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「松竹梅」1、松は 千年(チトゥシ)ぬ 齢(ユワイ)を 保(タモ)ち 老(ウ)いてぃ 若(ワカ)やく サンサ 事(クトゥ)ぬ嬉(ウリ)しゃ メデタイ メデタイ 〔松は千年の歳月を保ちながら重ね老いていくが、いつまでも若葉を繁らせ嬉しい事よ〕2、庭ぬ 呉竹(クリダギ) 節々毎(フシブシグトゥ)に 君が 万代(ユルズユ)ぬ サンサ 齢(ユワイ)くみてぃ メデタイ メデタイ 〔庭の呉竹の節々ごとに、君の限りない喜びを込めて成長している〕3、軒端(ヌキバ)ぬ 梅(ンミ)は 初春(ハチハル)毎(グトゥ)に 花ん 匂いん サンサ 勝るなり メデタイ メデタイ 〔軒端の梅は、初春が来るごとに、花も匂いも勝って素晴らしい事よ〕4、君は百歳 私(ワシャ)九十九まで 共(ムル)に白髪ぬ サンサ 生(ハ)いるまでぃ メデタイ メデタイ 〔君は百歳まで、私は九十九歳まで、共に白髪が生えるまで長寿いたしましょう〕5、今日(キユ)ぬ 座敷(ザシチ)は 祝(ユワ)いぬ 座敷(ザシチ) 亀(カミ)が 歌いば サンサ 鶴(チル)や舞方(メカタ) メデタイ メデタイ 〔今日は目出度い祝いの座敷、鶴亀あやかり、歌い踊ってお祝いしましょう〕 「目出度節」の曲調で歌えば、気分はもう正月。
2004年12月31日
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「しゅうら」「シュウラ」とは、沖縄本島言葉「美(チュ)らしゃ」「ちゅらさん」と同じ。 略語で「可愛らしい」 この歌では、「可愛らしい嫁」をさす。 「かいしゃ」とは、八重山方言「美しゃ(うつくしい)」 「しゅうら節」(本調子)1、なをしゃる子(ファ)ぬどぅ 如何(イキァ)しゃる子(ファ)ぬどぅ 我(バ)嫁(ユミ)なりくーでぃね エイシュラジャンナヤゥ 〔どんな可愛い子が、如何に器量の良い子が、私の嫁になってくれるだろう〕2、島々(スィマズィマ)ぬ 村々(ムラムラ)ぬ かいしゃ あすからよ エイシュラジャンナヤゥ 〔島々の各村々の選び抜きの美しさ、器量の勝れる可愛い娘から〕3、かいしゃ あすから 白(シル)さ あすから なりくーで だらよ エイシュラジャンナヤゥ 〔美人の娘から、色白の器量勝れた可愛い娘から〕4、かいしゃ あだでん 白(シル)さ あだでん 縁(イン)どぅ 肌 添(ス)ゆる エイシュラジャンナヤゥ 〔美人であっても、どんなに色白でも、縁があってこそ、肌に触れる事ができる〕5、かいしゃぬ かまりゆみ 白(シル)さぬ 呑(ノ)まりゆみ 肝(クィム)どぅ 肝(クィム)やゆる エイシュラジャンナヤゥ 〔美人が食えるものでもない、どんなに色白でも飲めるものでもない、お互いの心と心、真心が肝心である〕6、かなさる子(ファ)や 野(ヌ)ぱんぬ 枝(ユダ)し ぴくぃすんぐり 見やむなよ エイシュラジャンナヤゥ 〔可愛い子ほど(野ぱん・川原人参)の枝で、鞭打って教訓する方が良い〕7、きなさる子(ファ)や バラぬ すぃずぃし ぴくぃすんぐり 見やむなよ エイシュラジャンナヤゥ 〔憎い子ほど、バラの芯繊維の柔らかなもので、鞭打って躾けた方が良い〕 「赤馬節」の(ちらし)として使う場合、曲調は同じで歌詞を変える。 1、今日(キユ)ぬ日(フィ)ば 黄金(クガニ)日(フィ)ば 本(ムトゥ)ばし ヤゥ エイ シュラ ジャ ンナヤゥ 〔今日の吉き日を、黄金の様な日を基礎として〕 2、夜(ユ)ぬ七日(ナンカ) 昼(フィ)ぬ百日(ムムカ) 祝(ユワ)いす ヤゥ エイ シュラ ジャ ンナヤゥ 〔夜の七日間お祝いし、昼の数日間も続けて祝賀する〕 「ニフェーデービル」は、沖縄本島方言の「ありがとうございます」の意。 あと一日で本年最終日。ありがとうございます。
2004年12月30日
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月の真昼間と書きます。 陰暦の11月8日の前後夜半、月が真上に来る時、真昼間の様に明るく、一年の内最大の引き潮「ヤンサ潮」と言う。 その明るい夜、「夜半参り」と称して、意中の人に会いに行く。 御冠船踊をするのは、男(美男子)で、首里三平と言う美男子を慕う女が「夜半参り」をしたのが初めとされる。 女が男装をして拝み所に参り、思う男に会いたいと、命がけで神に祈る事を「夜半メー」とも言う。 「月(ツィクィ)ぬまぴろーま節」(二揚)1、月(ツィクィ)ぬ 真昼間(マプィロマ)や やんさ潮(スー)ぬ 真干(マフェ)り夜(ユル)ぬ 真夜中(マユナカ)や ハイへー みやらびぬ 潮時(スィトゥグィ) ハイへー 〔月が真夜中に頭上に来た時は、ヤンサ潮(最大干潮)だが、夜の真夜中は、乙女達が人目を忍んでくる、潮時である〕2、月(ツィクィ)に 願(グワン)立てぃてぃ 星(フスィ)に 夜半参り 思(ウム)いすとぅ 我(バ)んとぅ ハイへー 行逢(イカ)しゆ 給(タボ)り ハイへー 〔月の神に祈願を立てて、夜空の星に夜半参りをして、命を賭けて思っている、恋人に自分を行き逢わせて下さるように〕3、思(ウム)いすとぅ 我(バ)んとぅ 行逢(イカ)さんどぅ あらば あたら 我(バ)が命(ヌツィ) ハイへー とぅらば ちゃすが ハイへー 〔命を賭けて思っている、恋人に行逢う事ができないならば、貴いこの命を、捨てたらどうする?神仏よ〕 女の一念は怖い。 貫き通すこの一念。 恋する乙女の命がけの歌 燃え上がる恋心か (読み人知らず) 安里勇さんは、石垣の「安里屋」と言う民謡酒場を経営しながら、現役の海人(うみんちゅ)であり「唄者」です。 「唄は情、人も情の浮遊人」と言葉を頂きました。 アルバムの奏者には、この酒場のスタッフや当方の笛作りの先生(小浜島在住)が出演しています。
2004年12月29日
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人名「まんのーま」は、与人役職に就き、人頭税時代の百姓の願いを聞き、受け入れ実行した人物。 年中行事には、畑仕事を休ませ、三日間正月休みを与えた。 「1677年」(まんのーま)が、波照間島の首里大屋子(島長)に昇進任命を受けた時に、その功績を称え、作詞・作曲された。 「まんのーま節」(本調子)1、たきどぅんぬ 親(ウヤ)ぬ子(ファ)ぬ まんのーま 仲嵩(ナカダギ)ぬ 主(シュ)ぬ子(ファ)ぬ さとぅぬし 〔たきどぅん(竹富島)の前与人親の子、真武能マ、仲嵩(竹富島の異名)の前与人親の子、まんのーま里之子(サトヌシ)〕2、山(ヤマ)まふくんぬ いでぃまり まんのーま 野(ヌ)ゆぬ 木だ 本々(ムトムト)し 栄(サカ)いす 〔山福木の様に、諸木に貫出でて秀才の生まれであった、真武能マ、野原の一本木の枝葉が繁る様に繁栄した〕3、サカイチが 婿(ムク)築登之(チクドウヌ)が 婿(ムク)選(イラ)び マイチ 欲(フ)しゃい 〔サカイ賄女の婿は、築登之(チクドウヌ)、村中から選ばれたマイチ美人が欲しい〕4、親(ウヤ)ぬ子(ファ)や 親(ウヤ)似(二)どぅ てぃゆまり 主(シュ)ぬ子(ファ)や 主(シュ)似(ニ)どぅ 名(ナ)取(トゥ)ちゃる 〔前与人親の子供は、前与人親に似て政治手腕を賞賛された、前与人親の子供は、前与人親に似て村を治めが良く、島中から尊敬されている〕五、親(ウヤ)ぬ子(ファ)とぅ 赤豆(アカマミ)とぅ なりどぅ てぃゆむ 主(シュ)ぬ子(ファ)や 村(ムラ)だきどぅ 名(ナ)取(トゥ)ちゃる 〔前与人親の子供も、赤豆も実ってこそ役に立ち、村民から喜ばれる、前与人親の子供も、村の役人に任命されてこそ、初めて名誉になる〕6、正月(ションガズィ)ぬ 三日(ミーカ) 親廻(ウヤマー)るぬ 一日(プイトゥイ)どぅ 案内(アンナミ)ぬ てぃじらみぬ 欲(フ)しゃんどぅ 〔お正月の三日間は休養させ、親廻り(役人廻り)の歓待は一日で済むように、この(二大請願)が御免除御取り計らいの欲しさに〕7、竹富(タキドゥン)ぬ まんのーまに かかちゃる 仲嵩(ナカダギ)ぬ 里之子(サトヌシ)に ぬゆちゃる 〔竹富島のまんのーまに一任してくれ、仲嵩(ナカダギ)(竹富島の異名)里之子(サトヌシ)に全部任せてくれ〕「読み人知らず」作不明 正月前にお正月の大切さを今一度感じてみました。百姓には、人頭税があり、正月すら(年内行事すら)休む事を許されていなかった当時の時代背景を歌っています。 福木は、染色材料としても使われ、主にタンスや調度品の木工材料や防風の為に庭に植林されています。
2004年12月28日
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昔、子供の戸籍名以外に祖父や祖母の名前を付ける風習があった。 名前以外に、 男の子「コネマ」 女の子「ピセマ」 祖父 「ウシュマイ」 祖母 「ンメ・ンメマ」 父 「シュウ」 母 「アッパ」 子守をしてくれる人 「アンマ・守りアンマ・守ら姉・お姉さん」と、称していた。 「子守唄(フワムルィウタ」(二揚)1、コネマぬ名(ナー)や のーでどぅ 給(タボ)れる ウシュマイぬ名(ナー)ぬ マツィンガニ 給(タボ)れる スッツァラ スッツァラ マツィンガニ 給(タボ)られ ホーイ ヤ ヤゥ ホーイ ヤ ヤゥ 〔坊やの名前は何と付けて下さいましたか、祖父の名の(マツィンガ二)を頂戴した、良かった、良かった、祖父の名を頂いて祖父以上に筆がたちますよ〕2、ピセマぬ名(ナー)や のーでどぅ 給(タボ)れる ンメマぬ名(ナー)ぬ (マカドムイ) 給(タボ)れる スッツァラ スッツァラ マカドムイ 給(タボ)られ ホーイ ヤ ヤゥ ホーイ ヤ ヤゥ 〔お嬢様のお名前は何と付けて下さいましたか、祖母の名の(マカドムイ)を頂戴した、良かった、良かった、祖母以上に機織りが上手になりますよ〕3、コネマぬ父(シュウ)や ずぃまかいどぅおおたね 大蔵(ウフウラ)かい おおりとーた 大蔵(ウフウラ)から 俵(ターラ)んまーしょうり 大家(ウフヤー)ん とーらん 満(ン)つぁしょうり 〔坊やのお父さんは何処に行かれましたか、蔵元(役所)に行かれました、蔵元(役所)から、米俵(給料)を貰い受けて、大家(シラ)には、米俵を満載して下さいました〕4、コネマぬ母(アッパ)や ずぃまかいどぅおおたね 大畑(ウフパタギ)かい おおりとーた コネマぬ物(ムン)や 大芋(ウフコン)ぷりょうり アンマぬ物(ムン)や 中すず給(タボ)らり 〔坊やのお母さんは何処に行かれましたか、大きな畑へ芋を掘りに行かれました、坊やの物は大きな芋を、守りアンマの物は中位の芋を掘ってきてください〕 子守唄にも地域性があるのか解かりませんが、子守をしている側も歌に出てくるのは少ないかと思います。 父母尊敬も少ないかな。 フーチバーとは、よもぎ。じゅーしーとは、雑炊。 疲れた胃袋を癒してくれる昔からの薬膳食。 弱った胃に活力を与え、元気にする働きがあると言われています。 この時期、胃が重く感じませんか?
2004年12月27日
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廃品利用を教える(裏わざ的)歌 だが、曲調はいたって明るく調子良い。 女と男の掛け合いの歌で、女が「あんねーる(あーあもう)」から始まり、今まで使ってきた日用品がボロボロになったから「ゆすがちゃん なぎれー(捨てちゃえ、もう)」を、男が「よそきばーちーうり捨てぃんなよー(捨てるのはやめなさい)」と止める。 「三村踊り」女、あんねーる かき包丁(ボウチャー)小(グヮ)やよ 豆腐小(トウフグヮ)ん 切(キ)らりらんむん ぬすがちゃん なぎれー 〔刃の欠けた包丁なんか、豆腐さえ切れない、捨てちゃえ もう〕男、よそきばーち うり捨(シ)てぃんなよー うりやよ 鍋小(ナビグヮ)ぬ ちびかちむぬ いっちがそうむんどー よそきよそき うり捨(シ)てぃんなよー 〔およしなさい、それなら鍋の底のスス落とし位には未だ使えるよ、さあ捨ててはいけないよ〕女、あんねーる ちびふぎ バーキやよー 芋(ウム)ん 洗(アラ)りらんむん ぬすがちゃん なぎれー 〔あーあ、こわれてしまった竹カゴ、芋すら洗えない、捨てちゃえもう〕男、よそきばーち うり捨(シ)てぃんなよー うりやよ 鶏小(トイグヮ)ぬ 卵(クーガ)生(ナ)しむぬー いっちがそうむんどー よそきよそき うり捨(シ)てぃんなよー 〔およしなさい、それなら鶏の巣にすると卵を産みやすいでしょ、さあ捨ててはいけないよ〕女、あんねーる かたうて着物小(チングヮ)やよー 袖(スデ)ん通(トウ)さりらんむん ぬすがちゃん なぎれー 〔あーあ、この着物ボロボロで、もう着られない、捨てちゃえもう〕男、よそきばーち うり捨(シ)てぃんなよー うりやよ 童(ワラビ)ぬ ちびぬぐや小(グヮ) いっちがそうむんどー よそきよそき うり捨(シ)てぃんなよー 〔およしなさい、それなら子供のオシメに使えるよ、捨ててはいけないよ〕女、あんねーる 欠(カ)きマカイ小(グヮ)やよー 物(ムヌ)んいってんかまらん ぬすがちゃん なぎれー 〔あーあ、まかい(茶碗・どんぶり)が欠けてしまった、物入りでこまった、捨てちゃえもう〕男、よそきばーち うり捨(シ)てぃんなよー うりやよ 豚小(ウワーグヮ)ぬ 物(ムヌ)食(クヮー)さ小(グヮ) いっちがそうむんどー よそきよそき うり捨(シ)てぃんなよー 〔よしなさい、それなら豚のエサ入れに使いなさい、捨ててはいけないよ〕 戦中教訓的な歌かな? むやみに捨てることを考えない、何かに使える、応用次第。 ゴミが少なくなるかな?
2004年12月26日
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劇中歌でお馴染みの「桃売いアン小」 沖縄民謡のNo1として歌われています。 日本本土の歌謡曲では、男が最初に歌い出しますが、この歌は女性から歌います。 宜野湾市大山地区の女性の姿を歌ってます。 昔、軽便鉄道が通っていた大山地区の「アン」が、汽車に乗り山桃を売りに行く。 山桃を売ったお金を貯め「アヒ」の為に「麻布」を買い、その布で着物を縫い上げ、互いの契りを交わし夫婦になろう・・・。 女性名「アン」 男性名「アヒ」 この二人の物語 「桃売いアン小(ムムウイアングヮ)」1、女、桃(ムム)売(ウ)やい 我(ワ)んねー サユン布(ヌヌ) 買(コ)うてーくとぅ くりし着物(チン)縫(ノ)うやい かなしアヒ小(グヮ) 〔私は山桃を売って、麻布を買って着物を縫います、愛しいアヒの為に、着て下さいますか〕2、女、くりし着物(チン)縫(ノ)うやい 切(チ)りぬ 余(アマ)ゆくとぅ 我身(ワミ)ぬ着物(チン)ぬ袖(スディ)に ちきてぃ我(ワ)ね着(チ)ゆん くぬ切(チ)りや 〔着物の切り余りの布を、私の着物の袖に縫い付けて、貴方とお揃いとして着ましょう〕3、男、着物(チン)どぅ 洗(アラ)ゆるい 布(ヌヌ)どぅ 晒(サラ)するい 水(ミジ)や 我(ワ)が汲(ク)むさ 疲(ヲタ)てぃや居(ヲ)らに よー無蔵(ンゾ)よ 〔着物を洗ったり、布を晒すのに使う水は、私が汲みましょう、疲れているから家に居なさい、なー愛しの君よー〕4、女、くりし着物(チン)縫(ノ)うやい アヒ小(グヮ)に着(ク)しゆくとぅ 今からぬ後(あとぅ)や ゆすとぅ 毛遊(モウアシ)び すなよーやー 〔着物を縫ったら、アヒさんに着てもらいます、この後の(男女ふれ合い遊び)はしてはいけませんよ〕五、男、まくとぅ 真実(シンジチ)ぬ 形見(カタミ)どぅんやりば 今からぬ後や ゆすとぅ毛遊(モウアシ)び 我(ワ)ねすんなー 〔誠の真実の、固めの契り、今後のふれ合い遊びはしないよ〕6、女、言っちゃんどーやー いぇーアヒ小(グヮ) 男、恋るなよ互(タゲ)に 女、親に言ち二人(タイ)や 夫婦(ミィトゥ)にならや 男、我(ワ)ったー二人(タイ) 〔女、言ったからねーアヒさんよー 男、他の恋に落ちるなよ、お互いに 女、親に報告した二人だから、夫婦になるんだよ 男、私達ふたり〕 会話調恋歌の沖縄バージョン 田いもを使って「ちんぬく・じゅーしー」作りませんか?
2004年12月25日
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沖縄本島に伝わる「うりじんグェーナ」など、芭蕉の繊維から糸紡ぎを経て、機織り・仕上げまでの経緯を歌い込んだ歌。 「芭蕉ナガレ」は、奄美大島竜郷町秋名 「芭蕉ナガレ」 南島歌謡大成・奄美篇より てぃんから うるされたん きょらばしゃ〔天から 降ろされた 美しい芭蕉〕 てぃんさしじ むち〔天の神の指図によって〕 わが うぃたる きょらばしゃ〔私が 植えた 美しい芭蕉〕 てぇーでぇーば ぬぶてぃ〔嶽々を 登り〕 みやまふかざく うるされてぃ〔深山の深迫に 植えられて〕 うーあがれ きょらとぅばる〔大東の 清らかな遠原に〕 わが うぃたる きょらばしゃ〔私が 植えた 美しい芭蕉〕 あをば たらたらとぅ〔青葉 ゆらゆらと〕 あをば あおあおとぅ〔青葉 青々と〕 あがんがれぃ きょらさる きょらばしゃ〔あんなに 見事な 美しい芭蕉〕 むとぅば きりはがし〔根元を 切り離し〕 すらば きりはがし〔末を 切り離し〕 なぎん なぎぎゅらさ〔薙ぎも 薙いだり〕 きりん きりぎゅらさ〔切りも 切ったる(その)美しさ〕 はじゃる きゅらばしゃや〔(皮を)はいだ 美しい芭蕉は〕 あぎぃたん きゅらばしゃや〔(皮を)はぎ洗った 美しい芭蕉は〕 くぅがねあく たれぃてぃ〔(黄金の様な灰汁)素晴らしい灰汁を 作って〕 にしゃる きゅらばしゃ〔(それで)煮た 美しい芭蕉は〕 とぅかさん きゅらばしゃ〔柔らかくなるまで煮た 美しい芭蕉は〕 あがれひごかわに きりばぬかし〔東の冷たい川で 灰汁を洗い流し〕 あぎぃたる きゅらばしゃや〔すすぎあげた 美しい芭蕉は〕 いびとぅ てぃご とぅりまわし〔いび(竹へら)と てぃご(手カゴ)を 使って〕 ひちゃる きゅらばしゃや〔(繊維の周りの身をこそぎ落す)繊維をとった 美しい芭蕉は〕 ひちゃる きゅらさ〔とった繊維の 美しさ〕 なでん なできゅらさ〔撫でに 撫でたその美しさ〕 きんぬさお とぅりまわし〔金の竿を 取り出して〕 さぎぃたん きゅらばしゃや〔(竿に)下げた 美しい芭蕉は〕 さぎぃん さぎぃぎゅらさ〔下げも 下げたる美しさ〕 ふしん ふしぎゅらさ〔干しも 干したる美しさ〕 はさみとぅ そけとぅ とぅりまわし〔鋏と そけ(績み道具)を 取りよせて〕 うむだしゃる きゅらばしゃ〔糸を績みだした 美しい芭蕉〕 うみん うみぎゅらさ〔績みも 績んだる美しさ〕 さぎぃん さぎぃぎゅらさ〔下げも 下げたる美しさ〕 ななひるぬ かしかきぃてぃ〔七尋のかせ糸を 機に仕掛けて〕 こそでぃ このでぃ〔小袖を作って(神に仕え)〕 ここのひるがし かきぃてぃ〔九尋のかせ糸を 機に仕掛けて〕 ふうすでぃ このでぃ〔大袖を作って(神に仕えます)〕 あけれぃ あけれぃ〔開けよ 開けよ〕 かみがじょ あけれぃ〔神の門を 開けよ〕 あけれぃ あけれぃ〔開けよ 開けよ〕 きみがじょ あけれぃ〔君の門を 開けよ〕 〔芭蕉ナガレ〕は、村々により歌詞が少しの違いが有るが、神への祈りを込めて歌う「神歌」であり、紡織の段取りを教える「作業歌」であったりする。 「芭蕉布」は、一般庶民の着物であり、奄美大島は貢租(税)を砂糖で代納していた為、染織物などの紡織品は、廃藩置県(明治政府)のころまで一般市場に出回る事がなかった。 その後、紬の生産により、「芭蕉布」は作られなくなる。 「芭蕉布」の現在の生産は、大島には無く、沖縄本島大宜味村喜如嘉産の「重要無形文化財指定芭蕉布」と、竹富島・小浜島・与那国島に残るのみ。
2004年12月24日
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「汗水(アシミジ)節」(一二揚・三下げ)1、汗水(アシミジ)ゆ 流ち 働(ハタラ)ちゅる 人(ヒトゥ)ぬ 心(ククル)嬉(ウリ)しさや 他(ユス)ぬ 知(シ)ゆみ 他(ユス)ぬ 知(シ)ゆみ ユイヤ サーサー 他(ユス)ぬ 知(シ)ゆみ シュラヨー シュラ 働(ハタラ)かな 〔ひたいに汗を流しながら働く喜びは、他人にわかるはずはない〕2、一日(イチニチ)に 一厘(グンシュウ) 百日(ヒャクニチ)に 五貫(グクヮン) 守(マム)て 損(スク)なゆみ 昔言葉(ンカシクトバ) 昔言葉(ンカシクトバ) ユイヤ サーサー 昔言葉(ンカシクトバ) シュラヨー シュラ働(ハタラ)かな 〔1日に一厘貯めれば、100日では5貫になる。祖先の残したことわざを、守って努力しょう〕3、朝夕(アサユ)働(ハタラ)ちょて 積立(チミタテ)る 銭(ジン)や 若松(ワカマチ)ぬ 栄(サカイ) 年(トゥシ)と 共(トム)に 年(トゥシ)と 共(トム)に ユイヤ サーサー 年(トゥシ)と 共(トム)に シュラヨー シュラ働(ハタラ)かな 〔朝から晩まで働いて、貯めたお金だからこそ、年をとるにしたがい、若松が伸びるように増えていく〕4、心(ククル)若々(ワカワカ)と 朝夕(アサユ)働(ハタラ)きば 五六十(グルクジュウ)になてん 二十(ハタチ)定(サダ)み 二十(ハタチ)定(サダ)み ユイヤ サーサー 二十(ハタチ)定(サダ)み シュラヨー シュラ働(ハタラ)かな 〔老いても、心を若く持ち懸命に働けば、いつも二十歳の青年のように、元気はつらつとするもの〕5、寄(ユ)ゆる 年(トゥシ)忘(ワシ)て 育(スダ)てたる 産子(ナシグヮ) 手墨(テシミ)学問(ガクムン)や 広(ヒル)く 知(シ)らし 広(ヒル)く 知(シ)らし ユイヤ サーサー 広(ヒル)く 知(シ)らし シュラヨー シュラ働(ハタラ)かな 〔子が学問を修め、立派に育つことを思えばこそ、年をとることも忘れて働くのである〕6、公衆(クシュウ)ぬ 為(タミ)も 我(ワ)が 為(タミ)と 思(ウム)てぃ 百勇みいさで 尽(ツ)くし みそり 尽(ツ)くし みそり ユイヤ サーサー 尽くし みそり シュラヨー シュラ働(ハタラ)かな 〔公衆のことを、自分のことのように、お互いに助け合う習慣を、みんなで大切にしよう〕 勤倹貯蓄のすすめ、労働のよろこび、子弟教育の重要性や社会奉仕の精神を歌い、社会の向上発展を期待する。 この唄は、昭和3年に発表された唄で、11月10日 昭和天皇即位の礼の時、沖縄では記念行事の一環として「勤検貯蓄運動」が実施され、そのキャンペーンのために作詞募集をしたところ、具志頭村の青年団員 仲本稔 二十四歳の作品が優秀賞として選出された。作詞者は当時、郵政省(郵便局員です) その歌詞に曲をつけたのが「宮良長包」 その年の前年、昭和二年は労働運動が俄かに活性化した時で、那覇には大工組合、左官組合、石工組合、樽工組合(黒糖を入れる樽作り職人の組合)などが結成され、労働者の待遇改善が叫ばれた時代で作者の心情に「働く事の意味」がこの唄に込められている。 一厘の百倍が五貫、五貫は十銭(五十貫が一円、千貫が二十円)ちなみに「十九の春」(原曲よろん小唄)の歌詞の中に(葉書が一銭五厘や一銭二銭)とあります。 朝夕働らちょてぃ 積み立てる銭や 若松の盛い 年と共に とあり、作詞者は後に具志頭郵便局長を勤め、昭和五十二年八月五日、七十三歳で亡くなっている。
2004年12月23日
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南方・中国・大和文化をうまく吸収しながら沖縄独自の染め織り技術を開花させていった。「浮き織」「両緞織」「花倉織」「花織」の紋織系と「首里上布」「煮綛(にいがしい)芭蕉布」「桐板(とんびゃん)」「手縞」「木綿の琉球絣」「型染めの紅型」糊引(ぬいびち)技法と文化性の高さをものがたる。 琉球絣の絣模様には、「空の群れ星」「川の流れ」「飛ぶ鳥」「ナベ敷」「おろし金」「甕(かめ)」「眉」「爪」など様々な絣文がある。 「紺絣」「白絣」「色絣」「茶絣」 「首里絣」は、布幅に一つ玉(一つ柄)が王家専用絣織 二つ玉・三つ玉は、士族専用 縞物は庶民専用と、文様で身分格差を付けていた。 これらの絣織物は、薩摩藩を通して日本本土に紹介されて、久留米・伊予・備後・山陰の木綿絣の発生的要素として、多大な影響を与えた。
2004年12月22日
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芭蕉布は日常必需品として沖縄全域で織られていたが、貢納布として島ごとに種類を特定していた為、各島々で特産的織物として伝承する様になった。 八重山地方石垣島では、こうした織物に茶絣(ちゃかすり)の八重山上布がある。 起源は定かではないが、人頭税を実施した「1637年(寛永14年)」以降の「八重島仕上世例帳」や「御用布座公事帳」に、紺縞・赤縞上布の名称記載がある。 赤縞とは、「紅露(くうる)」の色素で糸染めした錆色の縞及び絣入りを指し、赤縞上布・赤縞中布・赤縞下布の格付けがあった。 織り糸は島で栽培される「苧麻(チョマ・からむし)」を績(う)み、錆色を染める植物染料は、山間部から掘り出した山芋状の紅露の根茎をぶつ切りにして、これをおろし金ですりおろし、布で漉して取れた液を「糸染め染料」としていた。 紅露は、天日でも色あせない特徴を持っている。 絣染めは、天日蒸発させた濃縮染液を竹の刷毛で摺り込み染色する。 日本伝統織物の技法で、古くから摺り込み技法による絣染めは、八重山上布のみ。 その他の織物に採用されたのは、化学染料の導入以降である。 織り上がった八重山上布は、幾日も天日乾燥を行い、石灰水に漬けて、海水に浸す「海晒し」で仕上る。 が、現在は石灰水から化学薬品を使っている。 「ノニ」って元々そこらに生えてた雑草の一種。 「四角豆」や「ギンネム」などの内、特に「ギンネム」は、岩だらけの山(はげ山)を活性化させる為に植林したもの。 葉は合歓(ねむ)の木の様で主に山羊のエサとして使い、細く伸びる幹は、焚き物に使っていた。 今では雑草の一種に変貌している。 「ノニ」の果実は、鶏卵ほどの大きさで一見すると虫の様にも見える。 緑のゴツゴツした果実で、採集して常温放置すると、今まで固かった実がフニャフニャになり、黒い粒々の種と白っぽい透明のネバネバした「オナラ」の様な臭いのする物質に自然醗酵し変化する。 和名「ヤエヤマアオノキ」八重山に自生する植物。 今では、「タヒチ産」が主流となっているが、どちらも同じ、「ビタミン」「ミネラル」「アミノ酸」を含んでいる。 健康維持に南国では用いられていた。 沖縄の薬草文献には載っていない。
2004年12月21日
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沖縄本島の「かぎやで風節」は御目出度い席や座開き・正月に演奏される祝歌。 八重山では、「赤馬節」が同じ様に演奏されます。 「赤馬(アカンマ)節」(本調子)1、赤馬(アカンマ)ぬ ヤゥ いらすぃざ ヒヤルガヒー 足四(アスィユ)ちゃぬ ヤゥ どぅくぃ にゃふ ヤゥ ハリヌヒヤルガヒー 〔赤馬の、ああうらやましい事よ、(足四ちゃ・赤馬の同義語)あまりにも、冥加(非常に幸運である)な事である〕2、生(マ)りる甲斐(カイ) ヤゥ 赤馬(アカンマ) ヒヤルガヒー 産(スィ)でぃる甲斐(カイ) ヤゥ 足四(アスィユ)ちゃ ヤゥ ハリヒヤルガヒー 〔生まれる甲斐ある赤馬よ、産まれる甲斐ある(足四ちゃ)よ〕3、沖縄(ウクィナ)主(シュ)ん ヤゥ 望(ヌズィ)まれ ヒヤルガヒー 主(シュ)ぬ前(マイ)ん ヤゥ 見(ミ)のうされ ヤゥ ハリヌヒヤルガヒー 〔琉球国王に所望され、尚貞王にみそめられ、お召し馬になった〕4、いらさにしゃ ヤゥ 今日(キユ)ぬ日(フィ) ヒヤルガヒー どぅくぃさにしゃ ヤゥ 黄金日(クガニフィ) ヤゥ ハリヌヒヤルガヒー 〔ああ喜ばしく目出度い、今日の日を、余りにも嬉しく何にも例え様が無い、素晴らしい日だ(黄金日)〕5、我(バ)ん産(スィ)でぃる ヤゥ 今日(キユ)だら ヒヤルガヒー 羽(ハニ)むいる ヤゥ たきだら ヤゥ ハリヌヒヤルガヒー 〔私は生まれ変わった位嬉しい今日の日を、羽根が生えて空高く飛び立つ位嬉しくて、たまらない〕6、御主加那志(ウシュガナシ) ヤゥ 御果報(ミガフ)や ヒヤルガヒー 御万人(ウマンチュ)ぬ ヤゥ すぃでぃがふ ヤゥ ハリヌヒヤルガヒー 〔琉球国王の御果報は、とりもなおさず琉球国民の、有り難き幸せである〕7、御万人(ウマンチュ)ぬ ヤゥ 栄(サカ)いや ヒヤルガヒー 御主加那志(ウシュガナシ) ヤゥ 御果報(ミガフ) ヤゥ ハリヌヒヤルガヒー 〔琉球国民の繁栄は、其れが直ちに琉球国王の御果報である〕 「1698年」大城師番は、「若文子(事務官)」として、吉原部落の人頭税貯蔵庫係に拝命され、宮良村の高良家宿所から通勤していた。 「1702年」のある日、名蔵湾の北方海上から上陸して来た「名馬・赤馬」を発見する。 この名馬の評判は高く、沖縄まで響き渡り、ついに首里王庁から「その名馬を献上せよ」の令達書が蔵元・在番を経由して届いた。 宮良村では、村民総出で赤馬を見送り、涙を流して別れを惜しんだ。 首里に着いた名馬は暴れだし、国王は激怒して「この馬は、評判ほどの名馬ではなく悪馬だ。馬役と馬主は即刻打ち首の刑に処す」との厳命に、馬役・馬主は「首里上り」を命じられる。 大城師番は、打ち首の刑を覚悟して妻子と別れの水盃をかわし、琉球王庁に上り、国王に謁見した後、愛馬を見るために馬小屋に行った。 そこには、がんじがらめに縛られた名馬・赤馬がいた。 師番は、涙と共にその縄を解き放ち、立たせて「二人の打ち首を救ってくれ」と、愛馬にささやき乗馬する。 すると、愛馬は霊妙な足取りで首里城御庭を所狭しと「刻み歩き」をし始めた。 見守っていた国王や高官は、其れを見て首里城が揺れんばかりの拍手を送った。 国王は、激賞・賛嘆され二人の打ち首は罷免された。「この赤馬は、主と不離一体の名馬で、神から授かった神馬である。何者もこれを所有する事が出来ない。」と、「1703年」に師番に返還され帰島する。 その時の喜びを謡った即興歌が「赤馬節」と伝えられる。 後に、薩摩藩島津公からも「赤馬献上令達書」が届き、赤馬は船積みされていたが、台風により陸揚げする時に赤馬は暴れだし綱を切り豪雨の中、師番の宿所宮良村高良家に駆け込み、家の周りを三回廻り最期を遂げる。 当時、村人が赤馬を見送った丘を「馬見岡」と称して「赤馬節の碑」が建てられている。
2004年12月20日
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小浜島は石垣島と西表島の間に位置し「周囲16.57km」島の中央部に北部落・南部落からなる集落があり、後方に「大嵩(うふだき)高さ99.4m」がある。頂上から前方を見下ろすと、田園等そして白浜が見える。 海の向こう側には、黒島(くるしま)・新城島(あらぐすく)等が見え天気の良い日は、日本最南端「波照間島(はてるましま)」が見える事がある。 島の西端には半農半漁の「東細崎(あがりくばさき)・西細崎(いりくばさき)」の集落からなっている。 「1751年」小浜島を管理する役人に拝命された、武芸の達人「宮良永祝」は、島の「新里加武多氏」が謡っていた小浜節を琉歌体に改作して(工工四)に発表。 永祝と新里は「東細崎(あがりくばさき)」の(ナフマ作)で新里の唄を聞きながら、改作したと言われている。 永祝は「ニックネーム」を付けられる程の武芸の達人で、石垣では「唐メーラ主(唐人から武芸を習得した者)」、与那国では「クズラーメーラ主(小柄な者)」と呼ばれ、与那国では数々のエピソードを残し、武勇伝の伝承は今にも伝えられている。 「小浜(クモー)節」(本調子・二揚)「1751年作」1、小浜(クモマ) てぃる島(スィマ)や 果報(カフ)ぬ島(スィマ) やりば「シタリヌ」 大嵩(ウフダギ)ば くさでぃ 白浜(シルパマ)前(マイ)なしヤゥ ンナ 〔小浜と言う島は、果報な島であるから、うふだきを腰当にして、白浜を前にして良い島だ〕2、大嵩(ウフダギ)に 登(ヌブ)てぃ 押(ウ)し 下(クダ)し 見(ミ)りば 「シタリヌ」 稲粟(イニアワ) ぬなをり 弥勒世果報(ミルクユガフ)ヤゥ ンナ 〔うふだきに登って、四方を展望すれば、五穀が豊に稔って、弥勒世の豊年万作だ〕3、稲粟(イニアワ)ぬ 色(イル)や 二十歳頃(ハタツィグル)美童(ミヤラビ)「シタリヌ」 粒々(ツィヅィ)美(ジュ)らさあてぃどぅ 御初(ウハツィ) 上(ア)ぎるヤゥ ンナ 〔五穀が豊熟する色は、二十歳頃乙女の色艶のようだ、粒も並揃ってあるので、神仏に御初稔りとして捧げる〕4、潮(スー)ぬ 満干(ミチヒリ)や 月(ツィクィ)からどぅ やゆる 「シタリヌ」 島(スィマ)ぬ 有掛無掛(ウキムキ)や 村(ハラ)ぬ 主(シュ)からヤゥ ンナ 〔潮の干満は、月の引力によって起きているが、島の吉凶盛衰は、村の役人の如何による〕5、海(イン)ぬ ささ草(グサ)や 浦々(ウラウラ)どぅ 寄(ユ)ゆる 「シタリヌ」 くま かぬさ あてぃどぅ くまに 寄(ユ)ゆるヤゥ ンナ 〔海草などは、島の浦々の入江に自然に流れ寄る、そこが恋しいから、そこに集まり寄ってくる〕6、夜(ユル)走(ハ)らす 舟(フニ)や 子方星(ニヌファブスィ) 見当(ミア)てぃ 「シタリヌ」 我(バ)ん 産(ナ)しゃる 親(ウヤ)や 我(バ)んどぅ 見当(ミア)てぃヤゥ ンナ 〔夜、走らす舟は、北極星を目印にして安全な航海をしている、私を産んでいる親は、私を頼りにして生きがいを感じている〕 6番の歌詞は、「でんさ節」(1768年作)の引用追加か?「でんさ節」は、「仲筋ぬぬべーま節」(1734年作)の舞踊曲(ちらし)として、又「上原(ウイバル)ぬ島節」(1821年作)の(ちらし)としても使われています。
2004年12月19日
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さあ、幾つ島酒の銘柄が入っているでしょうか? 「泡盛物語」(二揚) 作詞作曲/濱里保之1、今日は仕事でくらくらで どなんするんや与那国さん 翔がないからまさひろ君 瑞穂ちゃんでも誘ってみよか さくらいちばん花見して あの子と一杯 奴樽蔵2、まずは乾杯オリオンビール 島トウフさかなに島酒さん 本場泡盛飲みましょう 老いも若きも飲みましょう 本場泡盛飲みましょう 貴方も私も飲みましょう3、多良川 暖流 夢航海 宮の華は菊之露 羽地内海 銭樽よ 春雨降ったら豊年だよな かりゆし花酒玉の露 神泉 残波は 萬座らだ4、久米島 久米仙 請福だ ニコニコ太郎と白百合さん びーと来たらはんたばる 常盤時雨に濡れてもいいわ 紺碧主義でもハブ酒だ わから初みて千鳥足5、熱き島唄ききながら 国華せいしょう麗仕込み 南光おっしゃる北谷長老 幻の御酒に千代泉しようぜ 沖の光だ乾杯だ びっくり響天 泡波 龍ぞ6、沖縄タイムの咲元さん 貴方を松藤 太平だ 首里天酒飲み夢語り おもと英気をつけようじゃないか 舞富名 照島 宮の鶴 八重泉さんも山原くいな 現在、酒造所は沖縄県内で48ヶ所あります。 銘柄では100種を超えてます。 今年6月以前は、「公正競争規約に基づいて、三年以上貯蔵した泡盛が50%を超えて入っていれば「古酒」と表記できる。」でした。 自主基準はこれに年数とその割合を表記する。 例えば、「五年古酒」と年数表示ができるのは、100%五年古酒か、五年以上貯蔵した古酒を混ぜたもの。 表示する場合は「五年古酒100%」もしくは、「五年古酒90%、8年古酒10%」などとなる。 年数を付けずに、ただ「古酒」と表示した場合は、公正競争規約の通りとする。 ただ、裏ラベルに古酒の割合を表示することが必要で、例えば「古酒65%」とか「五年古酒40%、三年古酒25%、一般酒35%」と記す。 一般酒に古酒を10%以上、50%以下の割合で混合した場合は「混和酒」「ブレンド酒」と表記できる。 この場合も、裏ラベルに「古酒30%混和」「古酒30%ブレンド」などと書かなければならない。 古くから古酒とは、例えば10年の古酒が減った分前年の古酒を継ぎ足す事が常識とされていました。 「10升の古酒かめから、1升取り出せば、前年の古酒を1升足す。」など。 酒税法の特別減税(沖縄・離島地場産業の優遇処置)の廃止〔動きでは3年後〕になると死活問題に発展する為、今までの慣例を廃止しようとの動き。 消費者の認識か、歴史上の慣例を認めるかの狭間。 100パーセント古酒は確かに旨い。 だが、飲めば減る。 だから継ぎ足す。 これは、個人管理の酒でする物と思うが。 昔の自家酒造の歴史・慣習を企業でするのはどうなのか? 辛酒の始まりか?
2004年12月18日
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多彩な色使いの「紅型」と琉球藍を使った「藍型(イエーガタ」がある。 技法としては二種類ある。1、「型染め」 柿渋紙の型紙を使いわけながら、主に着物や帯を染め上げる。型紙の地色が柿渋の赤茶色から「紅型」と呼ばれる。2、「筒描き」 筒先から(防染糊)を絞り出し大きな模様を描く。主に幕・旗・風呂敷に使われる。97歳の(カジマヤー祝い)のお返し品に、大きく染め抜いた風呂敷が使われた。 18世紀中頃、紅型衣装が確立され、王族・士族階級の普段着や内々の晴れ着として着用 紅型模様の特徴として、「沖縄には無い風物(菖蒲・しだれ桜・雪持ち笹)など、日本(外国)の風物を好む特権階級の嗜好(ブランド志向)の表れ」がある。 織物・芭蕉布や漆器類は、琉球国から大陸中国への交易品や日本の大名家や幕府の献上品であるが、「紅型」は琉球国内用の工芸として発展する。 古典舞踊の衣装として、艶やかな「紅型」をまとい踊る〔女踊〕や「紅型」の振袖を着た少年達が凛々しく踊る〔若衆踊〕があげられる。 琉球王府には、接待専門の芸能奉行「踊奉行」があった。「踊奉行」は、(1404年)中国との冊封関係を結び、国王の代替わりの度に、冊封使(中国皇帝の使者)を迎え、4〇〇~500名の使者を半年間滞在中、芸能の宴として「踊奉行」の催しがある。 冊封使は、新国王の認証の証である「冠」を携えて二隻の船で来るので、使節団一行の船を「御冠船」と言い、その使者を接待する芸能を「御冠船踊」と呼んだ。 後に、薩摩藩支配下(薩摩の力は外国まで及ぶ)を誇示する為「江戸上り」として、琉球使節を将軍や各大名の前で音楽を演奏し、踊る事で外交手段として使われる。 「踊奉行」の功労者「玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)」は、国王「尚敬」から「冊封使を迎えるにあたって、新しい踊りを創作せよ」の命により、若い頃から幾度となく薩摩・京都・江戸に行き来してた経緯があり、能や歌舞伎の(日本芸能)を学んでいたので、「1719年」新芸能「組踊」を完成させる。 「組踊」は、〔台詞・歌・伴奏・踊り〕を組み合わせた「総合舞台芸術」 以降、琉球国劇として広く伝えられ、琉球王国末には一般庶民の村まで広がり、現在約60編の作品が残されている。
2004年12月17日
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沖縄の言葉(琉球方言)は、日本本土方言と並ぶ日本語の二大方言の一つ。 奈良時代の初め頃の分岐と考えられる。 本土方言は、奈良時代以降中国の仏教などの影響により、中国の言葉を取り入れながら変化をとげていく。 琉球方言は、仏教の影響を受けなかった為、そのまま古い日本語を残しながら独自の発展をとげていく。 琉球方言の特色は、日本本土発音の母音部「aiueo」が「aiuiu」となっており、「雨ameはami」「風kazeはkaji」となる。 「琉球」と言う呼び名は、中国サイドからの呼び名で、7世紀頃「随書」の中に「流求国」とあり、「琉求」「瑠求」と当て字されて「琉球」の文字が使われ、その文字が沖縄を指す様になるのは、中国〔明の時代〕14世紀後半以降のこと。 「沖縄」は、鎌倉時代「平家物語」に〔おきなは〕が使われており、漢字の「沖縄」は、17世紀の薩摩藩の公文書で使われるが、広く一般に伝わるのは、江戸時代〔新井白石〕の著書「南島志」(1719年)の中で紹介され、一般に使われるようになる。 沖縄では、仏教などが入ってくる以前から「御獄(うたき)信仰」があり、「御獄」は先祖神や守護神を拝む神聖な場所。 「1470年」琉球王「尚巴志」より(600年続く)第一尚氏王統が家来の「金丸(カナマル)」のクーデターにより滅ぼされ、「金丸」は「尚円」を名乗り琉球の国王となる。 以降、第二尚氏王統(400年続く) 「尚円」の子「尚真」は、尚円の死後実権を握っていた母親の後ろ盾があって、12歳で国王に君臨後に改革を行う。 国王に権力を集中させる為に、各地方の「按司〔アジ〕(大名)」を首里に集め、代わりに「按司掟〔アジウッチ〕」と呼ばれる役人を地方に派遣し、地方支配を確立。 「按司」達に位を与え、〔冠の色・かんざしの材質〕の種類分けで階級を決める。 「按司」達の持っていた交易権を取りあげ、独占交易をする。 さらに「尚真王」は、村々での宗教的儀式を行う〔「ノロ」と呼ばれる女性の神主〕をも、組織化する為「尚真王」の姉妹達を「聞得大君(キコエオオギミ)」として、最高位の「ノロ」と位置付け、各地の「ノロ」をその統制下に置く。 その宗教的支配下での、仏教の滲入も無く独自の言語が確立される。 明治時代に、国家神道政策の影響で各地に神社が建立されるようになる。「ノロ」と「ユタ」の〔霊的宗教司祭〕としては同じですが、「ノロ」は琉球王属の支配下で任命された「女司」「ユタ」は、民間霊能力者。恐山の「いたこ」の様な存在
2004年12月16日
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「1689年」「系図座」と言う役所が置かれ、人々に家系図の提出を命じる。「系図〔家譜(かふ)〕」は、二部作成で一部は「系図座」が管理し、もう一部は琉球国王の朱印が押されたものを各家が保管。 が、国が認めた系図を持っているものは「士」となり、持っていないものは「百姓」と言う身分。 系図を持っている「士」にも階層があり、王子・按司・親方(ウェーカタ)の身分は「大名」として〔金のかんざし〕を付け、広い領地を所有する貴族階級。 〔銀のかんざし〕をさした一般「士」は、国王に仕える役人。だが、年一回2月頃の「科試(こうし)」の採用試験に合格しなければ役人には成れない。 役職に就けない「士」も多く、山林開墾や農業を行う者もあった。 〔真鍮のかんざし〕をさす一般庶民・百姓は、都市部で商工業に従事する者を「町百姓」 地方の農村部で農業をする者を「田舎百姓」「町百姓」には、土地を所有していないので納税の義務は無し。「田舎百姓」は、大多数を占めており、〔百姓地〕と言う土地を与えられ、税負担しなければならない。 「士」ち「百姓」の見た目の違いは、かんざしだけでなく、着物の模様や冠の色、家造りの木の材質・敷地の広さ・儀式の時の料理の品数に至るまで、身分の細かい違いを取り決められていた。 税の負担は、収穫の6~7割で最低限の生活維持が困難な状況。 この税負担率は、本島のみの課税で、宮古・八重山の「人頭税」は、これを超える。 「人頭税」とは、田畑の広さや貧富の差に関係なく、15歳~50歳までの全ての男女に課せられた。 人の頭割りの税が「人頭税」 作物を納税しても足らず、飼っていた豚や山羊・にわとりなどを売り払い穀類を買い、それを納めるほど重い課税。 御用布一反織り上げるのに全精力を捧げて織り上げた織女は、病人の様にやつれ、毛は抜けて時には死亡する事さえあり、せっかく織り上げた布が検査で不合格になると穀物で代納させられた。 牛馬・家財まで売る事もあり、納税義務違反した者は「投獄」や「村ばらい」されるなどの厳罰を受ける。 穀類・反布の納税の他に、「附加税」「特別税」などの穀納税。 土木工事などの「夫役」などまで課される。 「織女が布織る手を休めて、乳児に授乳させていると、係りの役人が怒鳴りつけ、乳児にまで鞭を振り打ちするので、母親は心を鬼にして、その子を帯で柱にくくり付けて布を織った。」 「仲筋のヌベーマは、当時の竹富与人の「新城焼かめ(パナリ焼の甕)」「御用布用の苧麻」と交換に、恋人と引き離され泣く泣く新城与人の「賄婦(妾)」にさせられた、(仲筋ぬヌベーマ)」 「真栄(マザガイ)は、貢納米を作るために恋人と別れて西表島に移住させられる(まざかい)」 「貢納の苦しさのあまり、一家の負担を軽くする為、「間引き」や「堕胎」をやむなくする者も多数」 この惨酷極まる「定額人頭税」は、(明治35年)まで(225年間)も続く。
2004年12月15日
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古典民謡では、荘厳な本歌の後に、1~3番歌詞分の歌を付けるものを〔ちらし〕と言う。 例えば、 「鶴亀節」を3番まで歌い、(歌待一回)続けて「矼(はし)ゆば節」の(歌待2回)1~3番歌詞 「赤馬節」を3番まで歌い、(歌待一回)続けて「しゅうら節」の(歌待1回)1~2番歌詞 と〔つなぎ〕を入れる事を〔ちらし〕となりますが、注意は〔ちらし〕専用の歌詞が、〔ちらし〕とされる曲に書き加えられている事です。 献上曲を荘厳とすると、〔ちらし〕は気分を和らげる効果があり、献上先役人に対し「恐れ多き事でありますが・・・、お近くに寄らせてください・・・、拝んでから下がります・・・。」と本歌の後に付ける事が〔ちらし〕の役割。 〔ちらし〕の歌待(イントロ部)は、本歌曲終わりの(歌待)に続けて(途切れる事の無い様に)〔ちらしイントロ部〕をつなぐ為、本歌歌待と似た〔ちらし歌待(イントロ部)〕は、2回続けるのではなく一回省略して弾く。(3回歌待となる為) 荘厳な本歌で「唄者は、気を張り詰めた雰囲気で歌い、聞者は身を引き締めて聞く」為、〔ちらし〕を使い「気分を緩め、和やかな雰囲気」を演出する。 歌舞伎では、「前歌 手事〔ちらし〕 後歌」となる。 後ろに垂れ下げている髪形を〔ちらし髪〕と言う。
2004年12月14日
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この曲は、軽快なテンポで、たいへん調子の良い歌。 五穀豊穣の様子を、軽やかに表現してあり、農業(一次産業)奨励民謡として、農家を中心に愛唱されている。 石垣市大浜村(読み人不明) 「大浜節・山入らば節」(本調子)1、山入(ヤマイ)らばぬ 山入らばぬ ヤゥ 山行(ヤマイ)きたむぬ 取(トゥ)りぶなりゃ為(タミ)す 〔山に入るなら山に行き、薪を取って来て炊事をして、妹の為に加勢する〕※、イサガションカネヤマウタキニヤマヘルラッチュンナマヤゥ2、原(ハル)入らばぬ 原入らばぬ ヤゥ 原行(イ)き 畑(ハタギ) そうりびぎりゃ為(タミ)す 〔畑に行くなら作物の雑草取りをして、兄さんの為に加勢する〕※、イサガションカネヤマウタキニヤマヘルラッチュンナマヤゥ3、麦(ムン)稔(ノー)らばぬ 麦稔らばぬ ヤゥ 麦ぬ なをりすや ザラ ザラしい 〔麦の稔っている状態は、クバ笠や手などに、ザラザラ音をたてるくらい稔っている〕※、イサガションカネヤマウタキニヤマヘルラッチュンナマヤゥ4、米(マイ)稔(ノー)らばぬ 米稔らばぬ ヤゥ 米ぬ なをりすや つぃだ まぐとに 〔稲の稔っている様子は、あたかも数珠玉の様に太く固い(実入りが良い)〕※、イサガションカネヤマウタキニヤマヘルラッチュンナマヤゥ5、粟(アワ)稔(ノー)らばぬ 粟稔らばぬ ヤゥ 粟ぬ なをりすや ならさ石(イシ)に 〔粟の稔っている様子は、(ウル石・サンゴ石)枝サンゴの様に〕※、イサガションカネヤマウタキニヤマヘルラッチュンナマヤゥ6、芋(ンム)みーらばぬ 芋みーらばぬ ヤゥ 芋ぬ みーりすや ぴんてぃかんてぃ 〔芋の稔っている様子は、地表に点々と突き出てくる〕※、イサガションカネヤマウタキニヤマヘルラッチュンナマヤゥ7、桃(ムン)折(ブ)らばぬ 桃折らばぬ ヤゥ 桃ぬ 実(ナー)りすや 枝(ユダ)実(ナー)りし 〔山桃を折るならば、実付きの多い枝から折るように〕※、イサガションカネヤマウタキニヤマヘルラッチュンナマヤゥ 赤露染めは、沖縄の日差しにも強く、色あせないのが特徴です。 西表島に自生し、大変貴重な天然染料。
2004年12月13日
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八重山古典民謡の中で、三下げ調子の曲は、この一曲だけである。 五穀豊穣の歌・新城島(アラグスク)全体を、誉め称える歌。 古代の焼き物「ぱなり焼」の産地(1857年まで) 上地(かみじ)島と下地(しもじ)島に離れているので、「離れ(ハナリ・パナリ)とも言う。 人頭税時代には、「ジュゴン」を貢納する事が新城の男達に課せられていた。 「1837年」「慶田城用舛」が新城与人役時代に作詞・作曲。後に彼は「繁昌節」「とぅまた節」等も作る。 「世果報(ゆがふ)節」(三下げ)1、サーサー 昔(ムカスィ)から とぅゆむ 我(バ)が 新城島(ハナリスィマ)や 高弥久(タカニク)ば くさでぃ スリ 世果報(ユガフ) 向かてぃ ウリ シタリガ ヤゥンザゥ シトゥテン トゥンテン 〔昔から評判の高い、我が新城島は、高弥久と言う丘を後にして、五穀豊穣を迎えて〕2、サーサー 年々(トゥシドゥシ)ぬ 物作(ムズク)いや 実(ミヌ)り 出来(ディキ)でむぬ 首里加那志(スンジャナシ) 貢物(ミムヌ) スリ 御初(ウハツィ) 上(ア)ぎら ウリ シタリガ ヤゥンザゥ シトゥテン トゥンテン 〔毎年の耕作物は、稔り豊かに出来ているから、首里王への貢物は、御初の米から差し上げよう〕3、サーサー 家毎(ヤーグトゥ)庫々(クラグラ)に 積(ツィ)ん 余(アマ)す 穀(クク)や 酒(サキ)みすぃに 造(ツィク)てぃ スリ 祝(ユワ)い 遊(アス)ば ウリ シタリガ ヤゥンザゥ シトゥテン トゥンテン 〔各家ごとの倉々には、積み余る程の穀物が、酒や御神酒を醸造して、祝い遊びましょう〕4、サーサー 白毛(シラギ)雪(ユチ)かめる 年寄(トゥシユリ)や あまた 上座(カミザ)しに なりてぃ スリ 心嬉(ククルウリ)しゃ ウリ シタリガ ヤゥンザゥ シトゥテン トゥンテン 〔白髪「雪」を戴いておられる、古老は数多く、上座に仰いでの祝賀は、心の限り嬉しい〕5、サーサー 算(サン)ぬ 数(カズ)知らん 若者(ワカムン)ぬ まぎり 歌とぅ 三味線(サミシン) スリ たちゃい むちゃい ウリ シタリガ ヤゥンザゥ シトゥテン トゥンテン 〔数える事の出来ない程の、若者の「まぎり(全部・一切・全体・あるだけ)、歌や三味線で合奏して、躍ったり・跳ねたり・狂言をして賑やかである〕 この時代、三線(サンシン)ではなく、三味線(サミシン)と言い、沖縄本島から三線(サンシン)と呼ぶようになる。 八重山では、今でも三線屋(サンシンヤー)より、三味線屋(サミシンヤー)と呼ぶ方が多い。 「その三味線(サミシン)上等どー〔良い三線ですね〕」
2004年12月12日
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この歌は、「1842年」「鷲ぬ鳥節」を発表と同時に子守唄として「大宜見信智」が工工四に発表した。 八重山・宮古・与那国の先島諸島の人々が那覇で公用を済ませると共に集まって、各離島の民謡を歌って慰安会を開催していた。 そこで、「あがろーざ節」を宮古の人に伝授したところ、宮古からは「トーガニスィザー節」を、それぞれ交換、口伝されたと言い伝えられる。 今でも宮古では「東里真中節・アガリザトゥンナカ」として歌い継がれている。 「1651年」までは、石垣島「登野城村」は「殿城村」だった。 東は、(あがり・太陽が上がるの意) 「あがろーざ節」(本調子)1、あがろーざぬ んなかに ヤゥ ヤゥ イ 登野城(トゥヌスィク)ぬ んなかに ヤゥ ハリーヌ クガナ 〔東里の村中に、登野城村の村中に〕2、九年母木(クニブンギ)ば 植(イ)べとうーし ヤゥ ヤゥ イ 香(カバ)さん木(ギ)ば さしとうーし ヤゥ ハリーヌ クガナ 〔九年母木(ミカンの木)を植えてあった、香り高い木の下で〕3、九年母木ぬ 下(スィタ)なか ヤゥ ヤゥ イ 香さん木ぬ 下(スィタ)なか ヤゥ ハリーヌ クガナ 〔九年母木(ミカンの木)の下で、香り高い木の下で〕4、子守(ファム)りゃ達(ダー)ぬ 揃(ス)る 寄(ユ)てぃ ヤゥ ヤゥ イ 抱(ダ)ぐぃな 達(ダー)ぬ ゆらゆてぃ ヤゥ ハリーヌ クガナ 〔子守りをする人達が揃い寄って、抱き守りをする人達がよりそって〕5、子守(ファム)りゃ達(ダー)ぬ 言葉(クトゥバ)ぬ ヤゥ ヤゥ イ 抱(ダ)ぐぃな達(ダー)ぬ むにゃいぬ ヤゥ ハリーヌ クガナ 〔子守をする人達の言う事には、抱き守をする人達の語る事は〕6、腕(ウディ)ば痛(ヤ)み 守(ム)り ひゅうば ヤゥ ヤゥ イ かやば 痛(ヤ)み だぎ ひゅうば ヤゥ ハリーヌ クガナ 〔腕が痛む程に子守をしてくれた、かやば(手首と肘の間)が痛むほどに抱いてくれた〕7、大人(ウフプィトゥ)ゆ なり とーり ヤゥ ヤゥ イ 高人(タカプィトゥ)ゆ なり とーり ヤゥ ハリーヌ クガナ 〔早く成人して、名高い人になって下さい〕8、墨書(スィンカクィ)上手(ジョウズィ) なり とーり ヤゥ ヤゥ イ 筆(フディ)取(トゥ)るぃ上手(ジョウズィ)なり とーり ヤゥ ハリーヌ クガナ 〔読み書き算術に優れて、偉い御役人に出世して下さい〕9、沖縄旅(ウクィナタビィ) 受け おーり ヤゥ ヤゥ イ 美御前旅(ミオマイタビィ) 受け おーり ヤゥ ハリーヌ クガナ 〔上国旅の指令を受け、首里旅の指令を受け〕10、月(ツィクィ)ぬ形(カタ) 買い おーり ヤゥ ヤゥ イ 星(フスィ)ぬ形(カタ) 買い おーり ヤゥ ハリーヌ クガナ 〔御奉公がすんだら、月の形・星の形の模様の着物を買って来て下さい〕11、産(ナ)しゃる 親(ウヤ)とぅ ゆまし ヤゥ ヤゥ イ 守(ム)りゃる 姉名(ニナ)とぅ らし ヤゥ ハリーヌ クガナ 〔産みの親の名を上げさせ、子守をした人の名を上げさせて〕 子守唄は、「ファムレウタ」や「ファムリウタ」と言われています。 姉が下の子の子守をしたり、兄が下の子の面倒を見たり(兄さん「ヤッチー」と言う歌があります。
2004年12月11日
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沖縄本島で流行している「川平節」は、そもそも八重山の「かんつぃ節」の歌詞だけを改作して歌われている。 石垣市川平村に居た、兄「大浜善得」と弟「平田善元」の兄弟が協同で「かんつぃ節」を(1721年)作。 兄「大浜善得」は、諸役人を経て総横目職から座敷職に昇進した出世頭(79歳で他界) 弟「平田善元」二十歳、兄「大浜善得」三十九歳の作 屋号・大名家(ダイミョウヤー)「カンツィ美人」 屋号・後浜家(シハマヤー) 「ナベマ美人」 この二人の美人に会う為に、川平村まで20kmの山道・悪路をひたすら歩き続け、二人の美女に憧れて通い続ける。 「川平節・かんつぃ節」1、世間(シキン)沙汰(サタ)しゆる 大名家(ダイミョウヤー)ぬ かんつぃ いつぃぬ 夜(ユ)ぬ 露(チユ)に 咲かち すゆが スリ 〔世間に取り沙汰されている、大名家のカンツィ美人を、何時の夜の露で、咲かせてみようか〕2、時(トゥクィ)ゆ 待ち みしょり 節(スィツィ)ゆ 待ち みしょり つぃぶでぃ 居(ウ)る 花ぬ 咲かな うちゅみ スリ 〔時期を待って下さい、機会を待って下さい、青春の蕾の花は、咲かずにおれようか〕3、時(トゥクィ)待つぃんで 居(ヲ)るけ 節(スィツィ)待つぃんで 居(ヲ)るけ 人(プィトゥ) 為(ダミ)に ならば 我(ワ)んや ちゃすが スリ 〔時期を待っている内に、機会を待っている内に、他所者と恋愛してしまったら、自分はどうなるのか〕4、人(プィトゥ) 為(ダミ)ん なさぬ ゆす為(ダミ)ん なさぬ 島(スィマ)ぬ ある までぃん かんどぅ やゆる スリ 〔貴方以外の人に恋はしません、他所者に なびく様な もろい女性ではありません、この島がある限り、二人は偕老同穴の契りであります〕5、又ん 沙汰しゆる 後浜家(シハマヤー)ぬ なべーま たんでぃ とーどぅ みやらび 語(カタ)られ ひりゃな スリ 〔又も 世間の評判になっている、後浜家のナベーマよ、どうかお願いです、私の恋人になって下さい〕6、語られ ざーぎ ひーるか ゆばりてぃ ざーぎ ひーるか 金(キン)ぬ 屏風ん うやすでぃ 確かに うやすんどー スリ 〔私の恋人になってくれるなら、水も漏らさぬ仲となってくれるなら、黄金の屏風を記念として、確かに差し上げましょう〕7、すぃかし でん あらぬ ゆくし でん あらぬ 新城(アラスク)びらまん 阿波連(アフワリ)びらまん 知っちょんどー スリ 〔嘘を吐(つ)く 口実でもない、だます手段の言葉でもない、新城ビラマも、阿波連ビラマも良い証人です〕8、生(マ)りる 甲斐 かんつぃ 産(スィ)でぃる 甲斐 なべーま 沖縄(ウクィナ)までぃ とぅゆまれ いけい すっつぁいら スリ 〔生まれる甲斐があったカンツィ、産まれでる甲斐があったナベーマ、沖縄本島までも評判になって、羨ましいことである〕9、歌(ウタ)聞(スィ)きば かんつぃ 声(クィ)聞(スィ)きば なべーま やますぃめーぬ びい びい 余韻(ユイン) 勝(マサ)る スリ 〔カンツィもナベーマも歌が上手で、声を聞くと素晴らしい美声である、二人とも、山で鳴く蜩(ひぐらし)よりも勝っている〕10、歌ぬ 出(ン)でぃ 口(グチ)や 新城(アラスク)びらまどぅ やしが 亦(マタ)ん 出(ン)でぃ 口(グチ)や 阿波連(アファリ)びらま スリ 〔新城ビラマ、阿波連ビラマの両人は、歌の名人で音楽家でもある、二人とも優劣つけ難い〕11、大名家(ダイミョウヤー)ぬ かんつぃ 島(スィマ)ぬ 夫(ブドゥ) 持(ム)つぃか うふん 井戸(ガー)ぬ 水(ミズィ)や 甘水(アマミズィ)なるはずぃどー スリ 〔評判高い、大名家のカンツィが、万が一にも島の百姓を夫に持つ様な事が有れば、海水混じりのウフン井戸の水も、淡水に変わるであろう〕12、後浜家(シハマヤー)ぬ なべーま ふんぬ夫(ブドゥ)持(ム)つぃか うなや井戸(ガー)ぬ 水(ミズィ)や 詰酒(ツィミザキ)なるはずぃどー スリ 〔取り沙汰されている、後浜家のナベーマが、万が一にも島の百姓を夫に持つ様な事が有れば、淡水のウナヤ井戸の水が、詰酒に変わるであろう〕13、たんでぃ とーどぅ なべーま があら とーどぅ かんつぃ 夜(ユル)ぬ片時(カタトゥクィ)や 遊(アサ)ばれ 給(タボ)り スリ 〔どうかお願いします、ナベーマ美女よ、命掛けてのお願いです、カンツィ美女よ、20キロの険道の道程を歩いてきた私達二人に、同情して夜の僅かな時間でも会って下さい、慰安して下さらないか、二人の恋人よ〕 青春ですね。 内地の平安時代、歌を読み、お目当ての美女に面会を願う様に、歯の浮く台詞も、歌で聞かせる。 「はずぃどー」は、沖縄口(うちなーぐち)の「~はず」と同じで、標準語の「はず」とはニュアンスが少々異なり難解。 「~について責任は持てないけど、私はそう思う」の感じ。「それ食べてもいいはず」は、「責任持てないけど・・・」が付く。 「偕老同穴」とは、夫婦仲睦じく、生きてはともに老い、死しては穴を同じゅうして、葬られようと誓いあう。を言う。 島の井戸(ガー)は、掘る場所により、海水・汽水・淡水の水が出る。 海水井戸は、主に洗い物(洗濯等)に使う。 汽水井戸は、農業用水 淡水井戸のみ、飲料水 この本は、三線譜面と五線譜で構成してあり、ギターやピアノで弾く事が出来る様になっています。 とても見やすいですが、フルコーラスには難点があります。 三線とピアノのセッションやギターセッションで、沖縄民謡をするには最適です。 三線初心者で、工工四譜面(三線専用譜面)のメロディーラインが解からなくなった時に見るのも一考かと思います。
2004年12月10日
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「まへーらつぃ」とは、女の子の名前で、その子の生い立ち実話歌。 続けざまに父母と死別し、祖母に引き取られて、可哀相な子として愛育されたのではなく、あらゆる虐待を受け、野良畑の片隅で独り身の不遇を嘆き、泣き暮らし、亡き父母を恨みながら成長した。 が、この歌はこの子の後半生が謡われておらず、後の事は不明。 想像するのみ。(石垣市新川) 「まへーらつぃ節」(二揚)交互に歌う甲、まふぇーら つぃぬ ヤゥ 「ハイヤースリ」 女童(ミヤラ ビ)ぬ 「イラユイサー」 生(ウマ)りや ヤゥ 「ユイ サ」 〔まふぇーらつぃと言う名前の乙女の生い立ちを述べると〕※、ハリ ユバ ナヲレ乙、五(イツィ)つぃ しや ヤゥ 「ハイヤースリ」 父(イ ザ)とぅぬけ 「イラユイサー」 うだそうぬ ヤゥ 「ユイ サ」 〔五歳の時には、父親を亡くしていたと言う〕※、ハリ ユバ ナヲレ甲、七(ナナ)つぃ んや ヤゥ 「ハイヤースリ」 母(アブ) とぅぬけ 「イラユイサー」 うだそうぬ ヤゥ 「ユイサ」 〔七歳の時には、母親も亡くして一人ぼっちになっていたと言う〕※、ハリ ユバ ナヲレ乙、なら たんが ヤゥ 「ハイヤースリ」 くり 一人(プィト ゥリャ)「イラユイサー」 立(タ)つぃ まけ ヤゥ 「ユ イサ」 〔自分一人では、これ一人では、世帯を建てる事は不可能である〕※、ハリ ユバ ナヲレ甲、なら 伯父(ブザサ) ヤゥ 「ハイヤースリ」 淀(イチ ュ)伯母(ブバマ) 「イラユイサー」 なしゃ 行(イ)き ヤゥ 「ユイサ」 〔自分の伯父さん、いとこ伯母さんのもとに、行ったのである〕※、ハリ ユバ ナヲレ乙、伯父(ブザサ) 付(ツィ)くぃ ヤゥ 「ハイヤースリ」 伯母(ブバマ)付(ツィ)くぃ 「イラユイサー」 うだそう ぬ ヤゥ 「ユイサ」 〔伯父さん、伯母さんのもとに、行ったのである〕※、ハリ ユバ ナヲレ甲、父(イザ)ぬ おーたか ヤゥ 「ハイヤースリ」 こーぬ ある 笠(カサ)ん 「イラユイサー」 かびみだ ヤゥ 「ユイサ」 〔父親がおったら、縁のある笠も、かぶって見たかったでしょうに〕※、ハリ ユバ ナヲレ乙、母(アブ)ぬ おーたか ヤゥ 「ハイヤースリ」 袖(スディ)ぬ ある着物(クィン) 「イラユイサー」 ぬきみだ ヤゥ 「ユイサ」 〔母親がおったら、袖のある着物も、着けて見たかったでしょうに〕※、ハリ ユバ ナヲレ甲、つぃくでぃ ふつぃ ヤゥ 「ハイヤースリ」 すぃ かま ふつぃ でぬ 「イラユイサー」 思(ウム)いぬ ヤゥ 「ユイサ」 〔五穀を作る畑で、労働する畑で虐待された時の、思い出が〕※、ハリ ユバ ナヲレ乙、降(フ)らぬ 雨(アミ) ヤゥ 「ハイヤースリ」 すがん 風(カジ)ぬ 「イラユイサー」 すぐだら ヤゥ 「ユイ サ」 〔涙は雨と降って、胸中は燃えたぎり、風吹き荒れ、思い出は過ぎて行く〕※、ハリ ユバ ナヲレ 後半の歌は無し。
2004年12月09日
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「カマドマ」と言う名の女の子が、木の実で作った「九年母玉の首飾り」を置いて、井戸に下りて(下り井戸〔ウリカー〕と呼び、人が地下に降りる道があり、底から水をくみ上げる下り井戸の事)水浴びをしていると、偶然にも叔父の「タラクジ」が通りかかり、「九年母玉の首飾り」を姪「カマドマ」の物とは知らず、持ち帰り男友達に「女性からもらった」と自慢する。 が、村人はこの「首飾り」の持ち主が「カマドマ」と知っていて、「叔父と姪の血縁恋愛(不義の恋)スキャンダル騒動」として、たちまち村中から沖縄首里王の耳まで届いてしまう。 「カマドマ姪」に対して「タラクジ叔父」は(アブが悲哀な声を立てて鳴きしきるより以上に、なお泣きに泣く「意」に手を合わせお詫び)をして、懺悔と反省をする。 事実無根(不義の恋沙汰ではなく、自分が嘘をついた)の書状を首里王に上申して「青天白日」の身となった。 「たらくじ節」1、竹富(タキドゥン)ぬ タラクジ ヤゥ 仲嵩(ナカダギ)ぬ ヤゥ グジガマ ヤゥ 〔竹富島のタラクジ、仲嵩(竹富島の異名)グジガマ〕2、九年母玉(クニブダマ)ぬ ゆやんどぅ ヤゥ 木ぬ実(ナ)るぃぬ ヤゥ つぃにゃんどぅ ヤゥ 〔九年母玉を拾ったゆえに、木の実で作った、首飾りのために〕 「くいがま節(たらくじ節のちらし)」〔くいがまは、水溜(ミダナ)の周辺で悲哀な声を発して飛んでいるアブの事〕無垢である姪の「カマドマ」の九年母玉を取った為に、不義の恋騒動として悪評が広がり、叔父が懺悔をしてお詫びをしている。1、九年母玉(クニブダマ)やりばどぅ みやらびぬ 真首(マクビ)抱(ダ)がす 〔九年母玉であるから、乙女の首に付ける物だから〕※、ウヤ ミサ カマドーナ トゥヌシミ カマドーナ ンツァ 〔甚だ恐縮して、カマドマ乙女に「トゥヌシミ(10本の爪・指を揃えて)合掌して」お詫びをする〕 ナヅィキヌ ミダナヌ クイガマ二 クイガマニ 〔さながら・盛夏の頃、水溜(ミダナ)の周辺に飛んでいるクイガマ(アブ)の悲哀な泣き声の様だ〕2、ぶざさ ぶりてぃやりどぅ うとぅざ ぶりてぃやりどぅよ 〔叔父と姪とが不義の恋をしているとの評判である、血縁同士の恋愛との噂がある〕※、ウヤ ミサ カマドーナ トゥヌシミ カマドーナ ンツァ ナヅィキヌ ミダナヌ クイガマニ クイガマニ3、ざんずりぬ ゆやんどぅ にやん尾類(ズリ)ぬ つぃにゃんどぅよ 〔女郎のような行為をさせないために、娼婦のような、乱行が無い為に〕※、ウヤ ミサ カマドーナ トゥヌシミ カマドーナ ンツァ ナヅィキヌ ミダナヌ クイガマニ クイガマニ4、御状紙(ウジョカミ)に 唐筆(トウピツィ)に ぬちやれよ 〔事実無根の書状を上申した〕※、ウヤ ミサ カマドーナ トゥヌシミ カマドーナ ンツァ ナヅィキヌ ミダナヌ クイガマニ クイガマニ5、沖縄(ウクィナ)までぃ 美御前(ビオマイ)までぃ 名(ナ)とぅちゃれ 〔沖縄まで、首里王までも悪評判は知られていた〕※、ウヤ ミサ カマドーナ トゥヌシミ カマドーナ ンツァ ナヅィキヌ ミダナヌ クイガマニ クイガマニ 〔この歌は、年代や作者も判然しないが、一説には竹富島の詩人の作とあるが、その歌を歌う者は少なく、役人の作曲した「工工四(三線専用譜面)版」の歌が良く歌われているのは遺憾の至りである。八重山民謡保存会八重山民謡誌より〕
2004年12月08日
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日本本土では、88歳米寿・99歳白寿ですが、沖縄では88歳を「トーカチ」と言い、昔の民具で米をマス(一合マス・一升マス)にすくい入れたり、マス表面を均す竹を斜めに切った道具を指します。 97歳の御祝いを「風車(カジマヤー)」と言い、親族や村をあげての長寿の御祝いをし、のりものに乗せ、かざぐるまを持たせ、村中を行列をつくって歩く「大祝事(まぎすうじ)」 「花ぬ風車(かじまやー)」(大浦節)1、花ぬ 風車(カジマヤー)や スリ 風(カジ)ちりてぃ 廻(ミグ)る※、チントゥン テントゥン マンチンタン ウネタリスヌメー ウミカキレー2、わんや どぅしちりてぃ スリ なまどぅ 廻(ミグ)る※、チントゥン テントゥン マンチンタン ウネタリスヌメー ウミカキレー3、垣(カチ)ぬ 葉ぬ露(チユ)や スリ あがいてぃ だまちゅい※、チントゥン テントゥン マンチンタン ウネタリスヌメー ウミカキレー 組踊「女物狂」の(亀松)〔風車や取りば 風連りてィ みぐる 友とめてィ 連りてィ 遊びぶしゃぬ(かざぐるまは手にとれば風を呼びまわる、私も友をさがして遊びたいな)〕 組踊「忠考夫人」の(大川ぬ産子)〔押風ん涼しゃ 風車と共に 押連りてィタ下に遊ぶ嬉しゃ(吹く風は涼しいし、こうしてかざぐるまを回しながら遊ぶのはなんと嬉しいことか)〕 どちらの組踊でも、赤振袖にかざぐるまをかざして踊り唄う。 カジマヤー 由来の民話伝説 (沖縄 具志川市) 大神様は、天を守る神と地を守る神を創った。天守神は、山原(ヤンバル)の森にある大木の木陰で、オオタニワタリの草の上に座り景色を眺めるのがすきだった。 大木の落ち葉が堆肥になり、とても良い土が出来ていたので、地守神の断り無く人間を作ってしまった。 それを知った地守神は怒るが、話し合いの結果「百年間だけ土を貸そう」でまとまり、地守神は大神様に報告した。 97年目、地守神は「天守神よ、約束の日が来たぞ」と言った。 天守神は「まだ、97年じゃないか、全部土に帰すのは、人間が可哀相だ。」 地守神は「うるう年を含めると、丁度百年になる。約束じゃ。」 天守神は「人間には子供もいる。幼くして死んだ者もいる。97年生きた者はごくわずか、あと3年生きられると思っている者もいる。生まれたばかりの赤ん坊を土に帰すことは出来ない。困った。」 地守神はこう提案した。「大神様に約束したのは百年間だが、一人一人に百年間と言う事で、97歳になったら風車を持たせ、子供の格好の赤い着物を着せて、大神様に見せる様に村中を廻らせよう。そうすると、大神様は約束の百年目じゃなく、まだ一歳の赤ん坊とみてくれるはず。」 こうして人間達は、寿命が尽きるまで土に帰る事無く暮らした。 めでたしめでたし。
2004年12月07日
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三線は音を出した時に、「テーン」がいい音で「テーンージー」と余韻に「ジー」が入っている場合は、棹と胴の組み合わせ角度が悪い状態です。 「ボーン」は、胴皮の張りがアマイか、破れかけのサインです。 乾いた軽い音が出るのは、棹や胴の木の材質がよくない場合が多いようです。 人口皮は、破れないが原則であって、どんなに過酷な状況でも対応できる。 人へのプレゼントには適しているかも。人口皮からヘビ皮への張替えも買った三線屋で相談しだい 棹や胴木や弦は天然素材なので保管管理は、ごく自然にし、人工的な環境に置かないほうがベスト。 長期不使用時や持ち出し以外は、ケースにしまわない方が良いようです。 最初「安い」が悪い音でも、長期(10~20年)ぐらいでいい音になる例もあります。 それは、材質の本来の乾き具合によるものと、胴の皮を張る時の天気や職人の腕による場合があります。 三線は「家宝」であり「果報」・・・「果報は寝て待て」じゃ無く「弾き熟し」で自然にいい音になる事もあります。 我が家の三線(古い昔三線)は、手入れ(ハブ油も塗らず)、保管管理だけでもいい感じです。 天然素材は自然のままが一番かと思います。
2004年12月06日
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あやかりは、「あやかりたい。肖りたい。」(好ましい状態にある人の影響が及んで、自分も同じ様な状態になる。)1、あやからん とぅむてぃ 好(ユカ)る 日(フィ)ゆ 選(イラ)でぃ うやぐみさ あてぃん 御側(ウスバ)ゆたる 〔あやかりの為に、今日の目出度い日を選んで、恐れ多き事ではありますが、拝謁の光栄である〕2、御年寄(ウトゥスイ)ぬ 御徳(ミトゥク)頂(チヂ)に かみ上(ア)ぎてぃ あやからち給(タボ)り 子孫(クヮンマガ)までぃん 〔御年寄りの陰徳を頂き、子孫繁栄を賜る〕3、昔(ンカシ)い言葉(クトゥバ)に 年(とし)ぬ功(ク)や亀甲(カミク) ゆし言(グトゥ)ゆ拝(ヲ)がでぃ 我(ワ)どぅぬ宝(タカラ) 〔昔言葉に「年ぬ功や亀ぬ甲」と言う格言があるが、御年寄りから教わる言葉は、貴重なもので自分の宝である〕4、御万人(ウマンチュ)ぬ願(ニゲ)や 若松(ワカマチ)ぬむてい ながらやい給(タボ)り 幾世(イクユ)までぃん 〔全ての人の願いは、若松の枝葉が繁る様に、いつの世までも続くことである〕5、あや かりぬ 御宴(グイン) なをに たとぅららん うちはりてぃ たげに 御祝(ウユエ)しゃびら 〔あやかりの宴(うたげ)、何にも例えようがない喜びである、心はればれと、お互いに御祝い致しましょう〕(1、5、作詞作曲 喜舎場孫知 ・2、3、4、作詞 大浜安伴)
2004年12月05日
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八重山には、古くから「ゆんた・アヨウ・ジラバ」など、八重山独特の歌が歌い継がれてきた。 「ゆんた・アヨウ・ジラバ」とは、主に労働歌として、一般庶民が田植え・草取り・米搗き時、仕事の動作に調子を合せて、楽器なしに歌ったもの。 「1390年」八重山は中山王に入貢して服属するようになってから大陸~琉球国~八重山へ文化の輸入開始「琉舞・琉歌」と共に「三味線(ヘビ皮張り)・太鼓・笛」の楽器が次第に移入される。 伝授される様になると、琉球文化の影響を受け、「三味線・笛・太鼓」などの楽器と合せる歌が作られるようになる。 「庶民の歌」から「役人・士族の歌」へ「労働歌(唄者が楽しむ)」から「座敷歌(聴く人が楽しむ)献上歌」 楽器に合せる歌を「節歌(座敷歌)」 「節歌(座敷歌)」に合せて「踊り」が付き物になり、「お祝い・結願(きつがん)・天長節」などの祭事には、各部落の出し物となり、互いに技術を競う様になる。 八重山が「歌の島・踊りの島」と称されるようになり、「八重山の唄・八重山の踊り」として、愛好される様になったのは行事毎の各部落対抗の為、演技研究と訓練による研鑚、即ち八重山人の先祖の遺功によるもの。 首里王府が八重山に「在番制度」を実施により、行政の監督・指導をする様になると、代々の「在番」「補佐役」は、「三味線・踊り」の他に、「組み踊り・狂言」等も伝授して『八重山の琉球化』を図ろうとした。 さらに「1647年」薩摩島津藩の「大和在番制度」により『八重山の日本化』を図る。 「琴・鼓などの楽器」「謡曲・能楽・浄瑠璃踊り」の移入、「生花・茶道・礼式・料理」などの日本文化をも指導する。 三線(三味線)は、ヘビ皮張りと渋紙張りがあった。 三味線は、中国安南~沖縄~八重山に伝わった。 八重山では、三味線等楽器類は「士族階級の男性のみ使用」とされていた。 琴(クトゥ)は、13弦の筑紫琴が古くから三味線と共に「長唄(ウフウタ)」「端唄」の合奏に使われた。昔は男性のみの使用。 胡弓(クッキョー)は、三線を小さくしたような形で、馬の尾でできた弓を擦ってならす楽器で合奏に使う。(中国胡弓は、鉄弦二本張ってあり、弦の間に弓が入っている。この胡弓は絹糸の三弦で、外側から擦り合わせて音を出す。) 太鼓は、主に締太鼓のことで「歌踊」の三線の拍子を合せたり、祭の行列の時、多数で拍子を合せて叩く。 片面張り太鼓(パランク)は、野外や即興の座で素人でも打てる太鼓で、「端唄」にだけ合せる簡単な楽器。 鼓(チジン)は、両面皮張り太鼓で、中央部が膨らんでおり、主に婦女子用で、「旅願いの巻踊り・雨乞い・布ピカシ(貢納布完納日)祝い」などで使われた。 鉦鼓(ションク)は、青銅製の厚い円形状の皿の形、太鼓や銅鑼に合せ打ち鳴らす楽器。 銅鑼(ドゥラン)は、銅製の楽器、村行事の集合の合図に使ったり、非常時に鳴らす。その他に「獅子舞・棒踊り」に使用。 笛(ピー)は、横笛。主に三線・太鼓に合わす楽器。 哨吶〔さとつ〕(キチラク)は、縦に持って吹く七穴の笛で、下部はラッパ状になっている。(チャルメラ)
2004年12月04日
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原曲は、「鷲ゆんた(バスィユンタ)」1762年作「与那国御獄」所在地 石垣市大川218番地初代司(つかさ)「仲間サカイ」の作 「仲間サカイ」は、霊感鋭く、明和大津波を予言したと伝えられる。 サカイは、「与那国御獄」の神木(あこうの木)の上に鷲が巣を作っていたのを発見し観察。 元旦、親鳥と供に雛鳥が巣立ち東へ飛んでいくのを観て即興で詠ったのが「鷲(バスィ)ゆんた」 「サカイ」50歳。(元旦付けにて、人頭税免除)〔人頭税は、15歳~50歳まで〕 「サカイ」101歳でこの世を去り、それから80年の後、新川与人職の「大宜見信智」が「鷲ゆんた」を改作し、「鷲ぬ鳥節」を発表。 「大宜見信智」は、7歳より首里で教育を受け、25歳で帰省し後に新川与人となる。役人であり大音楽家でもある。 「鷲ぬ鳥節」は、本調子でありながら「尺」を使わず「中」を使う。この曲の旋法は、琉球音階上、稀であり特殊。 西洋音楽に有り、八重山に多く、中国の影響を受けているのが解かる。 音楽専門家は「鷲ぬ鳥節は、琉球音階の哀愁的(寂しさ・悲しさ)が無く、大陸的五声音階から構成され、旋律の動きや流れが陽旋法で、リズムが1拍子を主体」(雄大な歌詞を雄大なメロディーにのせてある芸術的価値の高い。民謡を西洋音楽に例えると「ベートーベン」第九交響曲に似ている) 「鷲ぬ鳥(バスィヌトゥルィ)節」1、大山(ウフヤマ)ぬ 上(ウイ)なか 中山ぬ 側(スバ)なか 〔山々が続いている所に、中山が続いて側に〕※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ2、大(ウフ)あこうぬ むやうり 実(ナ)りあこうぬ さしゃあり 〔大木のあこう木が生えていた、実りあこう木が生えていた〕※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ3、大(ウフ)あこうぬ 根(二)ざすぃに 実(ナ)りあこうぬ 本(ムトゥ)ばいに 〔大木のあこう木が根を張り、実りあこう木の根元から〕※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ4、五(イツィ)ぬ枝(ユダ) ふん登(ヌブ)り 七(ナナ)ぬ枝(ユダ) ふん登(ヌブ)り 〔五つの枝を踏み登り、七つの枝を踏み登り〕※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ5、一(プィトゥ)ぴらい 巣ばかき 七ぴらい 巣ばふい 〔一片(一つ)の巣を作って、七片(七つ)の巣を作って〕※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ6、一(プィトゥ)ぴらい 卵(クガ)産(ナ)し 七ぴらい 卵(クガ)産(ナ)し 〔一片(一つ)の卵を産んで、七片(七つ)の卵を産んで〕※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ7、一(プィトゥ)ぴらい 卵(クガ)から 七ぴらい 卵(クガ)から 〔一片(一つ)の卵から、七片(七つ)の卵から〕※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ8、綾羽(アヤパニ)ば 生(マ)らしょうり ぶぃる羽(パニ)ば 産(スィ)だしょうり 〔種々の模様をした羽根の美しい鷲の雛を孵して下さい、色とりどりの羽根の鷲を孵化して育て上げて下さい〕※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ9、正月(ションガズィ)ぬ すぃとぅむでぃ 元日(グワンニツィ)ぬ 朝ぱな 〔正月の「すぃとぅむでぃ」早朝・暁・明方・夜明けの意、元日の「朝ぱな」朝端・黎明・曙・朝またぎの意、対語体〕 ※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ10、東(アガルィ)かい 飛(トゥブィ)つぃけ 太陽(ティダ)ば かめ 舞(マイ)つぃけ 〔東方の空に威勢良く飛んでいった、朝日を浴びて舞っていった〕※、バスィヌトゥルィ ヤゥニ ガユナ バスィ 東は、太陽が〔あがる〕ので「アガルィ」 西は、太陽が〔はいる〕ので「イルィ」 八重山古典民謡は、それぞれの研究所・三線教室付きのプロ唄者の解釈により、唄の内容や意味が唄者オリジナルになっている場合があります。 今までの当HPに記載した解釈は、八重山古典民謡保存会の解釈に基づいています。 尚、歴史上・時代背景は、それぞれの文献より究明し、又知識人の講演や地元の識者の意見により、書き込みを行っています。 が、打ち込み間違い等、有りましたら〔メッセージを送る〕をクリックし、連絡をお願いします。m〇m
2004年12月03日
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沖縄の曲には「民謡」と「古典民謡」があります。「古典」とは、琉球王庁の宮廷音楽で、主に地方に赴任した役人が、その土地で歌われている「民謡」を宮廷音楽用に改作・改曲し、王府に献上した曲がほとんどです。 琉球役人になるには、「読み」「書き」「算術」と「三線」「琉歌(琉球様式の詩歌)の作成」が出来ないと仕官できない。 内地(日本本土)は、そのころ「剣術」。薩摩藩の刀狩で刀剣の類は没収。携帯を許されず。 武器を持たない。代わりに「三線」を弾き、王府に献上曲を作る事も仕事としていた。 ので、役人の必須科目であり、内地の武士が刀や鎧を大事にしていた様に、「三線」は必ず「床の間」に置く大切な道具。 「三線」は、「武士の刀と同様」の扱いをしていた。 大戦時は、「三線」を「墓(亀甲墓)」に隠し、戦火を免れた。これだけ「大切な三線」を、どんなにお金に困っても質入れはしない。譲りあう事はありますが・・・。 こんな言い伝えがあります「ある人が盗難に遭い大切な三線を失った。数年後、その人のもとに連絡があり、三線が帰ってきた。いろんな人の手に渡ったが、戻ってくる。」らしい。 「三線は沖縄の心だ」とも言うらしい。 士族以下の庶民の手にするようになりだしたのは、明治の後半あたり(人頭税廃止頃) その頃から、「工工四(三線専用譜面)」が出まわり、弾く事が出来た。 民謡は、採譜者の手により「工工四(クンクンシ)」に書きこまれ、地方(各離島)の歌が継承された。 「ゆんた」などは、その頃から三線弾きになる。以前は、「労働歌」であり、(手は仕事・歌だけ口ずさむ)ので、三線はなかった。 「工工四」には、リズム(昔の何分何厘)なので、拍子が解かりにくい欠点があり、曲を聴きながら弾いていく必要があります。
2004年12月02日
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八重山赤縞布の特徴は、なんといっても「赤露(クール)」と言う芋根を使い、黒茶・赤茶が特徴。 何より、日差しの厳しい沖縄八重山では、この赤は褪せる事がない「赤露(クール)」で染め上げています。 赤露染めは、科学染料では出せない色を持ち、太陽熱に最も強く、いくら日に干しても変らないのが特徴です。 西表島に自生し、今では見つけることも困難な赤露。 赤縞上布の晒し方1、織り上げた上布は、6~7日間天日干しする。2、天日干しした布を石灰水に入れて赤露の色止め。3、緒巻(幅2cm長さ50cmの竹へら)で、1m間隔に布の両端を挟み留めし、布の両端に5~6kgの石を付ける。4、深さ1mの海中に広げて浮かす。5、10日間、海中に入れたり、天日に晒しを繰り返し、赤露が黒ずみ、地色は真っ白になる。 仕上げ1、糊つけ・・・「赤縞上布」「白上布」は、米糊。「紺御用布」は海藻糊(つのまた・おごのり)を使う。2、半乾き時に手でよく延ばし、砧(きぬた)と杵(きね)を使い、叩き上げ、艶だしをする。 今では化学処理で晒しを行っている所が多く、伝統を重んじているのは、沖縄県指定の伝統継承者だけである。 糸づくり職人・糸染め職人・機織職人・晒し職人・仕上げ職人の分担で布は作られています。 それぞれの職人が10日~三ヶ月で仕上げていると一枚布を作るのに半年近くはかかります。 それらを役割ごとに割ると収入は、微々たる物で、織物教室や染色教室を開き、指導料を受けるか、本を出すか、安く大量に生産して、みやげ物に加工するか、 良い物は良い。より多くの理解が必要か。
2004年12月01日
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