたエネルギーを別のところに振り向けていくことを考えついた。幸いエネルギーは枯渇していないのだ。もっと別のところで活かしてみることを考えるのだ。肝心なことは、症状のために安易に会社を辞めるなどといった重大な結論を出さないことだ。自分は月給鳥という鳥になって、とりあえず生活費を稼いでくることだけを注意することだ。そしてこれからやってみたいことを思いつく限り書き出してみた。私の場合、トライアスロンに挑戦してみたい。スキー、テニス、黒鯛釣りを思う存分やってみたい。模型ヘリコプターの操縦を習いたい。スポーツジムに通ってみたい。数々の資格試験に挑戦してみたい。アルトサックスを習いたい。森田理論学習を深耕したい。一人一芸に取り組みたい。第九の歓喜の大合唱を経験してみたい。等があった。仕事はそこそこにして、これらに片っぱしから取り組んでみた。今振り返ってみると、対人恐怖症の克服に正面切って取り組むよりも充実した生活を送ることができたと思う。そして対人恐怖がありながら定年近くまで勤めることができた。定年を迎えて思ったことは、対人恐怖の人の思惑が気になるというのは確かに苦しかった。でも定年してみると会社を辞めずに勤め上げたことの方がもっと重要なことだった。過度の対人緊張は私の個性のようなものだったのだ。それを変えようとしないで、自分のやりたいことに注意を向けて、気持ち的には仕事の比重を下げていったことが、結果的にはよかったのではないかと思う。これは私の場合であって、人それぞれの向き合い方があるだろう。肝心なことは症状の回復のために正攻法で取り組んでいくと、成果が上がるどころか、ますます窮地に追い込まれるということだ。
2016.11.19
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確認などの強迫行為をする人は五感が信じられなくなるという。普通の人は玄関の戸締りをするとき、目で見る、音を聞く、ドアに触れることでドアが閉まったことを確信する。気になる人は2、3回ノブを回してみる。ますます閉まっていることを確信する。他に考え事をしている時、しばらく経ってさっきドアを閉めたかなと気になることがある。引き返して確認する。これらは見る、聞く、触れるという五感の一部を活用して安心を得ているのである。強迫行為を繰り返す人は、五感が信じられない。いくらドアを閉めても不安になる。そのうちドアが閉まったかどうかではなく、不快感と格闘するようになる。その時脳の中はどうなっているのか。理性や思考を司る前頭前野が盛んに活動しているのだろう。前頭前野は理性的、創造的な思考をして今後の方向性を決めるなどの役割を持っている。ああでもないこうでもないと、今までの学習、経験、社会常識などをもとにして試行錯誤して結論を導き出そうとしている。ここではある考えが起きてくると、それを打ち消す反対の考えも同時に起きてくる。これは人間が進化する過程で標準装備されてきたものだ。これがないとあまりにも考えが一方向に偏ってしまい、取り返しのつかない失敗やミスが多くなってくる。多面的に考察してよりよい方向性を見つけ出そうとしているのが前頭前野の役割である。本来鍵が閉まったかどうかは五感で判断して無意識の行動となる。箸を使ってお茶漬けを上手に食べる。事故を起こさずに自動車を運転して事故もなく目的地に着く。これらは最初は意識していたかもしれない。でもいったん習得してしまうと、脳の中で無意識的命令回路を通ることになる。前頭前野の回路を通すことはなくなる。ここで意識化が起きるとかえって行動はスムーズに進まなくなる。ぎこちなくなる。確認行為が前頭前野に入ると、思考や検索を始める。「閉まったか」「閉まっていないか」とせめぎ合いを始める。それが精神交互作用でどんどんと増悪していくのである。私はアルトサックスを吹いている。最初はじめて楽譜をもらった時は前頭前野が盛んに活動している。一つ一つ音符を見て恐る恐る指を動かしている。それを何回も繰り返しているとしだいに音楽らしくなってくる。人に聞いてもらう。テープなどに吹き込んでみる。少し違和感のあるところがある。それを修正してしだいに曲らしくなっていく。もう少し進むと譜面を見なくても、何も考えなくても指が自動的に動いてくれるようになる。前頭前野が働きを止めて、無意識の行動回路が音楽を奏でているのである。そこまで行くには練習を積み重ねる必要がある。120%の練習をする必要がある。そうしないと本番で前頭前野に邪魔をされて演奏はめちゃくちゃになる。前頭前野はいつも自分の出番をうかがっている。隙あればすぐにおせっかいを出そうとするものなのだ。だから本番前や本番中におせっかいな前頭前野がししゃり出てこないようにすることも必要になる。特に本番前はプレッシャに押しつぶされそうになる。そういう時はイチロー選手や羽生結弦選手のルーティーンを参考にするとよい。彼らを見ていると本番前はいつも同じ時間に同じような行動をとっている。私には無意識的に前頭前野の働かない状況を作り出しているように見える。もちろん無になろうとしてするルーティーンはかえって前頭前野の働きを引き出してしまう。ここが難かしいところだ。120%の練習で成功率100%に高めて、本番では前頭前野の働きを抑えて、いかに無意識的な動きができるかどうかにかかっている。そんなことでもし間違えたらどうという不安があるかもしれないが、実際間違えないで演奏できているときは、前頭前野の出番は全くないのである。確認行為で苦しい人は、こうしたからくりをよく知っておくことが肝心であると思う。楽器演奏に取り組むことで、そのことを体得することが症状の克服につながるのではないかと思う。前頭前野の働きを弱めて、無意識に体が動いていき、しかも間違いがないという体験を積み重ねていくことが大切であると考える。ご自分でもいろいろと研究してみてもらいたい。
2016.11.18
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森田先生のエピソードに似顔絵描きの話がある。高良先生、古閑先生先生など門弟一同が森田先生の病室に集まり、みんなが思い思いに人の顔を写生し始めた。○○先生だけが仲間に加わらなかった。「○○君はどうして描かないのですか」○○先生は何か口ごもりながらバツの悪そうな表情をした。森田先生は「・・・上手とか下手とかいうことにとらわれずに何にでも手をださなければ」と、○○先生の方をみすえるようにして、意外に厳しい調子で「自分の本職にしろ一人前にはなりません」といわれた。森田先生は少しでも興味のあることはすぐに手を出してみなさいと言われているのだと思う。というわけで私たちも、先日の集談会で、みんなで似顔絵を描いた。二人一組になって鉛筆で描いた。始める前に講師の先生から簡単に説明があった。胸から上を描くこと。まず顔の輪郭を描く。丸顔、玉子型、逆三角形、おむすび型、四角、ひょうたん型のどれにあたるか。髪形を描く。その人の特徴をつかむ。メガネか、鼻か、ひげか、まゆか、目か、口か。その部分を少し誇張して描くのがよいと思った。その他の部分を描く。眉には、上がり眉、下がり眉、真一文字、お公家型、薄い眉、濃い眉などいろいろある。鼻も5種類ぐらいの型がある。口は6種類ぐらいあるそうだ。描く時は下を向いて描いているので、相手を正面から十分に観察ができないのが難点だった。でき上ったら、サインをして相手にプレゼントした。本来は最後にペンで清書して、鉛筆は消すそうだ。私たちはいつも自己内省的で対象物を観察するということが少ないような気がする。似顔絵かきは相手をよく観察しないと描けない。似顔絵かきは事実を大切にする森田実践になると思いました。
2016.11.17
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中学生ぐらいの娘が夜の10時ごろに帰宅したとします。1、親として瞬間的に湧いてくる感情は、「大丈夫だろうか、なにかあったのだろうか」と心配になります。居ても立っても居られないことでしょう。森田で言う初一念です。ところが引き続いて初二念がでてきます。「今何時だと思っているのだ、遅くなるときは家に連絡しろ。家族に心配かけるのもいい加減にしろ」などです。これらはどちらも自然に湧きあがってきた感情ですから、素直に味わってみることが大切です。2、次に初一念がなんであったのかをよく思い出してみましょう。「かわいい自分の娘が何か事件に巻き込まれているのではないだろうか」「どうか無事に帰ってきてほしい」「心配で居ても立ってもおられない」等です。3、初一念を思い出したら、そこに軸足をおいた言動を心がけるようにしましょう。娘が帰ってきたら、「お父さんは無事に帰ってきてくれてうれしい」「お母さんはあなたの身に何かあったかもしれないととても心配だった」等。私メッセージで「私はこう感じた」「私はこう思う」「私はこうしてくれたらうれしい」などと発言する。4、続いてでてきた初二念はどう取り扱うか。「今何時だと思っているのだ、遅くなるときは家に連絡しろ。家族に心配かけるのもいい加減にしろ」この気持ちも偽らざる素直な気持ちです。自然に湧きあがってきた感情はそのままに感じておくことです。どんなに娘に対して怒りの感情が湧き起ってきてもやりくりしてはならない。ただそのままに感じておけばよいのだ。でも初二念は帰って来た娘に言動として吐き出してはならない。普通は理由も聞かず親の不快感を一挙に娘にぶっつけてしまいます。この対応で娘はふてくされます。親から遠ざかるようになります。親子の人間関係が壊れていく原因になります。この方向は親が、自分たちの不快感をすぐに取り去りたいという気分本位の行動となります。そんな時は森田で学習した「感情の法則」を思い出すことです。どんなに激しい怒りの感情であっても時が経てば必ず小さくなっていく。怒りの感情がピークに達した時点で、怒りの感情を解放させることはいかにも愚か者がすることだ。このことをしっかりと分かっていないのは悲しいことだ。初二念はそっと眠らせておく。そして「今なすべきこと」は初一念を思い出して、その気持ちをどう娘に伝えていったらよいのかを考えてみることだ。「純な心」を活用しての言動を取り入れればいい争いには発展しない。むしろ親子の絆は深まっていく。娘はどうして遅くなったのか。どうして連絡できなかったのか。今後このようなケースがあった時どう対処するのかを考えて話してくれるのでないでしょうか。
2016.11.16
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「純な心」の事例としてよく説明される例がある。ある方がウサギの世話をしておられた。ウサギに餌をやりに小屋に入ったとき、突然猛犬が飛び込み、一頭のウサギをくわえて逃げ出し、噛み殺してしまった事件があった。この事例をもとに対応を検討してみよう1、 初一念の感情はなんだったのか。きっとウサギが噛み殺されて一瞬背筋がぞっとするような、目をそむけたくなるような気持ちになられたことでしょう。誰でもそんな気持ちになります。初二念はどんな感情だったのか。この方は、これは入口の作り方が悪いからこんなことになってしまったと弁解された。自分のせいでこうなったのではない。元々入口の作り方に問題があったのだ。だから自分はそんなに悪くはないのだ。森田ではそう感じたのは自然現象だ。解釈しないでそのままに感じていればよいといいます。2、 初一念はすぐに消え去ってしまという特徴があります。それは仕方がないことです。でも遡って思い出してみるという作業が必要になります。噛み殺されたウサギを見てゾッとした。可哀想だと思った。思い出したらその気持ちを居合わせた人に伝えてみることだ。「ウサギが可哀想だ」「なんとか生きかえってくれないだろうか」それを聞いた人も同じような気持ちになります。同じ感情を共有できることになります。ここが大きな第1のポイントになります。3、 初二念はどう扱うのか。これはまずいいことになった。森田先生にこっぴどく叱られるかもしれない。そうなったらイヤだ。その状況から逃げ出したい。この気持ちは否定することはありません。初一念に続いて、自然に湧き起こってきた感情です。でもこの感情は味わうだけにすることです。ここが第2のポイントです。普通はこの感情をもとにして弁解や言い訳を口にしてしまうのです。この方は「これは入口の作り方が悪い」と人に責任転嫁されたのです。それを聞いている人は、この人は何を言っているの。自分の責任を他人のせいにして。見苦しい。言い訳が森田先生の逆鱗に触れて、自分の思いとは反対に最悪の結果を招くことにもなったのです。まとめると初一念、初二念の感情はどちらも十分に味合うことが大切です。次に忘却の彼方へと消え去っていった初一念を今一度思い出してみることです。自分の素直な感情に気がつくはずです。そこにこそ宝の山が隠されているのです。それが思い出せたら、その気持ちをそのまま私メッセージとして吐き出していくのです。初二念は味わうだけにすることです。これに基づく言動は災いのもとです。どうしても相手に吐き出したかったら自分の感情とは全く反対の演技をすることです。心にもない名演技を心がけて、相手がどう反応するのか楽しむゆとりを持ちたいものです。この場合は、「私がついうっかりしていた。戸をしっかりと締めるように気をつけていればこんな無残なことは起きなかった。すみませんでした」と言って謝る。本当は入口の作り方に問題があって、自分には全く非がないと思ってもそんなことは人前で発言しない。神経症の人は、自分の感じたことを素直に吐き出さないということはストレスの原因になるという。そして、怒りを爆発させたり、責任転嫁をしていく。ここではもう一つの感情を無視しているのが大きな問題となる。。責任転嫁をして言い訳をすれば相手がどんな気持ちになるかという「精神拮抗作用」で言う反対の感情を無視している。初二念を元にして発言するとすれば、両方の感情のバランスをとることが極めて重要になります。自分の感情とは違う発言を心がける。初二念の取り扱いはまさにこのような展開になるのです。これは私には少し難しいと思えば、基本に立ち返って、初一念の感情を思い出して、最初に感じたことを素直に口に出していけば万事うまくゆくはずです。ぜひあなたの体験で試してみてください。
2016.11.15
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東洋経済オンラインでグッチーさん(山口正洋さん)が「カープがこれからも勝ち続ける7つの理由」を書いておられる。我々カープファンからすれば涙の出る内容であった。でもこの記事に対する反論のコメントを見て反省することがあった。野球ファンといえば、自分の贔屓のチームが負ければ、とたんに機嫌が悪くなるという人が多い。その日のテレビは見ない。翌朝の新聞も読まない。次の日の仕事でもそのイライラがでて他人に迷惑をかける人もいる。とにかくイライラが収まらないのだ。感情は自然現象だからどうにもならない。この記事はよく分析はされているが、他チームと比較して、自画自賛の記事のオンパレードだった。自慢話は身内の人が聞いている分はよいが、他人にとっては嫌悪感そのものだ。たとえば自分の息子や娘が有名大学に合格した。あるいは配偶者が有名な会社に勤めている。役員に出世した。またスポーツや舞台で拍手喝采の大活躍をした。等と自慢話をとうとうと聞かされて周囲に喜ぶ人が何人いるだろうか。自慢話を長時間にわたって続けられて、さらに自分の子どもと比較されては聞いている方はたまったものではない。うんざりする。沸々と怒りがこみ上げてくるのではなかろうか。これに近い話を森田先生もされている。森田先生が入院患者に「よくなったか」と聞かれた。ところが、正直に答えなければならないと思っている人は、「まだまだです」等と答える。先生が一生懸命に治療にあたっていることは全く考えていない。すると森田先生は張り合いが無くなってしまうと言われる。ふつうは、実際にはよくなっているという感じがしなくても、先生の前では、「先生のおかげで、だいぶ良くなりました」と答えるのが人情である。意固地な人は、それは事実と違うではないか。事実に従えと言われる森田理論とは相いれない。納得ができないと言われる。どうしてそんなことになるのだろうか。できるだけ正直に言わなければということに執着しているのである。言葉にとらわれているからである。まだよくなっていないということを言うと、一生懸命に治療してくださっている先生に申し訳ないという気持ちを無視している。当然湧き起ってくる感情を無視している。そういう気持ちを抑えつけている。それは自然に素直な態度ではない。普通の人間は一つの考え方が起きてくると、それと反対の考え方もセットで湧き起るようになっているのだ。そのことを森田理論では「精神拮抗作用」と言っている。人のできないことができたり、社会的に認知度が上がったり、幸運が舞い込んだりするとつい自慢話をしたい気持ちは誰にも起きる。でも自慢話は相手をみじめな気持ちにさせてしまうという気持ちが同時に湧き起ってくるのが普通の人間である。天秤にたとえるとそれが右と左に分かれてせめぎ合いをしているようなものである。行動するにあたっては右、左に偏ってはならない。両者の中間あたりをめどにしてバランスを取っていくことが大事である。ホドホド、中庸を心がけた行動が肝心である。森田理論では感情は自然現象であるからコントロールできるものではないという。どんな感情でも受け入れていくことが基本です。でもその素直な感情を相手に伝える時は、同時に湧き起ってくる反対の感情との調和を優先する必要があると言っている。
2016.11.14
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私は以前金の先物取引に手を出して、それまで貯めていた貯金を大きく減らしてしまったことがあった。その業者は高校の同窓会名簿を持っていた。名簿を見て親しく電話をしてきたのだ。同窓会名簿には個人情報が詰まっているのである。以前ベネッセコーポレーション、日本年金機構から個人情報が大量に流失して大きな社会問題となった。今や個人情報はお金のなる木として、データや名簿自体が売り買いされているのである。名簿からDMを打てば商売に結びつくのである。個人情報は悪用しようと思えばいくらでもできる。だから多くの人が自分の個人情報が独り歩きすることを恐れている。そのため平成17年4月より「個人情報保護法」が全面施行され、「個人情報取扱事業者」が守るべき義務が強化されました。今では個人情報の管理はどこの会社でも厳しくなった。私の会社でも、個人情報の管理はとても厳しい。情報漏えいは解雇事案にあたるのである。そのための教育・研修も徹底している。耳にたこができるほど聞いてきた。しかし、あまりにも厳しいので生活に支障も出ている。たとえば、自助組織の仲間に連絡を取りたいときでも、連絡先が全く分からない。以前は名簿があったのですぐに分かっていた。講師の依頼をする時も困っている。仮に知り合いのつてをたどって分かったとしても、誰に聞いたかと言われたら、自分の名前は言わないでほしいといわれる。本部にお願いすると守秘義務の誓約書が必要だといわれる。面倒だから連絡をとるのは止めてしまおうかということになる。会の運営に少なからず影響が出ているのである。なんとも融通のきかない社会になったものである。以前こんな事件があった。勤務先のマンションに放置自転車があったのだ。マンションのシールを貼ってなかったので分かった。交番に電話した。するとすぐに警察官が駆けつけた。その自転車には防犯登録がしてあった。警察官はすぐに本署に無線連絡をとられた。しかし盗難届は出ていないということだった。盗難届が出ていないものは持って帰れない。警察の役目はこれで終わりだというのだ。それなら持ち主の電話を教えてもらえば、私から電話をしますといったところ、個人情報は教えられないという。そのまま放置しておくのかと尋ねたところ、それしか方法がないという。しばらく待って大型ごみにお金を出して処分してくださいという。こんな立派な自転車を捨てるのはもったいないので、私が使ってもよいかというとそれは泥棒のすることだという。確かにもし街中で持ち主に見つかると、その自転車を盗んだと思われるだろう。まだ使用できる立派な自転車なのに、処分費を使って捨てるしかない。こんなことがまかり通っていいのかと思う。個人情報という法律に振り回されて、がんじがらめになって全く融通がきかないのだ。私は現在個人情報の関わることは会社にあらかじめ聞いて指示を仰ぐようにしている。自分が勝手に判断して、よかれと思ってすることはほとんど否定されるのだ。相手に迷惑がかかるとともに、自分自身にも困ったことが起きる。個人情報の取り扱いは判断に迷う時は人に聞いてみることだ。それもできれば一人だけではなく、数名の人の話を聞いて総合的に判断することだ。たとえば私はこんな事例に出くわした。すべて人の意見を参考にしたので問題は起きていない。警察官が来て、自動車が傷付けられたという届け出に対して、監視カメラの映像を調べさせてくれという。また傷つけられた人がUSBに録画してくれという。これは理事長と管理会社の許可がいる。また申請書類を書いてもらう必要がある。ちなみに録画映像は管理人が勝手に見ることも許されてはいない。民生委員がお年寄りの最近の生活具合を聞きに来る。知っていても答えてはならない。国勢調査、生活実態調査などで部屋番号と居住者の名前を聞きに来る。玄関ドアを開けてもよいが、個人情報は一切答えてはならない。長期不在者の郵便受けがいっぱいになっているので、管理人が開けて整理してくれと言われる。管理会社の営業マンが来た時に2人で整理する。善意で一人で処理してはならない。居住者と世間話をしてはならない。なぜなら世間話で他の居住者の噂話を聞いていると、それは管理人が話していたといううわさが立つことがあるからだ。生命保険会社の人が転居した人に連絡しなければならないことがあります。住所や電話番号を教えてくださいと言われる。うっかり教えると大変なことになる。こちらから転居者に電話して、転居者から保険会社に電話してもらうようにする。宅配業者が何号室にこういう名前の人が同居していますかと聞いてくることがある。娘婿が同居しているのを知っていても知りませんというしかない。掲示板に個人を特定したものを貼りつけてはならない。机の上に名簿などを無造作に置いてはならない。居住者名簿は鍵のかかった書棚に入れておく。など注意することはいろいろとある。そういえば最近自分あての封書は、ゴミとして処分する時住所名前の部分は切り取って細かく裁断している。それだけ疑心暗鬼の時代になってしまっているのだと思う。結局、個人情報は事実に素直に対応しようとすると「ちょっと待て」ということだと思う。不安と欲望の関係と同じで、不安が大きくなって社会生活がやりにくくなっているのである。
2016.11.13
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その方は彼女とデートの約束をして、待ち合わせ場所で待っていました。ところが約束の時間になっても彼女はやってきません。30分経つごろからイライラし始めました。「なにかあったんだろうか。約束を破るような人ではないのに。途中事故にあったのだろうか。」携帯で連絡をとろうとしました。でもつながりません。待つしかないと思って待ちました。1時間が経ちました。そのうち腹が立ってきました。「もう頭にきた。帰ろうか」「もし彼女が来たら怒鳴り散らしてやろう」なとどと考えました。でも帰ることなくそのまま待ちました。そのうちやっと彼女がやってきました。「ごめんなさい。遅れてしまって」と謝りました。それに対して、彼の言った言葉はこうでした。「今日はもう会えないと思っていた。連絡もつかないし、すごく動揺していた。でも無事に会えてよかった。来てくれてうれしい。何かあったの」彼は森田理論の学習をしていたので、初一念を思い出して初一念で対応できたのです。そして彼女の遅れた理由を確認しようとしました。彼女はその言葉に救われました。交通渋滞にはまり、おまけに携帯電話を家に忘れていた彼女は気が気ではなかったのです。その事情を説明しました。その時「私は彼に時間にルーズな人間に思われているに違いない」「私はあなたに見捨てられるかもしれない」等と思っていたのよ。彼は安心しました。「なんだ、そういうことだったの。だったら仕方ないよね」二人は普段どうりの会話に戻りました。これがいきなり初二念の感情をもとにした対応だったらどうでしょうか。彼がイライラや怒りを前面に出して、不快な気分を一時的に発散するやり方です。これは説明するまでもないでしょう。彼女との人間関係は悪化してヒビが入ってしまうかもしれません。こういう対応を取る人は別の場面でも同じような対応をとる場合が多いようです。また家族、友人、仕事場においても同様の対応をとるケースが増えてくるものと思われます。森田理論の「純な心」を学習して、そのコツを習得していないので、人間関係に応用ができないのです。実にもったいない生き方だと思います。
2016.11.12
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上田比呂志さんのお話です。日本には無数の旅館がありますが、特に評価の高い高級旅館というのはお客様に対して、つかず離れずの距離感を持って接待するという。森田理論でいう不即不離を接待に応用しているのである。チェックインを済ませ、宿帳などを記入しつつ、世間話なんかをしながら部屋まで案内してくれますが、そのあとはそっと放っておいてくれます。サイズ別、色別に浴衣や足袋が用意してあり、備えも万全なのでこちらからあえて呼ぶ必要もありません。つかず離れず、絶妙な距離感でお客様をリラックスさせてくれるのです。来てほしい時以外には来ない、手を出してほしい時以外には手を出さない。この絶妙なバランス感覚です。放っておくというのは、気をつかわない、無関心とは違います。気づかっているからこそ、放っておく。ただし、気をつかっているということが表には出ないのです。だから、相手も余計な気づかいをしなくて済む。上田さんが、三越の特選売場という高級ブランド品の販売を担当していた時のこと。そこにいらっしゃるお客様というのは、あらゆるおもてなしを受けていて、たいてい何でもご存じです。商品に関する知識でも、世情や社交界に関することでも、私よりもよほど詳しいのです。VIPのお客様だからと変に気合を入れて商品の説明をしたり、必要ないのにかまったりというのはこちらの都合であり、お客様は求めていません。お客様が大切にされているのは、商品を買うまでの時間や空間、雰囲気であり、その商品を買う価値があるかどうかはお客様自身が決定されることなのです。だから、笑顔で立っていて、余計なことはしないように、そっと控えておいて、「あっ、口を開きそうだな」「なにか聞きたそうだな」と思ったら近づくようにしました。そこで初めて、「いかがでございますか」と尋ねるのです。この話は子育てにも、集談会の体験交流でも同じことが言えます。幼児の場合は、基本的には幼児の好奇心に沿って自由にさせる。でも親は子供から目を離してはいけません。親が子供の目のつく範囲に居てじっと見てあげることが必要です。親が手を出し、口を出すのは危険な行動、他人様に迷惑をかける時です。それ以外は大目に見ている事です。少々ケガをするようなことは、口出し無用です。物を散らかしたり、壊したりすることも大目にみることが大切です。そうすると幼児は親の後ろ盾を得て安心して冒険することができます。自由で、好奇心旺盛で何事にも積極果敢な子供に成長していくのです。集談会の場合、初心者に中間層やベテランの人が、最初から親切に森田理論を懇切丁寧に説明してあげることは差し控えなくてなりません。なぜなら初心者の人が自ら気づく、発見する喜びを奪ってしまっているからです。傾聴、共感、受容の態度で初心者に寄り添ってあげることだけで十分です。相手がどうしていいのかわからなくなって助けを求めてきたときは、丁寧に説明してあげるのです。その時までは、共感、受容の基本姿勢を崩さずに傾聴に徹することです。森田で神経症を乗り越えた人は、どうしてもすぐにアドバイスするようになります。それは過干渉、過保護に通じます。そういう対応を受けた人は、せっかく縁あって森田に出会ったにもかかわらず、森田から離れていってしまうというケースが多いように感じます。(日本人にしかできない「気づかいの」の習慣 上田比呂志66-67ページ引用)
2016.11.11
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「死んだ男の残したものは」という詩がある。なぜか胸を打つ曲だった。日本の反戦歌らしい。谷川俊太郎の作詞、武満徹の作曲による。ベトナム戦争のさなかの1965年、「ベトナムの平和を願う市民の集会」のためにつくられたそうだ。是非You Tubeで聞いてみてください。いろんな歌手が歌っています。コーラスの定番曲らしいが、私は全く知らなかった。1.死んだ男の残したものはひとりの妻とひとりの子ども他には何も残さなかった墓石ひとつ残さなかった2.死んだ女の残したものはしおれた花とひとりの子ども他には何も残さなかった着もの一枚残さなかった3.死んだ子どもの残したものはねじれた脚と乾いた涙他には何も残さなかった思い出ひとつ残さなかった4.死んだ兵士の残したものはこわれた銃とゆがんだ地球他には何も残せなかった平和ひとつ残せなかった5.死んだかれらの残したものは生きてるわたし生きてるあなた他には誰も残っていない他には誰も残っていない6.死んだ歴史の残したものは輝く今日とまた来るあした他には何も残っていない他には何も残っていない
2016.11.10
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外出の時玄関の鍵がきちんとしまっているか気になる人がいます。4回も5回も鍵の確認に戻ります。ちょっと変わっていますが、普通の人と神経症に陥る人は大きな違いがあります。普通の人は、その行為を「私のクセ」と思っているのです。というよりもことさら意識していないのだ。目くじらを立てるほど悪いクセではない。むしろ慎重だから、泥棒には入られないからよいことだ。これは私の個性だ。私の特徴の一つだと無意識的に思っているのです。そのクセを敵視していないのです。そのクセを認めて受け入れている。慎重で取り越し苦労するという自分の特性を認めて、活かしてゆこうとしている人だと思います。クセと仲良く付き合っているのです。こういう人は、監視カメラを取り付けたりします。ダミーの鍵をもうひとつ付けて、用心することができます。「不安は安心のための用心である」を実践しているのです。これに対して神経症の人の受け取り方は違います。これはクセ等で簡単に片づけられるようなものではない。仮にクセとすると悪いクセである。大いに意識しています。現実に生活に支障が出ている。とるに足りないことが気になってイライラする自分はおかしい。また絶えず不快な気分になってつらい。自分は心配性という悪い気質を持っている。これは人と比べると弱点であり、欠点でもある。こんなものを抱えていては生きてゆけない。こんな悪い気質はなくしてしまいたい。そうでないと将来いつか発狂してしまうかもしれない。つまり神経症になる人は、そのクセを敵や異物とみなしているのです。当然果敢に取り除こうとあらゆる手段をとって闘うようになります。その結果精神交互作用で神経症を発症します。このことを生活の発見誌2016年10月号の47ページに分かりやすく説明してある。「症状(クセ)+(嫌な思い、これは病気だとの思い、治さなければ)」が一緒になった状態が「神経症」を作りだす。症状(クセ)が大きくても「嫌な思い」がなければ、神経症にはなりません。「嫌な思い」が大きいと症状(クセ)はささいでも、すぐに神経症に陥ります。森田療法は、「嫌な思い、これは病気だとの思い、治さなければ」という気持ちや努力やめて小さくする療法です。つまり嫌な思いを受け入れ、治すことをやめて症状を治そうとする精神療法なのです。ここで注目したいのは、症状(クセ)と(嫌な思い、これは病気だとの思い、治さなければ)が結びつかないと症状に発展することはないという点です。嫌な気分に翻弄されて関わり合うからこそ神経症に発展してしまう。それなのにどうして関わり合うのか。現実には、クセそのものは、いいも悪いもないのです。クセはクセとして存在しているだけなのです。クセとしての存在感を少しだけ示しているだけなのです。それなのに私たちは、自分たちの持っているクセがよいとかよくないと勝手に価値判断して、喜んだり苦しんだりしているのではないでしょうか。自分が自然に持ち合せているクセを、いいとか悪いとか価値評価をして関わり合っているのです。ここから問題が発生して苦しんでいるのです。森田先生は神経症が治るということを3つに分けておられる。一つは苦しいながらもなすべきことに手をつけられるようになる段階。二番目には、事実を自分の観念で持ってねじ曲げようとしない段階。つまり事実を受け入れて、事実に服従して生きていけるようになること。思想の矛盾が解消された状態です。三番目に、事実に対してよい悪いという価値判断を持ち込まないこと。二番目で事実を受け入れられるようになっても、事実に対していい悪い、正しい間違いだと価値判断をしているようでは、本当の意味で神経症から解放されることはない。一番目は比較的取り組みやすい。そして即効的に神経症はある程度は楽になる。二番目は、少し難しいが、森田理論学習ではいろんな手法がすでに提示されており、習得できないことはない。三番目は正直言って難しい。一言でいえば、風の吹くまま、気の向くまま、自然の流れ沿い、空に漂う風船のように生きていけるようになることでしょうか。事実そのものに身を任せて生きている段階です。でも二番目が身についた人は、是非とも三番目にも挑戦してみてほしいものである。私もぜひそういう段階に到達してみたいと思っています。
2016.11.10
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森田理論学習はどのように進化していくのだろうか。昔は本屋で森田先生、水谷先生、長谷川先生、高良先生、青木先生等の書籍を通じて森田療法と出会った人が多かった。現在は圧倒的にインターネットを通じて森田と出会う人が多いのではなかろうか。ホームページとしてはNPO法人生活の発見会、公益財団法人メンタルヘルス岡本記念財団、森田療法学会等数限りなく多い。あるいは私のやっているブログを通じてという人もいるかもしれない。今やYou Tubeには森田療法の著名な先生がたくさんでてくる。また森田療法を紹介したDVDもある。ここで興味を持った人はNPO法人生活の発見会の会員になり、森田理論の学習を始める人も多い。そこでは毎月機関紙として「生活の発見」が発行されている。体験談や理論学習、森田の情報が詰まっている。この機関誌を読むだけで学習が進む。さらに全国に100カ所以上もある集談会に参加して学習と支え合いが始まる。そこでは一泊学習会のような催し物もある。また、公益財団法人メンタルヘルス岡本記念財団は、全国で「心の健康セミナー」を援助しておられる。一般向けに広報活動をされているのである。以上が森田理論学習の現在の姿である。しかしながら、残念ながら、これらが有効に効果を発揮しているとは言い難いのが現状である。これは学習環境が大きく変化してきたからである。これからは私の大胆な予測で将来の森田理論学習の姿を紹介してみたい。将来現在の森田の唯一の自助組織である生活の発見会の集談会は、このままでは減少していくだろうとみている。その理由は、集談会が正常に運営されるためには、森田理論やカウンセリングに精通した参加者が最低一人は必要だと思う。それが満たされないと集談会として正常に成立しにくい。現在盛んに議論されている傾聴、受容、共感は集談会存続の必要条件ではあるが、集談会存続のための十分条件とは言い難いのである。これを食い止める方法はないのだろうか。私はあると思っている。私はネットとの融合に将来の光明を見出している。インターネットの普及をどう自助組織に取り組んでいくかによって、集談会の将来が決まるといっても過言ではないと思う。今やインターネットを使った、森田理論学習、講話、体験交流、個人相談、仲間作り、情報発信が可能な時代となった。それはここ20年で急激な変化を見せて激変したのである。今後その内容をさらに高めていく。それと集談会を有機的に融合していくことが森田理論学習の盛隆につながると思う。ここで今の集談会は全く意味がないと言っているのではない。集談会の存在は心の安全基地の役割を確かに持っている。でも今のままでは宝の持ち腐れになると言っているのである。こういうとパソコンを持っていない人はどうするんだという声が聞こえてきそうである。それは基本路線をきちんと整備したうえで当然ケアすべき課題であると思っている。さて生活の発見会では、すでにオンライン学習会の経験を積み重ねている。今後はさらに学習内容を見直して、ステップアップ学習会を立ち上げれば基礎的学習はインターネットで可能となる。これを系統的に集談会の中で展開していくことはとても難しい。ネット環境の中で全国展開として取り組むことで成果が上がりやすい。森田の真髄を捉えた講話は、たとえば東京で講話をされれば、スカイプを通じて地方の集談会で視聴可能となる。スクリーンに投影すればリアルタイムとなる。講師の顔もパソコン上に表示される。また講師に対して質問も自由におこなえる環境にある。マイケル・サンデル教授の中国、日本、アメリカを結んでの白熱授業はまさに時代の先取りであった。また現在予備校の授業はそうなっている。こんな時代にもうすでになっているのである。それらをDVDにして貸し出して、個人の学習の材料として利用できるシステム作りも必要となる。いつでも、どこでも森田理論学習ができる環境作りが重要になってくる。これを活用しないのはもったいない。肝心なことは、この変化に敏感に反応して、変化の波に乗ってしまうことである。個人相談、日記指導もメール等で可能となっている。システム作りができていないだけである。情報の発信は今やホームページが常識となっている。ホームページをさらに充実させて更新していくことは今や必須である。生活の発見誌は、将来は会員に対してネット配信に変わるよう気がする。これにより経費が格段に安くなる。ネット環境のない人に対して、別途手当は当然必要となる。ネットの欠点は集談会と違って相手の顔が見られないと言われていた。その認識は今や過去のものとなりつつある。スカイプを通じて最大9カ所までの画像表示ができるようになった。集談会同士を結び付けた学習会も可能となりつつある。我々は集談会の運営ノウハウやメリットは分かり過ぎるほど熟知している。今の重点施策としては、インターネットを使った森田理論学習の可能性を模索していくことである。それと今の集談会を結び付けていくのである。全国展開に持ち込んでいくのである。そこに森田理論学習の普及の盛隆がかかっていると思う。私のこのブログは来年5年目を迎える。5年間は毎日投稿する予定です。当初の予定通りである。6年目からは投稿頻度をかなり落してゆっくりと継続させてゆくつもりである。そしてホームページの立ち上げ。ステップアップ学習会の主催、メールやスカイプを利用した個人相談、メール相談、日記指導に力を入れた活動を展開してゆきたいと考えている。来年のブログ5年目はその準備期間を兼ねる。どんな障害が待ち構えているか、今から楽しみにしている。
2016.11.09
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行事などへの参加を一旦約束をしておいてドタキャンすることがある。先日友達とこのドタキャンの話題で盛り上がった。その時実際にドタキャンしなければならない場合は確かにあるということで一致した。しかし全部が全部そうとは思えない。友だちとの話では、そういうのは2割から3割程度ではないだろうかという。私もそう思っている。それならどうしてドタキャンするのか。それは一旦約束をしてみたものの、その日が近づいてくると気が重くなるのである。たとえば親しくない人と同じ部屋で寝ることが嫌になる。イビキが気になる。温泉にみんなと一緒に入ることに耐えられない。懇親会で大騒ぎするのがイヤ。その他経費のことなどマイナスのことが次から次へと頭に浮かんでイヤになってしまうのだ。その気持ちがどんどん強くなってくる。そしてついにどんな理由にして断ろうかと思案する。急にぎっくり腰になったとか、急に風邪をひいたとか、入院することになりそうだ、親戚や隣組の人が亡くなったとか、家族の者が急に入院することになったとか。だいたいみんな同じようなことを考えつくものだ。私も以前同様の理由でドタキャンしていた。自分がドタキャンのメールや電話を受けると、「ああそうですか」といったんは答えてみるものの、自分が責任者をしているイベントの場合は腹の中が煮えくりかえるほど腹が立つものである。それは宿泊を伴うイベントやバスなどを手配しての旅行などの場合、予算計画、宿泊のキャンセル、部屋割、食事のキャンセル、参加者名簿の手直し、資料等の準備などいろいろと修正を余儀なくされる。なかには交渉してもうまくいかないことがあるからだ。でも、この心理はよく考えると初二念だと思う。ここに軸足をおいて相手と対話してもよい結果にはならない。仮にここで感情を爆発させてしまえば、今後の人間関係は必ず悪化する。森田理論では、こんな時はいくら腹が煮えくりかえるほど恨んでもよいという。「あの人は以前もドタキャンしたことがある」「あの人は自分勝手で、協力して助けてくれることはない」「今度何か依頼してきた時は、反対にドタキャンしてせいぜい困らせてやろう」「ほんとに腹の立つ奴だ」「もうあいつに声をかけるのは止めてしまおう」等など。腹立ちの感情は抑え込まずによく味わってみることだ。でもその人に暴言を吐いてはいけない。腹の中がどんなに煮えくりかえっていても、役者のように上手に演技をすることだ。できるだけ迫真の演技をしてみることだ。ぎっくり腰になったと言われれば、「それは大変でしたね。安静にして早く治してくださいね。すぐにお見舞いに行けなくてごめんなさいね。キャンセルは気にしないでもいいですよ」本当は気になるのだがそういうことを口にしてはいけない。葬式に出席するという人には、「それはご愁傷さまでしたね。さぞかしお力を落としのことと思います。しっかり供養してあげてくださいね。ご家族の方によろしくお伝えください」そして自分は急いで、計画の見直し、キャンセル等の交渉等に取り組むのである。キャンセル料が発生すればなんとかギリギリのところで抑え込む。そうすれば相手の負担が少なくなって喜ばれる。また、あらかじめ実施の1週間前までに何人かはドタキャンする人がいると思っているとショックが少なくなると思う。トラブルがなく計画通りに事が運ぶことはまれなケースなのだ。ところで、ここでの初一念はなんだろうか。「あなたが参加してくれないのはショックだ」「せっかく会って話ができると楽しみにしていたのに、残念だなあ」森田ではここから出発して、その気持ちを「私」を主語にして相手に伝えることを勧めている。「私はあなたが参加できないと聞いてガクッときました」「私は今回あなたに会えなくて寂しい」「私はあなたに会えなくてとても残念だ」私メッセージは、初一念の素直な自分の感情を伝えていくので、相手にイヤな感情を与えない。ドタキャンのパターンは予測できるので、パターンごとに役者になりきって迫真の演技をあらかじめ考えておくこと。うまく演技できればそれ自体を楽しめるかもしれない。また初一念の感情をよく思い出してみることも必要だ。初一念からの行動を心がけていると不快な感情は速やかに小さくなっていく。
2016.11.08
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「純な心」の適用例を昨日投稿した順序に沿っていろいろと検証してみたい。森田では入院生の人が、その辺にあった皿を落として割ってしまったという話がよく引き合いに出される。1、 初一念の感情は、「しまった。手が滑ってしまった。おしいことをしてしまった。残念だ」初二念は、「先生にきつく叱られるかもしれない。そうなったらイヤだな。怖いな」である。このどちらの感情も自然に湧きでた感情だ。価値判断なしに感じているのがよろしい。その感情を素直に味わってみる。それしかできない。2、 次に初一念はすぐに通り過ぎてしまう。すぐに初二念にとって代わってしまう。でもここでもう一度思い出してみることだ。初一念はなんだったのかなと。そうだ。「しまった。手が滑ってしまった。おしいことをしてしまった。残念だ」これが思い出せてこの感情を大事にしようと思うことができたらたいしたものだ。「純な心」の体得はここが大変重要になる。3、 初一念に気づいたら、その気持ちをその場に居合わせた人に伝えてみるのだ。「しまった。おしいことをした。もう元には戻るまいか。残念だ」そのことにエネルギーを使うことが事態を好転させる。その気持ちには、言い訳や自己弁護がない。こわれた皿のことに向いているので、その場にいた人と同じ気持ちを共有できる。けんかにならないで、同情してもらえるかもしれない。4、 引き続いて湧き起ってきた初二念はどう取り扱ったらよいのか。「こんなところに皿をおいて置くことが間違いだ。責任はその人にある。私は全然悪くない」「先生にきつく叱られるかもしれない。そうなったらイヤだな。怖いな」「そうだ。割れた皿をみつからないように隠して捨ててしまおう」「瞬間接着剤で分からないようにくっつけけたらどうだろうか」「これと同じような皿を買ってきてもどしておこう」「自分はそそっかしくてつくづくイヤになる」その他いろいろ。観念で考えることなので、いろいろと言い訳や責任転嫁、自己嫌悪の感情が湧き起ってくる。それらの感情は湧きっぱなしにしておく。肝心なことは感じるだけにとどめておく。口に出そうになっても少しだけ我慢をする。是非そうしてほしい。今まで我慢できていなかったら、これからはやり方を変えてみる。自然現象には言いも悪いもないのだ。不快感を払拭するために感情を爆発させたり、相手に責任転嫁したり、責めたりしてはならない。そうすればどんな結果になるかはあなたが今まで何回も失敗してきたことではないのか。どんなつらい感情でも時間がある程度経過すれば、楽になってくる。感情の法則が教えてくれているとおりである。それは通り過ぎない暴風雨はないのと同じことだ。そのつらい感情を早く押し出してゆきたければ、その方法がある。それは目の前のなすべき課題に取り組んでいくことである。当面は、初一念を思い出して、どう「私メッセージ」で自分の気持ちをどう相手に伝えていくのかを工夫してみるとよい。つまり新しい行動によって、新しい感情を発生させるという方法である。「純な心」を実践して行動できるようになると人間関係はたちまち好転してきます。なぜなら、もともと相手と対立する原因を作らないからです。またこれは石原加受子さんの言われる自分中心の生き方であり、他人の思惑に振り回される他人中心の考え方とは一線をおく生き方となります。
2016.11.07
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本日は江田島市のオリーブ祭りにチンドン演奏を頼まれて行ってきました。これは太鼓の演奏会の模様です。向こうに波穏やかな瀬戸内海が見えます。これは広島県尾道市の圓鍔記念館の彫刻です。これは先日紹介した11月封切になる映画「この世界の片隅に」の紹介です。この女性の人がすずさんです。背景は戦艦大和を作った広島県呉市の全景です。昭和20年3月、終戦前にアメリカの総攻撃によりすべて焼けつくされました。
2016.11.06
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森田理論の「純な心」を生活の中に応用できるようになったら生活は一変する。ポイントを書いておきたい。まず問題のある出来事が発生する。たとえば自分の不注意で仕事のミスが発生したとしよう。普通の人の初一念は、やってしまった。どうしよう。気が動転する。ショックで放心状態になる。ところが、この初一念で感じることはほんの一瞬で消え去ってしまう。そういう特徴があるということをしっかりと理解してほしい。この理解が不十分だと次へ進むことができない。引き続いて初二念、初三念というものが湧き起ってくる。ミスをしたことは仕方がない。人間だれでもミスはする。ミスを誘発するような仕事のシステムや職場環境に問題がある。自分だけのせいではないのだ。でも上司から罵倒されるだろうな。同僚からは能力のない奴だと軽蔑されるだろうな。等など果てしがない。つまり初二念は観念の産物でありどんどんと拡大していく。それを野放しにしていると、精神的に苦しくなってくる。そこで言い訳を考えたり、ミスを隠したりすることを考えるようになる。あげくの果てには暴言を吐いたり、破れかぶりになって暴力に訴えたりする。「純な心」ではどう対応するか1、 初一念、初二念で感じたことは自然現象である。どんなにイヤな感情であっても、味わう気持ちが大切である。解釈や対応はしてはならない。ただ素直に味わうことだ。2、 初一念はすぐに消え去ってしまうという特徴がある。最初に感じたことは何であったのかを遡って思い出すようにする。しまった、心配だ、悲しい、苦しい、残念だ等である。この感情を大切に扱うのが「純な心」の精神だ。3、 初一念を思い出したら、そこに軸足をおいての言動に心がける。積極的にその気持ちを相手に伝える。その時に湧き起った初一念を口に出してみる。私はこう思った。こう感じた。こうしてくれたらとてもうれしい。私メッセージで、私を主語にした会話を心がける。初一念から出発すれば人間関係は悪化しない。この場合は、「やってしまった。ショックだ。どうしよう」等という言葉が自然に口に出てくる。そこには言い訳などの観念が入り込む余地はない。4、 間髪をおかずに湧き起ってくる初二念はどう扱うか。その時の感情をよく味合うことが大切である。味わうだけにする。それに基ずいた、対策は立てる必要はない。ここでなすべきことは、初一念を思い出すことに注力する。エネルギーはそちらの方に振り向ける。憤懣やるかたない感情が増悪してしまうのではないかという疑問が湧いてくるかもしれない。そう感じるとすればそれは美しき誤解である。それはあなたが初二念に基づいてやりくりを始めたために、精神交互作用で果てしのない泥沼に陥っているのである。感情の法則を思い出してみてほしい。どんなつらい腹立たしい感情であっても、放置しておけば一山昇って下降してくる。自然の流れに任せておけば終息してくるのだ。まとめてみると、問題のある出来事が発生した場合、いろんな感情が湧き起ってくるが、初一念の感情と初二念の感情を明確に区別すること。そして肝心なことは初一念に基づく言動を心がけていくということである。これを身につけることであなたの生活は瞬く間に一変することを確約したい。
2016.11.06
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私の経験です。私はその当時中間管理職で部下として男性2人と女性の社員が6名いました。ある時、私が知らない間に主力メーカーの営業マンが、私を除く全員を飲食接待していたということがありました。あとからそのことを部下から聞いてとても腹立たしく思いました。普通メーカーの接待と言うのは、その組織の責任者に声をかけることが多いものです。それを差し置いて内緒で部下全員に声をかけて、自分だけが仲間外れにされていることに無性に腹が立ってきたのです。そこでメーカーの営業マンに電話して散々嫌味を言ってしまいました。そういう態度ならお前のところからの仕入れは一旦外させてもらうというようなことを言ったと思います。すると支店長と営業マンが飛んできていろいろと言い訳をしていましたが、それは火に油を注ぐようなもので、私のイライラはどんどん膨れ上がり仕事が手に付かなくなりました。この問題を森田理論の「純な心」で整理してみたいと思います。腹が立って憤懣やるかたないというのは、「純な心」でいうと初二念だと思います。では初一念は何だったのか。「ショックだ。自分には人望がないのか。自分もみんなと一緒に誘ってもらいたかった」です。よりによって自分だけが無視されたことでつらく悲しい気持ちになった。でも私はその悲しいという感情をしみじみと味わうことはしなかった。私は「純な心」について学習していなかったので、初一念の感情を味わうこともなく、無視してしまったのだ。普通「純な心」を学習していない人はほとんどそうなってしまう。それは腹が立ったという初二念の感情が間髪を置かずにすぐに出てきたからである。そちらの方に気をとられてしまうからである。そしてうかつにも、これをもとにして行動を起こしたのである。と言うよりも当然にといった方がよいかもしれない。無意識的に怒りを爆発させて、精神的にスッキリしようとしていたのである。怒りを爆発すると少しは気分がせいせいとした。ところがその後のメーカーとの付き合いはぎくしゃくとして、長らく以前の関係のようにはゆかなかった。益々敬遠されてしまうようになった。そして他の部署の課長と仲よくするようになったので、対人恐怖症の私としては益々分が悪くなった。それをきっかけにして部下との関係も悪くなっていった。「純な心」を学習している今だったら対応を間違えない自信はある程度ある。まず、「ショックだ。自分もみんなと一緒に誘ってもらいたかった」という初一念を大事にする。ここを出発点にすると間違いないのだ。その感情を十分に味わう。そして自分の気持ちを「私メッセージ」として相手に伝える。初一念は積極的に言動に反映させた方がよいのだ。次に湧き起ってくる、無性に腹が立ったという初二念も十分に味わってみる。憤懣やるかたない感情を味わってみるのである。心の中で殺してやりたいほど相手のことを憎んでもよいのだ。この感情も十分に感じることが大切です。でも初二念は味わうだけにする。ここが肝心なところだ。初二念は決して言動には反映してはならない。ここを間違っている人が非常に多い。以前の私もそうだったのだ。その結果人間関係が悪化し孤立していった。仕事がやりづらくなり、生きることがつらくなっていたのだ。初二念からの言動はうまくいったためしがない。さて、森田理論の感情の法則では、どんなに激しい怒りの感情でも、ひと山越えるとしだいにおさまってくるという。永遠に続く怒りというものはない。だからおとなしくじっと持ちこたえていればよいのだ。それなのにその怒りを言動として吐き出すと、一山下るのではなく、まだまだ上り続けるということになる。火に油を注ぐことになるので簡単には収まらなくなる。だから初二念はどんなに激しいものであっても一旦持ちこたえるというのが正解である。さらに森田先生は、持ちこたえるというだけではなく、心を流転させる方法を勧めておられる。つまり目の前のなすべきことに取り組んでいけば、意識がその怒りから離れていく。新しい行動によって新しい感情が生まれてくる。するとその怒りの感情は速やかに終息に向かうと言われている。そういう意味では、ここでとるべき新しい行動は、初一念に基づく「純な心」を使った私メッセージの発信をお勧めしたいのである。まとめて見ると、初一念の感情はともすると見落としてしまう。でも必ず初一念の感情はあるはずなので、見落としても遡って思い出してみることが大切である。次に初一念も初二念の感情も両方ともよく味わってみる。それから、初一念の感情はそのまま相手に言動として吐き出してみる。「純な心」からの言動は相手とけんかにならない。かえって同情されることの方が多い。初二念の感情は絶対に言動に表してはならない。心の中ではどんなに相手のことを恨んでもよい。感情の法則を応用して嵐が過ぎるのを待つという気持ちを持ち続けなければならない。それを促進する方法がある。つらい気持ちを持ちこたえながら目の前のなすべきことに取り組んでいくのである。これらをすぐに習得するのは難しいと思う。うまくいかないと言って嘆くことはない。最初からうまくいくことは難しい。10回のうち2回か3回うまくいけばきっと物にすることができると思う。是非とも身につけてもらいたいものである。
2016.11.05
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私は人生の醍醐味は2つあると思う。心の底から湧きあがってくる喜びはどんな時に感じることができるのか。刹那的快楽ではなくしばらくは継続する喜びはどんな時に感じることができるのか。一つは今までできなかったことができるようになった時。さらに課題や目標を持って挑戦して達成できた時。鉄棒で逆上がりができなかった時、腕の筋肉を鍛えて体を持ち上げられるようになり、はじめてできるようになった時はうれしかった。これでみんなと同じになったと思った。自信が出てきたことを思い出す。またはじめてトライアスロンに挑戦して完走できた時もうれしかった。出場までの2年間の練習が苦しかっただけにその喜びは格別であった。こういう経験は多くの人が持っておられるのではなかろうか。もう一つは、他人に感動や喜びを与えた時。相手が感動の涙を流してくれた時に、自分もその人以上に感動することができる。生きていてよかった。人生捨てたものではない。望外のうれしいこともあるのだと思うのはこんな時だ。先日対人恐怖症でずっと悩まれておられた方から手紙をいただいた。その手紙には、私のような何もしゃべれない人間でも、集談会で受け入れてもらえた。「今のままのあなたでいいんですよ」と受け入れてもらえたことが今現在大変心の支えになっていると書いてあった。私はその人は現在別の集談会に参加されていたので、うっかりお名前と顔を忘れてしまっていた。でもその方にとっては、その時の私の対応が心の中に生きていて、私の言葉に支えられて前向きに生きているということを聞いて私の方が感激してしまった。私の田舎の住職さんがこんな話をしてくださった。昔は姥捨て山があって、飢饉などの時口減らしのために老人を山奥に捨てに行ったそうだ。ある息子さんがお母さんを籠に入れて姥捨て山に行きました。道中背負われた母親が小枝をポキン、ポキンと折っては地面に落していたそうです。息子さんは思いました。「木の枝をたどってまた家に戻ってこようとしているのではないか。気丈な母親でも最後は自分のことしか考えていないのだな」そのうち、山奥の姥捨て山に着いたそうです。母親が言うには、「いよいよお別れじゃ。身体に気をつけるんだよ。帰る時は小枝を落して目印にしておいたからそれを頼りに、無事に家に帰っておくれ」それを聞いて若者は泣き崩れました。「自分は母親を捨てようとしているのに、母親は自分のことをこんなにも案じてくれている」自分の命を引き換えにしても自分のことを気にかけてくれている。このようなケースはめったにあることではありません。でも自分の生活の範囲内で感動を味わうことは人間にとって必要なことではないのか。人の役に立つことを見つけて実行に移し、お互いに小さな感動を味わってみる。このことが、人生の醍醐味を味わうことにつながるのではないかと思います。
2016.11.04
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私の森田の学習の仲間(中国、四国、兵庫県の会員)は、1年に一回、持ち回りで1泊2日の研修会を実施している。今回は広島県尾道市のふれあいの里であった。企画立案、実施は私たち中国ブロックの担当であった。今回は主に4名で相談しながら1月から計画を立てて実施にこぎつけた。着々と準備して努力して富士山登頂を果たした思いだった。結果的には参加した多くの人から、楽しい学習会で満足したと言ってもらえた。「ここまで準備するのは大変だったでしょう」とねぎらって下さった。いっぺんに疲れが吹っ飛んでいった。計画段階ではトラブルが相次ぎイヤになる場面も多々あった。みんなで知恵を出し合っているうちに仲間意識が高まってきたように思う。私個人としては、森田理論でいう貴重な「努力即幸福」の体験学習をさせていただいたのではないかと思っている。研修会場の決定、世話役の依頼、参加者の勧誘のための案内書の作成、交通アクセス、経費予算の策定、研修内容の決定と準備、講師の決定と依頼、懇親会の進め方などが大きな柱であった。それらを大まかに決めたのが春ぐらいだった。その後は実施項目を月毎に割り振って少しずつ着実に準備していった。それぞれに大きな問題や課題がイモ蔓式についてきた。その解決策を項目別に思いつく限り書き出していった。世話役の人からも随時出してもらい、一つ一つつぶしていった。意見の対立することもあり、くじけそうになったがみんなの熱意に後押しされてなんとか逃げ出さないで済んだ。ある程度めどが立ってくると、弾みがついてきた。そしてもう一工夫して、みんなに感動してもらえる研修会にしたいと言う欲が出てきた。特に研修内容や懇親会の進め方に力が入った。パネルディスカッションの内容や「森田理論学習のテーマ集」の作成を思いついた。それから神経質な人は好奇心旺盛でいろんなことに挑戦している人が多い。それを持ち寄って作品展の発表会のようなものを企画してはどうか。さらに楽器演奏、踊り等の隠し芸を持っている人もいるので披露してもらってはどうか。カラオケではプロ顔負けの人もいると聞いている。そういう人にこういう機会に歌ってもらうのはどうか。その場でお願いするのではなく、前もって打診して念入りに準備して実施してみようと思ったのである。ありきたり研修会ではなく、参加した人に望外の楽しみや喜びを与えるような研修会にしたい。そしてまた来年の研修会にも是非参加したいと思ってもらえるにはどうしたらよいか。こうなると、神経質性格の心配性という性格がプラスに働いてきた。小さい気づきが泉のようにこんこんと湧いてくるようになったのだ。講師の精神科医の先生も、「神経質の性格を存分に活かされた素晴らしい研修会でしたね」と言われて、涙が出そうになった。これがまさに「努力即幸福」の世界なのだなとしみじみと感じました。
2016.11.03
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現在生活の発見会の集談会では、傾聴、共感、受容がとても重視されています。それは、今までの行き過ぎたアドバイス偏重の反省の上に立ってのことだと思っています。それに対して異論は全くありません。むしろその方向を強力に推し進める立場です。それでは集談会においてアドバイスは必要ないのでしょうか。私は必要だと思います。今日はこの問題を考えて見たいと思います。みなさんこんな経験はありませんか。パソコンがフリーズしてパニックになった。どうすればいいのか分からなくなった。そんな時にパソコンに詳しい人に聞いてみたら、「なんだそんなことか」と言って教えてもらってすぐに問題が解決した。あるいは、車のナビで目的地を設定するやり方がよくわからない。マニュアル書を読んでみる。自分でもいろいろと操作して実験してみるのだがどうもよくわからない。たとえば高速道路の乗り口や降り口の設定。あるいは好みの一般道の指定の仕方。こんなときでも、よく知っている人に聞いてみるとすぐに解決することがある。何だそういうことだったのかと理解してしまえばうれしくなってしまう。聞いて教えてもらうとすぐにやり方を覚えてしまう。設定方法が分かるとナビは便利なものだ。もっと使いこなしたいと言う意欲が湧いてくる。友人などのアドバイスが自分の行動にやる気と意欲をもたらしてくれたのである。だから大きな壁にぶち当たっている時のアドバイスはとても役に立つということだ。アドバイスがなければ、ナビに振り回されていつもイライラさせられる。こんな役に立たないものはもう使いたくないということになってしまう。問題が解決することがなく、進歩がないのである。ここでのアドバイスは、とても貴重である。こうしたアドバイスは、たとえば炎天下でのどが渇いて熱中症で倒れそうな人に、その近くにある水飲み場を教えてあげるようなものである。教えてもらった人は大変ありがたい。このような過酷な状況下にもかかわらず、傾聴、共感、受容中心の対応をされると腹が立つ。そんな不要なことをしないで、早くのどの渇きを癒す方法を教えてくださいと言うことになる。実はカウンセラーにも来談者中心療法でクライアントの話を傾聴するばかりと言う人もいる。信頼関係ができているのに、いつまでも次の段階に進まないので、かえってクライアントが不信感を持つのである。アドバイスを集談会に当てはめるとどういうことになるだろう。森田先生は休めの姿勢をとる時に、片方の足に力を入れて、もう片方は力を抜いていざという時にすぐに変化に対応できるように言われていました。集談会では、普段は傾聴、受容、共感に重点をおいて相手を受け止めていくことを基本にしておくのが良いと思う。そして相手がどうにもならなくなって、助けを求めてきた時は、積極的に適切なアドバイスをおこなっていくスタンスを持っておくこと。まとめてみると、アドバイスはもろ刃の剣だという認識を持つことが大切だと思う。アドバイスがピタリと決まれば相手にとってはとても役に立つ。ところが不必要なアドバイスは後々まで大きな障害を残していく。アドバイスはタイミングとその内容がとても重要であると思う。タイミングとはたとえば子供が川でおぼれかかっているとする。その時浮袋や縄を投げてあげるのだ。あるいは泳ぎが達者なら自ら助けにいく。子どもにとっては、命の恩人ということになる。それをのべつまくなしに助けに向かう。あるいは「そんな危険なところに行くな」と指示するのは過保護となる。少々危険な目に合ってそれを乗り越える体験は必要なことだ。過保護は、本人が困難に挑戦して乗り越えようとする機会をことごとくむしり取ってしまうことになる。いつまでたっても親離れできない。自立の道へと進むことができない。集談会でのアドバイスのタイミングも、基本は相手が聞いてきた時やどうしても打開策が見つけられない時に限ることだ。次にアドバイスの内容である。優れた野球のコーチは選手をよく観察している。こうしたらいいのだがという自分の意見は持っている。つまり自分なりの打撃やピッチング理論を持っているのである。そういうのものがないと相手に合わせた適切なアドバイスや指導はできない。集談会ではどうか。森田的な生活をしている。森田理論に精通していることが肝心である。森田理論を実際に生活に応用してどうだったのか整理しておく。あるいは森田の基礎的学習を積んでおく。あるいは私の提唱している森田理論全体像を理解して、4つの柱を深耕して学習しておく。これらが適切なアドバイスのもとになる。ここではアドバイスをするということは、けっして避けてはならない。避ける必要もない。ただしアドバイスは、最初からそれを目的としてはならない。そしてタイミングと内容がピタッと決まらなければ、弊害が大きいということを理解していただきたいと思う。このアドバイスは、子育て、会社などでの上司と部下の関係にも応用できるものである。
2016.11.02
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精神科医の和田秀樹さんの話を紹介します。和田さんという方は、森田理論にとても理解のある方です。とても好意的に説明されています。怒りや不安を紛らすためにはどうすればいいのでしょうか。1つには、怒ったまま、不安なままでいいからやるべき仕事を片つけることです。すべてでなくてもいいです。「せめてここまで」というノルマを自分で決めて、最低限の満足感を得ることです。どんな小さな満足感であっても、それが得られれば怒りや不安はずいぶん小さくなります。もう一つは、当たり前の暮らし、いつも通りの暮らしを実行することです。ちょっと変ないい方ですが、要するに仕事や職場の人間関係で生まれたイヤな感情は、私生活をきちんと実行することでほとんど消えてしまうのです。たとえばイライラして仕事が手につかない1日だとしたら、早めに帰宅して好きな料理を作ってみたり、部屋を片づけてスッキリさせ、ゆっくり本でも読むようなことです。家族がいるなら妻や夫、子どもたちとその日の出来事を話し合ったり、ゆっくりと食事を楽しむようなことです。そういう時間を持つことができれば、自分の感情に対して安心感が生まれます。仕事のことは、私生活と関係ないし、仕事がダメでも、私生活がちゃんとできるなら「まだまだ大丈夫」という気持ちになるからです。気晴らしが、もし、私生活からも逃げてしまうようなことなら安心感は生まれません。お酒を飲んだり、パチンコなどのギャンブルなどは、イヤな感情から逃げるためにやることですから、安心感は生まれてきません。私生活が乱れてくれば、自分がまだイヤな感情にふり回されていることを認めるしかなくなるからです。(感情革命 和田秀樹 講談社 75ページより引用)これを森田理論でいうと、まず症状で苦しい時は、イヤイヤ仕方なくでもよいので目の前の仕事や日常生活に手を出していくということです。ぼちぼちとできる範囲でよいのです。今までできていなかったことが1つでもできればよしという気持ちで始めることです。それで弾みがついてくると、徐々にいろんな実践課題に取り組んでゆきます。それもできるようになったら、気のついたことをメモして忘れないようにします。いつもそれを取り出して、優先順位の高いもの、やりやすいところから手掛けてゆきます。決して100%を目指さないでください。60%できれば十分です。そして次に、規則正しい生活を心がけましょう。日常茶飯事に丁寧に取り組んでいくことです。仕事は生活費を稼いでくるためという目的をはっきりさせて、のめり込まないことが大切だと思います。それよりも自分の生活第一で取り組むことです。自分と自分を取り巻く人たちの生活がよくなるようにエネルギーを傾けることです。自分と家族のために日常生活を規則正しく、丁寧にこなしていくことです。生き方としてはシンプルで、当たり前のことを当たり前にすればよいのです。
2016.11.01
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