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今日は2021年の大晦日、今年1年を振り帰ってみたいと。キャプション・写真等の前半部分はネットから転載させていただきました。読売新聞の2021年十大ニュースは下記のごとし。[ネットから]【1位】大谷メジャーMVP米大リーグの今季最優秀選手(MVP)が11月18日、発表され、投打の「二刀流」で歴史的な活躍を見せたエンゼルスの大谷翔平がア・リーグで初受賞を果たした。投票権を持つ記者30人全員が1位票を投じる「満票」での選出で、日本人の受賞は2001年のイチロー以来20年ぶり2人目だった。大谷は投手としてチームトップの9勝、打者として46本塁打を記録し、「野球の神様」と呼ばれたベーブ・ルース以来、103年ぶりとなる「2桁勝利、2桁本塁打」にあと一歩まで迫った。最終的に2本差で逃したものの、本塁打王のタイトルを最後まで争い、リーグ5位の26盗塁を記録するなど走塁でも輝きを見せた。7月のオールスター戦には、史上初めて投打で先発出場。前日のホームラン競争にも日本人として初出場し、アーチを連発した。MVP以外にも、選手が選ぶ年間最優秀選手などを受賞。米誌タイムによる「世界で最も影響力がある100人」にも選ばれた。その活躍から、日本政府は国民栄誉賞の授与を打診したものの、大谷は「まだ早い」と辞退した。【2位】東京五輪 最多58メダル第32回夏季五輪東京大会が、コロナ禍を理由とした史上初の1年延期を経て、7月23日に開幕した。205ヶ国・地域と難民選手団から選手約1万1000人が参加。8月8日まで17日間の会期中、毎日の検査や外出自粛などの感染対策に取り組みながら、史上最多の33競技339種目に臨んだ。1964年東京大会以来、2度目となる国内での夏季五輪に、日本選手は過去最多の583人が参加した。獲得した金メダル27個、そのうち女子種目は14個でいずれも歴代最多。銀14個と銅17個を加えた総数58個も、夏冬を通じて日本の最多記録となった。お家芸である柔道は史上最多の金9個を含む12個、レスリングは金5個を含む7個をそれぞれ獲得。体操は橋本大輝が二つの金。競泳の大橋悠依は夏季の日本女子史上初の同一大会2冠を達成した。卓球新種目の混合ダブルスで水谷隼、伊藤美誠 組が卓球王国・中国を破って優勝。追加種目として3大会ぶりに実施された野球は決勝で米国を破り、正式競技として初の金に輝いた。新競技のスケートボードは金3個を含む計5個と躍進。13歳の西矢椛が日本選手史上最年少の金を手にした。【3位】コロナワクチン接種新型コロナウイルスのワクチン接種が2月17日、スタートした。感染予防や重症化・死亡リスクを低減する効果を持つワクチンの接種は、菅内閣が「感染対策の決め手」と位置づけたもので、河野行政・規制改革相が新設の担当閣僚に起用された。接種には、主に米ファイザー社と米モデルナ社のワクチンが使われた。まず、医療従事者が対象となり、その後、高齢者や基礎疾患がある人などへの優先接種、64歳以下の一般向け接種など対象は順次拡大した。病院や診療所による個別接種、各自治体が設けた会場での集団接種、企業などの職域接種、自衛隊が運営する大規模接種など多くの接種ルートが作られた。ワクチンを保管する冷凍庫の不備などで廃棄するケースが相次いだほか、予約を巡る混乱もあったが、すでに国民の8割近くが2回目の接種を終えた。「感染第6波」への警戒が強まる中、12月1日からは3回目となる追加接種も始まった。政府は、飲食店やイベントでワクチン接種証明などによる「ワクチン・検査パッケージ」を活用した行動制限緩和の方針を打ち出しており、経済回復への期待も高まっている。【4位】眞子さま 小室圭さん 結婚秋篠宮家の長女眞子さまが10月26日、大学時代の同級生・小室圭さんと結婚して皇室を離れ、民間人の「小室眞子さん」となった。2人は2017年に婚約が内定したが、その後、小室家の金銭トラブルが表面化。18年に結婚が延期されていた。結婚に批判的な国民感情が残っていることを考慮して、関連儀式は行わず、国から支給される一時金も初めて辞退するという異例の形での門出となった。夫妻は結婚後、文書を読み上げる形式で記者会見した。眞子さんは、圭さんを「かけがえのない存在」とし、「結婚は自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択でした」と語った。夫妻は11月、米ニューヨークに拠点を移し、新生活を始めた。皇族女子の結婚は戦後9人目。皇室の構成は、天皇陛下と上皇さま、皇族方の計17人となった。政府は、安定的な皇位継承策などを検討している。【5位】熱海で土石流静岡県熱海市伊豆山地区の逢初川上流で7月3日午前10時半頃、大規模な土石流が発生し、川沿いに立ち並ぶ多数の住宅や住民らが流された。26人が死亡、1人が行方不明となり、建物被害は住宅など約130棟に上った。崩落の起点付近では、県の基準を大幅に超える量の盛り土が造成されており、この土砂の流出が被害を甚大化させた可能性が浮上。県警は10月に盛り土の造成業者や土地所有者の関係先を業務上過失致死などの容疑で捜索し、12月には遺族が提出した殺人容疑の告訴状を受理した。県と市は2011年に、業者に対して安全対策を求める命令を出すことで合意しながら、業者が防災工事を始めたことなどを理由に命令を見送っていた。その後、工事は進まず、危険性を認識しながら被害を防げなかった行政の責任を問う声も出ている。【6位】変異株が猛威新型コロナは変異を繰り返し、国内でも猛威をふるった。中でも感染力の強い「デルタ株」が流行した今夏の「第5波」では、全国各地で1日当たりの新規感染者数が連日、過去最多を更新。病床不足から入院できない感染者が相次いだ。国内の感染者数は9月に計150万人を突破。累計死者数は10月に1万8000人を超えた。今冬には新変異株「オミクロン株」も確認され、政府は「第6波」への警戒を強めている。【7位】自民総裁に岸田氏 首相就任退陣を表明した菅首相の後継を決める自民党総裁選が9月29日、投開票され、前政調会長の岸田文雄氏が、行政・規制改革相の河野太郎氏ら3人を破り、第27代総裁に選ばれた。「聞く力」を前面に打ち出した岸田氏は、1回目の投票でトップに立ったのに続き、河野氏との決選投票も制した。10月4日の国会で第100代首相に指名され、岸田内閣を発足させた後、14日に衆院解散を決定。「新しい資本主義」を掲げて臨んだ31日の衆院選で、自民党は単独過半数を超える261議席を獲得して勝利し、岸田氏は11月10日に第2次内閣を発足させた。【8位】藤井新竜王、最年少四冠将棋界の最高棋戦、竜王戦七番勝負で、藤井聡太三冠(王位、叡王、棋聖)が11月13日、豊島将之竜王にシリーズ4連勝し、竜王を初めて獲得した。19歳3か月での四冠達成は、羽生善治九段の記録(22歳9か月)を更新し、史上最年少となった。歴代1位の29連勝や最年少でのタイトル奪取など、これまでに打ち立てた数々の記録に続き、八大タイトルの半数を手にしたことで、「藤井1強」時代の幕開けを感じさせた。【9位】ゴルフ松山 マスターズV男子ゴルフの松山英樹が4月11日、米マスターズ・トーナメントで初優勝を飾った。日本男子のメジャー大会制覇は史上初。マスターズ10度目の挑戦で悲願を達成し、優勝者に贈られる「グリーンジャケット」に、アジア勢として初めて袖を通した。記者会見で念願のメジャー制覇について、「日本人にはできないんじゃないかというのがあったと思うが、僕が覆した」と述べた。【10位】東京五輪「原則無観客」に新型コロナ感染対策のため、東京五輪の競技の多くが無観客となった。東京五輪・パラリンピック大会組織委員会は、7月8~10日に東京など6都道県で開催される競技をそれぞれ無観客で開催すると発表。チケットを入手した人々からは落胆の声があがった。組織委では森喜朗会長が2月に女性蔑視と受け取れる発言をして辞任。開会式直前に楽曲制作者や演出担当者が過去の言動を問題視されて辞任や解任に追い込まれるなど混乱が続いた。【追加】大阪ビル放火 20人超が犠牲大阪市北区の雑居ビルに入る心療内科クリニックで12月17日、男が火をつけ、約25平方メートルを焼いた。男を含む患者ら男女27人が心肺停止状態で救急搬送され、30日午後5時現在で、うち26人の死亡が確認された。大阪府警は、事件に関与した男を、クリニックに通院歴がある住所・職業不詳、谷本盛雄容疑者と特定。防犯カメラの映像などから、ガソリンをまいて火をつけた谷本容疑者が、患者らを閉じ込め、一酸化炭素(CO)中毒による大量殺人を図ったとみている。【その他】 2021年「今年の漢字」は「金」日本漢字能力検定協会は2021年12月13日、2021年の世相を表す「今年の漢字」は「金」であると発表しました。「金」が選ばれたのは2016年以来5年ぶり4回目です。主な理由として、東京五輪での「金」メダルラッシュ、大谷翔平選手や藤井聡太四冠らの活躍により「金」字塔が打ち立てられたこと、新紙幣や新硬貨などお「金」にまつわる話が話題に上がったことが挙げられています。総投票数223,773票の内訳は1位の「金」が10,422 票(4.66%)、2位の「輪」が10,304 票(4.60%) と大接戦。1位と2位の票差は118票で過去最少という結果になりました。以下10位までの結果。1 位 「金」 10,422 票(4.66%)2 位 「輪」 10,304 票(4.60%)3 位 「楽」 6,165 票(2.76%)4 位 「変」 5,605 票(2.50%)5 位 「新」 4,738 票(2.12%)6 位 「翔」 3,577 票(1.60%)7 位 「希」 2,941 票(1.31%)8 位 「耐」 2,923 票(1.31%)9 位 「家」 2,814 票(1.26%)10 位 「病」 2,812 票(1.26%)昨年同様コロナ禍を象徴する「家」「病」などが引き続きランクインしているものの、「楽」「希」といった明るいイメージを持つ漢字が上位に入った。そして個人的には順不同であるが★わが市の隣接市の神社仏閣・名所旧跡を歩くコロナ禍で海外旅行に行けないので、隣接市の神社仏閣・名所旧跡をひたすらマスク着用にて歩きました。完了したのは・横浜市泉区・横浜市戸塚区・綾瀬市・大和市・鎌倉市・海老名市来年は、寒川町、茅ヶ崎市を巡り隣接市の完全制覇を計画しています。海老名・相模国分寺遺跡海老名駅前の実物大1/3のスケールの相模国分寺・七重塔モニュメント。★今年もコロナで始まりコロナで終わった1年 そしてマスク着用で始まりマスク着用で終わった1年「新型コロナウイルス感染症の国内発生動向 令和3年12月29日24時現在」「国内感染者 12月30日午後7時30分現在」。世界中でオミクロン株の感染が拡大する中、国内にオミクロン株が入ってきた場合の新型コロナウイルスの感染がどうなっていくのか。AI=人工知能を使って予測しているのが、名古屋工業大学の平田晃正教授です。オミクロン株については、最初に南アフリカの当局から発表されたのが2021年11月25日。まだ分からないことも多くあります。平田教授はオミクロン株の市中感染が始まる時期によって東京都の新型コロナウイルスの感染者数がどう変化するのか、AIに人流のデータ、過去の新型コロナの感染の推移、これまでに海外で報告されたオミクロン株の感染力、ワクチンの効果に対する影響のデータなどを入力して分析した と。東京都でオミクロン株の市中感染が始まったのが12月25日だったと仮定した場合、都内の1日の新規感染者数は、2月中旬に約3300人でピークとなる計算となりました。2022年1月1日に市中感染が始まったと仮定した場合でも、2月中旬に3000人に達しました。2022年1月16日まで遅らせることができた場合は、都内の1日の感染者数は3月上旬に最大2200人余りという結果になったと。この予測が現実化しないことを祈るばかりであるが。AIによる新規感染者数予測(都内)★1万世帯以上の自治会連合会の役員として、今年も参加したが今年も行事はほぼ全て中止になり、「中止」を決定する会議のみが開催され参加した が実感。2年間で卒業の予定であったが[単位不足]で卒業できないと判断し、もう1期2年引き受けることに。今年も「習うより慣れろ」の実現はほど遠い1年であった。★我がブログも今年も皆勤にて500万回アクセスを通過。 去る12月11日(土)夕方に、我がブログアクセス数も500万回を超えました。 皆様の日々のアクセスに感謝申し上げます。 400万回通過時から延べ360日になります。 そして今日・大晦日2021.12.31の12:00前のカウンターは『5067458』を示していました。 これからも毎日の出来事を 『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、 そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを 「毎日」書き続けて行きたいと思っています。 文章の表現力も乏しく、誤変換や、内容を理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、 我が儘にもあまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』 『学びのツール』そして「備忘録」として日々のブログを書き続けて行きたいと 思っているのです。★旅友の運転で『続日本100名城』巡りを行う。茨城県:土浦城、笠間城熊本県:鞠智城、八代城鹿児島県: 知覧城、志布志城宮崎県:佐土原城、延岡城大分県:佐伯城、臼杵城、中津城、角牟礼城10月に茨城県:「土浦城」👈リンク茨城県:「笠間城」👈リンク11月に4泊5日で九州巡り熊本県:「鞠智城」👈リンク熊本県:「八代城」👈リンク鹿児島県:「 知覧城」👈リンク鹿児島県:「」志布志城👈リンク宮崎県:「佐土原城」👈リンク(後日)宮崎県:「延岡城」👈リンク(後日)大分県:「佐伯城」👈リンク(後日)大分県:「臼杵城」👈リンク(後日)大分県:「中津城」👈リンク(後日)大分県:「角牟礼城」👈リンク(後日)そして二人暮らしの我が家の重大ニュースは唯一つ①今年の私達夫婦は自宅で風邪や発熱で寝込むこともなく1年365日健康で今日の日を 迎えられた事に感謝。 そして私は来年は6回目の『年男』を迎えるのである。 妻は今年もパートの仕事を皆勤、週末の趣味も、横浜に張り切って行く日々であった。 独立している子供たち家族も元気に越年、来年も1月9日に長男、長女家族が我が家に 来ると。久しぶりの家族【全員集合】なのである。そして我が家の正月飾りの準備も昨日に完了しました。門松は12月28日までに飾るか、12月30日に飾るのが良いとされています。その理由は、 29日に飾るのは語呂合わせで「29(二重苦)」に通じ縁起があまりよくないとされているからです。また、12月31日に飾るのは「一日飾り」といい、一日前にぎりぎりで飾ると、神聖な気持ちでゆっくりとお正月を迎えられないので、その日には飾らないことにするのだと半世紀以上前に亡き父より。鏡餅は今年も2個購入。組み立てました。神棚。全てを下し濡れタオルで1年の埃を落としました。そして牛蒡注連も新たに購入し奉納しました。玄関のしめ飾り。今年はシンプルなものに。長かった?2021年、大晦日の「年越しそば」と「除夜の鐘」に、コロナに打ち勝ったことを実感できる新たな年2022年へ!! との願いを込めて。本日も我がブログへのアクセスありがとうございます。アクセスいただいた皆様も元気に良き新年をお迎えください。そして来年も我がブログをご笑覧いただきたくよろしくお願い申し上げます。そして明朝は!! 2021年 完了
2021.12.31
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「南洲墓地」の散策を続ける。下段の「南洲神社」側を暫し巡る。「伊地知末吉」の墓。「池田幸太郎」の墓。「少年烈士伊地知末吉 明治10年3月30日 肥後松橋で没す 14歳池田幸太郎 明治10年9月24日 城山 14歳新納宗次郎 明治10年3月21日 肥後鏡 14歳」「中村(邑)恕助」の墓。「中村(邑)恕助京都にて勤皇志士と交友。明治3年、反政府運動に連座、終身禁獄の刑。西南の役時、鹿児島の獄に在ったが、大山県令に従軍を出願して釈放。明治10年3月に戦列に加わる。4月20日、熊本城の東、保田窪の激戦で戦死。34才。」「森川政一」の墓。「森川政一旧姓茂手木。山梨県出身。明治10年6月23日豊後方面で戦死。34歳。京都遊学中戊辰の役で官軍に加わり功をたてた。薩摩藩士森川の養子となり、西南の役では2番大隊3番小隊附属として従軍した。」「種子島 彦之丞」の墓。「種子島 彦之丞平家を祖とし、鉄砲伝来で有名な種子島時尭の一族である。彦之丞は、薩摩藩島津斉彬公の側用人側役勤種子島六郎の次男で、西南戦争では、奇平14番隊の半隊長を務めた。明治10年8月7日、弱冠二十歳で宮崎県の山陰(やまげ 日向市)にて傷つき戦死した。」まだまだ上段の奥に大きく拡がる墓石群があったが、ここまでとし、次に「西郷南洲顕彰館」の裏にある「竹公園」を訪ねた。「西郷南洲顕彰館」を正面に見る。「西郷南洲顕彰館」は、鹿児島県鹿児島市上竜尾町にある資料館である。1978年7月に開館、南洲公園内の南洲神社西郷隆盛墓所の隣に建っている。西郷隆盛を中心に大久保利通や明治維新について展示しており、近隣には西南戦争で西郷軍が決起した私学校址の石垣、最後の戦いが行われた 城山、西郷洞窟、西郷隆盛終焉の地などがある。「西郷南洲顕彰館」案内柱。「西郷南洲顕彰館西郷南洲顕彰館は、西郷隆盛(南洲翁)を中心とする明治維新の先覚者たちの、国家・社会に尽くされた偉業を後世に伝えるとともに新しい時代を担う青少年の人間形成に役立てるため、西郷南洲百年記念事業として、西郷南洲翁を慕う全国の方々からの寄付により昭和52年建設着工し、翌年6月30日に鹿児島市に寄贈されたものですまた、建物は江戸城の開城にちなんで「城壁を開く」というテーマで設計されたものです。」「南洲墓地」、「桜島」を振り返る。「南洲神社」の「一の鳥居」方向を見る。ズームして。巨大な石灯籠。「西南之役官軍薩軍恩讐を越えて建立の由来西南之役は、明治の近代国家建設途上における国内最後で最大の内戦である。明治六年十月、いわゆる遣韓論に破れた西郷隆盛の下野により、その端緒を開き明治十年ニ月十五日に出軍、同十年九月ニ十四日をもって終了した。参戦した兵力は官軍六万人薩軍三万人。両軍合わせて一万四千余人の戦死者を出した。熊本城の攻防戦、高瀬の大会戦、田原坂の大激戦などが、つとに有名である日本人同士が、親子が、兄弟が、竹馬の友が、血涙山河を濡らす悲劇的戦いに数多有為の人材を失ったこと今もなお惜しみてあまりある。」「日向には 我と人とを 隔つなよ 看経はよし してもせずとも島津家中興の祖と仰がれる日新会(島津忠良)の「いろは歌」である。日新公の加世田別府城の戦い、島津義弘の木崎原や島津義久の耳川の戦いに続き、島津義払、忠弘(のちの家久)親子は和歌山に”朝鮮の役”などそれぞれに敵味方の別なく「高麗陣敵味方戦死者供養碑」を建立し戦没者を懇ろに供養した。両軍相対峙した必死の戦いも、互いの奮闘をたたえ戦没者を敵味方の別なく供養する「博愛慈悲の精神」は武士道の精華として感銘を与えている。ここに西南の役百四十年、明治維新百五十年を奇貨として国の安寧と世界の平和を希求し、先人の労苦に思いを馳せ、もってその遺風を後世に伝えるものである。」月岡芳年『鹿児島征討記内 熊本城ヨリ諸所戦争之図』この錦絵は??島津藩の家紋、池上四郎の名があるが。「回向には 我と人とを 隔つなよ 看経はよし してもせずとも(仏様を供養するのに敵味方分け隔てをするな。読経はしてもしなくてもよい)島津家中興の祖と仰がれる日新公(島津忠良)の「いろは歌」である。日新公の加世田別府城の戦い、島津義弘の木崎原や島津義久の耳川の戦いに続き、島津義弘、忠恒(のちの家久)親子は和歌山の高野山に”朝鮮之役”など、それぞれに敵味方の別なく、高麗陣敵味方戦死者供養塔」を建立し戦没者を懇ろに供養した。ここに西南之役百四十年、明治維新百五十年を奇貨として国の安寧と世界の平和を希求し、先人の労苦に思いを馳せ、もってその遺風を後世に伝えるものである。」再び「桜島」の山頂を見る。「竹公園」まで50m。苔生した巨岩の横を進む。「竹公園」に到着。孟宗竹を琉球から本土に持ち込み、ひろめた島津21代当主、島津吉貴公の墓が以前あった場所。現在は別の場所に改葬移転。その跡地として竹公園として整備された場所。竹公園は手入れが行き届いており、竹の葉がざわめく音を聞いていると和むポイント。小さな公園ではあるが鹿児島県内に繁殖している竹14種・1643株が集められていると。中央に大きな石碑が。「島津吉貴公ゆかりの竹公園日本にはじめて孟宗竹が植えられたのは、1736年薩摩藩の磯別邸であるといわれます。島津21代吉貴公は、琉球(沖縄)から孟宗竹を2株とりよせ、磯の別邸に植栽されました。これをもとに、現在では日本全国に繁殖しています。この竹公園は、吉貴公の業績をたたえるために、公の墓所であるこの地に作られました。こに植栽されている竹は、孟宗竹をはじめ、県内に繁殖している竹( 14種・1643株)を集めたものです。」。島津吉貴公は、幼名を忠竹と言い、家督をゆずった継豊公が再婚させられそうになった、徳川吉宗公の養女の名前が竹姫というので、よほど竹に縁があるのかと…。「島津吉貴公碑」戒名「浄国院殿鑑阿天清道煕大居士」が刻まれていた。裏側。「建立昭和四十六年十一月浄光明寺」。様々な種類の竹が植えられていた。竹笹の緑が陽光に輝いていた。再び「南洲墓地」を見る。「桜島」を背景に「西郷隆盛」の漢詩碑。「南洲詩より」「闕を辞す独時情に適せず 豈勧笑の 声を聴かむや羞を雪(そそ)がむとして 戦略を論ずれば義を忘れて 和平を唱ふ 秦檜 遺類多く武公 再生し難し 正邪今 那ぞ定まらむ後世必ず 清を知らむ」「太宰府天満宮の梅」。「太宰府天満宮の梅白梅(バラ科ウメ属 品種 田子の月 太宰大弐)紅梅(バラ科ウメ属 品種 桜鏡 鹿児島紅)この紅白の梅は、西郷隆盛が1865年(慶応元年)、福岡の太宰府で五卿を守護中、菅原道真公の命日に手灯明を点し供養した逸話を語り継ぐため、太宰府天満宮から特別に寄贈ざれました。太宰府・鹿児島両市民の一層の友好と古人への思いが梅の香とともに時空を超えて通うことを祈念し、植樹しました。」「西郷南州顕彰館」を再び。「西郷南州顕彰館」を三度。「カゴシマシティビューまち巡りバス」の「10 西郷南州顕彰館」停留所。次のバス停は「11 今和泉島津家本邸跡(篤姫誕生地)前」。「カゴシマシティビュー」案内写真。「周辺のみどころ案内」。そして駐車場から、この朝に日の出を楽しんだ「城山展望台」のある「城山」を見る。桜島の山頂からは水蒸気が上がっていた。そして更に右に目をやると錦江湾の「光る海」が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.31
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最初に「南洲墓地」の中央にあった「西郷隆盛墓」に向かって進む。「南洲墓地」の航空写真をネットから。中央の石段の上正面が「西郷隆盛」の墓。 【https://www.photolibrary.jp/img592/83115_5556225.html】より「南洲墓地」の入口にあった「南洲墓地 命もいらず名もいらず」案内板。--信義を貫いた巨星と群れ星ここに眠る--1877年(明治10) 9月24日、域山で西郷隆盛が自刃して、ついに7ヶ月にわにった西南戦争が終わりました。熊本域の攻防、田原坂の激戦に敗れた薩軍は、多くの死傷者を出しながらも九州を南下して、故郷の城山を最期の決戦の場に選んだのです。南洲募地には西南戦争に敗れた薩軍2023名もの将兵が眠っています。1877年(明治10)岩崎谷で戦死した西郷以下40名を仮埋葬したこの地に、その2年後、市内各所に埋葬されていた遺骨を移し、さらに6年後には、宮崎・熊本・大分の各県からも集められました。基石は正面に西郷降盛、左手に最後まて奮戦した桐野利秋、右手には篠原国幹、他には村田新八、辺見十郎太、別府晋介、桂久武など幹部が並び、鹿児島県令(知事)として西郷を支援し処刑された大山綱良や、わすか14歳にして戦場に消えた伊地知・池田両少年、兄弟5人が討ち死にした児玉兄弟、県外出身者の名も見られます。1879年(明治12)に設けられた参拝所は、1922年(大正11 )西郷隆盛を祀る南洲神社となりました。」中央に「西郷隆盛墓」。ズームして。墓石の台座には「岩崎谷のおくつきは 煙の香にて絶間なく 上野の山の銅像は 百千の人に仰かるる」と刻まれていた。中央の「西郷隆盛墓」の右側に並ぶ墓石。右側最初の「篠原国幹(しのはら くにもと)」👈リンク の墓。「篠原国幹知略あり、桐野と並び立つ猛将。明治5年陸軍少将、近衛兵司令官。明治6年辞職し、帰鹿。私学校銃隊の監督。西南の役では、薩軍一番大隊長。明治10年3月4日吉次峠の激戦に陣頭指揮。42歳で戦死。」隣に「村田新八」👈リンク の墓。「村田新八明治4年宮内大丞となり、岩倉具視一行に加わり欧米を視察。7年帰国し辞職、帰鹿。私学校砲隊の監督。西南の役では、薩軍2番大隊長。城山最後の日、西郷の死を見届けて自刃。享年42歳。」「渕辺高照(群平)」👈リンク の墓。「渕辺高照(群平)」鹿児島市高麗町生まれ。近衛少佐。当初陸軍本営付護衛隊長。明治10年3月に帰鹿し、辺見、別府諸将と新募兵1500人により9番大隊を編成。八代の奪回を策したが失敗に終わる。6月1日鵬翼隊大隊長として人吉作戦を指揮中に戦死。38才。」「別府晋介 景長」👈リンク の墓。「別府晋介 景長明治10年9月24日城山で戦死31歳。明治6年近衛少佐を辞し帰郷、加治木区長となる。西南の役では6番7番連合大隊長として出陣。9月24日早朝、岩崎谷口に向い突進中、銃弾を受けた西郷の命によりその介錯をつとめた。「桂 久武」👈リンク の墓。「桂 久武日置島津家の出身。藩の大目付役の後、在藩家老として維新の変革に尽す。西郷とは終生心の通じ合った人。都城県令。西南の役では大小荷駄本部長。城山で戦死。48歳。」「小倉壮九郎 知周」の墓。「小倉壮九郎 知周明治 10年 9月 24日城山で自刃 35歳。日露戦争に輝かしい功績をたてた連合艦隊司令長官・東郷平八郎の実兄。明治 6年、陸軍大尉を辞任、帰郷して種子島区長となる。西南の役では 3番大隊 9番小隊長として出陣した。」「山野田 一輔」の墓。「山野田 一輔鹿児島市西田生まれ。近衛陸軍大尉、薩軍中隊長。明治10年9月22日河野主一郎と軍使となり、義挙の主意を川村参軍に告げる。24日、城山で戦死。34才。弟政治は田原坂で戦死。辞世の歌「砕けても 玉の光は千よろずの 後の世までも 照り透らめや」。その先にも多くの墓が。中央の「西郷隆盛」の墓の左手まで引き返す。「桐野利秋」👈リンク の墓。「桐野利秋無類の豪胆。勤皇の志士として活躍し”中村半次郎”の名で有名。戊辰の役に功あり。明治4年陸軍少将、6年には辞職し帰鹿。西南の役では、薩軍総指揮官。明治10年9月24岩崎谷で戦死。享年40歳。」「永山 盛弘(弥一郎)」👈リンク の墓。「永山 盛弘(弥一郎)人柄温和にして義に富む。明治4年陸軍中佐、北海道屯田兵の長。明治8年には辞職して帰国。西南の役では、薩軍三番大隊長。明治10年4月熊本県御船において奮戦したが、四面楚歌という状況に陥り、民家を買い取って中に入り、自ら火を放って自刃。享年40歳。」「池上 貞堅」の墓。「池上 貞堅戊辰の役に功あり。明治4年陸軍少佐。征韓論が起ると同5年命により満州地方を視察。同6年職を辞して帰国。同10年9月24日城山岩崎谷に死す。享年36歳。」「辺見 十郎太」👈リンク の墓。「辺見 十郎太近衛陸軍大尉のとき西郷とともに下野。明治10年の西南のの役では、薩軍三番大隊一番小隊長。可愛嶽(えのたけ)突破には先鋒となり、頭部に負傷したが明治10年9月24日別府晋介と共に西郷に従って進み、奮戦して死す。享年29歳。」その先に並ぶ墓石を見る。中央にある「西郷隆盛」の墓の方向を振り返る。下段の墓石群。下段に下りて更に墓石を巡る。「福岡隊士」の墓。「福岡隊士川越庸太郎 明治10年9月24日城山にて戦没 26歳川庄 喜徳 明治10年9月4日米倉の戦にて没 26歳福岡隊は薩軍に呼応して決起したが、薩軍と合流できないまま全減した。戦死者104名。」「庄内藩士(山形県)」の墓。「伴兼之」の墓。「榊原政治」の墓。「庄内藩氏(山形県)伴兼之 明治10年3月20日 肥後植木にて没す 享年20歳榊原政治 5月10日 延岡病院にて没す 享年18歳明治8年他藩士ながら特に私学校入学を許された。西南の役が起こると帰国するよう説得されたが、敢えて従軍した。」中央の「西郷隆盛」の墓への石段の左にあるのが「大山綱良」の墓。初代鹿児島県令であった大山綱良(格之助)は、西南戦争で積極的に西郷隆盛を支援したため、明治10年9月30日長崎で処刑された。「兒玉兄弟」の墓。「兒玉兄弟実直(八之進) 明治10年3月26日 肥後小川にて没す 享年35歳 実清(矢八郎) 明治10年6月15日 武村 32歳実休(十郎) 明治10年3月5日 肥後木留 28歳実健(八郎) 明治10年3月11日 肥後田原 23歳彦吉 明治10年9月24日 城山 17歳」「島津 啓次郎」の墓。「島津 啓次郎佐上原藩主島津忠寛の三男。明治9年、7年間の米国留学を終え帰国早々、佐土原隊500名を率いて従軍。自由民権を唱えた。従者の三島貢之(38才)、中村道晴(26才)、有村武英(20才)とともに明治10年9月24日城山で戦死。21才。」下段の角から「南洲神社」方向の墓石群を見る。「丁丑役戦亡士墓」。西南戦争の年、明治10年は丁丑(ひのとうし)の年であったと、くずし字解読の学友・師匠から。「中津隊士之墓」碑。「中津隊士(大分県)増田宋太郎 明治10年9月4日米倉の戦(現島市役所附近) で没す 享年28歳増田の率いる中津隊は、薩軍の戦況不利な明治10年3月末大分県中津で挙兵し、薩軍に投じた。中津隊員は80余名。戦死者は22名にのぼった。」「岩村縣令記念碑」。「岩村縣令記念碑岩村通俊は天保11年(1840)、土佐藩(高知県)で生まれた。幼少のころから漢学を修め、剣を学んだといわれる。明治元年(1868)の戊辰戦争には、軍監として従軍、越後に転戦した。維新後、新政府に仕え、明治10年(1877) 5月、鹿児島県令(県知事)となり西南戦争の処理に努めた。城山の戦いで西南戦争が終わると、旧浄光明寺(現在の南洲墓地)に送られた西郷隆盛・桐野利秋以下西郷軍の戦死者の遺体をていねいに埋葬した。そして、自ら戦死者の墓碑を書いて建てた。岩村県令は「西郷隆盛らの考えは、後の世に必ずわかってもらえる。」と信じ、政府への気がねや世間のわずらわしい噂をしりぞけたといわれる。岩村は、のちに北海道長官や農商務大臣になった。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.30
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今週の日曜日、12月26日に、毎年妻がネットで購入する活き「松葉ガニ(ズワイガニ)」が今年もこの日もクール宅急便で到着。日本海の大雪による道路状況をニュースで見ていましたので、到着の遅れを心配していましたが、無事予定通りに到着しました。発泡スチロールの蓋を開けると、二匹とも爪を大きく動かし、長旅での旅の疲れを訴えていました。ところでカニの数え方は、匹、杯、枚、尾・・等々どれが正解なのでしょうか?発泡スチロールの箱には「とのかく急げ!カニだ 丸八水産」と。脚には『JFしまね 恵曇支所 大岩丸』と書かれた青いTAGが。発泡スチロールから1匹掴みだして、発泡スチロールの蓋の上に。こちらには「松葉ガニ」のTagが。11月23日~翌年2月23日までが解禁。水深200~500mの海底で漁獲され、山陰地方では雄のズワイガニを「松葉ガニ」と呼ぶとのこと。茹でると、身に含まれる旨味成分の効果を高める物質(アデニル酸)が増え、かに本来の旨味が一層増し、繊細で濃厚な味が堪能できると。カメラをじっと見つめていました。そして妻が一部は早速「カニ刺し」にしてくれました。活きた松葉かにでしか味わえない美味。氷水に放し身が開いた状態を「花が咲く」と言うのです。ワサビ醤油で楽しみました。そして大きな鍋で塩ゆでに。蟹味噌もたっぷりと。蟹味噌の味は、ズバリ「蟹が濃縮」された味なのでした。そして次の日も、もう一匹を妻と2人で。暫し会話も無く蟹を楽しむ沈黙の時間が。
2021.12.29
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ここが南洲神社の一の鳥居。急な階段を登り切って鳥居の奥に西郷さんの墓石が見えたのであった。そしてこの先を右に曲がると「南洲神社」の境内への道もあった。巨大な「常夜燈」。「常夜燈この常夜燈は、西郷隆盛と勝海舟との会談により、江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、昭和14年5月当時の東京市によって寄贈建立されたもので、花棚石(けだないし)でできています。江戸城の無血開城には、薩摩藩から第13代将軍徳川家定の御台所となった天璋院(篤姫)も西郷降盛に徳川家存続の嘆願書を送るなど、大きな役割を果たしたとされています。」花棚石(けだないし)とは鹿児島県鹿児島市で産出される凝灰岩とのこと。こちらは「勝海舟歌碑」。『ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな』。旧鹿児島城下が60年ぶりの大雪に見舞われた1877(明治10)年2月15日、薩軍の一番大隊が鹿児島私学校横の練兵場を出発し、西南の役が始まった。勝は、結果として私学校生徒らに身を委ねる形で同年9月24日に城山の露と消えた西郷の心境を、この31文字に凝縮させたのだと。「勝海舟歌碑明治6年(1873)、朝鮮への使節派遣の問題で新政府を去った西郷隆盛は、鹿児島にもどり、青年の教育のため私学校を設立しました。ところが明治10年この私学校の生徒が、西郷の意思に反して暴走。ついには西南戦争を引き起こしたのです。この歌は、幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、愛する私学校生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです隣に立つ常夜燈は、西郷と勝海舟との会談により江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のた昭和14年5月当時の東京市によって建立されたものです。歌碑はこの常夜燈と同じ花棚石でできてます。」黄葉の始まった銀杏の木の手前にも石碑が。「黄興記念碑」。正面から。「黄興先生略歴孫文と共に中国辛亥革命の代表的志士であった黄興先生は、一八七四年、湖南省長沙市の学者の家に生まれた。性格は寡黙で沈着豪胆、体格も偉大で英雄の風格があり、名文家、能筆家としても有名であった。一九〇ニ年、選ばれて日本に留学し、東京の弘文学院に入学したが、早くから民族主義に目ざめ「華興会」の会長に推挙されるや、孫文の「興中会」と日本で統合を図り、一九〇五年「中国同盟会」を結成して、清朝を打倒し、中国の民主化を目ざす革命運動の推進力となった。一九〇九年(明治四十ニ年)、友人の宮崎滔天の案内で、鹿児島を訪れ、ここ南洲墓地を参詣した際、次の詩を賦した。八千子弟甘同塚世事維爭一局棋悔鑄当年九州錯勤王師不撲王師黄興先生は一九一六年、志半ばにして上海でその波乱に満らた生涯を閉じ、後に故山の長沙市岳麓山に国葬を以って埋葬されたが、終生、中国の西郷南洲を自認し、南洲翁の人格と思想に傾倒した。黄興先生の憂国の至情を追慕すると共に、その出身地、長沙市と鹿児島市との友好都市盟締結ニ十五周年に当り、両市の交流が更に深まることを切望して已まない次第である。」中国語でも。そして正面に「献木」。「ニ十周年記念行事として左記のとおり献木いたします。一、オガタマノキ ニ本一、紅梅 ニ本一、サッキ 三本昭和五十六年十ニ月ニ日鹿児島南洲ライオンズクラブ」。「俳句短歌」投函ポスト。「黄興記念碑」の先には桜島の山頂が見えた。左手に「南洲神社」碑。柿の木には多くの実が。「庄内柿この庄内柿は、庄内の偉人菅臥牛翁(すげがぎゅうおう)と西郷南洲翁との徳の交わりを機縁として、山形県鶴岡市と鹿児島市が兄弟都市盟約を締結した、昭和四十四年十一月七日に、鶴岡市から寄贈されました。庄内柿は庄内地方の特産品で、糖度が高くてみずみずしく、庄内の秋を代表する果物の一つとして知られています。」そして「南洲神社」の境内へ。「南洲神社電燈」。境内の銀杏の木を背景に。南洲神社拝殿の参道、石段を登った両脇に一対立つ。高さ4.4mの鋳鉄製。ズームして。柱脚は六角形の断面、柱頭は六方に開いた花弁状で飾られていた。「登録有形文化財」のプレート。「南洲神社電燈大正2年に建設されたこの電燈は、高さ4.4メートル、鋳鉄製で、六角形の柱脚や六方に開いた柱頭飾り、各接合部の繰形などの装飾をもつ。近代日本の礎となった旧集成館が製造した数少ない遺構である。文化保護法、第57条第1項の規定により、平成18年10月18日付けをもって文化財登録原簿に登録された。」そして「南洲神社」の拝殿。明治13(1880)年に「南洲墓地」の隣接地に建立された。鹿児島県鹿児島市上竜尾町2−1「拝殿」前の石灯籠。「拝殿」に近づいて。神紋:菊の葉三葉(西郷家の家紋)。「南洲神社御祭神 西郷隆盛命配祀 桐野利秋命以下薩軍戦死者六千八百柱沿革 明治十三年一月一日 (1880年) 参拝所建立大正二年十月二十四日 (1913年) 南洲祠堂建立大正十一年六月二十八日 (1922年) 南洲神社創建昭和二年九月二十四日 (1927年) 桐野利秋命以下諸将士を祀る攝社建立昭和二年十月二十四日 (1927年) 五十年祭盛大に行わる昭和二十年7月三十一日 (1945年) 本社攝社とも戦災により炎上昭和二十五年九月二十四日 (1950年) 仮殿建立昭和三十二年九月二十四日 (1957年) 本殿再建昭和四十五年十二月三十一日(1970年) 拝殿再建昭和五十二年九月二十四日 (1977年) 百年祭・玉垣完工 例祭 九月二十四日 祈年祭 二月二十二日 夏 祭 七月十七日・十八日」「拝殿」の「西郷隆盛像」。近づいて。こちらも「西郷隆盛像」。そして「本殿」を見る。「拝殿」前から「南洲神社」境内を振り返る。境内に砲弾が二個置かれていた。「招魂 西南之役戦歿者慰霊塔」。近づいて。「趣意明治十年(一八七七)九月の西南之役終熄より百二十余年、平成十一年度遺族会総会は慰霊塔建立を決議。戦域より遺砂を格納し、就中無名の戦士に光を当て顕彰の誠を捧げるべく企画、同時に南州翁や戦跡より「縁の石」を集め、翁の足跡や苦難の跡を偲ぶよすがとした。今般建立に当り賛同、募金に協力された有志諸賢に深く感謝の念を捧げるものである。 平成十三年九月十六日 西南之役戦歿者慰霊塔建立期成会」。「薩軍戦没者名簿配列表」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.29
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戸越八幡神社の散策を続ける。「戸越の地名の起こり古歌 八幡宮出現由来記 寛永廿未年刊行江戸を越えて 清水の上の成就庵 ねがひの糸の とけぬ日はなしとあり、江戸を越える村というのでこの名が生まれトゴエと呼びました。戸越八幡神社をうたった二首の歌狂歌 江戸名所図会 安政三年刊行」疱瘡を 守る戸越の 八まんに 神子は笹湯を あふる御祭疱瘡の 守りにせんと 諸人が 戸越の宮に ひろふ軽いし神子の湯立神事に笹湯を浴び或いはお宮の小石をひろって帰るのは天然痘に効があるという信仰があったのをうたったものです。」「神楽殿」。正面から。「神楽殿」の舞台正面の板絵「松」を背に、商売繁盛の神「恵比寿天」、福徳開運の神「大黒天」南面の板絵に「例祭の神輿渡御」が描かれていた。手前の絵画。「夢愛魂いつまでも、夢おいかける気持ちを大切にして生きます。一事入魂のこころをつらぬきます。ことばにのせる想いあなたに届きますように・・・・愛を込めて今できることに全力を尽くします。めぐりあいの奇跡にありがとう」。「祈念願」。いのりのぬくもり ねがうやすらぎ ねんじるひたむき ひとつになりますいまのりこえる なみだのさきに たねがいのちが めぶく よろこぶしんじよう こころのままに うごいてゆこう じぶんをあいしてひとを もっと いとしく あいする いつも こころに あなたが ほほえむふしぎな ちからが わいてくる せかいに いるのよみらいを ねがうよ しあわせを ねんじるよひとすじの ひかり あたえていきます ありがとう」「大正天皇御大典記念」碑。「福分け猿」。陛下御即位を祝して令和元年(2019)10月に設置。「幸せうさぎ」。奉賛者の名にはデヴィ・スカルノ氏も。「神輿奉安庫」。「本社神輿」。「戸越八幡神社 御神幸祭り」ポスター。令和元年のもの。「忠魂碑」前の石鳥居。「忠魂碑」。乃木希典大将の揮毫。「忠魂社」碑。様々な厄除札。拝殿に向かって右に「春日社」。拝殿に向かって左に「稲荷社」。そして「戸越八幡神社」の「拝殿」。誉田別命(応神天皇)をお祀りする神社。戦国時代、大永6年(1526)の創建と伝えられる旧戸越村の鎮守で、隣の行慶寺とともに僧行永が結んだ成就庵がその起こりと伝わります。木造銅板葺きの社殿は、安政4年(1857)の建築。拝殿内法の龍の彫刻は見事なもの。他にも境内には25面の「奉納絵馬」や延享3年(1746)に寄進された「石造狛犬」、若衆たちの力くらべに使われた6つの「力石(さし石)」などが残ります。内陣。更にズームして。そして近くにあった「行慶寺」。品川区戸越2-6-31。「浄土宗 行慶寺」。今から約四百七十年ほどの昔、行永法師という方が「成就庵(じょうじゅあん)」という庵(いおり)を旧中原街道沿いにむすんだ。そこには水量豊かな池もあって、上人は馬込から江戸へのこの古い街道を行く旅人に白湯を施したり、村の人々に念仏をすすめたりした。旧中原街道供養塔群 現在の戸越銀座通りをまっすぐ行って、現中原街道を横切ったところに旧街道の入口があり、そこを右に折れてすこし行くとお地蔵さまが今でもまつってあり、成就庵の名ごりとして伝えられています。天保年間(1834年/1836年)に発行された『江戸名所図会』に当時の様子が描かれている。「戸越八幡」と「行慶寺」。「本社」と描かれているのが「戸越八幡」で、「行慶寺」と現在も位置関係もほぼ変わらない。現在も同様に「戸越八幡」には長い参道があり境内の規模もあまり変わっていない。地蔵尊。近づいて。「本堂」。近づいて。浄土宗の開祖法然上人の幼名「勢至丸」像。「品川区指定有形文化財 木造阿弥陀如来座像所在 戸越ニ丁目六番三十一号 行慶寺指定 平成三年三月ニ十六日(彫刻第十七号)当寺の本尊で、来迎印を結び、蓮華座に結跏趺坐(足の表裏を重ねて坐る形)した像の高さ四十六センチメートルの寄木造りの坐像である。像の底部に墨で書かれた文によると、この像は、貞享元年(一六八四)の制作であることがわかる。円満な顔立ちや、肉付きのよい体の表現、自然な皺を巧みに表わした衣の文様など、優れた作品である。脇侍の観音・勢至菩薩像は、太平洋戦争の折に焼失し、現在のものは後に制作されたものである。」そして「戸越銀座商店街」の「戸越銀座通り」を西に向かって歩く。東急線 戸越銀座駅をはさんで東西約1.3km、約400店が軒を連ねる東京で最も長い商店街。平日の通行量は1万人以上、さらに土・日は国内外からたくさんの人々が訪れ、食べ歩きや買い物を楽しんでいるとのことであったが、このコロナ禍で・・・・。「とごしぎんざ」。戸越銀座は、全国で300以上といわれる「〇〇銀座」という地名の元祖。関東大震災の折、瓦礫となった銀座通りのレンガを譲り受け、水はけの悪かった商店街に敷き詰めたことから「戸越銀座商店街」と命名された と。ズームして。「好きですこの街 とごしぎんざ」。名物は「戸越銀座コロッケ」。おでんコロッケ(後藤蒲鉾店)や餃子コロッケ(中華料理 錦華楼)など約20店舗が独自の個性あふれるコロッケを開発し、人気となっていると。ほかにも土産として戸越銀座オリジナルのソースやお酒、マスコットキャラクターの戸越銀次郎(通称:ぎんちゃん)グッズも販売している とネットから。2006年度より品川区と商店街連合会により、無電柱化事業が進められ、2016年4月に完成した。そして池上線の「戸越銀座駅」から「五反田駅」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2021.12.28
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人気のない城山公園駐車場に戻り、車に乗り込む。「城山公園トンネル」を通過し、突き当りを右折。正面に「西郷さん」の銅像が見えたので車を急遽駐める。ここはお土産屋「せごどん」、「西郷銅像撮影所」の看板もあった。「西郷どん」の読み方は「セゴドン」と。剣を持った「せごどん」。斜めから見上げて。そして「西郷どん」の左側に洞窟があった。「目で見る 西南戦争始末記」三十六景展示場。この洞窟の中にあります。ご自由にお入り下さい。「みんなさーおやっとさ ごはした。ゆくさ しろやめ おさいじゃったもした。ほんのこて あいがと ごわす。あたいも きゅは さしかぶい 狩いっもしたや すったい だれもして いまこけ たっちょいかた ごわす。ここん店は あたいが 名をくれた「せごどん」ちゅ店ごわす。なけななだけ やっすっやらかごっまん 土産がずるっ ならべっあんで 遠慮せじ なけ はいっ 茶でん いっぺ飲ん行っきゃんせ。見っだけで よかとごはんで どうか たのん みやげもんでなー。「お客せーな 安す しっあげよ」ちゆっ ごはんで あたいと いっしよき写真でん とっいっきゃはんか。よかにせ やっで うつろごっ ごはす。⊕せごどん」「みなさーん、お疲れ様です。よく城山へおいでくださいました。本当にありがとうございます。私も今日は久しぶりに狩に行ってきたら、すっかり疲れてしまってここに立っているところです。このお店は私の名前をあげた「せごどん」という店です。中にはなるだけ安くするから鹿児島土産がずらーっと並べてあるから遠慮せず中に入って、お茶でも一度飲んでいって下さい。見るだけでも結構ですので、どうかお願いしますね~。お客さんには安くしてあげてと言ってありますから、私と一緒に写真でも撮って行きませんか~。いい男だから写りたいです。」と。壕状のトンネルの中には、西南戦争のハイライトシーンの描かれた絵が展示されているガラスケースが並んでいた。「明治維新を起こした幕末の獅子達の一同にかいした珍しい写真が店内(地下)にあります。どうぞお気軽にご覧下さい。」題目碑「南無妙法蓮華経」であろうか。西南戦争始末記の展示が続いていた。「西郷どん」像。出口。内部の展示品にどれだけの歴史的な価値があるのであろうか??そしてその直ぐ先にあったのが「西郷隆盛洞窟」。正面から。「史跡 西郷隆盛洞窟」碑。こちらは、本物の「史跡」とのこと。近寄って。「西郷隆盛洞窟」案内柱。「おはんらにやった命 西郷隆盛洞窟--西南戦争 最後の司令部--1877年(明治10) 9月24日、午前4時政府軍の城山総攻撃が始まりました。城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余。これを囲む政府軍は、何重もの柵をめぐらし、その数4万。死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間すごしたこの洞窟を出ました。桐野利秋、別府晋介、村田新ハ、池上四郎といった私学校の幹部たちも一緒です。この日の西郷の出立ちは妻のイトが縫った縞の単衣に白い兵児帯。ゆっくりと岩崎谷を下ります。その時流弾が西郷の腰に命中。別府の介錯をあおいで49歳の生涯を閉じたのです。西南戦争というのは、不平士族の反乱のあいつぐ中、西郷を慕う私学校の生徒たちが、政府の挑発によって引き起こした暴動が始まりです。首謀者の引き渡しか全面戦争か、その結論を出したのは「おはんらにやった命」という西郷の一言でした。2月15日、ついに挙兵。熊本で政府軍と激しい攻防をくりかえすも、近代兵器の前に敗退。7ヶ月にわたる大乱の最後を、西郷は故山城山で迎えたのです。」・西郷の自決を見届けた桐野利秋はさらに進撃し、岩崎口の一塁に籠もって交戦するも、味方は 相次いで銃弾に斃れ、または刺し違え、或は自刃した。桐野利秋は塁に籠もって勇戦したが、 額を打ち抜かれて戦死した。享年40。・西郷の洞前に整列した40余名は岩崎口へ進撃し、途中、銃弾で負傷した西郷に命じられ、 別府晋介は駕籠から下り、「御免なったもんし(お許しください)」と叫び、拝礼している西郷を 介錯した。その後、弾雨の中で自決した。享年31。「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがままに 果てし君かな 勝 海舟」。「城山の攻防」。「城山の薩軍陣地跡(薩軍は強固な堡塁をめぐらせた)」「南洲翁洞中記念碑」。「西郷隆盛洞窟」を横から見る。そして車に戻り、次の目的地「南洲公園」に到着。「南洲公園ご案内南洲墓地1877年(明治10)の西南戦争で戦死した西郷隆盛をはじめ、2023名の将士が眠っています。西郷南州顕彰館当館は、西郷南洲没後百年を記念し、皆さんの募金で作られ、鹿児島市教育委員会が主管しています。主な展示品は、1 .西郷隆盛の生涯の1 0景のジオラマ2 .西郷隆盛の遺品・肖像画3 .西郷隆盛直筆の書幅4.西南戦争関係資料西郷南洲顕彰館◆入館料 一般200円 小・中学生100円◆開館時間 午前9時~午後5時◆休館日 月曜日(祝日の場合翌日) 12/29~1/1」「南洲公園」の石段に向かって進む。右手にあったのが「浄光明寺」。「御佛の 浄光明が とこしえに 護るならまし 南洲の夢 与謝野晶子」と刻まれた石碑が山門前に。「松峰山 浄光明寺 沿革この寺は約八百年前の鎌倉時代中頃、時宗の開祖一遍上人の鹿児島遊行を契機として、島津家三代久経(道忍)公の命によりこの地に建てられました。島津家初代忠久(得仏)公・ニ代忠時(道仏)公・三代久経公・四代忠宗(道義)公・五代貞久(道)公の位牌が置かれ(現在は焼失してしまいございません)、またニ十一代古貴公の菩提所として崇拝された由緒正しい寺です。建治三年(一ニ七七)一遍上人が大隅八幡(現在の鹿児島神宮)に参籠して。「とことはに南無阿弥陀仏と唱ふれば、なもあみだぶに生まれこそすれ」の悟りを開かれ、その因縁もあってこの寺は江戸時代末まで薩隅日時宗五十九か寺の本山でした。また大乗院(真言宗)、福昌寺(曹洞宗)と共に浄光明寺は鹿児島三大寺と呼ばれていました。文久三年(一八六三)薩英戦争の時、城と見間違えられてイギリス艦隊の集中砲撃を受けて焼失、明治ニ年(一八六九)の廃仏毀釈の追い打ちを受けて空き地になっていた境内に明治十年(一八七七)西郷隆盛以下薩軍将兵が埋葬され、七五五基・三〇三三名(氏名の解るもの一九一〇名)の墓地となりました。廃仏毀釈のあと、明治十六年現在地に復活、昭和ニ十年アメリカ軍の空襲で焼失。四十世住職の復員で再興、平成元年元堂舎を再建、今では鹿児島県唯一の時宗寺院となりました。非常な歴史の中で鎌倉時代以来の法統を受け継いでいます。薩英戦争で浄光明寺はイギリス艦隊に狙い撃ちされ焼け落ちた。続く廃仏毀釈で空き地になっていた。県令岩村通俊の指示で西郷隆以下四十名が本堂跡に埋葬されたのが浄先明寺墓地(南洲墓地)の始まりになる。昭和四年頃に与謝野晶子が訪れ、次の唄を詠まれたそっです。「御仏の 浄光明がとこしえに まもるならまし 南洲の夢」本堂は向かって左の階投を上った所に御座います。どうぞご自由に御参拝ください。」山門を入った正面には「石仏」が2体。手水場の石龍、ここには水が。鹿児島県内では11月2日以来、この日・16日まで2週間。感染者数0を継続中なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.28
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「戸越公園」を後にして、200mほどの場所にある「文庫の森」を訪ねた。品川区豊町1丁目16−23。「文庫の森案内図」。「文庫の森」は、国文学研究資料館跡地を整備し2013年に開園した公園。この辺り一帯はかつて肥後熊本藩細川家の下屋敷であったが、1890年に財閥三井家の所有となった。1918年に三井家編集室が日本橋からこの地に移転し、三井文庫が発足。事務棟と書庫2棟が建てられたが、戦後の財閥解体により、昭和26年部外者に売却され、国文学資料館として多くの学者・研究者に利用された。現在は第二書庫のみが公園内に保存されている。第二書庫は現存する日本最古の壁式鉄筋コンクリート造建物として貴重なもので、現在は中に入ることはできなかったが、防災備蓄倉庫として活用されているのだ と。「水辺の広場」。紅葉の葉を落とした樹々が水面に映り込んでいた。こちらにも「オナガガモ」の姿が。ドウダンツツジの紅葉も終わりかけて。池の岸辺には石灯籠が。中央には「オナガガモ」が。ツガイであろうか。池に架かる「八ツ橋」を渡る。園内の遊歩道の上には桜の古幹が寝そべって。頭上注意の養生がされていた。切らない優しさが感じられたのであった。休憩ベンチには若い女性二人が楽しそうに語り合っていた。「文庫の森」の南側にあったのが「品川区立戸越体育館」。入口には「飛翔」と名付けられた像が。そして正面に見えて来たのが「旧三井文庫第二書庫」の建物。「旧三井文庫第二書庫」案内板。「旧三井文庫第二書庫 (壁式鉄筋コンクリート造3階建て、1922、改修1926 )【歴史】「文庫の森」一帯は1662 (寛文2 )年に熊本藩の分家熊本新田藩が下屋敷として拝領、その後本家の所有となり戸越屋敷として整備された。その後、1890 (明治23 )年に、財閥の三井家の所有となった。やがてこの地に三井文庫が設置されることになり、平屋の事務棟と3階建ての同形の書庫2棟が、すべて鉄筋コンクリート造で建てられた。事務棟の主要部と第一書庫の竣工は1918 (大正7 )年で、第ニ書庫は、事務棟増築とともに1922(大正11)年に完成した。これらの建物を設計したのは、東京帝国大学営繕課長(当時)の山口孝吉(1873-1937)である。このうちで現存するのが第ニ書庫である。【構造形式】第ニ書庫は、約14mX9mの長方形平面の建物で、空気層を挟む2重の鉄筋コンクリート造壁で囲われている。柱ではなく、壁が荷重を支えるこのような形式は、壁式構造と呼ばれる。大正・昭和戦前期の日本の鉄筋コンクリート造建物にはこの形式は稀で、現在知られているかぎりでは、この建物が最古の現存例である。ちなみに、2重壁にしたのは史料を火災の熱から守るためと考えられる。1階スラブ(床)と屋根スラブまで鉄筋コンクリート造にしているのは当時では珍しいが、建物を不燃材で囲うということで、これも防火のためと見られる。内部には書架が並んでいるが、その書架の柱を鉄骨にして、その上の梁を受ける構造材としても利用しているのが注目される。梁は、平行に並ぶ書架に合わせて、通例よリもはるかに狭い1.6m間隔で並び、その梁のラインに1.2m間隔で3本1組になった書架の鉄骨柱2組が一列に配されて、6つの点で梁を受ける。この鉄骨による多支点支持は、書籍などの史料の重さに耐える必要があるという書庫の目的にもかなうユニークで巧みな手法で、それによリ約9mの梁間では90cm程度必要になるはずの梁の高さを20cmに抑えることもできた。ちなみに、書架の鉄骨柱は、アメリカ製の山型鋼を背中合わせに4本組み合わせて十字形断面(端の柱は2本でT字型断面)にしたものである。【建築技術史的価値】1923 (大正12 )年の関東大震災では、この建物はほとんど被害を受けなかったが、この震災の被害の多くが火災によるものだったことを教訓に、三井文庫は直ちにこの建物の防火性能を高める改修工事に着手した。窓を市松模様につぶして火が入る危険を減らしつつ、残した開口部の内外面に人造石研ぎ出しの防火戸を増設した。この改修工事は1926 (大正15 )年に完了した。以上から、この建物は、ユニークで巧みな構造でつくられている点で、日本における壁式鉄筋コンクリート造建物の現存最古のものと見られる点で、また震災の教訓をすぐに活かして防火性能を高めた点で、建築技術史上注目すべきものといえる。」「断面図・配置図」と「1922年当時の配置図」。「内部の様子」の写真。「文庫の森と旧三井文庫第二書庫のあゆみ」案内板。「文庫の森と旧三井文庫第二書庫のあゆみ文庫の森から都立大崎高校にかけての一帯、約3万3千坪(約10万9千m2)は、江戸時代、大名下屋敷がおかれました。文庫の森と北西側の区道の間が外部との境界にあたり、南西側の区道は、直線の馬場だったとされています。江戸時代初期、熊本藩細川家が所有していた時期がこの下屋敷の最盛期でした。19世紀初頭には分筆され、何回か所有者が変わりました。明治26年(1893 )頃、三井銀行がほぼ下屋敷の範囲となる約3万坪(約9千9百m2)を買収、南側に農園(三井農園)、北側に外国人接待用別邸(三井別邸)を建設しました。大正7年(1918 )、三井家の江戸時代以来の営業記録等歴史史料を管理する三井家同族会事務所庶務課記録掛が三井別邸に移転し、「三井文庫」と改組しました。移転した年に第一書庫、大正11年に第ニ書庫を建設し、江戸時代以来の史料が保管されました。関東大震災後の防火対策にみられるように、この書庫は資料の保存を第一に作られています。また、外壁はモルタルをタイル風に塗り、その間を東京駅でも使われている覆輪目地で仕上げており、このような職人の卓越した技を各所に見ることができます。現在の文庫の森の土地は、昭和22年(1947)文部省に売却されたのち、昭和26年設立された文部省史料館が置かれ、同館は昭和47年には国文学研究の機能も備えた国立国文学研究資料館へと改組しました。両書庫とも国立国文学研究資料館の書庫として利用されていましたが、敷地内整備のため第一書庫は昭和51年に取り壊され、第ニ書庫のみが残りました。国立国文学研究資料館は平成20年(2008 )立川市に移転し、その際品川区は防災機能を持った公園を作るため跡地を買収、第ニ書庫はその文化財的価値から、修理の上保存することになりました。平成25年3月に公園は開園し、三井文庫そして第ニ書庫にちなんで「文庫の森」と名付けられました。」園内を振り返る。現在地はここ。そして「文庫の森」の直ぐ北側にあった「笠森稲荷神社」に立ち寄る。品川区戸越2丁目9。朱の鳥居・幟がびっしりと並ぶ神社。扁額「笠森稲荷神社」。「社殿」。この「かさもり」という名は、地図で稲荷神社を探していたとき、他の場所にもあったと思う。どういう意味があるのだろう。思い出すのは以前に訪れた世田谷区瀬田の瘡守稲荷神社である。この社では「かさもり」に「瘡守」の字が充てられていた。ここではっと思った。瘡守の「瘡」の字は疱瘡の「瘡」ではないか。後ほど訪れた戸越八幡神社には、疱瘡の治癒にご利益を求める信仰があった。戸越八幡神社に近いこの笠森稲荷神社にも、同様の効験があって「かさもり」と名付けられたのではないか。稲荷神社では、例えば「稲荷森」が「十日森」となるように、読みが同じで他の字が充てられることもある。ここの「笠森」も、もとは「瘡守」で疱瘡の治癒に対する信仰があったのではないか。そんな気がしてきたのであるが・・・。このお稲荷様にはたくさんの狐様が。反対側にも。そして次に訪ねたのが50m程の場所にあった「戸越八幡神社」。「村社 八幡神社」碑。石鳥居の扁額「戸越 八幡神社」。ズームして。イチョウの黄葉が青空を背景に。参道を進む。「戸越 総鎮守 戸越八幡神社 御由緒」案内板。「戸越 総鎮守 戸越八幡神社 御由緒御祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと 応神天皇)は厄除開運の御神徳と共に、我国文教の祖、 殖産の守護神として崇められる。鎮座地 品川区戸越二丁目六番ニ十三号(旧戸越村 壱千十八番地)末社 春日社 天兒屋根命(あめのこやねのみこと) 藤原氏の祖神で、国家安泰・産業繁栄の神 稲荷社 豊第姫命(とようけひめのみこと) 衣食住の神で、商売繁盛・延命長寿の守護神由緒沿革当社は、後原天皇の御世、大永六年(一五ニ六)八月十五日村内藪清水の池中より出現した御神像を、行永法師が草庵に奉安して、山城国(京都府)石清水男山八幡宮の御分霊を勧請して倶に祀ったのが創立の起源と伝えられている。又、古歌に『江戸越えて 清水の上の成就庵 ねがひの糸の とけぬ日はなし』とありこれが、戸越の地名のはじまりとも伝えられている。【八幡宮出現由来記】[寛永年間刊行の木版本]によれば、この「成就庵は、昔、俗称一本杉の字名のある藪清水の池を控えた庵であった。大永年間に行永法師が諸国行脚をした時にこの庵に立ち寄り、折からの十五夜の月を眺め、時を移しうたた寝した時、夢の中で輝く光が藪清水の池から放たれているのを見たことから、池の中を探し、誉田別命(応神天皇・八幅大神)の御神体の出現を見たので、慎み戴いて草庵に安置奉った。すると近隣の人々はもとより、往来の諸人も諸祈願を乞い願う者が多くなり、『一つとして成就せずと云うことなし』と云われる程になったことから、この草庵を清水の上の成就庵という。」と記されている。元禄元年十二月十五日に、宮居を村内の高台にあたる現在の地に遷し、末社に、春日社、稲荷社を建立した。以来、氏子地域(旧戸越村)現在の小山台ニ丁目町会・小山台一丁目東町会・小山台一丁目町会・小山一丁目町会・小山二丁目東部町会・小山二丁目西部町会・親友会・荏原一丁目町会・荏原二丁目町会・中原共和町会・平塚三丁目町会・平塚二丁目町会・中原共和町会・平塚三丁目町会・平塚二丁目町会・平塚一丁目町会・平塚一丁目南部町会・戸越銀座町会・戸越三丁目町会・戸越四丁目町会・戸越二丁目町会・戸越一丁目町会・豊町一丁目町会・豊町二丁目町会・西品川の一部(地名変更前の戸越村の若番地順に掲載)の産土神として、居住された幾代もの人々の守り神として、また、我国文教の祖・殖産の守護神として遍く崇められている。そして厄除け開運の御神慮と供に「こころの故郷]としても親しまれている。境内の樹木は品川区の保存樹林に指定され、特にケンポナシの木は指定天然記念物とされている。現社殿は欅造入母屋銅版葺屋根で安政二年(一八五五)に創建され、震災、戦災にも免れ都内でも古い木造の建物である。又、社宝の奉納絵馬ニ十四面と石造狛犬は品川区認定文化財に指定されている。御本社宮神輿は平成の御大典記念として、氏子諸氏の奉賛により新調され、御神幸祭には【敬神崇祖】の精神にて御祭神並びに我々祖先の御霊を奉安して氏子内を渡御いたします。この由緒版は、御鎮座四百七十年記念の境内整備の一環として氏子諸氏より奉納されました。」更に石畳の境内を進む。右手に札所。「手水舎」。風情のある水盤は4体の石像が懸命に支えていた。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。「品川区指定有形文化財 戸越八幡神社 石造狛犬 所在 戸越ニ丁目六番ニ十三号 戸越八幡神社 指定 昭和五十三年十一月ニ十ニ日(有形民族第五号)この狛犬は、延享三年(一七四六)に、戸越村の村民がお金を出し合って当社に奉納したもので、区内では最も古いものである。この頃、各村には庚申講が結成されていたらしく、本村や平塚の庚申講が中心となって狛犬の造立が進められたことが銘文によってわかる。また、左右の台石の各三面に刻まれたニ百七名の人名によって、当時の戸越村を構成していた村民のほとんどの氏名が把握でき、大変貴重なものである。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.27
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3日目のこの日も5:30前に起床、6:30前にチェックアウト。まだ外は暗く。宿泊したホテルは「ホテル 法華クラブ 鹿児島」。 鹿児島県鹿児島市加治屋町13−6。まずは桜島の展望スポットの「城山展望台」にこの日の日の出を迎えに行った。「城山」は市街地の中心部に位置する標高107mの小高い山で、クスの大木やシダ・サンゴ樹など約600種の温帯・亜熱帯性植物が自生する自然の宝庫。遊歩道での散策も楽しめ、市民の憩いの場ともなっている。展望台からは桜島をはじめ錦江湾や鹿児島市街地を一望できる。また、夜景が美しいことでも有名。城山は西南戦争の最後の激戦地となったため、西郷洞窟や西郷終焉の地など、西南戦争にまつわる史跡が多く存在する。 昭和6年に国の天然記念物及び史跡の指定を受けた。」到着時は「桜島」の奥・南側の山の裾野はオレンジ色に染まり初めていた。大隅半島の最高峰大箆柄岳(おおのがらだけ)を中心とした高隅山山系であろうか。ズームして。鹿児島市・パース通りにあるNTTコムビルに立つ鉄塔と錦江湾の「沖小島(おこがしま)」が見えた。「桜島」からは水蒸気が上がっていた。高隅山山系の山の端が輝き始めた。ズームして。山の端の色が刻々と変化して。山の端が白く輝き出した。そしてこの日の日の出。時間は6:57過ぎ。桜島の山頂からも、この日の水蒸気の出。太陽の姿が大きくなる。ひたすらカメラで追う。ズームして。太陽の半分以上が姿を見せた。そしてほぼ姿を現して。錦江湾の水面にオレンジ色の帯が姿を現した。「行幸記念碑」も朝の陽光を浴びてオレンジ色に輝く。次第に水面の帯の幅が広くなり、「明治四十年十月二十六日 皇太子殿下御手植樟」碑。「桜島成立ち桜島が噴火する前、鹿児島湾(錦江湾)には巨大な穴があいていました。この穴は姶良カルデラと呼ばれ、約29 , 000年前の巨大噴火によってできたものです。このときの噴火で大量のマグマが流出し、南九州全域を埋め尽くしました。その後、約26.000年前にカルデラの南部で起きた噴火でできたのが桜島です。歴史桜島の歴史は噴火の歴史とも言われ、これまで幾度も大規模な噴火を繰り返してきています。中でも、大正3年(1914年)の大噴火では、大量の熔岩の流出により、もともと島だった桜島と大隅半島とが陸続きになりました。桜島は鹿児島市街地の沖合い約4kmにあり、現在も活動をしている活火山ですが、約5 , 000人の市民が火山と共生しています。」「巨大噴火がつくった鹿児島城山まちの向こうに錦江湾と桜島。火山と都市とが共生する桜島・錦江湾ジオパークならではの景色です。あなたの立っているこの場所は、火山がつくった「シラス台地」。約3万年前、現在の錦江湾奥で巨大噴火が発生し、火山灰(火砕流)は南九州を覆いつくしました。この火山灰は「シラス」と呼ばれ、鹿児島県本土に平均約60mもの厚さで積もりました。シラス台地の上は、水はけがよいため稲作には向かず、サツマイモなどの畑作や畜産が盛んに行われました。城山はかっての城の跡。古くからシラス台地の地形を利用した山城が県内各地に建てられました。鹿児島の文化を育んだ大地は、巨大噴火がつくったといってもいいかもしれません。」あっという間に太陽は山の端の上に。「城山自然歩道案内城山自然遊歩道は、照国神社横の探勝園と、岩崎谷の薩摩義士碑の2カ所の入口から遊歩道に入り、自然を観賞しながら展望台へ至る約2キロメートルのコースです。城山は、昭和6年、国の文化財として、史跡・天然記念物に指定されており、樹齢およそ400年にもなるクスの大木をはしめ、常緑広葉樹やシタ類が繁茂し、亜熱帯植物なと600種程度あり、市街地の中にあって南九州特有の林相を保ち、数多くの野鳥や昆虫か生息する自然の宝庫です。」辺りも明るくなりこの日の朝が始まる。「国指定史跡・天然記念物 史跡及び天然記念物 城山」碑。周辺観光案内図。「城山公園」案内板。「明治23年、鹿児島市最初の公園として開設されました。公園面積は、展望台(高さ107メートル)から東側斜面を含む15.6haです。緑豊かな遊歩道や雄大な桜島、美しい錦江湾、市街地を眺める展望台、林間で遊べるドン広場、鶴丸城のニの丸庭園であった探勝園などがあります。この「城山」は、14世紀(南北朝時代)豪族上山氏の山城の跡で、明治10年西南戦争の最後の激戦地となったところです。また、樹齢約400年にもなるクスの大木など常緑広葉樹やシロヤマシダ、シロヤマゼンマイなどのシダ類等、約600種余りの植物が密生しています。市街地にあって南九州特有の照葉樹林を保ち、数多くの野鳥や昆虫が生息する自然の宝庫です。このため、約10.9haが昭和6年6月「史跡・天然記念物」として国の文化財指定を受けています。私たちの「心のふるさと」城山の史跡や貴重な自然を次代へ伝えるため、次のことを守りましよう。」「現在地」は城山内のここ。「城山」の巨木の葉の間から、朝の陽光の木漏れ日が。「見どころ・鹿児島案内」。大隅半島そして桜島の錦江湾沿岸の観光地案内図。この後に訪ねた「南洲墓地」。墓石が並ぶ。明治10年( 1877年)の西南戦争で戦死した西郷隆盛をはしめ2023名の霊が眠っています。墓石数は749基。こちらは「西郷隆盛銅像」👈リンク。明治維新最大の功績者で、多くの人々にしたわれた西郷隆盛の軍服姿のモニュメントです。鹿児島出身の彫刻家安藤照が制作したもので、像の高さは台石を加え8mあります。前日訪ねた「知覧特攻平和会館」、「武家屋敷群」。「城山ドン広場 お昼だ「ドーン!」」ー城山に舞い散る紙吹雪ー「ドンが鳴った、ヒィ(昼)がなった、メス(飯)食ぶろ」と大正時代を鹿児島で生きた人は囃すそうです。「ドン」とは明治30年以来、正午の時報がわりに撃たれた空砲の音のこと。当時は市役所の職員が、時計とにらめっこをしながら、正午キッカリに点火、その瞬間「ドーン」という轟音とともに、紙の弾が破裂、あたり一面に紙吹雪が舞い散りました。ドンが撃たれたことから「城山ドン広場」と呼ばれました。この一帯は島津氏入府以前の豪族、上山氏の城(砦)のあった場所で、周辺の土塁が、今もその名残をとどめています。さて午砲ドンは、昭和12年、市役所のサイレン時報にその役目を奪われましたが、終戦後「サイレンを聞く度に、空襲警報を思い出してゾッとする。やめてほしい」という声が相次き、サイレン時報の中止が決まると、今度はお午にドンの復活を望む声が殺到したということです。」そして車に戻り、次の目的地の「南洲公園」を目指したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.27
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この日は12月21日(火)、私用で五反田に行った折、時間が早かったので途中大井町線の「戸越公園駅」で下車し、「戸越公園」周辺の散策に向かいました。「戸越公園駅」北口に出て「とごし公園通り」を進む。前方に見えて来たのが都道420号線・鮫州大山線のトンネル。品川区の大井地区と戸越地区を結ぶ「豊トンネル」。「豊トンネル」手前を左折して進むと右手に「品川区立戸越公園」碑が立っていて、ここを右折して「戸越公園」の西側の入口に向かって進む。「戸越公園」の西側入口に到着。昭和10年に肥後国(現在の熊本県)藩主細川家の下屋敷の庭園跡に造られた公園。園内は、大名庭園らしい回遊式庭園のエリア、スポーツなどができる広場、子どもたちが遊ぶことができる遊具のエリアがあり、子どもから大人まで幅広い年齢の人が楽しめる地域の憩いの場であると。子どもたちが遊ぶことができる遊具のエリア。黄色く塗られたユニークな形の、大きなコンクリートのすべり台。着地する場所に砂場、周囲にはブランコ、鉄棒と基本的なものが揃っていた。遊具エリア入口にあった歴史を感じさせる木製の門。そしてその先に大名庭園らしい「回遊式庭園」の入口があった。起伏に富んだ敷地に湧水を利用した回遊式泉水庭園が造られ、東海道五十三次の風景を再現していたと。その後、明治時代には財閥・三井家の所有となったが、昭和7年に地元に寄付され、公園化されたとのこと。白き滝が2段になって流れていた。上段の滝をズームして。下段の滝も。渓流に架かる木橋。渓流の底からわずかながら水が湧いているようであった。渓流を渡れるように石が置かれていた。そしてその先に大きな池が。昔の池は現在よりずっと大きく、敷地も現在の戸越公園だけでなく隣接する戸越小学校や北西側の国文学研究資料館跡地など付近一帯を含む遥かに広大な面積だったとのこと。国文学研究資料館にも池があり、同館が平成20年に立川市に移転後、池を含む庭園部を品川区が取得し公園化を進めています。ただ、池は立ち入れないように竹垣で囲まれ、さらにプールのような梯子がいくつも設置されていることから、かなりの水深があるようだ。現在の池は湧水と水道水の併用ということのようであったが、滝や渓谷もあり、水量も豊富。水は循環させているのであろう。竹垣のある石段を上って行く。途中、踏石も。紅葉もエピローグへ。そしてこちらが南側の入口の冠木門。冠木門(南門)を潜り再び園内に。十三重塔。「山北の石」碑。「山北の石」案内板が右手に。「山北の石神奈川県北西部に位置する山北町は、日本列島の生い立ちを物語る多くの手掛かりを残しているところです。特に、ベスブ石・キンセイ石・大理石・金・鉄・マンガン等の鉱物をはじめ地殻変動や熱を受け変成した岩石、動植物の化石等を多数産出し、学術的にも貴重なところです。この大きな石は、石灰藻といら下等な海の植物とサンゴの化石を含む石灰岩て、今からおよそ1,500万年前のものです。この石から、現在、木々の緑に囲まれ、清流に洗われる山北町は、当時、サンゴ礁の青い海の中にあり、激しい海底火山の噴火にみまわれたことかわかります。」様々な竹垣もあった。「光悦垣」江戸初期の文化人本阿弥光悦の菩提寺である京都鷹ヶ峰日蓮宗光悦寺の茶庭に造られていた透かし垣です。矢来垣の上に割竹を巻いた太い玉縁をかぶせます。玉縁のゆるやかな曲線もこの垣根の特徴です。池には陽光が反射して。この戸越公園の池には名前がないのであろうか?休憩場所が造られていた。そこには「オナガガモ」が集まっていた。石の上にも。そして桜の樹も。四阿風の建物。竹垣で囲まれた芝生の中に石碑も。「造園修景優秀作品 戸越公園日本庭園」と。ライトアップ用のツリーも。池の水の源泉の渓流の方向を見る。一段高い場所から「四阿」そして「回遊式泉水庭園」を見る。そしてこちらが「冠木門(東門)」。近づいて。冠木門ができたのは鎌倉時代ころであろう。冠木(かぶき)門は2本の門柱の上に横木をのせたもので、〈衡門〉ともいわれ、上土門とともに武家の屋敷に用いられた と。「戸越公園」木札。様々なコロナ対策案内が。竹林もあった。「戸越公園寛文ニ年(一六六ニ)、熊本藩細川家の分家がこの周囲一帯を拝領し、後に本家が約十万坪もの広さを誇る下屋敷を築きました。その後規模が縮小されて他家に移り、明治には三井財閥が取得して別邸・三井文庫・農園などを造りました。昭和七年(一九三ニ)、敷地の南側が学校・公園用地として当時の荏原町に寄付され、昭和十年三月、その一部に当公園が開園しました。音楽堂・小動物の飼育と公開・SL設置・薬医門と時代に合わせた施設が造られながらも、下屋敷の名残をとどめる池と築山は、開園以来訪れる人に憩いを与えています。」「品川区立戸越公園内 震災対策用応急給水施設」と書かれた銘板もあった。1500m3の応急給水施設が戸越公園の地下に設置されているようであった。そして「戸越公園」の正門に向かって歩く。雪対策用?、それともイルミネーション?の準備も終わっていた。公園北側にある正門は薬医門形式で、平成4年に復元された。「戸越公園」碑。正門の先は工事中であった。正月の門松も早くも既に設置されていた。「ヒマラヤ桜」。「ヒマラヤザクラ(ヒマラヤ桜)」案内板。「本種は、日本で最初に育ったものが熱海市にあり、1968年にネパールの皇太子より贈られた種子に由来します。最近、栽培されてる苗木を見かけるようになりました。開花が早く、開花と同時に葉も展開します。冬、比較的暖かいところでは順調に育ちますが、基本的に四季のある日本では育ちにくいです。蜜が滴り落ちるようにたくさん萼筒にためるの特徹です。」春になれば。【https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/PC/shinagawaphotonews/shinagawaphotonews-2019/20191211172757.html】「戸越公園」の正門・薬医門を振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.26
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「知覧」の「武家屋敷通り」の散策を続ける。T字路手前の左側にあった民家には「立入禁止」の案内板が、そしてT字路正面にあったのが「石敢当(せきかんとう、いしがんとう)」。丁字路の突き当り等に設けられる「石敢当」・「石敢當」などの文字が刻まれた魔よけの石碑や石標。「石敢当(當)」という名称の由来は、後漢代の武将の名前とも、名力士の名前ともされるほか、石の持つ呪力と関わる石神信仰に由来するとの説もあり定かではない。薮田嘉一郎、小玉正任は、五代晋の勇士説は、勇士死亡より100年以上前から石敢当があることを理由に成立しないとしている とウィキペディアより。「南九州市指定 有形民族文化財石敢当(せきかんとう)指定年月日 昭和53年5月11日三叉路の突き当たりに建てられいるこの石塔は、屋敷内に魔物が人ってくるのを防ぐ「石敢当」というものです。中国発祥の考え方で、江戸時代に琉球靦在の沖を経て伝わりました。丁字路や三叉路に設置されます。南九州市では麓(武家屋敷群)や海運業が盛んだった海岸地域に多く確認されています。」文字が刻まれていたのであろうか?そして、その近くにあった、「稽古所跡(けいこじょあと)」碑は、青少年が学問や武術礼儀作法を学んだ場所。「稽古所跡(けいこじょあと)江戸時代後半、郷土子弟の教育の場が稽古所です。稚児は数え7歳から、二才は15歳から25歳まで若者が学問や武術礼儀作法を学びました。知覧には5番組まであったとされています。石碑の右側には、ここは知覧島津氏が領主の時代に式士たちの青年たちが集まり書を読み、学問を行い、武芸の鍛錬に励むために設置された場所であると彫られています。「書ヲ讀み武ヲ練リ」の書は太平記や義士伝、太閤記を読み上げ、式は示現流の剣術や弓術、相撲を修練していたとされています。」そして左手に折れて進んで行った。正面には藁葺き屋根の家が現れた。左手にあったのが「知覧型二ツ家」の入口。「大河ドラマ「西郷どん」撮影地知覧武家屋敷庭園群」と書かれた案内板。「知覧型二ツ家(小棟おき二ッ家)く市指定文化財>鹿児島に独特だといわれるニッ家の中で、特に知覧だけにみらるニッ家は、ニつの屋根の間に小棟をおいてつなぎとした造りです。民家建築文化史の上からも、貴重なものとされています。居住用のオモテと台所のあるナカエの建物が、別棟となっている分棟式民家は、生活上不便が多く、次第に近づけるようになったのです。知覧型ニッ家は、その分棟式の建物であるオモテとナカエが合体したもので、知覧大工によって創作された知覧独特の知覧町の建築文化であります。」「知覧型二ツ家」。更に奥に進んで。以前に訪ねた時の写真です。以前に訪ねた時の写真です。ここが「稽古所跡」入口。「お手洗い」もあるようだ。左手には「南九州市知覧伝統的建物群保存地区」案内板がここにも。先ほどと同様な案内表示。「現在地」はここ。西の空を振り返る。「佐多美船氏庭園」。「国指定文化財 名勝 知覧麓庭園④佐多美船氏庭園宝暦年間(1751 ~ 1764)の作庭と伝えられ、指定を受けた7庭園で、最も広い庭園です。美舟家は、知覧の領主の流れをくむ家柄で、江戸時代は御役人と言われる知覧における最高の役職を担う家の一つでした。門も最も高い屋根の左右に一段低く小さな屋根が付いた格式の高い門構えとなっています。」内部を覗いて。以前に訪ねた時の写真です。以前に訪ねた時の写真です。反対側には「佐多民子氏庭園」。「国指定文化財 名勝 知覧麓庭園⑤佐多民子氏庭園宝暦年間(1751 ~ 1764)の作庭と伝えられ、庭の北西に立石の枯滝が組まれ、書院から枯滝に向かって飛石が配置されています。庭の切石の上に、梅の古木が植えられた鉢を乗せ、春になると知覧の武士たちは、書院や庭で花をめで、和歌を詠んだと伝えられます。」内部を覗いて。以前に訪ねた時の写真です。この門にも「佐多」の表札が。「佐多」と。こちらも「佐多直忠氏庭園」。「国指定文化財 名勝 知覧麓庭園⑤佐多直忠氏庭園寛保年間(1741 ~ 1744)の作庭と伝えられ、当主の部屋から見ると石で組まれた築山と借景とがよく調和した庭園です。直忠家は、知覧領主の流れをくみ、関ヶ原の戦いに従軍した記録が残るほか、江戸時代には御役人と言われる知覧における最高の役職を担う家柄でした。門も格式の高い門構えとなっています。」以前に訪ねた時の写真です。見事に手入れされた生け垣が続いていた。再び西の空を。そして「武家屋敷通り」の散策も、時間の関係もあり、ここまでとして引き返す。この日の日没直前。そして県道23号線・谷山知覧線に出て、駐車場に向かって進む。水路の清き豊かな流れ・「清流溝(せいりゅうこう)」。R23沿いには、上郡地区 鯉の泳ぐ町並み と言う細い水路が通っており、水車が。苔むした水車が回っていた。その先左にあった池県道沿いに580mの清流溝を通し、鯉2,000匹が遊泳していると。武家屋敷群と調和のとれた町並になっていた。「清流溝には,県立鹿児島水産高等学校海洋科栽培工学コースの生徒が卵から大切に育てたコイが提供されています。」たくさんの鯉が。道路の反対側にあった寺・「光寿寺」。浄土真宗本願寺派の寺の「本堂」が見えた。「光寿寺」の「山門」。遊歩道の左手にあったのが茶葉販売店「知覧農園」。知覧農園では、化学農薬や化学肥料に頼らず、太陽・水・土地などの自然の恵みと生態系の食物連鎖を生かした有機栽培(オーガニック)の茶葉のみを厳選して使用。また、本土最南端で豊かな自然の環境で育った茶葉は、お茶本来の「さわやかな香りとコク」を感じられるのが特長 と。右手にあったのが「南九州市役所」の庁舎。「南九州市役所前」交差点の角にも水車が。駐車場横の川沿いの欅も黄葉していた。そして、車に戻り、今宵の宿の在る鹿児島市加治屋町のホテルまで、鹿児島湾沿いの道・国道226号に出てひたすら北上して無事に到着。この日の夕食はホテルの近場で。定食屋さんであったが、おかず一品ずつに料金設定されていて、個別に選べる店。ビール片手にツマミを購入しこの日の反省会を旅友と。ホテルの近くの交差点には新型路面電車が走っていた。そして交差点の角にはサイクルポート「かごりん」が。自転車のレンタル用の機械。上部のディスプレイには、レンタルのやり方等が示されるのであろうが、この時は「桜島」の文字が表示されていた。「桜島」が噴火した際には、「噴火情報」や「降灰情報」が表示されるのであろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.26
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「甲斐銚子塚古墳」から下に降りて「甲斐銚子塚古墳」側から「丸子塚古墳」を見る。「大丸山古墳」のある森を見る。「岩清水遺跡」の「第2号円形周溝墓」であろうか。「岩清水遺跡岩清水遺跡は平成6年(1994)に発掘調査が行われ、弥生時代後期(約1,500年年前)の住居跡13軒と円形周溝靆墓1基、古墳時代中期(約1,600年前)の円形周溝墓2基が発見されました。発見された3嘱の周溝墓のうち、東側の1号墓は直径約26m、すぐ隣の2号墓は直径約30mです。古墳時代の周溝墓を巡る溝からは、土師器や須恵器が出土しました。遺物の年代から、この円形周溝墓群が東山南遺跡の円形周溝墓群に続く5世紀中頃から後半に築造されたものと考えられます。遺跡のすぐ北側には、ほぼ同時期に築造されたかんかん塚(茶塚)古墳が立地しています。この円形周溝墓群の主は、かんかん塚(茶塚)古墳に葬られた人物に近い人であったのかもしれません。」「第1号円形周溝墓」。「丸山塚古墳」を東側から見る。「現在地」。「丸山塚古墳」の上には多くの小学生の姿が。「国指定史跡 銚子塚古墳附丸山塚古墳 丸山塚古墳 昭和五年ニ月ニ十八日指定丸山塚古墳は五世紀初めに造られた、山梨県では最も大きな円墳です。明治四十年に墳頂で石室が見つかり、鏡・武器・装身具などの副葬品が発見されました。石室は竪穴式石室でほぼ南北に向いており、割石を持送りに積み重ねて造られました。また、石室の壁には朱彩の円文が見つかっています。墳丘はニ段築成で、埴輸が立てられていました。銚子塚古墳より少し後に造られ、これに続く権力者の墓と考えられています。規模 墳丘の直径し七十ニメートル、高さ十一メートル、墳頂径九メートル、塾穴式石室の長さ 五・五五メートル、幅一・〇五メートル、高さ〇・八五メートル副葬品 四神四獣鏡・鉄斧・鉄鎌・鉄剣・鉄銛・石釧(腕輪)など(東京大学に収蔵)出上品 埴輪・釶(やりがんな)(山梨県立考古博物館に収蔵)」。左から「史跡指定碑」、「丸山之碑(まるやまのひ)」と「郷民擁護碑(ごうみんようごのひ)」。「郷民擁護碑(ごうみんようごのひ)」と丸山之碑(まるやまのひ)」(山梨県指定文化財(歴史資料) )「郷民擁護碑」には、次のように記されています。「郷民擁護神霊の まし満す所なりうやまへハ 則福を降しをかせハ すなはち祟(たた)りあらん」この意味する内容は、大まかには以下のとおりです。「ここは、この地を護る神様がいらっしやるところです。これを尊いものと考えて敬えば、その時は福がもたらされ、大事にしなければ、その時は祟りが起こるでしよう。」要約すると、「この場所を大切にしましょう!」ということを伝える碑です。この碑は、江戸時代の天保11年(1840) 8月に、市川代官所の代官小林藤之助と、この近くに所在する浄照寺住職の新田雲里が建立したもので、もとは、みなさんの背後にある、丸山塚古墳の上にありました。「郷民擁護碑」のメッセージは地元で認識されていたことから、明治40年(1907)に丸山塚古墳が開墾された際、鏡や剣などの副葬品が不意に発見された時には、すぐに東京帝國大學の坪井正五郎教授に連絡が行き、調査されたことで出土品の散逸を免れました。この経緯を記したのが「丸山之碑」で、当時の地主の松野伝四郎によって建立されました。遺跡などにまつわる祟りの伝承は、江戸時代に多く見られますが、このような伝承によって、結果的に遺跡が守られてきたという側面もあります。「郷民擁護碑」は、このような伝承が形として表された山梨県内唯一の資料です。また、全国的に見ても珍しい事例です。現在、この一帯は史跡公園として整備され、歴史を知る憩いの場として親しまれていますが、文化財保護の精神を伝えるこの碑の建立から、一帯の古墳等の保護、そして活用が始まったと言えるでしよう。」「郷民擁護碑」。「郷民擁護神霊の満します所なり。うやまへば則ち福を降しをかせばすなはち祟りあらん。天保十一年八月 「丸山之碑」「甲斐国東八代郡下曽根村に塚あり、里俗丸山と呼ぶのみにして由来詳ならず。天保年間淨照寺と称する寺院の所属たりし頃時の代官某此塚を以て郷民擁護神霊の存する所となし碑を建てたる事あるも唯里人に尊敬すべき地たるを告げしに過ぎず、明治の初年現在の地主松野伝四郎氏の有に帰して以来開墾を継続せし結果、上部中央深さ一尺五寸の所に於て埋もれたる石あるを認め、発掘の末、終に幅三尺、高三尺、長二丈一尺の石槨を発見し、其の内部より漢鏡一面、刀剣数個を得るに至れり。此に於て由来詳かならざりし丸山は、千余年前貴人の為に築きたる墳墓なる事明白となれり。是実に明治四十年三月四日の事に属す。今や漢鏡は学術上の参考品として永く東京帝国大学に保管される事となれり。地主松野氏之を得たる地に碑を建て、此事実を後に伝へ、併せて人をして此地の敬すべき所以を知らしめんとす。誠に当た得たる挙と云ふべし。即ち需めに応じ此の記を作り且つ書す。明治四十一年九月 東京帝国大学理科大学教授理学博士 坪井正五郎 」「史跡 丸山塚古墳」指定碑。「第1号円形周溝墓」(左)と「第3号円形周溝墓」(右)。前方にも別の古墳が。「かんかん塚(茶塚)古墳」。「かんかん塚(茶塚)古墳とさかずき塚」かんかん塚(茶塚)古墳この古墳は、直径26mほどの円墳です。石室は、長さ約7mの東西方向の竪穴式石室で、人の頭ほどの石を積み上げ、十五個の細長い石で天井を覆う構造になっていました。この古墳の年代は五世紀後半で、石室内からは甲冑や県内最古の馬具が発見されています。近くの銚子塚古墳や丸山塚古墳に比べ、規模が小さくなるのは、甲府盆地内の各地に古墳文化が広まり、この地域の勢力が相対的に弱まっていったことを物語ると考えられています。」さかづき塚この塚は、直径約13mの大きさで、盛り土の内部に、こぶし大の石を1 m四方に敷きつめた施設があり、十六世紀ごろの鉄鏃などが出土したことから、中世の信仰にかかわる塚とみられます。」「かんかん塚(茶塚)古墳」と「さかづき塚」の案内図。「さかづき塚」。「現在地」。そして「県立考古博物館」を訪ねた。「旧石器時代から現在に至るまでの先人たちの生活の跡をたどることができる山梨県立考古博物館。施設内には、石器、縄文土器、博物館近くにある古墳の副葬品などが展示され、博物館西側には銚子塚古墳や丸山塚古墳など、古代の歴史を知る上で重要な史跡が点在しています。古代の火起こし体験・勾玉作り・トンボ玉作り・青銅鏡作りなど体験メニューも充実していて、小学生の夏休みの研究にも人気を博しています。」とネットから。前庭には「ナウマン象」の親子の復元模型が。「ナウマン象」現在は滅んでしまった日本特産の象。今から10万年前にタイムスリップすれば,甲府盆地でもこのような光景を見ることが出来るのだと。昭和36年、ナウマンゾウの臼歯の化石が山梨市兄川岸で発見され、現在、地元の八幡小学校理科室に展示されている と。発見場所の兄川左岸には立派な記念碑が立てられているのだと。「超光圓通尊」と刻まれた石碑。裏面には「松木氏者累代旧家古時為国金極印所也世々居于柳駅第一尊崇馬頭観音大士安置於宅地中今茲主人松木春政厚勤家業山寿海極益信仰此尊又新立石永世受福無疆矣文久三年歳次癸亥五月金斎良鼎謹書」と。訳文は「松木氏は累代の旧家で、昔は甲州金の極印所を勤めていた。代々柳町に住み、宅地内に馬頭観音を安置して第一に崇敬していた.今の当主の松木春政も家業に励み盛業中で、ますますこの観音を信仰しているが、また別に新たにこの石碑を立てて祀ったので、きわまり無く福運を受けることてあろう。文久3年(1863)歳次(としまわり)癸亥(みずのと・い:干支の60番目最後の年)5月金斎良鼎が謹んで書く」と。解読不能の石碑「重要文化財 殿林遺跡出土 縄文土器」入口にあった「常設展観覧料」掲示板。多くの館内展示物が紹介されていた。「重要文化財酒呑場遺跡出土品」。考古博物館のキャラクターにもなっている「一の沢遺跡」(同県笛吹市)出土のかわいらしい土偶も人気だ。愛称は「いっちゃん」。動物の顔が。「水煙文土器 上野原遺跡」。顔の部分は「いっちゃん」に似て。「利用の案内」。「深鉢型土器(天神遺跡)北杜市天神遺跡から出土した、縄文時代前期後半に位置づけられる諸磯C式の深鉢形土器である。ほぼ完形で、沈線地文の上に結節浮線文が展開し、特に上部にかけては同心円状に展開する。底部からロ縁部にかけてのラインは裁細で、全体に優雅で整った形状を示している。」「笛吹市の出土品Ⅱ --弥生・古墳の生活と祈り--」開催案内パネル。「笛吹市の出土品Ⅱ」展示会 ポスター。「山梨県立考古博物館山梨県埋蔵文化財センター」正門。「山梨県甲斐風土記の丘・曽根丘陵公園」碑が正門脇に。そして車に戻り、中央高速道路を利用して帰路についたのであった。 ・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2021.12.25
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「知覧城跡」を後にして、この日の最後の訪問地の「知覧武家屋敷」近くの「恵比寿神社横パーキング」に車を駐める。時間は16:52。「ようこそ!かごしま知覧へ」案内板。「知覧武家屋敷庭園」の見学は午後5時までとのことで、武家屋敷の前の道を散策することに。「知覧の武家屋敷群」案内板。「知覧の武家屋敷群知覧の邑主は薩摩藩主島津家の分家であったので薩摩の重臣として参勤交代等に随行していた。帰りには京都等に立ち寄り文武の道を修め武はもとより文にも秀でた者が多くなった。今を去る二百年余(1760年頃)現在の役場付近を中心として武士小路割を定め各一方眼を自治区画となし各屋敷を累のように防衛障壁となすよう工夫した。現在の武家屋敷郡はその一部である。庭はその時京都から同道してきた庭師に作庭させたものと伝えられている。知覧の庭の大部分は枯山水である。枯山水は水を用いないで山水の風景を表現し、主として石組みによって構成された庭園で日本庭園の一様式である。最も奥の森氏邸庭園だけは水を配した池泉式庭園で江戸時代中期の住宅と門の右手にある土蔵とともに研究や鑑賞上みのがすことはできないものとされている。」県道23号線・谷山知覧線の横断歩道の手前角にあったのが「折田兼至君像」。「折田兼至像前の碑文」。「折田兼至像前の碑文權要ニ居テ政柄ヲ執ルハアリ智勇ニ秀デ事功ヲ立ルハアリ才識宏遠徳業並ビ高ク國土ノ概アル我折田兼至君ノ如キハ盖稀也君ハ丹江君ノ長子母佐多政子安政五年正月廿六日邑ノ下郡小金園ニ生ル夙ニ麑島ニ後出テ東京ニ学ビ業成リテ帰ル明治十八年縣會議員トナリ議長ニ選バル廿三年第一國會代議士ニ選バレ民吏党争ノ際長谷場河島諸氏ト奪ッテ民論ヲ盛ニシ擧縣一團ノ基初テ成ル廿四年再選ス卅一年縣農工銀行頭取ニ推サレ大正十一年六月辞職ス先後教育會長農會長ニ選バレ又授産社造士會勤儉銀行南薩鉄道薩摩製絲會社等公私經営殆興ラザルナシ功ヲ以テ藍綬褒章ヲ賜フ同十二年六月五日卒ス年六十五特旨従五位ニ叙ス配宮原氏継室山口氏七男二女アリ君性寛厚練達人ニ接スル温事ヲ謀ル密辯ニ長ジ歌ヲ善クス壮時郷舎ニアル既ニ抜羣箪正ニ志シ後専ヲ經世ニ任シ殊ニ教育交通産業ヲ奨メ見常ニ卓農業倉庫ノ如キ其唱首タリ縣農工銀行ノ進展最理財ノ長ヲ見ル家ヲ携へテ麑市ニ住ミシモ心郷ヲ忘レズ島津旧邑主ノ家事ヲ治メ毎戸村苗ヲ頒チ望時郷校ヲ巡リテ後進ヲ励マシ奨学資金六千円ヲ寄附ス時艱多ク君ヲ推シ全縣一党和衷ノ美アル者亦衆望ノ隆ヲ想フベシ村其功ヲ頌メ物ヲ呈シ後村葬ノ礼ヲトリ且鋼像ヲ其當テ企畫セシ新聞縦覧所ノ旧址ニ建ツ乃事略ヲ述べ盛徳ヲ不朽ニ銘スト云爾 在麑樋渡清廉撰書」「折田兼至の胸像折田兼至(おりたかねたか)は、安政5年(1858)年に下郡に生まれました。明治16年、25歳で県会議員に当選し、30歳で議長をつとめました。その2年後には第1回国会衆議院議員に当選します。明治30年(1897年)からは経済界に身をおき、県農工銀行頭取、県農会会長、南薩鉄道、鹿児島紡績会社などの重役を歴任し、民間知事と呼ばれました。知覧では、消防団創設、知覧区裁判所新設、木床県道(旧県道1号線)を開通させ、町全戸にみかんの苗木を贈与したりするなど貢献しました。明治15年(1882年)、彼のよびかけにより、この場所に新聞や雑誌がおかれ、みんなが自由に閲覧できる鹿児島県で初めての新聞縦覧所が設置されました。大正12年、65歳で亡くなりましたが、彼の偉業をたたえて、昭和4年(1929年)、村により安藤照製作の全身姿の銅像が建立されました。しかし、昭和18年6月15日、銅像は溶かして戦争で使うために軍に出したので、しばらく銅像がなかった時期がありました。やがて戦争は終わり、昭和38年11月に役場庁舎改築に併せて、当時の台座の上に再び銅像を建立することになりました。また、鹿児島市内照国神社前の県立博物館の敷地(照国神社の西側に私邸があった)にも、大正14年、有志により建てられた顕彰碑があります。」「恵比寿神社」の朱の鳥居がその横に。「麓川(ふもとがわ)」に架かる「永久橋」を見る。横断歩道の先にも石碑が確認できた。「麓川(ふもとがわ)」を見る。そして正面に大きな石碑。「宮原直二君頌徳碑」と刻まれた石碑。元知覧村長で、若い頃に西南戦争に西郷軍に従軍した人物とのこと。その横に「武家屋敷群」碑。「重要伝統的建造物群保存地区」の案内板。「略図」。「【国選定 重要伝統的建造物群保存地区】名称 南九州市知覧伝統的建造物群保存地区面積 約十ハ・六ヘクタール選定年月日 昭和五十六年十一月三十日説明 江戸時代、薩摩藩は藩内を百十三の外城(郷)と呼ばれる行政区画に分け藩内を治めました。 外城では、行政庁である御仮屋を中心として麓と呼ばれる武士団の居住区があり、さらに 町家・村落と続いていました。 知覧もこの麓の一つで、御仮屋の前には城馬場が通り、これに直行して本馬場が通されて います。馬場とは大路をいい、この馬場を挟んで麓の武家屋敷が形成され、随所に小路が 配されています。知覧麓が今に見られるような姿に整備されたのは、十ハ世紀の中頃で あると伝わっています。 伝統的建造物群保存地区は、本馬場を中心とした東西約九〇〇メートル、南北約ニ〇〇 メートルの範囲です。屈折する道路に沿い、石垣と生垣を連ねて屋敷地を区画し、道路から 後退して、腕木門や石柱門を開く姿は優れた景観を見せています。主屋と馬場との間には 枯山水様式などの庭園が造られ、これらの庭園のうち、特に価値のあるものは 「知覧麓庭園」として国の文化財として指定されています。 知覧伝統的建造物群保存地区は、鹿児島県に残る麓の代表的なもので旧観を良く 伝えています。」県道232号線・知覧喜入線を「武家屋敷」に向かって南に進む。「国指定史跡 知覧城跡」まで1.7km。右手に「ふもと横丁 麓橋を渡ってスグ」案内板。「麓川」に架かる木装橋の「麓橋」。コンクリートや鋼製の桁を木材で化粧仕上げした橋。再び「麓川」を見る。「麓橋」を横から。 麓川に架かる趣のある橋を渡ると麓公園に。「知覧」ポスター。「鹿児島 ちらん」ポスター。「武家屋敷群」の西側入口に立つ「銀杏」の木。「いちょうの由来藩政時代参勤交代の帰途、京都に立ちよった知覧領主の家臣らは、柳やかえでを里に移し植え、ふもとに京の香りをただよわせた。このいちょうも京からのもので、はじめはめおと木であったが、溝をはさんでそびえていた雄木は、大正3年9月に大火で粘れ、この雌木だけとなった。知覧領主が奉納した豊玉姫神社のめおといちょうは、天にそびえて森厳の気をそそり、旧役場庁舍の巨木は町民に親しまれていた。役場西隣りのいちょうは樹齢350年を数え、このいちょうもそのころのもので、根の回りは約7メートルである。家臣らは、このいちょうを仰ぎながら京の文化に思いをはせ、庭園をつくり、和歌をたしなみ、カラクリに興ずるなど、感動の文化をつくった。明治100年(昭和43年)を記念し、知覧町はいちょうを町木に定めた。」ここらが「武家屋敷通り」。「日本の道100選 武家屋敷通り線」碑。「伝統的建造物群保存地区武家屋敷通り」「かりこみし門のはひりのかなめ垣 若葉の色は花にまされり 洞の谷同人 樋渡清廉」「知覧武家屋敷庭園徳川幕府の天下統一は、一国一城の制度を厳守させることにありました。そこで薩摩藩では、鶴丸城を中として102 (のち113 )の外城をおきました。外城は城でなく、旧城の麓に在郷士族の集落をつくり、「人をもって城とする」軍事行政上の拠点でありました。知覧麓の整然とした縦横の道路は、第18代知覧領主島津久峯公の時代に造られたもので、領主の御仮屋(居宅)を中心に防備を兼ねた城塁型の区画となっています。重要伝統的建造物群保存地区武家屋敷庭園群は1750年前後に造られました。主屋と庭園とがよく調和し、石垣の上には大刈込みによる生垣がつづいて麓全体が母ヶ岳を中心に自然をよく取り入れた一っの庭園を形成しています。上郡地区18.6ヘクタールは、藩政時代のたたすまいを今に残しており、昭和56年11月に重要伝統的建造物群保存地区として、国の選定をうけました。全国では17番目、九州では2番目の選定となります。知覧武家屋敷庭園「名勝」に指定庭園が名勝として国の文化財に指定されたことについて、文化庁は薩摩藩だけにある郷の麓にあること、いずれも江戸時代中期の作庭で、それぞれ優れた意匠で構成されていること。その手法は琉球の庭園と相通じるものがあることなどをあげ、庭園文化の伝波を知るうえでも、貴重なものと説明しています。昭和56年2月に7庭園が名勝指定になっています。鹿児島県では、昭和33年島津氏の別邸である磯庭園についで2番目の名勝指定となっています。」「武家屋敷庭園案内図」。「武家屋敷庭園」は、「武家屋敷群」の中を東西に通る、「本馬場通り(武家屋敷通り)」沿いに、一般公開されている7つの庭園を見ることができるのであったが、この日は時間切れであった。「手づくり故郷賞」碑。建設大臣 江藤隆美書人と風土が育てた家並み昭和六十一年七月」。「武家屋敷通り」を東に進んで行った。日没も迫り、西陽を浴びた脚長オジサンの姿が。右手に古い門が。そして西の空は振り返るとオレンジ色に。左手に「西郷恵一郎氏庭園」。門を正面から。残念ながら、時間オーバーで中には入れなかった。「国指定文化財 名勝 知覧麓庭園①西郷恵一郎氏庭園文化文政年間(1804 ~ 1829)の作庭と伝えられ、敷地の東南で枯滝を組みさらに西側に飛び石が配してあります。屋敷に入るため門をくぐると石組みの壁にぶつかります。このような折れ曲がった入口は城郭の枡形虎口に由来すると言われています。」以前に訪ねたときの写真です。上部の曲線の美しいイヌマキの生け垣。右手にあったのが「平山克己氏庭園」。「国指定文化財 名勝 知覧麓庭園②平山克己氏庭園明和年間(1764 ~ 1771)に作庭と伝えられます。波状に刈られたイヌマキの生垣を山に見立て、遠くにそびえる母ヶ岳を庭園に組み入れた借景の技法がとられた枯山水の庭園です。平山家は、知覧領主が大隅の佐多の地を領していた時から苦楽を共にした文武に秀でた家柄です。」「平山克己邸庭園」。以前に訪ねた時の写真です。イヌマキの生垣。「休憩所」入口。「休憩所」の東屋。更に「武家屋敷通り」を東に進んで行った。左手には既に閉じられた門が。右手にあったのが「平山亮一氏庭園」。「国指定文化財 名勝 知覧麓庭園③平山亮一氏庭園天明(1781)の作庭と伝えられます。イヌマキの生垣は波状に、サッキの刈り込みは築山のように仕立ててあります。刈り込みの前には琉球庭園に見られる盆栽を乗せるための切石が置かれています。江戸時代に建築された主屋は、茅葺の屋根から瓦葺に姿を変え、今に残されています。」以前に訪ねた時の写真です。西陽が「武家屋敷通り」を照らす。更に東に進む。ここの門も閉められていた。「松元」との表札が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.25
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仕事で山梨県南アルプス市内にある工場に何度となく愛車で通っています。この日の帰路に前から訪ねたいと思っていた国道358号沿い、中央高速道路の甲府南IC入口手前にある「甲斐風土記の丘・曽根丘陵公園」を訪ねたのです。「甲斐風土記の丘・曽根丘陵公園」案内図。現在地▲は「②丸山塚古墳」の前の駐車場。正面に「丸山塚古墳」。「丸山塚古墳」は古墳時代中期(5世紀初め頃)につくられた県内最大の円墳。「甲斐銚子塚古墳」の前方部から80mほど東側にある円墳。直径約72m、高さ11mを測り、墳丘は2段築成で埴輪を備え周堀を巡らせている。「甲斐銚子塚古墳」より早く、1904年に発掘された。墳頂部に長さ5.5mの割石小口積みの竪穴式石室があって、石室内から画文帯神獣鏡・鉄刀・鉄斧・鉄鏃・鎌などが出土した。さらに石室とは別に粘土床があり、石釧が出土したという。古墳の位置、大きさ、つくられた時代などから、「甲斐銚子塚古墳」に葬られた人物の跡を継ぐ立場の人物の墓だろうと考えられている。竪穴式石室からは豊富な副葬品が発見さた。「史跡銚子塚古墳附丸山塚古墳」碑。そしてその東側にあった「甲斐銚子塚古墳」に向かって歩く。「甲斐風土記の丘・曽根丘陵公園の古墳と遺跡」案内板。現在位置は円墳・「丸山塚古墳」と前方後円墳・「銚子塚古墳」との間。「甲府盆地の南東に位置する曽根丘陵には、古代の遺跡が数多く発見されていますなかでも曽根丘陵の一部である甲斐風土記の丘・曽根丘陵公園のある一帯は、弥生時代から古墳時代にかけて、東海地域から富士山西麓を経由して人や文化が活発に行き交う、交通の重要な拠点であったことから、有力な権力者の墳墓が集中して造られました。今から約千八百年前の弥生時代後期(三世紀頃)に、上の平遺跡で方形周溝墓の造営がはじまり、古墳時代前期(四世紀)までに百ニ十基あまりが造られました。古墳時代前期(四世紀)には、大丸山古墳や銚子塚古墳などの前方後円墳や丸山塚古墳といった大規模な円墳が出現します。古墳の形や大きさ、中国製の鏡などの豪華な副葬品には、大和政権との深い関係性が現れています。これらは重要な古墳であり、国の史跡に指定されています。」「古墳時代中期(五世紀)になると、墳墓は急速に小規模になりますが、かんかん塚(茶塚)古墳に副葬された馬具や甲冑、岩清水遺跡・東山南遺跡の円形周溝墓から出土した須恵器などは大陸からきた渡来人の影響を受けた当時の最先端の道具でした。古墳時代後期(六世紀)以降の古墳には、考古博物館構内古墳や稲荷塚古墳など横穴式石室をもっ古墳が造られました。稲荷塚古墳から出土した銅鋺は仏教との関連が想定でき、寺院が造られる以前にも仏教文化が甲府盆地に伝わったことを示しています。このように常に最新の文化が伝えられていたことは、この地域一帯が甲府盆地の政治・文化の中心地であったことを雄弁に物語っています。」「丸山塚古墳」の北西側の山の中には「大丸山古墳」があると。「丸山塚古墳」は、甲府盆地の東南沿いを流れる笛吹川の中流域、その左岸に位置する丘陵の尾根を利用して作られた古墳時代前期に属する前方後円墳である。この古墳は昭和4年に地元住民などにより発掘され、特異な埋葬施設から多くの出土遺物が確認された。その後、中道町(現・甲府市)によって昭和44年に測量調査が、昭和46年に埋葬施設の発掘調査が行われた。古墳の規模は墳長約105m、後円部径約48m、前方部幅約37mであり、墳丘が良好に遺存している。埋葬施設は後円部の西南に位置し、構造が特異な竪穴式石室である。南北6.5m、東西7.6mほどの墓坑の中央に、花崗岩製の長さ約2.8m、幅1.4mの組合式石棺を設置し、その上に東西約2.7m、南北約0.8m、高さ約0.4mほどの竪穴式石室を構築している。石棺内からは2体の人骨と青銅鏡3面、玉類などが発見され、石棺の上部からは鉄製の刀剣や鏃、短甲のほか、手斧などの鉄製工具類が多数出土している。このように、大丸山古墳は墳丘が良好に残存していることに加え、特異な構造の埋葬施設の存在や多数の副葬品の内容から、当該地域の古墳文化の成立を考える上で貴重な事例であることから、史跡として指定し保護を図るものである。そしてこちらが「国指定史跡 銚子塚古墳附丸山塚古墳」案内板。「国指定史跡 銚子塚古墳附丸山塚古墳(ちょうしづかこふんつけたりまるやまづかこふん) 昭和五年ニ月ニ十八日指定銚子塚古墳銚子塚古墳は四世紀後半に造られた、当時では東日本最大級の前方後円墳です。昭和三年に石室が見つかり、鏡五面、装身具、武器などが発見されました。石室は竪穴式石室で、後円部の中央西よりに南北に向き、割石材で持送りに造られています。墳丘は三段築成で、埴輪が立てられ、葺石で覆われていました。周濠から出土した立柱・笠形木製品・円盤状木製品などは、古墳で行われた葬送儀礼を知るうえでとても貴重な資料となりました。規模 墳丘の全長百六十九メートル、後円部径九十ニメートル、高さ十五メートル、 前方部幅六十八メートル、高さ八・五メートル、竪穴式石室の長さ六・六メートル、 幅〇・九三メートル、高さ一・三五メートル副葬品 鏡五面(内行花文鏡・三角縁神人車馬鏡・環状乳神獣鏡・贔龍鏡・三角縁三神三獣鏡)、 車輪石、石釧、杵形石製品、貝釧、勾玉管玉、鉄剣、鉄刀、鉄鎌・鉄斧、鉄鏃など (東京国立博物館に収蔵)出土品 埴輪・土器・木製品など(山梨県立考古博物館に収蔵)」巨大な前方後円墳の「銚子塚古墳」を斜め方向から見る。手前が「前方墳」その先に「後円墳」が繋がっていた。両古墳の中間部の北側にあった神社・「伊勢大明神」。内陣には石の社が鎮座。そして「銚子塚古墳」の「前方墳」に作られた階段を上って行った。「前方墳」は幅68m、高さ8.5m。前方に「後円墳」を望む。「前方墳」の頂部から西側に見える南アルプスの白き山を見る。左に「赤石岳」・3120m、右に「小赤石岳」・3081mの勇姿。北側には「八ヶ岳」。左に最高峰「赤岳」・2,899 m、右に「横岳」・2,829 m。左「編笠山」・2,524 m、中央「権現岳」・2,715 m、右「阿弥陀岳」・2,805 m。「後円墳」に向かって進む。中間部には巨木が聳え立っていた。そして「銚子塚古墳」の「後円墳」の上に立つ。「竪穴式石室(銚子塚古墳)この石室は、埋葬された豪族の遺体を納めた部屋で、木製の棺の周囲に割石を積み上げて造られていると思われる。昭和三年、偶然の機会から発見され、鏡五、硬玉製勾玉一、碧玉製勾玉一、水晶製勾玉四、碧玉製管玉一五〇、車輪石五、石釧(いしくしろ)六、杵形石製品ニ、貝輸一、鉄剣三、鉄刀四、鉄斧三、鉄鏃片(てっそくへん)などが出土した。石室は長さ六・五メートル、幅〇・九メートル、高さ一・三五メートルの規模である。鏡のうち、三角縁神人車馬画像鏡は、岡山県車塚古墳出土鏡などと同笵(どうはん)関係がある。出土品は東京国立博物館所蔵。」再び「赤石岳」、右に「小赤石岳」勇姿を。「赤石岳」にズーム・イン。「小赤石岳」にズーム・イン。「銚子塚古墳」の頂部から下を見る。「前方墳」を振り返る。甲府盆地と「八ヶ岳」を見る。「後円墳」部から「前方墳」を見る。に向かって階段を降りる。「前方墳」に向かって階段を降りる。もう一つの「史跡銚子塚古墳附丸山塚古墳」碑。「マツリに使う木の道具 笠形木製品(かさがたもくせいひん)古墳の周りに掘られた濠(ほり)を「周濠(しゅうごう)」といいます。この中から半円形の木の道具が出土しました。上面は中心付近がやや厚く、直径は約50cmです。下面に浅いえぐり状の加工があり、ほぞ穴には下から棒状のものをはめ込むようになっています。このことから、これは「笠形木製品」とおもわれます。古墳に長年立てられていたらしく、表面は風雨にさらされて風化していました。」「銚子塚古墳」下の「突出部」。「マツリの場突出部平成16年度の発掘調査で発見されました。地盤を削りだし、その表面には大小の石を敷き詰めてありました。これを「突出部」と呼んでいます。表面は周濠に向かって傾斜していましたここは古墳で行われたマツリの場と思われ、東日本の古墳時代前期では初めての発見です。また、「突出部」の真ん中から周濠を横断する土手状の高まりも確認され、陸橋や渡堤(わたりづつみ)の可能性も考えられています。」「突出部」前から「後円墳」を見上げる。曲線状に造られた「突出部」。振り返って。丸い柱が立っていた。「マツリに使う木の道具立柱(りっちゅう)この柱は直径20cm、長さ90cmのスギ材で、周りを石で固められてしっかり立っていました。柱の表面はていねいに削られています。上部は腐って失われていますが、埋め込まれた部分が90cmほどあることから、全体では3 ~ 4mの立柱であった可能性があります。古墳に関係するマツリに使われたと思われ、木の柱が埋め込まれたまま発見されたことはとても珍しいことです。」「円盤状木製品など古墳の周りの濠から木で作った道具がたくさん発見されました。中でも円盤状木製品・蕨手形(わらびてがた)木製品・棒状木製品と呼ばれるものは、組み合わせることができ、その長さは2.4mにもなります。マツリに使われて、しばらくの間古墳に立てられていましたが、その後、濠の中に投げ込まれたと考えられます。」再び「後円墳」を。「マリに使う木の道具 円盤状木製品など昭和60年度の発掘調査で発見されました。前方後円墳は円形と方形が接した形をしていて、この接するところを括(くび)れ部といいます。この南側から円盤状木製品、蕨手形木製品、棒状木製品と呼ばる木の道具が見つかりました。これらは組み合わせて使われたと考えられます。平成16年度の調査でも後円部西側から同じ物が発見されています。」「復元イメージ図」。再び「前方墳」に上る。「前方墳」から「丸山塚古墳」を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.24
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再び「ミュージアム知覧」を訪ねた。知覧を含めた南薩摩の文化をより多くの人々に紹介するため、平成5年に開館した歴史資料館。ここもロビー展示品のみ撮影可能であった。「国指定史跡 知覧城跡👈知覧城空撮東方上空からの撮影。「城内」と呼ばれる主郭部分の4つの曲輪を、外周部の曲輪が取り囲んでいます。空堀で隔てられた曲輪には高低差が少なく、それぞれが強い独立性を備えています。」👈今城・本丸間の空堀築城時の堀底は発掘調査によっては、現在の地表からさらに約7m深いところにありました。その堀底から10 ~20cm大の河原石が多数見つかっています。堀を見下ろせる今城の曲輪から、攻め寄せた敵は上から攻撃されることになります。春風亭昇太氏(H29.2撮影)」「知覧城跡航空写真」をネットから。 【http://geo.d51498.com/qbpbd900/chiranjo.html】より「今城・本丸間の空堀」をネットから。 【http://geo.d51498.com/qbpbd900/chiranjo.html】より「知覧城の空堀」を示すジオラマ。「水車」が展示されていた。「知覧の水車からくり南九州市知覧町では、水車からくりの伝承5例(浮辺氏神のほかは郡地区)あります。また、人力で動かすアヤツリ人形も4か所で伝承されていました。このうち市街地のはずれにある豊玉姫神社のものは、毎年7月9日・10日の六月灯で披露されています。この水車からくりは、垂直回転する水車の動力を、ベルトを通して舞台下の機構に伝えています。機構には間欠歯車・ツルギ(キャタピラ型の木製移動人形台)などがあります。基本的には、垂直方向の動力をそのまま利用しています。しかし、紐を利用することにより人形自体にさまざまな動きをつけています。人形は、浄瑠璃人形に似た30センチメートル前後のもので、20体前後が舞台上に据えられ、個性豊かにさまざまな動きを見せます。演題は、昔話や神話・伝説が題材となっています。「劇場型水車からくり」といえます。浮辺の1例を除き、水車からくりの4例と人力あやつり4例の人形は、いずれも豊玉姫神社と同程度のものであったと思われます。浮辺のものは、後述の加世田型のものを小型にしたものといわれています。」ここにも「知覧の水車からくり」が展示されていたが動いてはいなかった。「那須与一の屋島の戦いの場面」👈リンク。桃太郎。「ちょっと昔のお茶の間再現」。近づいて。昭和30~40年?の懐かしい品々。昭和10年代に使用した貨幣。「野﨑恭弘氏の作品についてテーマは、「あの日あの頃」。幼いころに見た古き良き日本の風景や、戦前・戦中・戦後に体験したことを、次の世代に伝えたい。そんな思いで当時を回想しながら描かれた絵画です。これらの作品には、昭和10年代から30年代ごろの生活の様子がわかりやすく描かれています。」様々な「あの日あの頃」の風景が描かれていた。「あの頃 街の家族の夕食」。「女の子はお母さんと食事、おやつの手伝」。「農村の子供たちは忙しかった」。「南九州市 遺跡マップ」。「薩摩半島」の先端の中央部に位置する「南九州市」。南側で太平洋に面している。知覧ねぷた祭りの山車の武者絵。知覧ねぷた祭は、青森県平川市(旧平賀町)との交流がきっかけではじまった祭りで、高さ5メートル、縦横4メートルという扇型のねぷた5基には勇壮な武者絵が描かれ、鹿児島の夜を幻想的に彩るのだと。「民族文化財 有形民族文化財 宝光院の薩摩塔」。藁葺き屋根の二ツ家。左下には懐かしき「Canola 151」。1967年3月に発売された15桁1メモリー電卓。上段にタイプライター。当時の価格は37万円と。ラジオ、カメラ、ミシン。蓄音機。半鐘とレジスター。そして「ミュージアム知覧」を後にして、再び「平和の鐘」へ。「平和の鐘」👈リンク。隣りにあった「慟哭、誓いの碑」「この鎮魂慰霊、慟哭の中に、われら国を超え、民族を超え、世界人類永遠の平和をここに誓う」。「知覧節」碑。「知覧節の由来」下部が隠れてしまっているので転記は省略します。「戦史詳細図」。そして「知覧文化会館」前の駐車場の車に戻り、「知覧城跡」に向かって進む。そしてナビに従い北東方面に進むと、「史跡 知覧城」の案内碑が左側に現れた。反対側にも「⬅知覧城跡」碑が。そして「知覧城跡」下の駐車場に車を駐める。「知覧城跡」碑。「知覧城の遺構(本丸の土塁)」。「知覧城鎌倉時代初め、源頼朝の命によってできた建久8年(1197)薩摩国図田(ずでん)帳(土地台帳)によると、当地は知覧院とよばれ、薩摩平氏の一族である平忠益(たいらのただます)が郡司として治めており、地頭には島津氏初代忠久(ただひさ)が臨んでいました。その後、郡司・地頭の職務はそれぞれの子孫に継承され、南北朝時代になると、郡司平忠世(ただよ)は南朝方に、地頭島津久直(ひさなお)は北朝に属して各地域を転戦しましたが、ともに没落してしまい、文和2年(1353)に足利尊氏が島津氏5代島津貞久(さだひさ)の弟佐多(さた)氏の初代の忠光(ただみつ)の軍功を賞して郡司知覧忠世の遺領を与えたことにより、これ以降、知覧は佐多氏の領地となりました。室町時代初め、知覧は、そのころ南薩に勢力を張っていた伊集院氏の一族今給黎久俊(いまきいれひさとし)が押領して、島津氏8代目久豊(ひさとよ)に反抗していましたが、応永27年(1420)ついに降伏しました。山田聖栄(しょうえい)自記によると、島津久豊は知覧城(当時は上木場城(かみこばじょう)とよばれました)に入ると、あらためて知覧は「佐多殿の由緒の地」であるといって、佐多氏4代佐多親久(ちかひさ)に与えました。これが知覧城に関する最も古い記録となっています。その後、天正19年(1591)佐多氏は家臣が豊臣秀吉の命令に背いたことから、知覧を没収され、隣村川辺宮村に領地を移されました。10年後にはまた知覧に復帰しましたが、その間に知覧城は火災にあって全て焼失してしまいました。元和元年(1615)には徳川家康は一国一城の制をしきましたが、それをまつまでもなく知覧城は廃城となったものと思われます。知覧城はシラス台地のへりにできた侵食谷を利用して空堀とし、10余りの郭(平坦なところ)を築いて、これらを本丸の周辺に配置した山城で、築城当初の原形がよく保存されている貴重な遺跡であると評価されています。」「知覧城跡」の中心曲輪<本丸・蔵之城・今城・弓場城>城の構造は、本丸・蔵之城・今城・弓場城などを中心とした曲輪群とそれを取り巻く東ノ栫(かこい)・式部殿城など周辺の曲輪群から形成されています。城と城の間には深い空堀がめぐり、それぞれが独立しているのが特徴です。城内にはL字状に曲がった枡形虎口(出入口)や土塁、やぐら台、横矢(よこや)など防御施設が築かれています。「知覧城写真模式図」。本丸をはじめとする中心郭(本丸・倉ノ城・今城・弓場城)をいくつもの城郭が取り囲んでいる。自然地形を巧みに応用した南九州を代表する山城の形態。中世山城の姿を現在に伝える極めて重要な遺跡である。「知覧城跡の位置とその周辺図」。「国指定史跡 知覧城跡」碑「大刀洗陸軍航空廠知覧分廠跡」碑。「航空廠では、飛行機の点検や修理を行っていました。太平洋戦争末期、アメリカ軍の空襲をさけるために、知覧城内の斜面に掘られた防空壕の中で、知覧飛行機のオーバーホールや故障機の修理、補給部品の製作など難易度の高い整備を行っていました。」ここが「本丸」への登城入口であったが、時間もなくこの日はここまでとした。「知覧城への登城ルート」👈リンク アクセス願います。「知覧城」の「御城印」です。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.24
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「等々力不動尊」への石段を上がり切り、境内に入ると、右手に見事な紅葉が陽光を浴びて。見上げて、境内の紅葉はピークの直前であった。「手水場」前の展望台から。燈籠との色のコラボ。「手水場」展望台からの紅葉をしばし堪能。「等々力不動尊」の本殿正面。等々力不動尊は満願寺(まんがんじ)の別院。関東三十六不動尊霊場の第17番で正式名称は滝轟山(りゅうごうさん)明王院。本尊は不動明王。寺に残る言い伝えによれば不動像は1300年前の作で、そして800年前に興教大師が夢を見て、武蔵国に不動明王像を安置する場所を探し続け、当時の豊富な水量を流す当地の滝を見て、霊地と悟り、この地に不動堂を創建したのが始まりであると。拝殿前には菊の懸崖が一対。黄色の懸崖。懸崖造りは、1本の小菊を大きな株に仕立て、野菊が断崖の岩間から垂れ下がっている姿を表現する技法。紫の懸崖。氏子の奉納品であろうか。手間暇をかけ、作りあげたものであろう。「不動尊」と書かれた巨大な真っ赤な提灯。コロナ禍で、この日も「ガラガラ」・「鰐口(わにぐち)」は上部に引き上げられていた。「鰐口」鐘鼓をふたつ合わせた形状で、鈴を扁平にしたような形をしている。上部に上から吊るすための耳状の取手がふたつあり、下側半分の縁に沿って細い開口部がある。「瀧轟山」と書かれた扁額。満願寺の山号は「致航山」、院号は「感應院」、寺号は「満願寺」。本尊は金剛界大日如来、宗派は真言宗智山派で、開創は平安時代末です。中興は室町時代で、吉良氏の居城であった兎々呂(ととろ)城の一角(現在地)に祈願寺として移築されました。常法談林三衣(じょほうだんりんさんね)の格式の寺で、学問所・教育機関・本山としての機能を有していました。「寺務所」。「等々力不動尊」の本堂横には、舞台(展望台)が設けられていた。歌碑『恋ほたる 風のふし目に 光りけり 喜寿 白雲』と。白雲とはどなたであろうか? 喜寿を期してのこれも奉納品か。石に落ちたカエデ葉を追う。石を化粧した如くに。銀杏の黄葉が残っていれば舞台も映えるのだがと我儘にも。境内の小さな社。「厄除大師堂(明王院大師堂)」。そして「山門」に向かって進む。「山門」を潜り正面から。「山門」の屋根には銀杏の葉が積もっていた。「東京都指定名勝 等々力渓谷所在地 世田谷区等々力一丁目外指定 平成十一年三月三日等々力渓谷は国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する開析谷で、都区内唯一の渓谷である。台地と谷との標高差は一〇メートルあって、騒音も渓谷の中までは届かず、都区内とは思えないほどの鬱蒼(うっそう)とした樹木と渓谷美は、幽邃(ゆうすい)な景観を呈し、武蔵野の面影をよくしている。玉川全円耕地整理組合が、昭和五年から一三年にかけて谷沢川(やさわがわ)の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内は殆ど人の立ち入ることもなく、雉(きじ)などの鳥類や、イタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫であった。等々力不動尊左手の石段下には、国分寺崖線の湧水(ゆうすい)である不動の滝があり、かつてはこの滝に打たれて行をする修行僧が各地から訪れたと言われており、役(えん)の行者(ぎょうじゃ)ゆかりの霊場と伝えられている。等々力渓谷保存会によって行われている蛍(ほたる)祭りは、清掃活動とともに地域に根ざした保存活動として成果をあげており、清流復活運動の先駆けとなった地域である。等々力渓谷は、東京都指定名勝「真姿(ますがた)の池湧水群(いけゆうすいぐん)」(国分寺市西元町)とともに国分寺崖線名勝群を形成する一つであり、東京を代表する自然地理的名勝として、植生学、地質学及び地形学上重要である。」もう1枚あったが「等々力渓谷等々力渓谷は谷沢(やさわ)川によってできた谷で、今でも多くの動植物がみられ、四季折々には咲き乱れる桜、常緑の木立、秋の紅葉も不動滝(ふどうのたき)(竜頭滝 りゅうずのたき)に映え、深山の趣きがある。谷間は粘土、砂礫(されき)、赤土(関東ローム層)の層が重なって地層の移りかわりをものがたっている。不動滝は古くより知られ、清浄な渓谷にしぶきをたてて、とどろいていたことから、等々力の地名が起こったともいわれている。不動尊本尊は、新義真言宗の宗祖興教(こうぎょう)大師が山城国(京都府)よりこの地に移したと伝えられる。」「山門」の扁額は「瀧轟山」。宗派:真言宗智山派山号:瀧轟山(ろうごうさん)院号:明王院(みょうおういん)寺格:等々力満願寺別院「梅の花」が寺紋であろうか。「山門」越しに境内を見る。「成道(じょうどう)十二月八日はお釈迦さまがお悟りを開かれた日大きな道も先ず一歩から」と。「しわすの日々を大切に 師走」と。再び境内に戻り、「本堂」方向を見る。「草木供養碑」。舞台から四阿(あずまや)の姿も。木製の舞台(展望台)を歩く。崖や斜面にへばりつくように建てられた寺院建築を、懸造り(かけづくり)もしくはこれも懸崖造り(けんがいづくり)というのだと。黄色の絨毯が敷かれた舞台からの紅葉を楽しむ。そして「等々力不動尊」を後にして、等々力渓谷の谷沢川沿いの遊歩道を戻る。清き白き流れを楽しみながら。川面の赤の「ゴルフ橋」が映り込んでいた。そして「等々力駅」手前左にあった「麦藁屋根」の家屋。スーパー成城石井等々力店の駐車場の横にある、世田谷区の有形文化財に指定されている「鈴木家住宅穀倉」。 東京都世田谷区等々力2丁目39番。「鈴木家住宅穀倉鈴木家は旧等々力村学宿(現在地)に古くから住む旧家で、屋号を「新家(にいや)」といいました。明治時代には農業のかたわら店を営み、炭や薪、木材などを商っていました。商品は青梅や五日市辺りから多摩川を下る筏流しに運ばせ、野毛と玉堤境にある通称「炭河岸(すみがし)」で荷揚げされました。大正時代からは材木店を本業とし、鈴銀材木店として深川の木場と本格的な取引をするようになりました。この木造穀倉は穀物の収納を目的に伝統的な建築構法で建てられました。人口の錠前、内部の壁や天井のていねいな張板に穀倉の特徴が見られます。また、軒下を広くとり風雨をしのぐ工夫がされています。さらに、小屋梁を省略し天井裏にも収納ができます。区内にあった木造穀倉は多くが取り壊され、現存する事例が極めて少なくなっています。鈴木家住宅穀倉は江戸時代末期から明治初期の農家の屋敷構えや生活形態、地域の歴史を伝える貴重な建造物です。」内部は非公開であった。「鈴木家住宅」は明治時代の建物で桁行2間(3.6メートル)、梁間1.5間(3.0メートル)、寄棟造、茅葺。世田谷区指定有形文化財(建造物)に平成21年11月16日に指定された。土蔵2棟と穀倉が建っていた。穀倉は、明治8年(1875)に建てられた小規模な建物である。外壁には板を打ち付け、建物の三方に下屋を設けて屋根を深く葺き下ろし、風雨から建物を守っている。内部は床・天井・壁ともに板張りで、ネズミや害虫の侵入を防ぐ工夫がされている。入口には錠前が付き、厳重な戸締りがされている。天井裏には梁がなく物置として利用していたようだ。かつては多くの農家に穀倉があったが、時代とともに取り壊され、現在区内で確認できるものは他にない とのこと。保存も大変なのであろうがいつまでも残しておいて欲しいのであった。等々力駅まで戻る。そして大井町線のホームへ。そしてこの日の午前中の「浄真寺」、「等々力渓谷」の紅葉散策を終えたのであった。陽射に従いながら「浄真寺」境内を行ったり来たりの散策ではあったが。そしてこの紅葉散策の一連のブログを書き上げ、今年も、以前に放送されたフジテレビ「林修のニッポンドリル」で、「歌がうまい国宝級歌姫TOP15」の1位にランキングされた「MISIA」👈リンク の歌を聴きながら紅葉の余韻に浸っているのである。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2021.12.23
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更に「知覧特攻平和会館」前の広場にある石碑、モニュメントを巡る。「特攻平和観音堂」への参道脇の石灯籠を動画撮影するカメラマン。地元のテレビ放送局のカメラマンなのであろうか?巨大な石灯籠。台座には銘板が埋め込まれていた。「顕彰特攻の母 鳥浜とめ👈リンク散るために 咲いてくれたか 桜花 散るこそものの 見事なりけり」増田利雄軍曹 飛行第105戦隊 21歳の辞世の歌であるようだ。「大刀洗陸軍飛行学校 知覧教育隊」と書かれた門柱。「由来この門柱は、昭和十六年十ニ月この地に開校された、大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所(のちに教育隊となった)の正門です。終戦後昭和ニ十六年、旧知覧中学校の正門として使用されていたが、昭和五十六年統合により閉校になったのでここに移設復元したものです。」「第四〇教育飛行隊 西部第一ニ三部隊」門柱。「第四十教育飛行隊(西部第一ニ三部隊)由来昭和十九年知覧に第四〇教育飛行隊があり、七月から年末まで学徒出身の特別操縦見習士官第ニ期生一三六名の操縦教育が実施された。その後部隊も見習士官も移動した。それから半年の後、再び知覧に降り立った同隊の二期生及び教官を含む四七名がいるが、全員振武隊となり、思い出の飛行場から一路沖縄に出撃した。なお第四〇教育飛行隊は菊池、各務原と移り陸航士第五八期生八六名、特別操縦見習士官第二期生五〇名及び第三期生六一名の教育をつづけて終結した。」「大刀洗陸軍飛行学校 知覧教育隊之記念碑」。「由来大刀洗陸軍飛行学校知覧教育隊(当初分教所)は昭和16年末知覧飛行場の完成を待って創立、先づ第10期少年飛行兵の教育を開始、尓後少年飛行兵、下士官学生、特別操縦見習士官等が相次で入隊、猛烈な教育訓練の下、数多の飛行機操縦者が巣立った処である。然るに教育期間僅か2年9ヶ月にして戦局の推移と知覧飛行場の地理的戦略的関係により昭和19年9月町民の念願も空しく教育隊は解隊、その前後に隊員は京城(ソウル)を初め内外の各教育隊等に転属、後には飛行戦隊が駐留、昭和20年には遂に特攻の基地と化した。思えば当飛行場は教育隊時代隊長はじめ教官助教学生軍属が一丸となり祖国の安寧と東洋平和建設の為熱き血を沸らせた処である。吾々の若き日の汗の染みこんだこの地に知覧教育隊の存在した事実を後世に伝えると共に戦争の悲劇が二度と繰り返されることなく、世界の恒久平和の確立が一日も早からんことを希って、この記念の碑を建立する。」生き残り隊員の歌碑「手を振りて 知覧翔び征く特攻機 君の笑顔に 昭和責めらる、木香」。航空局第十四期操縦生特攻隊要員 信州木曽路妻籠宿 藤原長司之歌碑。平成三年三月三日建立。「知覧基地 特攻隊の歌 作詞・作曲 斉藤末俊一、ああ薩南の此の地より 敵撃滅の命を受け まなじり決し若人が 翔び立つ姿尊しや その名特別攻撃隊ニ、ああ明日はなき此の命 胸に秘めたるその覚悟 祖国の平和念じつつ 南の空に翔び立ちし その名特別攻撃隊三、ああ今此処に銅像の 勇士の姿仰ぐとき 国を護りしつわものの 勲は永久に薫るらん その名特別攻撃隊」「初等練習機(Tー3)」。「この飛行機は、初等練習機として航空自衛隊防府北基地(山口県)で活躍していましたが平成17年に用途廃止され同年5月、知覧町が借り受け、ここに展示したものです。本気(T-3)の構造・性能全幅 10.00m 最大速度 360km/h全長 8.04m 上昇限度 8,200m全高 3.02m 航続距離 1,000km自重 1,136kg」廻り込んで。「母の像 やすらかに」。近づいて。「やすらかに特攻隊の若い命は再び帰らず。出陣の時間まで求めたであろう母の姿。この晴れ姿をせめて母上に一目最後の別れと、お礼を一言。胸も張り裂けそうな、その心情は母もまた同じであったろう今ここに立つ母の姿 とこしえに母と共に安らかに母の温かいみ胸で 御霊の安らかならんことと世界・平和を祈念して。」母の像「やすらかに」。「特攻勇士の像 とこしえに 」。顔をズームして。「特攻像「とこしえに」の由来特攻機は、遂に帰って来ませんでした。国を思い、父母を思い、永遠の平和を願いながら、勇士は征ったにちがいありません。特攻像「とこしえに」は、全国の心ある人々によって建てられました。み霊のとこしえに安らかならんことを祈りつゝりりしい姿を永久に伝えたい心をこめてあゝ開聞の南に消えた勇士よ」「特攻勇士の像「とこしえに」」。「特攻慰霊大燈籠」。「特攻慰霊大燈籠特攻勇士辞世の歌後れじと 散りゆく花ぞ われもまた 大和島根に 香りと止めて 第四十三振武隊 岸誠一大尉野畔の草 召し出されて 桜哉 疾風隊 原田栞」見事な銀杏の黄葉が青空に映えていた。「知覧平和公園」には、もう1機、戦闘機が展示されていた。この機体は、『一式戦闘機「隼」』。「大東亜戦争(戦後は太平洋戦争ともいう。)において、陸軍の主力戦闘機として活躍した一式戦闘機「隼」-Ⅲ型甲をモデルに当時の資料や少飛会の意見を取り入れて忠実に復元製作された。「隼」は当時知覧の特攻基地からは九七式戦闘機に次いで多い120機が飛び立っている。」”特攻の母”として知られる鳥濱トメさんの視点から若き特攻隊員の無残にも美しい青春を描いた映画「俺は、君の為にこそ死ににいく」👈リンク(2007年5月12日公開作品、製作総指揮・石原慎太郎)で実際の撮影で使用された「隼」。出演者の集合写真であろう。中央に、富屋食堂を知覧の商店街で経営していた鳥濱トメ -さんを演じた岸惠子さんの姿が。再現された一式戦闘機「隼」を横の方から…。知覧の「散策15kmコース(30分)」案内板。「知覧飛行場跡地戦争遺跡広域図」。飛行場だけあって、かなり広い範囲に遺構が広がっていることが理解できたのであった。そして先程入館した「知覧特攻平和会館」そして桜並木の路を見る。石碑を追いかけながら「知覧特攻平和会館」方向に進む。まだまだ石碑があった。「忠魂蛍之碑ほたる火と なりてきませる つはものを なごしまつらむ けふの祭りに 返し歌わたつみの 宮のうたげは 楽しくあれど やまとしおもはゞ うれへなげかゆ」裏側。「かって日本が、世界の列強と戦火を交えた時、皇国の必勝と民族の不滅を信じ、爆弾を抱え艦隊に突入した幾多の若者がある。しがし一人の勇士が、出撃前夜の誓いのごとく蛍となり知覧に帰った逸話は、全特攻隊員の悲愴な真情ではなかったか。今ここに彼等の武勲を称え、次の世に語り継ぐべき、祭りの歌を捧げる。また志を同じうし、殉国の途にあった、我等若き日の生き○霊を記念し大ロマンの忠魂碑とする。」「アリランの歌声とほく 母の国に 念ひ残して 散りし花花」。朝鮮半島出身の特攻11名のみ霊をお慰めするための歌碑であると。こちらは裏側。平成十一年(1999年)十月二十三日、千葉県我孫子市村山祥峰・江藤勇建立。五重石塔。「平和宣言」碑。裏側であっただろうか。「鎮魂」碑。「恒久世界平和国連支援都市」碑。「知覧薩南の涯(はて)の山のなかの静かな町。と号(特攻)要員とよばれた若者や少年たちが、青春の最後の幾日かを過ごした町。祖国の難に一命を捧げた隊員達の特攻機が、250キロの爆弾を抱えて、よろけるように飛び立っていった町。そんな隊員や、それを取りまいた人びとの、さまざまな思いが罩(こ)められている町、知覧。「今日あれ生きてあり」神坂次郎」。「今日われ生きてあり」。「俺は君のためにこそ死にいく」碑。「短い青春を懸命に生き抜き散っていった特攻隊の若者たちが「お母さん」と呼んで慕った富屋食堂の女主人鳥濱トメさんは、折節にこの世に現れ人々を救う菩薩でした。石原慎太郎」「俺は君のためにこそ死にいく」。鳥濱トメさんと特攻隊員の姿。「ホタル」碑。碑には、 燃えつきず 立ち寄る家の 今 ありやなしや ホタルよ ここでやすんで下さい 降旗康男「ホタル」。「特攻歌碑」。「帰るなき 機をあやつりて 征きしはや 開聞よ 母よ さらばさらばと 鶴田正義」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.23
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「第1号、第2号横穴跡」から引き返すと、広場の周囲の紅葉は見事であった。「渓谷の水、湧水」案内板。「渓谷の水、湧水等々カ渓谷を構成する谷沢川は、現在の上用賀6丁目付近を水源とし、用賀・中町を貫流します。そして等々カ駅付近から渓谷の様相を呈しはじめ、渓谷内で不動の滝も合わさり、その後、一部が六郷用水(丸子川)へ、残りは多摩川と流れていきます。この谷沢川には、平成6年( 1994年)より仙川浄化施設からの導水が始まり、水質の改善がおこなわれました。また、等々カ渓谷には約30箇所以上の湧水が発生し、一部は窪地に集まって湿地を形成しています。谷沢川の水質は、ゴルフ橋から下流に行くにしたがって改善されていることから、この谷沢川に流れ込む湧水が、水質や水量の維持に大きく寄与していることがうかがえます。等々カ渓谷の湧水は、東京都により平成15年(2003年)に「東京の名湧水57選」に選定されています。」「等々力渓谷 案内図」そして現在地。「おもいはせの路(国分寺崖線散歩道)「おもいはせの路」は、国分を川線周辺を歩いて楽しむ散策ルートです。季節や時の流れとともに表情を変え、古代から現代までの様々な姿を見せる路で、歴史に「おもいをはせる」ということから名付けられました。「等々カ渓谷公園」のみどころは、全長約1キロの23区内唯一の渓谷で、都指定名勝として文化財指定されており、途中には8世紀ごろのものとはわれる横穴占墳があります。さらに川下へ降りて歩いて行くと、「不動の滝」がとどろいています。等々力不動の本尊の不動明王は役の行者の作といわれ、様々な願い事にご利益があると言われています。」さらに陽光に映えた紅葉を楽しみながら進む。「稚児大師御影堂」が前方に。面白い形状の「手水場」。「稚児大師御影堂弘法大師御誕生一千二百年記念慶讃大法要昭和五十年四月六日 奉修稚児大師尊像 制作芸術院会員 清水多嘉示堂宇 設計 畠山博茂 慶讃大法要大導師満願寺第二十六世 龍文」と刻まれていた。境内に入ると「御影堂」の中に「稚児大師像」が見えた。「稚児大師さま小さい手を合せているお姿は弘法大師の幼いときのお姿です。弘法大師の時代は、大学としては高位の貴族の師弟が官僚になるための大学が唯一つでした 弘法大師はこれに対して、庶民のだれでもが学べる庶民のための大学である綜芸種智院を創設しました。綜芸とは総ゆる学芸を統合すること、種智とは、智恵を植えることです。その智恵はやがて大きく成長し、色々な局面や難しい事態に出会った時正しい判断をする決断力となって発揮されます。智恵とは密教では決断力のことです。知識だけでは物事の判断は出来ません。その智恵を養うのがあらゆる学問 技術 文学 芸術 書思想を広く学び総合することです。弘法大師の創った大学は、月謝もなく教校から学生まで宿舎も完備して給食付でした。弘法大師は幼いとき、土で仏さまを造って草や木の枝で造った御堂に祀って手を合せました。この稚児大師像は 芸術院会員清水多嘉示先生につくって頂き お子様にも拝みやすいように低く安置いたしました尚 弘法大師の幼少期は奈良時代ですが古くからの多くの稚児大師像のように平安時代の服装で製作していただきました。」「稚児大師像」に近づいて。前方に木橋が見えて来た。そして正面、木橋の先に「不動の滝」が左手に。「不動の滝」への木橋・「利剣の橋」を渡る。滝の右手には「弘法大師」と「観音様」の像が。「観音様」像。「弘法大師」像。「不動の滝」の上には「不動明王」そしてその奥にも仏の姿が。二つの龍の口から湧水が流れ落ちていた。右側の滝と「不動明王」像。下の写真は以前に訪ねた時の写真。右側の滝。左側の滝。滝の左手にある小さな御堂。御堂には「不動明王」(右)と「正一位稲荷大明神」(左)が。「不動明王」像。そして生花が手向けられていた。「正一位稲荷大明神」。木橋・「利剣の橋」を振り返る。更に進むと、最奥に「日本庭園入口」があった。渓谷の崖地や自然環境を巧みに活かした庭園。この附近の紅葉は今がピーク。そして「書院」。日本庭園は昭和48年(1973)、書院は昭和36年(1961)に作られたもので、作庭は著名な庭師・飯田十基氏によるものだとか。書院の建物も当時のままの姿で保存されている。書院は開放されており、部屋にも上がることができるようであった。セルフサービスのお茶も用意されていて、等々力渓谷を歩いてきたあとの休憩場所にぴったり。部屋の中には等々力渓谷の説明パネルが展示されていた。斜面に石が巧みに配されて、そしてその間を沢が流れていた。「かぶき門」方面の園路は両側が竹林になっていた。そして「かぶき門」を出て、正面から。来た道を戻り、再び木橋・「利剣の橋」を渡ると、「等々力不動尊」への石段がった。左手に小さな祠があった。「役の行者」の「神変窟」と。岩場の斜面に祀られた小さなお堂。両手で抱えられるほどの大きさだが祀られているのは老婆の如き姿。神変窟付近には他にも小さな御堂が奉られていた。「神変大菩薩」と書かれた提灯が一対。「神変大菩薩」は「役の行者」のおくり名。 舒明天皇の六年(六三四)年 大和の国生まれ深く仏教に帰依。御岳山の洞窟に孔雀明王を祀って祈り大峰の山々などを修行の霊地とした。当山の本尊不動明王は当初、「役の行者」が彫んだと伝えられると。「たきのみち」碑。「等々力瀧燈磴道石階新築碑」と刻まれた石碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.22
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「知覧特攻平和会館」の館内見学を終えて、外に出る。特攻平和会館の入口近くにある鐘。だれでもつくことができる。お寺にあるような大きな鐘ではない。「「平和の鐘」です。やさしく突いてください。」と。そして「特攻隊員 三角兵舎」案内碑。「平和の母」像。兵庫県西宮市の方からの寄贈のようで、恐らく平和を祈って寄贈されたことでしょう。像の制作者も兵庫県西宮市の方。1997年(平成9年)8月に設置された と。そして「三角兵舎」へ。「復元」された「三角兵舎」。「三角兵舎三角兵舎は特攻隊員の宿舎でありました。敵の目を欺くため、松林の中に半地下壕をつくり、屋根には杉の幼木をかぶせ擬装してあました。各地から集まった隊員はニ~三日後には雲のかなた沖縄の空に散華されました。出撃の前夜は、この三角兵舎で壮行会が催され、酒を汲みかわしながら隊歌をうたい、薄暗い裸電球の下で遺書を書き、また別れの手紙等をしたためて、出撃して征ったのです。ここに三角兵舎を復元し当時をしのぶよすがとするものであります。」「三角兵舎」入口左にあった「庄覧平和観音」像。「知覧」ではなく「庄覧」となっていました。「知覧」ではなく「庄覧」の意味は?そして「三角兵舎」の内部。地面が掘り下げられて半地下のような形になっていた。中央が通路になっていて、両脇が一段高く、煎餅布団が敷かれていた。ここで出撃を待つ特攻隊員たちが寝起きしていたとのこと。「雑魚寝」そのもの。一生の最後の数日を過ごす場所としては劣悪な環境。ヘルメットも展示されていた。そしてその隣りにあったのが「特攻平和観音堂」。近づいて。「特攻平和観音堂観音の由来太平洋戦争未期の沖戦において特攻戦死された一千三十六名の特攻勇士たちが命を捧げて示された気高く純粋な愛国の精神を顕彰し、世界の恒久平和を祈念するため、旧知覧飛行場地に特攻平和観音堂を昭和三十年九月ニ十八日に建立し観音像を安置しています。この観音像は大和法隆寺の夢殿に安置してある秘仏「夢ちがい観音像」を特別のお許しを受けて模造したものであり一尺八寸(五十四センチ)の金銅像です。知覧町では昭和三十年に安置以来 毎年五月三日知覧特攻基地戦没者慰祭を執り行い、御霊らの慰霊顕彰に努めています。尚、観音像の体内には特攻勇士の芳名が記された巻物が納められています。」「観音の由来大東亜戦争中、祖国の護りのために、わが身を弾丸として散り逝きし国民忠誠の精華、陸軍特別攻撃隊の尊き不滅の英霊を大慈大悲の平和観音像に顕現して、其の冥福を祈り、又其の慈光を拝して世界平和の再建と衆生済度の功徳を祈念すべく、有志相図り大方のご賛同を得て去る昭和ニ十七年春、平和観音像を建立し同年五月五日東京音羽の蠖国寺で開眼式が行われ之を特攻平和観音と名づけました。この特攻平和観音像は、大和法隆寺の夢殿に奉安されている秘仏「夢ちがい観音像」を特別の許可を得て謹鋳された高さ一尺八寸(五十四センチ)の金剛像で陸軍、海軍夫々一体を世田谷観音寺に奉安、陸軍の一体を本土最南端の特攻基地があった、ここ知覧の地に、又海軍は三宅島サタドウー岬灯台に奉安されました。知覧町ではこの観音様を昭和三十年安置以来 毎年五月三日知覧特攻基地戦没者慰祭を挙行し、御霊らの慰霊顕彰に努めています。尚、観音像の体内には一千三十六英霊の霊名簿を納めてあります。」「特攻平和観音像」。ズームして。他にも様々な仏像が安置されていた。お顔をズームして。蓮の花を持つ優しいお顔の仏像。飛雲に乗った仏像。「特攻平和観音堂」の境内の参道の両脇に並ぶ石灯籠。「知覧特攻平和観音についてこの地は昭和十四年頃から陸軍飛行場としての調査がはじめられ、ついで昭和15年建設に着手。大東亜戦争が勃発した直後、すなわち昭和16年12月24日に太刀洗陸軍飛行学校、知覧分教所として正式に開校された。翌、昭和17年1月30日、第10期陸軍少年飛行兵78名の紅顔の若鷲たちが操縦教育を受けるため、完全武装の姿で知覧駅に到着。駅頭を埋めた町民たちの熱狂的な大歓迎を浴び、飛行場まで歩武堂々の隊列行進をした。95式練習機(赤トンポ)による初飛行は2月4日に行われた。南国とはいえ、寒風肌を刺す厳冬のなかで一撃必殺の闘魂に燃えた若鷲たちの必死の訓練は猛烈を極めた。従って、この日を境にそれまで静かなたたずまいの城下町であった知覧町は一転して爆音に明け暮れた。だが、当時この飛行場が3年後に至り、痛恨無比の特攻肉弾の基地になろうとは町民のだれもが夢想だにしなかったことであろう。昭和20年連合軍による飛石進攻作戦はすさまじく、戦局は急速に衰退の一途をたどりつつあった。同年3月25日、敵は遂に沖縄防衛戦の一角、慶良間列島に上陸を開始するにおよび戦局は最悪の事態を迎えた。そこで、これまでの敗勢を一挙に挽回する手段として、世界戦史にその類例をみない一機よく巨艦を屠る、必死必中の体当たり攻撃(陸軍ではフィリビンのレイテ戦のおり、既に特攻隊が編成され、その第一陣は昭和19年11月12日、”特攻”"万朶隊”の5勇士がレイテ湾に散った)がこの基地からも敢行され、終戦までおよそ1026柱の若い生命が完爾としてこの地を出撃、雲流るる沖縄の空に散華された。知覧町では、これら特攻勇士が身を以て示された崇高至純の殉国精神を顕彰、ご英霊をお慰め申し上げ世界の恒久平和を祈念するため、関係将士ならびに念願を同じくする有志一同の浄財をもって、知覧町旧飛行場跡に"特攻平和観音堂"を昭和30年9月28日に建立し観音像を安置いたしてあります。この観音像は陸海軍特別攻撃隊烈士の不減の英震を平和観音堂に顕現して、その忠烈な偉業を顕彰し、永遠のご冥福をお祈りするため、元海軍大将及川古志郎、同高橋三吉、元陸軍大将河辺正三、元陸軍中将菅原道大、元海軍中将寺岡謹平等の諸氏が発起人となり有志の方々に喜捨を仰ぎ昭和27年春特攻平和観音としてつくられたもので、この観音像は大和法隆寺の夢殿に泰安してある秘仏「夢ちがい観音像」を特別のお許しを受けて謹鋳されました。一尺八寸の金銅像で現在一体は東京都世田谷の世田谷山観音寺の特攻平和観音堂に安置されて毎年秋分の日に法要が行われており、同じ一体を当時の航空総軍司令官河辺正三大将、第六航空軍司令官菅原道大中将のおニ人が知覧に是非お祀りしたいと持参されたのが知覧特攻平和観音です。この観音像の体内には特攻勇士の芳名を謹記した巻物が奉蔵されており毎年5月3日(平和憲法記念日)には知覧特攻基地戦没者追悼式としてが盛大に慰霊祭が挙行されています。なお、この地に眠られる特攻勇士のご英霊をお慰めすることは勿論その御遺徳を後世に永く伝えるため、昭和46年の秋、関係者が相集まり「知覧特攻慰霊顕彰会」を結成、特攻銅像の建立と同遺品館の建設を目指し、全国の各界、各層に呼びかけ、浄財を仰ぎましたところ、たくさんのご芳志をいただきました。これらの清きご芳志は、平和の守護神として、大空にそびえ建つ特攻銅像となり、崇高なご遺徳をしのぶ遺品館(昭和57年内部改装)や三角兵舎復元(遺品館北側)等、また特攻勇姿が安らかに眠られる特攻平和観音堂とともに日本民族の平和への象徴として知覧原頭に永遠に光り輝くことでありましょう。」こちらは「知覧町護国神社」を正面から。「知覧町護国神社」を横から。石段の上に本殿が。1869年創建。1955年に現在地に遷座。祭神は戊辰戦争から第2次世界大戦までの知覧町出身の戦没者。社殿は鉄筋コンクリート造で屋根は朱塗り。「至純」碑。内閣総理大臣・小泉純一郎揮毫。歌碑が二基。「飛び立ちて生きて返らぬ若わしの み霊守らせ平和観音」「玉砕のみ霊なぐさめとこしえに 守り給へや平和観音」「戊辰戦争記念碑」「戊辰戦争記念碑江戸時代から明治時代への変遷の過程で行われた政府軍と旧幕府軍との内戦(1868-1869)において、知覧から出征した兵士の記念碑である。石碑には、兵士の名前が刻まれている。」。「日清戦争記念碑」。「日清戦争記念碑日本と清国の間で行われた戦争(1894-1895)において、知覧から出征した兵士の記念碑である。石碑には、兵士の名前とともに戦勝を称える文章も刻まれている」。「日露戦争記念碑」。「日露戦争記念碑日本とロシア帝国の間で行われた戦争(1904-1905)において、知覧から出征した兵士の記念碑である。石碑には、兵士の名前とともに戦勝を称える文章も刻まれている.」「西南戦争慰霊碑」。近づいて。「招魂塚」と。「西南戦争慰霊碑明治政府に対して、鹿児島の西鄕隆盛らが起こした日本国内最後の内乱(1877)において、知覧から出征して戦死した兵士の慰霊碑である。」巨大な水盤。石灯籠群。ズームして。「知覧特攻基地を偲ぶ一コマ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.22
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「大井町線」の「等々力駅」で下車し5分ほど歩くと「等々力渓谷」の入口に到着。左手の小さな広場に「等々力渓谷」案内板が。「ゴルフ橋」碑。「等々力渓谷 東京都指定名勝等々力渓谷は、武蔵野台地の南端を谷沢川が侵食してできた、延長約1krnの東京23区内唯一の渓谷です。東急大井町線の等々力駅から南に歩いて3分ほどの、谷沢川に架かる「ゴルフ橋」脇の階段を下りると、下流に向かって谷沢川沿いに散策路があります。夏でもヒンヤリとした渓谷内はケヤキ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラなどの樹木が鬱蒼と茂り、川のせせらぎや野鳥の声が聞こえ、渓谷のいたる所から水が湧き出て、都会とは思えない自然に触れることができます。散策路を下流に進み、玉沢橋(環状8号線)を超えると、古墳時代末期から奈良時代の頃の横穴墓である「等々力渓谷3号横穴」があります。さらに、渓谷の南端には日本庭園・書院や桜の名所として知られる等々力不動尊があります。不動尊から渓谷に下りた所に「不動の滝」があり、古来から今日まで滝に打たれて行をとる人々が各地から訪れています。「等々力」の地名は、渓谷内の「不動の滝」の音が響き渡り「轟いた」ところからついた、との言い伝えがあリます。」この日の気温はこの場所が8.8℃、渓谷内が8.8℃との表示が。「等々力渓谷等々力渓谷は、国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する約一キロメートルの都区内唯一の渓谷である。谷沢川が国分寺崖線に切れ込んで浸食したもので、台地と谷との標高差は約一〇メートルある。渓谷の斜面には、武蔵野の代表的な樹木であるケヤキをはじめ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラ、イロハカエデなどとともに、常緑シダ類のような湿性植物が繁茂しており、渓谷内には至るところから湧水の出現が認められる。玉川全円耕地整理組合が、昭和五年から十三年にかけて谷沢川の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内は殆ど人の立ち入ることも稀で、雉などの鳥類や、イタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫であった。都区内とは思えないほどの鬱蒼とした樹林と渓谷美は、幽邃(ゆうすい)な景観を呈し、武蔵野の面影をよく残している。東京を代表する自然地理的名勝として貴重であり、植生学、地質学及び地形学上重要である。また、等々力渓谷には谷間の崖地に横に穴を掘って造られてた野毛地区の有力な農民の墓である横穴があり、これまでの調査で三基の横穴が発見され、現在は三号横穴が完全な形で残っています。等々力渓谷は、東京二十三区内で唯一の渓谷として知られています。ここはかつて、九品仏川とぶつかった谷沢川が河川の争奪現象により水量を増し、その激しい浸食作用によって形成された渓谷で、深い谷地形は現在も概ね自然の状態で残されています。そのため、武蔵野台地の地形や地質を学ぶ上では大変貴重な場所となっており、斜面地に数多く分布する湧水地は、「東京の名湧水五十七選」にも選定されています。渓谷の急峻な斜面には近年の開発から難を逃れた樹林が広がり、東京区部とは思えない幽邃な景観を呈しています。これらの植生は過去に農業の営みの中で利用されていましたが、その利用がなくなった現在では遷移が進んで自然の植生が回復してきています。一方、渓谷と人々のつながりは横穴古墳の築造に始まり、その後神聖な滝によって多<の人の信仰を集め、村の雨乞いのための水取り場となるなど、暮らしの中に深<関わる場所でもありました。これら優れた自然環境と歴史的背景を持つ等々力渓谷は、等々力不動尊とともに人々の知るところとなり、今では東京の名所として数多くの人が訪れる場所になっています。そして、平成十一年三月、風致景観・名所・学術の面で高く評価された等々力渓谷は、東京都指定名勝として文化財の指定を受けました。世田谷区は、「等々力渓谷名勝区域保存管理計画」を策定し、等々力渓谷公園の整備をはじめ、渓谷の環境を将来にわたり守り伝える取り組みを進めています。」「等々力渓谷公園」碑の横に「等々力渓谷」への階段が。「等々力渓谷公園」碑。真っ赤な「ゴルフ橋」。「ゴルフ橋東急大井町線の等々カ駅近く、等々カ渓谷入口にある橋は、「ゴルフ橋」と呼ばれています。これは、昭和の初め頃、旧下野毛に東急電鉄が開発した約8ヘクタールの広大なゴルフ場があったことに由来しています。現在の橋は昭和36年(1961年)に架けられたアーチ鋼橋で、それ以前は木橋でした。」「地形・地質等々カ渓谷は、武蔵野台地の南端に位置しており、この台地面を浸食して形成された開析谷です。渓谷沿いには、武蔵野台地を特徴づける地層断面がよく観察できる箇所があリます。地質の分布状況は、下から、台地の基盤である上総層群の高津互層(泥岩層)、その上に堆積する渋谷粘土層、武蔵野礫層、武蔵野粘土層、東京軽石層、ローム層(武蔵野口一ム層、立川口一ム層)の順にほぼ水平に堆積しています。また、渋谷粘土層と武蔵野礫層の間からは、湧水が多く見られます。」「等々力渓谷と周辺のご案内」。「谷沢川(やざわがわ)」に沿った遊歩道を上流に向かって進む。「植生等々力渓谷の植生は、武蔵野台地の崖線の潜在自然植生とおの工なの当在自然植生と考えられるシラカシ群集ケヤキ亜群集であリ、大径木を主体とした樹林地が渓谷の斜面に沿って連続しています。崖線の斜面部分には、主としてシラカシやケヤキ、ムクノキが、斜面地上部や台地面にはイヌシデやコナラが多く分布しています。また、湧水が流下する緩斜面には、セキショウ草地が見られ、湧水が溜まる場所には湿生植物が点在しています。」石橋を渡り、「谷沢川」を左に見ながら進む。この辺りには紅葉している木々の姿はなく、常緑樹が多かった。案内板。「環八通り」の「玉沢橋」の下を潜る。さらに遊歩道を進んで行った。「玉川野毛町公園・野毛大塚古墳」方面への階段が右手に。左手にあった「等々力渓谷3号横穴」に向かう石橋を渡る。「野毛大塚古墳(東京都指定史跡)等々カ渓谷近くの玉川野毛町公園内にある野毛大古墳は、現在の大田区から世田谷区にかけて展開する荏原台古墳群のひとつ、野毛古墳群の中心となる5世紀初頭に築かれた大形の帆立貝形古墳です。帆立貝形古墳とは、前方後円墳の前方部が小さくなり、上から見たときに帆立貝のような形に見える古墳を言います。古墳の規模は、周濠を含め全長104m、墳丘長82m、後円部直径68m、高さ10m、前方部幅28mで、前方部の脇に造出部がひとつあります。墳丘上からは、4基の埋葬施設が確認され、多くの武具等が発見されました。前方部と造出部は削られていましたが、現在は復元整備されています。古墳の主は、出土した副葬品などから、当時の政治の頂点であった畿内王権と直接的な交渉があったことがうかがえ、南武蔵(現在の東京都と神奈川県の川崎市、横浜市の一部)の小豪族たちの上に立つ大首長であったと考えられています。等々カ渓谷とその周辺には、等々カ渓谷3号横穴、この野毛大塚古墳、御岳山古墳(等々カ1-18 )、狐塚古墳(尾山台2-17)、などの遺跡が国分寺崖線沿いに分布しています。」広場の時計は9:20過ぎ。「等々力渓谷公園等々カ渓谷、武蔵野台地の南端に位する延長約1kmの渓谷です。谷沢川が多摩川と合流する手前で、多摩川が形成した河岸段丘、いわゆる国分寺崖線の浸食によってできた、東京都区内でもめずらしい渓谷として知られています。「等々力」の地名は、渓谷内の「不動の滝』の音が響き渡り「轟いた』ところからついた、との言い伝えがあります。滝の上部には、平安時代に役の行者の霊場とされた等々力不動尊があり、かってはこの滝にうたれて行をする修行僧が各地から訪れたといいます。渓谷内には、「等々カ渓谷第3号横穴古墳』があります。これは谷沢川の東斜面の崖に群集している横穴のひとつで、古墳時代末期から奈良時代のものと推定されています。この渓谷は、昭和8年( 1933年)、国から風致公園として指定されました。世田谷区では、昭和49年( 1974年)に渓谷の河川と斜面地の一部を風致公園として開園しました。等々カ渓谷では、四季折々の多くの植物や生物を見ることができ、都会とは思えないような自然に触れることができます。」トイレのある広場の周囲には紅葉を始めた木々の姿が。「等々力渓谷」案内板。「等々カ渓谷は、武蔵野台地の南端を谷沢川が浸食してできた、延長約1 kmの東京23区内唯一の渓谷です。東急大井町線の等々カ駅から南に歩いて3分ほどの、谷沢川に架かる「ゴルフ橋」脇の階段を下リると、下流に向かって谷沢川沿いに散策路があります。夏でもひんやりとした渓谷内はケヤキ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラなどの樹木が鬱蒼と茂り、川のせせらぎや野鳥の声が聞こえ、渓谷のいたる所から水が湧き出て、都会とは思えない自然に触れることができます。散策路を下流に進み、玉沢橋(環状8号線)を越えると、古墳時代末期から奈良時代の頃の横穴基である「等々カ渓谷3号横穴」があリます。さらに、渓谷の南端には日本庭園・書院や、桜の名所として知られる等々力不動尊があります。不動尊から渓谷に下りた所に「不動の滝」があリ、古来から今日まで滝に打たれて行をする人々が各地から訪れています。「等々力」の地名は、渓谷内の坏動の滝」の音が響き渡り「轟いた」ところからついた、との言い伝えがあリます。等々力不動尊の敷地を含む、渓谷一帯の約3.5ヘクタールの区域は、平成11年3月に東京都文化財保護条例によって「名勝」の文化財指定を受けました。」現在地はここ。「等々力渓谷3号横穴(東京都指定史跡)渓谷の東側崖面では、古墳時代末期から奈良時代にかけて構築された横穴墓が6基以上発見されています。中でも昭和48年(1973年)に発見された3号横穴は、典型的な横穴墓の形態を留めていて、埋葬人骨や副埋葬品も良好であったことから保存処置が講じられました。横穴基は奥行き約13mで、内部は徳利を半分に割ったような形をしています。玄室(遺体の安置場所)と羨道(せんどう)からなる基室と、これに至る墓道に分かれており、この間を凝灰岩で組まれた羨門で区画しています。横穴基からは、須恵器の平瓶、横瓶、刀子、金銅製耳環、などが出土しました。本横穴群の被葬者たちは、いずれも副葬品が豊富なことから、後の武蔵国荏原郡の等々カ周辺を治めていた有力者であると推定されています。」「等々力渓谷横穴墓群」案内板。「都史跡 等々力渓谷3号横穴等々カ渓谷の周辺では野毛大塚(玉川野毛町公園内)、御岳山、狐塚などの古墳群が造られた後、古墳時代末から奈良時代( 7 ~ 8世紀)にかけて横穴群が造られるようになります。等々カ渓谷横穴群は野毛地域の有力な農民の墓で、これまでに3基の横穴が調査され、現在は3号横穴が完全な形で残っています。横穴は谷間の崖地に横に穴を掘って造られていて、玄室と羨道で構成されています。泥岩の切石でふさがれた玄室の床には河原石が敷かれ、3体の人骨とともに1対の耳環(イヤリング)と土器が副葬されていました。その前面には斜面を切り通して造られた隣道が延びています。ここには土器が供えられたり、火を焚いた跡があり墓前祭が行なわれたことがわかります。」「3号横穴墓」の前で祈る姿が絵になっていた。「都史跡 等々力渓谷3号横穴」。ズームして。「等々力渓谷1号・2号横穴跡」案内板。第1号、第2号も発見されていますが現在、ほぼ完全な形で保存されているのは上の写真の第3号のみとのこと。「等々力渓谷2号横穴跡」碑。2号横穴から出土した土師器は、当時都であった大和(奈良県)で使われていたもので、この横穴に葬られた人物が、都(みやこ)に遥役(ようえき)で働きに行ったことが推定される貴重な資料であると。「等々力渓谷1号横穴跡」碑。 ・・・つづく・・・
2021.12.21
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「八代城跡」を楽しんだ後は、この日の次の目的地の鹿児島県南九州市知覧町にある「知覧特攻平和会館」を目指してひたすら南下する。時間の関係上、高速道路の「九州縦貫自動車道」を利用するために「八代IC」に向けて国道3号を進む。現役の頃、何度となく訪れた日本製紙(株)八代工場の大きな煙突が見えた。昔は十條製紙(株)であったが1993年(平成5年)に山陽国策パルプ(株)と合併し、日本製紙(株)に。そして2003年(平成15年)に日本製紙(株)と大昭和製紙(株)が正式に合併し「新生」日本製紙が誕生したのであった。そして八代ICから九州縦貫自動車道に入る。鹿児島、宮崎方面に向かって進む。トンネルの多い九州縦貫自動車道を進んでいくと、「えびのPA」の先で前方に「霧島錦江湾国立公園」にある「夷守岳(ひなもりだけ)」の姿が現れた。夷守岳(標高: 1,344mは、宮崎県小林市の南西部にある山で、霧島山の北東端に位置している。山麓から見上げると裾野を広げた雄大な山容で、生駒富士とも呼ばれている。山全体が深い緑に覆われており、霧島山の中にあっては、ひときわ目立つ存在の山である。そしてその右手には甑岳(こしきだけ 1301m)、韓国岳(からくにだけ 1700.3m)、えびの高原、白鳥山(しらとりやま 1363m)の姿が。「えびのJCT」を直進して鹿児島方面へ。更に南下していくと、左手前方に「鹿児島空港」の「ドップラーレーダー」が見えて来た。そして「桜島」が姿を現した。「桜島」をズームして。「加治木JCT」手前からの鹿児島県姶良市の山々。鹿児島湾(かごしまわん)の姿が。鹿児島湾は、鹿児島県の薩摩半島と大隅半島に挟まれた湾。鹿児島県では錦江湾(きんこうわん)の名称で古くから呼称されている。そして再び桜島を、噴煙も確認できた。「高倉展望台」が山の上に。標高125mの高台から眺めると、スケール感のある風景がひろがっていると。山側の緑、活気を感じる加治木の街並み、錦江湾、桜島が一枚のフレームにすっきりと収まるのだと。こんな光景が見えると、ネットから。 【https://www.pref.kagoshima.jp/an01/2013hp/airashisyashin.html】より桜島をカメラで追う。「九州自動車道」の鹿児島料金所を通過。そして指宿スカイライン指宿有料道路の山田料金所を通過。南薩縦貫道を進み「南九州知覧IC」から一般道を東に進む。そして「南九州市コミュニティセンター 知覧文化会館」前の駐車場に車を駐めて散策開始。時間は15:23過ぎ。最初に訪ねたのが「ミュージアム知覧」。「ミュージアム知覧」案内板。「ミュージアム知覧」では,「交錯する文化の波」をテーマにして、音や映像で楽しむシアターや比較民族、武家屋敷、知覧城跡、薩摩のかくれ念仏などについて、わかりやすく紹介していた。まずは「続日本百名城 知覧城」のスタンプを頂きました。「知覧特攻平和会館」を訪ねた。ここを訪ねるのは今回で3回目。「ミュージアム知覧」とのセット券を購入し入館。ここロビーと「零式戦闘機展示室」のみ撮影可能なのであった。「知覧鎮魂の賦」紅蓮の炎をあげて燃える隼の機体から特攻隊員の魂魄を6人の飛天(天女)が救い出し昇天させる姿を表したもの。(高さ3メートル幅4.4メートルの信楽焼陶板壁画) 宮崎市/仲矢勝好氏画。「特攻平和会館についてこの特攻平和会館は、太平洋戦争の末期、沖縄決戦において、特攻という人類史上霊を見ない作戦で、爆弾搭載の飛行機もろとも肉弾となり、一機一艦の突撃を敢行した多くの特攻隊員の遺品や関係資料を展示しています。私たちは、特攻隊員たちの崇高な犠牲によって生かされ、国は繁栄の道を進み、今日の平和日本があることに感謝し、特攻隊員のご遺徳を静かに回顧しながら、再び日本に特攻隊をつくってはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解、ご協力と、関係者の方々のご協力、ご支援で展示しています。特攻隊員たちが帰らざる征途に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであっただろうと思います。この地が特攻隊の出撃基地であったことにかんがみ、雄々しく大空に散華された隊員の慰霊をとこしえに顕彰し、当時の真の姿、遺品、記録を後世に残し、恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ、ここに平和会館を建立した次第であります。」「平和の世界へ」。満開の桜並木の奥に知覧特攻平和会館や開聞岳、太陽が配置さらその上に特攻機が飛ぶ様子が描かれた影絵。(レプリカ)作者「藤代清治」氏が知覧を訪れ構想を練り、特攻戦死した友人を思い制作し2016年7月に完成した作品。作品は、会館につながる満開の桜並木や薩摩半島南端にある開聞岳の上で、特攻機が飛ぶ様子を描いたもの と。高さ1.8m、横2.2mで裏側からLED照射。頂いたパンフレット(表)。「知覧特攻平和会館」は第二次世界大戦末期に編成された大日本帝国陸軍航空隊の特攻に関する資料を展示している。写真、遺書などの遺品約4,500点、特攻隊員の遺影1,036柱などが展示されている。その展示されている遺影、遺品の多くは、知覧特攻平和会館初代館長板津忠正(元特攻隊員)が集めたものである。また、知覧特攻平和会館が建てられている場所とその周辺は、知覧平和公園として整備されている。頂いたパンフレット(裏)。館内平面図。ロビーの壁にも多くの展示品が掲げられていた。まずは「零式戦闘機」展示室へ。この零戦は、昭和20年5月鹿児島県甑島の手打港の沖約500m、水深約35mのところに海没していたものを知覧町(当時)が昭和55年6月に引き揚げたものであると。機体は35年間海中にあり、腐食が進んだ姿だが、往時をしのぶ姿をとどめているのであった。機体は旧海軍の零式艦上戦闘機52丙型で、20ミリ機銃2門、13ミリ機銃3挺を装備していた と。正面から。プロペラはハミルトン定速3翅 直径3.05mであると。全幅:11.0m 全長:9.12m 全高:3.57m 自重:1,970kg 正規全備重量:2,955kg最高速度:560.6km/hr(高度6,000m)航続距離1,920km とウィキペディアより。プロペラ用の発動機は栄二一型(離昇1,130hp)。曲がってしまっているプロペラ(紫電改)紫電改(しでんかい)は、太平洋戦争期における大日本帝国海軍の戦闘機である。紫電(N1K1-J)の二一型以降が紫電改と呼称される。局地戦闘機紫電は、水上戦闘機「強風」を陸上戦闘機化したもので、紫電二一型は強風にちなんだ中翼配置の紫電を低翼に再設計した機体であり、紫電改は新機軸の設計(自動空戦フラップ、層流翼)が特徴であった と。零戦の模型。「海軍 零式艦上戦闘機この飛行機は、旧海軍の主力戦闘機として使用されていた零式鑑上戦闘機52丙型です。鹿児島県の甑島(薩摩川内市)の手打港沖合に、昭和20 ( 1945 )年5月にエンジントラブルによって不時着水し、水深約35mの海底に沈んでいたもので機体の前方部分だけが残っています。昭和55 (1980)年6月、知覧町(現.南九州市)によって35年ぶりに引き揚げられました。」機体の前方部分。前翼。後方から見る。陸軍乙式ー型偵察機、陸軍中島式五型練習機のプロペラも展示。「陸軍乙式ー型偵察機全幅: 11.767 m 全長: 8.624m 全備重量:1500kg 乗員: 2名最大速度: 182km /時 実用上昇限度: 5800m 機銃: 7. 7mm銃X2発動機:サルムソン9Z水冷式星型9気筒230HPプロペラ:レジー木製2翅」「陸軍中島式五型練習機全幅: 12.85 m 全長: 7.60m 自重: 780 kg 搭載量: 350kg 乗員: 2名発動機:ホールスコットA・5水冷直列6気筒 150HP」「131ミリ機銃」。工具箱。20ミリ、13ミリ機銃。20ミリ、13ミリ機銃を正面から。反対側にも。子供たちの多くの願いが。映画「ホタル」のポスター。平成13年夏に上映された「ホタル」は、生き残った元特攻隊員とその妻(高倉健、田中裕子)を通して、観る人に特攻の人たちの思い、相手を思いやる夫婦の愛情などを伝える映画。「俺は、君のためにこそ死ににいく」。そして次に「遺品室」👈リンク へ。以下の展示室は撮影禁止ですので「知覧特攻平和会館」のフロアページにリンクさせていただきました。ここには、陸軍沖縄特攻作戦で亡くなられた1,036名の隊員の遺影が、出撃戦死した月日の順に掲示されていた。また、立体ケースには家族・知人に残した遺書・手紙・辞世・絶筆などが展示。その他にも、陸軍一式戦闘機「隼」や、鳥浜トメさんをはじめとする生き残った人たちの証言映像「残された者から」、当時の知覧飛行場を再現した模型「知覧の空」、当時の様子が記録された映像「出撃から突撃」などがあった。「疾風展示室」👈リンク 「戦史資料展示室」👈リンク 「企画展示室」👈リンク 「震洋艇展示室」👈リンク「知覧特攻平和会館」を後にして、特攻資料で最も心に響いたことの一つとして、数え切れない数の遺書・手紙類が保存され、そしてそれらが愛する者・家族等へ送られたということ。驚くべきことに、遺書・手紙類の多くが前向きな内容のものであり、愛する者の幸せを願ったものや、過去を(そして隊員の死を)振り返らないで立ち止まらないでほしいといったもの。彼らは、自分自身の勇敢さと国を想う精神が導く天国の存在を心から信じている、と語り綴っていたのであった。これらの美しくも悲劇に満ちた遺書・手紙類の存在、そして、すべての特攻隊員は、抱えている境遇も個性も異なるということ.。そして全てが想いの籠もった達筆なのであった。「知覧特攻平和会館」は戦争のこうした側面を明確に教えてくれる意義深い場所であったのだ。犠牲になられた全ての兵士たちが永久に平和の中で安らかに眠り、残された者たち、子供たちが永久に平和な世の中で生きて行けることを祈るのみであった。合掌!! ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.21
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昨夜12月19日(日)は今年最後の満月で、2021年の中で、地球から最も遠い満月でもああったのだ。農事暦(The Old Farmer's Almanac)によると、アメリカでは12月の満月を「コールドムーン(Cold Moon/寒月)」と呼ぶとのことです。「12月の満月は、2021年に起きる満月としては最も遠い位置にあります。月は一昨日12月18日(土)11時15分に遠地点(地球から最も遠ざかる点)を通過し、昨日19日(日)13時36分に満月となります。満月のときの地心距離(地球の中心と天体の中心の間の距離)は約40万6000キロメートル、月の視直径(角度で表す天体の見かけの大きさ)は29分26秒角です。2021年で最も近い満月は5月26日でした。その時の満月と比較すると、視直径は約12%小さく、約22%暗くなります。直接並べての比較はできないため、差は分かりづらいですが、しっかり防寒をして今年最遠の満月をお楽しみください。」とネットには。 【https://weathernews.jp/s/topics/202112/180175/】より日本でも「寒月」との呼び名が付けられているのだと。---------------------------------------------------------------------------------------「開山堂」の前の庭の紅葉を楽しむ。奥に「仁王門」の大きな屋根が。「東門」が見えた。「東門」の先にも銀杏の樹の黄葉が。「開山堂」の「中門」から「参道」の紅葉を見る。総門への参道を見る。そして「東門」に向かって進む。「東門」手前右の紅葉。そして「東門」を潜り正面に。右手に「九品佛浄真寺東門」と。扁額には何と書かれているのであろうか?『釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心』であろうか。意味は『 お釈迦様が説法を説く所であり、ここが極楽の東門の中心である』「東門」から境内の紅葉、「仁王門」を見る。「御簾垣(みすがき)」の奥の銀杏の黄葉。「延命地蔵」が載っている江戸十夜講の「三界万霊塔」を垣間見る。別の角度からも。そして「総門」に向かって進む。この光景が「浄真寺」の紅葉のBEST ANGLEか?再び陽が射して。「閻魔堂」右手の「三途の川」。これぞ「照紅葉(てりもみじ)」。紅葉をあらわす言葉にどんなものがあるか? を「ネット」👈リンクで調べてみた。以下は文学作品などにも登場する紅葉をあらわす言葉 とのこと。・野山の錦 野山の錦とは、紅葉によって野山が色とりどりに染まった豪華さを「錦」という言葉に 置き換えた表現です。錦とは、何色もの色を使って美しい紋様に仕上げた絹織物となります。 紅葉にはさまざまな色合いや状態がありますが、野山の錦は、どちらかと言えば織物のような ゴージャスさをあらわす言葉とされています。・紅葉の帳(とばり) 一面に染まった紅葉を、「帳」に見立てた言葉です。外からの目隠しに使われる帳は、 「几帳」として平安時代の文学によく登場します。当時は目隠しの他に間仕切りをする レースカーテンのような役割だった帳ですが、紅葉を組み合わせることで一気に豪華な雰囲気の 言葉に変わります。・名木紅葉 庭園や城址(じょうし)などにある紅葉の美しい木々の総称です。例えば、黄色く紅葉 している銀杏の大きな木などにも、名木紅葉という言葉は使えます。また、漆や柿、 櫨(はぜ)といったさまざまな紅葉がある場所で、それらをひとまとめにする意味で 名木紅葉という表現を選ぶこともあります。・谿紅葉(たにもみじ) 「たにもみじ」と呼ぶこの言葉は、その名のとおり紅葉で彩られた谷の風景をあらわします。 ちなみに、紅葉が深く美しく色づくには、十分な日当たりのほかに夜間の冷え込みや適度な 水分の3条件が必要とされています。そのため、川や滝沿いに色づく谿紅葉は、普通の公園の 紅葉と比べて濃淡が強く出やすい傾向があります。・庭紅葉 紅葉で彩られた庭を指す表現です。庭紅葉があらわす光景には、赤や黄といった秋らしい 色合いのほかに、初秋の青々としたモミジの繊細な姿もあるとされています。 そのため、庭紅葉には、時期や色を気にすることなく使える自由度があります。 また、自宅の庭にある小さな秋の光景を、庭紅葉という言葉で表現してみてもいいでしょう。・紅葉筵(もみじむしろ) 「もみじむしろ」と呼ぶこの言葉は、落ちた紅葉が地面を埋め尽くす光景を「筵(むしろ)」に 見立てています。この時期になると、朝晩もぐっと冷え込むようになり、SNS上でも紅葉の 写真がかなり少なくなってきます。 ですが、近所のお散歩などで岩肌や地面を覆うモミジの葉などを見つけたら、紅葉筵という 言葉を使ってみんなに静かな秋の美しさを伝えてみてもいいでしょう。・錦秋 最初に紹介した「野山の錦」とよく似た表現です。こちらも、やはり山々などが華麗な織物を まとったような光景を意味します。紅葉狩りに出掛けた山々が一面の紅葉になっていたときには、 「山は錦秋の装い」と形容します。ちなみに岩手県には、紅葉が非常に美しい「錦秋湖」が あります。・照紅葉(てりもみじ) 美しく照り輝く紅葉を、照紅葉といいます。もともと「照る」とは、月や太陽などが光を放つ ことをあらわす言葉です。 例えば、早朝に紅葉スポットの散策などをしていると、朝日が上がると同時に木々が自らの力で 輝く光景に出会えます。こうしたときに撮影した写真に、照紅葉と名付けてあげると いいでしょう。・落葉舟 落ちた紅葉の葉っぱが、水面に落ちて小舟のように浮かぶ様子をあらわす言葉です。 「紅葉の筏(いかだ)」や「木の葉の舟」なども落葉舟と同じ意味の表現となります。 11月下旬ぐらいになると山々も寂しい季節になりますが、先ほど紹介した紅葉筵や落葉舟を 使えば、違った形で草木の趣を表現できると思います。・初紅葉 その年、赤や黄色に色づいた紅葉を初めて見るときに使う表現です。 「初」という漢字が、ようやく紅葉に出会えた喜びを伝えてくれる言葉になっています。 今年初の紅葉狩りに出掛けたことをブログやSNSなどに投稿するときには、初紅葉をタイトルに 使ってみるといいでしょう。・冬隣 冬がすぐ近くまで来ている晩秋に使われる表現です。この言葉に合う紅葉とは、地面に落ちて しばらく経ち、赤や黄などの色もすっかり抜けてしまった枯れ葉になります。 どんぐりなどの木の実と枯れ葉のコラボレーションも、冬隣という表現が非常にマッチする 光景です。赤い衣装を纏った地蔵を追う。紅葉鑑賞もあと数日か?そして「総門」を抜けて「浄真寺」を後にする。陽光に輝く「浄真寺」の今年の紅葉も見納め。学友のオススメでパン屋さん・「Comme'N TOKYO」に立ち寄ったが、長い列が出来ていたので諦めたのであった。「Comme'N TOKYO」前から「玉川警察署 九品仏交番」を見る。 ・・・おわり・・・
2021.12.20
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手前の「小天守」、その先の「大天守」下の石垣を見る。「八代城 小天守跡」をネットから。 【https://yakushoudou.com/nishiyama/2017/04/07/yatusirojouato/】より「大天守」の石垣の上にも白い柱が立っていた。ズームすると「天皇陛下御展望之跡」の記念碑。右手にも白い柱の姿が。お堀の水面に映る石垣、メタセコイアの黄葉を楽しむ。「八代城跡 大天守跡」碑であることをネットで知ったのであった。【https://kakutaxi.com/%E5%85%AB%E4%BB%A3%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E5%85%AC%E5%9C%92/】より「大天守」、「小天守」下の石垣を見る。大天守は4階建てに地下1階の5階構造であった とCGより。 【https://sh.higo.ed.jp/yatuths/matsuejyou/】より。県道42号線と県道250号線との交差点「松江城前」を渡ると左手にあったのが「お祀りでんでん館」案内板。「松江城前」とは江戸時代初期に球磨川河口の松江に幕府の許可を得て建築されたことから松江城(現八代城趾)とも言うのだと。八代地方には中世以後大小多数の城塞が築かれたが、松江城以前に存在した古麓城と麦島城も八代城と呼ばれてきた。これらは同時期には存在しておらず、三つの城はそれぞれ築城地の具体的な地名を名前の由来にしており、松江にあった城を松江城、古麓にあった城を古麓城、麦島にあった城を麦島城と呼んでいるのだと。「お祭りでんでん館」の正式名称は、「八代市民俗伝統芸能伝承館」。八代市に残る多様な民俗文化財の保存継承と魅力を発信するとともに、祭りや伝統芸能を支える後継者育成の場としての役割がある。お祭りの躍動感を、向かい合う、うねる大きな屋根によって表現。「お祭りでんでん館」には八代妙見祭や神楽、棒踊り、女相撲など市内各地に伝承する民俗文化財の魅力を紹介する展示棟の他、妙見祭に登場する獅子や笠鉾など大切な文化財を適切な環境で保管するための収蔵棟、祭りや伝統芸能の練習の場として活用できる伝承ルーム及び、会議室を備えた一般の方も有料で利用できる会議棟がある。そしてその隣りにあったのが「八代市立博物館未来の森ミュージアム」。令和3年10月22日(金曜日)~11月28日(日曜日)の日程で秋季特別展覧会「妙見信仰と八代」が開催されると。マスク姿のくまモン。読んでいる巻物には「はくぶつかんのひでんのしょぼくといっしょに写真をとると うしろに、うつるたてものははねをのばした鳥のようにみえるよ!おうちにかえったら、かならず、手をあらおうね!」と。巨大なマスクをして。「八代市立博物館 未来の森ミュージアム各種展覧会のほか、八代の歴史・文化、生活を考古・民俗・美術工芸などの視点から紹介し、松井文庫所蔵品などの研究をおこなう施設として、1991年に竣工・開館。くまもとアートボリス事業で、世界的に著名な伊東豊雄建築設計事務所が手掛けた。伊東氏にとって初の公共建築で、かつ建築活動の転機となったばかりでなく、建築界にも衝撃を与えた作品。周辺の豊かな緑に配慮し松濱軒との調和を図り、水の豊かなさわやかな八代の風土に応えつつ、公共建築をいかに開放するかに取り組んだ。鉄筋コンクリート造一部鉄骨造の4階建てであるが、一般に閉鎖的になりがちな展示室がある1階は、芝生のマウンドにより前面道路の視点から隠される。この人工の丘の上に、ステンレスシートの波打つヴォールト屋根とガラスの開放的で軽やかなエントランス、カフェが、ふわりと配置され、丘の斜面に浮かぶ弧を描くスロープが、工ントランスへと導く。丘の上から松濱軒を眺めると、中心市街地にいることも忘れさせる。こうした外構と建築の不可分な解決が、秀逸なランドスケープ・デザインとしての建築を生み出している。また同しく閉鎖的になりがちな収蔵庫は、博物館の象徴として、宇宙船のように屋根の上に持ち上げられる。この作品が、伊東氏の市内4作品の最初となった。」丘の奥に立つメタリックな外観が目印の博物館・「八代市立博物館未来の森ミュージアム」。熊本県八代市西松江城町12-35。常設展示では、八代城主を勤めた松井家伝来品や、八代焼(高田焼)や肥後鐔、宮地和紙、染韋(そめかわ)などの美術工芸品、古墳や城跡からの出土品、妙見祭資料、八代城跡模型、各時代の歴史資料など、過去から現代に至る八代の歴史と文化をさまざまな角度から紹介しています。古文書講座や各種体験講座の開催、市民の作品発表の場としても利用されています。この日は月曜日で休館日であることは、事前に旅友のSさんが調査済みで、警備室前で押印が可能とのことであった。警備室入口でスタンプをいただく。「続日本百名城 八代城」のスタンプを頂きました。「続日本百名城 八代城 認定書」。オキザリスのバリアビリスホワイトであろうか。花径3㎝程の大カタバミ、花色は白で中央が黄色。この彫刻の題名は、作者は?この彫刻の題名は、作者は?県道42号線の向こう側の八代市立図書館敷地にあった巨大な石碑。そして前方に 本丸南側の石垣と堀。その先には橋が見えた。「大天守」石垣の角の見事な算木積みが確認できた。この天守台に五層の天守が建っていたのだ。寛文12年(1672)落雷により天守・櫓・長塀を焼失。小天守以下の建物は再建されるが大天守は再建されなかったのだ。西側の石垣、堀を振り返る。「北参道神橋」。堀に架かる「北参道神橋」は城内に八代宮が建てられたのにともない、参道として架けられたものである と。「北参道神橋」の左側の堀を見る。「廊下橋門」跡。「八代城 廊下橋門」碑。「平成28年熊本地震で被災した国指定史跡「八代城跡」本丸の石垣と保存修理作業」の案内板。近づいて。「平成28年4月14日(前震)・16日(本震)に発生した平成28年熊本地震により、八代市は前震時に震度5強、本震時に震度6弱の揺れに襲われ、多くの文化財が被災しました。国史跡「八代城跡群 古麓城跡 麦島城跡 八代城跡」の一つである八代城跡では、本丸北側の廊下橋門付近の石垣が崩壊しました。14日の前震で石垣の一部が大きく孕み、16日の本震で石垣北面の一部が崩壊、19日夕方の震度5強の余震で西面の石垣まで崩壊が進みました。石垣の崩壊を受けて、史跡「八代城跡群」の管理団体である八代市は石垣の保存修復作業を進めることとなりました。保存修復にあたっては、文化庁及び熊本県教育庁の補助を受け、保存修復作業を行いました。本丸は水堀に囲まれているため、仮締切の堤防を設けて崩壊状況の調査と記録を作成した後、崩落した石材を全点取り上げました。崩壊前の石垣の図面や写真に基づいて全ての石材の元の位置を確認するとともに、割れて使用できなくなった石材の保存処理や新材への置き換えなどを行いました。ここに展示している2つの石材は、崩落時に割れてしまい積み直しに適さなくなった石材です。今回の石垣の保存修復は被災前の状況を可能な限り復元することを目的としているため、石垣の裏側の構造を明らかにするための発掘調査も実施しました。発掘調査で得られた様々な情報や、被災前の石垣の実測図や記録写真、城郭の専門家のアドバイスに基づき、可能な限り被災前の石垣の状況を復元しました。なお、今回の石垣の保存修復にあたり、所有者である八代宮のご協力はもとより、白鷺電気工業株式会社、大阪船場ロータリークラブ、八代南ロータリークラブ等、市内外の方々から多くのご寄付をいただきました。ここに記して感謝申し上げます。平成30年3月、八代市・八代市教育委員会」「平成28年熊本地震で崩壊した八代城跡本丸の石垣(仮締切の堤防設置後、ドローン撮影、北東から)」「西山宗因句碑」。「雪見よと 兼ては植えし 浦乃松」。そして県道20号線の向こう側にあったのが「松井神社」。「廊下橋門」跡、「北参道神橋」を振り返る。「肥後菖蒲(ひごしょうぶ)」堀に流れ込む清水。駐車場横のメタセコイアも黄葉を再び。「三階櫓」跡。北側の石垣、堀を見る。建設中の八代市役所庁舎を見る。そそて「北御門跡」に作られた「八代城跡公園 駐車場」に戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.20
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「本堂(龍護殿)」から外に出て手前の紅葉を見る。「仏足石」の上には落ち葉が一面に。「仏足石大聖釈尊の御入滅後、仏陀礼拝の形式として、その御足に対して、接足作礼(せっそくさくれい)により人々は衷心慕情の誠を示した。御入滅後およそ六百年、仏像が創まり、それが広範におこなわれるまでの永い年月、仏足石礼拝は重く用いられたのである。当山の仏足石の中央に千福輪相(法輪)が刻されているが、摩滅している。天保年間のもので、近年その土台を補修した。」「仁王門」と手前に「枯山水庭園」を見る。「本堂(龍護殿)」から葉を落とした銀杏の樹の方向を見る。天然記念物にもなっている境内の巨大なイチョウの樹の脇に一つ歌碑が。『掃きよせて 落ち葉焚く間も銀杏の樹 やまずしこぼす 黄なるその葉を』植松壽樹歌碑(うえまつひさきかひ)であると。大正昭和期の歌人。歌誌『沃野(よくや)』を創刊・主宰した。墓所はここ浄真寺。「都天然記念物 九品仏のイチョウ」碑。完全に葉を落とした銀杏の樹を見上げて。こちらの銀杏の樹は未だ葉を残して頑張ってくれていた。しかし樹の下には黄色の絨毯が出来かかっていたが。振り返って「本堂」を。「本堂」横の「枯山水庭園」。「赤」と「黄色」のコラボを楽しむ。「五重石塔」。左手に「鷺草園」の入口が。正面には「手水場」。真っ赤に紅葉したモミジ葉が。どなたかが写真撮影用に・・・?しかし、これぞ「落葉舟」。鷺草を詠んだ鎌倉の物故俳人・吉岡富士洞の句碑があった。『天碧き日は 鷺草の天に翔つ』。本堂の裏手に鷺草園が。池には菖蒲や水草が植栽されているのだと。右手に見えるのが「仁王門」。夏になれば、ここに可憐な白い鷺草の花が咲くのであろう。「鷺草園」の水の流れ。「仁王門」をズームして。「サギソウ(鷺草)花を見た人はきっと名前にうなずいてしまうサギソウ。花が鳥のサギが羽根を広げた様子にそっくりなのでこの名前がつきましたが、これは3枚ある花弁のうちの1枚で、ラン科植物に独特の唇弁(しんべん)とよばれるものです。がく片は緑色で3枚あり、花のうしろに長い距がつき出します。地下に小さな球根があり、花の頃から数本の匐技(ふくし)をのばし、その先新しい球茎をつくり、繁殖します。斑入りの銀河という園芸品種もあります。サギソウの自生地は、現在少なくなっていますが、おもに本州~九州の低地の湿地に生え、食虫植物のモウセンゴケ類、ミミカキグサ類などとともに生育しています。かっては世田谷区にも自生があったと言われています。花期は7月中旬~ 9月上筍で、地域によって違いがあり、南に行くほど遅くなると言われています。」「鷺草(さぎそう)について鷺草(昭和43年8月1日、区の花に指定)=[ラン科]は陽の当たる湿地原野に生える多年生草本で7~8月頃、高さ20~30センチの茎に純白の花を咲かせ、その形が飛んでいる鷺の姿に似ているところからこの名前がついたものと思われます。区内では大正の末頃まで九品仏周辺の奥沢田甫に自生し奥沢には「鷺の谷」・また地続きの目黒区自由ヶ丘には「鷺草谷」という小字の地名がありました。この鷺草にまつわる悲話もいくつか伝えられておりますのでその一つを御紹介します。「室町時代世田谷城主吉良頼康には、家臣の奥沢城主大平出羽守の娘で常盤姫という美しい側室がいて頼康の愛を一身に受けていたが、古くからいる側室達が、これをねたんで常盤が不義をしたとあらぬ告げ口をしたので遠ざけられた。悲しんだ常盤は幼い頃から愛育した白鷺の脚に遺書を結びつけ、両親の住む奥沢城に放った。たまたま奥沢城附近で狩をしていた頼康が白鷺を射落したところ脚に手紙が結んであったので開いてみると常盤の遺書であった。頼康は驚いて急いで帰館したがときすでに遅かった。白鷺の射落された場所から一本の草がはえ、やがて鷺に似た可憐な花をつけたのです。」。「鷺草園」から「参道」沿いの紅葉を見る。歩いて来た「参道」の黄葉を振り返る。束の間の日が射して。様々な形状の石が様々な向きに。「仁王門」の横の「庚申塔」・「青面金剛像」を再び。「青面金剛像」を正面から。その脇には「玻璃摩権現」と刻まれた石碑が。「仁王門」下から歩いて来た「参道」を振り返る。そして左手にある開山堂」への「中門」を潜り中に入る。「開山堂当寺開山珂碩上人のお像を安置する。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳のときのものである。この像も文化財に指定されており、万治元年( 1657年)上人が、如来のお告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運としてひろく信仰をあつめている。なお、開山堂では、上人のご命日に当る毎月七日の開山忌、に開扉して、午後一時より法要とご法話及び写経が催されており、一般の方の参加を望んている。上人は元禄7年(1694年) 10月7日、御年七十七歳にて示寂され当山の西北にその御廟がある。」「中門」を潜り左手の紅・黄葉を。左手に「手水舎」。手水舎の可憐な白き「鷺草(さぎそう)」の花。紅葉に映えて。「開山堂」には浄真寺開山珂珂碩上人のお像を安置。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳の時のものであると。この像も文化財に指定されており、万治元年(1657年)上人が、如来のお告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運としてひろく信仰をあつめている。「開山堂」の屋根上の黄金の「宝珠」。「宝珠」とは方形屋根の頂点部分や塔の頂部等に置く玉のこと。放射状の物は何を表すのであろうか?「開山堂」のそばに立つ「水子観音菩薩像」。「水子(子育)地蔵尊像建立趣旨」碑。「浄大供養 地蔵」。「三十三観音堂」前の低い石垣上に整然と鎮座する三十三躰の「舟後光型観音菩薩石仏群」。階段の反対側にも。「西国三拾三番札所供養塔」。「三十三観音堂」。扁額「観音堂」。右に「千手観音像」。左が「如意輪観音像」。この石仏は?「仁王門」方向を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.19
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「八代城跡」に鎮座する「八代宮」の散策を続ける。石鳥居とその先に「八代宮」の「拝殿」。扁額も「八代宮」。狛犬(右 阿形像)。狛犬(左 吽形像)。八代宮境内神社「霊社」太平洋戦争での八代市郡の戦没英霊三千九百十四柱を奉じている霊社。昭和二十三年四月二日奉斎。平成十年から十一年にかけて、太平洋戦争終戦五十周年記念事業として、改築が行われている。「霊社」碑。近づいて。「由緒八代宮境内神社「霊社」は、八代市郡の戦没英霊三千八百六十六柱と、職域に殉ぜられた英霊四十八柱とを合わせて、三千九百十四柱を昭和ニ十三年四月ニ日奉斎。職域に殉ぜられた英霊三楽工場 四十柱セメント工場 八柱大東亜聖戦終戦五十周年記念霊社改築平成十年五月十一日 神殿竣功平成十一年五月二十七日 幣殿 祝詞殿 拝殿 竣功」。「内陣」。右手に「海軍少将加来止男君之碑」。太平洋戦争にて、空母飛龍の艦長をつとめ、ミッドウエー海戦で戦死を遂げた方とのこと。手水舎の水盤は白い石灰岩の巨石を刳り抜いて。この時期、水の姿はなし。「皇太子徳仁(なるひと)殿下御成婚」碑。現在の天皇陛下。1993年(平成5年)6月9日に小和田雅子様(当時)と成婚された。「霊社」の右横には、菱形格子を組み入れた龍安寺垣の内側には井戸があった。その奥に「霊社」の「本殿」があった。「八代城本丸の井戸跡」碑。「本丸井戸跡」。拝殿前の右手にあった建物は?屋根のある「祓所」であっただろうか。天井の彫刻。折上げ格天井。その左横には門が。「神門(しんもん)」。そして「神門」を潜ると「拝殿」。近づいて。内陣では七五三のご祈祷が行われていた。7歳の女の子のお祝いであろう。扁額「八代宮」。「八代宮」の境内。神札所には様々な御札が並んでいた。御朱印をいただきました。頂いた御朱印に付いていた案内書。「祭神 主な年中祭祀(主神) 懐良親王 四月ニ十日 春季祭(懐良親王(かねながしんのう)獅鎮座記念日)(配祀) 良成親王 八月三日 例祭 十一月十日 秋季祭(良成親王(りょうせいしんのう)御鎮斎記念日)旧社格 官幣中社 境内神社『霊社』(戦没者恩霊社)由緒明治維新直後、征夷大将軍に懐良親王の墓が八代に決定され、熊本県、特に八代では、征夷大将軍宮をお祀りしたいとの官幤社創立熱が湧さ起こり、学者や有志らが明治政府に請願した。その結果、明治天皇の思し召しにより、明治十三年八月三日付、創立が許され、旧八代城を社地として明治十七年四月ニ十日に御祭神、懐良親王の御鎮座大祭が斎行され、同十九年十一月十日に御配祀、良成親王が鎮斎された。昭和八年は御鎮座五十年、懐良親王薨去後五百五十年にあたり、本殿等総ての建物が改築された。昭和五十九年懐良親王物鎮座百年、昭和六十一年良成親王御鎮斎百年に向けて、境内地の整備や建物の改築改修が進み、更に平成ニ年祓殿新築、平成十一年境内神社「霊社」改築、平成十四年手水舍改築、平成十五年祭器庫改築がなされた。征夷大将軍両親王の御事嘖としては、南北朝時代に九州南朝の征西府が置かれ、その大将軍に後醍醐天皇の皇子懐良親王と、後村上天皇の皇子良成親王が、ニ代その職を相続された。延元三年(一三三八)後醍醐天皇は、官軍の再興を計られ諸皇子を国に派遣された。懐良親王は、当時七、八歳の御幼少であられたが、征夷大将軍に任じられて鎮西へ下向され、幾多の辛酸を経て興国三年(一三四ニ)薩摩の津に上陸、これより三十年余りの長きにわたり吉野朝廷の回復を任とされ、九州一円を転戦された。天授元年(一三七五)征西大将軍の職を良成親王にお譲りになり、御自らは筑後の矢部に隠居され、弘和三年(一三八三)三月二十七日に◯去された。御年およそ五十五、六歳であられた。「歴代鎮西志」によれば、明徳ニ年(一三九一)「征西将軍良成親王北軍と和す」とあり、一時講和を結ばれた親王は、五条氏を頼られて筑後の矢部に赴かれ南朝の再興を図られたが、晩年の御様子は不明である。」右側にある「八代城跡公園」へ。多くの桜の樹が。「頬当御門」方向には「石垣」も見えた。神明造(しんめいづくり)であろうか。先端が「外削ぎ」の「千木(ちぎ)」と「堅魚木(かつおぎ)」もはっきりと見えた。祀っている神が女神の場合、「堅魚木」は偶数となり、男神の場合は、奇数となるのだ。主祭神は後醍醐天皇の皇子で、征西将軍としてこの地で足利軍と戦った懐良親王であるので奇数の五本。見事な屋根の造形美。「拝殿」を振り返る。左手に「霊社」右手に「手水舎」を再び見る。境内右手奥にあったこの建物は客殿?七五三の「お祭り屋台」の店裏にあった「神橋改修記念」碑。「八代城跡」碑。「八代城碑」。「国指定史跡 八代城跡元和8年(1622年)に築城された八代城とその城下町八代町は、今も江戸時代の姿をよくとどめています。築城当時からある周辺のお寺や神社は現在も同じ位置にあり、当時の町割りが今の人々の暮らしの中に受け継がれています。八代城の中心となる本丸には、大小の天守台と8つの櫓が築かれ、中央には大規模な本丸御殿が設けられていました。外観4層、地下1階の大天守がありましたが、寛文12年(1672年)に落雷で焼失し、その後は再建されませんでした。現在は、お堀と石垣の一部が残り、本丸跡には明治16年(1883年)に八代宮の社殿が落成しました。八代城跡は今なお八代市中心部のシンボルとなっています。」「江戸時代の八代城復元模型」図。更にズームして。交差点越しに参道を見る。この参道の先に一の鳥居があったのだ。時計塔とその後ろに「月見櫓」の石垣。時計塔の時間は12:35。「四つのテスト1.真実か どうか2.みんなに公平か3.好意と友情を深めるか4.みんなのためになるかどうか」と。「国際ロータリー会長を務めたハーバート・テーラーは、倒産に瀕していたクラブ・アルミニウム社の社長に就任し正しい営業活動を行えば必ず会社が再建できると考え、「四つのテスト」を示しました。同社の業績は改善を続け、数年後には借金は完済、5年後には株主に多額の配当金を分配するまで になりました。 1954年、彼がRI会長に就任したとき、その版権がロータリーに譲渡されました。四つのテ ストは世界各国の言葉で翻訳され、広く活用されています。 」とネットから。「創立45周年記念創立5周年記念として昭和37年時計台を寄贈。今年45周年記念を迎えるに当たり電波時計に改修し寄贈する。平成15年3月9日 八代ロータリークラブ」八代城の跡に鎮座する八代宮の入り口となっている場所に「八代宮」の古い石碑があった。「護國」と刻まれた石碑。明治時代に建てられたもののようで、官幣中社というから、かなり社格としては上位。今は社格制度は無いとのことだが。「新橋神橋記念」碑。「月見櫓」跡に聳える黄葉した銀杏の老木。「月見櫓」の見事な石垣の上に。「月見櫓跡本丸南西隅にあった2階建ての櫓で、1皆9m✕10.8 m、2階5.4m ✕7.2mと記されています。実際に月見が行われたこともあったそうです。」「月見櫓」のCG(熊本県立八代工業高校の作品)。 【https://sh.higo.ed.jp/yatuths/matsuejyou/】より今は、太鼓橋の「八代宮神橋」が架かっている。黄葉した銀杏の葉が堀の水面に映り込み美しかったのであった。堀に廻りの銀杏の黄葉も今が盛り。西側の堀、そして見事な石垣を見る。月見櫓から小天守の石垣は、少なくとも3回の修復が行われており石や、積み方が変わっていると。「積み直された石垣築城以来、八代城跡の石垣は何度か積み直しが行われています。正面に見える石垣は江戸時代に3回の積み直しが行われ、昭和50年代に4回目の積み直しが行われました。」積み直された石垣。「小天守」とその先に「大天守」の石垣を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.19
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「中品堂」の先の墓地への入口に進む。門柱には「浄真寺境内墓地」の文字が。左に折れる道沿いに「開山歴代上人御廟」の案内板が右手に。「淨眞寺境内墓地 檀家使用区画見取図」。 「本堂 石墻(せきしょう・いしがき) 建立供養塔」(左) 仏像石碑(中央)「本堂永代畳替資料」(右)。正面に「開山廟」があった。右の碑には「開山珂碩大和尚第参百年遠忌追恩寳塔」と。中央に「一者女人泰産」と台座に刻まれた石仏が。「女人泰産」とは「健康で聡明な子供の安産が叶います」の意と。「南無阿弥陀仏」碑。「開山珂碩大和尚」墓石。歴代上人の墓石が並ぶ。基礎の上に請花をのせ、その上に丸みをおびた長い卵形の塔身をのせた「無縫塔」が並んでいた。こちらは、どなたの墓石か?その他、様々な墓石が並んでいた。そして「中品堂」の脇の道を引き返す。正面に火灯窓・花頭窓(かとうまど)がある祠が。内部には石仏が一体。そして本堂方向に進む。再び黄色の絨毯を踏めしめながら。この辺りは人も少なく静寂なる空間。「河口慧海(かわぐち えかい)師碑」日本人として初めてチベットに入った人物。名は河口 慧海(1866~1945)。仏教の僧侶。入国は清の時代の1900年当時はまだ鎖国状態のチベットにネパールからヒマラヤを超えて、単身密入国し、当時のチベットのセラ寺に学び、日本に数多くの仏教仏典を持ち帰ってきた。慧海の13回忌に際して門弟・親戚等が建立したと。「我国最初のヒマラヤ踏破者 日本西蔵学の始祖 在家仏教の首唱者雪山道人河口慧海師は慶応二年堺市に生る 十五歳釈迦伝に感激精進に入り哲学館に学ぶ 廿五歳得度 仏典の正解は原典乃至西蔵訳によるに如かずと悟り 渡印入蔵を志し明治卅三年単身ヒマラヤの嶮を越え秘境西蔵に入る セラ大学に学び傍ら医療を施す為に声名高く法王の知遇を受く 帰国に際し西蔵蔵経を将来す 後再び入蔵梵蔵両蔵経並に仏像仏具博物標本等多数を携えて大正四年帰朝 爾後諸大学に西蔵学を講ず 神足其許に集る師持戒堅固肉食妻帯を退け在家仏教の宣揚に努む信者其門に参ず 梵蔵仏典の和訳西蔵文典西蔵旅行記等の著あり 昭和十五年将来蔵経を東洋文庫に寄贈し蔵和辞典編纂会を起す業半ば戦禍国中に及ぶ 廿年二月廿四日円寂寿八十」「本堂(龍護殿)」前の参道を進む。最奥にあったこの建物は「五社殿」近くには大きな石碑と石仏があったが、近寄る道がなかった。右手に球形の石が載った石碑。「和」と刻まれた球形の石碑。「平和の塔」であると。昭和四十年(1965)建立と。台座には「經日(けいじつ) よにこえて 超世無倫(ちょうせむりん」と刻まれていた。「經日」とは一日、また一日と時がたつこと、「超世無倫」とは世に比べるものがないこと。「河口慧海師碑」の方向を振り返る。先程訪ねた「中品堂」を見る。本堂前の「花供養塔」。母の日が終わった5月第3日曜日に、ここ浄真寺で花供養が行われると。戦後から長く続く法要で、お花屋さんの有志が1年間お花にお世話になった、花の生命を使わせて商売をさせて頂いたことへのご供養であると。「南無阿弥陀佛 傳通院四十九世」と刻まれた石碑。そして左手に「本堂(龍護殿)」。「本堂(龍護殿)」前には「さぎ草絵馬」がニ体。白鷺の足に結んだ常盤姫の願いが成就した事に由来し、龍護殿前の白鷺の像に願い事を結ぶことができるようであった。こちらの白鷺の像は口を開けて。この白鷺の像も阿吽像の如し。「常盤姫伝説今から400年以上も昔、世田谷城主吉良頼康には奥沢城主大平出羽守の娘で常盤という美しい側室がいました。常盤姫は頼康の愛を一身に集めていましたが、それをねたましく思った側妾たちは、つくり話によって頼康につげ口をしました。度重なるつげ口から頼康もそれを本気にして常盤姫に冷たくあたるようになりま した。愛情を疑われ、悲しみにくれた姫は死を決意し、幼い頃からかわいがってい た白さぎの足に遺書を結びつけ自分の育った奥沢城へ向けて放しました。白さぎは奥沢城の近くで狩をしていた頼康の目にとまり、矢で射落とされてしまいました。白さぎの足に結んであった遺書を見て初めて常盤姫の無実を知りいそいで世田谷城に帰りましたが、すでに姫は息をひきとっていました。その時、白さぎの血のあとから、一本の草が生え、サギに似た白いかれんな花を 咲かせました。これがサギソウと呼ばれるようになったのです。」とネットから。反対方向から二体の白鷺を見る。「上品堂」を正面に見る。「本堂(龍護殿)」前の「半跏思惟地蔵菩薩」。そして「本堂(龍護殿)」。本堂には珂碩上人(かせきしょうにん)自作の本尊・釈迦牟尼如来坐像〔都有形文化財〕を安置。龍護殿(りゅうごでん)とも呼ばれる本堂は、元禄十一年(1698)に三仏堂とともに完成。本堂は、浄土(彼岸(ひがん))の世界を表す三仏堂に対し、西面して穢土(えど:現世、此岸(しがん))を表しているのだと。「大香炉」には寺紋の龍胆車(りんどうぐるま)が。「龍護殿」と書かれた扁額。この後、しばらくしてから「本堂(龍護殿)」内陣に。御本尊は「釈迦如来」。浄真寺の開祖の珂碩上人の作と伝わる像で、江戸時代の作 と。本堂の左の回廊から脇にあった池を見る。ズームして。御本尊「釈迦如来」を左横から。「本堂」左手。「霊瑞(れいずい)」の扁額が。「霊瑞」は浄土宗京都知恩院の僧。号は鳳誉。日野氏。信濃更科郡の人。蓮光寺仁説の下に投し、後江戸に出遊し増上寺学寮主慈専に学び、寮主となり学頭に進む。文政3年下総生実大巌寺に住し、後上野新田大光寺に転住し大教正に補せられる。明治19年増上寺に進み、21年知恩院に昇る。明治21年(1888)歿、70才。近寄って。手前に「賓頭盧尊者」像。近寄って。撫でると除病の功徳があるとされ、なで仏の風習が広がった。この像を「おびんづるさん(※上方では神仏も観音さん、えべっさんなどとさん付けで呼ばれる)」「おびんづるさま」と呼んで親しまれていると。「病が治ります。自分の患部と賓頭盧尊者の同じ所をくりかえし撫でて下さい」と。本堂右手の「枯山水庭園」。「枯山水庭園」の先の銀杏の木は完全に葉を落としていた。「仁王門」を見る。正面右手の部屋。扁額には『松露斎』と書かれてあった。浄真寺開山の珂碩上人の号は松露で、松露と号された上人像をまつっているのであろう。欄間の彫刻も見事。御本尊「釈迦如来」を右手から。近寄って。天井には天女が描かれていた。欄間の彫刻にも天女の姿が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.18
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九州山地の奥地「五家荘(ごかのしょう)」にあった「樅木吊橋(もみぎのつりばし)」の「あやとり橋(橋長72m・高さ35m)」と「しゃくなげ橋(橋長59m・高さ17m)」の吊橋を渡って楽しんだ後は、来た道をひたすら県道159号線・樅木河合場線の始まる八代市泉町仁田尾まで引き返したのであった。途中「五家荘平家の里」の近くにあった見事な紅葉の前で車を止めた。モミジ葉が陽光を浴びて赤く輝く。様々な角度からカメラに納めたのであった。更に進むと崖の凹んだ場所には、日本ミツバチの待受箱が置かれていた。「国道445号」の山間道をひたすら戻る。前方に再び「梅乃木轟(とどろ)吊り橋」が姿を現した。吊橋の上にはたった一人だけ。そして定食屋「東山本店」のあったT字路まで戻り、ここを左折して県道159号線・樅木河合場線に入り車を止めた。右手にあったのが木製の祠の中に鎮座した三体の仏の姿。中央の仏像は五鈷杵(ごこしょ)と数珠を持つ空海の如し。祠の横には黄葉が。そして旅友の巧みな運転で県道159号線・樅木河合場線から県道52号線・小川泉線に入り氷川に沿って進む。前方にも吊り橋が見えて来た。吊り橋は橋長54m、高さ40mであるとネットから。これも観光用吊橋なのであろうか。しかし旅友の巧みな運転で助手席にいた私は車酔いし、しばし車を止めて貰ったのであった。昔、同様な状況で後部座席にいて腰を痛めた同僚もいたことを想い出したのであった。左手に見えたのが「白岩戸公園」。キャンプや水遊びが出来る公園であると。流れがゆるい場所もあったので、そちらでは子供も一緒に楽しめそうなのであった。国道443号に合流し左折して進むと前方にダムの姿が。ダムの名前は「永川ダム」、ダム湖の名前は「肥後平家湖(ひごへいけこ)」。 熊本県八代市泉町下岳。左に折れ「永川ダム」に立ち寄る。昭和48年7月竣工と銘板には。「永川ダム」は昭和50年に完成した多目的ダムで、その後、平成22年に堤体を2mかさ上げし、堤高58.5m、総貯水容量710万立法メートル(有効貯水容量590万立法メートル)にパワーアップして運用を開始した と。堤頂長は202m、堤高58.5mのダム堤から下流側を見る。そしてダム湖の「肥後平家湖」を見る。吸い込まれる様で!!湖面に浮くこれは??周囲の水が多少動いているようではあったが。永川に沿って国道443号を進むと、前方に「九州縦貫自動車道」の高架橋が姿を現した。国道3号に合流し南下する。九州自動車道八代ICの下を通過し更に進む。国道3号の「八代駅前」交差点を通過。旭中央通りを右折し、カーナビに従って進むと「八代城跡公園 駐車場」に到着。車を降り「八代城跡」の散策を開始する。熊本県八代市松江城町7。正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城と城下町の地図が『正保城絵図』。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれているが、八代城でも4層5階の大天守と2層3階の小天守さらには隅櫓などが描かれている と。 【https://tabi-mag.jp/ku0129/】より八代城跡の解りやすい配置図をネットより。 【http://tinamoi.blog.fc2.com/blog-entry-214.html】より堀の周りには小さな「くまモン像」による城の案内板が。「三階櫓跡本丸の鬼門にあたる北東角に設けられていた櫓です。外から見ると三階建ての櫓で、1階約9mx10.8m、2階5.4m 四方、3階5.4mでした。」駐車場横から「八代城跡」の「三階櫓跡」を見る。「三階櫓跡」下の見事な石垣。北側駐車場側から三階櫓、北九間櫓、そして大天守の姿を熊本県立八代工業高校作成のCGより。 【https://sh.higo.ed.jp/yatuths/matsuejyou/】より堀に沿って南に進むとメタセコイアの紅葉が。そして前方に見えてきたのが、「欄干橋」。昔はこんな光景であったと熊本県立八代工業高校作成のCGより。 【https://sh.higo.ed.jp/yatuths/matsuejyou/】より「欄干橋」の先が「高麗門」が設置されていた場所。この日は工事中のため、欄干橋から城内には入れなかった。熊本県立八代工業高校作成のCGより。「欄干橋」は木製ではなくなっているが、現在でも上に乗っている擬宝珠(ぎぼし)には元和八年の文字が刻まれていると。正面の門が「高麗門」、その奥の右手に「頬当御門」という大きな門があったと。 【https://sh.higo.ed.jp/yatuths/matsuejyou/】より「欄干橋」入口を通り過ぎ振り返る。出っ張った石垣の上には「磨(みがき)櫓」があったと。角の石垣上は「宝形櫓」があったと。「宝形櫓」の下の石垣は、八代城の中で最も進化した算木積み(さんぎづみ)でできており、隅石がきっちりとした直方体に加工され、密着性が高くなっているのだと。本丸東辺と奥に「欄干橋」を見る。手前の石垣上は「宝形櫓」、奥の突出ている石垣上は「磨(みがき)櫓」。 【https://sh.higo.ed.jp/yatuths/matsuejyou/】より。「宝形櫓」下の西側の堀、石垣を見る。「八代宮神橋」に向かって堀に沿って進む。「本丸舞台脇櫓」石垣を右手に見る。「国指定史跡 八代城本丸1619年3月の大地震で麦島城(むぎしまじょう)が崩壊したため、1622年に現在の八代城が造られました。はじめ加藤清正の支城でしたが、後に細川氏の支城となり、明治維新まで松井氏が城代を務めました。」噴水には水はなく。「最も良く努めるものは最も多く報いがある」と。国際ロータリーの標語であろうか。「八代市史跡案内板」。「八代宮神橋」入口から「月見櫓」下の石垣方向を見る。「月見櫓」のあった場所には銀杏の黄葉が。「八代宮神橋」を渡り「八代宮」へと向かう。「八代宮神橋」は太鼓橋になっていた。再び「月見櫓跡」を見る。こちらは右手の「本丸舞台脇櫓」石垣。正面に「八代宮」の一の鳥居。「国指定史跡 八代城跡」碑。一の鳥居の先に「八代宮」の拝殿。「八代宮1619 (元和5)年、地震により麦島城が倒壊すると、城代・加藤正方は当地に城を移し、1622 (元和8)年、八代城(松江城)を完成させる。欄干橋の擬宝珠には竣工年の銘が残されている。石垣には八代産の石灰岩を用い、麦島城の石垣も再利用したが、その白さから別名「自鷺城」とも呼ばれる。そもそも麦島城は一国一城令のなか存続を許された城だったが、八代城は新築を許された点で価値がある。1870 (明治3)年に廃城になると城内の建造物は撤去され、1880 (明治13)年、ここ本丸は八代宮の境内地となる。本丸には天守台を含む石垣や堀のほか、大書院の枯山水や井戸跡が残る。八代宮の祭神は懐良親王。一の鳥居は旧大手門付近に設置され、参道が徳渕の津より直進する。ニの鳥居の次に三間一戸、軒唐破風の四脚門がある。門に回廊と透き塀がつき、神殿を囲む。拝殿は入母屋妻入、向拝つき。左右に切妻屋根の神饌所がつき、拝殿の屋根と交差する。本殿は三間社流造で、向拝の奥行きは深い。いずれの建物もかっては柿葺だったが、現在は銅板葺、妻飾はいのこ叉首(さす)、軒が深くプロポーションが美しい。組物などのしのぎは平らで、丸みがなく直線的である。開口部は腰長押または腰貫と内法長押の間に連子窓がつく。官幣社にふさわしい気品あるたたずまいである。」「八代城跡」案内板。「八代城跡元和元年(1615)に一国一城令が出された後も、肥後国熊本藩は熊本城と麦島城(八代市古城町)の一国ニ城体制が特別に認められていましたが、同5年(1619)の大地震によって麦島城は崩壊しました。熊本藩主の加藤忠広は幕府の許可を得て、城代の加藤正方に命じて徳渕の津の北側に城を築くこととし、同8年(1622)に竣工しました。これが現在の八代城で、明治維新まで肥後国の一国ニ城体制が続きました。寛永9年(1632)、豊前小倉藩主の細川忠利が熊本藩主となり、忠利の父・細川忠興( =三斎)が八代城に入城しました。忠興は八代城の整備を行い、北の丸の隠居所には名木臥龍梅(がりょうばい)を植え、茶庭を設けました。八代城本丸の北西隅には外観4層、地下1階の大天守が作られ、渡り廊下を通して2層2階の小天守とつながっていました。大天守は、寛文12年(1672)、落雷によって焼失しました。現在、相撲場となっている場所の近くには、かって能舞台がありました。本丸内には枯山水の庭園が設けられており、現在もその一部を見ることができます。また、発掘調査で見つかった八代城時代の井戸が保存されています。忠興が没した後1646年には、藩主細川光尚は細川家の筆頭家老でかつ将第直臣の身分を持つ松井興長に八代城を預けました。これ以後、代々松井氏が八代城を治め、八代の発展に尽くしました。明治3年(1870)に八代城が廃城となり、同16年(1883)には八代町民の願いが叶い、南北朝時代の後醍醐天皇の皇子、懷良親王の顕彰のために本丸内に八代宮が創建されました。現在、八代城跡は八代市の中心的な歴史公園で、また桜の名所として親しまれています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.18
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更に「浄真寺」の境内の中に入って行く。この朝は、最初は晴れていたが、その後雲が出て、時々陽光が遮られてしまったので、陽光を求めて境内を行ったり来たりしたのであったが。総門からの道の突き当りを左折して参道を進む。右手にあったのが「開山堂」への「中門・薬医門」。その手前には石碑が。「珂然和尚編珂硯上人行業記に曰く元禄七年六月二十ニ日に珂硯上人疾有り日と共に進む。九月二十三日高弟珂憶上人河内国より来る。師珂憶上人に告げて曰く九品佛像造佛の本誓已に成就せり。堂宇荘嚴志有って遂げず。老朽体疲れて今往生の素懐を遂げんとす。汝宜しく修立せよ。」と。そして銀杏の「黄葉」&「紅葉」の先に巨大な「仁王門」。「仁王門」の手前も「紅葉」、「黄葉」のメッカ。銀杏の落ち葉で敷き詰められて。楼門ということで、二層に分かれ、下層は通路の両側に金剛力士像が。上層には入っていないが、中央に須弥壇が設けられていて、お面かぶりで有名な阿弥陀如来像および二十五菩薩像が参拝者を迎えるように安置されているとのこと。「仁王門重厚荘重なる仁王門(山門)は別名「紫雲楼」とも呼ばれ寛政5年(1793)の建立である。一対の仁王像、楼上に阿弥陀如来とニ十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像もあって、寺域全体の安全が意図されている。」「紫雲楼(仁王門)楼上のニ十五菩薩当山に参詣される人々は、この桜上に安置してある阿弥陀如来とニ十五菩薩に迎えられて、三仏堂へと足を運ぶことになる。すなわち紫雲の門より内は荘嚴の浄上(彼岸)であることを示している。この楼門は寛政年間の建立である。当山の伝統相続行事である「ニ十五菩薩来迎会」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この楼上のニ十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになる。」「仁王像・阿形像」。お顔をズームで。斜めから。「仁王像・吽形像」。お顔をズームして。斜めから。束の間の陽光の下、「仁王門」を斜めから。桁行3間(8.1m) 梁間2間(4.2m)、入母屋造、銅板葺。ズームして。「奥沢城址」の 土塁と石碑が「仁王門」の左横の奥に。奥沢城は、吉良氏によって築かれたと言われる平城。世田谷城の出城として用いられた。昭和62年(1987年)12月18日に世田谷区の区指定史跡に指定されている。「周囲の平野部に南の台地から北方に突き出た舌状台地上に占地し、台地上のここ浄真寺の境内に方形の郭跡が認められる。九品仏駅前から台地東麓に掛けて城郭由来の地名が残ることから、城域は九品仏駅付近から台地端まで拡がっていたものと考えられる。また、現在は開発が進んで失われたが、城跡周囲には近年まで堀跡及び「奥沢の底なし田圃」と言われていた深田が拡がっていた。往時はこの堀と北麓の沼地とで、三方の守りを固める構えとなっていたものと考えられる。」とネットから。そして「仁王門」を潜るとさらなる「紅葉の参道」が拡がっていた。近づいて。反対側には「庚申塔」が並んでいた。左手奥には「鐘楼」。ズームして。「鐘楼仁王門とは対照的に、流麗な建築手法を示す鐘楼は関東でも名楼の誉れ高く、宝永5年(1708年)の建立である。梵鏝は文化財に指定されており、今に残る深沢の名家谷岡氏の御先祖がニ親菩提のために鋳造され(宝永5年)当山に寄進されたものである。また楼の四周に刻まれた十ニ支は作者不詳であるが、名作として特に有名である。毎年大晦日より元旦にかけて、除夜の鐘に遠近の参拝者でにぎわっている。」更に参道横の紅葉・黄葉のカオスを楽しみながら進む。「本堂(龍護殿)」を横から見る。更に進む。参道左側の銀杏の木はまだ黄葉を付けて迎えてくれた。そして奥の左側にある「下品堂」に向って進む。正面に「下品堂」。「九品仏と三仏堂珂碩上人(1617~94年)は、念仏行者として一代の高僧であるとともに、また非常に彫刻に秀でられ、その彫刻された仏像も多数におよんだ。なかでも18歳で発願、51歳のとき完成した九體の阿弥陀如来像(九品仏)は上人畢生の結晶といわれる代表作で、末代衆生化益(けやく)の尊い御仏像である。九體とも文化財の指定をうけ、上品(じょうぼん)堂、中品(ちゅうぼん)堂、下品(げぼん)堂の三つのお堂(三仏堂)にそれぞれ三體ずつ安置してある。上品堂のうち、中央を上品上生仏、右を上品中生仏、左を上品下生仏とする。中品堂、下品堂と同様で、したがって阿弥陀さまには、上品上生から下品下生まで九つの名あり、それぞれ手の位置および印契が異なっている。なにゆえに阿弥陀さまに九品の差別があるのか、一つには私たちの浄土教入信の過程・段階を、二つには念仏によって浄化される私たちの心の様態を示し、三つには往生人たるわれわれの機根を分類したのであって、私たちが念仏信仰に入るときの動機から段々念仏によって身とロと意の三つが浄化されてゆき「生けらば念仏の功つもり死なば浄土にまいりなんとてもかくてもこの身には、思い患うことぞなき」という念死念仏の心境に至る道程を示したものということができる。京都府下の浄瑠璃寺(九躰寺)ともにわが国における東西の九品仏像の双璧である。」この時は扉が閉まっていたが、暫くしてから開いたので再び訪ねたのであった。浄真寺の九品仏は、九品を手の位置と印(指の形)で表します。九品仏は坐像で、像高は、すべて2.8m(所謂丈六)。徳によるすべての階位を、その姿は様々だが、一様に浄土に導いて戴けると。ここで大事なのは、九体すべてが同じ大きさだということ。どのような階位の人でも、等しく極楽に到達することができるのだと。下記はネットから。 人差指 中指 薬指 人差し指を曲げた中央の「下品上生」佛。「下品中生」佛は御遷座中(改修)であると。薬指を曲げた「下品下生」佛。そして「上品堂」に向って進む。「上品堂」。「来迎会(おめんかぶり)当山には、ひろく「おめんかぶり」の名で親しまれる行事がある。これは三年ごとに奉修される阿弥陀如来二十五菩薩「来迎会」のことで、無形文化財に指定されている。念仏行者が臨終の夕べに、阿弥陀さまが二十五の菩薩さまをしたがえて西方浄土よりご来迎になるという、浄土の教えを行事にしたもので、その日は三仏堂から本堂への懸橋を信者の方々が菩薩のお面をかぶって行道(ぎょうどう)する尊くもまた厳粛な儀式である。このおめんかぶりは、三年に一度の行事であり、5月5日の午前11時・午後4時の1日2回おつとめする関東においては、当山のみの行事であり、ぜひ一度御結縁あらんことをおすすめする。なお、毎年8月16日当山の法宝物を一般公開しているのでご来観ください。」「上品堂」前には浄眞寺「平成令和九品佛大修繕事業」大勧進貴方の化佛を未来に残す。貴方の名前と願い事を化佛背面に墨書いたします。たとえば・・・一、願、往生、懺悔滅罪の化佛として一、ご先祖供養の化佛として一、亡き方の供養化佛として一、水子供養の化佛として一、結婚の証を化佛として一、祈願成就の化佛として詳しくは、龍護殿受付、又は寺務所にてお尋ねください。坐禅をする時のように手をお腹の前で組んだ禅定印の阿弥陀如来像が三体安置されていた。中央には親指-人差し指で定印を作る「上品上生」佛。向かって右側には親指-中指で定印を作る「上品中生」佛。向かって左側には親指-薬指で定印を作る「上品下生」佛。「上品堂」前から「本堂(龍護殿)」を見る。そして「上品堂」と「中品堂」の間の奥にあったのが「阿育王塔(あしょかおうとう)」。阿育王は、紀元前三世紀のインドの王で、仏教を国教とし、慈悲の教により国民を臨(のぞ)み、その恩徳国内に満ちたという。日本様式の塔。天保年間(1831~45)のもの。加藤楸邨句碑(かとうしゅうそんくひ)俳人、国文学者。俳誌「寒雷(かんらい)」を創刊・主宰。『しづかなる 力満ちゆき 螇蚸(はたはた)とぶ』本堂(龍護殿)への参道は黄色の絨毯が一面に。ズームして。巨木が。「名木百選 カヤ」と。そして「中品堂」。「三仏堂修繕元禄11年~12年にかけ建立されたこの三仏堂も、安政・大正の地震の災厄により甚大な損害をうけ、そのつど補修したが、昭和58年10月7日珂碩上人の第290年忌の勝縁に際し、大修覆工事をおこない、創建当時の偉容を再現した。九品の阿弥陀如来像を奉祀してあるのは、九躯寺(浄瑠璃寺)と当山のみである。(都有形文化財)。」中央には親指-人差し指で説法印を作る「中品上生」佛。向かって右側には親指-中指で説法印を作る「中品中生」佛。「祝 中品下生佛大修繕完了 中品堂本座還着」と。「中品下生」佛。お還りになった「中品下生」佛を「中品上生」佛と並んで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.17
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2日目の朝は6時前に起床し、出発の準備をする。部屋から夜明けの光景を。時間は6:25過ぎ。6:30からの無料の朝食を楽しむ。この日の最初の目的地は、八代市泉町葉木にある「梅の木轟公園吊橋」。国道266号・浜線バイパスをひたすら南下して行き「加勢川」に架かる「中の瀬橋」を渡る。緑川に沿って県道106号線・嘉島甲佐線を南東に進む。県道38号線を進むと、前方にマミコゥ道路の甲佐大橋が見えて来た。「日本一の石段 3333段」と書かれた石碑が前方に。美里町の「日本一の石段」👈リンク は3333段あり、西の高野山とも呼ばれる釈迦院(八代市泉町)が頂上にある釈迦院御坂遊歩道でると。毎年11月に「アタック・ザ・日本一」というイベントも開催されるとのこと。国道218号を進む。三和交差点を右折して国道445号へ暫くすると狭いクネクネとした本格的な山道が始まった。するとカーブの右手にあったのが「七郎次水源」という湧水。手作り感あふれる水源の水汲み場。ここは熊本県下益城郡美里町 国道445号線の最高部にある二本松峠の手前の路肩脇にある湧水。「この水場はひとときのやすらぎを汲む場所です。一人一人の小さな努力がなければ守ることができません。後で来られる方が気持ち良く組んでいただく様、心掛けましょう。」と書かれていた。この水源は、昭和60年8月1日、くまもと名水百選の一つとして認定を受けた。美里町早楠字七郎次地内にあり、日量約3,000トンの清水を湧出していると。一見谷川の水に見えますが、立派な湧水であり、生まれたての水が次々と産声を上げていると。かつては五家荘から買い物に来た人がこの清流に出会いのどを潤し一息ついたのだと。春夏の若葉・青葉、秋の紅葉、冬の霧氷等四季折々の自然美が楽しめる場所 と。「二本杉展望所」まで500Mとの表示。そして「二本杉展望所」に到着し車を止めた。「二本杉展望所」からの眺望案内図。この日の朝の「二本杉展望所」からの眺望は芳しくなかったが。ネットには「季節ごとに表情を変える山々は一年中楽しむことができ、地元でも愛されています。熊本ならではの透き通った海や島々の緑の美しさはまさに圧巻です。特に当展望台から一望できる熊本市街地は評判です。夜には空いっぱいに輝く星や街のイルミネーションが広がり、その神秘的な魅力に圧倒されます。」と。シダの葉は枯れていたが、幾何学的な模様が美しかった。そして坂を上り終えると平坦な道となる。右手にあった「九州中央山地国定公園 公衆トイレ」に立ち寄る。駐車場廻りの木々は紅葉が始まっていた。そして駐車場横にあったのが定食屋「東山本店」。 熊本県八代市泉町仁田尾6−3。様々な手作りの土産品が並んでいた。駐車場前にあった案内板。「ようこそ!五家荘へ!!」。「五家荘五家荘とは、久連子(くれこ)、椎原(しいばる)、樅木(もみぎ)、仁田尾(にたお)、葉木(はざ)の五つの集落の総称です。ここには、平家の落人や管第道真の子孫が住み着いていたという伝説があり、古くから秘境として知られています。県内最高峰の国見岳(1739m)を中心として、広大な原生林が残り、動植物の宝庫としても知られています。昭和57年5月15日、この一帯は森林レクレーションの適地として九州中央山地国定公園号の指定を受けました。」更に国道445号線・樅木河合場線を谷内川に沿って紅葉を楽しみながら進む。道の下方の谷内川沿いの建物。分校であろうか?杉の森が広がる。山の上の紅葉は既に終わっていた。通行量は少ない。そして「梅の木轟公園吊橋( うめのきとどろこうえんつりばし ) 」に到着し、車を降りる。五家荘最長である長さ116メートルの吊橋。補助ロープや支柱を使用しないPC吊床版の橋としては、日本有数の長さを誇り、55メートルの高さがあるため、まるで空中に浮かんでいるが如き光景。渡ろうと思ったが、道路の掲示板があり、あと5分で工事用に1時間の通行止めになることに気が付き慌てて車に戻り、出発したのであった。吊り橋を渡った先に、かつて幻の滝と言われていた「梅の木轟」を見ることができるのであったが。「梅の木轟」をネットから。 【https://www.homemate-research-tour.com/dtl/00000000000000528588/】より更に狭い道を、旅友の巧みな運転で進む。落石防止用の隧道を通過。そして次の目的地の「九州中央山地国定公園 樅木園地」に到着し散策開始。「樅木吊橋」。「樅木吊橋樅木吊橋は、以前はかずら橋で樅木川を渡る生活道として利用されてきました。現在は、地元の杉や栗の木を使った橋に架け替えられ、親子橋として上段の大きい方が「あやとり橋」で橋長72m、高さ35m。下段の小さい方が「しやくなげ橋」で橋長59m、高さ17mあります。このニつの橋は、2本の主ケープルの上に丸太の床板(歩行部)を直接のせてあり、橋の安定は下部にトラス状に張った耐風索及び引索によって保たれています。」「あやとり橋」を渡る。橋長72m、高さ35mの「あやとり橋」から下方にある「しゃくなげ橋」を見る。橋長59m、高さ17mの「しゃくなげ橋」をズームして。「あやとり橋」を渡りながら黄葉を楽しむ。「あやとりばし土木学会田中賞受章 1988年10月竣工」と。高所恐怖症の旅友であったが、頑張って渡り切る。渡っていくカップルの姿が。そして帰路は「しゃくなげばし」を渡る。1989年5月竣工 と。「しゃくなげばし」を渡りながら川辺川を見る。先程渡った「あやとりばし」を見る。「あやとりばし」をズームして。川辺川を見る。「しゃくなげばし」を渡り終わり、駐車場に向かって進む。途中、紅葉を楽しみながら。そしてここが休憩用の東屋・「樅木園地休憩所」。ピンクの可憐なツツジ?の花。そして駐車場脇の紅葉をカメラで追う。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.17
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この日は12月9日(木)、今年・令和3年も晩秋の紅葉を愛でに、東京・世田谷区奥沢にある「浄真寺(じょうしんじ)」を訪ねました。この地にはサギ科のシラサギ(白鷺)とラン科のサギソウ(鷺草)にまつわる悲話が伝わります。そのサギソウは世田谷区の花とされ、境内の「さぎ草園」では毎年8月上旬に多くの花を咲かせるそうです。「シラサギ」とは、ほぼ全身が白いサギ類の総称であり、シラサギという名前のサギがいるわけではないようです。「浄真寺」の山号は九品山(くほんざん)で、九品仏(くほんぶつ)とは後ほど触れるように、同寺に安置されている9躰の阿弥陀如来坐像のことを言うのです。最寄り駅は東急大井町線・九品仏駅。小田急線、田園都市線、東急大井町線を利用して九品仏駅に。自宅を出て1時間15分ほどで九品仏駅に到着。大井町線は5両編成で運転されるのに対し、ここ九品仏の駅のホームは4両分しかない。そのため、最も溝の口寄りの車両はホームからはみ出るためドアが開かないので注意が必要なのです。「改札口」を振り返る。そして「九品仏駅」から踏切を渡り徒歩2分程度で「浄真寺」の参道入口に到着。右手に「浄真寺参道」と刻まれた石碑。左手に「2014~2034年 浄真寺「平成令和九品佛大修繕事業」大勧進」と。「九品佛参道界隈」案内。「浄真寺」境内案内地図。「浄真寺」のHPより「境内案内図」。「総門」の切絵図。絵の左下に書かれている「お面かぶり」とは、江戸の時代より3年ごとに、この寺で奉修される「阿弥陀如来二十五菩薩来迎会」のことで、無形文化財に指定されているのだと。「上野毛五島美術館一帯」切絵図。五島美術館は、東京都世田谷区上野毛の閑静な住宅街の中にある私立(財団法人)の美術館。国宝「源氏物語絵巻」をはじめとする数々の名品を所蔵する美術館として、展覧会を中心に幅広い活動を展開している人気の美術館。枯れ葉を踏みしめながら参道を進む。参道に朝の陽光が射し込む。散歩の人の姿も。「禁銃猟 警視廳」と刻まれた石碑が右側に。背面には建てられた年が書かれていて、明治32年(1899年)と。「この辺りでは銃を使っての猟は禁ずる」という警視庁が出した明治時代の告知であると。当時のこの地域一帯はほとんど人が住んでおらず、雑木林ばかりの土地であった。狩猟もやりやすかった時代。この石柱はそういった古い時代の名残なのであろう。この後、境内にも同様な石碑が建っていた。「2014年~2034年 浄真寺 「平成令和九品佛大修繕事業」大勧進」案内板。九品仏の駅名にもなって親しまれる浄真寺は、上品上生仏より下品下生仏の九品阿弥陀佛が奉安されております。この度、元禄以来の大修繕を行うこととなりました。未来に受け継ぐ、この大修繕事業に値遇を得ることは希代の勝縁と思し召し、大勧進に広く皆様のご協賛を賜りたく存じます。浄財を喜捨された方の芳名は、結縁交名帳に記録し九品佛像の壹座内に永代保存します。詳しくは寺務所、龍護殿にございます趣意書をご覧頂ければ幸甚です。」前方に総門が見えて来た。約200mの長さで参道には黒松を中心に植栽が行われている。入り口の参道は「二河白道(にがびゃくどう)」を表しているのだと。火の河と荒れ狂う河に挟まれた白い細い道、白道は浄土往生を願う信心の道で一心不乱に念仏を唱えて極楽浄土へ渡ろうということを意味していると。樹齢30年以上の黒松の間に次世代を担う黒松の苗木を植樹し、それが成長しているのであった。参道の中程の右側には九品仏広場という公園があり、参道と調和した雰囲気のいい子供達の遊び場となっていた。その先参道の左側には「参道の石碑群」の庚申塔や地蔵様が並んでいた。中央に「奉寄進庚申供養塔」と刻まれた石碑が。ズームして。「庚申塔」と「石仏」。そして「浄真寺 総門(山門)」前に到着。九品山唯在念佛院浄真寺(くほんさんゆいざいねんぶついんじょうしんじ)は浄土宗寺院。越後国村上泰叟寺の珂碩(かせき)上人を請うて延宝6年(1678)に創建されたものであると。総門の柱の場所に厚い板に書かれている「九品佛浄真寺總門」。書体は新篆書体か?「掲示板火の用心毎月七日午後一時 開山忌 法要・法話・写経十二月三十一日(金) 除夜の鐘 ※本年は開門致しません。安産・厄除・各種祈願寺務所・本堂にて受付中」「総門」に掲げられている扁額「般舟場(はんじゅじょう)」。常に行道念仏して現前に諸仏を見奉る「般舟三昧」する道場であり、参拝者に願往生の心を自然に発さんが為に書かれたものであるとのこと。「般舟三昧」とは浄土教で説く精神統一法。諸仏現前三昧,仏立 (ぶつりゅう) 三昧ともいう。7日ないし 90日間この三昧を行えば現前に仏を見ることができるのだと。「創建の由来当山はひろく「九品仏」の名で親しまれているが、正式には「九品山唯在念仏院淨眞寺」といい、浄土宗に属し、境内約12万m2( 3万6千坪)は往古の面影を保存する都内有数の風致地区である。開山は江戸時代初期の高僧「珂磧(かせき)上人」で、四代将軍徳川家綱公の治世延宝6年(1678)に、奧沢城跡であったこの地を賜り、浄土宗所依の経典である観無量寿経の説相によって堂塔を配置し、この寺を創建された。「江戸名所図絵」に描かれている堂塔の配置と現状とはほとんど変わりはないが、昭和40年に本堂・仁王門とも茅葺を銅版葺に改修した。※淨眞寺「縁起」:本堂札所にあります(有料)」「九品佛道」と刻まれた石碑が「総門」右手奥に。そして「総門」から境内に入ると、境内は朝の陽光と紅葉でオレンジ色の世界が拡がっていた。そして「六地蔵」への小径の角の地蔵像群。地蔵像群に近寄って。そして「六地蔵」を正面から。「六地蔵」の手前右側にあった石仏。「六地蔵」から引き返す。緑とのコラボも美しい。紅葉のカオスの世界には言葉はいらない。赤い帽子、赤い涎掛けの石仏を追う。ここにも。「総門」を振り返る。そして「閻魔堂」前の「三途の川」。人は死ぬと七日目には三途の川の辺に到着するそうです。ここには、人が冥土に行く為には、渡らなければならない三つの川、「葬頭川(そうずがわ)」「三瀬川(みつせかわ)」、「渡り川」があります。川の流れは三つに分かれていて、前世の行為(業)にしたがって、それぞれにふさわしい流れを渡ることになるそうです。三途とは地獄・餓鬼・畜生の三悪道のことですが、この川の辺に上記の衣領樹 (えりょうじゅ)という木があります。木の下には「奪衣婆(だつえば)」という老婆がいて、木の上には「懸衣翁 (けんえおう)」というお爺さんがのっています。お婆さんが着ている衣類を脱がせ、木の上のお爺さんに渡し、木の枝に掛けると、その重みで枝が垂れる。枝の垂れ方で生前の罪の軽重が分かる仕掛けです。その「懸衣翁」と「奪衣婆」が、35日目の閻魔大王の裁判に陪席している ので、嘘の申告は出来ないのだと。「三途の川」に架かる石橋と「閻魔堂」。朱の欄干の石の太鼓橋。2019年8月に落慶した新「閻魔堂」。入口には「わるいことはするな!」、「うそはつくな!」の幟が両脇に。扁額「閻魔堂」。中央に「閻魔大王」が鎮座。お顔をズームして。懸衣翁(けんねおう)。「奪衣婆(だつえばぁ)」、「葬頭河婆(そうずかばぁ)」が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁(けんねおう)という老爺によって衣領樹(えりょうじゆ)にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって枝の垂れ方が異なるので、亡者の生前の罪の重さを計る事により死後の処遇を決めるのだと。罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されるのであると。また亡者が服を着ていない際は、懸衣翁は衣の代わりに亡者の生皮を剥ぎ取るという恐ろしい話。奪衣婆は閻魔大王の妻であるという説もあるのだと。前回のブログにも書いたが、私の衣類は枝が大きく撓るのであろうか?お顔をズームして。「奪衣婆(だつえば)三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の姿。奪衣婆(だつえば)、正塚婆(しょうづかのばば)、姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言うのだと。お顔をズームして。さらに。「延命地蔵」が乗っている江戸十夜講の「三界万霊塔」。「三界万霊塔」とは、路傍や寺の入口、あるいは墓地によくみかけるもので、次のような意味を持っている。三界とは仏教の言葉で、欲界(食欲、物欲、性欲の世界)、色界(物質の世界)、無色界(欲も物もない世界)の三つの世界をいう。また、過去、現在、未来をいうこともある。これらの世界の霊、この世の生きとし生けるものすべての霊をこの塔に宿らせて祀りするために建てられた塔である。多くは寺の境内や墓地に建てられて、万霊の供養や無縁仏を供養するものとされている。移動して「三界万霊塔」を。まだ葉を落としていない銀杏の木を。そして「仁王門」に向かって進む。 ・・・つづく・・・
2021.12.16
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そして「加藤神社」を訪ねた。熊本県熊本市中央区本丸2−1。「加藤神社 御由緒主祭神 加藤清正公陪神 大木兼能公・韓人金官公御祭神 加藤清正公【永禄五年(1562)6月24日~慶長十六年(1611)6月24日】は、 尾張国愛知郷中村(現名名古屋市中村区)の御出身で、智仁勇の三徳を兼備され 常に大義名分を重んじられると共に、上には忠と義を以って、下には慈悲と情を 以てあたられた武将であります。また、二十七歳で肥後国に入国され五十歳で逝去 されるまでの間、日本三名城のひとつである熊本城の築城を始め、全県下にわたる 土木・治水工事をはじめ、干拓開墾、植林、街道づくりなどのインフラ整備、貿易振興、 産業の奨励保護、学問の奨励、文化の開拓そして宗教保護政策など数々の偉業を残された 領主であり、熊本県民にとっては、熊本発展の礎となる有形無形の役割を果たされた 大恩人であられます。清正公の五十年の生涯は、実に至誠にして高潔なる人格者であり、 いつの時代においても尊崇敬慕されるに相応しい政治家で、熊本の人たちは今も親しみを 込めて「清正公さん(せいしょこさん)」と二重の敬称で呼んでおります。由緒 慶応四年 熊本藩主細川韻邦公の弟長岡護美公の建議により明治元年朝廷 より 神祭仰出され、本妙寺(西区花園)に坐す浄池廟を神道儀式にて守護する。 明治四年 神仏分離令が出された後、熊本城内に神宇を創建し錦山神社と公称する。 明治七年 明治六年、城内に熊本鎮台が置かれた為、京町台に改築遷座奉祀する。 明治十一年 陸軍中佐乃木希典公西南の役戦勝報賽、祭文奏上(御神宝として所蔵)。 明治十七年 西南の役で社殿が焼失していた為、社殿再建に着手、十九年に竣工。 明治四十二年 清正公三百年祭斎行に伴い、社号を「加藤神社」と改称する。 同年閑院宮殿下御参拝、同年陸軍大将乃木希典公より太刀一振薙刀一本 献納される(御神宝として所蔵)。 明治四十四年 伏見宮殿下御参拝 昭和六年 昭和天皇の勅使として侍従山県公爵が幣帛料を下賜される。 昭和三十七年 永年の熊本城内遷宮の宿願叶い現在地に遷宮する。 昭和四十六年 御創建百年を記念し、御鎮座百年記念大祭を斎行する。 昭和五十六年 御神徳の昂揚を目的として加藤神社崇敬会を結成する。 昭和六十三年 清正公肥後入国四百年記念大祭を斎行する。 平成十九年 熊本城築城四百年記念大祭を斎行する(清正公嫡男忠廣公終焉の地 出羽庄内より忠廣公ご尊像が里帰りされ、神殿内に一時安置 清正公 との対面を果たす) 平成二十三年 清正公生誕四百五十年没後四百年記念大祭を斎行する。 平成二十四年 城内遷宮五十年記念大祭を斎行する。例大祭 「春季大祭」四月二十四日 「夏季大祭」七月二十四日 「清正公まつり神幸祭」七月第四日曜日・「清正公夜市」神幸祭の前週土曜日 (七月第ニもしくは第三土曜日)」「昔も今も、未来も、いつの時代にも熊本には熊本城があります。天守復活」右手に「手水舎」。「天守閣大天守内部は地上六階地下一階、小天守内部は地上四階地下一階の建物です。明治10年(1877)西南戦争直前に焼失し、現在の天守は昭和35年(1960)に古写真などを基に再建されたものです。白漆喰と黒い下見板の調和が力強く、大天守最上階の出窓には「唐破風」という曲線の装飾、下の階には「千鳥破風」という反りが美しい装飾も施されています。現在も「熊本の誇り」といえる建物です。」「加藤神社」境内から復活した「大天守」、「小天守」を見る。手前の石垣の一部は、この日も崩れたままに。「大天守」(右)は地上六階地下一階。白漆喰と黒い下見板の調和が力強く、大天守最上階の出窓には「唐破風」という曲線の装飾、下の階には「千鳥破風」という反りが美しい装飾が。「小天守」(左)は地上四階地下一階。「大天守」をズームして。更に。カメラの向きを変えて。「小天守」をズームして。「宇土櫓」の白壁の一部は剥げ落ちて。「醍醐の桜」。「醍醐の桜と百螺祈願この桜は加藤清正生涯の師である豊臣秀吉が1598年に「醍醐の花見」をしたことで有名な京都総本山醍醐寺(弘法大師の孫弟子、里源大師・聖宝が八七四年に創建した真言宗醍醐派の総本山。開創後、皇室をはじめ貴族や武士の深い帰依を受け、国宝・五重塔をはじめとする多くの堂宇が建立され、真言密教の中心的寺院として多くの信仰を集める)の桜の子孫で、樹齢約160年と言われている「太閤しだれ桜」をクローン技術で現在に蘇らせた桜です。平成28年4月に起こった熊本地震の鎮魂と復興を祈るため、醍醐寺を中心とした全国の醍醐派修験者総勢百余名がここ加藤神社に集結し、百丁の法螺貝を立て当社宮司をはじめとする神官とともに「百螺祈願」なる神仏習合の祈りを厳修しました。その際に植樹されたのがこの「醍醐の桜」です。この百螺祈願は、加藤清正公が熊本城を築城される際、龍蔵院という山伏を招き、地鎮祈禱を行ったという歴史的史実に基づくもので、その史実を再現し熊本への祈りとしたものです。」「加藤神社」拝殿を正面から。更に近づいて。扁額には「仰清正公」と。内部では七五三の神事が行われていた。境内から石鳥居を見る。手前には大きな御神木が「白鬚神社 清正公お手植えの樹」案内板。「白鬚神社」社殿。「末社 自鬚(しらひげ)神社(ご祭神) 白鬚大明神ー導きの神 菅原道真公ー学問の神 (猿田彦神) 大国主神ー福徳円満の神 恵比寿神ー商売繁盛の神(例祭日) 十月五日 午前十時」左手に「社務所」。再び熊本城「大天守」、「小天守」を見る。「熊本城 北大手櫓門跡」の石垣は崩壊防止のために全面モルタルで覆われていた。「北大手櫓門跡 石垣の工事江戸時代、本丸に入る三つの大手門のうち、この石垣の上には北大手門と呼ばれる櫓門がありました。平成28年(2016)の地震により、この道沿いの石垣は崩落こそ免れましたが、亀裂が入り大きく膨らむなどの被害がありました。二次崩壊を防ぐためにネットを張り、大型土のうを積んで応急的な安全対策を施しています。」更に進むと左手には「戌亥櫓」と「戌亥櫓」に繋がる石垣が見えた。石垣が大きく崩れたままであることを確認できたのであった。石垣の石は全て下に落ちて。日没が迫り空はオレンジ色に。「監物櫓監物台樹木園の敷地北側には、国の重要文化財に指定されている監物櫓があります。江戸時代には豊前街道・豊後街道脇に位置しており、北の守りを固めていました。平成28年熊本地震で外壁が破損し、建物本体が傾きました。平成31年( 2019 ) 3月に建物解体が終了し、解体した部材は格納庫で復旧まで保管しています。」「戌亥櫓」のシルエット。「監物台樹木園」は休業中と。「監物台樹木園」案内板。熊本地震で被災し、崩れ残った石垣が辛うじて建物を支えている熊本城の「戌亥櫓[いぬいやぐら]」が復旧に向けて解体されることになり、11月にも関連工事が始まる。被災を象徴し、全国から注目されてきた「一本石垣」は近く見納めになりそうだ。現在の戌亥櫓は2003年、西出丸に完成した復元建造物。16年の熊本地震で石垣がえぐられるように崩落。飯田丸五階櫓(既に解体)と同様に角石[すみいし]が柱のように残っている。11月にも、解体の際に櫓と石垣を安定させる鉄骨などの設置に着工。来年4月ごろから約1年かけて解体した後、石垣を復旧して櫓を建て直す とのこと。耐えぬいている石垣をズームして。正面から見ると、石垣だけでなく櫓も傾いている事が理解できたのであった。「戌亥櫓(いぬいやぐら)戌亥櫓は西出丸の北西角に位置する三階櫓で、北西を意味する「戌亥」の名が付けられました。「西出丸」は本丸の北西側に張り出した一帯のことです。櫓は明治時代に解体されましたが、平成15年(2003)に木造復元しました。平成28年(2016)の地震では、櫓下の石垣が大きく崩落して角石のみで櫓を支え、さらに東側に延びる石垣もほとんどが崩落しました。」「西南戦争 籠城将校家族避難跡」碑。「西南戦争籠城戦明治10年(1877)2月から9月まで続いた西南戦争は、九州各地で戦闘が繰り広げられ、近代日本において最大かつ最後の内戦となりました。熊本城では籠城戦が繰り広げられました。籠城したのは鎮台兵や将校家族ら約3000人、それに対し1万を超える薩軍が城を取り囲みました。鎮台は城内の飯田丸・竹の丸などに築造した砲台から城を取囲む薩軍を砲撃し、薩軍は近くの花岡山や市街地の砲台から城を砲撃しました。飯田丸などに多くの砲弾が落下したという記録が残っています。薩軍による城の包囲は長期化し、最終的には薩軍が坪井川を堰き止め、水攻めが行われました。それでも鎮台は持ちこたえ、味方の軍勢が入城して籠城が解かれるまでの50余日の間、薩軍から熊本城を守りぬきました。」再び「戌亥櫓」を見る。「大天守」、「小天守」、「宇土櫓」を見る。「大小天守の再建西南戦争直前に焼失した大小天守の再建事業が動き出したのは第二次大戦後で、熊本市政70周年と加藤清正入国360年祭の記念事業として天守再建が決定しました。江戸時代の絵図や明治初期の古写真を根拠として、外観が忠実に再現されています。多くの市民のカ添えにより昭和34年(1959)に着工し、昭和35年(1960)に完成しました。」昭和35年 再建工事中の大小天守。「大天守」、「小天守」、「宇土櫓」前の石垣上の塀は全て倒壊したまま。更に進んで。「大小天守と宇土櫓正面右側に見える大天守は、慶長5年(1600)の頃に加藤清正によって築かれました。正面中央は小天守で、大天守築造後に別棟として建てられ通路でつながっています。大小天守は明治10年(1877)の西南戦争直前に焼失し、昭和35年(1960)に鉄筋ンクリート造で再建されました。正面左側は宇土櫓で、大天守・小天守に続いて「三の天守」とも呼ばれます。宇土櫓は江戸時代から残る重要文化財建造物です。」「宇土櫓」も傾いているのであった。全て倒壊した石垣上の塀をズームで。撮影ポイントなのであろう。「大天守」を。「小天守」を。「宇土櫓」を、残念!!熊本城二の丸から。「熊本城二の丸由来記慶長12年(1607) 加藤清正熊本城を築きこのあたり二の丸に重臣屋敷を置く。寛永 9年 (1633) 細川忠利肥後領主となり熊本城に入る。宝暦 4年 (1754) 細川重賢二の丸に藩校時習館を開設明治 4年 (1871) 廃藩置県後城内に鎮西鎮台が置かれる 明治 8年 (1875) 歩兵第十三聯隊が置かれる明治 9年 (1876) 神風連の変おこる明治10年 (1877) 西南の役に鎮台将士が籠城する大正14年(1925) 歩兵第13聯隊移転昭和 2年 (1927) 熊本陸軍教導学校が置かれる昭和 6年 (1931) 天皇行幸がある昭和18年 (1943) 編成改編により熊本陸軍予備士官学校と改称される昭和20年 (1945) 同校閉校 同校跡に官立熊本医科大学(後の国立熊本大学医学部)が置かれる昭和27年 (1952) 国の史跡に指定される昭和30年 (1955) 国の特別史跡となる昭和37年 (1962) 国立熊本大学医学部・体質医学研究所移転 熊本県立第ニ高等学校が創立される昭和43年 (1968) 同校移転昭和47年 (1972) 熊本城二の丸公園として整備される」そして日没前の夕日を駐車場で追いかける。「二の丸広場の変遷」案内図。「江戸時代の二の丸熊本城本丸の西側に広がる二の丸広場一帯は、北に百間石垣、西に空堀、南に高い石垣や空堀、東に空堀を扶んで西出丸(本丸)に面しています。江戸時代には上級家臣の屋敷が建ち並んでいました。また、宝暦5年(1755 )には二の丸の一画に藩校「時習館」が開校しました。」「藩校 時習館宝暦5年(1755)に開校した時習館は、家臣の子弟のほか、庶民も優秀な者は入学が許可され優秀な人材を多く輩出しました。時習館は南北約123m、東西約84mの敷地で、北側には教育を行なう建物がありました。また、敷地の南西には武芸所が置かれました。」「明治以降の二の丸ニの丸は明治6年(1873)には陸軍兵営となり歩兵第13連隊が駐屯しましたが、大正14年(1925)の連隊の移転後には学校が置かれました。その後、学校等の移転に伴って陸軍以来の建物が解体され、昭和44年(1969)からは都市公園として整備が進み、現在は市民の憩いの広場として親しまれています。」「二の丸広場」を見る。再び夕日を追う。月の姿も。この日の夕日も見納め。そして熊本市中央区新市街2にあるビジネスホテルに到着する。チェックイン後夕食に出かける近くの「サンロード新市街」のイルミネーション。そして「酒湊」で夕食兼本日の反省会を焼酎片手に。注文した魚類。しかし醤油が甘すぎるのであった。やはりMy醤油を携帯すべきであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.16
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「天嶽院」の紅葉を楽しんだ後の帰路に「俣野別邸庭園」に立ち寄った。横浜市と藤沢市の市境に位置する風致公園。 園内は、河岸段丘を利用した高低差のある地形が特徴で、外苑と内苑に分かれている。外苑は、住宅地の中にあることを忘れさせる静かな雰囲気に包まれており、四季折々のさまざまな花木や草花を楽しむことができる。内苑は、平成29年4月に公開され、俣野別邸の主屋を中心とした芝庭が広がっている。公園名の由来となった俣野別邸は、昭和14年(1939年)に住友財閥の創業者一族である住友家当主であった16代住友吉左衞門が東京本宅の別邸として建築させた、和洋折衷の住宅で、主な部屋の造りや仕上げが復元されており、横浜市認定歴史的建造物に指定された。設計者は佐藤秀三であった。 晴天時には、外苑や俣野別邸の展示室から、丹沢山系や富士山を望むことができる。「俣野別邸庭園」案内図。横浜市戸塚区東俣野町。駐車場の銀杏の木は既に完全に葉を落としていた。「俣野別邸」の建物に向かって坂道を上って行った。そして木製の階段を上る。紅葉のエピローグを迎えた古木が迎えてくれた。コーヒーショップ・喫茶店の「ひだまりガーデン」前の広場。こちらが旧東海道沿いにある正門からの進入路。「本邸」の前庭に向かって進む。ここの紅葉も「天嶽院」の紅葉よりも赤が鮮やかと感じたのであった。ズームして。黄葉も見事に。再び紅葉。「旧俣野別邸」を見る。ズームして。内苑に位置する俣野別邸は、昭和14年に建てられた。昭和初期のモダニズム影響下における、ハーフティンバー・スタイルを取り入れた和洋折衷住宅建築として評価され、平成16年7月に国の重要文化財に指定された。(平成21年に焼失し、平成23年に国指定重要文化財が解除)現在の建物は、既存建物の主要部分の焼失後、横浜市が公園施設として再建したもの。公園施設としての公開にあたり、一部改変、付加した部分はあるが、主な部屋の造りや仕上げはオリジナルのものを忠実に再現している。平成29年2月10日、横浜市認定歴史的建造物となった。さらに最奥の「芝生広場」前にある「休憩棟」に向かって遊歩道を進む。「紅葉」を楽しみながら「もみじ谷」の遊歩道を進む。そして「もみじ坂」を進む。そして「休憩棟」に到着。棟内の「俣野別邸庭園 園内MAP」休憩棟内には鳥類の標本が展示されていた。こちらは「カブトムシ、クワガタ、オオスズメバチ・・・」。園内で捕獲されたものであろうか。「アメジストセージ」であろうか。ここが「芝生広場」。ススキに似ているが。「ガウラ」のピンクの花であろうか。バナナの木。バナナがタワワに。ここの「ドウダンツツジ」の紅葉もエピローグへ。そして「ツワブキ」の花。小一時間の滞在の後に、駐車場に戻り、駐車場100円を支払い、5分強で帰宅したのであった。 ・・・おわり・・・
2021.12.15
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「田原坂公園」を後にして「西南戦争 田原坂の戦い 七本(ななもと)官軍墓地」へ向かった。突き当り近くに車を駐め散策開始。「西南の役 七本官軍墓地」案内柱と案内板。「西南の役 七本官軍墓地」案内柱。「七本官軍墓地」案内板に近寄って。「明治10年( 1877年)西南戦争で戦死した政府軍の軍人、軍夫、警察官を埋葬した官軍墓地は21ヶ所あります。墓碑には、階級、氏名、所属隊名、戦死した日、場所及び出身地などが刻まれている。ここには、熊本鎮台14連隊所属の河原林雄太少尉ほか、植木、滴水及び木留などの戦闘で戦死した東京、大阪、名古屋、広島及び熊本鎮台の兵士300余名が埋葬されている。」「七本官軍墓地」に入る。「背負いの松」。「背負ひの松明治二十七年二月郷里より背負い来りて之を植ゆ大正十五年四月再展墓の日此碑を建つ」 と。出兵とき、故郷からこの松を背負って植えたという事。何代目の松であろうか。礼拝所であろうか。墓地内に建ち並ぶ墓碑。墓碑には、階級、氏名、所属隊名、戦死した日、場所及び出身地などが刻まれていた。大きく枝分かれした楓の木であろうか。「熊本縣指定史跡 七本官軍墓地」碑。楓の木の下にも墓碑が。そして「七本官軍墓地」を振り返る。駐車場側の入口がここ。そして再び「田原坂公園」前を通り「田原坂」沿いの狭い道を車で進む。右手にあったのが「田原坂 三の坂」碑。「伍長谷村計介戦死之地」碑。「西南の役 谷村計介 戦死之碑」。「谷村計介の碑宮崎県諸県郡倉岡の生れにして、明治5年徴兵により歩卒として熊本鎮台に入隊する。明治7年2月佐賀の乱に際して戦功をあげ、6月陸軍伍長となり、8月第11大隊に属して征台の役に従軍した。明治10年西南役に際しては熊本城内にて守城軍として活躍し、命により密使として征討軍本営との連絡にあたり、使命を果し、再び第1線に参加して、3月4日田原坂にて戦死する。25才」。この斜めに進む道が「田原坂」であろう。こちらは上り坂の方向の「田原坂」。更に上ると。「西南の役 戦没者慰霊碑」。碑を正面から。「田原坂 二の坂」。更に竹林の中を下って行った。右手の「田原坂 一の坂公園」の入口にあったのが「田原坂 一の坂」碑。「西南の役 一の坂公園」碑。「田原坂「一の坂・二の坂・三の坂」」案内板がここにも。「一の坂公園」案内板。「一の坂公園」を後にして、国道208号に向かって進むと左手にあったのが「豊岡眼鏡橋」。「豊岡眼鏡橋」は、享和壬戌二年十月に作られたもので、年号のはっきりしている石造眼鏡橋では熊本県内で最も古い橋といわれていると。 享和二年は西暦1802年に相当し、江戸時代後期にあたり、熊本県で有名な霊台橋や通潤橋よりも古い橋。 この石造眼鏡橋は両脚の幅12.2m、高さ4.4m。輪石と輪石を楔石で継いだ単一アーチ橋で、輪石の厚みは45cm。 この橋を渡って川沿いに添って進むと旧道があり、国道208号へ出た所に『田原坂攻撃官軍第一線陣地阯』の石標が立っているのだと。 官軍は田原坂本道の丘の右翼及び左翼へこの川沿いの旧道を通り、この眼鏡橋を拠点にして出撃して行ったのだと。そしてこの日・初日の最後の目的地の「熊本城」に向かって県道31号に戻り進む。前方に見えて来たのが「熊本環状道路」。そして右手の九州新幹線に沿って進む。そしてこの日の最後の目的地の「熊本城」に到着して「二の丸駐車場」に車を駐める。「西大手櫓門・元太鼓櫓熊本城では西出丸に西・北・南3つの大手門を置き、このうち城の玄関にあたる西大手櫓門は最大規模かっ最も格式の高い門でした。明治時代に軍が取り壊した後、昭和の復元工事や平成の台風被害等を経て、平成15年(2003)に木造で復元しました。元太鼓櫓も同時期に復元したものです。平成28年( 2016 )の地震で、西大手櫓門・元太鼓櫓ともに石垣が崩落し、櫓が傾きました。現在、建物と石垣は回収し、崩落防止の安全対策を行っています。」熊本城内地図。左手に堀とその奥に「戌亥櫓(いぬいやぐら)」と倒壊した「西出丸塀」。「戌亥櫓(いぬいやぐら)」をズームして。未申櫓(ひつじさるやぐら)。ここが「西大手櫓門」が建っていた場所。熊本地震前後の「西大手門櫓」と「元太鼓櫓」の写真。近寄って。「西大手門と元太鼓櫓の安全対策平成28年熊本地震で西大手門の石垣は崩落しましたが、建物は隅の石垣で支えられ倒壊は免れました。一方、元太鼓櫓は平成30年(2018) 6月に大雨によって倒壊しました。復旧作業では建築部材と崩落石材を回収した後、石垣はモルタルを吹き付けネットで養生を行い、栗石をカゴの中に入れて積み上げ、安全対策として利用しています。」既に16:30近くになっており、「大天守」への入場は終了していた。こちらは「宇土櫓」。「宇土櫓」の屋根には鯱(しゃち)がのっており、大小天守閣と並んで“三の天守”と呼ばれることもあります。この鯱は、もともとあったものではなく、昭和2年(1927)に陸軍が解体修理した際、城内に保管してあった鯱を取り付けたものです。青銅製で高96センチ、重さ約60キロ。ちなみに、鯱は阿(あ)と吽(うん)の2体で1対となります。「宇土櫓」は、初代熊本藩主加藤清正の時代の慶長年間(1596~1615年)に建造されたとされる木造建築物。高さは約19メートルあり、外観は3層、内部は5階建てで地下1階がある。「宇土櫓」とその後ろに「大天守」その左に「小天守」。再び「宇土櫓」をズームして。「宇土櫓 国指定重要文化財「三の天守」とも呼ばれる宇土櫓は、地上五階・地下一階、建物の高さは約19m、土台石垣の高さは21m以上と大天守に次ぐ大きさです。西南戦争直前に大小天守は炎上しましたが、宇土櫓は焼けずに残りました。熊本城では江戸時代から残る唯一の五階櫓です。平成28年(2016)の地震では、南に付く続櫓が倒壊し、五階櫓の壁漆喰・床などが破損しました。土台石垣も大きく膨らんだ箇所があります。」改修工事が完了した「大天守」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.15
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「天嶽院」の参道を「山門」に向かって紅葉のトンネルを進む。時間は14:00前、陽光が参道に射し込んで。「山門」前には、多くのカメラマンの姿が。「山門」手前の紅葉は今がピーク。「山門」下から歩いて来た「参道」を振り返る。再び「山門」前の仁王門を見る。「山門」を再び。そして県道312号線・田谷藤沢線に向かって「六地蔵尊像」が。通りに面し通行人に語り掛けるような優しいお顔で並んでいた。「温顔和楽」と刻まれた石碑も。「和楽」とは なごやかに楽しむこと。互いにうちとけて楽しむこと。常にこのお地蔵様のごとくに「温顔和楽」の日々でありたいが。左から、いきいき地蔵・すくすく地蔵・にこにこ地蔵・ふくふく地蔵・らくらく地蔵・ほかほか地蔵 と名前が刻まれていた。この巨大な地蔵様も色違いの巨大マスクをしていたら面白いとも・・・。「六地蔵尊」前から「山門」方向を見る。「駐車場」の先には「聖観世音菩薩立像」が。ズームして。右手に開蓮と未開蓮を挿した水瓶を持つ。「鐘楼」に向かって進む。ドウダンツツジの紅葉もエピローグへ。「鐘楼」への道の左手のこの石碑は??「鐘楼」。「庫裡」の横には「六地蔵」が。切妻造本瓦葺と入母屋造本瓦葺で裳腰付きの建物が並ぶ「庫裡」。「六地蔵」。「鐘楼」の奥には参道の紅葉が。そして駐車場の車に戻り高台にある「墓地」に。整備された霊園中央には大きな地蔵が祀ってあった。順にズームして。その横に「○地蔵」が。赤子を見つめる優しいお顔。二体を一緒に。「地蔵嘆喝(じぞうたんげ)」👈リンク地蔵菩薩を讃え捧げる経文であると。「境内・霊園案内図」境内の周囲に大きな霊園が囲んでいることが判ったのであった。村岡の街並みの先に箱根・二子山の姿が。曹洞禅師の寺であるが、「南無妙法蓮華経」の文字が塔婆、石碑に。「墓地移転改葬の碑藤沢市立村岡小学校北東の隣接地藤沢市弥勒寺参百五拾五番地面積四百貮拾九平方米の通稱向田山墓地は周辺の開発に伴ない児童数の急増による校地の拡張校舎の増改築等の為移転の止むなきに至る依って墓地供用者一同は先祖代々の霊及び無縁の霊に崇敬供養の誠を捧げ此虎に改葬する。」椿の木には花が咲いて。青空に映えて。南東の方向を墓地の隅から見る。左前方には「湘南ヘルスイノベーションパーク」の建物が見えた。「湘南ヘルスイノベーションパーク (湘南アイパーク) 」は、2018年4月、武田薬品工業(株)が湘南研究所を開放することにより設立された、企業発のサイエンスパーク。製薬企業のみならず、次世代医療、AI、ベンチャーキャピタル、行政など、幅広い業種や規模の産官学が結集し、エコシステムを形成することで、ヘルスイノベーションを加速する場となることを目指している。この広大な湘南アイパークの約半分の建屋をタケダが研究所として利用し、残りがテナントとなっている。「JR大船工場跡地」には「木下大サーカス湘南鎌倉公演」の巨大テントが。大山の姿も。そして我が藤沢市役所庁舎。ビルの合間から湘南の「光る海」が。「富士山」の姿もかろうじて。そして友人の母校・中学校の姿も。 ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2021.12.14
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「田原坂公園」の散策を続ける。「崇烈碑」の案内板。「崇烈碑」。碑文の文字は全て漢字のみで。「田原坂崇烈碑碑文には当時の社会情勢や戦いの推移、田原坂の激戦の様子などがまとめられています。とくに、西南の役の激戦のなかで、死傷者が四千余人にものぼった田原坂の戦いの様な激しい戦いは他にはなかったこと。またもし薩軍が南関を破り北上したなら、各地の政府に不満の者が隙を見て立ち上がり、禍いは測り知れぬものになっただろう。そうならなかったのは田原坂の戦いに勝ったからであること。以上、田原坂激戦と勝利の意義が官軍の立場から述べられています。○碑文鹿児島県は西海に於いて地最も広く、人最も勇なり。而して西郷隆盛名望世を蓋(おお)ふ。海内(かいだい)の人士(じんし)其の進退を候し、以て安危と為すに至る。明治十年二月隆盛反し熊本城を囲む。天皇震怒(しんど)、兵を発して之れを討つ。熾仁(たるひと)総督の責に任ず。陸軍中将山県有朋、海軍中将川村純義参軍たり。賊は兵を分ち、植木山鹿の両道を扼(やく)し、進んで高瀬に入る。二十七日我軍高瀬を撃ちて取る。越えて四日木葉を抜く。賊退いて田原坂の険に拠る。而して熊本の囲み益々密にして援路皆断つ。夫れ田原の地たる両崖壁立(りょうがいへきりつ)経路崎嶇(けいろきく)たり。賊悉(ことごと)く精鋭にして堅塁を築き、咆哮出没(ほうこうしゅつぼつ)虎狼(ころう)の如く有り。要害形を異にし、攻守勢を殊(こと)にす。而して我が軍殊に死戦昼夜をすてず十有七日遂に之れを抜く。死傷四千余人、この役たるや鏖戦(おうせん)前後数百、而して未だ田原坂の如き劇あらざるなり。苟(いやしく)もこの坂にして抜けず、賊をして南関を破り北せしめば、四方不逞(ふてい)の徒必ず隙に乗じて起ち、禍ひ測るべからず。而して其れを此に至ら使めず、遂に速やかに討滅に致らしむるものは実に此の一捷(いっしょう)に由る。嗚呼(ああ)死者の功大なり。而して焉(いずくんぞ)見るに及ばず、痛ましい哉。因って碑を阪上(ばんじょう)に建て、似って之れを記す。蓋(けだ)し忠烈を勧奨(かんしょう)する所以なり。 明治十三年十月 陸軍大将二品大勲位 熾仁親王撰文竝篆額陸軍省六等出仕従六位勲五等秋月新太郎書○訳文鹿児島県は西日本の中でも土地が広く、人々は勇敢でした。そして、西郷隆盛の名声は世間に知られていました。国内の士族には西郷の進退をうかがい、西郷に影響を及ぼす者もいました。明治十年ニ月、西郷隆盛は反乱をおこし、熊本城を囲みました。天皇は大変に怒りになられ、軍隊にこれを討たせられました。熾仁親王が征討総督で、陸軍中将山県有朋、海軍中将川村純義が参軍となりました。薩軍は兵を分け植木、山鹿の両道を抑え、進軍し高瀬に入りました。ニ十七日、官軍は、鬲瀬を占領。三月四日には木葉も占領しました。薩軍は退却し、田原坂の要地に陣を築きました。その上、熊本城の囲みも固く、援軍の路も絶たれました。この田原坂の地は両側が壁のように立ち、小さな路がけわしいところです。薩軍は皆精鋭の兵で、しかも堅固な陣地を築き、そこから狼や虎が吠えて襲う様に出撃しました。攻めるのに難しく守るのに易しい地形の要地に官軍も苦戦を強いられました。こうして激戦昼夜を問わず十七日に及び、ついに薩軍を撃退されました。死傷四千余人、西南の役中に数百の激戦がありましたが、しかしいまだに田原坂のような激戦は他にありませんでした。もしもこの坂を抜くことが出来ないで、薩摩が南東を破り北方に進出したならば、直ちに政府に不満を持った者たちが必ず隙をみて立ち上がり、禍は測り知れなかったでしよう。しかしそんな状態に至らず、すみやかに撃破することが出来たのは、実に田原坂戦の勝利によります。ああ、誠に死者の功績は大きく、そのままにしておけない痛ましいことである。そこで碑を田原坂の坂上に建て、このことを記し、忠烈な戦いを顕彰するものである。明治十三年十月 陸軍大将二品大勲位 熾仁親王撰文竝篆額陸軍省六等出仕従六位勲五等秋月新太郎書なお、この崇烈碑建立の経過について明治十三年九月十三日五野保萬日記によると鹿本郡植木町大字豊岡(田原坂)の山中において、過る十年に、鹿児島の西郷隆盛が事変を起こしたことや、その経過等について大石記すこととなった。ところでこの石は、~略~八代港に着船した。この石は白く、石幅は約一.二〇m、長さ約四.五〇m。重量約三、六〇〇kg、これを運搬することは大変な作業であった。車に乗せ牛十五頭、作業人員三十名(石工、大工、人夫)が各々作業をして六十日を要し、斬く田原坂上に到着した。来年の三月に建立完成の子定である。碑には当時の戦闘の様子を詳細に記載し、将来になってもその当時の状況が判るよう、政府から建立されるものである。国もそうであるように、自分も又碑石建立の経路を、後世の為に書き遺しておく。とある。平成五年三月 植木町教育委員会」「田原坂 一の坂・二の坂・三の坂麓の豊岡眼鏡橋からの標高差は僅か80mの田原坂。一の坂、二の坂、参の坂と頂まで1.5kmの曲がりくねった道が続く。この道だけが唯一大砲を曳いて通れる道路幅(3m~4m)があり、この坂を越えなければ官軍の砲兵隊は熊本へは進めなかった。また、薩軍にとっては生死を制する道である。ともに戦略上の重要地であり、この平凡な坂道が激戦の舞台となった。熊本城からこの田原坂までくり抜いた凹道となっていた。故に、前方の藪や左右の高所より銃撃を受けやすく攻め難い要地であった。」「正面に見えるのが田原坂です。」「民謡 田原坂一、雨は降る降る 陣羽(じんば)は濡れる 越すに越されぬ 田原坂ニ、右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱(たづな) 馬上ゆたかな 美少年三、山に屍(しかばね) 川に血流る 肥薩(ひさつ)の天地 秋にさびし四、草を褥(しとね)に 夢やいずこ 明けのみ空に 日の御旗(みはた)五、泣くな我が妻 勇めよ男子ら 戦地に立つのは 今なるぞ」元歌は一番とニ番だけだと。その他にも色々な歌詞も多いようだが、それらは後になって創作されたものと。特に日露戦争の後に、西南戦争とダブルイメージされて、お座敷遊びの歌として、様々な歌詞が、次々とうまれのだと。歌詞は数えきれない程あるのだと。「玉名市玉名 西南戦争の本営跡1877年(明治10)の西南戦争の時、高瀬に進出した官軍(政府軍)が薩摩軍を追って、さらに田原坂方面に進撃するまで、官軍野津鎮雄(少将)司令長官ら、首脳が作戦会議など開いた場所。熊本城は薩摩軍の大軍に囲まれ、一刻も早く応援軍を待つより方法はありませんでした。熊本軍団の伍長・谷村計介は、農夫に変装し城を脱出しました。再三、捕えられますが、運よく、脱出に成功します。辛い苦労を重ねて高瀬の本営付近に達することができましたが、心身ともにやつれた谷村の容姿は、忍びの者として官軍に捕えられます。野津司令長官の前で、熊本軍団の谷司令長官の言葉と暗号で熊本城中の悲惨な状況を伝えました。野津司令長官はその働きを誉め讃えたそうです。この谷村伍長の話は、戦前の修身(道徳)の教材となっていました。」この案内板がなぜここに? 史実からいろいろな経緯が感じられる案内板なのであった。「田原坂附近之戦略図」。「田原坂の攻防戦詳報明治維新は明治十年西南役(日本史最終最大の骨肉相喰む内乱)の終結によって確立いたしました。その西南の役の勝敗を決定づけたのが明治10年3月4日に始まり3月20日まで17昼夜にわたる、その戦役中、最も惨憺激烈を極めた田原坂の戦闘であります。「官薩両軍共に精鋭をここに傾倒して、一攻一守、一与一奪、彼必死、突撃すれば我死守し、彼死守すれば、我れ必死突撃する。或日には暗雲空を覆って大雨盆をくつがえす如く、或朝は深霧漠漠として陽光ためにもうもう、或夕べには 天色惨憺として、細雨霏霏、嗚呼銃砲は連発畳射して、硝煙の間に剣光ひらめき、人叫び 馬いな鳴き、田原全山の草木ことごとく射断されて、血河の中に屍累累」と当時の状況を表現してあります。官軍から発射された弾丸は1日平均32万発と云われております。かりに明治37、8年日露戦争旅順攻撃当時の1日平均発射弾数30万発でありますが、これに加えこれに負けじと打ちまくった薩軍の弾数を入れますと如何に激烈を極めたか、窺うに足ると思います。民謡にあります「雨は降る降る人馬は濡れる越すに越されぬ田原坂」うまい表現で当時を描写されております。(中略)19日は曇後雨、夜半から薩軍にとって運命の大豪雨となる。20日夜来の豪雨止まず、先ず七本の柿木台場奪取されて17昼夜間の官薩相ゆづらぬ攻防戦、田原坂遂に陥落」志賀青研の句碑があった。平成8年(1996年)6月、建立。【たゝかひの あとゝし 花のちるばかり】裏面には「平成八年六月 建立熊本市 花鳥句会志賀青研 大正ニ年生俳句を高浜虚子門として花鳥諷詠の道を精励す俳誌ホトトギス同人 日本伝統俳句協会参与 俳誌阿蘇当季雑詠選者」この碑は裏面か?「勇知之(いさみともゆき)文学碑」。『そこには いつも 故郷の山々が あった』。裏面には、勇知之の人となりが紹介されていた。勇知之氏は、昭和二十一年一月植木町に生れる。昭和四十六年から長きにわたり、主に熊本の歴史を研究し、作品を通して普及活動を続けている郷土史家・小説家です昭和四十六年に荒木精之氏主催の「日本談義」の同人となり、これまてに「西南の役」関連等、史実に基づいた郷土史や小説をニ十冊出版されています。また、県内各地の公民館等で「郷土史講座」を開催するほか、全国各地からの招へいに応し講演活動を行うなど、熊本の歴史・文化の普及活動や、後進の指導にも努めておられますさらに、故郷の植木町(現在は熊本市植木町)にあっては、町史編篳委員として町史発刊に携わり、町の文化財保護委員や文化振興アドハイザーを歴任するなど指導力を発揮し、地域の文化振興に貢献されています。このように、氏は、本県の史実を深く研究し、その普及啓発活動を通して、本県の文化振興に大きく貢献されています。「蓮田善明先生文学碑」。『ふるさとの 驛におりたち 眺めたる かの薄紅葉 忘らえなくに』「蓮田善明君は明治丗七年七月廿八日父慈善母ふじの三男として植木町に生れ〇〇広島高師広島文理大に学んで國文学を専攻職を岐阜二中諏訪中台中商業成城高校に奉じまた同志と計って雑誌文芸文化を公刊した雨来君は民族詩心の恢弘に努め鴎外の方法その他多くの述作を遺しその清新卓抜の論は江湖に普く宣伝されたが昭和十三年秋召集将校として中國に渡り更に十八年秋には南溟の戦に参加し廿年八月十九日マレー半島ジョホールバールにおいて壮烈な最期を遂げた君は性来篤実にして真摯特に近親知知に対する愛情濃かで寸刻を惜しんで学究に精励したその性の清潔と学風の高邁さはまさに秀達の一語に盡きよう今はその短命を惜しむと共に永く祖国の上に君の冥護あらんことを祈り旧友相はかってこの碑を建てる昭和三十五年八月」「水原秋桜子句碑」。昭和40年(1965年)11月16日、水原秋桜子は九州の旅に出た と。・「大綿や 古道いまも 越えがたき」・「辺見隊 守りし嶮ぞ 烏瓜」・「吉次越 狐の径と なりて絶ゆ」 と三つの句が刻まれていた。大綿は季語で冬虫のこと、辺見とは薩摩軍の隊長・辺見十郎太、吉次とは田原坂の近くのもう一つの激戦地、吉次峠のこと と。句碑「遠山ハ?かすみ 田原坂 古戦場 真済」。そして「田原坂パノラマガーデン激戦地、田原坂の当時の布陣と地形を再現したもの」。「田原坂パノラマガーデン」。ズームして。「田原坂の戦い2月28日以降、政府軍が後続部隊の到着を待つ間に薩軍は田原坂から東側の台地に無数の壕を掘り、強力な陣地を築いていた。激戦は3月4日午前6時雨をついての政府軍第1次総攻撃に始まったその後3月20日第6次総攻撃で突破するまで、押しつ押されつの激戦が、1 7日間続けられた。政府軍の1日平消費弾丸は32万発、旧式銃で雨のため発射能力の落ちた薩軍は抜刀して対抗した。田原坂の戦いで、戦死したり負傷したりした人は両軍あわせて約5,000人にもなる。」当時の地形および両軍の戦闘布陣を再現したジオラマ。更に進んで別の角度から。「3月20日 田原坂突破時の両軍」。「田原坂17日間の戦い3月4日雨 政府軍、本軍は田原坂を攻撃しようとしたが失敗。右翼隊ニ俣に進出占領。 5日雨 局部的に薩軍の攻撃。政府軍、木葉の本営で6日よりの攻撃部署について協議。 6日時 政府軍、攻撃目標を田原坂に限定し、三方面、、左(豊岡ロ) 正面(境木ロ) 左(ニ俣ロ)より攻撃したが不成功。 7日曇 政府軍は主功方向をニ俣正面に変更。砲隊の支援を受け、ニ俣の谷を越え、東側台上の 薩軍陣地の数火点を占領したが、反撃により台の下に後退する。 8日晴 政府軍は昨日の部署で攻撃したが進展せす。 9日晴 政府軍は従前の部署で攻撃。この日横平山の重要性が判り、火点3コを奪取したが、 この後横平山の争奪戦が連日行われる。 10日雨 休戦。 11日雨 政府軍は横平山、ニ俣、田原の三正面で攻撃。ニ俣正面は砲ハ門で攻撃したが、 十分な効果はなかった。 12日晴 政府軍、ニ俣地区では陸地数箇所を薩軍に奪われる。 13日雨 大きな戦闘はなかった。南関の警視隊から百名を選び抜刀隊を編成する。 14日晴 政府軍は砲隊の支援射撃を受け、抜カ隊を加えて田原坂の薩軍陣地を攻撃し、 3火点を奪取したが後続部隊がなく撤退する。 15日晴 早朝薩軍は横平山の政府軍陣地を攻撃し、政府軍敗退する。警視隊を加え反撃し 午後4時奪回する。 16日晴 田原、ニ俣方面で砲戦を交わす。 17日晴 政府軍、ニ俣より船底を攻撃。砲隊の支援を受け田原本道を攻撃し、3火点を 奪取する。 18日晴 政府軍、田原正面の攻撃をしたが戦況は進展せす。薩軍も熊本隊の救援を受ける。 19日晴 休戦。政府軍は木葉で軍議を開き20日からの攻撃部置を決定する。 20日雨 ニ俣の政府軍は午前5時守戦を出発し、午前6時諸隊一斉に攻撃を開始する。 右翼隊は薩軍(守備高鍋隊)の火点を占領。一部で田原坂を背面攻撃し、 午前10時頃占領。 先峰の隊は午前11時頃植木に進出する。」「田原坂(一の坂・二の坂・三坂)丘の麓の境木部落と田原坂上まで標高差80m、距離にして1,500mで、当時としては道幅も広く鈍角に屈曲した切り通しの坂道である。この切り通しの凹道(堀切道)と、起伏とは、加藤清正の熊本城築城当時、戦術上の意図でわざと作ったものであるという。高瀬(玉名)から熊本へ行くにはいくつかの道があったが田原坂だけが砲隊を進めることのできるただ一つの道で、他の山道は道幅、地形等からして砲隊の前進を拒絶していた。このため薩軍はこの田原坂に防御力を集結した。官軍もこの坂が堅固な要塞と化していることを知りながら他の道を迂回しようとせず正面から堅陣への激突を繰り返した。」「西南戦争当時の田原坂」と「現在の田原坂」。「田原坂公園」はツツジの名所でもある。春になれば。 【https://kumamoto.guide/seasons/azalea/】より「木葉山」を見る。「玉東町」にも多くの遺跡があると。わずかに「雲仙岳」の姿が確認できた。更に「雲仙岳」をズームして。「雲仙岳」。「三ノ岳」。「三ノ岳」下の遺跡案内。そして最後に「田原坂公園展望所」前から「熊本市田原坂西南戦争資料館」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.14
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昨日、12月12日(日)の午後に、我が市内にあり、自宅から車で20分弱の場所にある曹洞宗の寺「天嶽院(てんがくいん)」に紅葉を愛でに妻と行って来ました。この寺に行くのは今回で7度目くらいでしょうか?この門柱に書かれている文字は、我が高校時代の友人Sさんから昨年に教えて頂きました。「雨花知佛境 流水識禅心」ではないかと。天嶽院の歴史は真言宗の古寺「不動院」から始まる。 源頼朝公が治承四年(1180年)、伊豆に兵を挙げ鎌倉を目指す途中立ち寄り、 不動明王様に大願成就の祈願をされたとの伝説がある。明応四年(1495年)、北条早雲公によって伽藍の一寺が創建され、「不動院」を改め曹洞宗の禅寺とし、虚堂玄白禅師を迎えて開山とした。天正四年(1576年)四世住職の代に伽藍は焼失するが、玉縄城主北条綱成・氏繁公父子によって伽藍が復興された。 更に紀伊大納言徳川光貞卿の信仰篤く、六世住職の代に七堂伽藍が完成された。この姿が「相中留恩記略」巻之十八に記載されている。なお天正十九年(1591年)十一月、家康公から三十石の朱印地を賜った事実がある。 安政二年(1855年)二月二十六日、二十二世住職の代に再び火災にあい、大伽藍はことごとく焼失した。焼失を免れ現存する総門(山門)は江戸中期に水戸光圀公が建立したと伝えられる。昭和五十一年(1976年)春伽藍復興に着手、二十年余を経て平成十年(1998年)七堂伽藍を室町時代の様式に統一して復興した。パンフレットより。「功徳山早雲禅師 天嶽院」。パンフレットより。藤沢市渡内1丁目1−1。「天嶽院」の境内配置図をパンフレットから。この日の「掲示板」。「夢と理想の光をうけて虹の大橋心に架かる」と。正面に藁葺屋根の「山門」とその前の「寺号標石」と「仁王像」。江戸末期の安政二年(1855)、再び火災に遭って七堂伽藍が灰燼に帰したが、水戸光圀の寄進と伝わるこの総門(現山門)だけが焼失を逃れたのだと。「天嶽院」と刻まれた「寺号標石」と「仁王像(吽像)」。「仁王像(阿像)」をズームで。「仁王像(吽像)」をズームで。「山門」前にあった「仁王尊像」碑。そして「山門」前からの今年の参道の紅葉。昨年に比べて、やや茶色が濃いか?それとも紅葉の進み具合によるものか。「山門」下から。「千寿梅」と刻まれた石碑。徳川家康公手植えと伝えられる千寿の梅、天正十八年(1590年)小田原城落城後、玉縄城周辺を巡見、立ち寄られたという。梅の木が手前にあったのだろうか?「山門」の先、右手の紅葉を見上げて。参道を進む。一時(ひととき)の京都気分、人の数も少なく。苔に落ちた紅葉。そして階段を上がると右手にあったのが「不動殿」。「山門」を振り返る。ズームして。「不動殿」横の道沿いに建っていた祠。三体の石仏が祠の中に。マスクの姿ではなかった。「参道」の脇の道を戻る。色のアンジュレーションを楽しむ。「山門」が後ろに。椿も花を落として。再び参道まで戻り石舟の上にある「不動尊」を。優しい穏やかなお顔の「不動尊」。「昭和平成伽藍恢興之碑」。昨年もあっただろうか。最上部に三つ鱗(北条鱗)が。「相生松」。道元禅師御道詠碑「峰の色 渓のひびきも 皆ながら 吾が釋迦牟尼の 声と姿と」峯の色も、谷川を流れる水の音もみなことごとく、天地自然の道理の体現であり、 自己本来の面目であり、わが釈迦牟尼の声であり、姿であると。「中雀門」に向かって切石敷の参道を進んで行く。参道左側のこの石は?異形の石燈籠であろうか?「浄聖殿」。「功徳山早雲禅師天嶽院」碑。北条早雲公(戒名 早雲寺殿天嶽宗瑞大居士)が山号を「功徳」、寺号を「早雲」、法堂号(本堂)を「天嶽」と命名。左手にあったのが「庫裡」。入口にあった「おそうじ小僧」。「掃けば散り 払えばまたも塵積る 人の心も庭の落ち葉も」と刻まれた石碑が後ろに。「庫裡」の玄関。この日は「坐禅会」が行わるようであった。参加費は無料と。次の機会に私も・・・。大きなカエルの置物も。玄関には「夢」と書かれた屏風が。そして「中雀門」。扁額は「湘中早雲禅寺」。左右に白壁の築地塀のような回廊を設けた「中雀門」から「法堂」を見る。「中雀門」の真ん中に「常香炉」が置かれていた。香炉に乗っている鞠(まり)を踏む唐獅子と、左右の取っ手部に取り付けられた阿吽形の龍が一対。近づいて。「常香炉」には北条氏の家紋「三つ鱗」が。「中雀門」前から「山門」前の紅葉を振り返る。「不動堂」に向かって進む。再び「浄聖殿」。「不動殿」。「山門」には多くの人の姿が。 ・・・つづく・・・
2021.12.13
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次に訪ねたのが「田原坂公園」、 駐車場に車を駐め散策開始。駐車場横にあった「田原坂」案内板。熊本県熊本市北区植木町豊岡 字舟底858-1。「壮絶!日本最大・最後の内乱の地征韓論に破れ下野した西郷隆盛は、明治十年ニ月一四日私学校党と共に挙兵。これに対し大久保利通ら明治政府はニ月一九日征討令を受けて出兵。ここに約八ヶ月に及ぶ西南戦争が始まった。薩軍は熊本城を総攻撃したが熊本鎮台は落ちず、第一四連隊を敗って北上。しかしニ月ニ五日以降、征討軍が南下し反撃。田原坂で両軍は死闘をくり返した。その後、田原坂が敗れ、熊本城の包囲も背面軍により突破されるに及んで四月一五日薩軍は城北、熊本城より撤退。以後御船、矢部、人吉と敗退を続け、八月一五日宮崎県長井村にて降伏。西郷らは可愛嶽を突破し、鹿児島に戻り城山に籠ったが九月ニ十四日城山にて全滅。ここに日本最大、最後の内乱は終わった。熊本県下で官軍を例にとれば、西南戦争の約七〇%が戦死、県北では五〇%に達するという。県下各地に当時の激戦を偲ばせる戦跡が数多く残っている。」「西南の役年表」同様な内容をネットから。【https://blog.goo.ne.jp/yokkun1949/e/de79ffe026e3b083bde8657dbf0a51ba】より西南の役激戦の軌跡(大略) その1西南の役激戦の軌跡(大略)、その2「田原坂の大戦争」の錦絵。明治十年五月十七日御届右図の山冠に清の版元印より山崎屋清七が版元 と。右図 : 三浦少将・三好少将中図:野津少将左図:桐野利秋「頃日木溜吉次等の戦争に賊兵種々の計策をかまへて戦ひけるが中にもわら人形の計策にハ官兵是を真の賊兵と思ひ我先に乗入打取んとどつとおめいて胸壁に近く進みし折から左右の樹木のかげより不意に撃出す砲声ハ山岳に轟きわたりておそろしけり」「田原坂公園」への石段を上って行った。一対の巨大な石燈籠。「田原坂公園周辺案内図田原坂明治10年の西南の役は、日本史上最大にして最後の内乱であり官薩両軍が国を想う真情と信念により戦われた一大血戦でした。西南の役で最大の激戦となったのが、明治10年3月4日から20日までの17昼夜にわたる壮絶なる田原坂の戦いです。西南の役では、参戦者約10万人・死傷者3万6千人を数え、ここ田原坂の戦いでは死傷者6千5百人にものぼる壮烈な戦いがくりひろげられました。この田原坂公園は、昭和32年に作られ、植木町では、西南の役の意義を後生に残すため田原坂資料館・弾痕の家建設・資料・遺品の保存展示、及び、付帯施設の充実など、田原坂の公園整備に努めています。また、毎年有志により植木町西南の役田原坂慰霊祭などが実施されています。」「田原坂公園周辺案内」用の地図。田原坂公園には、熊本市田原坂西南戦争資料館や激戦の跡が生々しい弾痕の残る家(復元)や慰霊塔も建っており、現在はツツジや桜の名所としても知られている と。「西南戦争戦災の土蔵」(復元)。「西南戦争戦災の土蔵西南戦争当時、田原坂の頂止(植木町大字豊岡字休居二二四四番地)にあった松下彦次郎家の土蔵は、両軍の銃弾で無数の疵を受けました。田原坂の戦い直後に長崎の写真師上野彦馬氏撮影の写真と、明治十三年頃に、熊本の写真師富重利平氏撮影の写真が残されています。(明治二十四年に松下家は、他県へ転出されていますので、その頃土蔵は、取り壊されたかもしれません。)植木町では昭和六十三年に、富重氏の写真を参考にして、土蔵を復元しました。」。激戦の跡が生々しい弾痕の残る土蔵(復元)。平成元年に落成した「弾痕の家」。土蔵の正面入口。「田原坂の激戦と博愛社「日赤」の創立我が国最大最後の内戦、西南戦争(1877年・明治10年)。その中で最も激しかった田原坂の戦い。それは悲慘な日本人同士の戦いであった。この痛ましさを知り、欧州での赤十字社活動を見聞した佐野常民、岩倉具視らは、「敵味方の区別のない救護を」と願った。そして、博愛社の設立を直訴し、設立うかがい書を提出した。設立は直ちに裁可されなかったが、この間、陸軍の西郷従道は「すでに、捕虜の傷者も病院(官軍)にて治療している」旨、岩倉に答えた。田原坂、植木木留の戦いにおいて両軍負傷者が治療されたという伝承も残っている。4月8日、皇太后、皇后より傷病者へ、リント布20巻、白木綿500巻が贈られるなど、天皇、皇族も当初より、心を寄せられた。こうして5月1日、征討総督有栖川宮より、佐野常民に博愛社設立が許可された。当初、博愛社救護所は、木葉(玉東町)に置かれ、田原坂 植木町木留の負傷者等も治療したという。今日も、日赤と皇族方の関わりは深く、その原点である田原坂を度々訪れられている。」土蔵の反対側の壁にも多くの弾痕が。「西南役田原坂 百周年記念碑」。「境米蔵翁之像」。植木町の初代町長(3期)・名誉町民であると。「翁は明治三十年十月二十日桜井村(現植木町)大字平野四ニ一番地境源太郎氏の二男として生を受け山本高等小学校卒業後農業を営み齢四十にして村会議員に選ばれその間村消防団長の職に在ること十年昭和二十二年四月地方自治法施行とともに桜井村長に当選昭和二十六年四月県議会議員に当選昭和三十年一月町村合併促進法に基き現植木町が発足するや同年二月初代町長に就任連続三期在職その間町財政窮乏の中に小中学校々舎新築保育所の整備公民館および病院の建設を行ない産業の振興に工場誘致等の繁栄と住民福祉の増進に貢献し、西南役田原坂史跡顕彰には当時荒廃に帰しつつあったこの地域を整備し官薩両軍戦没者慰霊塔の建立記念館の建設周辺の公園化には一般有志の浄財の外多額の私財を投じその功績は世人の斉しく称賛するところである。翁は町長在職中県町村会副会長郡町村会長郡社会福祉協議会長等の要職にあり自治功労者として全国町村会長熊本県知事から表彰を受け昭和四十二年秋の叙勲に勲五等双光旭日章を四十九年日赤功労者として日本赤十字より金色有功章を受章同年秋の宮中園遊会には翁は千代夫人とともに無上の光栄に浴された。翁はまた熊本県相撲連盟会長司家相撲会長要職を兼ね特に社会体育振興に意を用いられその功績により全国社会体育功労者として文部大臣の表彰を受けられた。昭和四十六年二月再び植木町長に就任昭和五十年二月任期満了勇退後名誉町民の称号を受け晩年は悠々自適の日を送られたが突然病を得て昭和五十三年一月二日八十年の生涯を終られた。同日勲四等に叙せられ瑞宝章が贈られた。ここにわれら一同相図り翁の功績をたたえこれを永く後世に伝えんと町内の有志の賛同を得て浄財を募り銅像を建立したものである。」西郷隆盛と谷干城の顔出しパネル。「熊本市田原坂西南戦争資料館」。平成27年(2015)11月、「近代日本の夜明けを学び伝える歴史学習施設」を基本コンセプトに新装オープンした。映像・音・振動・ジオラマで戦いの様子をリアルに再現した体感展示や、実際に使われた銃や弾、古文書等の貴重な資料の展示など、西南戦争に至る時代背景や意義について分かりやすく展示してある。また、西南戦争が日本赤十字社発祥のきっかけとなったことも受け、平和の大切さについても伝えている。「熊本市田原坂西南戦争資料館」。館内の様子。館内の様子。周囲の山々。公園内案内表示に従い進む。右手に石碑が。「薩摩塚」碑。「薩摩塚(古塚)この塚はかって旧植木町役場入口と国道三号線との交差点付近(植木町大字一木字西屋敷三番地)に建てられていた。戦国頃の島津との戦いにおける戦死者を葬ったと伝えられる塚がかってここにあったという。明治十年の西南の役における薩軍戦死者約二十名が戦後地元住民の手でここに合葬された記録が残っている。その後遺骨の一部は遺族の手に引き取られたとの説もある。のち土地所有者松永勇氏によりこの石碑が建てられた。昭和四十三年三月バイパス道新設のため撤去されることとなりここに移され現在に至っている。」「戦没者慰霊碑」。「西南役戦没者慰霊之碑」と。「西南の役戦没者慰霊之碑この慰霊碑は、明治十年(一八七七)の西南の役で戦死された官軍六九ニ三名、薩軍七一ハ六名、殉難者ニ九名の御霊の安らかならんことを願って建立したものです。西南の役は、明治維新における新政府の施策をめぐる相反した意見の対立が膨らみ、ついに国内史上最大最後の内乱、西南戦争勃発に至ったのであります。国の安寧と民族の発展を希求して止まなかった前途有為な青年たちが、立場こそ官薩両軍に別かれて熾烈な戦いを行いましたが、国を憂う志士たちの熱膓は異なるところはなく、骨肉相喰む悲劇という外はありません。植木町では、ここ激戦の地、田原坂に全戦没者の御霊を慰霊し崇高な精神文化の遺産を継承し町づくりの象徴とするため、碑の建立を行い、先人と共に顕彰に努めております。戦没者名簿の編さんに当たっては資料収集に東奔西走、懸命の努力をもって掘りおこしに臨んだものの、必ずしも完全なものとはいえません。戦没から百ニ十年の歳月は多くのことを遠くにし、資料の不鮮明さや氏名不詳で判明できず、同音異語なども含めご理解をいただきたいと存じます。この名薄編さんには、後記の資料と、ご協力いただいた関係各位、とりわけ地元歴史家「中村稲男」氏の献身的なご努力に基するところが大きく、感謝するところであります。今後とも不明者への慰霊の念を絶やさず継続して調査を行い完了をめざす所存であります。お気づきの点がこざいましたらご遠慮なくお申し出ください。」薩軍の戦没者。官軍の戦没者。正面に馬上の少年像が。「美少年像」。「雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂 右手に血刀 左手に手綱 馬上ゆたかな美少年」。平成2年(1990年)10月、植木町建立。正面?から西南戦争では、若者、それも失われゆく"侍"という生き方への熱病にかかった純粋な若者が多くの命を散らしたのだと。顔をズームして。「馬上ゆたかな美少年」。「この美少年像は西南の役田原坂の戦いで散った若者たちすべての象徴である」。楠木の巨木の周囲にも石碑が。「金峰山県立公園 田原坂」案内板も。「田原坂古戦場田原坂わが国最後の内乱、西南戦争の古戦場です。熊本城篭城軍を救援しようと南下する政府軍とこれを阻止しようとする薩軍が死闘を演じたところで、当時の田原坂は熊本市へ通する雎ーの拠点であり、そのため明治10年( 1877年)3月4日なら17昼夜にわたり、白兵戦が繰り広げられたのであります。死傷者4000余を出したこの丘も、現在は公園化され、記念碑等が建てられています。」「九州自然歩道(田原坂・二の岳コース)田原坂の戦跡西南の役最大の古戦場であるこの附近は、明治10年3月4日から17昼夜に及ぶ激戦地で、当時は昼尚倉木森林の中の主要道路で、大砲や弾薬を運ぶには外に道はなく、麓から頂上に達する落差60mの切通した田原坂(一の坂、二の坂、三の坂)には、官軍、薩軍双方が砦を築き一進一退の大攻防戦が展開された。結果は薩軍が敗退したが、この間7日間はみぞれ混じりの雨又は雨の連続であったと伝えられる。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.13
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「松尾神社」を後にして県道196号線を西に進む。途中、コンビニに立ち寄り昼食用に弁当を購入し、チンしていただき車の中で食べる。これもコロナ対策の一環なのである。国道3号を南に進むと前方に見えたのが九州縦貫自動車道。前方には植木ICの入口が現れた。そして目的地の「七本柿木台場薩軍墓地」に到着。熊本県熊本市北区植木町轟2644。「七本柿木台場薩軍墓地明治10年(1877年)の西南戦争には熊本からも熊本隊、協同体及び龍ロ隊などが参加した。この周辺の戦いは3月初めから吉次、田原坂付近で戦われている。3月20日田原坂の戦いが終わると、吉次、木留、植木などを中心に戦われた。この墓地には、3月14日七本で戦死した熊本隊3番小隊長の城市郎ほか、この周辺で戦死した薩軍311名が埋葬されている。玉東町原倉にも薩軍の墓がある。」墓地入口の銀杏の黄葉が始まっていた。石段の上には大きな石碑と墓石が建っていた。「吉次峠・半高山付近展望図」をネットからこの日の案内板は、ほとんど絵が消えていたのであった。 【https://plaza.rakuten.co.jp/araosigakkai/diary/202001110000/】より辛うじて説明文のみ解読が出来たのであった。「明治十年の西南戦争では吉次峠・半高山周辺で政府軍が三月四日から攻撃を開始し四月十日まで戦いがこの地で続いた。この戦いで薩軍の篠原国幹が戦死している。また、三月四日以降政府軍はこの峠を「地獄峠」と呼んで恐れた。瓜生田・田原坂方面を攻撃した政府軍の砲兵陣地跡がある」。青空を背景に銀杏の木を振り返る。ズームして。石碑、墓石に近づいて。「西南役薩摩軍戦没者墓碑」。墓碑側面には「墓碑改葬の由来」が刻んであった。「明治十年三月三日、ついに官薩両軍は清正公以来の城北の要衝、田原坂に対峙することとなった。初め田原坂坂本道の進撃に力を注いだ官軍は三ノ坂の薩塁を越すに越されず田原の丘に対する二俣台地を占領。瓜生田に砲台を築き、砲の支援のもと、西方同台地より立花木方面に攻撃の主力を移した。ここは田原本堂正面に比す陸軍の大陣地”七木の柿木台場”のあった所である。この北側畑地で両軍の塁は近接し抜刀隊の死闘がくり返された。植木街道を分断せんと次第に塁を進めた官軍は、三月二十日第六次総攻撃を決行。この地より田原坂の薩軍は敗れるに至り、十七昼夜の”田原坂の戦い”は終わった。この度、三百余命の未収容者を葬った旧薩軍墓地を整備。新たに町内に散在する他の墓地より霊を招いて合葬、冥福を祈る所とした。平成元年五月吉日 植木町長 麻生正次」戦死した熊本県士303名の墓碑には多くの名前が刻まれていた。ズームして。墓地の北東の隅にも墓石が。四面全て漢字で刻まれていたが。こちらは句碑か。「薩摩遠き 墓の鎮めの 千草雨」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.12
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今日の早朝に我がブログのアクセス数がお陰様で500万回に到達いたしました。皆様の日々のアクセスに感謝申し上げます。500万回の瞬間には立ち会えませんでしたが、早朝の2時前後だったのでしょうか。400万回通過時から延べ360日になります。400万回通過時と同様ですが、これからも毎日の出来事を『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを書き続けて行きたいと思っています。文章(キャプション)の表現力も乏しく、誤変換や、内容が理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、我が儘にも。あまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』、『自分の学びのツール』とし、日々のこのブログを書き続けて行きたいと思っているのです。本日の我がブログへのアクセスありがとうございます。今後ともよろしくおねがいいたします。
2021.12.11
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「鞠智城」を後にして、次の目的地である「岩隈山の切り通し」に向かって、Iphonesのナビに従い狭い急な坂道を上って行った。「岩隈山の切り通し」の入口右手に「石仏群」があった。右手には顔が失われた石仏が。中央に「記念碑」そして左側に「大日如来」碑。「切通しの石仏群 仏記念碑(ほとけきねんひ)この記念碑には、次のように書いてある。龍徳区の松本長平氏は若い頃から信仰心厚く、七十四歳のときに四国八十八カ所詣りに行き、高野山、京都の名刹、善光寺、浅草観音、九州一円を巡礼し、明治三十九年(一九〇六年)七月に帰郷。益々信仰心深まり、八十八体の石仏を作ることを発起。八年余、刻苦奮闘し遂に大正三年(一九一四年)十一月、志を達成。厚い信仰の念がなければ到底なしえないことである。作った八十八体の石仏は菩薩像の左右に並べ祀る。長平氏は本年(一九一五年)八十六歳で、残り幾ばくも無いので、松本家関係者が相談し、氏の特志を後世に伝えるために八十八体石仏の由来を記すために記念碑を建立する。大正四年八月※切り通しの壁面に並ぶ石仏群は、この八十八体の石仏ではないかと思われる。」この道は酒の神様「松尾神社」から古代山城「鞠智城」へ向かう道なのであった。昔、この山越えをするたびに、何人もの村人が足を取られ亡くなる事故が起きていたことから、昭和の初めに更に山を削り、この「切り通し」が造られたとのこと。こちらにも石碑が、しかし判読不能、そして徒歩にて切通しの坂道を上って行った。更に進むと高さ20m以上もあろう切通しが姿を現した。切り通しの距離は200mほどであっただろうか。昭和初期の作で工事には外国人が参加、トロッコ線路を敷いて切った岩等を排出したと ネットから。切り立った左右の壁に苔がびっしりと拡がっていたのであった。梅雨の時期には更に苔が成長して、緑の壁になるのであろう。壁の窪みには、これも苔むした小さな石仏が並んでいた。今では、ややまばらに成っていたが切り通しが出来たころは、今より多くの仏像が並んでいたようで、人々が願い事や災いが有ると自宅に持ち帰り、お祈りしていたとのこと。次の人にまた貸したり、返し忘れたり壊れたりして数は減っているとのこと。また壊れたままの仏像が並んでいたりもしていた。その様子から、多くの人の願い事をかなえたり、災いから守ったという事が伺われるのであった。蔓植物も。次の目的地の「田原坂」へ向かう途中に、「松尾神社」の大きな文字とユニークな姿の仁王像が見えたので、立ち寄ることに。 「大山咋神(おおやまくいのかみ)」を御祭神とし、平安初期の第五十二代 平城天皇の大同2年(807年)に 山城国(現京都府)葛野郡の松尾大社から分神した「お酒の神様」であると。 戦国時代、天正16年(1588年)の国衆一揆の際、神社は壊されたが、 細川氏により寛政14年(1637)年に社殿が造営された。 松尾大社からの遷宮を祝って、25年に一度だけ行われる伝統ある「遷宮祭」が続けられていると。一の石鳥居を正面から見る。熊本県山鹿市菊鹿町木野2860。扁額「松尾神社」。境内には巨木の御神木・楠の姿が。石段の上に「二の鳥居」。「二の鳥居」の扁額は「松尾宮」。二の鳥居の右奥に、正面を向いた「石造仁王像」が鎮座。1788年、江戸時代十一代将軍徳川家斉の頃作られた と。高さは阿形が188cm、吽形183cm。子供を思わせる姿で、頭の髷や、まわしとも見れるる腰から下を見ると力士ではないかと。この地区では相撲が盛んで、周辺地区の代表が集まって松尾神社にあった土俵で相撲大会が行われていたそうで、この仁王像を作った石工の仁平が生きていた江戸時代のこの地域ではどうだったのか興味がある。「拝殿」。松尾神社の由緒等が書かれていたが・・・。「松尾神社祭神 大山尢神(おおやまくいのかみ) 別の名を山末之大主神と申す。山の末は山の項なり。山よ在て、その土地を主宰し給う 神なり。鏑矢を用つ神から 鳴鏑之神とも称す。 建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)の孫神である。祭禮 春祭(大祭)三月ニ十九日 夏祭(中祭)七月ニ十九日茅の輪 斎火(いわいび) 秋祭(大祭)十一月ニ十九日 他に月次祭 歳旦祭 祈念祭 大祓 風鎮祭等多数の祭典あり創立 平安朝初期 第五十ニ代平城天皇 大同ニ年昭和五十六年よリ千百七十五年前御神徳 国土鎮護 山水火風守護 五穀豊穣 醸造守護 縁結び由緒 山城国(京都)葛野鎮座松尾大社の御分神城野郷に下ります途中棚を釣って祀ったと云う 釣棚(稲田村庄鶴田)木野川を渡って初めに祀ったと云う輿掛松の旧蹟あリ、式年 遷宮では鶴田に御旅される境内 約八百坪 樹令約七百年の大楠、大樫、大椋神木数本 一の鳥居、二の鳥居、 多数の奉献狛犬 燈籠あり社殿 桧造り銅板葺の神殿、幣殿、拝殿、楼門及び境内末社四社あり」拝殿目貫彫刻・二匹の亀蛇「拝殿」の見事な彫刻。内陣絵馬も多く奉納されていました。一番古い絵馬は嘉永2年(西暦1849年)だ と。透かし塀と「本殿」を横から。社務所。境内社「若宮神社」。「若宮神社祭神 仁徳天皇 応神天王の皇子で大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)と申す。 農業振興牛馬等の家畜守護神として仰がれている。祭禮 二月六日」境内社「阿蘇神社」。「阿蘇神社祭神 建磐龍命(たけいわたつのみこと) 別名 阿蘇津彦命と申す 一の宮 阿蘇神社の御分神祭禮 十月十五日 神社祭典後本分各小部落で伝統的座祭あり御神徳 荒野を拓き、百穀を播き民をして各々その所を得しめ給う神 国土領護火の神田作りの神として信仰あり阿蘇谷が湖水に埋もれていたとき 立野を 蹴やぶって阿蘇の耕地を拓いたと伝えられる。阿蘇山は御神山なり。」「阿蘇神社」の「社殿」。石碑群。「事代主命(ことしろぬしのみこと)」「事代主命 大国主命(おおくにぬしのみこと)の子 大国主命と共に出雲の国を治め天照大神に国譲りをされ神国統一成る 海の神、福の神、商いの神として信仰あり鯛を釣る恵比寿神である」近寄って。阿蘇神社の祭神・健磐龍命(たけいわたつのみこと)と阿蘇津姫命((あそつひめのみこと) であると。「猿田彦大神」碑。これも「猿田彦大神」碑(左)。「八柱神社」「八柱神社(八神殿)右座祭神 高皇産霊神(たかみむすびのかみ) 天地万物を生成する神 神皇産霊神(かみむすびのかみ) 天地万物を生成する神 生産霊神(いくむすびのかみ) 生成造化を司り給う神 足産霊神(たるむすびのかみ) 充足完備、足らざることなく豊かさを生み成す神 䰟詰産霊神(たまづめむすびのかみ) 浮かれゆく霊魂を鎮め留むる神 大宮賣神(おおみやひめのかみ) 風流、優雅にして和平を図り給う神 八重事代主神(やえことしろぬしのかみ) 福の神、物事の判断を司る神 御饌津神(みけつかみ) 食物を主宰する神、あらゆる食物の祖神俗称 十二神社 左座 神佛習合神 由緒明らかならず 十二支(えと)をあらわした神である」「松尾神社御鎮座 一千二百年大祭記念碑」。「松尾神社御鎮座 一千二百年 式年遷宮祭御鎮座悠久一千二百年にあたり、氏子並びに氏子出身者、特別崇敬者の御奉賛により社殿の改修、境内の整備を行い、神社の風格を高め、盛大熱烈なる式年遷宮を斎行したことを記念しここに碑を建てる。平成十八年三月吉日」」「松尾神社の神木」。「松尾神社の神木ふるさと熊本の樹木平成二年二月十四日登録この森にある楠木には、夜泣貝が数多く住みついており、夜泣きする赤ちゃんの枕に入れて寝かせると夜泣きが治まるという言い伝えがある。治ったら、貝を元の楠木に返して、お礼参りをする」。「菊鹿町指定 天然記念物 楠二本」。「松尾神社」の「拝殿」を振り返る。折しも、七五三神事の為の神主さんが現れた。「楼門」前から「一の鳥居」、「二の鳥居」を見る。同様に、写真屋さんも七五三のお祝いの記念写真の撮影の準備中で。カメラをセットし、お客様の到着を待っていた。客待ちのカウントダウンが七、五、三と始まっていたが、お客様の姿は・・・・??。「楼門」内の色彩豊かなニ対の狛犬(阿形像)。「楼門」内の色彩豊かなニ対の狛犬(吽形像)。再び神主さんが準備に入られた「社務所」を見る。「松尾神社 楼門」。大きな姿の随臣(左)。大きな姿の随臣(右)。「松尾神社 楼門改築記念碑」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.11
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そしてAゾーン(長者原地区 中央部)を歩いて行った。「堀立柱建物跡が見つかりました。北域には、大型の3棟があります。並列する2棟は、同時期に建てられたと考えられます。縦長の側柱建物で、土間づくりであったことから「兵舎」として復元しました。」そして、次に訪ねたのが「兵舎復元建物」。「兵舎復元建物(16号建物跡)概要 平成2年度の第12次調査で発見された側柱のみの掘立柱建物跡です。3間X10間の規模で、 大型の建物に属します。 柱径は30cm程度です。同規模の建物跡が2基並んでいるうちの1基を復元しました。構造 間ロ8. 0m、奥行き26.6mで土間面積は213.6m2。屋根までの高さは6.3m。 板葺き屋根で、3枚の厚板を重ね合わせて葺かれています。壁は土壁で、突き上げ窓が ついています。性格 防人と呼ばれた兵士が寝起きしていた「かまぼこ型の兵舎」です。 建物規模から50人程の兵士が生活していたと考えられます。」平成2年度・第12次発掘調査時の航空写真。鞠智城のマスコットキャラクターの「ころう君」の顔出しパネル。「兵舎」内に展示されていたパネルを再び追いかける。「古代山城の成立7世紀後半の東アジ情勢と白村江の戦い鞠智城が築かれた7世紀後半、日本の政治の中心は大和(奈良盆地周辺)にありました。これを「大和朝廷」と呼びます。その頃、中国においては唐が全土を統一し、周辺国へ勢力を伸ばしつつありました。また朝鮮半島は高句麗、新羅、百済の三国に分かれる三国時代でした。このうち、特に百済と大和朝廷は強い結びつきを持っていました。その百済が660年に唐・新羅によって滅ぼされると、大和朝廷は百済の遺臣たちの要請に応じて、復興のための援軍を朝鮮半島に送りました。そして663年、白村江(錦江河口[推定] )で日本軍は唐・新羅の連合軍との戦いに敗れ、亡命を望んだ百済の人々を伴って帰国します。この敗戦を受け、唐・新羅からの侵攻に備えて大和朝廷は、西日本各地に城を築き、防人(兵士)・烽(のろし)を配置するなど、国内の防衛網を整備しました。」。7世紀の東アジアの国々。「古代山城の成立古代山城の成立大和朝廷が唐・新羅の侵攻に備えて西日本各地に築いたとされる城を「古代山城」と呼びます。熊本県山鹿市と菊池市にまたがる鞠智城もその一つです。古代山城には、国の歴史書に記載の有るものと無いものがあり、鞠智城は『続日本紀』に記載があります。また、記載があっても場所が特定できていないものもあります。古代山城は九州北部から瀬戸内海沿岸、近畿地方までの広い範囲に分布しており、天然の山地の地形を活かした大規模な構造、堅固な石垣や土塁などが特徴です。こうした特徴は朝鮮半島の古代山城とも共通しており、一部の古代山城の築城には亡命百済人が関わったと言われています。」古代山城の分布。九州北部から瀬戸内海沿岸にかけて分布しています。国の史跡・特別史跡に指定されているものだけで20城あります。さらにパネルを追いかける。これも帰宅後の今・ブログ掲載も兼ねた復習のため。「朝鮮式山城とは663 (天智2 )年の白村江における敗戦後、滅亡した百済から亡命してきた貴族の指揮の下、西日本各地に山城が築造された。「日本書記」・「続日本紀」などにはこれらの山城の築造、修理や廃止に関する記事が散見され、11ヶ所の山城に関する記載がみられる。文献に書かれた古代山城は、朝鮮半島における山城との類似などから「朝鮮式山城」と呼ばれる。大野城、基肄城、金田城、鞠智城など九州に所在する朝鮮式山城については、その範囲や施設の特徴などの概要が把握されており、外郭施設としては土塁を中心として谷部に石塁を築き、内部には建物群が見られる点などが明らかとなっている。また、大野城や基肄城、水城は太宰府政庁の周辺に位置し、百済最後の都である泗泚の羅城との類似性が指摘されている。神籠石(こうごいし)系山城とは?日本の古代山城には、朝鮮式山城のほかに、神籠石系山城と呼ばれる山城形式がある。『日本書紀』・『続日本紀」などの文献資料に記載がなく、遺構でしか存在を確認できない山城を指す。平成22年9月に大野城市で開催された「古代山城サミット」の実行委員会が制作・発行した書籍「タスケ岩の伝説 大野城物語」、西谷正『大野域の築造とその背景』より、神籠石系山に関する部分を引用し紹介する。この呼称は、福岡県久留米市の高良大社が鎮座する高良山において、列石で囲まれた内部を神域と認識し、その列石に神籠石という名称を与えたことから明治時代以降、定着していった。・・・(中略)・・・考古学的な発掘調査が実施されるようになり、いわゆる神籠石が土築の城壁つまり土塁の基礎構造の一部をなすことがわかってからは、山城説が有力視されるようになった。・・・(中略)・・・山城研究においても先駆者の一人である鏡山猛(かがみやまたけし)が、神籠石系山の特徴について、朝鮮式山城との比較から、両者の類似点と相違点を示した見解を紹介しておきたい。」「神籠石系山城 播磨城山城跡(兵庫県たつの市)兵庫県たつの市に所在し、揖保川の西岸標高458mの城山山頂を中心に広がる。鎌倉時代には播磨を中心に活躍する赤松氏の居城となるが、城内には山口県石城山神籠石や香川県讃岐城山城跡で確認された門礎石と規模・形態の類似した門礎があることから、赤松氏の築城以前に古代山城が存在した可能性が指摘される。他に古代山城に伴う遺構としては石塁・礎石建物があり、規模や構造の類似が指摘されている。」「朝鮮式山城 高安城跡(奈良県平群町・三郷町・大阪府八尾市)大阪府八尾市、奈良県平群町・三郷町の三市町にまたがると推測される。朝鮮式山城などの古代山城が築造された7世紀の政治中枢部である近畿地方に所在し、『日本書紀』『続日本紀』などに築造・修繕記事が散見されるが、山城全体の規模や外部施設の総延長などはほとんど不明である。城内施設は.高安山頂東南側で計6棟の礎石建物群が確認される。調査された3号礎石建物は、3間✕4間の礎石の周囲に掘立柱が並ぶ。礎石建物群の一部からは、文献に記載されている時期よりも新しい8世紀前半の遺物が出土している。」「神籠石系山城 鬼ノ城跡👈リンク (岡山県総社市)岡山県総社市の鬼城山の山頂付近を取り込んで、鉢巻状に土塁が取り囲む。土塁の延長は約2.8km、最高所は標高403m。土塁は基礎を石列または石積みによって固めており、土塁最下段は内外とも敷石を巡らせる特徴がある。土塁には城門は4ヶ所で、南門と西門は大規模な楼門と考えられる。外郭南西角には角楼(望楼施設)が確認されている。城内には礎石定物が7棟見つかっている。出土遺物は、7世紀中頃~ 8世記代のものがあり、築造年代について論議されている。」「神籠石系山城 大廻小廻山城跡(岡山県岡山市)岡山県岡山市にある大廻山・小廻山に造られる。標高198.8 mの小廻山から尾根続きの廻山、さらに西側の3つの谷を取り込んで、総延長3.2kmの土塁が築かれる。3つの谷には一の木戸、ニの木戸、三の木戸と呼ばれる石塁を伴った水門が造られる。しかし、城内の建物等の施設は分かっていない。」「温故創生館」にも展示されていたパネルを再び。「所在地不明の朝鮮式山城について文献には記載されているのに、遺跡が特定できず不明な山城が五城あります。長門城(「日本書紀)」三野城、稲積城、備後国茨城、同常城(「続日本紀)」「神籠石系山城 石城山神籠石山口県光市に所在する。瀬戸内海を眺望できる月ヶ岳、鶴ケ岳、高日岳など最高所標359.7 mの峰々を、列石が鉢巻状に取り巻いている。列石の総延長は約2.5kmと推定される。これまで東・西・南・北の4ヶ所の水門や2ヶ所の城門が確認され、このうち第1門跡では「沓石」と称される2個の門礎石が残っている。1963・64年の発掘調査の結果、列石は土塁の崩落を防止する上留め石であることが明らかになったほか、版築工法による土塁や空濠の存在から神籠石「山城説」の有力な根拠となった。」「神籠石系山城 唐原山城跡(福岡県上毛町)福岡県築上郡上毛町に所在し、周防灘や山国川を眺望できる標高76 ~ 83mの丘陵上に立地する。列石は多くが点在しており、南へ向かって入り込む谷とその両側の丘陵を取り込んで、総延長約1.7kmと推定されている。城内では、3ヶ所の水門と1棟の礎石定物が発見されている。水門は第1・第3水門で発掘調査が行われ、取排水の構造が明らかになっている。礎石建物は3間x 5間の総柱構造であるが、時期や機能については不明な点が残り、また礎石建物に接して、柱穴群が検出されている点も注目される。」「神籠石系山城 御所ヶ谷神籠石(福岡県行橋市・みやこ町)福岡県行橋市・みやこ町に所在する。標高246.9mの御所ヶ岳(ホトギ山)から西側にのびる尾根線と、北側に広がる斜面を取り込む。外郭は、土塁を中心に延長約3kmにおよぶ。外郭線には列石・土塁・石塁・7ヶ所の城門が確認されており、北側の2ヶ所の谷に大規模な中門・西門を築造している。中門は全長約26mの石塁で谷を遮断する。石塁前面を2段に築き、下段に通水溝を設けるのが特徴的である。発掘調査を実した第2東門からは7世紀後半の須恵器が出土しており、御所ヶ谷神籠石はこれより以前の築造時期が考えられている。」「神籠石系山城 鹿毛馬(かけのうま)神籠石(福岡県飯塚市)福岡県飯塚市に所在する。東へむかってのびる大きな谷と、これを挟む南北の丘陵を取り込む。最高所の標高は80m、外郭線の総延長は約2km、列石は東側の一部を除いてほぼ完全な状態で残っている。調査では、2基の水門(暗渠)が確認され、列石前には柱列や板材が残存した。土塁中からは社が出土している。」「神籠石系山城 阿志岐(あしき)城跡(福岡県筑紫野市)福岡県筑紫野市に所在する。平成11年に発見され、宮地岳(標高338.9m )の北西に面する標高約140~250mの山腹に立地する。外郭の推定総延長は約2.3kmで、そのうち列石を伴う土塁線約1.3kmが確認されている。城門や建物等の施設は未確認であるが、水門が3ヶ所確認されている。その中で比較的良好に残存している第3水門は、谷を横断する石塁により構築されており、最大幅約23m、水門中央部における高さ3.8 mを測り、阿志岐城における最大規模の施設である。また、列石を伴う土塁が複数ヶ所で調査されている。」「神籠石系山城 雷山神籠石(福岡県糸島市)糸島市雷山・飯原の山中に築かれ、約2.6kmの推定外郭線をもつ。現時点で確認されている遺構は、列石・北水門・南水門などである。北水門は尾根先端部の崖面上に位置し、全長約12m、高さ3 mで、底部に2ヶ所、中央西端部に1ヶ所の水路を設ける。南水門はニつの渓谷の合流部に位置し、石塁の一に設けた水路と、列石の下部に設けた暗渠式の2種類の水門が確認されている。」「神籠石系山城 杷木(はき)神籠石(福岡県朝倉市)福岡県朝倉市に所在する。東にのびる2つの谷と、標高145 mを最高所とする丘を取り込んで推定総延長約2.25kmにわたって列石・土塁が築かれる。2つの谷にはそれぞれ水門が設けられるが、その他建物等の施設は未確認である。列石線の外は急斜面となり南側は筑後川に面しており、城としての防衛に有利な地形となっている。」「神籠石系山城 高良山神籠石(福岡県久留米市)福岡県久留米市にあり、列石土塁を持っ山城が「神籠石」と呼ばれる由縁となった遺跡である。明治・大正期には、その性格をめぐって神域説と山城説が対立し、所謂神籠石論争が展開された。列石は、南北2つの谷と周囲の5つの峰々をつなぐように構築される。最高所は250m、外郭線の総延長は推定線も含めて約2.7kmにおよぶ。水門は南北2ヶ所の谷にあったと推定されるが、現在は南側のみ残る。城門や内部の建物については未確認である。高良山神籠石は筑紫平野に張り出す耳納(みのう)連山の先端部に位置し、筑紫平野や筑後川を一望できる。こうした立地からもその重要性がうかがえる。「神籠石系山城 女山(ぞやま)神籠石福岡県みやま市にある。最高所200mの山頂から西へ扇形に列石・土塁がのびており、外郭線の総延長は約3kmにおよぶ。城郭に取り込まれた谷には粥餅谷水門、長谷水門、源吾谷水門、産女谷(うぶめたに)水門4ヶ所の水門が確認されている。城門は一ヶ所確認されるが、その他の建物については不明である。福岡から熊本に抜けるルートを抑える役割をはたしたものと思われる。」「古代山城の成立おもな古代山城国の歴史書に記載され、場所が特定され調査が進んでいる代表的な古代山城は、鞠智城のほかに、大野城(福岡県)、基肄城(福岡県・佐賀県境)、金田城(長崎県対馬)などがあります。歴史書に記載がない古代山城は、鬼ノ城(岡山県)、永納山(えいのうやま)城(愛媛県)などがあります。また、1999年に見つかった阿志岐城(福岡県)、地元有志が探し続けている高安城(大阪府・奈良県境)などもあり、これからも古代山城が見つかる可能性もあります。」「菊池川流域と朝鮮半島菊池川流域での百済文化の影響和水町にある江田船山古墳は、5世紀後半に築かれた前方後円墳です。75の文字や魚・烏などが刻まれた銀象嵌銘文大刀などの豪華な副葬品で知られ、92件が国宝に指定されています。中でも純金製の耳飾、金銅製の冠帽、沓などは、朝鮮半島の古代国家・百済の王族の陵墓から出土した副葬品と非常によく似ています。このことから、葬られた人物が百済と深い関わりを持ち、菊池川流域が古代から海を通じて東アジアと交流があったことがうかがえます。」「菊池川流域と朝鮮半島古代の菊池川流域熊本県の北部を東から西へと流れて有明海に注ぐ菊池川の流域には多くの史跡があります。中でも弥生時代後期から古墳時代前期( 2世紀~ 4世紀)まで続いた方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡(山鹿市)は、濠に囲まれた巨大な集落跡で、佐賀県の吉野ヶ里遺跡にも匹敵する規模と考えられています。また、6世紀にはチプサン古墳(山鹿市)などの鮮やかな色彩を施す装飾古墳が数多く築かれており、日本の装飾古墳の1/6にあたる117基が菊池川流域に集中しています。」「百済人の知恵と技術を受け継ぐ 古代山城鞠智城百済式山城の系譜に連なる 鞠智城の遺構鞠智城は、城の中心となる区域だけで周囲約3.5km、面積約55haであり、その外側の城域もあわせると約120haにもおよぶ広大な城です。その中で、長者原(ちょうじゃばる)と呼ばれる平坦な地区を中心に72棟の建物跡が見つかっています。なかでも2カ所で見つかっている八角形建物跡は、朝鮮半島のニ聖山城(韓国・京畿道河南市)でも見つかっており、鞠智城と朝鮮半島との深い関わりを示すものと言えます。また、兵舎と考えられる大型建物跡、米倉と考えられる建物跡なども見つかっています。域の北側には谷の地形を活かしてつくられた貯木場を兼ねた貯水池の跡があり、建築資材や木簡、百済系菩薩立像などが出土しています。城の南側では3箇所で門扉の軸受けとなった穴が残っている門礎石が見つかっています。城の外郭線では、尾根の上にさらに土塁を築いて敵の侵人を防いでいます。この土塁は、土砂を突き固めて盛り上げる版築という手法で作られています。」「鞠智城の今蘇る鞠智城鞠智城では、これまでに高さ約16mの八角形建物、兵士たちが寝起きしたとする兵舎、米を保管した米倉、武器を保菅したと思われる板倉を復元してきました。また、発掘された礎石の展示(宮野礎石)や、土塁跡や門跡などを見学できる遊歩道、菊池川流域から阿蘇の外山までを見渡すことのできる灰塚展望所や長者山展望広場休憩所なども整備され、往時の城の姿に思いを馳せることができます。百済系菩薩立像や木簡をはじめ、鞠智城に関する様々な資籵を展示するガイダンス施設温故創生館もあり、予約をすればボランティアガイドによる城内の解説を受けることもでます。」温故創生館に展示されていたものと同じものであるが「水城・大野城の築造大野城の土塁・石塁福岡県大野市・太宰府市・宇美町に所在する。「日本書紀」には665 (天智4 )年に造られたことが記される。四王寺山の峰々に、鉢巻を巻くように土塁や石塁が取り囲む。城内の最高所は標高410m、外郭線の総延長は約8kmにおよび、古代山城の中で最大規模を誇る。」「水城」水城は白村江における日本と百済の敗戦により、唐・新羅連合軍の侵攻に備え築された土塁である。築造に関しては、『日本書紀』天智3(664)年に「於筑紫 築大堤貯水 名日水城」と記載されている。土塁の長さは約1.2km、幅約80m、高さ約10m強で、三段築成の版築土塁である。土塁の基底部は、軟弱地盤補強のため、敷粗朶工法が用いられる。博多湾側には幅約60 mの外濠の存在が明らかになっており、太宰府側にも内濠が一部確認されている。水城には、東西に門がある。西門は、調査によって3回にわたる建て替えが行なわれたことがわかっている。また、太宰府側から博多湾側への導水施設である木樋が3ヶ所で確認されている。水城の西側の低丘陵地帯には、小水城と呼ばれる土塁が谷をふさぐように点在しており、水城と一連の防御施設と考えられる。水城と同じく、大土居小水域では木樋が確認されている。」「神籠石系山城 帯隈山神籠石(佐賀県佐賀市・神埼市)佐賀県佐賀市・神埼市に所在。脊振山地から南に突出する標高174 mの帯隈山山中に所在する。外郭線の総延長約2.4km。城壁は土塁と列石で構築され、山頂から下って谷を取り込み馬蹄形に巡る。列石上には土塁が築かれ、高い所では約3 mにおよぶ。水門は3ヶ所確認されており、頂上からやや北に下ったところには列石の切れ目があり城門と考えられている。」「神籠石系山城 おつぼ山神籠石佐賀県武雄市のおっぽ山に位置する。標高66.1 mの山頂から峰をとおり、4つの谷を取り込む。総延長約1.9km。列石上には基底部幅約9mの土塁が築かれ、神籠石が山であることを初めて証明することとなった。第1土塁の前面には3m間隔で柱穴があり、土塁をおさえるためと考えられる。また、柱のうち第1水門前からは柱根3本が確認され、防御用の可能性も考えられる。」これも「温故創生館」にあったが「大野城の城門大野城では、城門が8ヶ所見つかっている。最も大規模なのは太宰府ロ城門で、復元図のように壮大な門であったと考えられる。各城門には、門を攴える柱を据える礎石が残っている。北石垣城門では、扉の軸を受ける金具が日本で初めて出土し、朝蝉半島のものと同じ特徴を持っことが明らかになった。」「朝鮮式山城 基肄城跡(きいじょうあと)佐賀県基山町と福岡県筑紫野市に位置する。標高404mの基山から東側の峰・谷を取り込んで、総延長約4kmの土塁・石塁が造られる。城内の最高所は標高414m。大野城と同じく、城内には城門・水門・礎石建物が確認されている。礎石建物はこれまで40棟確認されており、炭化米、瓦が見つかることから米を納めた倉庫であったと思われる。城門は4ヶ所(推定を含め)、南側の大きな谷には大規模な水門が残されている。」「朝鮮半島の緊張唐の進出と抗争の激化4世紀以来、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済の三国に分かれ覇権を争ってきた。隋に代わって建国された唐は、645年高句麗征伐に着手し、半島の抗争はさらに激しさを増す。新羅は唐と結び、高句麗・百済と対立・戦争が繰り返されるようになる。」「百済の滅亡と白村江の戦い660年8月、百済は唐・新羅連合軍の攻撃を受け滅亡する。これに対し、百済遺民は日本に滞在していた王子余豊璋を立てて百済復興のための戦いをおこした。日本も百済復興のために兵を送るが、663年8月白村江で唐水軍に敗北を喫し、撤退せぎるをえなくなった。」「朝鮮半島の山城「三国史記」には、紀元後3年に高句麗尉那厳城が築かれたことが記される。これは現在の中国・集安にある丸都山城(がんとさんじょう)のことと言われ、朝鮮半島の古代山城が確認される最も古い記録である。また、中国の史書「魏志」には244年に丸都山城を攻撃した記録があり、3世紀には山城が機能していたことが分かる朝鮮半島には、約2000ヶ所の古代山城があると言われる。戦闘のためだけではなく、政治を執り行う場所であったり、象徴としての意味もあったと考えられている。このような古代山城がたくさん造られるようになるのは、高句麗・百済・新羅が分かれて戦う三国時代(4世紀~ 668年)のことである。」「百済人の知恵と技術を受け継ぐ 古代山城鞠智城人々の暮らしを伝える 鞠智城の出土品往時の鞠智城では、米倉や兵舍などの建物が建ち並び、城内には中央から派遣された役人や兵士が暮らしていました。そうした人々の生活を偲ばせる貴重な遺物が出土しています。瓦平瓦、丸瓦、軒丸瓦が出土しています。軒先を飾る軒丸瓦は、蓮の花を表現した百済の様式を受けぐ瓦です。木簡役人たちは城の管理・運営や太宰府などへの報告の任務にあたりました。これらを物語る資料には木簡があります。木簡とは文宇がかれた木礼のことです。貯水池跡から出土した木簡には「泰人忍ロ五斗」と書かれていました。泰人(渡来系の人々)の忍という人物が米五斗を納税したことを表す荷礼と考えられています。木製品兵士たちは自給自足の生活をしていました。貯水池跡から発掘された木製の鋤は土を起こす道具で、コナラ材を加工して作られています。ほかにも鍬の柄、斧の柄などの木製品が見つかっています。炭化した米大災にあった米倉の周りからは、焼けて炭になった米が大量に見つかっています。地元では古くから「この地に住んでいた米原長者が、天罰を受けて家屋敷を焼き尽くされた」という伝説があります。「百済人の知恵と技術を受け継ぐ 古代山城鞠智城日本初の出土 百済系菩薩立像2008年10月、鞠智城の貯水池跡から百済系菩薩立像がほぼ完全な状態で出土しました。大きさは約13cmの小さなもので、足の下に台座に差し込むための柄があることから、小さな厨子(室内で身の廻りの品を収納する家具)などに入れ携帯して崇拝した念持仏だと考えられます。頭部に三面宝冠を載き、丸みを帯びた穏やかな顔立ち、両肩を覆う天衣は肘の内側を通ってまっすぐに垂れ、腹部で重ねた両掌には円筒形の舎利容器をかたどった持物を捧持しています。こうした特徴から、7世紀後半の百済系菩薩立像と考えられ、鞠智城の築城に携わった身分の高い百済人が持ち込んだ可能性が高いと指摘されています。百済系仏像は韓国でも10数体しか見つかっておらず、日本ではもちろん初めての発見です。また発掘調査により出土位置までが把握できたのは日韓通じて初めてのことで、日本と百済の関係を知る上で重要な発見です。」「鞠智城」の広さ。防人の像と「ころう君」。「兵舎」を出て「板倉」を見る。防人たちが生活していた「兵舎」の近くにあったことから、武器や武具などを保管するための倉庫として復元したもの。復元した「板倉」は、長さ6.9m、幅12.0mの3間×4間の建物です。茅葺(かやぶ)きの屋根、側柱に彫った溝に板を落とし込んで壁を造る「落としはめ技法」など、今日ではなかなか見かけない古代の技が使われていると。「板倉復元建物(第5号建物跡)概要 平成2年の第12次調査で発見された3間X 4間の握立柱建物跡です。総柱であることから 高床式の倉庫であったと考えられます。平成12年度「地域材利用促進木造公共施設等 整備事業」により林野庁の国庫補助を受けて復元整備しました。建築材の大部分は鹿本郡の 木材を使用しています。構造 屋根:瓦が出土しなかった事、菊池郡内に茅葺倉庫の存在を示す記述が国史にあること などから茅葺きとしました。 板壁:「落としはめ方式」による板壁を採用しました。 「板倉」の名称はこれによるものです。 面積: 83.78m2 桁行き 12.0m 梁行 6.9m 高さ: 屋根9.0m 床1.5m性格 建物の配置から正史に記述された「兵庫」(武器庫)であると推定しています。」掘立柱建物跡。堀立柱建物跡が別の場所にも。そして「Eゾーン(長者山)」案内板。「小高い丘は、「米原長者伝説」に由来して「長者山」と呼ばれています。現在、共同墓地で、4棟の礎石建物跡が残り「米原長者の御金蔵」があった場所として伝えられます。昭和4 2年の開墾で西域の礎石群が消失しました。倉庫群があったと考えられています。展望休憩所は、憩いの空間となっています。」「鞠智城」からの山々。右側最奥が「八方ヶ岳」であろう。熊本県菊池市にある山で標高は1,052m。「宮野礎石群」。「宮野礎石群( 49号建物跡)概要 昭和57年度に県指定となった3聞X9間の総柱の礎石建物跡です。 もともとの礎石は40個でありましたが、7個が消失しています。120cmX90cm程度の 花崗岩を使用し、柱間は梁・ともに240cm。調査時に平瓦、丸瓦などが検出され、 瓦葺き屋根であったことがわかります。瓦には焼けた痕があり、建物か焼失した 可能性が考えられます。 このような大型倉庫は、「長倉」と呼ばれています。」別の場所にも礎石建物跡と掘建柱建物跡。別の角度から。城内の案内板。訪ねなかった「灰塚展望所」方面を見る。「長者山展望広場休憩所」への木製の連絡橋が見えた。そして進んでいくと正面に見えたのが「貯水池跡」。百済系銅造菩薩立像が見つかった池跡。墓地と建物。「下田家之墓」と。「八角形鼓楼」と高床式の「米倉」を見る。兵舎と高床式の「板倉」を見る。「八角形鼓楼」と「温故創生館」を見る。南東方向の山々、中央は国見岳であろうか。そして昨日、小・中学校の同級生の友人から書き込みを頂きました。さだまさし作詞・作曲「防人の詩」👈リンク があると。【♪♪おしえてくださいこの世に生きとし生けるもののすべての生命に限りがあるのならば海は死にますか山は死にますか風はどうですか空もそうですかおしえてください私は時折苦しみについて考えます誰もが等しく抱いた悲しみについて生きる苦しみと老いてゆく悲しみと病いの苦しみと死にゆく悲しみと現在(いま)の自分と答えてくださいこの世のありとあらゆるもののすべての生命に約束があるのなら春は死にますか秋は死にますか夏が去る様に冬が来る様にみんな逝くのですかわずかな生命のきらめきを信じていいですか言葉で見えない望みといったものを去る人があれば来る人もあって欠けてゆく月もやがて満ちて来るなりわいの中でおしえてくださいこの世に生きとし生けるもののすべての生命に限りがあるのならば海は死にますか山は死にますか春は死にますか秋は死にますか愛は死にますか心は死にますか私の大切な故郷もみんな逝ってしまいますか海は死にますか山は死にますか春は死にますか秋は死にますか愛は死にますか心は死にますか私の大切な故郷もみんな逝ってしまいますか♪♪】この歌は日露戦争の旅順攻囲戦における日露両軍の攻防を描いた東宝映画『二百三高地』👈リンク の主題歌であることは知っていましたが、『万葉集』が基になった歌だとは知りませんでした。ネットで調べて見ると母、山、空、季節、そして人間・・・すべてのものに宿る生命の限り、命の尊さを切々と歌い上げたその歌詞は奈良時代の末期に成立したと言われている『万葉集』の第16巻第3852番に基づいて作られたと。『鯨魚取 海哉死為流 山哉死為流 死許曽 海者潮干而 山者枯為礼』よみ鯨魚(いさな)取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮(しほ)干(ひ)て、山は枯れすれ(大意:海は死にますか?! 山は死にますか?! (いいえ、海も山も死ぬのです)死ぬからこそ、海は潮が干(ひ)いて、山は枯(か)れるのです。)曲の題名に使われたこの、”防人(さきもり) "という言葉。もともとは岬守(みさきまもり)と呼ばれていたこの防人とは、663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に「唐が攻めてくるのではないか?」との憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵のことである。彼らの多くは関東や東北から強制的に集めた農民たちだった。任期は3年だったが延長されることも多く、兵士としての装備や往復の交通費は自前で、さらに留守中の税が軽くなることもなく、農民にとってはとても負担が重く、苦しい強制的な制度(労働)だったという。『万葉集』には、防人のために徴用された兵や家族が、残された家族の無事を祈る気持ちや家族と離れる寂しさを詠んだ悲しい歌が100首以上収録されており、それらは後に"防人歌"と総称されることとなる。 国国の 防人つどひ 船乗りて 別るを見れば いともすべ無し(現在語訳) 全国から集まった防人が(任務のため)船に乗って別れることを見れば、 なんともなす術もない。わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて 世に忘られず(現代語訳) 私の妻はとても恋しがっているようだ。飲もうとする水に影までも みえていて、決して忘れられない。唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして(現代語訳) 唐衣にすがって泣きつく子どもたちを(防人に出るため)置いてきて しまったなあ、母もいないのに。天地の いずれの神を 祈らばか うつくし母に また言問はむ(現在語訳) 愛おしい母と再び会って話すためには、どの天や地の神に祈れば よいのだろうか。ちはやぶる 神の御坂に 幣奉り 斎ふいのちは 母父がため (現在語訳)荒々しい御坂の神に幣お供えし、我が命の加護を祈願するのは 母と父のためである。今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ吾は(現代語訳) 今日からは身を顧みることなく、大君(天皇)の強い御楯となって 我は出で立つのである。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.10
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「温故創生館」で「鞠智城」の歴史を学び、外に出て「鞠智城温故創生之碑」を訪ねた。鞠智城のシンボルとして平成8年度に建てられたもの。 ※「温故創生(おんこそうせい)」という言葉には、「調査を行い整備をすることで、新しい文化が生まれる。」という意味があるのだと。「鞠智城温故創生之碑」。中央に防人(さきもり)、前面に防人の妻と子、西側に築城を指導したといわれる百済(くだら)の貴族、東側に八方ヶ岳に祈りを捧げる巫女(みこ)、北側には一対の鳳凰(ほうおう)が立っていた。防人の妻と子は手をつなぎ、それぞれ片手は大きく空に向かって。近づいて。西側には、築城を指導したといわれる百済の貴族が指差しし、何かを指示をしている姿が。百済の貴族の前から。北側には一対の鳳凰が。防人の背中側から。「鞠智城は、七世紀、大和朝廷によって築城された我が国を代表する古代山城である。県では、この貴重な文化遺産の保存とその活用を図るため地元、菊鹿町、菊池市の協力のもと広く県民に愛される歴史公園を目指して平成六年から整備事業に着手した。この碑は、鞠智城跡整備事業の着手を記念し、この地に座す諸霊の鎮魂と世界の平和を願って建立された。中央に防人、その前方に防人の妻と子、左に築造の指導に当たった百済の貴族憶礼福留、右に巫女、後方に平和の象徴である鳳凰によって構成されている。大動乱の時代であった七世紀を偲ぶとともに、これからの我々のより良い生活の創生を強く願うものである。最後に、鞠智城跡整備事業に地元の皆様を始め、関係者の温かい御協力があったことを明記し碑建立の辞となす。平成八年三月吉日 熊本県」台座には万葉集からの防人の歌と鞠智城の歴史を解説した6枚のレリーフが掲げられていた。「大化改新の詔発布 646」。「百済滅亡 660」。「白村江の戦い 663」。「鞠智城の築城 664頃」。「鞠智城の異変 858」。「米原長者(よなばるちょうじゃ)伝説」。台座には、万葉集からの防人の歌(3首)が。「防人に 行くは誰が背と問ふ人を 見るが羨しさ 物思もせず」現代語訳「(今度)防人として北九州に行くのはどちらのご主人かしら?」と周りの人たちが言っているのがもどかしい。夫が(防人として)行ってしまう私の気持ちを知りもしないで。」「わが妻も 畫(え)にかきとらむ暇(いつま)もか 旅行(ゆ)く吾(あれ)は 見つつ偲(しの)はむ」現代語訳「私の妻の絵でも描く時間があったなら、旅の道中で(描いた絵を)見て妻のことを偲ぶことができるのに。」「父母が 頭かき撫(な)で幸く在(あ)れて 言ひし言葉ぜ 忘れかねつる」現代語訳「父母が私の頭をなでながら口にした、「達者でなさいね」という言葉が頭から忘れられないのです」「鞠智城跡のモニュメント「温故創生之碑」について鞠智城跡整備事業を記念して建立されました(財団法人・日本宝くじ協会の普及宣伝事業)。群像や、台座のレリーフ、万葉集の防人の歌は、鞠智城の歴史的背景を物語るとともに、日韓親善と、平和をイメージしています。碑名は、古閑三博氏の造語で碑文は同氏の毫筆。一、群像 防人 鞠智城の警護についた兵士です。任務に当たりながらも望郷の念に 駆られ苦悩する青年をイメージしています。 防人の妻子 遠国の警護に赴く夫を見送る妻と子を表現しています。平和への祈りの 意味を 込めています。 億礼福留 鞠智城の築城を指揮したと思われる百済の貴族です。 巫子 八方ヶ岳に祈っています。律令時代の女性風俗を表現しています。 鳳凰 平和をイメージしています。 製作は、石原昌一氏。 二、レリーフ 大化改新 古代国家(律令時代)の出発点になった詔です。豪族の私地私民を 詔発布 廃して地方行政組織を整備しました。戸籍や税の制度も整えました。 (六四六年) 百済滅亡 唐と新羅の両軍は、白馬江を遡って、百済の扶除城へ進軍しました。 (六六○年) 壮絶な戦いの後、扶除城は落城しましたが、この時、残された後宮の 宮女達は、崖渕の「落花岩」から白馬江に身を投げたと伝えています。 白村江の戦い 百済から援軍の要請を受けた中大兄皇子は、水軍を送って、新羅を攻め (六六三年) ましたが、白馬江の河口、白村江で大敗しました。溺死するものが多く、 逃げる余裕もなかったと「日本書紀」は伝えています。 鞠智城の築城 中大兄皇子は、白村江の敗戦後、国家防衛の体制を整えました。 (六六四年頃) その際、百済の貴族の指導で、鞠智城を含めた古代山城が築かれました。 鞠智城の異変 平安時代になると、鞠智城で幾つかの異変が起きたことが記録に (八五八年) あります。兵庫(武器庫)の鼓が自鳴し、不動倉が火災を起こし、 群烏が倉屋根の葦草を噛み抜く事件が次々と起こっています。 米原長者伝説 鞠智城の廃城後、米原長者伝説が生まれました。畑地から多量の焼米が 出土したからです。夢に導かれて、京都から、お姫様が米原にやって きました。このお姫様を、炭焼き五郎という若者がお嫁に貰いましたが、 その後、幸運が続いて大金待ちになったという物語です。 製作は 石原昌一氏と門下生。 三、防人の歌 父母が頭かき撫で幸く在れていひし言葉ぜ忘れかねつる 父母が頭を撫でながら達者でいなさいと言った言葉が忘れられない。 わが妻も書にかきとらむ暇もか旅行く吾は見つつしのはむ 私の妻を絵に描く暇があったらなあ。旅に出ていく私は、それを 持って、いつも思い慕うものを。 防人に行くは誰が夫と問ふ人を見るが羨しさ物思もせず 防人に行くのは誰の夫ですかと、聞いている人を見ると、羨ましく なりますよ。なんの心配もしていないのだから。 歌文は、万葉集から選んだもので、兼城昌山氏の毫筆。」背景に「鼓楼」を入れて。「歴史公園 鞠智城」案内図。国指定史跡「鞠智城跡」 平成16年2月27日指定現在地はここ。「鞠智城は、7世紀後半(約1,300年前)に、大和朝廷が築いた山城です。当時、東アジアの政治的情勢は、非常に緊張していました。日本は、友好国であった百済を復興するため援軍を送りましたが、663年の「白村江の戦い」で、唐と新羅の連合軍に敗北しました。このため、事態は急変し、直接日本が戦いの舞台となる危険が生じました。そこで九州には、大宰府を守るために大野城(福岡県)、基肄城(佐賀県)、金田城(長崎県)が造られました。鞠智城は、これらの城に食糧や武器、兵士などを補給する支援基地でした。」「鼓楼」に向かって進む。手前には八角形の柱跡。ここに、三層からなる「八角形鼓楼」が建っていた場所なのであろうか?「八角形鼓楼」案内用QRコードパネル。しかし、日本語はなし、英語、韓国語、中国語(簡体字、繁體字)のみ。「八角形鼓楼」に近づいて。 復元した「八角形鼓楼」は、高さ15.8mで、重量約76トンの瓦が載る建物。主要な建築材は県内産の樹齢180年のひのき材。平成11年秋復元公開。鼓楼内部には多くの柱が所狭しと。別の場所にも八角形の柱跡が。2基の八角形建物跡が見つかっていると。そして「鼓楼」前から「米倉」を見る。近づいて。校倉造りの「米倉」。「米倉復元建物(20号建物跡)概要 平成3年度の調査で見つかりました。20個の礎石(土台石)全部に柱を建てた総柱建物です。 調査時に多量の炭化米と、瓦が出土しました。構造 間ロ8.6m・奥行き11m。床面積67.2m2。屋根までの高さは9. 1m、高床式で、 床高は1.6m。壁材は、内側が平板で、外側の断面は三角形になるように加工されています。 この長い木材を横方向に積み上げて壁としたのが校倉造りです。 床端には鼠返しの工夫がなされています。材質は樹齢100~ 140年の県産杉で、扉のみ ヒバ材を使用しました。瓦葺き屋根で、使用した瓦の枚数は平瓦2870枚、丸瓦1800枚、 瓦の総重量は約32トン。性格 多量の炭化米が出土したことにより、米を保管する倉であったことがわかります。 米俵に換算して1,200俵の米を収納できる大きさです。」「米倉」の内側は平板で仕上げられていた。外壁の最下部の床端には「鼠返し」の工夫がなされていた。 「鼠返し」はネズミの侵入を阻むための装置。 校倉 ・板倉の支柱や蔵の入り口に取り付ける逆斜面の板の類。米倉近くで展示されている礎石跡。これも「米倉」のあった場所なのであろう。別の角度から。「八角形建物跡が南北に2棟見つかり、そのうち南側の1棟を「鼓楼」として復元しました。西域には並列して礎石建物群が南北に並んでおり、周辺から大量の炭化米が出土したことから、うち1棟を「米倉」として復元しました。ズームして。□ 掘立柱建物:柱穴を掘って、柱を立てて建造した建物□ 礎石建物: 柱を支える石を置き、その上に柱を建てて建造した建物」別の場所にも礎石建物の礎石が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.09
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「瓦の文様平瓦の凸面には、製作時にいろいろな調製技法が施され、それによって様々な文様が認められます。これは瓦の生産地の違い、製作者の違い、そして技法の違いなど、いろいろな要因があると考えられます。ここで展示している平瓦にも、正方形のタタキ痕が認められるもの(一番左)、長方形のタタキ痕が認められるもの(左から2番目)、太い平行線を持つもの( 右から2番目)、やや細い平行線を持つもの(一番右)などがあります。」鞠智城の軒丸瓦。「鞠智城の軒丸瓦のつくり方」。「単弁八葉蓮華文 軒丸瓦」。軒先にあって先端に文様をつけた丸瓦。「24.城門・土塁について鞠智城跡からは、深迫門、堀切門、池ノ尾門の3カ所の城門が見つかっています。門の礎石は、いずれも花崗岩製です。特に堀切門の礎石は、一石に2つの軸摺穴が設けられており、門の幅がわかる貴重なものです。また、堀切門では、城外からの登城道と思われる遺構も確認されました。池ノ尾門では、石塁や水を排水するための通水溝などが確認されました。土塁は、外部からの敵の侵入を防ぐもので、やせ馬の背のような自然地形を造成し、土を盛るなどしてつくられています。この土塁は、土を積み上げてたたいて固めることを何度も繰り返すことで強固な壁をつくる「版築(はんちく)」という大陸伝来の技法が使われています。」「Ⅱ 鞠智城の調査結果深迫門跡全景深迫門跡は城域の南東隅に所在し、標高は123mをはかります。これまでの発掘調査によって、地元で「長者どんの的石(まといし)」と古くから呼ばれてきた門礎石1基の他、版築土塁やそれに伴う柱穴、石列などが確認されるとともに須恵器などが出土しています。版築土塁は谷部を挟んで南北両側で検出され、それぞれ高さが4m以上あり、裾部には土留のための石列を置く構造となっています。また同じく土塁裾部からは18m間隔で並ぶ柱穴が南土塁で7基、北土塁で8基見つかっていますが、こらの柱穴は版築で土塁を築く際に用いた支柱の痕跡であるとかんがえられています。堀切門跡全景堀切門跡は城域の南側に所在し、標高は約122mをはかります。これまでの発掘調査によって、2つの軸摺穴が残る門礎石1基の他、門跡、側溝を伴う道路跡、岩盤削り出しの城壁等が確認されるとともに須恵器や瓦などが出土しています。確認された門礎石は、1石に2つの軸摺穴が存在する大変珍しい形態で、両軸摺穴間の距離は約28mあります。堀切門跡では、門の支柱になると考えられる柱穴が見つかっており、鞠智城跡の城門跡の中で唯一、門跡の原位置が判明しています。池ノ尾門跡全景池ノ尾門跡は、標高約90mと鞠智城の中でも最も低い位置に所在し、西側、南側土塁線の尾根に挟まれた狭隘な谷部に位置します.これまでの発調査によって、1つの軸摺穴が残る門礎石1基の他、石塁、通水溝、導水溝、盛土状遺構などが確認されています。石塁は、そのほとんどが崩落しているものの、幅は約9.6mであったことが分かっています。通水溝は、石塁の下を通る暗渠状の排水施設で全長約16mの規模です。通水溝の取水口前面には導水のための導水溝が確認されています。また、石塁の北西側に約20m離れた地点には版築工法を用いた土塁状を呈する盛土状遺構が存在します。頂いたパンフレットの裏には「鞠智城跡」の配置案内図。深迫門跡、堀切門跡、池ノ尾門跡の位置図。堀切門出土の「須恵器 壺」。「堀切門礎石堀切門の門礎石は、1つの石に2つの柱穴かあるたいへん珍しいものです。柱と柱の距離は2.8mで、門の幅がこの広さだったということです。堀切門跡に実物が展示してあります。また、スマホやタブレットで右のQRコードを読み込むと、堀切門礎石の3Dモデルが表示されます。」池ノ尾門跡出土遺物の須恵器、土師器。「池ノ尾門跡通水溝から出土した土器正面に展示している土師器坏は、池ノ尾門跡の通水溝の内部から出土したものです。この土師器坏は、精選された胎土で丁寧に作られているとともに、その形状は、鞠智城跡はもとより県内でもほとんど類例がない珍しいものてす。通水溝は城内の水を城壁の下をくぐらせ城外へ排出する暗渠状の溝ですが、この土師器坏はその入口(取水口)から中に約30cm入り込んだ部分から上下が逆さまの状態で出土しました。」「八角形建物(鼓楼)」。「八角形建物(鼓楼)」製作は県立球磨工業高校と。鞠智城八角形鼓楼建物の別の模型 国内の山城で見ない4基の八角形建物が見つかる、韓国の二聖(イーソン)山城で見つかっているとのこと。礎石部分。「Ⅲ 鞠智城の整備25. 鞠智城跡の整備について鞠智城跡の整備は、平成6年度から開始され、現在まで続いています。この間、建物の復元、広場の創設、ガイダンス施設の設置、モニュメント広場の設置などを行い、県民あるいは国民の皆様が1300年前の当時を感じることができるような歴史公園としての整備を行っています。ここ数年は年間の来園者が10万人を大きく超えるほどの多くの方々にご来園いただいています。また、イベントの開催や地元のレクレーションなど広くこ利用いただいています。」「26. これまでの整備」。 左上から右に。 復元建物(左:米倉、右:八角形鼓楼)、復元建物(板倉) 長者山展望広場休憩所、モニュメント広場 灰塚展望所、園内の様子「27. これからの鞠智城鞠智城跡の調査は、昭和42年度から開始され、これまて32次にわたる調査を実施してきました。その結果、ハ角形建物跡や貯水池跡などの重要遺構を検出し、木簡や百済系の銅造菩薩立像などの極めて貴重な資料も発見されました。そして、遺構・遺物の詳細な検討から、鞠智城は5期の変遷をたどり、約300年もの間続いた遺跡であることがわかりました。これまで、鞠智城跡は発掘調査の成果をもとに整備を実施してきました。鞠智城の時代に建っていた建物を復元し当時の様子を体験してもらうとともに、古代の風を感じながら園内を散策することで、1300年前の様子を学習できる歴史公園を目指しています。鞠智城については、まだまだわからないことがたくさんあります。今後も調査、研究を継続し、鞠智城について新たな事実を明らかにしていきます。そして、鞠智城および古代山城について、よりいっそう理解を深めていただけるような保存・活用を行っていきます。」「遺跡の位置図」。「①袈裟尾高塚古墳(県史跡):菊池市袈裟尾菊池川支流の迫間川の台地上(標高138m)に位置する6世紀後半に築造された直径25mの円墳で、巨石と割石を積み上げた横穴式石室が復元されています。石室内には装飾された靭や三角文の線刻、同心円文が赤で描かれ、靭が浮き彫りにされた石材も使われています。」「②瀬戸口横穴群(市史跡):茨城県七城町瀬戸口うてな台地の西崖面に、1.3kmにわたって252基が開口する県内屈指の横穴墓群です。かっては、400基以上あったといわれています。築造時期は、6世紀中葉~ 7世紀頃で、鉄鏃、刀子、鉄芹、馬具、玉類、金環、銀環、貝輪、土師器、須恵器、人骨等が出土しています。」「③木柑子(きこうじ)古墳(市史跡) :菊池市木柑子菊池川中流域の花房台地上に6世紀半ばに築造された全長65mの前方後円墳です。二重の周溝が巡り、周溝からは石製の蓋や銀の象嵌が施された大刀の鍔(つば)などが出土している。憐接する木柑子高塚古墳(墳丘は消減)からは、4体の石人が出土している。」「④西寺遺跡(市史跡) :菊池市西寺西寺遺跡は、古代における菊池郡の郡家跡と推定されます。現状では部分的にしか確認できませんが、周囲を土塁(東西の長さ:約425m、南北の長さ:約160m、幅5 ~ 6m )に囲まれていたと考えられます。周辺からは市目瓦などが発見されており、遺跡の南側は古代官道推定ルートになっています。」「⑤十連寺(とおれんじ)跡(市史跡):菊池市七城町水次(みつぎ)十連寺は、古代の菊池郡の郡寺と推定され、現地には花崗岩製の心礎が残っています。大きさは、長径1.25m、高さ約0.6mあり、中央に柱を立てるための穴(直径39cm、深さは中央で8cm )が確認できます。周辺からは奈良時代中期頃と推定される軒丸瓦や布目瓦などが出土しています。」「⑥正観寺の礎石群(県史跡) :菊池市隈府正観寺は、1344年(興国5年)、聖福寺の大方元灰和尚を招いて菊池氏15代武光公が建立した臨済宗南褝寺派の寺院です。礎石群は、平安後期頃と推定され、菊池郡家の役所的機能が西寺地区から隈府地区へ移った頃の寺院跡と考えられています。周辺からは布目瓦が出土しています。」百済の亡命貴族の装飾品。「百済の亡命貴族日本書紀には、百済から日本に亡命してきた貴族の名前が記載されています。これら亡命貴族は、古代山城の築域を指導したと記されていますが、古代山城の数からすると、もっとたくさんの亡命貴族が、古代山城の築城に関与していたと者えられます。」【日本書紀に登場する百済の亡命貴族】・憶礼福留(おくらいふくる) 大野城・基疑城の築城を指導した百済貴族・四比福夫(しひふくふ) 大野城・基疑城の築城を指導した百済貴族・答㶱春初(とうほんしゅんそ) 長門城(未発見)の築城を指導した百済貴族」「金製鳥翼形冠飾」「金製冠帽」。「金製錡帯(かたい)・腰佩(ようはい)」。「金製銙帯(かたい)・腰佩(ようはい)【新羅 伝馬塚出土 5~6世紀 ベルト部分125cm 腰佩最長部73.5cm】ベルト部分は唐草文が透影りされた四角の板が繋ぎあうことで構成され、それぞれの板の下には心葉形(ハート形)に透影りされた金板が連なっています。そこから13本の腰佩が吊るされ、その先端に刀子、金板、勾玉、魚などの装飾品が取り付けられています。古代のものとは思えないそのきらびやかさから、新羅の王族が持っていた権力の大きさの一端が垣間見られます。・唐草文・・・からみあう植物の蔓をモチーフにした文様で、様々なパリエーションがあります。 日本には中国から伝わったとされ、「唐」の字を用いています-・腰佩・・・・籘に巻きつける飾りのことです。」百済歴史博物館と熊本県立装飾古墳館との姉妹館締結を記念して李完九前知事より贈られたものです。寄贈 大韓民国 元国会議員 李麟求氏。「百済金銅大香炉【百済 陵山廃寺跡出土 7世紀頃 高さ64cm・直径19cm】1993年12月に、陵山里古墳群と扶余羅城の間に存在した陵山里廃寺跡(7世紀頃)から出土した香炉です。土中からそのままの姿で発見されました。鳳凰の形をしたつまみ、蓬莱山を模した、蓮の花をあらわした体、竜をかたどった脚など多彩な装飾を施してあり、高い芸術性を有しています。この香炉は、韓国の国宝第287号に指定されており、現物は国立扶余博物館に展示されています。」「金製太環式耳飾【新羅 5~6世紀 大きさ9.4cm】金製の耳飾(イヤリング)です。耳に取り付ける環の部分が太く作られるのは、新羅独特の特徴です。日本や百済などの他の地域では細環式の耳飾がほとんどで、新羅文化の絢欄性がうかがえます。」「百済金冠 塔燈百済第25代武寧王の陵で出土した金冠(国宝154号)を窓に表した、塔型の照明燈。」百済窯で焼かれた壺類。「百済窯韓半島の土器は先史畤代から三国時代(百済、高句麗、新羅 )を経て、高麗時代と朝鮮時代まで日常生活に使われてきました。しかし、朝鮮時代の中頃から、表面に廃油(焚き物の灰の滓を塗る方法)を塗って焼く温器に変わり、近年では、うわぐすりを塗ってガスや電気釜で焼かれるようになりました。しかし、現代社会で環境汚染や水質汚染が深刻化し、無公害の器を再び求める動きが出てきました。そこで、この視点からこの百済窯の土器を復元しました。土器を作る過程は、粘土で形を作った後、日陰で四十日位乾燥させます。そして松の木の薪で六日間燃やし、徐々に温度を上げていきます。器が硫化質化する程の高温で焼き込んだ後、火を調節し、充分に熟成させます。次に窯の前口をふさぎ、戻し火で充分に焼いた後、火を徐々に弱めます。完成に火を消した後、煙を器の中まで充分に染み込ませ、最後に十日程度冷やして取り出します。」「朝鮮式山城とは?663(天智2 )年の白村江における敗戦後、滅亡した百済から亡命してきた貴族の指揮の下、西日本各地に山城が築造された。『日本書記』・『続日本書紀』などにはこれらの山城の築造、修理や廃止に関する記事が散見され、11ヶ所の山城に関する記載がみられる。文献に書かれた古代山城は、朝鮮半島における山城との類似などから「朝鮮式山城」と呼ばれる。大野城、基肄城、金田城、鞠智城、など九州に所在する朝鮮式山城については、その範囲や施設の特徴などの概要が把握されており、外郭施設としては土塁を中心として谷部に石塁を築き、内部には建築群が見られる点などが明らかとなっている。また、大野城や基肄城、水城は大宰府政庁の周辺に位置し、百済最後の都である泗泚(しひ)の羅城(らじょう)との類似性が指摘されている。」「所在地不明の朝鮮式山城について文献には記載されているのに、遺跡が特定できず不明な山城が五城あります。長門城(「日本書紀)」三野城、稲積城、備後国茨城、同常城(「続日本紀」)「朝鮮半島の緊張唐の進出と抗争の激化4世紀以来、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済の三国に分かれ覇権を争ってきた。隋に代わって建国された唐は、645年高句麗征伐に着手し、半島の抗争はさらに激しさを増す。新羅は唐と結び、高句麗・百済と対立・戦争が繰り返されるようになる。百済の滅亡と白村江の戦い660年8月、百済は唐・新羅連合軍の攻撃を受け滅亡する。これに対し、百済遺民は日本に滞在していた王子余豊璋(よほうしょう)を立てて百済復興のための戦いをおこした。日本も百済復興のために兵を送るが、663年8月白村江で唐水軍に敗北を喫し、撤退せざるをえなくなった。」「水城・大野城の築造大野城の城門大野城では、城門が8ヶ所見つかっている。最も大規模なのは太宰府ロ城門で、復元図のように壮大な門であったと考えられる。各城門には、門を支える柱を据える礎石が残っている。北石垣城門では、扉の軸を受ける金具が日本で初めて出土し、朝蝉半島のものと同じ特徴を持っことが明らかになった。」「水城・大野城の築造大野城の土塁・石塁福岡県大野市・太宰府市・宇美町に所在する。「日本書紀」には665 (天智4 )年に造られたことが記される。四王寺山の峰々に、鉢巻を巻くように土塁や石塁が取り囲む。城内の最高所は標高410m、外郭線の総延長は約8kmにおよび、古代山城の中で最大規模を誇る。」「水城・大野城の築造水城水城は白村江における日本と百済の敗戦により、唐・新羅連合軍の侵攻に備え築された上塁である。築造に関しては、『日本書紀』天智3(664)年に「於筑紫 築大堤貯水 名日水城」と記載されている。土塁の長さは約1.2km、幅約80m、高さ約10m強で、三段築成の版築土塁である。土塁の基底部は、軟弱地盤補強のため、敷粗朶工法が用いられる。博多湾側には幅約60 mの外濠の存在が明らかになっており、太宰府側にも内濠が一部確認されている。水城には、東西に門がある。西門は、調査によって3回にわたる建て替えが行なわれたことがわかっている。また、太宰府側から博多湾側への導水施設である木樋が3ヶ所で確認されている。水城の西側の低丘陵地帯には、小水城と呼ばれる土塁が谷をふさぐように点在しており、水城と一連の防御施設と考えられる。水城と同じく、大土居小水域では木樋が確認されている。」「朝鮮式山城 金田城跡長崎県対馬市に所在する。湯茅湾を見下ろす標高276.2mの城山の山頂及び東側斜面を取り込んで、総延長約2.8kmの上塁・石塁が造られる。谷部には、城戸と呼ばれる石塁と城門が3ヶ所残されている。一ノ城戸と東南角石塁には方形突出部が確認されており、朝鮮半島の山城にみられる雉城の影響や角楼の存在が考えられる。城門はニノ城戸で調査されており。1間 x 2間の礎石建物で、床面は石敷き、城内への進入部には石段が設けられていたことが判明している。」以下2枚はネットからの写真。金田城跡の一ノ城戸石塁。金田城全景。「朝鮮式山城 基肄城跡(きいじょうあと)佐賀県基山町と福岡県筑紫野市に位置する。標高404mの基山から東側の峰・谷を取り込んで、総延長約4kmの土塁・石塁が造られる。城内の最高所は標高414m。大野城と同じく、城内には城門・水門・礎石建物が確認されている。礎石建物はこれまで40棟確認されており、炭化米、瓦が見つかることから米を納めた倉庫であったと思われる。城門は4ヶ所(推定を含め)、南側の大きな谷には大規模な水門が残されている。」「朝鮮式山城 屋嶋城跡香川県高松市に所在する。『日本書紀』天智6 (667)年に高安城、金田城とともに築造記事がみえる。周辺には讃岐城山、瀬戸内海を挟み大廻小廻・鬼ノ城等の神籠石系山城があり、瀬戸内海で最も多くの古代山城が分布する。半島状に突き出す屋島山頂部の平坦面を取り巻くように外郭施設がめぐると推定されている。最高所の標高は292m、列石上塁・石塁による外郭線総延長は約7kmである。中央平坦部の南北には水門が各1ヶ所確認され、城門も南水門南東側で1ヶ所確認される。その他に、堀切や角楼・雉と推定されている施設も認められる。建物などの施設は未確認である。これまでの調査において出土した遺物には7世紀後半の須恵器や11~12世紀の遺物がみられる。」「朝鮮式山城 高安城跡大阪府八尾市、奈良県平群町・三鄕町の三市町にまたがると推測される。朝鮮式山城などの古代山城が築造された7世紀の政治中枢部である近畿地方に所在し、『日本書紀』、『続日本紀』などに築造・修繕記事が散見されるが、山城全体の規模や外郭施設の延長などはほとんど不明である。城内施設は、高安山頂東南側で計6棟の礎石建物群が確認される。調査された3号礎石建物は、3間✕4間の礎石の周囲に掘立柱が並ぶ。礎石建物群の一部からは、文献に記されている時期よりも新しい8世紀前半の遺物が出土している。」鞠智城内に復元された様々な建物のミニチュア。「米倉この建物は、高床式・校倉造り・ねずみ返しなどの、当時の米倉の典型的な特徴が再現されています。周囲から炭化米が見つかっていることから、米の保管場所と考えらています。規模は、間ロ7.2m、奥行きが9.6mで屋根は瓦葺き。構造は断面が三角形の建築材(校木)を組み合わせて外壁とする校倉造りで、奈良の正倉院と同じ造りです。高床式でもあるため風通しがよく、天井が高いので、内部は夏でも涼しくひんやりとして、米の貯蔵に適しいます。計算では約1200俵もの米を保管することが可能です。」「倉の校木(あぜき)壁を構成する木材は校木と呼ばれ断面は横向きの三角形をしています。この校木は、釘を使わずに組み合わされており、校木が接する部分に建物全体の重量がかかります。」「正倉院「正倉」(校倉造り)間口約33m、奥行約9.4m、総高約14m、床下約2.7m奈良の東大寺大仏殿、左手奧にある正倉院「正倉」を南東から見たところである。自然石の礎石の上に立っ40本の束柱が128年にわたって宝庫を支えてきた。」「兵舎この建物は兵舎と呼ばれ、防人たちが日常生活を行っていたと考えられています。建物の規模は、間ロ26.6m、奥行き8.0mで、大きさから50人前後の防人たちが生活していたと考えられます。板葺屋根、土壁、土間造りが特徴です。同じ時期に建てられたと考えれる兵舎が、2棟隣り合わせで見つかっていることから、少なくとも100人前後の防人が駐屯していたと考えられます。」兵舎、米倉を横から。「ころう君の鼓楼(ころう)ってなぁに?ころう君の名前の由来は、鞠智城て一番有名な建物の「八角形鼓楼」なんだ。ころう君の頭の上にものっているね!鼓楼は、一番上の階で太鼓をたたいて広い城内に時間を知らせたり、見はりをしたりするところだったんだ。発掘調査て八角形の柱のあとが見つかって、八角形であることがわかったんだよ。鼓楼の前にある木の切り株のようなものが実際に柱のあとが見つかったところ。八角形の建物は日本全体を見てもほとんど発見されていないとてもめずらしいものなんだ!鼓楼の高さは15.8m、屋根のかわらの重さは76トンにもなるんだよ☆「八角形鼓楼」を頭に載せた「ころう君」。「古代山城 鞠智城」。パンフレット置き場と掲示板コーナー。「鞠智城 掲示板」。「続日本百名城 認定証」。「御城印」を頂きました。続日本百名城のスタンプを頂きました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.08
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「迫間眼鏡橋」を後にして、この旅行の最初の続日本百名城の「鞠智城(きくちじょう)跡」に向かって県道18号線・鞠智鹿北線を北に向かって進む。途中ルート上にあるはずの「袈裟尾高塚古墳」に立ち寄りたかったが案内板が見当たらず諦めて更に進み「歴史公園鞠智城駐車場」に到着する。時間は11:44。車を降りると、北側には八角形の建物が。復元した「八角形鼓楼」をズームして。「温故創生館」を見学後に訪ねたのであった。東側にはこれも八角形の土産物屋「長者館」が。「歴史公園 鞠智城」案内板も。そして右側にあったのが「歴史公園鞠智城・温故創生館」。「温故創生館」に向かって進むと、右手にあったのが「鞠智城跡周辺案内図」。「温故創生館」前から再び「長者館」を見る。「温故創生館」を正面から。鞠智城が築かれた時代やその役割、城の構造について、展示と映像で学べる施設。1階には[展示解説室]があり「Ⅰ.鞠智城とは」、「Ⅱ.鞠智城跡の調査成果」、「Ⅲ.鞠智城跡の整備」、「Ⅳ.各地の古代山城」といったテーマごとに、パネルや写真、出土遺物、復元模型などを使ってわかりやすく解説していくれていた。「温故創生館」。熊本県によって平成6年度から歴史公園として整備が進められ、平成14年4月にオープンした施設で、鞠智城から出土した遺物や、展示品と映像(復元様子やミニ映画)で、鞠智城とその時代を紹介している施設。また2階の休憩室からは鞠智城跡を一望できる。内部にはいろいろな資料や模型が展示してあり、当時の生活用具や武具などがも分かりやすく展示してあったのだ。「温故創生館」に入館、入館料は無料であった。コロナ感染予防の消毒・検温、記帳をして入館する。[映像解説室]では鞠智城の見どころや菊池川流域の文化財を紹介する映像が上映されていたのでしばしの鑑賞。鞠智城(きくちじょう)は、熊本県の山鹿市と菊池市にまたがる台地状の丘陵に築かれた、日本の古代山城である。城跡は、2004年(平成16年)2月27日、国指定の史跡「鞠智城跡」に指定されている。鞠智城跡では、国内の古代山城では似かよった例を見ない、4基の八角形建物跡が見つかっていると。韓国の二聖(イーソン)山城でも同じようなものがあり、注目される。特別な性格の施設であったことをうかがわせる、八角形という特殊な形であったことから、鼓の音で時を知らせたり、見張りをしたりするための「八角形鼓楼」として復元したと。復元した「八角形鼓楼」は、高さ15.8mで、重量約76トンの瓦が載る建物。1991年の調査で発掘された八角形建物の柱跡。八角形建物跡は極めて少なく、前期難波宮など数ヵ所のみであると。4基の八角形建物跡が見つかっていると。復元されたものは高さ:15.9m、最大幅:8.2m。1層目の柱数は48本、2層、3層目には16本の柱にて支えられている。3層には連絡用の太鼓を置いていたと考えられている。 「なぜ鞠智城はつくられたのか?鞠智城は、7世紀後半(約1,300年前)に大和朝廷が築いた山城です。当時、東アジアの政治的情勢は、非常に緊張していました。日本は、友好的であった百済を復興するために援軍を送りましたが、663年の「白村江の戦い」で唐と新羅の連合軍に敗北しました。このため、事態は急変し、直接日本が戦いの舞台となる危険が生じました。そこで九州には、大宰府を守るために大野城(福岡県)、基肄(きい)城(福岡県・佐賀県)、金田城(長崎県)が築かれました。鞠智城は、これらの城に食糧や武器、兵士などを補給する支援基地でした。」朝鮮半島西部の白村江で倭軍と百済の連合軍は唐軍と戦ったが、倭軍が大敗。朝鮮半島から撤退した。その結果、大和朝廷は唐や新羅の来襲に備え、665年から667年にかけて福岡、佐賀、山口、奈良、香川、対馬に城を築き国防の備えとしたのであった。そして順路に従い、自宅での復習を目的に館内の展示パネルをデジカメで追ったのであった。「Ⅰ.鞠智城とは 1.鞠智城とは鞠智城は7世紀後半、今から約1300年前に大和朝廷によって築城された古代山城です。この当時、朝鮮半島では、「高句麗」、「百済」、「新羅」の三国の争いに、中国の「唐」が加わり、社会的な緊張が続いていました。660年、唐と新羅の連合軍によって、日本と友好関係にあった百済が滅ぼされます。日本は、百済の復興を支援するために援軍を送り込みますが、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅連合軍に大敗し、百済の救援に失敗しました。その結果、今度は唐と新羅による日本侵攻の脅威に、直接対処せざるを得ない情勢になります。そこで、大和朝廷は西日本を中心に防衛体制を形成します。九州では最前線基地として金田城(長崎県対馬)が築城され、大宰府を防衛するために大野城(福岡県)、基肄城(きいじょう佐賀県・福岡県)が築かれます。それらの背後に位置する鞠智城は、防衛施設であったと同時に、食糧や武器なとを前線へ供給するための兵站基地であったと考えられています。しかし、結果として唐と新羅による日本への侵攻はありませんでした。鞠智城はその後、役所的な役割を持つ施設や食料を貯蔵する施設などに変化し、10世紀半ばまで存続しました。」「2. 7世紀の東アジア世界7世紀の東アジア世界は、どのような状況だったのでしょうか。朝鮮半島では、唐の高句麗遠征などをきっかけに、高句麗・百済は唐と敵対するようになります。その一方、新羅は唐の制度を積極的に導入し、唐と親密になっていきます。そのころ、日本は大化の改新の最中で国内の政治体制を整備し始めたばかりの時期にあたります。しかしながら、百済と友好関係にあったため、まだ国内が十分に整わないうちにこの東アジアの大きな動乱に巻き込まれていきます。そして、660年に百済が唐・新羅に滅ぼされると、日本は積極的にこの動きに関わっていきます。中大兄皇子は、663年、百済遺臣の求めに応じて百済復興のための軍勢を派遣します。この日本軍と唐軍が、今の韓国忠清南道の錦虹河口にあった白村江において激戦を繰り広げ、日本は大敗を喫し、百済復興の道は閉ざされます。このとき、日本はその国家史上初めて、外敵からの脅威にさらされることになるのです。」「白村江の戦い」当時の九州内の最前線の城と朝鮮半島の城の地図。「3. 古代山城とは「白村江の戦い」ての敗戦後、日本はその国家史上初めて外敵からの脅威にさらされることになります。この時、大和朝廷はそれに対するために、西日本の各地で防衛体制の強化を行います。この防衛体制の強化については、『日本書紀』に記載されています。まず664年には、対馬、壱岐、筑紫に防人と烽(とぶひ)(烽火・のろし)が置かれ、筑紫には水城が築かれます。その翌年には長門国(山口県)に城が築かれ、また大宰府の周囲に大野城・基肄城が築城されます。さらに667年には高安城(大阪府)、屋嶋城(香川県)、そして対馬には金田城(長崎県)が築かれます。このような流れの中で、7世紀から8世紀ころに築城された西日本の山城を総称して「古代山城」といいます。なお、古代山城の中でも『日本書紀』や『続日本紀』などの歴史書に記載のある城を「朝鮮式山城」、記載のない城を「神籠石(こうごいし)式山城」と呼びます。鞠智城は、『続日本紀』などの文献に記載があるため、朝鮮式山城に分類されます。古代山城のうち大野城と基肄城については、、『日本書紀』の中に、「日本に亡命して来た百済の達率(たつそつ)である憶礼福留(おくらいふくりゅう)と四比福夫(しひふくふ)を派遣して築かせた」との記述があります。古代山城には、朝鮮半島の最新の土木技術が使用されていました。」「4. 古代山城の分布白村江での敗戦後、大和朝廷が国家防衛のために築城した古代山城は、西日本各地に分布しています。特に、北部九州、大宰府の周辺に多くの古代山城が築城されています。当時の大和朝廷が、北部九州の防衛を非常に重要視していたことがわかります。また、下の分布図を見ると古代山城は北部九州から瀬戸内にかけて、分布していることがわかります。これは、当時の都であった、「難波宮」や「近江大津宮」なとに至るルートです。大和朝廷が唐・新羅の連合軍による都への侵攻を想定し、防備を固めたようとしたことがうかがえます。古代山城の分布図。「5. 文献に見る鞠智城鞠智城が初めて文献に登場するのは、『続日本紀』の文武天皇2 (698)年5月25日の、「甲申、大宰府をして大野、基肄、鞠智の三城を繕ひ治めしむ」という記事です。大野城と基肄城は『日本書紀』に665年に築城されたという記事があります。この2城と同時期に修繕されたということから、鞠智城の築城もこれに近い時期であったと想定てきます。その後、再び文献に登場するのは、『文徳実録』天安2(858)年閏2月の「丙辰、肥後国言す、菊池城院の兵庫の鼓自ら鳴る」、「丁巳、又鳴る」という記事です。この時期には、「菊池城」と字が変わっています。さらに、同年6月20日の「肥後国菊池城院の兵庫の鼓自ら鳴る」、「同城の不動倉十一宇火く」と記事は続きます。長者原や長者山で、大量の炭化米や、火を受けた礎石が発見されたことは、不動倉11棟が焼失したという記事を裏付けるものでしょう。『三代実録』元慶3 (879)年3月16日の記事には、「丙午肥後国菊池郡城院の兵庫の戸自ら鳴る」とみえます。こうした一連の不吉な記事が記載された後に、鞠智城のことは一切文献に登場しなくなります。」「地名の変化昔から伝わる地名は、読みは同じでも漢字が変わる例が多く見られます。例えば・・・倭(やまと) →大和(奈良県)下毛野(しもつけ) →下野(栃木県)上毛野(こうづけ) →上野(群馬県)泉(いずみ) →和泉(大阪府南西部)近淡海(おうみ) →近江(滋賀県)遠淡海(とうとうみ)→遠江(静岡県西部)針間(はりま) →播磨(兵庫県南西部)沖(おき) →隠岐(島根県岐諸島)三野(みの) →美濃(岐阜県南部)木(きい) →紀伊(和歌山県)多遅麻(たじま) →但馬(兵庫県北部)粟(あわ) →阿波(徳島県)これは奈良時代初期の和銅6 (713)年に、日本全国の国名、郡名、郷名などを好字(良い意を持つ字。縁起の良い字)のニ文字に統一するようにとの命令がだされたことによります。鞠智城の『鞠智』も、このような流れの中で『菊池』と文字が変わったものと思われます。」「6. 鞠智城の位置鞠智城は熊本県北部に位置し、山鹿市と菊池市にまたがって所在します。北側にそびえるハ方ヶ岳(標高1052m)から南に広がる台地の一つである「米原台地」上に位置します(標高約140m)。そのため、鞠智城からは菊鹿盆地を一望でき、遠くは雲仙島原の山々も眺めることができます。山鹿、菊池の両市にまたがる広大な菊鹿盆地は、古代から県内有数の穀倉地帯として知られています。また、古代には「車路」と呼ばれる道路(古代官道)か通っていたことが想定されています。今日でも多くの幹線道路か縦横に通っており、交通の要所となっています。このようなことは、鞠智城がこの地につくられた大きな要因だったと考えられます。鞠智城は、大宰府から直線距離て約62kmも離れています。そのため直接的な大宰府防衛の城ではなく、後方支援基地であったと考えられています。また、古代山城で最も南に位置し、南方を広く眺望できるという点から、南方の隼人への対策という役割があったことも想定されています。」「7. 鞠智城の範囲鞠智城の範囲は、山鹿市菊鹿町米原の長者原地区を中に東西約1 .6km、南北約1 .3kmで、外郭線の総延長約5.3km、総面積約120haの規模をもっています。そこは、中域である内城地区(約55ha )と自然地形を取り込んた外縁地区(約65ha )に区分されます。さらに外側を包括するような地域も城の範囲とする「広域説」があります。内城地区は、南を南側土塁線(図の土塁線②)で区切り、西は西側土塁線(図の土塁線①)て区切る、周長約3.5kmのラインになります。鞠智城の遺構のほぼすべてが内城地区に集中しており、現在はこのラインによって区画された範囲が、国の史跡に指定されています。広域説の範囲は、池ノ尾門から大門、さらには頭合(ずごう)、木野、立徳(りゅうとく)と北に延びる低山の尾根をつたい、金頭(きんがしら)の山々(標高211 .8m )をつたう馬蹄形を呈するライン(図の外郭ライン①)をいいます。広域説については、調査がまだ進んでいないため、今後確認していく必要があります。」「Ⅱ鞠智城の調査成果8. 鞠智城跡の遺構鞠智城跡からは、国内の古代山城では唯一の検出例である八角形建物跡をはじめとする72棟の建物跡、銅造菩薩立像や木簡をはじめとする様々な貴重な遺物が出土した貯水池跡、3カ所の城門跡、土塁跡などの遺構が検出されました。建物跡には、堀立柱建物、礎石建物があり、これらの建物は倉庫や官舎、兵舎などであったと考えられています。また、貯水池跡では、木材を蓄えるための貯木場や水汲み場などがみつかっています。城門跡からは、門の礎石などが発見されました。土塁には「版築」という技術が使用されており、朝鮮半島とのつながりが認められます。」鞠智城周辺のジオラマ。「青銅菩薩立像」の出土地点が示されていた。「ジオラマ 製作 県立熊本工業高校」。鞠智城の平面配置画。倉庫群 板倉、兵舎が並ぶジオラマをズームして。「9. 鞠智城の調査の歴史・1967年(昭和42年) 昭和40年代に始まった米原台地の水田化工事(農業構造改善事業)に 伴う調査事業を開始。・1981年(昭和56年) 宮野礎石群の全面露出、※周溝より平安時代の須恵器、土師器、白凰期の鬼瓦が出土。・1981年(平成3年) 八角形建物跡を南北2箇所で検出・1996年(平成8年) 貯水遺構の存在が明らかとなる、 貯水池跡で1号木簡「泰人忍□五斗」出土。・1998年(平成10年) 貯水場跡を検出.2008年(平成20年) 百済系の銅像菩薩立像を検出「10. 鞠智城跡の変遷鞠智城跡は、様々な検討から約300年間にもわたって存続したことがわかりました。また、その存続期間の中で下表のように、大きく5期におよぶ変遷が把握されました。」「11. 鞠智城Ⅰ期の特徴鞠智城の創建期にあたります。堀切、深迫、池ノ尾の各城門や、南側・西側土塁線を含む城の外郭線が急速に整備されていきます。それにあわせて、長者山東側の裾部と長者原地区中央部に、掘立柱建物群が構築されます。また城の北側谷部に貯水池が造成されます。これらの年代は7世紀第3 ~ 4四半期と考えられます。城の施設が整備された段階てすが、掘立柱建物は多種多様で、総柱の建物が少なく小型の側柱建物が多く認められます。このことから、外郭線を急速に整備する一方で、城内建物の整備はそこまで進んていなかったと言えます。つまり白村江の戦い後、中央政権が百済高官の指導のもと対外的な危機に備えて各地に古代山城を築城しますが、まずは城としての最低限の防御機能を備えることを重要視していたことが考えられます。」出土した鞠智城築城以前の須恵器や土師器。「鞠智城筑前以前の集落鞠智城一期よりも昔の、古墳時代後期から米原台地上には集落があつにことか確認されています。ここに展示してある土器は、その集落などから出土したものです。鞠智城築城直前まで、この集落が存続していたことが確認されています。集落に住んでいた人たちも鞠智城の築城に何らかの形で関わっていたのかもしれません。」「製塩土器について「天草式製塩土器」と呼ばれる土器が見つかっています。火がよく当たり、碗に入れた海水がよく煮詰まるように長い脚が付けられているのが特徴てす。海水が煮詰まっ塩ができると脚の部分を打ち欠き、塩が付着したままの碗のみか消費地へ出荷されます。そのため、塩の生産地では脚部が大量に見つかり、消費地遺跡では碗部のみが見つかります。製塩土器の存在から、鞠智城へも天草や宇土半島で生産された塩が持ち込まれたことが判明しました。」「天草式製塩土器関連遺構」の地図。「12. 鞠智城跡出土の土器鞠智城跡からは多くの土器が出土しています。それを詳しく検討していくと、長期間にわたって土器が出土していることがわかります。鞠智城築城以前の土器が存在するのは、鞠智城が築城される前に古墳時代の集落があったためです。鞠智城が築城される7世紀の第3四半期には土器の量は若干増加し、城の修繕時期にあたる7世紀第4四半期から8世紀第1四半期には土器の出土量が最も多くなります。その反面、土器が全く出土しない時期もあるなど、時期によって土器の様相は大きく異なっています。」「鞠智城Ⅰ期の土器」。「武器の手入れ武器の手入れは兵士達にとって、とても大切な作業てした。なぜなら、戦場において武器の良し悪しは、すぐ自分の命にかかわったからです。兵士達は、訓練や警備の合間に刀や、矛、弓の手入れをしました。」さらにパネルを追いかける。「13. 貯水池跡貯水池跡は、長者原地区の北側に位置する谷部から発見されました。その後の調査で、総面積は5300m2となることが判明しました。池遺構は国内の古代山城で初めての発見であったため、その重要性から数カ年にわたって調査が実施されました。その結果、建築部材などを保管するために木材を水漬けした貯木場跡、水汲み場として利用した木組遺構なと、当時の技術を知ることができる多くの遺構を検出しました。また、「秦人忍ロ(米力)五斗」と墨書された荷札木簡や百済系の銅造菩薩立像などの極めて重要な遺物のほか、大量の土器片などが発見されました。」「14. 貯木場跡貯木場跡は、貯水池の中につくられた、水に浸して木材などを保管した施設てす。貯木場跡は、大きくA地区、B地区に分けられます。A地区では建物の柱に使うような大型の木材が保管されていました。B地区では蔓や細材が端を揃え、束ねた状態で保管されていました。このように、場所ごとに保管する木材を仕分けしていにことがわかりました。これらの木製品などを保存するためには、水に十分に浸す必要があります。そのため、瓦を重しとして木材や木製品の上に載せるなとの工夫がされていました。」「15. 木製品について木製品は、木簡、柄・横槌・鍬などの農耕具、建築材、杭、木錘、男性器形木製品などが貯水池跡から出工しました。木簡は熊本県内では初の発見であり、現在でも鞠智城跡出土例と葦北郡芦北町岡木崎遺跡出土木簡の2例しかみつかっていない貴重な資料です。「泰人忍□(米力)五斗」と墨書されており米を納める際に使われた荷札木簡と考えられます。農工具はどれも粗い加工までなされたもので、最終的な加工を行えはすぐに使用できる未成品でした。そのため、建物などの修繕の時に備え、計画的に貯木場に建築材などを貯木すると同時に、建築材を加工するために必要な工具類も一緒に貯木したものと考えられます。この他、男性器形木製品は貯水池の水枯れを防ぐことを目的とした祭祀など、水辺における祭祀行為に使用された祭祀具であったと考えられます。」「男性器形木製品 出土地点:貯水池跡」。建物の柱に使うような大型の木材。「16. 銅像菩薩立像の解説貯水池跡池尻部から出土した銅造の菩薩立像です。ほぞを含む高さ12.7cm、幅3.0cmで、横から見ると優雅なS字曲線を描いています。下部のほぞは、台座に差し込むためのもので、太く造り出しているのが特徴てす。その表情は、丸みを帯び穏やかで、三面の宝冠、肩まで垂らした垂髪、両肩にかけられに天衣などもよく表現されています。また、舎利容器と考えられる持物を、へその前で両手で抱えるように持っています。この仏像は、7世紀後半の百済仏の特徴を持っことから、百済で造られ日本に持ち込まれた可能性が高いと考えられています。このような仏像は、百済でも相当身分の高い人のみが持っことができたものてす。『日本書紀』には、古代山城の築城を百済の亡命貴族が指導したという記事があります。この仏像は鞠智城へ築城の指導に来た、百済の亡命貴族が持って来たものかもしれません。」頂いたパンフレットより。平成20年10月23日.貯水池跡池尻部から出上した鋼造の菩薩立像(ぼさつりゅうぞう)です。ほぞを含む高さ12.7 cm(像のみで9.79cm )幅3.0cmの小型仏で、横から見ると優雅なS字曲線を描いています。下部のほぞは台座に差し込むためのもので太く造り出しているのが特徴です。仏像は、丸みを帯びた穏やかな表情で、頭部に付けられた三面の頭飾、肩まで垂らした垂髪(すいはつ)、両肩にかけられた天衣(てんね)なとがよく表現されています。また、持物(じもつ)をへその前で両手で抱えるように持っています.この菩薩像は、7世紀後半に朝鮮半島の百済で造られたと考えられており、『日本本書紀』の記述にもあるように、百済の亡命貴族の指導で築かれたと考えられる「鞠智城」の歴史的背景を物語る貴重な資料です。「青銅菩薩立像」H= 10. 5cm大韓民国 忠清南道 禮山郡 大興面 校村里※下部に台座に差し込むためのほぞが付く。「17. 銅像菩薩立像の出土状況銅造菩薩立像は、貯水池跡の最も北側に位置する池尻部から出土しました。池尻部は、池の水を排水する水門や水路なとが整えられていたところて、池の機能を維持するうえで、非常に重要な地点です。この池尻部の最も下に位置する土の中から、銅像菩薩立像は出土しました。仏像は、頭を西に向けた、仰向けの状態て検出されました。なお、この部分の土は他の部分よりも硬く締まっていたため、意図的に埋められていた可能性もあります。池は城内の生活や城を維持する上で非常に重要な施設てす。そのため、池で最も重要な地点である池尻部に、貴重な仏像を埋納し、池が壊れないようにお祈りしたのかもしれません。」「18.鞠智城Ⅱ期の特徴(7世紀末~ 8世紀第1四半期前半)鞠智城の隆盛期てす。「コ」の字に配置した掘立柱建物群や八角形建物が出現します。また長者山に掘立柱建物の倉庫が築造されるなど、I期に比べて城内施設の充実が図られています。この城内施設の拡充は、『続日本紀』698年にみられる鞠智城の「繕治(ぜんち)」によるものと考えられます。建物を「コ」の字形に配置するのは、当時の役所に認められます。このことから、鞠智城Ⅱ期になると城としての機能たけでなく、役所的な機能も備えたということができます。その背景には、城の近くを古代官道(車路)が通ること等の鞠智城の立地条件も大きく反映していたのでしょう。貯水池における貯木場の建設部材は、このⅡ期段階に貯木されたものが多いと思われます。また、Ⅱ期の土器の出土量が最も多いことから、鞠智城に多くの人員が配置され、施設の充実や、拡大した機能を維持する任務に携わっていたと考えられます。」「百済系菩薩立像(くだらけいぼさつりゅうぞう レプリカ)出土日:平成20年IO月23日出土地点:国指定史齣智城跡 貯水池跡・池尻部法量:全高12.7cm (像高9. 7cm)、幅3. 0cm製作年代.:7世紀後半百済系菩薩立像(くだらけいぼさつりゅうぞう 復元)指導:大西修也氏(九州大学名誉教授)主な復元箇所・肘の内側を通り足下まで垂れる天衣(てんね)及び 裳(も)の襞(ひだ)。・胸元に 捧持する台付の円筒形舎利容器。・黄土色の皮膜に覆われている瓔珞(ようらく)。・鍍金。」「19. 鞠智城Ⅱ期の遺物鞠智城Ⅱ期は、他の時期に比べ圧倒的に多くの日用品として使われた土器が存在します。その大半が須恵器で、土師器がほとんど出土しないという特徴があります。土師器の出土は若干数ですが、ヘラミガキ調整や暗文など畿内の土師器の特徴をもっことから、畿内からもたらされたり、畿内の土師器を真似してつくったことが想定できます。須恵器は、福岡県大野城市一帯の牛頸窯跡群のものや、熊本県宇城市周辺の宇城窯跡群のものが認められますし、その他にも様々な生産地の須恵器が出土しています。古代山城は、当時の国家プロジェクトとして築城されたものですので、土器など必要なものは様々な生産地から集められて、城に供給されていたのでしよう。また、土器の多さから、この時期に最も多くの人々が鞠智城に駐留していたと考えられます。」八角形建物前を通る役人(想定)。須恵器・4世紀末頃、朝鮮半島から技術(ロクロ、窯)が伝わる・登窯で焼く(1100度以上の高温)・色は、灰色っぽい・非常に硬い・水が浸透しにくい→貯蔵具(水瓶等)にもってこい・火にやや弱い(割れる)→煮沸具(鍋や甑(こしき))にはやや不向き土師器・弥生土器から続く伝統的な土器製作技術・野焼き(800 ~ 900度の低温)・色は、赤っぽい・須恵器に比べるとやや軟質・水が浸透しやすい→貯蔵具(水瓶等)にはやや不向き・火に弱い→煮沸具(鍋や甑)にもってこい各種の土師器。「20. 鞠智城Ⅲ期の特徴(8世紀第1四半期後半~第3四半期)鞠智城の転換期です。Ⅱ期に築造された掘立柱建物の一部が、小型礎石を使用した礎石建物に建て替えられます、この段階で初めて、鞠智城に礎石建物が出現します。礎石建物への構造的な変化は、建物の耐用年数を長くするためで、長期にわたる城の存続を意図していたことがうかがえます。しかし、鞠智城ではⅢ期に該当する土器はほとんど出土しません。これは、城に多くの人員を常駐させず、維時・管理に必要な最低限の人員のみを配置していたためと考えられます。貯水池跡出土の木簡はこのⅢ期のものです。この木簡と同じ形状の木簡は、大宰府が管轄した西海道の範囲や、平城宮で出土する西海道関連の木簡に認められます。このようなことから、鞠智城はこの時期も太宰府の管轄のもとに維持管理がなされていたといえます。なお、「コ」の字の建物配置はⅢ期にも存続していることから、役所的な機能は継続していたといえます。」「21. 鞠智城Ⅳ期の特徴(8世紀第4四半期後半~9世紀第3四半期)」鞠智城の変革期てす。小型礎石の礎石建物から大型礎石を使用した礎石建物へ建て替えが行われており、礎石建物の大型化が図られています。一方、「コ」の字配置の建物群はなくなり、倉庫が多く認められる建物構成へと変化が生じます。また、礎石建物の礎石の多くに火災の痕跡が認められることから、『文徳実録』天安2 (858)年の条に記載のある不動倉11棟の焼失記事との関連を指摘できます。貯水池ても、貯木場を含む池中央部の維持管理作業(泥さらいなど)が行われなくなります。また、Ⅳ期の終わりには池ノ尾門の石塁の崩壊も生じています。なお、Ⅳ期の土器は須恵器が一部に認められるものの、そのほとんとが土師器となり、在地のものが主体となります。これらのことから、Ⅳ期は鞠智城の機能が大きく変化する時期といえます。特に、食糧等の貯蔵施設としての役割が大きくなっています。太宰府との関連も認められず、在地との関係が強くなっているように思われます。」「22. 鞠智城Ⅴ期の特徴(9世紀第4四半期後半~10世紀第3四半期)鞠智域の終末期です。Ⅳ期に起こった火災による礎も建物の焼失などで、城の機能が著しく低下しています。しかし、新たに大型の礎石建物などが建てられ、また貯水池の北側半分もこれまでどおり機能していることから、域は存続していたものと考えられます。この時期に新たに建てられた建物は、倉庫と考えられます。礎石建物の倉庫が焼失した後に、大型の礎石建物の倉庫を建て直していることから、この時期の鞠智域は倉庫群が建ち並んだ貯蔵施設としての機能がその役割の中心であったと考えられます。『日本三代実録』には、879年「肥後国菊池郡城院の兵庫の戸がおのずから鳴る」との記事があります。この記事中の「院」は古代の役所などに付随する大きな建物のことてす。この菊池郡城院の「院」は、V期の大型礎石建物のことと考えることができるのではないでしようか。この時期を最後に、鞠智城は廃城します。その時期は貯水池が機能を停止する10世紀の第3四半期と考えられます。」「炭化米米倉の周辺を発調査した時に、大量の焼けたお米が見つかりました。天安2(858)年に鞠智城の米倉11棟が焼失したという記事が『文徳実録』という歴史書に残っています。炭化米は米倉が焼失した時に一緒に焼け、堆積し、現在まで残っていたものと考えられます。」発掘された土師器、須恵器。「鍛冶関連遺物について貯水池跡からは、鞴の羽ロや鉄滓が出土しています。鞴は金属の熱処理や製錬に用いる送風器で、鉄滓は製錬や鍛冶の作業を行う過程で残った不要物です。これらの存在から、鞠智城内でも鉄生産に関係する作業を行っていたはずてす。鞠智城跡の東側隣接地点の菊池市稗方には、剛健で、折れず、曲らない刀として知られている「同田貫」の発祥地である「同田貫屋敷跡」があります。この屋敷跡で砂鉄を原料とした刀を製作していました。「同田貫」は南北朝期に、菊池氏が山城国(京都)から招いた延寿の分派と考えられています。「同田貫」の名を世に知らしめたのは、明治1 9年に天皇が御覧になられた試し切りで、兜に斬りこみを入れたことてす。鞠智城でも隣接地である菊池市稗方で生産された鉄を原料として持ち込み、鍛冶を行ったと考えられます。そうであれば、古代での鉄生産の実績があった鞠智城周辺に、「同田貫」発祥のルーツがあると言えます。」漆が付着した土器や砥石、鞴(ふいご)羽口、鉄滓。「23. 瓦について鞠智城跡からは、軒丸瓦、丸瓦、平瓦が出土しています。その数は、大・小の瓦片を含めて約1万900点にのほり、その中でも平瓦が約7800点と70 %以上を占めます。軒丸瓦については、総数18点を数えます。これら瓦の大半は、建物遺構が多く所在する長者原・上原地区から出土したことから建物に瓦が葺かれていたと考えられます。また、貯水池跡や、堀切門跡、池ノ尾門跡などからも出土が認められます。軒丸瓦には、単弁ハ葉蓮華文と呼ばれる文様が施されています。これは、朝鮮半島の瓦の影響を受けたものといわれます。平瓦は、粘土板桶巻き作りという製作技法によりつくられたものがほとんどです。表面に残るタタキの痕跡及び調整技法から、いくつかのグループに分類することが出来ます。鞠智城跡の瓦の年代ですが、ほとんどのものは7世紀第3四半期から8世紀第1四半期のものと考えられます。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.07
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国道387号を下って行くと左手にあったのが「菊池公園」案内板。菊池市肉を見渡せる小高い丘いっぱいに、約1万本のソメイヨシノが咲き誇る桜の名所です。桜以外にもあちらこちらで色づき、櫻のピークが過ぎると今度はツツジが山を飾ります。気持ちのいい芝生広場や巨大アスレチックもあるので、花見客はもちろん家族連れにも人気のスポットです。「きくち温泉 散策マップ」とうとうと流れる菊池川。清らかな水から生まれる菊池米。豊かな温泉の数々。今もなおいにしえのおもかげを残す町並みをゆっくりと歩いてみませんか。四季折々の風情を楽しみながら湯に入り美味しいものを食して、菊池散策をどうぞ。地図をズームして。国道387沿いの「菊池公園」の植栽。現在地周辺の観光マップ。この建物は?建物の裏の木々は黄葉が始まっていた。「やすらぎの館」は公衆トイレであった。そして再び「菊池神社」駐車場入り口に戻る。「別格官弊社菊池神社」碑。市内を見下ろす菊池公園内の旧菊池城本丸跡に鎮座されているのであった。ここにも「菊池神社」案内板。創立菊池神社は熊本県菊池市隈府城山に御鎮座あり菊池武時、菊池武重、菊池武光三公を主神とし一族殉国戦歿の将士二十六柱を配祀す慶応四年七月十七日(江戸を東京と改称当日)畏くも明治天皇は「菊池氏ハ曩祖以来累代皇室ニ勤労シ其精忠臣分ノ模範」と嘉賞シ給ひ祭祀仰出さるよって藩庁は菊池城址に社殿を造営し明治三年四月二十八日鎮座あらせられ明治十一年一月十日別格官幣社に列せられる御祭神 贈従一位 菊池武時公 贈従三位 菊池武重公 贈従三位 菊池武光公 配 祀 一族殉国戦歿の将士 二十六柱祭日 例祭 四月 五日 大祭 十月十五日摂社 城山神社 贈従三位 菊池武房公 贈従四位 菊池重朝公末社 城山稲荷神社 稲荷神社(伏見稲荷大社の御分霊を祀る) 生目神社(室町時代より此の地に祀る) 左手に「菊池神社」二の鳥居、右手に「稲荷神社、生目神社」の朱の鳥居。朱の鳥居を潜り進んで行った。「稲荷大明神」の赤、「生目大明神」の白の幟が並んでいた。「稲荷神社、生目神社 同殿二座」。稲荷神社と生目神社は、それぞれ別々の小祠されていたが、昭和45年に鉄筋コンクリートの社殿に改築され二座同殿に奉祀されたのだと。「稲荷神社、生目神社 同殿二座」の社殿。「稲荷神社、生目神社 同殿二座一、祭神 稲荷神社(生産・商売繁昌の神) 生目神社(目の守護神)二、祭日 毎年二月初午の日三、創立 昭和十九年三月二十五日四、由緒 (一)稲荷神社 昭和十九年五月十四日京都伏見稲荷より勧請 (二)生目神社 宮崎の生目八幡を勧請と伝え、江戸時代よりここに鎮座した。 (三)両社とも、もとは各々別々の小祠に奉祀したが昭和四十五年一間社造向拝付 鉄筋コンクリート造の社殿に改築し二座同殿に奉祀した。」「稲荷神社、生目神社 改築奉賛碑」。ここにも別の小さな稲荷神社があったが、先程まではこれが「稲荷神社、生目神社」の「稲荷神社」と思っていたが。「軍神松尾敬宇中佐の銅像」。「忠勇義烈」の文字が。像をズームして。「軍神松尾敬宇中佐松尾敬宇中佐は大正六年七月、父鶴彦、母まつ枝の次男として山鹿市三玉に生まれました。長じて鹿本中学校を経て海軍に入り海軍兵学校を卒へて昭和十七年海軍大尉に任ぜられました。とき国難の大東亜戦争に際し決死報国の志を以って、同年五月三十一日都竹兵曹長を伴い特殊潜航艇に乗じ僚友と共に濠州シドニー港に潜航突撃して赫々たる武勲をあげ、国難に殉じました。敵将グルート提督はその豪勇を歎賞して、海軍葬を以て之を葬り、その勇敢と殉国の尊さを同国民に訴えました。又、中佐の武勲は畏くも、天聴に達し、特に二階級特進せしめて海軍中佐に任じ、正六位勲五等功四級を賜はりました。軍神と称へる所以であります。中佐は生前深く菊池神社を崇敬し、菊池氏の精忠を景仰し、その精神を継承せんことを力め。決死の出撃に当っては凛然として散華したのであります。本像がここに立つ所以であります。この像は中佐の母堂まつ枝刀自が濠州政府の厚遇に答礼のため訪濠されるに当り、これを後援した人々と中佐の偉業を偲ぶ人々の特志によって建てられたものであります松尾中佐ご両親の歌碑 鶴彦菊池なる神のをしへをひたぶるによくぞはたせしますらをの道 まつ枝君がため散れと育てし花なれど嵐のあとの庭さびしけれ」「菊池武時公像」。平安時代から450年繁栄した豪族「菊池一族」の騎馬像。菊池氏は大宰府天満宮領赤星荘の荘官として、肥後国菊池に定住。12代・菊池武時は、天皇の綸旨を受けて九州探題を攻撃するが、全員討ち死に。忠臣として名を馳せたのであったと。明治維新で、王政復古が実現すると、明治天皇は、建武中興(けんむのちゅうこう=建武の新政)に尽力した南朝側の皇族・武将などを顕彰するため、全国に15の神社を創建しています。それが建武中興十五社で、九州では懐良親王を祀る八代宮(熊本県八代市)と、菊池神社が創建されているとのこと。菊池神社の建つこの地は、菊池氏の本拠だった菊池城の城跡。台座の短面には「菊池武時公公は菊池氏十二代の当主である。後醍醐天皇の勅命を奉じ、一族を率い、博多の九州探題北條英時を攻め、元弘三年三月十三日壮烈な討死を遂げ、建武新政のさきがけとなられた。」と。「菊池武時公像騎馬像」へのQRコード案内。「菊池神社」の南門、手前に手水舎。「菊池懐古」碑。ズームして。「菊池懐古菊池村老両三家 籬落秋風見暮鴉世守芳根全晩節 翠楠未必勝黄花録山陽外史詩陸軍中将男爵菊池武夫書(裏)紀元二千六百年記念東京 皇風会東京 菊池会米良 菊池同族会」「菊池十八外城」の碑。十八外城を廻りたくなる石碑なのであったが。遠くに熊本県山鹿市と菊池市にまたがる火山・矢筈岳(やはずだけ)の姿が。そしてペットボトル飲料の自動販売機(右)と「菊池一族ウォークラリー★ポイント画像」。歴代当主がアニメで描かれていて目を引くのであった。そして「菊池神社」を後にし、次の目的地の「迫間滝」に向かう。途中、交差点右手に「菊池神社」の一の鳥居と参道が見えた。この参道が桜並木として人気のスポットであると。そして5分もかからずに「迫間滝」のビュースポットに到着。熊本県菊池市を流れる迫間川にある滝。その奥に石造りのアーチ状の橋・迫間橋が。落差3m程度であっただろうか。この日は白き流れが2筋。上流に架かる石橋(迫間橋)そして奥の山々との組合せがなかなか良いのであった。小さな石祠が。優しい顔の石像が祀られていたが、説明板などがないので詳細は不明。「名勝・遺跡休み石と迫間滝と(めがね橋)菊池市大字隈府字遭帰り(高野瀬区内)にあるこの石は昔から、よこい石(休み石)といわれていた。即ち正面に見える菊池隨一の水の名勝といわれる迫間滝のすばらしい景観を菊池公は鳳来山聖護寺に勉学に登られる途中駒をとめて、この石に腰をおろして風景を絶讃されたという。(白布の滝流・紺碧の滝つぼ、両岩の男性的岩石、緑と紅葉の美)文政十ニ年以後は石造アーチ橋の円弧美も加わってきている。迫間滝を詠む。細川綱利(細川家第五代藩主)岩波を 梢にかけて 松風も さらに音なし 山の滝津瀬」「菊池遺産 迫間眼鏡橋 迫間滝 休み石」。休み石(よこい石)。「迫間眼鏡橋」にズームして。「眼鏡橋」なのでアーチが2つ連なった石造2連アーチ橋と思っていたが・・・。2連アーチ橋自体と水面に映る橋とが合わさった姿が眼鏡のように見えることが、その名の由来といわれているのだが。そして車に戻り「迫間眼鏡橋」の袂に移動する。「迫間眼鏡橋」は文政12年(1829年)4月の竣工で、隈府市街と西迫間・市野瀬を結ぶ迫間川に架けられた眼鏡橋で、地元の石工、伊助らによって作られたと。長さ36.4m、幅4m、高さ10m、輪石数は62枚を数える1連アーチ橋なのであった。すれ違った地元のオバちゃんに訪ねてみると、最初からの1連アーチ橋とのこと。「輪石(わいし)」とは、アーチを構成する石で、石橋を支える最も大事な石。アーチ石、拱環石(こうかんせき)、リング石とも呼ばれる。石造アーチ橋の最も大事な部分といえる。材質は九州では阿蘇溶結凝灰岩が多いと。「要石」はアーチの最高部にある輪石。最も重要な石という意味ではない、輪石は全てが重要。要石を備え付けるとアーチが完成することから、アーチ完成の記念すべき輪石ではある。楔石(くさびいし)、拱頂石(きょうちょうせき)、冠頂石(かんちょうせき)、キーストーン(keystone)とも。支保工は、要石を設置したら取り外す。支保工の支えが無くなった輪石は、自らの重みで、相互にしっかりと噛み合い、アーチが完成するのだ。【http://www.kumamotokokufu-h.ed.jp/kumamoto/isibasi/isiyougo.html】よりそして迫間川の堤防上をしばし下流に向かって散策する。「迫間滝」の手前の上流部を見下ろす。「迫間滝」を左斜め前方からズームで。「迫間滝」は、迫間川唯一の滝とのことで、阿蘇山の数万年前の爆発により流れ出た溶岩から形成された河川敷の岩肌が滝と眼鏡橋をより引き立てていたのであった。岩場から白布を下す様に拡がり流れ落ちる滝。先程の展望場所近くにあった滝を対岸から。この家の河川敷からの1本の柱に気がつく。洪水等でこの柱が流されると・・・・この家は????そして「迫間眼鏡橋」に向かって引き返す。橋の袂にあった「迫間橋」碑。近くには柿の実がたわわに。渋柿なのであろうか?そして迫間川の清き流れ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.06
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5日間レンタルしたのはマツダ・デミオ 1300cc?。そしてこのレンタカーでこの日の最初の目的地である熊本県の続日本百名城の「鞠智城」に向かって進む。私はいつものように指定席の助手席に。使い方に不慣れなカーナビを何とかセットして。県道36号線・第3空港線を北に向かって走る。白川に架かる空港大橋を渡って進む。この道路は現役時代に何度と無く阿蘇地域にある事業所に向かう際に利用した道。熊本県と大分県の県境の山並みが前方に現れた。「八方ヶ岳」であろう。菊池市北方、菊鹿町(現・山鹿市菊鹿町)にまたがる火山で、矢筈岳(やはずだけ)ともいう山。標高1051m。山頂は平坦でドーム状の山容だが、山腹は浸食が激しく急崖が多い と。そして、「鞠智城」へのルート上にあった「菊池神社」に立ち寄った。駐車場は、この日は日曜日でもあり七五三のお参りの車で混雑していた。菊池市の汚水マンホール蓋。市の木「サクラ」の花の中に市の花「キク」を描いて。地模様は網代模様。菊池神社の参道を進む。「別宮雲上宮参道」碑。菊池神社の北の丘に、懐良(かねなが)親王と良成(ながなり)親王の居城があったと伝えられている。昭和45年、懐良親王、良成親王をお祀りするため雲上宮(くものへぐう)が建てられたのだと。右手に「菊華殿」。講演会や落語会等々多くの催しものがこの「菊華殿」で行われていると。「菊池神社」の北門から入る。明治3年、かつて菊池一族の本拠地だった守山城跡地に、「菊池神社」が創建された。明治維新の後、朝廷に忠義を尽くした人物や一族を讃える動きが起こり、明治天皇の「菊池氏は武時以来、累代皇室に勤労し、その誠忠臣分の模範」という言葉により造営されたものである と。左手に「手水舎」。「手水舎」手前の建物が「菊池神社歴史館」。菊池氏関係の古文書や、菊池能運像、武具、菊池家に伝わる松囃子能起源書などが多く展示されているとのこと。北門。右手に「菊池神社々務所」。左手に「控室」。「菊花展」が開催されていた。菊人形、左手に第十ニ代菊池武時公。右手に第十五代菊池武光公。市民が手塩にかけた見事な菊の花が並んでいた。大菊の三本仕立てが並ぶ。拝殿には巨大な注連縄が。明治3年(1870年)創建。菊池氏第十二代菊池武時公、第十三代武重公、第十五代武光公が主神として、この他一族等26柱が祀られている神社。境内にある歴史館には、菊池一族ゆかりの古文書・家憲・千本槍・能衣装・能面などの文化財が展示されているのだ。参道の桜が美しく咲く春は、多くの花見客で賑わうと。熊本県菊池市隈府1257。「国歌 君が代」碑。この堂は「神楽殿」であっただろうか?摂社「城山神社」。扁額「城山神社」。「摂社 城山神社御祭神 贈従三位 菊池武房公 菊池十代の主にして文永・弘安両度の元寇を撃退した殊勲者 贈四位下 菊池重朝公 戰國争乱の時代に儒教を導入し肥後文教の渕源をなした人祭日(春) 四月一日 重朝公が釈典の礼を行った日に当つ(秋) 九月一日 武房公が元寇撃退の日に当つ創立 大正九年二月二十九日御鎮座」「教育勅語」記念碑。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ明治二十三年十月三十日 睦仁 天皇御璽」上記と同じ「教育勅語」の内容が。「教育に関する勅語(口語訳)私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。 そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、 今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、 私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、 全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。 そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、 今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、 この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、 私もまた国民の皆さんと共に、父祖の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。」「教育勅語記念碑建立経緯旧士族である田部家は古くより温厚篤実なる人抦て教育塾を営むほどの教育熱心な家抦てある。現在の教育の現状を憂い、田部教育財団を設立するも、志半ばにして成し得なかったが、その遺志を受継ぎ、縁ある朝日野総合病院理事長清水安全様の妻タカ様を始めとする関係各位により平和と人類の福祉に貢献し得る教育の目的を明示する事こそ急務であると考え茲に教育勅語記念碑を奉納された次第である。」苔むした石灯籠。こちらが、「菊池神社」の「神門」、内側から見る。「神門」を潜って外に出ると、右手には多くの動物の彫刻作品が。奉納された木彫りの干支のようだ。白蛇や熊の彫刻も。虎の彫刻に近づいて。「鞠智城イメージキャラクター「ころう君」」。鞠智城の巡回警備と、鞠智城の国営公園化を夢見てPRに励む防人(さきもり)。頭の上にあるのは城のシンボル・八角形鼓楼(ころう)がモチーフ。「鞠智城イメージキャラクター」を募集したところ、同年6月から約3ヵ月間で全国から、857作品もの応募があった。 この中から、香川県高松市の一般人の作品「ころう君」をイメージキャラクターに決定した。 「ころう君」は、頭に鞠智城のシンボルである「八角形鼓楼」が飾られた兜をかぶり、胸には特徴ある鞠智城の「鞠」の字が刻まれている。 そのデザインからは、明るさ、かわいらしさ、力強さ、凛とした意思を感じ取ることができる、とする。 イメージキャラクターの表彰式と発表は、2009年10月25日、国指定史跡鞠智城跡で開催した「鞠智城の日」(2008年10月23日に百済菩薩立像が出土したことを記念するイベント)の中で行われた とウィキペディアより。「神門」の扁額「菊池神社」。その下には「菊花」紋も。再び「神門」を潜り社殿を見る。大きな絵馬。社殿内部では七五三祈願が行われていた。 【令和3年の七五三】 (※数え年です。)3歳 男・女 平成31年(令和元年)生 (髪置)髪を伸ばし始める儀式5歳 男 平成29年生(袴着)袴を着け始める儀式7歳 女 平成27年生「菊池神社(きくちじんじゃ)」案内板。菊池神社は、明治3 (1870)年、菊池一族が本拠地とした守山城(菊池本城)のあった場所に建てられた神社で、12代武時、13代武重、15代武光が主祭神として祀られ、16代武政以下一族26名が配祀されています。敷地内にある歴史館には、菊池一族や松囃子能(国指定重要無形民俗文化財)に関するものなど、数多くの貴重な資料が展示、収蔵されています。「歴史館公開中」(年中無休 午前九時から午後五時まで)菊池氏二十四代の資料を展示菊池家憲 (重文)、菊池千本搶菊池ニ十ニ代能運公画像(重文)蒙古襲来絵詞菊池地方史跡分布模型等古文書・絵画・甲冑・刀剣ニ〇〇余点を展示※団体の方には説明ご案内致します。菊池氏発祥九百年 記念事業奉賛碑。境内の木々も紅葉が始まり、その下を子供の千歳飴を持って歩く父親の姿が。七福神の「恵比寿天」(左)と布袋尊と大黒天(右)。御祈願受付。再び「神門」を潜り石段を降りると手水舎が。「手水舎の由来この手水舎の水は、昭和六年十一月の陸軍大演習で昭和天皇陛下行幸遊ばされ菊池神社御親拝されし折、御手水として神社の北、二キロ、戸豊水村(とりうずむら)から導水された記念すべきものであり、古代、阿蘇火山の活動によって推積した溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)より湧き出る岩清水です。大自然と神々の御恵に感謝の心を捧げつつ身も心も清めましょう。」と天井下に書かれた案内板が。左手に向かって参道を進む。歴史を感じさせる狛犬像。この辺りの銀杏の黄葉はこれから。「菊池神社」 三の鳥居。「菊池公園」内にも様々な文学碑があるようだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.05
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そして定刻7:10に成田空港を出発する。飛行機の出発時間は飛行機が動きだした時、逆に到着時間は飛行機が所定の場所に停止した時。また国内線は定刻の15分以内、国際線は30分以内の出発・到着であれば定刻運航扱いとなることを知ったのはいつであったか。JETSTAR・A320型機が並ぶ。ニューカレドニアの国際線航空会社エアカラン (Aircalin)機が上空に。そして定刻に離陸。時間は7:20。飛行機に乗るのは2019.10.31のブルガリア・ルーマニア旅行の帰路のドーハ国際空港から羽田空港への搭乗以来丸2年ぶり。九十九里浜に向かって離陸。九十九里海岸沖にはオレンジ色に光る海の姿が。ズームして。九十九里海岸上空を通過。そして太平洋に出た後は大きく右に旋回。市原市上空を通過し東京湾上空に出る。三浦半島が姿を現した。観音崎方面であろう。そして暫くは雲の上空へ。伊豆半島を横断し、三保の松原をズームで。富士市の片浜海岸~柏原海岸を見下ろす。以前、『旧東海道を歩く』👈リンク でひたすら歩いた海岸沿いの道路なのであった。伊豆半島を振り返る。駿河湾。雲の隙間から中部国際空港を見る。奈良市内を見下ろす。そして暫しウトウトして気がつくと、左下に熊本空港の姿が見えた。「パークドーム熊本」と「えがお健康スタジアム」。そしてこの日は有明海に出る。手前が坪井川そしてその先に白川。熊本港大橋の先に熊本新港の姿が。有明海上空でUターン。下に四番漁港。再び坪井川(左)と白川(右)。花岡山の頂上に立つ巨大な仏舎利塔。白亜のパゴダ様式の塔、インドのネール首相から贈られた仏舎利が宝蔵されていると。そして復旧なった熊本城天守閣。大天守(地上6階、地下1階)と小天守(地上4階、地下1階)の白く輝く屋根の姿が美しかった。2016年4月の熊本地震から5年。 地震で大きな被害を受けた熊本城天守閣が復旧を果たしていたのであった。そしてこの日の夕方に熊本城を訪ねたのであった。そして再び「パークドーム熊本」と「えがお健康スタジアム」を先ほどとは反対側の上空から見る。そして再び「パークドーム熊本」と「えがお健康スタジアム」を先ほどとは反対側の上空から見る。「パークドーム熊本」は天候に関係なくスポーツが楽しめる全天候型の施設。グラウンドはサッカーフィールドがすっぽりはいる大きさで、テニス、ゲートボール、サッカー、運動会など多彩な大会、イベントが開催可能。また、室内温水プールも完備し、県民の健康・体力つくりに役立つ生涯スポーツの拠点に。2019女子ハンドボール世界選手権大会の試合開催会場の1つ。「えがお健康スタジアム」は、3万人収容の最新の設備を誇る、県下最大の多目的競技場。くまもと未来国体、ひのくに新世紀総体、2011ねんりんピック熊本開会式の開催など感動のステージとなったと。また国際的規模のスポーツイベントにも対応する第1種公認陸上競技場で、ラグビーワールドカップ2019の試合開催会場の1つ。そして着陸し、「旅客用(ローディング) エプロン」へ。現役時代に何回となく利用した熊本空港。エプロンへ向かう。熊本空港・管制塔、高さは37m。そして乗客が飛行機から降りる前からジェット燃料の給油が始まった。この機体が10:00時発の成田空港行きになるのであろう。時間は9:14。そして飛行機を降り、通路から窓越しに利用した機体を見る。右手にあったニッポンレンタカー熊本空港カウンターに向かう。そして送迎バスで5分程離れた熊本空港営業所へ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.04
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この日は11月14日(日)、早朝から4泊5日で九州の続日本百名城にいつもの旅友と向かったのであった。往復飛行機、4泊のビジネスホテルで30,000円/人の超格安ツアー。成田空港を起点にLCCにて熊本空港へそして熊本、鹿児島、宮崎、大分4県にある続日本百名城10城そしてルート近くにある名所旧跡をレンタカー(26,300円/5日)で巡ったのであった。成田空港からのLCC飛行機の出発時刻は7:20。旅友が3:50に愛車で我が家に迎えに来てくれた。そして成田空港に向かって出発したのであった。横浜新道 戸塚料金所を通過。K2・首都高方面に向かう。首都高速神奈川1号横羽線を進み多摩川手前を通過。多摩川に架かる首都高・大師橋を渡る。左手は産業道路に架かる大師橋。昭和島JCTから首都高速湾岸分岐線へ。お台場を通過。首都高速湾岸線で旧江戸川を渡る。右手前方に東京ディズニーランド。東関東自動車道に入る。成田JCTまで1.3km。成田料金所に向かって進む。県道295号線・空港通り方面に。そして成田空港近くのUSAパーキングに到着。時間は5:05過ぎ。18日の22時近くまでこの駐車場に4泊5日で車を預けたのであった。USAパーキングの送迎車で第2ターミナルまで送ってもらう。そして無料のターミナル循環バスにてLCC専用の第3ターミナルまで移動。成田空港発着の国内線を持っているLCCは、『バニラエア』『ピーチ』『ジェットスター』『スプリング・ジャパン』の4社。『バニラエア』は、新千歳空港・函館空港・奄美大島空港・那覇空港・石垣空港の5カ所。『ジェットスター』は最も多くの路線を持っており、新千歳空港・関西空港・高松空港・松山空港・大分空港・福岡空港・熊本空港・鹿児島空港・高知空港・宮崎空港・長崎空港・那覇空港の12カ所に向けて運航。『ピーチ』は、関西空港・福岡空港の2カ所のみへの運航。『スプリング・ジャパン』は、新千歳空港・広島空港・佐賀空港の3カ所に向かう運航便を持っている。しかし『ピーチ』のみ『第1ターミナル』を使用しているため注意が必要。自宅から成田空港第3ターミナルまでのルート。そして成田空港からの飛行ルート。そして第3ターミナルにある格安航空会社(LCC:Low Cost Carrier)ジェットスターのチェックインカウンターに到着。預ける手荷物がなければ、 jetstar.comで事前にオンラインチェックインを済ませれば、空港カウンターでの搭乗手続きが必要ないので、空港に到着後そのまま保安検査場、搭乗ゲートに進めるのであった。我々も自宅でオンラインチェックインを済まし、チケットを印刷して持参。空港には旅行会社の係員はもちろんいないのであった。荷物を一つ預けるのも全て機械の指示に従いセルフサービスでやらなければならないのであった。そして保安検査場、搭乗ゲートに向かって進む。搭乗ゲートの位置を確認。第3ターミナルを見る。SPRING JAPAN(スプリング・ジャパン)のLCC飛行機が駐機中。格安航空会社(LCC)の春秋航空日本は、社名を11月1日付でブランド名として使用してきた「スプリング・ジャパン」に変更したとのこと。搭乗ゲートに向かって連絡ブリッジを進む。利用便がGate161であることを確認。JETSTAR便が10分置きに日本各地に向かって飛び立って行くのであった。そして搭乗ゲート161に到着。さすがにここも鉄骨丸見え・内装なしのLCCの搭乗待合室なのであった。テレビ、自販機もなくコンビニの如き売店が1店だけ。搭乗ゲート161に到着し、利用便・エアバスA320を見る。そして東の空は日の出前でオレンジ色に染まって来ていた。そしてこの日の日の出。時間は6:21。オレンジ色に染まる成田空港第3ターミナル。利用便はJETSTAR GK619+JL6075 熊本空港行き 7:10発。搭乗機に向かってテント下の通路を進む。これが所謂“ボーディング・ブリッジ”。LCCは、子供連れ・お手伝いを必要とする搭乗者は優先して搭乗。以上の搭乗者が飛行機に搭乗した後は窓側席利用者からの搭乗であった。そしてタラップで搭乗機へ。そして予め座席指定しておいた窓側27Aに。もちろん座席のオーディオ装置、USB充電端子、飲み物等のサービス等は全くなし。しかし満席なのであった。機窓から第3ターミナルを見る。 ・・・つづく・・・
2021.12.03
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【海老名市歴史散歩】 目次そして次に「正覺寺」の北側にあった「浄久寺」を訪ねた。「浄土宗 浄久寺」。「浄久寺」の「山門」そして奥に「本堂」。海老名市門沢橋4丁目11−1。「掲示板」には「ご先祖さまと共に生きる」と。「郷土かるた「は」」「長谷川氏 墓石ずらりと 浄久寺」。「長谷川山 隆崇院(りゅうそういん)」。「浄土宗 浄久寺」。「南無阿弥陀佛」碑。赤い頭巾、涎掛けの石仏。「本堂」浄久寺は、「新編相模国風土記稿」では、山号を長谷川山隆崇院、増上寺(東京都港区芝公園)の末寺とされています。平安時代後期作と考えられる本尊・木造阿弥陀如来坐像、墨書から寛保3年(1743)に造立されたと考えられる法然上人坐像などが安置されています。法然上人坐像の胎内からは安政6年(1859)、文久元年(1861)の納入経や関東大震災で破損した仏像を修理した文書などが納められていました。長谷川正成(?~1638)が寛永2年(1625)に門沢橋他に1751石の所領を得て、門沢橋村を本貫地としたことから菩提寺として浄久寺を建立し、然誉知全(?~1617)が開山したと伝えられています。このことから1625~1638年の間に創建されたと考えられますが、境内に慶長19年(1614)と刻まれている墓石があることや、境内にある歴代住職の墓碑の筆頭に「開山・然誉上人得阿大求智全和尚 元和三年(1617)二月十九日」と刻まれている。正成が門沢橋村を所領地とした1625年よりも前に然誉上人は亡くなっており、時期的な矛盾が生じる。そのため、それ以前から寺は存在し、長谷川家の菩提寺になった時から、寺名などを変えたことも考えられる とネットから。扁額「浄久寺」。「水子地蔵尊」。「水子子育地蔵菩薩」と書かれた幟が手前に。「水子地蔵尊」に近寄って。お顔をズームで。「長谷川家 石造宝篋印塔群」。池波正太郎作「鬼平犯科帳」の主人公長谷川平蔵の本家筋にあたる長谷川家の墓塔として15基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残っているのだと。第2代正成から第11代正岱(まさたけ)までの当主の宝篋印塔があるが、途中5代と10代の宝篋印塔が見当たらない。一番古い宝篋印塔は慶長13年(1608)のもの。海老名市教育委員会が立てた説明板には、「別の寺院に葬られた記録のある人の名前や、複数の名前が刻まれたものがあること、長谷川正成が門沢橋村を所領地とする以前に亡くなった人の名前も見受けられることから改葬等の際に建立された宝篋印塔もあると考えられています。」と記されている。「海老名市指定重要文化財 浄久寺長谷川家石造宝篋印塔群寛永ニ年(一六ニ五)に慕府旗本の長谷川正成が門沢橋村を所領地として与えられたことから、浄久寺が長谷川家の菩提寺となりました。以来、慕末まで長谷川家代々の当主とその家族が葬られて、墓塔として宝篋印塔が建立されてきました。台座に被葬者の没年代と法名・俗名が刻まれており、長谷川正成以降、正岱まで八人の当主とその家族が葬られたことがわかります。別の寺院に葬られた記録のある人の名前や、複数の名前が刻まれたものがあること、長谷川正成が門沢橋村を所領地とする以前に亡くなった人の名前も見受けられることから改葬等の際に建立され宝篋印塔もあると考えられます。宝篋印塔は、江戸時代に慕府旗本の墓塔としてよく用いられ江戸時代中期(十七世紀)には盛んに造られました。このため、数基単位で建立されている例はよくありますが、大形のものを中心に十五基もの宝篋印塔が建立されている例はあまり多くありません。また、市内でこれだけの数の宝篋印塔が現存しているのは浄久寺だけであることから市指定文化財となりました。」長谷川正成の宝篋印塔基礎正面には「頓證佛果 為前筑州大守空誉浄久居士 菩提円満也」と刻まれていた。境内にある長谷川氏の名残は、これら石像宝篋印塔だけなのか、本堂などの建物および付属施設にも長谷川氏の家紋が見当たらない。「丸に五つ割り卍」が使用されているのであった。「海老名市指定重要文化財 浄久寺木造阿弥陀如来像この木造阿弥陀来坐像は、浄久寺の本尊として長谷川正成が寄進したものと伝わる仏像です。平成七年(一九九五)の海老名市史編さん仏像調査により平安時代後期(一ニ世紀)の定朝様の仏像であることが初めて明らかになりました。像高は五十ニ・一センチで割矧ぎ割首造、眼には後補の玉眼が入っていますが、元は彫眼と考えられています。丸く穏やかな面相、ゆったりとした体、浅く整えられた衣表現など平安時代後期に興隆した定朝様式の特徴がよくでています。一部後世に補修されているものの海老名市内で確認されているものとしては最古の仏像であることから市指定文化財となりました。」「浄久寺木造阿弥陀如来像」。そしてこの日の最後に「浄久寺」の近くの西側にあった「渋谷神社」を訪ねた。海老名市門沢橋4-11-14。社号標石「村社 澁谷神社」。石鳥居の扁額は「澁谷神社」。狛犬(阿形像)(右)。狛犬(吽形像)(左)。「手水舎」。「鐘楼」。「梵鐘」。「社務所」。海老名市指定重要文化財の「本殿」。渋谷神社の創建年代等は不詳ながら、江戸時代初期の創建ではないかと推定され、神寿稲荷と称し、門沢橋村の鎮守社だったといいます。明治6年村社に列格、明治7年渋谷神社と改称しています。社号の渋谷は、庄名(寒川町から海老名市にかけて)より付けたものです。見事な龍の彫刻。「海老名市指定重要文化財 渋谷神社 本殿渋谷神社は、江戸時代に神寿稲荷(稲荷社)と称し、旧門沢橋村の鎮守であった。現在の渋谷神社に名称を改めたのは、明治七年である。江戸時代の延宝七年(一六七九)鋳造の鐘を鐘楼にかけていたので、その成立は同時代初期に遡ると思われる。勧請の年代は不詳であるが、古社であることは間違いないと思われる。本殿は、間口四尺の一間社流造りの建物で、覆殿内部に安置されている。建築年代は、本殿内にある棟札から、寛保元年(一七四一)と推定される。また同じ棟札から、作者が地元の工匠であることが判明している。母屋は、正面両脇の小壁に上り龍や下り龍の彫物をはめ、頭貫の木鼻は、正面を獅子と獏の彫物、背面は象鼻と絵様木鼻である。また中備には、草花を彫った蟇股を置くなど、小規模な建物ながら、彫物装飾を効果的に用いた造りとなっている。当本殿は、斗栱の形式、虹梁の絵様や、木部と彫物すべてに当初から彩色が施されている点など、十八世紀の中ごろの特長をよく示しているうえ、保存状態も良い。また、当時としては彫刻を多く用いるのは珍しい。以上のように、本物件は、十八世紀前期の標準的な遺構として貴重であり、保護の価値があると認められるため、市指定重要文化財に指定したものである。」内陣。「木鼻」には獅子の彫刻(右)。「木鼻」には獅子の彫刻(左)。「宝物殿」。「本殿」を横から見る。「社務所」。境内の下部は「防火水そう」になっているようであった。「海老名市 街区案内図」。現在地は門沢橋一、ニ、四、六丁目の角地が接する場所。そして県道22号線・横浜伊勢原線に出て右折すると200m程でJR相模線「門沢橋駅」に到着したのであった。「時刻表」。17時台は約15分間隔で運行中であった。そして終点のJR茅ヶ崎駅に到着。JR東海道線との連絡橋には「相模線100周年」記念のポスターが。「相模線は神奈川県の北と南を結ぶ重要な路線となっています。お客さまに支えられ、相模線は100周年を迎えることができました。引き続きJR東日本相模線をよろしくお願いいたします。」と。「相模線は雨の日も、風の日も、暑い日も、寒い日も沿線のみなさまに支えられ1 00年間走り続けることができました。」「いつも ありがとう」。そしてこの日は、9月30日に緊急事態措置及びまん延防止等重点措置が解除されたこともあり久しぶりに茅ケ崎市内に住む旅友Sさんの行きつけの店でビールを。約1.5時間楽しんで、20時前に引き上げて茅ケ崎駅へ向かう。茅ケ崎駅北口から続くペデストリアンデッキには、手形モニュメントが飾られていた。こちらは、茅ヶ崎市出身・プロ野球の中日ドラゴンズで活躍し、茅ケ崎市民栄誉賞を受賞した山本昌広氏。2度のスペースシャトル搭乗を経験した土井隆雄氏。学生時代、茅ヶ崎の実家で過ごし茅ヶ崎市民栄誉賞受賞。歌舞伎俳優の12代目市川團十郎氏。明治29年、現在の茅ヶ崎鉄砲道付近に別荘"孤松庵"を建てたのは、9代目市川團十郎。その由縁で手形を残したのは、12代目市川團十郎氏。2009年12月20日にソユーズTMA-17に搭乗し、国際宇宙ステーション(ISS)に約5ヶ月間滞在。2010年6月2日地球に帰還した野口聡一氏。小、中、高と茅ヶ崎市内の学校を卒業し、茅ヶ崎市民栄誉賞を受賞。そして茅ヶ崎市出身の若大将・加山雄三氏。茅ヶ崎駅の駅舎内に。祝相模線開業100周年/ 祝茅ヶ崎 出身加山雄三さん復帰おめでとうごさいます!9月28日より茅ヶ崎駅相模線発車ベルが「海その愛」へ!!そして上野東京ライン19:12発で帰路についたのであった。この日の海老名市内の散策ルート。そしてこの日の歩数は47000歩超え。この日も頑張りました。我が藤沢市に隣接する海老名市の「海老名市の寺社旧蹟を巡る」を3日間で制覇したのであった。次は「高座郡寒川町」に挑戦する予定なのである。 ・・・もどる・・・ ・・・海老名市 完・・・
2021.12.02
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【海老名市歴史散歩】 目次次に訪ねたのが「居合坂」・「「柏尾通り大山道」坂標識」。海老名市本郷1218。「柏尾通り大山道この道は、江戸時代の「大山道」です。庶民の信仰を集める大山へ、あ参りに行く旅人などは、戸塚下柏尾から東海道を難れ、この道を通り相模川を渡り大山へと向かっていきました。今も昔の「大山道」とほほ同じ道筋をなしています。」「柏尾通り大山道」は東海道保土ヶ谷宿と戸塚宿の間、といっても戸塚宿江戸方見附より1km弱江戸寄り、現在の横浜市戸塚区柏尾町、不動坂が起点となり、そこからほぼ西へ、途中ここ海老名を通過し相模川を戸田の渡しで越え、現在の伊勢原市下糟屋で江戸青山からの青山通り大山道に合流して大山へと向かう道であったのだ。。ここが以前「旧東海道を歩く(保土ケ谷~藤沢)」で歩いた「柏尾追分・柏尾の大山道入口」。「柏尾通り大山道」を歩く旅人の姿。「居合坂坂を上がりきったところの地名が「居合」であったことから、この名が付いたといわれています。「居合」は村共有の入会地が転訛したものといわれていますが、由来ははっきりとしていません。」ここから東に向かって200m余りのだらだら坂が「居合坂」。「柏尾通り大山道」坂標識を振り返る。「居合坂」を上りきった近くにあった「居合の道祖神」。海老名市本郷1212付近。既に10月31日の衆議院選挙のポスター掲示板が設置されていた。この後に海老名市から寒川町にある寺社を歩いたが、これらは次回の「寒川町編」でアップする事とし、その後再び海老名市に戻ったのでここから再スタートとします。西の空の色が刻々と変わる中で、JR相模線の「門沢橋」駅方面に北上したのであった。前方に橋が現れた。「世継橋(よつぎばし)」。橋の名称の由来は、左岸にあった代継宮から。発音は「よつぎはし」ともいうが、橋には「よつきばし」と書かれていた。なお、代継宮は 熊本県熊本市北区龍田3丁目25-1 に移動した と。下を流れる川は「永池川」。国分尼寺の近くの浅井の泉が水源といわれ、寒川町で相模川に合流する川。「ながいけがわ(永池川)」。「世継橋」を渡って直ぐ右側にあったのが「下原橋天満宮」。海老名市門沢橋4丁目3社号標石「下原橋天満宮」。朱い鳥居と立派な一間社流造の社殿が目を引いたのであった。そして社殿裏手には、右から「関東大震災の碑(大正12年10月建立)」・「庚申供養搭」・「道祖神(弘化4年 西暦1817年1月奉納)」・石搭2基などが祀られていたのであった。日没が迫って来ていた。そして案内に従い海老名市門沢橋4丁目の住宅街を進み、この先を左手に。「真言宗高野山 正覺寺」に向かって進む。そして「正覺寺」山門前に到着。時間は16:40過ぎ。海老名市門沢橋4-13-13。山門前には「郷土かるた 「ひ」」「左手に 蓮の花もつ 観世音」。寺号標石「真言宗 橋澤山 正覺寺」。「橋澤山 延命院」。「真言宗 正覺寺」。剣と如意宝珠を持つ石仏。見事な「宝篋印塔」。「弘法大師御入定千五百五十年御遠忌記念 生かせいのち」碑。「弘法大師」像。「南無大師遍照金剛」の文字が。近寄って。「寺務所」。「本堂」「正覺寺」は、橋澤山延命院と号す。「新編相模国風土記稿」では、山号を橋沢山延命院、安楽寺(寒川町岡田)の末寺とされている。十一面観音坐像を本尊とし、桃山時代に作られ元禄5年(1692)に補修された木造弘法大師坐像、延享4年(1747)に小田原の仏師・蓮池佐内が造立した木造不動明王坐像、宝永6年(1709)に仏師・松村理左衛門(あるいは村松右衛門)が造立した愛染明王坐像などが安置されています。創建時代は不明ですが、本尊を初めとする仏像の製作年代から、室町時代に創建されたと考えられている。江戸期には神壽稲荷社(渋谷神社)の別当寺を勤めていた と。扁額「正覺寺」。「海老名市指定重要文化財 十一面観世音菩薩像 正覚寺正覚寺本尊の木造十一面観音菩薩坐像は、像高四八・五センチ。寄木造りで玉眼嵌入。表面は肉身部を金泥塗り、着衣部を黒漆塗りで仕上げていますが昭和五十四年の修理の際に補われたものです。江戸時代の終わりに編纂された「新編相模国風土記稿」の正覚寺の項には、本尊を運慶作と記していますが、仏像の作者を鎌倉時代の有名な仏師運慶になぞらえるのはよくあることです。本尊は江戸時代に造られたものでしよう。修理の際には、像内から木造十一面観世音菩薩坐像が発見されました。仏像の像内に小さな像を納めるのも、ときおりみられることです。像内に納められた像を胎内仏、その容れ物になった本体を鞘仏といいます。胎内仏は一木造りの小像ですが、その作風は、鞘仏よりも遡る室町時代ごろの特徴を示しています。」「十一面観世音菩薩像」。「胎内仏納入状況」。「胎内仏」。境内には「南無十一面観世音菩薩」、「南無不動明王」の幟が並んでいた。こちらは「六地蔵尊」。「南無大師遍照金剛」碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.01
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