わたしのこだわりブログ(仮)

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2022年03月24日
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カテゴリ: 歴史の旅
ロシアによるウクライナ侵攻に心が痛みます。
21世紀にもなって稚拙な個人的野望で国を軍隊を動かすプーチン大統領。中国の習近平氏も同じ穴の狢(むじな)。
独裁制に陥りやすい共産国の政治体制って、やはり問題です。
この二人に世界が握られたらヤバい以外の何ものでもない。しょんぼり


​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​さて、海洋越えの大航海時代は、16世紀半ばまではポルトガルとスペインの独壇場であった。
16世紀後半から新興国オランダと国内統一を終えたイギリスが後に続く。

オランダはスペインから独立を勝ち取るとポルトガルの勢力圏であるアジアに進出して勢力を拡大。
実際日本は当初ポルトガルと交易していたが、そのポルトガルを追い出しオランダが後釜に座った。
※ オランダは江戸時代が終わるまで日本と独占的商売をした。

後進のイギリスがインドで成功し、同じく後進のオランダが極東の日本や南アジアで成功したが、大航海時代を考えた時、やはり称えられるのは最初の道を開いた(大航海時代を牽引した)ポルトガルとスペインのひるまぬ勇気と冒険心であったろうと思う。


さて、​​​​​​前回は、ポルトガルによる北アフリカのセウタ(Ceuta)侵攻まで紹介。
ポルトガルの海洋進出はここきっかけで始まったと考えられる。
なぜなら、 当初描いた図式では、ここから北アフリカの侵略を始め、同時にキリスト教を広める予定であり、かつ紅海まで広げられればインドとの独自交易も可能と期待していた からだ。

ところが 実際は、無防備のセウタはあっさり攻略したものの、強いイスラムの前にそれを広げるどころか、維持するのもやっとの状態 であった。
この戦いには多大な借金があったし、戦闘に加わった諸侯にはそれなりの報酬を与えなければならない。
ポルトガルが海洋に船を出したのは欧州最西端に位置する国の宿命だったのかもしれない。

星ポルトガルは金食うだけのセウタから手は引きたいと苦悩しただろうが、 ローマ教皇に十字軍として認定されている以上、もはや独断で退く事もできなかったはずだ。
しかも ローマ教皇の期待は大きかった。
ローマ教皇は北アフリカに踏み出したレコンキスタ(Reconquista)を全力で応援した。戦士の補充、免罪、資金といろんな形で支援し続けた事が解っている。

ところで、小国ポルトガルのだいそれた海洋進出の資金源はどこか?
テンプルの遺産が舞い込んだからだと思われいるが、私は違うと思う。
信心深く真面目なエンリケ王子はセウタに遺産を使ってもプライベートの海洋研究にテンプルの遺産は使う事は絶対になかったと思う。
何よりエンリケ王子はプライベートでいろいろ資金源があった。公私混同はなかったと思う。

今回写真はイザベル女王とコロンブスの墓所などグラナダ(Granada)とセビリア(Sevilla)から。

アジアと欧州を結ぶ交易路​ 16 イザベラ女王とコロンブス

ユーラシア大陸最西端 ロカ岬
エンリケ王子の資金源
ポルトガルの交易品 ポートワイン(Port Wine)​
​フォーティファイド・ワイン(fortified wine)​
奴隷売買をしたポルトガル
海洋王国スペインを誕生​させたコロンブスの計画
スペイン王墓 グラナダの王室礼拝堂
ポルトガルとスペインの海洋史
世界を分割したトルデシリャス条約とサラゴサ条約
トルデシリャス条約(The Treaty of Tordesillas)
サラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)
​​​
コロンブスのおかげで豊かになったセビリア(Sevilla)
セビリア大聖堂(Catedral de Sevilla)
グラナダ(Granada)

アルハンブラ宮殿(la Alhambra)
アルベルザナ・ウォールレーン(Carril de Muralla Alberzana)

ユーラシア大陸最西端 ロカ岬
ユーラシア大陸の最西端がポルトガル(Portugal)のロカ岬(Cabo da Roca)である。
首都リスボン(Lisbon)から西へ30kmに位置する。
北緯38度47分 西経9度30分

ロカ岬(Cabo da Roca)の灯台​

​前回振れたが、ポルトガルの植民地となるアゾレス諸島(Azores Islands)​はこの大西洋のほぼ同緯度の西方に位置している。
※ アゾレス諸島 およそ 西経25度~31度 北緯37度~39.5度の間に点在


ここには前回「発見のモニュメント」の所で触れたポルトガルの大詩人ルイス・ヴァス・デ・カモンイス(Luís Vaz de Camões)(1524年頃~1580年)の詩が刻まれた石碑が建っている。

自ら航海に参加して執筆した栄光の記録「ウズ・ルジアダス(Os Lusiadas)」第3詩20節の一節。
「ここに地終わり海始まる(Onde a terra se acaba e o mar começa)」

難しい格言のように聞こえるが、よく考えればシンプルに「ここは(ユーラシアの)陸の端っこで、ここから先は海だよ。」と言っているわけで、加えるなら「ここから先は海の冒険物語が始まる・・。」と言う事なのだろう。

ルイス・ヴァス・デ・カモンイス(Luís Vaz de Camões)は最初から文人だったわけではなく、軍人としてセウタやインドのゴアにも参戦している。そして軍務終了後、マカオの士官として勤務している時にウズ・ルジアダス(Os Lusiadas)の執筆にとりかかったと言う。
ポルトガルへの功績(軍務と文学)、特にポルトガル文学史上最大の詩人として評価されている。​


エンリケ王子の資金源
​​ 1415年、 セウタ侵攻 エンリケ(Henrique)王子(1394年~1460年)は セウタの防衛と補給の最高責任者に任命されている。
また 1420年に、テンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団(Military Order of Christ)のマスターに 選ばれている。
​​​​ポルトガル王の推挙はあったが、 これは教皇によりセウタ十字軍として正式に認定されたからこその抜擢であったと思う。

星セウタ防衛には戦士もお金も必要だった。これは キリスト教軍が死守するセウタの為にテンプル騎士団の遺産を使っても良い。と言う教皇裁定であったのではないか?

もはやエンリケ王子はポルトガルが侵略したセウタの防衛最高責任者だけではなくなった。
お金の心配こそなくなったが、セウタ防衛を使命としたキリスト教騎士団のマスターとしての重責がのしかかる。
先にも書いたが、 ローマ教皇はセウタ死守の為に人材を出すよう他の騎士団に働きもかけている。
もはやポルトガルの一存でセウタから撤退する事など絶対に考えられない状況に追い込まれた と考えられる。


ポルト(Porto)の街にあるエンリケ航海王子(Henry the Navigator)を称える像
自前の写真ですが、天気が悪いのと、古い写真なので解像度か低いのです。
バックはフェレイラ・ボルヘス・マーケット(Mercado Ferreira Borges)
左にボルサ宮殿(Palácio da Bolsa)がある。

下はウィキメディアから借りた同じ像の角度違い。 周囲を少しカットしました
Autor: Manuel de Sousa
エンリケ王子はこのポルトの近くで生まれたらしい。
1894年に、彫刻家トマスコスタによって、エンリケ王子の記念碑としてパリで鋳造され1900年に設置。

下もウィキメディアから借りて少しバックをカットしました
Photographer: Bob Smith

星テンプルの遺産をあてにしなくとも エンリケ王子には別に資金源が複数存在した。

​本国の領地​
最初に与えられたヴイセウ(Viseu)公爵領のコヴィリャン(Covilhã)の領地の他、内陸に69件の物件。
ベルレンガ(Berlengas)群島 (北大西洋のイベリア半島沖合)
バレアレス(Balears)諸島 (最大の島がマヨルカ(Majorca)島)

ヴィセウ(Viseu)公爵領は、所領では全体の3分の1の収益。
ヴィセウ公爵領内でのマーケット開催権。
家屋敷は各地に複数

植民地区の領地​
マデイラ(Madeira)​諸島に3島(ポルト・サント、マデイラ、デゼルタス)
アゾレス(Azores)諸島
カボ・ヴェルデ​(Cabo Verde)諸島のサンディァゴ島
​​​​​​​​​​​​​​​​​
木材伐採権
マデイラ島の木材は重要な供給地。またテージョ川流域の王領地における木材伐採権も持つ。
木材は船の材料であり、またワインや食物貯蔵の樽(たる)を造る上で重要な素材であった。

石鹸の製造販売権の独占
石鹸が実用化して安価になり世間に出回るのがこの頃。
ポルトガルではオリーブ油と共にアザラシ油脂が使用されていた。エンリケ王子はサンタレン(Santarém)とリスボン(Lisbon)で石鹸の製造を始めるとジョアン1世から 王国内での製造と販売の独占権を得た 。後に全ての石鹸の輸入も禁止され完全に独占状態となる。
※ この権利は死ぬまではなさなかったと言うが、この権利を街限定で家臣に分割譲渡もしている。
※ アザラシは西アフリカから入手。
​​
漁業権の独占
川や海における漁業権。特に マグロの漁業独占権。
漁業権には国王税が10分の1。また商品譲渡税が付随する。そのうち国王税が免除された。
モンテ・ゴルド海域、ベルレンガ及びバレアル海域での漁業権には免税された分の国王税10分の1を課税できた。

珊瑚の採取権
ポルトガル海域での珊瑚採取と加工の独占権
※ 独占の代償に国王に5分の1税と商品譲渡税は支払った。

その他
アルコバッサの羊毛権の取得
複数の都市での市場開催権の取得
ボジャドール岬の商業特権及び岬以南の航海、貿易、戦争の独占権取得

星エンリケには多方面からの収益があったのだ。
しかも彼は生涯独身であり、家族の為に使う事も無いから、それらを海洋航海や探検の為の資金に使ったのではないか? と推測する


甥のフェルナンドを養子にしているが財産全てを譲渡されたかは不明。亡くなる2ヶ月前に遺言の書き換えをしているが、総じてエンリケの残した財産はほぼポルトガル国に帰属したと思われる。
​因みに元テンプル騎士団であるキリスト騎士団の財産は1426年以降、内陸にテージョ川周辺など60カ所の不動産。
土地に与えられた特権として現金、小作料の他にヴィセブ地方のワイン販売の特権。
キリスト教騎士団の本部トマールのマーケット開催権。タロウカ、ボンバルのマーケット開催権があった。

それにしても15世紀と言う時代に、ポルトガルでは利権のオンパレード。何をするにも権利の独占が生じているのだから驚く 。エンリケは土地も沢山持っていたが、利権だけで相当に裕福でやっていけたはず。
それよりも、 エンリケは利権集めのマニアだったのではないか?  とさえ思う。ぽっ

​ポルトガルの交易品 ポートワイン(Port Wine)​
ポルト(Porto)のドゥェロ川(O Douro)河口の河畔はポートワイン(Port Wine)のワイナリーが連なる。

かつてワイン樽を輸送した船が係留展示されている。

この対岸に、先に紹介したエンリケ像やマーケット、ボルサ宮殿がある。

ドゥェロ(O Douro)川はスペインに水源を持ち、ポルトガルを横断してポルトの街に注ぐ河川。
この河川の沿岸では、小麦やワイン用のブドウの栽培や羊の放牧などが行われていて、そこで採れたワインの醸造がこの河岸で行われ、出荷された事からポルトのワインは有名になった。
ポルトのワインの生産は14世紀中頃、レコンキスタ後に始まっている。
キリスト教ではワインは聖祭に必要な飲み物であるからだ。

星ポートワイン(Port Wine)は、ポルトガル語でヴィーニョ・ド・ポルト(Vinho do Porto)。
ポルトガル特産の特殊な製法で造られる酒精強化ワインの一つ である。
※ ポルトガルの​マデイラワイン、スペインのシェリー酒も同じ酒精強化ワインです。

ポートワインの商標と品質は政府機関で厳しく管理されている。
​この ポートワイン(Port Wine)には原産地指定DOCが付されていてこのポルトの街で醸造後、最低3年間樽の中で熟成され出荷される。ここで醸造されたワインのみポート・ワインと呼ぶ事ができる のである。
現在はワイン自体はあちこちから集められている? ここで醸造され造られた所にブランドが付加されているのかもしれない。
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下はポートワインでポピュラーな1790年創業のサンデマン(SANDEMAN)


​ポートワインは日本の酒税法では甘味果実酒に分類される。それは、ポートワインは通常のワインではなく、敢えて甘く造られているからだ。​

フォーティファイド・ワイン(fortified wine)​
まだ糖分が残る発酵途中のワインに、アルコール度数77度のブランデーなど蒸留酒を加えて酵母の働きを強制的に止める事により糖度を残す製法だ。
​これにより アルコール度数は通常のワイン(10度~15度)よりも5度~10度上がり20度前後と高くなる が保存もきく。封をきってからも劣化が遅い。​

独特の甘みとコクが出る上に、長く熟成させれば芳香は増し、味わいもよりまろやかになるそうだ。
それ故、ポートワインは食前酒や食後酒として利用される。
チョコレートや葉巻に合うらしい。ぺろり



ワイン販売の特権は、エンリケ王子の権利一覧には無かったと思うが、 エンリケ王子はワイン等の樽を造る木材の伐採権は持っていた。 原産地指定DOCの特許もどこよれも早くからおこなっていたポルトガル。
権利大好き? エンリケ王子の時にできたのかも・・。

ところで、 エンリケ王子の所領であるヴィセウ(Viseu)のワイン販売の独占権はキリスト教騎士団が持っていた。
ワインは聖祭で使われる品なので、どこも教会の小作農園にブドウ畑はあった。それ故、ワイン自体は特別で、どこも教会の管理下に置かれていたのかもしれない。 ​​

星ポート・ワインの知名度が上がるのは、18世紀にポルト港からイングランドに大量に輸出された事による。
イングランドは寒いから当時、ブドウの栽培はできなかったからね。
※ ブドウ栽培の北限が近年の温暖化で北にシフト、1970年頃から? イギリスでもワイン用ブドウ栽培が始まった。


奴隷売買をしたポルトガル
奴隷と言う概念は古代ローマ時代からあったが、 暗黒の中世、イスラムの海賊がはびこると、奴隷となったのはむしろキリスト教徒の方であった。

エンリケ王子が西アフリカまで航海を進めると、ポルトガルはムーア人をとらえて連れ帰り奴隷とした と言う。
当初は?  1348年の疫病の蔓延による人口減をカバーするべく北アフリカから集められた。そして 航海技術が進むと西アフリカから金と象牙と奴隷を集めた と言う。​​​​​​​​​​​
​​​
彼らは ​マデイラ島のさとうきび畑などでも働かされたが​ アルギン島に交易所が開設されると奴隷はそこに集められた。その時、エンリケが奴隷の5分の1を確保し残りが奴隷市場で競売にかけられたと言う。
​奴隷売買もエンリケ王子の大きな収入源であったのだ。
これはついでに集められたと言う人数ではなく、完全に商売としての市場が成立していた。

たしかに最初は国内の人材不足を補うのが目的だったのかもしれないが・・。
1551年、リスボンの人口は10万人。そのうち奴隷人口は5000人? 1万人? (5%から10%)
彼らは家内奴隷として使役されたり家内商売で使役されていたらしい。

キリスト教国が奴隷を持つのは許される事なのだろうか?  不思議な気がする。
その点 イスラムの場合、奴隷はイスラム教徒に改宗すれば自由人になれたはず・・
※ 征服された土地の場合は改宗すれば自由人。改宗しない場合は奴隷にされた。但しケースバイケース。最初から奴隷としてさらわれてきた女子供は奴隷として売られ終生奴隷だったかも。

かつて鎖国をしていた日本は交易先をポルトガルからオランダに切り替えた。
それにはいろいろい事情が存在したのだが、その一つにポルトガルが奴隷を使役する国だから。と言うのがあったと思う。
ポルトガルが来航し、以来、日本人も奴隷として連れて行かれた?  売られた? と言う話しがある。

鎖国時代の出島問題は以下に書いています。
リンク ​ デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)

​​
​海洋王国スペインを誕生​させたコロンブスの計画
ローマ教皇の連合艦隊 vs オスマン帝国艦隊が戦ったレパントの海戦 (Battle of Lepanto)​​(1571年)時点ではすでにスペインはヴェネツィアも一目置く強い海軍力を持っていた。
スペインはいったいいつから海運国になったのだ?

​1492年、アラゴン・カスティーリャ連合(後のスペイン帝国)はグラナダ王国を陥落させイベリア半島のレコンキスタ(Reconquista)を完了した。
スペインが本格的に海洋に目を向けるのは1492年以降 なのである。​

前回少し触れたがコロンブスの持って来た計画のスポンサーになる事を了承したのはカスティーリャの女王イサベル1世(Isabel I de Castilla)である。
※ クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)

実はコロンブスが1483年、最初に計画を持って行ったのはポルトガル王であった。
ポルトガルで断られ、スペインで断られ、再度ポルトガルで断られ、 4度目、グラナダ陥落で気をよくしていたスペインのイサベル1世からやっと支援をとりつけたと言う経緯 があった。

グラナダ市街の中心部にあるイザベラ・ラ・カトリカ広場(Plaza de Isabel la Catolica)に置かれた像



イザベラ女王にひざまずき何やら説明しているコロンブス像

コロンブスのプレゼンは完璧だった?
星コロンブスの大西洋を横断してのインディアスの発見と黄金の国ジパングの発見の計画案は当初誰も取り合わなかった。彼の計画はアジアに西廻りで到達しようとする無謀な考えだったからだ。
何しろ地球が丸い事はまだ証明されていなかったし、何よりコロンブスは無一文で、全ての計画の資金を提供しなければならなかったからだ。

計画立案から8年の間にコロンブスは支援者を見付けていた。コロンブスの出身地であるジェノバの商人とフランシスコ会の修道院長 である。

その頃、ポルトガルはすでに西アフリカを南下しプレステ・ジョンの国に迫ろうとしていたから、スペインの教会としては心穏やかではない。
西廻りでアジアに到達して先に布教できるかもしれないと言う競争心にかられたのだろう。
実際、 イザベラ女王への謁見は教会の押しで決まった

また、スペインの商業金融にかかわっていたジェノバの商人は東洋の黄金を目指す同国人のコロンブスの可能性を見越してコロンブスにもお金を貸したし、金欠のスペイン国(カスティーリャ)にもその資金を融通する措置をとった。
星 援助してくれる者が増えた事で、この「インディアスの事業」は、コロンブスにとって「何が何でも成果を上げなければならない。」と言う絶対的使命に変わった。

コロンブスの交渉相手をスペインとしてきたが、正確に言えばその時点ではカスティーリャ王国である。グラナダ陥落以降に世界史ではスペイン帝国と一括りにされる。
スペインの方が解り易いから敢えてスペインにしたが、 スペイン帝国でも、海洋に進出できたのはコロンブスと契約したカスティーリャ王国だけ なのである。つまり スペイン帝国の海洋進出の事業はカスティーリャの独占で行われていたと言う事になる


ところで、イベリア半島でのレコンキスタを完了させた事でローマ教皇は大喜び。
カスティーリャ王女イザベラの夫はカスティーリャの王であると同時にアラゴン王太子フェルナンド であった。
結婚してフェルデナンドはカスティーリャ王の称号を得た。カスティーリャには同時に二人の王が付いた。
※ フェルナンドは王配でなく、カスティーリャの王として扱われた。

ここにカスティーリャとアラゴンの連合王国ができてグラナダ陥落の偉業がなされたのだ。

星イスラム教徒の国を追い出した事でフェルナンド(Fernando)とイザベラ(Isabel I de Castilla)の二人はローマ教皇アレクサンデル6世(Alexander VI)よりカトリック両王の称号 (the titles of the Catholic Monarchs)を授与された。


スペイン王墓 グラナダの王室礼拝堂のイザベラの棺
王室礼拝堂(Royal Chapel of Granada )





障壁の向こう、祭壇前に2つのサルコファガス(モニュメントとしての石棺)が置かれている。



右がイザベラ夫婦の石棺。
古い写真だし、拡大のはボケてて使用不可でした。狭いのと暗いので撮影もできない。
最も今は聖堂内の撮影自体ができないらしい。

それぞれに夫婦のものであるが、実際の棺は地下に安置されている。

​​​ イザベラ1世(Isabel I de Castilla) (Isabel la Católica) ​​(1451年~1504年)
※  カスティーリャ女王 ・イザベラ1世(在位:1474年~1504年)​
​​
​​夫フェルディナンド2世(Fernando II de Aragón)​ ( ​Fernando el Católico)​ ​(1452年~1516年)
※  カスティーリャ王 ・フェルナンド5世(在位:1474年~1504年) 王配ではない。
※  アラゴン王 (在位:1479年~1516年)​​

娘フアナ1世(Juana I de Castilla) (1479年~1555年)​
​※  カスティーリャ・レオン王 (在位:1504年~1555年)​
​※  アラゴン王 (在位:1516年~1555年) ​​
※ 娘フアナ結婚後、美形夫の浮気性? から精神異常? 夫の死で奇っ怪な行動。以降女王ではあったが、ほぼ修道院に幽閉状態で40年。

夫フェリペ1世(Felipe I)
(1478年~1506年)​
※ 美公 ブルゴーニュ公フィリップ4世(在位:1482年~1506年)
※  ​カスティーリャ女王フアナの王配​
地下納骨堂(gruft)

レコンキスタを終え、カトリックの王の称号をもらった事でイザベル女王がグラナダを終の住みかとするべく、王墓として建立した礼拝堂である。
1504年礎石が置かれ、1521年に完成したが、イザベラもフェルナンドも完成を見る事はなかった。


ポルトガルとスペインの海洋史
1419年 ポルトガル エンリケの部下、ポルト・サント島に到達。
1420年 ポルトガル  ​マデイラ(Madeira)​諸島の再発見​
1427年 ディオゴ・デ・シルヴェス(Diogo de Silves) ​アゾレス(Azores)諸島サンタマリア島に到達​
1434年 ポルトガル ジル・イアネス(Gil Eanes) ​​ ボジャドール岬(Cape Bojador) を迂回して カナリア諸島(Canarias Island)のテネリフェ(Tenerife)島に到達 ​​
1443年 ポルトガル ヌノ・トリスタン(Nuno Tristan)船長 モーリタニア西岸でアルギン (Arguim)島到達。そして1444年、セネガル川発見。
1445年 ポルトガル アルヴェロ・フェルナンデス(Alvero Fernández) ギニアに到達
アルギン (Arguim)要塞の建築 開始。ブランコ岬に最初の占領標識を建てる。
1452年 ポルトガル ディオゴ・デ・ティベ、アゾレス(Azores)諸島フローレス島とコルヴォ島発見。
1456年 ポルトガル エンリケが派遣したヴェネツィアのアルヴィーゼ・ダ・カダモスト(Alvide da Ca' da Mosto)、ガンビア川を遡上。ギニア探検とマデイラ諸島の航海探検。 カーボ・ヴェルデ(Cabo Verde)諸島に到達。

前回ラストに載せた エンリケ航海王子の調査隊により発見された航路図 を再び参考に

1460年 エンリケ王子死去。

1482年 ポルトガル ディオゴ・カン(Diogo Cão)コンゴ川河口に到達。
星1488年 ポルトガル バルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias) 喜望峰に到達。

最終的にポルトガルがたどるコース

星 1492年、グラナダ王国を陥落 させイベリア半島のレコンキスタ(Reconquista)完了。 スペイン始動
1492年~1493年 スペイン コロンブスの第一回航海。探検開始から新大陸発見。
  8月3日、バロス港 出航。
  9月6日、カナリア諸島のゴメス島出航。大西洋横断の航海。
37日間で大西洋を横断 している。コロンブスの計算通りだったらしい。
 10月13日、サンサルバドル島到達。
 12月 6日、 エスパニョラ島到達 ここに金山があった事からここがジバンゴ島(日本)だと信じた。
      キューバ発見。これは中国と理解した。
 ~1493年

星当時の探検家のバイブルは、マルコポーロ(Marco Polo)(1254年~1324年)の東見聞録(Il Milione)だったらしい大笑い 間違ってはいたが、結果的にコロンブスは黄金を見つけ、その富をスペインにもたらした。
※ 東方見聞論とマルコポーロについては以下に書いています。
リンク ​ 京都五山禅寺 3 禅庭の世界と文化+黄金の国ジパング


スペインによる新たな大陸の発見をローマ教皇は喜んだ。キリスト教をもっと広められると思ったのだろうと推察する。
1493年 ローマ教皇により教皇子午線(Inter caetera)が設定される。
※ 次の項で説明するがポルトガルは教皇子午線に異議を申し立てた。
1494年 スペインとポルトガル間でトルデシリャス条約が締結。
※ 新たな子午線が敷かれた。

1493年~1496年 スペイン コロンブス2度目の航海

1497年 ポルトガル  ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)リスボン出航
1498年 ポルトガル ヴァスコ・ダ・ガマ喜望峰を越えモザンビーク海峡を通過
    5月インド洋を通過してインドへ。 インド洋航路発見

1498年~1500年 スペイン コロンブスの3度目の航海


1499年 ポルトガル ヴァスコ・ダ・ガマ、アフリカ東岸まで戻り南下。帰路に就く
    7月 リスボンに帰着

コロンブスの航海ルート

ウィキメディアから借りた図に数字を加えました。

星1492年~1504年の間にコロンブスは4回アメリカ大陸に行っている。付随してスペインによる南米の征服と植民地化が急速に始まった。
コロンブスは意外にもあっさりとアメリカ大陸(南米)に到達したのでスタートは遅れたが、スペインの海外進出は成功。その時点でポルトガルをあっさり追い抜いていた。
コロンブスが航行した距離も最短で4ヶ月である。合理的に大西洋を横断しているので距離も短い

一方ポルトガルの方はそもそもアフリカ南端まで向かうのにそれだけでも地球を縦に3分の2くらいの距離がある上、さらにアフリカ大陸を北上してインド洋まで到達為なければならない。気が遠くなりそうな距離だ。しょんぼり
距離や航海の難易度から言えばポルトガルの方が大変なのだが、結果は収益であるから、南米に金や銀を見付けて、広大な植民地を得たスペインの方が賢く勝ったかもしれない

それにしても、ヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰にもすんなり行けていない。大西洋上のセントヘレナ島まで流されるなど、そのままアメリカに行った方が良かったのでは? 航行に無駄が多すぎる。
赤道一周分以上の航行をしているらしい。

また、ヴァスコ・ダ・ガマは無礼なのか? 非礼なのか?  食糧や水の補給でも常に現地でもめてトラブル続き。そもそも人選ミスだったのではないか? とさえ思うぽっ

世界を分割したトルデシリャス条約とサラゴサ条約

先に触れたが、 コロンブスの新大陸到達の知らせを受けて、1493年ローマ教皇は教皇子午線(Inter caetera)をひいて、ポルトガルとスペインの領土エリアをかってに決めた

1493年の教皇子午線は、アゾレス(Azores)諸島、最西部にある フローレス島 (Flores)とコルヴォ島 (Corvo)がライン上にひっかかっている。
これにポルトガルは異議を申し立てた?
1494年に新たにトルデシリャス条約がスペインとポルトガル間で締結され、ラインは少し西にずれた

トルデシリャス条約(The Treaty of Tordesillas)
ポルトガル語: Tratado de Tordesilhas​
スペイン語: Tratado de Tordesillas)

ポルトガルとスペイン(カスティーリャ連合王国)の間で世界を分割した条約が1494年のトルデシリャス条約(The Treaty of Tordesillas)である。
※ スペインのトルデシリャスで署名され、ポルトガルのセトゥーバルで承認。

​トルデシリャス条約では西経46度37分(ほぼ子午線に沿った線)を基準として​
※ 北米側大西洋のほぼ真ん中を経度で分断
東側の新領土がポルトガル
西側の新領土がスペイン

アフリカ南端を回って東に進路をとったポルトガル。→インド・アジア方面へ
大西洋を越えて西に進路を取ったスペイン。→南米東海岸。やがてはマゼラン海峡(Strait of Magellan)を越えて太平洋に出る。

星 この条約は大航海を成し世界を侵略の範疇とした新たな2大海洋国家スペインとポルトガルの領土の取り合いを基準を持って制限分割したもの である。
※ 新たな土地とは非キリスト教徒の土地。

両国はこれを遵守したが、そもそもこの条約は2国の独断によるもので世界の国が認めたわけではない。

サラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)
また、 地球は丸かったので後に世界の裏側問題が起きる。
1529年サラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)によって裏側にも分断線が引かれた。
​およそ東経143度のラインである。

因みに、日本領土(東経122度~154度)はそのライン上にある。本州以下はポルトガルだが、東経143度の北海道はスペイン領となった。大笑い

尚、両線は明確に2等分されていない。ポルトガル分の方が180度を上回っている。


コロンブスのお墓とセビリア大聖堂
コロンブスのおかげで豊かになったセビリア(Sevilla)
1492年~1493年のコロンブスによる新大陸の発見航海。これがセビリア(Sevilla)の街を豊かにした。
もともと西ゴート王国(Regnum Visigothorum)(415年~711年)の首都だった街。

1503年、イザベラ1世は新大陸アメリカとの交易活動を増進調整する為にセビリアにインディオ通商院(Casa de la Contratacion)を設立
この組織は新大陸との交易、航海を監督し航海士の育成や海図の製作に当たった。

この 優位な独占的通商は1717年まで続きセビリアに恩恵を与えたが、 グアダルキビール川(Guadalquivir)に砂州がたまり船の航行に不便が生じた事からインディオ通商院(Casa de la Contratacion)は大西洋岸の港湾都市カディス (Cádiz)に移転した。

移転はスペイン継承戦で勝利したフェリペ5世(Felipe V)(1683年~1746年)(在位:1700年~1724年)(1724年~1746年)の即位とも関係していると思われる。
彼はスペイン本国と新大陸アメリカ間の貿易をより推進した政策をとっている。

セビリア大聖堂(Catedral de Sevilla)

左が後陣側で右が聖堂側
世界で3番目に大きい聖堂である。全景は撮影できない。

もともとイスラムのモスクが建っていた場所を王家の礼拝堂として転用していた。
カトリック教会の建築が決定されたのは1401年7月です。
1403年にアロンソ・デ・エヘア大司教が最初の礎石を積んで工事は開始された。
モスクの取り壊しが始まった時、参事会は後世の人が度肝を抜く大聖堂の建立を誓ったらしい。
この建築では1506年に一度は完成したらしいが、セビリアは地震が多かったらしくその度に再建されている。
ところで、イスラムの建築は壊れずに残り、カトリックの建築で建てられた部分は壊れたと言う。
丈夫に作られていたからなのか解らないが、 イスラム時代のミナレット(ヒラルダの塔)は鐘楼としてそのまま転用され今に残る。
※ ミナレット頭頂部は地震で崩壊して再建されている。

またオレンジの中庭(Patio de los Naranjos)パティオもそのまま残されパティオの北側回廊に免罪の門が置かれている。

下は聖堂裏側とヒラルダの塔(La Giralda)

ヒラルダの塔(La Giralda)はイスラム時代の1184年着工。完成は1198年。
キリスト教下では鐘楼として利用された。現在も上れます。

そもそもヒラルダはヒラール(Girar)「回転する」から由来。女神像は文字どおり回転する風見鶏となっている。
が、これで風向を観ていた訳ではない。キリスト教では魔除けや信仰に向かう強さも示されているらしい。


ヒラルダの塔から見た大聖堂の屋根と左向こうがアルカサル。

聖堂内部障壁



いたる所に垣間見られる プラテレスコ様式(Plateresque)と呼ばれる細かい文様の装飾。
スペイン語で「Plateresque」は「銀細工職人のように」の意味を持つ。

星イベリア半島のレコンキスタ(Reconquista)後から急速に広まったこの様式はキリスト教徒に改宗したイスラムの職人を抱えたイベリア半島ならではの独特な融合文化として生まれた様式だ

つまり キリスト教の建築様式にイスラム職人の技術が融合された特異なスペインの建築スタイル なのである。
15世紀後半のゴシック後期からルネサンス初期にかけての2世紀間にスペインで生まれ流行。
それは当時スペインの支配下にあった新大陸のメキシコなどにも影響が残る。

下はコロンブスの棺。その背景の装飾文様がまさにそう。

聖堂が広いから小さくみえるが、通常の人より大きい像が棺をかつぐ姿の造形だ。

実は コロンブスの初めての大航海の出陣式をこのセビーリャ大聖堂でおこなっている。
でもここから船でグアダルキビール川(Guadalquivir)を下ったわけではなく、その河口の街でもない。
実際の船の出航は8月3日、リオ・ティント川河口のパロス(Palos)港なのである。
それはコロンブスは1490年から2年間、パロスの港に近いラ・ラビダ修道院(Monasterio de La Rábida)に客人として滞在していた縁があったからだと思われる。

星ところで、コロンブスを押したラ・ラビダ修道院(Monasterio de La Rábida)はフランチェスコ会に属していた。だからスペインでは 多くのフランチェスコ会の宣教師が新大陸の布教の為に海を渡った。

※ クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)(1451年頃~1506年)

スペイン帝国(カスティーリャ王国、アラゴン王国、レオン王国、ナヴァラ王国)を象徴する4人の王が棺をかつぐ姿のモニュメント。




内容は、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地からの上代の10分の1の獲得。
しかし、航海士としての感はあったが統治能力には欠けていた。
今なら大犯罪。インディオらに殺戮の限りを尽くし金を供出させるなど統治とは言い難い酷い有様だったらしい。
まかせていた弟の統治もロクデモ無く内部反乱が起きていた事もあり1500年には全ての地位が剥奪されている。
だから第4回航海の頃はすでに期待もされていなかった?  与えられたのは小さな船4隻。
イザベラ女王が亡くなると尚更、誰も相手にしなくなったと言う。

コロンブスは以下に書いています。
リンク ​ スペイン・セビーリャ 8 (コロンブスの墓所)

1506年5月20日スペインのカスティーリャ・イ・レオン州のバリャドリッド(Valladolid )で逝去。
​遺骨は当初セビリアの修道院に納められたが1542年にドミニカ共和国のサントドミンゴ(Santo Domingo)の大聖堂に移動。

1898年、イスパニョーラ島がフランス領になったのを機にフランスと返還交渉。彼は再び、スペインに戻りセビリアの大聖堂に収まった と言うわけだ。
※ 現在イスパニョーラ島(Ispayola)西側3分の1がハイチ、東側3分の2をドミニカ共和国が統治。​




南米での話しは次回入れる予定。
おまけにグラナダを少し入れました。

グラナダ(Granada)
グラナダに向かうハイウェイ

オリーブ畑が続く道。
オリーブオイルの生産量世界一と言われるスペイン。
​​なかでもグラナダやコルドバと北のハエンの 南アンダルシア地方は、スペインのオリーブ生産量の75%を占める一大産地


かなたに連なるシエラ・ネバダ(Sierra Nevada)山脈。
イベリア半島南東部スペインのアンダルシア州グラナダ県とアルメリア県にまたがる山脈。
雪の山の意を持つシエラ・ネバダ(Sierra Nevada)は一年を通して万年雪が残る。
最標高3478.6mのムラセン(Mulhacén)山はグラナダに属している。
スキー場として有名で、山麓のグラナダはスキー客が宿泊で利用する。
みんながアンダルシアの観光に来るわけではない。


アルハンブラ宮殿(la Alhambra)
グラナダ(Granada)はシェラネバタ(Sierra Nevada)山脈の北西に位置。
3つの丘、アルバイシン(Albaicin)、サクロモンテ(Sacromonte)、アルハンブラ(Alhambra)の上に広がっている 。​
とりわけ、歴史を語るアルハンブラ宮殿(la Alhambra)はグラナダ最大の観光名所であるのは言う間でもない。
アルハンブラはイベリア半島に最後まであったイスラムのグラナダ王国ナスル朝の造った城塞型の美しい宮殿

ヘネラリフェ(Generalife)からのアルハンブラ宮殿​




パルタル庭園

​​実は イスラム教徒の国ではあるが、イベリア半島に在りながら、カステーリャ王国の臣下と言う立場をとり外交政策でうまくやっていた。
第4代ナスル朝グラナダ王国の君主ナスル(Nasr) (1287年~1322年)(在位:1309年~1314年)は カスティーリャのフェルナンド4世(Fernando IV)(1285年~1312年)と平和条約を締結 ​​
​その為に征服事業にも軍を派遣したと言う。

だから小国ではありながら、 訪れた平和によりアンダルシア各地から手工業者や知識人が集りグラナダ王国は割と長く繁栄、素晴らしい文化遺産を残した のである​

ナスルの時代にアルハンブラ宮殿 (la Alhambra)のアブル=ジュユーシュの塔の建設をする。
14世紀後半第8代ムハンマド5世(Muhammad V )(1339年~1391年)の治世下で、ナスル朝はその時最盛期を迎えている。
ムハンマド5世は、ライオンの中庭とメクサールの宮殿、またはクアルトドラドでアルハンブラ宮殿を完成させている。

ライオンのパティオ


コマレス宮 アラヤネスのパティオ


メスアール宮のパティオ


丘の下からのアルハンブラ宮殿


アルハンブラ宮からの眺望
アルベルザナ・ウォールレーン(Carril de Muralla Alberzana)
アルバイシン(Albaicin)の丘に敷かれた城壁をピンクでラインしました。

14世紀、ナスル(Nazarí)朝のスルタンユースフ1世(Sultan Yusuf I)の命令により建築されたアルバイシン(Albayazcin)のナスル朝の壁の北壁

壁の頭頂にあるのはサンミゲルアルト(San Miguel Alto)教会
アルハンブラからの撮影なので向こう側がキリスト教圏かな?

強固な城壁で鉄壁な守備をしていた?
陥落したのはナスル朝内部の内紛にキリスト教軍は乗じたからのよう。

​​​​​絵のタイトルは グラナダの降伏(rendición de granada)Francisco Pradilla y Ortiz (1848年~1921年)
1492年、イベリア半島に残った最後のイスラムの国、グラナダ王国ナスル朝がカスティーリャ王国に降伏している図のようだ。

この絵画の原本は王室礼拝堂(Capilla Real)にあった。
描かれたのは近年だけどね。​​​​​​​​​​​​​​

​​​​​​​​​​「アジアと欧州を結ぶ交易路 17」につづく

3回目のワクチンを打ちぐったりしていました。
いつもの事ですが、後から修正あると思います。ぽっ

星昔クイズ形式でのせたものに タイトルを付け再度紹介。結構貴重な資料 かもしれないので是非見てください。1~4作まであります。
リンク ​ パンチボール(Punchbowl) 1


​​Back number
リンク ​ 静物画にみるメッセージ
リンク ​ 焼物史​ ​土器から青磁まで
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)
リンク ​ マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)
リンク ​ コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)
リンク ​ 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人
    アジアと欧州を結ぶ交易路​ 16 イザベラ女王とコロンブス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 15 大航海時代の道を開いたポルトガル
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​リンク ​ 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊
リンク  ​ 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa​​)
リンク ​
アジアと欧州を結ぶ交易路​ 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック
リンク  ​ ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 9 帝政ローマの交易
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 8 市民権とローマ帝国の制海権
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 6 コインの登場と港湾都市エフェソス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 5 ソグド人の交易路(Silk Road)​
リンク  ​ クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 3 海のシルクロード
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 2 アレクサンドロス王とペルセポリス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
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Last updated  2024年09月09日 02時19分06秒
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