全34件 (34件中 1-34件目)
1
『希望』 共感があれば共有ができ 響働があれば共有となる そこらじゅうに学びは広がる 一つとして無駄はない それはとらえ方次第 惨酷なことほど良い体験になる 願いが強いほど試練は厳しい 希望を持てば、気力が強くなり 希望から願いがわいてくる 気力が強ければ、試練は超えられる そこに相応の菩提心があれば 友達や同伴者と意気投合するときの嬉しさは、絆を深め合いながら、どんなことをも共有できるようになると思います。響働試合ながら、同じ目的を果たす時には、共有し合っているものでしょうね。どんなことでも、共有してくれる人がいれば、その縁が自分を開花させてくれるもので、一つとして意味のないものはないといいます。その他人のとらえ方次第ではありますが、どんな惨酷な試練がきても、のちの為の良い体験として、生きているものだと思います。”試練があれば、願いがある”からで、願いは強いほど厳しい試練が来るように思います。何度もの試練を超えていくうちに自分の魂は向上していくと言います。そこに夢や希望があれば、気力はそれを乗り越えていく勇気を与え、その夢や希望を達成する為の願いが段階的にでてくるのでしょうね。試練は次から次へと訪れてくるもので、気力・勇気がそれを超えさせてくれるものでしょうね。なんでもそうですが、大義名分が無いと力がでないもので、相応の菩提心が有れば、すごい力を発揮できることができるんだと思います。正義感を持っている時に、自分の個人的な欲はないものでしょう。これで全体が良くなる、助か る人や癒される人が多くなると思えば、思わぬ力がでてくると思います。 生きる力を失う時は、希望が何一つ持てなくなるときで、希望さえ持っていれば、どんなことにも耐え忍んでいけるのでしょうね。ただ歩んでいるだけでなく、目的意識を持つことで、どんなことにも対応できる自分になれるものでしょうね。 2009年6月1日 琢
2009年05月28日
コメント(0)
『反省』 自分の居場所は 自分がいるところのすべて 心が休まるところでは 右脳がはたらいて 人の生き様は教えてくれる そっと空・くうでとけ込むとき 観えてくるものがある 自分の存在を主張すれば 他が見えなくなる 背中に強い反発の視線を感じるとき 反省のときをもつ いつも自分の居心地のいい場所や状態を考えてみるのですが、自分がいなかったように思います。本当は、自分をもっと大事にしていれば、自分がいるところのすべてが自分の居場所なんでしょうね。心が休まるところでは、今までにない自由自在の心境で、ひらめきや発想が右脳を働かせていたかもしれません。如何に自分が愚かだったことになるんでしょうね。ものごとを簡単に考えていると、他人の生き様が見えないものです。何もかもわかった状態で、あるがままでいれば、観えてくるものがあるのかもしれません。自分の存在を主張すれば、自分も見えず、他も見えないものですね。それだけでなく、自己主張は、背中に強い反発の視線を感じながら、いつも自己正当化や自己陶酔に浸っていたのかもしれません。他人の言うことに耳を傾けていれば、もっと他の思いがわかって、自分のあり方がわかっていたかもしれません。回顧反省や脚下照顧はしておくべきですね。自分の人生さえわからなくなるのは、聴く行をせず、見識の甘さを示すものだとつくずく思います。生まれてから、”もらう幸せ”の幼い心から、”できる幸せ”を得ようとしてきて、何も出来ていなかった自分が いることに気付くんですよね。”あげる幸せ”は、菩薩の領域だと言いますが、何もできていない自分があげられるものがあるかと思うとお恥ずかしいの一言です。足元にはみすぼらしい自分が見えるだけです。課題は山ほどあって、あるべき姿を目指していますが、確認すればするほど愚かな自分を観るばかりなんですよね。勉強してきたつもりでいても、理屈ばかりで、何も実践できていない自分がいるんですよ。”言ってることとやってることが違う”と言われてきましたが、まさにその通りだと思います。反省のときをもつことも大切なことだと思います。 2009年5月31日 琢
2009年05月28日
コメント(0)
『ぬけるために』 落ち込むとき 課題は一つや二つでなく 笑顔でさえ消すものlは きのこ雲のようにかぶさり 自分を見失うときで 全部を一度にはらえないとき 時が解決できなくても 耐え忍ぶしか道はない 期待せず待つことも 精進、忍辱・にんにくの行として 何かのよびかけと思えば 得るところも多い 落ち込むときはよくあるものですが、そんな時には課題はたくさんあって、気が重くなり、笑顔も出ないときは誰にもあるものです。それが”執着”でしょうか、真っ黒なきのこ雲が頭の上にかぶさっているようで、自分を見失う時でしょうね。一度に全部はらうこともできず、時間がたってもなかなかぬけていかない気持は、チェック方式で一つ一つ消しながら、耐え忍ぶしか道は見えないときでしょう。”果報は変えられないが、因縁は変えられる”で、既にある現実は変えられないので、因を変えて縁を待つように、期待せずに待つことも必要だと思います。葛藤、迷いの連続には、六波羅蜜・悟りの道【布施、持戒、精進、忍辱、禅定、智恵】の行を思いながら、何かのよびかけと深く受けとめれば、得るところも多いと思います。自分だけでなく、人も同じ苦をぬけるために努力しているはずでしょう。 果てしなく 険しく続く 天の道 受容してなほ 見えぬ道のり 2009年5月30日 琢
2009年05月28日
コメント(0)
『体験』 自分が良い子になれば 隣りが悪い子になる 自分を先に守れば 誰かが傷ついている 自分を滅するところに 道が見えてくる 忍土を知れば よびかけに気付きが得られる ”そういうことだったんだ”と 自分が痛い目にあうから 他人の痛みがわかる 体験しなければわからない この世の中は忍土というくらい厳しいもので、社会は多くの人のの集まりで、それぞれの違う希望や目的が交差するところだから、摩擦が多く、邪気【都合、計算、打算、意地】が多いところなんですよね。情報の交差するところですから、自分を良く見せようとするとそばにいる人を悪い人にしてしまうもので、自分を先に守れば、誰かが傷ついていることに気が付かない場合が多いですね。無私と言って、自分を無くして接していると、他人のためになることも出来て、他人の心も開いてくるから、自分の道が見えて来るんだと思います。”試練はよびかけ”と言いますが、試練が多いほど、気付きが多いものでしょうね。”そういうことだったんだ”と思うことも多かったと思います。何度も痛い目に遭うと、他人の痛みもわかってきて、癒しあうことができるものです。逃げ出したくなるようないやな体験があっても、癒しあうことができる仲間ができれば、そこに居続けることもできるのだと思います。自分がいろんな体験の中から、無私になれて、他人の痛みが自分のことのようにわかる心が菩提心だといます。”わかる”と言うのは、知識だけでなく、体でも何度も体験して、スポーツと同じく体で覚えないと、身に付かないんですよね。 2009年5月29日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Thursday, May 28, 2009 9:23 AM Subject: 28日の日記
2009年05月28日
コメント(1)
『よびかけ』 明るさは幸運をもたらし 暗さは暗運をもたらす それぞれに逆もある 幸運にも暗運にも内がある 因には原理があって 修正することができる 習性は長年の癖のようなもの 時間をかければ変えられる 固定概念を柔軟にすれば よびかけが見えてくる 事件の前には警鐘が鳴っている 人の心の中には魔・サタンがあって、明るい心でいるときには、それは出てこない。幸運は明るさを求めて現れるのでしょうね。暗い心でいると、その魔が出始めて、外の魔と呼応し始めて暗運を引き出していくように思います。その逆に、幸運が人の心を明るく楽しくさせるもので、暗運は人の心を暗くさせるものですね。心の置き方次第で明るくも、暗くもなるように、止観をすればわかりますが、人の心は瞬時に動くものです。それには因があって、その因には原理があるものだから、それを修正することもできると思います。人はその時々の仮の姿で仮我ですから、長い年月の癖のような習性・傾向があるものだと思います。短期間で修正するのは危険なような気がしますが、時間をかけて変えていければと思っています。固定概念を柔軟にして、自分の置かれた立場も考えて、どんな試練が訪れようと、それを”よびかけ”と思って、気が付いたところから修正していくほうがいいと思います。事件として現れるときは、必ずその前に警鐘が鳴っているもので、それを見逃さないように心掛けておくことが重要なことだと思います。事前の対応策が打てると思います。 ”油断大敵”、世の中は何が起きるかわからないものですよね。阿呆でいるのもいいかもしれません。緊張の持続は疲れてしまうから、そんな時は何も考えないほうがいいのかも知れませんね。 2009年5月28日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Wednesday, May 27, 2009 9:25 AM Subject: 27日の日記
2009年05月27日
コメント(0)
『勝者』 心の支えは内のもの 見えるもの、与えられるもの 内にあるものは自分でも神仏でも 信念さえゆるぎなければ 外のせいにはできない 感謝の念は内と外を繋ぐ 知性と理性が意志となり 邪念は表に出さず 余計なことをせず、清浄でいれば 勝者に恵みは多い 人には心の支え場必要ですが、古来、水のあるところに人が住み、文明の発達の歴史には、心の安定の為の信仰があり、宗教が必要であったように、太陽信仰を原点とする心の安定に必要なものがありました。愚かさを自覚すればするほど、心の内においておく何かが必要だったと思います。それが太陽を神とするものであったり、仏像を見て心の内に置いていたりするもので、自分の信念であったりするものだと思います。生きていく道で学ぶ、その人なりの哲学と神仏の教えと伝説から、信念ができてくるのだと思います。その信念が揺るがなければ、心は安定しているもので、全部自分の内側のものですね。”苦しい時の神頼み”も、自分の心の中にある神仏に自分の願いを祈るものでしょうね。内のものですから、外のせいにはできないでしょう。感謝の気持がわいてくると、内側の心に潤いが出て、外に対して感謝の念が伝わって、内と外の関わりの再結ができると思います。人は心によって動いているもので、知性と理性で本能や感情を抑えて意志となって、その人を動かしているといいます。本能や感情は邪念を起こしやすいので、それを表に出さないように、余計なこともしないで、綺麗な心の道を歩むものを”勝者”と言うそうです。玄奘三蔵さんの唯識には、仏陀の教えはその人のためにあるといい、求道、精進を積むものに恵みは多いようです。勝ち負けという意味ではないそうです。勝ち組、負け組は唯物的なところのあるもので、ここで言う”勝者”は、そういう意味では無いのです。 2009年5月27日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Tuesday, May 26, 2009 9:26 AM Subject: 26日の日記
2009年05月26日
コメント(0)
『まとまり』 連帯責任は 全体を引き締め 自己中心的志向を正し グローバル思考を要する 地上に異変が起きるときが 全体の学びとなる 皮肉なことに、良くないときが 結束の絆が一つになれる 良いときも悪いときも 長くは続かない 如何に凡を保てるか 昨日は北朝鮮の地下核実験が、世界の願いを裏切って強行されました。初めての原子爆弾は、日本の広島、長崎に投下され、多くの命が一瞬のうちに奪われ、被爆された国は日本だけでした。それ以降、物質文明は飛躍的に発達してきましたが、全面降伏した日本は、短期間で国家を建て直して、アメリカに次ぐ経済大国に成長してきました。世界は物質的にゆたかになってきましたが、自然破壊のために地球温暖化が異常現象となって、今徐々にその果報が現れ始めてきています。一人一人の人間は、自分がしてきた訳でなくても、その連帯責任を負わなければならない覚悟を無意識にしていると思います。何が起きても、自然現象だけは、人間の力ではどうにもすることはできないからでしょうね。警鐘となる現象がたくさんなっているように思いますが、これが全体を引き締めて、自己中心的志向を正し、グローバル思考を必要とするときが来ていると思います。この地上に起きる異変が全体の学びになってきたように思います。良くないことがおきる時にしか学べないことは皮肉なことですが、結束の絆が一つになる時期が来ているように感じています。今までの世界の歴史では、良いときも悪いときも長くは続かないように思いますが、地球・宇宙の歴史となると何万年という単位です。この百年のことが,この地球上にどんな影響を与えてきたかは、今後の天変地異や人間が行なう過ちに現れてくると思います。その連帯責任を取らなければいけないのが人類ですね。 今後如何に凡を保てるかが問題ですね。 価値観は 不要の知恵の 比べもの こだわり捨てて 花を愛しむ 2009年5月26日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Monday, May 25, 2009 9:26 AM Subject: 25日の日記
2009年05月25日
コメント(0)
『共存』 人の本性には 自然界に共存する要素があって 偉大なものに創り与えられていて 自我我欲と自己保存を抑えれば 素晴らしい能力がある 邪魔なものでさえ無駄はなく 邪気も変えれば味になる 心を裸にすれば 認め合えるように 生物も千差万別で あるものをいただく 人には生まれたときからいただいている良心・菩提心のかけら・があって、これが自然界に生きるために必要な要素として、偉大なもの・創造主に与えられているように思わざるを得ません。あらゆる欲・煩悩でさえ、生きていくために、種族保存のために与えられているとしか思えません。旧皮質能の動物には無い、自我我欲と自己保存を抑えることさえできれば、素晴らしい能力に変わるだろうと思います。自分にとって邪魔なものでさえ、無駄は無くなるだろうと思います。邪気【都合、計算、打算、意地】も変えていけば味になるだろうと思われます。いつでも、心を裸にして、素直な心で接していれば、お互いが認め合えるように思うのですが、邪気がそれを歪めていくように感じています。生物・人も、千差万別で、あるものとして受け入れることができれば、世の中はもっと良くなると思います。 積年は 何かを残し 無駄もなく いつの世にかは 現るものと 世の中は かくあるものと わかりつつ かすかな夢を 探し求めて 2009年5月25日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Sunday, May 24, 2009 9:27 AM Subject: 24日の日記
2009年05月24日
コメント(0)
『蛇行』 すべては心の作用で 霊と呼ぶものは別ものでなく 内にいつもあるもの 善いものを残し、捨てるのは自分 外に依頼はできない 気を強く保つ縁は必要で 真心の励ましは力をくれる 降りかかる火の粉を払い 真念と共に前進すれば 蛇行はしない 説明は時として蛇行する 蛇行は、蛇が進む時のように、人の歩みのことを言うのですが、それは心の作用で、自分の人生史をグラフに描いたようなものです。折れ曲がっているところでは何かの事件があって、原因となっているからで、それは自分の心の浮沈の現われで、憑依霊の作用でもなく、別もののせいにしがちですが、内にいつもあるものが表れていることを示しているからだと観えてくると思います。病もそういうものが表れて消えていく姿だと言います。善いものを残し、不要なものを捨てるのは自分の意思で、それを外に依頼することはできないでしょうね。自分が強い生き方をするには、気を強く保つ縁・応援や励ましや自分の光になる部分を見つけてくれる人・が必要で、真心は伝わってくるものですね。勿論、外因的に降りかかってくる火の粉は自分で払うものでしょうね。真念と共に前進していれば、心の蛇行はないと思います。言い訳や説明は、伝わりにくいもので、時として蛇行しているように思われるものでしょうね。 価値観は 不要な知恵の 比べもの こだわり捨てて 花を愛しむ 虚しさは 思いの深さ 伝わらず 山に咲く花 見る人もなし 2009年5月24日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Saturday, May 23, 2009 9:26 AM Subject: 23日の日記
2009年05月23日
コメント(1)
『四つの力』 観力は本質を観る力 浄力はその欠点を浄化する力 発力は浄化された自分を保つ力 結力はその自分と再結する力 除霊はその時だけで 内に在る魔は残っている 気休めでなく 悪因切断の実践と 善因開墾の持続的精進には それぞれに必要な菩提心で 八正道を白い道とする 人は誰も四苦八苦しながら生きているもので、それにはそれなりの原因を抱えながら、それ気が付かないものです。他人から見れば見えているそうですが、他人の話や反応を素直に受け入れることもできず、自分のこととなると本質を見分けることは難しいものです。大体は感じているもので、それを正し、浄化することが自分からアクを抜き取ることになって楽になるものでしょう。誰の心にも魔はあるもので、それを封じ込めることになるのも浄化の力でしょう。仮の自分は生まれ育ちの中で形成され、変化しているものですが、もともと心の中に潜在している意識に魔があるもので、なかなか封印できないものかもしれません。その仮の自分を浄化しながら、維持して、本来の自分で生き抜いていくことには相当の力がいることだと思いますが、それをするために生まれてきたと言いますから、それが人生だと思うしかないでしょうね。外に、悪因は霊の作用だと言って、除霊してもらっても、すぐに元に戻ってしまうそうで、それは自分の心の内にある魔を封印し続けないと、ただの気休めになるだけのようですね。悪因切断をしながら、善因の開墾をする努力は持続的精進を積むことで 、それにはそれぞれに必要な菩提心を育んでいくことが、最高の因・自分と再結することになると言います。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のチェックをするのが八正道で,いつもこのまなざしで生きていくほうが良いといわれています。 やるっきゃないんでしょうね。本来の自分を取り戻すにはそうなんでしょうね。 山百合に 見られて上る 杉木立 清水の流れ 鳥の歌声 2009年5月23日 琢
2009年05月20日
コメント(0)
『シンプル』 人に赤いじゅうたんを敷けば 花道ができる 自分をみすぼらしく思わず 他の笑顔があれば 自分が癒される 花がニコニコと咲くとき 芳香は心に沁みて 足取りも軽くなる 子供でいるほうが、変な大人よりいい シンプル イズ ベスト 最終の願いはそこに来る 自分がそうかも知れませんが、人に認められたいと思ったり、堂々と進んでいきたいと思うときには、赤いじゅうたんを敷いてくれると、花道を歓迎されながら進んでいけるように思うもので、人にもそうして上げる方がいいと思います。自分がみすぼらしく思うときは特に、堂々と歩きずらいもので、他人の顔色を見ながら行動する場合があります。育ちにもよるものかもしれませんが、拍手の中を進んで行きたいのが他人の心理だと思えるのです。それによって他人が積極的に喜んで、自信を持って笑顔で進み始めると、嬉しく思ってくるんですね。花がたくさん咲いていて、そこを歩いていくと花の芳香が心に沁みてきて、足取りも軽くなるように、ニコニコした顔で拍手があれば、恥ずかしそうでも、嬉しそうに進んでいけるのが人の心理だと思います。理論的に分析して理由付けをしても、結果を観て客観的に評価しても、人間は究極的には単純なもので、したいかしたくないか、好きか嫌いかが進路に大きく影響しているように思えるのです。”シンプル イズ ベスト”でしょうね。子供のままで、変な大人びた理由付けをするより、あらゆる思考を空の中、心の中に持ちながら、 笑顔で幸せそうに進んでいく姿が人間には一番似合うように思えてきました。分岐点に立つ時、愛をもって背中を押してくれると進みやすくなるように、赤いじゅうたんを敷いてあげるのも愛あればこそだと思います。なんだかんだ言っても、人が一歩踏み出す時は、重たいようにかんじると思いますが、一歩は一歩に過ぎないんですよね。歩くのは自分の足で、結果を他人のせいにできないんですよね。それより、その後の自分の歩みに責任を持って、修正すべきところは正しながら歩みを進めていくほうがいいと思います。 山百合に 見られて登る 杉木立 清水の流れ 鳥の歌声 2009年5月22日 琢
2009年05月20日
コメント(0)
『シンプル・簡単』 人に赤いじゅうたんを敷けば 花道ができる 自分をみすぼらしく思わず 他の笑顔があれば 自分が癒される 花がニコニコと咲くとき 芳香は心に沁みて 足取りも軽くなる 子供でいるほうが、変な大人よりいい シンプル イズ ベスト 最終の願いはそこに来る 自分がそうかも知れませんが、人に認められたいと思ったり、堂々と進んでいきたいと思うときには、赤いじゅうたんを敷いてくれると、花道を歓迎されながら進んでいけるように思うもので、人にもそうして上げる方がいいと思います。自分がみすぼらしく思うときは特に、堂々と歩きずらいもので、他人の顔色を見ながら行動する場合があります。育ちにもよるものかもしれませんが、拍手の中を進んで行きたいのが他人の心理だと思えるのです。それによって他人が積極的に喜んで、自信を持って笑顔で進み始めると、嬉しく思ってくるんですね。花がたくさん咲いていて、そこを歩いていくと花の芳香が心に沁みてきて、足取りも軽くなるように、ニコニコした顔で拍手があれば、恥ずかしそうでも、嬉しそうに進んでいけるのが人の心理だと思います。理論的に分析して理由付けをしても、結果を観て客観的に評価しても、人間は究極的には単純なもので、したいかしたくないか、好きか嫌いかが進路に大きく影響しているように思えるのです。”シンプル イズ ベスト”でしょうね。子供のままで、変な大人びた理由付けをするより、あらゆる思考を空の中、心の中に持ちながら、 笑顔で幸せそうに進んでいく姿が人間には一番似合うように思えてきました。分岐点に立つ時、愛をもって背中を押してくれると進みやすくなるように、赤いじゅうたんを敷いてあげるのも愛あればこそだと思います。なんだかんだ言っても、人が一歩踏み出す時は、重たいようにかんじると思いますが、一歩は一歩に過ぎないんですよね。歩くのは自分の足で、結果を他人のせいにできないんですよね。それより、その後の自分の歩みに責任を持って、修正すべきところは正しながら歩みを進めていくほうがいいと思います。 山百合に 見られて登る 杉木立 清水の流れ 鳥の歌声 2009年5月22日 琢
2009年05月20日
コメント(0)
『聞く』 快暴流は人の話を聞かない 自分に都合よく聞き 自分だけの果を得ようとする 煩悩で聞くのではなく 菩提心で聴く・訊くと 他の心が観える 会合でその心がけをすれば 自分だけでなく他も変われる 思いやり・気くばりはそこから 観音、泉、海、大地の心で その菩提心でという 快暴流は自信家のことで、そう有りたいと思ってもなれる時は短く、失敗で落ちてしまうのですが、その時は他人の話を聞かないからで、自分に都合よく聞いて、自分だけの結果を求めてしまうものです。一方通行でものを考えてしまうんでしょうね。自分のしたいようにするのが煩悩ですが、煩悩で聞くのでなく、他への菩提心・慈悲慈愛の心で聴く、訊くと、その他人の苦しみや悲しみが伝わってくるもので、会合に行くときは、その心がけをしていれば、自分だけでなく、他人の心もわかり、思いやりや気くばりが出来るようになるし、自分も他人も変われるといいます。菩提心には、快暴流には月の心、観音の心、稲穂の心、苦暴流には空の心、川の心、海の心、苦衰退には山の心、大地の心、太陽の心、快衰退には火の心、風の心、泉の心、が有り、自分が陥っている状態を抜け出すことに必要な菩提心を発掘すると良いと高橋先生は言います。”きく”ときには、観音の心、泉の心、海の心、大地の心の菩提心で聴く、訊くのがいいといっています。 2009年5月21日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Wednesday, May 20, 2009 9:26 AM Subject: 20日の日記
2009年05月20日
コメント(0)
『聞く・聴く・訊く』 快暴流は人の話を聞かない 自分に都合よく聞き 自分だけの果を得ようとする 煩悩で聞くのではなく 菩提心で聴く・訊くと 他の心が観える 会合でその心がけをすれば 自分だけでなく他も変われる 思いやり・気くばりはそこから 観音、泉、海、大地の心で その菩提心でという 快暴流は自信家のことで、そう有りたいと思ってもなれる時は短く、失敗で落ちてしまうのですが、その時は他人の話を聞かないからで、自分に都合よく聞いて、自分だけの結果を求めてしまうものです。一方通行でものを考えてしまうんでしょうね。自分のしたいようにするのが煩悩ですが、煩悩で聞くのでなく、他への菩提心・慈悲慈愛の心で聴く、訊くと、その他人の苦しみや悲しみが伝わってくるもので、会合に行くときは、その心がけをしていれば、自分だけでなく、他人の心もわかり、思いやりや気くばりが出来るようになるし、自分も他人も変われるといいます。菩提心には、快暴流には月の心、観音の心、稲穂の心、苦暴流には空の心、川の心、海の心、苦衰退には山の心、大地の心、太陽の心、快衰退には火の心、風の心、泉の心、が有り、自分が陥っている状態を抜け出すことに必要な菩提心を発掘すると良いと高橋先生は言います。”きく”ときには、観音の心、泉の心、海の心、大地の心の菩提心で聴く、訊くのがいいといっています。 2009年5月21日 琢
2009年05月20日
コメント(0)
『不動』 空の色は青く 海の色は青く 川の色も青く 目の色も青く 澄んでいるほうがいい 心が澄んでいたいから よどむときは苦しいから 乱されると自分で無くなるから 世の中を複雑に考えず 自然体で心を空にして 半眼もせずに 晴れた日の空は青くどこまでも澄んでいて、南の海は青く澄んでいて、岸壁は白く輝いて、サンゴ礁にはたくさんの綺麗な魚がすんでいるでしょう。山に行けば川の色は青く、冷たい水を手で掬えば美味しい。目の色も青く澄んだ目でいたいと思う。充血した目は心に何かの作用があって、体も不健康な疲れがあるときで、よどんだ心のときは、迷い苦しみが有って、目に表れてしまう。心が乱れるときは、情けないほど自分を見失っていくもので、考えても考えても、悪い脚本を描いてしまう。世の中全体が複雑怪奇に思えてきて、自分の居場所がないように思えてくる。青く澄んだ心でいつもいれば、すべてを素直に受け入れて、自然に溶け込んでいる、かたよりやこだわりやとらわれのない、ひろい心でいたいと思う。自然体でいれば、半眼になって、目を細めて視界を閉ざさなくても、心は乱されない、”空”の状態でいたいと思う。 人は愚かなもので、考えを張り巡らせても、どこか抜けているもので、弱点は思いも付かないところにでてくるものですね。友達や仲間たちがいれば、何とかそこを補ってくれる、ありがたいものです。一人で考えているから、一人で落ち込んでいくのが、いつもの自分のようです。 信の土台さえできていれば、その上に築くものが倒れることはないでしょうね。 2009年5月20日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Tuesday, May 19, 2009 9:27 AM Subject: 19日の日記
2009年05月19日
コメント(0)
『ご満悦』 風土風習で常識は違う そばだけは音を立てて食べる国 どんな音も嫌う国 それぞれの善し悪しは言えない 好き嫌いには個人差がある こだわりもほどほどにして 既成概念を吟味しながら 覚悟できないものも視野に入れ アクを取れば味が良くなる 添える花があれば尚良い 悦に入る自分でいたい その上での単純が一番良い 人は生まれた血筋や地域や時代の知識の影響を多分に受けて育つもので、これを血、地・知の影響と言っています。日本では奥ゆかしさや侘び寂びの世界、静かさが好まれるものですが、そばだけはすする音を立てて食べるのが通とされています。他の国では音を立てて食べることを嫌う国が多いですね。それぞれの善し悪しは言えないと,浅はかなことだと見識の甘さを観られてしまいます。好き嫌いには個人差があって、こだわりを少なく、ほどほどにしておくことがいいようですね。血、地、知の既成概念が有ることもよく吟味しながら、受け入れたくないものも、時には受容できる覚悟も視野に入れておく必要があると思います。ものさしの違いが人との摩擦になることは多く、悩みを自分で作り出している場合もよくあることですよね。料理の煮物を作るときはアク抜きをするもので、余分な油を捨てて、味が良くなるもので、器に盛る時には季節の花を添えると尚良くなりますね。風味と言って、これも血、地、知の影響で、これをうまく取り入れると料理も美味しくなる訳ですね。見た目で食べる味も変わってくる大事なことだと言われています。通はそれにこだわりをもって、気に入った店をよく知っているもので、自分もそれなりの悦に入る、ご満悦の時を得たいと思います。すべてを知った上で単純でいるのが、一番だと思います。 2009年5月19日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Monday, May 18, 2009 9:27 AM Subject: 18日の日記
2009年05月18日
コメント(1)
『蓮の花』 白い花は心の中道か 白には何でも書ける 染めがたい気高さがあって 冷たいようでも温もりがあって 汚れた水の中からも 蓮の花は真っ白だ 人は白で生まれて白で帰っていく 体に色はついても 心だけは白でいられる その時々の色は仮の姿 染まった色には味がある それなりの色がその人の色 子供が字や絵を描き始めるのは、白い紙で、どんな色でも書くことができます。その色に染まらない、気高い気品を感じるのが白ですね。冷たさを感じることも有りますが、広い温もりがあって、汚れたものほど、すべての過去を消し去って、あのような白い自分になりたいと思うことも有ります。汚れた水、どろどろの水を忍土・この世の中にたとえて、その中からでも真っ白の美しい花を咲かす蓮の花を、仏教では人の心もそうなれると捉えて、仏像は蓮の花を台座にしています。人は生まれた時には汚れの無いもので、煩悩によって汚れていく、忍土で汚されていく人生でも、心には”白い道”があるといいます。体に色がついても、心だけは白でいられるように、素直で綺麗な心を保って生きたいものですよね。でも、その時その時につく色にも味が出ているもので、仮の姿とはいえ、その人の歩みがわかる、葛藤の後もうかがえるもので、同じ苦しみをもつものだけがわかるものですよね。それなりの色がその人の色で、記憶の中には残っていくもので、そのどんな悲苦をも自分の悲苦のように、人を癒せるような心が整った状態を大菩提心というのでしょうね。それを無償の愛という のでしょう。釈迦やキリストの共通点が有るとすれば、この愛のことだと思います。 2009年5月18日 琢
2009年05月15日
コメント(0)
『梵・ぼん』 いけないことをするのが人間で 良いことをするのも人間で 思い煩うのが人間で 迷い苦しむのも人間で 植物にそれは無い 有情の悲しさか 万物の霊長の相・すがた その一番を争うから 自然破壊の因となる 唯物的から唯心的になれば 梵に従うしかない 人は自分がしたいようにすれば、他に苦痛を与え、それに気が付かないもので、注意されると自己正当化して、他を納得させたつもりでも、歓迎されないことをしてしまうものですね。生まれた時からいただいている良心・菩提心のかけらが有るから、他のために良いこともするのですが、これが結構押し付けの場合もあるんですよね。心の片隅には、それが判っているのですが、素直になれずに、好転させることが出来なくて、思い煩ったり、迷い苦しんだりしているもんですね。植物にはそれが無く、無情と言って煩悩が無いから成仏できると言われているそうです。動物の中でも一番頭のいいのが人間で、万物の霊長と言いますが、有情・うじょうと言って煩悩が強くはたらいて、他の動物と違って自分の都合に執着する為に、同族同士の殺し合いでさえしてしまうものと言います。その中で競争することや、明日の保証を得るために余分な蓄積をするから、どんどん自然が破壊され、お金やもののために、絶滅の危機が迫っている動物もいるそうです。旧皮質能の動物と違う、新皮質能の人間だけが同族同士の殺し合いをするのは、煩悩【自己顕示欲、自我我欲、自己保存】があるからで 、それに執着しないようにとお釈迦さんが言ったそうです。唯物論で栄えてきた20世紀の負の遺産がまだ残っていますが、健康、安全、人命尊重で21世紀は少しずつ唯心的になってきていると思います。”梵”は宇宙の根本原理と言う意味があるそうで、自然界の法則を守り、地上の他の生物との共存のために”浩然の気”【宇宙大自然と一体化する心境で、のびのびと安らかな心境】を求めて、梵に従うしかないのでしょう。 2009年5月17日 琢
2009年05月15日
コメント(1)
『遍照』 日々重ねるものは ”よかったさがし”の積み重ね 観わける力も必要で 善し悪しを計るのでなく 一点の光が闇を明けるように 見える世界を広げるために 光らないものは磨き 別の輝きがでるように プリズムが日陰を照らすように どんな角度でも生きてゆける 明日の希望を持つために 日は遍く照らしてくれるから 地上の生物は日の光を求めて生きています。人も毎日、太陽の光があるから生きていけるようなもので、心が明るくなれるように、楽しいことが多くなるように願っていると思います。以前、聖少女ポリアンナのアニメがありましたが、”よかったさがし”をしている天子のような子をよく思いだします。これを毎日やることで、悪い部分を観ず、良いところだけを見ていれば、自分も他人も明るくなっていけるものだと思いました。”葦の髄から天井を覗く”ような見識の浅い”善し悪し”を計るのではなく、観わける力も必要だと思います。闇に一点の光を灯すと消えて明るくなって、周囲が見えるようになることを思い、見える世界を広げていく事ができればと思います。光らないものは磨きながら、別の輝きがでるように、プリズムを使うと地下の片隅にまで反射光を当てることができます。どんな角度があろうと工夫することで、明るみになると思います。暗い気分を明るくして、明日の希望をもちたいものですね。身分の高い低いやお金がある人無い人に関係なく日の光は遍く照らしてくれていることを思えば、自分は生かされているんだと思うんですよね。失敗が多くなると、どうしてもプラスより、マイナスを先に考えてダメな気分になるから、”よいことさがし”が必要なんですよね。 2009年5月16日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Friday, May 15, 2009 9:28 AM Subject: 15日の日記
2009年05月15日
コメント(0)
『百景の松』 いつも見る自分 空は青くどこまでも広い 孤独を抱え 呟く言葉は他人のせい 悔過する時もあり 群れに入ればと 身を忙しくして 我に返る現実は虚しい 何度生きても同じこと 打ち寄せる波は永遠に 百景の松は美しい 春夏秋冬は日本のはっきり現われる特徴と言ってもいいと思います。地震や台風が最も多く発生し、雨量も多く、そこに生きるものにはそれなりの抜け方をした意味深い形になっています。景色は瑞々しく、水はきれいでどの山に行っても飲むことができて美味しいものです。他の国では、多くは飲むことができず、宿泊するホテルの水でさえ飲むことができずにミネラルウオーターを買うしかないと言います。日本のどこの海岸の砂地にある松ノ木は台風に耐えた姿で素直に天に向かって真っ直ぐに立っているものは一本もありません。そのゆがんだところに味が会って美しさがでています。風土とはそういう地に育つものにはその影響を受けているもので、人の心にもそれが長年のうちにしみこんだものがあって、奥ゆかしさにもなっているんでしょうね。歌や俳句は短い言葉に景色や四季に心を入れて作られ、観る人にそれを解釈させるものですよね。島国と言うことも、国境線で仕切られていないので、民族紛争みたいなものは無いですね。言わないことを美徳としてきた歴史は心の葛藤の歴史だと言ってもいいかもしれませんね。葛藤の原因は大方が業・カルマだと言えると思います。それを繰り返してきた苦楽の歴史があるんでしょうね。”願いがあれば必ず試練がある”と言います。その超え方にも風土の特徴が出ると思います。多くを語らず、言い伝えを教えてきた父母や祖父母が多かったと思います。みな似たようなところを抜けてきていると思う自分も同じような呟きがでていると感じています。あまり騒がずに生きて、日本の美を楽しんで生きたいですよね。 願わくば 我が意得たりと 思うとも 待てど暮らせど 叶わぬものと 2009年5月15日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Thursday, May 14, 2009 9:28 AM Subject: 14日の日記
2009年05月14日
コメント(0)
『精進』 業の深さは 単純明快な言葉でも 浄化の糸は複雑で あせた色でさえ 自分だけはと人は言う 他人には観えるものでさえ 認めたくない自分がいて 鏡の自分を否定はできない 他人の反応は正直で 直しながらも効果でず 倣うことは多い 何度も犯す過ちはわかっていながら止まらないもので、結果が見えるからこっちの方でと逃げても、やっぱり同じ結果が待っているといいます。業・カルマとはそういうもので、言葉にすれば簡単な言葉で言えるものですが、それを浄化するには固く絡みついた糸で色まで変わってしまった塊をほぐすようなもので、それで生きて積んできたものですから、簡単ではないですよね。それは自分だけではないと想い他人にもそういうのですが他人には見えているといいます。簡単には納得できない自分がいるのですが、一人淋しい自分を見つめていると思い当たるものがあって否定できないものです。他人の反応は正直に現われるもので、自分が素直になって、明るく他人に対応できればと思います。少しずつ治すつもりでないと、効果はすぐには出ないと思うので、その姿勢だけは続けていくのがいいと思っています。それが精進と言うことだと思うし、倣うことは多いですよね。最近は”自分を変えたい”と言う人が多くなってきているようですが、それだけ世の中の身の回りの現象に疑問を感じているからかもしれませんね。 意地をこそ 捨てれば楽と 知りつつも 血のざわめきを 通す淋しさ 悔過・けかすれど 晴れぬ思いも 業深き 前世の願い 果たしがたきと 2009年5月14日 琢
2009年05月12日
コメント(0)
『余韻』 言葉があるから 心を伝え合い 和することができる 文書は忘れることが多く 発した言葉は心に残る 名前も大きな役割を持つ 運命にさえ影響を与える 親の願いも見えてくる 記憶には余韻が残っている 花の命は短くても 期待は長く続いている 言葉は難しいもので、表情に出る心で結構伝わりやすくなるものですね。言葉自体には、特に日本語にはたくさんの意味に取れる場合が多く、それを選定して表現する時に、自分の言いたいことがいえているか不安になるものです。教養やセンスも現われて、深みさえ出るものですよね。文学的な表現は意味深く味のあるものですが、相手をはかるものでもあります。本当は直接的に優しい言葉の方がどんなランクの人にも伝わるものです。お互いに自分の本音や建前が伝わってくれば、共通点を見つけながら和することができますね。文書は全体の意味はわかったつもりでも、見逃すことも多く、その場の心境で取り方も変わって、忘れてしまうことも多いかもしれませんね。発した言葉は音も同じように心に残ってしまうものです。名前も同じで、呼んだり呼ばれたりすることが最も多く、名付けた親の願いも含まれていて、その人にとって大きな役割を持つものですよね。運命にさえ影響を与えるものかもしれません。名前負けとか、その名の通りとか、結構生き方に影響を与えるものです。言葉や音には余韻が残るもので、心のどこかから、時間が過ぎたあとでも聞こえてくるような気もします。花は一斉に咲き始めるのですが、すぐ枯れてしまうもので、種を残すものですよね。その種がまたその花を咲かすわけで、自然の現象ですが、期待も大きなものが有ると思います。自然の言葉と言えるかもしれません。 積年は 何かを残し 無駄も無く いつの世にかは 隠せざるもの 2009年5月13日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Tuesday, May 12, 2009 9:29 AM Subject: 12日の日記
2009年05月12日
コメント(0)
『容相』 協調性は和を深め 正論は芳香のように 流れのようにさらりさらりと センスの良さはそこに ファッションのように色を合わせ 時の趣を感じながら 緑は心のように どの花にも合う そっとその場に溶け込んで 違和感の無いように そう有りたいと思う 人と合わしたり、共通点を見つけて意気投合したり、共有できる協調性があれば和は深くなって、縁がそっと近寄ってくるのだと思います。そういう場では正論は皆心にあるもので、強調せず芳香のように場に流れて、さらりさらりと色付くようにできれば、センスのよさが表れてくると思います。ファッションのように色彩をあわせ,時の流行も視野に入れて自然を感じさせるように、心を緑とすれば、どんな草木の花にも合うものでしょうね。大自然に身を置くように、そっとその場に溶け込んでいることができれば、違和感もなくなってくると鳥や小動物の声が聞こえるようになって、その場の一員として受け入れられたことになると思います。自分もそうできれば、そう有りたいものだといつも思います。 世の中は かくあるものと わかりつつ かすかな夢を 探し求めて 2009年5月12日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Sunday, May 10, 2009 9:30 AM Subject: 10日の日記
2009年05月10日
コメント(0)
『容相・ようそう』 協調性は和を深め 正論は芳香のように 流れのようにさらりさらりと センスの良さはそこに ファッションのように色を合わせ 時の趣を感じながら 緑は心のように どの花にも合う そっとその場に溶け込んで 違和感の無いように そう有りたいと思う 人と合わしたり、共通点を見つけて意気投合したり、共有できる協調性があれば和は深くなって、縁がそっと近寄ってくるのだと思います。そういう場では正論は皆心にあるもので、強調せず芳香のように場に流れて、さらりさらりと色付くようにできれば、センスのよさが表れてくると思います。ファッションのように色彩をあわせ,時の流行も視野に入れて自然を感じさせるように、心を緑とすれば、どんな草木の花にも合うものでしょうね。大自然に身を置くように、そっとその場に溶け込んでいることができれば、違和感もなくなってくると鳥や小動物の声が聞こえるようになって、その場の一員として受け入れられたことになると思います。自分もそうできれば、そう有りたいものだといつも思います。 世の中は かくあるものと わかりつつ かすかな夢を 探し求めて 2009年5月12日 琢
2009年05月10日
コメント(0)
『陰の力』 邪気は妨げを呼び 思いを閉ざし 魔境をつくる 忘己の願いは通じる 利他で進めば扉は開く 他の輝きは 自分を照らし 闇を消す 月のように 太陽の光を反射する ひそやかな存在で 自己顕示をせず 心の中に邪気があると、自分の発信は受け入れられず、拒否反応が返ってくるものです。そのために自分の思いは通じなくなって、相手が聞く耳を持たなくなって,しまいには相手にされなくなって、淋しい思いをしたことも何度かあります。その孤独感に、相手のせいにしたところで現実に変わりは無く、いつも出てくる症状を魔境と呼んでいます。自己中心的な自分の都合ばかりを通していくと、その魔境が待っている訳ですよね。相手のことを想い、自分を忘れて思う願いは通きるもので、他人が喜ぶことをしていれば、歓迎されるのが世の中ですよね。誰しも欠点はあるものですが、長所はそれを消してくれるもので、その部分を見つけて他人の長所が輝きを見せると嬉しいものですよね。他人が輝き始め、自信ができてくれば、自分をも照らしてくれるものだと思います。月は自分では輝きを持っていないそうで、太陽の光を反射して、この地上を照らしてくれているんですね。そんな自分になりたいと思うのですが、隠れたところでひそやかな存在になるには、自分をかなり抑えて、自己顕示や自我我欲や自己保存をしないようにならなければいけませんね。 2009年5月11日 琢
2009年05月09日
コメント(0)
『本音』 やるっきゃない絶対出来る 自分に不可能は無い なんでやねん負けるはず無いのに あれひっくり返してやる この毎日続いて欲しい 変化は面倒だ このままでいい どうせダメだ 面倒かけるだけだ 何度もあったつぶやき 勝者になりたくて 敗者や安穏や卑屈を重ねて 過去を振り返れば、その時々にこんな呟きが有ったと思います。快暴流の自信家だったとき、苦暴流の被害者だったとき、変化を望まずこのまま続いて欲しいという快衰退の幸福者のとき、あ~、もう何もできない、矢っても、どうせうまくいかないと言う苦衰退の卑下者だったとき、自己診断すると全部の傾向は有ったと思います。何かを勝ち取りたくて、いつか脚光を浴びたくて、背中に強い批判の視線を感じても、勝者になっていたい自分がいつもいて、そうならないときの呟きだったかもしれません。敗者のとき、安穏を願うとき、卑屈になっているときがよくあったと思います。そこには、思うように行かなかった理由がいつも有って、他への責任転嫁ばかりで、原因が自分にあったとは思えませんでした。勉強会で高橋先生は”それがカルマなんですよ”と言い、”他人のせい三兄弟”と言いました。”あれが無ければ、あの他人が悪い”、”頑張った自分がかわいそうだ”、”どうしようもなかった”と言う呟きや言い訳を他人のせい三兄弟と言うそうです。確かに自分には、自分の力不足だと思う反面、そんな呟きはあったと思います。逃げ場をつくることは、武士道に反するし、卑怯だと思いますが、本音にそれがあれば、カルマで自分の進歩向上を阻害するものは浄化しなければと思うようになってきました。その原因を見抜き、浄化する力を”観力”、”浄力”と言い、浄化した自分を元の自分に戻し、新たな自分としていく力を”発力・ほつりき”、”結力”と言うそうで、課題は山済みですよね。 2009年5月10日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Saturday, May 09, 2009 9:30 AM Subject: 9日の日記
2009年05月09日
コメント(0)
『欲』 組織は矛盾を引き出し 財務は駆け出すと止まらず 人の心を乱す 群れをなすとき 赤く力強い 青く静かな宇宙には 赤く燃えるマグマは 星の中に眠っている 急激な軌道修正は 衝突を生む 時間をかけてバランスをとる 慣性を観ながら 人が集まるといくつかの群れに分かれて、それぞれのテーマの下に団体になるのが世の常です。政治経済も宗教も団体ができると届を出して法人格を国が許可するようになっています。組織ができるわけですが、目的意識に個人差が出てくるために、各部署の長の願望が団体自体や全体の長の法人格を損ない始めてしまう矛盾が出てくるのも世の常ですよね。財務はその団体の構成員が多くなればなるほど、目的が拡大して止まれなくなって、強引なこともせざるを得なくなるものです。一番困ることは、内から崩れ始めることで、一定期間を過ぎると矛盾が拡大して、個人の思惑も拡大して、本体のことが見えなくなってしまうことでしょうね。始めは趣旨に燃えて団結できていても、いくら最高の趣旨でも、個人の心が勝手な動きをして最高であるはずの長の趣旨から離れ始めることに気が付かない、外から観ていればわかるのですが、そういう状態になっていくのも世の常ですね。宇宙は静かに青く、その中の星には慣性があって衝突しないものですが、星の中には真っ赤に燃えるマグマがあるのでしょうね。人の心の中にもそれがあって、意気に燃えるのですが、急激に軌道修正をすると 、宇宙の星でさえ衝突してしまうでしょう。ロングスパンでバランスをとりながら、衝突しないように慣性から抜けて上のランクに上がっていければいいですね。 ものごとの順番を守ることは大切なことですね。 2009年5月9日 琢
2009年05月07日
コメント(0)
『待つ』 同じ詩や歌や言葉でも そのときの受けとめは違う 以前読んだ本も気付きは違う 人は変化し向上していく 終止符まで続くだろう 仮我の途中で人を語れない 功績は長期の果報 精進して気長に待つのみ 整理整頓を怠らず 来るべき時に備えて そっと咲く花のように 人は成長の過程でものごとの受けとめ方は変わっていくもので、何度も観るものでも感じ方が違ってくるもんですね。以前読んだ本も筋書きは変わっていないのに、感じる箇所が違うんですよね。表現の仕方も参考にしてきた部分が変わっていて、以前と違うことが書かれているように感じることがよくあります。読むたびにとらえ方が違ってくるのは、自分が変化しながら、さらに上の哲学的な気付きが出てきているからじゃないかと思います。これは未来が消えるまで続訓でしょうね。いつの時点をとらえても、仮の我だから、その途中で変化していて、自分だけでなく他人のことも語れないんじゃないかと思います。結構努力を重ねてきていても、なかなか効果は現われないもので、功績は長期の果報とひたすら待つしかないし、忘れた頃にちょっとだけ出てくるものかもしれません。よく新たな生活に入るときは”身辺整理”をするものですが、いつでも来るべき時が来てもいいように整理整頓をしておく方がいいと思うのですが、なかなかまとめにくいのが自分の心ですよね。仮我・けがだからでしょうね。開花を待つ蕾がそっと開くように、”念ずれば花ひらく”で、気長に待つことも大切なことだと思います。 外から観ればわかるのでしょうが,自分ではなかなか見えてこないものですね。 2009年5月8日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Thursday, May 07, 2009 9:30 AM Subject: 7日の日記
2009年05月07日
コメント(0)
『現象』 歴史は現実 否定できない 学ぶことは多く大きい 自分の過去も現実 同じことが言える 傾向があって繰り返しが多い そのカルマの浄化と課題の消去 荷を降ろして次の課題へ 新たな歴史に一石を投ずる それこそが使命かもしれない 医者も無い症状は直しようが無い 現象に出れば修復に向かえる 今がその時かもしれない ”答は歴史にある”と言いますが、参考になることや言葉がたくさんあって、自分のこれからの進路の参考になることが多く、大きな影響を与えてくれるのが史実でしょうね。自分の過去にも同じことが言えて、自分にしかないことで、何か共通する傾向が、よく思い起こせばあるものです。苦笑したり情けなく思うことは、そのときにおきる感情の動きを止められずに、やってはいけないことをしてしまったことが多いと思います。止観シートを書いてみるとそれが観えてきます。それがカルマだといいます。そのカルマを浄化するために生まれてきたのだと言います。転生は魂のランクを上げるためにあるといいます。自殺はそれを途中放棄して、また同じことをしに来なければいけないそうです。一つ一つ消去法で消して、次の課題に向かって、新たな踏み出しをすることで念願の大果への歩みができると言います。医者は患者の症状を見て治療します。現象に現われたものだから修復できる訳ですね。”今からでも遅くない”、”気が付いたときが始まり”、と言いますが、現時点でいったん過去の経過を振り返れば、中果・途中の結果が観えて、原因を探すことができて、今後の生き方が見えてくるといいます。 2009年5月7日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Wednesday, May 06, 2009 9:31 AM Subject: 6日の日記
2009年05月06日
コメント(0)
『信仰』 世の中が悪くなると人心は乱れ 心の安定のために宗教が生まれる 歴史にその時期を見る 絶対神を仰ぐか相対的自分を観る 風土風習に大きな違いが出る その両方をもてるのが日本人 都合よく使い分けできるが 信仰心を失うと不安定になる 安定の為に宗派ができる 人が集まれば派ができる 一致団結に必要なものは 神か仏か天皇制か 日本の場合は弥生時代からか、神道ですが、仏教伝来、儒教、キリスト教とを受け入れて、心の中に入れているようです。日本の神話はイザナギ、イザナミの命から始まって、天照大神を先祖に初代神武天皇以降2660年も天皇制が続いてきていて、世界中どこを探してもこれほど続いている国は無いですね。その間信仰は世の乱れの時期に各宗派が生まれて、心の支えになってきています。歴史を観ると、6000年前の古代エジプトからでしょうか、水のあるところに人は集まり、集落から国家に、文化文明の発達は四大文明と、心の安定の為には四大宗教が支えて、基本的には太陽信仰から始まったものと思います。形態は絶対神を仰ぐ一神教、多神教と相対的な仏教に分かれているようです。その地その地のの風土風習に大きな違いがあるようですね。その両方をもてるのが日本人で、心の中で使い分けできているようです。自分の心の中でどんなことが起きても処理できているのでしょうが、時代と共に四苦八苦が多くなって、自分だけでは処理できなくなると、新興宗派が生まれてくる歴史があります。個人を見てもそうですが、信仰心はあっても自分で治められる心をもっていて、どうにもならなくなると宗教に頼る傾向がありますね。人が集まると派が幾つもできるもので、全体が一致団結する為に必要な心の指針が必要になると思います。日本の場合天皇制と言うことでしょうか、他の民族には無い力を発揮できてきたのは世界中が認めていることだと思います。敗戦後30年で経済大国になって、今では世界をリードできるだけの国に発展してきていますよね。日本にはそんな力がある国で、ミカエル・救世主が降りてくるのは日本かもしれませんね。予言にもそういわれているそうです。 2009年5月6日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Tuesday, May 05, 2009 9:31 AM Subject: 5日の日記
2009年05月05日
コメント(0)
『心理』 人は心地よいとき・快を望む できないときに苦を味わい 気・思いの強いときは暴流となり 弱いときは衰退になる 心地よく気の強いときは快暴流 弱いときは快衰退になる 思いが強いが叶わないときは苦暴流 元気無く何もできないときは苦衰退 快暴流は自信家 快衰退は幸福者 苦暴流は被害者 苦衰退は卑下者 そのすべてを味わうのが人生 いつも満足していたいのが人間の心理ですが、幼い頃、親に育てられているときは何でも思い通りだったんでしょうね。一歩外に出ると同じ子供たちと出会い、みんな同じ気持だから、自分だけのの思い通りにいかないことを知るんですよね。そんなときは泣きながら苦を知って、親にすがり付いていたんでしょうね。もう、そんなときから人生の学びを始めてきたんですね。気・思いの強いとき、水の流れのように暴流で水量が多いんですね。弱いときはちょろちょろの流れの衰退になるんですね。その心の快苦を縦軸として、気・思いの流れの多い少ない状態を横軸にして四つのゾーンに分けて心の傾向を見るのが、高橋先生独自の自己診断法です。自分の思い通りにならなくて四苦八苦するのが人生で、その厳しさを教えてくれるのが忍土の中と言うことでしょうね。一人残らず、それを味わうことになっているんですよね。快暴流の自信家になったり、快衰退の幸福者、苦暴流の批判的被害者、苦衰退の諦めの卑下者であったりの仮の姿の自分がいるんですよね。血・地・知に影響された生い立ちに、基本的な傾向があるものですが、一通り経験させられるのが人生で、それだからそれぞ れの苦を自分のことのように思えてくるんでしょうね。そう思える心のことを菩提心と言って、慈悲・慈愛の心は人の中にあるんですよね。薬師寺の長老は、”涅槃”は死ぬことですが、大菩提心があるかどうかが問題です、と言います。高橋先生は慈悲慈愛の心を12の菩提心でイメージしやすく表わしていて、その全部をかね具わった状態を大菩提心だといっています。発菩提心で菩提心の発掘をして、修菩薩行で求道して、相応の行をするのが人生と言うことでしょう。 果てしなく 険しく続く 天の道 受容してなほ 観えぬ道のり 2009年5月5日 琢
2009年05月03日
コメント(1)
『利他』 思い出は財産として 歳月の中果を観て 浄化と修復と共に 真我を形成する 人知れず形を支え 他の光を輝かせて さりげなくある自分に 照らし続ける喜びを観る どのような結果が訪れようと 責任転嫁をせずに受けとめて その因を浄化する 心に残る思い出は財産以上のもので、失敗や思い通りにならなかったことでさえ、今までの結果を観れば、これからの課題として浄化し、修復できれば、より良い未来の報を受けられるのでしょうね。人は生まれたときには純白の汚れの無いものだったはずで、意識に潜在する課題・カルマを浄化して、あるべき自分・真我に修復し人のための光になれば幸せな気持を得られると思います。月の心の菩提心をもって、隠れたところで形を支え、人の良いところを見つけ出して輝かせ、その光を得て闇を照らし続けることができれば、新時代ととらえた余生も満足のいくものになると思っています。目立たないように、騒がないように、さりげなく生きて、どのような結果が訪れようと他人のせいにせず、受けとめて陰徳を積んでいきたいものですね。 真念一貫 不逃避 忘己利他 一隅を照らす 2009年5月4日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Sunday, May 03, 2009 9:32 AM Subject: 3日の日記
2009年05月03日
コメント(0)
『孤独』 他人に厳しく、自分に甘い人 自分に厳しく他人に甘い人 前者に内弁慶が多く 後者に神経症が多い 自分に厳しく、他人にも厳しいとき 愛が真綿となり 自分に甘く、他人にも甘いとき 酒の癒しを求める 自己満足、怠惰に進歩なし 厳しすぎは疎遠をつくり 共に孤独となる 世の中には、他人に厳しいことを要求しながら、自分に甘く、自己正当化する人がいますが、たいがい内弁慶で、外ズラが良く、何でも言える内側の人には厳しいことを言ってしまうものですね。反対に、自分を厳しく責めて許すことができなくて反省ばかりで、他人にはやさしく理解して許す甘い人がいます。この場合、葛藤が多く、許してあげたのにとか、認めてあげたのにとか思って、そんな自分を許せない人に神経症が多く、理不尽な気持を積み上げて、自律神経失調症やうつ病になりやすいものですね。自分に厳しく、他人にも厳しいときは、相手のことを思う愛が必要で、自分にも他人にも甘いときは、酒に酔って自分を慰め合う場合が多いと思います。たまにはそれも良いのですが、気分転換にではなく、毎日依存するようになると真実を観ることが怖くなって逃避する場合が多く、自己満足させても、結局は怠惰になっていて、進歩は無いと思います。厳しすぎは相手が面白くなく、疎遠になることが多いですね。バランスをとっていないと、どの道孤独になってしまうものですね。世の中、歳とともに孤独が多くなって、社会問題の原因になっていくことが多いですね。老後の 趣味や社交の場も必要で、孤独を感じさせない何かを持っているといいですね。宗教団体に入って、道を求める人も多いと思いますが、最近は世の乱れのせいか、若い人たちも自己確立を求めているようです。本当の真理・神理をその人に合わせた教えであれば良いのですが、金銭だけが目的のようなところも困りますが、他宗派の批判・差別化のところはもっと困りますよね。求道する人は自分の苦しみや迷いを少なくするために学んでいる訳で、人心を乱されるようでは修行にならないですよね。万教帰一が原則で、山はどこから上っても頂上は一点ということでしょう。 2009年5月3日 琢
2009年05月01日
コメント(0)
『正定・しょうじょう』 我を失うとき 呼吸を整えて 胆田・たんでん に気を鎮め あらゆる気くばりをして 行動すべし その責任のすべてを負い わが定めとすべし 邪気を祓い 感情に走らず 平成を求め 正定に入るべし 何か自分に都合の悪い出来事があったり、気に食わないことや思ってもいないことがあると、カッとなったり、自分を見失うことがあるものですね。感情的になったり怒りが噴出すときは、呼吸を整えて胆田に重心を置いて、心を鎮めるとよいと言います。中村天風さんは、クンバハカ法と言って”体中の息を吐き出して、けつの穴をしめる”と言っています。人生や生命の大きな危険を自然体で乗り越える為の方法だそうです。座禅では、呼吸法を腹式にして、息を吐き出して吸うことで少々のことで動じない姿勢ができるそうです。瞑想をして、雑念をなくして、あらゆるものを掘り下げていくそうです。止観もそうですが、感情の動きや心の動きを観て心の調整をすることで、思いやりや気配りをした上で行動し、その責任のすべてを負うための方法でしょうね。因果応報・因縁果報は”自分でまいた種”と言って、自分がしたことで起きる結果は自分のせいなので、その結果を受け入れて、自分の定めと思って、悔過・けかして改めて次に備えることを言うのでしょう。自分の都合、計算、打算、意地・邪気を祓い、感情に振り回されず、心の平成を保って正しい心の状態を保っていたいものですね。 2009年5月2日 琢 ----- Original Message ----- From: > To: ??????@yahoo.co.jp> Sent: Friday, May 01, 2009 9:32 AM Subject: 1日の日記
2009年05月01日
コメント(0)
全34件 (34件中 1-34件目)
1

