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Vol.29「副室長の茂木さん」 富士吉田教室に一年間ほど副室長がいた。正確にいうと、この人以外にも副室長というポジションの人は過去にもいたが、基本的にはどこかの教室長になるための研修的な目的(かつて東京で俺がそうだったように)で、短期間来る人はほかにもいた。 でも最初から室長になる気は全くなく、契約社員として入ってきた人はこの人ぐらいだった。今は結婚のため浜松の実家に戻ってしまったが、この茂木さんという女性が果たした功績はとても大きかった。 大学を卒業して、有名消費者金融に就職をして、職場の女性社員の上司による陰湿なイジメにより、精神的にまいってしまい、転職を決意したという人だった。 ホーレンソー(報告・連絡・相談)は完璧だったし、入会面談や保護者会以外の全ての業務をこなすことが出来るまでになっていたし、俺も例えばリーダー会議や新人講師研修などで、教室を空けないといけないときなどは、安心して任せることができた。 浜田・綿貫のツートップとも大の仲良しで、未だに付き合いがあるようだし、他の学生講師達からの信頼も絶大だった。特に富士吉田の講師達は何故か90%が女性講師で占められていたので、同性の茂木さんには、室長と講師の間をつなぐパイプ役でもあったし、女子生徒にとっても、茂木さんの存在価値は大きかった。 茂木さんのお別れ会の時に最後の挨拶で彼女が言った言葉が忘れられない。「私が以前いた会社では、勤務しているそのときもそうでしたが、でもそれ以上に仕事が終わって家にいるときや、休日の時など、実際に仕事している時以外の時間が常に恐怖と不安でいっぱいで、そしてその時こそが耐えがたい苦痛でした。私はここで働かせていただき、毎日毎日が本当に楽しく、次の日が来るのが待ち遠しいという感覚になることができました。私自身、ここで常に心がけていたことは、新しく入ってきた生徒や講師の方々に共通の「不安」をとにかく取り除いてあげたい、ということでした。」 こういう考えを根底にもつ人が、生徒や後輩の講師たちに信頼されないわけがない。苦杯を舐めた人間は違うなぁ、ともいえるが、逆に、この世の中には、同じような目に過去にあいながら、同じように今度は下の人間を陥れ、尊厳を傷つけるようなタイプだってすごいたくさんいるだろう。 この教室でも、もし茂木さんやツートップの二人がそのようなタイプだったりした場合、間違いなく講師陣は崩壊していたと思う。 結局はやっぱりその人の「ひととなり」ってことになってしまうのかなぁ。 願わくばこの世の会社にいる、人の上に立つ全ての人が茂木さんのような考えでいてくれたなら、会社、ひいては世の中の平和につながるのになぁ、と本気で思う。(つづく)
July 31, 2006
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Vol.28「講師混同」 主任講師というのがいて、これはいわゆる講師の選手会長というかチームリーダー、キャプテンである。前回述べたツートップのいずれでもなく、俺は大学生の男性講師をこの主任講師に任命していた。 ツートップの仕事ぶりを見て、大学生講師たちが、自分とはレベルや次元が違いすぎる、みたいなマイナス発想になられるのは危険だと思ったし、とにかく主任は彼にいろいろと任せてみようと思った。 講師会議でいろいろと発表してもらったり、後輩へのアドバイスや指導等、積極的に取り組んでもらえたと思う。 なんとかして目立っている講師たち以外にも、とにかく全員、一人一人のキャラを立たせたい、と思っていて、そこで考えたのが、「公私混同」ならぬ「講師混同」というコーナーの設置である。 俺がランダムに毎月一人ずつ講師を指名、クローズアップして、その講師は自分の趣味でも何でもいいから(でもあまり真面目にならないようにという指示は出していたが)発信し、教室内に掲示する、ということをやった。 一応俺が、その回の先生のコメントを書いて紹介するという形をとった。例えば、すごくおとなしい、真面目でおっとり型の女性講師には「この教室の癒し系!○○先生」みたいな感じで。その先生は自分の田舎の青森弁を解説したり、おすすめの小説を紹介してて、それを実際に生徒も読んだり。 他にも、普段は厳しく、生徒からは怖いと思われてる先生が、大の犬好きで、飼い犬の写真をやたらと貼りまくってたり、とにかく一人一人のキャラを生かしたコーナーを作ることにより、生徒のほうも、例えば初めて当たった先生でも、「先生プロレス好きなんでしょ?」とか「私もあの漫画好き!」とか、授業への導入がスムーズにいくようにもなった。 さらにこれは生徒のため、というよりも講師同士や、俺にとってもメチャクチャ新鮮な情報源であったりもした。高梨先生という女性講師がいて、この先生に「講師混同コーナー」の順がまわったとき、高梨先生の作品は、全国(海外含む)のいろいろな所に旅をしながら撮った写真と、そのとなりには自作のポエムがあり、それが全て手作りの製本で冊子になってるというものであった。そのあまりの完成度の高さにとにかくビックリしてしまった。 この先生のこんな凄い一面を知らぬままでいなくて、本当によかったとつくづく思う。(つづく)
July 30, 2006
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Vol.27 「記憶に残る講師たち」 この前の生徒編もそうだが、講師編もまた話すと止まらなくなる。どこから話そう。大月、富士吉田の共通点としては、都留文科大学(以下文大)というのがキーワードになる。 逆に言えば、近隣にこれ以外の大学がない。講師のほとんどが、現役の文大生か文大の卒業生だった。この大学は全国に多数の教員を輩出してることでも有名だが、塾にとってもそれは大変ありがたかった。 これは俺の強い持論で、仕事というものは、自分のためにやってる人が最強だと確信してるわけだが、我が教室の講師達は、だいたいが教員志望である時点で、これはもう自分の将来のためにも、自分にメリットがあるためにやってるわけで、最強のモチベーションなのである。 さらにもう一つ、あまりに古臭い表現かもしれないが、仕事をする上でやはり最強なのが、「真面目」であることだと俺は思っているので、これら二点を兼ね備えている人は最強の労働力となる。 そしてこれらを満たしてる講師が我が教室の講師である。親バカならぬ室長バカと言われようが構わない。 俺の中で「ツートップ」と呼んでいた、浜田先生と綿貫先生という二人の講師がいる。二人とも女性講師で、大学は卒業してるフリーターだった。両者それぞれ違うタイプで、それぞれの持ち味があった。 浜田先生は、俺が富士吉田に入るどころか、この会社に入社する前から富士吉田教室をずっと支えてくれてるベテラン。ベテランとはいえ、バリバリシャキシャキしてるわけではなく、まったりと自分のペースとワールドを持ってる人だった。教育者っていうのはこういう人のことをいうんだなぁ、というくらい善良な人で、ここまでしっかり善良だと、「先生というものをまずは敵対しよう」、みたいなツッパリタイプや、無気力・無反応タイプの子供も、みんな浜田先生には聴く耳を持つ、というかこの先生のことを嫌いになる人間なんて、地球上にいないんじゃないかっていう、俺の中ではもう絶対的正義(笑)。ちなみに俺は悪の巣窟のような(笑)高校にいたが、その中で不良達が絶対歯向かわなかった教師というのは、いわゆる筋肉モリモリ系の体育教師もそうなんだが、もうひとつ、歳はかなりとってはいるが、恐ろしく善良かつ誠実な人、こういうタイプはさすがに子供だって、いや子供こそ、どんなに時代が変わろうが、しっかりと支持する。 浜田先生はまだ二十代で若いが、そういう域(!?)に入ってた気がする。 綿貫先生は、とにかく明るく楽しく、小さい身体でパワフル&アクティブ、講習で朝一番から夜最後までの7コマを全て高いテンションでやりぬくバイタリティーがあり、そして何より男女問わず生徒からは圧倒的な人気を誇っていた。 綿貫先生は、やはり俺よりも少しだけ先に富士吉田教室にいて、前室長の内藤さんから綿貫先生に関する「伝説」を俺は聞いていた。 どうにも手におえない「スーパー我がまま女子中学生」がいて、多くの講師が泣かされ(?)、お手上げ状態となってた生徒を、当時新人の綿貫先生が担当した時、その子は予想通りいつものように「ねぇ、あの先生クビにして!」とか平気で内藤さんに言ってきたことがあったらしく、その子が授業中、席を立ち、完全ボイコット状態になったその時、綿貫先生はどうしたか、とてもシンプルだが、その子から絶対に目をそむけず、何度でも注意し、席に連れ戻し、ひたすらそれを繰り返した。 この子は高校合格とともに塾をやめたが、今でも「綿貫ちゃんいる?」とか言いながら、綿貫先生に会うためだけで、たまに塾に来る。 この子がどれほどのトラブルメーカーだったか実際を知らない人には、これがどれほどすごいことなのか伝わりづらいと思うが、この話は俺の中でまさに「伝説」として、その後も、月に一度ある山梨中の新人講師を集める研修で、必ずこの伝説を話すようにしてきた。 「あなたがその子を好きになれば、その子もあなたを好きになる。あなたがその子を嫌いになれば、その子もあなたを嫌いになる」というくだりの時に、実例として、毎回この「伝説」を語らせてもらっていた。 これらツートップは、ベテランでありながら、他の講師たちよりも早く(授業開始時刻の一時間以上前)入室して、その日担当する生徒の小テストを作ったりして入念に授業準備をしていた。 率先垂範とはこのことで、たとえば新人講師たちは、俺が何もうるさく言う必要もなく、ましてやこの2名が高圧的に言うでもなく、そんなこの2名を尊敬し、見習っていた。俺自身この2名の先生を尊敬してた。(つづく)
July 29, 2006
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※この文章は、かつて富士吉田教室に通う生徒と保護者宛に配布してたコラム調のものです。特に思い入れの深かった号を抜粋して、どさくさに紛れてたまに挿入しますが、別にネタに詰まった、というわけではありません(笑)。「得意分野と信念」 アメリカミシガン州にある、とある小学校での出来事です。ある日、クラスで飼育していたネズミが逃げてしまい、生徒全員で学校中を探しまわるも、一向にそのネズミは見つけられないでいました。 そんな時そのクラスの担任の先生が言いました。「モーリス君に任せて見ましょう!」クラスのみんなが言いました。「それは無理だよ」「何言ってんの先生」「冗談でしょう?」 クラスのみんなが言うのももっともなのです。このモーリス君は生まれた時から全盲なので、ネズミの形すらわかってないのです。それなのに先生は敢えてモーリス君に託しました。先生は言いました。「モーリス君には、神様からもらった特別な耳があるから大丈夫!」 かくして、何と、モーリス君は先生の期待にこたえ、見事そのネズミを見つけてしまったのです! 以降、自分の聴覚が他人よりも発達していることを自覚し自信を持ったモーリス君は、音楽に目覚め、教会の聖歌隊で歌っているところをあるプロミュージシャンに見出されました。 このモーリス君のフルネームは「スティーヴランド・モーリス」13歳でレコードデビューを果たし、全米で大ヒット。彼のステージネームは「スティーヴィー・ワンダー」。 私も知っている位ですから、保護者の方をはじめ、生徒の中にもこのミュージシャンを知っている人も多いことでしょう。彼は今55歳ですから、40年以上に渡って全米の音楽シーンの第一線で活躍し続けています。つい最近もしっかりニューアルバムを出して、バリバリの現役です。 歌はもちろん、作詞も作曲もピアノもシンセサイザーもドラムもハーモニカも全部自分で録音しているアルバムを聴いていると、まさに天才としかいえないと思うのですが、先に述べたエピソードを踏まえると、それは単に「天才」で片付けられない深い意味があると思うのです。 モーリス君の周りにいる人達みんなが「あの子は目が見えないから・・・」という理由で、保護し、いろんなことをさせないでいることが親切心なのである、という考えだったなら・・・、ネズミ探しを彼に託したあの先生がいなかったら・・・、この50年に一度のスーパースターは世に出ていなかったのかもしれません。 子供たちを教育、指導する際に、悪い部分、弱い部分を直すという考えも勿論重要なことですが、同時に、良い部分、強い部分を伸ばす、という考えは本人の自信にもつながりますし、大人たちがこれらの子供たちの良い部分を見極め、伸ばしてあげることは不可欠なことだと思います。 また、子供の側も、自分の得意分野をとことん伸ばし、徹底的にそれで勝負する!という信念があれば多くの道が拓けることでしょう。 勉強にしても今ひとつ伸び悩んでいる生徒は、逆に得意科目をどんどんやることによって煮詰まった状態を打破出来たりもするものです。 今回この文章をここで終えるつもりはありません。もうひとつどうしても述べておきたいことがあります。先ほど「徹底的にそれで勝負する!という信念」と言いましたが、この「信念」が生半可なものだと、実は取り返しのつかない事態になる危険性もはらんでいます。あくまで慎重に、客観的に自己をとらえ、決意に至ってほしいと思います。 スティーヴィー・ワンダーの話に戻しますが、彼は全盲であるということは有名ですが、1973年に彼は交通事故に遭い、なんと味覚と嗅覚も失ってしまいました。ヘレンケラーじゃありませんが、いわゆる三重苦というものです。このレベルになるともはや想像を絶する苦難だと思うのですが、彼はその後もヒットを飛ばし、80年代には「心の愛」という曲で全米NO1もとっています。 揺るぎない信念と自信があればこその偉業だと思います。彼が作った「Superstition(迷信)」という曲で、彼は巷の不吉な迷信と呼ばれている行為を敢えて全てやってやろう!と歌いました。なんという反骨精神、プラス発想なのでしょう。 どん底に陥った時にも自分を見失わず、信念を持ち、努力を継続出来るかどうか、常に自問自答していくことが大切であると思います。 これらを踏まえた上で、得意分野はどんどん伸ばし、どんどん追求していってもらいたいと思います。
July 28, 2006
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Vol.25「記憶に残る生徒 その2」 生徒のことを述べるとやっぱり、止まらなくなる。いろんな出来事が毎日毎日起こるので、到底語り尽くせるものでもない。 生徒は基本的には、「やんちゃキャラ」が多かった。 拾ってきた子猫を塾に連れてきて、授業中、その猫が泣きわめいて騒然となったり、およそ想定外のことがいくつも起こった。 いつもは騒がしい、とある中三の女子生徒がテスト前に自習をしていたことがあって、その時は社会だったと思うが、いろいろ俺に質問をしてきて、俺もそれにこたえ、ここは絶対に出るから、とか言ってた時、「先生がお父さんだったら、すごいいい点とれるし、いいのになぁ」と言われたことがあり、その生徒が母子家庭である事実とかを鑑みるに、切なく、また愛しいと思った。 「古き良き悪ガキ」という言葉がこれほど似合う奴もいないっていう中三男子Rは、近隣の中学のいわゆる「番長格」。歳の離れた兄ちゃんは元暴走族のヘッドという漫画みたいな設定の奴。 Rは中2の時に入ってきて、テスト直前、ていうか前夜に突然勉強(いや明日のテスト)に目覚めたらしく、居残りで勉強してたことがあって、とりあえず俺は、今回の英語の範囲のひとつ「過去進行形」ただ一つに的を絞り、I was reading a book then.(その時私は本を読んでいるところでした)っていう文を暗記させ、主語がYouになった時だけwereになる(複数主語のケースとか一切シカト)っていうことだけ教え、「テスト問題が配られたら、わき目もふらず、まず問題も見る前に何よりも最初にI was reading a book then.っていうのを、隅っこに書くことから始めろ」って言って翌日を迎えた。 Rの前回のテストは9点(もちろん100点満点中)だったが、この時のRは63点とり、さすがに俺もビックリしたし、本人から親から不良仲間から、みんなでビックリな結果だった。この学校のテスト問題の作り方(「過去進行形」の嵐)もどうかと思うが(笑)。 Rのいじらしいところは、「俺が残ってたから塾長(Rは俺を塾長と呼んでた)は帰りが遅くなった、」と思ってか、トイレの電気の電源を切ってくれたり(一箇所だけコンセント抜けば全部消えるところがあるのに、幾つかの部分照明のコンセントをそれぞれ全部抜くもんだから後々めんどくさくてしょうがないんだが、笑)、それとな~く感謝の意を表してたりするところだった。 以降、Rの口コミ(!?)により仲間達も何人か入会してきたのはいいが、あまりの存在感のため、1,2年の後輩達は恐れをなし、この塾に入ってこなくなったりもした。 一度、中1の生徒がお母さんと共に塾の説明を聴きに来てる時、突然Rが面談席に入ってきて、その一年生に握手をしてきたことがあってビックリした。たぶん一番ビックリしたのは、俺じゃなくその子のお母さんだったろう(笑)。 Rとしては悪気はなく、「我が塾にようこそ」みたいな気持ちを込めての行為だったんだろうけど、それが原因だったかは別として、その中1生徒は入会することはなかった。その面談のあと、俺はRに「いいんだよオマエは入ってこなくて!」って怒りながら少し笑いそうになった。 どうにも憎めないタイプではあるが、俺は一度、Rが後輩のしかも他中学の生徒に「100円くんねぇ?」って言ってたのを耳にした時に「あんまダセエことしてんじゃねぇぞテメエ!」と、もはや教育者とは微塵も思えぬ表現方法(?!)により罵倒したことがあって、さすがにその時はRも一日沈んでいた。 俺が富士吉田を去り、横浜教室に行く(ということに生徒には言ってある)っていうことを聞いたRは、「ふざけんなよ!」といい、「俺も横浜行く」とか言ってくれたうちはよかったんだが、富士吉田の新しい室長の名前が既に書いてあるカードを放り投げたりし始めたので、俺はRに「たぶん、俺がこれから行く横浜教室にもオマエのような奴がいて、俺はそいつから物凄く冷たくされることになるんだよ。」と言うと、Rは少し沈黙し、俺に言ってきた。「そういう奴いたらさ、そいつに俺の話して。俺もそうだったけど、そんなマネはやめたぜ、って。」 おいおい、カッコよすぎだって。ジーンとして、切なくて、愛しかった。(つづく)
July 26, 2006
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Vol.24「記憶に残る生徒たち」 大月、富士吉田の両方をあわせると、自分が直接面談をして入会した生徒は200人位だが、富士吉田には俺よりも先に既に在塾生だった生徒もいたので、更に100人弱が加わり、 地味なところでは、東京でもH町と池尻大橋でそれぞれ一人ずつ面談して入れてたり、極めつけは、韮崎教室で室長不在期間があり、それでいて入会面談のアポが入ってるという状況があって、その時、緊急事態ということで俺が面談したこともあった。高2の女子で韮崎高校だったのだが、「ニラ高の場合ですと、部活に専念する生徒と勉強に力を入れる生徒の差が激しくてですね・・・」とか、「ニラ高」って略すことも含め(笑)直前に仕入れた情報を全ての頼りに、面談をした。その子は当然俺がそこの教室長だと信じ込んでおり、可愛そうなことをしたと思っているが、今でも韮崎教室でしっかり通って頑張ってるとのことで何よりである。 さて、よく「活発な子供や、悪いことして目立ってた子供のほうが可愛い」などと言う先生たちがいるが、そういう考えは絶対にしたくなかったし、またそういう気もない。 しかし、記憶に残る、という点では確かに客観的に「目立つ」生徒がやはり多くなるのは否めない。 俺が富士吉田に異動してきたときの教室状況としては、男子は古き良き悪ガキ、っていう感じでよかったが、女子が厄介だった。あからさまに対立してる生徒がお互いのグループを作ってグチグチ言ってたり、他の中学校同士で険悪にもなってみたり、女子の扱いというのは本当に難しかった。 そんな中の一人で、授業中にいつも騒ぎ、最も他人からのクレームも多かった生徒のお父さんが、逆に大クレームをつけてきたことがあった。学校の先生から成績不振のことを言われ、お父さん自ら塾に乗り込んできた。「高い金出してんのに、全く成績が上がんないのはどういうことなの?おたくはプロなんでしょ?どんなにやる気のない子も結果を出すのが仕事でしょ!」と、怒号がまだ授業中の生徒や講師のところまで、響き渡った。 他に、「内藤先生の場合は欠席したときにはすぐに電話をくれて、とにかくまず来い、って言ってくれて、グイグイ引っ張ってくれたんですけどねぇ」と言うお母さんがいて、内藤さんに電話で相談したら、「俺もいっつも文句ばっかり言われてたよ」と教えてもらったことがあり、クレーマーというのはどこにでも存在するもんなんだなぁというのがつくづくわかった。 あまり喋らない、静かではあるが、思い出深い生徒ももちろんいる。 入会面談の時に、メッチャクチャ不機嫌で、どう考えても親に無理矢理連れてこられた、っていう子がいて、何をどう訊いても完璧無反応な生徒がいた。中2の女子だったこの子は、お父さんに連れられて来て、その子に対して発した俺の質問には全てお父さんが応える、といったやりとりが続き、俺は、「お父様、この子と二人だけで話をしたいので、大変申し訳ありませんが、少し席を外していただけませんでしょうか」といい、お父さんには前代未聞の(!?)退席をしてもらった。そして、その子と二人だけになり、「いい?今から少し直接話をしたいんだけど、予め言っておくと今日は塾に入る必要はないし、この後俺のほうからお父さんには言っておくから。それは約束するから安心して。」と先に言ってから、話を進めていくうちに、その子もある程度口は開くようになってきた。将来はマンガ家になりたい、という話から、どういう漫画が好きなの?という問いに、「言ってもわかんないから」と言われ、「一応言ってみてよ」と訊いてこたえてくれたその漫画はやっぱりわからず(笑)、「ゴメン、少女漫画はやっぱりわかんないや」と言い、いろいろと二人共通の知ってる漫画をと思い、知ってそうなものを羅列していったら、「スラムダンク」は好きだったということになった。そこからはひたすらスラムダンク話。そして、「スラムダンクの最終回覚えてる?山王工業戦で、ほとんどセリフがなく、白熱した試合の様子を絵だけで表現してて、花道が勝負を決めるシュートをする時、(「左手は添えるだけ」)っていうたった一言だけ、っていうあの最終回は、漫画家たちの間でもすごい評判がよくて有名なんだよ。俺もそれがすごい新鮮だったし、そもそも当時はバスケは全く流行ってない中でバスケを題材にしてあれだけおもしろい作品にするっていうのは、バスケに詳しいだけじゃダメで、いろんな発想、手法や他の知識をたくさん身に付けたんだと思うよ。あの作者、今はバガボンドっていうバスケとはこれっぽっちも関係ない宮元武蔵の話を書いて、大ヒットしてるわけで、やっぱりいろんなものへのアンテナの張り方が半端じゃないんだよ。勉強は全然全てじゃないけど、いろんな知識を入れるのは大事なことだと思うよ。それと勉強も大事だけど、本気でマンガ家になりたいんなら漫画に対しては遊びじゃないからね。いろんな漫画を読んで、今から真剣に描いていくべきだから、その時間もしっかり確保するんだよ。」 というようなことを、一気に言ってると、その子の目も明らかに変わって、笑顔も生まれた。「それじゃお父さん呼んでくるからね」と言い、「お父様、今二人でいろいろ話をして、本人も全くやる気がないわけじゃないのもわかってきました。でも、こういうのは本人が自らの意志でスタートしないと続かないと思いますし、今の時点ではまだタイミングではないと思いますので、今日のところはいったん帰って、じっくり考えたほうがいいと思いますので、今日のところはこれで。」と言い、俺のほうから席を立ったときはさすがにお父さんも唖然としてた(笑)。 それから数日後、再びその親子が教室に来て、正式に入会することになった。「大丈夫?頑張れる?」と俺。「もう腹はくくったんで。」と彼女。「別にそんなたいそうなもんじゃなくて、明るく楽しくのびのびのんびりやりゃいいんだよ」と言った。 この子のその後を見届けずに、塾をあとにしたのは心苦しいが、行く末は本当に気になる。塾に入ってからは、やはりおとなしいキャラ(全然不機嫌じゃないけど)ではあったが、この子のこともやっぱり一生忘れないんだろうな。(つづく)
July 24, 2006
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Vol.23 コラム~やらない理由を探さないで!~※この文章は、かつて富士吉田教室に通う生徒と保護者宛に配布してたコラム調のものです。特に思い入れの深かった号を抜粋して、どさくさに紛れてたまに挿入しますが、別にネタに詰まった、というわけではありません(笑)。「やらない理由を探さないで!」 今シーズンのプロ野球セリーグの覇者は阪神タイガースでした。この阪神の不動の4番バッターとして君臨する通称「アニキ」こと金本知憲という選手がいます。金本選手は今年、40本塁打を記録するなどの大活躍で優勝に大変貢献しました。 これだけでも十分凄い選手なのですが、私がとにかく凄いことだなと思うのは、この選手現在「連続試合出場の記録を更新中」ということです。つまり、かなりの長期間、何年間にもわたって「一度も試合を休んでいない」ということです。 身体を酷使するスポーツ選手ですから、もちろん怪我や故障はあります。この金本選手も例外ではなく、頭にデッドボールを受けたり、満身創痍の状態で出場しているところを私も見てきました。特にびっくりしたのは左腕を怪我しているとき、ほとんど右腕一本だけでヒットを打ったシーンがあり、この時私は思わず、こういうとなんだか変ですが、カッコよすぎて笑ってしまいました。 怪我をしている時に、伊達にただ試合に出てるというだけでなく、ちゃんと結果も出しているところが本当にプロだなぁと感心します。 以前、何かのインタビューで金本選手は、「例えば何かの怪我をして、それが今までで一番重い怪我だった場合、それでもなお試合に出たならば、その後になって、あの時あんな状態で出られたわけだから、今出来ないわけがないと思えるし、そうすることによって自分へのハードルをより高くしている」と答えていました。 生徒のみんなは、例えば宿題を忘れた時とか、勉強をしなかった時に、「部活の試合だったから」とか「合唱祭の練習で・・・」とかいろいろと言葉を添えてきます。でもここはひとつ金本流でいきませんか?「部活の大会前日にしっかり勉強した」、「合唱祭で優勝したその日の夜でも2時間は勉強した」、「熱があったけど布団の中で歴史の年号を覚えた」など、いわゆる普通の日とはいえない何らかのハンディーがある日にこそ逆に気合を入れて必ず勉強してみるのです。 そうすれば、その後なんということもなく、ごく日常でたわいもない理由で勉強しないということはなくなるのではないでしょうか。 もう一人、かつて広島カープに「鉄人」と呼ばれる衣笠という選手がいました。この選手もやはり連続試合出場記録を持っており、未だその記録は破られていません。(※ちなみに衣笠選手は「連続試合出場記録(代打なども含む)」であり、金本選手は「連続試合フルイニング出場記録」ということです) この「鉄人」の言葉も印象的でした。「体調が悪いからとか、身体のここが痛いからとか、そういうことをいいわけにしたところで、絶対に物事は好転しないことはわかっているから、そういう弱音、いいわけは絶対に口にしないようにしてきた。」 新聞の記事に載ってたインタビューのこの彼のセリフを私は今でも覚えています。 試験当日に仮に熱があったり、何らかの不可抗力があり、それをいいわけにしたとしても、確かに身内や友人からは同情もされるでしょうし、自分も少しは気持ちがラクになるかもしれません。しかし、それによって(「努力賞」かなにかがあって)合否が覆ったりすることがないのであれば、やはりそれは言ってもしょうがないただの「いいわけ」になってしまうのです。 誰かに言いたい「いいわけ」もグッと堪えて強い気持ちで立ち向かうほうが、おそらく良い結果にもつながるのだと思います。 受験も迫ってきている現在、勉強しなければならないことはみんなよくわかっていることと思いますが、「わかっちゃいるんだけど、でも今日は○○があるから・・・」とかいろんな「やらない理由」を自分に言いながら日々を過ごしている人がいます。 どうか「やらない理由」をいちいち探さないでください。 誰のためでもない「自分のため」に強い気持ちをもって受験までの残された日々を過ごしてほしいと思います。
July 23, 2006
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Vol.22 「未納金の回収」 他の世界でもそうだが、「料金未納」、ここでは「授業料が未払い」になる家庭というのはもちろんいる。未納連絡というものも室長の仕事であり、これは俺だけじゃなく、おそらく全ての室長たちが一様に憂鬱になってた業務だと思う。 一度、統括下にある大月教室で3ヶ月未納の家があって、エリアマネージャーということで大月の室長と一緒に、そこの家まで実際に行ったこともあった。日頃の室長業務の流れに対して、唯一、「逆流した行為」というか、これは室長以外の第三者が事務的に連絡を入れたほうが絶対に良い結果に結びつくのに、と今でも思う。 俺の場合、「先ほどですね、経理のほうから○月分の授業料の引き落としが確認出来なかったとの連絡を受けてしまったんですが・・・」といった口調で、仕方なく第三者であるかのように(笑)、連絡をしていた。 さて、このとっても憂鬱な行為であるが、会社側としては大変重要な問題である。社長、専務共々かなり口うるさく言ってたのも頷ける。とりわけFCの場合、本部へのロイヤリティーに未納分は考えられていないわけだから、財務上、摩訶不思議なマイナスが生まれる。 未納連絡をする行為は、確かに嫌なものだが、その必要性、重要性は俺もすごく感じている。 松下幸之助が述べたことで、この未納に関することに触れている文章があって、会社存続のための未納回収の意義について、これ以上の的を得た教えはないと思うので、ここに掲載しておく。 「松下幸之助の人づかいの真髄」より 商売というのは、その代金をもらってはじめて売れたということになる。ところが、相手から集金を待ってくれと、色々と理由をつけたり、泣き言を並べ立てたりして、延期を頼まれることがある。 そんなとき、相手の言うとおり集金を待ってあげるのが、相手にとって親切な行為に見えたり、商売を長続きしたり、売上も増えたりすると思いがちだが、実は違うのだ。 たとえば君が、なじみの飲み屋に借金が残っていたとする、一杯飲みに行きたいと思ったが、懐には今日飲む分だけしかない。なじみの店に行けば前の借金の催促をされる。 そんなとき、なじみの店に行きにくく、なじみのない店で現金で飲もうとするのは人情として当然だ。 商売もそれと同じで、代理店は借金が溜まってくると、他の新しいメーカーから仕入れようとするものだ。二つの会社から品物を入れていても、一つのほうが支払いをやかましく言い、もう一つがあまり集金をやかましく言わなければ、その代理店はどうしても厳しく言ってくるほうに先に支払うことになる。金を早く払わなければならないと思うと、その商品を早く売ってしまおうという気になり、逆に、いつ金を払ってもよいという商品については、売り方に真剣さが無くなってしまうものだ。 だから集金方法に甘さがあったり、泣き言に負けて延期したりするのは、結果的にその代理店を堕落させ、他社につけこむスキを与えることになる。相手の言いなりになることが本当の親切ではない。正しい商売のやり方ではないんだ。(つづく)
July 23, 2006
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Vol.21コラム~「人は人によってのみ感動する」~※この文章は、かつて富士吉田教室に通う生徒と保護者宛に配布してたコラム調のものです。特に思い入れの深かった号を抜粋して、どさくさに紛れてたまに挿入しますが、別にネタに詰まった、というわけではありません(笑)。------------------------------------------------「人は人によってのみ感動する」 とある小学校5年生と中学校2年生の生徒に対して行なわれたアンケートで、1「いってきます」 「いただきます」と必ず言っている子供→85%2「おはよう」 「こんにちは」と必ず言っている子供→50%3「ありがとう」 「ごめんね」と言える子供→20%というデータがあります。 この調査結果を見て、いろいろな感想を持たれたことと思います。意外にみんな「いってきます」「いただきます」は言っているんだな、とか感じた人も多いのではないでしょうか。 でも、ここで注目したいことは1と3の言葉の種類の違いです。1より2が、また2より3が、より「相手の顔を見ながらでなければ言えない言葉」であり、または1や2は「実際にそこに人がいなくても時に発せられる言葉」、もしくは「複数の人を対象にも発せられる言葉」であることに気付きますでしょうか。それに比べ3は何らかの原因・理由があり、それに対して相手(2人称、つまり目の前の相手であることが多い)が必ず存在するという状況で発せられる言葉です。 「ありがとう」「ごめんね」のこの二つの言葉は確かに言い易くはない言葉だと思います。子供が親に対しても、また仲のいい友達同士に対して言うのでも、少し照れくさい気もあったりして、なかなか言えない言葉です。 さて、今度は逆に親から子へ、または大人から子供へ、この言葉はしっかりと使われていますでしょうか。これがまた昔も今もなかなか行なわれていないというのが現状だと思います。 私自身、子供の頃に大人から真剣な態度で感謝されたり、謝罪されたりした時、一人の人間としてしっかりと認められていることが感じられ嬉しかったですし、身が引き締まったものです。そして自分が大人になったら、子供に対しても誠意を持って感謝・謝罪はしていこうと思いました。 現在、教室内で生徒がもしとても良いことをしてくれた時は心を込めて感謝を、また例えば全くの誤解により子供を叱ってしまった場合などこちら側に誤りがあった場合は謝罪を、しっかりと言葉で表していこうと決めています。 ところでこの「相手の顔を見ながらでなければ言えない言葉」は他にもあると思いますが、これらの言葉のやりとりこそが人間同士のコミュニケーションには不可欠であると思いますし、また感動も生まれると思うのです。 ディズニーランドには自動販売機がありません。ジュース一杯であっても必ず「人から人へ」手渡しで売られます。「人は人によってのみ感動する」ということを実践している例であると思います。ディズニーランドに行ったことのある人がもう一度行く率は92%を超えるというリピーターの驚くべき多さが、「感動」、つまり心が動いたことを物語っているのだと思います。 秋も深まり、受験生もだんだんとピリピリしてくる時期です。でもこんな時だからこそ、教室では「相手の顔を見ながら」多くの言葉を交わしたいと思います。幸いにここの塾は個別指導という形をとっているだけに常に「相手の顔」を見ながら接することが出来るのが嬉しい限りです。保護者の皆様もぜひ子供にたくさん話しかけてください。生徒のみんなもピリピリし始めたらたくさん家で会話をしましょう。精神的にも安定しますし、それがテストの結果などにも良い方向にいくはずです。(つづく)
July 22, 2006
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Vol.20「教室長の仕事」 はたから見てると何をやってるのかいまいちピンとこないのが、「他人の仕事の具体的内容」なのではないかと思う。 実際に俺もバンドメンバーの職種はわかるけど、具体的に何をどんなふうにしてるのかはわかってない。 ましてや子供になると、大人の仕事の詳細は意味不明である。バンダーナ宮坂が昔、「子供の頃、会社員になったらビルの屋上でバレーボールをやんなきゃいけないんだと思ってた」と言ってておかしかった。やるにしてもそれは昼休みとかで仕事内容じゃないだろ(笑)。 このブログで執着したいことは「仕事のディティール」及び「その時々の気持ちの動き」の二点なので、今回はこの「仕事のディティール」、つまり自分の仕事内容を書いておこうと思う。 一般的に、大きな企業になると、会社の中で業務は組織化され、専門部署に分かれる。経理、人事、営業、広報、総務、そして各部署に事務。そして細かくなると、受け付けや電話対応など。だいたい、こんな感じだと思う。 教室長の仕事っていうのはこれに当てはめると、結局全部ということになる。もちろんひとつひとつのスケールは、これら大企業より小さいものなのだが、全部の要素があるので、これらに基づいて述べていくとわかりやすいと思う。経理・毎月の月謝計算。教材費やイレギュラーで増えた授業料の請求、・自動引き落とし一覧作成後→FD入力し郵便局に提出・口座から引き落とししない家庭には振込用紙を作成→郵送・ 授業料が未払いになった家への「督促連絡」・ 講師の給与計算&明細書発行・ 小口計算人事(原則としてエリアマネージャー以上のみが行う)・ 講師及び社員募集を求人媒体に連絡・ 面接の日時決定及び面接の実施・ 新人講師への研修・ 講師のシフト決定営業(原則は相手からの電話問い合わせによる反響営業)・ 問い合わせの電話から入会面談に結びつけるアポ取り。・ とび込みの問い合わせから面談に結びつける・ 既に在塾している生徒の家との保護者会。ここで期別講習のコマも決定する。広報(テレビCMや折込チラシは本社や本部が実施)・ 近隣の学校に販促グッズ(チラシの他に消しゴムやシャーペンなどが入ってる)を配布・ 上記グッズを作成。チラシを折ったり、消しゴムなどと合わせて透明袋に入れたりという作業。・ 入会案内パンフレットをスタンドに入れ、外に設置。また季節ごとに変わる幟(のぼり)の設置。・ 教室の外からよく見えるようなディスプレイの工夫。総務(総務というよりも雑務や事務作業やその他もろもろ)・ 入会した生徒の登録作業・ 本部への各種報告書作成・ 教室内外の掃除・ クレーム対応・ 押し売り、セールスの撃退・ 電球が切れた、などはもちろん、様様な備品の買い物・ 教室内掲示物の作成と掲示・ コピー機関連(トナーや用紙の取り替え及び発注)・ 教材会社、テスト業者への発注、受注、その仕分け・ 月例テスト、模擬テスト、漢字検定等のテスト監督・ 配布物、郵送物の時の宛名書きこれらの定期的業務に加え、「不測の事態への対応」というものがある。これまでに実際に起こったことに限っていうと、・ 水道管が凍結した・雨漏りがした・異臭がした・看板が割られた・トイレが詰まった・ 「樹海はどこですか?」と悲壮な表情で人が入ってきた・大雪による雪かき・ 停電・カメムシの大量発生・講師が当日欠勤した・ 教室内で突然生徒同士が喧嘩をはじめた。などなど、挙げればキリがないのであるが、これら「不測の事態」というのは、あたりまえのことだが、上記日々の通常業務の真っ最中に容赦なく入り込んでくる。 そして、いま記載しなかったことで、「毎日の生徒の座席表を作成する(生徒と講師のマッチング)」というのがあり、一日の業務で最も多くの時間を費やすのがこれであった。 言ってみれば自営業的な発想で、基本的にはその店の主が全てやるっていうことである。無数にある作業と、いくつかあったはずの対処法の後悔と結果など、全工程を把握し、判断し、処理していく。煩雑極まりないことではあるが、これを考えると、まさに仕事というものは壮大なドラマだなぁ、と思う。 そして、今後CAFEを運営していく中で、こういった全工程に関わるという自営業的仕事の経験は、自分の中で大きな財産となったはずである。(つづく)
July 20, 2006
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※この文章は、かつて富士吉田教室に通う生徒と保護者宛に配布してたコラム調のものです。特に思い入れの深かった号を抜粋して、どさくさに紛れてたまに挿入しますが、別にネタに詰まった、というわけではありません(笑)。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「読解力不足」 定例保護者会が終了しました。 今回の保護者会で、受験生以外のご家庭に関して、おそらく私が最も多く申しあげたことは「冬休みは特に国語や英語の(教科書に載ってない文章)読解を強化すべきです。」ということだったかと思います。 この教室の生徒は中学・高校問わず、中間テストや期末テストといった学校の定期テスト前はとても良く頑張り、点数も高得点を取る生徒が多いのですが、月例テストや学校での到達度テストや模擬テストなどの実力テストになると、途端に得点出来なくなってしまう人が多いという傾向にあります。中でも文章読解問題を制限時間内で的確に読み取るということが苦手な生徒が多いです。 おそらく教育評論家の方々は「メールやネットなどの影響」や、「受け身の授業」あるいは「読書不足」などにその根拠を求めようとすることでしょう。 しかし別にこれは何も今に始まったことではないと思うのです。ひと昔前はメールやパソコンはないまでも、みんな読書をしていたかというと疑問です。とりわけ、国語のテストに出るような「評論文・論説文」などの堅苦しい文章をみんな好き好んで自発的に読んでましたでしょうか。私に関しましても中学・高校時代にこういったジャンルの本を自ら買って読んだことは一度もありませんでした。やはり物語や小説ばかり読んでいた気がします。おそらく今の大人の方々の多くも同じなのではないでしょうか。 では何故、近年になって読解力不足の人が増えてきたのでしょうか。 答はいたってシンプルです。やはり「評論・論説文」を目にする回数が少ないということだけだと思います。 少子化になる前の、受験戦争の時代には仮にそれが自主的なことではなく、むしろ苦痛なことであったにせよ、国語の受験勉強として「評論文」や「論説文」といった堅苦しい文章を読まざるを得なかったという機会が、ゆとり教育が叫ばれてる現在よりも多かったのは事実だと思うのです。これは「受験戦争」や「ゆとり教育」の是非の問題ではなく、たとえそれが義務的、強制的であれ、昔は「論理的な文章」を今よりも多く目にしてきたということです。そしてその中でいつのまにか論理的な思考も身につけ、物事を論理的に説明することも出来るように鍛えられていたのかもしれません。 個人的な話をしてしまいますと私自身、高校生の時、現代文の受験勉強をしている中で、「しかたなく」読んだいくつかの論説文の中で、少し大袈裟な表現かもしれませんが、その後の自分の考えや価値観、生き方までも変えるほどの内容の文章に出会ったり、自らの意識の深淵に潜む、なかなか言葉には表せない感情や感覚が的確に客体化されているのを読んで、なんともいえない爽快な気分を味わったりしたことも一度や二度ではありませんでした。 子供達に自由やゆとりを与え、伸び伸びと学ばせることも大切ですが、時に人は、義務や戒律、強制によって初めて得られる新たな価値観というものもあり、それがその子の人生の行動指針となってくれることもあると思います。 学校の授業がストップしている冬休みはぜひ、「堅苦しい文章」を多く読んでおきましょう。文章読解力は国語のためだけではありません。全ての勉強の基盤となるものです。その実力は受験だけではなく、「一生モノ」です。ぜひ頑張って取り組んでいただきたいと思います。(つづく)
July 19, 2006
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Vol.18「初めての海外」 前回に続き、役得の話になる。この会社に入っての最大の役得は「海外旅行」だった。 俺は35歳になるまで、日本を出たことがなかった。だいたいみんな大学時代とか大学の卒業旅行とかで行くというのがタイミングだと思うが、俺の場合、大学を出ても就職はしないっていう考えで、好きな音楽をやることをとった手前、ある意味、罪悪感への変な罪滅ぼし的な気持ちから、海外は10年早い!っていう、わけのわからない自己戒律があった。(大学のとき同じような変な自己戒律の中に車を持たないっていうのもあった) そしてその「10年早い」から10年以上たち、「社員旅行」という形で初の海外が実現した。一年目と四年目がハワイ、二年目と三年目がグアムの計4回。 修学旅行でもなんでもそうだけど、楽しいかどうかなんてことはとにかく人間関係にすべてかかっている。誰と行動を共にするか、誰と同じ部屋になるか、ってこと。 初年度のハワイでは内藤さんと同部屋。楽しいに決まっている。家賃2万円の柳荘(内藤さん宅)ではなく、ハワイのホテル! 当時は貯金を心がけてたので出費を避けたいという俺と、当時金欠だった(笑)内藤さんとの利害関係も見事に一致し、超低コストにて楽しむことに決定。 せっかく海外にいったんだから、その時ばかりは金を使う、っていう考えじゃなく、「場所がいいんだから、金を使わなくても楽しいはずだ」をスローガンに(笑)、海で泳ぎ、昼寝して、ABCマートでバドワイザーを大量に買ってきて部屋で飲んで、夜な夜な町を徘徊し、明け方部屋に戻ってきて、昼過ぎまで寝て、起きたらすぐにモーニングバドワイザー(笑)みたいな、他の社員からは、我々のことが暇でつまんなそうに見えたのか、いろいろな遊びに誘ってくれたり、俺が、「冗談みたいにでっかいハンバーガー食いたいんですよね」っていうと、そういう店あったよ、と教えてくれる人もいたり、気をつかってくれる人も多く、心苦しかったが、 お願いだからほっといて!このまったり感が幸福の絶頂なんだから、って心の中では思ってた。 二年目のグアムは、同部屋には再び内藤さんと、更にもう一人、杉浦さんがいた。(杉浦さんは山梨の櫛形教室の室長で、退社した今も未だに交流がある人の一人。本当に仕事とか関係なく一緒にいて楽しい友人であり、俺が退職後のこの間も温泉に行った。)このように職場を離れてのプライベートでも普段バンバン遊んでたこの3人が同じ部屋で、楽しくないわけがない。祭りである。 そもそも出発前夜、杉浦さん宅集合で成田に一緒に向かったのだが、その時点で祭りである(笑)。「家に帰るまでが遠足」の名のとおり、最後の最後まで「祭りっぱなし」だった。 先日、杉浦さんの家に泊まりにいった時に、あまり余計なものが置いていないシンプルなその部屋の中に、この時のグアムの写真がおいてあった。聞けば、これまでの人生の中でもすごい楽しい思い出だった、と言っていた。全く同感だった。三年目、四年目の旅行は、メンバーも変わり、各エリアごとでまとまって行動することが多く、いかにもっていうコースを回り、自分の中では、やはり少し盛り上がりに欠けたものだった。二日酔いのまま船に乗ってイルカを見に行って、吐きたくても吐けない実に不快なひと時(絶対に自分が悪い!笑)を過ごしたり、マリンスポーツやら、アミューズメントセンターやら、いろいろ行ったが、その中で一番楽しかったのは、もはや違うグループにいた内藤さんを駆りだして、ハワイ大学までレンタル自転車で行き、本当のごくごく普通のハワイの民家や空気を堪能出来たことである。 そういえばこういう旅行とは別に、年末にこの塾全体の全国総会というものが、新高輪プリンスホテルで行われるのだが、うちの会社では山梨組に限り、この日の夜はこのホテルでの宿泊が認められた。またも内藤さんと杉浦さんと俺の三人が同部屋。もちろん祭りである。 会社に対して、本当にありがとう、というか、「ホントどうもすみません!」っていう気持ちだった。(つづく)
July 18, 2006
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Vol.17「役得の研修」 山梨のエリアマネージャー(山梨では甲府エリア統括の人と二人でやってた)というものになったことにより、いわゆるリーダー業務というものが増えた。 エリアマネージャーとはいえ、富士吉田教室長も兼任し、これまでの日々の業務にそっくりリーダー業務が加わることになるので、一気に労働量が増えた。 週一であるエリアミーティングに加え、毎週月曜の午前中にリーダーズミーティングなるものが、新宿の本部であるため、毎週月曜の朝は6:52発の高速バス新宿行きに乗った。月曜ってところがポイントで、唯一の定休日である日曜の夜になると既に少し守りに入る(サザエさん症候群!?)自分が嫌だった。たとえばコブシャウのライブも俺が原因で、必ず日曜日に設定してもらっていたが、四谷でライブをやって富士吉田に帰って、翌朝すぐにまた新宿っていう時はなんか虚しかった。 他にも、土曜日の午前中に本部の召集があり、午後は富士吉田に戻り、その後コブシャウの深夜練でまた新宿に出る、なんてこともあり、そういう日はとんでもない長時間バスや電車に乗ってたことになる。 しかし苦痛なことばかりではなく、新鮮で有意義な経験もたくさん出来たと思う。 そのひとつがトレーニーーワークショップ〔以下TW〕と呼ばれる、新人講師向けの研修である。山梨にある八つの教室の新人講師達を一堂に集め、月に一回、土曜日に4~5時間かけて研修するのだが、この研修に使うマニュアルの作成段階から自分が直接手がけたこともあって、内容は完全に頭に入っていて、しかも毎回同じことを喋るので、例え話などをその都度微妙に変えたりして、自分自身への新鮮味を勝手に保ったりしていた。 このTWでいいのは、内容は同じにせよ、毎回確実に受講する人が違うということ。単に大学生のアルバイトという講師もいれば、実に様様な経緯を経て講師になってる人もいて、そういう人たちを前に話を一方的にするだけではなく、向こうの話も聴いたり、マンネリ感はなく、おもしろかった。 以前この紙面で、生徒や保護者に対して最重要なのは「入会面談である」と述べたが、講師に対してもやはり最重要なのはスタート時、つまり初回研修である、と俺は考えていたので、この重要なポイントに自分の意思が伝達出来るのは嬉しかった。当然、自分の教室の講師もいるわけで、その講師としっかりとまとまった時間を共有出来ることは本当によかったと思う。この研修を経て、実際に現場に来た講師に対して俺は基本的には、あまり細かいことを言わず、伸び伸びやってもらいたかったということもあり、だからこそこのTWには重きをおいていた。 他に今度はこっちが研修をしにいかされたこともあった。産業能率大学が主宰するマネージメントスクールとかで、「リーダーの作法」的なことを教え込まれるもので、いろんな業種の課長クラスの人がいて、凄くいい刺激になった。 この研修の費用を知ってビックリしたが、会社のお金で体験できたのは役得だった。~つづく~
July 17, 2006
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Vol.16 コラム~好きなことは出会うもの~※この文章は、かつて富士吉田教室に通う生徒と保護者宛に配布してたコラム調のものです。特に思い入れの深かった号を抜粋して、どさくさに紛れてたまに挿入しますが、別にネタに詰まった、というわけではありません(笑)。-------------------------------------------------「好きなことは出会うもの」 自分は将来何になりたいのか、どんな仕事に就きたいのか、特に決まっていない生徒がとても多いと思います。これは別に珍しいことでも何でもなく、このような生徒のほうが圧倒的に多いというのが現状だと思います。逆に言えば、現在既に自分の中でなりたいものが「有る」人はその時点で大変幸せなことだと思います。かといって、「自分は何になりたいんだろう?」と一生懸命に考えてみても、現時点でそれが「無い」人はいくら人から「何かあるだろう、誰でも好きなことや得意なことは必ずあるもんだ」などと言われたところで、「無いものは無いんだ!」と頭をかかえてしまう生徒が多いのではないでしょうか。今回はこんな人たちに向けて書いてみようと思います。 最近とても売れてる本で「13歳のハローワーク」というものがあります。これは本当に色々な職業のことが具体的に述べられていて、しかもとても易しい言葉で書かれているという点で実に画期的な本だと思います。その中で作者(村上 龍)が述べている部分で、今まで私がずっと思ってきたことで、しかし上手く表現出来なくて、もどかしい思いをしていたことが、実に的確に書かれているくだりがありました。まさに「我が意を得たり」と膝を打って共感した箇所です。以下の通りです。------------------------------------------------------------ 好きという言葉はとても曖昧だ。「好き」は、「嫌いじゃない」に始まって、「それがないと死んでしまうかも」にいたるまで、幅広く対応している。好きなことを見つけなさい、と親や教師がアドバイスするかもしれない。だが、将来的に人生を支えてくれるような「好きなこと」を見つけるのは簡単ではない。「好きなこと」というのは、レストランのメニューのようにどこかにズラっと並んでいてその中から選ぶ、というものではないからだ。 「好きなこと」は、見つけるというより、「出会う」ものかもしれない。「好きなこと」は、テレビの映像の中や、本の中の言葉や、誰かの言ったことの中に潜んでいて、突然その人を魅了するものかもしれない。この本を読んできて、「自分には好きなことが何も無い」と、がっかりする必要はない。好きなことがこの世の中に何も無い、ということではなく、まだ出会っていないだけなのだ。好きなことを探すのを諦めてはいけない。探していないと、出会ったときにそれが自分の好きなものだと気付かないからだ。ただし、飢えた人が食べ物を探すように、常に目をギラギラさせて、これでもない、あれでもない、と焦って探す必要はない。自分は何が好きなんだろうという気持ちを、心のどこかに忘れずに持っていれば、それで十分だ。そして好奇心を失わずにいれば、いつか必ず「好きなこと」に出会うだろう。-----------------------------------------------------このように、好きなことというのは必ずいつか「出会う」ものだと思うのです。そして今回私がもうひとつ言っておきたいことがあります。それは本人の中で、「ついに出会った!」ということになったとしても、[世の中も、そして自分自身も日々変わっている]ということは忘れてはいけないということです。あまり良い例が浮かばないのですが、例えばある人は昔、蒸気機関車の運転手になりたくて、一筋に努力したが、今は蒸気機関車そのものが姿を消したという世の中の変化は如何ともしがたいものだし、仮にこの人が電車の運転手にはなれたとしても、本人の中では蒸気機関車でなければ意味がないのかもしれませんし、そもそもこの人はこれまでの日常の中でこれとは全く別の「好きなこと」に実は出会っていたのかもしれません。しかし「いや、自分は昔から運転手になることに決めていたわけだし」という頑なな考えがそれを打ち消してしまっていたとしたら悲しいことです。これとは逆に、食糧難の時代では存在し得ないようなダイエット目的のエステ産業や、ほんの10年前には職業としては成立し得なかったような「インターネットウェブデザイナー」のような仕事が誕生し、途端に水を得た魚のように生きがいを持って大活躍する時代の申し子のような人もいると思うのです。このように時代の変化への対応と、それ以上に自分自身の気持ちの変化に正直に対応していくことが最重要であると思います。そしてもちろん選択肢は多いほうがいいに決まっています。いろんなことへの知識が豊富なほうがいいに決まっています。興味や関心のアンテナはずっと張り巡らしておいていただきたいと思います。(つづく)
July 17, 2006
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Vol.15 「経営戦略」 仕事をしてる以上、社員が会社側から期待されていることは利益を出すことである。どんなに人気者キャラでも、性格がいい人でも、利益を出さない人は早かれ遅かれ、会社から軽んじられるようになるのはもちろん、当の本人もその仕事から心が離れ、楽しいと思うことはないし、双方にロクなことはない。 だから仕事をしてる人は、自分が利益を出してるかを常に考える必要がある。営業職ならわかりやすいが、事務職をはじめ大人数の内勤職場にいる人など、職種によっては、直接的ではないために、自分が利益を出してるのかどうなのかわかりづらいこともあると思う。 でも、どんな人でも仕事をしてる人ならば考える必要があると思う。いや考えるだけじゃダメで、どうすれば利益がより多く出るかを考えるべきだと思う。会社のためじゃなく、自分のために。大事なことだからもう一回繰り返しちゃおう、「会社のためじゃなく、自分のために」。 富士吉田に異動になった時はいろいろと悩んだ。というのも、富士吉田教室というところは、以前から会社のグループ全ての教室で売上成績が常にビリだったというのもある。 生徒数はまあまあ多いから、売上総額を見るとビリではないのだが、対比で見るとビリなのである。 この教室に来ていろいろなデータを見たらすぐに原因はわかった。生徒の週回数が少ない(週一回がすごい多い)、講習受講数が少ない、など。早い話が生徒一人当たりの単価が全教室でビリだったのだ。 同じ山梨内で、例えば大月と比べても明らかに金額面でトラブったり、予算的に渋る家庭が多く、隣の授業料の安い塾に移ったりしていた。 隣にある集団塾は月謝が安いうえに、毎晩毎晩夜遅くまで延長授業や自習解放したり、テスト前の対策授業も無料だった。 これまでの富士吉田教室はこの隣にある集団塾(山梨では大手)に劣らないサービスを狙ってか、自習の生徒を増やし、遅くまで塾も開けていた。でもこれでは「利益」は出ないのである。 俺が考えた改革コンセプトは敢えて「更なる高級ブランドイメージ作り」だった。隣の塾は集団塾で、こっちは個別指導塾。業態が違うから、競合ではなく、共存出来るに決まってると思った。 隣の塾は相当こっちの悪口を言ってたようだが・・・。 入会面談の時、こっちのほうから先にまず「集団塾のほうが月謝も安いし、ライバルと刺激しあえたりもするし、集団塾のほうが向いてる人も多いので、どちらが向いてるかは人それぞれですよ。」と言い、 「授業料が高いですね、」と言われたら即答で「はい、非常に高いので、慎重に検討されたほうがといいと思いますよ」と言ってた。 過去に隣の某塾の生徒であり、やがて大学生となり、今ここで講師をしている先生から、 「高校の頃、こっちの塾に来てる生徒は育ちがいい感じでがして羨ましかったんですよ」という話を聞いた。 そして、とある生徒の保護者は「この塾に来るのは親たちの間でステータスみたいになってますからね」とまで言っていた。まさにこっちが考えたコンセプトの狙いどおりだった。(つづく)
July 16, 2006
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vol.14・・・コラム~「無から有へ」~※この文章は、かつて、富士吉田教室に通う生徒と保護者宛に配布してたコラム調のものです。特に思い入れの深かった号を抜粋して、どさくさに紛れてたまに挿入しますが、別にネタに詰まった、というわけではありません(笑)。---------------------------------------------------------------------- The first step is the hardest. 「最初が一番大変」という意味ですが、これは私自身、昔から本当に痛感していることです。「最初」というのは文字通り「0ゼロ」や「無」のことで、いわゆる「無から有へ」という段階が最も大変ということです。 地球の歴史や生命体の歴史(話のスケールが大き過ぎですが・・・)を紐解くと、地球誕生から古生代が始まるまで(「先カンブリア時代」と呼ばれています)が約40億年ありまして、この時代が地球の歴史のほとんどを占めているということになります。何も「無い」ところから、「有る」に至るまでというのは、それこそ気が遠くなるような時間が必要だということです。 最近私は「元ホームレスで今は年商102億円の社長」というあまりにもドラマチックな人生を送ってきている人の著書を読みまして、感銘を受けた箇所があります。少し長くなりますが、これからその部分を全文引用したいと思います。---------------------------------------------------------25メートルのプールを想像してください。「このなみなみと張られた水を、栓を抜く以外の方法で、全て空っぽにしてほしい」そう言われたとき、あなたはどんな行動をしますか。しかも目の前には小さなおちょこしかないとしたら。ここに、「無」から「有」を生み出すことの出来る人間かどうかの分かれ目があります。プールの水をこのおちょこですくって出そうものなら、きっと膨大な、果てしない時間がかかるにちがいない。なんて馬鹿げたことだと思うでしょう。しかし、ここなんです。何も無いところから「有」を生み出せる人間は、ここでおちょこを使って、まず水を汲み出し始めるのです。「え?こんなので汲み出せやしないよ」「もっといい方法を探してから」なんてことは言いません。そう言ってる人の隣でまず、この小さな一歩を踏み出してしまうのです。確かにおちょこを使って汲み出すなんて馬鹿げています。そんなもので汲み出しきれるはずはありません。しかし不思議なことに、ここでおちょこでもって水を汲み出し始められた人間は、必死におちょこで汲み出しているうちに、少し先の手洗い場に、プラスチックのコップを見つけるのです。馬鹿げた一歩を踏み出したその足が、効果的な手段を見つけてしまうということでしょうか。そして、コップを使って水を汲み上げている彼はプールのフェンス越しに、今度は花壇の脇にバケツが転がっているのを発見するのです。そう、おちょこがコップになり、そしてバケツを見つける。次はポンプを見つけてくるかもしれません。そうして一気に水を汲み上げるのかもしれません。目標に向かって、どんなに効率が悪く小さくとも、まずその一歩を踏み出しはじめられる人間は、結果として恐ろしいほど効率のいいやり方で目標を達成することになります。多くの人が「おちょこで水を汲み出すなんて、百年かかっても無理だ、馬鹿げている」と言って始めようとしない中、その小さなひと汲みをまず始められた人だけが、成功を手にするのだと思います。------------------------------------------------毎日1時間勉強する習慣がある生徒が、8時間勉強することよりも、全く勉強しない生徒が毎日15分勉強することになることのほうがずっと難しいことだと思います。中学英語をある程度マスターした人が「仮定法」や「過去完了」や「分詞構文」で苦労することよりも、本当に英語が苦手な人が「BE動詞・一般動詞」を理解するための労力のほうが、ずっと大変だと思います。この文章中に出てきた「25メートルプールの水」を仮に大学受験の英語の範囲だとすると、「BE動詞・一般動詞」というのは、それこそ「おちょこ一杯分」位なのかもしれません。しかしこの手段がずっと続くわけではありません。中学英語を身につけた時点でもはや「バケツ」や「ポンプ」という手段に変わっているはずです。物事を進めていく際に、常に「一定の速度」ということはありません。「加速」を考慮に入れてください。「倍」というよりも「累乗」をイメージしてください。最後のほうになると、物凄いスピードで、物凄い量をこなしていることに気付くでしょう。そして25メートルのプールの水を空っぽにしなくても、6,7割汲み上げていれば、大学は合格するのです。ともかくスタートしてしまうこと、ともかく最初の一歩を踏み出してしまうこと、それに今なら確実に間に合います。踏みとどまっている人は、この「歴史的な」一歩を今すぐ踏み出してみてください。速報!トイレ甲子園優勝!!この春、山梨にある8つの塾全体で、「トイレ甲子園」というイベントを実施しました。主旨としては、「トイレを綺麗にする」という域にとどまらず、それぞれの教室がオリジナリティーを発揮して、内装や掲示物にも凝り、独自の表現空間にするというものでした。このイベントで、ナント!富士吉田教室が見事優勝しました。コンセプトは、相田みつお的言葉の世界と、間接照明による落ち着ける空間という二点で改造しました。優勝したから何か貰えるとかそういうことではないのですが、罰ゲームとして8位の教室の教室長が、そのうちここのトイレ掃除をしにきます(笑)。ここの教室のトイレの劇的な変化(!?)をまだ味わってない方は、ぜひ早めに体感してみてください。よかったら保護者の方もいつでもご利用ください。
July 14, 2006
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Vol.13「仕事におけるイナバウアー」 とある本で、こんなことが書いてあった。仕事には、「緊急で重要なこと」「緊急ではないけど重要なこと」「緊急でも重要でもないこと」があり、最初の「緊急で重要なこと」とは例えば、クレームが来たその時の対応などのことで、これが大事なのは当然のこととしながらも、この本では、二番目にある「緊急ではないけど重要なこと」の大切さを強調し、推奨してた。 それは職場環境のクレンリネスや、顧客との日頃からのコミュニケーション、クレームではなく相手の小さな要望を満足させる、などのことが挙げられよう。 確かに重要。異論なし。でも、俺が仕事上で拘りたいことは実は三番目の「緊急でも重要でもないこと」である(笑)。これこそが、その人の個性として他者に対して、強いインパクトを残す。早い話が、目立つってこと。荒川静香のイナバウアーは競技の採点としては一点にもプラスにならないそうだ。でもだからこそ、それにこだわることで、強い個性となり、観客は盛り上がる。大きな拍手が沸き、それが他の演技にもプラスとなり昇華され、全体として見ると「とても素敵だった」となり、結局最終的に総合点も上がってる、みたいな流れになってたと思う。 俺も何か自分ならではのことをしたかった。そしてこういうことをするのにいちいち本部や上司の承諾が必要じゃないというのはありがたかった。何しろ「緊急でも重要でもない」ことなんだから・・・。 とはいえ、富士吉田に来たばかりの頃は、前室長の内藤さんに、こうしていいですか?ああしていいですか?あれはダメですか?とかやたら訊いた時、内藤さんがたった一言「富士吉田をよくするためなら、別に何やったっていいんじゃん?」と言ってきた。内藤さんらしすぎる言葉で、笑ってしまったが、本当にこの一言は俺の中で、仕事上のダントツの名言大賞で、この言葉を機に、俺は本当に好き勝手やりはじめた。春は百均で大量購入してきた造花の桜を、全てのパーテーションにくくりつけて教室中を花見会場みたいにしたり、夏はいつもシーズンごとに生徒が書く「四季の目標」というものがあり、それは普通、教室の壁に整然と並べて貼るものだが、「夏の目標」は全員分の目標を一枚一枚短冊(いや長冊!?)っぽく天井から垂らしてみたり、秋は、近くの草むらに行き、本物のススキをバカみたいに沢山刈り取ってきて、壁に貼りまくって、時間がたつと穂先がパラパラ落ちてきて、それが虫みたいでひんしゅくを買ったり(笑)。冬は電飾攻撃で、玄関・トイレ・キッチンにいたるまで、クリスマス系イルミネーションでビカビカさせたり。教室として視覚的に目立ってたことだけは確かだったが、少しやりすぎたかも(笑)。そして、保護者宛に毎月の月謝明細を入れる封筒に、自分の考えやポリシー、心温まる教室でのエピソードなどを書いて同封して配布してたら、これが思いのほか好評で、途中入会の家のお母さんが「バックナンバーをください」って言ってくれたり、このことは内藤さんから部長に行き、社内でも口コミで広まり、ついには社長のところまで到達した。その後、部長のところに毎月送ることが義務付けられ、うっかり忘れると、「あれ楽しみにしてんだから」と言われ、オフィシャルっぽくなり、苦痛になりだしたこともあったが、絶対に好き勝手に書こう、っていうのは決めていた。 やがて、どうやら赤澤は文章を書くのが得意らしい、と言うことになったみたいで、その後全ての教室で、各家庭に出す季節の挨拶文や、復会(一度やめた生徒を呼び戻す)キャンペーンの文章など、全社的な文章を書くことも頼まれるようになったのは、締め切りもあり、「緊急で重要なこと」になってしまい苦痛だったが、毎月の保護者に配布するこのコラム調のものは、妙にこだわりを持ち、毎月必ず書きつづけた。 このブログにも、そのいくつかをたまに挿し込み、記録として綴じておこうと思う。(つづく)
July 13, 2006
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Vol.12「教室改造」※ 前回に引き続き、過去のオジャゴロ(一部改編)の抜粋にする。――――――――――――――――――――――――――――――――――――富士吉田での初日の話は書いた通りだが、移行期間というか、しばらく大月の引継ぎをしたりで、行ったり来たりしていた。 子供ってのは敏感なもので、俺がここを去る、ということに気付いた生徒もいた。泣かれたり、花束もらったり、手紙もらったり、それはそれは感動的で、ますますもってまだ大月を離れたくないなぁと思いつつ、その日のうちに富士吉田に移動して、騒がしい教室に入り、騒いでる女子生徒を怒ったりして、「超ウザイんだけど」とか言われたり(笑)、同じ一日でこうも生徒からの対応は変わるかって思うと、笑うしかなかった。 そして、新しく大月教室の室長になった人にも同じことが起こっていた。エリアマネージャーにもなったということもあり、俺はちょこちょこ大月に行ってたが、その時生徒から「先生偉くなったんでしょう?だったらあの人クビにしてよ!」とかズバズバ言ってくる。あの時、俺も大月の新室長もそれぞれに踏んだり蹴ったりだったと思う。 さて、富士吉田である。ジャングルをなんとかしなければ、ということで、いろいろ考えて、あ、いや実はあんまり考えてないけど、まずしたことと言えば、「掃除」をした。 新築の大月教室と比べるわけにはいかないが、それにしても教室が汚かった。電気代のこととかあまり気にせず、一日中教室内の換気扇は回しっぱなしにして、極力すべての窓を開けて(当時は夏だった)、「空気の沈滞」をやめたかった。吹き抜けるように心がけた。ただ単に綺麗にしただけじゃインパクトに欠けるので、思い切ったデコレートもしてみた。俺自身、全然綺麗好きじゃないし、部屋も散らかす天才なのだが、この時の俺は「仕事」として、意識的に「清掃」してたように思う。 トイレは特に強烈にインパクトを出したいと思い、絨毯敷いたり、額縁を飾り、そこに局所照明で照らしたり、蛍光灯は排除してフットライトでほんのり照らしたり・・・。この「トイレ内改造」をしてるときはかなり俺も病的で、副室長をはじめ講師達も絶対、「室長、トイレ掃除に命賭けてるよ。大丈夫かね」みたいに思ってたはずである。 公園の汚いトイレには落書きがあるが、ホテルのトイレには落書きをしようという発想が芽生えない、という「教室の汚れは心の汚れ」とかいう、よくある標語を実践してみた。 これが功を奏したのかはしらないが、少しずつ騒がしかった教室も平和になっていった。と思う・・・。(つづく)
July 12, 2006
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Vol.11「そしてジャングルへ」 サラリーマン生活最大の思い出の地、富士吉田教室のことを書き始めてたら、収拾がつかなくなる可能性があるので、なるべく短めに、と心がけながら書き始めると、不思議な感覚になった。 あれ、この時のこの感情とか出来事、過去に書いたことがある!っていうこと。デジャブじゃなくて、ちゃんと思い出して、調べてみたら、あった。はなしがいレコードのHPで、「オジャゴロ(おじゃまる語録)」っていうのを書いてたんだけど、途中から、いちいちアップする手間(他の人にお願いしてることなので)が面倒で、BBSに書き始めた。 そこに書いたことがあったのだ。そして、改めて読み返すと、「うん、こっちのほうが、その時の状況とかリアルだ!」と思ったので、HP上ではもう見れない(BBSを狂ったようにさかのぼらない限り)ものだし、ほんの一部(名前を変えるとか)を改編し、これをそのまま生かそうと思う。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――「そしてジャングルへ」~はなれこHP「オジャゴロ」より~ 世の中には人事異動ってものがあるってことは知ってたが、自分の身に訪れるなんて。本部の上司に「富士吉田教室をお願いしたい」と告げられた時、真っ先に思ったのが、大月教室を手放したくないってことだったかもしれない。 山梨の教室(全部で8つある)の中でも大月と富士吉田はいわば姉妹校みたいなもので、富士吉田教室がどんなとこなのかは、既にいろいろと話で聞いていた。「授業中、床で寝てる生徒がいる」、「塾はもうやめていったヤンキーが普通に待ち合わせ場所として教室に入ってくる」とか、その他もろもろだが、大月と富士吉田の両方を行き来してる講師から実際に聞いた話だけに信憑性があった。本部の人も「あそこはジャングルだから」とも言ってたし(笑)。ただし生徒数は多く、マーケティング的には山梨の教室の中では、近隣に最も多くの数の学校が集まっているところであり、重要なエリアであることは間違いなかった。 心情的にはすこぶる後ろ向きだった俺ではあるが、この手の話というのは断ってる場合じゃないのはわかってるし、説得するときの言葉ってホント大事だなと思ったのが、その時の上司(部長)の言葉である。「大月はこのままどんなに順調にいっても、市場的に見て100名が限界だが、富士吉田なら150は可能だから、ぜひなんとか建て直してもらいたい。今後、エリアマネージャーとして大月も統括していってほしい」というような内容だった。 今までの自分をしっかり評価してくれて、大変ではあるが可能性を秘めた場所で力を発揮することを期待されてるとなれば、悪い気はしなかった。それに大月とも完全に縁が切れるわけでもないということだし。 不安はもちろん存分にあった。大月の場合、0人からスタートして、全ての生徒はもちろん、保護者とも全て俺自身が入会面談をして、普段からコミュニケーションをとってきたという礎があったが、富士吉田の場合、生徒・保護者誰一人知らない状態で既に100人位の生徒が教室にいる。そしてジャングル(笑)・・・。 富士吉田教室の初日のことは生々しく記憶に蘇る。今日からとにかく10人ずつ名前覚える&会話する、みたいなつもりで入室してしばらくすると、最初は生徒のほうも「新しい人だ」みたいな緊張感を持ってるようで、教室全体が何となくぎこちない空気が流れていたその時、一人の高校生(当時2年)男子が、俺のところに来て、「内藤先生はどこ行ったんすかぁ、納得いかないっすよマジで。」という、とにかく怒っていた。しかし彼自身も緊張しながら、彼なりに礼儀正しく、真剣に抗議してきてるんだということも伝わってきた。 俺の富士吉田教室初日のほとんどはこの生徒一人との話し合いで終わっていった。(つづく)
July 11, 2006
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Vol.10「会社側が求めてくる数字」入会面談というのは保護者と生徒が両方とも目の前にいて、かつ最も聴く耳をもって、接している瞬間である。 こちらのシステムをしっかり伝えるのは、まさに最初で最後だという気持ちが必要だ。 会議などでいつもいつも、オウムのようにテーマになるのが、「定期テスト対策の受講率」とか「期別講習の受講率や取得コマ」とか、「月例テスト(模試みたいなもの)の受験率」などである。これらが、その時になってから「やる、やらない」の次元になっては、数字は上がんないに決まっている。 これらのことも、最初の入会面談の時にしっかりと伝え、「やるのがあたりまえ」という状態にもっていって初めて入会させることが大事だと思った。 週回数(生徒が週に何回来るかということ)にしても、週に一回で、と言ってくる家がすごく多いが、その時にどうしても心の中で「とりあえず週一回で始めて、折をみていつか増やしてもらうようにしよう」などと思い、とりあえず目先の入会獲得を優先させようとすることが多いかもしれないが、この時も「週一回はあまりおすすめしませんよ。この教室にはいないこともないんですが・・・」というように週一回の生徒は極少数であることを伝え、「とりあえず週一で」ではなく「とりあえず週二回で始めてみて、どうしても支障あるようでしたら、またおっしゃっていただけませんか」というようなことも全て、最初の時に言う。 そんなせめぎ合いをしてると当然、入会面談は長くなる。これまで見てきた他の室長達の入会面談は30~45分位だったが、俺は一時間半~二時間は絶対にかけていた。会社側がやたらとうるさく言ってくる数字的なことは、実はこの「最初が肝心」どころか「最初がすべて」という考えでやるだけで、ほとんどが解決した。 そして会議などでよく他の教室がつるし上げられて(あの気風はどうにかならんもんかね)る中、逆に見本例的に大月は賛美されたりして、ストレスというものがビックリするくらい無かった。エリア会議で「何故大月はテスト対策受講率90%以上で月例テスト100%受験なのか発表して」と言われた時、今述べたこと全部言うのはめんどくさいんで、「気をつけてるのは入会面談の時にしっかり伝えることくらいですかね」とだけ言ったが、今初めてものすごく詳しく述べた。今こんなこと、俺は誰に向けて発信してんだか(笑)。このように、大月教室は自分の予想以上に順調に伸びていった。生徒一人一人にただならぬ愛着をもっていたし、更に「器や入れ物としての」教室そのものが、職場というより「自分の部屋」という感覚だった。実際、住んでたようなもんだし(笑)。会社に対しての成績とか数字面でのことを言うと、自分の中での一番の金字塔は、半年間休会(塾を辞めること)者ゼロという結果。これは全ての教室を入れても未だに破られていないことで、達成時は本部全体でエラく褒め称えられて、もちろんそんな賞賛はその日一日だけのことだったが、俺の中では密かにいつまでも自慢である(笑)。そんな順風満帆な日々をおくっていた2003年の夏、部長に直接面談席で、突然、「今度は富士吉田でお願いします」と言われた。(つづく)
July 10, 2006
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Vol.9「やってはいけないこと」 そんなわけで、講習日程の組み方の効率いいやり方、っていうのは教わってこなかったが、下積みの長さ(?!)により、東京の主に3教室の運営のされ方などを、他の室長よりもたくさん見てこれたのが、自分にとっては武器になった。ていうより、武器にするしかないでしょう(笑)。 「なるほど、こうすればいいんだ!」っていうことよりも、「これは、やってはまずいことなんだな」ということを事前に知れてよかった。前者は、後々になって自分から途中で気付いて改善すれば、それは単に良い方向にいくものだが、後者のような「まずいこと」を知らずに、途中から「まずいこと、としてしまう」と、そこには軋轢、不協和音が生まれる恐れがある。 すごいわかりずらいこと言ってるのは気付いてるので、具体的に例を出そう。例えばこういうこと。 入会規約には、「授業を休む場合、事前(一週間前まで)に、連絡があった場合にのみ、振り替え授業を行う」というのがあり、これがどこの教室もいつのまにか捻じ曲げ、生徒へのサービスとして、当日だろうが、ズル休みだろうが、当たり前のように振り替え授業を受け付けていた。 やがてこれがだんだん弊害(振り替え授業の生徒が多いため座席がオーバーするといった)も出てきたりして、途中から「入会規約にもあるように振り替えは出来ません!」と突然言って受け付けなくなると、サービスのつもりでプラスとなってたことが、プラスマイナスゼロ(規約どおり)になるだけのはずが、家庭側からすれば、これは明らかにマイナスのことになってしまい、更には「友達の○○君はこないだ振り替えてくれて、うちの子はダメなの!?」みたいな文句も出る。 他の室長たちも、振り替えを認めすぎるのはよくないっていうことには十分気付いてるはずだが、いざ、生徒や保護者から欠席連絡を受けると、やっぱり相手のことを思ってしまうためか、頼まれてもいないのに、こっちから「振り替えはいつにしましょうか?」などと言ってしまうことになる。 それよりも「振り替えは出来ないんだ」ということを深く浸透させた上で、そして、例えばその欠席理由が本当に致し方なく休むしかないということだった場合に、そこの家に対して、小声で(ここがポイント)、「今回だけは特別に振り替えをしますが、例外を認めたことになるのはよくないので、お友達にも、知り合いにも絶対内緒にしといてくださいね」というと、そこの保護者には物凄く感謝されることになる。これはプラスマイナスゼロの普通のところから、「プラス(しかも著しく)」になる。どちらが、いいサービスと言えるのかは言うまでもない。 さらに俺の中では、どうしても具合が悪くて休んだ生徒と、、他愛もない理由(ズル休みは論外)で欠席した生徒と一緒にはしたくないっていうのもあり、とにかく「当日欠席の振り替えは絶対に不可」ということを、浸透させた。(規約よりも譲歩し、「当日欠席」だけはダメ、ってするだけで、ズル休みは阻止出来る) こういうことを浸透させるのはいつのタイミングがいいか?それはもう絶対に一番最初である。この仕事でいえば、それは入会面談の時である。(つづく)
July 9, 2006
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Vol.8「勝手に史上最高の繁忙期」 大月教室がオープンして3ヶ月が過ぎ、生徒も50人を超えた時に、室長就任以来初めての講習(夏期講習)を迎えることになった。 今から思うと、生徒も講習コマ数も全然多くないのであるが、 忙しくて死ぬかと思ったのがこの時である。そしてそれは自らが勝手に忙しくしてたことになる。今だからコツもわかって、たいしたエネルギーも使わず、わけもなく出来ることなのだが、この頃はそうはいかない。夏期講習の授業コマを決めたあと、生徒一人一人の日程表というものを当然作成して配布するのだが、それこそ一人一人の生徒の顔を思い浮かべながら、性格やら部活状況も考慮しながら、科目のバランスを考え、休みの日もペースよく作りだし、この子はこの先生がいいからここは数学で、とか、実際、まぁこれらのことは、もちろん今でも少しは考えながら作るのだが、それは瞬時、瞬間で判断して作るものだ。しかし、この時の俺は一人分の日程表作るのに二時間以上かけた。この調子だと、12時間かけて6人分しか作れない〔笑〕、っていうことにさすがに途中で気付くものの、どうしてもああでもないこうでもないって思いながら、作ってるとミルミル時間は過ぎ去り、塾に3連泊するという不名誉な自己ベストも出してしまった。 だいたい大月発高尾ゆきの終電っていうのが、夜10:24で、授業が終わるのは夜9:30である。この時点でかなり無理があり、松田さんもビックリの連泊ぶりだった。くつろぐための服や枕や寝袋まで完備し、教室の目の前にはデイリーストアがあり、ビールも売ってるので、真夜中に、我が部屋にしてはやたら広い部屋で一人酒盛りをして眠った。 寝ても覚めても、仕事のことばっかり考えて、確かに激務といえた。でも、俺のサラリーマン生活の中で一番辛かった時期は、例の最初の半年間、いくつかの教室を雑用してまわった時である。 自分の居場所が無いとき、そして先が見えない不安なとき、人は一番苦痛なのだと思う。 大月教室には確実に俺の居場所があった。激務とはいえ、精神的な苦痛はなかった。 (つづく)
July 8, 2006
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Vol.7「内藤さん」 大月オープン当初で、まだ生徒も講師もロクにいなかった頃、内藤エリアマネージャーにいろんなこと(業務面がほとんどだったが、結構プライベートな面なども)を質問し、たくさん話をするうちに、新聞配達で金を貯め、アイルランドに渡り、行き当たりバッタリでいろいろと現地で働いたり、といったすごいおもしろい人生をおくってきてることなども知り、この人そのものにとても興味をもった。そして、こんなに話しやすい人が上司でよかったなぁと安心した。 どうしてもこれまでの上司、松田さんと比べてしまうのだが、それはそれは正反対だった。 どっちが良い悪いではなく、誰が見てもこの違いはすぐにわかるはずで、簡単に言ってしまうと、松田さんは「細かい」。内藤さんは「大雑把」。であった。 ビジネスの世界において、部下が上司に対して怠ってはならない最も重要なこと、「ホウレンソウ」、つまり「報告・連絡・相談」ということに異論はない俺は、結構、何でもかんでも内藤さんに伝えるようにしたが、でも、「あ、実はこの人、あんまり話聴いてないな」っていうのが感じられたり(笑)、不明点が出てきても、内藤さん本人も実はわかっていないことも多く、あまり解決したことがなく、でもどうしても明らかにしておかなくてはならないこともあり、やむなく部長とか専務とかに、おずおずとダイレクトで電話したり、それはそれは自立心を養わせてもらったと思う。 なんだか、こう書くと「頼りにならない適当な上司」っていう風に伝わってしまいそうだが、そうではない。あの時の俺にとっては最高、最適な上司だったと今でも断言できる。 厳しくないからラク出来るとか、そういうことでは断じてなくて(実際結構大変だった)、あの人のもとだったからこそ、教室もだんだん良くなってきたと思うし。 例えば今までの俺なら、「致命的ミスだ!」、と思うことが起き、血相変えて相談しても、内藤さんは「やばいね。」とか言いながらもあんまりやばそうでなかったり(笑)、会議の必要書類とかも、かなりやっつけだったり、やってなかったり、ヤバい、これじゃ内藤さんへのなんのフォローにもなってないけど(笑)、 それまで、松田さん流で、丁寧に仕込まれたことで、妙に細かい部分に悩んでしまうこともあり、自分自身、教室の長としてのデーンとした感じが外面にも内面にも出ていなかったとも思えるし、もっと図太く、ポジティブに、快活にいかなければ物事はうまくいかないっていうことに気付かせてくれたという感じである。 もちろん、松田さん流で鍛えられたあとだからこそ、今度はミクロからマクロという発想が出来たわけで、この逆はよくないと思うので、松田⇒内藤という順番で上司だったということは、よいめぐり合わせだったと思う。山梨エリアの会議が甲府や韮崎あたりであるときの前夜は、俺は八王子にいちいち帰るのが面倒臭いということもあり、仕事が終わったら富士急行線に乗って、富士吉田で一人暮らししてる内藤さんの家に頻繁に泊まりに行った(結構ずうずうしい)。「柳荘」という2万円代のアパート。見上げる星がメチャクチャ綺麗なところで、なんだか俺はいつも内藤さんの家に泊まりに行く時は旅行気分だった気がする。 それから2年もたたないうちに、まさかこの富士吉田市民になるなんて、加えて、結婚することになるなんて、夢にも思わなかったことはいうまでもない・・・。(つづく)
July 7, 2006
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Vol.6「大月?!そこはひょっとして、山梨?!」 さて、年代がまた元に戻るが、2001年12月1日の入社から、間もなく半年になるという、2002年の5月のある土曜日の終業時、松田さんに、「赤澤さん、月曜日から大月でお願いします」ということを言われた。 突然のスピード人事である(笑)。「大月」といえば、高尾よりも向こうで、普通列車(向かい合う座席の電車)で行くところで、稀に中央線直通で「大月行き」っていうのもあるなぁ、っていう位の知識で、山梨県なんだということもピンときてなかった。 まさに全くの想定外。青天の霹靂。 既存教室の引継ぎということではなく、新規オープン教室ということだった。 スピード人事のいいところは、相手に悩んだりさせる暇を与えないことだ(笑)。とにかく月曜日になると、俺は大月教室にいた。 本社からFC事業課の指導員と富士吉田教室の室長兼山梨のエリアマネージャーでもある、内藤さんも来ていた。 大月駅前、一等地のビルの2階。新築の家のにおい、というか、プールの塩素のにおいがした。 オープン初日は、問い合わせの電話もなく、静かに過ぎていった。まぁそれはいいとして、二日目、三日目、と何の動きもなく、大の大人が3人も教室にいる。大丈夫か?さすがに少し不安になる。 FC指導課の人はそれが仕事なんだから、暇ならそれでいいだろう。しかし、エリアマネージャーの内藤さんは、しっかり富士吉田教室の室長もしていて、こうしている間も富士吉田教室は普通に授業もあれば、いろんな業務が山積みとなってるはずなので、こんなに暇なら、とっとと自分の教室に戻りたい、って思ってたはずだ。 俺もこれまで見てきた一連の教室の、戦争のような忙しさを知ってるだけに、こんなにラクしてるのが、申し訳なく思った。 じっとしててもしょうがないということで、内藤さんに自転車を借りて、大月という町を地理的、雰囲気的に、もっと良く知りたい、ということもあり、チラシのポスティングもしてまわりながら、気分はサイクリング状態だったし、休日も隣町の猿橋の住居密集区域にチラシをまきにいったり、いたって自主的に行き、不思議に苦痛じゃなかった。 H町教室の時もポスティングは行ったが、これは苦痛に思った。この違いはやはり、「自分の教室」という愛着にほかならないのだと思う。 待望の生徒第一号は当時、小5の女の子で英語をやりたい、という生徒だった。まだ生徒が集まらないうちは、とりあえず俺が自分で授業もしてた。嬉しいことにこの生徒、中三受験生になった現在も、未だに大月教室にいるということである。俺もさんざん本人に言ってきたことだけど、この子自身の中でも「私がこの教室の第一号生徒なんだ」っていう誇りのようなものが今でもあるのだろう。時はワールドカップ日韓共同開催に沸いていた頃だから、ちょうど4年前か・・・(つづく)
July 6, 2006
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前回掲載した松田さんからの手紙は2002年3月11日(誕生日)のことで、今回掲載するのは、それから4年後の2006年4月15日、つまり俺の退職の日の出来事である。 年代が一気にジャンプする。 これは松田さんが俺宛にくれたものではなくて、今や会社も、東京、埼玉、山梨の他に愛知にも展開する大きなものとなり、全社員にあてた、通称「クレドメール」というもので、本部が毎日各教室に配信してるメールで、今や本部の次長となった松田さんが書いたものである。 4月17日(俺はもう辞めてる)の月曜日に各教室長が入室して見るように書いたものらしく、4月15日(土曜日)の遅く、松田さんが帰る時に配信したものである。15日は俺にとって最終日だったし、名残惜しさもあったし、山梨の他の教室長のみんながわざわざ見送りにきてくれて、ダラダラ話したりして遅くなってたら、教室に前富士吉田教室長で、現三鷹北口教室長の内藤さん(この人のことも絶対に後述する。我が最大の恩人)から電話がかかってきて、俺は「内藤さんとは今日が最後だともなんとも思ってないんで、挨拶すらしないつもりでしたが、ひとまず今日で無事退職です。いろいろありがとうございました。」と言うと、「いやいやそりゃ俺も同じ考えだけど、よかった、まだいたね、メール、見た?」と言ってきた。「いやもう電源落としましたけど」っていうと、「とにかく見て。見たほうがいいよ」と教えてくれた。 それは以下の通りだった。こんな、墓場までもっていきたくなるような宝物に気付くことなく、職場をあとにするところだった。まったくもう、せめて本人には知らせてよ、松田さん!----------------------------------------------------------------------------------「素直、勉強好き、プラス発想」を原則とし、私たちは個人と会社のためになるよう自立学習し、もてる才能を最大限に伸ばします。(プロミスforスタッフ)4月17日(月) ある教室長の軌跡です。「素直、勉強好き、プラス発想」という言葉を聞くと、なぜかいつも頭に浮かぶ人がいます。 その人は、私が教室異動するときに、抜けた教室の教室長候補として入社してきました。結論からいうと、その時は教室長にはならず、主任講師に教室長として残ってもらうことになりました。 入社が暮だったので、春の人事異動に間に合わず、引き続き研修となりました。当時は会社が急激に成長して教室も増え、若い新人教室長も多くなってきた頃でしたから、精神的には不安やあせりがマックスだったと思います。その後もI次長と私の異動先の教室で数ヶ月間研修となったのですが、その間不安はあったはず。なのに、不平不満を耳にすることは一度もありませんでした。(社会保険のことはいってたかな?) 教室ではテスト対策のカウンセリングや入会面談もやってもらい、月例テストにしてもほぼ問題なく業務をこなしてもらいました。とにかく説明は丁寧だし、生徒対応も素晴らしかった!入社からここまでの間、間違いは自分の責任とすべて認めて「ありがとう」「ごめんなさい」が言える「素直」な人でした。また、わからないことは何度でも質問してくれて必ず小さなメモ帳につける習慣がある「勉強好き」な人でした。(これが作詞のネタ帳とは気がつきませんでした)そんなある日、山梨に教室が新規オープンすることになり、彼が教室長に抜擢されたのでした。周りは山だらけで人は集まりませんでしたが、「どこにも負けない良い教室を作る!」という信念があったはずです。 急激に生徒は増えなかったのですが、「プラスは発想」は衰えませんでした。それはオープンからの休会0名記録にあらわれていると思います。掲示物は曲がっていたとか(笑)。 入会は多くなかったけど、休会がなかったので少しずつ生徒は増えていきました。生徒の数だけ信頼も増えてきて、独特のいい感じの教室ができたと思いました。不器用だけど「素直」で、必要ないと思われることまでメモする「勉強好き」だから、少しずつ信頼され、任されることに応えるべく独創的ではありますが「プラス発想」で取り組む姿勢が教室の姿そのものだと思いました。「素直、勉強好き、プラス発想」とてもシンプルでわかりやすい言葉ですが、だからこそいつまでもたっても色あせないんですよね?(つづく)
July 5, 2006
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Vol.4「松田さんからの手紙1」 井口さんから手渡された、松田さんからのその手紙は、今も大切に保管している。以下、本人未承諾のまま掲載する。 お疲れ様です。だいぶ慣れてきましたでしょうか。幡ヶ谷では大掃除までつき合ってもらってすいませんでした。異動に関しては、何度も期待を持たせては、変わってしまい、非常に申し訳なく思っています。But、なんとなく室長になって、いなくなった人も少なくなく、やはり、一日目から自信をもって入れるほうが良いと思います。時々、居場所に迷うこともあるでしょうが、それは「未来(ちょっとですよ)」にあるので、がんばってください。Happy Birthday!! そして封筒の中にはビール券が入っていた。この日以降、俺の中で「不安や焦り」は跡形もなく消えた。(つづく)
July 4, 2006
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Vol.3「たらい回し~幡ヶ谷・池尻大橋・H町~」 その後も俺は松田さんのアシスタント的な感じで、いろいろと教室をまわっていた。池尻大橋から八王子に帰るためには毎日終電時刻近辺の渋谷を経由しなければいけないのが、田舎好きな俺としては、人・人・人で殺伐として帰りはいつもうんざり気分であった。 池尻大橋の副室長(名目は松田さんが室長となってたが、事実上完全にこの人が管理してた)の小谷さんという人は、俺よりもずっと年下の女性だったが、とてもよい刺激を与えてくれた人である。 飄々とした人で、この会社の社員が凄く短いスパンで辞めていく理由みたいなものを、さりげなく訊いた時、「みんなきっと繊細なんですよ」とサラっと言ってのけ、この人は強い人だ、こうありたい、と思った。 小谷さんは本当は医療関係の仕事につきたくて、今も勉強と両立してて、かなり長い目でモノを見てる人だった。帰りの電車で一緒のとき、「夢に対して焦る気持ちとか今はないんですか?」と訊いたら、「40歳になっても30年も働けるんですよ」と言った。このなんとも言えないポジティブな言葉、強烈に突き刺さった。 H町教室(他の教室はバンバン実名出してるし、言っちゃっても全然いいんだけど)の室長の井口さんは、とにかく日本一の教室の室長ということで、大変な役回りだなぁ、と思ったが、この人も松田さん同様、身も心も仕事に捧げるタイプで、体育会系気質の人。会社側としては最高にありがたい人材で、サラリーマンの鑑のような人。日本一の教室を管理する人、というのにはもちろん興味もあり、この人をじっと観察しててわかったことは、「腰は低いが押しは強い」ということ。これは重要なことだなぁと思った。あとになって、この人の発言、行動、口癖、にいたるまで、ほとんどがこの会社の部長(この人は必ず後述する。俺にとって重要人物)のそっくりコピーだということに気付き、少し冷めたが・・・。 こんなこと言うのは完全に余計なお世話だが、こういうタイプの人が、遠い先に定年を迎え、やがて死ぬというその時、果たして自分自身はハッピーだったと言えるのだろうか・・・という、俺がよく考えるこの命題をどうしてもまた考えてしまう。 ところで、この会社の社員になったということはどこかの教室長になるということで、講師はアルバイトだし、事務員なんてのはH町教室のようなマンモス教室じゃないと存在しないし、そもそも事務員は正社員じゃない。 そしてこの会社は教室数拡大路線まっしぐらだったので、新入社員は入社後2週間で室長というのはザラで、そういうスピーディー人事が特徴だっただけに、配属教室が決まらない俺は、さすがに少し焦ってきた。 そして、今度は稲城教室の室長が辞める、ということになり、松田さんからも「赤澤さんは稲城が有力候補ですよ」と言われた。 稲城なら自宅からも近いし、いよいよ決まるんだなぁ、と思ってたら、またまた、やはり大学を出たばかりの新人女性が稲城教室長になった。 焦り、というよりもやがて「ん?今まで気付かなかったけど、実は俺リストラ対象になってる?!」って思い始めた。俺から「辞めます」っていうのを実は待ちわびられていて、本部サイドからは「辞めろ光線出してんのに、なんでキャッチしてくんないかなぁニブイなぁ」みたいなこと思われてんのかなぁ、とか、やたらと不安感満載な日々をおくってた。 そしてH町教室で変わらず雑用をしてたある日、室長の井口さんに呼ばれ、「赤澤さん、今日誕生日なの?今日、会議のときに松田さんからこれ預かってきたんだけど」といって、封筒を手渡された。(つづく)
July 3, 2006
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Vol.2「裏切りと出会いと焦り」 「この塾は我が日本の教育を・・・どうたらこうたら」というようなことを、スーパーハイテンションでアジテートしている。そしてどうなったか、別にどうもなってないんだが、胸はドキドキしていた。他塾の差しがねによるものなのかなんなのかは知らないが、まぁこの塾全体を攻撃するなら日本一であるこの牙城を狙うのは納得だった。 時をほぼ同じにして、このH町教室にいる主任講師をはじめとしたメイン講師達が次々と辞めていった。そして、ほどなく近くのエリアに彼らは新しい塾を建てた。生徒の家にDMが周到に送られ、そこの塾の場所とそして講師達のコメント「また一緒に勉強しよう!」っていうのが書かれてあった。総本山の危機!?この講師による大量謀反により講師不足となり、俺は授業をすることも増えたが、基本はまだ雑用事務作業だった。 そうこうしてるうちに、西東京ブロックのエリアマネージャー兼幡ヶ谷教室長でもある松田さんと出会った。今後はしばらく松田さんにくっついて、幡ヶ谷及び池尻大橋教室を中心に勤務するようになった。 世の中には身も心も仕事に捧げているタイプっていうのがいると思うが、松田さんはまさにそのタイプだった。 ある人の話で、「人間の能力に大した差なんてない。業績なんて働く時間と集中力だけで決まる。業績の悪い人は、ただ働いてないだけです。」というのがある。根本的ではあるが、真理だと思う。この点松田さんは、確実に働いていた。いつまでも働いていた。 一般的に仕事っていうものは、いつまでもどこまでも数珠繋ぎの如く続いていて、終わることはないのだが、当時俺は八王子から通っていて、終電が12時半くらいだったので、それに合わせてあがらせてもらっていた。松田さんは俺が帰ったあともまだ教室にいることが多かった。上司よりも先に帰るのだから、せめて早く入室しようと思って、かなり早めに行っても松田さんは既にいた。何日かそれが続いて、ついに謎が解けた。松田さんは教室に泊まっていた(笑)。冗談でもなんでもなく週に4日は泊まっていた。 何が松田さんをそうさせているのか、深いところでは未だに謎ではあるが、とにかく仕事において全く手を抜かない、丁寧で、そしてとても誠実に部下の俺に接してくれた。 例えていうならば、受験勉強をする時、あらゆる無理無駄を省いた合理的な参考書ではなく、辞書とか文法書(文型とか名詞、動詞、前置詞とか各分野にやたら事細かに載ってる本)みたいな分厚い参考書が松田さんだと思った。時間効率とかは置いといて、泥臭いが、確実な方法であることは間違いなかった。 教室数拡大のスピードに求人採用が間に合わず、エリアマネージャーとして松田さんは西荻窪・新中野なども統括する必要もありながら、幡ヶ谷と池尻大橋の2教室の室長も兼任するという異常事態になっており、一刻も早く幡ヶ谷に新教室長をたてようという狙いが会社にはあり、俺は幡ヶ谷教室長候補である、ということを松田さんには告げられていた。 幡ヶ谷の講師たちは一人一人の質が高く、みんなキャリアが長かった。 思い出深い二人の講師がいる。昔の俺同様に音楽の道を志しながらもほぼフルタイムで来ていて、しかもこの教室の最大の戦力となってる西岡先生。俺と同じ年齢で、京都大学を卒業していながら、前職を辞め、ここでバイトすることになった、という遍歴をもつ北野先生。それについて聴くと、「前職に未練がないどころか、退職した時は目の前がパーっと明るく開けましたよ」ということを話してくれた。この人もある意味、何かから「生還」したんだなぁ、という妙な共感を覚えた。そして、この2名の先生とは今でも交流がある。 幡ヶ谷教室の生徒達とも仲良くなり、自分の中でもこの教室を任されるんだなぁという自覚も芽生えてきた丁度その頃、当時この教室の主任講師をしていた大学4年生の先生がいて、卒業後はそのままこの塾の社員になりたい、という意志を表明。この先生は、生徒みんなからの信頼も絶大で、授業も完璧だし、加えてほとんどの業務の流れも把握してる人だった。 そういうわけであれば会社側もこの先生の入社に大賛成で、勤務教室は当然、幡ヶ谷教室がいいに決まっていて、異を唱える人は誰もいなかった。もちろん俺もそれが自然の流れだと思った。同時にだんだんと俺自身の中に焦りも生まれてきた。(つづく)
July 2, 2006
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Vol.1「試用期間」 大卒後12年間講師をやった塾と、新たに職についた塾は全く別物で、単純に規模が違う。就職したところは、教室数・生徒数で日本一のところで、しかも東証一部上場の企業。34歳にして生まれて初めて就職活動(詳しくは「はなれこHP~おじゃ丸語録(就職)参照」をして就いた会社にしては凄いことな気がするが、 実は全然そんなことはない。この塾は全国でフランチャイズ(以下FC)展開しており、直営教室というのも若干あるとはいえ、そのほとんどはFCによる教室で、本部はフランチャイジーからのロイヤリティー(なんと!その率10%!これはセブンイレブンと肩を並べる異常な高さで、FC業界では有名)で成り立っている。 そして、全国のFCオーナー達というのは、基本的には「オーナー=教室長」であり、完全地域密着型の個人塾的なものが全国に散在している、というのが特徴である。 オーナーが2教室以上を経営しているケースは実は少数といえる。 全国にいまある1550教室以上の中で、10教室以上を抱えるオーナーはそれこそ10人前後である。そんな中、一人のオーナーで現在50教室を持つダントツのトップメガフランチャイジーがあり、俺はそこの会社(ここまでの規模になると当然この組織だけで法人になっている)に就職したことになる。 本部に就職したわけではなく、FCなわけだから、その労働の強度の違いたるや公務員と民間(もちろん超中小企業)の開きに近い。 期待されるのは完全即戦力、待遇は絵に描いたような完全成果主義。 就職した初日、いきなりH町教室に行くように言われた。H町教室というのは、この会社のオーナー(社長)が自ら教室長として最初にスタートさせた原点の場所であり、また全国一位(生徒数・売上ともに一位という二冠)、まさにキングオブキングな教室である。 初日のことはもちろん今でもハッキリ覚えている。そこに行って、最初に命じられた任務は、教室の机を拭くこと(笑)。別にどっかの修行僧が「まずは掃除から!」と言われるあれとはまた違うんだけど、たまたま掃除だった。その他、事務作業。っていうより基本的に雑用。封筒に生徒の宛名書きをしたり、ポスターを貼ったり、のり・ハサミ・テープ・ホッチキス系のものが活躍する図画工作的なこと。ちなみにこの教室はさすがに規模が大きいということもあって、女性事務員が2名いた。この事務員がやることを手伝っていたということになるので、この教室の生徒や講師も「あの人は誰だろう、3人目の事務の人?(しかもおじさん?)」って思ってたと思う。 これら一連の事務作業をやってる時の自分自身の精神状態は今でもハッキリ憶えているが、凄い気合が入っていた。単純事務作業なんだけど、無駄に凄い気合!(笑)。そして、しっかりそこの教室長に注意されたりしていた(笑)。「字をもっと丁寧に」「ポスターが曲がってる」「看板の位置が違う」などなど・・・。 しかもしっかりこってり疲れている。やたらと気合や緊張感をもってやってるので、一つ一つの作業が「重い」。まわりから見ても「重い」(笑)。 そういう日々をおくってたある日、いつものように机を拭いてたら、窓の外では政治結社団体のいかにもっていう車が、大音量で何やら演説をしていた。よくよく聴いてみると、ナント、ここの塾の誹謗・中傷であった。(つづく)
July 2, 2006
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ほんの4年半のことではあるが、サラリーマンをした。それまでは12年間塾講師をしてたから、塾生活として考えるとまぁ長いのかもしれない。 でも同じ塾でも、やはり異次元のものだった。 この度、CAFEを開くために仕事を辞め、横浜に引っ越してきた。自分の人生の中でも新章突入だが、ここでちょっと踏みとどまり、このサラリーマン生活のことを自分のために整理しておきたくなった。5年前に「実録メジャーからの生還」を著した時とある意味同じ心境かもしれない。「書く」という行為は、否応なしに自分自身と向き合うことになる、という意味で。 でも「~生還」の時とはやっぱり天と地ほどの違いがあるかな。 場を去る、というその時、悔しくて、悲しくて、情けなくて、憎くて、絶望的で、といった、あらゆるネガティブのオンパレードだったのが「あの時」なら、今回は、散り際に涙を流すほどの感動もプレゼントしてもらえた。コッテコテに仕事に全身ドップリ漬かって、「なるほどねぇ、仕事ってのは壮大なドラマだなぁ」っていうのを感じた。 たかだか4年半の青二才が、こう思うんだから、勤続40年職務を全うした我が父をはじめ、世のお父さんたちというのは、そりゃもう一大スペクタクル巨編だ。 でも、俺は父の仕事の細部を全く知らない。銀行員だった、ってことぐらい。おそらく、スッゴイこと(笑・こう書くとなんだか軽過ぎるな)もあったんだろうし、いや、スッゴイことじゃなくてよくて、小さいどうでもいいこと、いろんな出会い、気持ちの動き、その時の心境、心の機微・・・今は凄く聴いてみたい。なるべく細かく、具体的に。 実の父じゃなくても、その辺のおっさんでも聴いてみたいくらいだ(笑)。ただし、飲み屋で管を巻いて「あの頃はなぁ」的なトーンではなく、理路整然とした話であってほしい。 仕事の話っていうのは業種・業態を超えて共通して、感情移入出来ることがたくさんある。 今年の芥川賞受賞作「沖で待つ」を読んだ。メチャクチャおもしろかった!ってわけではないが、随所に出てくる「仕事現場」の描写に限って言えば、メチャクチャおもしろかった!まさに職種を超えた「仕事」への感情移入。 これから著すこの文章は、基本的には自己整理のためのものだが、なるべく理路整然を目指して書き始めようと思う。 もしも自分に子供がいるならば、そしてその子供が40歳位になって、この文章を読んだとするならば、その子(って言っても40のオヤジ)にだけは「おもしろかった!」と言ってもらえる気がする。うん、それでいい。それを目指す。※文中に出てくる人名は全て仮名にしてあります。 2006年7月1日
July 1, 2006
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