2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全24件 (24件中 1-24件目)
1

八重山・宮古では、人頭税貢納時代から、八重山は「白地の赤縞細上布かすり」宮古では「紺細上布かすり」の製造技術は相当向上していた。 「琉球かすり」は、これらの島からの貢納品からヒントを得て研究開発され、美化されて織り始めたものと言われている。 「琉球かすり」は、紺染め優雅な色・沖縄独特の美しい絣模様・丈夫で長持ち・かなり重宝がられていた。 昔は、「琉球かすり」を「薩摩かすり」として本土で売られていた。 「久留米絣」「伊予絣」「薩摩絣」の元祖は「琉球絣」と言われている。 つまり、日本の絣の発祥は先島(宮古・八重山)と言う事になる。 世界規模で見ると、一番は「インド絣・インドネシア絣・フィリピン絣)から、「八重山絣・宮古絣」~「琉球絣」~「薩摩絣」~「日本本土各地の絣」と渡った。 「インド・インドネシア・フィリピン」の絣技法は、「沖縄絣」と同じ製法。 又、昔「マニラや安南」の漂流船を度々助けた八重山諸島の島民がこれらの衣装や生活布から、技法を伝授され「絣(かすり)」を織る経緯も伝えられている。 八重山わらべうた「数え歌」 イッチク タッチク ジュニガ シーカー チカマク キンポー ハーリン トーマ ハーリガ ユイサー 訳 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 この歌は、明治9年に石垣島に漂流したマニラ人64名が、海岸に仮居していた時、島の子供達と仲良くなり「マニラ語の数え方」を教わり歌になった物。
2004年11月30日
コメント(0)
曲調子には、「本調子」「一揚調子」「二揚調子」「一ニ揚(三さげ)調子」がある。 八重山古典民謡の曲奏で「一揚調子」は、四曲あります。 その中の一つが、「揚古見ぬ浦(アギクンぬウラ)節」西表島 古見村の歌。作者不明1、上下(カミシム)ん 揃(スル)寄(ユ)てぃ ヤゥ 願(ニゴ)うた 事(クトゥ) ハリ 叶(カ)なしょうり ヤゥ 〔上は御役人、下は庶民に至るまで、祈願通り叶って〕※、スリヌ イツィン ウリシャ バカイ ヤゥ2、今年(クトゥシ)年(ドゥシ)勝(マサ)らし ヤゥ 廻る年(トゥシ) ハリ ゆくだら ヤゥ 〔今年は豊年弥勒世を迎えたが、来年はより以上の豊穣の世を恵み給え〕※、スリヌ イツィン ウリシャ バカイ ヤゥ3、今日(キユ)祝(ユワイ)しゆらば ヤゥ 明日(アチャ)ふくい ハリ しゆらば ヤゥ 〔弥勒世を恵まれたからには、今日も祝いし明日も引き続き祝賀しましょう〕※、スリヌ イツィン ウリシャ バカイ ヤゥ この曲は、「古見ぬ浦節」とは違います。 「掛け声(へーし)」は同じですが、歌詞が「揚古見ぬ浦節」より、もっと悲しい曲です。
2004年11月29日
コメント(0)

「1768年」西表島 上原村の与人が、風俗の乱れを戒める為に「宮良里賢」に作歌・作曲を任命。 「でんさ」とは、(伝える)の意。1、上原(ウイバル)ぬ でんさ 昔(ムカ)すぃ からぬ でんさ 〔上原むらのデンサ節は、昔からの言い伝えられた教訓歌である〕 我(バ)ん心(ククル) 言(イ)ざば 聞(シ)きゆ 給(タボ)り でんさ 〔自分の気持ちを、歌いますので聞いて下さい〕 この一番目の歌詞は、「でんさ節大会では、必ず最初に歌う歌詞」 二番目は、古くからある歌詞。三番目は、新しい大会入賞歌を採用し歌う。 ここに記載する歌詞は、古くからある歌詞です。2、島(スィマ)持(ム)つぃどぅ 家(ヤー)持(ム)つぃ 舟(フ)乗(二)るぃどぅ ゆぬむぬでん 〔島の統治と、家庭の平和は、船の操縦と同様である〕 舟頭(シドゥ)舟子(フナグ) 親子(ウヤファー)揃(ス)らにば ならぬ でんさ 〔船頭と船子並びに、親と子供も、一心同体に、ならないと前進はありえない〕3、親子(ウヤファー)かいしゃー 子(ファー)から 兄弟(キョダイ)かいしゃー 弟(ウトゥドゥ)から きない 持(ム)つぃ かいしゃー 嫁(ユミ)ぬ 子(ファー)から でんさ 「かいしゃー は、善い・美しいの意」 〔親子の善い関係は、子供の理解の善さからである、兄弟の善い関係は、弟の出方や善さからである、理想的円満な家庭の善さは、主婦の理解と調和のおかげである〕4、人(プィトゥ)ぬ 大胴(ウフドゥ)や かなさねぬ 肝心(クィムククル)どぅ かなさーる 肝心(クィムククル) 良(ユー)持(ム)つぁばどぅ 世間(シキン)や 渡(ワタ)らり でんさ 〔人の肉体的美貌よりも、愛情豊かな精神こそが第一である、善き精神こそ、世渡りのカギである〕5、むに いざば 慎(ツツシ)み 口(フツィ)ぬ 外(フカ)出(ン)だすなよ んだし から 又(マタ)ん 飲(ヌ)みぬ ならぬ でんさ 〔言葉は慎重に言うべきで、軽率な発言をしてはいけない、軽率な発言をしてから、後悔しないように〕6、車(クルマ)や 三寸(ミブシ)ぬ 楔(フサビ)しどぅ 千里(シンリ)ぬ 道(ミツィ)ん 走(パ)りみぐる 人(プィトゥ)や 三寸(ミブシ)ぬ 舌(スィタ)しどぅ 大胴(ウフドゥ)や ふわい してぃ でんさ 〔車は心棒に差し込む三寸位のクサビで止めているから、千里の道も行けるのである、人は三寸位の舌で、言葉を誤ると不遇の身としてしまう〕 この他にも歌詞は続きますが、常に作り続けられており、今では一冊の本が出来るくらいです。
2004年11月28日
コメント(0)

「ちんぬく」は、里芋。 「じゅうしい」は、雑炊。 「ちんぬく じゅうしい」1、あんまーたむのーきぶとんどー 煙(キブシ)ぬきぶさぬ 涙(ナダ)そーそー ヨイシーヨイシー 泣くなよ 今日(チュウ)ぬ夕飯 何(ヌウ)やがてー ちんちん ちんぬく じゅうしいめー2、父(スゥ)が畑(ハル)から 戻(ムド)みそち 冬瓜(シブイ)に南瓜(チンクヮー)人参(チデークニー) クーフチンムぬ 煮(ニイ)とんどー 豆腐臼(トウフウーシ)ぬ 廻(ミグ)とんどー くんくん くんすう 七椀(まかい)3、爺(タンメー) バーキや 荒バーキ スルガー ニクブク サギジョーキー 柔(ヤファ)ら米(グミ)から うさぎりよー 爺(タンメー)白髪(シラギ)ぬ 美(チュ)らむぬやー トートー トーカチ 大祝事(マギスウジ)4、三良(サンダー)まぶやー 落(ウ)とぅちゃくとぅ 前田(メンタ)ぬ 祖母(ハーメー)が アートートー 花米(ハナグミ)一粒(チュシジ)に酒(サキ)一盃(チュチブ) 三本(サンブン)線香(ウコウ)とぅ 塩小(マースグヮ) トートゥ トートゥ アートートゥ 1、お母さん 薪(たきぎ)が煙っているよ 煙がひどくて 涙がポロポロ ヨシヨシ 泣くなよ 今日の夕飯はなんだろう 里芋の雑炊だとよ2、お父さんが畑から 戻りました 冬瓜に南瓜 人参 粉のふいた里芋が煮えてるよ 豆腐臼(うす)が 回ってるよ ゆし豆腐 七回おかわり3、お爺さんのザルは 目の荒いザル するがーにくぶく さぎじょーぎ 柔らかい米から あげなさい お爺さんの白髪は きれいだね とーかち 大きなお祝い4、三男・三郎(サンダー)が 魂(マブヤー) を落としてしまったって 前田のお婆さんが「あーとーとー」と お祈りしている 花米を一粒に お酒を一杯 三本の御線香と お供えの塩 「とーとー とーとー あーとーとー」
2004年11月27日
コメント(0)

芭蕉布や木綿・苧麻が主流とすると、養蚕での絹織物の方が容易く、着心地も良い。歴史を紐解くと・・・。 沖縄本島の貴族階級は、本土や中国貿易により買い求めていた様である。 沖縄の絹織物を最初に始めたのは、久米島で琉球王(尚真王)の時代から始まった。王の奨励により、久米島は紬を貢納品として始まった。 八重山での養蚕は、それから300年後「1815年」石垣島・登野城に住む「石垣善全」により、伝授されたと言う。 「石垣善全」は、蔵元の役人であったが、蔵元で盗難事件があり、その責任をとらされ流罪。 粟国島に流罪中(12年間)養蚕法・製糸法・絹織物を研究する。 赦免になり、石垣島に戻る時、蚕を持ち帰り、島民に養蚕法・紬(つむぎ)真綿・絹織物を伝授。 木綿での製糸より簡単で、紬織りも容易くとても暖かいので、盛んに織られるようになる。 が、首里王府の養蚕禁止令が出され、弾圧を受け崩壊。 首里王府は、「人頭税」での粟・米などの穀物は、王府内で消化し、上布などの貢納品は、他の諸国との交易事業に利用。 養蚕を他の島で行うと、貢納品の価値観が変わる為か? 島民は、再び芭蕉布を重ね着するようになる。 明治27年 八重山島役所の主任が、故郷鹿児島より蚕を取りせ、夫人が養蚕を始めたのを機会に、各村長達は産業として奨励し、養蚕・桑苗の無償配布・養蚕製糸法の講習会を開き指導した。 しかし、木綿糸や綿布が安く手に入れることが出来、自家用布には、木綿を使い、「1659年」から作り続けた「赤縞上布」が賞品化され、アダン葉業・煙草葉業・などが全盛になり、養蚕業は振るわない。 役所は、養蚕の奨励を続け、「大正時代」からようやく軌道にのり、「大正7~8年頃」繭の破格の高値が付き、「赤縞上布」と並ぶ一大産業となる。 「大正9~10年」繭の価格下落による衰退。 「大正11年」再び、繭の価格上昇し、養蚕飼育者の急増による桑不足が発生。 離島まで、桑を取りに行く始末。 その後、桑園事業が沢山でき、「大正15年~昭和5年」養蚕全盛期をむかえ、蚕種製造・製糸・くず繭の利用・絹織物と発展。 その頃の島民は、自家製の絹製品(布団皮・着物・洋服生地)にステータスを感じていた。 主に、白生地は、夏の紳士服として、又、青や黒の紋付になり、友禅染めの帯地、はたまた、繭や糸を本土に送り、羽二重・ちりめんなどの着物地を織らせたりした。 その後、他府県同様の養蚕として発展と言う段階に成りかけた「昭和19年」秋蚕を最後に、戦争勃発。 中止を余儀なくされ現在まで行われていない。 養蚕としては、最適地であるにも拘らず、時代に左右され翻弄し続けた絹織物の歴史。 着たい時には着る事も出来ず、着る事が出来ても僅かな時間。新潟小千谷の紬 震災の遭った地域の古布。
2004年11月26日
コメント(0)
「まつぃがねーゆんた」 現在も八重山の新築祝いの席で唄われています 石垣島の大川村に、「松金」と言う若者が居た。16歳で両親と死に別れ、75歳の祖母と弟二人、妹二人の六人家族で、大変貧しい暮らしをしていた。 「ムイアッコン」と言う、畑主が掘り残した芋を捜す、そんな生活(当時の風習)だった。 ある日、「松金」は「嘉手川松・筑登之」の畑に入って居る所を見つかり捕えられる。 有らぬ疑い(麦・粟等も盗む)をかけられ、決め付けられムチ打ちに遭う。 血だらけになりながら、家に帰り、祖母に話すと「その嘉手川が生きてる間に、勉強して出世して、頭職になれ」の言葉に従い、後に最高官の頭職になる。 新築の祝いと頭職昇進の祝賀会を開く事になり、その席上で、「嘉手川松・筑登之」は存命かを確認させ、会場まで案内し、上座に座らせて、感謝し御礼を述べた。 「頭職まで昇進できたのは、貴方様のおかげ」 「ムイアッコンのおかげ」と、公衆面前で、その経緯を話した。 会の献立は全て芋料理。「嘉手川松・筑登之」は、即興歌を唄わせて欲しいと、願い出て「松金」の生い立ちを唄い「松金ゆんた」として後、新築祝いの席で、必ず謡われる様になりました。「1791年」作 「まつぃがねーゆんた」甲乙交互に謡い合います甲、まつぃがねーぬ 〔ヒハーヒ〕 まいふなーぬ 〔ヒヤサー〕 家(ヤー)建てぃや 〔ヤラムツィムツァイ〕乙、いみしゃから 〔ヒハーヒ〕 穴掘(アナフ)るぃ家(ヤー)どぅ 〔ヒヤサー〕 やだそぅぬ〔ヤラムツィムツァイ〕甲、くゆさから 〔ヒハーヒ〕 掘(フ)るぃ建てどぅ 〔ヒヤサ ー〕 うだそぅぬ 〔ヤラムツィムツァイ〕乙、内家戸(ウツィヤドゥ)や 〔ヒハーヒ〕 つぃにふ家戸(ヤドゥ) 〔ヒヤサー〕 やだそぅぬ 〔ヤラムツィムツァイ〕甲、外家戸(フカヤドゥ)や 〔ヒハーヒ〕 取るぃくびどぅ 〔ヒヤサー〕 やだそぅぬ 〔ヤラムツィムツァイ〕乙、ならふどぅぬ 〔ヒハーヒ〕 たきふどぅぬ 〔ヒヤサー〕 いくだら 〔ヤラムツィムツァイ〕 ここまでの訳意甲、松金と言う マイフナー(偉く賢い者・男性)が居て、家を新築した〔ヤラムツィムツァイ(大器晩成)〕乙、幼少の時から(穴堀るぃ家)掘建て小屋で生活していたが甲、小さい時から掘建て小屋で生活していたが乙、内側の戸は、葦(アシ)の戸であった甲、外側の戸は、茅(カヤ)の戸であった乙、自分なりの、背丈も伸びて、成長していった甲、於茂登山(ウムトゥヤマ) 〔ヒハーヒ〕 照(ティ)らすぃ頂 (ツィズィ) 〔ヒヤサー〕 登(ヌブ)りょうり 〔ヤラムツィムツァイ〕乙、キャンぎ木ば 〔ヒハーヒ〕 白身(シルミ)じょう木ば 〔ヒヤサー〕 出(イ)だしょうり 〔ヤラムツィムツァイ〕甲、時(トゥクィ)いらな 〔ヒハーヒ〕 暇(ピマ)いらな 〔ヒヤサー〕 家持(ヤーム)ちき 〔ヤラムツィムツァイ〕乙、島々(スィマズィマ)ぬ 〔ヒハーヒ〕 村々ぬ 〔ヒヤサー〕 内(ウツィ)から 〔ヤラムツィムツァイ〕甲、大工主(ダイクシュ)ば 〔ヒハーヒ〕 手勝(ティマサ)りゃーば 〔ヒヤサー〕 見立(ミタティ)よぅり 〔ヤラムツィムツァイ〕乙、大工主(ダイクシュ)ぬ 〔ヒハーヒ〕 手勝(ティマサ)りゃーぬ 〔ヒヤサー〕 考(カンガ)いぬ 〔ヤラムツィムツァイ〕甲、五(イツィ)ぬ貫(ヌクィ) 〔ヒハーヒ〕 七(ナナ)ぬ貫(ヌクィ)ぬ 〔ヒヤサー〕 くい建てぃよぅり 〔ヤラムツィムツァイ〕乙、内家戸(ウチヤードゥ)や 〔ヒハーヒ〕 キャンぎ木し 〔ヒヤサー〕 はい建て 〔ヤラムツィムツァイ〕甲、外家戸(フカヤードゥ)や (ヒハーヒ〕 白身上質(シルミジョウシ) 〔ヒヤサー〕 はい建て 〔ヤラムツィムツァイ〕乙、うんから 〔ヒハーヒ〕 まつぃんがねーや 〔ヒヤサー〕 名通(ナトゥ)らり 〔ヤラムツィムツァイ〕甲、於茂登山(石垣にある沖縄県下一の高山標高525m)に登り乙、キャンぎ木の白い部分の木を切り出し甲、時間を掛けず、休憩もせず、家に持ち帰り乙、島々・村々の中から選ばれた甲、大工達は、腕が冴え、見立ても良く乙、大工達の腕利きの創意工夫によって甲、五つの貫木を入れ、七つの貫木をいれ、建てた家は乙、内側の戸は、キャン木の上質材で造り(いぬ槙・マキ)甲、外側の戸は、イーク材の上質材で造り乙、それから、松金の名前は、世間に轟いた。(広まった) 〇〇ゆんたと〇〇節の違いは、11月18日の日記を見てください。 この時代、仕官役人に成る事は、大変難しく、新築出きる様になるまでは、どの人も苦労を重ね、ねぎらいの歌。 士族・平民の差が、かなりあった時代の話。 男性士族は、黄色の鉢巻。着物は黒朝衣、カンザシは銀製・べっ甲。帯は赤・黄の緞子。白足袋に草履下駄・竹皮の草履。 男性平民は、鉢巻なし。着物は黒木綿・黒苧麻無地・丈が短い。カンザシは真鍮製。帯はミンサー。下駄・草履・傘は許されず、褌は黒。特別の時のみ、アダン葉の草履。ふだんは裸足。 見るだけで、身分が判る様になっていた。 御意見・ご要望等、〔メール・メッセージを送る〕に、書き込んで下さい。
2004年11月25日
コメント(0)
「てぃんさぐ ぬ 花」1、てぃんさーぐーぬーはーなーやー 爪先(チミサチ)ーにー染(ス)ーみーてぃー 親(ウヤ)ぬーゆーしー言(グートゥ)ーやー 肝(チム)にー染(ス)ーみーりー2、夜(ユル)走(ハ)らーすー船(フーニ)ーやー ニヌファー星(ブーシ)ー目当(ミーア)ーてぃー 我(ワ)ん生(ナ)ーちぇーるー親(ウヤ)ーやー 我(ワ)んどぅー目当(ミーア)ーてぃー3、天(ティン)ぬー群星(ムーリーブーシ)ーやー 読(ユ)みばー読(ユ)ーまりーしーがー 親(ウヤ)ぬーゆーしー言(グトゥ)ーやー 読(ユ)みんーなーらーんー 沖縄本島の教訓歌 鳳仙花の花は、爪先を染める 親の教えは、心に染まる。 夜走らす船は、北極星を目安 私の親は、私を見守る。(目標に生きている) 天空の多くの星は、教えようと思えば、教える事ができるが 親の教えは(言葉では)、教えられない(心で伝えるもの) この歌にある「親」が子供に教えるのではなく、「子供」自身が自分の教訓として、歌っている。「親の教えは、深く心に染めなさい」と、自己叱咤してる様に感じる。 この歌は、広く親しまれているが、歌いまわし・意味が、まだ渾然とし、解釈はむずかしい。 時代背景や、作者の意図が読みにくい。 作者の地位などで、かなり変ってくる民謡があり、童謡への影響が、どの位あるか。
2004年11月24日
コメント(0)

「芭蕉布」1、海の青さに 空の青 南の風に 緑葉の 芭蕉は情に 手を招く 常夏の国 我(ワ)した島 沖縄(ウチナー)2、首里の古城の 石だたみ 昔を偲ぶ かたほとり 実れる芭蕉 熟れていた 緑葉の下 我(ワ)した島 沖縄(ウチナー)3、今は昔の 首里天(スイテン)じゃなし 唐(トウ)ヲゥー つむぎ 機(ハタ)を織り 上納捧げた 芭蕉布 浅地紺地(アサジ・クンジ)の 我(ワ)した島 沖縄(ウチナー) 芭蕉布は、古くから沖縄固有と言っても過言ではない程、織り出し技術も発達した織物である。 歴史上、関白秀次が太閤秀吉の命により、高野山で自害の折、白帷子(かたびら)の上に、沖縄芭蕉布を羽織っていた。「1595年7月15日」 八重山でも、古くから苧麻布と同様に織られ、広く利用されていた。 特に芭蕉から繊維を取るのは、苧麻より簡単で、冬は重ね着し、夏は一重で過ごす。 更に上質の芭蕉布は、王府百官や王女、神女(司)の白朝衣(シルチョウキン)黒朝衣(クルチョウキン)として使用。 白朝衣は、今尚神女が着用し、黒朝衣は庶民の礼服とし、昭和初期まで、花嫁衣裳として使われた。(黒の花嫁衣裳) 後に、染色の技術の発達により、紅型・藍型の生地として、正装や普段着になっていたが、木綿・絹を素材とする織物の発達により、芭蕉布は夏専用とし、次第に姿を消しつつある。 芭蕉には、「花芭蕉・実芭蕉(バナナ)・糸芭蕉」の三種。内、糸芭蕉の茎の繊維が織りに適している。 実芭蕉は、葉の付け根から先にかけて、しなりが有る。(横に広がる様) 糸芭蕉は、葉が天を向き、ほぼ垂直に伸びる。丁度、白菜の様に茎葉が重なって伸びている為、それを剥ぎ取り、灰汁で煮て外皮を、貝殻や竹へらで擦り、繊維を取る。(煮芭蕉) 煮芭蕉は、言わば2級品。(粗布) 葉を剥き終わると、芯の柔らかい部分の繊維を(生芭蕉) 生芭蕉は、艶があり、柔らかく上質の繊維(上布) 芭蕉布の管理(洗濯法)まず、洗液作りから・・・ 芋を煮て、皮ごと潰し、米のとぎ汁を加え、冬瓜の果肉をを入れ4~5日放置して作る方法と、シークヮーサーの絞り汁を水に入れる方法がある。 洗液に、水洗いした芭蕉布を入れ、2~3時間浸す。 水洗いして、陰干し。 ふのり(濃い糊)か、芋の澱粉を手で撫で付け、陰干し。 半乾きになったら、手のひらや指で丁寧に伸ばしてたたむ。 その上に居て、体温で乾かす。 この様に洗濯すると、艶があり柔らかい美(チュ)ら布になる。 島バナナは、時期が違うので参考まで・・・
2004年11月23日
コメント(0)

沖縄本島では、最初に織られたのが「芭蕉布」 沖縄本島の大宜味村・今帰仁村などは、「芭蕉布」貢納地に定める。 先島諸島(宮古・八重山)は、「苧麻上布」貢納地とした。 沖縄本島で「木綿布」が織られたのは「1611年」から、 だが、八重山に「木綿布」が伝わったのは「1642年」 「苧麻上布」貢納に支障があっては、の配慮か? 他の地方より、伝授を遅らせた様です。与那国は、「1477年」朝鮮からの漂流記に(麻・木綿無く、蚕を飼わず、ただ苧を織りて布となす)早くから、苧麻布の生産はあったようだ。八重山の織物の起源は「苧麻布」と、相当古くからあった。 古来、八重山では栽培苧の他に、野山に自生する山苧の繊維で布を織っていたようだが、首里王府の命により、各家庭での栽培を強制させ、「人頭税」を創設「1637年」 「人頭税」は、八重山の男女15歳~50歳までの者に、米粟の穀納、苧の白上布・白中布・白下布の貢納、労役などを課す。 「1659年」 従来の「人頭税」をさらに「定額人頭税」とし、最も過酷・極まる不合理な悪税に改定した。 廃藩置県は「1871年(明治4年7月)全国の藩を廃止、府県を置き中央集権・統一国家を確立」だが、「人頭税」は続く。 「1892年」宮古の農民が、廃止運動を起す。 人頭税廃止は「1903年(明治36年)」日本本土と同じ、地租条例が制定され、悪税がなくなる。 1934年 「新安里屋ゆんた」 が作られた。 麻の衣料品として、現在最も最適とされているのが、「苧麻(ちょま)と亜麻(あま)」とされています。 古くから伝えられてきた伝統の織物。 現在も非常に使い勝手のある「苧麻」使い込むほどに、味がでて大変良い風合いが楽しめます。
2004年11月22日
コメント(0)

布晒(ヌヌサラシ)とは、「はたゆみ(経糸1600本)の上布」を、浜の海水に漬けたり、白浜で天日干ししながら、少しずつ漂白していく作業。 これを真水で洗濯し、打ち延ばし仕上げて「御用布座(検査役所)」で検品し、合格した物を「人頭税」として毎年2月10日までに完納しなければならない。 完納した村の婦女子は、蔵元の庭で舞踊ができ、遅れた村の婦女子には舞踊等を禁止させていた。 原料は「苧麻(チョマ・麻の一種)・綿花」の二種類 首里王庁から縞柄(しまがら)の見本が来ると蔵元は、各村々に配布し、「佐事補佐(監視役人)」の元、村の婦女子を村番所に毎日集合させ、夜業を強制させていた。 人頭税時代(1637年~1903年明治36年)の婦女子に課せられた「御用布」を織り完納するまでを唄っている。 石垣島の「新川村・石垣村・大川村・登野城村」各々の村で歌詞が多少違う。 「布晒(ヌヌサラシ)節」(大川)1、天加那志(ティンジャナシ) 御用(グユ)ぬ スリ 二十桝(ハタユミ)ぬ 御布(ミヌヌ)「琉球王への御公用は、最高級の(ハタユミ・経糸1600本の上布)」2、勢頭舟子(シドウフナグ) 揃(ス)るてぃ 洗濯(シンタク)ゆ しゃびん「主任と補佐役人が揃っている。洗濯をしましょう。」3、潮水(ウスミジ)ん かきてぃ 清水(キユミジ)ん かきてぃ「海水にも浸し、真水もかけて」4、繰(ク)り 返(カイ)し がいし 手(ティ)なみしち 見(ミ)りば「繰り返して、繰り返して、洗い清めてみたら」5、布(ヌヌ)艶(ツヤ)ん 美(ちゅ)らさ 長(ナギ)巾(ハバ)ん うちゃてぃ「布の色艶も美しく、長さと幅もピタリとあって」6、干(フ)し 晒(サラ)し さらし上(ア)ぎてぃ すぃでぃら ヤゥンナ「日に干し晒して、洗濯して、完納して、有り難く歓び戻りましょう。」 完納までは、村番所で夜業も強制させられ、家を打ち捨てて宿泊させて、夜は不本意ながら検査役人の「お伽」を勤めるなど、あらゆる手段で完納できる様にしていた。 長い「人頭税(悪税)時代」の中でも、歌を忘れず唄い続けた島人(しまんちゅ) 布晒しが出来る浜が少なく(ゴミ・海上不法投棄による海岸の漂流物やタールの玉や流出油が浜を汚している) 宝を失おうとしている。 新空港の建設を、白保の海岸線に造ろうとしている。 現空港は、滑走路が短く、航空機の燃料は半分以下でないと、飛ぶ事が出来ない。 内地直行便は、一旦宮古島で給油しなければならない。
2004年11月21日
コメント(0)

島酒(スィマサキィ)と言えば泡盛(アワムリ) 1534年にシャム(現在ラオス)から、南蛮がめと共に製造法が伝来、と言われています。 泡盛の製造法と風味が、シャムのラオロン酒と同じ。 それ以後、各家庭や小組織的に自由に泡盛が造られていたが、明治30年ごろから、沖縄寄留の商人が酒造販売店ができ、容易く手に入れる様になり(自家製造には、かなりの労力)その後、明治41年に酒造税の施行により、八重山では沖縄本島から移住した酒造職人の手により専業となり、自家酒造は途絶えた。 八重山の新城(アラグスク)や黒島は、従来「粟(アワ)」を主原料(稲作が出来ない島)としていたが、大正から外米の輸入により、砕米を主原料となる。 与那国や西表では、稲作盛んな米どころ島で、従来米主原料の泡盛が造られている。 西表島・祖納村(ソナイ)に流れる仲間川の両側には、約7000アールの大水田(豪田)があり、その名は「仲良田(ナカラダ)」 「仲良田(ナカラダ)節」1、仲良田(ナカラダ)ぬ 米(マイ)んヤゥ はなり頂(ツィヅィ)粟(アワ)ん ヤゥ2、粒(ツィヅィ)しらび みきりヤゥ 弥勒世果(ミルクユガ) 世果報(ユガフ)ヤゥ3、年貢(ニング)上納(ジョウヌ)上(ア)ぎてぃヤゥ 御残(ウヌク)いぬ 稲(イニ)や ヤゥ4、泡盛(アワムルィ)ん 生(マ)らしょうりヤゥ 御神酒(うんしゃぐん)造(ツィク)てぃ ヤゥ5、我(ワ)した 女童(ミヤラビ)ぬヤゥ 造(ツィク)てぃ ある御酒(ウサキ)ヤゥ6、御待(ウマ)ちどぅ うたる ヤゥ 待ちかにどぅ うたる ヤゥ 西表島に名高き仲良田の米も、外離島頂上の粟も、 選り優りしたかの様に稔り、豊穣満作である。 年貢(人頭税)上納も上げて、残りの稲は、 泡盛も造り 御神酒も造って、 村役人から命じられた乙女達が、心を込めて造った御酒です。 お酌を待ちかねていた、待ちわびていたのです。
2004年11月20日
コメント(1)

クバ・・久葉・・棕櫚(しゅろ)より葉が広く大きい 昔の生活には、無くてはならなかった程、用途が広く、今のプラスチック生活雑貨を、全て置き換える事が出来るくらい。 もちろん、葉は編み込んだり、重ね合わせたりします。 幹は、建築資材では、(敷居・鴨居・縁など)に使われ、 指物としては、(三線の棹・重箱・膳・弁当箱・火鉢)に利用。 クバ葉は、大きく編むと(バケツ)・小さく編むと(ひしゃく)まで、生葉を畳の下に敷き広げて乾燥させると、(うちわ)になるくらい繊維が丈夫です。 クバ笠には、 「畑人(はるさー)笠」は、先端が尖った幅広の三角帽子状の笠 「海人(うみんちゅ)笠」先端が平で笠自体に厚みがあり、縁周りが狭く(小船に浸水した海水を汲み出す)用途にも使われた。 梱包用にも、葉を使い「献上布」の包み紙代わりにもなった。 若葉は、食用でき、ほのかに甘味があるので「味甘さ(あじまさ)」と言われる。 葉柄は、とても丈夫で、機織機の経糸を一本づつ仕切る道具にもなる。 クバ製の蓑(みの)など、野良着は冬暖かく、夏涼しく、肌触りよく、風通しよく、防暑・防寒・防雨に優れた働きがある。 クバは、元々内地にもあり、平安時代の牛車の屋根に葺いたり、ヒサシに葺いたり、全国に有った植物。 現在は、宮崎県に残る「天然記念物」と八重山諸島。 クバに関する言い伝え クバは、生活必需品だった頃、御獄(うたき)と呼ばれる神聖な場所でも、神木として崇められている。 高くそびえるクバは、神の天からの昇降する物とされ、葉切りは午前中のみで、葬儀の時だけ例外とする。 亡骸を仏間に安置し、部屋を仕切り布で囲い、季節を問わず、生クバの小扇を持ち、邪霊はらいのお守りとする風習。 幹は、非常に丈夫でしなりがあり、武術の六尺棒にも使われた。
2004年11月19日
コメント(0)

「〇〇節」は、三味線(三線)楽譜によって歌われ、「ユカルピトゥ」(上層階級)専有歌で、庶民は禁止されてた。 「〇〇ゆんた」は、「ユンタ・ジラバ・アヨウ」の三種類で、楽器を一切使わず、仕事をしながら、一節ごと交互に歌い、お互いに励まし、仕事の能率を上げていた。 「安里屋節」1、安里屋(アサードーヤー)ぬー クヤーマーにーヤゥー あーんーちゅーらーさー 生(マ)ーりーばーしーヤゥー※、ウヤキー ヤゥーヌー ユバーナーヲーレー2、目差主(ミザースィーシュー)ぬー 乞(ク)よーたーらーヤゥー 当(アータ)りょうーやーぬー 望(ヌーズー)みょーうたーヤゥー3、目差主(ミザースィーシュー)やー ばなーんーぱーヤゥー あーたりょうーやーやー くーれーゆーむーヤゥー4、なゆーやーりゃーどぅー んぱーでーすーヤゥー 如何(イーキャ)やーりゃーどぅー ゆーむーでーすーヤゥー5、島(スィマー)ぬー夫(ブードゥー) 持(ムー)つぁーばーどぅーヤゥー ふーんぬー里(サートゥー) かーむーばどぅーヤゥー6、後(アトゥー)ぬー事(クートゥー) 思(ウーム)いーどーヤゥー すーらぬー為(ターミー) 考(カンーガー)やどぅーヤゥー7、後(アトゥー)ぬー事(クートゥー) 汝(ウーラ)しゅばーすぃーむーぬー すーらぬー為(タミ)汝(ウラー) 考(カンーガ)いーすぃーむーぬー8、後(アトゥー)ぬー為(ターミー) あーるーでーすーヤゥー すーらぬー為(ターミー) あーるーでーすーヤゥー 「ゆんた」の場合、歌い始めに「サー」から始まり、囃子(へーシ)が「サーユイユイ(結い)」 返し(ケーシ)「マタハーリヌ」と、別の人の返しがある。 「チンダラ(かわいい・愛しい)カヌシャマヨ(加那志・女性・彼女)」 歌い方も、節歌とゆんたの違いが、三線譜面上で違います。 コメント等有りましたら、お気軽に書き込みして下さい。 又、曲のリクエスト等も、ゆたしく うにげーさびら。 ドラマ「Drコトー診療所」で使われてた「与那国かがんぬぶー」です。
2004年11月18日
コメント(0)

小禄・豊見城・垣花の三村は、琉球絣(かすり)の産地。 絣模様には、経雲(ヌチグムー)・銭珠(ジンダマー)・敷瓦(シチガラー)・四角(ユカドゥー)番匠(バンジョウ)・くじり格子・亀甲(カーミヌコウ)・ごー廻いー・フカサー・などがある。 これを、糸筋違い(アヤ マミガエズ)織り込むことが出来る乙女の手作業を「美ら布織やー」と言い、嫁の行き所の象徴ともされた。 この歌は、「小禄豊見城」の曲名と「三村節」の名がある。 この歌を歌いながら、女の子が二人が向き合い片手、或いは両手で互いに打ち合わせながら遊ぶ。 1、小禄(ウルク) 豊見城(ティミグシク) 垣花(カチヌハナ)三村 三村(ミムラ)ぬ あん小達(グヮーター)が 揃(スリ)とうて 布(ヌヌ)織(ウ)い話(バナシ) 糸筋(アヤ)違(マミ)ぐなよ 元(ムトゥ)かんじゅんどー2、上泊(イルドマイ) 泊(トマイ) 元泊(ムトゥヌトマイ)と三村 三村(ミムラ)ぬ 二才達(二-セーター)が 揃(スリ)とーてぃ 塩(マース)たち話(バナシ) 雨(アミ)降らすなよー 元(ムトゥ)かんじゅんどー3、潮平(スンジャ) 兼城(カナグシク) 糸満(イチマン)と三村 三村ぬ アン小達(グヮーター)が 揃(スリ)とーてぃ 魚(イユ)売(ウ)い話(バナシ) 安(ヤシ)売(ウ)いすなよー 元(ムトゥ)かんじゅんどー4、赤田(アカタ) 鳥堀(トンジュムイ) 崎山(サチヤマ)と三村 三村ぬ 二才達(二-セーター)が 揃(スリ)とーてぃ 酒(サキ)たり話(バナシ) 麹(コウジ)出来(ディキ)らしよー 元かんじゅんどー5、辻(チィジ) 仲島(ナカシマ)と 渡地(ワタンジ)と三村 三村ぬ 女郎小達(ジュリグヮター)が 揃(スリ)とーてぃ 客待ち話 美(チュ)ら 二才(ニーセー)から はい行違(イチャ)らなやー あん小達(グヮター)は、お姉さん達 揃(スリ)とーてぃは、揃って 糸筋違(アヤマミ)ぐなよーは、織り間違えるなよ 元(ムトゥ)かんじゅんどーは、元が取れないよ 二才達(二-セーター)は、お兄さん達 麹出来(コウジ ディキ)らしよーは、麹に気を付けろ その土地の名品と、それに関わる人達を唄っている。
2004年11月17日
コメント(0)

「サバクイ」とは、監督・指揮の役人のこと。 その昔、首里王城の正殿は、40~70年毎に改築される事になっていた。 その建築用材の大木を、国頭村の山から切り出し、村の男衆(16~60歳)全員で次の村まで運ぶ。 原木は大きく半間おきに、棒を山カズラで縛り、木材を中心に男達が担ぎ、その様子はまるで「ンカジ(ムカデ)の様だ。」 この担ぎ棒を「ンカジ棒」と呼ぶ。 次の村の男衆へと、村々をリレー方式に首里まで運ばれていく。 運びこみに、唄われたのがこの唄。 国頭(くんじゃん)サバクイ1、首里天(シュイテン)加那志(ジャナシ)ぬ ヨイシー ヨイシー サー 材木(ウジャムク)だやびる ※、サーハリガヨイーシー サーイ ショショショーショ イーイヒヒ ヒーヒー アーアハハーハー2、サー 国頭(くんじゃん)サバクイ ヨイシー ヨイシー サー 御獄(うたき)ぬ 前(めえ)から ハイユエー ハーラーラー3、サー名護山(なぐやま)樫木(かしぢ)や ヨイシー ヨイシー サー重(うぶ)さぬ 引からん ハイユエー ハーラーラー4、サー御万人(うまんちゅ)まじりや ヨイシー ヨイシー サー皆(みな)肝(ちむ)すりとて ハイユエー ハーラーラー 「首里天加那志の ヨイショー ヨイショー 材木だ」 王者賛歌風の労働歌。 「サバクイ」監督役人の前で、嫌だとか言えない筈。 自分の部落から、次の部落までの間は、責任を持たされているので、落としたり、引っ張ったりは、御用材の為厳禁。 担ぎ続けなければならない。「御万人(うまんちゅ)まじり・・皆肝(みな・ちむ)すりとて」
2004年11月16日
コメント(0)

大正末、内地より沖縄を訪れた「佐藤惣之助」の詩と琉歌の抜粋 琉歌 今日の誇らしや やなをにぎやなたてる 蕾(つぶ)でをる花のつゆきやたごと (かぎやで風・かじゃりふう) けふのよかる日や聞得大君 海の神やあらぬ、水の神やあらぬ 星の世界や白雲よはれ 色うら若き風の色目晴れ 青巾(あおきぬ)かけし白鳥(しろどり)のごと 百合の園照る月夜のごと 愛し(カナシ)王女や手ふりのきよらかさ 愛し(カナシ)王女や身もちのきよらかさ その胸の火よ神の剣 その声の音よ神の美風(ミカジ) 心ある者や、心づくものや 春風に伏す花ともまろび 秋風に伏す阿旦(アダン)となびき 海の幸よき美機嫌(みきげん)や 原(ハル)の色よき美機嫌や 肝そろへて拝め、肝とめて拝め 琉球最高女神官・聞得大君を歌った詩 神仏一体信仰の言わば「ちゃんぷる信仰」(ごちゃまぜじゃなく、双方の味を、一同に集約。) この信仰を建てて、琉球国中を統一したのが、最高女神官。 この時、「念仏」は下族と言われ、特別部落に押し遣られ、「エイサー臣下や京太郎(ちょんだらー)」は、まだ世に出てこない。 念仏行者は、寺を持つことも許されず、卑属として扱われ、門付芸人(人形使い)や荷運びなどで生計をたてる。
2004年11月15日
コメント(0)

琉球の最高女神官は、聞得大君。その神殿は、チフジン御殿(ウドゥン)。 その下に三人の女神官の神殿は、儀保殿内・眞壁殿内・首里殿内と呼び、地方のノロ(祭儀女官)を統率していた。 首里殿内(スン・ドンチ)は、赤田町にあり、別名 赤田御殿内(アカタ・ウドゥンチ)。 琉球固有の神と共に、弥勒菩薩も祭られており、神仏の区別無く信仰の対象であった。 豊穣太平の世を、「弥勒世果報(ミルク・ユガフ)」豊年祭では、この弥勒(みるく)の面をかぶり、打ち振る緩やかな扇(オオジ)に合せて、歌われるのが「赤田首里殿内」 「赤田首里殿内(あかたすんどんち)」1、赤田首里殿内(アカタ・スンー・ドンチ) 黄金(クーガニ) 灯篭(ドゥールー)さーぎーてぃー うーりがあーかーがりばー 弥勒(ミルク)うんーけー※、シーヤープー シーヤープー ミーミンメー ミーミンメー ヒージントー ヒージントー イーユヌミー イーユヌミー2、大国(タイグク)ぬ 弥勒(ミルク) 沖縄(ウチナー)にーいーもーちー うーかきぶーしゃーみそりー 弥勒世果報(ミルク・ユ・ガフ)3、トートーメーサイ トートーメー うんじょう まーかいめんせーが 西(イリ)ぬ 海かい 蟹小(ガニグヮ)取いがる うんじょう めんせーるい 「神々のいらっしゃる 赤田御殿内の黄金の灯篭に灯りが点いた。ありがたい弥勒菩薩の到来だ。五穀豊穣の平和な世を迎えよう。」
2004年11月14日
コメント(0)

沖縄本島・金武村の屋嘉ビーチは、かつて沖縄戦の捕虜収容所。民間の防衛隊・健児隊の少年等約2000名が収容されていた。 着ている服は、アメリカ軍の払い下げ。食料は、米軍野戦携帯戦闘食(レーション・チーズ バター 肉 チューインガム コーヒー レモン 砂糖 煙草4本をワンパック)と呼ばれる物。 仕事は、死体を埋めるための穴掘り。「夢も希望もまるでない、自棄的状況」 その中でも、歌は忘れず音楽を僅かな支えに、軍事食料のポークの缶詰の空缶を、三線の胴にし、組み立て寝台ベットの脚を棹に、パラシュートの糸を絃にして、三線を作り心のなぐさめにした。 屋嘉節1、懐(ナチ)かしや 沖縄(ウチナ) 戦場(イクサバ)になやい 戦場(イクサバ)になやい 世間(シキン) 御万人(ウマンチュ)ぬ 流す涙 流す涙2、涙ぬで我身(ワミ)や 恩納山(ウンナヤマ)上(ヌブ)て恩納山(ウンナヤマ)上(ヌブ)て 御万人(ウマンチュ)と共(トム)に はだゆさらち はだゆさらち3、無蔵(ンゾ)や 石川(イシチャ)村 茅葺(カヤブチ)ぬ長屋 茅葺(カヤブチ)ぬ長屋 我身(ワミ)や屋嘉村ぬ 砂地(シナジ)枕(まくら) 砂地(シナジ)枕(まくら)4、心(ククル)勇みゆる 4本(シフン)入り煙草(タバク)4本(シフン)入り煙草(タバク) 淋しさや月(チチ)に 流ちいちゅさ 流ちいちゅさ 今、戦闘状態の某所も、民族音楽のルーツ的土地柄。爆音や銃声の無い、音楽のある地になってほしいと思います。
2004年11月13日
コメント(0)

今から250年位前、北谷(ちゃたん)王子朝騎が摂政の位に在る時、那覇若狭町の護道院と言うお寺に黒金座主が居た。 座主は、妖魔術を使って、世人をたぶらかし又は、婦女子に悪さをしていた。 北谷王子は、この妖僧を成敗しようと試みる。ある晩、王子は黒金座主を、碁に誘い隙を見て懲らしめようよ試みるが、逆に座主の催眠妖術にかかり、間一髪、王子の太刀が座主の耳を切り落とした。やがて座主は死んだ。 が、夕暮れになると、座主の死霊が王子の住む大村御殿(ウフムラウドゥン)の門前に現れ、世間人を脅かせた。 その形相は、切られた耳元から鮮血を流し、口は耳まで裂け、目は見開き、物凄い形相で、カマと包丁を持って立っている。 大村御殿(ウフムラウドゥン) 大村御殿(ウフムラウドゥン)ぬ 門(カド)なかい 耳切坊主(ミミチリボージ)ぬ 立っちょんどー 幾人(イクタイ)いくたい 立っちょがやー みっちゃい ゆったい 立っちょんどー イラナん シーグん 持(ム)っちょんどー 泣ちゅる童(ワラビ) 耳グスグス ヘイヨー ヘイヨー 泣ーかんどー ヘイヨー ヘイヨー 泣ーかんどー 別の歌に〔耳切坊主〕の題の童謡があります。
2004年11月12日
コメント(0)

童謡 じんじん は、蛍の事。 じんじん1、じんじん じんじん 酒屋ぬ 水(ミジ)食(ク)ゎてぃ 落(ウ)てぃりよー じんじん 下がりよー じんじん2、じんじん じんじん 壺屋(ツィブヤ)ぬ 水(ミジ)飲(ヌ)でぃ 落(ウ)てぃりよー じんじん 下がりよー じんじん3、じんじん じんじん 久茂地(くむじ)ぬ 水(ミジ)飲(ヌ)でぃ 落(ウ)てぃりよー じんじん 下がりよー じんじん 内地童謡の「ほたる」の歌詞と似てます。1番目の歌詞が、那覇では(壺屋ぬ~)で始まり、首里では(酒屋ぬ~)で始まります。 首里は、赤田・崎山・鳥堀などの泡盛酒造所がある為、その他の土地では、(サーター屋(製糖屋)ぬ~)で始まります。 宮古口(みやふーつく)では、「じんじん」を「やんぶー」と呼びます。 八重山では、歌詞や曲調も変わり、 うてぃりよー じんじんぱれ あがりよー じんじんぱれ 〔下(オ)りておいでよ ほたる 舞い上がれ ほたる〕 内地の(源氏蛍)に似た飛ぶ蛍と、地面や葉にいる虫で、(ほたる虫)がいます。 ほたるとは、全く違う体長5センチぐらいの虫で、やはりお尻が発光。捕まえる時は、よく見てね。虫ぎらいな方は、びっくりします。
2004年11月11日
コメント(0)

島々清しゃ(カイシャ)1、島々清しゃ(カーイシャー)やー カイシャヌ 城(グシク)に 御拝所(ウグヮンジュ)よー 前の田んぼによー 夕陽赤く燃えてよー サーユイヤサー 畑(ハル)で草焼く 白い煙の 煙のーカイシャーヨー2、村々清しゃ(カーイシャー)やー カイシャヌ 福木(フクギ)に 石垣よー 皆(みんな)待ってたーよー 夏の祭(まつり)すんでよー サーユイヤサー 通(かよ)た道々 香(カバ)しゃ 九年母(クニブ)の 九年母(クニブ)のカイシャーヨー3、白浜清しゃ(カーイシャー)やー カイシャヌ 朝凪(アサドゥリ)夕凪(ユウドゥリ)よー 潮は満ち潮よー 磯で千鳥鳴いてよー サーユイヤサー 帰るサバニをー 招くアダンのー アダンのカイシャーヨー4、女童(ミヤラビ)清しゃ(カーイシャー)やー カイシャヌ 紺地(クンジ)に ミンサーよー もつれ もつれたよー 細い恋の糸によー サーユイヤサー ホロリ 落とした あつい涙のー 涙のカイシャーヨー 御拝所(ウグヮンジュ)は、島人の大切な場所。 芋を主食としなければ、ならなかった貧しい時代の、祝い事でしか島米を食べる事が出来なかった時代。 九年母は、シークヮーサー。 シークヮーサーは、酸っぱい食い物の意。酸食(シークヮー) サバニは、小型舟。 女童(ミヤラビ)は、乙女。 リゾート開発で、島民の雇用や特産品の買い上げで、潤い豊かな生活、観光客相手の商売が出来、収入が殖えるが、一方自然相手の海人(うみんちゅ)や畑人(はるさー)の、環境破壊による収入の低下。漁獲量の著しい低下。 考えるのは、島人(しまんちゅ)か、内地のリゾート開発会社か、観光をする人達か。
2004年11月10日
コメント(0)

新川(アラカワ)大漁節 「新川」は、石垣島の村名。昔から、カツオ漁が盛んで、獲れたてのカツオをぶつ切りにし、味噌をあえて、大漁の後、宴会を船の上で・・・。 「船板一枚、下は地獄」のサバニ舟で、フィリピン・ジャワ・スマトラ海域まで、昔は漁に出かけ、数日かけた漁の一時の楽しみを歌にした物。 海の男のたくましさと人情の厚さ。底抜けに明るく、大らかさを表現してます。 宮城県の「斎太郎節」に似た、船歌。1、五里の十里の ユイサ ユイサー 荒波超えて 新川(アラカワ)二才達(二ーセーター)の カツオ舟(セン) ヒヤ カツオ舟 ユイサーユイ ヒヤ 海の男の大漁節(タイーリョウーブーシー)2、躍る(おどる)黒潮 ユイサー ユイサー 銀のウロコが 飛び跳ねる ヒヤ 飛びー跳ねーるー ユイサユイヒヤ 海の男の大漁節3、唄うカモメの ユイサー ユイサー 大漁節(ウタ)に 被る飛沫(しぶき)の 勇み肌 ヒヤ いさーみーはーだー ユイサーユイ ヒヤ 海の男の大漁ぶーしー4、揚げたカツオに ユイサ ユイサー ヒゲ面(づら)寄ーせーてー 波に花散る 茶碗酒 ヒヤ ちゃわーんーざーけー ユイサーユイ ヒヤ 海の男のたいーりょーうぶーしー 沖縄方言(ウチナーグチ)の少ない、本土(ナイチャー)にも解かり易い歌。請福は、石垣新川の泡盛。
2004年11月09日
コメント(0)
八重山の文献集めと、気晴らしと、ゆんたくの為。小浜・石垣・那覇をまわって来ました。 明日からも、掲載を進めます。
2004年11月08日
コメント(0)
この歌は、日本本土・鹿児島・奄美大島から伝わったと言われている。祝宴特に、にーびち・すがやー(結婚式)には欠かせない馴染み深い曲。1、サマヤゥ 幾つか二十二か三か「サヤゥー三かー」 やがて二十五の生まれ年 ヨイヤナー ヨイナサマーヤゥ2、お前(マエン)が 振袖と 私(ワタシン)が袖(ソデ)と 二つ 併せて 四つの袖3、嬉(ウレシ)嬉(ウレシ)や 若松様ヤゥー 枝も栄えて 葉も繁(シゲ)る4、人の結びは 枯木の枝を 登り下りの危なさよ5、踊れ踊れよ 品(シナ)良く踊れ 品の良い子は 嫁に取る6、君とワシャとは 羽織の紐(ヒモ)よ シカッと結んで胸の上7、君は百歳 ワシャ九十九(クジュク)まで 共(ムル)に白髪のはえるまで8、天下泰平 治まる御世(ミユ)に 鶴と亀との 舞い遊(アシ)ぶ9、八重の 潮路(シオジ)に 真帆(マフ)引き上げて 千里走るよ 宝船10、ワシが 国さで 自慢が二つ くいちゃー踊りに 鷲の鳥11、しんし しゃだんの お庭のソテツ 花は咲かねど 葉ぬ美(チュ)らさ 明日から一週間お休みします。
2004年11月01日
コメント(0)
全24件 (24件中 1-24件目)
1