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拙YouTubeチャンネルは、コチラ!・拙Facebookは、コチラ!・拙Twitter改めXなら、コチラ!・・本日2025/10/31て言ったら…🎃HAPPY HALLOWEEN🎵・そして、今回の舞台は…ソクタッヘサンザンパレス!・ウサニャン「映画観賞のお供に、《スペシャルAセット》は、いかがですか?左からポップコーン、ドリンク、チュロスに3Dメガネだよ!」(千と367話:サンザンパレス名物《スペシャルAセット》)職員A「本日はハロウィンですので、我々サンザンパレスでも《ハロウィン映画祭》ての、企画しちゃいまして!ガチで久々に、映画制作専用超AI《シンソクキネマ》にて、ハロウィンに相応(ふさわ)しい映画をばツクっちゃいました!題しまして…《次郎(じろう)マン》!!」↑↑↑「💢×∞」そー!安易な自己模倣は、《絶対に》許さナッシングな巨人・タローマンである!!水差し男爵「水を差しちまうよーですが…映画の内容もよー観(み)ナッシングと、安易に決めつけちまうエアプ(レイ)とか…!」・職員B(左)「水差し男爵が、ナントカ水を差してくれたっス!」職員A「良かった、良かった!モスコプス…もとい!も少しで、《芸(術は)爆(発だ!)》されちまうトコだった、ダイバダッタ…!」職員B「…今のトコは…あ、いや💦何でもナッシングっス…💧」・・・「何だ、コレわ💦」×∞肛門科医『コレわ、ヒドイ…鯉のぼりなら、真鯉(まごい)に緋鯉(ひごい)…手術が必要ですな…💧』左から…三郎太「あは…💧その昔《花王名人劇場》で、肛門科医が主人公のドラマやってた…てなコト、ばあちゃんが言ってたケド…💧モロ師岡…もとい…モロ見せじゃナッシングだった、ダイバダッタ…💧」菊丸「《(次郎⇒)痔瘻(じろう)マン》…こんなコトだそーです…💧」蘭丸「如何に、AIがタダの計算機に杉田智和…もとい、過ぎナッシングか…💧」「💢×∞」そー!アレなネタだって、《絶対に》許さナッシングな巨人・タローマンである!!タローマン「💢芸術は…爆発だ!!💢」ドカーーーン!!「うぱ~💦」・・・・アナウンサー「臨時ニュースです!ソクタッヘサンザンパレスにて開催中なうな《ハロウィン映画祭》が一転、にじさんじ…もとい!大惨事となりました!!…まー相手がタローマンじゃ、仕方ナッシング…💧」レポーター「現場からの中継です!次のおハナシまでには、ナニゴトもナッシングだった、ダイバダッタみたく…なんでせうが…モンダイは、今日の《ハロウィン映画祭》に…↑王妃様も来ておられてまして↑…💧」王妃様「💢その方ら!!《痔瘻モロ師岡見せ映画》とか、ナニゴトとか!?💧💢例によって、《姫の歌軽く1億曲聞かせる刑》に致す!引っ立てぃ!!💢」職員「💦💦💦」×2水差し男爵「…てな感じに…今年のハロウィンのおハナシは、《ソクタッへ王国物語》史上最低最悪なのでした…💧」むにゅ~!!(腹肉攻撃)夫婦ウサギ「💢誰の思いも同じなのでした!!」管理人「ぅぁはははははwww投稿文字数もw10000字切ったのでしたwww」・・・
2025.10.31
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拙YouTubeチャンネルは、コチラ!・拙Facebookは、コチラ!・拙Twitter改めXなら、コチラ!・・はじめに今回のおハナシは、Facebookグループ《WikiDharma》は釋林遊さんの2025/10/27の投稿をベースに書きました!・今日も今日とて、ロイ村では…左から…四郎「お~し、《走り込み》してくるぜ!ビンゴ、オマエも付き合え!!」ビンゴ「ワンワン!!」蘭丸「行ってらっしゃ~い🎵」三郎太「あは。」・・三郎太「あは!《ボッタクる商店》の配送トラックだ!」獅堂(しどう:左)「ちわ~す、《ボッタクる商店》です!御注文の品をば、お届けに参りました!!」蘭丸「別途で、配送料3000キンカだね?」三郎太「あは、蘭丸…今度は、何買ったの?」・・・一方そのコロ、四郎は…女性「ガッリガリよw何アレwww」×6四郎「💦」ビンゴ「💧」・・・三郎太「あは!《お仏壇》に!《三具足(みつぐそく)》だ!!」蘭丸「念願の《お仏壇》に《三具足》…よーやっと購入できたぜ!!」(千と352話:入仏式(にゅうぶつしき))三郎太「あは!阿弥陀様から見て(←ココ、試験に出るよ?)右から花立(はなたて)、香炉(こうろ)に、火立(ひたて)!今は亡き安岡力也さんなら、ホタテだね!」蘭丸「《視点の逆転イッパツマン》かぁ…!《他力》てのは、阿弥陀様が他である僕等を済度(さいど:迷ってるヒトを救って(=済)、悟りの彼岸(ひがん)にわたす(=度する)ご法義だから、阿弥陀仏が主体(=自)であって、僕等は客体(=他)なんだよな。」三郎太「その意味において、仏間のお仏壇や寺院の荘厳は、阿弥陀様を中心とする空間なんだよ。」蘭丸「仏間や寺院の本堂に入る時は、《主客(しゅかく)の転換》があるワケか!」三郎太「そだよ?私が仏を知るじゃナッシングに、私は仏によって知られる者なんだ、アーナンダ!主体と客体とが逆転裁判してるから、御開山すなわち親鸞様は、浄土真宗は仏の《本願力回向(ほんがんりきえこう)》のご法義とされたんだよ?」蘭丸「ソレが《河相我聞…もとい、如是我聞(にょぜがもん)》てゆー《仏願(ぶつがん)の生起本末(しょうきほんまつ)》の《聞(もん)》のご法義だった、ダイバダッタ!」「南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏…」×2🎶~(着メロ)蘭丸「…菊丸からだ!…もしもし、菊丸?…今、牧場にいる…?…え!?天野先輩(=四郎)が…!?💧」三郎太「…もーわかってるケド、遮光器土偶…もとい、社交辞令として、黙っとこ…💧」(千と381話:冷蔵庫買いました!)(千と454話:洗濯機買いました!)菊丸「そーなんだ、アーナンダ!今、テレビ電話機能で状況見せるから…💧こんなコトだそーです…💧」四郎「💢おカラダ、カンケーナッシング💦」ケン(左上)「うぱ~💦なんで~!?💦」ビンゴ「オマエ(=ケン)が出処(でどころ)だからだワン!!」↑↑↑アツキ(左端)「…てな感じに…今回のおハナシは、去年の冷蔵庫や今年の洗濯機を《お仏壇》に変えたダケなのでした!」むにゅ~!!(腹肉攻撃)管理人「ぅぁはははははwwwだから当方w《ミルクボーイ》みたく《システム構築》をばwww」夫婦ウサギ「💢だから、今は《令和ロマン》だての!!💢」(千と381話:冷蔵庫買いました!)(千と454話:洗濯機買いました!)・・投稿文字数11000字に迫りました!・
2025.10.30
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2025/10/28。この日は非番なので…ガチで久々に、家にあったナノブロックにて…《お仏壇》をツクりました!ちゃんと観音開きもするよ?右は、サファリ製ミニフィギュア《大仏》…この大仏は、鎌倉大仏だから阿弥陀様…今回、《お仏壇》をツクった理由です!三具足(みつぐそく)もツクってみました!左から、花立、香炉、燭台…のツモリ…💧黄色のフラットパーツのみキッズブロック。先の《お仏壇》と…接続できるよーツクりました!そして、ライトアップである。南無阿弥陀仏…南無阿弥陀仏…・・
2025.10.29
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《安心小話》より《一九九 香樹院講師の手記録に曰く。》一。六字の謂をきくとは、御助けの法のままを聞くこと。その御助けをきくままをたのむとは云う。きくままを聞くに非ず。ままの沙汰までもいらぬことをきくなり。おきかせの聴聞の法によくきく能帰の機までも成就してあるゆえに、聞くままを信心とは云うなり。 二。後生助けたまえとたのむ能帰の体は聞いて覚えたでなし。聞いた功でなし。助け給えとたのむ能帰の体は摂取なり。御助けの法のままが、私の御領解とはこの事。実言の外に信心なし。三。生れられぬまま、生れさそうの仰せが聞こえたれば、なろうのつもりはいらぬこと、助けたまえとは、たすけられることをきくことなり。聞くとはきき心を離れて、お聞かせの法味を甘んずるばかりなり。四。摂取してすてぬとある大悲のまことがきこえてみれば、助かりたいがいらず。おちまいがいらず。なろうがいらず。仕上げることがいらず。只実言のはたらきを仰ぐばかりなり。五。如来永劫の修行を全体施名として名に体の徳を全うして施す法なれば、六字の謂をききひらくなり。六字の謂とは助け上手をきくのなり。六。しかしきくと雖も、声と言は心の使いゆえに、声にはなれ言につかず、聴聞にわかれ弥陀のこころを知る一つ。知る一つを知るにあらず、知れた心に目をかけず、信心の功をみず、所信の法功を知る一つ。・
2025.10.28
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《安心小話》より《七三 如説院惠劔講師が記録に載せられたる自督帖。》一。ここに愚老、当年満七十歳の懺悔あり。当年までも自分の信心の真偽は己を顧るほかなしと、謹みて相心得ておるおると思い暮せしが、近頃無始己来の初事に真の善知識の御実意がこの心中に徹入なし下されたるにや、創めて自ら己が不埒の心中が思いしらるる。 二。幼年の昔、弥陀の本願は我をたのむものを必ず助けんとある御誓なりとききて、我が心に徹到して有難く、かかる浅ましきこの身が如来の御助けによりて極楽に往生するとは、さてさて有難や南無阿弥陀仏と喜び称えたるばかりなり。三。然るに大祖聖人板敷山の件、幼稚の時はこのこと聞くにつけても憎さも憎しと腹立て、或いは落涙に堪えかね、妄想ながらも我が一年分の報恩のために報償せんと思いしに、一年は一年その妄想も薄くなり、幼稚のすがたにもならばやと次第に昔恋しく思いしが、四十は四十、五十は五十、七十は七十、と年とるに随いて訳は委しくなれども内心の実情はうせはてたる有様、まことに浅ましくなり下りたると云うより外なし。四。獲信の一念より報謝相続して臨終一念の夕にはかならず往生せしめ下されなば不可思議に有難たかるべしと領解して喜びくらすゆえ身一杯心一杯と思えども、その身一杯心一杯が煩悩具足の凡夫ゆえ、まことに喜びもせねば称えもせぬといわれても、一言の申し訳もなき恥かしさは我が身なりと、七十歳の今日まで相続し来たれり。五。しかれどもこの心相続の相は千変万化、ある時は仏恩の忝なきことを存じ、師恩の深きことを思いては歡喜の涙に咽び、雨涙千行万行することもあり。ある時は口に称名すれどもとどまらず、妄念頻りに動きて仏恩も師恩も夢だにもしらざるもののごとくなる時もあり。またある時はかく前後転変する心何ぞ淳一相続の心ならんや、これぞ若存若亡の心なるべしと歎かるる時もあり。またある時は、かく前後転変すと云えども如来廻向の一心はこの中に歴然たりと聊か動することなく称名することもあり。種々無量にしてツイに七十歳を送れり。六。就中、踊躍歓喜の心相の起ることは甚だもって希に、後世者にはあらざるやと怪しまるるの心はつねに多し。ことに年老の長ずるに隨いては、ますます疎略の相となりはてたるに似たり。浅ましと云うもおろそかなり。七。かく心相は種々に転変すと云えども口称の念仏は転変するものにあらざれば、他力の往生は違うべきことなしと喜び存じて一生これまで送り来たれり、然れば有難いかなや他力の信と行とは幼年の昔よりすでに獲しめ給えり。この身なれば今にも臨終せば決定往生すべきこと何の疑いあらんや。その他力廻向の信行は如何にして得たるや。これひとえに真の善知識に逢い奉りし恩徳のあらわれなれば、その恩徳の深きことは、まことに弥陀の悲願にひとしきものかと常に厚く頂戴して、粉骨砕身すともなお足らぬと、尊慮に違わぬ様つつしみつつしみ年月を送れども、報謝の勤め勇ましきすがたもなく不冥加の心中と謝りはてて日を送り来たれり。・
2025.10.27
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2025/10/25。仕事帰りに、向新町のブックオフに寄りまして…レゴマインクラフトのスケルトンが、単体で!コレは、買わナッシングな手はナッシング!…てなコトで、迷わナッシングで購入!マイ(ン)クラ(フト)のスケルトンが、2体に!右のは、昔買ってたレゴマインクラフトミニセットに付属のスケルトン…なんかドタマが色焼け気味なので…ららぽーと福岡のレゴストアで買ってたレゴフィグビルドのドクロヘッド(右)と、ドタマコウカーーーン!!並のガイコツにしちゃいました!!これまでに集めたガイコツ達…6体揃って、記念撮…💧クリーパーだ!!自爆する気満々だ💦逃げろ~💦・・
2025.10.26
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2025/10/24。よーやっと給料が入ったので、生活必需品を買い込み、ストーリーテリング用素材も1個だけ買いました。左は、大橋駅地下街のキャン★ドゥで買ったメジャー…引っ越しの際の粗大ごみを出すのに、サイズを測る必要があるので買いました。右は、天神駅4Fのインキューブで買った、ナノブロックストーリーズコレクション牧場…今時、ナノビットのついたセットはどこにも売ってナッシングなのを、1個ダケ残ってたので、思い切って買いました。あとは、お米に食材、生活必需品…と。引っ越す以上は、使わナッシングな素材も色々と整理してきまして。・
2025.10.25
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《染人百話》より《大量師》(楽心院)大量師は美濃の人、後江州八幡町順応寺に住職となる、道心もあり学問もあった。いつものお話に、他力の御法を聞く心得は、親様と云うことを忘るると益がない。嘆きに沈んで広大不思議の御助けを聞き洩らすことになる。「もろともに語り合わさん法の友、機のつたなさと法のとうとさ」○我等はこの世を夢と知っても、この心が夢と云うことを知らぬ。聞いて堅めにかかるから、御喚声が聞こえて下さらぬ。世は夢なれど、求める心は本性と思うのが誤りである。○このままとは悪心だけのこと、信心ばかりは本真物にならねばならぬと思うが、よくよく聞けば本真物とて何があろう。このうそいつわりのゴマノハイぞと聞き開かれたら一心帰命の外はない。今曰く。これについて思い出すは、秀存師の、「我心は虚仮雑毒なれば、何時にぎってみてもにせものなり。そのうそがうそと知られた一念が弥陀の利他真実に助けられた真実の一念なり」。又、龍温師の「子供が泥鰌をつかむに、こそこそ泥鰌ぢやとつかむと泥じゃ。今度は確かにつかんだそうなと思うとやはり泥じゃ。みなみなが今度こそと押えたものは邪見?慢じゃ。何返握りてもうそばかり」との御示しである。○我仏恩を知る身となったと思うが早や我機を見失うたのじゃ。その本心をおして見ると更にその実がない。たまにはその心が起こったのは全く御加えの仏智である。その下にあるのは固有の迷心じゃ。「我が心をみなとりかえて御助けにてはなく候。仏智を加え候うて凡心を繕いて御助け候」。古歌に「この機をば地獄なりとてとりすてて 御助けの機はいづくにかある」○「自力の願生心が他力信心の接木台の如し。遂にそれをすてて他力をたのむ信を得るなり」とある香樹院師のお言をひかれて、同師のお手帳の中に、世人の公事をするのに、年月かかる中に訴人が却って受け手となることがある。右と同じ訳で、実に大悲に徹したお言である。その求め心は御回向かと云うに、御回向は帰命の一心である。求め心は宿善力で、それが台木である。これが願心じゃ。願心おこさせて往生の因を接いで下さるる。台は願心、木は満願の大悲である。聞き得て振りかえっててみると、台木からが弥陀の宿縁である。よって蓮如上人は、「宿善ありがたし」と仰せられた。始終丸々の他力仕立てである。○同師自督帖に、盲人の道を失うときは、ただ連れて行ってくれる人を求めるより外なし。何ぞ目を開くことを求めん。然るに、父の迎いを得て、この手にすがれと聞きたる時喜び々々縋るなり。その縋る心は眼を開くに非ず、やはり暗いのなり。暗いながら我が家に連れられて行くことが明らかになるばかり。我等法を聞きて明らかにならんとかかるは盲人の明を求むるが如し。ただたのみさきを求むべきこそ他力の聞きようなり。○六字の仰せの聞こえぬわけに二つあり。一は独り立ちしてゆく心ゆえたのめの仰せにこまるなり。連れてゆく人をただ道を教えてくれる人と思う。聞こえてみれば、わからぬながら連れられてゆくことを喜ぶなり。二は眼をあけて行く心ゆえ喜びたのむ心なし。眼病と生盲と心得ちがいしているゆえなり。今は生盲の先の暗いながら引かれてゆくことを喜ぶなり、と。今曰く。先徳の御歌に、「知識より迷いのやみに手をひかれ、今にかがやく花にこそすめ」と。盲目のなり暗いなりで連れてゆき、さとりの眼は極楽の花のうてなであけてやるぞとの仰せか。○同『御手帳』の中に、南浜のかる女、老耄して我が子さえ忘れていたが、予、念善寺へ参った時人に連れられて予に逢いに来たから、予云く、我を知ってるか。かる女曰く、知らいでかいな順応寺様じゃ。逢いたかったで来ました。又曰く。もうちかかろうねい。予曰く。今夜も知れぬぞ。女曰く。うれしいねい。これが聞きたかった、と。予の側にいたみつ女に、おまえさんお供して来てくれたのか、この方を大事に御世話して下されねい、と云うて去った。○弥陀法は機と法とに二つの実がある。実に死ぬと、実に活きるとで、一往ではわからぬことじゃ。あの人は何日に死んで葬ったと云う。それが又実に活きたと云わばわからぬ。少しでも息があって活き上がったと云うはわかる。冷えたが活きたと云わばわからぬ。今弥陀の本願は、まことに死んで冷えきったものを活かし給うゆえ智慧光仏と云う。諸仏みな不思議不思議と讃嘆し給い、然も例のないこと故、六方の証誠があるのじゃ。十方諸仏の母が北枕にした兒を活き上がらせ給うゆえ不可思議光と名づける。実に極難信の法とは六ヶ敷いと云うことでない。不思議のこと故希有難信である。「あいがたき法とはしれどこの法を 極難信としるはまれなり」「おもうてもみる人もなし御仏の 御舌の証は何ゆえぞとも」◎死にたればこそ 『沙石集』に「癲狂人川へ流れ、州崎に推しあげられ、独り言に、死にたればこそ活きたれ、活きたらば死なましと云う。河深く流れ疾し。活きたらば沈みて死なん。息絶えたればこそ浮かぶことゆえ右申したるなり」と。今曰く。とかく死にきらずして活くるつもり。堕ちきらずして助かる了見しておるが誤りで、当流は助かりそうな機は助からぬ機、助からぬ機が助かる機じゃ。・
2025.10.24
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拙YouTubeチャンネルは、コチラ!・拙Facebookは、コチラ!・拙Twitter改めXなら、コチラ!・・…ある日のソクタッヘ王国…!新聞屋「号外!号外!海賊なら、ゴーカイ!ケド、今はナンバーワンでゴジュウじゃ~!2025/10/15現在!!あのソクタッヘサンザンパレスが!映画制作専用超AI《シンソクキネマ》にて、新作映画を3本もツクって、公開中なう!《ライフ・イズ・キス》…《余命1ヶ月の花嫁》…《恋に落ちたビースト》も、ヨロシク!」↑↑↑ケン「💢オイラの神経SAKAMOTO DAYS…もとい!逆撫でするよーな映画ばっかツクりやがってYo!?💧」・・左から…花子「💢ケンのヤロー!ドコへ逃げた!?」小太郎「💢うぱ!小太郎、北京原人、違う!!」四郎「💢おカラダ、カンケーナッシング!!」小次郎「💢誰が、ボイセイ猿人もしくはフローレス原人だ、うら~!?」茜(左)「ケンさんだったら、公園っス!」花子「💢公園か…!!」・・ケン「お~し!今日こそ、ナンパを成功させてみせるぜぃ!!」「あーとかでもナッシング🎵こーとかでもナッシング🎵」×4ケン「へいへい💖ソコの…あ…いや…つまり…その…💧」「超人サザンクロス!!」✕4ケン「ゆでたまご先生、ゴメンちゃい〜💦」「行こ、行こwww」✕8茜「ケンさん…彼氏持ちとわかってて、性懲りもナッシングに…!」ケン「💢うっせ~な!?オイラ今回は、《背水の陣》を敷いてまで、ナンパに臨んだんだぞ!?」茜「…ソレで、ケンさん…💧花子さん達のワルグチ言ったんスね?《背水の陣》ドコロか、自分で自分の首絞めてるダケっス…💧」「超人サザンクロス!!」✕4ケン「ゆでたまご先生、ゴメンちゃい〜💦大事なコトなんで、もっかい言いました~💦」茜「ケンさん…《背水の陣》とかゆーくらいなら、そのぐらい骨折って聴聞(ちょうもん)するっス…💧」てな感じに…ソクタッへ王国は、今日も平和なのでした!・背水の陣について井陘の戦いで韓信が背水の陣を敷いたのは、黄河でも長江でもありません。 特定の大きな河川ではなく、井陘の地にある小川を背にして陣を構えました。川そのものの大きさではなく、退路がないという状況を利用して兵士の士気を高めることが目的でした。・・参考文献《秀存語録》より《一三九 背水之陣》(一蓮院秀存師曰く)機の深信は、川をうしろにして陣(じん)どりをする也。・・
2025.10.23
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《安心小話》より一九九 香樹院講師の手記録に曰く。一。六字の謂をきくとは、御助けの法のままを聞くこと。その御助けをきくままをたのむとは云う。きくままを聞くに非ず。ままの沙汰までもいらぬことをきくなり。おきかせの聴聞の法によくきく能帰の機までも成就してあるゆえに、聞くままを信心とは云うなり。 二。後生助けたまえとたのむ能帰の体は聞いて覚えたでなし。聞いた功でなし。助け給えとたのむ能帰の体は摂取なり。御助けの法のままが、私の御領解とはこの事。実言の外に信心なし。三。生れられぬまま、生れさそうの仰せが聞こえたれば、なろうのつもりはいらぬこと、助けたまえとは、たすけられることをきくことなり。聞くとはきき心を離れて、お聞かせの法味を甘んずるばかりなり。四。摂取してすてぬとある大悲のまことがきこえてみれば、助かりたいがいらず。おちまいがいらず。なろうがいらず。仕上げることがいらず。只実言のはたらきを仰ぐばかりなり。五。如来永劫の修行を全体施名として名に体の徳を全うして施す法なれば、六字の謂をききひらくなり。六字の謂とは助け上手をきくのなり。六。しかしきくと雖も、声と言は心の使いゆえに、声にはなれ言につかず、聴聞にわかれ弥陀のこころを知る一つ。知る一つを知るにあらず、知れた心に目をかけず、信心の功をみず、所信の法功を知る一つ。・
2025.10.22
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《安心小話》より七三 如説院惠劔講師が記録に載せられたる自督帖。一。ここに愚老、当年満七十歳の懺悔あり。当年までも自分の信心の真偽は己を顧るほかなしと、謹みて相心得ておるおると思い暮せしが、近頃無始己来の初事に真の善知識の御実意がこの心中に徹入なし下されたるにや、創めて自ら己が不埒の心中が思いしらるる。 二。幼年の昔、弥陀の本願は我をたのむものを必ず助けんとある御誓なりとききて、我が心に徹到して有難く、かかる浅ましきこの身が如来の御助けによりて極楽に往生するとは、さてさて有難や南無阿弥陀仏と喜び称えたるばかりなり。三。然るに大祖聖人板敷山の件、幼稚の時はこのこと聞くにつけても憎さも憎しと腹立て、或いは落涙に堪えかね、妄想ながらも我が一年分の報恩のために報償せんと思いしに、一年は一年その妄想も薄くなり、幼稚のすがたにもならばやと次第に昔恋しく思いしが、四十は四十、五十は五十、七十は七十、と年とるに随いて訳は委しくなれども内心の実情はうせはてたる有様、まことに浅ましくなり下りたると云うより外なし。四。獲信の一念より報謝相続して臨終一念の夕にはかならず往生せしめ下されなば不可思議に有難たかるべしと領解して喜びくらすゆえ身一杯心一杯と思えども、その身一杯心一杯が煩悩具足の凡夫ゆえ、まことに喜びもせねば称えもせぬといわれても、一言の申し訳もなき恥かしさは我が身なりと、七十歳の今日まで相続し来たれり。五。しかれどもこの心相続の相は千変万化、ある時は仏恩の忝なきことを存じ、師恩の深きことを思いては歡喜の涙に咽び、雨涙千行万行することもあり。ある時は口に称名すれどもとどまらず、妄念頻りに動きて仏恩も師恩も夢だにもしらざるもののごとくなる時もあり。またある時はかく前後転変する心何ぞ淳一相続の心ならんや、これぞ若存若亡の心なるべしと歎かるる時もあり。またある時は、かく前後転変すと云えども如来廻向の一心はこの中に歴然たりと聊か動することなく称名することもあり。種々無量にしてツイに七十歳を送れり。六。就中、踊躍歓喜の心相の起ることは甚だもって希に、後世者にはあらざるやと怪しまるるの心はつねに多し。ことに年老の長ずるに隨いては、ますます疎略の相となりはてたるに似たり。浅ましと云うもおろそかなり。七。かく心相は種々に転変すと云えども口称の念仏は転変するものにあらざれば、他力の往生は違うべきことなしと喜び存じて一生これまで送り来たれり、然れば有難いかなや他力の信と行とは幼年の昔よりすでに獲しめ給えり。この身なれば今にも臨終せば決定往生すべきこと何の疑いあらんや。その他力廻向の信行は如何にして得たるや。これひとえに真の善知識に逢い奉りし恩徳のあらわれなれば、その恩徳の深きことは、まことに弥陀の悲願にひとしきものかと常に厚く頂戴して、粉骨砕身すともなお足らぬと、尊慮に違わぬ様つつしみつつしみ年月を送れども、報謝の勤め勇ましきすがたもなく不冥加の心中と謝りはてて日を送り来たれり。・
2025.10.21
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《香樹院語録》より《二六七。助けたまえ》南無の二字は助け給えと思う心也。助け給えと云うことは、世間でも分別思案の出来ることには、助けて下されとは云わぬ。我が思案工夫の出来ぬことは、助けてくれと云うより外なし。然れば銘々弥陀をたのめたのめの勅命は、我が分別、我が力で行くことを助けるにあらず。汝等が知恵も力も及ばぬ一大事の後生、諸仏の捨てたまう悪人女人を助けるばかりに、この弥陀が五劫の間艱難したは、汝等を助くるばかりの思案也。兆載永劫の修行をしたも、その方が助からぬ未来の大事を、助けるためばかりの永劫の修行じゃほどに。 弥陀という正覚を取ったのは、悪人女人を助ける為ばかりである。助かるてだてがあるなれば、五劫永劫の思惟修行はせぬ。ただ汝等を助くるばかりの難行苦行。それじゃによりて、南無とたのむというも、汝等が思案工夫を廻らして、たのむこととは思うな。雑行雑修も力盡き果てて悪道え沈む徒者が、この名号の謂れを聞けば、造作なく弥陀の念力が届いた時、己を忘れて、やれありがたや弥陀の大願力の御不思議ぞと、おもいとる一念に、はや弥陀は摂取すると教え給うが六字の謂れ也。 こう聴聞して見られよ。浄土真宗の教は、道理々屈で云い、或いはなづみあらそう訳はない。助けるとある仰せに、凡夫の計らいはいらぬ、助け給えとすがるばかり。それなれば、我が覚えありて云わねばならぬのかと思えば、云うの云はぬの、おもうの思わぬのと、思案分別も入らぬ。地獄に堕つる、悪道に堕ちねばならぬものを、ありがたい御助と引受けられたならば、そのまま助けたまえとすがるばかり。それならば銘々聞くのに難儀なことはない。これでは助かろうか助けられまいかの、これほどありがたい故御助けにまちがいあるまいと思うたり、又かようなあさましい心では助かるまいと思うたり、弥陀の手元は慈悲深くとも、自分はこれに離れるようにも思うは、まちがい也。 泥の中え落ちた子を、抱きあげるのに、助けたならば、忝いと思うであらうと思うて、抱きあげる親はない。子は逃げんとしても、親は之を追うて助ける也。御慈悲の親様が、我々を助けたまうが此の通り也。・
2025.10.20
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《香樹院語録》より《二六五。ありのままの愚者になりて聞け》酢を入れた器の中え、洗いもせずに酒を入れる時は器の酢の味で酒の味までかわる。実の酒をつぐには、酢を入れた器なればよく洗うて使わねば、実の味の酒は受けられぬ。 善知識の、実の御化導を知らぬではなけれども、己が我慢や、?慢や、放逸や、懈怠やらの、己が自性の酢の中え、善知識の御化導を我が胸の計いで聞く故に、実の法の味は知れぬ。これは仏法ばかりではない。世間の教でも、我心を空うして教を受けよと仰せられた。手前の心に随うて聞く教は、みな教の道理が違うてくる。 実に聞くはどう聞くと云えば、そこを教え給いて、この度浄土へまいるのは、信心一つ也。この信心は名号を聞くより起る信心。その名号を説いて聞かするは、誰人なれば、十方諸仏皆共讃嘆と、釈迦如来を始めとして、仏様方の御慈悲のお勧めじゃ。これを聞く者は誰じゃと云えば、智者も善人も撰びはなけれども、智者や善人は未だ余の教でも助かる道理もあるが、余の教で助かるてだてのつきたこの悪人女人、地獄行のこの徒者が御相手也。然れば我身が善人になりて聞くにあらず、智者になりて聞くにもあらず。今日この座え出たありのまま、愚者のままで、説いて聞かせて下さるる。銘々のありのままの愚者になり、実に罪の深い者と気がつけば、実の教が受けらるるけれども、教えられても教えられても、地獄が恐ろしいとも、極楽へまいりたいとも思わぬ。しかのみならず、罪ありながら地獄に堕つるとも思わず。信も得ずして浄土へまいると云うような、因果をやぶる邪見の胸。それのみならず、我れ知り顔の?慢を起して、御法を聞けば、どれほど聞かせて貰うとも、いつも知れた事を聞くような、軽蔑の思いで法を聞く。かような根性で聞くゆえ、受けられぬのじゃ。御慈悲の尊さが思わるる筈はない。
2025.10.19
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《香樹院語録》より《二六一。助からぬと驚く者は助かる也》盗人が藏の壁を切り破りて、金を懐の中におさめ、やれ嬉しやと思うけれども、見付けらるると首切らるるにちがいなき故、破ったところでにこにこと寝て居る盗人はない。また追剥などが人を殺し金を取りて、その殺した所にいつまでも休んでは居られまい。罪を罪と知れば逃げねばならぬ。それを何とも思わず、ぐづぐづして居れば縄かけらるる。よって、うろついては居られぬ也。 銘々罪造りて何とも思わぬは、何故なれば因果の道理を知らぬが故也。それ故極楽参りは、如来の慈悲で唯参らるるように思い、参りたい心なき故、徒に暮して月日を送るはこれ常の人の習じゃぞと、蓮如上人はしかり給う。これが即ち邪見の姿。銘々罪持ちながら何とも思わぬは、邪見なる故、うかうかと暮す也。もしや邪見が破れて、このままで地獄の火の坑え沈まねばならぬと聞いたならば、願わずには居られぬ。聞かせる事ならぬとあればとて、聞かずに居られようか。それ故邪見我慢がやぶれて、仏になりたい心になりたならばたとい火の中分けてなりとも、聞けと宣う如来の教誡也。 ?慢と云うは、少しばかりわかると、これでこちらはよいと、呑み込みあきらめるが?慢也。これにも、いろいろあれども、我心得顔は?慢也。この?慢は愚な者よりも、僧分や頭同行に多くある也。実の法が信ぜられぬ故、そこで邪見?慢の者は信ずること難しとありて、十悪五逆の罪人でも、助ける弥陀の本願なれば、罪はいかほど深くとも、煩悩悪業はあらうとも、苦にせぬけれども、?慢邪見では、この名号の謂れが聞かれぬとある。善知識の御教化に打ちたたかれて聴聞して見れば、初めて如来の御慈悲の御苦労は、人の為に非ず、この私を助けん為に、五劫の御思惟、兆載永劫の御修行じゃと聞かれて見れば、南無とたのむものを助けると仰せらるるも、よその衆生を助けるとあるにあらず、此の私を助けたいの南無阿弥陀仏と、いよいよ六字の謂れが聞かるるは、己が力に非ず。聞其名号信心歓喜と仰せらるる、如来の御慈悲が聞かれて見れば、ああ嬉しや、地獄より行き方のなき者が、たのむ一念にお助けとは、ありがたいと信心の得られたは、邪見が破ぶれ、?慢がつぶれた故也。 よくきけば如来の御苦労御成就の南無阿弥陀仏のおいわれが、行き届いた信心ゆえ、信心の体が直ちに南無阿弥陀仏、信心とて六字の外なし。やれうれしや、今までどうしたならば、実の信になるであらうと、手前からきめておったゆえ疑いは晴れなんだ。まるまる南無阿弥陀仏の回向で助かる也。
2025.10.18
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《香樹院語録》より《二六〇。如来のまことに丸められたる信心》それならば、その南無阿弥陀仏をば、いかがして信ずれば心の底の暗がはれ、疑いの病が治るぞというに自余の聖道門の教なれば、我と我が心を磨き顕わしてこの虚言偽りばかりの腹の中を、いかようにしても、かわらぬ所の実物にしあげねば、我れと信心をおこして仏の證を求むるとは云われぬ。それ故に、一世や二世で仏になる信心が、中々こりかたまるものに非ず。十信一万劫の間かかり給う也。生れかわり死にかわり、生々世々、難行苦行を勤めねば、我が信心は堅まらぬ左様にして信心がおこらせられた処で、初めて仏になる大菩提心がおこらせられた。それより修行し給う所が、三阿僧祇という永々の御苦労也。それ故、銘々なんぼ百年千年晝夜に身をこらしたとて、中々この胸に実の心は起らぬ也。 それはそのはづ也。世間の間で云う時は、親の子を思う実と、夫婦の恩愛の実と、これほど手づよきはなけれども、その親の実さえ、我が身の難儀になり、我が身のたたぬことになると、我が子も捨ててしまうと云うように、やぶれてしまう凡夫。いわんや夫婦の実も心に叶う間は実あれども、我心に叶わぬ事になると、怨み妬みの心を起す。世間眼前の知れた事さえ爾り。いわんや仏になりたいなどの念願、我々実の心のできよう道程なし。然る処、この法藏比丘が、我等虚仮不実の心を見抜き、千劫万劫、無量劫盡未来際かかりても、悪人女人の実の心を起して、仏になるなどはできぬことぞと、ながめたまいて、そこで、この我々の実心がなければ、仏の證は開かれぬ、浄土の往生遂ぐるという事はならぬ。我々には実の心は起されぬ。そこで助けようとすれば助からず、捨てようとなさるれば、己に諸仏にも見捨てられて、永く成仏の期のない銘々なれば、三界六道の迷、地獄は決定まぬがるる事はならぬ。又たまたま、人間天上の善を修して生るる事あれども、爪の上の土の如く、三悪道え堕つる者は大地の土の如く也。 かような我等が、三途の苦を眺め給いて、この三悪道の苦を抜いてやりたいと思召て、法蔵比丘の御苦労はなるべき事の思案に非ず。ならぬ事をどうしようどうしようと思案し給うが、五劫が間の御工夫。所詮悪人女人が、我が心の中からして実の心は起されまいによりて、身替りに弥陀が願行をつとめ、即ち実の心を成就してその成就した南無阿弥陀仏を與えて仏にしようと願い給いた、ここが法藏比丘の願心なり。 それ故、銘々決定し奉る信心というは、凡夫がたのむの、すがるのと、かりそめな心が信心とは思うべからず。かねて助けると、御成就の久遠劫来の如来の御実が聞其名号信心歓喜と、六字の謂れが聞き開かれた一念に與え給う実の心が、信心也と宣う。そこで『御文』の中に、「信心と云える二字をばまことの心とよめる也。まことの心というは、行者のわろき自力の心にては助からず。如来の他力のよき御心にて助かるが故に、まことの心也」と仰せらるるが、常々の他力の信心というがこのこと也。 口には、他力の信心と皆が云うては居れども、我が落ちつく胸はきまらずに居て、そして助けて貰う事ばかり如来の他力と思うて居る故、そこで助かることばかりが他力で、我が胸が回向の他力の信に非ざる故、そこで口に云う所と心の中と似合わぬ。これでよいやら、わるいやらと案じ労らう也。
2025.10.17
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拙YouTubeチャンネルは、コチラ!・拙Facebookは、コチラ!・拙Twitter改めXなら、コチラ!・・…大変寺(たいへんじ)菊丸「先程、御住職こと葵慎吾師から『ダイヤ(グラム)の乱れで、電車が遅れている。』と、連絡がありまして…御住職がお戻りになられるまでの間、寸劇をば用意いたしましたので、ごゆるりとお楽しみ下さいませ!その昔、《ドリフ大爆笑❜83》でやってた《プロレスのヒーロー!タイガーマスク》をば、《ソクタッへ王国物語》にて(勝手ながら)リメイクしました…こんなコトだそーです!」四郎(タイガーマスク役:右)「っしゃ!!っしゃ!!」ケン(マネージャー役:左)「タイガーさん!《タイガー小川》さん!そろそろ出番ですよ?」四郎「💢《タイガー小川》て、何だよ!?タイガーマスクだ!タイガーマスク!!💧」ケン「だって、そんな細(ほっせ)~カラダしてるから、《タイガー小川》っショ?」四郎「💢おカラダ、カンケーナッシング!!💢」ケン「うぱ~💦」四郎「てなワケで、マスクだ!マスク、クレメンス!ずんだもん、カンケーナッシング!!」ケン「おかのした!ずんだもん、カンケーナッシング!大事なコトなんで、オイラも言いました!!」四郎「げほ…!ごほ…!」ケン「そーやってハダカでいるから、カゼひいちゃうんですよ?あまつさえ、そんな細(ほっせ)~カラダじゃ…」四郎「💢おカラダ、カンケーナッシング!!💢」ケン「うぱ~💦」四郎「言い方が悪かったな…お面だよ!お面!!」ケン「あー!お面ですね?」🎶~🎶~🎶~四郎「💢オカダ・カズチカ…もとい!おかめ・ひょっとこじゃナッシング!!💢」ケン「うぱ~💦」四郎「鮎川(=菊丸)も、調子合せてんじゃナッシング!!」菊丸「どーも、お面なさい…ネタ元のコントでも、加トちゃん…失敬!加藤茶さんが言ってたそーです🎵」四郎「タイガーマスクは、プロレスラーなんだよ!?プロレスラーて言ったら…!」ケン「ハイハイ!プロレスラーね?」四郎「…ネタ元のコントみたく、ジャイアント馬場さんのお面持ってくるタモリ…もとい!ツモリだったら、やめとけな…!?」ケン「…ご安心ください!別に、そんなモンナッシングでも…🎵何だ、コノヤロー!?」四郎「ほぁっぽぁ~💖」ケン「ソッチの方が、似合ってるっス!細(ほっせ)~カラダだけにwww」四郎「💢おカラダ、カンケーナッシング!!💢」ケン「アッポ~💦」四郎「…ソレだよ!ソレ!!」ケン「コレで決まりじゃん?…て、ネタ元のコントでは(今は亡き)志村けんさんが言ってたとゆー。」四郎「こんな感じかな!?」ケン「ぷぷっ…wwwやっぱ、《タイガー小川》じゃんwww」四郎「💢おカラダ、カンケーナッシング!!💢」ケン「うぱ~💦」御住職(=御院さん)「よーやっと、戻れました…私が戻るまでの間、寸劇ですか…蓮如上人が、狂言《鶯(うぐいす)の鳥刺し》をば愛(め)でておられたのを、思い出しましたよ…!」ケン「…蓮如上人の愛でた狂言と…ドリフのタイガーマスクコントと…どーゆー整合性があんだか…?今回は、そーゆーおハナシなのでした…💧」投稿文字数も、11600字切ったのでした…!・・ネタ元のコント(YouTube動画)にも、リンク貼っときますが…オチが衝撃的なので、見るなら自己責任で!!そもそも、こーゆブログで《ま×な板ショー》まで再現なんて、ムリムリ、カタツムリ!ずんだもん、カンケーナッシング!!・参考文献法楽狂言「鶯(うぐいす)」について和泉流狂言師 石田幸雄・深田博治(リンク元は、コチラ!)蓮如上人の子、實悟上人の記録には、蓮如上人が67歳のときのこと、文明13年(1481)6月18日 第7代存如上人25回忌法要が勤まり、この折に山科本願寺において、4日間にわたり能楽が催されたと記されています。本願寺において法要・法会の折に能が演じられたのは、この時が最初のようです。この時の2日目に演じられた狂言「鶯の鳥さし」に、蓮如上人はおおいに感心し気に入られて、3日目にもまたこれを所望されたと伝えられています。色くろ四郎二郎演じる鳥さし狂言は、 現在は曲名を「鶯」として演じられ、集(あつめ)狂言・雑(ざつ)狂言に分類され、和泉流の持ち狂言となっています。この狂言は、鶯を捕らえようと懸命になっている男のところに、ある者が来て、男に対して、 着ている衣装がほしいと言います。男は鳥さしに熱中していたので、言われるままに着ているものを 脱ぎ捨て、腰に差している太刀・脇差しまでも皆渡してしまい、鳥も手に入れられずに終わるという 狂言ですが、これを見た蓮如上人は、「鳥を捕らえようと、ひたすらそのことに心をかけ、他のことは何もおぼえず知らずという姿勢は、まことに殊勝である。仏法においても、この鳥さしの男のように、 念を入れて熱心に聴聞することが大切である」と言われたと伝えられています。・・
2025.10.16
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《香樹院語録》より《二五九。しみじみ御慈悲を味え》己が病は、人の呑んだ薬ではなおらぬ。薬を目に前に並べておいて、見たばかりでも病はなおらぬ。その薬の効能はかようかうように勝れてあると、薬の効能を知りわけても、呑まぬ薬で病は治らぬ。 ややもすると、僧分にも同行にも、仏法と云えばただ法義の道理理屈ばかり知りわけて、己が胸に我が後生の大事が思われて、真実南無阿弥陀仏の薬をば、我が胸え呑みこまぬたぐいが多き故、口に云わすれば皆悉く法の道理、安心の道理は明かなれど、呑まぬ印には我が胸の病がなおらぬ。 其の病とは、第一の病が胸の内の疑いの病、其の疑いというが直ちに無明の病、この無明の業障によりて我々が流転する故、『御文』には、無明業障の恐ろしき病じゃと仰せらるる。その無明業障の恐ろしき病が根本となりて、我々が身口意何もかも、実に仏法の道理とは相違することになりゆくは、源みな無明業障のなしわざ也。 喩えば、腹の中に恐ろしき病あるゆえ、それゆえ、目がかすみ、耳はきこえず、手足も用きかねる。末で云えば、耳目手足の病なようなれども、しかと医者が脈見て、考えた所では、みな腹中の病の所為也。自ら気もうつうついたし、どうにも勇ましうなきが病の印也。かかる病をば、その病に応ずる薬を與えられて、よくよく薬を呑んで、正しく病のよくなった所では、手前の心持が病気の時と快気の時と、同じ心持ではない。目のかすみも晴れ、手足も達者になり、気もすこやかに、晴々しくなったは、病のなおりた印なり。何も身も心も昔にかわらねば、病のなおりたに非ず。 思うて見るべし。銘々が、無明業障の病によりて、浄土まいりがしかしかとおもわれぬ。たのむいわれも信ずるいわれも、随分きいて、わけはわかり、如来の御慈悲の趣きも何から何まできけば尊いというまでは、残らず呑みこんで居れども、畢竟いえば、薬の能書覚えた心持也。往生一定御助け治定と口では云えども、心中は今死んでもよいとは思われぬ。いかさま今少しありがとうならねばならぬことなれども、死ぬるまでの間には、ありがとうなられよう。もはや如来の慈悲あるからは、よもや捨てたまいはせまいと、手前から唯おしつけるばかりで、いろいろと思うて居る分斉。善知識の信心決定せよと教えて下されたとは、大違いな我が胸になって居るのは、皆これ銘々おいわれを聞けども、ただ人並みにきいて居る故に、人の呑んだ薬で自分の病の治らぬ如く、薬を見たばかりでは病の治らぬ如く、ほんに一大事の後生と聞いて、南無とたのむ衆生が御助けにあづかりて、やれ嬉しや往生一定と思う心になられぬのは、みな無明業障の病の根がきれぬ故也。
2025.10.15
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《求法用心集》より《一八 大 關 節》一、真宗の大巻節の一つとして、『歎異鈔』の、「よき人の仰せをかうむりて信ずる外に別の仔細なきなり」の御一言は他流に異なる、他力より賜はる信心といふことを顯(あら)はし給ふ。我等は迷ひの境界ゆゑ、弥陀を拝むことも、直の御喚聲を聞くこともならぬ。それ故、第十七願を立てゝ、諸佛讃嘆を誓ひて給ひて聞かせるが佛智を授け給はんが為也。授け手は善知識なり、弥陀から直に授けるでない。法然上人によりて導かれ給ふた。され故淨土真宗にては、自力を捨てるも他力に歸するも、皆善知識の御勧めによる。二、善知識の御手離れては、自力のすたりやうも他力のたのみやうもない。阿弥陀様と直應對、差し向ひなら第十七願はいらぬものになる。善知識を離れて弥陀をたのむのではないのに、とかく他宗のやうに、聴聞不足の者は往々善知識を離れて居る。善知識の教に随ふが弥陀の仰せに随ふのなり。然れば善知識を嫁入の仲人のやうに思ひ、教を月指す指の如くに思ふは誤りなり。夫故、釋迦は勧め役、弥陀は助け役と思ふは間違ひなり。今日祖師聖人の御教化が二尊一体の御相。善知識の御化導の御手離れて信の得らるべき様はないというが他力真宗の意なり。三、『信巻』初に、「夫以獲得信楽發起自如来選択願心開闡真心顯彰從大聖矜哀善巧」とありて三心十念を御注文にとつて信じ称へにかゝるが他流「今は大聖善巧の御教化により、弥陀の心を聞くより起る信心なり。他流は第十八願差し向ひ、浄土真宗は成就の文を安心の至極と思召さるゝゆゑ、能く聞け能く聞けと仰せらるゝ。また善知識の御化導と云へば、つい常並の法談話とのみ軽々しく思へども、五劫の御思案より起った第十七願よりあらはるゝ。即ち「光を十方に放ちてぞ、常に妙法ときひろめ」と御光明から善知識とあらはれ法を説ききかしめ給ふのなり。
2025.10.14
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《秀存語録》より《一一二 機之問題》嘉(か)永三年八月十二日夜、つらつら思ふ樣は、とかく、我心中は、我たのみ心があとからあとからながめられ、機世話(きせわ)の離れかねたる心中也。たのむといふ事は、阿弥陀如来のたすけ給ふ事を信ずる事だと思ふて見れば、誠にやすらかなれども、さう思ひながらも、尻目つかひの離れ兼ねたるは我心中也。思ふに、これが計らひといふもの、機あつかひといふものにやあらむ。若し機あつかひなれば、これは雜修也。されば、この機あつかひをさつぱり離れて、さらりとした心中になりたく思ふ也。然し、また退いて思へば、やはり、自力のはからひにあらずや。思へば、思ふ程、機世話のやかれて、一夜心中大に苦惱(くのう)せり。ふと思ふに、※元祖は聖道の行をつとめる人に對して行からすすめ給ふ、これ皆な應病与藥(おうびやうよやく)の御示にて、つづまる所は、本願の不思議を信ぜしむるに在り。されば、私如き機のながめらるる病のある身には、その病に應ずる御藥を頂くの外なき也。私の病に適中の御藥とは、『末灯鈔』教名坊(けうめうぼう)へ下されたる親鸞聖人の御消息に云く、「ただ不思議と信じつる上は、とかく御計らいあるべからず候。往生の業には、私の計らひはあるべからず候也。穴賢穴賢。唯如来にまかせ参らせおはしますべく候」。また、同鈔(=末灯鈔)に云く、「ただ不思議と信ぜさせ給ひ候ひぬる上は、煩はしき計らひあるべからず候」。また同鈔(=末灯鈔)に云く、「仏智不思議と信ぜさせ給ひ候ひなば、別に煩はしく、とかくの御計らひあるべからず候」。また『和讃』に、「不思議の仏智を信ずるを、報土の因としたまへり」ともいへり。これらの御化導は、真に私の機あづかひの病には、相應の妙藥也。然らば、凡夫往生の鏡(かがみ)たる『御文』に「たのめ」とある御言は、我藥にならざるかといふに、既に「弥陀を」とのたまへば、仏智をたのむも、弥陀をたのむも、畢竟同じ事なるべし。・※元祖:親鸞聖人のコト。天才バカボンでも、SDガンダムでも、まして浦安鉄筋家族でもナッシング!・・
2025.10.13
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2025.10.12
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《香樹院語録》より《二三二。心のふりむき》一。 古語に寸も長き所あり、尺も短き所ありと云いしは、一寸のものでも、二分か三分にくらぶれば長しと云われ、一尺のものでも、一丈三丈のものにくらぶれば短しと云わる。比べやうによりて、長くもなり短くもなる。各々後生を願い御報謝をつとむるにも、平生いろいろに御法を聞かぬものに比ぶれば、余程志もあつく仏恩の報ぜらるるようなれども、如来大悲の御恩の大きさに比ぶれば、中々仏恩を報ずるとも云わるることではなし。それをば地獄え堕ちるものに比べて、よほど長いつもりで、広大なる御恩の方をば背にする故に?慢も起るなり。それは心のふり向けようが相違せり。たとい身命を抛げすてて御報謝をつとむとも、千須弥山の骨をくだいて下された程の御恩に比ぶれば、ものの数でもなし。とかく傍をば随分見ぬように、御慈悲の方え心をむけて、日月を送るべき也。二。 十人一所に船に乗りて、その舟が覆りたるとき、人があがらば我もあがらんとて、右や左を見合しているものはあるまい。残る九人は皆沈まんとも、我身一人は藤の根にとりついてなりとも、助かりたいが腹一ぱいなり。今もその如く、ほんに後生が大事ならば、日本中のものは皆地獄え落つるとも、我が身一つは助かりたいと思う筈也。日々夜々、地獄え堕つるものは大雨の如くなりとある。堕ちまい堕ちまいと思うている人が大概はみな堕ちると見ゆる也。其の地獄え堕ちる人を見くらべて居よう筈はなし。一人一人の後生なれば、一人一人が御慈悲に向わねばならぬなり。御慈悲に向うて行くならば、たとい手足は立たずとも、かかる雨山の御恩をは、如何して報じ奉るべきぞやの心、またなにほど御報謝がつとまりても、たらぬたらぬの思いより外はあるまじ。このふり向きが違うていると、勤まらぬものは邪見をつのりて、凡夫じゃもの当りまえ、つとめて参る浄土でもなしなど云い、また勤まるものは?慢を起して、金でも出せば御恩を報じてしもうたような顔をせり。五十歩百歩、どちらも誤り也。三。 それについて、此の心のふり向けようが、甚だ大切なるものにて、日々に三たび我身を省みよと云うたも、 このふり向けようを教うる計りなり。道を行うと云うは甚だ大切なる事にて、言葉で云えば日々の百千言、行いで云えば行往座臥、親に向い子に向い世間の人に向い、よきにつけ悪しきにつけ、こまかに心を用いて己が心の向き所を見るべき也。先づ一を挙げて云わば、親に孝なるものは、一足一足を挙ぐるにも其の親を忘るるなとあれば、一寸門え出るときも、我は何の為めに出で行くか、親の心に叶うべき事か、そむくべき事か、親が腹立てそうな事か、喜びそうな事かと、我が心の振りむけようを見て行くときは、滅多の処へは行かぬ故に、自ら孝行にもなるなり。とに角一寸さきは闇の凡夫故に、事終りてより、さては失敗たりと知れてくる。聖人は過を見てここに仁を知ると云いて、しくじりあとが恥かしい。己が欲のためにゆきすぎたか、或は律儀一筋でゆきすぎたか、たとい過りても、道の心のふりむきにて、口と体との失敗は恥かしうはない程に。人が見ぬとも知らぬとも、することなすこと己が心の振りむきを見て行かねばならぬ。その一つ一つは筆にかかれず、あらかじめ教えてもおかれざる也。四。 道には経権と云うがありて、時によりては虚言に擬するようなことも云わねばならず、また隠さねばならぬこともある。人に善事を行わせ、人の命を助くるような時は、據所なく、なきことをも云う事あり。たとい実のことを云うても、他人の悪きことを人に知らせて、我が身よきものにならんと思わば、実の事を云うていながら心は道にふりむいては居らぬ也。五。 心と云うものは、安きようで難いもの、難いかと云えば易いものなり。元来形のなきもの故に、丁度圓きものを回すようなものにて、毫厘の間に大違いが出来るから、三十里迷うていても改めるのはただ一念にある。向きかねる其の時はちから励ましてふりむけよ。六。 掟を守るは、つらきようなれども、聖道の難行にくらぶれば、ものの数でもなし。朝寝しているに比べると、晨朝つとめるもつらいけれど、善導の六時礼讃に比ぶれば、二時の勤行はものの数でもなし。少しばかりの学問も振りむけが大切で、にわかに銭にでもなる仕事する人に比べると、果なきことじゃと思えども、戒師を千里の外に求めたり、樹下石上にありて名利を避くる人に比ぶれば、少しは人の見ぬ処でも精は出さる。同じ仕事をするならば、よき方に向いてしたきこと也。在家の渡世も同じことにて、とても渡世は捨てられぬ、また捨よとも仰せなし。同じ働きをするとても、臨終までの手ずさみや、往生のための道ゆき也。家を大切に相続するも、御開山の御門徒を繁盛させたいと振り向いて働けば、みな御報謝のつとめとなる。随分精出して身代も仕出すべし。七。 同じ仕事をなしながらも、心の振り向けやう一つにて往くと還るとの相違あり。振りむけやうが間違えば比べ所も間違い、比べ所が違う故に、その仕事がつろうなる。後生の一大事に心がふり向くと、浮世の心に叶わぬことも、直に地獄の苦に思いくらべ、御報謝つとむる時も直に如来の御恩に向い、辛抱してたしなむとも、直に聖道の修行にくらべて、天は高けれども跼まり、地は厚けれとも荒々しく踏まず、ひと足ひと足に獄卒を後にし、招喚の勅命を前になして、悪しき心を退け、近づく浄土をたのしむ時は、一世勤苦の苦のままが楽となりて、豈快きにあらずや。一足横えふりむけば忽ち方角を失う程に、一歩千里の相違となりて何国まで迷うて行こうも知れず。狐や狸の気違仲間が藪の中から呼びかける程に、善知識の御言葉を闇の夜の灯として、傍ばかり見ぬように、出離の道にふりむき給えかし。・・
2025.10.11
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最近は、生活環境のカンケーで自炊が多くなっている。野菜や小魚を味噌で煮込んだダケだがな!?主にニンジンとタマネギ、小松菜。小魚は煮干し…コレを入れるのは、山車…もとい、出汁を取るのと、鶏ムネ肉を買えナッシングな時のタンパク源ともなるから。お好みで、ワカメや昆布も入れるコトも。・・
2025.10.10
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お西こと浄土真宗本願寺派に《三業惑乱》があったよーに、お東こと真宗大谷派にも、《頓成事件》がありまして。ネット上には、あんま載ってナッシングでしたが…ソレでも、ナントカ情報をばかき集めてまいりました!↓↓↓霊崎頓成(たまざきとんじょう)1795~1887・寛政7年生まれ。能登(のと)(石川県)の真宗大谷派長光寺の住職。霊暀(れいおう)にまなぶ。教義に対し異義をとなえ,嘉永(かえい)5年幕府により豊前(ぶぜん)四日市(大分県)に流される。維新後も自説をまげず,明治17年宗門外に排斥された。明治20年11月19日死去。93歳。俗姓は霊崎。字(あざな)は了雄。著作に「深信問答」など。・頓成事件とは、霊崎頓成が真宗の教義に見える二種深信を否定し、救われがたい身であると自ら深く信じる機の深信は、自力であると主張して破門されるに至った一件をいう。・《香樹院語録》より一〇三。「松陰のくらきは月の光かな」能登の頓成、機の深信と云うことにつき、異義を申したつるに就いて、二條御役所の御糺となり、二條御役所より、二種深信御糺につき、講者よりその義書き認めあげよとありければ、香樹院師書上げらるるよう。「二種深心ともに他力なり。就中、機信心他力と云うを最も肝要なり。頓成は機の深心は、法を信ずるまでの前方便といえど、然らず。総じて、古来の異解不正義をつのる者数々あれども、皆なこの誤より起れり。我機のたすかられず、自力の善根も分別もまに合はぬと云うことは、法藏因位のとき、認知し給いて、それ故に其の行者のなすべき願行を仏の方になし給いたるを、六字に成就し給う故、六字を聞く所にて、この機の方の所修の善不善、すべて無益なりと知るは、法藏因位の識知より起る也。斯るものを、願力にてたすけ給うと云うは、もとより也。故に二種ともに他力より起さしむるもの也。是れ浄土真宗開山の極秘なり。」 と。二條の奉行曰く。衆生がたのむ故に、仏がたすけ給うを他力とは、固より聞けり。我が身のたすかられぬと云う機までも、全く他力とは、今度初めて聞きたり。いかにも開山の正意ならむ。親鸞聖人他力の宗意、奇妙なり奇妙なりと。之より江戸公議までの御捌となり、御老中及び御奉行も、この二種深信他力の宗義には、みな感心せられたり。講師一蓮院師曰く。機の深信他力と、知りたるようにて知らざりしものは私なりき。これ故に、立かえり立かえり我胸の穿鑿せし事勿体なや。ああ、これを知るは仏祖の御恩也、近くは頓成の逆縁なり、と。↑↑↑(善及様のブログ《仏からの道》は2024/4/23分の記事《松陰のくらきは月の光かな》より、善及様のコメント部分抜粋。)能登の頓成の異安心事件に関連して、ご公議へ差し出された徳龍師の上申書の内容と、それに対する評価が記されている。なお、上申書には、頓成は機の深心は、法を信ずるまでの前方便といえど、しからず。総じて、古来の異解不正義をつのる者数々あれども、みなこの謬りより起れり、と結論が示されている。さて、題に、松陰のくらきは月の光かな、とある。よく知られた作者不詳の歌ですが、月の光に照らされて、わが心の闇が見える。松陰の暗きは機の深信、月の光は法の深信、わたしの心が見えたことが智慧の光が生じたことです。自力の人はわたしの心を拠り所とするから、わたしの心の実相を見ることを内心深く恐れている。見ることは捨てることだからです。善及南無阿弥陀仏・《秀存語録》より一四六 頓成の御糺香樹院云く、頓成(とんじやう)機の深信の義を立つるに就て二條御役所の御糺(ただし)となり、二條御役所より、二種深信御糺に就き講者よりその義、書(か)き認めあげよとある時、香樹院の書上(かきあげ)に云く「二種深信ともに他力也。就中、機深信他力といふこと最も肝要也。頓成は機の深信は法を信ずるまでの 善方便といへど然らず、總じて、古来の異解不正義をつのる者數々あれども、皆なこの習より起れり。我機 のたすかられず、自力の善根も分別もまに合はぬといふことは、法藏因位のとき、識知したまひて、それ故に、その行者のなすべき願行を仏の方になし給ひたるを六字に、成就し給ふ故へ、六字をきく所にて、この機の方の所修の善不善、すべて無益なりと知るは、法蔵因位の識知より起る也。かヽるものを願力にてたすけたもうといふは、もとより也。故に、二種ともに、他力より起さしむるもの也。これ浄土真宗開山の極秘也」と。二條の奉行云く、衆生がたのむゆへに、仏がたすけ給ふを他力とは、固よりきけり。我身のたすかられぬといふ機までも、全く他力とは今度初めて知りたり。いかにも開山の正意ならむ。親鸞聖人他力の宗意、奇妙奇妙々々。と。之れより、江戸公議までの御捌(さばき)となり、御老中及び御奉行も、この二種深信他力の宗教には、みな感心せられたり。存云く、機の深信他力と知りたるやうにて知らざりしものは私なりき。それ故に、立かへり立かへり、我胸の穿鑿(せんさく)せし事の勿体なや。噫、これを知るは仏祖の御恩也。近くは頓成の逆縁(ぎやくゑん)也。私云、法に協ひたる形式のみの教よりも、反て間違ひたる事実も、実際的なれば、人を益すること甚だ多し。・ちなみに、霊崎頓成師を異安心調理してた岡崎正鈍師ゆかりのお寺(祐善寺)は、コチラ!・・さらにちなんで、大谷派の異安心事件といったら、他にも海徳院公巌師の羽州公巌異安心事件もありまして。この時、香月院深励師と共に公巌師を異安心調理してた、円乗院宣明師もヨロシク!・・
2025.10.09
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《香樹院語録》より《等覚寺正遵師》等覚寺松野正遵師は河内の生まれ。後京都仏光寺内に住まれた仏光寺派の学頭で、而も世に稀な道心の深い高僧であったが、少しも夫れを外形へ現されなかった為一向知られていない。○ある時京都へ出店している江州の某富豪の呉服店主人が、私には四五の分家もありますが今度貴師の御門徒にして戴きたいと願い出た。師曰く。夫れは思いもよらぬことじゃ。自分には学も徳もないのに人の檀那寺にならうなどとは思わぬから平にお断りすると。○師の法語に、機と法との有りのままが見えるばかりじゃ。すてて取ろうとかかるは計らいじゃ。○真っ暗で明かりを求める思いで法を聞くのじゃ。闇中なら燈光を求めるより外はない。斯様に心を止め、骨折って聞くと、段々向こうから明かりが入って下さるるから、ちっとずつわかるようになる。○悪いものは悪いと知って居れど、とかく善いものにだまされる。ああなろうこうなろうの定散心雑る故、出離其期なしじゃ。眞宗は、まるで善いのがまるで悪い。○師の『正信偈講義』の中に自督安心の枢要を述べて、生死即涅槃とは無碍の事なりとあって、信心開発の人は自ずから無碍の信相がある。機に向えば無有出離之縁と信じ。法に向かえば決定往生と信ずる。そのままが一生相続するのなり。若し信の上は決定往生の思いばかりにて、無有出離之縁の心なしと云うならば、初一念は二種深信にて、後念は一種深信と云うことになる。そのまま一生相続するのなり。是につき、古書に、善知識説法の時、この中に一人決定往生の人がある何人ぞと申された時、一人進み出て私で御座ります、と。知識又曰く。此の中に一人地獄に堕ちる者あり、何人ぞと。然るところ前に出でたる人又進み出で、私で御座ります、と。是が正しく二種深信相続の相で、決定往生の信相が無有出離之縁の信相を妨げないのである。是が無碍の相である。信の上にはその相があらわれて、無有出離之縁の故に墮獄の人である。決定往生なるが故に住正定聚である、一文不知の徒ら者まで、一生涯二種相続して知らず知らず生死即涅槃の無碍の相を顕すのじゃ、そこを「証知生死即涅槃」と仰せられた。別に心を用いざれど、名号の仏因日夜にあらわれて、我が身は必定地獄の罪人なり。又決定往生なりと、助くる助くるの勅命を聞き、日々喜びいるばかりである。今曰く、世間で往々二種深信二種深信と云いながら一種深信になっているのがある。是につき『秀存語録』(一五三)に、問いて云く、機の深信は信後に通ずるや。答、生涯通ずるは先輩已来の正義とみえたり。『叢林集』五八左云く、西岸上の得脱までは貪瞋つねにおこる、されば蓮台の上までは無有出離之縁の凡夫なるべし。此土入聖して至る浄土にはあらざるなり。されば二種信心は、一もやむことあるべからずと。先徳曰く。南無は死なぬ法。阿弥陀仏は迷わぬ法。不思議の仏智で助けるとある仰せが聞こえた時、無上大利の功徳を与え給うゆえ、知らず知らず煩悩即菩提、生死即涅槃の道理にかなう事になると。・
2025.10.08
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《染人百話》より《大和の文七》文七は大和生まれで、後には湖東佐野発願寺の寺僕となって無我に御慈悲を喜んだ。いつも藁でたぶさを結び粗末な衣服を纏うていたが、時々人知れず嬉しい嬉しいと云って小躍りして御念仏していた。○何時も慚愧して気の毒に思われるほど自己をせめた。御仏前へ拝礼の前後などは敷段や縁先でこつこつと音を立てて此奴めが此奴めがと云うて、且つ戒め且つ省みたと云う。そのため前額が誰が見ても松脂でも付着てあるかのように思われた。○魚市場などの前を通る時には、恐ろしや々々私も生々世々の間には、この様な店晒になった事もあったろうにと。又新しく普請などしているのを見ると、嗚呼御気の毒々々と云って小走ったと云うことである。○ある時、発願寺住職の傘供をして葬場へ行った。やがて「本願力に逢いぬれば」の御和讚の御調声があがると、朱傘は忽ち導師の頭を打って倒れた。あまりのありがたさに感極まった文七は、己忘れて合掌したまま、無我に御念仏申しているのであった。○その当時、附近の種村本行寺の御簾中(西派本山より御入興)が病気にかかられ、かねてより文七の厚信を聞かれてある処から聞法がしたいと所望になった。文七はなかなか応じなかったが、後には仕方なく行くことになった。最初本堂に参詣して御尊前に一々懇ろに拝礼を遂げ、漸く庫裡に入ったが、今度は御内仏の拝礼が亦本堂のように極めて丁寧であった。さて漸くのことで待ちに待たれた病人の側近く座ったが、何時までたっても一言も云わない。ただ落涙しながら微言で御念仏申して居るばかりであった。しかし御内方は文七が先程から謙って厚く喜ばるる殊勝な態度を見聞されて、殊の外満足されたと云うことである。○文七は小さな蜜柑箱に持仏を御安置して厚く御崇敬をしていた。ある時、文七の留守中に当時十一・二歳位の同寺の新発意が戯れに「文七はうそつきでぢごくゆき」と書きしたためて箱に張り付けて置いた。後帰ってきて之を見つけた文七は、驚くまいことか、声をあげて、いよいよこの偽つきの地獄行きの文七が、お淨土参りの一番客とは、やれやれうれしや有難やと、とめどなく、独り喜んだと云う。○佐野に金田屋と云う大家があった。文七が独身で年老いていくのを気の毒に思うて、田地の二三反も与え、雇婆も世話しようとすすめたが、文七はやれ恐ろしや々々と辞退して承知しなかった。その後病気に罹ったが、病人を引き受けて世話がしたいとの望み手が互いに争うたと伝えられてある。今曰く。概して世間では老人や病人は人に疎まるるものであるが、文七に限っては年寄るほどいよいよ人に慕われ、病気になっても同行が引き合うなど、信徳ほど不思議なものはない。・
2025.10.07
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拙YouTubeチャンネルは、コチラ!・拙Facebookは、コチラ!・拙Twitter改めXなら、コチラ!・・今回の舞台は…大変寺。御院さん(左端)「てなワケで…今回は、易往而無人(いおうにむにん)をば、読み解きませう。」イオ「…なんか、こー…呼ばれてる気とか…」御院さん「…しナッシング!『易往而無人』は『往(い)き易(やす)く而(しか)して人無(ひとな)し』と読み、『極楽浄土へは容易に行けるハズなのに、向かう人がほとんどいナッシング!』てな意味です。 仏教、特に浄土真宗の教えに基づく言葉で『大無量寿経』に説かれてまして、親鸞聖人も『教行信証』にて引用されてます。江戸時代の名僧が一人・香樹院徳龍師(真宗大谷派)が、《香樹院語録》は《一一。易往而無人》にて、詳しく分析されておられます。」・《香樹院語録》より《一一。易往而無人》(読み仮名は、当ブログにて追加しました。)「易往(いおう)」 五義1.五劫思惟之摂取故(ごこうしゆいのせっしゅゆえ)2.永劫代衆生行菩薩行故(ようごうだいしゅじょうぎょうぼさつぎょうゆえ)3.既成正覚満足浄土故(きじょうしょうがくまんぞくじょうどゆえ)4.常作不請友親近衆生故(じょうさふしょううしんごんしゅじょうゆえ)5.光明摂取常加守護故(こうみょうせっしゅじょうがしゅごゆえ)「而(に)」 「無人(むにん)」五義1.不恐後生一大事故(ふくごしょういちだいじゆえ)2.迷失広大恩不修大悲行故(めいしつこうだいおんふしゅだいひぎょうゆえ)3.深不生信心歓喜一念故(じんふしょうしんじんかんぎいちねんゆえ)4.不親近奉行善知識故(ふしんごんぶぎょうぜんぢしきゆえ)5.不以仁義五常守是身故(ふいにんぎごじょうしゅぜしんゆえ)・御院さん「『易往』とは、『極楽浄土に生まれるコトは、阿弥陀仏の本願の力によって、きわめて容易である。』とゆーコト。『而無人』とは、『しかしのかかし…林遊さん、カンケーナッシング、多くの人々が阿弥陀仏の本願を信じることができナッシングゆえ、浄土へ往生する者がきわめて少ない。』とゆーコト。《易往(いおう) 五義》すなわち《お浄土へ行きやすい5つの理由》とは…」・①五劫思惟之摂取故:阿弥陀仏が法蔵菩薩であったとき、五劫という非常に長い時間をかけて思惟し、衆生を救済するための本願を立てられました。この五劫という永きにわたる思惟によって、すべての衆生を救う道が確立されたため、浄土への往生は容易であるとされます。・②永劫代衆生行菩薩行故:阿弥陀仏は、衆生の代わりに永劫という長い間、菩薩としての修行を重ねられました。衆生が自力で修行する必要がないように、阿弥陀仏がそのすべての功徳を成就されたため、衆生はただ信じるだけで救われるのです。・③既成正覚満足浄土故:阿弥陀仏はすでに仏となり、その浄土(極楽浄土)はあらゆる功徳で満たされています。この完成された浄土に、衆生は阿弥陀仏の力によって導かれるため、容易に往生できるとされます。・④常作不請友親近衆生故:阿弥陀仏は、衆生が救いを求めていなくても、常に「不請の友」(招かれざる友)として衆生に寄り添い、近づいてくださいます。この常なる慈悲の働きによって、衆生は救いの手に触れる機会を常に与えられているのです。・⑤光明摂取常加守護故:阿弥陀仏の光明は、念仏する衆生を常に照らし、摂め取り、守護してくださいます。この光明の働きによって、衆生は安心して浄土への道を歩むことができるため、往生が容易となります。・御院さん「《而無人(にむにん) 五義》すなわち《お浄土へ参るヒトがあんまいナッシングな5つの理由》とは…」・①不恐後生一大事故:衆生は、死後の世界とゆー《(後生の)一大事》を恐れる心がナッシング!無常を悟らナッシングで、来世の苦しみを恐れナッシングなため、往生を願う気持ちが起こらナッシング!・②迷失広大恩不修大悲行故:衆生は、阿弥陀仏の広大な恩恵を忘れてしまい、その恩に報いるための大悲行(自らも他者も救おうとする行い)を修めよーとしナッシング!・③深不生信心歓喜一念故:衆生は、阿弥陀仏の本願に対する深い信心を生じるコトがナッシングで、往生を決定した一念に歓喜する心もナッシング!・④不親近奉行善知識故:衆生は、浄土の教えを説く善知識(仏道に導く師)に近づき、その教えを素直に実践することができナッシング!・⑤不以仁義五常守是身故:衆生は、仁・義・礼・智・信といった《五常》の徳によってこの身を律するコトができナッシングで、自己中心的な振る舞いに終始してしまいます。そのため、仏の教えを受け入れる心が開かれナッシング! ・御院さん「親鸞聖人は、《易往而無人》なるコトバを通して、①人間の深い疑いの心こそが、本願の救いを妨げているコト。②誰もが救われるという教えは、あまりに都合がよすぎるため、かえって信じがたい《難信》の教えとなるコト。③自力に頼る心が救いを妨げているコト。…を示唆され、凡夫の疑い深さと、それでもなおすべてを包み込む阿弥陀仏の本願の広大さとを対比させておられます。 」・アツキ「…そりゃそーと、叔父貴(=御院さん)…?💧なんか、こー…さっきから…易往而無人…もとい、硫黄のニオイがしナッシング…?💧」御院さん「…💧総入れ歯…もとい、そー言えば…💧なんか、ゆで卵の腐ったよーな…💧」KBG(この星防衛軍)隊長(右)「💢コヤツのせーです!コヤツの!!💧」KBG青年隊員(左)「…我ながら、見事な《タマゴっ屁(ぺ)》…💧」(千と535話:KGB(この星防衛軍))アントン「💢ウキ~!?何でぃ、そんなモンとか!?」・「猿の惑星~💦」むにゅ~!!(腹肉攻撃)夫婦ウサギ「💢忘れたコロに、《猿の、わ~くせ~》!!」管理人「ぅぁはははははwwwマンネリの域まで行ってみろwwwそー志村けんも言っていたwww」…てな感じに…投稿文字数12000字に迫ったのでした!・・・
2025.10.06
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《求法用心集》より《三〇 五十五翁のうそ懺悔》一 噫、我等此度、幸に萬劫にも受け難き根具の人身を受け、億劫にも値ひ難き無上の妙法に遇ひ奉り、甚難得の寿命を先づ今日迄は危く生き存へ、勿体なくも肉食婬犯の穢体に解脱幢相の靈服を纏ひ、耕織の勞を知らずして毫も凍餓の憂ひなく、無学不徳の身ながら飽くまで佛血を啜り粗肉を喰み、安然高潔の精舎に起臥して日夜五尊の御側近く弥陀の直説を聴聞しながら、佛恩も知らず師恩も思はず、好みて三種の大罪を造り重ね、勿体ないとも恐ろしいとも思はず、同行に向うては傲然として空談虚飾し聊か慚愧の心もなく、朝夕の勤行はたゞ役目気ずましにて少しも崇敬の情はなし。名利我慢 役目の風袋ひきされば のこる正味の 御報謝はなし二 嗚呼、傷しいかな。如何なる宿業の然らしむるところか。かく五十有五の老境に迫り、今日か明日かのあはれな身になりながら、眼前のきたなき五欲にのみ涎を流し、菜の花に たはむる蝶ぞあはれなれ おのが身をやく たねとしらねば秋の鹿の笛により、夏の虫の火に入るも、知らぬ故業なら仕方もなけれども、今我等は常に聖教を眼に晒し、酸いも甘いも會得しながら、酒肉色財に耽着してして後生を忘れ我身を知らず老いていよむ さぼるものは酒肴 銭と女と朝寝なりけり髭白く 頭ははげて光れども 浮世心の はげぬかなしさ三 小寒の氷大寒に融けるは春の近づくが故、老いて道心なきは地獄の近づく故なり。閻王張怒眼、獄鬼揮鐵鞭、其事とは夢にだにも思はず、唯知眼前貪酒肉、不覚地獄盡抄名。まことに家賊制し難しの金言。「心に若し形あらば捕縛して性根のつくまで叩かん」と、古人の歎かれしも理なり。合ひ住居の大敵が迷いの果報と證の重宝とをすりかへさすことにかゝりづめ、かへ玉もたせて嬉しがらせる。夫をすりかへさせまいとて、日夜に御骨折りが善知識の御化導とも知らず、老健をたのみ、眷属を力にし、身を削りさく刃に似たる妻とも覚へずして戀着し、財を分ち取る賊に等しき子なりとも知らずして寵愛し、口癖に「子は三界の首枷、妻は流轉の媒(なかだち)、孫は地獄の使ひなり」と吹聴するばかり。まだ死ぬまい死ぬまいの常見の狐に誑惑され、雪達磨に堂を建て、薄き氷の上に炬燵をあげるに機を揉み、恨みつ、嫉みつ、泣きつ、笑ひつ、明し暮して居るうちに、思ひがけなく、大命將終悔懼交至(だいみょうまさにをはらんとしてけくこもごもいたる)の際に臨まんこと必定なり。四 咄。大膽不適の我心、よく聞いてくれ。生れ難き此人界を、久遠劫來迷ひ歩きし草鞋の脱ぎ捨て場とするか。またも盡未來際迷ひ歩く、足の踏み出し場とするか。深き因縁ありて住み馴れし此道場を、未來成佛の出世場とするか。又も生々世々迷ふ、苦しみ種の蒔きつけ場とするかの一つ二つ。『正法念經』に「心を繋縛解脱の本とする」と説き給ふは是の事か。只今の我心一つの振り向けやうにて未来大地微塵劫の苦樂昇沈にかゝる一大事也と思へば、実に身の毛堅つ程にも恐ろしくも又たのもしく思はるゝなり。目を覚ましてよくよく聞いてくれよ我心。五 かゝる危ない處にて、堕ちかゝる体に抱きつき、よく聞けよく聞けの御化導は、一句半句が千人力とも、萬人力とも、何に喩ふる物もなく、百千萬兩にもかへられぬ、無量劫の命拾い、実に今日迄存へし命が法の実とは、今こそ聊か身に染みて少しはたのもしくも思ひ知らるゝ心地こそすれ。たつた今 おしかけて來る火の車 弥陀たのむより 逃げ道はなし(伏師明)恐ろしき 鬼のやうなるこゝろにて 佛の真似を するぞはづかし
2025.10.05
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《染人百話》より《老山居士》老山居士は山形県の人、真解院秀恩寮司の季子で幼名を俊丸と云うた。深く内外の典籍に通達され、識見徳望兼ね備わった近頃稀なる高徳であった。明治初年頃しばしば官から召されたが勿論応ぜられず。後、五老山に隠れて三十余年は山を下らず。終身独身で専ら自己の出離の大事に心懸けひたすら念仏された。その傍ら格知学舎を設けて道俗の訓育に尽くされた。当時、禅宗真言その他諸宗派の人々が、その感化を受けて真宗に帰したことは実数知れぬ位であったが、跡を眩まし名をつつまれ、師はあまり世間には知られてない。今その法語の二三を抄出する。・○顛倒の妄見に狂わされ、見当違いに涎を流し、煩悩を見方に思う心にては、いかに仏法を聴聞したりとて聞こえよう道理はなきことなり。彼の二河白道の御喩えは見当が順になりたる相なり。見当が順になってみれば、目に見るほどのものは皆恐ろしきものばかりにて娑婆に執着すべき筈もなく、煩悩を味方に思う道理なし。二尊遣喚の勅命がただ嬉しいばかりなり。それに見当が逆になって居るままにて、安心の信心のと沙汰しても、オウムの口真似にて一大事の後生も、そのままながらの御助けも心の底より、尊くいただける道理なし。・○羊頭をかけて狗肉を売るということがある、これは立派な看板を掛けて、粗末なるものを売り出すことをいう。今日浄土真宗の僧分と同行も、念仏成仏是真宗と云う立派な看板かけたる念仏門にありながら、多くはろくろく念仏も申さず後生も願わず。ただ信心安心の理屈ばかり云い立てて、こうじゃ、ああじゃと信心を拵える事にのみ首はめている。是では既に真宗の人ではない、折角御流汲みたる印には、たとい有り難かろうが、有り難たかるまいが、なんでもかでも念仏に懈怠なきようにして聞法に力をつくすべきじゃ。・○仏法聴聞ばかりは何ほど聞いても、これまでと云うことはない、聞けば聞くほど聞かねばならぬようになる。是広大の仏法なるが故じゃ。然るに少しばかりわかるようになると、早や心得顔になる。この心得顔になるものほど仕様のなきものはない。よって御一代聞書には「一向に不信のよし申し候人はよく候」と仰せられた。これ不信はよいではなけれども、信ぜられぬ疑い晴れませぬと云うものなれば、よく聞く機にもなり。善知識の御聞かせもあり。また友同行の意見もあれば、聞き得らるることもあれども、口に安心の通り立派に述べて、紛れまわるものばかりはしかたがない。「疑いの出ぬを晴れたと気ずまして、口に立派にのぶるはかなさ」。・○宿善の厚い者はとかくすなおなもので、善知識の仰せのそのまま計らいなしに御慈悲に振り向くものじゃが、宿善の薄いものは、法にかたより機にかたより、とかく計らいのみで理屈ばかり云うている。又宿善薄いものは、喩えて云うと、夏まけした猫が日なたぼこりするように、好んで雑縁に近づき我と後生の障りを招くようなが多い。・○独り按摩は無用である。手の先や足の先位なら独り手でも揉まれるけれど、肩や背中などは手が届かぬから揉むことは出来ぬ。人にしてもらえば何も訳はない。今もその通りで我が身のことは自分には一向にわからぬものじゃから、我分別は差し置いて人に意見してもらわねばならぬ。・○異安心に付いて信心安心の争いがあるべき道理はない。例えて云うと、水の冷たいのと火の熱いのとに論のないようなわけじゃ。ところが彼方にも此方にも争いのあるのは、凡夫妄情の上に思い浮かべる道理理屈をもって拵えたてる安心じゃから、種々の違い目が出来て争うのじゃ。如何ほど争うてみても水掛論で果てしはない。これみな後生大事の思いもなく、仏法を尊く思う心もなく、ただ世間の我慢名利の心で仏法を取り扱うからである。「名聞と利養が胸をふさぎては、聞けども聞こえぬみのりなりけり」「真実の仏法しらぬしるしには、名利勝他のなぐさみにする」とかく愚者は愚者ほど我は智者と思い、悪人は悪人ほど我は善人じゃと口には云わぬが臍の下に堅めて置く。その証拠は同行知識にうち明かして示談することは大嫌いである。然るに実の智者善人ほど我は愚痴じゃ。我は悪人じゃと思い、智慧が進み善が盛んになるほどこの思いが益々盛んになるものじゃ、菩薩初発心より勝解と慚愧との心が、等覚無間道の位まで強く相続し給うとある。その勝解とは仏法をむずと信ずる心、慚愧とは愚痴と悪とを深く恥じ入るを云うのである。 真宗は王法仏法真諦俗諦互いに相離れぬ御教えで在すから、例えてみると真諦門は金銭のようで、俗諦門は財布のようである。財布が破れると金銭はみな落ちてしまう。それじゃから金銭が大事なるにつけても財布も大事にせねばならぬ。今もそれで御法義相続肝要なるにつけても、王法仁義を大切に守らねばならぬ。王法仁義が破れては御法義相続がみな廃れてしまう。よって友同行の意見を乞い、王法仁義をかたく守るようにせねばならぬ。・
2025.10.04
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法友の一人が、山も山さんこと宮田秀成先生の許可をいただいた上で始められた、《【非公式】安心問答 YouTubeチャンネル》の動画をば、以前はお送りしてたのですが…・新たに宮田先生の最新の御法話動画をアップロードされてたチャンネル《にしのみや聞法会》をば最近、見つけまして!拙ブログ《ソクタッヘ王国物語》でも、今月の宮田先生の御法話動画を共有させていただきました。…つっても、なんでか2025年6月のがナッシングで、今回から《あまがさき聞法会》になるそーだがな!?…てなワケで、《にしのみや聞法会》改め《あまがさき(仮)聞法会》のHPにリンク貼っときます!!・以前までの宮田先生の動画をアップロードされてました(なんか手違いで全部消えちまってたがな!?)チャンネルでは、主に紅楳英顕和上様先生(浄土真宗本願寺派・司教輔教)の御法話をアップロードされております。)・【あまがさき聞法会】2025年 9月27日 宮田秀成師・山も山さんこと宮田秀成先生は、ブログ《安心問答ー浄土真宗の信心についてー》や《親鸞会を脱会した人(脱会したい人)へ》、そして光顔寺(浄土真宗本願寺派)のスタッフとして仏教ブログも書かれております。加えまして、Peingでも《匿名で質問できるコーナー》もやっておられます。・…あ、そーそー!宮田秀成さんといったら!YouTubeチャンネル《ネットラジオ版安心問答podcast》も、ヨロシク!!・
2025.10.03
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拙YouTubeチャンネルは、コチラ!・拙Facebookは、コチラ!・拙Twitter改めXなら、コチラ!・・本日の舞台は…大変寺!(菊丸(右から2体目)のモノローグ)得度の合宿での同期達と、昔バナシに花を咲かせ中なう…こんなコトだそーです!「あーとかでもナッシング!こーとかでもナッシング!」・菊丸の同期B「ミジンコゆーたら…大体こんな感じの、愛くるしい感じ…て思いますやろ?正面からやと、御覧の有様だよ!成長と共に、二つの目が癒合して一つ目に…」菊丸の同期C「💢ちょめっ!!鮎川(=菊丸)の前で、そんなコトよく言えるわね!?💧」菊丸「…お構いナッシング!おかげさまで、今から4年くらい前…上人様が御病気になられていたコロの出来事を思い出せましたので…こんなコトだそーです!」↓↓↓4年くらい前の御本山。菊丸の同期A(右)「…で?上人様の御様子は、どーだった、ダイバダッタ…?💧」菊丸の同期C「ソレが…どんなにお薬を御勸め申し上げても、一向にお飲みなさらナッシング…💧」菊丸の同期B「アカンがな…俺が申し上げても、ちっともお飲みなさらナッシングや…鹿島はん(中)…今度は、アンタの番やで?💧」菊丸「僕に良い考えが…こんなコトだそーです!鹿島さんは、お薬をば、せんだみつお…もとい、煎じておいて下さい…こんなコトだそーです!」鹿島さん「OK牧場!」・・・上人様「股…もとい!又、薬かいな…💧今は、そんな気分ではナッシング…!!💧」菊丸「上人様!気分で、不況…もとい!布教ができませうか!?蓮如上人は、 『仏法のためなら、どんな苦労も、苦労とは思わナッシング!』みたく仰せになりました。 蓮如様は、どんなコトでも心をこめてなさったそーにございます!」上人様「…💧」菊丸「蓮如様、ひいては御開山様(=親鸞聖人)に、恥ずかしいとは思わナッシング!?…こんなコトだそーにございます!!」上人様「💢その方(=菊丸)!今のコトバ、聞き捨てならナッシング!!」菊丸「!!」上人様「💢※やるまいぞ!!やるまいぞ!!💢」※やるまいぞ!!=古語で『逃がすものか!!』・・・上人様「…そーだった…ダイバダッタ…💧病気中なうなコト、コロっと忘れておった…💧早う薬をば、もち吉…もとい、持ち来たれ…💧」・・・そして、現在。鹿島さん「あの後、上人様は、お薬を何杯もお飲みになられて…!」菊丸の同期A「ソレから上人様は、我々を集めなさって、『その方ら、手間を掛けさせて済まなんだ、アーナンダ!』とまで…!」菊丸の同期B「さすが上人様、気骨溢れる御方やで!ソレに引き換え、15億年前の地球は、時の本願…」菊丸の同期C「💢ちょめっ!!💧」菊丸「あのおハナシには、続きがありまして…こんなコトだそーです!」↓↓↓再び、4年くらい前の御本山。輔教様(醍讃寺住職)「ハナシは聞いておりますぞ?鮎川(=菊丸)めが、一度ならずも二度までも、上人様に不遜をはらたいら…もとい、働いたそーで?そもそも論ですが…鮎川(=菊丸)の《人間ミジンコ》は、《得度式》での一件から、ずっとずっと気に食わナッシングでした!!」(千と400話:後生の覚悟)桐生勉(応閼伽寺住職)「しかも、↓ざーとらしく《義眼》外してまで!↓…ソレにしても、《人間ミジンコ》とは…《至言》でんなwww」(千と400話:後生の覚悟)上人様「💢黙れ!ミイラに、ネコバカ!!」輔教「…ミイラ…💧」桐生「…ネコバカ…💧」上人様「その《人間ミジンコとやら(=菊丸)》はじめ、この者達は皆、私に薬を飲ませよーと《尽力》致したとゆーに!?💢その方らは、見舞いにも来ナッシングと!よーそんなコト申せたモノぞ!?てなワケで…!僧籍剥奪されナッシングなダケ、有り難いと知れ!!」輔教&桐生「知れナッシング~💦」↑↑↑菊丸「…こんなコトだそーですwww」「wwwww」…てな感じに…投稿文字数13000字切ったのでした!・・参考文献①《秀存語録》より《二六 大石内蔵之介》徳水云く、大石内藏之介は、もと備前(びぜん)候の家中にて、幼少の時、殿(との)の御側(おそば)近く仕へ居たり。或時、殿大病あり、如何に薬を御勸(すす)め申せども召(めし)あがり給はず、人々皆な困(こま)りはてたり。内藏之介云く、我之を奉らんと、即ち薬を煎(せん)じ置きて、自から殿の御前に出で、口を極めて様々(さまざま)の悪口申しけり。殿、大に怒(いか)り給ひ手うちにせんとて、殿中、病氣ながら追ひかけ給ふ。何分御病中の事なれば、殊に御疲勞(ひろう)ありて早く湯(ゆ)を持ち来れとの給ふ。その時、他の侍童、右の薬を持ち参りたれば、ひきつづき、二三杯も召しあがりたり。後に、その才のすぐれ、且つ忠心の程を賞せられたりと。・参考文献②《蓮如上人御一代記聞書》より(127)一 前々住上人 (蓮如) 仰おられ候ふ。 仏法のためと思し召し候へば、 なにたる御辛労をも御辛労とは思し召されぬよし仰せられ候ふ。 御心まめにて、 なにごとも御沙汰候ふよしなり。(現代語訳)蓮如上人は、 「仏法のためと思えば、 どんな苦労も苦労とは思わない」 と仰せになりました。 上人はどんなことでも心をこめてなさったことです。・・
2025.10.02
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拙YouTubeチャンネルは、コチラ!・拙Facebookは、コチラ!・拙Twitter改めXなら、コチラ!・・…アツキ(左端)「今日から10月なんだケド…まだまだ残暑が厳しいざんしょ…💧」管理人ぶうぶのまあち(左から2体目)「そーなんですよ、川崎さん…じゃナシに、アツキ!更に、行きつけのミニストップが、今日から《人手不足解消まで》朝9時から夜10時までの『ミニストップ改め《ナインテン》にせー!!』な営業体制に…💦」ポールラビット「まー、日本のコンビニ(エンスストア)は当初《朝7時から夜11時まで》…だから、《セブンイレブン》…ソレがイツしか、どのコンビニも、どのコンビニも、24時間営業が当たり前田(日明)のキャプチュードになってて…ソレの方が、なんかおかしかったダケカモ?」アツキ「ちなみにセブンイレブンの発祥は、アメリカとゆー…ためんなったでせう?」ジャスミンバニー「…ケド、なんかおかしくナッシング?人手不足とゆーのに、何だって職に中々ありつけナッシング???💧」管理人「…そのコトなんですが…💧」・アツキ「…そろそろ、本編に入りませう…💧」むにゅ~!!(腹肉攻撃)管理人「ぅぁはははははwww」↓↓↓小太郎(右)「うぱ!姉ちゃん(=花子:左)、映画、主演、ハナシ、聞いてる!」花子「そーなのよ。何でも、ソクタッヘサンザンパレスが…映画制作専用超AI《シンソクキネマ》でツクった《原案》を元に…下請の映画監督にツクらせたとゆー。」四郎「《シンソクキネマ》でツクった《原案》を元に…て言ったら…俺の主演映画《マッスル(!?)野獣》も、そーだった、ダイバダッタ!」↓↓↓「あちゃ~~~っっ!!」「おちゃ~~~っっ!!」「ほぁ~~~っっ!!」(千と509話:さらにシンソクキネマ)・・・蘭丸「僕が主演女(!?)優を務めた《青パンマンレディー(!?)》も、サンザンパレスで上映されたっけな…!」(千と529話:最後の(!?)シンソクキネマ)↓↓↓蘭丸(中央)「…僕を、誰だと思ってんのさ!?はぁぁぁぁぁ…ぁぁぁぁぁ…!!」黒服「なんか腰回りが、青く光ってるぞ!?💧」蘭丸「はぁっ!!青パンマンレディー(!?)だ!!行くぜ~!!」(千と529話:最後の(!?)シンソクキネマ)(千と533話:ソク高祭に御用心2025)↑↑↑蘭丸「…つっても、《青パンマンレディー(!?)》は、(王立)ソク(タッヘ)高(等学校)映画部制作で…サンザンパレス制作の《天国から来た物体X》が不評だった、ダイバダッタから…急遽《青パンマンレディー(!?)》に差し替えての、《まさかの先行上映》なんだケドね?」(千と529話:最後の(!?)シンソクキネマ)花子「私の主演映画も、本日から封切りですて…ホラ!アレよ?」小太郎「…うぱ?《博士の異常な人生!》…?うぱ…(花子)姉ちゃん、ドコ、出てる?💧」花子「…違う、違う!💧《少林ウーマン》の方!!」小太郎「うぱ~💖」ケン「《シンソクキネマ~合体映画上映祭~》をば、そのまま使ってるカンケー上、《ポスター詐欺》な流れになってくのは、まー仕方ナッシング!モンダイは…実際の映画が、《ボボ・コング大暴れ》状態になっちゃうコトだなwww」花子「💢うっせ~!!」ケン「う~ぱ~💦」てな感じに…投稿文字数11000字切ったのでした!・・・
2025.10.01
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