わたしのこだわりブログ(仮)

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2020年01月26日
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カテゴリ: 歴史の旅

星 ラストにBack number追加しました。

今回は圧倒的強さで欧州を席巻(せっけん)したローマ帝国の交易網に触れるつもりです。
ポエニ戦争(BC3~BC2)に勝利するとイタリア半島のみに留まらずローマ帝国は地中海の覇権もにぎり北アフリカを含む広大な交易網を獲得。
かつて地中海交易の覇者(はしゃ)であったフェニキア人(Phoenician)​の交易をそっくり手にし、オリエント方面も押さえてなおかつ北はロンドンまで到達。ローマ帝国はその中で物資が自由に移動できたのだから交易品は欧州全域、いやそれ以上に広域の、あらゆる物が対象に取引されたと考えられる。勢いに乗ったローマ帝国の進撃はすごかったのです。

とは言え、古代ローマの歴史は長い。先に紹介した ローマ帝国の快進撃は、共和政末期から帝政時代 です。ローマ帝国を考える時、政治体勢で王政期、共和政期、そして帝政期と大きく分類。 しかし、帝政時代だけを切り取っては語れない。なぜならローマ帝国の大成は王政期、そして共和政期に確立された市民の権利と政治システムあってこその結果だから です。

そんな訳で多少歴史解説も必要になりました。ローマだけで全2回になりそうです。

尚、今回写真はローマ遺跡や美術館の他、カンパニア地方を代表する遺跡ポンペイからです。

アジアと欧州を結ぶ交易路​ 7 都市国家ローマ の成立ち+ カンパニア地方

フォロ・ロマーノ(Foro Romano)
ローマの城壁
王制期の都市国家ローマの建国とエトルリア(Etruria)
​​​エトルリア人が求めた物
共和政期のローマの攻防(平民の権利向上と都市国家ローマの戦い)
ガリア人(ケルト人)の襲来と​ラティウム同盟
リキニウス・セクスティウス法( leges Liciniae Sextiae)
アレクサンドロスの肖像
カンパニア(Campania)とポンペイ(Pompei)の街

フォロ・ロマーノ(Foro Romano)
ラテン語の古名フォルム・ロマヌム(Forum Romanum)
イタリア語でフォロ・ロマーノ(Foro Romano)
都市国家ローマができた当初からのローマ政治の中枢があった場所​
農耕神と言われるローマ神サトゥルヌス (Sāturnus) を祀ったサトゥルヌス神殿(Aedes Saturnus)の列柱。(現在のは3代目)

古代ローマの街は7つの丘の上に築かれた
​カピトリーノ(Capitolino)、パラティーノ(Palatino)、アヴェンティーノ(Aventino)、クリィナーレ(Quirinale)、ヴイミナーレ(Viminale)、エスクリィーノ(Esquilino)、チェリオ(Celio)​

パラティーノの丘には最初に集落が造られ、城壁を造り防備を固めた。
カピトリーノの丘(パラティーノ北側)には片側が切り立つ崖であり狭かった事から神殿と城塞が造られたフォロ・ロマーノが現在の輪郭になったのは、ガイウス・ユリウス・カエサルの時代。
しかし、帝都ローマも皇帝ディオクレティアヌスが西暦293年に行った分割統治テトラルキア(tetrarchia)により首都が移転。
西ローマ帝国が滅亡するとフォロ・ロマーノは完全に忘れ去られ土にうもれた。
発掘されるのは18~19世紀の事。

​下は古代ローマの地図(写真はウィキメディアからですが、書き込みをしました。 ピンクの円がカピトリーノ(Capitolino)の丘の 神殿あるフォロマーノ(一部 パラティーノの丘)
濃いピンク部分が最初のローマ で回りを セルウィウス城壁が囲んでいた
薄いピンクは後に拡張されて市内になった所(現在の旧市 内)その外側を アウレリアヌス城壁が囲んだ。
ブルーで囲ったのは浴場 です。
以前「古代ローマ水道橋」の所でも触れましたが、ローマは高度な上下水道を施設。飲料のみならず市民の娯楽の為の公共浴場に水を引くための水道も増設している。
リンク ​ 古代ローマ水道橋 1 (こだわりの水道建築) ​​

リンク ​ 古代ローマの下水道と水洗トイレ

ローマの城壁
​BC4世紀初めに7丘を囲むように6代目の王セルウィウス(Servius)は城壁を建設。セルウィウス城壁(Murus Servii Tullii)​ BC390年にはガリア人(ケルト人)の侵略でローマは危機に瀕した。最後の砦に上ったこのカピトリーノ(Capitolino)で半年抗戦したが負けた。
辛うじて命を助けられ生き残ったローマ人は城壁をより強固な石造りに変えたと言う。これはポエニ戦争の時にハンニバルを手こずらせたらしい。

セルウィウス城壁は共和政末期からローマ帝国初頭まで保持され街の拡張に合わせて皇帝アウレリアヌスが再び城壁を建築。現在残り目にするのがアウレリアヌス城壁(Mura aureliane)


ローマの旧市内を囲むアウレリアヌス城壁(Mura aureliane)は271年から275年に建設。
異民族の侵略が増え、城壁外に拡大した無防備な街の防備の為に急いだらしい。
しかし、テヴェレ川の河岸の防備はなかったらしい。
全周19km。厚さは3.5m、高さは8m。5世紀に高さは16mに改修。
壁の素材はローマン・コンクリートと煉瓦。
城壁には既存の建築物も組み込まれ、城壁の一部とする事で経済的節約と工期の短縮ができたらしい。

アウレリアヌス城壁は19世紀まで使われていた為に結構現存しているようだ。
しかし、当然補強はされ車用に新たなゲートもたくさん開けられているように思う。

エトルリア(Etruria)人の夫婦
ルーブル美術館のエトルリアのサルコファガス上部彫像から

王制期の都市国家ローマの建国とエトルリア(Etruria)人  BC753?~BC509 王政期​
ローマの​最初は都市国家から始まっている。​帝国になるのは共和政の終盤である。
​その歴史の半分は伝説に近い。資料が無いのである。が、 ローマの建国に関わったと言われるエトルリア人は高度な文明を持って居た。高い土木技術で土地を開拓。政治の統制、軍隊の育成から宗教、そして文字を持つなどローマは当初から都市国家として大きく成長するポテンシャルを持っていた 。​
※ エトルリア人の事は2010年4月「ルーヴル美術館 6 (エトルリアの棺)」で紹介しています。
​リンク ​ ルーヴル美術館 6 (エトルリアの棺) ​​

※ ローマ市の土木工事に関しては先のリンク先「古代ローマの下水道と水洗トイレ」の中で紹介。
リンク ​ 古代ローマの下水道と水洗トイレ

星ローマは最初から農業や牧畜を細々と行う農村都市ではなかったと考えられる。

「すべての道はローマに通ず」通り、 ローマからまず南北横断と早くから各方面への交易路が造られた。
ローマはエトルリアやカンパニア地方を結ぶ要所であった し、南にあるティレニア海に面するナポリ港の北のプテオリはギリシャ・エトルリアの交易の商港だった事もある。それは最初から交易のハブ都市が念頭に置かれていたのかもしれない。よくよく地理を見ると、 都市国家ローマの立地はイタリア半島全土に通じる要所 なのである。
エトルリア人は最初からそこに目をつけてローマに都市国家を造ったのでは? と考えられる のだ。

​​All roads lead to Rom(すべの道はローマに通ず)​
実際、ローマを拠点にあらゆる植民都市に道はつなげられた(ローマ街道)。それは最初からつながるポイントに造られたからだったとすれば可能なのである。
ローマ街道の話しは後でまた触れますが、ローマ街道のロードマップと伝説の都市国家エトルリア(Etruria)の支配域を重ねると確かに重なっている。
​下の写真はいずれもウィキメディアからです。


左の地図はイタリア半島の主要ローマ街道の図。
右の地図はイタリア全域ではありませんが・・。エトルリアの支配域の図です。
濃いグリーンがBC750年頃、薄めのグリーンがBC750年~BC500年頃の拡大した支配域。

​​​ エトルリア人が求めた物
実際、王政期にイタリア半島南北の交易は盛況であったらしい。
が、 エトルリア人がこの交易ルートを造りカンパニア地方から主に運んだのは鉛や鉄鉱石などの鉱物資源だったと思われ る。
​前回の交易の話しの中で「アナトリアに現れたリュディア(Lydia)(BC7世紀~BC547年)王国で造られたエレクトロン貨(Electrum)」の事を紹介したが、
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易か路​ま 6 コインの登場と港湾都市エフェソス
星 BC8世紀には冶金(ちきん)の技術がギリシャなどの都市国家にも広まった。
​そこで 需要が出たのが鉱物資源である。金銀は元より、各国が鉄鉱石や銅鉱石、錫、鉛などを探し回ったのである 。​

BC7世紀 コリント式青銅製冑 コリュス ルーブル美術館から
材料は銅と錫(すず) 厚みは2.5mm前後 鼻の部分6mm
淵に開いた穴は冑(かぶと)の裏カバー取り付け用。直にかぶっていた訳ではない。

下はアテネの考古学博物館から 剱(つるぎ)も盾(たて)も相当に重かったのではないかと推察。鍛えて筋力のある者でなければ扱えなかったかも・・下も アテネの考古学博物館から

同じくアテネから、上の武具を身につけた兵隊のレリーフ
アテネの考古学博物館から青銅の生活用品

ギリシャは特に青銅製品があふれている。
エトルリアの文化はギリシャに近い。オリエント色も感じるが・・。
アルファベットはギリシャからエトルリアに入りローマに伝わり彼らの公用語としてラテン語が生まれている。
早くから地中海や沿岸部でフェニキア人やギリシャ人が鉱物資源を探していた。 上に紹介したような武具の材料も青銅製がほとんど。戦の為に大量に武具が必要であったろう。また生活食器も青銅製は多い。
エルバ島の鉄やイスキア島の鉱物資源についで、イタリアのティレニア海域までギリシャ人が再び来ていた。かつてイタリア半島のカンパニア地方に植民都市を持っていたギリシャ人は一度はサムニウム(Samnium)人に追われていた。
※ ナポリの発祥はギリシャ人が造った都市ネアポリスである。そしてポンペイも同じくギリシャ人が造った都市ヘルクラネウムである。

星エトルリア人は海上進出をしていなかったのか? ギリシャと交易していたのは解っている。 イタリア半島で採れる銅鉱石や鉛を直接手に入れればそれにこした事は無い。エトルリア人がカンパニア地方に勢力を拡大したのはこのあたりの理由だったと考えられる
しかし、ローマがサムニウム人から正式にナポリを奪うのはBC326年。ポンペイはBC80年である。
戦争と言ってもナポリもポンペイも街に住む商人には支配者が誰かは関係無かったらしいが・・・。

いずれにせよ、ローマ街道のその先は戦場から植民都市に変っていくのであった。

ローマ神話から戦いの女神ベローナ(Bellona)?
ナポリ考古学博物館から
軍神マルスの妻。左手に盾をもっているが、右手には剣か松明を持っていたと思われる。

共和政期のローマの攻防(平民の権利向上と都市国家ローマの戦い) ローマの王政期は7代続いたらしいが、すでに2代目からは選挙になっていたらしい。最後の王は彼らに追放され王制期は終わる。

BC509~BC27 共和政期 
都市国家ローマは元老院・政務官・民会の三者による政治体勢を持つ共和政の時代に入る。
​特に政務官の中の執政官・コンスル(consul)は任期1年で2名。共和政ローマの形式上の元首に当たった。​
しかし、当初は貴族優位の共和政であり平民との格差故に平民が決起。平民を代表とする護民官(平民会)と言う役職ができたそうだ。
市民(平民)は「騎兵」、「歩兵(1~5等級)」、「歩兵以下(多数の無産市民含)」に代別。
歩兵の1級に「重装歩兵階層」がある。ローマ人はエトルリア人からギリシャの重装歩兵戦術を学び強力な軍隊を養成していた。
​「 重装歩兵階層」はローマ国として特に大切に扱われた 。それ故、選挙の票数も他と比べて多く極めて優遇されていたそうだ。​

ローマは割と早くから民主主義が進んだように思うが、やはり護民官(平民会)には国家の重要事項の議決権はなかったらしく貴族と平民の格差は大きかった 。強いて言うなら「平民の意見にも耳を傾けてくれる社会ができつつあったと言う所か?

BC5世紀には古代ローマにおいて初めての成文法(十二表法)が制定 されている。これは歴史的には活気的な事だ。(ギリシャにはすでにあったが・・。)
貴族に優遇された法解釈が市民と同じ土俵で平等に扱われると言う事で 市民の権利の向上となった。
※ 十二表法(Lex Duodecim Tabularum)は、民事訴訟、債務、家族、相続、財産、不動産、葬儀、結婚、不法行為、犯罪などに関する法や規則が定められたもの。
しかし、この十二表法も貴族と平民の婚姻禁止など身分差が露骨に扱われていた そうだ。後にそれははずされるが・・。

こんな高級な棺に入れるのは貴族に他ならない
ルーブル 美術館 のエトルリアのコーナーから

さて、外に向けてのローマはどうか?
星 ローマの躍進は王政から共和政になった事と言われるが、共和政の前半、ローマはまだイタリア半島の中で攻められ苦戦しているのである。安定にはほど遠かった。
東方の西麓に住む サムニウム(Samnium)人 、南方の山岳民ヴォルスキ人の侵攻は通商路を脅かしていた。
また、ローマは王政時代からギリシャやフェニキアなど近隣都市との条約をたくさん結んでいた。たとえば海上交易の活動域などもそうである。余計な争いはしないようにしていたようだが、 ローマの弱体を機に同種のラテン人の国さえ、ローマに服属を迫ってきていた と言う。

BC445年 エトルリア人の街ウェイイがローマに対して反旗
この ウェイイ戦争はBC396年ローマの勝利 で終わりローマの勢力はエトルリアの南部まで広がった。
この 新しく得た土地は入植希望の平民に与えられローマの新しい行政区(植民都市)となった。
が、勝利に活気づくローマであったが、その頃アルプスを越えて南下するガリア人(ケルト人)が北イタリアに迫っていた。

​ガリア人(ケルト人)の襲来と ​ラティウム同盟​
ガリア人はあっと言うまにエトルリアを攻め、略奪してローマに迫る 。先ほど城壁の所で触れたが、くい止められず、ローマ市内になだれ込んだガリア人らに攻められ、 カピトリーノ(Capitolino)の丘で生き残った者らが半年応戦。
​BC390年、陥落寸前にガリア人も自国の領土に侵略者が来たとの知らせで急遽ローマと和議が結ばれた​。 ローマは金銀財宝を差し出して全滅寸前で助かったのである。

だが、さらなる驚異は、近隣国が弱体したローマをねらっていた事 だ。街は破壊され、軍は疲弊。街の再建と防護にお金もかかる中、市民からの不満も大きかった。
ラッキーだったのはケルト人再襲来の驚異がかろうじてラティウム同盟を維持(BC358年)した事だ
※ ラティウム同盟 (Foedus Latinum)(BC7世紀頃~BC338年)は古代ローマに近隣した約30の街や部族からなる相互防衛の同盟である。
ローマは以降積極的に南方拡大政策をとりラティウム同盟でのローマの優位を示す ようカンパニア地方での サムニウム人 との戦いも辞さず ついにはカンパニアの有力都市を傘下にした


しかしこれは逆にラティウム同盟国には驚異となった。 同盟国はローマに決起 したのである。
星BC338年、 ローマはこの反乱を制圧してラティウム同盟を解体 。その後の処理は当然ローマの独断。
解体されローマの植民都市となった所もあれば同盟国となった所、また同等にローマの市民権を持った所など様々。 実質ローマはラティウム同盟国のあった地方を統括支配したのである。

リキニウス・セクスティウス法
BC367年、 ローマがガリア人の襲来でまだ疲弊していた頃​ 、ローマ国内で​護民官であったリキニウスとセクスティウスの提案により​ リキニウス・セクスティウス法(leges Liciniae Sextiae)が提案される。
それは 平民の権利向上と債務者の救済。貴族の公有地の占有を制限に関する法の他に執政官・コンスル(consulを復活させ、うち1人を平民から選出する事が決められた。

これは従来の高官の貴族独占はなくなり、平民でも高管職につける事や、植民都市で貴族だけが土地を独占できなくなるなど 市民でも働きで上を目指せると言う法律 なのである。
これに伴い法務官の職もでき、政務と軍事長官との役も分けられた。また市民原簿も造られ財産の申告も行ったようだ。

リキニウス・セクスティウス法は貴族の側から見れば権利の縮小であるが、それでも平民の権利を増やした理由は?
ローマの発展は戦いの実働部隊となる平民の力に寄ると言う事をローマの元老院や政務官は理解している・・と言う事なのだろう
確かにやる気が出る提案である。

ローマの市民権については次回で触れたいと思います。

アレクサンドロスの肖像
​ところで、 イタリア半島でラティウム同盟が解体(BC338)しローマがラティウムを属州にした頃、
隣の半島のギリシャではマケドニア王のアレクサンドロス3世(BC356年~BC323年6月10日)(在位BC336~BC323年)による東方への大遠征が始まった のである。(BC334年)、
アレクサンドロスは、最初シリア・レバノン沿岸沿いのフェニキア人の街を侵略しながらエジプトに入り、次にオリエントの巨大帝国ペルシャに向けて進軍。彼は10年の遠征でペルシャ帝国ばかりか。その向こうインドのインダス川まで到達。北はソグディアナまで帝国の領土にしている。
彼の帝国は彼の早すぎる死とともに解体されるが、それにとって代わるようにローマ帝国の快進撃が始まるのである。​
なぜアレクサンドロスの東方遠征に触れたか? と言えば、これから紹介する写真の前振りなのである。
写真はナポリの考古学博物館から教科書などでたいがい見た事があると思うこの絵柄。実は ポンペイの豪商の邸宅のリビング下のモザイク画だった そうです。

こちらはオリジナルで現在博物館入りして壁に飾られている
BC333年10月イッソスでのアレクサンドロスとペルシゃの大王ダレイオス3世の戦闘図 でした
非常に残念なのはペルシャ側の図は残っているのに肝心なアレクサンドロスひきいるギリシャの同盟軍がほとんど落ちている事です。欠けていても全体図から読み取れる事は両者の将軍が馬車に乗って戦っていたという事です。

アレクサンドロス王の遠征については
「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン」「フェニキアと​アレクサンドロス王との攻防​​」で 書いています。
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
「アジアと欧州を結ぶ交易路​ 2 アレクサンドロス王とペルセポリス」「ペルセポリス炎上の謎」と「The KingからThe Great」等で書いています。
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 2 アレクサンドロス王とペルセポリス


このモザイクの製作年代はおよそBC2世紀。3000平米と言うポンペイ最大の個人住宅と言われるファウヌス(牧神)が置かれた家はかなり豪華で社会的地位も高かった事が推察できる。豪商?あるいはローマの執政官の邸宅であった可能生も考えられる。
下がファウヌス像がある邸宅の中庭。オリジナルは見える柱廊の床絵にあった

カンパニア(Campania)とポンペイ(Pompei)の街
ナポリの街の南東側にヴェスビオ(Vesuvio)山がある。標高1281mの複合成層火山である。
その ヴェスビオ(Vesuvio)山の南側麓に開けていたのが古の都ポンペイ(Pompei)で ある。
ポンペイはBC79年のヴェスビオ(Vesuvio)山の噴火、その火砕流と土石流により埋没して滅んだ街なのです。
今も地名はカンパニア(Campania)州です。上下とも見える山は ヴェスビオ(Vesuvio)山です。
ナポリ(ネオポリス)と同じく ギリシャの植民都市としてBC7世紀にはすでに街はあった と言う。ギリシャ人が付けた街の名前は ヘルクラネウム(Herculāneum)。(ポンペイの古代名)先住民はギリシャ人とエトルリア人で昔は海に面した港街 であった。
先に紹介していたよう、ここはギ リシャ人とエトルリア人の貿易港であったのだろう。

BC5世紀末に山岳にいたサムニウム(Samnium)人がカンパニア地方の平野部に進出。
このサムニウム(Samnium)人の時代にポンペイは都市化を進めBC4世紀には要塞壁も建造された。
先に紹介した ​ラティウム同盟 (Foedus Latinum)その解体​ によりカンパニアの有力都市をローマは傘下にした。
BC343年~290年までヘルクラネウム(Herculāneum)含めるカンパニア地方全域をローマが支配 したのである。
ヘラクレネウムは ロ ーマに対して社会的、政治的な平等を望んだが結果的に BC80年にはローマの植民都市になった。ヘルクラネウムは、完全にローマの植民都市になったその時、ポンペイと名を変えたのである。

上下ともユピテル神殿
ポンペイ(Pompei)の街はヴェスビオ(Vesuvio)山に向けて造られたらしい。神殿はどれもヴェスビオ山に向いて建てられている。
下はアポロ神殿の祭壇手前の白い大理石の上に生け贄を捧げたらしい。ヴェスビオ(Vesuvio)山は度々噴火していたらしい。特にBC217年の噴火は大きかったと言う。
とは言え街はローマの植民都市になってからは公的資的な建物が造られた。特に気候も温暖な事からローマ人の支配下に入ると貴族の別荘として人気の場所となりBC2世紀には今の遺跡の規模になっていたらしい。
※ 先に紹介したアレクサンドロスのイッソスの戦い描いたモザイク画のような豪邸はBC2世紀頃に建てられている。
街の至所に水飲み場がある。そして道のへこみと飛石。実は時々水で汚れを流していたらしい。

アプローチから迷走。あれこれ手をつけて次回に回した所も
f^^*) ポリポリ
次回は帝国ローマと交易でまとめられるかな?

※ ポンペイの遺跡写真たくさんあります。次回も紹介できればね・・。
リンク リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 8 市民権とローマ帝国の制海権

Back number
リンク ​ 静物画にみるメッセージ
リンク ​ 焼物史​ ​土器から青磁まで
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)
リンク ​ マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)
リンク ​ コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)
リンク ​ 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 16 イザベラ女王とコロンブス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 15 大航海時代の道を開いたポルトガル
リンク ​ 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊
リンク  ​ 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa​​)
リンク ​
アジアと欧州を結ぶ交易路​ 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック
リンク  ​ ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 9 帝政ローマの交易
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 8 市民権とローマ帝国の制海権 ​​
    アジアと欧州を結ぶ交易路​ 7 都市国家ローマ の成立ち+ カンパニア地方
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 6 コインの登場と港湾都市エフェソス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 5 ソグド人の交易路(Silk Road)​
リンク  ​ クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 3 海のシルクロード
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 2 アレクサンドロス王とペルセポリス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン







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Last updated  2024年09月09日 02時29分47秒
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