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沖縄の民話「扇子(せんす)寿命と金貸しウシュメー(爺さん)」昔々、中国に手相観名人(手相を観る名人)がいました。この名人に手相を見てもらおうとたくさんのお客が、毎日行列ができていました。その評判を、金貸しウシュメー(爺さん)が聞きました。この金貸しウシュメーは、お金を貸して返せない人がいると、その家の家財道具やフトンまでも取り上げる位の欲張りで意地悪な事では有名な人でした。「手相などあたるものか。今日は暇だから、ちょっと行って冷かしてみるか」金貸しウシュメーは、早速立派な扇子を持って手相を見る名人の家に出かけて行き、「この扇子(せんす)の寿命をあててくれ。」と言いました。手相観は、虫眼鏡で扇を見て、その次に金貸しの鬼の様な顔を見て言いました。「この扇子は来年の二月一日までの命だね。」 「それでは、私の命はどれぐらいかね。」と金貸しウシュメーは言いました。「どれどれ、うん、あなたの命は、来年の三月三日だね。」と手相の名人は答えました。「ああ、そうですか。」と言って、金貸しウシュメーは、「もし来年の二月一日に扇子がなくらなかったら文句を言ってやろう」と思って家に帰りました。金貸しウシュメーは、二月一日が近づくと自慢の扇子を大事に風呂敷に包んで箪笥(たんす)の中にしまい込みました。お昼を食べに家に帰ると必ず箪笥の中を覗いて扇子を確かめました。夕方に帰ってくると、また扇子の無事を確かめていました。二月一日のその日がやってきました。朝早く家を出たウシュメーは、二時間もたたないうちに家に帰って来ては、箪笥の中を覗きます。それからまた用事に出ては、30分ほどするとまた家に帰って箪笥を開けて扇子があるのを確かめました。「今日のウシュメーは不思議だね。」ハーメー(婆さん)は、ウシュメーの様子がいつもと違うので、気になって仕方がありません。こそこそと部屋にウシュメーが入って行った時、戸の節穴からウシュメーが何をしているのか覗いて見ました。するとウシュメーは箪笥の中から風呂敷包みを出し、その包みの中をじっと見ています。ますます不思議に思ったハーメーは、ウシュメーが家を出て行った後で、「何を隠しているんだろう。」と、箪笥を開けて風呂敷包みを出し、中にあるモノを見ました。そこには、若い美しい女の人が描かれている扇子がありました。 浮世絵 扇子 令嬢諸芸の競い図 「ああ、情けない。うちのウシュメーはこんな若い女が好きになって仕事もしないで、この絵を見に家に帰ってくるなんて。」怒ったハーメーは扇子を破って燃やしてしまいました。それを知らずにウシュメーは扇子が気になって、もう一度家に帰って箪笥の中を見てびっくりしました。「ない、ない。」と、ウシュメーが大きな声で叫んでいるのをハーメーが聞きました。「どうかしたかね、ウシュメー。」「ここに置いていた扇子がないんだよ。」「扇子がないって。あんたはあんな若い女の絵を見て、仕事もしないとは何事ですか。」「いや、実は手相観のところで、あの扇子の寿命を占ってもらったら、今日の二月一日と言われたんだよ。」「あんな扇子、いつ無くなったって、どうでもいいじゃないですか。」「いや、そうじゃない。その時、私の寿命は三月三日までと言われて、扇子の寿命が当たるなら、私の寿命も当たってしまう。」それを聞いたハーメーも真っ青になりました。もうどうしようもありません。そこで、金貸しウシュメーは考えました。「もうすぐ死ぬのだから、大金を持っていてもしょうがない。人から憎まれながら、お金を貯めてきたが、今日からお金を貯めるのはもう止めよう。」それから、金貸しウシュメーはお金を貸した人の所に行くと、「もう利子はいらないよ。お金も払えるときでいいからね。」また、別のお金を貸した人の家に行くと、「貧乏でお金が払えなかったら、もう払わないでもいいよ。」と言いました。ある日、町はずれにある便所に入ると、風呂敷包みが落ちていました。中にはたくさんのお金が入っていました。「こんな大金を忘れる人もいるんだ。でも忘れたのなら、すぐにお金を取りにくるはず。」と、便所の横の木陰に座って待っていました。そこへ、どこかの店の番頭らしい若者が来て便所に入りました。その若者は、しばらくして便所から出てくると、傍らにある木で首を吊ろうとしました。「待ちなさい。どうしてあなたは死のうとするのかね。」と、ウシュメーが引き止めました。「私は、ここにお店のお金の入った風呂敷包みを忘れました。そしたら、もう何処にも無く、誰かに持っていかれたので、もう店には戻れません。あんな大金は一生働いても返せないから死にます。」と、若者は答えました。そこでウシュメーは、「その風呂敷包みはこれかね。」と、便所で拾った風呂敷包みを渡すと、若者はとても喜んで何度もお礼を言って帰っていきました。中国の昔の風習では、自分の棺桶(かんおけ)は、元気なうちに自分で作るという慣わしがあります。ウシュメーもそれに習い棺桶を注文して、三月二日の夕方にはきれいな着物を着て棺桶に入り、食べるものも食べないで、次の日の朝に死ぬのを待ちました。ところが、死ぬと言われた三月三日の夜が過ぎ、四日の夕方になっても死にませんでした。怒った金貸しウシュメーは、次の日早速、手相観の家に行きました。手相観は、金貸しウシュメーを見ても、まるで初めて会う人かの様に、「あなたは、どこからおいでなさったか。」と、聞きました。「もう、忘れたんですか。」「私は前に扇子の寿命と私の寿命を占ってもらったものですよ。扇子の寿命はあなたが言う通りに当たりました。しかし、私の寿命は当らなかったよ。」「待って下さい。前に見た時は、あなたの顔は鬼の顔だったが、今は仏の顔になっている。これはあの後で、だいぶ世のため人のために働いたのでしょう。」「うん、そうだ。」「それで、人相も変わったんですよ。」「これなら百二十歳(ヒャクハタチ)まで生きられるよ。」と言いました。 この金貸しウシュメーは、本当に百二十歳まで長生きしたそうです。
2006年01月31日
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共通語 ⇔ 宮古方言 ⇔ 八重山方言 ⇔ 沖縄(本島)方言顔(かお) ⇔ みぱな ⇔ ウムディ ⇔ 面(ちら)目(め) ⇔ みー ⇔ ミー ⇔ みぃ口(くち) ⇔ ふつ ⇔ フツ ⇔ くち手(て) ⇔ てぃ(腕=うでぃ) ⇔ ティー ⇔ てぃ頭(あたま)⇔ かなまず ⇔ ツブル ⇔ ちぶるはな(鼻) ⇔ ぱな ⇔ パナ ⇔ はなみみ(耳) ⇔ みん ⇔ ミン ⇔ みみあし(足) ⇔ ぱぎ ⇔ パン ⇔ ひさ髪の毛 ⇔ からず ⇔ アカマズ ⇔ からじ指(ゆび) ⇔ ういび ⇔ ウビ ⇔ いーび歯(は) ⇔ ぱー ⇔ パー ⇔ はー膝(ひざ) ⇔ つぐす ⇔ ツブス ⇔ ちんし腰(こし) ⇔ くす ⇔ ブシャ ⇔ くし中間として存在している宮古島が、本島寄りにあるか、八重山寄りにあるか、文化交流と生活圏との相違でしょうかまだまだ、考察が必要です
2006年01月30日
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「島唄 ~南の四季~」(南国の四季バージョン) 作詞 我如古盛栄 唄 我如古より子初春(ハチハぁル)ぬ 節(フシ)来(ク)りば花(ハナ)ん咲(サ)ち 誇(フぅーク)てぃよー恋(クイ)しぃ 思里(ウミサトぅ)が面影(ウムカぁジ)ぬ たちまさてぃ面影(ウムカジ)たてぃば 白浜(シラハマ)出(イ)じてぃさざ波(ナミ)ぬ音(ウトぅ)に 我(ワ)ん 唄(ウタ)乗(ノ)じてぃ夏(ナチぃ)なりば ディゴぬ花(ハナ)ユウナぬ花(ハナ)ん 我(ワ)ん 島(スィマ)ぬ花(ハナ)夏(ナチぃ)なりば ディゴぬ花(ハナ)ユウナ ぬ花(ハナ)ん 我(ワ)ん恋心(クイグクル)野(ヌ)ん 山(ヤマ)んに 紅葉花(ムミジバナ)咲(サ)ちゅる 秋(アチ)なりばぁーよー思里(ウミサトぅ)とぅ 手(テ)ゆ取(ト)やい眺(ナガ)みやい 遊(ア)しびぶしゃ眺(ナガ)みてぃたけに 我(ワ)ん 見(ミ)ぬ思(ウム)い打(ウ)ち明(ア)きらなや 思里(ウミサトぅー)によー冬(フユ)なりば 梅(ウミ)ぬ花(ハナ)百合(ユリ)ぬ花(ハナ)ん 我(ワ)ん島(スィマ)ぬ花(ハナ)冬(フユ)なりば 梅(ウミ)ぬ花(ハナ)百合(ユリ)ぬ花(ハナ)ん 我(ワ)ん恋心(クイグクル)夏(ナチぃ)なりば ディゴぬ花(ハナ)ユウナぬ花(ハナ)ん 我(ワ)ん 島(スィマ)ぬ花(ハナ)夏(ナチぃ)なりば ディゴぬ花(ハナ)ユウナ ぬ花(ハナ)ん 我(ワ)ん恋心(クイグクル)冬(フユ)なりば 梅(ウミ)ぬ花(ハナ)百合(ユリ)ぬ花(ハナ)ん 我(ワ)ん島(スィマ)ぬ花(ハナ)冬(フユ)なりば 梅(ウミ)ぬ花(ハナ)百合(ユリ)ぬ花(ハナ)ん 我(ワ)ん恋心(クイグクル) 我如古より子/あの海へ帰りたい
2006年01月29日
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明日は、旧正月ですね。沖縄本島の「かぎやで風節」は御目出度い席や座開き・正月に演奏される祝歌。八重山では、「赤馬節」が同じ様に演奏されます。八重山古典民謡「赤馬(アカンマ)節」(本調子)赤馬(アカンマ)ぬ ヤゥ いらすぃざ ヒヤルガヒー足四(アスィユ)ちゃぬ ヤゥ どぅくぃ にゃふ ヤゥハリヌヒヤルガヒー〔赤馬の、ああうらやましい事よ、(足四ちゃ・赤馬の同義語)あまりにも、冥加(非常に幸運である)な事である〕生(マ)りる甲斐(カイ) ヤゥ 赤馬(アカンマ) ヒヤルガヒー産(スィ)でぃる甲斐(カイ) ヤゥ足四(アスィユ)ちゃ ヤゥハリヒヤルガヒー〔生まれる甲斐ある赤馬よ、産まれる甲斐ある(足四ちゃ)よ〕沖縄(ウクィナ)主(シュ)ん ヤゥ望(ヌズィ)まれ ヒヤルガヒー主(シュ)ぬ前(マイ)ん ヤゥ見(ミ)のうされ ヤゥハリヌヒヤルガヒー〔琉球国王に所望され、尚貞王にみそめられ、お召し馬になった〕いらさにしゃ ヤゥ今日(キユ)ぬ日(フィ) ヒヤルガヒーどぅくぃさにしゃ ヤゥ黄金日(クガニフィ) ヤゥハリヌヒヤルガヒー〔ああ喜ばしく目出度い、今日の日を、余りにも嬉しく何にも例え様が無い、素晴らしい日だ(黄金日)〕我(バ)ん産(スィ)でぃる ヤゥ今日(キユ)だら ヒヤルガヒー羽(ハニ)むいる ヤゥたきだら ヤゥハリヌヒヤルガヒー〔私は生まれ変わった位嬉しい今日の日を、羽根が生えて空高く飛び立つ位嬉しくて、たまらない〕御主加那志(ウシュガナシ) ヤゥ御果報(ミガフ)や ヒヤルガヒー御万人(ウマンチュ)ぬ ヤゥすぃでぃがふ ヤゥハリヌヒヤルガヒー〔琉球国王の御果報は、とりもなおさず琉球国民の、有り難き幸せである〕御万人(ウマンチュ)ぬ ヤゥ栄(サカ)いや ヒヤルガヒー御主加那志(ウシュガナシ) ヤゥ御果報(ミガフ) ヤゥハリヌヒヤルガヒー〔琉球国民の繁栄は、其れが直ちに琉球国王の御果報である〕「1698年」大城師番は、「若文子(事務官)」として、吉原部落の人頭税貯蔵庫係に拝命され、宮良村の高良家宿所から通勤していた。「1702年」のある日、名蔵湾の北方海上から上陸して来た「名馬・赤馬」を発見する。この名馬の評判は高く、沖縄まで響き渡り、ついに首里王庁から「その名馬を献上せよ」の令達書が蔵元・在番を経由して届いた。宮良村では、村民総出で赤馬を見送り、涙を流して別れを惜しんだ。首里に着いた名馬は暴れだし、国王は激怒して「この馬は、評判ほどの名馬ではなく悪馬だ。馬役と馬主は即刻打ち首の刑に処す」との厳命に、馬役・馬主は「首里上り(首里城出頭)」を命じられる。大城師番は、打ち首の刑を覚悟して妻子と別れの水盃をかわし、琉球王庁に上り、国王に謁見した後、愛馬を見るために馬小屋に行った。そこには、がんじがらめに縛られた名馬・赤馬がいた。 師番は、涙と共にその縄を解き放ち、立たせて「二人の打ち首を救ってくれ」と、愛馬にささやき乗馬する。すると、愛馬は霊妙な足取りで首里城御庭を所狭しと「刻み歩き」をし始めた。見守っていた国王や高官は、其れを見て首里城が揺れんばかりの拍手を送った。国王は、激賞・賛嘆され二人の打ち首は罷免された。「この赤馬は、主と不離一体の名馬で、神から授かった神馬である。何者もこれを所有する事が出来ない。」と、「1703年」に師番に返還され帰島する。その時の喜びを謡った即興歌が「赤馬節」と伝えられる。 後に、薩摩藩島津公からも「赤馬献上令達書」が届き、赤馬は船積みされていたが、台風により陸揚げする時に赤馬は暴れだし綱を切り豪雨の中、師番の宿所宮良村高良家に駆け込み、家の周りを三回廻り最期を遂げる。当時、村人が赤馬を見送った丘を「馬見岡」と称して「赤馬節の碑」が建てられている。
2006年01月28日
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沖縄の音楽音階の説明は難しいものがありますが、簡単に説明すればドレミ音階の内『レ・ラ』抜きの『ド・ミ・ファ・ソ・シ・ド』5音音階であり、日本本土の民謡や邦楽に見られる音階と変わりはありません。唄や音楽と踊りの融合芸能である「組踊り」では、役者の台詞回しに、琉球音階のフレーズに乗せて歌うように台詞を言います。それは、音階表現では「ド、ミ・ミ・ミ。」「ミ、ファ・ファ・ファ。」「ファ、ソ・ソ・ソ。」「ソ、ファ・ミ・ド」という音に乗せており、琉歌と言う詩歌の形式に合わせ、8音節で構成されています。また、琉歌の最後の段が6音である為に「ソ・ソ・ファ・ミ・ミ・ド」というフレーズも出ます。劇の台詞が、すでに歌であり、その歌が琉球音階で謡わるというものです。 琉球音階の説明でよくあるアジア的5音音階ですが、『ド・ミ・〇・ファ・ソ・シ・〇・ド』の『〇』の半音(ミとファの間、シとドの間)を含んでいます。この半音は、日本の近世邦楽の都節音階にもあり、半音の存在が琉球音階の特徴とは言えないようです。しかし最大の特徴とすれば、この半音の前に現れる長3度(ド-ミ、ソ-シの音程)と、半音との強い結び付きに特徴があると思われます。この『長3度+半音』と言うような音の動きが、日本本土の近世邦楽や民謡には見る事ができませんね。琉球音階「ド・ミ・ファ・ソ・シ・ド」と長3度(ド・ミ、ソ・シ)が非常に緊張する音の動きであり、半音(ミとファの間、シとドの間)が、その緊張を緩和する音であると、一般的に言われています。それは、三線が4度(完全4度:ド-ファ、ソ-ド)を基本に調律される事。長3度の音は弦を押さえるという身体的緊張を伴って生み出される事。から感じられます。ですから、先の組踊りの台詞も、『ド、ミ・ミ・ミ。=緊張』『ミ、ファ・ファ・ソ。=緩和』『ファ、ソ・ソ・ソ。=緊張』『ソ、ファ・ミ・ド。=緩和』という台詞回し構成ですね。但し、琉球音階を説明しておきながら、こんな事を言うのも変ですが、この音階表現は、沖縄だけに存在するモノでもないです。インドネシアのガムラン音階の「ペロッグ調」や中国の雲南省の民族音階、ヒマラヤ南麓のブータンの音楽(昔この国が発行していた切手は、レコードのソノシート状になっていて、ブータン国歌が聞けました)などにも存在しています。ですから、5音音階で長3度と半音の結び付きが強い音階というのは 沖縄独自のものではなく、アジアの音楽というジャンルでしょうか。そもそも『長3度』という音程が西洋式の音楽理論でどう捉えるかは、個々の意見がわかれ、今だ議論されるところですが、肝心なのは、この音階が沖縄にだけ存在するものではなく、アジア的広がりを持っていること、そして、そこに響く『長3度の音程が緊張を生み出す』と言う事ですね。
2006年01月27日
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宮古民謡「漲水(ピャルミズ)ぬクイチャー」(三下り・一二揚げ)漲水(ピャルミズ)ぬ 舟着(フナツき゜)ぬ白(シル)ぬなぐむよ ヤイヤヌヨイマーヌーユ 白(シル)ぬなぐむよニノヨイサッサイ(イヤササ)〔漲水の舟着き港の海底にある白い砂が〕粟(アワ)んななり 米(クミ)んななり上(ヌウユ)りくばよ ヤイヤヌヨーイマーヌーユ 上(ヌウユ)りくばよニノヨイサッサイ(イヤササ)〔粟になり、米になって、浮き上がって来る位、島豊かになってほしい〕釘(ピラ)とらだ カニヤ押(ウ)さだゆからでいだらよ ヤイヤヌヨーイマーヌーユ ゆからでいだらよニノヨイサッサイ(イヤササ)〔これからは、釘や(大工)クワ(農業)を使う仕事も、苦しまない位になるだろう〕大神后(ウガムウグス) ふじ並(ナラ)び折波小(ブリナムガマ)ぬよ ヤイヤヌヨーイマーヌーユ 折波小(ブリナムガマ)ぬよニノヨイサッサイ(イヤササ)〔大神島の近くにある、フデ岩に打ち寄せる岩の白波が〕かしんななり 糸(イチュ)んななり上(ヌウユ)りくうばよ ヤイヤヌヨーイマーヌーユ 上(ヌウユ)りくうばよニノヨイサッサイ(イヤササ)〔糸の様になり、反物の様になって、打ち上がって来るだろう〕島皆(スマムナ)ぬ 三十原(ミスバラ)ぬ姉小達(アニガマタ)やよ ヤイヤヌヨーイマーヌーユ 姉小達(アニガマタ)やよニノヨイサッサイ(イヤササ)〔島に在住の女達は〕ぶやむまだ 糸掛(カシカキ)だゆからでいだらよ ヤイヤヌヨーイマーヌーユ ゆからでいだらよニノヨイサッサイ(イヤササ)〔糸紡ぎも機織もしなくて済む事だろうに、楽できるであろうに〕人頭税に苦しんだ宮古の人々が、年に一度の夏祭りに全てを忘れて、唄い踊りました。今は、会の〆として、カチャーシーとして踊られています。「クイチャー踊り」は、大勢の人が円陣を作り、両手を挙げ、足を交互の踏み締める時に、片手毎振り下ろし、又両手を挙げて、繰り返します。熱狂的ともいえる踊り方は、忍従の苦しい生活を突破るが如く、延々と夜明けまで続けていたようです。歌の進行につれてテンポが早くなり、すべての悩み事を吹き飛ばすようですね。「人頭税という重税の責苦・年に数回やって来る台風・人災も然り、これにもめげず生きる事ができたのは、この「あやぐ」の支えがあったから」と、島の人々は語ります。忍従の歴史長く、苛酷であっただけに、このクイチャーには宮古人の血と魂がこもっているようですね。
2006年01月26日
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ピルズマ祭(ピルズマ)旧暦十二月のキノトウの日。明日1月26日竹富島ニンニクの生命力に肖って作物の生長を祈る祭りがあります。神司達が石川家に集まり、刀を磨いてニンニクの初上げの願いをします。国仲御嶽・清明御嶽にて祈願し、石川家で刀を納めて終了。元々、竹富島には、「蔵元(行政官庁)」が創設され、八重山全体の各官庁や学校が建ち、八重山を支える政治・経済・産業・文化教育に交通の要として機能していました。竹富島イコール「主(アルズィ)島」〔大本の島〕とも尊称されていました。竹富島出身の偉人「西塘」は、首里王朝に25年御奉公し、首里城の石門を創建し、石垣を改築した偉業をかわれ、「竹富大首里大屋子の頭(八重山行政庁のトップ役人)」に拝命され、その頃作詞したと言われています。1524年、竹富島に蔵元(行政官庁)を創設当時に作られた歌。1633年、石垣島の「石垣永将」屋敷跡に移転。この「石垣永将」は、国禁のキリスト教を信仰した為に〔焚刑〕屋敷・家財は接収。子孫は、残らず波照間・与那国・宮古島に流罪。兄弟達は、全て死刑。八重山最大の事件となった場所でした。現在の八重山支庁は、平成九年に石垣市大浜に移転。竹富島はお盆のように小さな島。けれども、政治の始まりの島。交易船の造船もしていた。そして、何よりも素晴らしい「うつぐみ」(一致団結や島人の「共同体精神」を表す)の精神を、島民の努力により島の美風としなければならない。と、歌っています。竹富古謡「しきた盆(ブン)」1、竹富(たきどぅん)ぬ 仲嵩(なかだき)ぬ 島(すぃま)や ヤゥ ふんやりどぅ くゆさる2、うふいしゃぎ うふむとぅぬ ましょうめに しきたぶん まゆきじまてぃいやりる3、うふだいぬ かしらしゅぬ はじまりる たきどぅんぬ なかだきどぅ はじまる4、うふうらぬ たまうらぬ はじまりる むとぅかいじ うらかいじ はじまる5、うやましぬ かりゆしぬ はじまりる ぶさしばな かんぬばな はじまる6、かいしくさ うつぐみどぅ まさりょうる竹富島は、石垣島の真正面にお盆のように浮くサンゴ礁の小さな島国である。が、見よ!賓客の前に差し出されたお盆のように、気高く気品にあふれていることか。八重山の行政の発祥の地であるだけでなく、交易船の始まりでさえある。島人よ!誇りを失わず、何事にも力を合わせて進んで欲しい。と、歌われています。この唄を元に、八重山古典民謡「しきた盆(ブン)節」(本調子)が作られました。「我が島竹富島は、八重山の中心石垣島に最も近い島であり、位置的にも有利。八重山の最初の行政官である西塘を生み出した行政庁の発祥の地であるという歴史を自覚しなさい。何事も協力一致の精神で時代の波を切り開いておくれよ」の声が聞こえてきます。「うつぐみ」・・・良い響きです。
2006年01月25日
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沖縄民謡「豊節(ユタカブシ)」(本調子)作詞作曲・登川誠仁朝夕(アサユぅ)笑(ワ)れ福(フク)い福(フク)ゆ打(ウ)ち招(マニぃ)ち年毎(トぅシグトぅ)ぬ繁昌(ハンジョぅ)スーリ 御願(ウニゲ)さびら遊(アシ)びぬ 美(チュ)らしゃや人衆(ニンジュ)ぬ備(スナ)わい 踊(ウドぅ)てぃ遊(アシ)ば〔朝な夕な笑いを絶やさない事は、幸せや福をよく招くことにつながります、毎年毎年繁栄を御願いします。(遊ぶ美しさは人々が集まり踊り楽しもう)〕世果報年(ユガフドゥシ)迎(ン)けてぃ昨年(クジュ)ゆいん今年(クトゥシ)栄(サケぃ)てぃ行(イ)く村(ムラ)ぬ スーリ 風水(フンシ)美(ジュ)らさ遊(アシ)びぬ 美(チュ)らしゃや人衆(ニンジュ)ぬ備(スナ)わい 踊(ウドぅ)てぃ遊(アシ)ば〔果報の年を迎えて、昨年から今年と栄えて行く村の景色の美しい事よ。(遊ぶ美しさは人々が集まり踊り楽しもう)〕作(チュク)る毛作(ムジュク)いん万作(マンサク)ゆ賜(タボ)ち弥勒世(ミルクユ)ぬ印(シルシ)スーリ 神(カミ)ぬ恵(ミぃグ)み遊(アシ)びぬ 美(チュ)らしゃや人衆(ニンジュ)ぬ備(スナ)わい 踊(ウドぅ)てぃ遊(アシ)ば〔作る穀物は万作となり、豊かな世の中の印です、神の恵みだ。(遊ぶ美しさは人々が集まり踊り楽しもう)〕重(カサ)なゆる御祝(ウユエ)弥勒世(ミルクユ)ぬ印(シルシ)互(タゲぃ)に打(ウ)ち晴(ハ)りてぃスーリ 踊(ウドぅ)てぃ遊(アシ)ば遊(アシ)びぬ 美(チュ)らしゃや人衆(ニンジュ)ぬ備(スナ)わい 踊(ウドぅ)てぃ遊(アシ)ば〔重なる御祝いは、豊かな世の印です、お互いに打ち解けてあって、皆で踊り楽しみましょう。(遊ぶ美しさは人々が集まり踊り楽しもう)〕
2006年01月24日
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宮古民謡 「正月ぬあやぐ」(二揚)正月(ショガツ)ぬ 参(ムミャ)たりゃどぅヨーイー新年(ミルドゥス)ぬ 参(ムミャ)たりゃどぅよ〔正月を迎えたので、新年を迎えたので〕我巣(バンス)出(ディ)るしゃくどぅ思(ウム)うヨーイー羽(パニ)や生(ウ)い飛(トウ)びだきよ〔卵から孵り、羽が生えて飛び立つ様な思いです〕(形姿が変わり、新しい状態を表しています)大岩(ウプシー)だき 我(バ)が父(ウヤ)ヨーイー根岩(ニビシ)だき 我(ば)が母(ムマ)よ〔大きな巌の如きかな我が先祖、根岩の如き我が先祖〕
2006年01月23日
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八重山民謡「八重山育ち」(九・十)南の果ての波照間に歴史を綾取る人々が島を守りの神々と両手合わせてヤレ 八重山育ち〔(九)波照間島〕白雲たなびく於茂登岳清き流れの宮良川尽きぬ情けの花の島歌と踊りのヤレ 八重山育ち〔(十)石垣島〕 レトロ 泡盛 30度 600ml 飲み比べ12本セット [沖縄県] 限定販売!「宮の鶴」セット 於茂登 炎1.8 【送料無料】於茂登 泡盛43゜ シュロ巻壺入 1800ML 沖縄まるごと飲み比べ泡盛セット (泡盛360ml x 10本:シークワサー入り四季柑 x 1本)
2006年01月22日
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八重山民謡「八重山育ち」口説ばやしにひかされて花の黒島来てみれば島の乙女の純情に粟酒のんでヤレ 八重山育ち〔(七)黒島〕人魚の踊る新城島越ぬ端の物語世果報を迎える巻踊り昔ゆかしきヤレ 八重山育ち〔(八)新城島(あらぐすく)〕
2006年01月21日
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八重山民謡「八重山育ち」古見の浦浜来てみれば昔なつかしブナレーマ沖の黒潮眼にしみる船浮カマドマヤレ 八重山育ち〔(五)西表島〕歌で名高き大嵩(うふだき)で見下ろす郡下の島々は黄金の稲穂ユサユサと「粒美(ちゅ)らさあてぃどぅ 御初上ぎるヤゥンナ」果報の島だよヤレ 八重山育ち〔(六)小浜島〕
2006年01月20日
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八重山民謡「八重山育ち」田草取るなら赤欅燃ゆる想いを色に染めユンタ・ジラバで語りゃんせいとしクヤマもヤレ 八重山育ち〔(参)竹富島〕星影暗き夜半時恋の細道トゥバラーマせつない想いに身を焦がす「君と二人で通ようた小路 今じゃイバラが縺(もつ)れて咲くよ」可愛い美童(みやらび)ヤレ 八重山育ち〔(四)石垣島〕
2006年01月19日
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八重山民謡「八重山育ち」八重の潮路に囲まれて緑の島々歌の島鳩間仲森走り登りクバの葉陰でヤレ 八重山育ち〔(壱)鳩間島〕月夜の浜の荒磯で鳴くや千鳥の恋の歌出船悲しや ションカネ「波の花さわぎ千鳥もむせび鳴く 与那国の情すべてが身の情」情あふるるヤレ 八重山育ち〔(弐)与那国島〕
2006年01月18日
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阪神・淡路大震災時に、炊き出しでつくった暖かいおにぎりが被災者の空腹を満たし、勇気づけたことから「1月17日」は「おむすびの日」に制定されました。豊かな、飽食の暮らしが根本から問い直されました。食べ物もなく、不安のどん底にいた被災者は、ボランティアによる炊き出し(おむすび)に助けられたということです。1995年1月17日早朝に起きた阪神・淡路大震災。幸い被害を免れた大阪在住の彼らは『自分たちの持っている音楽で「何かせな」』という心中から避難所を巡り歩くこととなる。音響設備もなく、電気さえ通わない街で大きな音を出す、ということで彼らは「チンドン楽器」を使って出前ライヴをこなしていく。三線クラリネットチンドン太鼓レパートリーは行く先々の人たちと心を通わせていくうちに自然と増えていく。戦前の流行歌・労働歌・ヤマト民謡・アイヌ民謡・沖縄民謡・・・。その中で生まれた彼らなりの、彼らでしか作れない応援歌、それが「満月の夕」。「満月の夕」作曲:山口洋 作詞:中川敬 (ソウルフラワー・モノノケ・サミット)1995風が吹く港の方から焼け跡を包むようにおどす風悲しくて全てを笑う乾く冬の夕夕暮れが悲しみの街を包む見渡すながめに言葉もなく行くあてのない怒りだけが胸をあつくする声のない叫びは煙となり風に吹かれ空へと舞い上がる言葉にいったい何の意味がある乾く冬の夕ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊るヤサホーヤ たき火を囲む 吐く息の白さが踊る解き放て 命で笑え 満月の夕絶え間なくつき動かされて誰もが時代に走らされたすべてを失くした人はどこへ行けばいいのだろうそれでも人はまた 汗を流し何度でも出会いと別れを繰り返し過ぎた日々の痛みを胸にいつか見た夢を目指すだろうヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊るヤサホーヤ たき火を囲む 吐く息の白さが踊る解き放て 命で笑え 満月の夕ヤサホーヤ 唄がきこえる 眠らずに朝まで踊るヤサホーヤ たき火を囲む 吐く息の白さが踊る解き放て 命で笑え 満月の夕
2006年01月17日
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宮古民謡「トーガニーあやぐ」(二揚)大世(ウブユ)照(ティ)らし居(ウ)す゜太陽(マテイダ)だき国(クニ)ぬ国々(クニグニ)島(スマ)ぬ島々(スマズマ)照(テイ)り上(アガ)り覆(ウスウ)いよ我(バ)がやぐみ御主(うしう)が世(ユ)や根岩(ニビシ)どうだらよ〔大きな国も小さな島々までも、この世をくまなく照らしてる太陽の様に、隅々まで行き渡る偉大な統治者の治める世の中は、根を張る巌の様だ〕春(ハル)ぬ 梯悟(デイグ)ぬ花(パナ)ぬ 如(ニヤ)ん 宮古(ミャーク)ぬあやぐやすうに島糸音(ズマイチュニ)ぬあていかぎかりゃよ親国(ウヤグニ)がみまい下島(スムズマ)がみまいとうゆましみゅーでいよ〔春先に咲き誇るデイゴの花の様に、宮古のこの唄は、島糸を引く様に余りにも良い歌なので、この国から世界中の小さな島々まで、伝え轟かそう〕十日四日(トオカユウカ)ぬお月(ウツき゜)だき十五日(ジウグニツ)ぬゆお月(ウツき゜)ぬ 如(ニヤ)んよ上(アガ)す゜かぎぬゆす゜かぎ我達(バンタ)が国(クニ)ヨー〔十四日のお月様のように(満月前)、十五日のお月様のように(満月)、昇ってくる美しいお月様のように、私達の国から発信しましょう〕宮古の代表的な祝歌です。特に新年祝いの席や、婚礼・新築祝の宴で、客と主人筋との間で盃の遣り取りをしながら、歌うのが昔からの習慣としています。宴席の幕開けにも使われています。統治者を称え、歌の旋律を称え(世渡りの作法)を、目出度い歌としていますね。
2006年01月16日
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1月15日には「小豆粥」を食べて小正月を祝い、神に供えるという古来からの行事があります。この風習は、宇多天皇(867~931年)の頃から行われていたようです。平安時代中期の法典「延喜式」には、宮中で小豆を入れた七草粥を天皇に供えたと記述されています。吉を表す赤である小豆は、太陽を意味しています。この太陽の象徴でもある赤い豆を食べることにより、冬の寒い陰気を追い払い、さらに邪気までも追い払うという意味が込められています。小豆には解毒作用や利尿作用があるので、自然と昔の人は体の中の邪気を払う方法を見つけていたのかもしれないですね。ただし、豆の繊維質は食べすぎると逆に便秘がちになるというので、注意が必要。7日までの松の内を「大正月」とよぶのに対し、15日を「小正月」といいます。松の内に忙しく働いた主婦をねぎらう意味で、「女正月」という地方もあります。
2006年01月15日
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宮古民謡「新可愛者小よ(しんかぬしゃがまよ)」(本調子)作詞国吉源次貴女(ウワ)が 事(クトゥ)うゆあてい思(ウム)うやしどぅ 知(ス)しうたる字(ズ)うまい読(ユ)みうたる文字(アヤ)うまい忘(バス)きにゃんよ 可愛者小(カヌシャガマ)よ〔貴女の事を想う余り、知っていた字すら読めていた文章ですら忘れ去ってしまうようです。〕峯(ンミ)や七峯底(ナナンミスウク)や七底越(ナナスウククイ)なり来(ク)ばよ返(カイ)しふいなよむどぅしふぃなよ 可愛者小(カヌシャガマ)よ〔峰山を七山底を七底越えて来るので、断り追い帰す事はなさらないでね、愛しい人よ〕月夜(ツき゜ユ)が まんなあらだかかりやよ月中(ツき゜ナカ)がまんな音高(ウトウダカ)かりゃよ闇夜(ユアム)がまならば 月末(シミヤ)がまならば通(カユ)いふいるよ 貴男(ビキリヤ)がまよすうまりやがまよ〔明るい月夜は人目につきます、月の中頃も人目につきます、闇夜の下旬頃になってから通って来て下さいね、私の恋しい貴方〕以下省略します。
2006年01月14日
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「1946年(昭和21)」1月13日高級たばこ「ピース」が発売された事で、「ピースの日」とも言われています。発売当初、他のたばこは4円、ピースは10本入り7円でパッケージは鳩のデザインでした。日曜・祝日のみひとり1箱に限って販売されていましたが、東京・有楽町の売店では、1000箱が1時間で売り切れたといいます。1616年10月3日:幕府が煙草の栽培禁止令を告示。1665年 :イギリスでペストが大流行した折、予防として煙草を吸うと良いと思われていた。1890年1月31日:アメリカン・タバコ社設立(社長ジェームズ・デューク)1896年1月28日:葉煙草専売法・登録税法公布1900年3月7日 :未成年喫煙禁止法が公布され現在の様に未成年者は吸ってはいけない事になりました。1904年4月1日 :煙草専売法公布・製造も政府が専属に1904年7月1日 :煙草が専売商品になり初の官製煙草が発売 (敷島・朝日・チェリー・大和・スターの5種類)1906年9月1日 :両切り紙巻きタバコ「ゴールデンバット」発売/10本入り4銭1909年5月1日 :煙草の専売法を樺太にまで拡大する事を決定1909年6月1日 :煙草の専売法を樺太でも実施1919年1月 :歌劇カルメンの劇中歌「煙草のめのめ」流行1940年10月31日:外国語の煙草名を日本名に改称 「バット→金鵄」「チェリー→さくら」1944年7月 :煙草が紙不足もあってバラ売りになる1944年11月1日:煙草が隣組配給性になる(男子1日6本)「1946年1月13日:戦後初の新高級煙草「ピース」新発売」1949年9月6日 :煙草宣伝ガールが街頭に登場1950年4月1日 :魚・衣料・煙草などの統制・配給が廃止になる1952年4月1日 :新デザインの煙草「ピース」登場/レイモンド・ローウィ(米)図案1957年7月1日 :初のフィルター付タバコ「ホープ」発売1960年6月20日:初のロングサイズのフィルターつき煙草「ハイライト」登場・定価70円1960年10月20日:外国たばこの一般販売はじまる1972年7月1日:初めて観光たばこ発売:銘柄はハイライト 富士箱根伊豆国立公園と南房総国立公園1976年12月1日:日本最古の煙草「朝日」が生産中止1982年6月21日:低ニコチン低タールの煙草「キャスター」発売1985年4月1日 :NTTとJT(日本たばこ産業)が発足 電電公社・専売公社が民営化1992年12月31日:記念・観光たばこ製造中止(大正天皇即位記念からの80年の歴史に終止符)1994年10月27日:日本たばこ産業(NT)が株式上場少し前までの日本製煙草のパッケージには、『あなたの健康を損なうおそれがありますので吸いすぎに注意しましょう』と書かれていました。今の時点では、『肺気腫の恐れ・肺がん発症の可能性・・・』ですね。海外の煙草のパッケージには、イギリス 『喫煙はあなたの健康を損なうことを英国政府は警告する』アメリカ 『公衆衛生総監は、紙巻き煙草の喫煙は、あなたの健康に危険であると決定した』オーストラリア 『喫煙は人を殺す』イタリア 『煙草で死ぬ危険は交通事故の4倍である』タイ 『保険省令:煙草を吸うとインポになります』等々、の文面の他にかなりグロテスクな画像を印刷しているモノもありますね。今ではもう禁止されましたが、「皇居の清掃奉仕をしたら下賜される恩賜タバコにはニコチンが入っていない。」ということらしいです。でも私は喫煙家ではありません。
2006年01月13日
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「塩の日」「1569年(永禄12)」1月11日武田信玄と交戦中の上杉謙信が、武田方の領民が今川氏によって塩を絶たれていることを知り、この日、越後の塩を送ったとされています。この話が、「敵に塩を送る」という言葉の元となりました。「1567年(永禄10年)」武田信玄は、13年間に及ぶ今川氏(駿河国/現静岡県)との同盟を破棄、東海方面への進出を企てます。領内に入られた今川氏真は、縁戚関係にあった北条氏康(相模国/現神奈川県)の協力を仰ぎ、武田領内への「塩留め」(経済封鎖)を行います。武田の領地は甲斐(山梨県)・信濃(長野県)にあり、海に面していないため「塩」を取ることが出来ず領民は苦しみました。この領民の苦しみを見過ごすことが出来なかったのが、信玄の好敵手「上杉謙信」でした。越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄は、これまで何度も合戦を繰り返し、敵対していた間柄。しかし、「義」を重んじる上杉謙信は、武田領民の苦しみを見過ごすことができず、越後から信濃へ「塩を送る」ことを決意します。また、越後と甲斐で取引される塩が、高価にならないようにしたといいます。越後から送られた塩が松本に到着したのが、1569年(永禄12年)1月11日。感謝の意をこめ毎年1月11日に「塩市」が開かれるようになりました。この塩市は現在「あめ市」として長野県松本市で開かれています。
2006年01月11日
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「門松ゆ立てて 炭と昆布かじゃて 福ぬ神がなし 御迎け拝ま」「新玉の年に 炭と昆布飾てぃ 心から姿 若くなゆさ」〔新しき年の初めに、縁起のいい炭と昆布を仏前に供えれば、心身ともに若々となることよ!〕炭は長期間でも変化し難いという事も含め長生きの象徴とされています。昆布はヨロコブのことで縁起の良い、めでたいという意味に通じますね。新年にその炭と昆布を飾って新たな決意で望む事は、心も体も若くなるようだ。旧八重山の風習には、昆布を丸い筒状にして、紅白の紙で帯の様に飾り付けをした物を「よろこび(昆布)が、幾重にもある様に」を祈願する海の幸。木炭を紅白の紙に包み飾る。食べ物を煮る大切な火種用であり、「タン(炭)と幸福が訪れますように」祈願する意味があります。
2006年01月10日
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七草を粥に入れて食べる日ですね。案外知られていないのが、「七草爪切り」の日でもありますね。「七草爪切り」の日とは、新年を迎え、初めて爪を切る日です。七草をひたした水に爪をつけ、柔らかくして切ると、その年は風邪をひかないといわれています。『君がため春の野に出て若菜(七草)摘む わが衣手にゆきはふりつつ』〔光孝天皇〕今では「七草粥」を食べる日になっていますが、「人日(じんじつ)の節句」「七草の節句」ともいわれています。元々、旧暦1月7日は、新年の占い始めの日として、中国から伝わった行事でした。朝廷や幕府に対し年賀を述べる日ともされていました。平安時代公家社会では、正月行事の際、ご馳走をたらふく食べた後の体を気使い、漢方生薬効果を狙った「七草粥」を食べることが慣例になりました。江戸時代五節句として1月7日 人日の節句3月3日 上巳の節句5月5日 端午の節句7月7日 七夕の節句9月9日 重用の節句の一つとして、将軍・諸侯が七草粥を食べる様になり、公式行事となりました。時代と共に、新年の占い(政占い)から「七草粥」に重点が移り、変化していきました。「この日に「七草粥」を食べると邪気が払われ、無病息災でいられる」という慣習になっていきました。「七草ばやし」七草ナズナ 唐土の鳥が 日本の土地に 渡らぬ先にトントンバタリ トンバタリその昔、人々は六日の夜に七草を刻みながら七草ばやしを歌う風習がありました。〔唐土の鳥〕とは、大陸から疫病をもたらす渡り鳥を指しています。渡り鳥が日本に着く前に海に落してやろうと歌ったものです。害鳥を追い払いその年の豊作を願う考えが、七草粥の行事と混ざり合ったものではないでしょうか。セリ セリ科の多年草。田の畦など湿地に自生。効能/消化を助け黄疸をなくすナズナ 別名・ぺんぺんぐさ アブラナ科の越年草。効能/視力、五臓に効果ゴギョウ ハハコグサの異名 菊科の越年草。効能/吐き気、痰、解熱に効果ハコベラ 別名・はこべ、朝しらげ 撫子科の越年草。効能/歯ぐき、排尿に良いホトケノザ タビラコの別名 菊科の2年草 田や畦に自生。効能/歯痛に効くスズナ 蕪、カブラの異名。効能/消化促進、しもやけ、そばかすスズシロ 大根の異名。効能/胃健、咳き止め、神経痛と、伝えられています。
2006年01月07日
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新暦正月で、餅は食い飽きたという方には辛い話でしょうね。沖縄の風習として、旧暦12月8日(新暦1月7日)に作られるムーチー(鬼餅)があります。沖縄文化の餅作りは、もち米に水を加えながら石臼で碾(ひ)くか、水に浸したもち米を搗(つ)き、後から蒸し上げたモノが中心でした。しかし近年では、予め粉にしてあるもち米「糯米粉(もちごめこ)」に水を加えて練り蒸す事が多くなりました。仮に日本本土のもち米を蒸してから、臼と杵で搗き上げる方法をしていては、度々作る準備に手間取りますね。そんな餅文化の中でも、特に旧暦12月8日に作る鬼餅(ムーチー)は餅の一大イベントです。練った糯米粉(もちごめこ)を平たくのばし、細長い長方形をつくってサンニン(月桃)やクバの葉で包んで蒸します。特に、香り良く防虫抗菌作用のあるサンニンで包んだものは人気があります。今では、街の菓子屋で一年中買う事ができます。黒砂糖味・紅芋のモノもあります。その様にして作る餅文化は、年中行事に冠婚葬祭にお供えされ、作り続けられており、大よそ日本中でも最大の餅消費地域ではないでしょうか。水で練り上げた餅米の粉を、平たく伸ばしながらサンニン(月桃)やクバ(蒲葵・ビロウ)の葉に挟む様に包みこみ蒸したモノです。ムーチー(鬼餅)には、厄払いの意味があります。仏壇・かまど(火の神)・神棚などに供え、家族一同、特に子供の健康を願います。沖縄民話「ムーチー(鬼餅)」昔々、首里の金城と言う村に、兄と妹が住んでいました。兄は、大里村に移り住んでからは、鬼となり人を喰うようになってしまいました。その噂を聞いた妹は、兄が知らないモノで退治しようと考えました。ごく普通の柔らかな餅と鉄クギを混ぜた鉄餅を用意して、兄を誘いました。兄が、大里村から金城へ移動中、妹は山の途中で待ち伏せしました。そして、兄妹が再会します。何食わぬ顔で妹は、兄に鉄クギ入りの鉄餅を渡し、食べる様にすすめました。妹は普通の餅を食べました。兄は、こんな固いモノをムシャムシャ食べている妹が少し怖く感じました。それと同時に、わざと兄に見える様に着物の裾(すそ)を開いて座りました。妹は、平然と餅を食べています。兄は、クギが口の中を刺し回り、うまく食べる事ができません。さり気無く、兄の前に着物の裾を開いて妹が座り直します。妹の下の口が兄の目に入りました。兄は、「それは何か」と妹に問いました。妹は、「上の口は餅を食います。下の口は鬼を喰らいます」と答えました。すると兄は驚いて、崖から転げ落ち、死んでしまいました。というのが、有名な「ムーチー(鬼餅)」のはなしです。 沖縄の餅!ムーチー(5個入り)この時期、寒さが厳しくなる「ムーチービーサの日」
2006年01月06日
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「成人式」成人式とは、本来、男子の場合は、成年式女子の場合は、成女式と、呼ばれており、一人前の男女になった事を社会的に認められる式のことです。現在では、満二十歳をもって成人式が行われますが、かつては男子が十五歳頃、女子は十三歳に行われていました。公家や武家社会においては元服と言われていました。一般庶民は、「へこ祝い」「褌(ふんどし)祝い」「湯文字祝い」などと呼ばれ、褌や腰巻きを贈る風習がありました。昔の成人式である成年式に行われた試練奈良県の大峰山・青森県の岩木山・中部地方の立山・白山では、高山に登り、篭る修行がありました。秋田県では、一定面積の畑を一日で耕す試練がありました。静岡県川奈村では、三角の薪(まき)の上に座り、太い薪で全身を打たれる過酷な修行?があったそうです。今では、アトラクションの一つになっていますが、「バンジージャンプ」も海外先住民の成人の儀式ですね。片足首にツタを結び付け、斜面上部に特設した木製の高台から飛び降りる試練からきています。所変わり、時代変わり、振袖を着て、車自慢に酒盛り、挙句に暴動や罵声の成人式は、余りにも醜いですね。
2006年01月05日
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週明けには成人式ですね。離島や山村では、正月休暇で帰省中に成人式を祝う所も多いですね。成人式といえば、「振袖」。元禄時代、井原西鶴著「西鶴俗つれづれ」(1695年、元禄8年刊)では、『「大振袖」は若さの象徴であり、男子は17歳の春、女子は19歳の秋に袖を短くした』とあります。と言う事は、男子17歳の春まで、女子19歳の秋までは、それぞれ振袖を着ていた事になりますね。〔お雛様の衣装・男性装束も振袖ですね〕「振袖」身頃と袖を全部縫いつけず、袖の部分に「振り」を作った「袖」を指します。その条件ならば、帷子(かたびら・麻単物)単衣(ひとえ・絹単物)打掛(うちかけ・薄綿入りの絹の袷で、間着の上に重ね着するもの)まで「振袖」に含まれますね。〔陰陽師の衣装も単衣・狩衣・直衣や宮中正装も振袖ですね〕「振袖の袖丈」寛文(1661~1673年)頃から天和(1681~1684年)までは一尺四寸~五寸(約45cm)当時はこれを「大振袖」と呼んでいました。貞享(1684年~)頃から、二尺(約75cm)元禄(1688年~)頃には、ニ尺二寸(約80cm)になります。享保(1716~1736年)頃は、二尺四寸~五寸(約90~95cm)宝暦(1751~1764年)頃は、二尺八寸~九寸(約105~110cm)と、次第に長くなります。この時代の19歳までの平均身長(約135~145cm)では、110cmの大振袖は長すぎますね。これは、時代背景として、平和な時代を象徴しているようにも感じます。振袖が長い分、戦も無く安泰であるからこそ、袖を引き摺る着物が流行りだしたのではないでしょうか。成人式の象徴ともされている振袖。今の時代、どの位の長さが適当なのでしょうね。振る袖も無しの袖では、ギスギスした(戦国同様)な時代? 【鎧直垂(金襴上下袴式タイプ2)】 【鎧直垂(金襴上下袴式タイプ1)】
2006年01月04日
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寒さが続いていますね。温泉地や旅館(特に寒い地方)では丹前(たんぜん)を浴衣以外に備えていますね。「丹前(たんぜん)」承応・明暦(1652年~1657年)頃江戸神田四軒町雉子町の続は、松平丹後守(まつだいらたんごのかみ)屋敷があった。この屋敷の前に町風呂があり、湯女を置く一種の遊所として大繁昌していた。丹後守殿の前にあったことから、この風呂屋を「丹前風呂」と呼ばれ、そこへ通う遊客の伊達な風俗を丹前風と称していた。襟・袖口・フキに綿を沢山入れた一種闊達な仕立て方が、風呂上りの湯冷めを防ぎ、伊達な遊び着として扱われたのが始まりです。当時、丹前と同じ構造をした着物があったわけでもなく、後に「丹前」と呼ばれるようなドテラ風の小袖を丹前と俗称したのが起源とされています。当時一般的には、寒さ対策として、小袖の上に小袖を重ね着た着こなしであり、打ち掛け風に小袖を羽織る事が主流でした。その後、縞紬や縞木綿に染形も稀にある新しい形の着物が流行りだした。仕立て方は、綿入れ小袖に準じて広袖に作る。男物は、黒八丈。女物は、黒ビロードの掛襟をするのが一般的。「丹前」と「江戸ドテラ」の違い「丹前」は、蒲団と同様に数ヵ所を綴じ糸で綴じている。「江戸ドテラ」は、けっして綴じる事はない。綴糸があり、やや大形に製したモノを「カイマキ(掻巻)」と称して夜具に用いた。伝法な人達は、カイマキを外出着や部屋着に用いた。娼家の主人、博徒といった遊民、あるいは娼妓などは自家で常に着ていたようです。 本場久留米綿入長丹前 絵かすり丹前 おくるみ丹前 スーパートルマリンエナジーどてら送料無料、代金引換手数料無料保温・通気性にも優れたリラッ... ナカノヒロミチの家紋男物はんてん(男専科) 婦人用 あったか~い中わた入り半天 送料無料! シルクの感触がたまらなく気持ちいい!【東京西川】真綿かいまきふとん ポーランド産ホワイトグースダウン93%羽毛かいまき布団(綿衿カバー付) キャメル100%毛布かいまき
2006年01月03日
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沖縄民謡 「くば笠小(クバガサグヮ)」(本調子)サヨサー里前(サトゥメ)が 情(ナサ)きぬ くば笠小(ガサグヮ)里前(サトゥメ)が 情(ナサ)きぬ くば笠小(ガサグヮ)ちーいしてぃ ちーいしてぃ眺(ナガ)みてぃ 遊(アシ)ばな 語(カタ)らてぃ 遊(アシ)ばなや くば笠小(ガサグヮ)ハーリヌヨ ユイヤサー語(カタ)らてぃ 遊(アシ)ばなや〔貴方に頂いたクバ笠を、貴方から頂いたクバ笠を、お傍に置いて据え置いて、眺め楽しみ、語らいましょうね、貴方のくば笠(ハヤシ)語らい楽しみましょう〕サヨサー花染手巾(ハナズミ ティサジ)や 前(メェ)に結(ムシ)でぃ花染手巾(ハナズミ ティサジ)や 前(メェ)に結(ムシ)でぃ美(チュ)らむぬや 美(チュ)らむぬやくば笠 ソイソイ 女童(ミヤラビ)遊(アシ)ぶさや くば笠小(ガサグヮ)ハーリヌヨ ユイヤサー女童(ミヤラビ)遊(アシ)ぶさや〔花柄染めの手ぬぐいを前に結んで、花柄染めの手ぬぐいを前に結んで、美しいものだね美しいものだねクバ笠ソイソイ、乙女遊びの様だねクバ笠(ハヤシ)乙女遊びの様だね〕サヨサーかんしてぃ 美(チュ)らさや くば笠小(ガサグヮ)かんしてぃ うかさや恩義(ウンジ)とぅ ふくしんや くば笠小(ガサグヮ)美(チュ)らむぬや 美(チュ)らむぬやかんしてぃ 美(チュ)らさや くば笠小(ガサグヮ)ハーリヌヨユイヤサー 恩義(ウンジ)とぅ ふくしんや〔被せて美しいクバ笠を、被せて美しいクバ笠を、美しいものだね美しいものだね、被せて滑稽な事柄は、恩や義理と埃だよね、クバ笠(ハヤシ) 恩義と埃だよね〕サヨサー沖縄(ウツィナー)育(スダ)ちぬ くば笠小(ガサグヮ)沖縄(ウツィナー)育(スダ)ちぬ くば笠小(ガサグヮ)働(ハタラ)ち者(ムン) 働(ハタラ)ち者(ムン)雨風(アミカジ)うきてぃん 意地(イジ)りどぅ第一(デェイツィ)や くば笠小(ガサグヮ)ハーリヌヨユイヤサー意地(イジ)りどぅ 第一(デェイツィ)どぉ〔沖縄育ちのクバ笠は、沖縄育ちのクバ笠は、働き者です働き者です、雨風に耐える意志強く、忍耐一番意地一番だよクバ笠(ハヤシ)忍耐強が一番だよね〕 くば笠 バッチョロ笠 網代笠 文字入り 柿渋引き 陣 笠 網代笠 文字入り 【大名陣笠(上)】 三度笠3141 一文字笠3134 三笠山 焼印 「寿」 30個入
2006年01月02日
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おめでとクラッカー( ・_・)。∠※PON!。.:*:・'°☆。.:*:・'°★°'・:*@(。・o・)@よ@(。・0・)@ろ@(。・-・)@し@(。・。・)@ノく♪御願い申し上げます☆彡 m(V人∨)mいいそーぐゎち でいびる やいびーん。旧年中は 世話んかいないびたん。くとぅしん ゆたしく 御願さびーん。
2006年01月01日
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