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江戸いろはかるたの「の」は、喉元過ぎれば熱さを忘れるだ。熱いものでも飲み込んで喉元のあたりを過ぎてしまったら、その熱さを忘れてしまうという意味である。ただし、これは真実ではない。かなり熱い物を口に入れて慌てて飲み込むと、食道から胃の噴門部にかけてかなりの熱さを感じる。昭和40年代初め頃までの食肉処理場(屠場)では、内臓肉は今ほど価値がなかった。今は焼き肉店で人気のタン・ハツ・シロ・ハラミなども、当時は特別なルートを通せば無料あるいはただ同然の安い値段で幾らでも手に入った。タンやハツ・レバーなどの内臓と赤身肉とは、明らかに色・食味・香りが異なる。しかしハラミと称される横隔膜は内臓肉に分類されているのに、筋膜と脂肪を取り除いて処理するとほとんど赤身肉と見分けがつかない。横隔膜は哺乳類だけに存在し、呼吸運動に関係する筋肉である。腹式呼吸の際に、横隔膜の収縮によって胸腔を広げ呼吸を助ける。ハラミは「腹身」の意味で、赤身だが内臓肉に分類される。牛一頭から取れるハラミは、2~3kgである。焼肉の外に、煮込み料理などにも利用される。プリン体の過剰な摂取は、高尿酸血症や痛風を引き起こすことがある。プリン体は細胞の核を構成する物質ですべての細胞内にあるため、ほとんどの食品にはプリン体が含まれている。体内にあるプリン体の80%は細胞の代謝や運動によって自己産生されたもので、残りの20パーセントが食品由来とされている。「高尿酸血症・痛風の治療ガイドライン」によると、プリン体の摂取許容量は「400mg/日」とされている。細胞の核を構成する物質としてプリン体は必要不可欠だが、体内のプリン体が代謝されるとき尿酸を作る。必要量以上の尿酸は尿や便として排泄さるが、排泄傷害などによって尿酸が増えすぎると血中で結晶化し関節などに沈着・炎症を起こし激痛に襲われる。これを、痛風発作と言っている。酷くなると尿酸結晶の沈着によって、関節が膨らんで変形する。尿酸値が7mg/dl以上の場合は痛風予備軍とされ自覚症状がなくても、経過観察や治療が必要とされる。プリン体はほとんどすべての食品に含まれているので、多く含有する食品の摂取を抑え排泄を妨げないようにする必要もある。日常的には食品の選択によって、プリン体の摂取を適量に抑える。野菜やきのこ・海藻類など尿をアルカリ化する食材は、尿酸の排出を助ける働きがある。またプリン体は水に溶けやすいため、茹でる・煮るなどで減らすことが可能である。動物の内臓には多くされそれぞれの部位100g中に凡そ、鶏レバー312.2mg・豚レバー284.8mg・牛レバー219.8mg・豚ロース(90.9mg)、牛ヒレ98.4mgが含有されている。牛ハツ(心臓)には約185/100gのプリン体を含んでいるとされるので、ハラミにも赤身肉より多く心臓と同程度のプリン体を含有すると思われる。昭和50年代にかつての伝手で未処理の内臓を貰い受け、アフタータイムに機会あるごとにモツの煮込みを作って職員に振舞っていた。ある年の大晦日の前日に突然右足親指が紫色に腫れ上がって、歩くのも困難となった。美食家の病気と聞いていたため、よもや自分がその病気になるなど思いもしなかった。飲めば幾分痛みが薄らぐため、正月でもあり朝からビールを飲み続けた。休み明けに医院へ行くと、一目見て即座に痛風発作の診断を受けた。通常1週間ほどで発作は治まるのに、飲んだ所為もあって半月以上痛みとつき合った。考えてみるとモツとビールも多少影響したとは思われるが、一番の原因は降圧剤の副作用であったと考えられる。毎月薬剤処方のとき採血もしていたのに、尿酸値を検査していなかったのはまさに医師の不作為以外の何物でもない。某大学の心臓血管センターだったのだが、痛風発作以来通院先を変えて現在に至っている。その後1年の間に2回ほど痛風発作に見舞われたが、毎日服薬でコントロールし以来25年以上尿酸値5mg/dlとほぼ落ちついており発作は起きていない。25年以上ホルモンは食べなかったのだが、先日4枚の牛ハラミが手に入った。筋膜と脂を外し焼き肉用にカット、生下ろしニンニクと焼き肉のタレに漬けこんだ。2頭分4枚を処理するのに、1時間40分ほども要した。脂のサシが入った上肉を嫌う孫たちも、脂が少なく柔らかなハラミを美味いと言って腹いっぱい食べている。通販ではハラミ1kgを、3,000円~で販売している。購入してまでは食べないがすっかり喉元を過ぎてしまった今では、服薬しながらハラミを少しずつ食べている。
2017年03月29日

春の野に咲く花の代表として古くから、すみれ・たんぽぽ・れんげそうの三野草が上げられている。日本で最も古い植物辞典とされる平安初期の918頃」深江輔仁が著した「本草和名(植物事典)」には、蒲公草一名和名フヂナ・タナと出ている。フヂナ・タナは、万葉集や古今和歌集にも全く歌われていない。本草和名が、初出とされる。新井白石(1717)は「今俗にタンポポといふもの、蒲公草、すなはち是なり。この菜、田園、隴畝の間に生じぬるものなれば、タナと云ひにしにや、フチナの義、詳ならず。」と解説している。タナは、「田菜」の意味であるとする。レンゲ草は東アジアから中国が原産で17世紀ごろに渡来し、明治以後になって草食動物の餌や青肥としてその栽培が急速に広まった。野草というより稲の裏作として栽培されることが多く、自然に発芽繁殖するより殆どは播種によるものである。江戸中期の俳人滝野瓢水は遊女を身請しようとした友人を翻意させるために蓮華にことよせて、「手に取るな やはり野に置け蓮華草」と詠んだ。この3種の草花の中で最も古顔の菫だが、花姿が「墨入れ」という大工や石工が材に直線を引く道具に似ていることから名前が付いたとの説がある。墨入れは現在、墨壺と糸と糸車が一体化したものとなって使われている。道具として墨入れの原型ができたのは、古代中国との説がある。日本では7世紀に創建され法隆寺に使われている最も古い木材に、墨壺を使って引いた墨線の跡が残っているというので、すでにこの時代から道具として使われるようになったものと推測されている。正倉院に保管されているものが、日本に現存する最も古い墨壺だとされている。万葉集には山部赤人(736年)の詠んだ「春野尓 須美礼採尓等 来師吾曽 野乎奈都可之美 一夜宿二来」(春の野に 菫つみにと来(こ)し我そ 野をなつかしみ一夜寝にける)がある。日本には多年生草本のスミレ属が約60種自生し、その変種が数十種類もあって素人にはなかなか種類の鑑別が難しい。山菜を摘む野遊が行楽の一つとして楽しまれた時代には、食べるという実用以外の楽しみが摘み草にあったのであろう。あまりの美しさに野原で一夜を明かしたと言うが、よく考えてみると今の時季寒くて野原で夜明かしはできそうにない。昔人が摘んだのは、恐らくタチツボスミレであろう。タチツボスミレの花は、淡紫色が基本だが変化が多い。側弁には毛を生じない。葉は卵形、托葉は櫛の歯状をしている。タチツボスミレは砂糖漬けや、サラダのトッピングとして食用にもされる。ただしヨーロッパから移入されたニオイスミレは香りがあり、切り花や花壇用として栽培され径約2cmの左右相称の花を頂につける。種子や根は有毒で中毒で嘔吐・神経麻痺・心臓麻痺などの症状を現すという。彼岸を過ぎて我が家の庭や玄関前の道路の側溝の縁に、今年もタチツボスミレや仄かな香りの花を咲かせるスミレが咲いた。
2017年03月27日

トマト キュウリ家庭菜園で人気が高い夏野菜として、昔からトマト・ナス・キュウリが定番である。一般的には専業農家であっても苗を購入して育てる場合もあり、栽培面積が少ない家庭菜園では種から育てる人は殆どいない。初歩の間は苗から育て、栽培のコツを掴んだら種から育苗して育てて見るのも楽しい。苗の場合自分の栽培したい品種が必ず入手できるとは限らないが、種であれば多くの品種の中から好みの品種を選ぶことが可能である。普通の苗で200円~接ぎ木苗では一株400円ほどと高価だが、種一袋は500円以下で購入可能である。普通家庭菜園では多くても栽培するのは10株程度だから、種から育てれば1/8と安価になる点もメリットがある。さらに播種して芽を出し育つ様子を観察することも、日々の楽しみである。したがって苗では市販されていない珍しい品種を育てたい時や、広い畑でたくさんのトマト栽培をしたい場合には種からの栽培がお薦めである。毎年トマト30株を、栽培している。数年前まで苗を購入していたが、トマト・ナス・キュウリなどで1万円を超えるようになった。そこで節約の意味もあって自分で種から育てるようになった。トマトやナス・キュウリの育苗は、コツさえ覚えれば簡単にできる。トマトは定植まで2か月程度の育苗が必要なので、播種の時季は温暖地でも3月初旬~4月下旬が適期とされる。定植の畑の場所によっては5月中旬になって晩霜が下りることがあり、その点を考慮しなくてはならない。一般的には日中外気が上り始める、3月中旬頃が播種の適期である。ただトマトの種の発芽温度は20~30度であるが、関東地方のこの時季の外気温では十分でないため室内で管理する。昼間は窓辺の日当たりのよい場所に置き、夜間は部屋の中央に移動し照明を遮断して暗くして管理する。最も手軽な方法は、4号サイズの育苗ポットに直接種を播く方法である。ポットに種まき用の用土を入れ、種を2粒~3粒播いて薄く覆土する。発芽するまでは水切れしないように、ポットの底面から吸水させる。4cmほどに伸びたら、間引きをして1本にします。多くのポットを部屋の中で管理するのは大変な手間が掛るし、狭い部屋では置き場所にも困る。今年は3月10日に直接発砲スチロールの箱に大玉F1こくうまパーフェクトEX・栗原トマトとF1新中玉トマトの3種を筋播きし、同じ箱にナスと鷹の爪唐辛子・結球レタスの種を播いた。箱には保温と空中湿度を保つためビニールを掛け日中は部屋の中の窓辺で一日中太陽に当て、夜間は蓋をして窓からの冷気を受けない部屋の中央に移す作業を毎日行った。通常は発芽適温なら1週間ほどで発芽するが、人工加温をしないので発芽まで10日を要した。最も早くレタスが発芽し次いでトマト・トウガラシと続きナスは最も遅く、発芽までに12日を要した。同時にポットへ播種したキュウリは既に間引いて1本にし、水槽を利用して育苗している。トマト・ナス・鷹の爪・レタスは、トマトにこの後3枚目の本葉が見えてきたら4号のポットに1株ずつ植え替えて定植まで育苗する。晩霜の心配がなくなる5月中旬に植え付ければ、7月中頃には初収穫となる。
2017年03月22日

地球上で最もすぐれている人を、北極星を用いて「斗南の一人」と表現する。その他に「北斗星」を用いた言葉には学問や芸術などの一つの分野で最もすぐれている人のことを泰山北斗といい、川や道が曲がりくねっていて長く続いている様子は斗折蛇行、名前に本質が伴っていないことは南箕北斗である。斗南の「斗」という漢字は枡や容積の単位、北斗七星などを意味するが、ここでは北斗七星の意味で使われている。「斗南の一人」の南は北極星より南ということで、地球上あるいはこの世のすべての意味がある。一人は「いちにん」と読み、ただ一人のという意味である。「斗南の一人」の出典は新唐書[狄仁傑伝]に「狄公の賢、北斗以南一人にして已む」とあり、この世の中で最も賢人とされたことが由来となって賢人に対して使われる。ここでいう賢人とは、聖人に次いで徳のある人のことである。狄仁傑は子供の頃、どんな場所でも何をしている時でも書を読み耽っていた。これを見咎めて叱責されると、「聖賢の言葉が詰まった書を読まずに、俗吏の言葉に耳を傾ける暇はない」と答えたと伝わっている。科挙の明経に合格し、并州法曹参軍に抜擢された。その頃老いた母を看ている同僚が辺境への使者に選ばれた際、代わって自分が行きたいと志願した。このため、上役たちは常々「北斗より南、狄仁傑以上の賢人はいない」と語っていたのだという話が伝わっている。やがて朝廷に召されて、大理丞(司法全般を管轄し重大事件の裁判・監獄の管理・刑罰を執行する職。)となる。大理丞に就任して1年で獄に滞っていた1万7千の罪人を処理したが、一人も冤罪を訴えるものはいなかった。唐軍の最高責任者である張光輔が賄賂を求めるのを拒否した上、降伏してきたものを殺して手柄としているのを責めたことにより不遜として復州刺史へ左遷させられさらに洛州の司馬まで降格させられた。その後691年女傑武則天により都に呼び戻され、要職に任命された。その筋の通った発言・諫言によって、武則天のさらなる信任を得ることになった。697年朝廷に戻って異民族との戦いにおける軍事に力をいれていることを諫め、異民族の王に僻地を支配させ防御に徹し、攻められた際には清野の計を行うことを進言している。武則天は狄仁傑を尊重して名前で呼ばず、「国老」と呼んだという。新唐書』巻百十五列伝第四十 狄仁傑伝一朝国老狄梁公 一国の国老(国家の柱石となる老臣) 狄梁公は、承順匡扶尽至忠 勅命を謹んで受けてはこれに従い、悪しきをただし、良きをたすけて忠誠を尽くした為接続唐天命脈 そのため唐の天下の命脈は断絶しなかった賢良悉入薬籠中 賢臣良臣はことごとく彼の思いのままになった狄仁傑のような賢人は、彼の国には最早存在しないようである。わが国においても然りで、近頃の国政・大阪府政・都政の混乱振りは目に余るものが有る。都政に至っては最高責任者の知事経験者が在任中の決裁文書に自分の印鑑を押した覚えは無く部下が勝手に押印したものだと言い、さらに「物事がどのように決定されたか知らないので、責任は無い」、とまで言い切っている。そもそも市井の人が行政に関わると、組織の何たるかさえも理解されていない。都政の混乱は今に始まったわけでは無く、すでに何代も前の知事時代から連綿と続いてきた事柄である。全ての事案を知事が目を通して決済することは、物理的に絶対に不可能である。そのため国政・地方行政に関わらず重大・異例の問題の程度によって、下位のものに決定権限を委譲して決裁される。下位者が法や条例に基づいて決定しても、行政の長は全ての結果責任を負わなくてはならない。それこそが、最高責任者の職務だからである。椅子にそっくり反って、三百代言を並べたてていることが職務では無い。国有地の売却問題に端を発した問題も、とても賢人の集団が行った行政判断だとは思えない。加えて総理の周りの人間も、恰も自分が偉いと錯覚をしておられるようにも思える。「斗南の一人」になるのを期待しても無理なのは分かるが、人の上に立つ者はせめて「国会の一人」・「議会の一人」「省庁の一人」と言われるような人物を目指して欲しいものだ。
2017年03月21日

啓蟄とは冬の間凍結していた凍土も溶け、小動物が穴から出て活動を始める時季だという。しかし、南アルプス甲斐駒ケ岳の麓標高630mを超える山荘辺りでは、未だ暫くの間は氷点下5度を下回る日があり午前中土壌が凍結する。山荘の近くに在るわに塚の桜や神代桜などの早咲きのエドヒガンも、東京のソメイヨシノより20日程度遅れて4月中旬にならないと見ごろにならない。暦では啓蟄の末候の今日3月15日頃は、七十二候では「菜虫化蝶(なむしちょうとなる)」である。この頃になるとキャベツや菜の花に着いた青虫が羽化して蝶となり、飛び始める頃とされる。「菜虫」とはアブラナ科の野菜に付く厄介物の青虫のことだが、春早く満開の菜の畑1mほどの高さを頼りなげに揺ら揺ら飛ぶ姿を見ると漸く春になったたことが実感できる。モンシロチョウ初見の平年日は、関東では3月である。しかしまだ羽化には早く、ソメイヨシノが咲く頃にならないとなかなかモンシロチョウの姿を確認することはできない。年間を通じて霜が降りる心配が殆ど無い東京では2月中にジャガイモの植え付けを行うが、山荘の辺りでは5月中旬過ぎまで晩霜の心配が有り近くの農家は4月中旬になってから植え付けている。私は毎年3月末には植えるが、何回か晩霜のため延び始めた芽が真っ黒になって枯死したが、ジャガイモは再萌芽力が強いので関東の桜の開花に合わせて植えている。今年は11日の昼前に凍土が溶けたので、電動カルチベータを使って畑全体の耕起を行った。日本には農民・農家・農業従事者を指す、「百姓」という言葉が有る。漢語にも百姓が有るが、意味は大分異なる。日本で使われる百姓という言葉の意味を辞書風に言えば、「家業として農を営む者あるいは家」と言えようか。この言葉には多少なりとも、侮蔑の意味も込められている。本来の百姓の「百」は、「たくさんの」との意である。また姓は(カバネ、可婆根)で古代ヤマト王権において、大王(おおきみ)から王権との関係・地位を示す称号として有力な氏族に与えられたものである。したがって古代においての百姓は、「さまざまな姓を有する公民」という意味であった。これがやがて、「一般人民」や「庶民」を指していう言葉となっていった。漢語では(ひゃくせい)で庶民を意味し、現在の中国語で「老百姓」が「庶民」の意味で使われている。日本においても百姓は当初、中国と同じ天下万民を指す語であった。平安時代の延喜元年(901年)に成立した天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの歴史書「三代実録」で初めて農民の意味として使われたという。明治以降になると、農民を指す言葉として一般的に理解されるようになっていったとされている。17年前に山梨県と長野県の県境近くに山荘を建て、約70坪を人力で開墾して菜園を作った。数年はスコップ一本で耕していたのだが、年と共に土を耕起することが重労働となってきた。数年前にとうとう、電動のカルチベータを導入した。1時間もあれば70坪の菜園の耕起は完了する。本当は30cmほど耕したいところだが、電動カルチベータでは10cmほどの深度に耕起するのが精いっぱいである。サル・イノシシ・シカ・ハクビシンなどに作物を狙われ、収穫物の殆どは持っていかれる。どんなに頑張っても業として成り立つはずも無く、「百姓」にはなれないで相変わらず「五十姓」のままである。
2017年03月14日

李白の「靜夜思」は、漢文入門で必ず習う有名な漢詩である。60数年前中学3年生の教科書で習って以来、忘れたことは無い。日本では 床前看月光 疑是地上霜 挙頭望山月 低頭思故郷 が良く知られているが現代中国では「看月光」の部分を「明月光」、「望山月」を「望明月」としている。 床前明月光, 是地上霜。 舉頭望明月, 頭思故郷。この詩が詠まれた季節は少なくとも夏や春では無く、現在の暦で11月から3月までの満月の夜の情景であろう。月光が青々と茂った草木を映し出したのでは、「疑是地上霜」という感じがしっくりしない。そして「床前看月光」だから、部屋の戸を開け放って見たのだろう。そうすると、もう少し温かい時季になるかもしれない。中国版にある「明月」は「名月」と同じで、晴れた夜の美しく光り輝く満月のことである。満月の月明かりが、庭を照らす情景が目に浮かぶ。 明月や 無筆なれども 酒は呑む 漱石3月12日は、満月であった。7時半過ぎには、東の空に青く輝く月が上った。いつもの事ながら霜枯れた庭や畑を照らす月の光を見ると、「疑是地上霜」の一節が脳裏に浮かぶ。外気温零下の空の下では、長い時間感傷に浸ってはいられない。10分ほどで、家の中に入った。翌日の早朝4時の西の空は雲一つ無く晴れ渡り、積雪の甲斐駒ケ岳が沈む月明かりに墨絵のように浮かんでいた。澄み切った零下4度の冷気の中に暫くの間佇んで、思わず「靜夜思」を口ずさんでいた。2017年の中秋の名月は、10月4日(水)である。澄んだ空に、明月を見せてくれるだろうか。
2017年03月13日

今年の3月5日は、二十四節気では啓蟄であった。太陰太陽暦の2月節のことで、太陽の黄経が345°に達した日に始り春分の前日までの約15日間をいう。しかし現行暦ではそれが起こる第1日目とされるているが、期間では19日までが啓蟄でもある。「蟄」には動物や昆虫が冬眠のために穴にこもる・かくれる・閉じこもる・静かにする・なごやかに集まるなどの意味がある。啓は、開くと同義である。啓蟄の元の言葉は「蟄虫啓戸(ちっちゅうこをひらく)」で、冬蘢りの虫が出て来ることを言う。ここでいう虫とは、冬眠から目覚め始めるすべての生物のことを指している。啓蟄の蟄には、虫という字が使われていて辞書には、「人類・獣類・鳥類・魚貝類以外の小動物の総称。特に、昆虫をいう」とある。「虫」は象形文字で毒蛇の形をかたどったもので、これには爬虫類全般を含んだ意味を持っている。虫の読みは「キ・ケ」、「ムシ」である。これに対して異体字の「蟲」は生物全般を意味する文字で、虫とは別字であった。読みは「チュウ」であって、「虫」とは明確に異なる文字や概念であった。古文書には、ヒトは「裸蟲」・トリは「羽蟲」・獣は「毛蟲」・魚や爬虫類は「鱗蟲」・カメや甲殻類・貝類は「介蟲」と表現されている。しかし早い時期から画数の多い「蟲」に代わって「虫」が使われるようになり、生物全般を指す「蟲」本来の意味合いは失われどちらの文字も「チュウ」と発音されるようになっていったものである。虫の意味もヘビ類より小さい、主として昆虫などの小動物に対して用いる文字へと変化した。中国では、龍も蟲の中に入れている。架空の動物蜃(シン)は水中に住むとされる竜で、蜃気楼は「蜃」の吐く息が昇華してできる現象だと考えられていた。また「虹」は天に舞う竜の化身だと考えられたため、虹蛇の表現も用いられた。虫の文字の元になった「蝮」は真虫で、虫に「本当・真実」の意の接頭語「ま(真)」が付いたものとの説がある。この真は真鯛・真鰯・真蛸・真鴨・真鶴・真鶸・真木・の真と同じ用法で、その類の中で最も代表種という意味を表している。「啓蟄」は、「冬籠りの虫が這い出る」(広辞苑)。「大地が温まり冬眠をしていた虫が穴から出てくるころ。」とある。1787(天明7)年に出版された暦の解説書「暦便覧」には、啓蟄を「陽気地中にうごき、ちぢまる虫、穴をひらき出ればなり」と記している。「蟄虫啓戸」と対の「蟄虫坏戸」(むしかくれてとをふさぐ)は、冬になって虫類が土中にこもること。また、その頃。現在の暦では9月28日~10月2日ごろの仲秋に相当する。蟄虫坏戸自体は、「虫が土中に掘った穴をふさぐ」という意味である。暦の通り3月5も過ぎると、陽光に春の力強さが感じられるようになった。2月末まで甲斐駒ケ岳の麓の標高600mを超える場所の菜園は、地中深くまで凍りついていた。凍土が溶けて厳寒の地にも漸く春の兆しが感じられるようになり、シンボルの甲斐駒ケ岳の頂上には鮮やかな星型が現れた。星型が崩れて、槍騎馬武者になると春・夏野菜の作付準備が始まる。
2017年03月08日

「戠」という字は、「目立った」などの意を持つ派生漢字である。これに布切れを意味する巾が付いた幟(のぼり)は、「目立つ旗」となる。戠に火偏が付けば熾(おき)となり、篝火またはそれが盛んに燃える様を表す意味となる。また木偏が付いた樴は、杭(くい)である。職業の職は耳で聞き分け、よく理解している仕事という意味になる。糸が付くと織(おる)となり、糸を組んで折り目を目立たせる意味となる。言が付けば識となり、言葉を明確にし良く理解することを表す文字となる。「熾」の一文字を「おき」と読める人はなかなか少ないと思われるが、この文字にさらに火を重ねると「おきび」と読める人が倍加する。熾き火としないで、熾だけでも同じ意味である。おきびとは火勢が盛んで赤く熱した炭火や薪が燃えた後に残る赤い火のことで、この状態で酸素の供給を断つと消し炭になる。つまり炭や薪が燃えたあとの、赤くなったものが熾き火である。熾は火勢が盛んであるという意から、勢いが盛んで激しいことやその様を意味した「熾烈」という言葉が生まれた。「熾す」は「起こす」と同じ意味を持ち炭などの火の勢いを盛んにし炭や練炭などに火を点けることであるが、同じように火を点けても薪に付ける場合は熾すとは使わない。これが自動詞の「熾る」では「起こる」と同じ意味を持ち、炭に火がついて盛んに燃える様子に使われる。熾盛(しせい)という言葉は、火の燃えあがるように勢いの盛んなことの意味である。熾掻き(おきかき)は熾を掻き立てたり掻き寄せたりする道具で、火掻きとも言われる。「熾き火」はオレンジ色の火炎が巻き起こる状態の後青色の火が静かにチロチロと長く燃え続ける状態になったもので、電気や石油・ガスが主流になる以前はこの火を炭に移して暖房や炊事の燃料とした。今では既に死語に等しいが、「夏下冬上」という言葉がある。火種(熾き)を夏は炭の下に、冬は炭の上に置くと炭へ火が移り易いということを言い伝えた言葉である。冬は下降気流が夏は上昇気流が発生するためあるいは、夏は種火の熱が外へ出たがり、冬は寒いので種火が中心に向かうのだとの説がある。夏下冬上に納得できる証明はされていないので、真偽のほどは定かでない。常識的には夏冬のわずかな温度差が、着火に影響することは到底考えられない。今では暖房や炊事を薪や炭に頼ることが殆ど無くなり、火の焚き方を知らない若者が増えた。我が家の子供たちも、薪ストーブに点火することができない。山荘の暖房はスウェーデン製の薪ストーブで賄っており、非常に熱効率が良い。火炉の内側は耐熱煉瓦で囲われているのだが、どんどん薪を入れ空気の供給口を全開にするとストーブ側面が赤熱するほどである。不完全燃焼で前面のガラスに着いた煤は、薪を投入するほどに高熱であっという間に分解されて綺麗になってしまう。火の着け方だが先ず火炉の奥に太い薪を横に置き、薪の真中から火炉の左右に三角形になるように径10cmほどの薪を数本並べる。その隙間に割り箸ほどの細い枝をいっぱいに詰め、その下に丸めた新聞紙一枚を置いて火を点ける。火が細枝から太い薪に移って火に勢いがついたら、様子を見ながら太い薪を投入し空気の取り入れ口の調節を行う。真冬の山荘は午後4時を過ぎると急激に外気が低下し、翌朝の最低気温は零下7度を下回ることもある。しかし就寝前に薪を補充して寝ると、翌朝まで室温は10度以上を保っている。中の灰の下には大量に残った熾き火が有り、これを「熾き掻き」で掻き回すと再び燃えあがってその後3時間は温かい。耐熱硝子越しに見えるゆらゆらとしたオレンジの炎とストーブの輻射熱の穏やかな温かさは、炬燵や石油暖房では決して味わうことができない。薪ストーブで暖を取りながら冷たいビールを飲む時間が贅沢な至福の一刻で、楽しみでもある。
2017年03月06日
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