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1746年「登野城里喜」は、大山在番の指揮を仰ぎつつ、松の造林を焼き払った。 翌年、大山在番は死去。代わりに、牧志在番が新在番として赴任してきた。 松の造林の焼き払いの、事情を知らない牧志在番は、「水源を断ち、ひいては人頭税納税に、一大支障を来たす恐れがある。」と、首里王府に報告し、八重山最大の大疑獄事件となる。 諸所の役人を片っ端から、罰を与え、「登野城里喜」も例外なく裁かれ、「1748年」粟国島に終身流刑を命ぜられたが、翌年、事件の真相が判明、久米島に減刑、12年目に赦免「1759年12月付」翌年、無事石垣島・登野城に帰省。 事件勃発から、十数年、無実を訴え「冤罪である」と、告げその思いがこの歌を作る。1、うら頼(タヌ)ま 南風(ハイカジ)ヤゥ 事い付(クトゥいツィキ) くいるけ 大石垣(ウフイシャグィ) ※、主島(アルズィスィマ) 吹き通(トゥ)し ヤゥ ハイ 吹き通し ヤゥ2、親(ウヤ)とーらん 推察して(スィサリティ) 主とーらん すぃさりてぃ 拝(ウ)がん 欲(ブ)しゃ うら くぃらさ あるぃとぅし あるぃ通(トゥ)し3、例(タトゥ)りばん 物(ムヌ)ねぬ 比(クラ)びりば 事(クトゥ)ねぬ 肝(クィム)堪(耐)える 胸煙(ムニキブルィ) 立つぃ通し 立つぃ通し4、くかる てぃる 鳥(トゥルィ)ゆだみ 口(フツィ)太(フタ)すぃ 鳥(トゥルィ)ゆだみ うるぃずぃんば 若夏(バガナツィ)ば 定めょうる5、鳥(トゥルィ)はだん 見らりてぃ あらり声(クイ)ん 聞(スィ)かりてぃ うり ゆだみ 鳥(トゥルィ)ゆだみ 賢(カスィ)くーさ 遠い故郷の八重山に居る父母兄弟に「私は冤罪だ。無実だと伝えておくれ」の叫びを込めて、(吹き通し・伝え伝えてほしい) 「くかる てぃる 鳥」は、アカショウビン 「鳥さえも季節を間違えずに訪れる賢さよ」(私のような不幸者はこの世に二人といないだろう。ああ断腸の思いだ。) 訳意 頼みましょう。南風よ(伝言を)大石垣島の御役人様へ吹き通しお伝えください。(八重山より北の粟国島・久米島に流刑の為) 母親に知らせてください。父親に心の悩みを告げてください。 両親を拝みたい心中を打ち明けたい。「うら」(心)の悲しさを打ち明ける日の、待ち遠しい事よ。 この逆境は、この不幸は比較する事が出来ない位、辛い事です。 心は耐えています。胸は焦げて煙が出るくらい辛い思いでいっぱいです。 くちばしの太いアカショウビンでさえも、「若夏」の季節を忘れずに決まって飛来するのに。 鳥の姿も見え、際立つ声も聞こえてくるのに、帰る事が出来ないこの辛さよ。
2004年10月31日
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「かいしゃ」とは、八重山方言で「美しい」。沖縄本島方言では、「ちゅら」。 月にまつわる歌は、八重山には数多くあるが、「あがろーざ節」と共に、代表的な子守唄。 歌詞は7番まであるが、順番の統一はない。ゆったりメロディーで、睡魔を誘う。読み人知らず。 1、月(ツィクィ)ぬ かいしゃ 十日三日(トゥカミーカ) 女童(ミヤラビ) かいしゃ 十七(トゥナナ)つぃ※、ホーイ チョーガ2、東(アー)るぃから あーりおる 大月(ウフツィクィ)ぬ 夜(ユ) 沖縄(ウクィナ)ん 八重山(ヤイマ)ん 照(ティ)らしょうり3、あんだぎなーぬ 月(ツィク)いぬ 夜(ユ)我(バガ)ーけら 遊(アサ)びょうら4、寺(ティラ)ぬ 大札(ウフフダ)んが 絹花(イチュパナ) 黄金花(クガニパナ) 咲(サ)かりょうり5、ビラーマぬ 家(ヤー)ぬ 東(ア)んたんが ムリク花(パナ)ぬ 咲(サ)かりょうり うり取(トゥ)るぃ 彼(カ)り取(トゥ)るぃ なつぃきばし ビラーマぬ家(ヤ)ぬ花(パナ)ぶんな6、女童(ミヤラビ)家(ヤー)ぬ 門(ゾー)なんが 花染手布(ハナズミティサジ)ば きり落(ウトゥ)し うり取(トゥ)るぃ 彼(カ)り取(トゥ)るぃ なつぃきばし 女童(ミヤラビ)家(ヤー)ゆ 見舞いす7、釜戸(カマドゥ)ぬ 縁(フツィ)ぬ アッピァーマ 何が(ノードゥ)何が(ノードゥ)旨い(ンマサール) 煙草(タバク)ぬ 下葉(スィタバ)どぅ んまさーる 茶飲(ヌ)みばーやんがさぬ 「ビラーマ・ビラマ」は、平民階級の女性から士族の青年に対する尊敬語。 「釜戸の縁に居るアッピァーマ」は、アッピァーマは姥(うば)釜戸の縁は、蔵元(行政官庁)入り口に居る「勘定座」の下級役人。 「煙草の下葉」は、下級役人を意味し、人頭税の水増し計算をして、着服や汚職ができる立場を、「おいしい」と表現。 「お茶葉の先端の上質葉と煙草の葉の先端部を置き換えて」上は苦くて飲めない。(上質だが、馴染めない) 訳意 月が一番美しいのは、10~13夜(15夜の手前) 乙女達が美しいのは、十七歳頃。 東から夜明かりをもたらしてくれる大月よ、沖縄も八重山も限りなく照らしてください。(沖縄も八重山も同等に扱ってください) あれ程美しい月夜の晩だ、若者達よ語り遊びましょう。 お寺の大札(お守り札)よ、子供達に夢と希望を与えてください 士族青年の家の東の庭に「ムリク花)が咲き誇っている。 あれ取り、彼取り、花折りを口実に、恋男を見てこよう。 乙女の家の門の側に、花染めの手ぬぐいを切り落とし、あれ取りを口実に、乙女の家を忍んで、お顔拝見。 釜戸の縁に居る姥よ、何が一番美味しいですか。 煙草の下葉は大変美味しいが、茶飲みの上の葉は苦くて飲めない。 子供に聞かす子守唄にしては、過激かと・・・。
2004年10月30日
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石垣島・宮良川に最初に橋が架かったのが「1658年」。その後、幾度も崩れ、修理の繰り返しだった。 江戸時代の末期になって、宮良川に大橋を架けようと、当時流罪人「仲尾次政隆」。 彼は京都「中村宇兵衛」の子孫で、沖縄・今帰仁間切中城の地頭職の時、琉球王庁の御禁制の「浄土真宗の信徒」で有った為、 八重山・真栄里村に無期流罪されていた。 「1860年」政隆は、宮良川架橋を王府に請願しており、許可を得ていた。又、一方島人達と蔵元の役人は、政隆の赦免申請書を王府に提出し、是により「1864年」に赦免が令達された。 宮良川架橋落成式と、政隆の赦免祝賀会が開催され、その席で、政隆の高徳を称えて「宮良川節」が作られた。が、作者不明 宮良川節(ミヤラガワ節)1、仲尾次主(ナコーシシュ)ぬ 御蔭(ウカギ)に 宮良大川(ミヤラウフガワ)や 宝橋(タカラバシ)かきてぃ 見事(ミグトゥ)でむぬ※、テンヤゥ テンヤゥ シトゥルトゥ テン2、宝橋 上(ウイ)から通(カユ)人々(フィトゥビトゥ)や 目眉(ミマユ) 打ち晴りてぃ 笑いふくい3、橋ぬ 陰徳(イントゥク)や 百果報(ムムガフ)どぅ みせるながらやい給(タボ)り 幾世(イツィユ)までぃん 訳意 仲尾次様の御蔭で、宮良大川橋も完成開通した、見事な出来栄えである。 橋の開通によって人々は、豊かな表情・幸福そのもの。 橋の陰徳は、五穀豊穣・繁栄・長寿を、幾世までも続けてください。 泡盛・みやのつる・石垣北部の産・30度ラベルがかわいい。 琉球王府の役人が、浄土真宗信徒であるならば、禁制の為、無期流罪で八重山に流される。 だが、地元の為に功績を上げ、赦免になる。 「仲尾次 政隆」は、人徳・高徳な人柄だったのか。 その7年後には、廃藩置県「1871年」があり、琉球王府が沖縄県になる。「1892年」宮古の農民が(人頭税廃止運動)を起す。「1903年」人頭税廃止し、日本本土と同様の地租条例が実施される。 琉球王府解体から実に、32年経っての悪税廃止。なぜ、32年もの間、上納し続けたのか? 明治政府発足時の関係藩のいきさつか? それとも、流罪先になっていた八重山諸島・宮古を見放して考えていたのか?
2004年10月29日
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1、日元(ヒムトゥ)ぬ 下(サガ)りば 木戸(キドゥ)に立(タ)ちゆだちぬ 上(アガ)りば 辻(チジ)に立(タチ)ち我(ワ)親(ウヤ)待(マ)てぃどぅむ 待ち 兼(カ)にてぃ2、アサギぬ浜までぃ 参りどぅむ サルカキ山ば 押(ウ)しわきてぃ 青ヒゲ(ヒギ) 生(ム)いたる 墓じるし3、其(ス)ぬ夜(ユ)は 墓屋(ハカヤ)に 宿(ヤドゥ)ばとぅり其(ス)ぬ夜(ユ)ぬ 夜中(ユナカ) 夢(ユミ)拝(ウガ)でぃ 二人(タイ)ぬ 親(ウヤ)ぬ 拝(ウガ)まりてぃ4、飛起てぃ(トゥブギティ) 探(サグ)りば 父もなし 寝(二)ざまに 探(サグ)りば 母(ファファ)もなし 父呼(ユ)び 母(ファファ)呼(ユ)び 声(クイ)すりば5、声(クイ)する 者(ムヌ)や 山ひびき 再び 物(ムヌ)に 空(ス)かされて 是(クリ)程(フドゥ) 浅(アサ)まし 事(クトゥ)はなし6、島ぬ浦々 参りどぅむ 国ぬ 様々(サマザマ)廻(ミグ)りどぅむ 我親(ワウヤ) 似た人(フィトゥ) 拝(ウガ)まらん7、其(ス)りから 宿(ヤドゥ)に立ち戻(ムドゥ)り 父御(チチグ)ぬ形見 取り広(ヒル)ぎ 母御(ファファグ)ぬ 手(ティ)ずぃかさ 取り並(ナミ)てぃ8、是見(クリミ)る 涙 ゆしまらん 諸袖(ムルスディ) 絞(シブ)りば 腕(ウデ)流し 見る人(フィトゥ)聞く人(フィトゥ) 哀(アワ)りがる 訳意 夕日が下がれば、門に立ち、夜空が上がれば、辻に立ち、わが親待てども、待ちかねて。 アサギの浜まで出て行って、サルカキ山を押し分け見ると、青苔(こけ)生えた墓標を見つけた。 その夜は、墓守小屋に宿借りて、その夜の夜中に夢を見て、両親の姿が見えたので。 飛び起き探れば、父もなし、寝覚めて探れば、母もなし、呼び叫んでみたが、山に響くだけ、再び物に空かされて、是程 浅ましい事はない。 島の浦々行っては見たが、国々廻り探してみたが、わが親に似た人は、会えなかった。 やむ終えず、我が家に立ち寄り、父上の形見を取り広げ、母上の手回り品を取り並べ、これ見て涙が止まらずに、諸袖を絞ると、腕にまで流れてきた、見る人聞く人、哀れに思う。 十七世紀初頭「南無阿弥陀仏」を琉球に広めようとした「袋中(たいちゅう)上人の布教より、 死に別れた愛しい実母に会いたいと、あの世の扉が開くこの7月に・・・「継親(ままうや)念仏」を、京太郎(チョンダラー)・念仏者(ニンブチャー)と呼ばれた、本土から来島した流浪僧侶や芸能者が作り出し、仏教の(盂蘭盆会)の法話が中心。 沖縄は、先祖崇拝が中心で、「無蔵念仏」が唄として残り、発展して現在のエイサーに使われる曲が、流行した。 内容が似てるのは、「仲順(チュンジュン)流り」などがある。
2004年10月28日
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まだ、エイサーと(京太郎)チョンダラーが同じに踊る事のなかった「1800年」 石垣島・登野城村の「宮良善勝」が、上原目差役職の時、公用で首里王庁へ出任の後、首里郊外の特別部落「アンニャ村」を訪れ、「京太郎」(チョンダラー)から、盆行事に歌う浄土宗の教えを説いた念仏を稽古して以来、この曲を改作・改曲し、発表したのが「八重山の無蔵念仏節」となる。 京太郎(チョンダラー)とは、「人形使い・カイライ師・マンザイ・アンジャ」とも呼ばれ、元々は京の都から、念仏(浄土宗)を広めるお坊さんであったが、役職が無く、正月に家々を廻り、お布施を頂いたり、葬儀の時、念仏を唱え、金品を得ていた。 首里郊外の特別部落に身を置く「いやしい民(賎民)」とされていた。 今では、エイサーには欠かせない、道化役であり、世話人であり、エイサー臣下のOBが務めるほどの、踊り役である。 八重山・無蔵念仏節(ンゾーニンブツィブシ)1、親(ウヤ)ぬ ヤゥ 御恩(ウグヌ)は 深きむぬ 父御(チチグ)ぬ 御恩(ウグヌ)は 山高(ヤマタカ)さ 母御(ファファグ)ぬ 御恩(ウグヌ)は 海深(ウミフカ)さ2、山(ヤマ)ぬ ヤゥ 高さやさ わかりん 海(ウミ)ぬ ヤゥ 深さんさ わかりる 昼や ヤゥ 父御(チチグ)ぬ 足が上(ウイ)3、扇子(オージ)ぬ ヤゥ 風(カジ)に ヤゥ あおがりてぃ夜(ユル)や ヤゥ 母御(ファファグ)ぬ 懐(フトゥクル)に十重(トゥヤイ)む 二十重(ハタイ)む 衣装が内(ウチ)4、濡(ヌ)りる ヤゥ 方(カタ)には 母(ファファ)ゆくてぃ 乾(カワ)く ヤゥ 方(カタ)には 子(クワ)寝(二)してぃ 諸共(ムルトゥム)濡(ヌ)りりば 胸(ムニ)が 上(ウイ)5、くり程(フドゥ)親(ウヤ)に ヤゥ 思(ウム)わりてぃ年(トゥシ)や ヤゥ 十二十歳(トゥハタチ)なゆりどぅむ 親(ウヤ)ぬ ヤゥ 御恩(ウグヌ)は 未(マ)だ知らん 訳意 親の御恩は深きもの、父上の御恩は山よりも高く、母上の御恩は海よりも深いものである。 山の高さは、測り知る事ができる、海の深さも測り知る事が出来る。昼は父上の脚の上で。 扇の風に、扇がれて、夜は母上の懐に、十重、二十重の衣装の内側に。 濡れた所には、母上が寝て、乾いた所には、子供を寝かせ、諸共に濡れると、母上の胸の上に寝かし。 これほど親に、大切に思われて、年は二十歳にもなっているが、親の御恩は、未だ知らない。
2004年10月27日
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引越しとは、村越・寄人とも呼ばれ、移民や移住の事。土地は肥沃で、とても良い場所だったが、マラリヤの猛威に、人口が増える事が無く、繁栄しなかった。 そこで「1686年」名蔵川口北方の高台に移転計画を建てた。がしかし、そこでもマラリヤの猛威に遭い繁栄はしなかった。 「引越(ヒック)し節」1、名蔵(ナグラ)てぃる島(スィマ) ぬはしぬ ちぢ やたし いちやたが 昔(ンカシ) 知る人(ヒトゥ)や 居(ウ)らん エイ スリ マタン スリ2、ゆかてぃしみ ぬはしぬ 生(ム)い頂(ちぢ)や島立(スィマダ)ちやならん 急(イス)ぎ 元村(ムトゥムラ)に3、越(ク)しゆたいありば 御検使(グキンスィ)ぬ故(ユイ)に目差主(ミザスィシュ)みしょうち頭主(カシラシュ)ん拝(ウガ)でぃ4、二十村(ハタハラ)ぬ 人夫(ニンブ)御雇(ウヤトゥイ)しまち 名蔵野(ナグラヌ)ぬ 広(ヒル)さ 空原(ンナハラ)どぅやたし5、しどぅ垣(カチ)ん 積(チマ)ち 原垣(ハルカチ)ん立てぃ てぃ 己(ウヌ)が原々(ハルバル)に かんだ植(ウイ)くまち 訳意 名蔵と言う村は、「ぬばしぬ」(毒性の有るクワズ芋)が一面に生い茂っていた原野でした。過ぎ去った昔の事を知る人は居ない。 良き村を建て、住み良い所と思ったが、クワズ芋のはびこる所には、村建ては不適当だ。急いで元の村に戻る方が良い。 移住したい希望があるが、「御検使(行政上の指導監査官)」の故に目差主も出頭して、頭主も実地調査に立ち合われた。 20を数える村から、人夫の申請もして、王庁の御許可となり、名蔵の広い原野(荒野)であったが、「しどぅ垣(猪避けの垣根)」も積み終わり、原垣の棚も結い立てたので、各自の畑ごとに「かんだ芋(さつまいもの一種)」を植え込ませた。 「くわず芋」は、観葉植物として、現在販売されているが、この根はとても強く、繁殖力も強く、大岩の隙間からでも、生える事が出来る。林野にびっしり生えていると、うんざりするくらい。 茎を切ると、痒い汁を出し、根が少しでも残ると、そこからどんどん生えてくる。 汁は、根にも有り、強い酸を出し、雑草の中でも、かなり手強い植物。 そんな「くわず芋」を駆除しながらの、開拓はとても大変な事。 マラリヤ・原野の開拓。今有る村の殆どがここから始まる。
2004年10月26日
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殿様とは、ニックネームで、西表島祖納(そない)の筆者(今の役所の書記役人「1804年」に拝命された「石垣高端」。 彼は、頭が禿げ上がり、あたかも大和の殿様の月代(サカヤキ)の様だと持て囃されていた。 八重山で小町娘と評判高い「カマドマ」と言う美人を賄女としていた。 「1817年」この二人の恋愛実情を知り尽くし、大和歌にも精通していた「石垣用典」の作とされている。 殿様節1、浮世(ウキユ)に 名取(ナトゥ)たる 恋(クイ)ぬ 氏神 祖納(ソナイ)ぬ 殿様(トゥヌサマ) 我(バ)んどぅ やゆる かまどーまぬ 事(クトゥ)思(ウム)いどぅ 船浮に行くよば2、かまどーま 思(ウム)いぬ 殿様(トゥヌサマ) 抱ぎ欲(ブ)しゃぬ 立(タ)ちん びちん ぶらるぬヤゥ いらよまーぬヤゥ 立ちん びちん ぶらるぬヤゥ3、前崎先(マイザスィサクィ)から 殿様(トゥヌサマ)舟(フニ)ぬ とぅん出(ディ)だらヤゥ 船浮 かまどーま 焼酎(ショウチュ)呑(ヌ)まんでぃ しっちゃ うっちゃらヤゥ4、うりどぅ うり 殿様舟(トゥヌサマフニ)で 思(ウム)いまち ぶるけ 松田屋(マツィダヤ)ぬ 加那(カナ)ぶじどぅ 高間かい おるそぅぬヤゥ5、尚又(ナウマタ) とぅん出(ディ)たる 是(クリ)どぅ 確かに 殿様舟(トゥヌサマフニ)で 思(ウム)い かめぶるけ 西表屋(イリムティヤ)ぬ なーむぬ ビラマぬ 菜種(ナーダニ)あーしおるそぅぬヤゥ6、あまぬ 妬(ニタ)さん 照(ティ)る 太陽(ティダ)ん 闇(ヤミ)なる だきヤゥ どぅけぬ 辛酸(シンサン) くばでーさ本(ムトゥ)ば かい抱ぎ ぶたんよば7、船浮村 千秋万歳(シンシュバンザイ) くばでーさぬ 下(スィタ)なかヤゥ 脛(シニ)ぬ 傷(ヤム)むんけ 膝(つぃぶすぃ)ぬ 傷痺(ヤムン)け 立ち 待ち ぶたんよば 訳意 世間に恋の氏神とまで言われた、祖納村の殿様こと「石垣高端」とまで、浮名を立てたのは自分である。 カマドマ美人の事を思って、自分は船浮に船で行くんだよ。 カマドマ恋女の思いは、殿様役人を抱き締めたさに、立っても座っても居られないヨ、イライラして、心が落ち着かず、立っても座っても居られないヨ。 船浮村の前に突き出ている岬から、殿様の舟らしいのが、目に飛び込んできたので、船浮村のカマドマ美人は、「泡盛」のお土産を飲めると、ノド舌打ちしているよ。 今度こそは、殿様舟だと思っていたら、松田家の加那爺が高間牧場へいらっしゃる舟だった。 尚又、舟が飛び込んできたので是こそはと思っていたら、西表家の「長座癖・長いおしゃべり好き」の「ビラマ」がおしゃべりに来る舟だった。 余りにも「嫉妬」で照りつける太陽も闇にしたいくらいだよ。 その時の「苦しみ」に耐えられないので、クバデサ木を殿様と思って、掻き抱いていたんだよ。 船浮村に古くから生えている、クバデサの木の木陰で、スネが傷むほど、踵・膝が、痛み痺れるほど、立ったり座ったりして、待っていたヨ。 すごい凄い。。ここまで想いを通し、待ち焦がれている様子が、リアルに表現されています。 悪役人の歌が多いなかでの、恋焦がれる歌。「殿様(トゥヌサマ)節」 西表島に自生する(クール)と言う木の根っこで染めた布。 西表はなんと言っても、希少動物「いりおもてやまねこ」 ちなみに、この付近の島猫(野良猫)「山猫」と呼びます。 方言では、「まやー」。犬は「イン」・・「イングァ」犬小です。
2004年10月25日
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「ナカナン・ウツィナン」も、同一屋号(昔の呼び名)で、二つの屋号を持つことも多かった。 「家巡れ佐事」や「佐事補佐」と言う「家巡佐事」は、婦女の監督をする仕事で、毎夜村番所に「15歳~50歳までの婦女子」を集合させる。 村番所の屋内中央に、大鍋を置き、その中で松明を焚くのが主な仕事。 その大鍋の周囲に、婦女子を置き、苧麻(麻の一種)で、御用布を紡がせ、夜業を強制させていた。 夜遊び(ユーマーレ)等が、この「佐事補佐」に見つかると親までも、呼び出し体罰をあたえた。 歌中のなかで、小町娘は許嫁の身なっていながらも、男と縁を切り、「佐事補佐」の妻にならざるおえない事もあった。 自由恋愛不可。「家巡佐事」を鬼畜生とみた唄。 与那国・読み人しらず 「なかなん節」 1、なかなんぬ 女童(ミヤラビ) ハイ 内(ウツィ)なんぬ あふわれす ※ ヤゥ スユイマーバミガウナ 2、まふくりとぅ 我(バ)んとぅや・まびぎりゃとぅ くりとぅや 3、いみしゃから みゆとぅぬ くゆさから 一組(イチグ)ぬ 4、夫婦(ミユトゥ)ぬけしらるぬ 一組(イチグ)ぬけしらるぬ 5、家巡(ヤーマ)れ 佐事(サジ)に 見らりな ・ゆむ佐事に 抱かりな 6、月夜遊び(ツィクィユアスび) 浜下り(ハマウリ) 夜遊び(ユルアスビ)泊(トゥマルィ)下り(ウリ) 7、家巡(ヤーマ)れ 佐事(サジ)に 見られき ゆむ佐事に 抱かれき 8、家巡(ヤーマ)れ 佐事とぅ 我(バ)んとぅや ・今日(キユ)なりば 染(ス)みずみ 9、ゆむ佐事(サジ)とぅ くりとぅや 明日(アチャ)なりば 染(ス)みずみ 10、真保久利(マフクリ)とぅ 妾(バン)とぅや 今日(キユ)なりば ぬけぬけ 11、真(マ)びぎりゃとぅ くりとぅや 明日(アチャ)なりば ぬけぬけ 訳意 ナカナン家の乙女は、評判の小町娘でした。 真保久利(まふくり)と私とは、兄貴とこの少女は、幼い時から許婚(いいなずけ)になっていた。 小さい時から、一組の夫婦のようであった。 夫婦別々では、生活は出来ない。一組の夫婦だから別れる事はできない。 佐事補佐・取締役に見付けられない様に、惨酷な佐事に捕まえられない様に。 青春の月夜遊びに浜遊び「ユーマーレ」(夜遊び)していたら、佐事補佐に見付けられてしまった。 惨酷な権力者に捉えられてしまった。 企みのある佐事と私は、日々に強烈な恋に染まってしまった。 惨い佐事とこの娘とは、毎日弾圧の恋に染まってしまった。 許婚の真保久利(マフクリ)と私は、恐喝の罠にかけられ、会えなくなってしまった。 恋しい兄貴とこの許婚の私とは、明日になっても、隔離されたままであった。 唄のなかで、自らを他人の目線に置き換えたり、「恋に染まる」は、明らかに「強姦」を人目を気にして、淡く例えているように思える。 与那国には、「人頭税」の人減らしの為、クブラバリと言う場所で、幅3~4m・高さ10m以上の崖(がけ)に、妊婦を飛び越えさせる風習があった。今でもこの「バリ」は残っている。 唄のなかの、「今日・明日」は、現在と未来の表現。 「間引き」をしたり、「人の許婚を手篭めにして、二度と許婚には会わせない」・・・地方役人の横暴。 琉球王府からの使者には、絶対的な接待(一夜~滞在終了日までの賄いと言い、夜のお勤めまでさせていた。 島の女は、賄女に、島の男は、家畜同様、重税で締め上げ、婦女を半ば監禁してまでも、税に出す「御用布」を作らしていた。 役人の賄女になれば、この「税」からは逃れる事が出来るので、あえて、周りを囃したて「絶世の美人(女童・みやらび)」と噂させる事もあったと言う。(両親の策略) 唄の裏には、沢山のうそや誠が隠されている。 真偽は闇の彼方。
2004年10月24日
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故障なのか(端末・モデム)の問い合わせの為に、NTTに連絡するも、ガイダンスも無く、詳細な説明も無く、せめて、事故並びに、局内外の故障破損等のガイダンスが欲しかった。
2004年10月23日
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「ヤクジャーマ」は、西表島の古見村のサンゴ礁(イノー)に生息する蟹(カニ)。 「ヤクジャーマ」より、大きく強い「ガザミ」蟹がいる。 首里政府の上には薩摩藩が控えており、「弱者ヤクジャーマ」は「強者ガザミ」の子を産んでみたいと、子供に希望を託す。 この唄は、作者不明。歌詞に出てくる「うさいぬ」は、「ウサイ・オーセ」(村番所・行政上の事務所)のことで、沖縄では「作田(ツィクテン)節」は、五穀豊穣・国の始まり・音楽の始まり・長寿繁栄・祝福の意味を持つ唄。 「作田節」は、二拍子で、あたかも「ヤクジャーマ」蟹の大爪を上下に動かしている様は、正に三線を弾き熟している様にみることができる。 やぐじゃーま節1、うさいぬ とぅまるぃぬ やぐじゃーまぬ サーヤグザイ作田(ツィクテン)節(ブシ)ながみょうる ヤイシュラヤゥ2、うりが隣(トゥナルィ)ぬ 白(シラ)かちゃや サーヤクザイ うりに 合(アワ)しゅてぃ 三味線(サミシン)ば 弾(ビ)き ながめおーる3、生(マ)りる 甲斐(カイ)産(スィ)でぃる 甲斐 サーヤクザイ がさめ(ガザミ蟹) なか子(ファ)ば 産(ナ)しみや むなよ4、うるずぃんぬ 若夏(バガナツィ)ぬ サーヤグザイ なる だら いざられぬ 事(クトゥ)思(ウム)い5、うまゆ 見りばん かまゆ 見りばん サーヤクザイ 炬(タイ)ぬ火(プイ)や あから はたら 見な 苦(グリ)しゃ6、大爪(ウフツィミ)ゆ かな爪(ツィミ)ゆ サーヤクザイふちゅる はたら かかれ ぬ しんさ や よー訳意 村番所の泊に(ねぐらとする)ヤクジャーマと言う蟹が、作田節を詠んでいる様に見える。 その隣の「白カチャ蟹」も、これに合せて、三味線を弾きながら、作田節を詠んでいるかの様に見える。 生まれる位ならば、育てられる位ならば、「ガザミ蟹」の様に、強者の中の強い子供を生んでみたいものよ。 春の日、若夏の頃になると、「漁火(いさりび)」漁が始まるので、気がかりでならない。 あちらにも、こちらにも、松明(たいまつ)を焚いて、パチパチと、音をたててやって来るのを、見るのが辛い。 自分の大切な、この大ハサミが、漁師の足で無造作に、踏み潰される音と共に、折れる時の辛さよ。 琉球民族の中の「八重山人」の弱者いじめとも、捉えられる「人頭税」の指揮官「村番所(村長)」は、「ウサイヌ」(うざい犬)か? だがその上に、琉球王朝があり、その上に薩摩藩がいる。 読み人知らずは、隠れ蓑ではないだろうか。村人皆思いは同じはず。悪税に対する抵抗歌では、ないだろうか。
2004年10月20日
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1771年「明和大津波」 大変な天災。これが、宮古・八重山にあたえた試練か?この津波で流された地域は、ハブがいない。とまで言われてます。 沢山の人命も失われた「明和大津波」の後、石垣島宮良地区に、小浜島から「320名」の強制移住(道切り)が行われた。 宮古・八重山だけの悪税(人頭税・人の頭の数だけ重税をかけた) その時から、小浜島を「ウヤズィマ」(親島)石垣市宮良を「ファズィマ」(子島)と呼ぶようになった。 宮良村総横目兼与人役「大浜用登」が、結願祭(きつがんさい)を記念して、作歌・作曲したとされる。「1843年」 折しも結願祭当日、英国船サラマン号が、宮良港に入港し、大津波調査研究団が上陸、機材・テントを張り出したのが、午後6時頃、村中は上を下への大騒ぎ。 山に逃げ込む者・洞窟へ逃げ込む者や混乱の結願祭となった。 八重山の人が、西洋人を見たのはこれが初めてとも言われている。 1、今年(クトゥシ)作(チク)たる 稲粟(イニアワ)や 実(ミヌ)り 出来(ディキ)たい サンサ 面白(ウムシル)ヱ ※、メデタイ メデタイ 2、年貢(ニング)上納(ジョウヌ)は 不足(フシク)なくに捧(ささ)ぎ上(ア)ぎたい・誇(フク)らしゃや 3、捧(ササ)ぎ 残(ヌク)いや あまたありて 酒(サキ)や神酒(ミキ)とぅむ・造(チク)りとぅてぃ 4、今日(キユ)ん 明日(アチャ)にん 遊(アシ)ぶ 嬉(ウリ)しゃ ありに三四(サンシ)とぅ・くりに五六(グルク) 5、遊(アス)び あまいや踊(ヲドゥ)いしゃびら ウグカぬ御代(ミユ)や・宮良村に (ウグカはウ呉夏の中国王朝名)「うぐかぬみゆ→動かぬ御代(みゆ)・不動のものを表す」訳意 今年の農作物は、特に稲粟が面白いほど稔り、五穀豊穣を迎えた。 年貢の上納も不足なく完納し、喜ばしく嬉しい限り。 上納した残りが余分にあるので、泡盛や御神酒を造りましょう。 今日も明日も遊ぶ楽しさは、あれにも三四、これにも五六(中国伝来の酒座の賭博遊びの一種) 遊びあるいは踊りもしましょう、この不動の御代を宮良(ミヤラ)村にも迎え入れましょう。 (明和大津波での甚大な損害を、強制移住させ、こんな歌を村長自ら作歌・作曲してるのは、本当に「御目出度い」限りだ。 明和大津波の復興計画は5年・人頭税の免除は、わずか3年。これが、最高行政官「与那覇在番」の業績として、高く評価されている。 家も田畑も全て津波に押し流された農民の気持ちは何処? (与那覇節)には、「与那覇主・・・手をすり合わせて合掌し、御願います。」とある。 全くめでたいめでたい。
2004年10月19日
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カラカラから、やや高めに杯に注ぐと、泡が高く盛り上がり、それを造って、酒造り見舞いに来た男衆に「アームリ、マレトーリンユー、シッサルナーラ」と誇らしげに注ぐ。 「アームリ、マレートリン」(泡盛が産まれる)との意味合いから、酒造りは女性の仕事で、男性は見舞いにくるだけ。 コシキの水は、常に取り返らなくてはならず、水汲みも大変だったと思い、汲み出した水は、温かく、子供達の行水や、洗濯に使われた。 カシザイ(酒かす)は程よい漬物用になり、(まんじゅまい)パパイヤ・大根を持参して(カシザイ)に投げ入れる事もある。 主婦ならではの、作業で、残す事無く全てを利用する知恵が詰まっている。
2004年10月18日
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沖縄に蒸留酒が到来し、本島で造られるようになったのは、1534年頃、南蛮がめと共に「シャム国」からだと言われている。 沖縄本島の泡盛の味はシャム国の「ラオロン酒」と同じとの説からである。 八重山で蒸留酒の製造時期は不明だが、相当古くから、行事や祭に必要で、泡盛が造られていて様だ。 酒も自給自足で、各家庭もしくは、村や島単位の組織的に造られ、自由に製造していた。 明治30年以降、沖縄本島より寄留商人の店が出き、沖縄酒が安易に手に入れることが出来、明治41年に「酒造税施行」により、沖縄から移住者の「酒造専門家の専業」となった為、従来の民家での酒造りは全く途絶えてしまった。 八重山の酒造りでは、米を原料としていたのは、(与那国・西表)のみで、新城(あらぐすく)・黒島は、粟(あわ)を主原料としていた。 大正の頃から、外来の砕米を原料とするようになった。 中国・ラオス・タイ・ミャンマー・フィリピン等の東南アジアの米(長粒米)が、原材料となった。 今では、日本米や島生産米の泡盛が主流で、20年くらい前から、品質の向上が見られる。 昔の酒造りは、 トーラ(炊事場)の前に、カヤブキの小屋(二間半四方)のサキタリヤー(酒造り小屋)があって、大きなカマド・大釜・サキタリコシキ(酒造り用のコシキ)・もろみ用の大がめが置いてあり、 酒を造る日になると、主婦は黒い鉢巻をして、ムイチャー(作業着)の軽装で、大きなもろみガメから、ミューダリ(ひょうたん製のヒシャク)で汲み出しては、大釜に入れ、水を足し、サキタリコシキは鉛製の円錐形で底にナベを伏せたような形状で、大釜にフタをする要領で固定。 コシキの底の中央には長い管が取り付けてあり、そこから蒸留酒が出てくる。 花酒は、(米5升のもろみから、一番蒸留した物)で、1升くらい出てきた物。 2升目は、泡盛(アームリ) うまく酒造り日の訪問客に振舞われる酒は、この2升目の酒で、口の小さな酒入れ器(カラカラ)をやや高めから、杯に注ぐと、泡が盛り上がる様に注がれる。これを泡盛の由来。 3升目は、煮炊き料理酒 4升目はギーザキ(下酒)として、(パイリ)酢の原料になる。今では、こんな造り方より、合理的に大量に生産する工場状態で、造られている。
2004年10月17日
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稲の種子を蒔く行事であるが、新城・黒島・竹富などには、粟の種子を蒔く(アータニドゥリ)と言う行事もあって、二回種取り(タニドゥリ)する事になる。 沖縄以南では、二度田植えが出来、日本内地での二期作にあたる。一度目の刈り取りで、米や粟が取れ、その後の作付け(種まき)なので、大いに感謝し、新米でお祝いする。 「沢山取れたら、甘酒・辛酒を造り・・・」の唄もある。 タニドゥリは、旧暦十月の壬(みずのえ)か戊(つちのえ)に各部落が適当に行なっていた。 「タニドゥリ見舞い」と言う風習があって、田を持っていない部落(下の部落)から、(上の部落)農民部落への田作り見舞いとして、塩(マース)・昆布・素麺・酒・豆腐などを上部落の親戚・知人の家に配る。 「イパッチ」 タニドゥリには、うるち米(白米)や、もち米(赤米)で、円錐形の握り飯を作る。 贈り物は、白イパッチ(一個7~8勺)・赤イパッチ(一個一合5勺)の大きさ。 重箱に「白3個に赤二個」或いは「赤一個に白二個」を入れて親戚・知人に贈る。 子供達が、喜ぶのは「イパッチ拾い」と言う行事で、秋の訪れを知らせる 新北風(ミーニシ)が吹き始めて、北の国から南下してゆく鷹(たか・サシバ)がこの島上空群れをなして渡る頃、子供達は、「オーフ、オーフダガ、マイマイ、チガチガ」(鷹よ、大鷹よ、舞え舞え、チガチガ)と謡い、鷹の落し物の「イパッチ」が無いか楽しみに待つ風習があった。 サンタのクリスマスプレゼントの様に、親達は「いい子にしないと、鷹(サシバ)のお土産が無いよ。」と言い聞かせ、ある日の明け方、「オーフダガの羽ばたきが聞こえたよ。早く起きなさい。」と起され、庭に出てみると、庭石の上・石垣の上・ソテツの葉の上に、(イパッチの白・赤)が置いてある。 子供達は、この日の為に、新しく作ったカゴ(ティンナー)に拾い集める。 真新しいカゴに、赤白の「イバッチ」が沢山並ぶ。 「アンダギ マツダル アカイバッチ、アンダギ マツダル シッスイバッチ、オーリッテ オーリヨー、シッスイバッチ、オーリッテ オーリヨー、アカイバッチ」(あれほど待っていた白イバッチ、あれほど待っていた赤イバッチ、又おいでよ白イバッチ、又おいでよ赤イバッチ) 30年位前は、お米は貴重品。冠婚葬祭に米を、祝いや香典返しに使うほど。 漁村では特に、魚と交換するのは、貴重な米より芋(甘藷)に替え、毎日三食すべて甘藷。 八重山諸島の離島は、特に米ならず電気が来る事や水の供給が、30年位前までは無く、当時の中学生は、学校から帰ると、ランプのガラス拭きをしてから、海に獲物を突きに出かけた。 そんな生活の中の一大行事で、ご馳走の握り飯が、空の鷹が運んでくれる(お土産)として、子供達を楽しませる親の気持ちは有り難い。 この慣わしは、現在の生活では、有り得なくなった。 何も無い時代を、楽しく生きる事、いろんな物を食べてきた事。海亀・山羊・犬・猫・サメ・うつぼ・(タバコの上の葉を、苦い茶として飲み、下葉はタバコにする。)日本緑茶より安い、中国茶(ジャスミン茶を、さんぴん茶)として、常飲する。 コショウの代用品として、家の塀(石垣)に自生している「ヒバーチ」を使ったり。 腹持ちがいい様に、天ぷらの衣をドーナツぐらい厚くしたり、工夫の山。
2004年10月16日
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西表島の西北部に位置する崎山村は、波照間島から「男80人・女100人」その他の島から合計459人の強制・強制移住を命令し創立した部落。 崎山村の「村番所」役所の新築工事の際、地均し作業中の「ゆんた」(作業歌)を、波照間島からの強制移住者の「加勢家の本家筋の姥(うば)」が望郷心・懐かしさを即興で歌っていたのを、当時の作業人は全員泣き出し、監督の役人ももらい泣きして作業は一時中断せざるお得なかった。 役人はこの即興詩の作者「加勢本家の姥」に質問し、「私の親兄弟は島に残されている父母の国、波照間にはもう二度と帰ることが出来ないでしょう。この封建社会ご時世の故、郷愁の想いが尚一層募り、心中の思いのたぎりが溢れたもの」(石垣・与那国以外の各離島には、人頭税を払う為の田畑は無く、西表島の一番島から近い処まで丸木舟で開墾に出かけていた。西表は高い山や谷があり、森もあり、強制移住地からはあまりにも遠い。) 役人達は、この姥の悲しみを聞き、協議の末、特別に帰郷を許した。1755年、崎山村の初代与人役(村長)「与那国寛紹」が「崎山ゆんた」を改作して「工工四」に発表。 崎山ゆんた 意訳 西表の崎山と言う所に、新しい村を創建したのは。 如何なる訳で、如何なる理由で、新しい村を創建したのだろう。 野浜口と言う良い港があった上に、肥沃な砂地であり、平野があったわけで。 波照間島は、八重山諸島の最南端から。 女性100人・男性80人に、強制移住を命じられた。「道切り強制移住を断行」 だれだれが、何がしかと、思って心配していたら。 私も移住者の一人で、彼これの人々も、強制移住を命ぜられてしまった。 どうか御願い致します、首里王庁御願い致します、御役人様御願い致します。 許して下さい、可哀相だと思って同情してください、御役人様御願い致します。 これは私の一存ではない、私の心からの考えでもない。 国王の命令で、王様の御声で、絶対的であるから。 免除事も、同情して許す事も出来ない。 天からの「命令的」に降る雨、数えられない程の「命令的」な雨粒であるから。 笠を取り、蓑を着けても「命令的」に降る雨はふせげない。 泣く泣く、よもよもと、命令され移住させられた。 悪税であった「人頭税」に縛られながら、その上、「道切り」と言う強制移住を命令されながらも、「ゆんた・ジラバ」に想いを託し謡い、日々生活していた。八重山人(ヤイマプィトゥ)の計り知れない想い。 沖縄本島出身者は、宮古・八重山・与那国等の離島に行く事は、現在も殆どいない。 離島ファンの方々にも、この事実を明確に理解の必要性があるのではないだろうか。 尚、崎山村は、昭和23年に廃村。
2004年10月15日
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八重山は、沖縄本島から南約411km離れた沖縄県の最南端に位置し、有人島は11箇所。 「石垣市」・「与那国町」を各一箇所として、残り9箇所を「竹富町」となっている。 琉球王国は、1609年に薩摩・島津藩に征伐・島津氏の附庸国として王国は生き残るが、28年後に「宮古」「八重山」だけを、沖縄本島から切り離し、1637年頃から1903年(明治36年)まで、「人頭税」(正式名称は「定額人頭割制度」)約266年間、明治廃藩置県を行なわれてからでも、36年間続いた。 「人頭税」とは、15歳以上から50歳までの男女に同等の税として、衣食住等に関する物資を納める制度で、税率は生活の殆どが税に徴収され、(田畑の有る無し・病気の有無・障害者の有無)をまったく関係なく、完納する様に命令され、反対する者は死罪並の重罪。 監視付き強制労働 「道切り」と言う強制移住 マラリヤの蔓延 この過酷な状況の中、汗と涙の結晶の唄 当時の島を「指導」役人が作った唄 台風・大時化で遭難し、漂着し住み着いた、日本本土人や中国人の言葉や音階の影響をうけた唄 歌詞やメロディー等難解な唄 様々な意味合いを持つ唄それが「八重山古典民謡」 意味の裏表や「工工四」に編纂(琉球王国の庁に献上する時、「琉歌体」に改正され、意味合いやメロディーを変えてある物もある) 沖縄本島方言(ウチナークチ)と宮古方言(ミヤフーツク)と八重山方言(ヤイマクチ)の違いもあり、献上「工工四」に編纂されている物は、ウチナークチになっている物が多い。 明治9年にマニラ人64人が石垣島に漂着し、子供達と仲良くなり、数え歌(一二三四五六七八九十)を「イッチク・タッチク・ジュニガ・シーカー・チカマク・キンポー・ハーリン・トーマ・ハーリガ・ユイサー」を教えた数え歌(童謡)が残されている。 童謡 雨 1、アーメーマーヤ フイタボーンナ(雨こんこよ 降りやんで) ティダーマーヤ アガリタボーリ(お天とさまよ 上がっとくれ)2、アーメーマーヨ フイタボーリ(雨こんこよ 降っとくれ) ティーダーマーヤ アガリタボーンナ(お天とさまよ 照りやんで)
2004年10月14日
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石垣島の崎枝村、目差役勤務の「慶田城用舛」が作歌・作曲とされている。 1、 だんじゅ とぅゆ まりる 崎枝(サキダ)ぬ 島(スィマ)や ヤゥ ウネ 黄金(クガニ)むるくさでぃ スリ 田ぶく前(マイ)なし ※、 イヤマシ ウヤキハンジョウ マサルハンジョウカツ マタイヤマシ2、 作(ツィク)てぃ 実(ミヌ)らしゃる 稲苅(イニカユ)る人(フィトゥ)や 若者(ワカムン)ぬ まぎり さらば さらば3、 崎枝(サキダ)女童(ミヤラビ)や 水(ミジ)故(ユ)いがやゆら 色姿(イルシガタ)うちゃてぃ なだる美(チュ)らさ 誠に評判高い、島の村 崎枝は(黄金の森を後ろにして、田園農地を前にして、弥増しに 沢山の財産・五穀豊穣の島) 繁昌に勝る繁昌 且つ又、弥増し(弥増しは、益々多くなる) 今年の稲作も豊穣なので、稲刈り人達は、若者が全員揃って早く刈り終わり、すぐさま解散して行く。 崎枝村の乙女達は、水が良いのか、色艶のつり合いがとれて、なだらかで美しい。「1871年」作 その前後、同年に、同作者が、「とぅまた節」も作歌・作曲。
2004年10月13日
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この歌は、首里王庁に貢物を献上し、その帰り(十月頃に北風に帆かけて)大時化(シケ)に遭い、石垣伊原間と平久保の中間の久志真(現在の久宇良部落)に漂着し、その時救助した村娘と沖縄本島出身の漂流者との恋物語を「黒島英任」(平久保村の耕作事務役官)が聞き、作詞・作曲(1732年)1、 さてぃむ 目出度(メデタ)や 此(ク)ぬ 御代(ミユ)に サ 祝(ユワイ)ぬ 限りねらん※、 遊(アス)び 楽(タヌ)シムエスリ 我(ワ)ンヤ カタミクイラ 千年(チトゥシ)マディン2、 一番(イチバン)願(ニガ)わば 福禄寿(フクルクジュ)・其(ス)ぬ他(フカ) 無蔵(ンゾ)とぅ 連(チ)りてぃ3、 無蔵(ンゾ)とぅ 我(ワ)んとぅ や 元(ムトゥ)ゆりぬ・契りぬ 深さあたん4、 百才(ヒャクセ)なるまでぃ 肝(チム)一つ(ヒトゥチ)・変るな 元(ムトゥ)ぬ心(ククル) 我(ワ)は、私(主に男性)別に、「里前(サトメ)」 無蔵(ンゾ)は、あなた(主に女性) さてもお目出度い事は、この代に限りなく続く事でしょう。 二人は歓楽をつくし、夫婦の契りを千年までも固めましょう。 二人の第一の願いは、幸福・繁栄・長寿 そのほかに二人連れ添っていつまでも。 貴女と私は、固めの杯を取り交わしての契りが深く、水も漏らさぬ二人の仲。 百歳になるまで偕老同穴の、契りは変らない様に。 「黒島英任」二十歳頃の作品と伝えられています。 内地の「高砂」の様に、結婚式の席で、唄われています。
2004年10月12日
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人頭税時代には、八重山の行政官庁を「藏元」と称し、毎年、首里王庁の命により、八重山にやって来る三司官「国務大臣」・「御検視官」・「在番」 石垣・登野城村美崎泊(接岸出来ないので、係留)小船にて上陸。 そこから蔵元への道路を「藏ぬぱな道」と呼ばれていた。 王の世代記念に、宮古・八重山における「海岸から蔵元に通じる道に対して歌一首あて献上」の命令があり、宮古は「石ぬ根ぬ道節」・八重山からは「藏(ウラ)ぬぱな節」が献上された。別名「献上節」1755年 当時の役人「黒島英任」が作、「藏(ウラ)ぬぱな節」を献上し、国王の嘉賞を受け、謹んで奏上したところ、賞賛を受けた上に賞状・賞品を御下賜され光栄帰郷した。 「黒島英任」は二十歳まえにはすでに「かたみ節」を作詞・作曲している。 海岸から蔵元へ通じる花道から、めでたい一路平安の道から、 どなた様を御案内しますか、だれ様を御通ししますか。 首里からの高官を、御案内します、高貴な御役人を御通しします。 私達女頭が御供いたします、これ乙女達は、後から御供いたします。 当時、各部落には「村番所」(行政事務所)があり、「与人親」(村長)・「目差」(助役)・書記官(雇)・仮書記官(補佐役)のあと、小遣い「筑(チク)」 「女頭」とは、長には40歳くらいの女性一人・「中女頭」には、30歳くらいの女性二人・「小女頭」には、二十歳くらいの女性二人・「アンシソーマ」と称する十七・八歳くらいの女性二人。 を置いて御用布を手配したり、小間使いの雑用に当たっていた。
2004年10月11日
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八重山諸島・竹富島は、玻座真村と中筋村の2村からなっており、玻座真村には村番所(今の役所の様な役割)があり、俗に「親村」とも尊称されていた。 封建時代(役人が絶対で、反抗は死罪)の島の役人の恋を唄ったもの。 当時の役人は、赴任先に妻子同伴は許されず、本妻は自宅に置き、勤務地には、まかない婦(身の回り一切を世話をする)として、置く事となっていた。 村の役人と、赴任してくる御役人とは、全くの位違いで、赴任御役人は殿様状態。 村の役人は、赴任御役人の世話をする女性を常に物色していた。 器量よし、容姿端麗な乙女を、赴任御役人に差し出す為、その両親に内諾を得てから、役人が赴任してくる。 新任の譜久村目差役は、上役の与人親との礼儀・秩序を弁えず、先手を打って「クヤマ美人」に自分で申し込む。 だが、村の役人達の決定権を尊重する「クヤマ」は、与人親へ御奉仕する事となっているからと、きっぱり断った。「1739年」 安里屋のクヤマ乙女は、絶世の美人に生まれた。 目差主(助役)に見初められていた。与人親(村長)に望まれていた。 幼少の頃から美人で、小さい頃から、色白で器量よし。 目差主(助役)は「イヤ」です。与人親(村長)に奉公します。 何がいやですか。いかなる理由ですか。 島の夫を持ってこそ、後の事、将来の行く末を考えています。 竹富島には、京の都の様な格子路地に、村中が整備されているのは、この「クヤマ」とその子の出世から成り立ったもの。 赴任役人とは、本妻にはなれない。 生まれる子の親は、はっきりさせないと、役人にさせる事が出来ない。そこで「クヤマ」は、与人親(村長)と一緒になった。 死罪覚悟の考えを貫いた。 余談として、 「クヤマ」は、別に赴任してきた御役人を、酒で酔わせてから、「私はこの古銭の穴ほどの土地しか要りません」と言い、役人は「ほほう、謙虚ではないか」と言った。 翌朝、御役人を高台に連れて行き、「この古銭の穴から何が見えますか?」・・・八重山諸島を一望に見えた。 計算「クヤマ」・・・頭がいい。
2004年10月10日
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真栄里村の仲筋家に「嘉那志(カナシャーマ・カナシ)」と言う評判の小町娘が生まれた。 当時は階級制度が厳しくて、石垣主邑の士族の青年達は横暴で農村の娘と自由に恋愛する権利を与えられていた。 その権力を振り回して、仲筋家の絶世美人(カナシ)を、我が意中の「恋女」にしようと競い始め、暗い狭い悪路を毎夜通い、仲筋家の福木(ふくぎ)の下の石垣から覆面姿でしゃがんで居た。 だが、一人ならず五・六人も居るので(カナシ)は怖く毎夜、両親の間で寝ていた。 その士族の青年「殿原・殿方(とぅばらーま)」達は、何とか(カナシ)と語り合いたいとの思いで、風雨の日も、毎夜幾日・幾月通い続けるが、一度も会えず帰り道で、無念な想いを即興で謡い出したのが始まりとされる。 (カナシ)二十歳前後だと、「1814年」頃の作。 唄の囃子言葉「ツィンダーサヤゥ ツィンダサー」は、(可哀相)と囃している。 ナカドウ道から、幾度も通ったが、仲筋家の(カナシ)は、一度も顔を見せてはくれなかった。 可愛い(カナシ)に、真の恋心があるなら、私の唄を聞いて走ってくるだろう。 二枚のまつげが一枚になったら(眠りにつく頃)、川原の水(道行く人)が、途絶えたら、人目を忍んでおいでください。 好きな人を思い詰めて通うと、千里の道も一里に思うが、帰りの道はやっぱり千里だ。 紺地は、藍(あい)で染めるが、可愛い乙女と自分の仲は、心で染める。 馴れ初めて恋仲となったからには、藍(あい)の紺染めの様に、濃く染めたい。浅染めは「免し給り(ゆるしたぼり)・御免です」 川を流れ行く水は、海まで流れる。自分の想いを受け取ってこそ、本当の恋である。 月と太陽は同じ場所を通る。とぅばらーま(貴方)の気持ちも一筋であって下さい。 月見の最適な時期は十三夜である。乙女の美しいのは十七・八歳頃。 月を見れば、昔の月そのままである。変わり行くものは、人の心ばかりである。 いつまでも変らぬ幸せだと自分は思っていたのに、今日の突然の離別は、生涯の心の傷。 私達の祖先は、生活を唄にかけ、現代まで伝え、八重山の宝として残してくれた。 残された島の唄を、何時までも大切に保存継承していく為には、皆さんが心を一つにして、唄い続けてください。 歌は、数多く唄う程に、唄心も情けも知る事が出来る。 唄に、評判高い、我が故郷に、明るい話題をもたらして下さい。 山を見ると八重山の事を思い出す。海を見ると故郷の事を思い出す。 隔てているからこそ、自分の生まれ故郷を、朝夕、思う心は増すのである。 「昔とぅばらーま」は登野城村の故・金城長保氏の祖先が、黒島首里大家子職の時、公用中宮古沖で遭難し、宮古蔵元に助けられ、宮古の島娘との恋愛し、「1800年頃」別れの時に即興詩として唄われたと伝えられる。 「とぅばらーま」は、大会があるほどに、進化し、増殖する唄。
2004年10月09日
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鳩間島は、1701年、宮古島人「船屋 儀佐真」後に改姓し、「鳩間 儀佐真」の計画と尽力によって、古見村から男8人・女6人計14人で、山林を開拓し小村を創立。 古見村の管轄であったが、公用に支障を来たし、1703年黒島の保里村から男100人・女50人を強制移住させ「鳩間村」に独立させた。 鳩間村には、水田が皆無である為、蔵元政庁では(人頭税貢納困難)の理由から、西表島の上原・舟浦に鳩間人に借地させて、稲作を強制させた。 鳩間人は、田畑管理小屋(田宿屋)を建て、2・3泊しては耕作に精魂打ち込み、毎年豊作であったが、土地貸主である上原・舟浦の人は、怒りだし借地返還の要求を出した。 蔵元政庁では、人頭税の徴収が出来なくなるので、返還要求は絶対不可との厳命を出し、新開拓地を得る様命じる。 ここで鳩間の役人は、「小浦インダ・福浜・下離」の土地に選定し、鳩間島総動員で開拓。 この無慈悲な鉄面皮の「上原・舟浦」の人が来たら神酒も普通の皿ではなく、「アディンガー(マングローブの根元の泥に生息するハマグリより大き目の貝)殻」で飲ませて、酒もハマグリの殻で与え、人間としての待遇はするな。 この民謡は、生産の喜びと、反面の「上原・舟浦」の無慈悲に対する敵対心を謡って(溜飲が下がった)と言う唄で、後の役人が改作し「工工四」に発表され、名曲として現在も唄い継がれている。 鳩間島の中岡の、クバ林まで走り登り。 美しく生えている森のクバ、美しく揃っている頂上のクバ。 対岸の西表島を展望すれば、白布を敷きならべた様に見えるのが小浦の浜。 小浦の浜から通行する人々は、ちょうど蔵元政庁の大路を大様な態度で歩く風情である。 インダ・福浜・下離等は、上原・舟浦の土地より、上質である。 前の海を展望すると、西表島へ耕作に行く舟・来る舟、面白い眺めだ。 稲を満載している舟を見ると面白い。粟は立てて満載してある、見事なものだ。 舟浦の人の面当てに・上原の人に聞かす為に、精魂打ち込んで開拓してみせよう。 上原の人が鳩間にやって来たら「アディンガー」の殻で、御神酒を飲ませ。 舟浦の人が鳩間にやって来たら、ハマグリの殻で酒を飲ませてやれ。
2004年10月08日
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小浜島は果報な島であるから、大嵩(ウフダキ)を腰当にして、白浜を前にして良い島だ。 大嵩(ウフダキ)に登って、四方を展望すれば、五穀が豊に稔、弥勒世の豊年万作だ。 五穀の豊熟する色は、二十歳ごろの乙女の色艶のようだ、粒も良く揃っているので、神仏に御初穂として捧げる。 潮の干満は、月との引力により起きるが、島の吉凶盛衰は、御役人のいかんによる。 海草は、島の浦々入江の自然に流れ寄る、そこが恋しいから、そこに集まり寄ってくる。 夜、走らせる船は、北極星を目印にして安全な航海をしている、私を生んだ親は、私を頼りにして、生きがいを感じている。
2004年10月07日
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