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平城法皇は変の後も
朝覲
を受けるなどの名誉ある待遇と相当の宮廷費を受けた。上皇が挙兵に着手して失敗した例は、こののち346年後の
保元の乱
までないが、保元の乱で敗北した
崇徳上皇
が早々に剃髪して投降したのは、平城上皇の例が念頭にあったゆえとする見方がある。
v なお、 僧 ・ 空海 は嵯峨天皇側の勝利を祈念し、以降、日本 仏教 界一の実力者になる契機となった。
28日に忠正が、30日に為義と家弘が一族もろとも斬首された。死刑の復活には疑問の声も上がったが(『愚管抄』)、『 法曹類林 』を著すほどの法知識を持った信西の裁断に反論できる者はいなかった。
貴族は 流罪 となり、8月3日にそれぞれの配流先へ下っていった。ただ一人逃亡していた為朝も、8月26日、 近江 に潜伏していたところを 源重貞 に捕らえられる。『保元物語』によれば武勇を惜しまれて減刑され、 伊豆大島 に配流されたという。
こうして天皇方は反対派の排除に成功したが、宮廷の対立が武力によって解決され、数百年ぶりに死刑が執行されたことは人々に衝撃を与え、実力で敵を倒す 中世 という時代の到来を示すものとなった。 慈円 は『愚管抄』においてこの乱が「武者の世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じている。
15「摂関家の凋落 」
この乱で最大の打撃を蒙ったのは 摂関家 だった。忠通は関白の地位こそ保持したものの、その代償はあまりにも大きかった。
武士・悪僧の預所改易で荘園管理のための武力組織を解体され、頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、所領や人事についても天皇に決定権を握られることになり、自立性を失った摂関家の勢力は大幅に後退する。
忠通は保元3年( 1158 年 )4月の 藤原信頼 との騒擾事件では一方的に責めを負わされ閉門処分となり、同年8月の後白河天皇から守仁親王( 二条天皇 )への譲位についても全く関与しないなど、周囲から軽んじられ政治の中枢から外れていった。
乱後に主導権を握ったのは信西であり、 保元新制 を発布して国政改革に着手し、 大内裏 の再建を実現するなど政務に辣腕を振るった 。
✿ 保元新制 (ほうげんのしんせい)とは、 保元 元年 閏 9月18 日 ( 1156 年 11月2 日 )に出された 宣旨 7ヶ条のこと。 保元元年令 とも。
✿ また、翌保元2年 3 月 17 日 ( 1157 年 4月27 日 )に出された 太政官符 5ヶ条及び同年 10月8 日 (1157年 11月11 日 )宣旨35ヶ条との総称として用いられる場合もある。 荘園整理令 として重視する観点からは 保元の荘園整理令 と呼ばれる場合もある。
✿ 『 兵範記 』保元元年閏9月18日条、及び 壬生家文書 ( 宮内庁書陵部 所蔵)にその内容が記されている(なお番号は便宜上のものである)。
✿ 一、可令下知諸国司、且従停止、且録状、言上神社仏寺院宮諸家新立庄園事、
✿ 一、可令下知諸国司停止、同社寺院宮諸家庄園本免外加納余田并庄民濫行事、
✿ 一、可令且下知本社、且諸国司停止諸社神人濫行事、
✿ 一、可令仰本寺并国司、停止諸寺諸山悪僧濫行事、
✿ 一、可令下知諸国司、停止国中寺社濫行事、
✿ 一、可令下知諸社司、注進社領并神事用途事、
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