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三重県の高校野球春季大会で、とあるチームが甲子園経験もある強豪チームに「0対91」という記録的なスコアで大敗したことが、ちょっとした話題になっている。ちなみに規定による「5回コールド」で、後攻である相手チームの攻撃は4イニングしかない。記事には詳しく書かれていないので、最後まで(4イニング)投げ抜いた投手が何人の打者にどれだけの球数を投げたのかは分からない。しかし「62安打17失策」とあるので、これだけで少なくとも打者79人。アウトが12個あるし、それと四死球もそれなりにあるだろうから、打者はのべ100人を超えている可能性は高い。おそらく球数も300球は超えることだろう。記事を見ると、どんなに点差が開こうとも決して諦めなかった選手の情熱、そしてそれを見守り、試合を通して選手に何かを学ばせようとする監督の思い、また一切手を抜かなかった相手チームへの賛辞などがつづられており、コメント欄にも、読んで感動したといったものが多く寄せられている。この高校がかつて、不登校児を積極的に受け入れていた学校だという事実も、読む者の心により強く迫ってきた要因になったことだろう。この監督の行動が適切だったかどうか、部外者の私には口を挟む資格は無い。ただこの記事に関して礼賛しか聞こえてこないのが、なんだかちょっと気持ち悪い。なぜならこれが、あまりにも常軌を逸した投球だからだ。ある程度賛否が分かれると思いきや、それがそうでもないのだ。一見良い話なのだが、いろんな見方がなされて然るべきだと思う。
2017年03月30日
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2017年WBC、日本代表チームは1次・2次ラウンドを無敗のまま勝ち進み、準決勝の舞台であるアメリカ本土に乗り込んだ。準決勝の相手は地元アメリカ。善戦はしたものの、1-2の僅差で惜敗した。とても締まった良いゲームだったと思うが、テレビで観戦していた私には、ゲームの本質とは離れた部分で違和感を感じることがあった。まずひとつは、バックネット裏に陣取っていた日本人の応援団。彼らが頭に巻いていたハチマキに日の丸があしらわれていたことだ。その日の丸の両側には、「日」、「本」の2文字。これじゃまるで「カミカゼ特攻隊」だ。もちろん彼らはそんなことまったく意識せずにやってるのだろう。しかしこの光景をテレビで観たアメリカ人の何人かは、いい気はしなかっただろう。かの大戦について、この場で掘り下げて語ることは避けたいが、少なくともデリケートな問題だけに、彼らのあの行為には、違和感を禁じ得なかった。そしてもうひとつは、日本人特有のあの「鳴り物応援」だ。東京ラウンドはまあ仕方ない(本音を言えばあそこでもやめてほしい)としても、アメリカ・ドジャースタジアムで、日本にいる時と全く同じ応援が流れてきたときは、さすがにわが耳を疑った。私は個人的にはあのスタイルの応援は嫌いだ。まあ百歩譲ってあれを認めるとしても、アメリカの観戦スタイルには合わないと思う。アメリカ人の応援はとてもメリハリが利いていて、ツボを心得ている。他方日本人の応援は一本調子で、傍から見ると単に騒いでいるだけとしか見えない。アメリカ人の応援がメリハリが利いているのは、常にボールの行方を注視していることと無関係ではないだろう。とにかくあちらの球場はフェンスが低く、しょっちゅう打球が飛び込んでくるから、ボールをよく見ていないと身の安全にも関わる。そんなところで日本流の応援などやられたら、はた迷惑もいいとこだろう。アメリカ人の観客からクレームなど無かったのだろうか?
2017年03月23日
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前回のエントリだが、実は非常に不可解なのだ。一応下書きとして残してはあったテキストだが、アップした記憶が無いのだ。日時指定をしてアップができる機能もあるようだが、あいにく私は使ったことが無い。ひょっとしたら酔っぱらってアップしてそのことを覚えていない、ということも考えたが、履歴を確認したところ、アップされた時間に楽天ブログにはアクセスしていない。一体どういうわけなんだろう....謎だ。
2017年03月08日
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言いそびれていたが、今年の私のテーマは「寛容」である。ちなみに「今年のテーマ」とは、その時のノリで決めているものなので、そこらへんはあまり突っ込まないで頂きたい(笑)。とにかく昨年までの私は、決定的に「寛容さ」に欠けていた。自分でもそれなりに気付いてはいたが、身近な人に指摘されたこともある。でも50代も半ばに差し掛かろうという時、そんなことじゃイカンだろうという気も起ってきた。折しも今年の初めにたまたま目にした新聞のコラムに、こんなのを見つけた。「お前は常に自分が正しいと思っているだろう。しかし正しいことを言う時は人を傷つけるということを知っておけ」これは実は、あの竹下登氏が、石破茂氏に投げ掛けた言葉だそうだ。これを目にして、私はハッとした。自分が正しいと信じることは「正義」である。そしてその「正義」に異を唱える者には、正面切って挑まなければいけない。ここで負けては自分の「正義」がすたる、そんな思いで、ずっといた。人の数だけ正義がある、ということは理解してはいたが、では自分の「正義」に抗うものはどうなってもいいのか。今まではそんなことも考えはしなかった。しかし自分の「正義」を押し通そうとした時、少なからずそこに傷つく者がいる。それに初めて気が付いた。そこに目を向けなければ、私は人間として失格だ、ということも。そしてそれは決して「妥協」ではない。そのあたりのさじ加減は、結構難しいのかもしれないが。
2017年03月02日
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