わたしのこだわりブログ(仮)

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2021年06月19日
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カテゴリ: 歴史の旅
星back numberを追加しました。

久しぶりに「アジアと欧州を結ぶ交易路」に戻ってきました。スマイル
いよいよ本格的な交易に突入です。
暗黒の中世で停滞した地中海での交易が復活の兆しを見せ始めた。と言うのが今回(前編)です。
地中海の海運状況が活性化し出すと共にキリスト教徒の逆襲が始まるのです。

そのイントロに気候の話しを入れました。


リンク ​ モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人
4世紀以降にローマ帝国の国境は異民族の流入により動乱。

また、以前「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック」の所でも
「テオドシウス1世の治世376年にゲルマン民族の移動が顕著になる。
4世紀~8世紀、ローマ帝国領を含む欧州全域が東や北からの民族の 流入? で荒れる のである。​​ 気候変動、疫病の蔓延、人口の増加? 食糧難?」 とも書いているのだが・・。
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック ​​​​

近年、 気候科学者と考古学者により、年輪による降雨と気温の測定から過去2500年間のヨーロッパの夏の気候が再構築されている
それによれば 「ローマ時代、気候は主に湿度が高く暖かく、比較的安定。」していたそうだ。
だが、ヨーロッパが寒くなり始めた頃、西ローマ帝国も衰退を始めていると言う。
顕著な気候変動は300年程続いているそうで、どうも欧州の社会情勢の不安に比例しているようだ。
リンク ​ Climatic fluctuations in last 2,500 years linked to social upheavals

寒さは飢餓誘発もしている? また気候変動が病気を蔓延させた?  そもそも気候も現代以上に昔は極端だったらしい。
​データでは気候変動と歴史的事象に何らかの影響があるらしい事は解るが、原因と結果に関して即断はできないとしている。 人が係わっているので歴史は単純ではないからだろう。​​
​​
もう一つ、 気候科学者による研究で6600万年に遡る地球における気候変化 がまとめられている。
リンク ​ High-fidelity record of Earth's climate history puts current changes in context
こちらでは、4つの特徴的な気候状態を示しながら ​古代北ヨーロッパでは北大西洋循環の減速により気候の激変をもたらしたらしい​ 事もわかったそうだ。
※ メキシコ湾から北上する暖流の影響か?
​もしかしたら? それが民族の大移動に影響を与えたのかも知れない。

こちらの記事は個人的に非常に興味がわいた。スマイル
気候データは深海盆地から高品質の​堆積物コアを回収し、その中にいる微細なプランクトンの殻から読み取ったらしいが、そもそも起こる気候変動の原因は何にによるものか? も示されている。
星 地球における気候変動は地球軌道の離心率に起因して起こる変動だった ようだ。
​​​​​
軌道変動とは ・・地球が大陽の衛星として周回する時の描く軌道。地球自体の地軸(回転軸)の歳差運動と傾き。により起こる変動。
​軌道の離心率(orbital eccentricity)​
天体の軌道のパラメータ。軌道離心率は、この形がどれだけ円から離れているかを表す値
円      e = 0
楕円    0 < e < 1
放物線  e = 1
双曲線  e > 1
※ 地球の軌道離心率は惑星間重力の相互作用により、長年の間にほぼ0から約0.05までの間を振れていて 現在は約0.0167。

​国際協力によるデータ解析では、 気候は太陽の周りの地球の軌道の変化に対応するリズミカルな変化を示していた そうだ。
※ 地軸の傾きは21.5度~24.5度の間を定期的に変化。その周期は4.1万年。現在は23.4度。傾きが大きいほど季節差が大きくなると言う。

地球が真円でなく、楕円で軌道をとっている事は知っていたが、その わずかなブレが地球そのものの気候を大きく揺るがしていた と言う事実に改めて驚く。​びっくり
※ ​3400万年(始新世時代)以前、世界の平均気温は現在より摂氏9度から14度も高かったと言うが2300年にはさらに地球が過去5000万年で見たことのない気温のレベルに引き上がるシナリオらしい。

それらを鑑(かんが)みると、ローマ帝国の衰退がパンデミックと地震に加えて、新たに気候の低下があげられたのではないか? と言う推察も加わる。
北海及び地中海でも起きていた蛮族の海賊行為。これは人口増加ではなく、地球のかなり広範囲に気象の問題による食糧不足が起きていたのではないか? と新たな考えに及ぶ。
それ故、 地球規模での民族の大移動が起きた?   と、考察もできる。​​
​​​
ふと、アゲハの幼虫の事を思い出した。以前ベランダのレモンの木にアゲハの幼虫が大量に発生しレモンの葉が枯渇した事がある。その瞬間、幼虫達は同時に木を飛び降りて放射状に散った。そのレモンの木に見切りをつけて次の木を探す為の行動は信じられ無いほど早かったのだ。
※ それにしても、どうして彼らは同時に最後の葉が無くなった瞬間を知ったのだろう? と、疑問が・・。因みに、諦めた者はまだ小さいのに変態を始めた。
※ 保護した大多数の幼虫は庭に山椒の木がある友人に引き取ってもらいました。

話しを戻すと、 北欧にいたゲルマン人らの移動は、そんな切羽詰まった危機的状況であったのかもしれない 。と、思ったのだ。
少しは核心に近づいてきたか? ぽっ


さて、今回は海洋都市による交易の話しである。
民族移動による激動の混乱期ではあるが、それでも人は生活している。
​中世期の地中海も北海も危険な海に代わりはなかったが、危険でも貿易にいそしんだ人々がいた。
その 先陣を切ったのがイタリア半島の港湾都市。前回、アマルフィで少し触れたがイタリアには隆盛(りゅうせい)を極める海洋都市(共和国)が複数誕生し、イスラムの海賊に負けじと交易を続けた のである。​
※ 彼らの行動は欧州を越え、もっと遠い海の先にも繋げる事になる。
しかし、隆盛を極めたそれら都市国家もナポレオンの侵攻。そしてイタリア王国の樹立により終焉する。

今回その中の幾つかの交易図から紹介。
純粋に? 通商で栄えた? 共和国と、十字軍遠征と言う欧州の一大イベントの中でボロ儲けし繁栄した共和国を紹介。
写真は最も長きに渡り繁栄したアドリア海の共和国、ラグーサ(現クロアチア)とヴェネツィアから。​全2回くらいの予定。

​アジアと欧州を結ぶ交易路​ 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa​​)​

地球軌道の離心率に起因する気候変動と民族移動

交易の復活と海洋共和国(Marine Republics)
海洋共和国アンコーナ(Ancona)の 交易先
​古代紫の生産地
海洋共和国 ラグーサ共和国(Respublica Ragusa)
ドゥブロヴニク(Dubrovnik)
海洋共和国 ジェノバ(Genoa​​) と交易先
​十字軍遠征に対するジェノバの功績
海洋共和国 ジェノバ(Genoa​​) の快進
​ヴェネツィアのレガッタ・ストーリカ(Regata Storica)

クロアチア、ドゥブロヴニク(Dubrovnik)旧港
​​

交易の復活と海洋共和国 (Marine Republics)
繁栄期のローマ帝国で行われていたのは広域な経済圏(economic bloc)での物流。それは驚く程現在の物流に近い完成された物であった。 ​​
※「アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易」で紹介。
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 9 帝政ローマの交易
しかし、ローマの平和の時代、パクス・ロマーナ(Pax Romana)以降の欧州の状況は、蛮族の流入により酷い有様。
476年、西ローマ帝国が解体されると西ローマ帝国領は 蛮族の移民に浸食される。さらに本家東ローマ帝国の国力低下により地中海も海賊で危険極まりない海となり、おいそれと海上交易もできない混沌の世界になっていた
※ それは陸路も同じ。かつての秩序は完全に失われ荒廃。
​​冒頭紹介した気候変動? による民族の大移動が重なり ​中世初期から中期は世界的な動乱期にあった のだ​ 。​
星 だが、 ​そんな危険な世の中にあっても、9~10世紀頃になると地中海沿岸に沿って商業ルートを開拓。中世初期に中断された欧州、アフリカ中東の諸都市と交易する港湾都市が​ イタリア半島の中に複数 出現する。
彼らは自国防衛と地中海域の 航海の安全の為に艦隊を保持。ハブとなる港湾のネットワークを造るなど、広範囲な交易の為のサポート体制を構築 ​して海に出た。​

各港湾都市の取引先は様々。商人はアラブ人に占領されている敵国とも交易を始めていたし、戦いの前線基地への武器食糧の補給も担った。
それ故、​取り扱う交易品は都市毎に差別化があったのでは? と思われる。​
​例えるなら、 これら海洋共和国は現代の総合商社だ 。​

かつてのローマ帝国には及ばない狭域な経済圏ではあるが、 ​途絶えていた?  東洋との交易も再び活発化してきたのは明るい兆しであった。​

Map and coats of arms of the maritime republics 海洋共和国の地図と紋章
ウィキメディアから借りました。当時隆盛を極めた海洋共和国の位置を、その紋章で示したものです。
※ アマルフィ(Amalfi)はカンパニア州の旗 章になっています。なぜ?

前回紹介している ​アマルフィ(Amalfi)もその一つ でイスラムのイタリア上陸を阻(はば)んだアマルフィ(Amalfi)は海洋共和国(Marine Republics)として成長し11世紀頃に全盛期を迎える。
同じくイタリアを代表とする海洋共和国として台頭してきたのが ヴェネツィア 、ジェノバ、ピサ、ラグーサなど だ。​
星 ​​ 11世紀頃にどこも全盛期を迎えたのは十字軍の遠征と言う大イベントの特需があったからだ。

イタリア海軍旗はかつて隆盛を極めた4つの​​ 海洋共和国(Marine Republics)をリスペクト? その紋章が今も使用されている。

上もウィキメディアからですが、説明を略す為に中に都市名を明記しました。
アマルフィとピサは十字軍に起因した図案と思われる。

それら海洋都市の特徴は商取引が主流な事からどこも
商人階級が力を持った特殊な統治システムを持っていた。 それは必然から生まれた産物だったと思われる。

星これら都市は共和制をとっていたので海洋共和国(Marine Republics)と言うのが本来の言い方だ。
都市単位の小さな共和国だから? 関連本では「海洋都市国家」として紹介されている。
悪く無い表現であるが、 交易に特化した「通商港湾都市国家」のが正解かもぽっ

海洋共和国(Marine Republics)盛衰グラフです。(
ウキペディアから )
​​ ​​
主要な海洋共和国の始まりと終わりが確認しやすい図なのでのせました。

歴史の古いのが ​アマルフィ(Amalfi)​ , ​ガ​エタ(Gaeta),​​​
ヴェニス ( Venice )
※ 表に合わせました。イタリア表記ではヴェネツィア(Venezia)
中期に消えた​ アンコーナ(Ancona) ​ピサ(Pisa)​
​​ 近年まで残ったのが、 ヴェニス ( Venice ), ジェ ノバ( Genoa ​​ ) , ラグーサ(Ragusa) , ​ノリ(Noli)​ ​​ ​​

それぞれの共和国の交易先とルートは本来別々に全部紹介したいくらい興味があるが、ポイントを絞ってピックアップしました。

海洋共和国アンコーナ(Ancona)の交易先

地図の元はウィキメディアから借りて、さらに解り易いよう都市名など大きく入れて編集しました。

​アンコーナ(Ancona)が通商で繁栄するのは11世紀頃から16世紀​
​遡る事、BC390年頃アンコーナ(Ancona)はシラクサの植民都市として古代紫の染料を造っていた。

位置的にはヴェネツィア共和国の少し南位にあり
ヴェネツィアとは ​​ライバル同士。
アドリア海対岸の現クロアチア一帯のダルマチア(Dalmacija)地方のラグーザ共和国とは同盟を持っていた。
​​​ 交易港は他に比べると多くはないが、主要都市は抑えている。

メインの交易相手は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)で
コンスタンティノポリスへの出入りばかりか 黒海内のコスタンザ(Costanza)やトラブゾン(Trabzon)などの交易都市にまで及んでいる。
そのトラブゾン(Trabzon)はペルシアやメソポタミアへの通商路の基点 として古来から重要な都市であり、これは ペルシャのみならずその向こうのインドあるいは東洋からの品の仕入れであった事がうかがえる。
※ 後にビザンツ皇帝が亡命した時、トレビゾンド帝国(Empire of Trebizond)を樹立している。

星また、宗教的にも敵対するイスラムとも外交関係を持ちパレスチナやエジプトのアレクサンドリア(Alexandria)も交易相手とした。 これは全ての海洋都市に言えるのだが、切れない需要があったからだろう。
​シリア・パレスチナ、エジプトとの交易では没薬(もつやく)や乳香(にゅうこう)​などの香油の輸入はキリスト教国にとって必要不可欠な品
だから・・。

先に存在していたアマルフィ共和国(Repubblica di Amalfi)もアンコーナ(Ancona)とほぼ同じ交易先を持っていたが、その違いはアマルフィが半島のティレニア海側にありフランク王国やイベリア半島にまで交易を伸ばしていたのと対象にアドリア海側のアンコーナは東方面に力を入れていた。

またアンコーナと同盟していたラグーサ(Ragusa)はバルカン半島を横断する陸路で黒海に至るルートも持っていた。
また両者の取引は北海側のフランドルにまで及んでいる。
フランドルの毛織物のタペストリーや
ブラバントの​リンネル は13~14世紀から需要を増していた。

​古代紫の生産地 ​​
ところで、 先に紹介した アンコーナ(Ancona)の 古代紫の染料は 王者の紫(Royal purple) と呼ばれローマ帝国時代、 ​使用できる者が限られていたカラー​ である。​
日本においても、紫は高位の色。 わずかしか採取できない染料は非常に高価な品であったと同時に乱獲で減少。その為にRoyal color 自体が紫から青(Blue)に変遷したらしい。

軟体動物門腹足綱アクキガイ科の貝の鰓下腺(さいかせん)から分泌される粘液から採取。貝はシリアツブリガイ(Bolinus brandaris)が使用されていたらしい
下は参考にウィキメディアから借りてきました。どのサイトでも使用されている唯一の写真です

下もウィキメディアからですが、ウィーン自然史博物館の展示で示された貝別のカラー見本のようです。

フェニキア人は貝が生きている時の分泌物から染料を造る技法を持っていたのではないか? と思うのです。死滅させて採取するようになったから激減したのでは?


古代紫の染料は
BC1600年頃に遡ると言われるフェニキア人の交易品の一つで、彼らの本拠、シリアの ​テュロス(Tyros)の街から出荷されたのでテュリアン・パープル(Tyrian purple)と呼ばれていた。
当然その 製法は企業秘密 であったから、
ともとフェニキア人が古代紫の染料を造っていた?  養殖していた?  彼らの土地をギリシャが奪い取った可能性も考えられる。

​その フェニキア人の街テュロス(Tyros)はマケドニア 王のアレクサンドロス3世 (BC356年~BC323年6月10日)による ペルシャ遠征の折(BC332)にひどい滅ぼされ方をしている
以前テュロス(Tyros)の街については、 「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン」の中「フェニキアと​アレクサンドロス王との攻防​​」で書いています。
​​ アンコーナ(Ancona)はユリウス・カエサルがルビコン川を横断した (BC49年) 頃に古代ローマの属州になり、また西ローマの時代には教皇領に含まれているので古代紫故に教皇庁御用達?  ​になったのかもしれない。​
※ ルビコン川(Rubicon river)は現在ヴェネツィアとアンコーナの中間リミニ(Rimini)の街10kmほど北でアドリア海に注いでいる。(非常に小さな川なのでかなり拡大しないと地図上に表記されない。)

古代紫と言う地場産業を持っていた事がアンコーナ(Ancona)を生き残らせたのは間違いなさそう。
通商港になるのは古代紫の染料の出荷元として テュロス(Tyros)が滅ぼされた時にすでに 始まっていた?
フェニキアの取引先が直接アンコーナの顧客に変わったのかもしれない。
上の図でもかつて テュロス(Tyros)のあったパレスチナを結んでいる。

そんな アンコーナは​ 12世紀からイタリアで教皇派と皇帝派の衝突が始まると教皇派についたので皇帝軍やヴェネツィア軍と戦うことなる。 アンコーナの海軍は十字軍の遠征でも利用されるくらい強かったから ヴェネツィアに負けることはなかったが、1532年、アンコーナは教皇領に併合され終焉している。


海洋共和国ラグーサ共和国(Respublica Ragusa)
アンコーナ(Ancona)の写真はありませんが、ラグーザ(Ragusa)の城壁の写真がありました。 スマイル
同じアドリア海の真珠と称されながら、ヴェネチアとは全く趣の違う港です。

アドリア海東岸の現クロアチアのドゥブロヴニク(Dubrovnik)は クロアチア語。
イタリア語でラグーサ(Ragusa)。つまりここがかつての ラグーサ共和国です。
※ 隣接するボスニア・ヘルツェゴビナの政情から現在はクロアチアでも飛地扱いになっているようです。

旧市街を囲む城壁
下は聖
イヴァン (Sveti Ivan)要塞 1346年建設
​​​​​​
聖イヴァン要塞は現在海洋博物館となっている。

1979年「ドブロヴニク旧市街(Old City of Dubrovnik)」として世界文化遺産に登録されている。
現在はクルーズ船の寄港地としても人気。


中世のラグーサ共和国は紋章にこそ入らなかったが、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアと共に
5代海洋共和国の一つに入っていた
。​

エーゲ海(Agean Sea)のキオス(Chios)島は要塞の補給の為の寄港地。クレタ島も同じく十字軍時代は要塞となっていた。

先に触れたが、アンコーナ(Ancona)とは同盟関係。
どの海洋共和国もコンスタンチノポリス(Constantinopoli)とアレキサンドリア(Alexandria )は寄港地がかぶる。
ぱっと見、イタリア半島とバルカンに、ほぼ特化している。

ラグーサ(Ragusa)の​​​歴史はギリシャの時代に遡るようだ。
当初は 船舶寄港地、ハブ港的な始まり? それに適した地理と環境を有していた らしい。
ローマ帝国時代、特に東ローマ(ビザンチン)帝国の時代にその保護下で飛躍 している。
それは 十字軍による特需 と思われる。
しかし、アナトリアは帝都コンスタンティノポリスを除けば船舶寄港地としてしか利用していないし、パレスチナにも全く入っていない。
後のジェノバでまた触れるが、パレスチナ湾岸の十字軍の主要港の利権は ラグーサには無かったのだろう。

地理的にアドリア海から黒海に至るバルカン(Balkans)のアドリア海南位にある為、東ローマ(ビザンチン)帝国領の勢力次第で、めまぐるしく支配者が交替しているのも特徴である。
星1453年、東ローマ(ビザンツ)帝国の帝都コンスタンティノポリスがオスマン帝国により陥落。交易事情は大きく変わる。​
​※ コンスタンティノポリスと取引していた海洋共和国の事情は変わる。​
ぽっジェノバとヴェネツィアの取引状況などについては次回に載せます。

ラグーサは15世紀から16世紀にかけて最盛期を迎える。 オスマン帝国との取引に成功していた? のかもしれない。

星それでも ボスフォラス海峡が以前のように通れなくなり黒海に入れ無いと言う事はシルクロードで運ばれる東洋の物産も手に入らなくなる。西側諸国にとってコンスタンティノポリスを経由しない新たなルート開拓が急務 となった。
それが結果として 大航海時代を迎える大きな要因 となったのだ。

地中海には未だヨハネ騎士団の要塞も残ってはいたが、すでに十字軍の特需も無くなっていたはず。
アドリア海の交易不振は急速に進んだのだろう と思われる。

最も、 ラグーサの衰退は地震の頻発が原因らしい。1667年に壊滅的な地震が発生。
最終的にはナポレオンの侵攻により、イタリア王国に組み込まれ終焉​​​。

ドゥブロヴニク(Dubrovnik)
​​​​​​
そこには中世オスマン軍からの防衛の為に建設された城壁が街を囲って残っています。
同じアドリア海のヴェネツィアとはライバル。実はヴェネツィアより少し長く生き残った。






プラッツァ通りからの左がSponza Palace



オノフリオの噴水 (Onofrio's Fountain)

ナポリ出身のイタリア人建築家Onofrio di Giordano della Cavaにより1435年から1442年にかけて建設した上水道設備です。
2km離れた泉(Knežica spring)からの水道で、この上水道は19世紀の終わりまで使用された。
16面の水道口にはそれぞれ石の彫り物が・・。地震で壊れる前は全面に装飾があったらしい。

上は2面を重ねて表示した写真です。








城壁は周囲約1900m。厚さ5m、高さ20m。
最初に造られたのは7世紀とされるが現在見られる主要部分は12世紀から17世紀のものらしい。

「中世の趣があって良いね」と思って観光する人が多いのだろうが、よくよく考えればここは要塞都市。生きる事に必死であったからこその街なのである。その重みを感じながら巡ってほしいですね。ぽっ

海洋共和国 ジェノバ(Genoa​​) と交易先
中世後期には、海洋交易で他より抜きん出た ジェノバの成功は地中海と黒海の一等地に植民地を持つ事ができたから である。​
​それは教皇の指示、あるいはエルサレム国王 ボードゥアン1世 により特別な配慮があり、独占的に良い場所を提供してもらえたからだ。
つまり ジェノバは第一回目の十字軍遠征の時に大きく貢献して利権を得る事に成功した のである。​
​​​
ちょっと想像以上ですびっくりヴェニスとジェノバ、両者、甲乙付けがたい規模の展開です。

上の地図は第一回十字軍出発の1096年8月からエルサレム陥落1099年7月までの間に十字軍が陥落させて開いた十字軍国家が含まれている。トリポリは第一回十字軍の遠征で貢献したトゥールズ伯レイモン(Raymond IV de Toulouse)が開いたトリポリ伯領と思われる。

そんな 十字軍派遣の副産物国家がウトラメール(Outremer)
である。​
エデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国、エルサレム王国の四つをさす 。​
※ ウトラメールについては以下に書いています。
リンク ​ 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)

星ところで、 十字軍は、聖地を奪還したから終わったわけではない。イスラムの中の飛地であるエルサレムに人や物資を運ぶ為の交易路や港、巡礼路を確保する為の戦いが陥落後に新たに始まった のである。だから後続部隊が進軍しているのだ。

海洋共和国の商機(しょうき)はそこに生まれた
ジェノバやヴェネツィアはそれら十字軍関連の物資や人を運ぶ利権を独占的に占有 していたと思われる。上の図で見るのはまさに 十字軍の恩恵による地中海交易の販図 のようだ。​​
​​
エルサレムより離れたトリポリ港はエルサレムを陥落した後に開かれている。敢えて北アフリカの船舶の寄港地として開かれた港街だったのだろう。位置的に・・

※ 十字軍の説明を次回「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 13」の中「キリスト教国の逆襲、十字軍(crusade)」に加えました。
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)
リンク ​ 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1

リグリア海(Ligurian Sea)に面した港湾都市
ジェノバ共和国(Repubblica di Genova)とピサ共和国 (Repubblica di Pisa)
​​


リグーリア州の州都ジェノバ(Genova)
リグーリア州ポルトヴェーネレ(Portovenere)
トスカーナ州ピサ(Pisa)

ピサとジェノヴァは1060年に戦争してピサが勝利。当初ライバルなので仲は悪かったが、 ​ジェノバ(Genoa​​)の発展はピサと組み、 1 016年サルデーニャをイスラムから防衛した事に始まる。

ポルトヴェーネレ(Portovenere)はジェノバがピサとの境に造った要塞都市
参考の為下の写真3枚はウィキペディアから借りてきました。

南フランスのニースから続くリヴィエラ(Riviera)海岸のイタリア領内がリグーリア(Riviera)海岸と呼ばれる。イタリアン・リヴィエラ( Italian Riviera)らしい。
フランスのリヴィエラは高級だが、こちらは庶民的?

ウィキペディアからです。

Portovenere, Cinque Terre, and the Islands (Palmaria, Tino and Tinetto)
1997年世界文化遺産に登録されている。

ドリア城(Castello Doria) ウィキペディアからです。

現在の城は、1161年に古代の建造物の遺跡の上に建設。
時代で銃器の変化など要塞の形もだいぶ変更されているらしいが、ジェノバの要塞建設の典型らしい。

​十字軍遠征に対するジェノバの功績​
​​​さらに、1087年には、ジェノヴァとピサに加えてアマルフィ、サレルノ、ガエタの連合軍でローマ教皇の指示の元、北アフリカ(現チュニジア)を占領していたズィール朝の首都マフディーヤ (Mahdia)を攻撃。
つまり、地中海を荒らしていたサラセンや、イスラム正規軍の進出をイタリアの小国の連合艦隊が一矢報いた戦いがマフデイーヤ攻撃であった。

マフディーヤの戦いでは、完全占有の持続はできなかったが、湾内のアラブの艦船を焼き払って逃げた。
​この アラブ艦隊の壊滅が西地中海にしばしの安全を与え、1096年から始まる聖地奪還の戦いにおいて海からの十字軍の遠征において役に立っ たのである。​
強い海軍力を保持できるようになった事がそもそもの発展の起源になる
第一次十字軍では、 ジェノヴァ人口約10000人のうち、1200人のジェノヴァ人が十字軍に参加し、12隻のガレー船で海から聖地に向かった 。と言う。
ジェノバには先見の明(せんけんのめい)があったねスマイル
※ 第一次十字軍(The First Crusade)1096年~1099年。

星公式の第一次十字軍によるエルサレム陥落は1099年7月13日夜半。
それに先がけ ​1099年6月7日,エルサレム攻防が始まるのだが、水も食糧もなく兵士らは飢餓に苦しみ人も馬も死に始めていた​
※ 城外の井戸水は毒が入れられ使用できなかったようだ。

そんな時に ジェノバのグリエルモ・エンブリアコ(Guglielmo Embriaco)(1040年~1102年)が指揮するガレー船が聖地に近いヤッファ(Jaffa)に上陸し、十字軍兵士らの命を救った のである。​​​
※ ヤッファ(Jaffa)は現在イスラエルのテルアビブ(Tel Aviv)
さらにエンブリアコ(Embriaco)は8月12日のアスカロンの戦いで200人から300人の兵士と共に海軍部隊を指揮して貢献。

エンブリアコは総司教やゴドフロア・ド・ブイヨンの手紙を持って一旦帰郷。12月にジェノバ到着。
※ ゴドフロワ・ド・ブイヨン(Godefroy de Bouillon)(1060年頃~1100年)は初代エルサレ首長。彼は王の称号を拒んだ。
聖地にはもっと兵士が必要であるとエンブリアコ(Embriaco)は進言。

翌年1100年8月1日に、新たな教皇特使オスティアの枢機卿を乗せ、ガレー船(26隻? )と貨物船(4隻~6隻)と共に3000人~4000人の兵士を乗せて再び聖地に向かう
※ 1100年7月に初代首長ゴドフロワ・ド・ブイヨンは亡くなり次代の王は弟のボードゥアン1世(Baudouin I)(1065年頃~1118年)が継いでいた。彼は元エデッサ伯。それもまた十字軍遠征の副産物国家ウトラメール(Outremer)の一つだ。

聖地では越冬してボードゥアン1世と共にサラセンの海賊と戦いながら 近隣の港の陥落に力を貸した模様。その戦利品の1/3を受け取っている。
さらに1000人程のアラブ商人を人質にし、ジェノバは彼らから多くの身代金も受け取っている。

また、聖地に至る現ヨルダン西岸にヤッファ(Jaffa)、アンティオキア(Antiochia)含めて3カ所の港をヴェネチアより先駆けて獲得。
それは後にサラディンにより失われるが、当時の交易港として大きな特権である。

帰途、エンブリアコはガリラヤ王子のタンクレードと条約を結ぶ。またコンスタンティノープルに大使を送る手配をして帰国。
1102年2月エンブリアコは執政官に選出されたと言うが、その年に亡くなっている。

エンブリアコの活躍のおかげで以降もジェノバはエルサレム王国と教皇に力を貸す形で発展し、報酬として独占権や植民地を与えられると言う恩恵を受けて中世発展していく のである。​
先に紹介したラグーサとは全く異なるのです。
ジェノバ(Genoa​​)は写真が無いので「1481年のジェノアの鳥瞰図」と言う絵画から

イタリア版のウィキメディアからかりてきた写真の色調補正をしました。
原本はワニスで黄色に変色しすぎていたので・・。ガラタ博物館蔵

海洋共和国 ジェノバ(Genoa​​) の快進
1255年、クリミア半島のカッファに植民地を建設。
1261年、スミルナがジェノヴァ領となる。
    ジェノヴァ人はソルディア、ケルコ、ツェンバロに植民地を建設。
1275年、東ローマ(ビザンツ)帝国によりにキオス島とサモス島が与えられる。(エーゲ海の寄港地)
1316年~1332年、黒海沿岸のラ・ターナ、サムスンに植民地を建設。
1355年、レスボス島が与えられる。
14世紀後半、黒海沿岸のサマストリに植民地建設。キプロス島が与えられる。
また、東ローマ帝国の帝都コンスタンティノポリスのガラタ地区と黒海の通商都市トレビゾンド帝国のに居住区が与えられた
星ここのポイントはメソポタミア、インド、中国など東西交易路の拠点トレビゾンド帝国(Trapezuntine Empire )(1204年 ~1461年)を押さえた事だ。

没落の始まりは15世紀にオスマン帝国の台頭。そして1453年5月、コンスタンチノポリスの陥落
​ジェノヴァ共和国領の大半が奪われ、 1797年に共和国が消滅。残ったのは現リグーリア地方だけ だったそうだ。

それでも港湾都市ジェノヴァ(Genova)は現在もイタリア最大の港であり、マルセイユ、バルセロナと並ぶ地中海域ではトップクラスの港である。
観光で寄る所ではないが・・。

ところで、ジェノバ出身の有名人に探検家のクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)がいる。彼はタイミングが悪かった。ジェノバ没落後でなかったら、彼はジェノバから航海に出ていただろう。​
※ クリストファー・コロンブスについてはお墓を紹介しています。
リンク ​ スペイン・セビーリャ 8 (コロンブスの墓所)

​​
ヴェネツィァのレガッタ・ストーリカ(Regata Storica)​
​ヴェネツィアで、毎年9月第一週の日曜日に開催されていたレガッタ(regata)祭り。正式にはレガッタ・ストーリカ(Regata Storica)「歴史的なレース」と呼ぶらしい。
かつて海洋共和国として交易で地中海域で最も繁栄を見せていたヴェネツィアの栄光の時代を再現する時代祭り である。​
起源は15世紀末にさかのぼると言うものを近年復興させたもの。
最も今回の写真は数十年前、まだカメラの時代に撮影したものをスキャナーで読み取りしたものなので解像度も画像も今一つ。 無いよりましか? と載せました。
実際ものすごい混雑で、写真撮影ができる状況ではないのをやっと潜り込んでリアルト橋 (Ponte di Rialto)の所で数枚撮影したもの。本当にF1(エフワン)観戦のように行ってもほとんど見えません。号泣

下はヴェツィアの元首を載せたパレード船。時代コスプレが当時を偲ばせます。



時代パレードと実際のボートレースが行われます。






9月第一週の日曜日がくせもので、毎年リド島で行われているヴェネチア国際映画祭と日が被っていたのです。
8月のイタリアはホテルが押さえにくく、やっと取れた9月がたまたま重なった偶然です。
しかし、レガッタが頭に無かったので、キャナル沿いのホテルをキャンセルして系列のリド島に変更していたので上からの撮影もできなかった。今思えば惜しい事でした。号泣


次回「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 13」では​​海洋共和国ヴェネツィアを予定しています。
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)

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リンク ​ 静物画にみるメッセージ
リンク ​ 焼物史​ ​土器から青磁まで
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)
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アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)
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リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)
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リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史
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アジアと欧州を結ぶ交易路​ 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 16 イザベラ女王とコロンブス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 15 大航海時代の道を開いたポルトガル
リンク ​ 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊
リンク ​ 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)
    アジアと欧州を結ぶ交易路​ 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa​​)​
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック
リンク  ​ ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 9 帝政ローマの交易
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 8 市民権とローマ帝国の制海権
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リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 5 ソグド人の交易路(Silk Road)​
リンク  ​ クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 3 海のシルクロード
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 2 アレクサンドロス王とペルセポリス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン






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Last updated  2024年09月09日 02時24分35秒
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