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この日は「中田寺」の「本堂」では法要が行われていた。よって遠くから正面を。扁額は「慈悲」であると、今回も高校の学友から。「浄土宗開宗八百年記念」碑。「法然上人 御歌『月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ』月影とは月の光、すなわち阿弥陀如来のお慈悲のみ光です。このみ光はあまねく一切の人々をお照らし下さるが、その光をながめなければ、お慈悲に気づくことが出来ないのです。阿弥陀様はすべての人々をお救い下さるが、そのお救いを願わず、喜ばず、お慈悲に背をむけるものは、如何ともしがたいのです と。「佛足石」。「本堂」前のピンクの「枝垂れ梅」。「記念碑宗祖法然上人開宗八百年を明後年に控え、当山檀信徒一同報恩の誠を集め、本堂を中心に着々と整備を計り、如来のみ栄えを顕わすべく念佛を巳証の信となし、宗祖の遺徳を茲に宣場せんとす。当中田町の戦後の発展は誠に目覚ましく、昭和二十年代頭初の百七十余戸は今日、六千余戸の多さに達し、生活環境の変転は遂に土葬を許さざるの状勢に至れり。この時に当たり、本堂南側に墓地を設けし者一同、当山十九世住職香川隆善師に相計り火葬への必然性を考慮して整然たる墓地とするべく区画をととのえ、以って祖先の諸精霊の冥福を祈り佛祖に対し報恩の微意を捧げ奉らんとす。願わくは、宗祖 吾等の事業完遂を納受し哀愍護念し給い、吾等と吾等の子孫の上に永久に加護あらんことを。昭和四十七壬子四月二十三日」「地蔵尊」と「歌碑」。「夢の世に あわれはかなき 身を知れと 教えて帰る子は 仏なり」。和泉式部の歌に「夢の世に あだに はかなき 身を知れと教えて帰る 子は知識なり」とあるが。境内の左側の墓地の最前列には戦争での戦死者の大きな石塔が並んでいた。こちらは、「力士 戸田川の墓」であると。戸田川鷲之助(とだがわしのすけ)は享保20年(1735)に中田の小山家で生まれました。江戸角界の名門2代目玉垣の弟子として入門し、宝暦6年(1756)5月の上方番付では戸田川鷲之助の四股名で小結、翌年の京都興行では関脇に、やがて玉垣親方となり、角界第一人者が名乗る3代目雷(いかづち)権太夫を襲名、将軍家上覧<(じょうらん)相撲を実現させ、相撲の黄金時代を築いた人であるとのこと。「故近衛兵伍長 勲八等功七級 鈴木才助之墓」。「故陸軍歩兵軍曹 勲七等功七級 小山由蔵之墓」。「故陸軍歩兵伍長 功七級 小山順治郎碑」。故陸軍工兵 二等卒勲八等 鈴木○吉之墓」寺務所であろうか。「大本山増上寺吉水講 中田寺支部」の木札が。戦後の混乱期に浄土宗諸師により発足した吉水流詠唱の集いであり、吉水講の吉水とは、法然上人が当時住した辺りを吉水の地と云うことに由来。「中田寺」の入口左にあったのが「小山稲荷」。扁額「小山稲荷」。「小山稲荷」の「社殿」。赤の涎掛けをつけた狛狐が対で。さらにズームして。「中田寺」駐車場隅にあった「道祖神碑」。横浜市泉区中田北2丁目12付近。近寄って。そしてその先にあった石碑。真新しい「中田学舎誕生の地」碑。「明治六年(一八七三)七月 第十中学区鎌倉郡第二百六番小学」。石柱側面には「無限責任中田信用組合創立の地」とある。中田信用組合は浄土宗祖法然上人遠忌700年記念事業として創設されたようだ。「奥津喬次郎翁頌徳碑」。昭和36年(1961年)に浄土宗祖法然上人遠忌750年記念事業として建立され、後にここに移設されたものであろう。「奥津喬治郎は明治7年(1874年)生まれで、中田信用組合の創設者であり初代組合長を勤めた。昭和22年(1947年)に74歳の生涯を終えている。奥津喬次郎翁頌徳碑は昭和36年(1961年)にJA中田横に建てられた。信用組合の精神と奥津喬次郎翁の指導方針は受け継がれ、戦後は農協に発展し、現在のJAに結びついている。面白いことに、中田信用組合創立は浄土宗祖法然上人遠忌700年記念事業として、奥津喬次郎翁頌徳碑は浄土宗祖法然上人遠忌750年記念事業として建てられていることだ。中田寺との係わりの深さが知れる。なお、浄土宗祖法然上人遠忌800年には取り立てて記念事業は行われなかったようだ。明治5年(1872年)に学制が頒布され、小学校が設立されるが、それ以前の江戸中期頃から寺子屋があった。江戸時代から明治の初期にかけて、寺子屋師匠の学恩に報い死後の菩提を弔うために筆子と呼ばれた教え子たち筆子塚を造立した。中田寺墓地にも小山三郎兵衛の筆子塚が残っている。鎌倉郡ではお寺に学舎(小学校)が設けられた例が多い。文献が見つからないのだが、おそらくはこうした寺小屋跡か中田寺に中田学舎が誕生したのではあるまいか?」とネットより。駐車場から「中田寺」を見る。そして「中田寺」を後にして、県道22号線・長後街道の「中田小学校入口」交差点に出る。交差点を渡り左に進むと右手の奥にあった小さな「神社」。「向森稲荷」。そして横浜市営地下鉄ブルーラインの駅・「中田駅」に到着したつもりで下って行ったが、実はここは「中田駅自転車駐車場」であることに気が付き、途中から引き返したのであった。ここが横浜市営地下鉄ブルーラインの駅・「中田駅」入口。エスカレーターで降りて行く。ホームに到着。そして「湘南台」行きの電車に乗り込み帰路についたのであった。この日の「歩数」は33902歩。頑張りすぎました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.31
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「御霊神社」を後にして、県道22号線・長後街道に向かって進む。「中田町宮の前公園」が左側にある「東中田小学校入口」交差点まで進む。交差点角の公園入口には2基の石碑が。二基の「庚申塔」「中田町宮ノ前公園」の南端、東中田小学校入口の信号柱の傍らに2基の庚申塔が立っていた。横浜市泉区中田東4丁目58。大きい方は元禄15年(1702)2月、南ふじ沢道、北八王子道と刻まれて、道標もかねていた。小さい方は安政7年(1860)2月の建立。「石巻康敬の墓」に向かって左折し住宅街を進み右に折れる。右手に「横浜市地域史跡 石巻康敬の墓」があった。江戸初期に中田村の領主になった石巻康敬の家は、戦国時代に小田原北条氏の評定衆や相模西部の郡代を勤めた家で、本国は愛知県姫街道沿いの、石巻山を越える本坂峠を下った辺りです。康敬は中田の石巻館で23年間を過ごし村の発展に力をそそぎました。慶長18年( 1613 ) 10月1日80歳で逝去、持仏の観音堂(稲葉堂)の地であったこの地に眠っています。横浜市泉区中田東4丁目56-19。「横浜市地域史跡 石巻康敬(いしまきやすたか)の墓石巻下野守康敬は小田原北条家の重臣で北条氏康、氏政、氏直の三杙に仕えた後徳川家の旗本に入り、中田村を知行し、慶長十八年(一六一三)八十歳で逝去しました。その地に七代の孫、康福が康敬の一五〇回忌の法要(宝歴十ニ年、一七六ニ)に当って、撰文を岡井孝先に依頼して墓碑を建立しました。」石段を上がって中央墓石に近づく。「墓誌」碑。「墓誌江戸時代中田村領主鎮守御霊神社再興中田寺開基石巻康敬殿法名至徳院殿譽歓翁宗喜大居士慶長十八年十月一日逝去まで二十余年当地開発に務む宝暦十二年九月康敬百五十回忌法要に当たりその末裔康福墓碑を建立す。爾来二百十二年を経過今年法然上人浄土開宗八百年に当たり当山慶讃事業として開基の遺徳を偲び墓所の大改修を志し完工し報恩謝徳の微意をささげまた永く当地開発の一端を後世に伝えることを願い謹んで誌す。維持昭和四十九年浄土開宗八百年記念修復昭和四十九年十月吉詳貯徳山盁満院中田寺十九世住職香川隆善撰」「故従五位下(じゅうごいのげ)下野守石巻君墓」と刻まれた墓石が中央に建ち回りは岩垣で囲われていた。彼の功績をたたえる和歌『中田寺の御詠歌』の『福田の 石巻さまの 御功徳 貯めたる中に 念佛聞こゆる』が刻まれていた。そして来た道を引き返し県道22号線・長後街道に交わる道を渡り奥に進むと向かいには石の鳥居の小さな「社」があった。「稲荷社」。横浜市泉区中田北2丁目14。「社殿」。そして次に訪ねたのが「中田寺」。横浜市泉区中田北2丁目11-41。江戸期に中田村の領主であった石巻康敬(いしまきやすたか)が開基となり、慶長17年(1612)に本誉良廓上人(ほんよりょうかくしょうにん)が創建した、本尊阿弥陀如来像を置く浄土宗の寺。境内には石巻康敬の持仏堂であった十一面観音を置く稲葉堂や、「南無阿弥陀仏」と刻まれた十七世住職香川法隆上人(かがわほうりゅうしょうにん)の頌徳碑、当地小島家出身の中田寺二世辨良上人(べんりょうしょうにん)の墓や力士戸田川の墓があった。寺号標「浄土宗 貯徳山 示福院 中田寺」正面に「山門」。山門屋根に上がる蕾付き牡丹の飾り瓦が印象的。扁額「貯徳山」。「貯徳山 示福院 中田寺」碑。ここにも『中田寺の御詠歌』の『福田の 石巻さまの 御功徳 貯めたる中に 念佛聞こゆる』が刻まれた碑が。「山門」を潜り境内に。正面に「本堂」。「森菊松君碑」。日露戦争で明治37年(1904年)に戦死した陸軍上等兵であると。「六地蔵」。「六地蔵」の横に地蔵さま。「稲葉堂」。扁額にも「稲葉堂」と。「慰霊塔」。「鐘楼」。鐘楼の屋根には「蕾付き牡丹の飾り瓦」が。「梵鐘」「南無阿弥陀佛」碑。(昭和15年(1940年)銘)と刻まれた香川法隆上人の頌徳碑(しょうとくひ)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.30
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この日は、自転車で5分程度で行ける日本大学湘南キャンパス の桜を愛でに向かいました。残念ながら曇り空になってしまいましたが。小田急線の踏切を渡り日本大学湘南キャンパス内に。ここは、昔は右手にも桜の大木がありました👈リンク が、何年か前の強風で数本が根こそぎ倒れてしまった事もあり、一般道であることもあり全て伐採されてしまいました。左手は、「日本大学藤沢高等学校」の野球グランドが。その大木の切り株が残っています。右手に「日本大学生物資源科学部」の高層校舎。そして日本大学生物資源科学部のキャンパス内にある陸上競技トラック。観戦用のベンチに沿った桜並木。左手に「日本大学藤沢高等学校、中学校、小学校」の正門横の桜。右に折れ、「日本大学生物資源科学部」の高層校舎へ向かう桜並木の下を歩く。更に満開なれば、ピンクの色合いが増すのであろうが。こちらは五分咲きであろうか。陽光が欲しいのであったが。桜のトンネルの下を進む。太い幹に可憐に。観客席付き全天候トラック付きの人工芝サッカーグラウンドが右手に。その先の桜並木の奥が小田急線が通っているのである。人の数も少なく。しばし、上を見上げながら。再び人工芝サッカーグラウンドを振り返って。100mトラックを見る。この時期に、桜の下でサッカーの観戦が来年は出来るのであろうか?ややピンクの色合いが増して。14階建ての高層校舎・本館を見上げて。平日にもかかわらず、人っ子一人いないグランド。そして正門に近い場所には「オオシマザクラ」の巨木が。白い桜の花を見上げて。高層校舎の最上階には「日本大学」と。そしてUターンして再び桜のトンネルの下を歩く。しばし、桜のトンネルを独り占め。人工芝も学生が走る姿を待っているのであろう。独り占めが続く桜並木。大樹の幹に。真っ赤な美しい八重椿も。正面が「日本大学藤沢高等学校、中学校、小学校」の正門。ソメイヨシノの花をズームして。そして小田急線の踏切を渡って帰路に。そしてご近所の門の横の「源平桃」の花。1本の木に紅色と白色、紅白の絞りの花を咲かせる、八重咲きの花桃。3色の花が咲き乱れる様子を源平合戦に見立てて、その名がついたと。そして昨日3月30日の夕方の出かけた帰路に再び日本大学湘南キャンパスに立ち寄りました。既に満開のピークは終わり、散り初めていましたが。この日は、平日であり、春休みではあるが学生も登校しているので、学校関係者以外の「入構制限中」であり校内道路には入れなかった。
2021.03.29
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「永明寺別院」を後にして「柏尾通り大山道」を西に進む。「永明禅寺」の裏山に沿って進むと、左手の荒れ地の奥の高台にあったのが大きな「忠魂碑」👈リンク。「旧中川地区出身各戦役戦没者諸英霊荘厳菩提供養塔」と刻まれた石柱が「忠魂碑」の前に。「忠魂碑」の左側に「戦没者芳名碑」そして「旧中川地区出身戦没者名碑」があった。この敷地は岸井家によって寄付されたと。神奈川県横浜市泉区岡津町1574 岡津公園。「岡津公園」の前の家の表札も「岸井家」。「柏尾通り大山道柏尾通り大山道は、東海道の前不動(柏尾)から岡津の永明寺別院前の大山道道標前を経て、大山へ向かい、西田谷(にしだやと、現、桂坂)で坂道(男坂・女坂)へとつながる道です。「上り 大山道・下り かしを道」と刻まれた道標になっている地神塔は、坂の上り口に立っていましたが宅地造成のとき現在地に道されました。地神塔の立っている前の土手(現在は住宅)にあった庚申塔などは、現在、中川地区センター駐車場横にあります。また、周辺には製糸場もありました。 泉区役所」2基の庚申塔が左手に。左:駒型双体道祖神・・1813(文化10)年右:角柱型文字「地神塔」・・文字「秋葉大権現」「庚申供養■■ 巳待祭神」「桂坂公園」内を歩く。「領家西側」交差点を左折して進む。「西田・領家土地区画整理事業竣功記念之碑」が道路沿いに。その周囲の石碑群。そして左に折れて進んだ所の左手高台にも朱の鳥居の先に石碑群があった。横浜市泉区岡津町1294-3周辺の領家谷(りょうけやと)地域。正面に朱の鳥居と小さな「社」が。左手に丸彫双体道祖神・・1794(寛政6)年と石灯籠。左から角柱型文字「庚申塔」・・1859(安政6)年唐破風笠付角柱型六手合掌青面金剛塔+三猿・・元禄??(1688~1704)角柱型文字「庚申塔」左から角柱型文字「猿田彦大神」塔唐破風笠付角柱型聖観音立像笠付角柱型六手合掌青面金剛塔+日輪月輪+三猿その後、南下した後「弥生台駅」方面への道を進む。左手にあった「老人福祉センター横浜市泉寿荘」前を通過する。横浜市泉区西が岡3丁目。そして「浄土真宗 本願寺派 西恩寺」に立ち寄る。「龍王山 西恩寺」掲示板。「本堂」。宗派は浄土真宗本願寺派に属す。通称西本願寺、又は「お西」と言われています。東京で言えば、築地本願寺と同じ宗派になると。ご本尊は阿弥陀如来。「特別養護老人ホーム恒春ノ郷」の美しい生け垣のある坂道を上って行く。そして「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」に到着。横浜市泉区中田北3丁目42-1。神社の前の河津桜も満開に近かった。見上げて。中田町御霊神社の鳥居横に石碑が建っていた。「この碑の建つ土地は大正七年に当時御霊神社総代人であり、また同碑建立世話人であった小山良作氏によって寄進されたもので、このたびの参道改修に際し嫡男小山俊雄氏の赤誠により、整備された。後世のために之を誌す。昭和五十乙卯年二月吉日 宮司 宮本忠直」と刻まれた石碑。「宮本湊(いたる)先生頌徳碑(しょうとくひ)」👈リンク。中田の子弟の教育に尽力された中田学校教師宮本湊の頌徳碑である。「御霊神社戸塚区・栄区・鎌倉市域の御霊神社と同しく鎌倉権五郎景政を祀った神社で、昔から中田のごりょう様と呼ばれていました。明治の廃仏毀釈前は宮司家の東端に実相院の不動堂や護摩堂がありました。保安林に囲まれた石段下の弁天池は村岡川(宇田川)の源流になっています。池の前の庚申塔は、区内最古のもので、地域文化財に登録されています。鳥居横には、中田の子弟の教育に尽力された宮本湊先生の頌徳碑があります。 泉区役所」「御霊神社 石鳥居」。扁額「御霊神社」。社号標「村社 御霊神社」。参道を進むと掃除中のおばあちゃんの姿が。右手にあったのが「弁天池」と「厳島神社」。「弁天池」の傍らには石碑が建ちそこに「弁天の湧水 村岡川源流」と。村岡川とは宇田川の別名。弁天池に湧いた水は流れ出て宇田川となって境川に合流し相模湾に流れ出るのだ。「弁天池」のすぐわきに「ふどうばし」がかかり、そこにも「村岡川源流」と記されていた。「手水舎」。「石造庚申塔」が左手に。泉区内で最も古い庚申塔といわれていて、横浜市指定有形文化財に指定。「横浜市指定有形文化財(石造建造物)石造庚申塔指定年月日 平成十三年十一月一日所有者 宗教法人 御霊神社所在地 横浜市泉区中田北三丁日三三六五番地時代 江戸時代 寛文六年(一六六六)在銘法量 総高一〇九・〇 cm 笠高 一八・〇cm 巾四四・〇cm 奥行き三九・〇cm 塔身高 六六・五cm 巾ニ七・〇cm 奥行きニ五・五cm 台石高 ニ四・五cm 巾五三・五cm 奥行き四七・〇cm形状 角柱笠塔婆型員数 一基この塔は、横浜市域に所在する庚申塔の中でも古く、方形の台石の上に角柱の塔身を立て、笠を置く角柱笠塔婆型で、台石の上部には、コの字形の池をめぐらし、正面の左右に円形の半島をつきだし、花立を造っている。塔身の四面には、南無河弥陀仏の名号が刻まれ、正面には耳をふさいだ猿、向かって左側面にはロをふさいだ猿、右側面には目をふさいだ猿がそれぞれ浮き彫りにされている。」平成十四年三月 横浜市教育委員会」「庚申塔(大山道道標)」。「この庚申塔は、今から百五十九年も前の嘉永六年(一八五ニ)に、根下集落の庚申信仰集団(根下講中)の人たちによって、中田東ニ丁目一六九七番地先の大山道(旧長後街道)と柏尾道(戸塚を経由せず白百合を越えて江戸方面への近道)の分岐する道端に建立されました。道路の北側に南向きで建立されましたから、「右 とつか道」、分岐の「東 かしを道」、また反対方向の「西 大山道」と、碑面の左右に記され、庚申信仰の対象物だけでなく、道案内(道標)も兼ねています・今回、今までお祀りされていた場所が開発によって鎮祭が不可能となったため、現在の根下講中及び向根下自治会の人たちが相談し、鎮守様、御霊神社参道のこの地に遷座しました。」「狛犬(右)・阿形像」。狛犬(左)・吽形像であるはずだが・・・。「社殿」。御祭神:鎌倉権五郎景政(かまくらげんごろうかげまさ) 平安時代後期の武将、相模国鎌倉の領主、後三年の役で右目を射たれながらも 奮闘した勇将、関東平氏五家(鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏)のひとつ「社殿」は享保11年(1726)に再興されたといいます。しかし関東大震災で倒壊し、その主要部分を再利用し翌大正13年9月に現在の本殿が再建された。さらに昭和7年に拝殿、渡殿など新築され、社殿となっている。扁額「御霊神社」。「神楽殿」。「敬神崇租(けいしんすうそ)」碑。神を敬い先祖をあがめる、 尊いものとしてあつかうこと と。「敬神崇祖」 の四文字熟語は、 第二次世界大戦(太平洋戦争)までは国語辞典に記されていたとのことですが、 戦後教育において“政教分離”のもとに、現在、国語辞典には掲載されていないと。社殿の向かって右側に境内社が並んでいた。「矢並稲荷社」「大日大聖不動社」「日枝山王社」「金比羅社」、石廟数基。境内社「矢並稲荷社」。扁額「矢並稲荷」。「矢並稲荷」の「社殿」。境内社「大日大聖不動社」。「???」。境内社の「日枝山王社と金比羅社」。境内社「石廟」。「御神木」。「神輿庫」横浜市最古の木造学校建築物であると。「お知らせこの建物は大正十五(一九ニ六)年六月に、中和田小学校の奉安殿(その頃の学校では、主要行事が行われるときに、講堂の正面に、天良皇后両陛下のお写真をお飾りした。また、主要行事が行われるときには、校長先生が教育勅語を奉読して子供たちに聴かせ、その情神を伝えた。お写真は普段は取り外し、教育勅語と一緒にこの泰安殿に納めて置いた)として建てられたもので、横浜市最古の木造学校建築物となりました。平成ニ十六年ニ月の大雪で、上部の楠の技か折れて瓦屋根が壊されました。先ごろ、瓦下地の木工事や高価な特注の鬼瓦や平瓦を焼いて、修理が終わったばかりです。この建物には現在お祭りの時に使う、大人用と子供用のお神輿が納められています。」「御霊神社幼児園」正門。地域の鎮守さまの「御霊神社」が、昭和43年4月に境内の続きに開園したと。帰路の参道横にあった「石塔」。これも庚申塔であろうか?「山岳信仰碑と起立講遥拝所(きりゅうこうようはいしょ)」本社鳥居前の右手に石段が山を上って行く。この石段の上り口に建つ石柱には「木曾御嶽神社」とあった。この石段を上ると起立講(きりゅうこう)の御嶽山遥拝所(おんたけさんようはいしょ)に至っる。各地に残る山岳信仰の場の一つ。遥拝所には山岳信仰碑が立ち並んでいた。向かって左に板石碑が建ち、「國常立尊」(くにとこたちのみこと)、「三笠山神社」、「御嶽山神社」、「八海山神社」と刻まれていた。その右わきに、大黒天像がありその台座には「起立講中」と刻まれていた。その右わきに板石碑が建ちそこには「神武天皇白川神社」と。起立講とは木曾の御嶽山を信仰する山岳信仰をおこなう集まり。この御嶽山遥拝所でお参りし、また木曾の御嶽山に登りお参りをしていたのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.29
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昨日、車で10分ほどの場所にある引地川の桜を愛でに行って来ました。八分咲きでしょうか、しかし翌日、翌々日が雨の天気予報でしたので。この付近の引地川の堤防の道路の手摺には桜の模様が。桜の花の姿が打ち抜かれていました。川沿いの道を上流に向かって進む。ソメイヨシノの桜。川面を覗き込むように枝が伸びて。引地川の穏やかな流れの上に。ズームして。開花直前の蕾。5月に入ればこの藤棚も美しく変身するのであろう。太い幹に三輪の花。朝の陽光を浴びて。引地川沿いを更に進む。そして湘南台356号線に架かる「柳橋」を渡る。「柳橋」から「引地川」の堤防上の桜を見る。そして対岸の道を下流に向かって戻って行った。こちらはオオシマザクラ。一重咲きの大輪の花を比較的多く咲かせ花弁の色は白色。白い花と緑色の葉が同時に展開する。葉が桜餅の葉に使われるためモチザクラ(餅桜)とも呼ばれるのだ。公園の椿の花も負けじと。多くの花がエピローグ(epilogue)に。そして再びソメイヨシノを追って。引地川も小さな蛇行を繰り返して。この付近は満開直前。太い幹から赤子のように咲く。こちらも。こちらは既に満開。そしてスタートした県道403号線・菖蒲沢戸塚線が見えて来た。「円行大橋」からの引地川両岸の桜並木を振り返る。そして数日後には、引地川の川面には「花筏(はないかだ)」の絶景が!!花筏(はないかだ)とは、散った桜の花びらが水面に浮き、それらが連なって流れていく様子のこと。その花びらの動く様子を筏(いかだ)に見立てた言葉といわれます。
2021.03.28
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更に「永明禅寺(ようめいぜんじ)」の境内の散策を続ける。屋根付きの白壁に「本堂再建銘」が。「本堂再建銘当時再々移転 復興計画の中心的伽藍として当処に再度の建立を発願する最中興開基 全之大居士を筆頭に檀信徒並びに十方遊縁の各位の多大なるご賛助ご協力を得てここに荘厳なる大本堂の竣功をみる。この浄業を末永く顕彰し銘とする。以下略」新本堂の前庭にあった「大観音菩薩石像」。「大観音菩薩石像」をジワジワとズームで。「慈母大観音由来」碑。「全友会(石田建設株式会社協力会)では従来より会員相互の親睦を深めるとともに会員各位の企業の安全のための研修を種々企画し実施してきている。さらに災害対策には一致協力し万全を期しているが残念ながら不慮の災害により殉職者を出し全友会としてこのような状況から脱却するために会長の島本忠司殿を中心とした役員会において思案していたところ石田建設株式会社代表取締役である石田全久殿の助言勧めもあって全友会並びに石田建設株式会社が共に協力して災害殉職者の供養と各関係企業の社運隆昌安全を祈願し大観音像の造立を発願することになった。観音像造立については永明寺先住(二十五世故圓嚴租峯師)の遺志と合致することであり特に石田建設株式会社ゆかりの永明寺境内に選定し境内地の中でとりわけ高く眺望のよい当処に建立することになった。観音さまは一切衆生(あらゆる人)を救済し慈悲(与楽抜苦)をたれることを本願とする菩薩であり観音経には三十三身に化身してすべての人を救済すると説かれている。その救済の様相(姿かたち)より多くの名前がつけられている。この大観音は聖観世音菩薩であり名づけて慈母大観音と言う。全友会並びに石田建設株式会社はもとより当町地域の帰信の象徴としてさらに未来永劫に亘り観音さまの大慈悲をたれ賜わんことを念じここに由来を誌す者也」「大観音菩薩石像」手前にあった仮設の「鐘楼」。「梵鐘」は先代のものであろうか?ここにも「十六羅漢像」。ここにも「十六羅漢像」。「十六大阿羅漢 㐧八伐闍羅佛多羅尊者(ばじゃらぶたらそんじゃ)」とこの像にのみ案内板が置かれていた。「大圓鏡智」碑。『もし、ここに水の入った壺があったとして、水面が風で波立っていたとしたら、この水は、物を正しく映すことができるであろうか?またもし、この壺が火にかけられて煮え立っていたとしたら、この水は、物を正しく映すことができるであろうか?さらにまた、この壺の水が、長く放置されて、腐り、水苔に覆われていたとしたならばどうであろうか?もちろん、これらの水は、物をありのままに映すことはできない。それと同じく、もし我々の心が、貪り(むさぼり)で波立ち、瞋り(いかり)で煮え立ち、愚痴(ぐち)で腐っていたならば、我々は正しく物を見ることができるだろうか?皆の者よ、もちろんそれは不可能なことである。』この言葉は、釈尊が弟子たちに向かって話した言葉だとネットから。その奥にも「十六羅漢像」。そして境内を後にして石段を下って行くと、立派な墓石の「岸井家之墓」。この岡津の町のは多くの「岸井」家があることに気がついたのであった。昔からの名家が続いているのであろう。階段途中から「山門」、「鐘楼」を見る。入口上にあるのは「寺務所」であろうか。そして正面には急過ぎる石段が目に入って来たのであった。それにしても、途中の踊り場もなく超急な石段、法律的に問題ないのであろうかこれぞ神のみぞ知る石段なのであった。手摺に捕まりながら一歩一歩足下を確認しながら上って行った。すると、最上部の狭い土地に小さな社が2社。「御嶽山」(右)。扁額「御嶽山」。「白山社」(左)。扁額「白山社」。石段の上から「永明禅寺」の「山門」を見る。この後、再び手摺をしっかりと握りながら一歩一歩階段を下りたのであった。そして北に進むとあったのが「石田建設㈱」の社屋。「永明禅寺」の縁者が経営する会社ののであろうか?前庭に立っていたのは創業者の像であろうか?「永明寺 法輪殿」の文字も。これは双体道祖神像であろうか。「福袋をひっぱる福引ねずみの石像」。ねずみの親子の姿が。そして次に訪れたのが「永明寺別院」。入口にも「十六羅漢像」が。ここにも「永明禅寺」にあったものと同じの「永明寺由緒」案内板。横浜市泉区岡津町1569-9一、宗旨 曹洞宗(大本山總持寺の孫末寺)ニ、名称 岡津山(こうしんさん)永明禅寺(よらめいぜんじ)三、本尊 木造聖観世音菩薩立像(像高三六・五)奉安四、勧請開基 前太田左衛門大夫持資入道道灌(江戸城築城) 開基 悟眞寺殿花林道灌栄公大禅定門 文明十八年(西暦一四八六)七月ニ六日寂 太田越前守入道宗真、祖父太田道灌の菩提を弔う為五、開創 天文十一年(西暦一五四ニ) 川上町徳翁寺第ニ世典舜養大和尚を勧請六、中典 当他願主黒田直綱の後継、黒田用綱が中興の祖 中興開基 玄融院殿泰嶽道安居士 寛文十ニ年(西暦一六七ニ)十一月七日寂七、前立本尊 木造聖観世音菩薩立像(像高一〇四・五)奉寄進 桂屋妙貞大姉淑霊 繁翁教栄居士覚霊 為両霊位善提 施主 武蔵州江戸霊厳島 梅村 八郎次 第三世傑州順英代【寺城内で三度移転】一五六九番地(基苑下の住宅地)に建立、延宝六年(西暦一六七八)現山門 建立地に引移した。大正十ニ年(西暦一九ニ三)関東大震災に裏山の崖、堂宇が崩壊し、 岡津町一六一六(現別院)に移転した。平成ニ年(西暦一九九〇 )周囲の開発と、河川の氾濫による 浸水も度重なり、山頂の現在地に再度移転した。【寺城の整備】寺城南側に、歴代住職の基地を整備、併せて檀信徒の墓地(やまふき墓苑)を 整備拡張し、各檀信徒の先祖を大切に祭祀している。墓苑入口に六地蔵尊、苑内に釈迦如来立像 (やすらきの墓)子育、水子地像尊像、北側に釈迦如来坐像、岡津八景歌碑等、本堂前に 大観世音菩薩立像、寺城内に十六羅漢石像を奉安している。」「十六羅漢像」がここにも。永明寺別院の「本堂」永明寺(ようめいじ)は関東大震災で崩壊し、阿久和川沿いに移転してきたが、やまぶき墓苑(永明寺墓地)横の旧跡地山上に本堂や慈母大観音菩薩像、山門、鐘楼などの伽藍が再建され本院に復し、阿久和川沿いの境内は永明寺別院となっているのであった。扁額「岡津山」。こちらが山門。「岡津山永明禅寺」の寺号標石。左手には「永打虚空去㨂択」と刻まれた石碑も。今回も、学友からご教示頂きました。禅宗の言葉であるとも。左手にも「明珠璨乎含十方」と。「不動明王像道標」・・上部の「不動明王像」。「不動明王道標」・・「正面:大山道」阿久和川の向かいには大山前不動を祀る向導寺があり、不動橋を渡ったここ永明寺別院前が大山道だったのだと。また、出羽山山(月山・湯殿山・羽黒山)供養塔は、上倉田南バス停(横浜市戸塚区上倉田町)と光長寺(横浜市栄区飯島町)の手前にもあるとのこと。また、先程訪ねた西林寺(横浜市泉区岡津町)にもあったのだ。右側面 :「右ほし乃やミち」ほしのや道とは坂東三十三観音札所めぐりの巡礼道で、座間のほしのや観音(星谷寺)(8番札所)と横浜の弘明寺(ぐみょうじ)観音(14番札所)を結ぶ「ほしのや・ぐみょうじ道」である。左側面:「享保10年(1725)」 の文字が。「角柱型出羽三山供養塔」・・「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」 「文政13年(1830年」の文字が刻まれていると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.28
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「永明寺」に向かって進むと大きな広さの墓地の角にあった観音像。ズームして。墓地入口左手にあったのがコンクリート製の四阿(あずまや)の如き建物。そしてその場所近くから「鐘楼」を見上げる。そして「曹洞宗 岡津山 永朙禅寺」参道入口に到着。寺号標「曹洞宗 岡津山(こうしんざん) 永朙禅寺(ようめいぜんじ)」。石段の上に「山門」が見えた。「永明寺由緒横浜市泉区岡津町1569-9一、宗旨 曹洞宗(大本山總持寺の孫末寺)ニ、名称 岡津山(こうしんさん)永明禅寺(よらめいぜんじ)三、本尊 木造聖観世音菩薩立像(像高三六・五)奉安四、勧請開基 前太田左衛門大夫持資入道道灌(江戸城築城) 開基 悟眞寺殿花林道灌栄公大禅定門 文明十八年(西暦一四八六)七月ニ六日寂 太田越前守入道宗真、祖父太田道灌の菩提を弔う為五、開創 天文十一年(西暦一五四ニ) 川上町徳翁寺第ニ世典舜養大和尚を勧請六、中典 当他願主黒田直綱の後継、黒田用綱が中興の祖 中興開基 玄融院殿泰嶽道安居士 寛文十ニ年(西暦一六七ニ)十一月七日寂七、前立本尊 木造聖観世音菩薩立像(像高一〇四・五)奉寄進 桂屋妙貞大姉淑霊 繁翁教栄居士覚霊 為両霊位善提 施主 武蔵州江戸霊厳島 梅村 八郎次 第三世傑州順英代【寺城内で三度移転】一五六九番地(基苑下の住宅地)に建立、延宝六年(西暦一六七八)現山門 建立地に引移した。大正十ニ年(西暦一九ニ三)関東大震災に裏山の崖、堂宇が崩壊し、 岡津町一六一六(現別院)に移転した。平成ニ年(西暦一九九〇 )周囲の開発と、河川の氾濫による 浸水も度重なり、山頂の現在地に再度移転した。【寺城の整備】寺城南側に、歴代住職の基地を整備、併せて檀信徒の墓地(やまふき墓苑)を 整備拡張し、各檀信徒の先祖を大切に祭祀している。墓苑入口に六地蔵尊、苑内に釈迦如来立像 (やすらきの墓)子育、水子地像尊像、北側に釈迦如来坐像、岡津八景歌碑等、本堂前に 大観世音菩薩立像、寺城内に十六羅漢石像を奉安している。」「山門」。「山門」の扁額は「岡津山」。阿形像が「金剛力士像」、阿形像は「那羅延堅固王」(ならえんけんごおう)、吽形像は「密迹金剛力士」(みっしゃくこんごうりきし)と呼ばれる。横から。吽形像が「密迹力士」(みっしゃくりきし)。横から。「金剛像」の裏側にも木造の仏様が。向かって左側の上には「七福神」の姿が。向かって右側の上には色鮮やかな「十二神将」の姿が。そして「山門」を潜り「本堂」への石段を見る。石段下に「六地蔵」。「山門」の左側に先程見上げた「鐘楼」。石段下横の池と十六羅漢像。境内には十六羅漢像が祀られていた。この石段を上って行った。石段前の「伝光閣」。石段の横で白梅が迎えてくれた。十六羅漢像が石段の上で迎えてくれた。羅漢は阿羅漢の略称で、一切の煩悩を断って修行の最高位に達し人びとの供養を受けるに値する仏弟子や聖者と言う。十六羅漢は跋羅駄闍尊者(ばらだしゃそんじゃ)、迦諾迦伐蹉尊者(かにゃかばっさそんじゃ)、諾迦跋釐駄尊者(だかはりだそんじゃ)、蘇頻陀尊者(そびんだそんじゃ)、諾矩羅尊者(なくらそんじゃ)、跋陀羅尊者(ばだらそんじゃ)、迦哩尊者(かりそんじゃ)、弗多羅尊者(ほったらそんじゃ)、戎博迦尊者(じゅはくかそんじゃ)、半諾迦尊者(はんだかそんじゃ)、羅怙羅尊者(らごらそんじゃ)、那伽犀那尊者(なかさいなそんじゃ)、因掲陀尊者(いんかだそんじゃ)、伐那婆斯尊者(ばなばしそんじゃ)、阿氏多尊者(あしたそんじゃ)、注荼半託迦尊者(ちゅうだはんたかそんじゃ) と呼ぶのだと。石段の上から山門を振り返る。ここにも十六羅漢像。「本堂」。十六羅漢像。「螢山禅師御尊像」。曹洞宗の大本山總持寺は、元亨元年(1321年)瑩山禅師が能登半島の櫛比庄「現在の石川県鳳至郡」にある諸嶽観音堂に入山し、諸嶽山總持寺と改号、元亨2年(1322年)後醍醐天皇より紫衣を拝領、曹洞宗の大本山となったといわれているのだ。ズームして。扁額「永明禅寺」。寺務所であろうか。一休さん石像。日本の曹洞宗の開祖「道元禅師御尊像」。ズームして。「本堂」を横から。「本堂」を斜めから。「本堂」前の境内を見る。「本堂」前の石柱には「大圓鏡智」の文字が。その奥に十六羅漢像。『もし、ここに水の入った壺があったとして、水面が風で波立っていたとしたら、この水は、物を正しく映すことができるであろうか?またもし、この壺が火にかけられて煮え立っていたとしたら、この水は、物を正しく映すことができるであろうか?さらにまた、この壺の水が、長く放置されて、腐り、水苔に覆われていたとしたならばどうであろうか?もちろん、これらの水は、物をありのままに映すことはできない。それと同じく、もし我々の心が、貪り(むさぼり)で波立ち、瞋り(いかり)で煮え立ち、愚痴(ぐち)で腐っていたならば、我々は正しく物を見ることができるだろうか?皆の者よ、もちろんそれは不可能なことである。』ありのままを素直に映す鏡のような心、落ち着き払って正しい判断ができる心、これを「大圓鏡智(だいえんきょうち)」と言うのだと ネットから。石柱の先にも「十六羅漢像」の姿が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.27
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そして次に訪ねたのがスーパーTAIGA 岡津店の前にある「西林寺」。横浜市泉区岡津町1432。「浄土宗 亀鶴山 一心院 西林寺」寺号標碑。掲示板には「冬のあとに 春は訪れ 闇の向こうに 光は見える」と。「冬」を「コロナ」と読み替えられる日を待ちたいと。入口左にあったのは「西林寺」の「斎場」のようであった。「枝垂れ桜(シダレザクラ)。樹齢百六十年といわれ四月の花祭(八日)ごろ美しい花を咲かせます。昔はこうした枝垂れ桜の下で歌会を開き和歌や俳句をつくったものです。それを花の下の和歌と呼んでいます。」春には・・・・!!!。 【https://4travel.jp/travelogue/10871200】より「本堂」。本尊は、約一四五cmの座像の阿弥陀如来で、安永五年(一七七六)、品川願行寺十五世檀誉性善作といわれている。戸塚区郷土誌(昭和四十三年刊)によると、西林寺は、長禄四年(一四六〇)の開創で、開山は、慶運寺開山聖観の弟子で、新橋町の中丸氏から出た円蓮社団誉閑悦といわれている。開創当初は、念仏堂であったが、三世称念によって一寺になったということである。この称念も新橋町の中丸氏の出身で、左衛門尉道昭の子で、晩年には浄土宗本山知恩院の山上に一心院を開いた捨世派(しゃせいは)の鼻祖(びそ)である。寺の入口にあるしだれ桜は有名で、花の咲く頃には、見物客で賑わっている。境内には、江戸時代の後から明治初期にかけて寺子屋「不及庵稽古所」を開き、明治六年に開校した小学校「岡津学舎」の先生をした原田由右衛門の碑「朴翁居士之碑」や西林寺住職で寺子屋の師匠をしていた栄隆の筆子塚がある。また、境内には「ほしのや・ぐみょうじ道」の道標を兼ねた出羽三山供養塔がある。扁額「西林寺」。「本堂 内陣」をネットより。 【https://4travel.jp/travelogue/10930050】より豪華な天井。 【https://4travel.jp/travelogue/10930050】より「亀鶴山一心院西林寺長禄四年(一四六〇)中丸左衛門尉定昭が神奈川宿慶運寺音誉聖観上人(増上寺第三世)の弟子団誉閑悦上人を招き、藤沢道に沿った向い山=天台山(通称首切山)の麓に建立したのが西林寺の初めです。徳川家康の側女於万の方は岡津の人で、代官頭彦坂小刑部元正の推挙によって大奥に仕えていましたが、四十歳のころ辞任したのち清源院尼と称し、竹の鼻に草庵を設けて住んでいました。その後戸塚に清源院を建て移住した跡地に移転したのが、今の西林寺です。三世称念上人は浄土宗捨世派の派祖で、京都知恩院の南隣に一心院を建立したり、知恩院の御影堂に屋根瓦をのせるために努力した高僧です。本尊は阿弥陀如来で、浄土宗です。」原田由右衛門の碑「朴翁居士之碑」。「原田由右衛門の頌徳碑原田由右衛門は江戸末期に寺子屋師匠をつとめた人で、この碑は筆子中が建てたものです。筆子とは教え子ということです。明治六年(一八七三)はじめて岡津に小学校が建てられた時には、一年間だけですが先生になっています。そのあと継いだのは西林寺二十九代目の住職であった栄隆和尚で一時小学校は西林寺の本堂を使用していましたが、のち岡津橋のたもとに移されました。そのとき教師になったのが宮本臻でした。」「文殊菩薩像学問を身につけ、知恵を授けて下さる仏さまといえば、『三人寄れば文殊の知恵』といわれていますように文殊菩薩です。右手に剣を持っているのは知恵をみがくという意味が左手に本(経巻)を持っているのは、本には知識がいっぱい収まっているということをあらわしています。獅子は百獣の王といわれ、その獅子ですら知恵にはかなわないというのです。知恵の方がより勝っているのです。住職智誉俊雄上人は、平成四年の春、文学博士の学位を得られました。そのとき檀信徒や有縁の人たちからいただいた祝金をもとに、上人の発願によって『学問や知恵の仏さま』である文殊菩薩を建立いたしました。原型は日展会員田端功一、鋳造は佐脇義光、仕上は矢木紀行、着色は立川善信諸氏の優れた技能によって造られたものです。学問は巾広く生涯を通じて大切なものです。仏さまは皆さんの願いごとを聞いて下さいます。合掌してお詣り下さい。」。ズームして。「観音像」。「観音像昭和五十五年七月皆さんのご協力によって造立されたもので台石の下にはアメリカ・イギリス・フランス・チェコスロバキア・ロシアをはじめ、各地の知人から平和を祈っていただいた石が納められています。観音さまは三十三の姿に身をかえ・人びとに楽しみをあたえ・苦しみを取り除いてあげようと白夜のぞんでおられる仏さまです。観音さまにお願いすれば、水火・刀剣・悪魔・怨霊などの難から逃れ重い病気もまた軽く受けることがてきるのです。」「石仏」(左)と「徳本上人の名号塔」(右)。「徳本上人の名号塔徳本上人は徳本行者ともいい紀伊国(和歌山県)の人で全国にお念仏を弘めて歩いた高僧です。文政二年(一八ニ一)十月西林寺の檀家の人は神奈川宿の慶運寺まで行き教えを受けました。その人たちの名前が台石に刻まれています。」。「地蔵尊」。「六地蔵」。「地蔵菩薩地蔵菩薩はお地蔵様と呼ばれて親しまれています。お地蔵様は境内や墓地の入口あるいは辻なのに建てられています。地蔵様の建てられているつじ辻が六道の辻です。六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のことで、お地蔵さんの建てられている所までが六道、苦しみの世界なのです。それを越えると仏の世界です。仏の世界に導かせようと案内している仏が地蔵さんですからお地蔵さんの前でも阿弥陀さんのおられる本堂の前で手を合わせたように、手を合わせ幸せが得られるようにお願いしましょう。」「鐘楼」。「梵鐘」。昭和57年(1982年)銘が。「角柱型出羽三山供養塔」正面-「月山 湯殿山 羽黒山供養」道標:東-「かまくら ぐみょうじ道 江戸」 西-「あつぎ ほしのや 八王子道」「弘明寺道(ぐみょうじ道)」とは、東海道の保土ヶ谷宿から弘明寺観音を経て鎌倉へ通じる道として利用されていたと。「ほしのや」は座間の「ほしのや観音」のことであると。「本堂」を斜めから。「老松」。「老松宮内庁植木職の調査によりますと盆栽仕立てとして植えられていたものが、植木鉢ではたえられなくなって大地に植えられたもので少なく見積もっても五百年はたっているだろうと言うことです。」「西林寺」を後にして、「阿久和川」まで北に進み「堂の前橋」を渡る。下を流れる川は「阿久和川」。そして民家のフェンスの奥に石碑を発見。「光背型双体道祖神塔」。そして横浜共立鋼業の先、左奥にあった小さな社。「社」の名前は?「稲荷社」であろうか?「社」の裏には「阿久和川」に流れ込む小川があった。再び「阿久和川」まで戻る。前方に「新岡津橋」。「新岡津橋」を渡る。川にたくさんいる「鴨」をデザインに入れていると。「新岡津橋」を渡り50mほど真っ直ぐ進むと左手高台にも神社があった。階段を上がると新しい石造りの社殿の姿が。「稲荷社」。横浜市泉区岡津町1529-2。地面もすべてコンクリートで固められ、新しくなり過ぎたという印象。ここは泉区岡津町の、かつて中川村と呼ばれていた地区でこの辺は昔の大山道の街道沿いでもあったのだ。東海道の戸塚から大山を目指してここを歩いたのであろうが・・・。そして「稲荷社」の前の急な坂道を上っていくと、右手に白壁の塀が現れた。この近くに「白山社」があるのであったが。手前のネットフェンスの入口は施錠され閉まったいた。隙間に手を入れ、感でシャッターを押したが。先に木製の「社殿」が写っていたが、これが「白山社」なのであろうかと。横浜市泉区岡津町1552。そしてその先左には「ルネ戸塚弥生台」が。岡津町に建つ、1989年10月築、RC造地上10階建、総戸数238戸の大規模マンション。横浜市泉区岡津町1500番2号。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.26
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そして次に「三嶋神社」を訪ねた。右手に石造りの一の鳥居が。横浜市泉区岡津町2352。この周辺は「岡津城」が有った場所であると。一の鳥居に前、横浜市立岡津小学校への裏門前のこの盛り上がった場所が「岡津城」の土塁のようであった。城跡は、標高59m、比高(ひこう)40mであったと。岡津城は扇谷上杉氏・上杉定正の養子、上杉朝良の居城。1512(永正9年)には相模に進出した伊勢宗瑞(北条早雲)によって攻略された。早雲は岡津城を江戸衆の太田大膳亮に与えた。1590年(天正18年)に北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入封したのちは彦坂元正が当地の代官として赴任し、岡津陣屋が置かれたが、1606年(慶長11年)に改易されたため陣屋も廃さた。現在城址は本丸跡が三嶋神社の北側上方には横浜市立岡津中学校のグラウンドになっており、曲輪跡とされる三嶋神社の前には土塁を確認することができる。また陣屋が築かれたのは横浜市立岡津小学校のあたりで、ここが岡津城の最下段の曲輪で、近くにかかる鷹匠橋と呼ばれる青い橋が大手道とされていると。そして再び「三嶋神社」の一の鳥居を潜る。石造りの扁額「三嶋神社」。そして二の鳥居。この鳥居は六脚の両部鳥居であった。左右に石灯籠が。右手の手水舎。水盤には手造りの屋根が。目的は??そして正面に「社殿」。岡津全域の鎮守さまで、天文5年(1536)に創建と伝えられ、祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)。天正18年(1590)に今の岡津小学校地に陣屋を築いた代官頭の彦坂小刑部(こぎょうぶ)元正をはじめ、その後の岡津村の領主は守護神として三嶋神社を信仰した。昭和47年(1972)まで神社の参道は県道から鳥居まで真っ直ぐで、岡津小学校は神社の参道を校庭として借りていたのだと。扁額は「三島大明神」。「社殿」前から境内を見る。階段下を真っ直ぐ進むと、参道であるが横浜市立岡津小学校のグランドを横断していたのであった。「由緒御祭神 大山祇命(おおやまずみのみこと)開拓 農耕 治水 山の神社創建 創建の年代と創健者は明らかでないが和銅六年(七一四)奈良時代相模国風土記に 鎌倉郡中川村字岡津三嶋神社として文献にある。再興 天文五年(一五三六)室町時代乱世の代より多くの武人・農民が岡津の地に住み 心の拠り所として祭事を行った。天正十八年(一五九〇)安土桃山時代、時の 代官が守護神として社を造営整備信仰につとめた。 文化四年(一八〇七年)江戸時代名主四人世話人九人により社を再建昭和四十四年 (一九九九年)昭和時代旧社殿は建立後約百六十年経過し修復も難しくなり地域の 人々の浄財を仰ぎ現社殿が新築されました。御祭典 一月一日 元旦祭 九月七日 例大祭 十一月十五日 七五三祝 十一月二十三日 新穀感謝祭 三嶋神社」神楽殿。社務所。「皇紀二千六百年記念植樹之碑」。石の社があったがやや荒れ果てて。「奉納」と書かれた石碑もあった。「岡津城」に関連した石塔であろうか。そして次に小高い山上にある神社に向かった。神社への坂道から新たに出来る工事中の道路を見る。「阿久和川」に向かう直線のバイパス工事の様であった。正面に小さな神社。小さな「稲荷社」社殿。朱の鳥居の前右にあったのが「庚申供養塔」。「文字庚申供養塔」で寛政八(1796)年の文字が。双体道祖神昭和四十五(1970)年に移設と有るだけで年代は不明。そして来た道を戻り「阿久和川」を渡る。橋の名は「伊勢堰橋」。県道401号線に突き当たり左折して進むと直ぐにあったのが「岡津町」交差点。ここを右折して坂を上って行く。この道路は横浜市営地下鉄ブルーライン(1号線)の「踊場駅」方面への道で、道路の両脇には様々なファミレスが賑やかに並んでいた。南に進んで行くと道路脇の花壇の菜の花が美しく。そして次に訪ねたのが右手にあった高野山真言宗「光應山 普光寺(こうおうさん ふこうじ)」。この寺は「光應山 東光院( とうこういん) 普光寺」といい、本尊の玉眼、彩色の聖観世音菩薩像の大慈大悲の光が普く(あまねく)輝いているという意味が込められていると。本堂は平成3年の建築、本堂の内陣には弘法大師の一生を描いた欄間があり、境内には歓喜天(かんきてん)堂や四国八十八カ所の砂が敷き詰められた砂踏霊場があった。寺入口右の盛土の上に天神社が祀られ、その境内に原田由右衛門門人建立の「筆塚(ふでつか)」も。「光應山普光寺」の寺号標石。「ほほえみ観音」。お顔をズームして。参道脇には「六地蔵堂」。真っ赤な頭巾、涎掛け姿の「六地蔵」。小高い場所に「神社」が。名前は「天神社」。原田由右衛門(よし(う)えもん)門人建立の「筆塚」👈リンク。「天神社」裏の桜の大樹。春になれば見事な姿に変身するのであろう。庚申塚の「舟形光背型地蔵立像+三猿」台座には「同行四人」正面右側 「奉庚申供養成就」正面左側 「寛文十戌十一月六日」(1670)の文字が刻まれていた。右側には「駒型〇〇塔」。正面に「普光寺」の「本堂」の姿が。左手には小さな「弁天池」が。「弁天堂」。技芸上達、商売繁盛にご利益があるとされる。「子育観音像」と「〇〇地蔵」。「水屋」。「水天」と刻まれた石塔。「神奈川宗務支所」。境内の「石仏群」。絵を描いているのか?本を読む。これは?小さな琴を弾く?涅槃仏?「聖天堂」。商売繁盛、夫婦和合にご利益があるとされる「大聖歓喜天様」をお祀りしていると。双身像の聖天様は、夫婦和合・安産・子宝の神様として信仰されていると。「本堂」を正面から。室町時代中期に開山したと伝わる。開山は円威和尚、二世円成和尚であり、ご本尊様である聖観音菩薩像は、開山円威和尚の追善のために、二世円成和尚が造立されたとの記述が残っていると。それによると、聖観音菩薩像が安置されたのが長禄三年(1459年)。その二年前に円威和尚が入寂されたと記されているので、少なくとも当山は1450年代には開山していたことがわかるのだと。「弘法大師像」。周囲には「四国八十八ヶ所霊場」の寺院名と御本尊の刻まれた石柱が円形に並んでいた。別の角度から。懐かしき「四国八十八ヶ所霊場」👈リンク 碑。私は2018(平成三十年).03.30に「結願」したのであった。「四国八十八ヶ所お砂踏み霊場」案内板。四国八十八ヶ所御砂踏み霊場の第一番「霊山寺」の石仏。四国八十八ヶ所御砂踏み霊場の第八十八番「大窪寺」の石仏。参道中央に「香炉堂」と「香炉」。「横浜市名木古木指定 ヤマモミジ」。前方に石仏、左手には「賽の河原」。石仏は「水子地蔵尊」。「賽の河原」。「本堂」。「普光寺本堂」に掛かる「光應山」の扁額。「本堂」前から境内を見る。「本堂 内陣」。ズームして。「本堂」左側斜面には墓地が拡がっていた。その上に「鐘楼」が見えた。再び「本堂」を見る。屋根には「五三の桐」、「左三つ巴」の施された鬼瓦等が。「普光寺」を後にして「観音谷北側」交差点を左折して進むと左側にあったのが「防災協力農地」の案内板があった。「防災協力農地」とは、地震災害が発生した場合に、農地所有者の協力により、農地をあらかじめ登録することによって、市民の避難空間としての活用と、災害復旧用資材置場を確保することを目的とした制度とのこと。そして右手奥には朱の鳥居のある小さな「社」があったが。その隣は「なかまる動物病院」の駐車場であったが、関係があるのだろうか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.25
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「横山家長屋門」を後にして、来た道を戻り、途中右に折れ住宅街に入る。右手の擁壁の下に石碑群が。そしてコンクリート擁壁の水抜き穴にスズメの姿が。この穴に巣を作っているのであろうか。アンテナ線の様なものを持ち込んでいたが巣造りに使うのであろうか?そして石碑群の中に左から「道祖神」、「双体道祖神」が。再び県道401号線・県道瀬谷・柏尾線に入り「新橋」交差点を右折し相鉄いずみ野線の高架を潜る。直ぐ左手に急な長い階段の上にあったのが「五霊社」。横浜市泉区新橋町109。道路を渡り、階段を上って行く。階段の上に石の鳥居が。扁額「五霊社」。「五」のくずし字なのであろうか?友人より「象形文字「五」の甲骨、金文文字」であると。「社殿」。ここ下新橋地域の鎮守さまで日本武尊(やまとたけるのみこと)をお祀りしている。勧請は、永享三年(一四三一)で、社伝に、「当地の開拓が進んでしばらく経った頃大凶作を迎え、しかも盗賊の害が多発したので村人一同が対策を合議した時に、一老人が「吾人鼓腹して楽しみとするも、唯吾力のみにして衣食得べからず。天地神明の加護なくんば之を得ず。足りて驕れば賊を招くなり。宜しく日本武尊を奉祀して報賽祈請(ほうきんきしょう)し、かっ霊威によりて鬼賊を封止すべきなり」と述べたので、一同非を悟り、直ちにお宮を建てた。再び豊作になり、賊害も消滅したという」とある。享和年間(一八〇一~三)と文久元年(一八六一)に、社殿の改修、改築した折の棟札が保存されている。社殿の扁額「五霊社」。欄間の彫刻。木鼻(右)。木鼻(左)。階段横にあった「稲荷大社」。扁額「稲荷大社」。内陣の狐様(右)。咥えている「玉(宝珠)」は霊の力。内陣の狐様(左)。咥えている「巻物」は神様からのお言葉。そして更に県道411号線を南下する。「新橋町西田橋」交差点を左折する。(行き過ぎました)上り坂の途中、左側の「新橋ホーム前バス停」手前の植栽の中にあった石塔。角柱型文字「庚申塔」・・道標: ほしのや/〇〇道。そして再び新橋町西田橋」交差点まで戻り、県道411号線・瀬谷柏尾道路を「阿久和川」に沿って東に進む。すると左手の階段上に石塔群が保護された状態で。左から「文字道祖神」、昭和7年の建立中央に「阿弥陀如来立像庚申塔」右に「」中央はどっしりとした笠塔婆の付いた「阿弥陀如来立像庚申塔」。寛文8年の建立。下部には庚申の「申(さる)」で「言わざる・聞かざる・見ざる」の順番で三猿がいた。右側には蓮の姿が。左側も同様に。斜めから。そして、直ぐ東にあった「富士塚」に向かって進む。階段を上がっていきうと案内板があった。「向導寺と富士塚浄土宗の向導寺には、明治22年、中川村が誕生したとき、翌年11月、役場の庁舎が新築されるまで仮庁舎が置かれました。墓地には寺子屋師匠吉田雄山の筆子塚があります。寺の裏山には、富士山を信仰する集団である富士講の人々が、富士山の遙拝所として、また信仰の対象として富士山を模った人工の富士塚があります。塚の前には不動堂があり、阿久和川にかかる不動橋を渡ると永明寺門前に大山道道標が立っています。」するとその先に「岡津不動尊堂再建工事の為、1月20日より7月未日まで通行止めといたします。」の表示とバーフェンスが設置されていた。諦めて戻り、「向導寺」に向かって進む。正面に「向導寺」山門が現れた。「横浜市指定有形文化財 木造阿弥陀如来座像」案内柱。山門前右手に「六地蔵」が。「山門」。扁額はなんと「徹底山」と。境内の石仏・光背型地蔵菩薩立像・・1712(正徳2)年。境内の石仏・光背型地蔵菩薩立像・・1659(万治2)年。「松本家先祖代々菩代」碑。「山門」を寄進された家のようだ。手水場。文字は「報恩」であろうか。「向導寺」の「本堂」。横浜市泉区岡津町にある向導寺は浄土宗のお寺であり、徹底山本覚院向導寺という。元京都知恩院の末寺で、善蓮社知誉上人が開山といわれており、創建は知誉上人が亡くなる天正10年(1582年)以前と思われる。本尊は阿弥陀如来で、平安期の仏師定朝の作風が見られるとされる。扁額は「向導寺」。そしおて「向導寺」境内から「富士塚」に向かった。「岡津不動尊堂再建工事」の基礎工事が行われていた。小さな「御堂」が「富士塚」の下にあった。そして「富士塚」を見る。4基の富士講碑が建っているとのこと。その中に「ゑぼし岩 食行身禄杓」(享保11年(1726年)銘)(杓には木偏が付く)の石碑があるが、食行身禄とは伊藤伊兵衛をいい、関東地方に富士講を爆発的に普及させた人物であると。富士塚は小さい分、その山姿は富士山に似ている。岡津富士塚とも呼ばれている。横浜市や東京都には今も富士塚が何箇所か残っているが、これらと比べると小さなものだ。塚の石碑をズームで。「ゑぼし岩 食行身禄杓」(享保11年(1726年)銘)。そして「向導寺」、「富士塚」を後にして東に進むと、左手の小高い場所に小さな社殿が。「稲荷社」で社の中には石の社が。そしてその先、民家の庭の中の如くの場所にあった石塔。「道祖神」の文字が確認できた。双体道祖神 年代不明珍しく大きく「道祖神」の銘が、平成六(1994)年境内修復と。そしてその近くの梅林の白梅は満開であった。青空に映えて白が輝きを増す。そして多くのメジロが密を求めて。メジロの姿をしばし追う。そして岡津A遊水地の脇を通り坂道を上って行った。高台からの岡津の街並み。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.24
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「観音禅寺」を後にし、県道401号線を「阿久和川」に沿って下っていくと左手奥にあったのが横浜市認定歴史的建造物「中丸家長屋門」。横浜市泉区新橋町1290。右手の手前には「憩い(いこい)のまほろば」が。川沿いの中丸家長屋門のたたずまいに河川の風景が融和するように、また、人々が憩えるように配慮して、あずまや・ベンチ等の休憩施設、車椅子利用者対応のトイレや広場も整備されていいた。阿久和川は平成5年の「まほろばの川づくりモデル事業」(国土交通省)に、全国に先駆けて認定され、整備されていると。「まほろばの川案内図」であったが・・・・。「阿久和川」は、横浜市泉区から戸塚を流れ、柏尾川と合流する。さらに境川と合わさり、片瀬江ノ島の海に注ぐ川。 その区間を5つに分けて、それぞれ,「☆☆☆のまほろば」と名づけられているとのこと。川沿いは,遊歩道が整備されて、散策に適しているのだ。それぞれの「まほろば」はミニ公園のように整備されていると。この場所が「憩いのまほろば」そして下流に向けて「ふれあいのまほろば」、「出会いのまほろば」、「集いのまほろば」、「古のまほろば」があるとのこと。「まほろば」は、「素晴らしい場所」「住みやすい場所」という意味の日本の古語。「まほらば」「まほらま」「まほら」ともいうと。ネットからわかり易い地図を。 「https://twitter.com/taku_rinbo/status/592456264816267264」より「中丸家長屋門」を正面から。手前に「阿久和川」に架かる「阿久和めがね橋」。1999 年12月竣工。明治時代中頃に建築された「中丸家長屋門」は、平成13年度には、「横浜市認定歴史的建造物」に選ばれ、また、「中丸家長屋門とその周辺」が「横浜・人・まち・デザイン賞(まちなみ景観部門)」を受賞するなど泉区を代表する建築物。「横浜市選定歴史的建造物 中丸家長屋門」。「中丸家長屋門」前の「長寿地蔵尊」。コロナ対策として「face Shield」を着けて。「中丸家長屋門」下から内部を。人力車も展示されていた。中は一般の住居のため、これ以上は立入禁止のようであった。左に中丸家母屋と正面に土蔵が見えた。「ぴんころ地蔵の案内板」「長寿地蔵尊(ぴんころ地蔵)信州佐久地方は、日本でも有数の長寿の里として知られています。住みやすい風土と、千曲川の清流、そこで育った佐久鯉、新鮮な果実、野菜などの食物と昔ながら勤勉さ、信仰の深さが健康長寿の秘訣とされています。健康で長生きし(ぴんぴん)楽に大往生(ころ)を願ってここに長寿地蔵尊として【ぴんころ地蔵】が建立されております。毎月第ニ土曜日を縁日とし、健康長寿だけでなく子供たちの健やかな成長、家運隆盛などの功徳がえられます。」「中丸家文書にみる新橋地域の文明開化」中丸家長屋門建築頃の阿久和阿久和村は、天正19年(1591)5月より旗本安藤領であった。江戸時代、中丸家は代々名主を務めた旧家で代々定右衛門を名乗る。定右衛門は明治初期第17大区4小区阿久和村村用掛(当時の村長に相当)の職にあり、明治15年7月~ 16年3月迄阿久和村戸長兼学務委員を命じられ、屋敷内に戸長役場があった。中丸家には戸長役場時代の村に掛かる税金などの請求書や村用掛時代の地租改正に関する上申書が残されている。その後、明治17年5月、阿久和・岡津・上矢部・秋葉・名瀬の各村が岡津向導寺に連合戸長役場を設け、明治22年これらの村々が合併して中川村となった。「鎌倉郡阿久和村戸町 中丸定右衛門」申付書。「幕末から明治期の中丸家婚姻関係図」。横浜市歴史的建造物指定の中丸家長屋門中丸家の門は明治18年頃建築され、2階建入母屋造鋼版葺。桁行8間・梁間3間の出桁造。瀬谷の大岡家長屋門と同じ頃建築された。中丸家と大岡家は姻戚関係にあり、定右衛門妻サキと鶴吉妻タイは二代にわたり大岡家から嫁いできている。関東大震災でもビクともしなかったケヤキ材の長屋門は入口の木組が珍しい鳥居の形をしている。「中丸家付近の航空写真」。長屋門は入口の木組が珍しい鳥居の形。「キリスト教 阿久和教会と中丸家」明治18年3月、定右衛門は横浜に出ていた次男の鈴木彦太郎の導きで、長男鶴吉と共に横浜海岸教会の宣教師バラと稲垣牧師により受洗してキリスト教徒になった。翌19年には中丸家邸内に信徒60余名の阿久和教会が出来た。下記は明治30年迄の阿久和教会構成員推移表(大橋俊雄著・戸塚区の歴史下巻より)「中川村の経済を支えた横浜貿易・一族協力し農業経営養蚕・製糸・百合根栽培と中丸家」◎明治28年(1895) 9月には、北井要太郎の改良合名会社に1,600円(出資率23分の1)を 払込み、有力社員として近隣10名の取りまとめをしている。◎明治45年6月には明治44年操業を開始した下和泉の清水製糸場と生繭の売渡契約を行い、 200円(1貫目に付約4円50銭)を約定している。清水一族には中丸家から道三郎が養子に 出ている。(現清水美宏氏宅)「昭和15年頃の中丸家の養蚕風景母屋一杯に蚕棚を並べて家族総出で蚕を飼う。鶴吉夫妻も健在」写真の左右に「蚕棚」が写っている。「中川村歴代村長一覧中丸鶴吉は関東大震災当時の村長で倒壊した村役場で机の下にいて災難をのがれた」。「明治31年当時の泉区域の製糸業改良合名会社と中丸家瀬谷の長屋門公園付近には、区役所の建てた「製糸場跡」の看板が建ち、【この付近には相州改良社と大剛社があり、その為人の出入、車馬の往来が激しく賑やかなことから『江戸阿久和』ともいわれていた。】とある。改良合名会社の設立は「神奈川県統計書」によると明治二十四年二月で、当初から蒸気機関を用い、生糸製造高は創業後増加し二十九年~三十八年頃までの十年間が全盛期で、以後減少している。工女数は百数十名、最盛期にはニ百名を越えていた。経営者は阿久和の素封家北井要太郎で、工場はその邸宅門前にあった。」「輸出用百合根の栽培と新橋町新橋町の中丸家と横山家二つの長屋門は、製糸、百合根と横浜貿易盛んな時代に建てられた。百合の球根は、キリスト教の復活祭にはイースター・リリーと呼ばれ、百合の花は欠かせないもので、中丸一族は横浜植木と契約栽培を行い、2月頃種の球根を受け取り、花の咲く頃まで畑で栽培し球根を採取、汲沢にあった試作場で土を入れ梱包しアメリカなどに輸出された。昭和7年を頂点に満州事変で衰退した。下新橋の相原家・大貫家・柳畑の横山一族は新井商店と契約栽培を行っていた。」「横浜市認定歴史的建造物『中丸家長屋門』保全活用計画」と「横浜・人・まち・デザイン賞(まちなみ景観部門)」を受賞。「1.歴史的建造物の概要 (1)名称 中丸家長屋門 (2)所在地 横浜市泉区新橋町1290 (3)建築年代 明治中期と推定 (4)所有者 中丸定昭 (5)施工者 不詳 (6)建築規模 桁行14.56m(8間) 梁間5.46m(3間) (7)建築面積 面積:97.46m2(29.48坪) (8)建築概要 木造、2階建、入母屋造、銅板葺(元トタン葺き) (9)台帳登録 平成2年3月中丸家は旧中川村の旧家で屋敷地の西側を流れる阿久和川沿いにあり、かっては石積みの眼鏡橋を渡って屋敷に入ったので屋号は「めがね橋」と言われた。現当主て18代目を数え中丸一家は近在に14 、5軒ある。屋敷前の阿久和川沿いにはかって谷戸田と呼ばれた水田が続き、裏山には杉林や竹林があって田畑合わせて約14 ~5町歩ほどあり、製糸場の経営や質屋も営んでいた。主屋の前には質蔵が2棟あったが、平成9年(1997)年に1棟は建替え、残りの1棟は取り壊した。当初、菩提寺は岡津町にある西林寺(浄土宗)で、その本堂は当家の祖先が建造したが、その後戦時中に改宗し観音寺(曹洞宗)となった。代々の墓が裏山にあり、内墓(屋敷墓)形式をとどめている。その中には横浜海岸教会の信者だった祖先も見られ、当時としては進取的であった事が伺える。」「中丸家長屋門」左側には住居スペース(隠居部屋)があるようだ。「中丸家長屋門」右側には川に沿って白壁が続いていた。「阿久和川」を渡って。「阿久和めがね橋」は以前は「眼鏡橋」であったが現在は普通?の橋になっていた。橋の欄干が眼鏡のようになっていたが、これが昔の形なのであろうか?そして次に「新橋」交差点を右に折れ、白梅の花を楽しみながら進む。そしてここを左に入る。前方にもう一つの長屋門・「横山家長屋門」を訪ねた。横浜市泉区新橋町。横浜市泉区新橋町にある横山家長屋門は中丸家長屋門よりは新しく、大正時代に建てられたようだ。関東大震災でもびくともしなかったと伝えられている。背が高く、二階建てだ。中丸家とよく似て向かって左側が住居になっているのも共通。ガラス窓にカーテンが掛けられているのだが、ここに何方かがお住まいなのであろうか?門を入った直ぐ左側に海鼠壁(なまこかべ)の土蔵が見えた。良く見ると、母屋は長屋門の右側に直角に建っている。母屋も最近になって建てられたものではないから、もともと、長屋門と母屋を直角に南向きで建てているようだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.23
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「観音禅寺」の「釈迦殿」の横を上って行くと正面にあったのが「三尊像」。左から「文殊菩薩」、「聖観音菩薩」、「弥勒菩薩」。「三尊像」に更に近づいて。前方に石の太鼓橋そして「本殿」が見えた。左手に「水子地蔵菩薩像」。そして「本堂」を斜めから。「本堂」前には多くの履物が並べられており、内部では「法事」が行われているようであった。正面には寺の関係者の姿も。柘植の老木。「本堂」を正面から。旗本・安藤治右衛門正珍(まさとし)が阿久和村に知行地を賜り、元和元年(1615年)に先祖の冥福を祈るために創建した寺である。開山は快応孝頓大和尚禅師である。本尊の守本尊聖観世音菩薩立像(高さ80.5cm)は行基作と伝えられ、楠の一木造りである。鎌倉郡三十三箇所観音霊場第23番札所の観音さまであるが、33年毎にしか開帳されない秘仏である。次回の開帳は2048年であるとのこと。扁額「観音禅寺」。「本堂」前から「釈迦殿」の後ろ姿を見る。「本堂」の左側を見る。禅宗特有の「花頭窓」が周囲に。そして小高い場所にある墓地の斜面には多くの石仏が。「観音像」。「不動明王像」。「昇龍観音菩薩」像。こちらも「不動明王像」。境内の「道泉閣」横には「横浜ルンビニー保育園」が併設されており、子供たちの姿が。「横浜ルンビニー保育園」銘板。「ルンビニー」は仏教の開祖・釈迦(本名・サンスクリット語:ガウタマ・シッダールタ)の生まれたとされネパールの地。可愛らしい案内板。この保育園は、昭和12年から今日に至るまで、当地で保育を行なっている保育園。2015年4月より新園舎で保育を行っていると。施設の概要定員:122名(0歳:6名、1歳:20名、2歳~5歳:各24名)職員:37人(保育士:25名、栄養士:1名、保育補助者:4名、調理員:3名、その他:4名)園舎:鉄骨造3階建(990.57㎡)園庭:1534㎡休園日:日曜・祝祭日、12月29日~1月4日、8月1日、9月7日開園時間:月~金 7:30~19:00、土 7:00~15:00現在の入所状況(2/1現在)0歳:3名、1歳:20名、2歳:23名、3歳:23名、4歳:24名、5歳:24名 入所については 泉区こども家庭支援課(800-2413)へお問い合わせくださいと。保育児童たちの散歩の時間なのであろうか。境内を保母さんに連れられて。そして山門を出て「観音禅寺」を後にしたのであった。山門の扉には寺紋の「丸に下り藤」が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.22
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「新神明橋」を渡ると正面にあったのが、曹洞宗の寺で「阿久和山観音禅寺」。元和元年( 1615 )、阿久和村の領主であった徳川家康の家臣、安藤治右衛門正珍が、先の冥福を析るために創建したといわれています。宗派は曹洞宗で、旧鎌倉郡観音三十三札所のニ十三番札所です。本尊の聖観世音菩薩立像は、行基作と伝えられ、33年に一度に御開帳を行う秘仏です。また、釋迦殿には、スリランカから送られた仏舎利と涅槃像が安置されています。「曹洞宗 観音禅寺」の寺号標石。観音禅寺「山門」。観音禅寺山門に掛かる「鎌倉二十三番 札所 観音禅寺」の木札が右手に。山門前のお地蔵さま。「山門」前にも「曹洞宗 観音禅寺」の寺号標石が。この石碑は「奉納大乗妙典 坂東 西国 秩父 供養塔」。そして「坂東・西国秩父観音百か所供養塔」であろう。「山門」を潜る。扁額は「阿久和山」。山門横の白山堂基礎石。これが「白山堂」であろうか。山門横には俳号「行々子」の「句碑」が。「献句 晩鐘に 濡れて暮るる 花の雨」。そして境内参道から正面に「観音堂」が。参道の両脇には白梅が咲き始めていた。「鐘楼」と手前に「六地蔵」。「梵鐘」は昭和44年(1969年)銘。廻り込んで。赤い頭巾に赤い前掛けというお揃いの装いの「六地蔵」。「地蔵菩薩」ーーこれがお地蔵さまの正式な名前である。「菩薩」の名前からも察せられるように、数ある菩薩の中の一つに数えられている。お釈迦さまが入滅し、次の新たな釈迦如来が誕生するその時までの世の中を救う存在が地蔵菩薩であるとされている。そんな大役を担う地蔵菩薩は弱い立場の者から救うと考えられていることから、幼くして亡くなった子供や水子(流産などで産まれる前に亡くなってしまった子供)など、子供と縁の深い仏様とされているのである。赤い頭巾と前掛けは幼子の装いを想起させる江戸時代に入ると賽の河原の物語が流行し始める。賽の河原の物語とは、幼くして亡くなった子供が徳を積むために賽の河原(三途の川の岸辺)で石を積み上げる。しかし、そこに鬼がやってきて折角積み上げた石を崩してしまう。そこに地蔵菩薩がやってきて子供たちを冥界へと導いて行く。そんなお話が江戸庶民の間に流行し、「地蔵菩薩=子供の仏」というイメージが付いたのである。そこで思い浮かべていただきたいのは地蔵菩薩、つまりお地蔵さまの格好である。前述した頭巾に前掛けという装いは正に子供の格好そのままではないだろうか。更に「赤」という色も子供を表している。幼子を表す言葉に「赤ちゃん」や「赤ん坊」、また赤は太陽を表し、生命の起源を、さらに迷子になりやすい子供がしっかりと黄泉の国へと行けるように目印としての赤など、現在ではその赤色について様々な解釈がなされている と。「お掃除小僧掃けば散り 払えばまたも 塵つもる 人の心も 庭の落葉も」。正面に「観音堂」。扁額「大雄寶殿」。「平和観音」と右手に球状の「慰霊」碑。「平和記念日の碑第二次世界大戦終結以来三十七年月を迎えるに 日本経済は世界の尖端をゆき国内挙げて平和な日おくりを謳歌する今日隅々 世界大戦の激発により挙世惛乱赤誠応徴され国難に殉ぜられた英霊とその遺族に思いを至すとき 今ありし日の姿なきを見るに寂寥の感に堪えず 洵に哀悼の念深く感慨尽くるところなし 昨今世相安泰機縁熟し寺租一同本堂の再建と諸堂の伽藍復元を発願 祖徒一同この勝縁浄業に随喜し大願成就落慶された これを記念し篤信者より平和観音像竝びに各戦役戦死病没者諸英霊の慰霊碑寄進建立を期に当山租徒出身にして郷土の衆望を担い勇んで国難に赴き 再び生きて還らざる諸英霊のみ魂を祀り永く後世に功績を伝承しもって英霊を慰めんとす 願わくば諸英霊永久に阿久和山上より郷土の平和守護たらんことを茲に縁起由来を謹記する者也。昭和五十七年八月十五日 平和記念日」「阿弥陀如来像」と「佛足跡」。「佛足跡」。「足に描かれた模様」👈リンク。「佛足跡お釈迦様の平らな足の裏には、めでたい印の模様があります。そして人々はお釈迦様を慕っていまもその足跡を拝んでいます。お釈迦様が石の上に立って説法されると、そこに足形が残りました。この足跡を佛足石(ぶっそくせき)といい、これを拝み、手に触れ、沓(くつ)を脱ぎ足跡に自分の両足を重ねて立つと、とても清浄で心地よくなり智慧と慈悲の光明に照らしつつまれ、安楽な生活を送ることができると云われています。」観音禅寺「道泉閣」。「道泉閣」前の稚児像。園児の姿であろうか。「慈母観音像」。「一休さん」木魚を枕に居眠りする一休さん。観音寺「龍吟殿玄関」。「手水舎」と手前に「厄除地蔵」。龍の手水口からは水が流れ出ていた。「厄除地蔵」。六地蔵と同じく赤い頭巾と前掛けをして。「観音堂」を斜めから。「釈迦殿」内陣には釈迦如来像、仁王像が。 【https://bunbun410126.blog.ss-blog.jp/2015-12-31】よりその後ろには「涅槃像」が安置されていると。 【https://bunbun410126.blog.ss-blog.jp/2015-12-31】より「釋迦殿縁起由来記阿久和山観音寺は古くは公儀寺格の御朱印地の格式を持った四百年の歴史のある徳川一門の古刹であります。此の度当山は御縁を得ましてスリランカ国より佛舎利が奉安されました。併せて篤信の信者より釋迦涅槃像の寄進を受け安置されました。佛舍利は云うまでもなく佛陀の遺骨の事であります。舍利はサンスクリット語、シャリーラの音訳で、もともと佛陀または聖者の遺骨のことですが佛教ではいつしか佛の遺骨を意味するようになりました。当山と致しましてはこの様な尊い佛舍利と釋迦涅槃像を鑚迎申し上げなければと云う願いから釈迦殿を建立致しました。釋迦殿は檀信徒への教化は申すまでもなく広く世界と人類の平和と発展を祈願する生きとし生けるものの安らぎの象徴でもあります。茲に大願成就に当たって謹記する者也。平成十年四月吉日 当山二十ニ世 龍吟文丈 撰文」「孝順心」と刻まれた石碑。「孝順心」とは、親に孝行を尽くし、その意に逆らわない心。「合掌小僧」であろうか。「本堂旧跡地」碑。「阿久和山 観音禅寺 本堂再建記」。「阿久和山 観音禅寺 本堂再建記昭和五十ニ年一月一日当山住職ニ十ニ世龍玲文丈大和尚が発願し檀家の総意により昭和五十ニ年八月ニ十一日建設委員会を結成、同年十ニ月十七日名古屋市加納社寺建築事務所と契約し約五ヶ年の歳月と四億円の浄財幷びに植木、天水桶、平和観音像及び慰霊碑灯篭等の寄贈に依り本堂、位牌堂廻廊及び客殿并竝びに境内地の一切の整備が竣工いたしました。竝びに建設委員会を解散するに当り尽力された役員の芳名を記して永く後世に伝う者也」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.21
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「山王神社」を後にし、相鉄いずみ野線のトンネル上部の「四季の径」に戻る。下に見えたのが相鉄いずみ野線の「緑園都市駅」。「四季の径」の絵タイルにはイチョウの葉の模様が。坂道を下っていくと左手にあったのが「セントラルフィットネスクラブ緑園都市」。「緑園都市」案内図。1986年(昭和61年)には戸塚区(当時)岡津町の一部が駅名を採って南から北へと緑園一丁目 - 七丁目となったと。相鉄「緑園都市駅」東口。相鉄いずみ野線「緑園都市駅」は、昭和62年( 1987 )、新しい駅作リを推進するため、全国から「これからの駅」というキャッチフレーズて募集したアイデアをもとにつくられた駅舎。多くの緑、明るい採光、現代建築ながら利用者をホッとさせる配慮を忘れないユニークな駅。平成9年に「関東の駅百選」(国土交通省関東運輸局)に選ばれている と。横浜市泉区緑園3丁目。東口のロータリーには河津桜が3本、8分咲きか。そして、駅前広場の群像。緑園都市駅を中心とした、土地区画整理事業 の完成を記念して、駅の東口広場に昭和 62 年(1987)に建てられた記念碑であると。「緑園都市駅を中心とするこの広域にわたる街つくりは、相模鉄道株式会社の地域開発にかける情熱と関係地権者等の多大な協力の下に、中川第一土地区画整理組合事業として、十有余年の歳月と約三七三億円の巨費を投じ完成したものである。この事業推進の過程においては、多くの困難に遭遇したが、役員及び組合員の努力と監督官庁の適切な指導並びに業務に関係された方々の協力によって住みよい新住宅の誕生を見たものである。この地域の町名は緑豊かな街の発展を念じ「緑園(一丁目~七丁目)」と命名された。そして、緑と澄み切った空気に包まれた美しく輝かしいこの街が永遠に繁栄するように祈念してこれを建立する。中川第一土地区画整理組合付記一、組合設立 昭和四十九年十一月五日一、組合解散 昭和六十ニ年四月十五日一、施行地区 岡津町、名瀬町、新橋町、の各一部一、施行面積 一ニニ万ニ七三八平方メートル一、総事業費 三七三億五ニ三五万円一、組合員名簿はこの下に収める。組合事業代行者 相模鉄道株式会社工事設計・施工業者 相鉄建設株式会社」なんとか転写しました・・・・。この記念碑は、台座部分が地区内の旧町名岡津町、新橋町、名瀬町の三町を表しているのだと。人物像は、そこに住んでいた戸数46戸、約200名を表現しておリ、過去から現在、さらに未来へと続く都市と個人の歴史を「一筋の列」として作られたものである と。近づいて。反対方向から。そして再び河津桜をズームで。更に。駅舎を再び。「緑園都市駅」の駅前大通リ沿いにある商業街区を東に進む。建物間や内部に通リ抜けの通路を作ることをルールとして造られた、ユニークな8つの建物から構成されていると。いすれのビルも、吹き抜けや通路等を設け、光と風のふれあいのある開放感あふれる設計となっていた。平成8年に横浜市まちなみ景観賞を受賞しているのだと。「緑園都市駅入口」交差点を渡る。正面に「緑園都市噴水広場」が見えた。横浜市泉区緑園4丁目3−1。入口左には「サン・ステージ緑園都市 東の街」の銘板が。「噴水広場」(東の街入口)。コロナ禍で多くの噴水が止まっているが、この噴水広場には水の姿が。別の角度から。「フェリス女学院大学 緑園キャンパス」の正門が道を隔てた反対側に。横浜市泉区緑園4丁目5−3。「フェリス女学院大学」。文学部、国際交流学部、音楽学部1・2年次があるようだ。「「フェリス女学院」は、キリスト教の信仰に基づく女子教育を行うことを建学の精神としています。フェリス女学院大学の学則第1条にも、「キリスト教を教育の基本方針となし、学問研究及び教育の機関として、女子に高度の教育を授け、専門の学問を教授研究し、もって真理と平和を愛し、人類の福祉に寄与する人物を養成することを目的とする」と明記されています。」と「フェリス女学院大学」のページに。そして、来た商店街の道を戻り、「緑園都市駅」横のガードを潜り西に向かう。ここも急な坂道。右手にあった建物は?民家なのであろうか?ここ「緑園3丁目」交差点を左折する。途中、民家の塀の上、民家の庭先に石碑が。「道祖神」の文字が刻まれた石碑等が3基並んでいた。右側から双体道祖神?中央は駒型文字道祖神 左に駒型文字道祖神 いずれも年代は不明であった。「新橋神明谷第二公園」前を通過。そして「神明社」を訪ねた。横浜市泉区 新橋町1377。左手に手水舎。境内参道から社殿を見る。「神明社氏子会館 新橋上自治会館」の表札が掲げられていた。掲示板には「神明社」のお祀りや湯立神事等の様子の写真が掲載されていた。境内にある大ヒノキは幹の周囲が3.2 mもあリ、昭和49年( 1974 )に市の名木古木に指定された。むかし、神明谷戸といわれたこの地域の鎮守さまで、祭神は天照大神(あまてらすおおみ)と国常立神(くにとこだちのみ)のニ柱を祀っておリ、鎌倉時代末期嘉元年間( 1303 ~ 6 )の創建と伝えられている。扁額「神明社」。境内のピンクの枝垂れ(しだれ)梅。 「神明社」を後にして、「阿久和川」に向かって進む。途中、左手に折れ坂道を上がって行った場所にあったのが「新橋天満宮」。横浜市泉区新橋町1335-6。「社殿」。創建年代等は不詳ですが、泉区新橋町・瀬谷区阿久和にある阿久和熊野神社、新橋五靈社、新橋神明社などと共に旧阿久和村の鎮守社であったといいます。扁額「天満宮」。社殿の内陣の御本殿。坐像は、菅原道真公であろう。境内には、「天満宮改築記念碑」が。碑題のほか草書で刻まれた文字があり、おそらく、「昭和三十一年三月 □□相澤長三郎」と刻まれていた。他に、昭和五十四年九月吉日の灯籠、天保三年壬辰年(と思はれる)灯籠、昭和五十四年九月の手水鉢があった。新編相模国風土記稿の阿久和村の条には天神社の名があり他五社とともに村内の鎮守で村持ちとされている と。そして更に進むと「新神明橋」手前の右角にあった「庚申塔」。そして前方に「新神明橋」。「しんめいはし」。下を流れる川は「阿久和川」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.20
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この日は2月24日(水)、「横浜市泉区の古道を巡る」の3回目のスタート。横浜市泉区の最北近くにある「南万騎が原駅」から横浜市営地下鉄「中田駅」まで南下して行くルートを計画して進む。相鉄いずみ野線「南万騎が原駅」東口に出る。そして駅前の道路を西に進む。「南万騎が原駅」前の商店街。「そうてつローゼン」、「ダイソー相鉄ライフ南まきが原店」、「ハースブラウン 南万騎が原」等の店舗が確認できた。その先には集合住宅「KNOCKS みなまきみらい」が見えた。「南万騎が原駅前」交差点を左折し坂道を上り南下する。横浜市泉区と旭区の区境の道を進む。民家の横の河津桜も咲き終わり新芽が増えて来ていた。運動場「柏町グラウンド」の横を進む。そして、民家の門の前に立つ「相武(そうぶ)国境之道碑」前の路地に到着。横浜市泉区緑園6丁目53-7。「相武国境の道の碑」は泉区と旭区の境である緑園六丁目の角地に、昭和49年(1974)、地域の人が建てた武相国境の道の道標。この道標には「相武国境之道 南 相州鎌倉郡岡津村 北 武州都筑郡二俣川村」と刻まれていた。この国境に沿って、古代より国境(くにざかい)の道と呼ばれる道があり、細いながらも海と内陸部を結ぶ重要な道となっていたのだと。相州とは相模国(神奈川県)、武州とは武蔵国で現在の東京都、埼玉県のほとんどの地域、および神奈川県の川崎市、横浜市の大部分を含む。更に詳しく「現在地」を。「旧武蔵国都筑郡」と「旧相模国鎌倉郡」との国境の道。そして「旧武蔵国都筑郡」と「旧相模国鎌倉郡」との国境の道を東に進むと塀沿いにも石碑があった。「道しるべ」碑。「相模武蔵乃境 道しるべ 相模国鎌倉郡中川村 岡津字須郷谷しんたく」と刻まれていた。ここは「相模国鎌倉郡中川村 岡津字須郷谷しんたく」」武蔵は東京、相模は神奈川で境界は多摩川との思い込みがあったので、なぜここに国境碑があるのか解らなかった。帰宅してネットで調べてみると、相模もののふたち(永井路子著)によれば、北から武蔵系の豪族が南下し、海老名、二俣川あたりまで進出していたようだ、と。現在は旭区柏町の須郷谷(すごうやと)公園、泉区緑園の須郷台公園として名が残っている、と。そしてその「緑園須郷台公園」に向かって「池の谷」の丘の裾野沿いを進み途中左折し住宅街を進む。この周辺はアップダウンの多い場所であった。そして「緑園須郷台公園」に到着する。緑園六丁目にあリ、四季の径沿いに設けられている公園。「緑園須郷台公園」銘板。公園内には、つたのからまるアーチ、古代ギリシャ風の円柱の立つ広場、絵タイルで星座の位置が表示された円形広場等があった。緑園都市駅までは遊歩道が続いておリ、安心して歩くことができた。公園から駅に向かっていくと、高台から電車が眺められるのであった。星座のマークが敷き詰められているスペースがあり、自分の星座や家族の星座を探して楽しめるようであった。星の観察の宿題や星座の勉強にはもってこいの場所であると。真ん中には東西南北の方角が描かれていた。その周りにわし座などの星座の絵があった。「四季の道」を歩く。緑園都市駅からこども自然公園に続く歩行者専用道路。全体を春・夏・秋・冬のゾーンに分け、季節を彩る樹木を植え、四季にちなんだ絵タイルも施されていた。各ゾーンのポイントには、三角広場、レンガタイル貼リの洒落たアーチ形陸橋、公園などが配置されていた。平成元年度に横浜市まちなみ景観賞を受賞し、緑園のシンボル的存在となっている、と。そして次に訪ねた「山王神社」の姿が現れた。「山王神社」入口。横浜市泉区緑園3丁目23。緑園3丁目にある地元の鎮守さま。石鳥居の扁額「山王神社」。境内には庚申塔、道祖神塔がひっそりと残っていた。7基の庚申塔、道祖神塔を正面から。左側の4基。左から隅丸形文字道祖神、双体道祖神、共に昭和57年(1982)10月吉日の銘が後ろに。両方とも古いものの再建であろうか?その隣に法輪塔が。一番右は下記に。右側の4基。一番左には庚申塔。阿弥陀如来立像は元禄13年(1700)のもの。隣の笠塔婆の付いたものは貞享4年(1687)の建立。三猿、「庚申」の文字もあるので、庚申塔。その隣は宝暦13年( 1763)の文字庚申塔。一番右の大きなものは、笠塔婆型の文字庚申塔。建立年は寛文2年と書かれているのであろうか。そして「社殿」。この神社の本社は比叡山山麓にある日吉大社で大山咋神(おおやすくいのかみ)が祀られている。神社の周辺の地形は宅地開発により、すっかリ変わってしまったが、神社は開発前から今と全く同し場所、同し高さに社があるとのこと。「社殿」前から境内を振り返る。狛犬とその後ろでモクレンの蕾が膨らんでいた。台座には昭和五十七年十月の文字が刻まれていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.19
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そして「相鉄いずみ野線」まで戻り、線路沿いにあった「佐婆神社」を訪ねた。横浜市泉区和泉町4811。ここ境川流域には『サバ』神社という一風変わった名の神社が複数点在し、泉区内には「鯖」、「佐婆」、「左馬」などと表記される5つもの『サバ神社』があるのであった。神社名の由来としては、サバ神社の祭神が「源義朝(みなもとのよしとも)」もしくは「源満仲(みなもとのみつなか)であり、両者共に官命が「左馬頭」であったこととの関係が指摘されるが定かではないのだと。また、「鯖」、「佐婆」、「左馬」など表記の違いについても詳しいことはわかっていないと。尚、境川沿いの「飯田神社」「下飯田の左馬神社」2社は源義朝(みなもとのよしとも)が祭神であり、境川支流・和泉川沿いの、ここ「上和泉の佐婆神社」そして「中之宮左馬神社」「下和泉の鯖神社」は源満仲(みなもとのみつなか)が祭神であるという違いがあるのだ。はやり病に罹ると「七サバ参り」をすると治るという風習もあったという境川流域のサバ神社。古くは相模国鎌倉郡に属し歴史ある寺社が残る泉区の5つのサバ神社を巡ったのであった。石段を上っていくと正面に「佐婆神社」社殿が。社号標石「佐婆神社」。「佐婆神社」の裏を「相鉄いずみ野線」の電車が通過。「狛犬(阿形像)」。「狛犬(吽形像)」。樹齢が推定三百八十年を経たタブノキ(犬楠)の古木があった。横浜市の名木古木に指定されている「タブノキ」。「佐婆神社」の「社殿」この神社は、泉区役所の北西部の丘陵上に、相模鉄道線の高架線路を背にして祀られていた。通称「へっついさま」といわれ、むかし社殿がへっつい(竈)のように土塁に囲われていたからだといわれている。祭神は源満仲と、富士山の祭神である木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祀る。勧請年代は不明であるが、伝承では寛文年間(一六六一~七二)に地元の石川治右衛門が勧請したといわれ、また明治十一年に汲沢の森織部繁春が、和泉の古記録や伝承などを書いた『和泉往来』には、慶長年間(一五九六~一六一四)の勧請と記されている。天保六年に社殿を修復したときの棟札が残っている。また大正時代の物と思われるが、地域の俳句を好んだ人たちが献句した額が奉納されている。内陣。扁額「佐婆神社」。境内の「石塔群」。「相鉄いずみ野線」の高架線路が「佐婆神社」の奥に。そして「佐婆神社」を後にして「和泉川」に架かる「神田橋」を渡る。前方には「和泉川」から遊水池への溢流場所が確認できた。桜の季節には美しい光景が楽しめるのであろう。ここが「和泉遊水地」の「和泉第4遊水池」。そして「和泉第4遊水池」を廻り込み、「和泉川」から「和泉第4遊水池」への溢流部分をズームで。堤防上端より1m以上?下がった場所に溢流堤(いつりゅうてい)が設置されているのであった。大雨の際、低くしておいた堤防・溢流堤から、わざと水をあふれさせ遊水地(池)に一時的に溜めることで、下流に流れる量を減らす治水対策の1つ。 【https://www.fukushima-tv.co.jp/tv-news/bousai/】より「記念植樹泉区制20周年を記念して和泉遊水地ニ池、三池、四池の外周堤面に桜を植樹しました。和泉小学校の生徒と平和幼稚園の園児が近隣の人たちと一緒になうて植えました。桜の種類:工ドヒガン40本 カンザン30本 ウコン30本 平成18年12月1日」そして右手に「横浜市 泉土木事務所」が。隣りにあったのが「横浜市泉公会堂」。横浜市泉公会堂は講堂内の音の反響が良いため、小中高生の合唱や吹奏楽、地域の音楽サークルよる演奏会やリハーサル利用で多く利用されていると。その隣に「横浜市消防局 泉消防署」があった。梯子車の操作訓練中であった。消防署の前にあったのが「消火用 腕用ポンプ」。正面から。「防災モニュメント私たち一人ひとりが、平成2 3年3月1 1日の東日本大震災を忘れないため、防災の基本であるよこはま地震防災市民憲章(平成2 5年3月11日制定)と郷土を守っていた腕用ポンプを設置する。腕用ポンプこの腕用ポンプは、大正15年1月に横浜の製作所で作られたもので、中川警防団第二分団(現泉消防団)が消火活動に使用していたことが判っています。大正12年9月には、関東大震災により、横浜市も甚大な被害を受けたことから、当時の人々の災害を軽減するための期待を一身に、様々な災害で活躍したことがしのばれます。モニュメントのシンボルとして消防職員・消防団員の手により、思いを込めて復元しました。」「よこはま地震防災市民憲章 ~私たちの命は私たちで守る~ここ横浜は、かって関東大震災に見舞われ、多くの方が犠牲になりました。大地震は必ずやってきます。その時、行政からの支援はすぐには届きません。私たち横浜市民はそれぞれが持つ市民力を発揮し、一人ひとりの備えと地域の絆で大地震を乗り越えるため、こに憲章を定めます。穏やかな日常。それを一瞬にして破壊する大地震。大地震はいつも突然やって来る。今日かもしれないし、明日かもしれない。だから、私は自分に問いかける。地震への備えは十分だろうかと。大地震で生死を分けるのは、運・不運だけではない。また、自分で自分を守れない人がいることも忘れてはならない。私は、私自身と周りの大切な人たちの命を守りたい。だから、私は考える。今、地震が起きたら、とう行動しようかと。」不安の中の避難生活。けれどみんなが少しずっ我慢し、みんなが力を合わせれば必ず乗り越えられる。だから、私は自分に言い聞かせる。周りのためにできることが私にも必ずあると。東日本大震災から、私たちは多くのことを学んだ。頼みの行政も被災する。大地震から命守り、困難を乗り越えるのは私たち自身。多くの犠牲者のためにも、このことを風化させてはならない。だから、私は次世代に伝える。自助・共助の大切さを。」>そしてこの日の最後に、「横浜市 泉区役所」を訪ねた。横浜市泉区和泉中央北5-1-1 。「泉区 総合庁舎」。「横浜市泉区の市制を司る存在である「横浜市 泉区役所」は、いずみ野駅を最寄駅とする泉区総合庁舎に入っている。4階まであるフロアのうち、1階から3階までに区民からの申請・届出を受け付ける各課の窓口があり、各種証明書を発行する戸籍課や、国民健康保険などの申請を受け付ける保険年金課など、区民生活に密着した手続きを行う窓口は2階に集中している。一部の窓口は、通常は休庁日である第2・第4土曜日の午前に限り、窓口を開けて申請を受け付けている。」とネットから。入口左の像。「泉区制2 0周年記念モニュメントこの作品は、泉区制2 0周年を記念し、制作者のご好意と、泉区連合自治会町内会長会のご協力を得て、この地にモニュメントとして平成19年1月から設置しているものです。作品名 アニマ(Animaー魂・精神・生命の意味)作者 江田正盛(Masamori KODA)館内に入る。人の姿は少なかった。そして1階ロビー最奥の壁にあった書・「和」。書「和」 金澤翔子氏揮毫。そして、「泉区総合庁舎前」の交差点を渡り「いずみ野中央駅」へ向かい帰路に。そして相鉄線に乗り、小田急線へと乗り換えて帰宅したのであった。この日に歩数は「27,075歩」であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.18
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「和泉川」に沿って下流・南方面に進み「上分橋」で左折し「和泉川」を渡る。「上分橋」の名の由来は???「上分橋」を渡った右側は和泉川の「和泉遊水地」。「和泉遊水地案内図」。第1池~第4池に分かれていた。「和泉遊水地」を見る。この先に、テニスコート、サッカー場、野球場等があるようであった。そして次に訪ねたのが「正法寺」。道路からもひときはこんもりした林が見え、その中にあった寺。寺号標石「浄土宗 正法寺」。境内の「六地蔵」。多くの墓石が並んでいた。石祠も。新装なった「本堂」。浄土宗・宝心寺(和泉町)の住職が兼務しているというから無住なのであろう。鎌倉郡三十三箇所観音霊場の第25番札所になっているようであったが。扁額「正法寺」。多くの無縫塔は「歴代上人之墓所」。御神木は「タブノキ」であろうか。「正法寺」を後にし、再び「和泉川」に戻り進む。道路の右側からは養鶏場からの鶏、「和泉川」からは雀の鳴き声が賑やかに。「和泉川」には巨大な鯉が。足の疲れを癒やしてくれたのであった。「相鉄いずみの線」を潜り「上飯田交番前」交差点まで歩く。交差点の角にあったのが「金剛塔+三猿」。「笠付光背型形角柱青面金剛塔+三猿・・1729(享保14)年」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.17
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神奈中「柳明」バス停から「和泉川宮沢遊水池」の広場を見る。横浜市瀬谷区宮沢4丁目6-2。「和泉川宮沢遊水池」。「和泉川宮沢遊水池」は、和泉川の洪水を貯留する施設で貯水量は約5万m3。地下水を利用した池や水路には小魚などが生息し釣り人が訪れていた。「和泉川宮沢遊水地」案内図。宮沢遊水地の概要宮沢遊水地は、和泉川流域の市街化に伴う雨水流出量の増大による河川の氾濫を防止する目的で、河川の水を貯留する施設てす。また、治水上の機能に加えて、野外レクリエーションや環境学習の場として、さらには多目的広場など市民の皆様が有効に利用てきる施設です。●貯留容量: 48,650m3●貯水深: 3. Om釣り人の姿が。何か釣れたようであったが。「和泉川宮沢遊水池めがね橋」。1988年(昭和63年)の建造のようであった。下に降りて。そして再びこの日の復路に向かう。ここを右手に折れ、出発点の「いずみ中央駅」方面に南下する。しばらく南下していくと松陽高校の前の道路の向かいがわに,「道標(庚申塔)延享三年(1746)」と「馬頭観音」が立っていた。ここで、道標わきから狭いほうの右に入る道(この時に歩いて来た道)が「ほしのや道」であると。道標の庚申塔には、「右ハほしのやみち」「左ハ大石堂道」とあったのだと。現在は,下部から破損が進んで,下の方の文字はくずれてしまい、解読不能。道標の前の道は、鎌倉郡33ヶ所札所の「大石堂寺(現 柳明神社)」へ向かう道。「大石堂寺」は明治の初めに廃寺になり、現在は、跡地に先程訪ねた「柳明神社」が。左の「庚申塔」は、昔からの台座をふくめて、高さ104cmほど。右側面、「庚申供養」、「右ハほ・・・」の文字が確認できた。左は解読不可。右の「馬頭観音」は昔からの台座を含めて、高さ64cmほどであるとのこと。どちらも,新しいコンクリートの台座の上に、古い石の台座が乗っていたが。「道標とほしのや道庚申塔は、順礼者や村人たちのくらしの道として、賑わった「ほしのや道・大石堂道」の道標にもなっています。新橋小学校、松陽高校前、宮沢六道の辻へとつながるほしのや道は、坂東観音8番札所になっている座間の星谷寺へ通じる道です。大石堂道は、旧鎌倉郡観音2 4番札所になっている上飯田の柳明にあった大石寺へ通じる道です。」「神奈川県立松陽高等学校」正門が道路の向かいに。「松陽高校前」交差点を右折し、「いずみ野駅」方面に南下して進むと左手にあったのが「横浜市立いずみ野小学校」正門。その先に「泉消防署いずみ野消防出張所」。「いずみの団地5号棟前」交差点を右折して進むと、左手にあったのが「八幡神社 (はちまんじんじゃ)」。横浜市泉区和泉町6287。神社であるが立派なそして大きめの屋根のある「鐘楼」が。「梵鐘」。「社殿」。和泉川沿いの上和泉、主水分(もんとぶん)に昔から住む二十三軒の氏子が維持管理する鎮守様で、祭神は八幡神社共通の応神天皇である。この神社がいつごろここにお祀りされたかは不明であるが、享保十三年(一七二八)に社殿を再興したとの棟札が残されているのでそれ以前の勧請(かんじょう)であろう。この神社の呼び名を昔から「織部(おりべ)八幡」といっており、元亀(げんき)年間(一五七〇~三)に、汲沢の郷士、森織部義秀が勧請したと伝承されている。石段を上がって。現在この神社の境内地は、いずみ野住宅地より一段低い所になってしまったが、住宅が開発される前は主水分(もんとぶん)集落の一番上手の、和泉川に面したなだらかで豊かな森を背景に持つ丘陵の末端に鎮座していた。現在の社殿は大正六年(一九一七)十月、当時の氏子によって建立された。境内にはお宮には珍しい立派な鐘楼があった。扁額「八幡神社」。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。見事な向背下の龍の彫刻。木鼻(右)。木鼻(左)。そして「八幡神社」西側横の道路沿いにあった石仏・石塔群。右からマスク姿の地蔵尊(小)。地蔵尊(大)。嘉永3年建立の「文字庚申塔」。享保17年建立の「笠塔婆型青面金剛庚申塔」。顔の部分が修復された様で、おしろいを塗った如くに。比較的新しい「文字庚申塔」が一番左に。右側面に、「元禄15年12月吉日」とあったが・・・・。左側側に、「昭和60年春彼岸 再建」と彫られていて納得。そして「和泉川」枝流の「宮西橋」を渡る。「宮」とは「八幡神社」のことであろう。そしてその先に本流の「和泉川」に架かる「新宮西橋」を渡る。更に進むと、前方左に大きな民家が高台にあったが「横山製糸跡」であると。織部八幡から和泉川の宮西橋を越えて西に出た主水分 (もんとぶん)には横山姓の数軒の旧家がある。そのうち の1軒が、かつて旧泉区領域に 多かった製糸業の1軒、 「相鉄いずみ野線」が前方に。「横山製糸跡」を振り返る。横山製糸であった家であると。50名以上の従業員が働いていていたと。そして右手に小さな「神社」があった。内陣。「いずみ野駅」西の急カーブの場所。そして右側奥にあったのが「長谷川伸生母生家 横山家」。「『瞼(まぶた)の母』の作者として知られている長谷川伸は、和泉町出身の母「コウ」と横浜日の出町の長谷川寅之助の間に生まれました。その後コウは、事情により子を残して離別し、京都の生糸問屋で神奈川の青木町在住の三谷宗兵衛と再婚しました。宗兵衛との間に生まれた子には、一高教授で神学者隆正、昭和天皇の侍従長隆信らがいます。」とネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.16
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「柳明神社」を後にし、東に歩を進める。そして新幹線の跨線橋「第2和泉原Bo」39K960Mを渡る。「第2和泉原跨線橋」交差点を渡る。「いしかわ幼稚園」前を通過。横浜市泉区和泉町7308。そして懐かしい名前のバス停に遭遇。「早稲田(わせだ)」「和泉川」の支流の「上和泉橋」を渡る。山の斜面に小さな社が。そして「和泉川」の本流に架かる「和泉三家橋」を渡る。この付近の集落を三家(さんや)という。昔は石井・石 川・横山の3軒しかなかったというのが語源だと…。「和泉川」の上流を見る。前方に新幹線の高架が見えた。右手にこの後訪ねた「横山家」の大きな屋根が。そして左手にあったのが「(和泉)日枝(ひえ)神社」。横浜市泉区和泉町7445。「悠仁親王(ひさひとしんのう)殿下 誕生記念樹 高野槇」と刻まれた石碑が石灯籠の横に。「悠仁親王」のお印が「高野槇」であると。皇位継承順位は父・秋篠宮文仁親王に次ぐ第2位。「日枝神社」の「社殿」。和泉三家自治会の中心部に大山咋命(おおやまくいのみこと)・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を祀った日枝神社。大永6年(1526)、近江国一の宮の日吉大社を当地へ分祀したといわれ、和泉川沿いのこの地を開発し、新しい集落をつくった人々が勧請した。享保11年(1726)、天明3年(1783)、享和2年(1802)にそれぞれ氏子の寄進によって社殿を修復した。現在の社殿は関東大震災によって倒壊したものを、大正15年(1926)に新築したものである。境内には、第六天神社・御嶽(みたけ)神社があり、4月の春祭りには湯花神事、正月にはドンド焼きが行われていると。扁額「日枝社」。「神楽殿」。かつて、日枝神社の神楽殿が中和田小学校北部分教場(現飯田北小学校)の仮教室や分散授業の教室として使われたことがあったと。境内社「第六天神社・御嶽(みたけ)神社」。境内の石碑「・・・神」。「社殿」、「神楽殿」を見る。「日枝神社」の前の道路の反対側にあったのがバス停「三家(さんや)」。そして「日枝神社」交差点を左折した場所にあったのが「横山家のケヤキ」。「名木古木指定 ケヤキ」。夏になり葉が生い茂ると。ネットからそして近くにあった、赤桃の花であろうか?坂道の石垣の下の凹地に石碑群が安置されていた。坂の途中の石垣の中にあった石塔群。中心に「青面金剛像」、上に月・日そして邪気、三猿を刻んだ最も形の整ったもの。「正徳四甲午年」(1714)、左 「十一月吉日」「同求光院」。 「庚申塔」。右 「明治二十九年」(1896)左 「丙申十月吉日」台座には「和泉」と。「庚申塔」。右 「明治五申年」(1872)左 「正月吉辰」台座には「講中」「庚申塔」右側面「文政七甲申年」(1824)左側面「十一月吉日」そして再び「横山家のケヤキ」の前を通り北へと向かう。そして新幹線のガード下「和泉C・39k395m」を潜る。道路脇右手の「六地蔵」。マスクは付けていなかったが。横浜市泉区和泉町7554-1。そして「横浜市瀬谷区」の区鏡を走る道路に到着。二俣川の駅近くから境川までの連絡道である。そして道路脇の新しい「青面金剛庚申塔」を発見。道祖神は世代交代がありますが庚申塔は庚申供養成就で建てるのでこんなに新しいの見た事がないのであった。左側面に「左 神奈川道」「庚申□□」右側面に「宝暦六丙子十一月□□」「相州鎌倉郡□□□」「右 戸塚□」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.15
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「柳明神社(やなみょうじんじゃ)」への坂を上っていくと、左側に石碑群があった。右二つの石碑には「道祖神」の文字が。左側から①五輪塔②角柱型文字「道祖神」塔(上部丸)・・1874(安永3)年③角柱型文字「道祖神」塔・・1822(文政5)年そして正面に見えて来たのが「柳明神社」と「柳観音堂」。その前方に向かい合うようにあったのが「柳明天満宮」。横浜市泉区上飯田町4103。社殿。もちろん菅原道真を祀っている。「柳明神社」の末社なのであろう。天神さんにつきものの梅の花も咲きだして。そして向かい合う形で「柳明(やなみょう)神社」。「柳明神社廃寺になった鎌倉郡24番札所「大石寺跡」に、村境の伊勢山に祀られていた神明社を遷したものです。昭和50年に「柳明神社」と改められました。大石寺が廃寺になっとき本尊の観音像を阿久和村の観音寺に預けました。その後、村に不幸が起こったため、境内に観音堂を建て観音像を安置しました。神社裏の道の分岐点には、八王子道(鎌倉道)と神奈川道の道標が立っています。神社前には柳明天満宮もあります。泉区役所」実際には、「八王子道」と「大山道」でなのだろう。新装なった「柳明神社」。扁額も「柳明神社」。内陣。「日露戦争従軍碑」👈リンク明治三十七年(一九〇四)に始まった日露戦争に、泉区上飯田町柳明からも従軍したのであろう。柳明神社の境内に明治三十九年に地域の人々や「子供中(こどもちゅう)」によって造立された「日露戦役従軍之碑」と刻まれた碑が立っていた。碑には、柳明から従軍した「桑原林蔵、石井治三郎、羽太喜兵衛、石井広助、石井元太郎、石井佐市、石井庄太郎」の六人の名前が刻まれている。この碑にある石井広助は、村長、県会議長等を勤めた石井仁左衛門の子息である。明治三十七年に乃木大将の第三軍に属し、小隊長として旅順(りょじゅん)攻撃に参加し、銃弾に倒れた。享年二十八歳の時あった。境内の御神木・欅。境内の石塔群。角柱型文字「奉再興山王大権現」塔・・「寛政十一己未年」(1799年)と刻まれていると。笠付角柱塔庚申+三猿?。??????「観音堂」を見る。扁額「南無十一面観世音菩薩」。内陣。鍵のかかった扉の奥に「十一面観世音菩薩」が納められているのであろう。「六地蔵」「観音堂」の前に、「當寺本尊十一面観世音」と刻まれた石塔があった。「宝暦十庚辰霜月吉日」(1760年)と刻まれていると。台石には「大石寺」と彫られていた。側面には「鎌倉郡二十四番札所 上飯田村 鎮守 大百権現 十方施生」とある。碑文から、当時は、大石寺と呼ばれ、鎌倉郡観音三十三か所の二十四番札所になっていたようである。「西国・坂東・秩父観音百か所めぐり」だけでなく、当時は、「三浦郡観音三十三札所」「鎌倉郡観音三十三札所」などのように、郡単位の観音札所めぐりも、盛んに行われていた。「観音堂」。角柱型文字「堅牢地神塔(けんろうじしんとう)」。横浜市泉区上飯田町4579。台座には「柳明中」と刻まれていた。堅牢地神(けんろうじしん)は、仏教における天部の神の1 つで大地を司る。通常は女神であるが密教では男神と一対とする。十二天の一である地天と同一視される向きもある。堅牢地天、堅牢地祇、あるいは単に堅牢と呼ばれる場合もある。大地女神として、地の堅牢と神の不壊とに解釈される。つまり大地を堅固ならしめる神である。また仏法が流布される処に赴いて、その仏・如来の法座の下にあって警護するという。南大山道/北八王子道/東神奈川道道標、1861(文久元)年上飯田町4572から宅地造成のため移転したのだと。「柳観音堂」の裏は「柳明会館」が。そしてネットには柳田国男の「水曜手帳」👈リンク に「柳明」に村についての記事があるのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.14
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「本興寺」を後にし、寺の横を走る石畳の道・「せせらぎ緑道」&「五軒庭プロムナード」を新幹線の線路に向かって進む。杉林の中を歩くが、マスクの端を顔の頬、顎そして鼻に再度押し付けて進む。右手に「本興寺」の墓地、そして「本堂」が見えた。そして新幹線の跨線橋・「第二柳明橋」を渡る。東京駅から40K752M。跨線橋の記号はOverBridgeから[Bo]であるようだ。美しい富士山の姿が現れた。ズームして。折しも新幹線が通過。新幹線「跨線橋」を渡り、「せせらぎ緑道」を更に北に進む。突き当りを左折して進むと左手にあった「羽太(はぶと)郷土資料館」提供の「「江戸柳明(えどやなみょう)」古地図」。江戸時代には大いに繁栄していたという柳明の様子が描かれていた。きちんと「かまくらかみのみち(鎌倉街道 上の道)」👈リンク も描かれていた。地図の上部にある「かまくらいくさみち(たつみち)」の文字が。「たつみち(たつ道)」は地元では新田義貞鎌倉攻めの道と言い伝えられているとネットから。そして「羽太郷土資料館」。横浜市泉区上飯田町3590。「羽太郷土資料館」。羽太郷土資料館は、羽太俊一氏(故人)が私財を投じて「鎌倉道(藤沢八王子道)」沿いの羽太氏の屋敷跡に昭和62年(1987年)開設した。資料館には泉区内外から寄贈された古民具などが数多く陳列されていると。入口の扉は開いていたが、中には入らず。玄関には昔の懐かしい脱穀機等が置かれていた。羽太郷土資料館は34年前、同地区の羽太俊一氏が開設した民営の資料館で、農具や民具など千数百点もの資料を所蔵・展示して来たのだとネットから。 【https://art.kita-colle.com/museum/detail/400】よりそして「グローバー団地入口」交差点を左折し暫く行くと左手に墓地があった。墓地の入口左にあったのが「石井仁左衛門翁之碑」👈リンク。碑文によると、石井仁左衛門は、中和田村長や郡会議員、神奈川県議会議長として地域や県政の発展に尽くした人物。仁左衛門は、嘉永四年(一八五一)二月十日、高座郡福田村(大和市福田)に、斎藤庄兵の次男として生まれた。明治十九年(一八八六)上飯田村柳明の石井家の養子となり、二代目仁左衛門を襲名して家督を継いだ。明治二十二年二月、大日本帝国憲法が発布され、同年四月には市町村制の施行による町村の合併が行われた。加えて、同二十七年には消防組規則の制定などにより、従来村落がもっていた制度的な秩序が次第に崩壊していった。そのため、今まで若者組(青年集団)が担っていた地域社会での役割が低下していった。こうした社会の変化や若者の動向にいち早く目を向け「北部金蘭会」という青年集団としての会を組織し、地域の若者たちの教育に努めたのが石井仁左衛門であったのだと。その先右手の小さな林の中に小さな神社があった。「稲荷社」。手前には「油揚げ」が2枚奉納されていた。久しぶりに奉納された「油揚げ」を見たのであった。カラス等に突かれずに無傷で。前日は節分会であったのだ。「内陣」。ここでもお賽銭箱は内部に。そして道路を隔てた場所には、幟が立っていた。「稲荷大明神」の文字が確認できた。昔は、道路がなく、ここが「稲荷神社」への参道入口であったのだろう。周囲には歴史を感じさせる墓地も散在していた。そして「柳明神社」に向かって境川沿いを走る鎌倉街道を進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.13
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そして次に訪ねたのが「本興寺(ほんこうじ)」。横浜市泉区上飯田町3624。「本興寺」の「総門」は「冠木門」。二本の柱の上部に冠木を貫き渡し、上に屋根をかけた門。現在は屋根のないものをいうことが多いと。「日蓮宗本山 法華山 本興寺」案内。寺号標石「本山 本興寺」。日蓮宗別格本山の寺で、鎌倉の本興寺が幕府の弾圧に遭い、万治3年(1660)、日蓮ゆかりのこの地に移転したと言われています。55代住職日感(にっかん)の時、現在の本堂が再建(明治4年・1871)された。本堂の釈迦・日蓮・日什(にちじゅう)の一代記や七福神の彫刻は素晴らしいものと(非公開)。墓地には寺子屋師匠の筆子塚が3基あり、境内には中屋敷の鎮守さまである「天満宮」があった。「本興寺 参道」。参道の路地の角に3本の石碑が。歴史を感じさせる「題目法塔」。この石碑には「南無妙法蓮華経」の文字が。この石碑には「南無妙法蓮華経 元祖日蓮大上人 開山日什大聖人霊場」の文字が。この石碑には「南無妙法蓮華経 一萬部供養」の文字が。「南無妙法蓮華経」と一萬回読誦した時の記念に建てた石碑であろう。そしてその右奥の階段の上には「中屋敷天満宮」があった。横浜市泉区上飯田町3630-1。「本興寺」境内にある菅原道真を祀る神社。参道に戻り「本堂」に向かって進むと右手にあった「稲荷社」。オバチャン二人が神社境内の草取りを行っていた。「稲荷社」の「社殿」。そして正面に「仁王門」。天明五年(一七八五)に建てられた、仁王門と仁王像が迎えてくれた。この「仁王門」は戸塚区の文化財に指定されていると。掲示板には「日蓮は安房の国片海(かたうみ)の海人(あま)が子なり」と。「本尊問答抄」に記載された言葉であると。「横浜市指定有形文化財(絵画) 絹本著色法華宝塔曼荼羅 一幅平成2年11月1日指定 所有者:宗教法人 本興寺(ほんこうじ)寸法:縦 99.8センチ 横 42.3センチ虚空に湧出した宝塔中の多宝如来が、釈迦如来を迎えいれて併坐したという法華経説話を図示したものです。塔の上部に天蓋(てんがい)を浮かべ、その左右に日月を配し、九輪の塔頭(たっちゅう)から軒先に引かれた索条(さくじょう)に左右六体ずつの化仏(けぶつ)が懸かり、両如来の中央には「南無妙法蓮華経」の銘札が置かれています。塔の周辺には四天王、愛染・不動両明王、四菩薩、十羅刹女(じゅうらせつにょ)、鬼子母神などが配されています。この図様は、『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』に依拠する「曼荼羅本尊」を図絵したと思われ、京都・直行寺(じきぎょうじ)本が知られるほか、類例が少ないようです。截金(きりかね)を用いるなど華麗な色彩を以って描出された、14世紀末葉(まつよう)の制作と思われる佳作です。なお、本寺には永徳4年(1384)の年記のある同図様の版木と、その版刷りも伝存しています。」仁王門の屋根には「唐獅子と蕾付き橘の飾り瓦」が。その先には「鳩の飾り瓦」も。「仁王門」の扁額は「法華山」。そして仁王像(阿形像)は金網に覆われて。仁王像(吽形像)。「本興寺 縁起 当山は日蓮聖人が鎌倉に於いて辻説法をなされた旧地に弟子の天目上人が休息山本興寺を建立せられましたが、其の後日什上人が法華山本興寺と改称され自ら開基となられました。日什上人は比叡山学僧三千の学頭でありましたが、日蓮聖人の教風に感激し御年67才の時、天台より日蓮宗に改められ、称?来鎌倉本興寺を據点とし京都との間を往返数次、禁裡の奏聞三度、武家の諫暁数回、寺院の建立数ヶ寺に及び大いに宗風を宣揚せられました。其の後当山二十七世常楽院日経上人は各宗と法論して之を撃破せられ、殊に徳川家信奉の浄土宗と江戸城中にて法論に及び、為に慶長14年弟子五人と共に京都六条河原に於いて「耳鼻そぎ」の極刑に処せられました。己来当山に対する圧迫甚だしく、為に万治3年本立坊は什宝と共に担家を引き連れ当所に移転せられました。本年より310余年前であります。仁王門は天明5年建立。本堂は明治2年に再建せられ、堂内の欄間には釈迦、日蓮、日什の諸聖の一代記を表す54面の彫刻、扉には七福神の彫刻あり、又御宮殿の造作は大変精巧を極めて居ります。宝物として日什上人の絵曼荼羅、上人ご使用の桧扇、日経上人の血曼荼羅等があります。」正面から。「仁王門」を潜り「本堂」に向かって進む。右手に「手水舎」。「本堂」。万延2年(1861年)、本堂再建に踏み切り、明治2年(1869年)に落成した。外廊を入れて十間四面、彫刻は武州伊奈(五日市町)、小川長恒の作による扉四枚の七福神を始め、内陣・欄間のお釈迦様・日蓮聖人・日什上人の一代記を表す五十四面があると。境内は落ち葉一つ無く、見事に掃除が。毎日早朝に行われるのであろう。「本堂」の「唐破風下彫刻」の見事な精細さに驚く。ズームして。上部に本堂の懸魚。見事な彫刻が随所に組み込まれていた。七賢人の彫刻であろうか。「木鼻」(右)。帰路に撮影した左側の彫刻も見事。「木鼻」(左)。キロに撮影した右側の彫刻も見事。「本堂」入口扉は七福神の彫刻(右)。武州伊奈(五日市町)小川長恒の作であると。「本堂」入口扉は七福神の彫刻(左)。「本興寺」の「本堂」扉の日蓮宗の寺紋・「井桁に橘」。確か井伊家の家紋は「丸に橘」であるが、日蓮の出自は井伊家と関係があったのか?「本堂」の内陣。ズームして開祖日什上人の寄木造り玉眼入り木座像を。「十三重塔」。この碑も「題目法塔」か、「南無妙法蓮華経」と。手前には見事な箒目が。土蔵造りの御堂。昭和末あたりの建立とのこと。27世・常楽院日経上人の血曼荼羅や、開山日什上人のお曼荼羅・絵曼荼羅などが納められていると。日経上人は理不尽な慶長法難で、耳鼻そぎの惨刑を受けてしまった僧。一段高い墓地の中に「鐘楼」が。石段を上りながら「鐘楼」を。「梵鐘」。「梵鐘」にはお寺の縁起の文字が。歴代上人の御廟。開山の日什上人から66世の上人までの名が刻まれていた。「鐘楼」横から「本堂」を見る。見事な「三堀家」の墓碑と石仏。「永代供養塔」。一段高い場所には「慈母観音立像」が。お顔をズームで。足下にも小さな観音像が並んでいた。大きな五重石塔も。墓地の中から「本堂」を振り返る。墓地の端にも神社が。小さな「社」も。本堂の屋根には、「丸の内に二つ引き」の寺紋が。再び本堂の見事な向背の彫刻を追う。この時期にも関わらず、落ち葉一つ無い美しい境内。「本堂」前から「仁王門」方面を見る。「本堂」奥の「大客殿」。宗祖700遠忌・什祖600遠忌事業として昭和57年10月31日に落慶。再び「仁王門」を「本堂」側から見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.12
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「飯田神社」の横の道を北上する。左手にあったのが「上飯田西公園」。「いちょう団地入口」交差点を通過する。その先の信号のない交差点の左角に白い石碑があった。「甲子塔(かっしとう、きのえねとう)」(元治元年(1864年)銘)。横浜市泉区上飯田町2391。泉区唯一の「甲子塔」👈リンク。西暦年を60で割って4が余る年が甲子の年となると。因みに、昨年は中止になったが、今年は来週3月19日より13日間、春のセンバツ高校野球が開催される阪神甲子園球場であるが、大正13年( 1924年) 8月1日に竣工式が行われたがこの1924年が、甲子の年だったのであると。なるほど!!そして「60年に1度の縁起の良い年」だから、「長く続けたい物事はこの日に始めると良い」ということで「甲子園」と名付けられたのだと。甲子園は、1984年に還暦を迎えた。次に甲子の年になるのは2044年。あと23年・・・??。「甲子塔」は甲子日待ちを行っていた甲子講の人々が建てた供養塔。甲子日待は甲子の夜に禍を転じて福を授けてくれる大黒天を祀り、夜遅くまで飲食を共にしながら語り合う行事だったと云う。左手のものは道祖神なのか庚申塔なのかは判別不能。庚子塔左側面にある文字の中に「上飯田村」だけがなんとか判読できたが。更に「いちょう団地」に向かって進むとY字路があった。左手の付け根にあった「南無妙法蓮華経一千部供養」と刻まれた石碑。「南無妙法蓮華経題目塔」であろうか。「明和九・・・」の文字が。どこか懐かしい昭和レトロな「いちょう団地」には、巨大な給水塔が立っていた。「上飯田せせらぎ緑道案内」は悲惨な姿で。ここを右折して「正一位飯嶋稲荷神社」に向かう。立派な民家の冠木門の先に大きな幟が翻っていた。個人宅の敷地内にあるが如くに。今年の節分が前日であったため、大きな幟旗が。「稲荷」ではなく「稲成」。その名前には、大願成就などの意味が込められているのだと。社号標「正一飯嶋稲荷神社」。石鳥居の先に「社殿」。狛犬ならぬ狛狐(阿形像)が、よって稲荷社なのであろう。「玉」を咥えているのであろうか?玉は昔から「神の霊力」を象徴するものとされているのだと。狛狐(吽形像)。咥えている巻物は知恵・神様からのお言葉をあらわしているのだと。そして「正一位飯嶋稲荷神社」の「社殿」。「社殿」の内陣。幟には「奉献飯嶋正一位稲成大明神」と。隣の民家は「飯嶋家」、個人所有の神社なのであろうか?この付近に「飯嶋家」が多いようであったが。左手に「いちょう団地」を見ながら北上する。左手にあったのが「旧横浜市立いちょう小学校」・「横浜市立飯田北小学校」と平成26年4月1日に統合し、「横浜市立飯田北いちょう小学校」になり移転した模様。建物は「いちょうコミュニティハウス」になっていた。「いちょう団地前」交差点を進むと「いちょう小学校前」交差点の角に石碑が。「いちょう団地」碑。横浜市と大和市にまたがる神奈川県最大の公営住宅であると。広さは27万2476.9m2。境川を挟み、住所が横浜市側の「上飯田」と大和市側の「下和田」の2つに分かれている。建てられたのは今から約40年前の1971(昭和46)年。以後、改築や増築を行い、現在の棟数は1から84棟まで と。この団地は40年ほど前に作られた県営住宅で、近くの大和市に東南アジアからの移民受け入れセンターがあったことから、この団地にも多くの外国人が住むことになったのだと。日本語、カンボジア語、ベトナム語、中国語、スペイン語、英語の案内板が。「韓国語」がない理由は??そして再び「いちょう団地前」交差点まで戻る。この先、右手の細い路地にあったのが「ニ十三夜塔」と「道祖神塔」。横浜市泉区上飯田町3635-3付近。二十三夜塔とは、庚申講(こうしんこう)と同じく民間信仰のひとつとして、人々が集まって月を信仰の対象として「講中」といわれる仲間が集まり、飲食をし、お経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという月待行事(月待行事)を行い、その記念や供養のあかしとして建てられたもので、月待塔(つきまちとう)ともいいます。「ニ十三夜塔」👈リンク は泉区では唯一つのもので中屋敷の二十三夜講の人達が月待の記念か礼拝祈願の対象として建てたものとのこと。正面「二十三夜塔 講中 中屋敷 両山野」と。全国的には二十二夜塔や十五夜塔も多くあるが、二十三夜は月齢でいう「下弦の月」で、月が出る時間がほぼ午前0時で、その時刻と幻想的な月の形が信仰と重なり、「二十三夜」を一般的なものとしたようだと。「二十三夜」は月齢でいう「下弦の月」と。 【https://ameblo.jp/anglersstuff/entry-12596882467.html】より左側面 「相州鎌倉郡上飯田村 両山野」。右側面 「壬 文久二年 戌 正月吉祥日」。「道祖神塔」。左側面。右側面。「上飯田村」の文字は読めたが・・・。「五軒庭プロムナード及びせせらぎ緑道案内図五軒庭プロムナードは、「魅力ある道路づくり事業」の一環として本興寺仁王門から第ニ柳明橋を経由し、羽太郷土資料館(郷土の農機具等展示)付近までの道を整備したものです。また、せせらき縁道は「小川アメニティ事業」として大山道に沿って整備され一部五軒庭プロムナードと結ばれており、約1.8kmの散歩道とし一周できるようになっております。歴史的な資産や自然を楽しみながら魅力ある散策路としてご利用下さい。」そして次に訪ねた「本興寺」に向かって坂道を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.11
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ここ「JA横浜」の場所に「持田製糸場」👈リンク の工場があったとネットから。「持田製糸場」(中和田村)は、市内最古で規模も大きい製糸工場だったと。持田家は、幕末にはすでに副業として養蚕を営んでいた。明治になってから角左衛門は、酒造業を営むかたわら高座郡六合村(藤沢市)に一町歩(1ha)ほどの土地を取得して桑園に開墾。明治16年(1883)頃から座繰器(ざくりき)二台を購入し、女工員二人で製糸を始め、湘南社を通して出荷を始めた。明治22年、横浜の生糸売込商若尾幾造と提携して器械製糸を始めた。これが持田製糸場の始まりとなる。明治25年、角左衛門は自社敷地内に 「販売組合盛進社」 を設立。持田萬治は、明治27年(1894)5月、鎌倉郡中和田村上飯田3721番地(泉区上飯田町)に製糸場を設立した。泉区内には、所在が確認されているものだけでも8か所の製糸場があり、横浜市域では、瀬谷区とともに製糸業の盛んな所であった。生糸の技術の向上、製品の均一化をはかり、共同出荷を行った。持田初治郎は、創業者・角左衛門の子。そして次にこの場所に「上飯田天神山古墳」👈リンク があったと。かつて横浜市泉区上飯田町字天神山に存在した古墳時代中期末(5世紀末〜6世紀初頭頃)の古墳。径約30メートルの円墳で、泉区内唯一の高塚古墳だったと。発掘された当時の古墳の写真を「ネット」👈リンク から。 そして「鶴島弁財天」。この辺りの字を「鶴島」と呼んだが、上飯田地域ケアプラザの傍らの墓地に、小さな堂があり、周りに十数基の立派な石塔が立っていた。これは近くに数軒ある旧家、小曲(こまがり)家の墓地であるが、ここにはむかし「鶴島山(つるしまさん)小曲寺」という土地の旧家、小曲家の菩提寺があったが。幕末に廃寺になったのだと。「鶴島弁財天」碑。小曲有志一同と。上飯田団地の中を進む。右手にあったのが「神明神社」。横浜市泉区上飯田町1862。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。「鳥居」と「拝殿」。「拝殿」の奥に「本殿」。祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)。勧請年代は不明ですが、須賀神社と同様、建暦2年(1212)、泉小次郎親衡ちかひらが館を築いた折、その鬼門除け守護神として当社を勧請したと伝えられています。昭和10年(1935)11月、氏子の寄付により社殿が修復されています。神明社の隣には、農家の経済を支えた養蚕にちなんだ蚕霊(さんれい) 供養塔が(横浜市登録文化財)あったとのことであったが見つからなかった。「神明神社」を後にすると、前方に大きな生け垣が現れた。「イヌツゲ」の生け垣であると。横浜市の「名木古木指定」であると。そして更に進むと民家の跡地?に小さな社が2基。中を覗いたがお姿はなし。何処かに移転したのか?そして次に訪ねたのが「飯田神社」。解りにくかったが社号標は「村社 飯田神社」。社号標の手前にあった石祠。鳥居の前の地蔵像。祠に入った「地蔵尊」。台座の横には石の猿の姿が。七観音。右の2体は首のところで補修されていたが。 9基の「庚申塔塚」。左から庚申塔。右側面には(明治9年丙子(1876年)歳・・・三月吉祥・・・)銘。一番右には「北八王子道」その他「相州?鎌倉郡上飯田村」の文字も。左側面には、「東かまくら」、「西あツ木道」、「南ふじさは」と彫られているのだと。右隣の石碑。その隣。庚申供養塔であろう。金剛神供養霊塔(享保9年(1724年)銘)。右側面には「金剛神供養霊塔」と刻まれていた。その右の石塔・庚申塔。その右の石塔・庚申塔。割れの入ってしまった石塔。道祖神であろうか。「‥王大‥」(宝暦9年(1759年)銘)。供養塔か?(明和3年(1766年)銘)。そして「飯田神社」の「石鳥居」。「飯田神社境川や和泉川沿いに見られる「サバ神社」の一社で、祭神は源義朝を主神に宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)・大山昨神(おおやまくいのかみ)です。伝承によると、飯田五郎家義がお祀りしたといわれています。縄文時代、境川沿いは入り海で、神社の境内の土手から縄文後期の人々が使った注ロ(ちゅうこう)土器が出土しました。境内の神楽殿は、明治20年頃、飯田学校校舎として使われていました。鳥居前には地蔵像・七観音像・庚申塔・道祖神が立っています。」狛犬(阿形像)は毬を踏みつけて。狛犬の足元にある毬は、財産、あるいは吉祥の象徴。狛犬(吽形像)は子宝の象徴・子供を踏みつけて。「鐘楼」。「梵鐘」。昭和46年(1971年)銘の梵鐘。「手水舎」。「飯田神社 由緒」碑。「勧請年代は定かでないが、往古から当地に鎮座していり古寺であると伝えられている。社伝に、延應元年(一二三九)飯田三郎能信、当郷の地頭ニ復スルヤ厚キ奉幣ノ儀アリ。猶知行平山源太郎ノ崇敬特ニ深アリシ社ナリ」と伝え、寛政十二年ニ月、式部権大輔菅原長量が「飯田大明神」の神号額を奉納、また文化十三年ニ月に神祇管領卜部(うらベ)良長が京都から参向して奉幣、祝詞を奉上しているから有数の古社であった事が知られる。新編相模風土記稿に「飯田明神社、鯖明神とも唱ふ、村の鎮守なり、稲荷、山王を合祀す、村持。」とある如く記され、境川添いに祀られている往古から相模七鯖の一社で境の神として幾多の伝承も残されている。昭和三十年に現社殿を、また五十五年には参道並びに境内地の玉垣設置等氏子の赤誠の浄財により、各々完成、社頭の面目を一新した。」「飯田神社」👈リンク の「「社殿」。頭貫上の見事な彫刻。木鼻(右)。木鼻(左)。明治20年頃、「飯田学校校舎」👈リンクとして使われていたという「神楽殿」。「社務所」。「お囃子後継者募集中!」と。何処も同じ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.10
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この日は、先日に引き続き「鎌倉街道 上道」に沿った横浜市泉区上飯田町にある社寺仏閣等を訪ねた。小田急線そして相鉄いずみの線を利用し、自宅から約30分近くで「いずみ中央駅」に到着。1990年の相鉄いずみの線の開業時はここが終点駅であったが、1999年に相鉄いずみ野線が湘南台駅まで延伸し途中駅になったのだ。「いずみ中央駅」のコンコース。「いずみ中央駅」西口広場にあった少女?像。西口広場から「いずみ中央駅」を振り返る。「Eバス」は2014年4月より、ここ相鉄いずみ野線いずみ中央駅を起点とし下和泉住宅地区を循環する路線バスのこと。県道22号線・「長後街道(ちょうごかいどう)」に架かる「相鉄いずみの線」の高架橋が右手に。「「長後街道」として整備される前の旧道は、戸塚みち(大山道とも)や八王子街道と呼ばれていた。高座郡の長である「長郷」が変化した「長後」が地名の由来となっている。開通当初は新道・厚木街道と呼ばれていたが、昭和50年代頃から現在の名前で呼ばれるようになった。明治から大正時代にかけて藤沢市北部・横浜市泉区・瀬谷区周辺では養蚕が盛んで、長後街道周辺には製糸工場も数多くあったため、国道467号経由で八王子方面から繭の集荷や、東海道の宿場であった戸塚・保土ヶ谷経由で横浜港へ絹糸を運ぶための道として重要な役割を果たしていた。」とウィキペディアより。長後街道を西に向かって進む。道路の反対側・ガソリンスタンド脇にあった「庚申塔」をズームで。正面一杯に「庚申塔」の文字が彫られていた。文化12年(1815年)建立と。右は、「阿弥陀如来庚申塔」で延宝5年 (1678)の建立。阿弥陀如来の下には三猿が。「和泉坂上」交差点を渡る。左手に進むがこれが「鎌倉街道 上道」であるようだ。この日に歩いた場所には青線-----の如くに「鎌倉街道 上道」が走っていたのであった。進んでいくと左手に「上飯田けやき公園」。見事な生け垣のある「鎌倉街道 上道」を進む。石塀に囲まれた敷地の奥に石仏の姿が。光背観音立像+三猿の「三猿庚申塔」であるようだ。横浜市泉区上飯田町1094。正面に「大山」の姿が現れた。そして白き「富士山」の姿も。ズームで。「鎌倉街道 上道」は右手に折れ、正面にこれから訪ねる「無量寺」の前へと進んでいた。鎌倉時代には、「鎌倉街道 上道」を横切る「長後街道」はなかったのであろう。横浜市の汚水マンホール蓋。横浜のシンボルであるベイブリッジを中心に据え、周囲を船の操舵輪でデザインし、「のびゆく港・未来」を表しているのだと。「無量寺」の山門に向かって右側には白塀が続く。ここが「鎌倉街道 上道」。そして「無量寺」に到着。横浜市泉区上飯田町1112。「無量寺」の山門前から境内を見る。寺号標「浄土宗 帰命山(きみょうさん) 長寿院 無量寺」新編相模風土記稿に「浄土宗、鎌倉大町安養院末、本尊、阿弥陀を安ず。開山は善如、承応二年四月六日寂」とある。無量寺は、鎌倉安養院第十九世深誉上人が文禄2年(1593)に創建したと。「山門」前の左手にあったのが、家畜の霊を供養するために造られた「畜霊塔」。その奥に「六地蔵」。更にその奥に「無縁之墓」。「帰命山 長寿院 無量寺当山は鎌倉安養院第十九世深誉呑霊上人が文禄ニ年(一五九三年)に開創したと伝えられている。また『相模風土記稿』には、開山は善如(承応ニ年寂一六五三年)とある。伝承では、初め他所に創建されたが天災によリ本堂庫裡等すべて倒壊してしまい、現在地に移転して再建されたという。本尊 阿弥陀如来像は、相州鎌倉郡扇ケ谷の仏師 後藤左近の作。(元禄十五年、一七〇二年)宗旨 浄土宗総本山 京都知恩院宗祖 法然上人本尊 阿弥陀如来称名 南無阿弥陀仏所求 極楽浄土往生 合掌」。「山門」の扉には寺紋が。浄土宗の宗紋は『月影杏葉(つきかげぎょよう)』と呼ばれる紋。杏葉(ぎょうよう)とは、大陸伝来の“馬具”の事で、馬の鞍をつなぎ止める紐に付ける飾りのこと。金属・皮などで作られた物が多く、杏子(あんず)や銀杏の葉の形に似ている事から“杏葉”と呼ばれた。この杏葉は法然上人の生家の漆間家の紋に由来し、大正4年(1915)に、蕊(しべ)は7個とし、宗歌「月かげ」の月を配した現在の紋が定められたと。「鐘楼」。「梵鐘」。山門脇右にある高さ20m以上あるイチョウの大木は、横浜市指定の名木古木。高所の枝の場所には、南天の幼木がヤドリギの如くに。「本堂」正面。扁額「無量寺」。「寺務所」。寺務所の前には石仏と石碑が。石仏。元徳年間(1329~32)に造立された「板碑(いたび)」。「板碑」は、主に供養塔として使われる石碑の一種である。板石卒塔婆、板石塔婆とも呼ばれる。基本構造は、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものである。頭部に二条線が刻まれる。実際には省略される部位分もある と。その隣りにあった一遍上人52代の「名号碑(みょうごうひ)」は大山道の道標を兼ねていたと。大山参詣の人々は、この寺で足をとめて参拝したことであろう。寺の墓地には、「道者の墓」といわれる古くて苔むした無縁の墓があった。「下総・上総」と刻まれていたところから、下総、上総(千葉県)から大山参詣に行く途中に行き倒れになり、この寺に手厚く葬られたのであろう。「江戸時代の大山道 主要八道」。大山道(おおやまみち・おおやまどう)とは、主に江戸時代の関東各地から、相模国大山にある大山阿夫利神社への参詣者が通った古道の総称。大山街道(おおやまかいどう)とも呼ばれる。代表的なものとして、「田村通り大山道」や「青山通り大山道」などがある。上記の道標は「柏尾通り大山道」にあったもの東海道方面からの経路で、現在の神奈川県横浜市戸塚区から大山へ向かうものである。この経路の起点は不動坂と呼ばれ、道標や石碑が多くみられる。明治5年のころに、講衆同士が大げんかを始め、「戸塚の血の雨」と呼ばれる騒ぎになった。なお、下粕屋からは矢倉沢往還(青山通り大山道)を利用して大山に至るもの。境内のイチョウの大木と鐘楼を見る。境内横の墓地。「本堂」前の「手水場」。「本堂」の屋根の上にも浄土宗の宗紋『月影杏葉(つきかげぎょよう)』が。「掲示板」には「日々実践をこつこつと」。再び「無量寺」👈リンク を振り返る。「山門」の先にも「浄土宗 無量寺」案内が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.09
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国道136号から国道414号・伊豆縦貫自動車道に入り「下船原トンネル」手前を走る。「月ヶ瀬IC」交差点を直進する。左手に「道の駅 伊豆月ヶ瀬」があると。その先の橋は狩野川に架かる171m長さのアーチ橋「矢熊大橋」。「矢熊トンネル」、「雲金トンネル」から「日向トンネル」を通過。国道414号・伊豆縦貫自動車道の大平ICを通過し、「本立野トンネル」に入る。「修善寺IC」で一般道・国道414号に向けて進む。この先は有料道路になるようで、カーナビの案内に従う。左折し修善寺駅方面に向かう。正面に「修善寺駅」方面への狩野川を渡る「修善寺橋」が見えた。我々の車はここを左に進み更に北上する。左手にクライミングスポットの標高248mの「城山」の南壁が姿を現した。1964年(昭和39年)に地元旅館組合が中心となって、修善寺ロープウェイ(別名 城山ロープウェイ)が山の北西に開業し、26人乗りのゴンドラが山麓駅から修善寺川(桂川)を越え、山頂駅まで片道4分で客を運んでいた。当時の山頂には展望台や飲食施設などがあった。1977年(昭和52年)にはロープウェイが廃止された。現在の修善寺ICの下にロープウェイ山麓駅があったようだ。 【http://nippon-sumizumi-kanko.com/r-shuzenji-ropeway.html】よりまた山頂へ向かうハイキングコースは、実は「長嶋茂雄ランニングロード」と呼ばれている。今では読売巨人軍の終身名誉監督の長嶋茂雄氏ですが、現役時代の1967年から7年の間、彼が「山ごもり」と呼ばれた自主トレーニングの場として活用していたところがこの地であると。現在もハイキングとロッククライミングのゲレンデとして人気を集めている山であると。「クライミング」ガイド。 【https://fuwaku-yamanokai.com/?p=12516】より「大場川南」交差点を右折しひたすら北上する。「熱函西」交差点を通過。「大場函南IC」を通過。「伊豆縦貫自動車道」の「東海道線」の上を走る高架に向かって進む。左手が静岡県三島市錦が丘の住宅街。「三島塚原IC」手前で富士山が再び姿を現した。「長泉IC」交差点を右折し国道246号で御殿場方面に進む。遠く西の「駿河湾」がオレンジ色に染まり始めていた。「裾野バイパス」からの富士山。「萩原北」交差点を右折し御殿場に向かって進む。「御殿場バイパス」を「乙女峠」に向けて進む。箱根外輪山の中腹、大きな風車がランドマークの「富士松天望レストラン」が前方左手に。御殿場の街並み越しに富士山とその南峰に続く愛鷹連峰を一望できる と。「富士松天望レストラン」に近づいて。そして県道401号・御殿場バイパスから富士山の全景が現れた。2020年7月15日リニューアルオープンした「FUJIMI CAFE GOTEMBA」前で車を駐める。そして富士山の「赤富士」に期待して待つ。上空の雲は少しずつオレンジ色に染まりつつあったが残念ながらこれ以上にはならなかったのであった。「赤富士」を諦めて「乙女トンネル」に入る。そしてこの日の仙石原にある宿泊施設、そして我々の卒業した会社の健康保険組合の保養施設に到着。時間は17:44。受付で体温チェックを受け入館する。そして18時からの夕食会場に。宿泊者は我々3人のみ。この日の夕食メニュー。肉料理。刺し身。そして部屋に戻り、食堂で買い込んだ焼酎で反省会の2次会を。私はいつの間にか爆睡へ。そして早朝6時前に起床し、温泉に。脱衣場は一つおきに使用するようになっていた。温泉成分案内。源泉が大涌谷温泉からと。新型コロナウィルス注意事項。洗面場所。そして私一人占めの温泉朝風呂。乳白色の硫黄泉でのんびりと。客室前も静寂が。そして7:30からの朝食会場へ。3人でトータル18,567円の格安。ビール等のアルコール含めて6,200円/人。そしてこの日の朝は大雨であったため、何処にも寄らずに帰宅の途についたのであった。そして無事帰宅し今年の「河津桜」そして西伊豆海岸へ出て箱根仙石原へのドライブ「行っちゃいました・今年も河津桜に誘われて」が終了したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2021.03.08
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そして遅い時間になってしまったが、いつもの「沖あがり食堂」で昼食。時間は14:06。賀茂郡西伊豆町仁科980-6 、伊豆漁港仁科支所の前にあった。ドアを開けて店に入ると、いつもは外で迎えてくれていた味のある看板オジサンが赤い眼鏡をかけて、室内で「入店前に手の消毒」を見張ってくれていた。「メニュー」ここ「沖あがり食堂」は、刺身イカを乗せた「イカス丼」、漬けたイカと卵の黄身で夕陽をかたどった「夕陽丼」、刺身イカと漬けたイカを乗せた「いか様丼」など”イカ”と”丼”にこだわるユニークな食堂。「伊豆半島西岸に位置する西伊豆仁科で、古くから営まれるイカの一本釣り漁業。主な漁場は、日本で一番深い湾として知られる駿河湾中央部にある石花海(せのうみ)です。深い場所ばかりでなく40mほどの浅い場所があるため、その高低差によって湧昇流が発生し、豊かな漁場を形成しています。イカの水揚は一年中行われますが、夏はスルメイカ、秋から冬にかけてはヤリイカの水揚が最盛期。希少価値の高いヤリイカは、高い鮮度を保ったまま市場へ届けるため活魚で出荷しています。旬のヤリイカは、肉厚でありながら柔らかく、独特のトロリとした甘みのある味わいが魅力です。夜に出航し、船の明かりに集まって浮上してきたイカを釣り上げる一般的なイカ漁と異なり、仁科では昼に出航して海底近くのイカを釣り上げるため、イカにストレスがかかりません。それが、甘みの強さにつながっています。内臓が透けるほど透明な刺身は、絶品。後味はサッパリとしているため、いくらでも食べられてしまいます。」とネットから。 【http://www.pride-fish.jp/JPF/pref/detail.php?pk=1412832814】より多くの「大漁旗」が壁面に。「沖あがり食堂」の「大漁旗」も。そしていつもの「いか様丼」が食べたかったが。写真は以前訪ねた時のもの。スルメイカと漬けの二種類を乗せ、更に生卵の黄身を乗せてある。西伊豆はイカ漁が盛んなので、イカ様様といったところでしょうか。そして、西伊豆は「日本一の夕陽」をキャッチフレーズにしている。黄金崎は夕陽で岩肌が輝くことで有名ですし、他にも夕陽の絶景ポイントはいくつもあるのだ。ということで、この卵の黄身は西伊豆の夕陽を表しているのだと。これに醤油をちょっと垂らし、イカと黄身とショウガを混ぜてご飯と一緒に。新鮮なイカの、甘みのあるねっとりとした食感が絶妙!なのであったが・・・。この日は既に売り切れと!!やむなく「サザエ丼」を注文して待つ。すると、ご飯がなくなり炊き込み中であるので後20分待って欲しいと。そしてその間はサービスの一口ケーキを と。そして漸く「サザエ丼」が目の前に。生のサザエ丼を想像していたが、生ではなく卵とじなのであった。1個分のサザエがスライスされて。しかし、やはり「いか様丼」が食べたかったのであった。店内には、海産物の土産物売り場もあった。多くの海産物が。入口の反対側には「はんばた市場」が出来ていた。昨年の5月にオープンしたようであった。店名の“はんばた”とは、“浜の端”という地元の方言からとったものだと。「はんばた市場」は、地元の農業・漁業者たちが卸した新鮮な野菜や鮮魚が販売される、農林水産物の直売所。地域の一次産業の活性化を目指し、西伊豆町が店舗を建設、地域の企業組合が運営管理していると。「いか様丼」に、少なくなった!!「後ろ髪」を引かれる思いで車に乗り込み、更に国道136号を北上したのであった。前方に「堂ヶ島公園」👈リンク 案内表示が。英文表示は「Dogashima Park」。伊豆半島の中でも、景勝地として知られる「堂ヶ島」。ここに立つと、自然という芸術家がいかに偉大でユニークかがよく分かるのだ。奇岩や景勝地が多彩に並ぶ堂ヶ島には天窓洞や三四郎島、トンボロなど目を見張る多くの観光スポットが。前方の「河津桜」の先に「浮島トンネル」が。しばし国道136号で次々に出くわす「トンネル」をカメラで追う。「平羽根トンネル」。「平野トンネル」。「新田子トンネル」。「大田子トンネル」。「新安良里トンネル」。左手に安良里の湾が見えた。「小谷トンネル」。「浜川トンネル」。「黄金岬トンネル」。左手に「黄金崎クリスタルパーク」が。ここは訪ねた事はないが。「新宇久須トンネル」。「三瀧トンネル」。「松ヶ坂トンネル」。伊豆市八木沢手前から前方に「御浜岬」が見えて来た。「駿河湾フェリー」の姿が。静岡清水港と西伊豆土肥港をわずか70分で結ぶ駿河湾フェリー。絶景の富士山を体感できるパノラマクルーズが出来ると。フェリー乗り場入口を国道136号から車窓越しに。左手に県道223号・清水港土肥線の表示が。ここ静岡県の「県道223号」は海の上にあり、駿河湾の清水港と土肥港を結ぶ航路。天候に恵まれれば、富士山が見えることから2013年に「県道2(ふ)2(じ)3(さん)号」に認定されたのだと。この県道には駿河湾フェリーが通っており、土肥港から清水港まで約1時間で行くことができるのだ。「八木沢トンネル」。右手に「土肥金山」。ギネス登録の世界一の巨大金塊、砂金採り体験、お食事、お土産、パワースポットと家族で楽しめる金のテーマパーク。これは、昔子供たちと一緒に訪ねた時の写真であるが金塊重量250kgでケースの穴から家族全員が手を入れて触れて来たが、現在でも出来るのであろうか?現在の金価格は約6500円/gであるので何と16億2500万円となるが。土肥の「山川」を渡りすぐ先を右折し、国道136号を更に山に向かって東に進む。急な坂道を上って行く。左手に西伊豆海岸を隔てる山が連なる。「小嵐トンネル」。「本沢大橋」を渡る。「西尾平トンネル」を渡る。「小松原橋」を渡る。船原峠(土肥峠)の下を通過している「船原トンネル」。船原峠(土肥峠)は静岡県伊豆市に位置する標高574mの峠。別名は土肥峠。 下を通るこの国道136号の「船原トンネル」で中伊豆と西伊豆が結ばれている。そして「天城ドーム」が姿を現した。静岡県伊豆市上船原1120-1。船原温泉の先天城湯ヶ島上船原を左に山手へ1㎞入った丘陵に位置する市営の大規模スポーツレジャー施設。木立に囲まれ た50万㎡の広場に、天城ドーム、ナイター設備付き4面を含むテニスコート10面、9ホールのゴルフコース、サッカーなど2試合が同時にできる多目的総合グラウンド、両翼100mの大型野球場などのスポーツ施設と、公園、宿泊施設、陶芸を楽しめる陶芸の家天城、キャンプ場、が設けられている。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.07
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タイトル👈リンク 発表日★鎌倉散策・長谷寺へ 2014.12.13 ★鎌倉散策・海藏寺へ 2014.12.14★鎌倉・御霊神社へ 2016.07.19★鎌倉・長谷寺へ(その1) 2016.07.20★鎌倉・長谷寺へ(その2) 2016.07.21★鎌倉・壽福寺へ 2016.07.22★鎌倉・海蔵寺へ 2016.07.24★鎌倉・浄智寺へ 2016.07.25★鎌倉・円覚寺へ 2016.07.26★大船観音へ 2016.07.27★鎌倉・寿福寺へ 2017.01.22★鎌倉・神苑ぼたん庭園へ(その1) 2017.01.28★鎌倉・神苑ぼたん庭園へ(その2) 2017.01.29 ★鎌倉・鶴岡八幡宮へ 2017.01.30★大船フラワーセンターへ(その1) 2017.06.16★大船フラワーセンターへ(その2)・バラ園 2017.06.17★大船フラワーセンターへ(その3)・花菖蒲園 2017.06.18★大船フラワーセンターへ(その4)・芝生広場、鑑賞温室 2017.06.19★鎌倉散歩・葛原岡神社へ 2017.06.21★鎌倉散歩・銭洗弁財天、佐助稲荷神社へ 2017.06.22★鎌倉散歩・妙本寺へ 2017.06.23★鎌倉散歩・本覚寺から東慶寺へ 2017.06.24★鎌倉散歩・明月院へ 2017.06.25★鎌倉散歩・常楽寺へ 2017.06.26★鎌倉・長谷寺の紅葉ライトアップ 2017.12.22★晩秋の鎌倉紅葉巡り:円覚寺(その1) 2017.12.23★晩秋の鎌倉紅葉巡り:円覚寺(その2) 2017.12.24★晩秋の鎌倉紅葉巡り:浄智寺(じょうちじ) 2017.12.26★晩秋の鎌倉紅葉巡り:葛原岡神社⇒源氏山⇒銭洗弁財天 2017.12.27★晩秋の鎌倉紅葉巡り:佐助稲荷神社⇒鎌倉歴史文化交流館 2017.12.28★晩秋の鎌倉紅葉巡り: 2017.12.29 鶴岡八幡宮⇒源頼朝の墓⇒島津忠久、大江広元、北条義時の墓★晩秋の鎌倉紅葉巡り:荏柄天神社⇒鎌倉宮⇒大巧寺⇒本覚寺 2017.12.30★晩秋の鎌倉紅葉巡り:妙本寺 2017.12.31★鎌倉の冬を歩く(その1) 2018.02.03 鎌倉駅~大巧寺~夷堂橋~妙本寺~ぼたもち寺~八雲神社★鎌倉の冬を歩く(その2) 2018.02.04 祇園山ハイキングコース~別願寺~上行寺~安養院~本興寺~辻薬師堂~釈迦堂切通し~ 大町釈迦堂口遺跡 ★鎌倉の冬を歩く(その3) 2018.02.06 妙法寺~安国論寺~長勝寺★鎌倉の冬を歩く(その4) 2018.02.10 銚子の井~日蓮乞水~小坪トンネル~名越切通~まんだら堂やぐら~法性寺墓地~ 日蓮の岩窟~山王大権現~法性寺 ★鎌倉の冬を歩く(その5) 2018.02.11 鎌倉市子ども自然ふれあいの森~衣張山~平成巡礼道~上杉朝宗及氏憲邸址★鎌倉の冬を歩く(その6) 2018.02.12 旧華頂宮邸~報国寺★鎌倉の冬を歩く(その7) 2018.02.13 浄妙寺~杉本寺~鎌倉駅~帰路★「かまくら 長谷の灯かり」へ その1~4 2018.09.01~ 極楽寺~御霊神社~長谷寺~光則寺~甘縄神明宮~鎌倉文学館 小町通り・イタリアンレストラン「ラ・ルーチェ/La Luce」★龍口寺『龍の口法難会』ぼたもち供養&万灯練り供養(その1~3) 2019.09.21~★日比谷花壇大船フラワーセンターへ 2020.06.24★藤沢歴史散歩:その8 鎌倉市植木地区を訪ねる 2020.07.01 二伝寺~久成寺~圓光寺~ 貞宗寺★藤沢歴史散歩:その9 鎌倉市榎木地区を訪ねる 2020.07.02 陣屋坂~相模陣稲荷神社~玉縄城跡周辺~七曲坂~玉縄城長屋門~諏訪神社~ 龍宝寺~玉泉寺~山崎跨線橋★藤沢歴史散歩:その11 鎌倉市山崎地区を訪ねる 2020.07.04 妙法寺~庚申塔~天神山城~北野神社~山崎交差点~江の島への道標~昌清院~ 富士塚公園~富士講石碑★藤沢歴史散歩:その12 鎌倉市寺分~梶原地区を訪ねる 2020.07.05 湘南町屋駅~泉光院~上町屋天満宮~泣塔~洲崎古戦場跡~等覚寺~大慶寺~ 駒形神社~東光寺~梶原 御霊神社~鎌倉市立深沢小学校★古都「鎌倉」を巡る(その1): 2021.04.24 龍口寺(藤沢市)(1/3) ★古都「鎌倉」を巡る(その2): 2021.04.25 龍口寺(藤沢市)(2/3) ★古都「鎌倉」を巡る(その3): 2021.04.26 龍口寺(3/3)★古都「鎌倉」を巡る(その4): 2021.04.27 法源寺~庚申塚~霊鷲寺~戦没者慰霊塔~宝善院★古都「鎌倉」を巡る(その5): 2021.04.28 庚申供養塔群~道祖神塔群~本行寺~本龍寺~勧行寺 ★古都「鎌倉」を巡る(その6): 2021.04.29 妙典寺~東漸寺~本成寺★古都「鎌倉」を巡る(その7): 2021.04.30 義經腰越状旧跡・満福寺 ★古都「鎌倉」を巡る(その8): 2021.05.01 鎌倉七里ヶ浜霊園★古都「鎌倉」を巡る(その9): 2021.05.02 浄泉寺★古都「鎌倉」を巡る(その10): 2021.05.03 小動神社★古都「鎌倉」を巡る(その11): 2021.05.04 七里ヶ浜を歩く・鎌倉海岸キリスト教会~江ノ電鎌倉高校前駅~日坂~顕証寺 ~七里ヶ浜駅 ~行合川★古都「鎌倉」を巡る(その12): 2021.05.05 行合川碑~日蓮聖人雨乞霊跡道碑~雨乞の池~日蓮上人祈雨旧跡碑~霊光寺 ~海の見える坂道 ★古都「鎌倉」を巡る(その13): 2021.05.06 七里ヶ浜~十一人塚~稲荷神社~極楽寺橋~稲村ヶ崎公園 ★古都「鎌倉」を巡る(その14): 2021.05.07 白山神社~持法日實法師碑~日蓮袈裟掛け松跡~針磨橋~阿佛邸旧蹟~極楽寺駅 ~極楽洞~上杉憲方墓~極楽寺坂~日限地蔵菩薩★古都「鎌倉」を巡る(その15): 2021.05.08 星井寺~星の井~成就院★古都「鎌倉」を巡る(その16): 2021.05.09 桜橋~極楽洞~導地蔵~極楽寺 ★古都「鎌倉」を巡る(その17): 2021.05.10 熊野神宮~稲村ヶ崎小学校~月影地蔵堂~極楽寺のお化けトンネル~子守神社★古都「鎌倉」を巡る(その18): 2021.05.11 円久寺~常盤八雲神社 ★古都「鎌倉」を巡る(その19): 2021.05.12 仏行寺~笛田3丁目~梶原口~帰路★古都「鎌倉」を巡る(その20): 2021.05.13 三十番神社~青蓮寺(1/3)★古都「鎌倉」を巡る(その21): 2021.05.14 青蓮寺(2/3)★古都「鎌倉」を巡る(その22): 2021.05.15 青蓮寺(3/3)★古都「鎌倉」を巡る(その23): 2021.05.16 熊野神社~歓廣稲荷大明神~谷戸坂の切通し~普賢光明寺~靈元根本道場~ 鎌倉山ロータリー~しのぶ塚~佐佐木信綱文学碑~夫婦池公園碑~鎌倉山記 ★古都「鎌倉」を巡る(その24): 2021.05.17 檑亭(1/2)★古都「鎌倉」を巡る(その25): 2021.05.18 檑亭(2/2)★古都「鎌倉」を巡る(その26): 2021.05.19 日本山妙法寺~鎌倉山神社~扇湖山荘~聖福寺阯~龍口明神社~経六稲荷社★古都「鎌倉」を巡る(その27): 2021.05.20 大船駅~山蒼稲荷神社~鎌倉女子大学~鎌倉芸術館~木曽冠者義高之墓・姫宮の墓★古都「鎌倉」を巡る(その28): 2021.05.21 鎌倉大船キリスト教会~庚申塔群~多聞院~熊野神社~高野の切通し★古都「鎌倉」を巡る(その29): 2021.05.22 甘糟家長屋門 ~長窪の切通し~高野台供養塔~成福寺★鎌倉・龍寶寺に立ち寄る 2021.05.22★古都「鎌倉」を巡る(その30): 2021.05.23 厳島神社~台の手掘隧道~八幡神社~好好洞~八雲神社~円覚寺塔頭・雲頂禅庵★玉縄歴史館・重文旧石井家住宅へ(その1): 2021.05.24 玉縄歴史館(1/2)★玉縄歴史館・重文旧石井家住宅へ(その2): 2021.05.24 玉縄歴史館(2/2) ★玉縄歴史館・重文旧石井家住宅へ(その3): 2021.05.25 旧石井家住宅★古都「鎌倉」を巡る(その31): 2021.05.24 円覚寺(1/7)・塔頭白雲庵~伝宗庵~富陽庵~北鎌倉幼稚園~円覚寺・三門~松嶺院★古都「鎌倉」を巡る(その32): 2021.05.25 円覚寺(2/7)・松嶺院~選佛場~仏殿~龍隠庵~龍隠庵~居士林★古都「鎌倉」を巡る(その33): 2021.05.26 円覚寺(3/7)・法堂跡~佛牙舎利塔道標~寿徳庵~方丈庭園~正伝庵~妙香池 ~正続院・佛舎利塔★古都「鎌倉」を巡る(その34): 2021.05.27 円覚寺(4/7)・佛日庵~開基廟~白鹿洞~續燈庵~黄梅院★古都「鎌倉」を巡る(その35): 2021.05.28 円覚寺(5/7)・烟足軒~如意庵~方丈庭園~百観音霊場~柏槇~方丈書院★古都「鎌倉」を巡る(その36): 2021.05.29 円覚寺(6/7)・唐門~蔵六庵~浴場跡~弁天堂~洪鐘~洪鐘道~帰源院~三門★古都「鎌倉」を巡る(その37): 2021.05.30 円覚寺(7/7)・洪鐘道~看門寮~桂昌庵閻魔堂~総門~白鷺池~臥龍庵 ~北鎌倉古民家ミュージアム~明月院通り~県道21号線★古都「鎌倉」を巡る(その38): 2021.05.31 長寿寺(1/2)★古都「鎌倉」を巡る(その39): 2021.06.01 長寿寺(2/2)~第六天社★古都「鎌倉」を巡る(その40): 2021.06.02 建長寺(1/7)・西外門~建長寺境内文学案内板~総門~拝観受付~参道~三門 ~妙高院~鐘楼★古都「鎌倉」を巡る(その41): 2021.06.03 建長寺(2/7)・西来庵~同契院~巨福稲荷大明神~柏槇~重修碑~青銅灯籠★古都「鎌倉」を巡る(その42): 2021.06.04 建長寺(3/7)・仏殿~建長寺調査研究所~曙観音~震災追憶供養塔~柳下湖麿歌碑 ~比田井天来先生碑~法殿★古都「鎌倉」を巡る(その43): 2021.06.05 建長寺(4/7)・大庫裡(応真閣)~唐門~方丈(龍宝殿)~方丈庭園★古都「鎌倉」を巡る(その44): 2021.06.06 建長寺(5/7)・唐門前石碑群~宝珠院~天源院~龍峰院~正統院~神雷戦士の碑 ~河村瑞賢遺跡登り口~達磨円覚大師像~青銅鳥居★古都「鎌倉」を巡る(その45): 2021.06.07 建長寺(6/7)・半僧坊道~鉄鳥居~石鳥居~天狗像~半僧坊大権現堂~相模湾見晴台 ~勝上巚地蔵堂~ 勝上嶽展望台~御朱印所★古都「鎌倉」を巡る(その46): 2021.06.08 建長寺(7/7)・虫塚~回春院~正受庵~河村瑞賢遺跡~北鎌倉駅~帰路へ★古都「鎌倉」を巡る(その47): 2021.06.09 北鎌倉駅~円覚寺前庭~華蔵院~大六天社~禅居院★古都「鎌倉」を巡る(その48): 2021.06.10 円応寺(閻魔堂)★古都「鎌倉」を巡る(その49): 2021.06.11 巨福呂坂洞門~神奈川県立近代美術館鎌倉別館~二十五坊旧蹟碑~新宮神社~道元禪師顕彰碑 ~旧巨福呂坂切通し~青梅聖天社★古都「鎌倉」を巡る(その50): 2021.06.12 鶴岡八幡宮・西鳥居~志一稲荷~鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム~鎌倉十井・鉄井~紅葉稲荷社 ~鶴岡八幡宮(1/3)・三の鳥居~太鼓橋~源平池~旗上辨財天~社務所~手水舎★古都「鎌倉」を巡る(その51): 2021.06.13 鶴岡八幡宮境内(2/3)・祖霊社~舞殿~奉納酒樽~祈願受付所~大石段~大銀杏~桜門 ~丸 山稲荷社~本殿(上宮)~武内社~上宮祈祷所~明治天皇閲兵の處碑★古都「鎌倉」を巡る(その52): 2021.06.14 鶴岡八幡宮境内(3/3)・若宮 ~柳原神池~由比若宮遙拝所~鶴亀石~歌碑~白旗神社 ~鎌倉国宝館~さざれ石~齋館~実朝桜~畠山重忠邸址碑~正一位稲荷社~政所跡★古都「鎌倉」を巡る(その53): 2021.06.15 宝戒寺~筋替橋跡~西御門碑~西御門 八雲神社★古都「鎌倉」を巡る(その54): 2021.06.16 太平寺跡~来迎寺~石川邸(旧里見弴邸)~白旗神社~法華堂跡碑~頼朝の墓★古都「鎌倉」を巡る(その55): 2021.06.17 法華堂跡~三浦泰村一族の墓~毛利季光墓~大江広元墓~島津忠久墓~村田清風句碑 ~ルル ドの洞窟~東御門碑★古都「鎌倉」を巡る(その56): 2021.06.18 清泉小学校前~大蔵幕府舊蹟~岐れ路道標~荏柄天神社★古都「鎌倉」を巡る(その57): 2021.06.19 弘法大師八十八箇所道~蒲原有明旧居跡 (川端康成仮寓跡)~覚園寺★古都「鎌倉」を巡る(その58): 2021.06.20 鎌倉宮★古都「鎌倉」を巡る(その59): 2021.06.21 通玄橋~理智光寺橋~理智光寺址碑~護良親王墓~永福寺跡(1/2)★古都「鎌倉」を巡る(その60) : 2021.06.22 永福寺跡(2/2) ★古都「鎌倉」を巡る(その61) : 2021.06.23 瑞泉寺(1/2)★古都「鎌倉」を巡る(その62) : 2021.06.24 瑞泉寺(2/2)~通玄橋★古都「鎌倉」を巡る(その63) : 2021.06.25 亀ヶ淵橋~鎌倉虚子立子記念館~二階堂亀ケ渕・三寳稲荷~大塔宮バス停~段葛~段葛碑 ~二の鳥居~鎌倉駅~帰路★古都「鎌倉」を巡る(その64) : 2021.06.26 大船・玉縄首塚~鹽釜神社~黙仙寺~玉泉寺★古都「鎌倉」を巡る(その65) : 2021.06.27 神明神社~伏見稲荷神社 ~ 岡本神社~谷戸池~金剛寺~金翅鳥院★古都「鎌倉」を巡る(その66) : 2021.06.28 横浜市栄区・定泉寺~御霊社★古都「鎌倉」を巡る(その67) : 2021.06.29 横浜市栄区・常勝寺~戸塚区・燈明寺~五霊神社★古都「鎌倉」を巡る(その68) : 2021.06.30 柳小路駅~長谷駅~稲荷神社~収玄寺~白日堂★古都「鎌倉」を巡る(その69) : 2021.07.01 光則寺★古都「鎌倉」を巡る(その70) : 2021.07.02 桑ヶ谷療養所跡~鎌倉能舞台~加賀谷邱~川端康成記念会~甘縄神明宮★古都「鎌倉」を巡る(その71) : 2021.07.03 鎌倉市長谷子ども会館(旧諸戸邸)~鎌倉文学館★古都「鎌倉」を巡る(その72) : 2021.07.04 吉屋信子記念館~染谷太郎太夫時忠邸跡~由比ヶ浜駅~タンコロ~海水浴場開場100年碑 ~家族とビーチ碑~さくら貝の歌 歌碑~魚藍観世音の石碑~鎌倉安全協會碑~篠田邱★古都「鎌倉」を巡る(その73) : 2021.07.05 鎌倉彫工芸館~和田塚~和田塚駅~六地蔵~裁許橋~問注所舊蹟~御成小学校正門 ~旧鎌倉図書館~今小路通り ★古都「鎌倉」を巡る(その74) : 2021.07.06 鎌倉市役所~御成隧道~諏訪神社~鎌倉歴史文化交流館(1/5) ★古都「鎌倉」を巡る(その75) : 2021.07.07 鎌倉歴史文化交流館(2/5)★古都「鎌倉」を巡る(その76) : 2021.07.08 鎌倉歴史文化交流館(3/5)★古都「鎌倉」を巡る(その77) : 2021.07.09 鎌倉歴史文化交流館(4/5)★古都「鎌倉」を巡る(その78) : 2021.07.10 鎌倉歴史文化交流館(5/5)~合槌稲荷社跡~古我邸~結の蔵~巽神社~八坂神社★古都「鎌倉」を巡る(その79) : 2021.07.11 寿福寺・庚申塔群~源氏山碑~山門~源実朝をしのぶ碑~参道~太田道灌邸舊蹟碑 ~英勝寺(1/2) ★古都「鎌倉」を巡る(その80) : 2021.07.12 英勝寺(2/2)★古都「鎌倉」を巡る(その81) : 2021.07.13 扇谷上杉管領屋敷迹碑~護国寺~厳窟不動尊~鎌倉市川喜多映画記念館~ 鎌倉市鏑木清方記念美術館~小町通り~とんがり帽子の時計台~帰路 ★古都「鎌倉」を巡る(その82) : 2021.07.14 鎌倉駅西口~とんがり帽子の時計台~刃稲荷~寿福寺トンネル~寿福寺~伝・阿仏尼の墓 ~稲荷大明神~扇ヶ谷架道★古都「鎌倉」を巡る(その83) : 2021.07.15 岩船地蔵堂~薬王寺★古都「鎌倉」を巡る(その84) : 2021.07.16 扇ヶ谷架道橋~向陽庵大悲堂碑記碑~水鑑景清大居士碑~化粧坂~源氏山公園~源頼朝公像 ~化粧坂碑★古都「鎌倉」を巡る(その85) : 2021.07.17 海藏寺★古都「鎌倉」を巡る(その86) : 2021.07.18 扇ノ井~相馬次郎師常之墓~藤谷黄門遺蹟碑~浄光明寺(1/2)★古都「鎌倉」を巡る(その87) : 2021.07.19 浄光明寺(2/2)★古都「鎌倉」を巡る(その88) : 2021.07.20 松巌寺殿の石碑~泉の井~妙傅寺★古都「鎌倉」を巡る(その89) : 2021.07.21 若宮大路~鎌倉市農協連即売所~延命寺~金子サト記念碑~下馬碑~琵琶橋~浜の大鳥居跡 ~日米海底通信の史跡~鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居) ★古都「鎌倉」を巡る(その90) : 2021.07.22 畠山重保供養塔・畠山重保邸跡~京急りんどう号~閻魔橋~石清水の井 ~元鶴岡八幡宮(由比若宮) ★古都「鎌倉」を巡る(その91) : 2021.07.23 清水湯~啓運寺~妙長寺~亂橋碑~向福寺★古都「鎌倉」を巡る(その92) : 2021.07.24 五所神社★古都「鎌倉」を巡る(その93) : 2021.07.25 来迎寺(材木座)~長勝寺(1/2)★古都「鎌倉」を巡る(その94) : 2021.07.26 長勝寺(2/2)★古都「鎌倉」を巡る(その95) : 2021.07.27 松葉ケ谷草庵~実相寺~九品寺~新居閻魔堂阯碑~補陀洛寺★古都「鎌倉」を巡る(その96) : 2021.07.28 最宝寺跡~辨谷(弁谷)碑~新善光寺跡~弁ヶ谷東やぐら群~光明寺(1/2)★古都「鎌倉」を巡る(その97) : 2021.07.29 光明寺(2/2)~蓮乗院~千手院★古都「鎌倉」を巡る(その98) : 2021.07.30 内藤家墓地~光明寺裏山の展望碑~秋葉山大権現社~北条経時公・良忠上人墓所★古都「鎌倉」を巡る(その99) : 2021.07.31 和賀江嶋~六角の井~白鬚社~住吉城址~正覚寺~帰路★古都「鎌倉」を巡る(その100) : 202108.01 鎌倉駅旧駅舎時計台~鎌倉市役所~御成隧道~鎌倉児童ホーム~蓮華寺阯 ~新佐助隧道~浅間神社★古都「鎌倉」を巡る(その101) : 2021.08.02 長谷隧道~一向堂公園~北条氏常盤亭跡~タチンダイ~火の見下バス停~大仏切通 ~旧鎌倉加圧ポンプ所 ★古都「鎌倉」を巡る(その102) :鎌倉大仏・高徳院(1/3) 2021.08.03 ★古都「鎌倉」を巡る(その103) :鎌倉大仏・高徳院(2/3) 2021.08.04 ★古都「鎌倉」を巡る(その104) :鎌倉大仏・高徳院(3/3) 2021.08.05★古都「鎌倉」を巡る(その105) : 2021.08.06 大巧寺~本覚寺~夷堂橋~妙本寺~蛇苦止堂~琴弾橋~蛭子神社~日蓮上人辻説法跡★古都「鎌倉」を巡る(その106) : 2021.08.07 宇津宮辻子幕府跡~カトリック雪ノ下教会~鎌倉彫資料館~二の鳥居~段葛~北条時房邸跡 ~妙隆寺★古都「鎌倉」を巡る(その107) : 2021.08.08 若宮大路幕府舊蹟碑~土佐坊昌俊邸址碑~宝戒寺 ★古都「鎌倉」を巡る(その108) : 2021.08.09 宝戒寺橋~紅葉山やぐら~青砥藤綱舊蹟碑~東勝寺橋~東勝寺跡~北条高時腹切やぐら ~大蔵稲荷橋~大蔵稲荷~関所橋~關取場跡碑~大御堂橋~文覺上人屋敷迹~碑田楽辻子のみち★古都「鎌倉」を巡る(その109) : 2021.08.10 勝長寿院跡碑~荏柄天神社参道~北条義時邸跡~歌之橋碑~北条泰時邸跡 ~鶴岡八幡宮三の鳥居~段葛~鎌倉駅旧駅舎時計台~江ノ電帰路 ★古都「鎌倉」を巡る(その110) :五社稲荷神社~大長寺 2021.08.11 ★古都「鎌倉」を巡る(その111) :西念寺~栄泉寺跡~福泉 2021.08.12 ★古都「鎌倉」を巡る(その112) : 2021.08.12 白山神社・今泉寺(こんせんじ) ★古都「鎌倉」を巡る(その113) :今泉不動・称名寺(1/2) 2021.08.13★古都「鎌倉」を巡る(その114) :今泉不動・称名寺(2/2) 2021.08.14★古都「鎌倉」を巡る(その115) : 2021.08.15 鎌倉湖墓苑~鎌倉湖~鎌倉霊園★古都「鎌倉」を巡る(その116) : 2021.08.16 切通庚申塚~朝比奈切通し~熊野神社★古都「鎌倉」を巡る(その117) : 2021.08.17 十二所神社~峰本朝比奈店~大江稲荷~光触寺★古都「鎌倉」を巡る(その118) :旧華頂宮邸~金剛窟地蔵尊 2021.08.18★古都「鎌倉」を巡る(その119) :報国寺(1/2) 2021.08.19★古都「鎌倉」を巡る(その120) :報国寺(2/2) 2021.08.20★古都「鎌倉」を巡る(その121) : 2021.08.21 華の橋石碑群~一条恵観山荘~青砥橋~青砥藤綱邸旧蹟碑~足利公方邸旧蹟碑 ★古都「鎌倉」を巡る(その122) : 2021.08.22 鎌倉泉水教会~松久寺~十二所庚申塔塚~salon de 酔鯨館~梶原井戸★古都「鎌倉」を巡る(その123) : 2021.08.23 明王院~明石橋~大江廣元邸址碑~イエズス会日本殉教者修道院~十二所公民館~大慈寺跡碑★古都「鎌倉」を巡る(その124) :杉本寺 2021.08.24★古都「鎌倉」を巡る(その125) :浄妙寺 2021.08.25★古都「鎌倉」を巡る(その126) : 2021.08.26 鎌倉駅~大巧寺~妙本寺(1/3)★古都「鎌倉」を巡る(その127) :妙本寺(2/3) 2021.08.27★古都「鎌倉」を巡る(その128) :妙本寺(3/3) 2021.08.28★古都「鎌倉」を巡る(その129) : 2021.08.29 常栄寺~三神山妙法教会~八雲神社~教恩寺~大町橋~魚町橋~町屋阯碑~逆川橋★古都「鎌倉」を巡る(その130) : 2021.08.30 別願寺~上行寺~安養院~黒澤家墓~佐竹屋敷跡碑~大寶寺~六方の井★古都「鎌倉」を巡る(その131) : 2021.08.31 花ヶ谷花咲地蔵尊~黄金やぐら~妙法寺★古都「鎌倉」を巡る(その132) :安国論寺(1/2) 2021.09.01★古都「鎌倉」を巡る(その133) :安国論寺(2/2)~大黒堂 2021.09.02★古都「鎌倉」を巡る(その134) : 2021.09.03 長勝寺バス停~鎌倉駅旧駅舎時計台~湘南海岸~江の島ヨットハーバー~帰路✦古都「鎌倉」を巡る(その135) : 2021.09.15 湘南モノレール~鎌倉中央公園 ✦古都「鎌倉」を巡る(その136) : 2021.09.16 稲荷社(山崎)~山崎打越の庚申塚~神奈川縣護國神社~馬頭観世音碑~神明神社 ~鎌倉市立山崎小学校~魯山人星岡窯跡 ✦古都「鎌倉」を巡る(その137) :稲荷神社~光照寺 2021.09.17✦古都「鎌倉」を巡る(その138) : 2021.09.18 宮の台橋~鎌倉小坂郵便局~藤源治橋~COTONOHA(コトノハ)~十王堂橋~JR北鎌倉駅前 ~円覚寺前~東慶寺前~浄智寺前~宝庵・たからの庭・たからの窯~天柱峰の碑 ~ 竺僊梵僊和尚顕彰碑~瓜ヶ谷やぐら群✦古都「鎌倉」を巡る(その139) : 2021.09.19 相鎚稲荷社~葛原岡神社~日野俊基墓✦古都「鎌倉」を巡る(その140) : 2021.09.20 源氏山公園~太田道灌公の墓~デベッカ家の墓所~大佛次郎の墓~北条政子の墓~源実朝の墓 ~高浜虚子の墓~森田愛子の墓~寿福寺境内~鎌倉駅へ✦古都「鎌倉」を巡る(その141) : 帰路の江ノ電の車窓から 2021.09.21✦古都「鎌倉」を巡る(その142) : 2021.09.22 古都鎌倉の寺社巡りを完遂して 以上
2021.03.06
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「みなみの桜まつり」を後にして、西伊豆を目指して「青野川」に架かる「ゆけむりばし」を渡る。これは以前の写真です。少し進むと右側に見えて来たのが「銀の湯会館」。2016年3月にリニューアルオープンした「銀の湯会館(ぎんのゆかいかん)」は南伊豆町営の日帰り温泉施設。国道136号線沿いにあり、白い湯煙が立ち上る大きな温泉櫓が目印。温泉櫓の上部からは湯けむりがモクモクと。「加納」交差点を右折し再び「青野川」に向かって進むと前方に「河津桜」の姿が再び姿を現す。「青野川」に架かる「前原橋」を渡る。「河津桜」の先に「下賀茂温泉」の湯けむりが見えた。「上賀茂」交差点を左折し、県道121号線・南伊豆松崎線を進み、西伊豆を目指す。途中交通規制表示があり、案内に従い左折しひたすら山道を進んで行く。そして「一町田」交差点で国道136号に合流し右折して西伊豆を北上する。「国道136号は富士箱根国立公園や伊豆西南海岸に指定される景勝地にある主要道路。伊豆半島最南端に位置する下田市から西伊豆の海岸沿い沿って半島を縦貫し、中伊豆から三島市を結ぶ延長約128 km)の一般国道で、主な通過地は南伊豆町、松崎町、西伊豆町、伊豆市、伊豆の国市、函南町である。本道は全線無料で、松崎町の駿河湾を臨む道路沿いには彫刻が展示されている区間があり、「富士見彫刻ライン」の愛称でよばれている。」とウィキペディアより。静岡県賀茂郡松崎町雲見のヘアピンカーブの先の斜面にも「河津桜」が。桜の下には「法經塔」と刻まれた石碑があった。標識には「ここは松崎エリア」、「雲見温泉まで0.3km」の表示が。「烏帽子岩」。「烏帽子岩」は、標高160メートルを越える高さにそびえる「火山の根」であると。火山の地下には地下深くからマグマが通ってくるマグマの通り道がある。このマグマの通り道が地殻変動などで隆起して地表に姿を現したものを「火山の根」と呼ぶのだと。海から急傾斜で立ち上がる烏帽子山の姿。烏帽子山は、標高160メートルを越える高さにそびえる火山の根。山頂の雲見浅間神社へ続く歩道もあり、山頂からは伊豆西南海岸や富士山、駿河湾の絶景を楽しむことが出来るのだと。この山には、木花咲耶姫命と磐長姫命にまつわる物語もあると。そして「雲見海岸」に立ち寄り車を駐めた。駿河湾越しの富士山の眺望で知られている雲見海岸。残念がら下の方は雲に隠れていたが。海に浮かぶ富士山を眺めることができるのは、ここ西伊豆だけなのであったが・・・。岩の間に富士山が見える絶景の場所。雲見海岸から富士山を眺めると、二つの大きな岩が良いアクセントになっていた。これが「牛着岩(うしつきいわ)」。歩いて場所を移動し、富士山が「牛着岩」の中央に見える場所に。「時は、文化13年(1816年)。伊能忠敬さんが全国を測量していた頃の話。雲見に大洪水が起こり、十数軒の住居が流されたり埋まったりと大変な被害を出た。その際、家畜も海に流されてしまったが、牛が岩に流れ着き生きながらえていたため、この岩を「牛着岩」と呼ぶようになったのだとか。今は確認できないが、以前は岩の頂上に鳥居が建っていたと。海上安全の神様が祀られているのだと。西伊豆の海岸。「牛着岩」の左側の岩の頂部下には四角い祠の如きものが見えたが。正面に「堂ヶ島」、「堂ヶ島温泉ホテル」が見えた。林立する「堂ヶ島」の島々をズームで。右から象島(伝兵衛島)、中ノ島、沖ノ瀬島、高島。駐車場に戻りながら。1977年4月15日、雲見港に迷い込んで死んでしまったセミクジラのために建てられた「供養碑」。「雲見の浦に漂いつきぬ大魚 こころ優しき人々により ここに眠る 滄海院鯨音魚士」セミクジラに戒名「滄海院鯨音魚士」(そうかいいんげいいんぎょじ)が与えられたのだと。山の上にある「牛島神社由来雲見村は文化十三年、今から約100年前大洪水になり、太田川通り住家9軒全てが消失し7軒余り押し埋め、住居屋敷に大石が押し込み大災害になりました。海上の向島にこの時流された牛が着いたので牛島呼ぶようになりました。天草倉庫助監督を十年余り努め事故もなく無事で喜寿を迎へ休職しましたので、町内松田彫刻家に依頼し〇〇〇造ってもらい、牛島頂上に奉納しました。其れ以来海上安全の神様になり人々の信仰も多くなりました。」この周辺はダイビングスポットであると。「烏帽子山」を振り返る。「烏帽子山」山頂からの「光景」👈リンク をネットから。「雲見想い出岬」を左手前方に見る。「烏帽子山に登ろう!西伊豆や南伊豆をはしめとする伊豆半島南部の広い地域は、伊豆が本州に衝突する前に噴火した海底火山や火山島の噴出物からできています。右手にそびえる標高162mの烏帽子山は、かって海底火山の地下にあった「マグマの通り道」が地上に姿を現した「火山の根(火山岩頸)」です。山頂には雲見浅間神社がまつられ、天気の良い日には伊豆西海岸や富士山の絶景を望むことができます。雲見の港を取り囲む崖では、海底に降りつもった火山灰や軽石の地層が美しい縞模様を作り出しています。」雲の上にある「富士山頂」。「アオサギ」に似ているが・・・???西伊豆海岸を左手に見ながら国道136号を北上する。「萩谷トンネル」を通過。松崎町の駿河湾を臨む道路沿いには彫刻が展示されている区間があり、「富士見彫刻ライン」の愛称でよばれている。賀茂郡松崎町岩地にある道路脇の駐車場に車を駐める。「浜辺の歌」は「平馬学」作の彫刻。後ろに「堂ヶ島」そして富士山の姿も。正面から。「堂ヶ島」と「富士山」をズームで。白い建物は「堂ヶ島ホテル 天遊」と「堂ヶ島温泉ホテル」。南アルプスの山々、清水市、そして静岡市方面の景色の案内板であったが・・・・。「ここからおよそ、富士山 65km 富士市街 45km 清水市街 40km 静岡市街 40km南アルプスの北岳 110km 荒川岳 100km 赤石岳 95km 聖岳 95km◎前方の山々の左端 ここからおよそ約50kmに御前崎があります」天候に恵まれれば、下の写真の如くに(ネットから)。 【https://gramho.com/explore-hashtag/%E9%9B%B2%E8%A6%8B%E6%B5%B7%E5%B2%B8】より国道136号・賀茂郡松崎町にある「道部」交差点を左折すると右手にあったのが「長八美術館」。こてと漆喰の名人・入江長八の業績や、伝統の左官技術のすばらしさを伝えることを目的とした美術館であると。国道136号沿いにあった海鼠壁(なまこかべ)の「夢の蔵」。左官の天才、入江長八が明治9年に描いた鏝絵。左官の仕事道具「こて」を操り、漆喰で立体感のある絵画を描くもの。龍は長八が得意とした題材。この躍動感と緊迫感が長八作品の大きな特徴だとネットから。 【https://www.homes.co.jp/cont/press/buy/buy_00861/】より ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.06
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国道136号線に入り「南伊豆町」に入って行った。「南伊豆町」には伊豆半島最南端の岬・石廊崎があり、先端に石廊崎灯台にその先に石室神社がある。伊浜地区のマーガレットの生産量は全国の70%を占めると。そして波勝崎は南伊豆町の西伊豆側にあり、野生の猿が生息する岬であると。そして目的地の「南伊豆町日野(ひんの)」の交差点に到着しここを右折し車を駐める。休耕地を利用して作られている、日野地区の菜の花畑。地元ボランティアの方々や子供たち、観光関係者などが世話をしており、毎年1月下旬~4月上旬頃までは菜の花、8月にはひまわり畑が広がるのだと。約3万㎡という広大な敷地が黄色一色におおわれ、辺り一帯が菜の花の香りに包まれる様は壮観そのものであった。遊歩道も設置されており、花畑の中でSNS用の写真もばっちり撮れるシチュエーション。この菜の花畑では、毎年1組限りの結婚式が執り行われるとも。例年、多数の応募があるが、挙式できるのは審査で選ばれた1組だけと。一面の菜の花畑の中、純白のドレスが映えることマチガイなし。花は地元の皆さんが協力し、「元気な百姓祭」という活動で種蒔きをし育てているのだと。一面の菜の花畑の中に案内板が。「南伊豆町 元気な百姓達の菜の花畑」。この春は「元気な百姓達の菜の花畑」に、そして夏には「元気な百姓達のひまわり畑」となるのだと。この日も黄色一色の世界が拡がっていた。後方の標高145mの山の上からの景色も美しいであろう。山の名は??日野(ひんの)地区の青野川河川敷には黄色い菜の花が約3万m2、辺り一面に咲き乱れているのであった。残念ながら、ミツバチの姿は確認出来なかった。マスクのままでも菜の花の香りが一面に。いつまでもいたい空間。木道(ボードウォーク)も敷設されて。菜の花の中にポードウォークが設けられておリ、歩きなから思い思いに写真を撮ったり、ベンチに座ってボーっと眺めたり、角度を変え距離を変え菜の花を楽しめるのであった。外から眺めるのとは景色が異なるので、是非とも歩いて欲しいのであった。種蒔きはどの様に行われているのであろうか。「みなみの桜と菜の花まつり」として、主役の一つになっている花畑。思わず圧倒される規模。ズームして。一足も二足も早く、春の訪れを感じることが出来たのであった。横を流れる川は「青野川」に合流する「二級河川 鯉名川(こいながわ)」記念写真撮影用のステージも準備されていた。そして次に道の駅「下賀茂温泉湯の花」の駐車場に車を駐めて「みなみの桜と菜の花まつり」を訪ねた。英文名が変更になっているので気になって調べてみたら以前は・・・・。「Spa」⇒「Onsen」に変わったのだ。ネットで調べてみると「平成 26 年の標識令改正では、案内標識の表記は、日本語と英語によって行われるものであることを明確化することとした。また、「案内標識の英語による表示は、国土交通大臣が定めるところによるものとする」とした上で、具体的な表記方法は、別途、「道路の案内標識の英語による表示に関する告示」👈リンク(表- 1) において定めることとした。」と。例えば、「郵便局」という日本語に対して「Yuubinkyoku」と「Post Office」、「公園」という日本語に対して「Koen」 や「Park」といった表記が混在していたが、これを下記のごとく「ローマ字」⇒「英語」に統一したのだと。「第23回みなみの桜と菜の花まつり」は2月10日㈬~3月10日㈬の期間にて規模縮小して開催されていたのであった。「展示館」近くにあった生花。生花ももちろん「河津桜」と「菜の花」。ここ「観光案内所」は、南伊豆の旬が集まる直売所で、畑のものと海のものが地域最大に集まる場所であると。そして「青野川」沿いの「みなみの桜まつり」の散策のスタート。青野川沿いに2kmに続く桜街道。現在地は「B」。上空からは。 【https://amatavi.life/events/11541】より河津町の「河津桜」よりも開花が進んでいて、これぞ満開の桜街道。河津町の「河津桜」よりも人の数は更に少なかった。陽光も刺してピンクが輝く。青空を背景に。「青野川」の堤防の上にある桜街道。山間をゆるやかにカーブする青野川と、その両岸に咲く河津桜と菜の花が風情豊かで素晴らしい景観美なのであった。青野川沿い約2kmにわたり約800本もの濃いピンク色の河津桜が立ち並び、土手には黄色い菜の花が所々に咲いていた。ピンクと黄色、そして青空とのコントラストは美しく、これぞ絶景。ズームして。青空を背景に。振り返って。夜ライトアップされると、川面に映り込んで。 【https://izuhack.akao-hotel.co.jp/15】より菜の花の絨毯の上に。再び振り返って。「お花見人力車」が客を待っていた。九条橋20分コースで2,000円/人とのこと。ピンクの帯の曲線美が前方に。河津町の「河津桜」よりも樹齢が古いのではないかと。人の数も少なく。濃いピンクの花びらが、あたかもカオスの如くに前方に。今年も「裸婦像」に再会。「来の宮橋」から下流を見る。2本のピンクの帯が揺れながら延びて行く。ズームして。歩いて来た路を振り返って。旅友Sさんの姿が。川面にピンクの花が映り込んで。「カササギ」であろうか?川面に映るピンクの帯を追う。野生では花粉の媒介者となる虫の活動が始まる春よりも大幅に早く咲くと子孫を残せないため、本州の野生種のサクラには寒い時期に咲かない仕組みがあるのだが、カワヅザクラは本来は本州に自生しないカンヒザクラが交雑することによって花期が早まったと考えられている。極端な早咲きは野生では淘汰される不利な特質だが、カワヅザクラのような栽培品種ではその珍しい特質と花の特徴がむしろ好まれて接ぎ木などで増殖されているのだと。遊歩道の両脇には菜の花の黄色の帯も。菜の花とのコラボを追って。ズームして。穏やかな川面を背景に。「南伊豆町の歴史 石切丁場この前の岩山は採石場跡である。古来より伊豆半島は江戸や小田原、駿河などの城を築く時の石の供給地てあった。江戸が開けるに伴って石山が開発され、幕末に至っては品川沖の御台場建造に、さらに進んで明治維新後、東京と変わり発展を続ける中、建物の基礎、橋梁、道路の石畳等に大量に使用された。特にこの辺りの石は、良質できれいな伊豆の青石としてもてはやれ、木炭と並んて地域の大きな産業であった。寸法・ニ、七尺☓九寸☓五寸、重量・十四貫(五十ニkg)に切られた石は青野川を河口まて下り、大きな舟に積み替えられ、東京方面に運ばれた。近年、セメントの善及でその姿を消していった。」そして今年の「みなみの桜まつり」もこれが見納め。駐車場の端には竹灯篭が。夜になれば、美しい灯りが楽しめるのであろう。夜になると・・・、ネットから。 【https://digital.izu-np.co.jp/news/tourism/26741】より ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.05
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「河津町」の河津桜を堪能した後は、国道135号に出て「河津川」に架かる「浜橋」を渡る。「浜橋」には観光客、カメラマンの姿が。左前方に伊豆諸島の「利島(としま)」、「鵜渡根島(うとねじま)」が姿を現した。左手にあったのが「体感型動物園 iZoo(イズー)」。日本最大の爬虫類・両生類の動物園であるとの売り。静岡県賀茂郡河津町浜406-2。海岸の景色の良い場所の路肩に車を一時停車。下方に穴の空いた岩場が。ズームで。左から「利島」、「鵜渡根島」、「新島」、「式根島」をズームで。「新島」の姿をズームで。船の先に島の如く見えたのであったが・・・・???「小湊第2隧道」を通過。「小湊第1隧道」。「縄地トンネル」。山の合間から「大島」の姿が。「子安隧道」。「トンネル」と「隧道(ずいどう)」の呼称については、呼び方に違いはありますが、同じ意味であり、違いはないのだと。 古くは、「隧道」と呼ばれていたが、最近では、一般的に「トンネル」と呼ばれることが多くなっているとのことあった。「縄地」地区の真っ青な海が車窓から。遠くに「稲取岬」、「稲取温泉」の姿が。「尾ヶ崎ウイング」に立ち寄ると「尾ヶ崎ウイングより伊豆諸島を望む」案内板。「伊豆七島の覚え方」👈リンク をネットから。「おとに聞こえし神津島、みやけ、みくらは八丈に近い」お(大島 おおしま)と(利島 としま)に(新島 にいじま)聞こえ し(式根島 しきねじま)こうづしま(神津島 こうづしま)みやけ(三宅島 みやけじま)みくら(御蔵島 みくらじま)は、八丈(八丈島 はちじょうじま)に近い「伊豆七島」は江戸時代、伊豆諸島の主な有人島が、伊豆大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島の7島であったことに由来する呼称である。実際には、伊豆諸島には上記の7島の他に、青ヶ島、明治以降定住が進んだ式根島の2つの有人島がある。さらに、昭和40年代に無人島となった八丈小島、一時期定住者が存在した鵜渡根島・鳥島等もかつては有人島であったし、他に無人島もある。よって現在では「伊豆七島」と言う言い方は一般的には使われていないとのこと。伊豆諸島、アクセス方法、時間をネットから。調布飛行場から、大島、新島、神津島、三宅島に行けるようだ。羽田空港からは八丈島へ。その他に、熱海から大島、神津島、伊東から大島、下田から利島、新島、式根島、神津島に高速ジェット船やカーフェリーが出ているとのこと。「大島」。左から「利島」、「鵜渡根島(うとねしま)」、「新島」。鵜渡根島は新島の北方約4.5kmに位置する現在は無人島であると。面積は0.3km²。我が市の江の島の面積は 0.41km² であるので現在の江の島より小さい。ただし現在の江の島の1/3以上は埋立地であるので、本来は同じくらいの大きさか。島の名は島内に祀られている鵜渡根后明神に由来すると。伊豆諸島の「利島」、「鵜渡根島(うとねじま)」・・・・・・・の上空からの写真をネットから。我々が見ている方向は写真右から。 【https://blog.tan-w.net/archives/481】より同じく「利島」と「鵜渡根島」。我々が見ている方向は写真右から。 【https://twitter.com/geoign/status/1293191191949844480/photo/1】より 「鵜渡根島」平地というものがほとんどない無人島。 【https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=25397014978】より「新島」、「式根島」「新島」にズームして。東京から南に約160km、静岡県下田市から南東に36kmの位置にある。行政上の所属は東京都新島村。サーファーや海水浴客などに主眼を置いた観光業、漁業などが盛んである。江戸時代から1871年まで、政治犯を中心とした流人が多く流されてきており、島で再度重い罪を犯した者は、絞首刑とされた。総勢で1,333人が流されたが、島人は彼らに暖かく接したという伝記が残されていると。新島の人口は約2000人強とのこと。「新島」の左側後方に「三宅島」、その右「式根島」都の間に「御蔵島」があるが、確認できなかった。天候によるものか、距離の問題か?標高30mほどのこの場所から見える水平性の距離は約20kmであり「三宅島」までの距離は90km以上あるので・・・・・。「式根島」。面積3.67km2、人口約550人。最高地点はしばしば北部の神引山(かんびきやま、98.5m、三角点)と言われるが、実際には島西北部に109mの標高点が存在する。式根島はかつて新島と地続きであったが、江戸時代の元禄大地震(1703年)の大津波によって新島から分離され、このため伊豆諸島は八島あるのに伊豆七島と呼ばれるとの伝説があるがこれは事実ではないのだと。同じく「新島」そしてその下に「式根島」。我々が見ている方向は写真左から。「神津島」。東京都心の南西178kmの太平洋上に浮かぶ神津島を中心に銭洲、恩馳島、祇苗島などの島々より成る。神津島の住民のほとんどは、神津島港(前浜)周辺に集中している。人口約1850人。同じく「神津島」。我々が見ている方向は写真右下から。 【https://colocal.jp/topics/lifestyle/tokyo-takarajima/20190306_123391.html】より前方奥に「爪木崎」が姿を現した。爪木崎須崎半島の東南端。白亜の灯台が立ち、俵磯と呼ばれる柱状節理の断崖など見事な海岸風景。その中には、爪木崎花園があり、四季折々の花を咲かせている。また野水仙の大群落でも知られているのだ。爪木崎で毎年12月20日から翌年1月31日までの期間開催されるのが、「水仙まつり」。冬期の爪木崎は、300万本ともいわれる水仙の花が咲き、あたりには、水仙の甘い香りが広がると。前方に「白浜海岸」そして手前に「竜宮島」等の岩の島が。「白浜大浜海水浴場」と「ホテル伊豆急」の姿をズームで。その前には蒼き海が拡がっていた。「爪木崎」の先端をズームで。「爪木島」と「爪木埼灯台」が見えた。「尾ヶ崎ウイング」下の岩場には白波が。「しずおか アダプト・ロード・プログラム この道は私たちがきれいにしています。」家の周囲や道路・公園・海岸など、美しい環境づくりをめざしてさまざまな住民活動が行われています。ところがごみの投げ捨ては後を絶たず、せっかくの活動が無にされてしまうことも少なくありません。アダプト・ロード・プログラムは、こうしたまちの美化につとめる住民活動と団体を、広くアピールし、みんなが参加しやすいようにとサポートする新しい仕組み」とのこと。「爪木崎」とその奥に「新島」を見る。「ここは白浜・須崎エリア」。「白浜海水浴場」前を通過。「白浜海岸」の蒼き海。「外浦海岸」の案内板。左手に人気の「みかん売り場」。そして下田の海が左手に。「稲行沢川」に架かる「新下田橋」を渡る。橋の欄干に4体の人魚が座っていた。西伊豆町の彫刻家・堤達男氏の作品だそうで、春・夏・秋・冬をテーマにしたポーズや表情の異なる4体が迎えてくれたのであった。「伊豆急下田駅」前を通過。昨年は南伊豆町の日野(ひんの)交差点にある「菜の花畑」を楽しんだ後に、ここ下田まで戻り「開国の歴史が残る下田を歩く」👈リンク のであった。「乳峯トンネル」を通過。「広岡トンネル」を通過。「下田第2トンネル」を通過。そして静岡県賀茂郡南伊豆町の「日野」交差点に向かって進んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.04
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更に「河津川」の東側の堤防上の遊歩道を上流に向かって進む。木によって開花状況が微妙に異なるのであった・・・が当たり前。静かな川面を背景に。更にズームして。100%のマスク着用率、これぞ日本人!!ここにも「体温チェックブース」があった、ここで3ヶ所目であったが。アロエの花と一緒に。アロエといえば、昔から、洋の東西を問わず世界各地で、民間療法の万能薬のように重宝されてきた植物。肉厚の葉を切り開いて、内側の半透明のゼリー状のところを、火傷や傷、虫さされなどに貼って外用薬にしたり、胃腸や血圧を整える内服薬として使われたりもしてきた。美肌・美白効果にも優れると、女性の愛好家もたくさんいるようだが。そして「豊泉橋(ほうせんばし)」に到着。「豊泉橋」から上流側のピンクのカーブの帯を。ズームして。橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうしゅ)と共に。親柱が木製の場合、擬宝珠は銅、青銅などの金属製である場合が多く、雨水などによる木材の腐食を抑える役目もある。親柱が石の場合、擬宝珠も含めて石造りになっている場合もある。まれにすべて木製のものもあるが。下流側。標高349.8mの天嶺山(てんれいざん)の姿が正面に。このコロナ禍の下でも、季節は確実に進んでいるのであった。そして「豊泉橋」を東に折れて、「河津桜 原木」に向かって進む。左の空き地に牽引式の「移動式トイレ」が置かれていた。静岡県下の会社の災害用のトイレで災害時には、伊豆半島内、無料で貸出すと。男性用1.女性用3の合計4基の構成であった。男性用の内部。新しく導入した、移動式トイレのTEST試用のようであった。山の斜面にも「河津桜」が一面に。民家の玄関先の「セキセイインコ」?。お腹の下のほうが黃緑の鳥。「河津町役場」と「河津桜」。ここの「河津桜」は満開のピークに。オバァチャンの店の「仏手柑(ぶっしゅかん)」。「これが柑橘!?」と衝撃が走るビジュアルだが、"縁起物"として有名な「仏手柑」花のような、濃厚な香りをもつことでも有名であると。異様な形をしているが、ミカン科ミカン属の一種と。レモンやカボスやユズなどと同じ香酸柑橘類の一種であると。元はインド原産「シトロン」の変種で、果実の形が手の指に似ており千手観音を思わせることから「仏手柑」と呼ばれるようになったと。そしてブッシュカンには実がないのだと。断面は、どこを切っても白い綿のようになっているだけとネットから。 【https://rcreation.jp/stockphoto/xa786】よりそしてオバァチャン手作りのマスクも。オバァチャンの話によると1日に10個程度作れると。そして今年も「河津桜 原木」に到着。今まで訪ねた中でも、最高の開花状態であった。交通量の多い道沿いにあるが、排気ガス、振動にも負けずに「老當益壮」。私もこうありたいと。「老いて当(まさ)に益(ますます)壮(さかん)なるべし」。「河津桜原木物語昭和30年頃の2月のある日、この家の主人であった飯田勝美氏が、河津川沿いの冬枯れの雑草の中で芽吹いていた約1メートル位に育った桜の若木を偶然見つけて庭先に植えた事が始まりでした。約十年後の昭和41年1月下旬、やっと桜が咲き始めました。同年四月、主の勝美氏は花が咲くのを見届け、永眠しました。その後きれいに咲く桜を見て譲ってほしいという話もありましたが、思い出の桜のため手放さなかったそうです。当時、この家の屋号からこの桜は「小峰桜」と呼ばれ親しまれていました。その後の調査で新種の桜とわかり昭和49年には河津で生まれた桜であることから「河津桜」と命名され昭和50年4月に河津町の木に指定されした。原木の大きさ木高 約一〇メートル樹幅 約一〇メートル幹周 約一一五センチメートル開花時期 一月下旬から三月上旬河津桜はオオシマザクラとカンヒザクラの自然交配種と推定されます。」アロエと共に。たくさんの花が玉のように塊になって咲いているのであった。様々な場所から、様々な角度で「河津桜」の原木の花を追う。飯田家の保護に対する熱き心、日々のご苦労に今年も感謝。原木を様々な角度から。再び係のオジサンの指示に従い横断歩道を渡る。シャッターを押しまくる。偶然発見されたこの1本から河津桜は町全体に広がり、全国各地に植樹されているのだ。1981年から開催され最近では約400万人もの観光客が集まる大きなイベントとなった「河津桜まつり」もこの原木から始まった事を考えると、とても貴重な桜であるのだ。来年は「河津桜まつり」が賑やかに開催されることを願うのであった。するとパトカーが来た!!??再び。原木とはいえ、まだまだ若く樹勢も良好で、今後の成長が楽しみ。私も頑張らなくてはと。また来年も会おうと!!。See You Again!!「河津桜原木」を後にし、再び「河津川」の遊歩道に戻る。売店で桜餅を一つ!!買い、楽しんだのであった。束の間の陽光の下、漸くメジロが姿を現したのであった。対岸の黄色の「オオキバナカタバミ」の絨毯の上に咲く「河津桜」。「白鷺(シラサギ)」であろうか。この時期にクチバシが黒いので「コサギ」か。再び菜の花を背景に。こちらは「日本水仙」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.03
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河津川沿いの河津桜の散策を続ける。係の方から、上流の開花が進んでいるとのことで引き返して進む。満開直前の河津桜。河津桜の魅力は、早咲きの桜であることと花色。一面ピンクの濃い色で。更に進む。今年は、花を咲かせず、緑の葉が一面の小さな「河津桜」の木を背景に。開花が進むと中心のピンクの濃さが増して行く「河津桜」。今年も中国語、いや外国語は全く聞こえてこなかった。そして「来宮橋」まで来る。「トリムコース」案内板が掲げられていた。ちなみに「トリム」をネットで調べると、バランスを保つことを意味するノルウェーの造船用語とのこと。また「トリム運動」という言葉があり、これは、心身のバランスをとる為に、スポーツによって健康の維持・増進を図ろう的なことのようだが。要は 河津川沿いの遊歩道のこと。「河津川」上流側。両脇の堤防に連なる満開間近の「河津桜」。「河津桜」を下から眺められるように一部を埋め立てたのか。ズームして。更に。下流側。民家の庭の椿の花。更に上流に向かって桜のトンネルの下を進む。これぞ「満開」。青空が!!・・・・・・。メジロと思ってズームしたが。満開の花に隠れて。スズメのようであった。更にトンネルを進む。白き川面を背景に。対岸の土手にも黄色の花の雑草が一面に。「河津川」を背景に。準備された露天建屋も主、客を失い寂しそうに建っていた。「鈴なり咲き」いや「鈴のごとく咲き」。堤防には黄色い小さな花が。今や早春を告げる代表格になっている野の草・「オオキバナカタバミ」。これから昼間に向かって更に花を開くのであろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.02
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「河津七滝ループ橋」の近くの道路脇に車を駐め、「河津桜」を楽しむ。正式名称は、七滝高架橋(ななだるこうかきょう)。全長1064m、高低差45m、直径80mの二重ループ橋である。橋梁の設計は日本構造橋梁研究所によるもので、6基の橋脚によりループ橋(上部工)を支えている。ループ橋部分は3径間連続曲線箱桁4連で構成されている。かつては山に沿って国道がつづら折れになっていたが、1978年の伊豆大島近海の地震の影響で崩落し山腹の道路が寸断した。その後、通行の利便性と高低差を解消し、地震による土砂崩れの教訓を生かした工法を採用し、1981年(昭和56年)にこのループ橋が生まれた。同年、土木学会田中賞を受賞。元々は静岡県道13号修善寺下田線であったが、1982年4月に国道414号に昇格。720度・2回転するダイナミックな直径80mのループ橋の上空からの映像をネットから。 【http://www.kawazu-onsen.com/sightseeing/45】より「河津七滝ループ橋」は河津と天城を結ぶ国道414号線で河津町のシンボル的な存在。この橋の脇にも約100本の河津桜があり、円の内部にある「河津桜」は7~8分咲きであった。様々な角度から「河津七滝ループ橋」とピンクの「河津桜」のコラボを楽しむ。2段のループ橋。そして「河津七滝ループ橋」を渡り、下部にあった駐車場に車を再度駐めた。「全建賞我が国の良質な社会資本整備の推進と建設技術の発展を促進するため(社)全日本建設技術協会により昭和28年い953年)に創設された歴史と伝統のある賞で毎年優れた建設事業を実施した機関に授与されるものです。七滝高架橋耐震補強工事はその技術が認められ平成28年度の道路部門において受賞しました。田中賞土木学会における、橋梁工学の権威者田中豊氏(1888~1964)の意思と功績をしのび制定された賞て優秀な橋梁及び関連する構造物に対して授与されるものです。この賞は土木学会においては高く評価されている賞で七滝高架橋( ループ橋)建設の技術が認められ1982年作品部門において受賞されたものです。」「河津桜」案内板が満開に近い木の横にあった。「河津桜カワヅザクラはわが国のサクラの中では早咲きの桜です。開花時期は天候等に左右されますが毎年1下旬から開花が始まります。開花期間は約1ヶ月と長期に及び他の桜にない特徴がみられます。河津桜の原木は、河津町田中の飯田勝美氏(故人)が1955年(昭和30年)頃の2月のある日河津川沿いの冬枯れ雑草の中で芽咲いるさくらの苗を見つけて、現在地に植えたものです。1966年(昭和41年)から開花がみられ、1月下旬頃から淡紅色の花が約1ヶ月にわたって咲き続け注目を集めました。伊東市に住む勝又光也氏は1968年(昭和43年)頃からこのサクラを増殖し、このサクラの普及に大きく貢献しています。一方、県有用植物園(現農業試験場南伊豆分場)は、賀茂農業改良普及所、下田林業事務所(現伊豆農林事務所)や河津町等と、この特徴ある早咲き桜について調査をし、この桜は河津町に原木があることから1974年(昭和49年) (カワヅザクラ(河津桜)と命名され、1975年(昭和50年)には河津町の木に指定されましたカワヅザクラはオオシマザクラ系とカンヒザクラ系の自然交配種と推定されています。まだ肌寒い時期にお花見がいち早く楽しめる「河津桜まつり」は毎年2月上旬から3月上旬まで開催され1ヶ月で100万人もの来場者で賑わいまた夜にはライトアップされた幻想的な河津桜が楽しめます。」河津桜原木カワヅザクラの原木は、伊豆急河津駅から駅の横を通る町道大堰浜線を天城山に向かって1 .2kmの地点、河津町田中飯田氏宅の庭にあります。2009年現在樹齢約61年、樹高10m、樹巾約10m、幹周約115cmの通称「小峰の桜」河津桜原木物語昭和三十年頃の二月のある日この家の主であった飯田勝美氏が河津川沿い(豊泉橋上流の田中地区側)の冬枯れの雑草の中で芽吹いていた約一メートル位育った桜の若木を偶然みつけて庭先に植えた事が始まりでした。約十年後の昭和四十一年一月下旬やっと花が咲き始めました。同年四月、主の勝美氏は花が咲くのを見届け永眠しました。後にきれいに咲く桜を見て譲ってほしいという話もありましたが、思い出の桜の為手放さなかったそうです。当時、この家の屋号からこの桜は「小峰の桜」と呼ばれ親しまれてきました。その後の調査で新種の桜とわかり昭和四十九年に河津で生まれた桜であることから「河津桜」と命名され昭和五十年四月河津町の木に指名されました。」ループ橋の後の高架橋の下の「河津桜」は今が満開。そして賀茂郡河津町田中の駐車場に車を駐め(1000円)、河津川沿いの「河津桜」を愛でに向かう。今年も大型バスの駐車場にはこの時、バスは1台も駐車していなかったのであった。今年の「第31回河津桜まつり」は2021.2.10(水)~3.10(水)で開催予定であったが、この新型コロナ禍の」影響で中止が決定したのであった。 【https://kawazucamp.com/news/99】よりそして河津川の遊歩道の横にあった店には様々な手作りのつるし雛が展示販売されていた。静岡県東伊豆町稲取の雛のつるし飾りは日本三大つるし飾り(福岡県柳川市:さげもん、山形県酒田市:傘福)のひとつでもあるとのこと。五段雛飾りも。そして河津川沿いの「河津桜」の散策を開始。いきなり菜の花の黄色とのコラボが迎えてくれた。この付近の「河津桜」は満開手前の8分咲きくらいであった。遊歩道にはそれなりの数の観光客の姿が。残念ながら、この時には青空はなく。まずは「河津川」を右手に見ながら下流に向かって進む。「河津桜」の魅力は、早咲きの桜であることと花色。ソメイヨシノの淡いピンクに比べ、はっきりとした明るいピンク色。春らしいピンク色は、見ている人にこれから来る春を期待させるような色。「河津桜」はソメイヨシノと同じように花の後から葉が出て来る。山桜の種類などは花と葉が同時に出て来るので、葉の出るタイミングが違うのだ。「河津桜」は、花が咲いている間は木全体が花で覆われたようにピンクに染まって見えるのだ。歩いて来た遊歩道を振り返る。遊歩道沿いの民家の庭のレモンの木。蕾はもっと濃く鮮やかなピンクで、まるでベリーのようで魅力的。河津桜にもほのかな香りがあるが、マスクをしている為か・・・・。菜の花の香りも同様に・・・。川の石には野鳥の姿が。くちばしの基部の黄色に特徴のある「カワウ」であろうか。そして左手のテントの中にあったのが体温チェックブース。「笹原公園」内にある「さくらの足湯処」。今年は閉鎖中で、湯は溜まっていなかった。この日は「メジロ」の姿は殆ど確認できなかった。街全体で約8,000本の河津桜が咲き乱れる河津町。菜の花とのコラボを再び。菜の花の黄色と、「河津桜」のピンクの色合いが美しいのであった。そして我々3人も体温チェックブースで体温測定。もちろん3人共36℃前後で異常なく、ワッペンを頂き私はキャップに貼り付けた。「笹原公園」内にあった案内板。「河津町観光案内図」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.01
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