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かつて民謡酒場というのが会って、私の父は好きな民謡を唄い、太鼓を叩いて手拍子を打ち、ご機嫌な日々を過ごしていた。 「あんな倒れ方をして、しょうがない人ねえ」 父が小太鼓を叩きながら倒れたという知らせがあったとき、母が私にそういった。当時は私も同感であった。多趣味で凝り性、宵越しの金は持たない気質の父に苦労をかけられっぱなしの母にしてみれば当然であったろう。自分を抑えて、髪を撫で付ける暇もな区針仕事をして生活を支えて来た母が可哀想で、私はいつも母に味方して、自分ばっかり楽しんでいる父を冷ややかに見ていたように思う。 ところが、私の夫が定年を迎えひたすら仕事仕事の生活から解放されたとき仕事のない暮らしに戸惑っている姿を見るに付け、倒れるまでベレー帽などかぶって嬉しそうに民謡の集まりに出かけていく父を見直すようになった。 昔から箸や指でお膳を小太鼓に見立てて見事に叩いていた父、バンダラダッタッタという響きは今でも頭の片隅に残っている。また、紙、葉っぱ、タンポポの茎で笛を作ったり、それで童謡を吹いてくれた。はたきや箒の竹で出来た柄の部分を切って横笛を作ってしまい、母にたいそう叱られていた父が思い出される。 当時父は、消防音楽隊の一員となるために、独学で夜遅くまで音符に取り組んでいた。やがて出征兵士を送り出す行列に加わり、ピッコロを吹く姿や、小太鼓を叩いて更新する父の姿を見るようになった。そんな父を幼いころの私は嫌いではなかった。むしろ誇らしく見ていたように思う。 「兄さんは、いい生き方をしたなあ」 叔父が父の通夜の席で言った。叔父は父と同じように時計修理屋でお金に縁のない職人となり、一番仲のよい兄弟であった。 「どんなときでも、求め心をなくさず、少年のような人だった。意欲的に上手に楽しんで生きた人だった」 俳句の「あざみ」の同人として活躍している叔父は、膠原病の叔母を十年余看病してきた。父の死後、その叔母もまもなく亡くしている。その後送られてきた、「あざみ」の中に、叔母への鎮魂歌を中心に叔父の特集が組まれていた。その中に、 「兄と一緒に二十歳で始めた俳句が、生涯の友でした」とあった。だから兄と妻を失った悲しみも生きるための学習なのだと思って越えていける、といいまた、兄がよきらいばるであった、とあった。 叔母を車椅子に乗せて人気のない小学校の校庭で夕日を眺めた日、 分校の窓へ飛び火の寒夕焼 に始まり、 死んで行く妻の爪切る雪降れり と深い悲しみをも、生きるための学習だと言い切って、俳句作りに意欲を持ち続けた叔父、その叔父に上手に生きたといわせた父、二人から伝えられたことは、生涯学習は即席では出来ない、年老いる以前からいつも何かを求める心を持ち、それを積み重ねていくことなのだ、と。
2019.08.24
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血液検査するたびにこの1年、腫瘍マーカーは上がりっぱなし。7月末の検査では、担当医もさすがに様子を見ましょう、はなかった。ペット撮影を翌日に、結果次第では何らかの処置がなされる。ペットの結果は、悪性リンパは見られない、という。ほっとするも、ではこの腫瘍マーカーの結果はなんだ。ペットの画像は、脊髄全体が光っている。 というわけで骨髄検査となった。この検査、痛いんだよな。なにしろ、この骨髄検査は骨盤をゴリゴリ穴開けて骨髄液とるのだから。悪性リンパ腫の治療した時一度経験している。いつまでも疼いていたあの痛み、おーいやだ。 ところで、そんな思いを振り払うかのように、ミュージカル、劇団四季のパリのアメリカ人を観劇。迫力ある舞台装置の転換、圧倒される見事な踊り、憂い事など吹っ飛んでしまった。なるようになるのさ、腹は座っている。
2019.08.11
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