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松永久秀
とも和睦しており、その後、両者は共闘することとなった。この戦い以降、信長は浅井・朝倉・六角連合軍の討伐にしばらく忙殺される事になる。
開戦当初は織田軍に属していた雑賀・根来連合軍であったが、石山本願寺と同じ 浄土真宗 の門徒であったため、石山本願寺が参戦後、すぐには入城しなかったが、本格化な籠城戦となっていくと、鈴木孫一らが率いる傭兵雑賀衆と行動を共にし、石山本願寺へ入城し信長の敵対勢力となっていく。
鉄砲を集団的に使用した最初の戦いは 長篠の戦い が有名であるが、鉄砲を集団で使用したという点では、それより五年前にさかのぼる「野田城・福島城の戦い」が最初ではないかとされている。
『信長公記』等に記載されている雑賀衆・根来衆の鉄砲三十千兵がどこまで正確かは不明だが、織田軍、三人衆軍、傭兵雑賀衆等の鉄砲を合わせると、かなりの数がこの地域に集中していたのではないかと推察されている。それらが野田城・福島城や周辺の砦や櫓から鉄砲を使った攻城戦が繰り広げたのではないかと思われている。
また雑賀衆の 佐武伊賀守 なる人物が後の石山合戦で櫓にあがり、撃ち手となり他の五名が弾丸をこめ、堀などを渡って突破しようとする敵を確実に仕留めていった。
伊賀守のみがこのような戦術を実施したわけではなく、「野田城・福島城の戦い」でも用いられていたと推察でき、このような戦術ノウハウを雑賀衆・根来衆が共有し有能な鉄砲集団となっていった。
顕如の檄文には「織田信長が石山本願寺の破却を命じた」と書かれているが、それを通達した書状は見つかっていない。
また、本願寺側以外の記録にそのような記述が見られず、「細川両家記」には『信長が仰天した』とあること、通達のタイミング(おそらく檄文より少し前)が信長にとって悪すぎ、かつ本願寺にとって好都合なことなどから、「破却を命じた」というのは顕如および本願寺側のでっち上げである可能性が指摘されている。
一方で信長は大坂の地を狙っていたという説もある。なぜ石山本願寺が、宿敵・比叡山と敵対している信長に対して決起したかという理由について、三人衆に味方したためではないかという説がある。
本願寺門徒が大和に 道場 を建てようと試みた時、三人衆の一人 岩成友通 が助力したとの記述がある。
最終的に大和の寺社からの激しい反対にあって断念したが、この時に友通が熱心に助力していたため、三人衆に対して好印象を持ったのではないかとしている。
六角義賢 は書状(右参照)で、宇佐山城を攻城し織田信治と森可成以下数百名を討ち取ったことを浅井方に知らせるために、地元の 土豪 ・市川吉澄が船を用意した事に対して礼を述べている。
二行目と三行目に「森三左衛門尉以下数百人討死」との記載が見られる。その後、志賀の陣で義賢は比叡山に立てこもることになる。 六角氏 と 浅井氏 は長らく対立していたが、この時は反信長で協調し、浅井・朝倉連合軍に従軍していたと思われる。
十、「石山合戦と一向一揆の決起」
八月には信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に対して挙兵した。(野田城・福嶋城の戦い)
しかも、織田軍本隊が摂津国に対峙している間に軍勢を立て直した浅井・朝倉・延暦寺など連合軍三万人が近江国坂本に侵攻した。
織田軍は劣勢の中、重臣の森可成と信長の弟・信治を失った。
九月二三日未明には信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。
信長はこれを受けて、近江国宇佐山城において浅井・朝倉軍と対峙する。しかし、その間に石山本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢国の門徒が一揆を起こした。
「石山合戦」
石山合戦は 元亀 元年 九月十二日 (1570)から 天正 八年 八月二日 (1580)にかけて行われた、 浄土真宗 本願寺 勢力と 織田信長 との戦い。本願寺法主の 顕如 が 石山本願寺 に篭って戦った。
広義では、元亀元年九月十二日の石山挙兵から天正八年八月二日の顕如退去までの十年間を指すが、天正八年 閏三月七日 (1580)に本願寺は大坂退去の誓紙を信長に届けて戦闘行為を休止したことから、閏三月七日を終わりとすることもある。
戦国時代 最大の宗教的武装勢力である本願寺勢力と、天下布武を目指す織田信長との軍事的・政治的決戦であり、石山合戦の終結と同時に各地の 一向一揆 はその勢いを著しく失った。また、 江戸時代 に本願寺勢力が分裂する遠因ともなった。
「本願寺勢力」という言い方は、本願寺派とすると現在の 浄土真宗本願寺派 ( 西本願寺 系)と混交するためである。また、浄土真宗全体が本願寺側についた訳ではない点にも注意する必要がある。
大坂石山本願寺は、元は本願寺第八世法主 蓮如 が隠居先として選んだ場所であり、大坂御坊(石山御坊)と呼ばれた。
畿内では本願寺は京都山科を本拠としていたが、一向一揆を背景として本願寺の影響力が強くなると、その武力を恐れた 細川晴元 は 日蓮宗 徒の 法華一揆 らと結託し、 天文 元年(1532)八月に 山科本願寺 を焼き討ちした( 山科本願寺の戦い 、 天文の錯乱 )。これにより山科は廃墟となり、本願寺は本拠を新たに定めなければならなくなった。
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