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新潟は三条市にご在住のブロ友のふぁみり~キャンパーさんが、今日のブログにヒメサユリの花をご紹介されていますが、先日25日、ヤカモチも三条市の五十嵐川を遡上する銀輪散歩で、ヒメサユリの群生を見てまいりましたので、それをご紹介申し上げます。 <参考>五十嵐神社の姫小百合(ふぁみり~キャンパー氏の記事) 目指すヒメサユリの群落があるというヒメサユリの小径というのは、五十嵐川の上流にある。信越本線の東三条駅下車。南口で持参のトレンクルを組立て、出発。(ヒメサユリの小径位置図) ※三条市ホームページのヒメサユリの小径よりの転載です。 手元にあるのは、ネット検索で見つけた上の地図の写真だけという心許ない状況であるが、五十嵐川と国道289号さえ、見失わなければ大丈夫と見ての手抜き下準備でありました(笑)。 ともかくも五十嵐川に出なくては始まらないので、川のある方向に走る。民家の切れ目の細い路地の坂を上ると広い川に出ました。五十嵐川である。 五十嵐川の堤防の道を上流へと向かう。 最初に出会った橋は田島橋。(田島橋) 橋の欄干には三条左衛門尉定明という名と武将の絵が嵌め込まれている。ある方のブログで「京都からこの地にやって来た橘左衛門尉定明という人が三条の町をつくり、三条大橋を懐かしみ三条という町の名にした。」というようなことが書かれていましたから、そういう伝説があるのかも知れない。 因みに、清少納言の夫は、橘則光であるが、そのご親戚ということなら、面白いのだが・・。楠木正成は橘の姓を賜っていること、ブロ友のふぁみり~キャンパーさんが新潟の何処やらの温泉地には楠木正成の家来の何とかさんが落ちのびて来たという伝承があるというようなことを書かれていたかと記憶するので、或は、楠木正成に関係する人物であるのかも知れない。 調べればいいのだが、今日は「ヒメサユリ」が目的、「サエモンノジョウ」は関係ないので、勝手な憶測のみにて、先へと急ぐこととします。(同上)(イタチハギ) はい、またもイタチハギです。前日記でご紹介したイタチハギは、実はこの五十嵐川の堤防の道で見つけたものでありました。(五十嵐川) 五十嵐川の対岸の河川敷にはクローバーが一面に咲いて真っ白でしたが、写真では遠過ぎてよくは分かりませんですかな。(広川松五郎歌碑) 三条市出身という東京芸術大学教授・明星派歌人広川松五郎のご覧のよな立派な歌碑もありましたが、小生は初めて目にするお名前。 うまれたる 里の河原の つくつくし つくつく見つつ 去りかてぬかも やがて見えて来たのは渡瀬大橋。(渡瀬大橋) 渡瀬大橋という名である以上、渡らない訳には参らぬと橋を渡って対岸側の土手道に移ろうとしたが、河川改修工事中で通行禁止。 仕方なく、先の一般道に出て、左折(挫折ではありません)。川を見失わないよう平行する道を進む。やがて、道は急な坂道となり月ヶ岡特別支援学校の前に出る。学校の先の、坂を上り切った辺りの道の左側には立派なと言うか古風な門のある建物がありましたが、いかなる建物かは不明。遠目に見つつ坂は下りに入る。再び五十嵐川が見えて来た。(五十嵐川 月岡付近) 坂を下ると国道289号に突き当たる。 国道289号を右に進めばいいのだが、国道では味気ないので、国道を渡って、五十嵐川沿いの堤防の道、県道331号に上がり、これを走ることとする。(五十嵐川 島潟付近) やがて道は国道289号と合流する。国道を進む。 下田体育館手前の交差点で下田大橋への道に入り、橋の手前で五十嵐川の土手道に入る。と、そこに東屋がある。最近出来たばかりと思われる真新しいトイレもある。既に12時をかなり過ぎていたので、此処でお弁当タイムとする。弁当は途中のコンビニで調達して来たもの。(五十嵐川 下田大橋付近) 上の写真が昼食場所とした東屋の前から上流側を撮影したものであるが、奥に橋が見えている。あれが鶴亀橋であればいいのだが、と撮影しましたが・・。 手元の心許ない地図では、国道289号で荒沢交差点を左に入って鶴亀橋を渡ればいいのであるが、自身の現在居る場所である下田大橋が地図のどの辺りになるのか、地理感の全くない小生には、そもそも分らないのだから仕方がない。(守門岳?) 下田大橋付近から見える正面の高い山は守門岳でしょうか。それとも粟ヶ岳でしょうか。それはさて置き、下田大橋を渡って対岸側の道を走ってみようとするが・・。 対岸には道はなく、上の写真で見えていた次の橋(これは鶴亀橋ではなかった。名前は何であったか思い出せない。)を渡って、畑中の道を行き、再び国道289号に戻る。(ハハコグサ) 国道に戻って暫く走ると、このような標識があって、漸くに目的地に近付いたことを知る。(ヒメサユリ群生地・高城の道路標識) はい、鶴亀橋に到着。 橋を渡って、一つ目の辻を右に入って短い急坂を上ると、正面に長禅寺が見えて来る。ひめさゆり祭という幟も立ち並んでいる。(五十嵐川・鶴亀橋)(五十嵐川・鶴亀橋から上流を望む。)(同上・鶴亀橋から下流を望む。) 長禅寺前の駐車場脇にある案内板には「高城城跡」とある。 高城は長尾豊景によって1426年に築城された城とのこと。 長禅寺には初代城主の遺灰が安置されているらしい。 ご興味のあるお方は、写真をクリックして、フォト蔵写真の拡大版でお読み下さい。(高城城跡の案内板)(長禅寺)(同上・本堂) 駐車場前のテントで協力金200円を払って入山。 自転車は駐車場の隅に駐輪して、徒歩で山道を行く。 途中で、登山道という小径への入口があり、これを行くとヒメサユリの群生地への近道のよう。その登山道入口前を少し先へ通り過ぎた辺りで、母娘と思しき女性二人組から、ヒメサユリ群生地へはこの道でいいのか、と尋ねられる。「私も初めてなので・・」と、少し戻って地元の方に確認すると「登山道」の方を行く方が近い、とのこと。それで、かなり先へ行ってしまっている女性二人組に「こちらですよ。」と大声で呼びかける。こういう処が大阪人というか関西人の世話焼き気質なのでしょう。かなしきは 大阪の人よ 問はるれば 旅先にても 道教へむとす (五十嵐川家鴨)(本歌)かなしきは 小樽の町よ 歌ふこと なき人人の 聲の荒さよ (石川啄木)(ヒメサユリ) 急な山坂道を上って行くと、直ぐにヒメサユリの群落である。 はるばると 恋ひぞわが来し 姫小百合 山も狭(せ)にこそ しるくも咲ける (偐家持) (同上) では、ごゆるりと、ヒメサユリ、ご覧下さいませ。 (同上)(同上)(ヒメサユリの群落) (同上) 殆ど蕾が見当たりませんでしたから、花の盛りもそろそろ過ぎようとしているのかも知れません。丁度良い時に来ることが出来たと言うべきか。(ヒメサユリの蕾) 帰途は少し雨に降られ、国道289号沿いの何とか言うバス停で雨宿りを20分近くしましたが、お蔭で雨具のお世話にもならず、濡れることもなく、無事に東三条駅に帰還しました。何のことはない。ヒメサユリを見ただけという贅沢な銀輪散歩でありましたが、五十嵐川銀輪散歩まずまずの満足でありました。
2016.05.29
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本日は、銀輪散歩で見掛けた花たちです。 先ずはイタチハギ。(イタチハギ) イタチハギというのを知ったのは一昨年のこと。小万知さんからその名を教えていただきました。その時は実の状態で、アブラムシがたかっているみたいで気味が悪いなどと評していましたが、この日は花の状態。何やら存在感を感じさせるイタチ、いえ、ハナたち、であります。 (参考)銀輪花散歩 2014.7.3.(同上)<参考>イタチハギ・Wikipedia 万葉集に最多で詠われている花は萩であるが、さすがにイタチハギは登場しない。それもその筈、北米原産の外来種で、1912年に韓国から初めて導入された植物とのこと。現在は各地に野生化し、地域によっては、在来種の生育を阻害したり、景観を損ねたりの問題も発生させているらしい。 万葉歌人、笠金村は志貴皇子の葬送に際して、 高円の 野辺の秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに (万葉集巻2-231)と詠いましたが、イタチハギではそうも参らず、 道の辺の 萩にもあらず 鼬萩 咲きかはびこる 詠む人なしに (偐家持)といった感じでしょうか。(ヨメナ) 一方、ヨメナは万葉植物である。野菊の代表である。その名が示すように、女性が摘むものというイメージがあったのでしょうが、それは花を鑑賞するために「摘む」のではなく、食用として「摘む」のである。春先に若菜を摘んで食べるのである。嫁が摘む「菜」だから「嫁菜」という訳である。もっとも、万葉では「うはぎ」という名で呼ばれている。平安時代には「おはぎ」と呼ばれたらしいと書いている本もある。 春日野に 煙(けぶり)立つ見ゆ 少女(をとめ)らし 春野のうはぎ 採(つ)みて煮らしも (万葉集巻10-1879)(ウラジロチチコグサ) このウラジロチチコグサは、先般、友人偐山頭火氏から頼まれて、ブロ友のひろみちゃん氏にお届けするものがあり、同姉宅を訪問した際、同姉宅の前の公園に咲いていたもの。その名が示すように葉の裏側が白いのである。(同上)<参考>ウラジロチチコグサ(裏白父子草) チチコグサという名は、ハハコグサという名に関連して後付けで生まれた名でしょう。母子関係は自ずからに生じるもので、生物的関係・自然的関係であるのに対して父子関係は後発的関係・社会的関係であるから、ハハコグサよりも前にチチコグサという名があっては理屈に合わないことになる(笑)。 ということで、ハハコグサも掲載して置かなくては平仄を欠くというものである。(ハハコグサ)<参考>ハハコグサ・Wikipedia(キュウリグサ)<参考>キュウリグサ 次はキュウリグサ。胡瓜のような匂いがするのがその名の由来らしいが、ヤカモチの鈍感な嗅覚では、胡瓜の匂いがしているという感じでもありませなんだ。(同上) 次のヤブコウジは万葉集にも登場する植物。山橘がそれ。 この雪の 消(け)残る時に いざ行かな 山橘の 実の照るも見む (大伴家持 万葉集巻19-4226)消残(けのこ)りの 雪にあへ照る あしひきの 山橘を つとに摘み来(こ)な (大伴家持 万葉集巻20-4471) (注)つと=土産、みやげ。(ヤブコウジ) 大伴家持さんが詠った赤い実は、もう地に落ちてしまったようで見当たりませんでした。実のなくて 山橘は いたづらに 葉のみぞ照りて 夏は来向かふ (偐家持) (同上)<参考>ヤブコウジ・Wikipedia 最後は、セイヨウイワナンテン(西洋岩南天)。 花はよく見ると可愛いのであるが、葉の裏に隠れて余り目立たない。(西洋イワナンテン・「レインボー」)(同上)<参考>セイヨウイワナンテン それでも、このようにたわわに咲いているのもあって、小生の目にもとまったのでありました。何の花かと近付いて撮影したのでありますが、咲き過ぎというのもいささか見苦しい(笑)。花は二つ三つはかなげなるがよし、群れひしめき咲きたるは浅ましく異様のものなり、と兼好さんなら言いそうです。(同上) 何やら銀輪花散歩の在庫整理のような記事となりまして候(笑)。 <参考>花関連の過去記事 花(1) 花(2)
2016.05.28
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本日、朝早く(多分4時か5時頃)に70万アクセスを通過しました。 666666アクセスは5月5日ですから、22日間で33334アクセスを超えたことになり、予想よりも早くに70万アクセスに到達いたしました。ご訪問下さった皆さまに感謝であります。 60万アクセスの2月3日は節分の日。 666666アクセスは5月5日で、端午の節句の日。 で、70万アクセスの今日は何の日かと言うと、百人一首の日なのであります。藤原定家の明月記の文歴2年(1235年)5月27日の項に、宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めに応じて定家が書写した和歌百首が嵯峨の中院山荘の障子に貼られたという記述があることから、今日5月27日が百人一首の日とされているそうな。 <参考>明月記文歴2年5月27日の条 予、本(もと)より文字を書くことを知らず、嵯峨中院の障子の色紙形、こと さらに予書くべきの由、彼の入道懇切なり、極めて見苦しき事といへ ども、なまじひに筆を染めて之を送る、古来の人の歌おのおの一首、 天智天皇より以来、家隆、雅経に及ぶ。 (藤原為家墓)08年1月9日記事より (藤原定家墓)07年12月29日記事より 藤原為家は定家の息子。為家の妻は宇都宮蓮生の娘。為家の墓は厭離庵の傍にあ るが、厭離庵は蓮生の別荘・中院山荘の跡である。 偐家持は時に「偐定家」を名乗ることもありますれば、偐万葉田舎家持歌集という当ブログに関係なくもない日なのでありますから、70万アクセスの節目の日が「百人一首の日」であるというのは不思議な符合と言うか面白いことであります(笑)。<累計アクセス数の推移> 10万 2011.1.11. 20万 2012.12.31. 30万 2014.11.7. 40万 2015.6.2. 50万 2015.10.11. 60万 2016.2.3. 70万 2016.5.27.
2016.05.27
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今日も虫散歩でお付き合いいただきます。 銀輪散歩で見掛けた1本の茨の木。白い花が咲き乱れ、芳香を放っていましたが、その香に誘われてか色んな虫がやって来ていました。(コフキコガネの仲間か) 先ず目に入ったのはコガネムシの仲間。 コフキコガネの一種だと思うが、イバラの花の上で何やらモソモソ。一匹かと思ったら、花の裏側からもう一匹が現れました。 (同上)(同上) はい、この通り、ペアでありました。 後から現れた方が、体の粉が剥げ落ちているから、オスかも知れない。メスを奪い合うオス同士のたたかいで粉がこのように剥げ落ちた(のかも知れない)。 で、こちらは粉が全て剥げ落ちた猛者かと思いきや、別の種類のコガネムシのようです。クロコガネでしょうか。(クロコガネ?) ならば、コチラはアオコガネ? コガネムシ、ハナムグリの仲間も多種多様。その名もどれがどれだか分らない。(アオコガネ?) てんとう虫さんもやって来た。 アオコガネと花蕊越しにニラメッコである。(てんとう虫もやって来ました。) てんとう虫がUターン。 そうでした。てんとう虫は花蜜を吸うのではなくアブラムシなどを食べる肉食系でありました。これは、ナミテントウというてんとう虫ですな。花蕊に居たアブラムシを捕食したのかも。(ナミテントウ) 先日は、オカボノクロアブラムシをご紹介したばかりですが、本日は緑色の普通のアブラムシにたかられました。 虫の撮影に夢中になって、花に近付き過ぎたよう。気が付くとTシャツの前面がアブラムシだらけ。緑色の小さな虫がいっぱい付着して這い回っている。打ち払うのに忙しく、Tシャツにたかっているアブラムシを撮影するというのは念頭にありませんでした。(ツマグロハナカミキリ) こちらはハナカミキリの仲間。ツマグロハナカミキリでしょうか。(同上) そして、ハエ。 虻か蝿かは知らぬが大きさは蝿のそれであるが、このような模様のハエを見るのは初めてかも。勿論、ハエの名などは知るよしもない。(ハエそれともアブ?) 一本の茨の木にも、よくよく観察してみると、虫たちの営みと言うか、広い世界が展開されているのでありました。野茨も つばらにぞ見む 虫銀輪 カミキリてんたう コガネもハエも (虫家持)<追記2016.5.26.> ベランダにてんとう虫の死骸がありましたので、撮影、追記して置きます。 これもナミテントウ。ナミテントウは色々な模様があるようで、これも同じ仲間かと。(ナミテントウ)
2016.05.26
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ハルニレの葉に赤い花のようなものが沢山咲いていました。 多分虫こぶだろうと調べてみると、果たして、「オカボノクロアブラムシが作った虫えいである。」という記事が見つかった。この虫こぶのことをハルニレハフクロフシと呼ぶらしい。 <参考>ハルニレハフクロフシ(ハルニレの葉に出来たハルニレハフクロフシ)(同上) ひとつ、ふたつはよいけれど、下のようになると不気味と言うか何と言うか。(同上) オカボノクロアブラムシというのは、早春に卵から孵化し、ハルニレなどの新葉の汁を吸って幼虫が生長し、この幼虫の吸汁刺激によって虫こぶが形成されるらしい。幼虫はこの虫こぶの中で成長し、夏になると雌成虫はその名が示すようにオカボ(陸稲)などイネ科の植物に移住し、その根で繁殖するとのこと。秋、10月頃になると再びハルニレに帰って来て産卵するとのこと。 さすがのヤカモチさんもこの虫こぶを切り開いて中を覗く気にはなれませなんだ。 <参考>オカボノクロアブラムシなど <追記> 英坊3氏から「勇気を出して、その虫こぶを開いてみましょう。」とのコメントを頂戴しました。言われてみればその通りでありますので、早速、開いてみました。 余りにも小さい虫なので、うまく撮れていませんが、一応、形は分かるかと。黒くなった奴もいれば、まだ白っぽい半透明の体の奴もいる。虫嫌いな人にはノーサンキューな写真でしょうが、これがオカボノクロアブラムシであります。(ハルニレの葉の虫こぶの中のオカボノクロアブラムシ) (同上)
2016.05.23
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偐万葉・LAVIEN篇(その4) 本日は偐万葉・LAVIEN篇(その4)であります。偐万葉シリーズとしては第259弾となります。 ブロ友lavien10氏とは、同氏が当ブログをお気に入りに登録下さったのが2013年11月で、小生が初めて同氏ブログをご訪問申し上げたのが同年12月6日、それ以来のお付き合いになりますから、2年半程度のお付き合いになります。 偐万葉でのlavien10氏の呼び名は、当初「ラビ麻呂」として居りましたが、ご本人がこれを「羅美麻呂」と表記されましたので、以後は「羅美麻呂」と呼ばせて戴いて居ります。 <参考>過去の偐万葉・LAVIEN篇はコチラからどうぞ。 lavien10氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が羅美麻呂に贈りて詠める歌19首 並びに羅美麻呂が贈り来れる歌1首膝痛も 長きにあれば 莫逆(ばくげき)の 友と言ふべし 不足はあらじ (家持膝栗毛) マンホール 気にすは変人 ビヤホールに 目行く羅美麻呂 まともなりけり (身も蓋もなき家持) 羅美麻呂が贈り来れる歌1首 長月は 西も東も 名月や ココロも丸く おだやかなれと (羅美麻呂) 偐家持が返せる歌1首 名月や 芋また豆も いかがせむ さまでまろくも なれぬ心の (偐迷月) 一億も 総活躍の 空言に そぞろ銀座も 寒き秋風 (空言大語) わが背子は 銀座の散歩 難波なる ヤカモチわれは 銀輪散歩 (銀座) わが庭の 秋はたけぬれ 野牡丹の 花はまだかと 待ちつつぞ居り マンホールも 旅にしあれば その絵柄 一期一会の 景色なるらむ (蓋家持) 羅美麻呂が作りたる句(第3~5句)に偐家持が上2句を付したる歌1首 はろばろと 佐渡ゆ来たりし 柿林檎 歯にしみとほる 里の味かな 偐万葉掲載に当り改作したるは下記。柿林檎 歯にしみとほる 里の味 はろばろ佐渡ゆ 今年も来たる (モミジバフウの実) 生きるとは 節目節目を 生き抜いて 節々痛く なることなるか (落ち目家持) 万葉の 岬の坂は 失走し 失笑買ひつつ 押して行く老い (相生老) 月に吼える 青き猫にも あらざれど 背子や今宵は 月にし向かふ 吼えろとて 月は照らすに なくあるに なにをやかこち なにをやなげく (本歌)なげけとて 月やはものを おもはする かこち顔なる わが涙かな (西行 千載集926 小倉百人一首86) (冬の月) ほどよしを よしとはたれも しるなれど ほどのほどをば しらぬもあるか たるをしる ことなかりしを 貧乏と いいこといへる うるぐあいの人 (富士山) 春花の ためにはなにか 惜しからむ 急坂銀輪 身はなづむとも (本歌)大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも (月照上人 辞世の歌) 銀輪の ヤカモチわれは あるなれど 似合はぬ銀座は 走らぬものぞ (銀輪家持) 新宿は わが青春の きづあとを とどめ悲しき 街にもあれる (追想家持) (新宿)益荒男と 思ひしわれも 老いぬれば 若きは気ばかり 鈍(おそ)の益荒男 (鈍家持)猫の手を 借りてしばしの 猫だまし ニャンと手水(てうづ)の 巻紙なるか (掻本ニャン麻呂) あしひきの 山鳥の尾の しだるごと ながながし紙 ひとりかも巻く (掻本ニャン麻呂) (本歌)あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかもねむ (柿本人麻呂 拾遺集778 小倉百人一首3) (猫とトイレットペーパー) (注)掲載の写真はlavien10氏のブログからの転載です。
2016.05.21
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第176回智麻呂絵画展 本日、智麻呂邸を訪問、新作絵画3点を撮影して参りました。先に撮影の7点と合わせて作品が10点となりましたので、第176回智麻呂絵画展開催であります。多数のご来場をお待ち申し上げます。<参考>他の智麻呂絵画展は下記からご覧になれます。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ 先ずはスミレから。 若き日の智麻呂氏が若き日の恒郎女様にプレゼントされた最初の品がスミレのブローチであったというのは、わが若草読書会では有名な話。 そんなこともあって、京都東山の将軍塚の近くに咲いていたスミレ2輪を撮影した写真をお届けしましたら、このような素敵な絵になりました。後ろの赤い葉は芽吹いたばかりの桜の幼木であります。(二人スミレと桜の幼木) このスミレの写真は当ブログの下記記事にも掲載して居りますので、ご記憶の方も居られるかと存じます。 <参考>銀輪万葉・清閑寺から将軍塚へ 2016.4.18. 上のブログ記事に記載のこのスミレに寄せたヤカモチ館長の歌を再掲載して置きます。春うらら さやかに風の 吹きも来て 添ひてたぐひて すみれはふたり (偐家持) 次は、藤の花です。藤の花房も何故かツーショット。(見上ぐれば藤の花房) この藤の花は、智麻呂さんが週1回行って居られるデイサービス施設「アンデスのトマト」で描かれたものです。 「何だか葡萄みたいで、これは失敗作」と恒郎女さんの評価はイマイチでありましたが、ヤカモチ館長が「下から見上げれば、藤の花はこんな風に見えるもの」ととりなして、展覧会出品となりました。見上げての 藤の花房 短ければ 葡萄のごとと 妻許さざる (若草子規)(本歌)瓶にさす 藤の花ぶさ みじかければ たたみの上に とどかざりけり (正岡子規)(レンゲソウ) このレンゲソウも当ブログの写真からのものです。これはペアではなくソロですが、いつも集団で咲くレンゲソウもたまには孤独になりたいということであるのでしょうな。これは奈良県橿原市の藤原京跡近くの菜の花畑の一角にひっそりと咲いていたものであります。堀田善衛の小説に「広場の孤独」というのがあるが、このレンゲソウは「菜畑の孤独」である。 <参考>銀輪万葉・奈良銀輪散歩 2016.4.20.(粽) これは、ヤカモチ館長が智麻呂邸訪問の際に途中の和菓子屋さんで買い求めてお持ちしたチマキであります。以前にも同じ経緯でお持ちしたものが絵になっていますから、ご記憶の方もあるかと。 前回展では、お茶菓子がない、というクレームも頂戴いたしましたので、今回はこれを描いていただきました。では、お茶など淹れますれば、一息なさって下さいませ。(杜若) これは、花の中央部の模様が黄色ですから、多分カキツバタでしょう。「尾形光琳」先生には及びませんが、「小型後輪」位の名画にはなっているかと。 この花は、これも週1回「アンデスのトマト」とは別の日に通って居られるデイサービス施設の福寿苑で、ご友人の友〇さんから頂戴した花だそうな。友〇さんも絵心のあるお方にて智麻呂絵画のよき理解者であります。 さて、杜若ですが、この花も万葉植物である。万葉集に何首かある杜若の歌から1首掲載して置きましょう。 住吉(すみのえ)の 浅沢小野の 杜若 衣(きぬ)に摺(す)りつけ 着(き)む日知らずも (万葉集巻7-1361)<住吉の浅沢の小野に咲く杜若を衣に摺って着る日がいつとは知れないことだ。> 万葉の頃は、杜若の花で衣を摺り染めにしたのですな。しかし、ここではそういう表の意味と女性を杜若になぞらえている裏のもう一つの意味もある。(オンシジウム) このオンシジウムは「アンデスのトマト」で戴いたものである。 万葉に関係しない花になると何故かヤカモチ館長は急に寡黙になる(笑)。よって、ヤカモチの口説がうるさいという時は、万葉に登場しない、それも片仮名の名を持つ花の絵を並べればいいのであります。(牡丹) この牡丹の花は小万知写真集から絵にされました。 ちょっと写真のピントが甘くなっていますが、お赦し賜りたく。 さて、以下の3点の絵はブロ友の「ひろみちゃん8021」さんがお届け下さった花であります。彼女のお庭に咲いていた花を摘んで、アンデスのトマトまでお出掛け下さり、智麻呂さんに下さったものです。彼女も亦、当ブログを通じて智麻呂絵画のファンとなり、今では時々画材にとお花をお届け下さるなどして、智麻呂絵画を支えて下さっています。まことに有難いことであります。(オダマキ)(ハコネウツギ) 卯の花の匂ふ垣根に ほととぎす早も来鳴きて♪♪ という歌は今の季節に相応しい歌であるが、ここでの卯の花はやはり白い花というのが小生のイメージ。 対してこれはピンクの卯の花である。ピンクの卯の花にはタニウツギやハコネウツギなどがあるが、絵を見ると蕾が白く、開花したものはピンク、そして色の濃くなった花もあるから、色が変化するハコネウツギではないかと推測した次第。(同上) 以上です。本日もご来場・ご覧下さり、有難うございました。 感想など、コメントを残して戴ければ、智麻呂さんの励みともなりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
2016.05.18
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偐万葉・ふぁみキャンパー篇(その12) 偐万葉シリーズ第258弾は、昨年2月以来の久々の「ふぁみキャンパー篇」であります。 <参考>過去の偐万葉・ふぁみキャンパー篇はコチラからどうぞ。 ふぁみり~キャンパー氏のブログはコチラからどうぞ。 偐家持が湯麻呂に贈りて詠める歌18首ほか遠々し 越の弥彦に 八重桜 咲きてキャンプの 前振りすらし (桜小町) (弥彦公園の八重桜) ほほづきも ゆきわりさうも ゆの名にて 花は咲きても 湯の花ばかり (偐湯持) (日帰り温泉ほおずきの里) やはらかき アルカリの湯に 触れもみで かなしからずや 名をぞ言ふわれ (湯謝野晶子) (注)偐万葉掲載に当り第5句を「名を覚えるわれ」から「名をぞ言ふわれ」に 変更した。 (本歌)柔肌の 熱き血潮に 触れもみで 悲しからずや 道を説く君 (与謝野晶子「みだれ髪」) 感情を 理屈で糊塗す 男らの さかしき論も 面白きかな (言行放恣) (注)言行放恣=兼好法師の洒落 うち日さす 都の夏に 鳴く蝉は あさクマゼミに よひアブラゼミ (偐蝉丸)(注)うち日さす=都にかかる枕詞。「うち日さつ」とも言う。 あさクマゼミに・・=クマゼミは主として午前中に鳴き、アブラゼミは 午後から夕刻にかけて鳴く。五十万(いそよろづ) 近づくらしも 百万(ももよろづ) まだ遠かりき 八年(やとせ)の夏は 奴奈川の 先なる公園 求めて 来しや君かも 昼過ぎて 着きし君かも 墓の木の 自然公園 君の 行くがともしも (淀川姫) (注)1.墓の木の自然公園=「墓の木自然公園」、黒部川の中下流にある公園。 2.ともしも=「羨しも」。うらやましいの意。 (本歌)奴名川(ぬなかは)の 底なる玉 求めて 得(え)し玉かも 拾(ひり)ひて 得し玉かも あた らしき 君が 老ゆらく惜しも (万葉集巻13-3247) (注)1.奴名川(沼名川、奴奈川)は、姫川、その支流の小滝川、姫川の西にあ る田海川、青海川など諸説がある。 2.「あたらしき」は、惜しい、の意。「あたら若き命を」などと言う時 の「あたら」と同じ言葉である。 3.奴名川の「ぬ(瓊)」は、玉、翡翠(ヒスイ)のことである。 (万葉歌碑) わらアート 角田の山の 青雲に 立ちて雄々しき トリわらトプス 上堰の 潟野に秋の をたけびの わらザウルスの 見らくしよしも (トリわらトプス) (わらザウルス) ころしあふ ことはいはずも こやをみな よはきにむごし なすまじいくさ こすもすの 花もや語れ 戦争の 悲惨と言ふも 足らざる真実 (上堰潟公園のコスモス) 任侠の 花となど咲く 藤袴 吉良の仁吉の 今あらなくに (青成瓢吉麻呂) 雪降れば 三条避けよ 急ぐなら 燕を行くが よしと言ふべし (三条燕) わが町に 四条五条は あるなれど 三条なければ 雪も降らざり (東大阪雀) (光君) 草花も 過ぎて増えるは 罪なるか あはれ切られの オオキンオオハン (多様性法師) (注)オオキン=オオキンケイギク(大金鶏菊) オオハン=オオハンゴンソウ(大反魂草) ※両者は共に外来植物。その旺盛過ぎる繁殖力によって在来植物を駆逐 し、生態の多様性を阻害するとして、特定外来植物に指定され、防除 ・駆除対象植物となっている。 多様性法師=素性法師(僧正遍照の息子)のパロディ。 今はもや 名ばかりなる 片栗粉 などて呼ばずや これ芋の粉と (片栗芋持) 裏を見て表見過ごす春銀輪 (元句)裏を見せ表を見せて散る紅葉 (良寛) (良寛像) 姫山の 白塗り姫の 城にして 白き城なり 白鷺の城 (白過ぎ城) ひとすじの 夕日なす道 瀬波の海 西方浄土ゆ 波も寄せ来や (瀬波の海) (注)瀬波の沖の粟島は西方浄土への入口の島とも言われている。(脚注)掲載の写真は全てふぁみり~キャンパー氏のブログからの転載です。
2016.05.17
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友人の岬麻呂氏から旅便り189が本日届きました。 富良野へ「エゾエンゴサクの花を見るために出掛ける」というご予定については、同氏からのメールで夙に承知して居りましたが、今月10日から13日まで3泊4日の旅をされたようであります。 旅の詳細は、同氏からの「旅・岬巡り報告189」(下掲写真)をご覧戴くこととし、同氏からメール送信のあった6枚の写真をご紹介申し上げます。(旅・岬巡り報告189) ※写真をクリックしてフォト蔵ページに入り、大きい写真サイズでご覧戴くこと も可能です。 先ずは、そのエゾエンゴサクの花です。(エゾエンゴサク) 白い花のエゾエンゴサクもある。 富良野ご在住のブロ友のfurano-craft氏も先日エゾエンゴサクの花をブログに掲載されていましたが、このように白い花を咲かせるエゾエンゴサクは数万株に1株の割合でしか生じない、珍しいものであるそうな。 <参考>furano-craft氏のブログ記事「エゾエンゴサク」2016.5.13.(白いエゾエンゴサク)エンゴサク 咲くを見むとや わが背子は 五月の風と 富良野行くらむ (偐家持)※<追記>岬麻呂氏より追加で紫のエゾエンゴサクの写真が1点送られてまいりま したので、追加掲載させていただきました。(ミヤマキケマン) ケマンソウ(華鬘草)もエンゴサクの仲間なのですな。上のミヤマキケマンは、岬麻呂氏のお知り合いなんでしょう、南富良野の押し花の先生宅でご覧になった花で、大変珍しいものだそうな。 ケマンソウと言えば、小生も最近この花を見ている。種類は異なるがムラサキケマンというのを京都・東山の清閑寺の境内で目にしました。 <参考>銀輪万葉・清閑寺から将軍塚へ 2016.4.18.(石狩灯台・ハマナス群生地) 岬麻呂氏の旅はその名が示す通り、やはり灯台が似合う(笑)。 ハマナスの群生地でもあるようですから、花の季節には、木道も花を目当ての人で賑わうのでしょう。今は人影もないようです。 富良野には未だ桜が咲いているようです。 芦別岳などの雪を戴いた山々と桜並木、ゆるやかに広がる田園風景。 富良野の美しい眺めを下の写真でお楽しみ下さいませ。 ヤカモチには、銀輪で駆けてもみたい風景であります(笑)。(富良野・山部地区、R38桜街道と芦別岳)(富良野・麓郷展望台から) <参考>岬麻呂旅便り関連記事一覧はコチラから
2016.05.16
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本日は、大学の同窓会、青雲会の囲碁サークルの例会の日。 天気も好しでMTBで会場の堂島まで銀輪散歩。 いつもの中央大通りではなく、今日は近鉄奈良線の南側の道を走り、途中、鶴橋駅の手前付近で千日前通りに出る、というコースを選択。御堂筋に出る少し手前で左折し北へ。相合橋で道頓堀を渡り、長堀通りで左折し西へ。(道頓堀・相合橋の上から) 御堂筋に出て右折、北へ。大阪市役所の前で中之島公園に入り、散策。バラの季節とあって、バラ園を見に行く人たちを横目に、鉾流橋で堂島川を渡り、左折。堂島ビルの向かいの喫茶店「なかおか珈琲」で昼食。 昼食後、珈琲しながら30分ほど読書。12時半になったので、会場の「青雲会交流センター」に向かう。この青雲会交流センターも卒業生のN氏のご好意で使用させて貰っているのだが、今日耳にした処では、それも今年度中限りとのことで、退去しなくてはならなくなっているらしい。新しい会場が確保できなければ、この囲碁サークルも休会せざるを得なくなるだろう。 さて、本日の出席者は山〇氏、若〇氏、中〇氏、安〇氏、銭〇氏と小生の6名。最初の対局者は若〇氏。いい処まで追い詰めるも及ばず惜敗。次は安〇氏と。これは中央の大石を取り込み中押し勝ち。次は銭〇氏と。8連勝中の同氏に勝ち連勝ストップの快挙。と言ってもハンディに助けられてのものであります。最後に中〇氏と。中〇氏は10連敗中と不調をぼやいて居られましたが、混戦となり、1目差で惜敗。同氏の連敗ストップに寄与することとなりました。ということで2勝2敗。 今年は3月に出席したのみで、今回が2度目の出席に過ぎない。かくて、今年の通算成績は4勝3敗となりました。 帰途は、大阪城公園から中央大通りのお決まりコースを走り、途中で花園中央公園に立ち寄りました。5月11日の日記(囲碁例会・青葉と鴨)で触れた「三六橋」について、ブロ友のビッグジョン氏が「何と読むのでしょう。」とコメントされていたことを思い出したからであります。11日には「三六橋」と漢字表記された銘板を見ただけで、反対側にある「平仮名表記の銘板」は見ていなかったため、何と読むかと尋ねられても正解の持ち合わせがなかったのでありました。(三六<さんろく>橋) 正解は、さんろく橋でありました。「さぶろく」ではなかったようですから、「サブロクのカブ」という語呂合わせには不適な読みということになります(笑)。 ビッグジョン氏がそのコメントで書いて居られますが、橋名板は橋に向かって左側の欄干に表示する慣わしとなって居り、その橋を通過する道路の起点側の橋名板は漢字表記。終点側の橋名板は平仮名表示と決まっているそうな。 また、「さんろくはし」となって居り、「さんろくばし」と濁音表記になっていないのは、川の水が濁らないようにという縁起担ぎだそうな。まあ、正式名が「さんろくはし」なのか「さんろくばし」なのかは、明白ではありませんから、この表記が縁起担ぎで濁音記号を省略しているのかどうかは、依然不明と言うほかありませんが・・(笑)。
2016.05.14
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この処、遠出も出来ず、近隣をウロチョロですが、花散歩もネタ切れとなりましたれば、虫散歩ということと致します。 ところで、万葉集に出て来る「虫」と言えば、何でしょう?勿論、高橋虫麻呂ではない。蝉、蝶、トンボ、コオロギ、蚊、蛍、蜂、蚕、蜘蛛、蝿などでしょうか。花と違って虫は流石に歌には馴染まないようで、少ない。 先ず、蝿から。(蝿) 蝿が万葉集に登場すると言っても、ハエそのものが詠われている訳ではない。蝿という字が登場するのである。現在でも「五月蝿(うるさ)い」などと書くが、このルーツは万葉仮名にある。「騒ぐ」、「満つ」、「沸く」などの枕詞として使われる「五月蝿(さばへ)なす」がそれである。五月の蝿はうるさいと言う訳である。沖縄など暑い地方では、ハチの代りに暑さに強いハエを農作物の受粉に利用するから、五月の蝿も「うるさく」はなく「ありがたい」と言うものかも知れないが、一般的には「うるさい」ものとされている。 ・・五月蝿なす 騒ぐ舎人は 白たへに 衣取り着て・・ (大伴家持 万葉集巻3-478) ・・死ななと思へど 五月蝿なす 騒ぐ子どもを・・ (山上憶良 万葉集巻5-897) さて、次は蚊。蚊も万葉集に登場する。と言っても、これも蚊自体ではなく「蚊遣り火」という形での間接的な登場である。 あしひきの 山田守(も)る翁(をぢ)が 置く蚊火(かひ)の 下(した)焦(こ)がれのみ 我(あ)が恋ひ居(を)らく (万葉集巻11-2649) ここでの「蚊火」は「蚊遣火」と解されている。巻10-2265の歌には「鹿火屋」、巻16-3818の歌には「香火屋」などが出ているが、これらは、鹿を農作物から追い払うための火を焚く小屋、と解されている。鹿遣り火も蚊遣り火も同じものであったのかも知れない。(ガガンボ) 蚊の写真がないので、蚊のお化けのようなガガンボの写真で代用です。最近は余り見かけなくなったが、昔は、夜に突如部屋に飛び込んで来て、その巨大さに驚き、外へと追い出したものである。時には叩き殺したりもしたかと。小さなトンボ位の大きさがある。写真のこれは、先般の奈良銀輪散歩で狭井神社へと向かう坂道で見つけたものである。昼間にこの虫を見るのは珍しい。 (同上) 嫌われ虫ばかり続くが、次も嫌われ虫の蜘蛛です。(栃木県佐野市・かたくりの里公園のジョロウグモ) この蜘蛛は昨年11月の三毳山銀輪散歩で立ち寄った「かたくりの里公園」で見たもの。小生は子どもの頃、大きな蜘蛛に指を咬まれたことがあり、このような大きな蜘蛛はちょと触る気にはなれないのであります。屋内に居る小さなハエトリグモなどは可愛らしいと言うか、動作が剽軽なので手の平に這わせて遊んだりもするが、こいつは願い下げである。 さて、蜘蛛は万葉集に登場するのか。はい、こいつも蜘蛛そのものとしてではなく、蜘蛛の巣として登場しています。 ・・甑(こしき)には 蜘蛛の巣かきて 飯(いひ)炊(かし)く ことも忘れて・・ (山上憶良 万葉集巻5-892) 上は、有名な貧窮問答歌の一節である。 次は、蜂。 ・・胸別の 広き我妹 腰細の すがる娘子の・・ (高橋虫麻呂 万葉集巻9-1738) 上の「すがる」は「須軽」、「為軽」とも書くが「蜾蠃」で、ジガバチのことである。「すがるをとめ」とは、ジガバチのようにウェストがキュッと細くくびれた娘という訳である。 まあ、これも蜂そのものが詠われている訳ではありませんですな。 次はトンボ。トンボは「あきづ(蜻蛉)」である。 あきづ羽の 袖振る妹を 玉くしげ 奥に思ふを 見たまへ我が君 (湯原王 万葉集巻3-376) ・・まそみ鏡に 蜻蛉領巾(あきづひれ) 負ひ並(な)め持ちて 馬買へわが背 (万葉集巻13-3314) カゲロウもトンボも漢字では「蜻蛉」である。下はカゲロウではないが、カゲロウの胴体を短くして、グ~ンとダウンサイズしたような小さな虫。PCに昨夜やって来た虫である。虫の下に写っている白い〇はPCの電源ランプである。径が1mmあるかないかであるから、虫の大きさも体長3mm位である。撮影後、ベランダから外へとお帰り戴いたが、名前は不明である。 (何という虫?) 写真も無くなりましたし、ちょっと飽きて来ましたので、これまでとします。残りの虫は、また、次の機会ということにさせて戴きます。 何とも訳の分からぬ虫散歩でありました(笑)。
2016.05.13
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本日は囲碁例会の日。久々にMTB(マウンテンバイク)で梅田まで。途中、大阪城公園を通り抜けるのはいつものパターン。公園の桜広場は、もうすっかり青葉です。(大阪城公園・桜広場) 青葉の道を通り抜けて行く。上の写真の左側に入ると、小さな水辺があり、そこにはヘラオモダカの白い花が咲いていましたが、これは撮影しませんでした。以前のブログでご紹介していますので、それをご参照下さい。可憐な花です。 <参考>ウリカワなのかオモダカなのか 2015.10.19. 大阪城公園を通り抜け、天満橋を渡って、大阪天満宮の門前を通り、国道1号に出て、というのがお決まりのコース。そして、このコースの場合のお決まりの昼食場所は「れんげ亭」である。 れんげ亭のママさんも今年の若草読書会にご参加戴いたので、今では勝手に読書会メンバーに加えさせて戴き、その名も「れんげの郎女」さんなのであるが、その後の囲碁例会の日が雨続きということや欠席ということなども重なって、れんげ亭で昼食をとるのも久しぶり、れんげの郎女さんのお顔を拝するのも、その新年会以来のこととなるから、実に3ヶ月振りになのである。(本日の「れんげ亭」) れんげ亭の隣は喫茶店なのであるが、この喫茶店に入ったことがない。今日もれんげの郎女さんから珈琲をサービスで出して戴きましたが、そういうことが多いので、食後の珈琲、などと隣の喫茶店に入るまでもないということになるのである(笑)。 さて、囲碁例会であるが、本日の参加者は福〇氏、竹〇氏、村〇氏と小生の4名。最初に福〇氏と2局打ち2敗と連敗スタート。次に竹〇氏と打ち1勝。しかし、次の村〇氏には負けて、結局1勝3敗と振るわず。これで、今年の通算成績は12勝12敗と五割に後退です。 帰途は、小雨となりましたが、大阪城公園で用意して来たレインウエアを上衣だけ着用。中央環状道路を越える付近ではその雨も止み、特段のこともなし、でありました。 花園ラグビー場・花園中央公園を通過して恩智川を渡る。橋には「三六橋」という銘板。何度も渡っている橋であるが、橋の名は今日初めて知りました。それにしても「三六橋」とは何とも奇妙な名である。 その三六橋から川を覗き込むと、1羽の鴨が居ました。羽をつくろったり、首を伸ばしたり縮めたり、暫く鴨の動きを眺めたり、写真に撮ったりしましたので、それをご紹介して置きます。(恩智川の鴨) 囲碁に負け 恩智の川の 橋の上に われたそがれて 鴨とたはむる (恩智川啄木)(同上)
2016.05.11
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偐万葉・ひろみ篇(その7) 本日は、偐万葉シリーズ第257弾、偐万葉・ひろみ篇(その7)といたします。 <参考>過去の偐万葉・ひろみ篇はコチラ ひろみちゃん8021氏のブログはコチラ 偐家持がひろみの郎女に贈りて詠める歌20首 並びにひろみの郎女が詠める歌2首しみじみと 詠ふは不得手 ころげたる ことありてこそ わが歌なれり (転家持)(注)偐万葉掲載に当り、「歌もやすかれ」を「わが歌なれり」に修正しました。流氷の 流れくらしも かはち野の 高き冬空 雲ぞ群れける (紀雲之) (らくらく登山道)(本歌)さくら花 ちりぬる風の なごりには 水なき空に 波ぞたちける (紀貫之 古今集89) 立山(たちやま)の 雪し来(く)らしも 延槻(はひつき)の 河の渡り瀬 鐙(あぶみ)浸(つ)かすも (大伴家持 万葉集巻17-4024)今造る ふぐのさしみに ふぐの鍋 ゐ群れてどちと 飲み食ひよかり (かま田の家持)(本歌)今造る 久迩の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし (大伴家持 万葉集巻6-1037) ひろみの郎女が追和せる歌1首 今ふぐが ほおりこまれて いけすの中 ゐ群れてどちが 食べられていく (てっちり) (てっさ)川平(かびら)の海(み) ハイビスカスの 花越しを 白き棚船 行き去りにける けふよりは さる年なりと ひとは言へ われには猫の 年のほかなき (タロ麻呂) (注)タロ=ひろみの郎女邸に住まひせる猫 (タロ) 少子など 笑止のことぞ 子沢山 見たかメダカの 年の明けなり (鉢野めだか) ペガサスも 魔がさすことの あるなれば 翼持つサル ペガサルなるか (間が抜けた) ひろみの郎女が追和せる歌1首 サルもサル ぺガサルにならむ 出来うれば 間が抜けザルと 言はれぬやうに (魔がさる)あらたしき 年の始めの 初づくし あれやこれやの なにやかやなり (あれやらのなにひら)赤人の 歌碑たづねむと 来しわれは 野の寒風を ひとり行きける (河内黒人)(本歌)春の野に すみれ摘みにと 来しわれそ 野を懐かしみ 一夜(ひとよ)寝にける (山部赤人 万葉集巻8-1424)ありつつも 咲くをば待たむ ぬばたまの 黒き種(たね)なる ニゲラとふ花 (偐磐媛皇后)(本歌)ありつつも 君をば待たむ うちなびく わが黒髪に 霜の置くまでに (磐媛皇后 万葉集巻2-87) (ニゲラ)草の戸も様変りなりひなの家 (隣の芭蕉)雛もなく変らぬさまぞ鄙の家 (筆蕪蕉)(元句)草の戸も住替る代ぞひなの家 (松尾芭蕉 おくのほそ道) (雛人形)蜂や蝶に 聞いてもみたき 堅香子(かたかご)の 真白き花の 如何にや見ゆと (偐蜂持)勿忘草 忘れ草とを 植ゑたらば なるやいかにと 思ひ草われ (失念家持) (ミヤコワスレ)みほとけの たふとき光 金色(こんじき)に 咲きたる椿 つばらにぞ見む (偐笠金村)(注)金色に咲きたる椿=金花茶のこと。 つばらに=詳細に。 茶の木また 椿の仲間 花見れば 何ぞ椿と これ変らざる (花椿茶葉) タビラコが 譲り渡せる ほとけの座 姫踊子草に とられてなるか (南無阿弥陀籤) タビラコと オニタビラコの 区別われ いまだ不確か 花とニラメッコ (アブラカタブラ) (ヒメオドリコソウ) 妹見しは 奈良の都の 八重桜 けふこころあたり しらべさもとぞ (河内大輔)(注)しらべさもとぞ=「調べ、さも(あるらむ)とぞ(思ふ)」で、「調べた ら、そのようだと思います」の意。 (本歌)いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな (伊勢大輔 詞歌集27 小倉百人一首61) (奈良八重桜) しろやしろ しろのおだまき いちしろく むかしもいまも さきまさりける (白御前) くさぐさの 色にし咲ける おだまきに 咲かなくあるの 色の恋しき (恋御前) 咲くもよし 咲かぬもよしの おだまきの 咲きたる花の 咲きたるままに (咲御前) (本歌)しづやしづ しづのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな (静御前) (オダマキ)<注>掲載の写真はひろみちゃん8021氏のブログからの転載です。
2016.05.07
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今日は5月5日。端午の節句・Boys' day。 3月3日・桃の節句がGirls' dayと、節句は男女別になっているが、祝日としては「こどもの日・Children’s day」(「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」日)で、男女の区別はない。ところで、祝日法の定義では「母に感謝する日」とあり、「父母に感謝」となっていないのは何故か。「感謝」の対象としては「父」は頗る影が薄い(笑)。「父」という語と「感謝」という語とは縁語関係でないのは明白のようだ。 それはそれとして、端午の節句と来れば「鯉のぼり」ですな。前ページに掲載した「鯉のぼり」の写真は、今日の記事にこそ相応しい、と言うべきだが、既に使ってしまったものを濫りに再掲載はせぬもの。是非に及ばず、であるか。尤も、鯉のぼりは端午の節句まで飾るものにてあれば、今日掲載するよりも、それに先立つ日に掲出する方が理に叶っているのではある。 さて、5月5日と5並びの日に、何故か6並びの事態が生じました。これでは56(語呂)が合わないなどと思ってもみましたが、これも亦、是非に及ばず、である。 という訳で本日朝10時前後に666666アクセスが通過して行ったのでありました。 6が六つ並んだのか、66が三つ並んだのか、それとも666が二つ並んだのか。6の束ね方次第で11通りの見方ができるが、ともかくも同じ数字が揃うというのは視覚的に心地よいものがある、などとロクでもないことに思いを遊ばせている閑人家持である。 ろくでもない、の「ろく」は「碌」であり、「六」でも「6」でもないのだから、ロクでもないことには違いない。で、ロクでもない歌を詠んでみることに。いや、これは6の歌であるから、ロクでもある歌なのだ。だんだん頭が混乱して来た(笑)。六六つ 並びて今日は 六の日と 思へど五の月 五の日なりけり 6並びなのだから、せめて明日の6日なら、六六つ 並べる今日は 日も六と 揃へど月は 五にてありけると少し面白くなり、これが6月6日のことなら六六つ 並べる今日は 日も六と 揃ひて月も 六にしあれるとなり、もっとスッキリして面白かったのだが、そうはうまく行かないのが現実というものですな。そこで、視点を変えて戯れ歌1首。六六つ 二つ並びを 人の目と みなし三人(みたり)の 人の顔見ゆ (66 66 66) 1並びは「瀬々の網代木」、2並びは「アヒル」、3並びは「耳」、4並びは「ヨット」、5並びは「銀輪」と来て、6並びは「目」に見立てましたが、次の7並びは何に見立てるのがいいですかね。それはさて置き、それぞれのゾロ目の推移は以下の通り。 2011年 3月18日 111111件 2013年 8月 2日 222222件 2015年 2月22日 333333件 2015年 8月 9日 444444件 2015年12月15日 555555件 2016年 5月 5日 666666件
2016.05.05
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本日は午後から墓参。ブログ記事の上からは連続の墓参になりますが、本日のそれはわが家の墓参りであります。 墓参の道すがらの、いつもの寺の門前の言葉は先月のそれのまま。GWとあって、お寺さんも差し替えが遅れているのですかな。こんなことでは「掲出の意義を問われる」というものである(笑)。この冗談は、先月の言葉をご存じないお方には何の事やら分かりませんでしょうな。 <参考>墓参・カラスもスズメも 2016.4.2. 墓参の後は例によって花散歩でありますが、その前に季節柄、先月の大和川辺の銀輪散歩で見掛けた鯉のぼりの写真を掲載して置きます。(大和川沿いの民家の鯉のぼり・奈良県田原本町) これは先月の奈良銀輪散歩の折に撮影したものですが、5月になればブログ写真に利用しようと思って撮ったものであれば、この辺で掲載しないと旬を逃してしまいかねませぬ。まあ、こちらの都合の押し付けとも言えますが、時節のご挨拶代わりとお心得下さり、ご寛恕賜れば幸甚に存じ上げまする(笑)。 さて、花散歩と言っても、毎度、花らしい花が登場しないのがヤカモチ流花散歩であります。今回もその通りにて、先ず、カタバミです。(アカカタバミ) 葉の色が赤っぽいのがアカカタバミ。普通の緑の葉のがカタバミ。これをアオカタバミと名付けたら、アオカタバミ・アカカタバミ・キカタバミと早口言葉にも使えそう(青巻紙赤巻紙黄巻紙)であります。 種苞がかなり成長して来ている。これが熟すると軽く触れただけで弾けてプチプチと種子をまき散らすのであるが、子どもの頃はそんなことも遊びにしたものである。(カタバミ)(スズメノエンドウ) 花が極小過ぎて撮影不能。これこそがスズメノエンドウだろう。 先月の墓参で撮影して、スズメノエンドウとして紹介したのは、カスマグサであったようで、本日、当該記事を追記修正して置きました。スズメノエンドウは極小の花を房状に沢山付けるのに対してカスマグサは小型の花を少数付ける、と説明されている(Wikipedia)。カスマグサの花は、青い縞模様があるという記述のあるネット記事もあり、これらを総合すると、今日見た上掲の野豌豆がスズメノエンドウに違いない。 <参考>墓参・カラスもスズメも 2016.4.2. ブロ友のビッグジョンさんが小豆島で目にされたという黄色い花のカラスノエンドウの写真を昨日の同氏ブログ記事に掲載・ご紹介されていますが、白花カラスノエンドウはあるが、黄色の花のものはネットで調べても登場しないとのこと。 そう言えば、先の大和川銀輪散歩でも青紫色の花の普通のクサフジに混じって白花のクサフジも見掛けましたから、白花のカラスノエンドウやクサフジは比較的よく見られるのかも知れない。 小豆島の黄色いカラスに対抗して河内の黄色いスズメやいかにと探しましたが、そんな奴は居ませんでした。スズメノエンドウの花はそれ以前の問題として、花が微小に過ぎて、色の識別さえ苦労するというものである。(テイカカズラ) テイカカズラの花というのは、このように花弁が二つ折れになっているのであったかしらん?二つ折れの花弁を広げると普通の花のようになって、あの風車みたいな特徴ある花姿ではなくなってしまう。元々の花弁が風車のようになっていると思っていたので、これはニセテイカカズラではないのか、と一瞬思ったものだが、どうやら花弁が捻じれるようにして角度を持ち、次にこれが縦に二つ折れとなる、そういうプロセスを経て、風車状の花姿になるようである。 そんなことは皆さん既にご承知のことなのかも知れないが、今まで接近して観察したことがなかったため、小生は今頃それに気が付いた次第。(同上) 次はヤブジラミ。この花も微小にて撮影には苦労する。風が吹くともうお手上げになる。なかなか可愛い花である。しかし、こいつは曲者。小さな花の下部には種苞が膨らんでいるのが観察される。これが成熟すると、その表面に生えた繊毛によって、我々の衣服にビッシリとくっつくのである。くっつき虫、ひっつき虫の代表的な植物でもある。まあ、既にその名前がそのことをよく示しています。(ヤブジラミ)<追記>上のヤブジラミは、正確にはオヤブジラミという名前のようです。実が赤味がかっているのがその特長だそうで、この草の実も赤味を帯びています。(同上) カタバミ、スズメ、テイカ、シラミと花とも思えない名前が続きました。 枚岡梅林から枚岡神社参道に抜ける坂道を下った処にある、小さな空地に花壇があって、色んな花が咲いている。数人の方がイーゼルを立てて水彩画を描いて居られる。何処かの絵画サークルの方々の写生会のようです。 狭い場所なので、お邪魔してもよくないので、入口近くから眺めやって失礼する。その入口近くにあったのがこの植物。初めて見る植物ではなくて何かお馴染みさんという気もするのだが、名前が浮かんで来ない。泡かシャボン玉のように下から葉っぱが湧き上がって来るような感じが面白い。(不明)※追記:ウチワゼニグサという名前でした。 ここまでが墓参の後の本日の写真。 次は、一昨日の中学恩師の墓参で、恩師の奥様をご自宅までお迎えに上がった折に、そのご自宅前の小さな空き地にて見付けたもの。ハルジオンやタンポポやニワゼキショウ、ギシギシなどなどの中にこんな草がありました。 虫に食われたのか葉がボロボロ。花も散ったアトなのかこれから咲こうとしているのかも不明。勿論、名前なんぞ元より不明であるが、その様子が何となく気になったので撮影してみたのでありました。(不明)※追記:チチコグサの可能性が高そうです。 そんな中で、何やら色褪せた白っぽい草。ヒメオドリコソウのようだが、このような色のものもあるのかと見渡してみれば・・。(ヒメオドリコソウ) 花を付けたものもあったので、もうヒメオドリコソウに間違いはない。花を付けた奴は、葉の色も幾分赤みがかってそれらしき色になっている。 色褪せたと見えたのは、他の背丈の高い草に遮られて、生存競争に於いて苦戦している個体のようである。群生して勢力圏を堅持しているヒメオドリコソウなどは、いかにも強そうで旺盛な生命力と繁殖力を感じさせる草であるが、他の草花との間で必ずしも優位に立てていない場合には、このように何やらはかなげでひ弱な様子でもあるのですな。これを環境に馴化すると言うのでもあるのでしょうが、ヒトは環境に馴化するのではなく環境を変えることによって、つまり環境を自身に馴化させることによって、その生存領域を広げるという他の生物にはない方法で増殖して来た。 他の生物から見れば、ヒトも、かつてはこのヒメオドリコソウのように控えめで目立たない存在で、可愛いげもあったのだろうが、今は群生するヒメオドリコソウのそれのように疎ましい存在になっている、ということでしょうな。 何年か後に、この空き地がヒメオドリコソウに占拠されているというようなことのないことを祈ろう(笑)。いや、それ以前にヒト様がこの空き地を無くしてしまっているということの方が、ありそうなことですかな。(同上)
2016.05.03
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昨日(1日)は、中学の同級生でブロ友でもあるひろみちゃん8021さんの誘いで唐招提寺へ瓊花を見に行きました。 彼女がブログで唐招提寺の瓊花の写真を紹介して居られ、小生もそのうちに見に行きたいとコメントに書いた処、「1日か2日に唐招提寺山門の孝謙天皇揮毫の扁額の写真を撮るため、再度訪問したいと思っているので、よければ私の車で一緒にどうでしょうか」というご連絡があり、それに乗ることとしたのでありました。 <参考>「4/25唐招提寺拝観(その1)瓊花を観に行きました」 若草読書会での小生の友人・小万知さんもこの瓊花のブログ記事に「見てみたい」とコメントされていたことから、「小万知さんもご一緒にどうかしら。」という彼女の話。そこで、その旨を小万知さんに電話したのですが、両日とも他用があって無理とのことで、残念ながら、ご一緒は叶いませんでした。かくて、二人だけで出掛けることになった次第。 で、先ずは、その唐招提寺の扁額ですが、これです。 門前の警備員の方が、普通のデジカメでは文字などがうまく写りませんよ、と仰っていましたが、PCで加工・編集すると何とか判読できる程度には鮮明になりました。(唐招提寺山門の扁額) この扁額は本物ではなく、実物を模したレプリカとのこと。本物は別の場所に大切に保管されているそうな。孝謙天皇の自筆の書とあれば、そういうことになるのでしょうね。ひろみちゃんは書の先生をやって居られたから、こういうものに興味津々なのでしょうが、小生は「さほどにも非ず」ですな。 因みに、孝謙天皇(安倍皇女)は養老2年(718年)の生まれで、大伴家持と同じ年の生まれですから、言わば両人は同級生のようなものでしょうか。偐家持もその程度の関心は持って孝謙天皇を見ているということでありますかな(笑)。 孝謙天皇(重祚して称徳天皇)は770年、52歳で亡くなっているから、785年まで生きた大伴家持より15年も早くに死んでいる。孝謙天皇の歌と言えば西大寺境内にある彼女の歌碑の歌が思い出される。この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に わが見し草は もみちたりけり (孝謙天皇 巻19-4268) この歌碑の写真は次の参考記事に掲載されています。 <参考>青雲塾第2回万葉ウオーク 2011.6.5.山門に 継ぎて額置く この寺の わが書きし字は 色あせにけり (孝偐天皇) (唐招提寺) さて、わが「見まくの欲しき」瓊花がこれです。 ちょっと変わった花です。ガクアジサイに似ていなくもない花である。 鑑真和上のご縁で、中国から唐招提寺に贈られた花だそうな。(瓊花) 確かに美しい花なのだが、花の近くに寄ると何やら不快な匂い。 ひょっとして・・と花に鼻を近づけてみた。 その不快な匂いはこの花が発していたのであった。 ひろみちゃんは「いい匂いがしていた」と仰る。 小生の嗅覚が変なんだろうか。匂いの感じ方も人それぞれのようです。 それ程強い匂いを発してはいないので、悪臭とまでは行かないが、小生には不快な匂いである。 よって、小生には、この花は「臭い花」という位置づけとなりました(笑)。尤も、アオスジアゲハがたかる花なのだから「臭い」花に違いない、などと何ら科学的でない「胡散臭い」理屈をその論拠として自身の嗅覚を正当化しているに過ぎないから、こっちもかなり胡散臭いのではあります。(同上)(同上) これは、ひろみちゃん氏もブログで紹介なさっていた奈良八重桜です。 「けふ九重ににほひぬるかな」の奈良八重桜も、少し盛りが過ぎたようにて「けふこのごろはしをれぬるかな」と言った風情でありました。 桜は「しだれ」てもよいが、「しをれ」てはよくない。一重の桜は萎れる前に花びらが散ってしまう。これに対して八重は咲きながらに萎れる感じがある。花弁が多いとこういうことは不可避ですな。八重なす花弁がみんな元気なうちに散れ、というのは土台無理。一重よし、とした兼好さんもその辺の処に着目してのことだろうか。しかし、花の好みに限らず、自身の好みや価値観を他に押し付けるのは野暮というものである。(奈良八重桜) 次の芭蕉句碑もひろみちゃん氏のブログで紹介済みのもの。 二番煎じの記事とはこういうもの。致し方なきことにて御座候。(芭蕉句碑) 若葉して御目の雫ぬぐはばや (松尾芭蕉 「笈の小文」) この句は、貞享5年(1688年)の作。芭蕉が、おくのほそ道の旅に出るのは元禄2年(1689年)の3月であるから、その前年の句である。「若葉にて御目もとの雫を拭って差し上げたい」と、鑑真が潮風によって盲目になったことを踏まえ、鑑真像に涙を幻視した句である。 芭蕉の句で「若葉」が登場する句はもう1句ある。 「おくのほそ道」に出て来る有名な句である。 あらたうと青葉若葉の日の光 (同上 「おくのほそ道」) 青葉若葉の句などを思い浮かべながらもヤカモチさんの目はノキシノブに行くのだから、その感性は、未完成・支離滅裂か(笑)。しかし、目に入ってしまったのだから仕方がない。(唐招提寺境内・ノキシノブ) そして、松葉海蘭(マツバウンラン)もありました。 これは、この花の名が分からぬものだから、「夢の雫」などと小生が適当な名を付けて呼んでいたら、小万知さんが「松葉海蘭」だと正しい名を教えて下さったものである。もう数年前のことである。(同上・マツバウンラン) 唐招提寺を出て、大池に回る。この池畔は薬師寺の遠景の撮影スポットであるが、今は、東塔が修理中で、野暮な工事用仮囲い覆屋に覆われて見苦しき様、と言うか、興醒めな眺めにて、撮影スポットも形無しなのである。(大池から見る薬師寺西塔) で、東塔が写らぬように撮影したのが上の写真である。 手前の水面が大池のそれ。 この大池は、万葉集に登場する「勝間田池」だろうと言われている。 唐招提寺は元々は、天武天皇の皇子の新田部皇子の邸宅(別荘)であった場所で、その跡地が与えられて鑑真和上の唐招提寺となったもの。 新田部皇子の歌は万葉集には登場しないが、新田部皇子に贈られたという婦人の歌が1首ある。勝間田の 池は我知る 蓮(はちす)なし しか言ふ君が 鬚なきごとし (万葉集巻16-3835)(勝間田の池のことはよく存じ上げていますわ。蓮はございません。そう仰るあなた様にお鬚がないのと同じで明らかなことです。) 万葉集左注には、新田部皇子が勝間田池を見て感動し、池から帰って来て或る婦人に、勝間田池は、水が満々とあって蓮の花が盛りと咲いて見事なものだった、と言ったところ、その婦人が上の戯れ歌を詠んで返した、とある。 この歌の解釈は色々にあって、 新田部皇子が「蓮」と言っているのは、勝間田池付近に住んでいる女性のことで、それを隠そうとして「蓮」を持ち出したのに対して、それを察知した婦人が、そんな嘘を言ってもバレバレよ、と返した。とか、 新田部皇子がこの婦人に愛情を抱いていて、蓮に(蓮<れん>は恋<れん>に通じる)「恋」を匂わせて、それをほのめかしたのに対して、婦人がさらりとそれをかわした。とか、がその代表的な解釈である。 どちらの解釈でもお好きな方をご採用下さい。 新田部皇子の父は天武天皇というのは既に述べたが、母は藤原鎌足の娘の五百重娘である。天武天皇が「こちらは大雪が降ったぞ、お前が居る大原の里に降るのは未だ先のことだろうな。」という歌を贈ったのに対して、「わたしが丘の神様にお願いして降らせた雪のかけらが砕けてそちらに散ったみたいね。」と返してやり込めた夫人がこの五百重娘なのである。それを彷彿とさせるようなやりとりという気がする。 さて、この後、どうするか、ということになり、折角だから、中学の恩師の井〇先生のお墓参りをしようということになる。5月は先生の命日の月でもあるのだから。そこで、井〇先生の奥様に電話を入れ、ご自宅まで迎えに上がるので、ご都合宜しければご一緒にどうですか、と尋ねてみた。午後1時頃にお迎えに行くこととなる。 それまでの時間つぶしということで、登彌神社、竜田大社を回って行くこととする。(登彌神社) 登彌は登美で登美ヶ丘という地名になり、登美の小川で富雄川となり、であるが、元々はこの大和に先住した長髄彦(ながすねひこ)一族の名であったのかも知れない。 天孫ニニギとは別に降臨したニギハヤヒは長髄彦の妹を妻としてこの地に定住したが、神武が日向からやって来るに及び、これと抗戦するか帰順するかで長髄彦とニギハヤヒとで立場が分かれることとなる。 神武と長髄彦の戦いの最後は、神武の弓に金色のトンビがとまり、矢を放つと、長髄彦の軍は戦えなくなってしまうという形になる。「鳥見」というのはこのトンビの逸話と関連しての表記だろう。戦況が悪くなっても徹底して戦おうとする長髄彦をニギハヤヒ又はその息子のウマシマデが謀殺し、神武を大和に迎え入れる。ニギハヤヒ、ウマシマデは物部氏の祖である。 登彌神社の由緒碑は、大和を平定した神武がこの地に皇祖神を祀り、後に登美連がその祖先であるニギハヤヒ(饒速日)を合祀したのが当神社の創建であるとしている。 (同上) (同上)(同上・本殿) 富雄川を下流に走り、大和川に出て、龍田大社に向かう。 龍田大社には行ったことがないというひろみちゃんの話であったので、ご案内申し上げることとしたもの。途中、沈下橋を見たりもしたが、沈下橋と龍田大社は彼女がブログ記事にすると仰るので、小生はパスです。 <参考>平群ー竜田川ー大和川ー龍田大社ー竜田越え(その2) 平群ー竜田川ー大和川ー龍田大社ー竜田越え(その3) 龍田大社の前の小さな摂社の祠の前でお弁当タイム。祠の脇にどなたかのペンケースが置き忘れになっていました。そのままにしてありますが、奇跡的にこの記事を持ち主がご覧になるというようなことがありましたら、昨日の昼前までは現地に置かれたままでありましたから、取りに行ってみて下さいませ(笑)。 井〇先生宅に12時半頃に到着。奥様を車にお乗せして、恩師のお墓のある霊山寺に向かう。恩師・井〇先生のお墓に参るのは昨年5月のミニクラス会以来のことだからほぼ1年振りということになる。奥様とも1年ぶりの再会である。 <参考>中学恩師の墓参・ミニクラス会 2015.5.30.(霊山寺霊園) さやさやと風が吹き、ここでもマツバウンランが咲いて風に靡いていました。知ったかぶりをしなければいいものを、松葉雲蘭と説明し、帰宅して調べたら松葉海蘭であったことを知る(笑)。 まあ、雲をつかむような話、海のものとも山のものともつかぬヤカモチ。雲も海も弱い視力では区別が付かないのだから、「そら(空)仕方ないわ」と自嘲(笑)。(同上・マツバウンランが咲き群れ、さやさやと風に・・。) 墓参の後、途中の喫茶店で暫し、三人であれこれの思い出話や亡き先生のことやその他の雑談。 奥様をご自宅までお送りして帰途につきました。 <参考>銀輪万葉・奈良県篇
2016.05.02
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