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この歌は、石垣市白保の歌。「ぼすぽう」とは、元々波照間島の方言で「下着」の事、 男性下着は「サナジ」と言い主にフンドシの事。「模様ナシの紺地の木綿布」・長さ150センチぐらい。 女性もフンドシの様に締めて垂らしていた様子が、豚や犬の尻尾の様に見えるので「ブスプー(尾)」と呼ばれるようになった。 女童(みやらび)は、乙女 びらまは、男性の俗称 「ぼすぽう節」(本調子)1、くぃのーれから 女童(ミヤラビ) 色美(イルジュ)らさ あそぅぬ むぬぬ かんかび みたんな 女童(ミヤラビ) 〔この前から一段と色艶が目立って美人に見えるが、色気づいたのか 乙女よ〕 タカワーナバワーバッシャリバーエーナルヌ 〔そんな事 分かりません、イヤ 人前では言えるものですか〕2、くぃのーれから びらま 着膚(スーハダ)美(カイ)しゃ あそぅぬ むぬぬ かんかび みたんな びらま タカワーナバワーバッシャリバーエーナルヌ 〔この前から一転して、着物の着こなしが目立っているが、性欲に目覚めたのか ビラマよ〕3、女童(ミヤラビ)ぼすぽう のーぼすぽう 紺染(クンズミ)ぬ 梅(ンミ)ぬ花(パナ) 中(ナカ)ぬ紅型(ビンガタ) みたんな びらま タカワーナバワーバッシャリバーエーナルヌ 〔乙女の下着は何で仕立ててあるか、木綿の紺染めに梅の花が・・・、それは女性のアソコだよ、紅露染めや紅型を、見た事あるかな なあ ビラマ〕4、びらま ぼすぽう のーぼすぽう 芭蕉(バーソー)なーぬ 紅露染(クルズ)み 中(ナカ)ぬ紅型(ビンガタ) みたんな 女童(ミヤラビ) タカワーナバワーバッシャリバーエーナルヌ 〔ビラマの「サナジ」は、何で仕立ててあるか、芭蕉布の紅露染めのようだ、紅露染めや紅型を見た事あるかな なあ 乙女よ〕 まるで中年オヤジの いやらしい はやし の様でもあり、「毛遊び(今風、合コン)」のヒヤカシとも思える。 セクハラと言われなかった事ぐらいか。 月夜に浜辺で、泡盛呑みながら、通りすがりのカップルに向かって、唄うには相当練習がいりそう。 でもこんな内容でも、朗々と唄われると「凄い!」の一言だな。この歌を旨く(小気味良く)唄える唄者には、未だ会った事がない。 さらりと唄えるには、かなりの熟練が必要のようだ。 次は、八重山の昔の風習を載せます。
2005年01月31日
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「うやき」とは、「富・財産・五穀豊穣の島」の意1、南風(ハイカジ)ぬ 押(ウ)しゅらば ヤゥ 北(ニスィ)ぬ あぶすぃば 枕(マクラ)ばし ウヤキ ヤゥヌ ウーラスミーガ ヤゥ 〔南風に押されると、北側の畦(あぜ)を「腕マクラ」の様に倒れるほどの稔りだ〕2、北風(ニスィカジ)ぬ 押(ウ)しゅらば ヤゥ 南(ハイ)ぬ あぶすぃば 枕(マクラ)ばし ウヤキ ヤゥヌ ウーラスミーガ ヤゥ 〔北風に押されると、南側の畦(あぜ)を「腕マクラ」の様に倒れるほどの稔りだ〕3、女童(ミヤラビ)ぬ 出乳(イディツイ)や ヤゥ かなしゃまぬ すり乳(ツイ)や ヤゥ ウヤキ ヤゥヌ ウーラスミーガ ヤゥ 〔乙女の乳房をどうしよう、好きな女性の乳房をどうしよう〕4、誰々(タル)にどぅ 取(トゥ)らしょうる ヤゥ 何(ジ)り 何(ジ)りにどぅ 揉(ム)ましょうる ヤゥ ウヤキ ヤゥヌ ウーラスミーガ ヤゥ 〔誰々に握らせるのか、どんな男に揉ませるのか〕5、肝(チム)知(シ)らん 女童(ミヤラビ) 胸(ンニ)知(シ)らん かなしゃま ウヤキ ヤゥヌ ウーラスミーガ ヤゥ 〔男の真心を見抜く事を知らない乙女は、男の胸の内を知らない少女は〕6、肝(チム)ば 見(ミ)や 取(トゥ)らしょうり ヤゥ 胸(ンニ)ば 見(ミ)や揉(ム)ましょうり ヤゥ ウヤキ ヤゥヌ ウーラスミーガ ヤゥ 〔男の真心を見抜いてから握らせなさい、男の胸の内を見抜いてから揉ましなさい〕7、うり取(トゥ)らし なうすが ヤゥ くり揉(ム)まし 如何(イキャ)すが ヤゥ ウヤキ ヤゥヌ ウーラスミーガ ヤゥ 〔乳房を握らせて何をするのか、玉乳を揉ませて何をするのか〕8、染(ス)みるんでどぅ 取(トゥ)らす ヤゥ 抓(ツィネ)るんでどぅ 揉(ム)ます ヤゥ ウヤキ ヤゥヌ ウーラスミーガ ヤゥ 〔真心を染める為に握らせるのだ、愛情を結ぶ為につねって、揉ませるのだ〕9、藍(アイ)や だどぅ 染(ス)みらりる 縄(ツィナ)やだどぅ つぃないらりる ウヤキ ヤゥヌ ウーラスミーガ ヤゥ 〔藍であったら染められるのだが、縄であったら結ばれるのだが〕10、肝(クィム)どぅ 肝(クィム)染(ス)みいる 縁(イン)どぅ 縁(イン) つぃないる ウヤキ ヤゥヌ ウーラスミーガ ヤゥ 〔心と心を染めるのだ、縁と縁を結ぶのだ〕 西表島西部 網取部落の「ウリチ岳」は、崎山が展望できる「毛遊び(今で言う合コン)」の場。 「小浜屋の山戸主」が昔の青春時代を「ゆんた(ウリチィ岳節)」にして即興で詠っていたのを、後の音楽家の手により改作発表して「うやき節」が世に出る。
2005年01月30日
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内地の三味線は、本調子調律を「B・E・B」であわす。沖縄三線は、本調子ちんだみを「C・F・C」であわす。この違いは、棹の長さによるもの。 唄声の出し方は、「吟は、姿勢を整えて端座し、身体の中軸を真直ぐに据えて歌い、声は 例えば、車井戸のツルベ縄が井戸穴の中央から、スルスルと上がって来る様に、発声すべきである」〔知念親雲上(知念流開祖)〕「琉球古典音楽の源流」より抜粋 三線のちんだみは、声の高さに合せる事により、より歌いやすくなります。「本調子」の低音からいきますとこうなります。調子笛の番号1、「A・D・A」2、「B♭・E♭・B♭」3、「B・E・B」4、「C・F・C」5、「C#・F#・C#」6、「D・G・D」これが使いやすいです。
2005年01月29日
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沖縄民謡の中で、特に宮古島地方と八重山地方の歌を、引き抜き聞き比べてみると違いがでてきます。 当然ながら島々によって、方言言葉が異なり、言葉解釈では曲の意味も違ってきます。 例えば、宮古地方の唄のなかに「あやぐ」と言う曲があります。 宮古島は以前、平島と呼ばれていた。 平らな島で山が無い。 流れ下る川もない。 地上には水もない。 (天水)雨のみに頼り、作物はサトウキビしかできず、台風がなぎ倒す。 そんな風土が生んだ唄は、「当たり様の無い感情を込めた(声をおもいきり吐き出す様な)強靭・荒い・KAの発音を強くした」唄がうまれた。 例を挙げると、 「海の向こうから 寄せてきた あの白波が 米になったならば そこにある岩が 牛や馬ならば 自分たちの生活は もっともっと 豊かになるのに 一方、八重山地方では、 大きな島が点在する 山もある 川もある 土地が肥えている。 そんな豊な暮らしの中から、「情歌」が多く、延々と長い唄があります。 例を挙げると、 「この島から 向かいの島に 行こうと思う みんな集まって 相談した 船を作ろう それには木を切ろう 切る木の由来はなにか 誰が切るのか どうやって船を作るのか 事の起こりを、事細かく流れを追いかけるように、「行って帰ってくるまでを延々と物語として唄う」 そんな島の条件の違いがあっても、共通しているのが、「首里王府」による、人頭税による苦役の辛さ。 作物の98パーセントを「人頭税」として納めなければならなかった。 その辛さを訴える唄がかなりあります。
2005年01月28日
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「平安名(へんな)京太郎の唄」平安名(へんな)村のちょんだらーの伴奏無しの歌です。 祭では、京太郎集団だけで、歌い踊る為の曲です。まず、掛け声から入ります。エイ。エイ。エイ。エイエイ。 エイ。エイ。エイ。エイエイ。エイ。エイ。エイ。エイエイ。「繁昌節」だんじゅ豊(トゥ)ゆーまーりるー 崎枝(サーキーイーダ)ぬ 島(シーマ)やよーウネ黄金(クガニ)森(ムーイー)くーさーてぃー スリ 田袋(タブク)前(マーイー)なーし イヤマシウヤキ 繁昌(ハンジョウ) 勝(マサ)る 繁昌(ハンジョウ) 且つ又(カツマタ)イヤマシエイ。エイ。エイ。エイエイ。 エイ。エイ。エイ。エイエイ。「わからん節」今(ナマ)ぬー浮世(ウチユ)やー全然(ムル)わからん。エイエイ。物価(ブッカ)やー上(ア)がてぃー不思議(フシ)がらん。エイエイ。風船球(フウセンダマ)ぬー上(ア)がゆんねえー。エイエイ。聖徳太子(ショウトクタイシ)やー ちゃー下(サ)がい。エイエイ。※ 今(ナマ)ぬー浮世(ウチユ)やー全然(ムル)わからん。何(ヌウ)が なとーら 全然(ムル)わからん。エイエイエイ。今(ナマ)ぬー女(イナグ)やー全然(ムル)わからん。エイエイ。雨靴(アマグツ)はちょーてぃ 傘(カサ)かんてぃ。エイエイ。ミニミニスカート・シースルー。エイエイ。尻(チビ)ん振(フ)い振(フ)い 歩(ア)っちゅんでぇ。エイエイ。※ 今(ナマ)ぬー浮世(ウチユ)やー全然(ムル)わからん。 何(ヌウ)が なとーら 全然(ムル)わからん。 エイエイエイ。今(ナマ)ぬ世(ユ)ぬ中(ナカ) 全然(ムル)わからん。エイエイ。義理(ヂリ)ん人情(ニンジョウ)ん 無(ネー)やびらん。エイエイ。親子兄弟(ウヤファチョウディー)ん 別々(ナー)走(ハ)い走(ハ)い。エイエイ。後(アト)は先祖(グヮンス)ん 忘(ワシ)やびん。エイエイ。※ 今(ナマ)ぬー浮世(ウチユ)やー全然(ムル)わからん。 何(ヌウ)が なとーら 全然(ムル)わからん。 エイエイエイ。「テンヨー節」テンヨー。テンヨーシトリトテン。ササ ハリガヨーーヌ ユイヤナーササ。テンヨー。テンヨーシトリトテン。ササ ハリガヨーーヌ ユイヤナーササ。エイサー小(グヮー)やー習(ナラ)てぃーぃ。ササ。何処(マー)ぬ島(シマ)にー行(イ)ちゅーがー。ササ。テンヨー。テンヨーシトリトテン。ササ ハリガヨーーヌ ユイヤナーササ。テンヨー。テンヨーシトリトテン。ササ ハリガヨーーヌ ユイヤナーササ。かりゆしーぬー遊(アーシー)び。ササ。 打(ウチ)晴(ハ)りーてぃーかーらーやー。ササ。テンヨー。テンヨーシトリトテン。ササ ハリガヨーーヌ ユイヤナーササ。テンヨー。テンヨーシトリトテン。ササ ハリガヨーーヌ ユイヤナーササ。道ジュネーには、欠かせない物。エイサー臣下御用達。
2005年01月27日
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「エイサー」とは、沖縄で旧盆に先祖の霊を迎え送るための踊りです。 大太鼓・締め太鼓・パーランクー・手踊り・三線などで構成され、地元の青年たちが家々を一軒一軒まわって、先祖を敬い、土地にマブイ〈魂や祈り〉をこめていくお盆の神事です。 チョンダラーの本来の役割とは、 観客を笑わせたり、盛り上げたりします。 一般的には、カチャーシーをすすめたり、 拍手をすすめたり、 飛び跳ねたり、 指笛を鳴らしたり、 時には客に酒をすすめたり注いだりする事もあります。 一方でエイサーのリーダー的な役割も担います。 曲の間や途中で、 エイサー隊の列を整えたり、 衣装を整えたり、 三線のリズムを調えます。 太鼓の指揮をとり、 曲と踊りのリズムを抑え、 三線のキュー(合図)もチョンダラーの役目です。(例えば、隊列を組み移動して、曲の間奏の繰り返しで列が揃うと、チョンダラーがエイサー隊にキューを出して、囃子〈フェーシ〉を出させ、三線にキューを出して唄が始まる。という具合です。) エイサー隊員の汗を拭き、 水を飲ませ、 クバ扇で風を送り、 折れたバチの交換等、 常にエイサー隊をサポートします。 チョンダラーは、エイサーの流れを熟知しているという事が第一条件です。チョンダラーの名の由来は、 この呼び方はいろいろで、京太郎と書いてチョンダラーと読みます。 他にも狂言ぁ〈チョギナー〉〈チョウギン〉、 間る者〈マルムン〉〈マヌムン〉、 中分かち〈ナカワチ〉、サナジャー、 三良〈サンラー〉、三良小〈サンダーグァー〉などと呼ばれ「チョンダラー」と言う呼び名以外では「サンダーグァー」がよく使われている様です。 京太郎と書くことから、京都と関係があります。 京都の念仏踊り〈ニンブチャー〉として沖縄に伝わり、 沖縄に定着したと言う事です。 旧盆にエイサー隊が太鼓で先祖の霊を送り帰す習慣が定着する頃に、チョンダラーが献酒を霊の代わりに飲んで回る事が、樽を担いだチョンダラーや腰に着けた酒瓶で表現されています。 また、薩摩藩のスパイだという説もあります。 チョンダラーに似た格好のお祭が福岡県や兵庫県、千葉県など、全国各地に広がっていったという説もあります。 被差別民であり、宗教の一派だったという説もあります。 戦で亡くなった方々を埋葬(運び屋)をしながら日々の糧を、あるいは坊さんのように死者の供養をして生活していたそうです。 それが、エイサーの「道巡願い」〈道ジュネー〉(一軒一軒を練り歩く)につながったとされています。 又、海外では朝鮮半島に同じような役割をする一派が存在します。
2005年01月26日
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琉球古典舞踊組曲 「伊野波(ヌファ)節」 「伊野波節」逢(ア)わん 夜(ユ)ぬ 辛(ツィ)らさ与所(ユス)に 思(ウミ)なちゃみ恨(ウラ)みてぃん 忍(シヌ)ぶ恋(クイ)ぬ 習(ナレ)や〔逢いに行ったのに逢えない辛さ、あの人は他の人に思いを掛けてしまったのか、恨めしさは有りながら、それでも逢いに行く恋心〕 「恩納(ウンナ)節」恩納(ウンナ)松下(マツィシタ)に禁止(チジ)ぬ 碑(フェ)ぬ 立(タ)ちゆすぃ恋(クイ)忍(シヌ)ぶまでぃぬ禁止(チジ)や 無(ネ)さみ〔恩納間切の松の下に、禁止事項を書いた碑が立てられたが、恋を禁止する碑までは無いはずだ〕 「恩納(ウンナ)節」七重八重(ナナエヤエ) 立(タ)てぃる籬内(マスィウチ)ぬ 花(ハナ)ん匂(ニオイ)移(ウツィ)すぃまでぃぬ禁止(チジ)や 無(ネ)さみ〔幾重にも囲まれた、籬内(垣根)の内側の花も、匂いを塞き止める事は出来ないでしょう〕 「長恩納(ナガウンナ)節」逢(ア)わん 徒(イタズラ)に戻(ムドゥ)る 道(ミチ)すぃがら恩納岳(ウンナダキ)見(ミ)りば白雲(シラクム)ぬ かかる恋(クイ)しさや 詰(ツィミ)てぃ見欲(ミブ)しゃ ばかり〔愛しい人に逢えないで、独り虚しく戻る道すがら、恩納岳を見ると、白雲がかかっていて、その為にかえって恋しさがつのり、一目見たい逢いたいと強く思うのです〕別の琉球古典舞踊の「執心鐘入」に出てくる〔恋の鬼女〕になる一歩手前ぐらいの強い強い思い〔恋心〕を表現した、20分強の長い演目。かなりゆっくりとした踊りの為、鑑賞するには忍耐も必要か。 これほど力強い〔恋心〕をいだかれると、いわば「ストーカー行為」同様、怖さをも感じる。恩納岳の水で仕込んだ島酒を飲みながら、ゆっくり時の流れを感じてみるのもいいかな。
2005年01月25日
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「十九の春」は、「昭和五十年頃」歌手・田端義夫が歌って大ヒットしました。 が、作曲者が不明のままだった。 この歌のルーツは、第二次大戦中に奄美大島沖で米軍の魚雷攻撃を受けて沈没した貨客船の鎮魂歌「嘉義(かぎ)丸の歌」だったことが判明。 大勢の犠牲者の霊を慰めようと、島唄者「朝崎辰恕(たつじょう)」が、生存者から体験を聞き取り作詞作曲した。 しかし、戦時下で「戦意喪失の恐れあり」と軍当局から歌うことを禁じられ曲調だけが残り、別の歌詞が付けられて歌い継がれた。 元歌は、米軍に沈められた貨客船「嘉義丸の歌」。太平洋戦争中の昭和十八年五月二十六日、大阪から沖縄へ向かう「嘉義丸」が魚雷攻撃で沈没、船体はたった八分で海底に姿を消し、約三百人の犠牲者が出た。 当時、奄美・加計呂麻島民で船の生存者の治療に当たった鍼灸師で三線(さんしん)の名手だった「朝崎辰恕」が、その嘆きに心を痛め犠牲者を慰めようと、生存者らから聞いた体験談をもとに作詞・作曲。同年六月十八日に島の集会所で発表した。 「朝崎辰恕」は戦前、大阪でバイオリンを習ったことから、「嘉義丸の歌」をバイオリンを使い五線譜で作曲した。だが、当時は洋楽器を愛用することは非国民と受け取られかねない雰囲気で、三線を伴奏に歌っていた。 「朝崎辰恕」は歌う前に、その都度黙祷をしていた。 歌は奄美で一時期流行ったが、「歌詞が戦局の不利を伝えるもの」として軍当局から歌うことを禁止され、なおかつ戦後、米国への配慮から禁じられて、次第に忘れ去られていった。 当時、多くの奄美島民が沖縄に働きに行ったことから、歌詞抜きの曲だけが“一人歩き”したのだと思う。三線によく合うし、替え歌が好きな沖縄の人たちに広まったのではないだろうか。 「嘉義丸の歌」 歌詞(抜粋) 「十九の春」の曲調で読んでみてください。1、散りゆく花はまた咲くに ときと時節が来るならば 死に逝く人は帰り来ず 浮き世のうちが花なのよ 2、戦さ戦さの明け暮れに 戦火逃れてふるさとへ 帰りを急ぐ親子連れ 嘉義丸頼りに船の旅 三、ああ憎らしや憎らしや 敵の戦艦魚雷艇 撃ち出す魚雷の一弾が 嘉義丸船尾に突き当たる 6、親は子を呼び子は親を 船内くまなく騒ぎ出す 救命胴衣を着る間なく 浸水深く沈みゆく 9、波間に響く声と声 共に励まし呼び合えど 助けの船の遅くして 消えゆく命のはかなさよ 「嘉義丸」は、「1907年」に完成した2508トンの貨客船。 大阪から疎開者ら400人余が乗船、奄美・沖縄に向け航行中、「1943年5月26日」護衛艦二隻が引き返して間もなく、名瀬沖東経129度32分・北緯28度5分の海上で、米艦の魚雷を受け船首を真上に垂直に8分で沈没。 救助された人は100人、乗船していた軍人約30人の戦死の記載が残されたのみで、軍が沈没の公表を封じて犠牲者の名簿はない。 このアルバムには「朝崎辰恕」の娘さんが「十九の春」(田端バージョン)を歌っています。
2005年01月24日
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「三線(サンシン)」の由来 中国の唐の時代、三線〈サンシェン〉が琉球国に伝わり、三線〈サンシン〉となった。その後、戦国時代に大和国に伝わり三味線〈シャミセン〉となった。 琉球国の書物の中に、西暦1372年琉球王国から明への招諭(朝貢とも言い、大陸への献上参り)が始まり、その後西暦1500年前後に琉球王国に伝わり、琉歌の伴奏楽器として発展しました。 大和国への三線流入については、「糸竹初心集」(1664年中村宗三著)の中に『永禄年間(1558年~1569年)に「石村検校〈けんぎょう〉」(当時、目の不自由な方に役職を与え、収入を得る制度が有り、その役職の最高幹部の役名)なる琵琶法師に、琉球からの献上品である三線〈サンシン〉を弾くよう、朝廷より命ぜられ京都で改良し、弟子の「虎澤検校」に譲られ、虎澤は「山野井検校」に伝授して広まりました。 「御湯殿上日記」記載の天正8年(1580年)の条文に『河原の者 山しろといふ しやみせん ひかせらるる』の記述があります。 河原の者とは、定居を持たず文字どうり川原で仮居を建て、雑芸能〈ぞうげいのう〉や、女性は身を売りながら生計をたてている人達の事。「蛇皮線」とは、 かつて、文部省日本史教科書の戦国文化の文章中に『蛇皮線を伴奏に、高三隆達が隆達節〈りゅうたつぶし〉を始めた。』の記述がありました。 沖縄の「蛇」と言うと、多くの大和人は「ハブ」を連想しますが、三線〈サンシン〉の皮は「ニシキヘビ」であり、ハブではありません。 三線〈サンシン〉が大和国に渡った時代、ニシキヘビの皮は渡来品であり非常に高価で、大和国では簡単に手に入る代物ではなかった。がしかし、三線〈サンシン〉の音色に魅せられた「河原者」(貧しい階級の大道芸人)は、身近な(何処にでも居る)「猫」皮を代用しました。 後の、改良により携帯に便利な二分割式や、サオを丈夫にする為に太くし、犬皮を用いた物も作られました。 もし、「三線」が〈ジャミセン〉なら「三味線」は〈ネコガワセン〉と呼びますか? つい最近まで、一部の大和人は沖縄をべっ視する傾向があり、その象徴として「三線」を〈ジャミセン〉と言い、「河原者」同様 沖縄文化は大和文化の下にある様なニュアンスがありますので、沖縄のオジーオバーの前では言わない方がいいかも。 琉球国での「三線の文化的位置付け」 琉球国では、仕官制度(現在の国家公務員)に琴・三線に秀でた人たちを基準として採用試験が行われていました。 それは、大陸文化の窓口として中国や朝鮮との交易の「歓迎レセプション」として琴・三線を披露しました。 又、大和国朝廷への献上品を納め、舞や音楽を披露する慣わしがあり、同行役人にもその役目を兼ねていました。 現代に置き換えると、数カ国の言語をマスターし、パソコンを使いこなし、最新技術を持って海外訪問するスーパー外交官のようなもの。上記には、歴史上の記述が多く 琉球王国・大和国と表現しましたが、現代では精神的にもすべてを含んで、日本国です。 御笑止下さいませ。ダイ那覇さん大丈夫?
2005年01月23日
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琉球古典舞踊組曲 「諸屯(シュドゥン)」 「仲間節」 物事(ムヌクトゥ)ぬ あてぃん 与所(ユス)に 語(カタ)られみ 面影(ウムカジ)とぅ 連(ツィ)りてぃ 忍(シヌ)でぃ 拝(ウガ)ま〔心に思う事があっても、他人に語る事ができましょうか、忘れられない姿と共に、忍んで行ってお逢いしたい〕 「諸屯(シュドゥン)節」 枕(マクラ)並(ナラ)びたる 夢(ユミ)ぬ つりなさゆ 月(ツィチ)や 西(イリ)下(サ)がてぃ 冬(フユ)ぬ 夜半(ヤファン)〔一緒に枕を並べ寝ていた夢から、覚めた後のつれなさよ、冬の夜半頃にはもう、西に月が傾いている〕 「しょんがねぇ節」 別(ワカ)てぃ 面影(ウムカジ)ぬ 立(タ)たば 伽(トゥジ)みしょり 馴(ナ)りし 匂袖(ニウイスディ)に 移(ウツィ)ちあむぬ〔別れた後、私の幻の姿が立ったら、この着物をお慰めにして下さい、馴れ親しんだ私の匂いを移していますから〕 人間の魂の比喩する意味を知り、比喩を通して美を創る意味を知る。 とてつもなく深く切なく、美しい世界がある事を信じ、それを創造する感性が生み出した絶品かと思う。
2005年01月22日
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沖縄の童謡「耳切坊主(ミミチリボージ)」1、ヘイヨー ヘイヨー ヘイヨー ヘイ ゆさんでぃ 街(マチ)かい うういいね 大村御殿(ウフムラウドゥン)ぬ 角(カドゥ)なかい 耳切坊主(ミミチリボージ)ぬ 立っちょんど 幾人(イクタイ) 幾人(イクタイ) 立っちょうが 三(ミッ)ちゃい 四(ヨッ)たい 立っちょんど ぬうとぅ ぬうとぅ 持(ム)っちょうが イラナん 刀(カタナ)ん 持(ム)っちょんど シーグン 包丁小(ホウチョウグヮーン) 持(ム)っちょんど ヘイヨー ヘイヨー ベル ベル ベル ヘイヨー ヘイヨー ヘイヨー ヘイ 〔夕暮れ門の前に大村御殿の門に、耳切坊主が立っているぞ、何人何人立っているか、三人四人立っているぞ、何と何と持っているか、カマも刀も持っているぞ、小刀も包丁も持っているぞ〕 2、ヘイヨー ヘイヨー ヘイヨー ヘイ 朝(アサ)に 夕起(ユウウ)きする 童(ワラベ) 耳切坊主(ミミチリボージ)ぬ 耳(ミミ)ぐすぐす 泣(ナ)ちゅる 童(ワラベ) 鼻(ハナ)ぐすぐす 朝起(アサウ)き 早起き(ヘーウ)きする 童(ワラベ) 美(チュ)ら 着物(ヤーヤー)に 草履(サバ)くまち 博多(ハカタ)ぬ 帯(ウービ) くんしみてぃ 来(チュウ)る 三月(サンガチ) 四(ユッカ)ぬ 日(ヒー) 浜下(ハマウ)り 海下(ウミウ)り しみゆんどー ヘイヨー ヘイヨー ベル ベル ベル ヘイヨー ヘイヨー ヘイヨー ヘイ 〔朝寝坊夜更かしする子供は、耳切坊主が「耳ぐすぐす(耳を切り落とす様子)」、泣く子供は「鼻ぐすぐす(鼻を切り落とす様子)」、朝起き早起きする子供には、美しい着物に草履を履いて、博多の帯も締めて、来る「三月四日の日(女子の節句)」には、浜下り・海下りさせてあげるよ〕 原曲「大村御殿」がある。 この「耳切坊主」は、オキナワン・グループ(オレンジやモン8)ではありません。
2005年01月21日
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「1797年」石垣島・真謝村の目差役として当時23歳の「宮良当演」により謡われたと言い伝えられている。「1819年」宮良村の頭職に昇進した。 「白保(シラフ)節」(本調子)1、白保村(シラフムラ) 上(ウイ)なか 弥勒世(ミルクユ)ば 給(タボ)られ ユラティク ユラティク ブドゥリ アスバ〔白保村には、五穀豊穣の世を、給われた〕〔寄って来い、寄って来い、心晴れ晴れと、楽しく踊りましょう〕2、稲(イニ)粟(アワ)ぬ なをりや 常(ツィニ)ゆいん まさらし ユラティク ユラティク ブドゥリ アスバ〔稲粟の稔りは、例年より遥かに豊作である〕3、首里(スン)加(ヂャ) 那志(ナシ)貢物(ミムヌ) 御残(ウヌク)いぬ 稲粟(イニアワ) ユラティク ユラティク ブドゥリ アスバ〔首里王庁へ献上しても、残った稲粟で〕4、泡盛(アワムリ)ん 生(マ)らしょうり うんしゃぐん 造(ツィク)りょうり ユラティク ユラティク ブドゥリ アスバ〔泡盛酒も蒸留し、御神酒も造りましょう〕5、真謝(マジャ)ぬ 主(シュ)ば つぃかいし 目差主(ミザスィシュ)ば つぃかいし ユラティク ユラティク ブドゥリ アスバ〔真謝村の村長も、助役もご招待しましょう〕 島唄唄者は白保出身が多い。 年中行事・祭・冠婚葬祭時に必ず唄者ありの文化からか。
2005年01月20日
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「キジムナー」とは、沖縄本島では(キジムン)(キムナー)(ブナガヤ)と呼ばれ、ガジュマルと言う木に住み、子供位の身長で赤い顔、赤い髪をした妖怪(妖精)とされる。 「浜端爺(はんばた・うすめー)は、浜辺で漁をしている爺。 浜端爺の漁は、潮が引くと遠浅になる浜で「かち(海の中の石垣)」を造り、引き潮で取り残された魚を捕まえる漁。 「浜端爺(はんばた・うすめー)」は、その「かち」と「千坪の農地と交換しよう」と言う誘いにも、「一雨くれば水害が起こり、日照りが続くと干ばつがある。暴風が来れば作物に被害が出る。労力の甲斐がない。じゃが、ワシの(かち)は、夜一回・昼一回必ず引き潮が起こる。するとどうじゃ、ワシは担げんほどの魚を捕まえる事ができる。土地と交換なんてばかばかしい。」と言い応じる事がなかった。 そんなある日の夜の引き潮に、いつもの「かち」に来て見ると、魚が一匹もいない。 「浜端爺」は、次の夜の引き潮になる前から浜に出て様子をうかがっていると、赤い髪の子供が魚の目玉をくり抜き、目玉だけ食べると「かち」の外に捨てていた。 「浜端爺」は、「キジムナーの仕業か。じゃが、ワシは魚があればいい。目玉が無くてもいい。」と思い、キジムナーと取引する様になった。 それからというもの、毎夜キジムナーが引き潮時に迎えに来る様になった。 「浜端爺」は、毎夜大漁。夜目の利くキジムナーの背中に乗り、「かち」の内側をひょいひょいと渡っていく。 だが、「こう毎日来られては、相手は妖怪だ。祟りがあっては大変だ。」と思い、キジムナーに「怖いものはなにか?」と聞いた。 キジムナーは、「暁コーガが怖い」と言った。「暁コーガ」とは(夜更かしして、翌朝目を赤く腫らしている)意味だが、ここでは「にわとり」の事。「浜端爺」は、次の夜いつもの様に、キジムナーが迎えに来る前に、蓑を着て家の屋根に上りはばたくマネをして「けーきゅきゅきゅきゅ」と言った。 すると、キジムナーはビックリして逃げていった。 キジムナーの嫌いなもの にわとり・タコ・おなら、などがある。http://www.clipcraft.or.jp/hirayasu/discography/02warabiuta.html
2005年01月19日
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「かぎやで風節」 御祝いの場・儀式の場で、いの一番で踊られるのがこの「カジャリ風(フウ)」です。 祝儀舞踊で、五穀豊穣・健康・長寿を祈願します。 以前は「老人踊り」とされて、老人は頭巾「リンファーモー」を被り・白い顎鬚・緞子衣装・広帯・扇子のいでたち、老女は白いカツラ・緞子衣装を打ち掛け・うちわを持ち、男女共に白足袋の気品ある衣装を身に着けます。 「かぎやで風(カヂャディフウ)節」〔御前風節〕(本調子) 今日(キユ)ぬ 誇(フク)らしゃや 何(ナヲ)に ぎ(ジ)ゃな 譬(タ)てぃる 蕾(ツイブ)でぃ 居(ヲぅ)る 花(ハナ)ぬ 露(ツィユ)行(チ)逢(ャ)た ぐとぅ ヤゥ ン ナ ハ リ ツィ ブ ディ ヲゥ ル ハ ナ ヌ ツィブ ディ ヲゥ ル ハ ナ ヌ ツィ ユ チャ タ グ トゥ ヤゥ ン ナ〔今日の嬉しさは何に譬えればいいでしょう、つぼみの花が露に出逢って、花開いた様です〕 簡単な歌詞ですが、これを2分30秒にわたり、ゆったりと歌うのは大変高度な曲です。 この曲は、3月4日「サンシンの日」の時報ごとに、ラジオ(ホールでの生中継)で、揃って弾くイベントがあります。 調律(チンダミ)の笛を基準として、一日何回も弾く練習ができます。 難しいのは、弾く事より歌う事。 イベントによっては、かんから三線を使い「屋嘉節」を弾き、戦後の捕虜時代を思い返す行事もあります。
2005年01月18日
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赤銅色に潮焼けした海人(うみんちゅ)の男と、恋に命をかける女の物語。 「海やから」とは、(海に生きる・海の勇者)という意味。「ヤカラ(輩)」強い者、働き者という意味があります。(我輩は猫である・ワ ヤカラ マヤーグヮ)(笑 「海やから」(本調子)1、海ヤカラに 惚(フ)りて 食(カ)むる 物(ムヌ)食(カ)まん 道端中(ミチナカ)に 泊(トマ)て 親(ウヤ)ぬ 哀(アワ)り 海ヤカラ ドン ドン スーリ エイスーリ 〔海の勇者に惚れて、食べる物も無く、道端に泊まり、親は哀れに思うだろう〕(囃し)海ヤカラー ドンドン スーリ エイスーリ2、誰(タ)がし 名付(ナヂ)きたか ドン ドン ぬ ガマや 遊(アシ)び 美童(ミヤラビ)ぬ 忍(シヌ)び 所(ドクル) 海ヤカラ ドン ドン スーリ エイスーリ 〔誰が名付けたか、ドンドン(洞窟)は、毛遊びの若者達が、忍んで来る処〕3、ドン ドン ガマ 通(カユ)て 忍(シヌ)で 来(チ)ゃさ 我(ワ)んね 出(イン)ぢみそりヤカラ 語遊(カタリアシ)ば 海ヤカラ ドン ドン スーリ エイスーリ 〔ドンドン洞窟に通い、忍んで来たよ、私の為に出てきておくれ勇者よ、語り遊ぼう〕4、なてんならりらん ぬちんぬかりらん 如何(イチャ)さびが 里前(サトメ) 海ヤカラ ドン ドン スーリ エイスーリ 〔どうすることもできず、抜けることもできず、どうしてくれますか、愛しい貴方よ〕5、海ヤカラに 惚(フ)りて 夜(ユ)ぬ 明(ア)きせ 知(シ)らん 如何(イチャ)し 親(ウヤ)加那志(ガナシ) 御返事(クビジ)さびが 海ヤカラ ドン ドン スーリ エイスーリ 〔海輩に惚れて、夜が明けるまで一緒に居た、どうやって親に報告しようか〕6、我(ワ)んや 海ヤカラ 無蔵(ンゾ)や 恋(クイ)ヤカラ 二人(フタイ) 押(ウ)し 連(チ)りて 親(ウヤ)に 語(カタ)ら 海ヤカラ ドン ドン スーリ エイスーリ 〔我は海の勇者、愛しき君は恋の勇者、二人揃って、親に話そう〕 昔の田舎の事ですから、噂が大変らしく、黙っている訳にもいかず、付き合っている事を親に報告する。 純な青春の物語歌
2005年01月17日
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昭和20年7月、首里・那覇から戦火を逃れて、久志市二見(現・名護市)に辿り着く。 作者「照屋朝敏」は、二見村の村長職にあり、かつて生まれ育った地、首里に帰還するメドがたつ。 自分達を親身に救済してくれた二見村の人達に返礼しようと思うが、命からがら逃げてきた身であり、戦火を逃れた避難民同様、物も金も無い。 そこで誠意を込めて作詞・作曲したのが「二見情話」 「二見情話」は、恋歌の様だが戦火をくぐり抜けた歓び、望郷・帰還・別れの悲しみを意味している。 首里を復興させ、首里劇場を落成し、その柿落としとして「二見情話」を上演。 「二見情話」(本調子) 男、二見(フタミ)美童(ミヤラビ)や だんじゅ 肝(チム) 清(ヂュ)らしゃ 海山(ウミヤマ)ぬ 眺(ナガ)み 他所(ユス)に 勝(マサ)てぃよ 〔二見村の娘は、とても心美しい、海や山の眺めも、よその地に勝っている〕 女、二見村(フタミムラ) 嫁(ユミ)や ないぶしゃやあしが 辺野古崎(ヒヌクザチ) 坂(ヒラ)ぬ 上(ヌブ)い 下(クダ)いよ 〔二見村の嫁には、なりたいけれど、辺野古崎の坂の、上り下りが辛い〕 男、行逢(イチャ)たしや 久志小(クシグヮー) 〔貴女と逢ったのは、久志市です〕 女、語(カタ)たたしや 辺野古(ヒヌク) 〔語り会ったのは、辺野古です〕 男、想(ウム)てぃ 通(カユ)たしや 花(ハナ)ぬ 二見(フタミ)よ 〔想い詰めて通ったのが、花の二見村よ〕 男、待(マ)ちかにてぃ 居(ヲ)たる 首里(スイ) 上(ヌブ)いやしが 〔待ちかねていた、首里上りだけど〕 女、出(イン)ぢ 立(タ)ちゅる 際(チワ)や 別(ワカ)りぐりしゃよ 〔旅に立つ際の、別れの苦しいほどの辛さよ〕 男、行(イ)かい 〔行ってくるよ〕 女、行(イン)ぢ 来(ク)うよと 交(カ)わす 云言葉(イクトバ)や 〔行ってらっしゃいと、交わすその言葉は〕 男、ぬがし肝内(チムウチ)に 思(ウム)い 残(ヌク)ちよ 〔なぜか心の中に、想いが残る〕男女、戦場(イクサバ)ぬ 哀(アワ)り 何時(イチ)が 忘(ワシ)りゆら 忘(ワシ)りがたなさや 花(ハナ)ぬ 二見(フタミ)よ 〔戦場の哀れな姿は、いつかは忘れられるが、忘れがたいのは、花の二見村よ〕 こじ付けではありませんが、辺野古(あのジュゴン生息地)と言われる土地柄、車でもなかなか不便な所です。 (米軍基地建造計画・ヘリポート)の辺野古その岬を越えて二見村に入ります。かの大戦で沢山の人達を救済しながら、今度は戦の片棒を持つのは嫌、と漁民達の・オバー達の座り込みをした理由の一つと考えられます。
2005年01月16日
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雑踊の「貫花小(ヌチバナグヮ)」が「貫花(ヌチバナ)」と呼ばれる様になると、古典女踊りの元々あった「貫花」は「本貫花」と呼びかえられた。 雑踊「貫花」の組曲は、「貫花節」・「南獄節」 古典「本貫花」は、「金武(チン)節」・「白瀬走川(シラシハイカー)節」・「白瀬走川節」 「貫花」とは、紅白の飾花をヒモで繋ぎ合わせた小道具を使います。 「本貫花」の衣装は、紅型の打ちかけ・赤足袋・紫鉢巻き 雑踊「貫花」は、琉球つむぎを右肩袖抜き・白足袋・頭には手ぬぐいを前結び 「本貫花」は、まだ淡い恋心をいだく女性を演じている。 「本貫花(ムトゥヌチバナ)」「金武(チン)節」 春(ハル)ぬ 山川(ヤマカワ)に 散(チ)り 浮(ウ)かぶ 桜(サクラ) 掬(スィク)い 集(アツィ)めてど 里(サトゥ)や 待(マ)ちゅる〔春になると山中を流れる川に、桜の花びらが散り浮かんでいる、それを掬い集めて、「里(里前・サトメ)愛しい男性」を待つのです〕「白瀬走川(シラシハイカー)節」 白瀬走川(シラシハイカー)に 流(ナガ)りゆる 桜(サクラ) 掬(スィク)てぃ 思里(ウミサトゥ)に 貫(ヌ)ちゃいはきら〔白瀬川に流れる桜の花を、掬い集めて貫花を作り、「思里(愛しさを思う男性)」に首にかけてあげたい〕 赤糸(アカチュ)貫花(ヌチバナ)や 里(サトゥ)にうちはきてぃ 白糸(シルチュ)貫花(ヌチバナ)や ゆいり 童(ワラビ)〔赤糸で作った貫花は、愛しい人の首にかけてあげます、白糸で作った貫花は、子供達にあげますよ〕
2005年01月15日
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近代の琉球舞踊 故郷を遠く離れて、どこに住んでいても、心はいつも故郷に向かっている。 衣装は、紺地のかすり「ウシンチー(帯なしの着付け)」・頭は、ウチナー髪にあげ、銀のかんざし・紫の長鉢巻きを後ろ結び、長く垂らす・白足袋。 舞踊として創作は、「明治20年頃」 「浜千鳥節」(二揚)1、旅や浜宿(ハマヤド)い 草(クサ)ぬ ヤレ 寝(二)てん 忘(ワシ)ららん 我親(ワヤ)ぬ ヤレ 我親(ワヤ)ぬ 御側(ウスバ) 千鳥(チヂュ)や 浜(ハマ)をて チュイチュイな 〔旅は浜に宿り、草の葉を枕に寝ているが、寝ても忘れられないのは、親の側で暮らした事である〕2、旅宿(タビヤド)ぬ 寝覚(ネサ)み 枕(マクラ)側立(スバタ)てて 思(ウ)び 出(ヂャ)すさ 昔(ンカシ) 夜半(ユワ)ぬ 辛(チラ)さ 千鳥(チヂュ)や 浜(ハマ)をて チュイチュイな 〔旅宿の夜半、目が覚めて枕元でそばだてていると、昔の事が思い出されて辛くなる〕3、渡海(トケ)や 隔(ヒ)ぢゃみてん 照(テイ)る 月(チチ)や 一(ヒト)ち 彼処(アマ)ん 眺(ナガ)みゆら 今宵(キユ)ぬ 空(スラ)や 千鳥(チヂュ)や 浜(ハマ)をて チュイチュイな 〔海を遠く隔てていても、照る月は一つである、あの方も眺めているだろうか、今宵の月を〕4、柴木(シバキ)植(イイ)て 置(ウ)かば しばしば といもり 真竹(マタキ)植(イイ)て 置(ウ)かば 又んいもれ 忍(シヌ)ば 千鳥(チヂュ)や 浜(ハマ)をて チュイチュイな 〔柴木(シバキ)を植えて置きますから、しばしば来てください、真竹(マタキ)を植えて置きますから、又来て、いらっしゃってください〕
2005年01月14日
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「花風(はなふう)」は、「花風節」と「下出し述懐節(しゅつくぇーふし)」を組み合わせており、「花風節」は(本調子)・「下出し述懐節(しゅつくぇーふし)」は、(二揚)。 港から少し離れた三重城に登り、遊女が情け深く染めた人の船旅立ちを、人知れず見送る心情を踊っています。 紺地の着物を「ウシンチー(外帯なしで、内ヒモに着物を捻じ込む着方)」・紺地の傘・花染めの「テサージ(手ぬぐい)」 悲しみを包み込み、寂しさを懐に擁き、抑えても寂しさが匂い立ちながらも、花染めテサージを振り・紺地傘をそっと振る。 本調子から「下出し述懐節(しゅつくぇーふし)」(二揚)に三線を調律(ちんだみ)する中絃を爪弾く(テーン)が上がる時、聞き手は言い様のない寂しさ・悲しさを感じる事ができます。 昔の生活様式がこもった踊り。 花風 「花風(はなふう)節」(本調子) 三重城(ミグシク)に登(ヌブ)て 手巾(ティサジ)持上(ムチヤ)ぎりば 走船(ハヤフニ)ぬなれや 一目(チュミ)ど見(ミ)ゆる〔三重城に登って、別れの手巾を打ち振っていたら、船足が速く一瞬しか見えないのです〕 「下出し述懐節(しゅつくぇーふし)」(二揚) 朝夕(アサユ)さん御側(ウスバ) 拝(ヲガ)みなりすみて 里(サト)や旅(タビ)しみて いちゃし待(マ)ちゅが〔朝夕いつもお側に寄り添っていた方を旅だたせて、私はどの様にしてお待ちすればいいのでしょう〕
2005年01月13日
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沖縄県 恩納村 谷茶の浜を舞台に漁村の若者達の踊りです。 沖縄の漁業では、男が捕った魚を女が仲買して金を払い、女達が頭にバーキ(竹カゴ)をのせて他の村へ魚を売り歩く。 仲買制度が確立しており、大変スムーズに売買が行われていた。 女達が、魚を売り歩き帰って来る頃には、全身魚の匂いがする。 しかし、この匂いは、男達の母の匂いでもあり、愛する女の匂いでもある。 スルルは、「きびなご」 ミヅンは、「ニシン科の小魚」 「谷茶前(タンチャメー)節」(一・二揚)(三下げ)1、谷茶前(タンチャメ)ぬ 浜に スルル小(グヮ)が 寄(ユ)ててんどぅ ヘイ ナンチャ ムサムサ デアン小(グヮ) ソイソイ 〔 谷茶前の浜に、スルル(きびなご)が押し寄せてくるぞ〕2、スルル小(グヮ)や あらん 大和(ヤマト)ミヅンど やんてんどぅ へい ナンチャ ムサムサ デアン小(グヮ) ソイソイ 〔スルルじゃない、大和ミヅン(ニシン科の小魚)だってよ〕3、阿兄達(アフイター)や 売(ウ)り取(ト)いが アン小(グヮ)や カミティ うり売(ウ)いが ヘイ ナンチャ ムサムサ デアン小(グヮ) ソイソイ 〔青年達(アフイター)は、これを捕りに、娘達(アン小)は、頭の上にのせて、これを売りに〕4、うり売(ウ)て 戻(ムド)いぬ アン小(グヮ)が 匂(ニヲ)い匂(ニヲ)いぬ 美(シュ)らさ ヘイ ナンチャ ムサムサ デアン小(グヮ) ソイソイ 〔これを売って、戻ってきた時の娘達の、匂いの匂いの色っぽさよ〕 舞踊の組曲では、「伊計離(イチハナリ)節」と組み合わせます。
2005年01月12日
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「家庭和合(キナイワゴウ)」(本調子) 作詞・作曲 棚原玄正1、夜(ユ)や明(ア)きどぅさまズ親(ウヤ)よ 起(ウ)きさまち 我(バン)が親(ウヤ) 朝(アサ)ぬ茶花(チャバナ)浮(ウ)きてぃ 眠覚(ミスウリ)さまち 我(バン)が母(アンナ) 今日(キュウ)ぬ 一日(ピイトウずア) 朝(アサ)ぬ 茶(チャ)から 〔夜が明けて朝ですよお父さん、起きて下さいお父さん、朝の美味しいお茶も出来上がりました、お目覚め下さいお母さん、今日は美味しいお茶もお召しになって良い事がありますように〕2、肝美(キムカギ)さ 我(バン)が嫁(ユミ)よ 香(カバ)す茶や嫁(ユミ)ぬ肝(ぎム) 家庭(キナイ)ぬ 栄(サカイ)や 嫁(ユミ)どぅ とぅゆましみしる 我(バン)が嫁(ユミ) 親(ウヤ)ぬ孝行(コウコウ)や 貴女(ウワ)がむていさい 〔心優しい私の嫁よ、香り豊かなお茶は嫁の真心よ、家庭の円満は貴女の力で、手本を示しましょう、私の嫁よ、親孝行する事は貴女の未来の為よ〕3、夜明前(アキシャル)ぬ 眠覚(ミスウ)り 頃(パナ)よ 朝(ストウムティ)ぬ 眠覚(ミスウ)り 美(カギ)さ 幸(ユカ)ズ家庭(キナイ)や 和合(ワゴウ)ど 笑(アマ)いとぅ笑(バラ)いとぅ 我達(バンタ)や 楽(ユカラ)でい 貴男(ウワ)とぅ 私(バン)とぅや 肝(ぎイム)ぬ 底(スウク)がみ 〔明方の目覚める時よ、起きるのがとても気持ちが良いよ、幸せな家庭は和合の中に、笑いで私達は幸せです、貴方と私の喜びは心の底から〕 朝の一杯のお茶を入れ、義父・義母を起こし、家族みんなで笑い合い、朝のひとときを過ごす。 テレビが邪魔をする。 ニュース報道が頻繁にあり、心穏やかには過ごせない。 こんな朝に、家庭和合はあるのだろうか。 生活様式を変えねば。
2005年01月11日
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男女のかけあい歌で色っぽい歌です。 「西武門(ニシンジョウ)節」 元歌/ヨーテー節1、いちゃんどうや かなし まちみそうりさとめ にしんじょうぬいえだや うとぅむさびら (囃し)ヨーテ 〔行くよ、愛し(愛しい人)、待ってください、里前(さとめ)西武門までの間は、お供しましょう〕2、かたすでぃやくんじ かたすでぃやあさじよ いちがむるすみぬ くんじちゆら ヨーテ 〔片袖は紺地、片袖は浅地、いつになったら全染めの、紺地が着れるのですか〕3、うむいばぬちぎり かわりねんぐとぅによ すみてぃくいらんぞうよ くんじいろに ヨーテ 〔思い葉の契り(約束は)、変わらないよ、染めてあげるぞ無蔵(んぞう)よ、紺地色に〕4、すみゆらばさとめ くがらしぬぐとぅによ あさじどんやれば ゆるちたぼり ヨーテ 〔染めるなら里前、カラスの様な黒色のように、してください、浅地だったら、その契りは無かった事にしておくれ〕 5、きゆやすいぬぶてぃ いちやめーがさとめ うむかじとぅちりてぃ しぬでちゅさ んぞよ ヨーテ 〔今日は首里に登って、何時いらっしゃいますか、里前。面影をいだきながら、忍んでくるぞ、無蔵よ〕 6、またいめーねさとめ くるまぬてぃ いもりよ わんやにしんじょうに うまちさびら ヨーテ 〔又、いらっしゃる時には里前、車でいらっしゃい、私は西武門で、お待ちしております〕7、さびしさや ひちゅい わんねむどてぃいちゅいよ んぞや やどむどぅてぃ はなぬあしび ヨーテ 〔淋しさは一人、私は戻っていきます、無蔵は、宿に戻って(遊郭に)花の遊び〕 沖縄民謡では、「かなし=愛しい」 「無蔵=んぞ(思いをよせる女)」 「里前=さとめ(思いをよせる男)」の意味です。 染めの浅い「浅地の着物」は、「お妾さん(二号さん)」 染めの濃い「紺地の着物(カラス色)」は、「本妻さん」 の意味です。
2005年01月10日
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元々、伊江島の民謡でゆっくりとした歌だった。 毛遊びや宴の席で歌われる様になり、ハイテンポ・コミックソング的囃子で、広く歌われるようになる。 「チンボーラー」は、先の尖った巻貝。 素足で踏むと怪我をする。 歌詞の中で、「色街(遊郭街)に通い過ぎると怪我をするよ」と、警告をしているが、流行り出したのが色街通いの若衆。 ちょっとエッチな歌詞だが、子供の運動会で「親達」が踊っている。 この歌の庶民的な雰囲気が漂う。 「海ぬチンボーラー」1、海ぬ チンボーラーが 逆(サカ)なやい 立てば 足(ヒサ)ぬ 先々(サチザチ)危(アブ)なさや したくぬ 悪(ワッ)さや すばなりなり サー 浮世(ウチユ)ぬ真ん中 どさどさどっさい シマヌ ヘイヘイ ヘイヘイ 〔1.海の巻貝が 逆さに立ったら、足の先々に注意しなさい(刺さるよの意)(囃し)〔支度の悪さは すばなりなりさー 浮世の真ん中 じさじさ実際 島の ヘイヘイ ヘイヘイ〕2、海ぬ さし草(グサ)や あん美(チュ)らさ なびく 我身(ワミ)ん里前(サトメ)と うちなびく すばなりなり サー 浮世(ウチユ)ぬ真ん中 どさどさどっさい シマヌ ヘイヘイ ヘイヘイ 〔海の中の海草は 綺麗になびいている、我が身は里前(さとめ)に、なびくよ〕3、海ぬ チンボーラーぐゎー 恋(クイ)する夜(ユル)や 辻(チジ)ぬ アン小(グヮ)たん 恋(クイ)すらど サー 浮世(ウチユ)ぬ真ん中 どさどさどっさい シマヌ ヘイヘイ ヘイヘイ 〔海の巻貝が 恋する夜は、辻(遊郭)の娘達も、恋するよ〕4、辻(チジ)や インドー豆(マーミー) 仲島(ナカシマ)や 豆腐豆(マーミー) 恋(クイ)し 渡地(ワタンジ) いふく豆(マーミー) サー 浮世(ウチユ)ぬ真ん中 どさどさどっさい シマヌ ヘイヘイ ヘイヘイ 〔辻はエンドウ豆 仲島(遊郭)は豆腐豆、恋しい渡地(遊郭)は、いんげん豆〕5、辻(チジ)ぬ インドー豆(マーミー) かでぃんちゃんなー二才達(二ーセーター) かでぃやんちゃしが 味やうびらん かーぎぬ悪(ワ)っさや 取って投ぎ投ぎ サー 浮世(ウチユ)ぬ真ん中 どさどさどっさい シマヌ ヘイヘイ ヘイヘイ 〔辻のエンドウ豆を、食べてみたか?二才達(青年達)よ、食べてみたけど、味はわからなかった、容姿の悪い者は、取って投げよう〕 沖縄には昔、遊郭がありました。辻(ツジ)仲島(ナカシマ)渡地(ワタンジ)の三つが有名です。 里前(さとめ=想う男)
2005年01月09日
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幼児語 子山羊 「べーべー」 牛 「うーしーもーもー」 母親 「あんまー」 うぐいす「ちょっちょー」 ひばり 「ちんちなー」 月・仏壇「とーとーめー」 子供が用をたして、お尻を拭いてもらう時「はい、もーもーしぇ」(牛のようにお尻を出して)などなど 「いったーあんまー まーかいがー」1、いったー あんまー まーかいが べーべーぬ 草かいが べーべーぬ まさぐさや 畑(ハル)ぬ 若ミンナ 〔あなたの お母さんは どこへ行くの?子山羊の草を刈りに、子山羊の美味しい草は、畑の若ミンナ(るりハコベ)〕2、いったー あんまー まーかいが モー小(グヮ)ぬ 草かいが モー小(グヮ)ぬ まさぐさや 畑(ハル)ぬ 若カンダ 〔あなたの お母さんは どこへ行くの?牛の草を刈りに、牛の美味しい草は、畑の若カンダ(かずら)〕
2005年01月08日
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「ナークニー」「ジントヨー」と並ぶ (毛遊び歌)の主役であった「加那よ節」も、「月ぬ夜節」や「汀間当節」と同じ「雑踊」として組み込まれ舞台で踊り中心の創作舞踊となる。 「雑踊」は、1883年(明治16年)芸能保持者によって始まった芝居で、各地の歌に振りを付けた創作舞踊である。 「加那よ節」は、近代舞踊の祖「玉城盛重」の名作で「島尻天川節」と組み合わせて演じる。 「加那よ節」(一・二揚)(三下げ) 1、加那よ 面影(ウムカジ)ぬ立てばよ 加那よ 宿(ヤド)ぬ居(ヲ)らりらぬ ハルヨンゾヨ 加那よ シイシ 〔加那よ(愛しい人よ)姿を思い出すと、宿には居られない(居ても立ってもいられない)〕2、でちゃよ押(ウ)し 連(チ)りてよ 加那よ 遊(アシ)で 忘(ワシ)ら ハルヨンゾヨ 加那よ シイシ 〔さあ、貴方と一緒に愛しい人よ、遊んで忘れよう〕3、加那よ 貫木家(ヌチヂヤー)ぬ 離家(アサギ)よ 加那よ 手拭(ティサジ)布(ヌヌ)立てて ハルヨンゾヨ 加那よ シイシ 〔屋敷の離れに、手ぬぐいを織る機を置き、愛しい人の為に、私に逢いに来てくれる時に手渡したい〕4、我(ワ)が思(ウム)る 里によ 加那よ 情(ナサキ)呉(クイ)らな ハルヨンゾヨ 加那よ シイシ 〔私の想いを寄せる(里・里前・サトメは、男性・彼氏の意)愛しい人よ、(情け・愛)を下さい〕5、加那よ 情(ナサキ)呉(クイ)るびけいよ 加那よ 手拭(ティサジ)呉(クイ)てぬすが ハルヨンゾヨ 加那よ シイシ 〔愛しい人よ、(情け・愛)ほしいのに、愛しい人よ、なぜ手ぬぐいをくれて、どうしようと言うのか〕6、腰(カマク)くんしみるよ 加那よ ミンサ 呉(クイ)らな ハルヨンゾヨ イメーヌカージ ハリヨフニ ハルヨンゾヨ 加那よ シイシ 〔では、腰に締める、貴方の為にミンサー柄の帯を差し上げましょう〕7、加那よ 遊(アシ)で忘(ワシ)らりみよ 加那よ 踊(ヲド)て忘(ワシ)らりみ ハルヨンゾヨ 遊(アシ)ばな 今日(チユウ)や ハルヨンゾヨ 加那よ シイシ 〔愛しい人よ、遊んで忘れる事が出来ようか、愛しい人よ、踊って忘れる事が出来ようか〕(囃子では、さあ今日は遊びなさいと周りからたきつけている)8、思(ウム)勝(マサ)て 行(イ)ちゅさよ 加那よ ありが情(ナサキ) でひゃあん小(グヮ) とんけーれ ハルヨンゾヨ 加那よ シイシ 〔思勝て(名残惜しい)が帰ります、愛しい人の愛が欲しいだけでした、貴方の愛が欲しかった〕(お姉さん、せめて振り向いて) 二人の間に、囃し立てる仲間がいて、歌の成立が難しい。
2005年01月07日
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察度王時代、那覇久米村に移住した中国人たちが中国の「元尚祭」にならって正月十五日に飾灯篭を作って祝った。 後に、神仏に供える十六日の灯篭祭となり、そのなごりが今の十六日祭と言われる。 琉球王国時代、正月一日から十五日まで諸役人は場内の行事を行う為帰郷できず、十六日に臣下に父母への年頭あいさつの暇を与え帰郷させた。〔内地の薮入りのようなもの〕 ところが、ある臣下が家に帰ると両親は他界しており、墓参りして年頭の辞を墓前で述べたのがその始まりとも言う。 十六日祭の準備墓掃除草取り砂運び花生用竹筒作り紙銭(ウチンガビ)の型打ち〔盆と正月のお参りに紙銭を焼いて先祖の霊にお供えする〕料理の準備〔米・麦・豆類は夏から夏から蓄える。肉魚類は正月から準備。料理作りは二日前から準備〕 賑やかな墓参り 墓の庭にムシロを敷き、天幕を張り、墓前に供え物を飾り、家族一同焼香する。 焼香が済めば、お酒と肴をまわして、各自好みの物を食べながら、三線を弾いたりして一日中楽しむ。 各家族ごと揃って、日暮れ頃帰宅するので、道路は行列の様になる。 八重山では、この行事が年中行事のなかでも盛大な祭事。 沖縄独特の行事といえる。 豆腐は最低5~6kgを一箱単位で買い求め、盛大な宴会には欠かせない物。 厚揚げなど各自の家庭で作り、炒め物や煮付けに使います。
2005年01月06日
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正月4日に行う火の神かまどの清掃 朝早く火の神のかまどの清掃をする。 台所を綺麗に掃き清め、潮水で火の神の石神体を洗う。 七サイヌパナ〔波が寄せる度に、一掴み毎砂を取り、それを七回繰り返し、掴み取った砂を火の神の石神体の下に敷き詰め清めの所作とする〕 火の神を迎えて、年頭の行事とする。 火の神年頭の供え物1、洗米一対2、お酒一対3、スリミシャグ〔生米を水に漬けて摺って白水〕一対4、生花一対5、茶道一対6、燈明一対7、ちかんばな〔粒よりの米〕5勺程8、クバン一対 〔クバンとは、神祭に供える料理名で「一汁一菜」の菜にあたる。火神祭には、カラビーリと言う料理(牛肉・牛肝を水煮するか蒸す・適当に切り分け、バガピン(にんにくの茎)と塩を一つの皿に並べて盛った物〕 クバンは、お供えの時に使う名前で、酒の肴や食膳に出る時は、カラビーリと言う料理名で言う。 尚、カラビーリは、豚で作る時は人が食べる時で、お供え物には豚は使わない禁物とされる。
2005年01月05日
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宮古島の代表的祝い唄 新年・婚礼・新築祝いなど、宴席の幕開けに歌われる。 祝宴の際、主人と客との間で盃の酌み交わしをしながら歌う事が昔からの慣わしとされている。 「トーガニーあやぐ」(二揚)1、大世(ウプユ)照(ティ)らし居(ウ)ズ 太陽(マテイダ)だき 国(クニ)ぬ国々 島(スマ)ぬ島々 照(ティ)り上(アガ)り覆(ウスウ)いヨー 我(バ)がやぐみ 御主(ウシウ)が世(ユ)や 根岩(ニビシ)どうだらヨー 〔この世をくまなく照らしている、太陽の如く、大国や小さな島々まで、照り上がる太陽の事、我々の偉大な統治者の治世は、根をはる巌(いわお)の様だ〕2、春ぬ梯梧(デイグ)ぬ 花(パナ)ぬ如(ニヤ)ん 宮古(ミャーク)ぬ あやぐや すうに島(ズマ)糸音(イチュニ)ぬ あてぃかぎかりゃヨー 親国(ウヤグニ)がみまい 下島(スムズマ)がみまい とぅゆましみゅでいヨー 〔春先に咲き香るデイゴの花の様に、宮古のこの歌は、糸をひく様な、あまりにも良い歌なので、本国から世界の小さな島々まで轟かそう〕3、十四日(トウカユウカ)ぬ お月(ウツギ)だき 十五日(ジウグニツ)ぬゆ お月(ウツギ)ぬ如(ニヤ)んヨー 上(アガ)ズかぎ 昇(ヌユ)ズかぎ 我達(バンタ)が国(クニ)ヨー 〔十四日のお月の様に、十五日のお月様のように、昇り来る美しいお月様は私達の国から〕 宮古人からは、この歌を「宮古の君が世」と称する。 声高く歌う「揚歌」であり、意味よりも歌声のメロディーが気持ち良い歌。 ただ、発音がかなり難しく例えば 「お月(ウツギ)」の「ぎ」は、本当は「き」に「。」が付く 「上(アガ)ずかぎぬ」の「ず」は、「す」に「。」が付く 「ま」に「。」が付いたりします。 発音的には濁音扱いですが、実際には少し違います。
2005年01月04日
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昔は旧暦の正月であったが、明治中期頃から公務員の家庭で新暦正月が始まる。 次第に普通民家に及び、大正末期には石垣市では沖縄本島の寄留民の一部を除く殆ど全体的に新正月をするようになる。 昭和10年頃から、各地方離島も一般寄留民も、新正月に改善される様になる。 現在の一般家庭での正月飾りと変わらなくなる。〔門松〕 旧正月では、 三つ盛砂の松飾り(高さ40センチの砂盛を三つ作り、40センチの若松の枝を一本づつさして門松飾りにする) 聯(れん)門柱に貼る紙の札(文字は、「五雲迎暁日」と「万福集新春」) 新正月では、 門口日の丸・松竹を門の両側に立てる〔床の間〕 旧正月では、 花米(ハナングミ)餐立(コーダテ)28個で囲み、七回洗った米の上に、大きな黄色煎餅を二枚立てその間に橙(だいだい)・昆布・木炭をのせる(昆布は筒状にし、木炭は丸い物を選び紅白の紙をまく) 〔黄色の煎餅は、太陽と月の象徴 餐立(コーダテ)28光は、28星座の象徴 花米(白米)は、白砂で(島・陸)を象徴 橙は、代々末永く栄えるようにと祈る意 昆布は、筒状に丸め紅白の紙で帯の様に飾りつけ、「よろこぶ」が幾重にも重なりますようにの意(海の幸) 木炭は、紅白の紙で飾りつけ、食物を煮る大事な火種用で「たん」と幸福が来ますようにの意(山の幸)〕 餅飾り(カザリムチ)三方に黄・赤・白の紙を敷き三つ重ねの餅をのせる 〔黄色紙は、綿衣(ワタジン)上着の意 赤色紙は、長襦袢(赤スディナ)の意 白色紙は、肌着の意 と言う説と昔の冠位の順位の象徴とも言う〕 新正月では、 二段重ねの鏡餅を白紙にのせ、昆布・ウラジロ・みかんをあしらた飾り餅(花米飾りは廃止) 〔一組の鏡餅は、太陽と月を表し天地を示し、家の柱石である夫婦を象徴 裏白(ウラジロ)は、葉が繁るので豊穣を表し、シダ類は齢(よわい)を重ねるを示し、縁起を意味する ゆずり葉は、新芽が出てから、古葉が落ちるので相続人が成長するようにの意 海老は、ヒゲ長く腰が曲がるまで長寿の意〕 つまり、天地自然を表し、山海の幸を揃えて祝う
2005年01月03日
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八重山諸島・黒島では、正月に綱引き行事があり「正月ユンタ」として五穀豊穣を祈願し、各家庭を門廻りしながら歌う。 その「正月ユンタ」を改作して「黒島節」として歌われる様になる。 今年の旧正月は、2月9日です。 「黒島節」(本調子)1、我(バ)が 島(スィマ)ぬ 上(ウイ)なか 此(ク)ぬ 島(スィマ)ぬ 上(ウイ)なか ウヤキ ユバナヲレ スリ ユバナヲレ 「サースリ ユバナヲレ」 〔我が黒島の上には常に、この島の上にはいつも〕2、弥勒世(ミルクユ)ば 給(タボ)られ 神(カン)ぬ 世(ユ)ば 給(タボ)られ ウヤキ ユバナヲレ スリ ユバナヲレ 「サースリ ユバナヲレ」 〔神話時代からの泰平の世、豊作の世を給われ、神話時代の五穀豊穣の世を給われ〕3、今年世(クトゥスィユ)ば なをらし 来夏世(クナツィユ)ば みきらし ウヤキ ユバナヲレ スリ ユバナヲレ 「サースリ ユバナヲレ」 〔今年は豊作でしたが、来る年の夏も実り豊かな年であります様に〕4、願(ニゴ)うだ むてぃ 給(タボ)られ 手(ティ)ずるむてぃ 給(タボ)られ ウヤキ ユバナヲレ スリ ユバナヲレ 「サースリ ユバナヲレ」 〔願った甲斐あって豊作に給われ、手を合せてお願いした甲斐あって豊作に給われた〕5、今年世(クトゥスィユ)や 勝(マサ)らし 来年(エン)ぬ 世(ユ)や ゆくだら ウヤキ ユバナヲレ スリ ユバナヲレ 「サースリ ユバナヲレ」 〔今年の世は豊作であった、来る年も より以上に豊かな年でありますように〕 感謝と願いの歌 八重山諸島・竹富町・黒島の歌 「読み人知らず」
2005年01月02日
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「嘉利吉(かりゆし)」とは、御目出度い・縁起の良いを意味します。 この唄では、船の同義語に用いられています。 公用船「マーラン船」や「地船」を指します。 「嘉利吉(かりゆし)節」(本調子)1、嘉利吉(カリユシ)舟(フニ)ぬ 今日(キユ)出(イ)でぃ ヤゥ ひゃんさ 飛(トゥビ)ゆる 如(グトゥ)に 走(ハ)ゆる 嬉(ウリ)しゃ 〔公用船の今日の出帆は、軽く空を飛ぶ様な走りで嬉しい事よ〕2、嘉利吉(カリユシ)舟(フニ)や 飛(トゥ)び 出(イ)でぃてぃ 後(アト)見(ミ)りば 美風(ミカジ) 押(ウ)しゅる 如(グトゥ) 嬉(ウリ)しゃ 〔公用船は、飛び出る様に出帆して、後を見れば(美風・追い風)を受けて走る事の嬉しさよ〕3、嘉利吉(カリユシ)道(ミツィ)に 絹(イチュ)はゆてぃ 絹(イチュ)ぬ上(ウイ)から 走(ハ)ゆる事(クトゥ)ぬ 嬉(ウリ)しゃ 〔公用船の航海は、絹を敷き詰めたような凪(ナギ)で安全に走る嬉しさよ〕 皆様、今年一年 美風(ミカジ)を受けて順風満帆で、凪(なぎ)の様な航海を祈願します。 本年も、宜しくお願いします。
2005年01月01日
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