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人間は必ず死ぬ存在である 人間の一生において、ただ一つ確実なことは、人間は生まれた瞬間から死に向かって歩き始め、死ぬために生き始めるということです。 「光陰矢のごとし」というように、時間は刻々と過ぎ去っていく一方で、自分に後どれだけ時間が残されているかも分かりません。 しかも、やり直しのきかない一回限りの人生を、私たちは深く考えることもなく、何となくその日その日を生きています。 だが、「人間は死ぬ」ということを心して生きていれば、いつ死んでも悔いの無いように、「人事を尽くして天命を待つ」ではないが、その時々を大切に、その時にやるべきことを精一杯やっておかなければならないと思いあたるはずです。 では、どんな心がけで生きたらいいのでしょうか? 池宮彰一郎著『四七人の刺客』の一節で大石内蔵助は、「人には命よりも大切なものがある。人の命はいつかは終わる。どれほど惜しんでも必ず終わる。終わって後の世に残るものは何だ、金か、物か。そのようなものは、時の流れの中には儚く消え失せてしまう。100年、人が記憶し、語り継ぐものは、何を志し、惜しき命を費やして遂げんとしたか、その行跡しかないのだ・・・」と、財貨や地位でもなく、命でもなく、人の世に語り継がれる志こそが、我々が追い求めるべきものであると語りかけます。 庶民の我々にすれば、そんなに大それたことができるわけでもないが、せめて子供や孫に語り継がれるくらいの高尚な人生を送りたいものです。 それには、金儲けや権力の確保という自利を満たすことばかりに狂奔するのではなく、人間を磨くことにもっと注力しなければなりません。 人間を磨くには、次の三点が大切だと哲学者芳村思風さんは仰います。 ①自分は不完全な存在であるとの自覚からしみ出る謙虚さ どんな立場にあろうと、自分は不完全な存在だという謙虚さがあれば、他人の意見に耳を傾けたり、より完全を目指して生きるという生き方が出てくるはずです。 ②常により以上のものを目指して生きる それは、能力を伸ばし、人間性を高め、人間としての価値を創り出していくことです。 ③人の役に立つ存在となろうとする志 そうやって磨いた人間としての価値を、自分だけのために使うのでは意味がありません。自分しかできない能力を生かして、人のためになり、その場になくてはならない存在になる、それが究極の自己実現であり、人間の生きる目的でもあると思います。 でも、いつもしかめっ面で頑張るだけでは人生楽しくありません。 剣術家、小野次郎右衛門忠明のところに、一人の剣客が弟子入りを願ってきた。 「先生、私が本気で修行すれば、どれくらいで奥義を究められますか」 「そうだな、貴殿の腕前で本気でやれば、5年ぐらいでいいだろう」 「では、寝食を忘れてやれば、どのくらいかかりますか」 「それなら10年かかる」 「では、命がけでやれば」 「まあ、一生かかって無理だな」 こんな会話に、剣客は「そんな馬鹿なことがあるか」と怒り出した。 私たちは、ややもすればこの剣客のように努力すれば努力するほど早く実現すると思い込みがちだが、血眼になりすぎてはダメで、ゆったりとした精進が大切だという諭です。 人はワクワクすることを見いだせば、だれに言わなくても動き出します。反対に、どんなに立派なことを聞いても、自分がワクワクしなければ一歩も動こうとしないのが人間です。ワクワクする気持ちを持って、何事も楽しみながらゆったりと精進することです。
2018.01.31
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お任せ社会から脱皮しよう この頃の一番の問題は、委任社会になってしまって、何事でも気軽に人の手に委ねてしまうことにあります。 その裏返しとして、何か問題が起きると、政治やマスコミ、学校教育など、自分以外のところに犯人を見つけて、責任を他に回していこうとする傾向があります。 自分自身の人生や仕事にしても同じです。 「本当に生き甲斐のある、面白い人生を送っていますか?」と問われたら、恐らく「イエス」と胸を張って答えられる人は少ないはずです。 「何か面白いことはありませんか」と問うことはあっても、自ら「変わらなくっちゃ」と、何らかの行動を起こす人はほとんどいません。 人生には、最低三回のチャンスがあるという。 たった三回と思うか、三回もあると思うかは人それぞれだが、チャンスは「棚ボタ」で待っているだけではやってきません。 今あなたが仕事や人生が面白くないなら、自ら変革の意思をもって自分の人生設計を描き直し、思い切って積極的にチャレンジし直してみることです。 何も職業や会社を変わることだけが道ではなく、仕事に対する自己変革をどうするかであなたの将来は決まります。 有名国立大学の法学部を出て、不動産会社に期待されて入社したNさんが、まず配属されたのが営業部でした。 もともとじっくり考えるタイプで、外回りや新規顧客開拓のための電話が苦手で、営業の駆け引きなどもってのほかだった。 会社側の期待は大きかったが、見放すのも早かった。人事異動の季節が来るたびに、営業所をたらい回しされた。 入社五年目の秋、内臓疾患で数カ月の入院生活を余儀なくされた。人相が変わるほど体重を減らして職場に復帰すると、審査部への異動を申し渡された。 金融機関の定年退職者を雇っている地味な部門で、営業主体の会社ではどんなに頑張っても報われず、昇給も賞与も査定は何時も最低だった。ただ、不動産や法律について勉強できる時間があるのがありがたかった。腐ることなく研究に打ち込んで10年。ある研修会で発表したレポートを読んだ人が、社外の勉強会の講師を依頼してきた。 人事部に伺いをたてると、「へぇ、君が」と驚かれた。 勉強会は大好評で、充実感を味わうこともできた。 独立して3年、今では飛ぶ鳥を落とす勢いだそうです。 「真面目にやっていれば、どこかで目利きが見ていてくれるものですね」と彼は感慨深げです。
2018.01.30
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自分なりの考えを持つ 「個性を大事にせよ」とか「個性を生かそう」という言葉をよく聞くが、ピアニストの神谷郁代さんも次のように言ってみえました。 「自分の考えをはっきり持たないと音楽はできないが、現実として自分の考えを主張していると衝突が起きる。そこで、主張するのとしないのとどちらがいいのか分からなくなるときもある。だが、何かを表現するためには個性が必要なことは確かだし、そのために自分の意志をはっきりと持たないといけない」 これは音楽の世界だけでなく、どんな世界にも当てはまることです。 ただでさえ体制に流されやすい情報化社会では、自分なりの価値観を持って深く考え、自分ならではの個性を発揮しないことには存在価値がなくなります。 そうやって個性と個性が衝突する中で、全く新しいものも生まれてきます。 では、個性とは、生まれたときから持っているものなのだろうか? 一つの果実が熟すためには、大地の養分や太陽の光、農家の人の助力などいろいろな力がそこに作用しています。 それと同じように、一人の人間の個性をつくり出すためには、そこに働きかけた沢山の縁が存在するはずです。 そのような縁なしに、自分の個性は自分自身で作り出したのかどうかをじっくり考えてみると、そうでないことに気づくはずです。 自分の考え方も、若い間は人の考え方の模倣から始まります。 個性は、それらの消しがたい影響の下に少しずつ熟成されてきたものであることが、歳とともに分かってきます。 だから、良い縁をえることが大切なのです。 日本人に個性がないとよく言われるのは、次の二点が欠けているからだともいう。 一つは、思いやりの心と自分と異質の人を認める寛容な心に欠けているからです。 自己主張が個性といえるためには、自分の自由を主張すると同時に、相手の自由をも認める寛容の精神を持っていることが前提となります。他を認めず自己主張するだけの人は、単に自分勝手で我が儘なだけです。 もう一つは、人生は一回こっきりだから、自ら困難に挑戦して自分の手で人生を切り開き、失敗したら自分で責任を取ることが大切なのに、その精神に欠けていることです。 「○○が何もしてくれない」というだけの甘えた『くれない族』が多いが、人に与えてもらうことばかりを期待するのではなく、自分が組織や社会の一員として何をしたらよいのかを考え、自己責任で行動できる人間になることが大切です。
2018.01.29
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形式や標準にこだわるな 昔、ある村に評判の孝行息子がいました。そこで、隣村の孝行者が、一体どんな孝行ぶりなのだろうかと訪ねてみた。 待つほどもなく、孝行息子が薪を背負って山仕事から帰ってくると、老母が飛んでいって息子の薪をおろしてやり、ワラ草履の紐をほどいてやって、汲んできた水で息子の足を洗ってやっている。 彼は、黙って老婆にすべてをやらせている。 さらに驚いたことには、座敷に上がった息子がゴロリと横になり、老婆に自分の腰をもませている。 これを見た隣村の孝行者は、「このインチキ者め、村一番の孝行息子が聞いてあきれるわ。お前は日本一の親不孝者だ」と大声で怒鳴った。 それに対して、「私は孝行とはどんなものか知らないが、ただ母親がしたいように、喜ぶようにしているだけだ」と答えた。 それを聞いて、「なるほど、そうか。それが本当の親孝行かもしれない。わしは、単なる形式だけの親孝行だったわい」と隣村の孝行息子は言ったという。 この昔話は、形式や他人の目を気にして、親に何もさせずに働きがいを奪い、痴呆化を助長している現在の私たちへの痛烈なパンチであるようにも思います。 私たちは、「皆で渡れば怖くない」と形式や標準など「世間並み」にこだわりすぎる傾向があります。 では、世間の標準とは何でしょうか? アンケートや統計などで、「何%の人が・・・」と数字に還元されて処理されるともっともらしく思えてきます。 そして、多数派の方が正しい、望ましいと思ってしまいます。 だが、人間の価値観などというものは、科学の法則と違って絶対的に正しいものなどはなく、必ずしも多数意見が正しいとは限りません。 むしろ、少数意見の方が正しいことの方が多いのではないでしょうか? 例えば、「毛虫が嫌いか」と聞けば、大抵の人は「嫌い」と答えるはずです。 そして、「好き」と答えた少数派の人は変人にされてしまいます。 時には、そんなものは退治してしまえとなります。 学校でのいじめなども同じで、集団いじめに加わらないと、自分が危険だということで多数の方に加担して、小数の人を「同じでない」と言っていじめたりします。 皆と一緒なら「何が良くて、何が悪いことか」などを考えなくてもよく、うまくいかなくても他人のせいにできて楽です。 だが、それでは人間としての価値はないと思います。
2018.01.28
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人と違う道が歩けるか 書店には人気の穴場やブランド紹介の情報誌が並び、テレビもさまざまな特集を組んでいます。 眼力に欠けたり、自分自身で考える力のない人にはマス情報は便利だが、それらに踊らされて、流行りのブランド品で身を飾り、流行りのお店で食事をし、噂の温泉宿に泊まり、皆の憧れの仕事に就くというようなことをしていると、自分自身の人生を生きたことにはならず、クローン人間のように特徴のない虚しい人生になりがちです。 昔、中国に、将来官吏になって皇帝に仕えたいと思った男がいた。 時の皇帝は、学問のできる人を重用したので、彼は一生懸命に勉強した。ところが、彼がようやく採用されるに足るだけの学問を身につけた時に皇帝は亡くなり、今度は武術を重んじる皇帝に代わってしまった。 そこで彼は、剣術や弓術の稽古に励み、これでようやく仕官できると思った矢先、またまた皇帝が亡くなり、若い人間を起用しようという考え方を持った皇帝に代わった。彼は、その頃にはもう歳をとってしまっていたので、ついに官吏に採用されることもなく一生を終わった。 このように、曖昧な娑婆の基準に惑わされて、人生を無駄にしているのが人間です。 ただでさえ同質化する危険性の高い情報化社会では、真に充実した人生を生きようと思ったら、自分ならではの個性が大切になります。 でも、個性を生かそうと思うと、道筋も定かでなく、周りに誰もいなくて寂しくなることもあります。それでもなお、人とは違う道をゆく勇気があるか否かの決心が問われます。 一九世紀の中頃、アメリカで石油ブームが起こり、多くの人が石油発作に熱中しました。 後に石油王と呼ばれるロックフェラーも最初は石油を堀りに出掛けたが、他人と同じように掘っていても同じ量しか出ない。それでは、人に抜きん出ることはできないと気づいた。 よく観察すると、誰もが、掘った石油を木の樽に入れて精油所に運んでいる。それなら、製油をやった方が抜きん出ることが簡単ではないかと考えて精油所を作った。それが、あの巨大なロックフェラー財団の出発点になりました。 皆が石油を掘っている横で自分も掘れば、石油が出ることは分かっています。しかし、それでは自分も皆と同じでしかありません。 そこで、石油が出るのは認めたうえで、皆とは違って精油所を作る。全くのゼロかの発想ではなく、既定事実の延長線上であまり人がやらないこと(独自性の発揮)をやる。手堅く成功するには、こういう発想を大切にすることです。
2018.01.27
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好かれることを目的とすると魅力が消える 周りの人に嫌われまいとして、他人が自分をどう見ているかをとても気にする若者が多い。そのせいか、近頃、人に好かれることをテーマにした本がよく目につきます。 確かに、良い人間関係を築く上において好かれることは大切です。 だが、この頃の風潮は少し違う気がします。 好きな理由に、 ・優しいいから ・気が利くから ・協調性があるから ・明るい性格だから などということが挙げられるが、本来はそんな一元的なものであるはずがありません。 美女と野獣ではないが、知的で品が良く、非の打ち所のない美人と、我が儘で口が悪く、外見もさえない男のカップルがいると、「あんな男のどこがいいの。彼女にもったいない」と他人は不思議がります。 でも、二人が一緒にいるのは好きだからです。 優しいから、気が利くから、協調性があるから、明るいから好きなんていうのは、本質的な理由にはなり得ない。そういう人が多くの人に好かれるのは、それが現代の社会では都合がいいからかもしれない、と斎藤茂太さんも仰っています。 好かれることを目的に努力するとは、他人に迎合することであり、自分がなくなっていくということです。 それも不特定多数に好かれようとすれば、ますます自分がなくなってゆきます。 そんなことで、自分自身が本当に気持ちよく過ごせるでしょうか? 本来、周りの人皆に好かれるというのは、かなり不自然なことです。 取り繕ったり背伸びなどせずに、素直に自分らしい生き方をし、自分なりの考え方や物の見方を持っていたら、ある人には好かれ、ある人からは嫌われるのが自然です。 自分を殺して人と合わせ、嫌なことがあってもひたすら我慢に我慢を重ね、何でも「ハイ、ハイ」と逆らわず、右を向けと言ったら右を向くのでは、友人ではなく家来や奴隷と同じです。そこまでやっても、今度は「自分がない」と批判する人は必ず現れます。 自分の価値は、人に決めてもらうものではなく、あくまでも自分自身で決めるものです。 人目など気にせずに、思った通りに生き(人に迷惑をかけたり、不快にしない範囲で)、そんな自分自身を好きになることです。 万人には好かれなくとも、そんなあなたを一人でも良いから心から理解し好きになってくれる人がいる方がうんと幸せだと思いませんか?
2018.01.26
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人の目を気にしすぎていないか 『イソップ物語』に、父親と子供がロバを売りに行く話があります。 親子二人が手綱を引いて歩いていると、道行く人が「どちらかが乗ればいいのに」と言うので、子供をロバに乗せます。 すると、「親を歩かせるとは、なんと親不孝な子だろう」と言う人がいたので親を乗せると、今度は「子供がかわいそうだ」という人が出てきます。 そこで二人がロバに乗ると、今度は「商売もののロバを疲れさせるとは愚かな人たちだ」と言う人がでてきたので、二人はとうとうロバを担いでいくことにした。 このように、世間の人たちは、それぞれに自分なりの物差しで勝手なことを言います。 大切なことは、子供が疲れていたら子供を乗せて親が歩き、親が疲れていたら親が乗って子供が歩くという、状況に応じた自分自身の価値判断です。 私たち日本人は、どうも他人を気にしすぎるきらいがあります。その裏返しとして、他人の生き方をも気にし、うるさく口を出します。 (週刊誌などのゴシップ記事などは典型) 昔、早起きで有名な村があり、文化人類学者が「そんなに早く起きないと、仕事に間に合わないのですか」と聞くと、「いや、もっと遅くてもいいのだが、早く起きて雨戸を開けておかないと、隣近所から怠け者と思われるので」と答えたそうです。 そんな調子で、どの家も、隣家を気にしながら早起き競争をしていたのです。 都会でも同じで、隣が何かを買えばうちも買う。隣が有名幼稚園に行けば、うちも無理に行かせようとする。お受験競争も、その延長線上のようなものです。 このような、自分も他人と同じように行動しなければという考え方は、他人も自分と同じように行動しなければならない、他人も同じ意見を持たなければならないと、他人が自由に行動したり発言したりする権利を認めないことにつながりがちです。 他人と違う意見を言ったりすると、「けしからん奴だ」と断定して、極端な場合には「ぶっ殺してやる」と脅迫状を送ったり、嫌がらせや実力行使までして抹殺しにかかります。 そうやって、他人の目や他人のことはあまり気にし過ぎると、自他共にストレスがたまり健康にもよくありません。 この世の中には、苦がいっぱいあるが、それらの多くは他を気にしすぎることから起きます。他人と比べることで、優越感と劣等感との間で苦しんでいるのが人間です。他人と比べることを止めてみるだけで、もっと気楽に生きられるはずです3
2018.01.25
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さまざまな花をさかせればいい 映画を撮るとき、現場を指揮する監督、原作者や脚本家、主役、端役、裏方をこなす人、それらの人がお互いの違いを持ち味として生かしきることで、初めて素晴らしい映画が出来上がると言った人がいます。 各人が違っているからこそ、逆に存在価値があるわけです。 全く同じ人間が二人いるとすれば、どちらか一人で十分なわけです。 豊かな進んだ社会とは、さまざまなパーソナリティーの人が、それぞれの持ち味を生かして明々と命の火を輝かせることのできる社会だと思います。 ところが、日本には他人が自分と違っていることを許さず、「変わっている」ことを理由にいじめたり爪弾きにしたりする風潮さえあります。学校で黒髪を強制するのも同じです。 それは、封建主義の時代とか、その後の工業化社会において、画一的な方が管理する側に都合がよかっただけのことです。 つまり、少数の者が多数を管理するには、ロボットのように操縦者の言う通りに動いてもらわないと困るからです。 だが、一人ひとりが違うからこそ人間なのです。 だから、人間らしい社会とは、人との違いや個性を大切にする社会でなければならないはずです。 ゾウリムシは、無数の繊毛を整然と歩調を合わせて同じ方向に動かして進みます。 ところがよく観察してみると、何百本の繊毛のうち数本だけが何時も勝手な動きをしているそうです。方向転換をするときには、そのメチャクチャな動きをしている繊毛に他の繊毛が一斉に動きを合わせてスッと曲がっていきます。つまり、それまでは異分子だった繊毛が、イニシアチブをとって全体の方向を決めているわけです。 社会や組織も同じで、常に異分子が存在していないと絶滅する危険性が高まります。 平時は決まったパターンで進んでいても、何か異変が生じた的には異分子がいないと新しい展開がなかなかできません。そんな異分子を生かす余裕が大切だと思います。 人間が奏でるピアノは、自動ピアノとはどこか音色が違います。 窓から入ってくる風の爽やかさには、扇風機からは得られない何かがあります。 このわずかな、どこか、何かが違うというのが「ゆらぎ」です。 人間社会の「ゆらぎ」は、異質を認めることから起きます。 ゆらぎこそは、人間が人間たる所以であり、快適さや活性化の源泉でもあります。 情報化の時代は、同じ情報に基づいて同じ行動を起こす同質化の危険性が高まります。個性と個性が共存する社会を目指して、一人ひとりの違いを大切にしたいものです。
2018.01.24
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マイナスの中にもプラスがある 「長短は互いに引き立てる」と老子も言ったように、この世のことには絶対的なものなど無く、全ては相対的なものです。 長いものがなければ短いものは成り立たず、健康があるから病気があり、不幸がなければ幸せもありません。しかも、不幸にしろ幸せにしろ、ピンからキリまであります。 例えば、末期ガンの人から見れば、体の不自由などうらやましく幸せに見えるはずです。 でも、病気の人に、そんな理屈を言ってもなかなか得心できないのが人間です。 そういうときには、病気や不幸な時でも、これを利用してなんとか得することはないだろうかと考えてみることです。 仏教では善悪不二(善悪も平等無差別の立場から見ると同じ)というように、一時的にマイナスに見えるもの(挫折・病気・失敗など)にも必ずプラスとなる可能性があり、その可能性を見いだして具現化すれば、過去のマイナスもいつかはプラスに転じるはずです。 例 えば、口下手なら人の話を聞くことに徹してみる。すると、情報も集まるし、話しやすい人と好意を持ってくれて仲良くもなれるはずです。いろんな業界のトップセールスマンと言われる人には、案外と口べたな人が多いものです。 また、この世は人間同士の付き合い、お釈迦様も言うように、好きな人ともいつかは別れなければならず、嫌いな人にも出会わなければなりません。 では、嫌いな人に出会ったらどうするか? 人生はドラマによく例えられます。 ドラマには主役だけでなく、端役や悪役などの役者がそろわなければ、観客に感動を与えることはできません。悪役が嫌みたっぷりに演じれば演じるほど、主役にはスポットが当たります。 人生におけるドラマの主役は、まぎれなくあなた自身であり、自分がひかり輝くように、いじめ役や励まし役の人たちが、忠実にその役割を演じてくれていると思うことです。 そう考えると、憎々しい人もイヤ味な人も、あなたが輝くための存在であって、その人を憎んだり嫌ったりすることは筋違いといわなければなりません。誰だって、人から嫌われたり憎まれたりする役は望まないものです。悪役を演じてくれる人には、むしろその演技の素晴らしさに感謝しなければなりません。 人生は理屈や理論では割り切れないことが多いが、良きにつけ悪しきにつけ、そう考えてみるとこの世を楽しく生きていけるはずです。 越後の昔の瞽女(ゴゼ=目の不自由な女の人)歌に次のような言葉があります。 善い人と歩けば祭り 悪い人と歩けば修行 瞽女は、家々の門口で三味線を弾き、唄を歌ってお金をもらい飢えをしのいでいました。 一般には、手引きという目の見える人と組んで旅に出かけたそうです。 この手引がいい人であれは祭りのような気分になれるが、悪い人と歩けば最悪です。でも地獄と言いたいところを、修行ととらえる姿勢が素晴らしいと思います。 地獄、極楽は、ひとえに自分の心の持ち方ひとつです。 地獄と思ってしまえば、さらに両者の関係は悪循環に陥ってしまいます。地獄も人生の修行という気持ちで臨めば、そこに前向きな姿勢が生まれ、善の循環が起きる可能性も生まれます。 現代風に言えば、「良いことはお陰様、悪いことは自分のせい」という姿勢で臨めば、人間関係もよくなり、楽しく過ごすことができるはずです。これも、人生を楽しく生きていく一つの智慧かと思います。 どんな状況であろうとも、あなたの心の持ち方一つで今を楽しくすることができるはずです。
2018.01.23
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時には泣くことも悪くない ユーモア文学の大家、マーク・トゥエインは、「ユーモアの源泉は哀愁である。人間的な悲しみの中からこそ、本当の人の心を解きほぐすユーモアが生まれてくる、ただ明るいだけ、面白いだけのところから生まれるユーモアは、本当のユーモアではない」と言いました。 ただ喜ぶだけでなく、本当の意味で人間が何とも言えない涙をこぼすということも、人間にとって大切なことです。 悲しみを知ることによって、逆に人間が生きていく上での喜びというものをつかみとることができます。 米国の医科大学で被験者の体に電極をたくさんつけて、笑ったり喜んだり泣いたりすることで、身体から出て伝わってくる情報をビジュアルにモニターテレビに再現してみた。 凄く楽しいことや面白いことを見せたところ、心の底から嬉しい、面白いと思った人の細胞が活発に活動を初めて、自然治癒力が高まっていくのが手に取るように分かった。 今度は逆に、生涯で最も悲しかったこと、最もつらかったこと、切なかったことを回想してもらった。そのうち、何かを思い出してポロポロと涙をこぼす人さえ出てきた。 すると、体の細胞の動きが活発になってきて、脳神経のシナプスと盛んに交流をはじめ、自然治癒力が劇的に高まっていく様子がモニターにくっきりととらえられた。 そのことから、本当に喜ぶのと同じように、本当の悲しみの中にじっと浸っていることによっても、人間の命がイキイキと蘇ることが分かった。だから、悲しい時には、無理に楽しいことを想像するのではなく、その悲しみを真っ直ぐに受け止めて、心の底から悲しめばいいのです。それと、流した汗と涙の量だけ、人に優しくなるような気もします。 五木寛之さんも、次のように言ってみえます。 「今ここにあるものは、すべて変わっていく。去っていく。自然はすべて変化する。天地自然も変ぼうしていく。春もあっと言う間に過ぎていく。人間も老いていく。病を得る。そして死んでいく。友情もどこかで変わる。美しい恋人も老いていき、やがて死んでいく。生まれてきたもの、今向き合っているものは、すべて別れなければならない。そういう気持ちを持つということが実は大事だ。 そこから結局、それを惜しむ気持ちが生まれ、惜しむ気持ちから悲しむ気持ちが生まれ、悲しむ気持ちから愛おしむ気持ちが生まれ、そこから愛が生まれてくる・・・」 プラス思考で物事の明るい面を見るだけでなく、悲しみや辛さを知ることも大切です。
2018.01.22
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点情報や思い付きでは群盲象をなでるがごとし 問題解決で最も大切なのは、目的を明確にして真の課題を特定することです。これを見誤ると、モグラ叩きや病巣の転移のように、同じような問題がまた形を変えて、あちらこちらで再発することになります。 医者は、病名や病巣を特定するために様々な検査に時間を掛け、カンファランスで議論を重ねます。それに比べれば、多くの手術は比べものにならないほど短時間で済みます。 私がコンサルティングを請け負う場合でも、総検討時間の三分の一(事前の関連部署や取引先などへのヒヤリング時間を入れれば半分)を掛けて徹底的に原因を分析します。 原因を拾い集め、体系的に(原因と結果を明確にした樹形図を作る)組み立てていく作業は、自動車を部品単位まで分解したもの(問題点)を、もう一度部位毎(中間インデックス)に組み立て、最終的に完成車を造り上げるようなもので、緻密な作業が必要です。 だが、政治家などの答弁を見ても、群盲象をなでる的な思いつきや、「これだ」と思い込みから決めつけた原因を幾つか挙げるだけで満足してしまい、効果も不確かな対策をとるので、成果が今一つというのが現実ではないでしょうか? 正しい判断をするには、物事を多面的に広く、しかも深く見ることが大切です。 「偏らない心、こだわらない心、とらわれない心、広く、広くもっと広く」、これが般若心経空の心だと教わったが、まさにこの通りです。 それには、桃太郎を見習うことです。 桃太郎は、何故キジと猿と犬を連れていると思いますか? まず、キジが空高くから全体を捉えて焦点を定めます。 次には、猿が絞り込んだ地点の木や屋根の上に登って詳しく調べます。 最後は、犬が地面に足を付けて警戒しながら攻め込みます。 この要領が大切です。 (現代なら、軍事衛星で観察して絞り込むようなもの) 背景認識を確りと行い、思考の拡大、集束を繰り返して、本当の問題点を炙り出すことができれば、問題の半分以上は解決したのも同然です。 大部分の人は、夢や志、ありたい姿にしろ、理想と現実のギャップとして認識される問題や課題にしろ、点かせいぜい線で描く程度だが、面で描き、できれば立体化することが大切です。そうしないと、木を見て森を見ずになってしまいます。 それらを、ありありと目の前に浮かぶように、しかもカラーで描くことが出来れば、問題はほとんど解決したようなものです。 後(解決策)は、人の知恵を借りることもできます。 多くの人は考える時間を惜しんで、数個の問題点や解決策が浮かんだら即実行しようとしがちです。 だが、それでははかばかしい効果は期待できません。 なぜなら、直ぐに思い浮かぶ問題点やアイデアなどというものは、常識的な薄っぺらなものでしかないからです。 正しい思考や判断はまず量から生まれるので、広く深く考える必要があります。 では、「考える」ということは、どうことでしょうか? 森に入って、木登りしている動物の手足だけが見えるとします。 それを、後に回り込んだときに何が見えるかをシュミレーションして予測することが考えるということです。 問題分析も同じです。 シュミレーションして予測するには、手掛かりになる情報が必要で、それも多ければ多いほど精度が高まります。そのために学んだり調べたり実験したりして、あらゆる可能性を追求し仮説を立てることです。 仮説の信頼性を高めるには、納得性と判断の信憑性を高める必要があります。納得性を高めるには、まず広く深くものごとを追求することです。
2018.01.21
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幸せに生き抜くためには問題解決力が欠かせない 「生きる」とは問題解決の連続で(進学や就職から恋愛や結婚、病気や死まで)、人生とは「正解のない1冊の問題集」を解き続ける旅とも言えます。 従って、明るく、楽しく、自分らしく、命輝いて力強く生き抜いていくためには、時代を見極める情報感度を高めるとともに、直面する真の課題を見極め、状況に応じた独自の最適解を考えるための思考技術を磨く必要があります。 その結果、目の前の問題を上手く解決できれば、幸せに生きることができます。 仕事も同じで、どんな組織にも解決しなければならない課題が山積みしています。その課題を解決するのが仕事ともいえます。 ですから、組織で求められるのは、自ら考えることのできる人材で、問題を上手く処理していける能力のある人は仕事のできる人と高く評価され、幸せな人生を送れます。 企業も個人も若々しくあり続けるためには、永遠に自己革新ができるか否かにかかっています。永遠のアンチエイジングのための課題解決、これは生物が生き続けていく上での基本であり、それこそが「生き抜く力」の源泉といえます。 問題解決とは、「背景や事実を知る→及ぼす影響を知る→真因を知る→課題とありたい姿を明確にする→特定解を考える→確実に実行する(協力を得る)→成果を保証する」というプロセスを踏むが、「何を課題とするか」で5割(問題の影響度が小さければ効果は少ない)、その課題を「どんなコンセプトで解決するか」で成果の8割は決まるように思います。 従って、何が真の課題かを明らかにする問題分析は最も生産的な作業なのに、私たちは非生産的だと思ってとかく疎かにする傾向があります。何事であれ、事件の解決には警察の捜査や裁判でも事実検証に時間が掛かるように、問題分析に時間をかける必要があります。 ここを疎かにすると、誤認逮捕や冤罪事件が起きるように、問題解決においても真の課題を見誤り、あまり成果は期待できません。病気でも同じですね。 ところが、日本人の思考には何かと情が絡み、政府答弁でも揉めているように、白黒をハッキリさせない傾向があります。これでは、確実な成果は期待できません。 では、問題解決には何が大切でしょうか? その基礎となるのが論理的思考力だが、正しい思考には正しい判断が必要であり、正しい判断には正しく情報を受け入れることが必要になります。 そして、その思考結果を必要な人に正しく伝えることができなければ、思うように人を巻き込めず、何も思考しなかったのと同じです。 つまり、問題解決力とは、必要情報を正しくインプットして、本質を捉えて正しく判断し、状況に合った最適の対応策を考え、それを正確に伝えて協力を取り付けることに尽きます。ある意味で情報処理そのものであり、コミュニケーション力そのものともいえます。 従って、問題解決力と、その基礎となるコミュニケーション力を磨く必要があります。 また、必要な情報を収集したり、思考や実践においても、独りでは限界があるので周りの人に快く協力してもらう必要があります。それには、良い人間関係は欠かせません。 従って、この世を幸せに楽しく生き抜くためには、「問題解決力・コミュニケーション力・人間関係構築力」の三つが欠かせません。(AIの時代になっても、自ら取り組むべき課題を見つけたり、他人に働きかけて協力関係を取り付けることは人間の領域) 簡単に言えば、コミュニケーションとは、「聞く・読む」→「対応を考える」→「話す・書く」をお互いに繰り返すことで(言葉のキャッチボール)、お互いを理解し合い、利害の異なる他者とも共生して、楽しく生きてゆくための手段だといえます。 ビジネスにおいても、問題解決力や関係者を説得する力が求められます。何故なら、仕事とは上司や同僚、部下、他部署やお客様、取引先などを納得させ説得する行為にほかならないからです。 だが、その前に下地造りが上手くいっていないと、何事も上手く行きません。 とくに説得においては、人は何を言ったかよりも、誰が言ったかで説得力が違ってくるので、普段の言動からくるその人に対する信頼感は欠かせません。 従って、良いコミュニケーションを展開するには、まず下地造り=人間関係を構築する(関わり合い)能力、つまり分かり合い、共感する能力が必要になります。これは、スキルと言うよりも、人に対する姿勢の問題が大きいと思います。 また、ある芸能プロモーターが「スターになれるか否かは【能力×性格×運】で決まる。とくにこの人を盛り上げてやりたいという性格が大切」と言っていたが、性格が人を呼び、そこに生まれた縁が運を運んでくると思っています。 私は、世の中で成功する秘訣は【能力×努力×運=縁】(運が巡ってきたときに、それを確実に生かすには、普段から能力を磨き続ける努力が必要)で決まると思っています。 では、運とは何でしょうか? それは、宝くじや馬券が当たるような暁光ではなく、人と人とのの縁が運んでくるチャンスだと思います。 人との出会いの中で相手が興味を覚え、「こんなことをやってみる気はない」とチャンスを与えてくれたり、「この人をなんとかしてあげたい」という気にさせる何か(性格が大きい)があることから運は巡ってきます。
2018.01.20
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正しい判断を下すときのコツ 『出る穴が あるのに障子の トンボかな』 という川柳があるが、視野を広げてみれば逃れられる突破口がちゃんとあるのに、目の前の障子に頭を打ちつけて、いたずらにバタバタしているトンボの姿が思い浮かびます。 それは、何かを思い詰めて、目先だけしか見ていない私たち人間の姿そのものです。 物事を判断するときは、心に波風が立っているときは判断を延ばすことです。どんなに海が好きな人でも、嵐の海に小舟を漕ぎ出すようなバカなことはしません。 私たちの心を海に例えれば、怒りや恨みなどでカッカしたり、立場やメンツ、利害損得勘定などに囚われている状態は、ちょうど海が激しく波立っている状態と同じです。 そんな状態のときに、あれこれと思案したり画策したところで、嵐の海に小舟をこぎ出すのと同じで、上手くいくはずがありません。 寸時を惜しんで、答を出さなければならないことなど殆どないはずです。心に嵐が吹き荒れているときは、嵐が鎮まるまでじっと待つのが賢明です。どんなに心が波立っていても、時間がたてば心は必ず平静になります。それからゆっくり判断すればいいのです。 ところが、何事も性急に判断しがちです。その場の雰囲気で判断してしまって、裏切られたとか騙されたとか言って、泣き言を言ったり損害賠償を求めたりする人がよくいます。 感情にまかせて、言わなくてもいいようなことまで口走ってしまって、後になってから「なんであんなことを言ったのだろう」と後悔することもよくあります。 もう一つ、枝葉末節を切り捨てて全体から部分を判断することです。 私たちは、とかく目先の効果や成果だけで短絡的に判断して失敗しがちです。 ある庭師は「木を見て森を見ず」を諫め、しばらくチョンチョンとやると、遠くから庭全体を見渡し、庭全体のでき具合を吟味してから、また仕事に取り掛かります。 また、別の庭師は、切り始めたとき、すでに切り終わった状態が頭にあるから仕事が早い。さらに言うと、切り終わったときの状態とは、剪定が完成したときの形ではなく、木がある程度伸びた状態を想定しているのです。だから初めて仕事を依頼した人の中には、「ちょっと切り過ぎじゃないですか」と聞いてくる人もいるが、次の年になれば納得して、必ずまた依頼してくるそうです。 何事も、こうやって大局的に物事を見る習慣を身につければ、その場の雰囲気や目先のことに惑わされて判断を誤ったり、角をためて牛を殺す結果を招かないはずです。 もう一つ大切なことを、物事を多面的に観て判断することです。 桃太郎の話は、どなたもご存知ですね。 「天声人語」に、こんな話が載っていました。 福沢諭吉は、毎朝の食事の後で、子供たちに教訓を書いたものを渡していたそうです。 ある日の教えは桃太郎についてで、「もゝたろふが、おにがしまにゆきしは、たからをとりにいくといへり。けしかなぬことならずや」と書いてあったそうです。 鬼が島にある宝物は、鬼の所有物なのに、理由もなく取り上げるということは、桃太郎は強盗と同じではないかという問いかけです。 人間の側から観れば英雄の桃太郎も、鬼の側から見れば強盗殺人犯です。 桃太郎の故郷と言われる岡山県では、鬼の側から考える授業が中学であるそうです。 鬼太郎というキャラクターまで作り、「退治される鬼に子供がいたらどうなるだろう」と問いを投げかけ、「それでも鬼を退治してよいのだろうか」と議論を発展させる。 すると、なかには「鬼を悪者と決めつけてしまったから」という意見も出るという。 このように、相手の側に立って物事をよく観てみると、見える風景はガラリと変わります。 それは、歴史や政治、国際関係でもよく観られることです。 自分にとっては正義でも、別の人からすれば理不尽な振る舞いかもしれません。だから、物事を正しく判断するには、いろんな角度から判断して決定することが大切です。
2018.01.19
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迷ったときはどちらかを思い切って選べばいい 今を楽しめと言っても、何かと悩みの尽きないのが人間です。 でも、大概の悩みというものは、他人の冷静な目で見ればどうでもいいことだったり、妄想から自分で勝手に巨大な壁のように思いこんでいることが多いものです。 中国の宋の時代に、神宗皇帝が蔡君謀という人のヒゲが素晴らしいのでほめ、「寝るとき、そのヒゲを布団の中に入れて寝るのか、それとも外に出して寝るのか」と聞いた。 改まって聞かれてみると、ふだん何気なくしていることで、「さて、どうだったかな」と即答できず、「今夜よく観察してみます」と引き下がった。 いざ寝る段になって男は迷った。胸まであるヒゲを布団の上に出してみると、アゴが上がって息苦しい。かといって中に入れてみると、アゴが引っ掛かるような気がしてくる。そうやって、入れたり出したりしているうちに、その夜は一睡もできなくなった・・・。 彼ではないが、私たちは他人から見れば「何であんなことを」と思うようなことに迷い悩むことがよくあります。 でも、迷うのが人間だから、迷ったときは、心の窓を大きく開いて視野を広め、四方八方、天地から、もう一度ぐるりと、現実を、足元を見つめ直してみることです。 ①何のために、何を決めようとしているのか? (意外と目的が不明なことが多い) ②どんな姿になればいいのか? (「あるべき姿・ありたい姿」が明確でないことが多い) ③制約条件や障害は何か? (あるべき姿と現実の差から課題を明確にすることです) ④どんな解決策があるか? (視点を変えてあらゆる角度から解決策を考えてみる) これで、大概の悩みは解決するはずです。 それでも、最後にAとBのどちらにしようとかと迷うようなら、AB両案の差は二%だと割り切って好きな方を選ぶことです。 一方が20とか30で、もう一方が80とか70なら迷うこともないはずです。迷うのは、A案とB案の差が49対51で50±1の2%程度の差しかないからです。 だから、どちらか好きな方か単純な方(誰にでもできる案が最高)を選ぶか、一方にコインでも投げて決め、もう一方の案のことはスッパリと忘れてしまうことです。 そして、これしかない、これで大丈夫と一生懸命に取り組めば必ずうまくいくはずです。 それを、「ひょっとしたら、もう一方の案の方が良かったのでは」などと迷いを引きずって、選んだ案を信じて集中しないから上手くいかないだけなのです。
2018.01.18
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その時その時の自分が幸せ ソントン・ワイルダーが書いた『わが町』という芝居があります。 主人公のエミリーは、子供を産んだあと二〇歳代で死んでしまいます。 姑たちも先に死んでしまっています。 舞台の右と左にこの世とあの世があるというシーンで、司会者が「自分が一番幸せだと思う日に、たった一度だけこの世に帰らせてあげる」と言います。 エミリーは、一二歳の誕生日を選びます。 家の庭には懐かしくて素敵な物が一杯あるが、当時はどれも素敵だと分からなかったことや、「パパとママが、こんなに若かったなんて」と初めて気づきます。 再び死んだ人の世界に帰ってきて、 「本当の幸せが分かっていなかった。命が何万年もあるみたいに思いこんで、人間って生きている時って何も見ていないのですね。家族がちょっと顔を合わせたり、今という瞬間が幸せだということに気付いていなかった」と姑に語ります。 この世に、ずっと幸せな人生だったという人もいなければ、ずっと不幸な人生だったという人もいません。 幸せとか不幸というのは、この芝居のように、その瞬間、瞬間に自らの心で感じていくことが大切なのです。ところが、エミリーではないが、人間は「今ある状況」を何も見ていません。 四〇代になってから大病をし、手術して半年入院し、それから半年リハビリをして出勤することになった人が次のように話していました。 一年ぶりに会社に出勤してみると、階段に手すりがつけてある。平らなところを歩くのも未だ困難なのに、エレベーターもない二階の事務所に行かなければならないので、「俺のために階段に手すりをつけてくれたのか」と感激に身を震わせた。 ところが、その手すりは元々あったもので、二十何年かも毎日その階段を上り下りしていても、健康なときには気がつかなかっただけのことでした。 私たちは、見ているようで実は何も見ていないものです。 他人の身になって考える、弱者に思いやりの心で接するなどというのも同様で、口で言うのは簡単だが、自分が実際にその身になってみないかぎり何も見えないのが、かなしいかな私たち人間なのです。 大病をする、怪我で不自由な身になる、失恋をする、離婚をする、愛しい人を亡くする、職を失う、財産を失う・・・、そうなる前に、今という幸せに気づきたいものです。
2018.01.17
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今を生き切ることこそが幸せ 過去のことを振り返り 教訓を見出すのは賢明なことだ しかし 過去を生きるのは賢明なことではない それは現在の自分を否定することだから 未来のことを考え 準備するのは賢明なことだ しかし 未来を生きるのは賢明なことではない それも現在の自分を否定することだから そして 自分を否定することは 何よりも大事なものを否定することだ (スペンサー・ジョンソン『人生の贈り物』) あなたは、思い通りに行かなかった過去を悔やんだり、どうなるか分からない未来に思い煩っていませんか? それでは、現在は苦しくて惨めなだけです。 時間だけは身分や貧富に関係なく誰にも等しく一日24時間が与えられ、どんな権力者であろうと、過ぎ去った昨日の24時間を元に戻すことはできないし、明日の24時間を手にすることもできません。 一日一生というが、今手にしている今日の24時間をどう効果的に使うか? その積み重ねが、その人の人生そのものです。 目の前の24時間、いやミヒャエル・エンデ著『モモ』に出てくる亀のカシオペアは、未来とはとりあえずの5分間だけであると言ったが、人生は予測可能な目の前の5分間の積み重ねでしかありません。 その一瞬を、いかに楽しく有効な時間にするかです。 そうすれば、その積み重ねであるあなたの一生は、自ずと充実したものになるはずです。 でも、楽しいことばかりでないのが人生です。 そんなときは、「いかに素晴らしい楽しみも、今日一日だけのものと思えば、あまり浮かれることもない。いかなる苦しみも、今日一日だけのものと思えば、それほど苦しくもなくなる」とある人が言ったように、取り敢えず今日一日と思って生きればいいのです。 世の中のことは、心配してもどうにもなりません。 明日のことは明日思い悩めばいいことで、クヨクヨ、イライラせず、諦めきって今日一日を精一杯生きることです。 「諦める」とは、何も厭世的になることではありません。 物事の本質を明らかにし、「変えられるものと、変えられないもの」とを見極め達観することをいいます。 ◆追記 信長にまつわるこんな逸話があります。 信長は合理主義者のようでいて、しばしば不可解なものに異常なほど興味を示したという。 易占いについても、信じてはいなかったが、生年月日が本当にその運命を決めるのかを確かめてみようと思ったようで、「朝野雑載」にこんな逸話が載っています。 信長と同年同月同日同時刻に生まれた者を探し出すようにお触れを出し、一人の男が見つかり会うことになった。 見れば極貧の男で、「わしは天下を取り、おまえは極貧だ。同時に生まれても、運命がだいぶん違うな」と信長が言うと、男は「いえ、上様と私は大差ありません。ただ一日の違いだけです」と答えた。 「その一日とはなんじゃ」と聞くと、 「天下を持っても、貧しさに極まっても、それは昨日までの過去のこと。上様とて明日は分かりませぬ。今日一日のみ、上様は天下の主として楽しまれ、わたしは極貧に苦しんでいます」と、結局、人間は今だけを生きているというのを聞いて、信長は満足そうに頷いて男に沢山の衣服や金銀などを与えたという。 占いなどに一喜一憂することなく、「いま」という一瞬を精一杯生きればいいのです。
2018.01.16
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その場その場を楽しむ 「あと五年したら、桜前線を追いかける旅をしよう」と、四〇代後半の友人と約束した。「あと五年」という設定に特別な意味はなく、それは「何時かはきっと」と同義語であり、五年もすれば今よりもゆったりと暮らしているだろうという淡い願望でもあった。 ところが五年たった今、その友人はもういない。 その友は病院のベッドで、「もう少ししてからでも十分に間に合うと思っていた。だから、したいことは後回しにしてきた。『いつかはきっと』・・・って」と呟いた。 こんな話を、作家の落合恵子さんがエッセイに書いてみえた。 子供のころ、誰もが「何時かはきっと」「大人になったらきっと」をポケットに一杯詰め込んで、早く大人にならないかなと夢みていたはずです。 大人になったらなったで、「いつかきっと郊外に素敵な家を建てよう」、「船旅で世界一周を夫婦で楽しもう」などと、今したいことを我慢して貯金をし、楽しみを先延ばしにしてきたりしたものです。 それは、貧しい今日を明日につなぐ生活のはずみでもあった。 勤続二五年目のあるサラリーマンの方の話です。 勤続表彰で会社から旅行券をもらい、夫婦二人で二泊三日の旅に出かけました。 奥さんは、結婚以来の我が家の出来事を思い出すためにアルバムを持って行きました。旅館でアルバムを見ていた奥さんが、 「気がついてみると、夫婦二人の写真が一枚もない」 といって突然泣き出しました。 毎年四、五日郷里に帰る以外はどこにも旅行せず、美味しいものを食べることもなく、何も思い出になることがないままに、今日にいたったことが悲しくなってきたのです。 結婚のため、家を建てるため、子供の教育のため、老後のためなどと、一つの目標を達成してホッとする間もなく、またすぐ次の目標が出てきて、常に目標に向かって息せき切って走り続け、決して「いま」という瞬間をじっくりと味わい楽しむことなく、いつも楽しみを先に延ばして働き続けてきたのが、私たち戦後の復興期を担った世代の特徴でした。 そうやって楽しみを先に延ばしているうちに、いつの間にか人生の黄昏が迫り、今度は「お前はいらない」と会社からリストラで追い出されたり、資産デフレに見舞われたりして、『私の人生は何だったのか』と暗澹たる気持ちに落ち込んでいる人は多いと思います。 こんな話もあります。 イギリス人は、あまりゴルフの練習はせず、本番に備えて一生懸命に練習してくる日本人を、「フェアーじゃない」と言ってしかめ面で眺めているといいます。 誰もが普段は忙しい仕事をこなす一方、家庭サービスもし、教養も磨かなければならない。そんな中をやり繰りして、せっかく仲間と一日ゴルフを楽しむことにしたのだから、隠れて練習までしてくるのではなく、その場を楽しめばいいじゃないか。 本来、素人のするスポーツは、気晴らしのためにやる娯楽なのだから、血眼になってまで練習するものではなく、下手は下手なりに楽しめばいいじゃないかと言うのが彼らの理屈です。 私たち日本人は、とかく何事にも血眼になって練習に励む傾向があります。高校生でも野球やサッカーなどの選手は、まるでプロのように勉強そっちのけで練習漬けです。 狭い国土に人がひしめき、資源もない日本が、世界と競争するためには、そんな精神も必要だった面もあるが、とにかく私たち日本人は、何事もその場その場を楽しむことをせずに、「楽しみは後に残しておいて、今は我慢しろ」と言いがちです。 でも、人生には今しかなく、今を楽しむことがなくて「いつ楽しむ」のですか? 満足とは、追い求めることではなく、とどまることの中にあります。 幸せの青い鳥は山の彼方にいるのではなく、あなたの「今を楽しむ」心の中にいると思います。 辻邦生著『西行花伝』の一節に、源重実が後の西行に流鏑馬を例にして、「矢が当たる、当たらぬは二の次のことで、大事なのは、矢を射ることが好きだということ、当たるのも喜び、当たらぬのも喜ぶのが、真の風雅だ」と話す行があります。 つまり、矢が当たる、当たらぬではなく、矢を射ること自体が楽しいから矢を射る。その楽しさに生きることが雅であり、「この世の花」を生きるということなのです。 例えば、お金を儲けるために働くのではなく、働くこと自体を楽しむ。その結果として、お金が儲かるかもしれないが、そうでなくてもよいと考える。それが、人生を楽しく生きるコツだと言うわけです。 私たちの人生は、死に向かって流れる浮世という川に浮かぶ浮島のようなものです。そんな人生の中で、目の前の事が成るか成らぬかばかりに一喜一憂したり、うらみや権力などへのこだわりを捨てきれない執着が自分を苦しめ、我が身を滅ぼすのです。 目的や結果だけを追うのではなく、そのプロセスそのものを楽しむことです。 浮世のことが成るか成らぬかだけに一喜一憂することから離れて目を転じてみれば、緑の山川、花鳥風月のすべてが、たまらなく愛おしく、人との語らいにも喜びを感じるようになるはずです。 それこそが、優雅な生き方といえます。
2018.01.15
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幸せの三つのステップ 掃除に学ぶ会で活躍されている株式会社ローヤルの鍵山秀三郎さんは、(もう随分と昔のことだが)私の友人が担任する高崎の小学生との交流で、私たちには, ・してもらう幸せ ・できる幸せ ・してあげる幸せの三つの幸せがあると言いました。 私は、これを次のように解釈しています。 赤ちゃんの時には、泣けば、お母さんがお乳をくれたり、おしめを替えたりしてくれました。それは、父母の愛に守られた「してもらう幸せ」です。 社会人になっても、仕事をくれたり、何かプレゼントをもらえば嬉しくなります。その証拠に、この世の中に賄賂や接待がなくなることはありません。 年をとって子供たちに面倒を見てもらい、何不自由なく暮らせるのは幸せなことです。 他人から何かをしてもらうのは、いくつになっても嬉しいものです。 当たり前のように思っているが、「してもらう幸せ」のなんと多いことでしょう。 大きくなるにつれて、自分でいろんなことができるようになると嬉しくなります。「できる幸せ」です。 ハイハイができ、やがて歩けるようになる。一人で服が着られたり、ご飯が食べられたり、トイレに行ったり、風呂に入ったりすることができるようになる。遊びやスポーツができ、絵や字が書けるようになる。 達成感は人間を成長させ、生きている幸せを感じさせてくれます。 さらに、大人になっても、欲しい物が買える、贅沢ができる、綺麗な家に住んで美味しいものが食べられる、仕事がうまくできる、ゴルフがうまくなるなど、「できる幸せ」をいっぱい味わっています。 これら当たり前のように思っていることも、実は大変幸せなことです。体が不自由になってみて、自分で「できる幸せ」が初めて分かります。できて当たり前の「今」に感謝したいものです。 人間の本性は自愛と我欲だから、人から何かをしてもらったり、自分が何かができるようになると嬉しくなります。 でも、この二つは、自分の欲望を満たすだけの幸せです。 では、他人に何かをしてあげて心から喜ばれた時、あなたはどんな気持ちがしましたか? きっと、何とも言えない喜びを感じたはずです。 人は共に喜ぶ時、喜びは二倍にも三倍にも膨らみます。喜びが人の数だけ増幅され、感動を呼び起こします。 でも、人に何かをしてあげても、決して「してあげた」と思わないで、自分自身がさせていただける境遇にあることに感謝することです。 つまり、「させて戴ける」幸せです。 「してあげた」という気持ちを持つと、ついつい「~をしてあげたのに」と「のに」が出てきます。 「のに」には、何かお返しを期待した打算が見え隠れします。 そうすると相手も、素直に喜ばなくなります。 何かをしてあげても、すっぱりと忘れてしまうことです。 「してあげる幸せ」と「させて戴ける幸せ」は、慈善と布施の考え方に通じます。 ケーキが一つある時、「相手がかわいそうだから半分あげる」というのは慈善で、「二人で分けて食べた方が楽しく、より美味しく感じるから半分あげる」というのは布施です。 布施とは、そうした方が自分の気持ちが休まるから、自分の大事なものを人に貰って戴くのです。 だから、「ありがとう」と言うのは布施を施した人の方です。 それは、他人にしてあげられる幸せを、自らがかみ締めることにあると思います。 そうやって、小さいうちは「してもらう幸せ」が多く、だんだんと「できる幸せ」や「してあげる幸せ」が増えてきます。 「させて戴ける幸せ」に到達できればもはや悟りの境地です。 一生を精算した時、「してもらう幸せ」=自利から「してあげる幸せ」=他利を引いた収支がゼロかマイナスになるのが理想だと思います。 結局、幸せ感(満足)一杯の人と、不幸せ感(不満)一杯の人との差は、何かを行う場合に、自分の心のベクトルが何時も自分に向いている(我欲一杯)か、他人への愛(慈悲)に向いているかの差から生ずるように思います。 つまり、幸せのレシピの仕上げのスパイスが、「我」か「愛」かの違いのように思います。 我欲や利己主義が先立つ人は、心の中に絶えず不満や不安が渦巻き、他人と比べて妬みや嫉妬、凹みにさいなまれ、人をいじめたり人の悪口をいったりしがちです。だから、人が自然と避けるようになって深い縁が生じず、幸せの女神は舞い降りてきません。 例えばストーカーも、相手への愛ではなく、自己愛(我欲)のなせるもので、愛ではありません。 真の愛とは、相手の幸せを願う心から滲み出るものです。 一方、本当の愛の心を持っている人は、人を笑顔にしてあげたい、人を喜ばせたいという気持ちに溢れ、何事にも「有難し」と感謝の気持ちにも溢れています。 愛の最高の形は、お釈迦様の説かれた「忘己利他」と「慈悲喜捨」の心=「己を忘れて他を利する。これ慈悲の極みなり」に尽きるのではないでしょうか? 慈悲とは、人を楽しませてあげたい、喜ばせてあげたい、楽にしてあげたい、人の苦を和らげてあげたい、取り除いてあげたいと願う心です。 喜捨とは、慈悲の実践の結果、相手が喜ぶのを見て、「してあげたのに」と思うこともなく、ただ一緒に喜びあう心です。
2018.01.14
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志をもち自らを創っていくことが大切 「なりたい自分がわからない」「自分のどこを、どう変えればいいのか分からない」という人は多いが、自分という人間がどうなりたいのかが分からなければ、自分はどう生きていけばいいのか、何をすべきなのかは絶対に見えてきません。 そういう人は、自分の得意なものと苦手なものとを見極めていないからです。 そこでまず、次の点を真剣に自問し、しっかりと見極めることから始めて下さい。 ①何らかの夢、つまりこれから創っていく自分の姿を明確にする。 ・どういう人間になりたいのどういう仕事をしたいのか (何が本当に自分がやってみたいことなのか) ・どういう生活をしたいのか とくに大切なことは、世間体や時代の流れ、給料の良し悪しなどに惑わされないことです。それらは、生き甲斐や働き甲斐とは一致しないことが多いものです。 佐藤さんは一流銀行に就職し、アメリカ留学経験もあるエリートだが、「自分は高い収入を得るためだけで仕事を選んでしまった。お金を右から左へ動かすだけで、誇りを持てない。自分の人生を銀行に売ってしまったようなものだ」と自嘲気味に語ります。 柴原さんは、ボランティア団体でアルバイト的な仕事をしています。必死に働いても収入は少なく、両親にも反対されたが、自分の仕事に誇りをもってイキイキと働いています。 「人生を歩む上で、目的意識があるかないかが最も大事だ」と宗教哲学者のカール・ベッカーさんは言うが、この頃では志しや使命感に欠ける人が多く、その結果、生き甲斐や働き甲斐喪失症にかかっている人が多いような気がします。 その人が「何をするか・どんな方法でするか・何を、どの程度与えれば満足するか」を観察すれば、いかに自分を隠そうとしても隠すことはできないと言われた人がいます。 金や地位を与えれば動く人、酒やセックスで簡単に動く人、政治家も官僚も経済人も、自分さえよければ他人のことなどどうでもよく節操もなく動く人が多いように思います。 逆に、筋が通らなければテコでも動かない人もいれば、自分のことは後回しにして理想や正義のために「敵が幾千万人いようとも我は行かん」という人もいます。 若い間は無限の可能性があるのだから、夢をできるだけ大きく膨らませてみてください。 夢は風船のようなもので、どんどん膨らませることができるし、小さくしぼんだままにしておくこともできます。 「これは私の等身大」とあきらめている人も多いが、人間そのものに「等身大」というものなどなく、その人の心の持ちよういかんで大きくも小さくもなるものだと思います。 初めから諦めていては、あなたの未来が大きく開ける可能性はほとんどありません。大きな夢に、諦めずに挑戦し続けることでしか輝かしい人生は開けてきません。大きな夢を描いて、自分を創っていくことが大切です。 ②それを本当にやるつもりかを真剣に問いかけて下さい。 「イエス」なら、課題を明確にし、それに至るまでの道筋を描いて、ダメ元主義で思い切って挑戦してみることです。 それには、次の二点を見極めることも大切です。 ・自分にできること ・自分にできないこと 人間は一人ひとり違い、長所も短所も併せ持っています。 どんな人にも欠点があり、不完全だからこそ人間なのです。 そんな中で、長所だけを見つけてそれを限りなく伸ばしていき、決して人後に落ちない優れた能力を獲得することができたら、短所はその人の愛嬌や面白みに変わります。 誰でも、「これではあの人には勝てない」けれども、「これでならあの人にも勝てると」いうもの、つまり得手不得手があるはずです。 互いの得手で相手の不得手なものを補いあっていけばいいのであって、一人で何でもできなくていいのです。③あとは思い切って挑戦するしかありません。 職業選択は結婚に似ています。好きな相手と結婚したらうまくいくかというと、必ずしもそうではありません。 大切なことは、どちらもそれを選択してからの姿勢です。 三〇代に離婚して屋台のおでん屋を始めた女性がいた。彼女の偉かったのは、絶えず工夫と努力を続けたことです。 商売は11カ月で切り上げ、毎年月をずらして残りの一カ月は東京から京都の料理屋に奉公して修行し、12年で季節の料理を身につけた。そして、八畳一間だが、おそらくお茶屋料理としては日本一といわれる惣菜料理屋になりました。 ジャズダンサーとして押しも押されない第一人者の女性は、踊り始めたころは決してダンサーとしてやっていける体の条件を持ち合わせず、劣等生のレッテルを貼られていた。踊り始めて15年ぐらいたったころ、大きな壁にぶつかって自由に踊れなくなった。 それまでは寝ても覚めてもダンスのことだけで、上手く見せようとか、人にほめられる踊りをしようとしていた。すると、どうしても自分の器以上のものを見せようとする。これでは、ある一定のところまでなら通用するが、それ以上となると通用しません。 あるとき、「私は私、どうあがこうと、それ以上の私を見せようと背伸びしても仕方がない。人間、裸になればいいんだ。どうぞ私をじっくり見てください」という心境になり開き直った。そうしたら、スーッとわけもなくその壁が乗り越えられたといいます。
2018.01.13
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生き甲斐あってこその幸せ 「人間としての本当の幸せは、自己実現欲求が満たされたときである。それが、仕事であれ、趣味であれ、ボランティア活動であれ、自分の能力を十分に発揮できたとき、人間としての本当の幸せがあると思う」 と亜細亜大学経営学部の馬場房子教授も言われるように、幸せな人生、それは生き甲斐のある人生と言うこともできます。 生きる目的が明確で、自分の特性を生かして何かに打ち込み、やり甲斐を感じて毎日ワクワクドキドキしながら生きている人は、イキイキとしていて魅力的です。 社会人として人生の第二期を生きる人にとっては、仕事が生活の大部分を占めるわけだから、仕事に働き甲斐を感じない限り生き甲斐を感じることは難しいと思います。 例えば ・打ち込むものが見あたらない ・何をやっても夢中になれない などという悩みを持つ若者が沢山います。 そこまではいかなくても、「仕事も家庭もそこそこ。特別に不満があるというわけではなく、不幸でもないが、なんとなく人生がつまらない。何かもう少し打ち込めて面白いことはないかな」という人は年代を問わず結構多いはずです。 そういう人が、幸せ感を抱いて毎日をイキイキと生きていくのは難しいと思います。 では、この世にはじめから働き甲斐のある仕事というものがあるのでしょうか? 郵便局に勤め始めたA子さんは、窓口で切手や葉書を売ったり、保険の書類や貯金通帳を受け付けて必要な処理をしてお客さまに返すという、変化の乏しい単純作業の繰り返しが嫌になり、司書になろうと通信教育を受け始めたが一年間で挫折してしまいました。 転職が無理だと悟ったとき、毎日が楽しくない原因を考えてみました。 言われた通りの仕事をするだけの機械になっているからかもしれない、思い切ってお客様に話し掛けてみたらどうだろうかと思いました。 決心はしてみたものの、最初のひと声を出すのにずいぶんと勇気がいりました。 「ありがとうございます。良いお天気ですねえ」と言うだけで心臓がパクパクしたが、「本当ねぇ、あなたもだいぶ慣れてきたみたいね」と、お客様が返事をしてくれました。 その日以来、窓口に座るのが楽しくなってきました。 いまでは、お客様との世間話に花が咲いて、ときには局内が少し騒がしいこともあるくらいだとか。 すると不思議なもので、先方から貯金や保険に入りたいという相談を持ち掛けられるようになり、局での成績もグングンと向上してきました。 それにつれて、あれほど辞めたいと思って仕事が嘘のように楽しくなり、お客様に何を聞かれても言いようにと研修会にも積極的に参加するようになりました。 こんな経験をした人も多いと思います。 ようは、仕事への取り組み姿勢の問題です。 生き甲斐、働き甲斐は、自分が随所に主となることから生まれます。 信長の草履取りの下積み時代から中堅幹部に昇進していく青年時代の秀吉ほど、働くことを楽しむ方法を会得していた男はいないと思います。 言葉を変えれば、どんなに厄介なことや苦しいことでも、全て楽しみに変えることができた男といえます。 信長の草履取りになった籐吉郎は、未亡人となり貧乏暮らしをしている母親を引き取って楽をさせてやるには、一人前の武士になって俸給を増やさなければだめだと考えました。 そこで、武士になる条件や資格は何かと考えた。 部下がいるか、家柄はいいか、学力があるか、金があるか、コネがあるか・・・と指を折っていくうちに心細くなってきた。腕力、これも背の低い自分には不利だ。一人前の武士になる条件は何一つありません。 そんな切羽詰まった彼が、ないない尽くしの中で絞り出した結論は、 「今、俺は草履取りだ。ならば、草履取りとして与えられた仕事に全力を尽くせばいい」ということでした。 以後も、彼は目の前のことに全力を尽くすことを守り通しました。 それが、彼の明るさを生み出し、彼が世に立つ立脚点となったのだと思います。 学校を出たばかりの若い人のなかには、会社に入って地味な仕事ばかり続くと、 「こんなことばかりしていていいのだろうか」と不安に思ったり、「こんな仕事をするために会社に入ったのではない。他のもっとやり甲斐のある仕事をやらせて欲しい」と言う人がよくいます。 でも、もともと最初からやり甲斐のある仕事とそうでない仕事があるのではありません。 この世に雑用という仕事などなく、仕事の意義を理解しようともせず、身を入れることもなく雑に流すから雑用になってしまうだけのことなのです。 どんな仕事にも意義があり、すべてのものの奥深くには、この世の中を共通に律している真理(例えば、長年一つのことに打ち込んだ職人さんの中には、経営や教育の本質に通じる非情にうんちくのある話しをされる方がみえる)があるはずです。 だがそれは、一つのことを深く追求し、絶えず工夫することなしには到達しえないことだと思います。 どんな仕事であろうと、一つの仕事に打ち込んで世の中の役に立ち、自分自身も幸せであったと感じられる生き方こそが、最も幸せな生き方であるような気がします。
2018.01.12
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失って初めて気づく当たり前の重さ 家族のために一生懸命に働いてくれる主人(主婦)がいて、可愛い子供に恵まれ、元気に働ける健康がある。 それなのに今の境遇に感謝の気持ちが持てず、他人ばかりが幸せに見えて、ストレスでいっぱいの人が多くなっています。 私たちは普段、十分な幸せに囲まれながら、それを当たり前のことと思い、少しも意識していません。 それどころか、他人と比べて不足していることのみを絶えず不満に思ったり、次から次へと新しいものを手に入れようとしては、それがなかなか手に入らないと言って、不満の種ばかり膨らませています。 餓鬼のように自分が今持っているものに満足できない状態では、永遠に心が安らぐことはありません。 事故で両腕を失った大野勝彦さんは、こう語ります。 「事故で両腕を失って以来、何と胸が熱くなる瞬間が多いことでしょう。両腕を失って良かった。こんなに幸せでいいのだろうか。 リハビリの進行につれて、字が書けるようになり、次は絵が描けるようになる。さらに一人で食事ができ、シャツが着られるようになる。 健康な間は当たり前と思っていたことが、実は大きな喜びであり幸せであったのです。 いつも一緒にいるのが当たり前と思っていた家族や周囲の人も、実は素晴らしい宝物で、それに気づくようになってから、自分の素晴らしさがわかるようになった・・・」 大震災の時や、この頃のようにリストラが当たり前になってよく思うのだが、何かを失って初めて、今までの幸せに気づくことが何と多いことでしょうか。 私たちが普段意識しないで、空気のように当たり前に感じていること、 例えば、 ・体のどこそこが痛いということもなく健康でいられること ・家族が毎日元気に顔を合わせて食卓を囲めること ・多少の不満はあるにしても仕事や年金のお金が月末にはきちんと入ってくること ・美しい空気や水、自然に囲まれて生きていられること・・・ これらは、実は「有り難い」ことで、これが当たり前でなくなったときは大変です。 ・肩こりがしたり腰が痛むのを意識するだけでも大変な苦痛です。 ・家族の誰かが病気やケガをしたら心配でしょうがないはずです。 ・毎月の入金が無くなれば、心配で寝てもいられなくなります。 ・空気や水などを意識することは、環境汚染で生存が脅かされている証拠です。 毎日をイライラ、クヨクヨせずに楽しく過ごすには、 ・大病や大怪我をする ・愛しい人を失う ・火事や震災で財産を失う ・リストラで仕事を失う などなど、何かを失う前に、当たり前に生活できる今の素晴らしさに気付き、当たり前の「今」に感謝する生き方を貫くことです。 大きな幸せを求めすぎるから不幸な気持になります。 身の回りにある小さな当たり前の幸せを見つけ、それを揺りかごで赤ちゃんを揺するように優しく揺すってやることです。 すると、その喜びが段々と大きくなってきて、とても楽しい気分になってくるはずです。 不如意(思うようにならないこと)さえも楽しむ心を持つことです。 日本の伝統的な思想に、千利休や松尾芭蕉に代表される「わび・さび」があります。 これは、不如意な時に、そのことを苦痛と感じないで、「あるがまま」を「そのまま」に肯定して、焦らず、イライラせず、乗り越えていく心であると聞きました。 私たちは、健康や家庭生活、仕事においても、いつも一番いい状態でいたいと願います。だが現実は、一生ずっといい状態でいけることはなく、突然不如意なことが起きます。 そういう時に、どういうふうに心を整理して強く生きていけるかです。 どんな時でも、生きているだけで楽しいという知足の精神というか、 「月も雲間のなきは嫌にて候」の精神で生きていけば、 人生はいつも楽しいはずです。 そうは言っても、それができなくて苦しむのが私たち凡夫の輩です。 受験に失敗して浪人した、人が自分よりも先に昇進した、病気になって人生の貴重な時間を無駄にした、などと焦りがちです。 しかし、高層ビルで先に来たエレベーターに乗った人が、必ずしも最上階に早く着くとは限りません。人生の長いマラソンでも同じです。 あなたにとって人生の一大事と感じられることも、もし自分が明日死んだとしたら何ほどのことがあるかを想像してみてください。 きっと、生きていること、それだけで十分だと思えてくるはずです。 自分が今、こうして生きているというのは、それだけで十分に「有り難い」ことです。 そう思うところからスタートすると、大抵のものに感謝することができるはずです。 そんな感謝の気持ちが心の中にあれば、どんな不如意も乗り切れるはずです。 極論を言うと、病気になっても、不運になっても、感謝することです。 「冗談じゃない」、と思われるかもしれないが、 「このままではダメになるよ。生き方を変えなさい」という啓示だと思えば、何となく感謝の気持ちも湧いてくるはずです。
2018.01.11
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うれしくなるゲーム 『少女ポリアンナ』(エレノア・ポーター著)をご存じですか? ポリアンナは、「嬉しくなるゲーム」の天才で、どんなことの中にも嬉しくなる要素を探し出します。 嬉しいことがいっぱいある時なら、このゲームは簡単です。 でも、悲しい時にこそ、どんな薬にも勝る大効果を発揮します。 彼女は、どんなに辛いことや悲しいことに囲まれても、どこまでも食い下がって、必ず嬉しいことを見いだすのでした。 そして嬉しいことを見つけたとき、自分一人が喜ぶのではなく、周りの人にも喜びを分けてあげる名人なのです。 この童話は、何事も悪い面ばかりを見るのではなく、その裏に潜んでいる良い面を見ることが、前向きに明るく生きる秘訣だということを教えてくれます。 事業を営んでいると、取引先が倒産したり不渡り手形をつかまされたりすることがあります。そんなとき、「こん畜生」とその人を恨んだり、あれこれと悩むのが普通です。 京セラの稲盛和夫さんも、若い頃はそうだったそうです。 しかし、あるときから、過ぎ去ったことに拘泥せずに前向きに考えるようになり、「火傷程度で済んでよかった。命までは取られなかった」と思えるようになるにつれて、運のほうも開けてきたそうです。 ある経営者は、明るさが大事だと考え、毎日良いことだけを「光明日記」と名づけた日記に書いてみえます。 これを何年も続けていると、自分の人生はいいことだけで満たされている気分になり、自然と心が明るくなり、手相や顔までが変わってくるそうです。 作家の五木寛之さんは、弟さんが亡くなられてからしばらくの間、ものが書けなくなってしまいました。 そこで新しいノートを買って来て、どんなちっぽけなことでもいいから、その日嬉しいと感じたことを書き留めるようにしたところ、毎日の些細なことにも喜びを感じて、気力を取り戻したということです。 このエピソードを拙著『いい話のおすそわけ』(三笠書房)で紹介したところ、長野県のご婦人から次のようなお手紙をいただきました。 息子のことで悩んでいましたが、私も正月から『喜びノート』を作って、身近に感じた楽しいこと、嬉しいことを書き始めました。 『喜びノート』が一週間を過ぎた頃、不思議な力を発揮しだしました。 毎日、楽しいこと、嬉しいことを書いていると、自然に「ありがとう」の言葉を書きたくなるのです。楽しいこと、嬉しいことが有り難く思えて、感謝の気持ちに変わるのが不思議でした。 神々しい日の出、家の前を流れる清らかな千曲川の流れ、四方の山々の雄大さ、青く高く静けさに満ちている空、夜空には無数の星の輝き、電話の孫の声・・・。 今までは当たり前と思っていたことが、有り難いと思えるようになりました。 「私の小さな悩みなんてたいしたことはない。な~んだこれしきのことで悩んだりして」と、大きな気持ちになることができました。 去年の日記を見ると、愚痴の何と多いことか。心の持ち方一つで、こんなに人生が楽しくなるなんて知りませんでした。 私、五六歳。これからの人生、楽しい楽しい人生になります。 またある方は、毎日寝る前に、その日の楽しかったことだけを思い出して寝るそうです。 すると、ぐっすり眠ることができます。 ぐっすり眠れれば、翌日の朝は爽やかに目覚めることができます。 そこに善の循環が生まれます。 つまらないことから口喧嘩をしたり、腹が立ったりすると、すかさず顔に出ます。そんな時の顔を鏡で見ると、鬼のように恐ろしい顔をしています。 逆に嬉しい時や楽しい時の顔は、恵比寿さんのように素晴らしい顔をしています。普段から穏やかな心を持っていると、自然と穏やかな顔になってきます。絶えず怒ったり不平不満を言ったりしていると、人相そのものが暗くなってきます。 顔を造り出す心が変わってくると、自分の見聞する世界も変わってきます。それにつれて、自然と顔の相が変わってきます。 だから、大人の顔は自分の責任と言われるのです。 微笑は、いつも人の心を和ましてくれます。 赤ちゃんを見つめていると、自然と優しい心になってきます。赤ちゃんの無心な笑顔を思い浮かべて、笑顔の練習をしてみてください。 何事にも明るく前向きに対処していると、トントン拍子に全てがよくなってきます。 「悟りとは平気で死ぬことではなく、どんな境遇でも平気で生きていくことだ」と松岡子規は言いました。 平気で生きていくには、今あることをあるがままに受け入れ、今という時をできるだけ愉快に生きることです。 「花見んと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 咎にありける」と西行法師が嵯峨野のひっそりとした庵室が花見客で騒がしくなるのを嫌って謡うと、 「憂き世と見るも 世間を離れた山と見るも ただその人の心にあり 非情無心の草木の花に 憂き世の咎はあらじ」と老いた花の精が答える能「西行桜」の一節があります。 花はただ咲いているだけ。それをどうみるかは、その人の心次第です。 この世のすべてのこともそれと同じで、あなたがどう感じるかで辛くも楽しくもなるものです。 ポリアンナのように、「うれしくなるゲーム」の達人、名人を目指したいものです。
2018.01.10
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現実を肯定してみる 日々の生活には、面白くないこと、納得のできないこと、つらいこと、悲しいこと、理不尽なことが沢山あります。 だが、どんな場合でも、それが自分にとってどういう意味があるのかを考えて、自分なりに納得する答を見いだすことができれば、きっと幸せに生きていけるはずです。 肺ガンで12歳の子供を亡くしたお母さんは、 「心残りは勿論ありますが、仕方がありません。あの子と12年間も一緒に暮らせたのを、何よりの幸せだと思うようにしました」と語る。 古代ギリシャにも、次のような神話があります。 母親がヘラ女神の社に詣でる必要があったが、あいにく牛車に使う牛が畑仕事に出ていたので、長い道のりを二人の息子が牛の代わりになって牛車を引いて行きました。 用事が済んだ母親は、「あの孝行息子たちのために、この世における最高の幸せを授けてあげてください」と神様に祈りました。 すると神は、この祈りを聞き入れられ、疲れて神殿で眠っていた二人の息子は、二度と再び目覚めることはなかった・・・。 子供が若死にすれば、嘆き悲しむのが普通です。ましてや事故や犯罪に巻き込まれたのであれば、親の嘆き悲しむ姿は痛々しいものです。 だが、この神話は、仏教でも「生によって苦が始まり、死によって苦が終わる。修行の終わった者からあの世に帰る」と教えるように、「若死には必ずしも不幸ではない。ましてや神罰ではなく、神が人間に与えられた最高の幸せである」と教えています。 自身の良かった時や、他人の良い状況と比べないことも大切です。 戦争の後遺症で両足を切断し、右肩も動かない僧侶は言います。 「良かった時や他人と比べるから苦しくなる。今ある状態をそのまま受け入れれば苦はなくなる。そうすると、なんのてらいもなくなり、素敵な笑顔でいられるようになる」 私たちは、長生きする、五体満足である、財貨が沢山ある、素晴らしい地位につく・・・といった良い状態だけが幸せだと考えて、それだけを求めすぎて不幸な気持ちに陥りがちです。 だが、現状を素直に受け入れ、全身全霊をかけて目の前のことに取り組んだとき、自ずとこだわる心は消え、生きていることの本当の喜びを知ることができるはずです。 人生を明るく楽しく生きていくには、どんなにひどい状況の中でも、何かしら良いこと楽しいことを見つけ出し、希望を見いだしていくポジティブな思考が大切だと思います。
2018.01.09
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その場で幸せになる 不治の病にかかったとき、私たちはそれだけで絶望してしまいます。 だが、健康だけが幸せなのではありません。健康でも幸せになれない人は多いはずです。どんな状態であろうとも、そのままの状態で幸せにならなければならないと思います。 若い時に交通事故で失明して失意と不安からアルコール依存症になり、自殺未遂も引き起こしたが、そんな苦難を乗り越えて演歌歌手として活躍している広島の井上わこさんは、「目が見えないというハンディを抱えていても、努力を積み重ねることで人生の道が開けることがわかりました。交通事故に遭遇したことが人生の転機になり、感動的な出会いが生まれ、閉ざされていた心の窓も開いてまいりました。生きていてよかった。これは神様が私に与えられた天命だと思います」と語り、ボランティア活動で盲導犬や手編みのマフラーを送り続けています。 進行性の筋ジストロフィーに小さいころにかかると、大人まで生きられない人が大勢います。そんな辛い病気なのに八歳の少女は、 「私は自分の病気が、どんな病気か知っているよ。だけど、今朝目が覚めたら、まだ私の腕に車いすを動かす力が残っていたからうれしい」と明るく語ります。 同じ病気の人がいつのまにかいなくなる現実の中で、死の恐ろしさとこの幼さで向かい合い、限りある命なら、今日まだできることを喜んで、今日という一日を大切に生きていこうとする少女の心には打たれるものがあります。 私たちは、どんな境遇であろうとも、自分の心の持ち方次第で、そのままの状態で幸せを得られます。いな、幸せにならなければならないということを、しっかりと肝に銘じておかなければなりません。 幸せとは心の平安です。 心安らかに過そうと思ったら、なってしまったことやできないことを不幸せに思ったり、他人と比べて羨ましがったり、無い物ねだりをするのではなく、「今、ここ」に置かれた状況をそのまま素直に受け入れ、ありのままに任せ切って、その場で幸せになることを考えることです。 人の心は不思議なものです。電車の棚から荷物が自分の膝に落ちてきたとき、それが他人の荷物なら「痛いな、こん畜生」となるが、自分の荷物なら「大丈夫だろうか」と自分の痛さよりも荷物の方が心配になります。このように、心を何処に置くかで感じ方が全く違ってきます。どうせなら、何事も明るく前向きに感じて生きていきたいものです。
2018.01.08
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幸せな人生と不幸な人生 幸せな人生とか不幸な人生、幸せな家族とか不幸な家族というが、そんなことはありえません。幸せとか不幸というのは、その瞬間、瞬間に自分の心が感じていくものです。 例えば、恋人と一緒にいる時は、心もウキウキして幸せ感一杯です。 ところが喧嘩別れをしてしまうと、「本当に私が一番なのだろうか」と不安になり不幸な気分にもなります。 病気で闘病生活を強いられれば、生きた心地もせずなんと不幸だと思います。ところがリハビリをやって少しずつ体調が回復してくると、今まで落ち込んでいた気持ちがうそのように晴れて幸せな気分にもなってきます。 人間は幸福感に包まれていたと思ったら、次の瞬間には不幸のどん底のような感情に襲われることもあります。 幸せとか不幸は、その時その時の感情の起伏で刻むもので、その時その時で小刻みに感じていくものではなかろうかと思います。 だから、ずっと幸せな人生だったという人もいなければ、ずっと不幸な人生だったという人もいないはずです。 それは境遇にしても同じで、絶対的な形はありません。 人間は、どんな境遇にあっても、自分の心の持ち方次第で幸せを感じることができます。 薬害エイズを公表した川田龍平さんは次のように語ります。 「投げやりになった時期もあったけれど、自分の今の状態は不幸だけれども幸せだ。薬害で自分は命を脅かされている。この状態は不幸としか言いようがない。しかし命あるかぎり胸を張って生きていきたいと思い、二度とこういう問題の起きない社会にしたいと決心して一歩を踏み出したら、前には考えられなかったような多くの人たちと深い結びつきを持てるようになった。これは幸せ以外の何物でもない。今の自分は、不幸だけれども幸せという不思議な気持ちだ」 乙武洋匤さんも、「五体不満足は不便ではあるが不幸ではない」というように、どんな状況に置かれても自分の心と折り合いをつけて、「いま」という状況の中で自分なりの満足を見つけていくことは可能です。 逆に、他人から見たら健康で、出世もし、お金もあって幸せそうに思えたとしても、当人がそう思わなければ、それは不幸せな人生というしかありません。 充足感とか到達感というものは、自分の中だけで見つければいいものであって、それぞれの満足するバーは違います。個人差があって、他人との比較ではありません。
2018.01.07
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あなたは賢者それとも愚者 常に現状に不満を持っていて、死ぬまでこと足り充足感を感じることができない人は可哀相で愚かな人といえます。 逆に、それぞれの時点で、相対的な豊かさではなく、自分なりの心の充足感に満足を早く見つけられる人は幸せで賢い人といえます。 もの凄い財産があるのだが、好きなこともなく、自分を孤独で不幸の塊のように思いこんでいた未亡人が、ある心理療法の医者を訪ねました。彼女には、たった一つアフリカスミレを育てる趣味がありました。 そこで医者は、次のようにアドバイスをします。 「アフリカスミレをできるだけたくさん育てて、日曜日に教会に持っていき、誕生日がきた人に一鉢ずつ贈りなさい」 未亡人がそれを実行すると、おもいがけない喜びの葉書やお礼の手紙が来るようになりました。今までは誰も近づいてこなかったのに、自分の周りに段々と笑顔の人が近づいてきます。そして、未亡人はとても幸せな気分になりました。 富豪の家に生まれ、敬虔なヒンズー教徒である両親の温かい愛情を一身に受け、何不自由なく優雅に暮らしていたポールは、ある日突然に小児マヒにかかり、不幸のどん底にたたき込まれました。 動けない自分は、もはや世の中にとって余計者なのだ、生きている価値がない人間なのだと思い込むようになりました。 すると、世の中のすべてが、かってはあんなに美しいと感じていた花々でさえ、憎しみの対象となってしまいました。両親の愛情や友人の励ましも、彼女にとっては醜い自分を哄笑しているとしか受け取れなかったのです。 「私は死んだほうがいいんだわ」と絶えず思い続けていた彼女が17歳になったとき、偶然手にしたマザー・テレサの本で、 「今日の最大の病気は、ライでも結核でもなく、自分はいてもいなくてもいい、誰もかまってくれない、みんなから見捨てられていると感じることである」 という言葉に出合い、自分は貧しさや無関心に脅かされていたわけではなく、思い上がり、まさに今日最大の病気の虜になっていたことに気づいたそうです。 この二人ではないが、何不自由なく暮らしながら、こんな甘えた気持を持った人が沢山います。幸せは与えられるものではなく、自分自身の心の中にあるもので、心の持ち方を変え、幸せになる努力をして自ら感じとるものだと思います。
2018.01.06
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心の中の三匹の鬼 充足度は今のままでも欲望を小さくすれば、あるいは充足度が下がったとしても欲望を下げれば幸せ感は高まります。 つまり、「足るを知る」ことが肝要なのです。 老子は「足るを知る者は富む」と言い、次のように説きます。 得ると無くするとは、どちらが害か? 蓄え多ければ無くすも多い。 足るを知れば辱めがない。 止まるを知れば危なくない。 欲望の穴を塞ぎ、入口を閉ざせば、一生疲れることがない。 欲望の穴を開き、やりたいことをやるならば、一生救われないものだ。 凹めば水が満ちる。朽ちれば生まれ変わる。 少なければ得るし、多ければ惑う。 誇示しないから現れる。でしゃばらないから明らかになる。 誇らないから成功し、いばらないからよく続く。 争おうとしないから、誰も争う者がいない。 お釈迦様の最後の説法といわれる『遺教経』にも、「足るを知るの法は、すなわちこれ豊 楽安穏のところなり」とあり、次のような説話があります。 「家が狭すぎて困る」と不平ばかり言っている人に、お釈迦様は「では、あなたの家を広くしてあげよう。私の言う通りにしなさい。あなたの寝室に牛を一頭入れて一緒に寝るように」と言われ、翌日、「広くなったか」と問われた。 「いいえ、少しも」と答えると、「では、今夜は牛を二頭入れなさい」と言われた。 その翌日、また「広くなったか」と問われたが、男は「いいえ」と答えた。 すると、「では、もう一頭増やしてごらん」と命じられた。そのようにして、牛がどんどん増えていき、男は牛の間に挟まって寝る場所もなくなってきました。 「お釈迦様、なんとかしてください」と男が訴えると、 「では、今夜は牛を全部追い出して、あなた一人で寝てごらん」と言われた。 翌日、「どうだい、家は広くなったか」と問うと、男はしっかりと「はい」と答えました。 牛とは欲望の産物で、欲望を抑えることで心に余裕を持つことが大切だという教えです。 昔から恐れられてきた鬼を、実際に見た人は誰もいません。鬼は私たち一人ひとりの心の中にいるからです。赤鬼は「貪欲」、青鬼は「嫉妬」、黄鬼は「愚痴」を表しています。 誰もが心の中に飼っているこの三匹の鬼を心の中から追い出せば、気持ちがスーッと楽になるはずです。そして、自ずと心の平安と幸せがやってきます。
2018.01.05
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心の飢えが一番の貧しさ 物やお金に幸せを求める時代は、目標が明確なうえに、それを達成する方法も簡単です。 日本の戦後は、衣食住などすべての面で「欧米に追いつけ、追い越せ」をスローガンに額に汗し、ひたすら物質的豊かさを求めて走り続けてきました。その結果、確かに昔に比べれば生活は格段に豊かで便利になりました。 では、それで真の幸せがつかめたかというと、決してそうではないと思います。 恒常ドル価格で測ると、1950年以降に世界の人々が消費した財とサービスは、それ以前のすべての世代が消費したものの総計に匹敵し、40年以降のアメリカ人だけで、それまでに全世界で全人類が使ったのと同じだけの鉱物資源を使ったことになるそうです。 だが、シカゴ大学が50年代から定期的に行っている調査によると、「大変幸福である」と回答する人の割合は、ずっと人口の三分の一前後で変化していないとのことです。 『日経サイエンス』96年7月号に、「アメリカの富豪上位100人の幸福度は、平均的収入の人よりもほんのわずか高いだけである」という記事もありました。 このように、人間の幸せ度と財貨の多寡はあまり関係がないようです。 それは、多くの人にとって、所得と幸福との関係は絶対的なものなのではなく、周りの人よりも少しでも多く蓄え消費することで幸福を感じる相対的なものだからです。 結局、財貨に執着している限り、永遠に幸せにはなれないということです。 アメリカの社会心理学者マイケル・アージルは、 「幸福度に本当に差をつけるのは、交際、仕事、余暇のあり方である。これらの分野で満足できる状態を確立するうえで、絶対的な意味でも相対的な意味でも、物質的豊かさはあまり関係ない」と言っています。 マザー・テレサが来日したときも、 「日本では飢えた人はあまり見かけないけれども、街を歩き人の話に耳を傾けてみると、インドの道端に横たわる人以上に沢山の人が精神的に苦しんでいると感じました。インドではパンを与えれば微笑みを引き出すことができるが、日本では苦しんでいる人から微笑みを引き出すのは易しいことではありません。 日本の皆さんの使命は、心の悩みをともに分かち合い、微笑みを取り戻すことではないでしょうか」と言いました。 今、私たちに大切なことは、「心の欠乏感は、お金やものでは埋まらない」ということに気づくことだと思います。
2018.01.04
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ヒマラヤを黄金と化すも ポーランドの民話にこんな話があります。 ある時、海辺のあばら家に住む漁師が魔法の魚を釣り上げました。その魚は、自分を海に帰してくれるなら、その見返りに、漁師のつましい願いに応えて、丸太小屋と十分な食べ物を与えてあげると約束します。漁師は魚を放し、願いはかなえられました。 一週間後、漁師は最早それでは満足できなくなり、また海に行って魔法の魚を捕まえて、より大きな住まいを願い、手に入れました。それでも一週間もするとまた満足できなくなって、また魔法の魚に頼みました。 そんなことが何度も繰り返され、ついに漁師は王宮を要求するまでになりました。そのあまりの厚かましさに、魔法の魚は彼を元の海辺のあばら家に戻してしまいましたとさ。 お釈迦様も、 「ヒマラヤを黄金と化すも、一人の満足を満たすこともできない」と言ったように、「もっともっと」と欲望を膨らませていくのが人間の変わらぬ性です。 幸せ感は【充足/欲求】で表すことができます。 ですから、欲望を「もっともっと」と高めていく限り、常に充足を今以上に高めていかないと幸せ感は高まりません。 そこで、人類は太古の昔から、次から次へとモノを買い、お金を貯め、旅をし、美味しいものを食べ・・・と欲望を満たすために狂奔してきました。その頂点がバブルです。 だが、私たちはそれで幸せになったでしょうか? 人間には欲望があり、それを満たそうとして頑張るから進歩する面もあります。だが、「貧しく欲張らなければ、怒りと辱めの難を逃れて常に安らかで心配のない生活ができる。証拠は目の前に明らかで、仏教の教えを待つまでもない。それなのに道に暗い人は、財宝を蓄えて常に怒りを抱いている」と『正法眼蔵随聞記』が諭すように、財産を沢山持っていると、人がその財産を奪おうとし、すると取られてなるものかとたちまち怒りが生じて、口争いから訴訟になったり、殴り合いになったりして、辱めを受けることにもなります。 本来、欲望というのは、苦しむためのものではなく、楽しむためのものであるはずなのに、人間のすべての苦労や嘆きは際限のない欲望から起きます。 現在の私たちは、物質的には大変豊かな時代に生きています。それでもなお、もっと儲けたい、もっと贅沢な生活をしたいと血眼になり、奪い合い、蹴落としあう醜い争いが、至る所で繰り広げられています。 「自分の欲以上の損はしない」という諺があるが、年間二万件前後もの詐欺事件が表沙汰になるように、何かを得ようと必死になりすぎて却って財産を失う人が後を絶ちません。 常に求めて何時までも得られないのは欲求不満のストレスを、求めて裏切られるのは怒りのストレスを、内心で求めているのに我慢するのは自己抑制のストレスを引き起こします。 この世の中は、そんなストレスでいっぱいの人ばかりです。 貪欲は、決してあなたを平安で心豊かな暮らしには導いてくれません。 物質的なものや相対的なものは、一時の幸せ感をもたらしたとしても長続きしません。 何事も上にはがあるので、麻薬と同じで、次から次へと刺激を強くしていかなければ効かなくなります。 ですから、外的なものを沢山得れば得るほど、かえって内的な心の平安や至福の世界からは遠ざかっていきます。 豊かさには、財貨などの目に見える豊かさと、心豊かな時間のように目には見えない豊かさとがあります。 心豊かな時間とは、どんな空間(環境)で、誰と(人間関係)、どんなことを話し(情報=教養)、どんなことをしたか(行動)で決まります。 幸せ感とは心の平安であり、それは目に見えるものよりも、目には見えない精神的な豊かさによってもとらされるのではないかと思います。 トルストイも『戦争と平和』の中で、「自分の心中に幸福を求めなさい。幸せの泉は外ではなく内にある」と書いています。 臨死体験をした多くの人が、死の寸前までの自分の人生を走馬灯のように思い出した時、困っている人を助けた時や、汗を流して奉仕した時を一番楽しく感じたと語ります。 この話は、人間が生きている意味として最も大切なのは、お金や地位や名声ではなく、自分が世のため他人のためになったという、心の満足にあることを暗示しています。 人よりも一歩でも二歩でも抜きん出ようとか、今日よりも明日、明日よりも明後日と人を押しのけてでも頑張ることが、本当の幸せをもたらすとは思えません。 そのような生き方は、かえって幸せを取り逃しかねないと思います。 日々の暮らしの中で周りの人とも共有できる心豊かな幸せこそ、本当の幸せの姿ではないでしょうか? 死ねば無一物です。遺産がどうなるか未練を残して死ぬほど愚かなことはありません。あの世には何も持っていけないのに、沢山のものを持ち過ぎるから苦しくなります。身分や地位、権威、財産、傲慢・・・、こんな持ち物を持って天国に行くことはできません。 私たちは、現世におけるそのような持ち物にとらわれて、毎日汲々としています。そんな荷物を一度下ろしてみると、苦しみを喜びに変えることができるはずです。
2018.01.03
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豊かさの中の餓鬼 あなたは餓鬼をご存じですか? 仏教では、悪行の報いとして餓鬼道に落ちた亡者のことを指します。 やせ細って、喉が針の穴のように細くて飲食することができず、常に飢餓に苦しんでいる絵姿を寺などで見た方もみえるはずです。 インドの仏典には、「無財餓鬼、少財餓鬼、多財餓鬼」の三つがあると書かれています。 人間は、財貨が無くても有っても餓鬼になりうるのです。 つまり、餓鬼とは財貨の多寡にかかわらず、 「現在の状況に満足しない姿」を指します。 現在の私たちは物質的には豊かになって、昔の人から見れば極楽のような、何の不自由もない生活もしています。 しかし、次から次へと「もっともっと」と欲望が膨らんできて、なかなか現状に満足することができません。 ですから、いつまでたっても、安らかで心豊かな(幸せな)暮らしとは程遠い生活をしています。 そんな私たちの姿は、まさに餓鬼そのものです。 消費は人間に満足を与えないというのは、古くはキリストの生まれる前のローマの哲学者ルクレティウス以来、言われ続けていることです、 また、二千年以上も前に、アリストテレスは、 「人間の欲望には限りがない」 と言いました。文豪トルストイも次のように言っています。 「物乞いであろうと百万長者であろうと、自分の境遇に満足している人間がいるだろうか。千人に一人もいないだろう。 今日、外套とオーバーシューズを買えば、明日は懐中時計と鎖を買わずにはいられない。明後日は、ソファーとブロンズ製のランプのあるアパートに入らなくてはならない。その次は絨毯とビロードのガウン、そして屋敷、馬と馬車、絵画と装飾品だ。今日の贅沢品は明日の必需品となり、前世代の贅沢品は次の世代には必需品となる・・・」 人間の欲望が限りなく肥大していくことは、古今東西を問わない人間の性のようです。世の富豪たちが、税金逃れにケイマン島などに財産を隠すのを見れば明らかです。 この欲望の拡大をどこかで止めない限り、どんなに外見的には豊かに見える生活を送っていても、心の貧困から抜け出すことはできず、私たちはいつまでも餓鬼のままです。(注)昨日矢沢永吉が次のように言っていました。 20代で長者番付に出たけど、心がちょっとも温かくない。「神様、成功したら寂しさや、悲しさは消えるんじゃなかったの」と聞いたら、神様が指さした。見るとサクセスとは違う。もう一つのハッピーというレールがあった。成功と温かくなることは別なんだ。
2018.01.02
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始めに代えて 自分の幸せが見えない不幸 インターネットで知り合った人たちが集団自殺したりする時代、自殺者は長い間三万人台が続いたが、近年減少しつつあるが平成27年で2.4万人もいます。 内訳 20歳未満5.5% 20代9.8% 30代12.8% 40代16.9% 50代16.6% 60代16.5% 70代14.8% 80歳以上10.2% 戦争もなく(あの悲惨な十数年に渡るベトナム戦争でさえ、米国が失った兵士は5万8千人でした。)、一見平和で豊かに見える日本で、毎年二万人都市が一つずつ消滅していく異常さです。 だが、この世に自ら命を絶つほど不幸な人がいるのでしょうか? 案外、自分の幸せが見えない人が多いような気がしてなりません。 自分の幸せが見えないということは不幸なことだが、世の中には案外そういう人が多いような気がします。人のことばかりがよく見えて、自分を不幸だと思い込んでいるだけなのです。 そういう人に限って、はたから見ると結構な身分であることが多いものです。そういう人は、愚かにも自分で自分を無理に不幸にしてしまっているのです。 せっかく幸せを享受できる立場にありながら、それを評価する目がないために、あたらそれを無駄にしています。 それは、ようするに満ち足りると言うことを知らない、貧しい心しか持っていないからだと思います。 この世の中に、50%の不幸はあっても、100%の不幸はありません。裏を返せば、100%の幸せも無いと言うことです。 それに早く気づくことです。 ようは、幸せ、不幸せは心の持ち方次第だと思います。 リストラ、非正規社員、凶悪犯罪や少年犯罪の増加、戦争やテロなど暗い話ばかりが多い世の中だが、ゴーリキが「そりゃあ、人生はひどいもんさ。だけど、どんなにひどくても、自分でそれを投げ出すほどにはひどくないと思うよ」というように、冷静になってほんの少し目を周りに巡らしてみれば、死ぬほどのこともないはずです。 医者のフランクルが、アウシュビィツでの体験をつづった『夜と霧』の中に、600万人のユダヤ人が処刑されたといわれる極限状態の中で、最後まで自殺したり、反抗して射殺されたり、栄養失調で死んだりもせずに生き延びた人たちの考察があります。 凍えそうな寒さの中で死んだ人たちを埋める穴を強制的に掘らされているとき、林の向こうに真っ赤な大きな夕日が沈もうとするのを見た瞬間、スコップの手を休めて「おい、見ろよ。なんて素晴らしい夕日じゃないか」というようなことを言う人や、それに応えて仕事の手を止め、「ああ、本当に綺麗だな」というようなことを言える人、そんな人は比較的生き延びた。 ところが、「夕日がどうした、自分たちは明日はガス室に送られるかもしれないんだ」と言って、そういう美しさとか、夕日が沈んでいく様に全然心を動かすことのなかった人たちは、生きる希望と気力を失い先に死んでいったそうです。 そんな恐怖と飢えの日々の中でも、毎日、一日に一回、何らかのジョークなりユーモアのある話を創り、それをお互いに披露しあって力なく笑うことを繰り返した人たちは生き延びたと言います。 人間というものは、ぎりぎりの極限状態の中でさえ、些細なことに感動する、見とれる、笑うということによって生きていく上でのエネルギーを得ることができ(特に生きがいを失った高齢者には大切)、こわばった心を解きほぐすことができます。 こんな暗い世の中だからこそ、常に自分の心を明るくし鼓舞する話題に接し、何気ない小さな自然の変化にも感動し、「今という一瞬一瞬」に自らの心を潤すことが大切です。 私は、この世に生まれてきたからには、毎日を「明るく、楽しく、自分らしく、命輝いて」生きなければ生まれてきた甲斐がないと思っています。それは、どんな状況や境遇であろうとも、心の持ち方次第で可能だと信じています。 なぜなら、苦労も幸福もこれという確たる実態があるわけではなく、各人の心の持ち方が創り出す虚像にしかすぎないからです。 苦とは、思い通りにならないことを何とか思い通りにしようという葛藤から起きます。 ならば、どうしようもないことは、どうにもならないと諦めてありのままに受け入れ、目の前のことだけにただ一生懸命に打ち込めばいいだけです。そうしているうちに希望も湧いてきて、苦に感じることもなくなり、ときには喜びにも変わるはずです。 幸せ感にしても、絶対的な形があるわけではありません。 「もっと もっと」豊かになりたいという限りない欲望と、それの充足度の関係(幸せ感=充足÷欲求)から起きます。だから、欲望を飽くことなく膨らませていけば、それに応じて絶えず充足度が高まればいいが、そうはいかないのが現実です。だから、この世には不幸感を抱えている人で満ち満ちています。 そして、その「もっと」の基準は、自分より上の他人との比較や、自分がもっと良かった状態との比較(例えば、病気になれば健康な時と比べる)などから起きます。 であれば、比較する心を捨てて、今あるがままの状態を素直に受け入れて、その状態も実は有り難い状態なのだと甘受し、前向きに感謝する気持ちさえ持てれば、どんな状態であろうと幸せ感を持つことができるはずです。私は、そうやって人生を愉しんできました。 この本は、そんな幸せに生きるための心の持ち方を、先賢の方々の生き方を参考に、私自身や子供達のために整理したものをおすそ分けするものです。 実を申せば、私が二十年前に上梓した本二冊「人生にとって大切なことそうでないこと」(赤表紙)・「人生をうるおすいい話」(青表紙)が電子化されるにあたり、日の目を見ることはなかったが三部作目(黄表紙)として書いたものを思い出して読みなおし、77年間の人生体験を振り返りつつ、その間の実践経験を踏まえて加筆修正したものです。 私も77歳の老爺になり、この「幸せへのレシピ」が最後になると思い、書き手の片隅に生きた者の務めとして、冥土への置き土産として書き残すものです。 あなたが今日という日を「明るく、楽しく、自分らしく、命輝いて」生きるために、少しでもお役に立てれ幸いと思い上梓するものです。 2018年1月1日 京都嵯峨野にて記す
2018.01.01
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