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友人・岬麻呂氏からの旅便りがまたまた届きました。 10月22日~25日の3泊4日の「紅葉と温泉を訪ねる」ご夫婦旅。 その傍ら、各地で精力的にマンホールカードを手に入れて下さったようで、旅便りには18枚ものマンホールカードが同封されていました。これについては、後ほどご紹介させていただくことし、先ずは旅便りです。(旅・岬巡り報告245・南東北&同写真説明) 旅の概要は、上掲の、報告245をご覧いただくとして、同写真説明に掲載の写真は、別途メールで送信いただいて居りますので、以下、これをご紹介申し上げます。裏磐梯、蔵王、鳴子峡などの紅葉をお楽しみ下さい。22日関西空港→仙台空港→白石城歴史探訪ミュージアム→福島市→二本松市・霞ヶ城→本宮市→猪苗代町・亀ヶ城趾→裏磐梯・毘沙門沼→アクティブリゾーツ裏磐梯泊(白石城)(毘沙門沼)23日毘沙門沼→柳沼→レンゲ沼→桧原湖→東鉢山七曲り→白布峠→双竜の滝→米沢・上杉神社→南陽市・赤湯烏帽子山神社→上山城→寒河江市・さくらんぼ会館→河北町・紅花資料館→さくらんぼ東根駅→天童公園→蔵王プラザホテル泊(毘沙門沼・遊歩道)(柳沼) 五色沼や桧原湖は、ヤカモチも銀輪散歩で訪れたことがあるので、懐かしい場所です。<参考>裏磐梯銀輪散歩<1>・新潟から猪苗代まで 2012.9.28.裏磐梯銀輪散歩<2>・五色沼逍遥(毘沙門沼) 2012.9.29.裏磐梯銀輪散歩<3>・五色沼逍遥(赤沼・深泥沼・弁天沼) 2012.9.30.裏磐梯銀輪散歩<4>・五色沼逍遥(瑠璃沼・青沼)小野川湖 2012.10.1.裏磐梯銀輪散歩<5>・桧原湖一周(1) 2012.10.2.裏磐梯銀輪散歩<6>・桧原湖一周(2) 2012.10.3.裏磐梯銀輪散歩<7>・桧原湖一周(3)・小谷山城跡 2012.10.4.裏磐梯銀輪散歩<8>・桧原湖一周(4)・曽原湖 2012.10.5.裏磐梯銀輪散歩余録・猪苗代駅・SLとの遭遇 2012.10.6.(双竜の滝)(紅花資料館)(蔵王温泉の紅葉)24日舟形町観光物産センターめがみ→鳴子峡→東松島市・ブルーインパルス訓練飛行見る→多賀城史蹟→秋保グランドホテル泊(鳴子峡・大深沢橋遠望)(同上・大深沢橋上から渓谷を覗く)25日仙台市→名取市ウイングプラザ→仙台空港→関西空港紅葉を楽しむ全685kmのドライブ終了。 さて、冒頭で申し上げましたマンホールカードをここでご紹介申し上げます。カードは昨日(29日)喫茶ペリカンの家のママさん、ももの郎女さんにお預けして、その旨をひろみの郎女さんに電話でお知らせして置きました。これらは全て、ヤカモチ経由でひろみの郎女さんにお渡し下さいという趣旨で同封されていたものであるからです。 これらのマンホールカードは、ひろみの郎女さんが追ってブログ記事にアップされることでしょうから、ここでは表面だけ掲載することとし、裏面は割愛します。1.白石市2.桑折町 桑折町については、こんなものも同封されていました。 (桑折町のマンホール型のコースター)3.福島県流域下水道4.二本松市5.本宮市(本宮市マンホールチェック場所) マンホールカードと共にその現物が何処にあるかを記載した上のような地図を併せて配布している交付窓口もあるのですね。6.猪苗代町 猪苗代町については、このような物も同封されていました。(猪苗代町座標マンホール位置図)(猪苗代町のマンホールの種類) 猪苗代町のマンホールでは、上の図の中段のサギソウをデザインしたカラー蓋の写真を撮っています。多分、このマンホール蓋を撮影したのが、小生の最初のマンホール撮影であったのだろうと思います。<参考>銀輪万葉・マンホール 2013.10.21.7.南陽市8.上山市9.寒河江市10.河北町11.東根市12.天童市13.山形県流域下水道 山形県のマンホールカードは、鶴岡市と舟形町を覗き全てを取得されたとのこと。 岬麻呂氏がカードを取得されなかった鶴岡市のマンホールの写真、たまたまですが、その写真、小生は撮影していました。<追記訂正>上記文章中、当初文章は「藤沢市」となっていましたが、「鶴岡市」の間違いなので訂正しました。岬麻呂氏からのメールでミスタイプに気付きました。「鶴岡市」と記したつもりであったので、何故、藤沢市となっているのか奇異に思いましたが、多分、鶴岡市は藤沢周平の出身地、鶴岡城趾公園には藤沢周平記念館もあり、問題のマンホールがこの公園にあったかと思うので、記述している時に「藤沢周平」の名前が脳裏にあって、鶴岡市とすべきところを無意識に「藤沢市」と打っていたのだろうと推察します。神奈川県の藤沢市が山形県にある筈もなく、ちょっと考えられないミスですが、この記事を書く前に、喫茶「ペリカンの家」で「たそがれ清兵衛」のことを話題にしていたこともあって、「てちがい家持」となってしまったようであります(笑)。<参考>銀輪万葉・マンホール 2013.10.21.(山形県内マンホールカード交付場所)14.東松島市 15.多賀城市 <参考>銀輪散歩・マンホール(その10) 2018.4.28. 多賀城から塩竃へ 2018.5.4.16.名取市 以上です。 今回は、付録のマンホールカードが沢山あったので、ブログアップの作業も大変手間取りました。<参考>過去の岬麻呂旅便り記事はコチラから。 フォト蔵の岬麻呂写真集はコチラから。
2019.10.30
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愛車・MTB(マウンテンバイク)が入院しました。 若草読書会の課題図書が五木寛之「百寺巡礼」第1巻奈良編(講談社文庫)と決まったので、昨日はこれを購入すべく布施のひばりや書店までMTBでサイクリング。 一昨日は、銀輪散歩のついでに石切の喜久屋書店に立ち寄って探したのだが見当たらず。布施のひばりや書店ならあるかと出掛けたのですが、ここにもありませんでした。仕方ないので、取り寄せて貰うこととしました。 必要なのは第1巻の奈良編だけですが、国内のお寺の分が全10巻あるようなので、ついでに全部を取り寄せて貰うこととしました。丁度よい機会なので、全部を読んでみることにします。 と言っても、読書会は12月1日なので、それまでに全部を読み切ることは無理でしょう。課題図書は第1巻だけなので、まあ、最低限それだけを読めばいいのではある。 帰途、小阪駅前まで帰って来ると、だんじりが2台出ていました。 何処の神社のお祭りかは知らぬが、「御厨」地区と「新家」地区のだんじりのようです。両者が鉢合わせしたので、相互に挨拶を交わしているのか、だんじりの屋根にいる若者が、何やら軽妙な振り付けの「踊り」というか「舞い」というか、即興の「振り」を交換していました。(近鉄・小阪駅前のだんじり) 法被の背中を見ると、右側は「御厨」とあり、左側は「新家」とあるから、その地区のだんじりであることが分かる。(同上) 暫く眺めてから、東へ。 瓢箪山駅近くの馴染みの自転車屋さんへ。 というのも、ディスクブレーキの調子が悪いのか、何やらシャンシャンと擦れているような異音(それがヒュルヒュルという笛のような音に変わることもある。)がすることと、ペダルが心持ち重いような気がすることが気になったので、チェックして貰うことにしたのである。 MTBを預けて、1時間ほど他で時間を潰してから再び行ってみると、ディスクブレーキの部品か何か、ゴム部分らしいが、それが擦り減ってしまっているので、当該部品を取り寄せないといけないという話。「5,6千円程度で済めばいいが・・」というのが自転車屋さんの言。ということは、治療費は1万円程度かかるかもということか。 ということで、MTBは緊急入院と相成りました。 従って、今日から暫くは、銀輪散歩はトレンクル君かもう1台のブリジストン君に出動いただかねばならないこととなっています。 ブリジストン君は殆ど出番がなく無駄に眠っているので、今日から暫くはこれに乗ってあげることにするか。
2019.10.28
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銀輪散歩などの合間に見掛けたマンホール蓋の写真を紹介するのが、このカテゴリの記事の趣旨である。概ね30枚程度になれば記事にまとめるというのが慣例。 最近は、マンホールカードなるものが発行され、各地のマンホールを展示するマンホールサミットなどというイベントも登場したりと、マンホールへの注目度もアップしているよう。マンホール蓋に興味を示し、その写真やマンホールカードを収集するという人も増えて、そういう人のことをマンホーラーと呼ぶそうな。 ブログの記事ネタの埋め草として始めたのが「銀輪散歩・マンホール」というシリーズ記事であるが、こういうパターンの者もマンホーラーというのだろうか。 このところは、友人の岬麻呂氏がブロ友のひろみちゃん8021さんがマンホールカードを集めて居られることをお知りになって、旅先でカードを入手した際には、小生経由で彼女にと送って下さることが多くなりました。 そんなことで、そのマンホールカードから撮影したマンホール蓋の写真がわが手もとにも溜るということとなり、自身の銀輪散歩とは無関係のマンホール蓋の写真が増えつつあるという次第。 今回ご紹介するのは全部で31枚。うち17枚が岬麻呂氏からのものでありますので、正確には「銀輪散歩&岬麻呂旅・マンホール」とすべきかもしれません。 前置きが長くなりました。では、マンホールです。(注)★印のあるものは岬麻呂氏提供です。1.北広島市★※デザインの由来はコチラをご覧下さい。2.恵庭市★※デザインの由来はコチラをご覧下さい。3.江別市★※デザインの由来はコチラをご覧下さい。4.旭川市★※デザインの由来はコチラをご覧下さい。5.砂川市★※デザインの由来はコチラをご覧下さい。6.芦別市★※デザインの由来はコチラをご覧下さい。7.奈井江町(北海道空知郡)★※デザインの由来はコチラをご覧下さい。8.釧路市★ ※デザインの由来は下記をご覧下さい。 左側はコチラ。 右側は旧阿寒町(現在は合併して釧路市)のもの。スズランのデザイン。9.北見市★※デザインの由来はコチラをご覧下さい。10.大阪市 下記は淀川の堤防上の道で見掛けたものです。※大阪市のマンホールは下記記事にも掲載しています。(その1)(その3)(その4)(その10)11.吹田市12.堺市 ※堺市のマンホールは下記記事にも掲載しています。 (その9)(その10)13.奈良市 これは秋篠川沿いの自転車道にありました。※奈良市のマンホールは下記記事にも掲載しています。 (その3)(その5)(その7)14.尼崎市 15.赤穂市 忠臣蔵の赤穂義士の装束を思わせる外周部の模様であるが、これは赤穂市の市章なんだろう。その中心に桜の花が置かれたデザイン。下部は播磨灘の海を表現しているようだ。してみると、市章は朝日をも象徴しているのかもしれない。 左は規格品タイプの古い型のマンホール。中央のマークは市章だろう。 右は、大石内蔵助の消火栓。火消し装束であるのだから理に叶っていると言える。16.丸亀市★ ※デザインの由来は下記をご覧下さい。 左側はコチラ。右側はコチラ。17.多度津町★※デザインの由来はコチラをご覧下さい。18.観音寺市★※デザインの由来はコチラをご覧下さい。19.松山市★※デザインの由来はコチラをご覧下さい。20.香川県流域下水★※デザインの由来はコチラをご覧下さい。21.宮崎市★※デザインの由来はコチラをご覧下さい。22.上越市 以下は北陸新幹線・上越妙高駅前にあったもの。 同じデザインであるが、左は普通サイズのもの。 右は小型サイズのもの。 下は凹凸部分が少し異なる変種タイプ。<参考>マンホールシリーズの過去記事はコチラから。 フォト蔵のマイアルバム「マンホール」の写真はコチラから。
2019.10.26
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友人の凡鬼さんから来年のカレンダーが送られて来た。10日余前のことである。公益社団法人俳句協会が発行している「俳句カレンダー」である。 表紙には石田波郷の句が記されている。 初蝶や吾が三十の袖袂 鶏頭の澎湃として四十過ぐ 「初蝶」という言葉から、万葉集にある「新蝶」という言葉が思い出されました。 元号「令和」の典拠となった、梅花の宴32首の序文に出て来る言葉である。「初春令月、気淑風和」(初春のよき月、気はうららかにして風はおだやかである)の少し後に出て来る。「庭に新蝶舞ひ、空に故雁帰る」(庭には春になって現れた蝶が舞い、空には去年の秋に来た雁が北へ帰って行く)である。 波郷の句「初蝶」は、万葉の「新蝶」を通じて「令和」とつながる、というのが、このカレンダーをプロデュースした方の意図でもあるか。 開くと、1月から12月まで、各月30数名から40数名の方の句が掲載されている。表紙の波郷の句の「三十」「四十」は各月のこの掲載句数を暗示させているのか。 俳句をされる方にとって、自身の句がこのカレンダーに掲載されるということは嬉しいことであり、名誉なことであるのだろう。 凡鬼さんの句は12月に掲載されていました。 人が好き独りも好きで日向ぼこ 凡鬼さんらしいというか、やさしいお人柄が感じられるとともに、「淡として水の如し」とか「淡交」とかといった言葉も浮かんで来る句です。 季節が合わないということになるが、上の梅花の宴32首にかこつけて、この句に和せる歌はと探せば、この歌になるだろうか。春されば まづ咲く宿の 梅の花 ひとり見つつや 春日暮らさむ (山上憶良 万葉集巻5-818)(俳句カレンダー)(同上) もう一人の友人の家近氏からは絵画展の案内状ハガキが届いた。これは4日前のこと。来月2日~9日の日程で、絵画展をされるようである。 自宅から自転車(MTB)で50分程度で行ける距離なので、お天気の好い日に銀輪散歩を兼ねて出掛けてもみるか。久しぶりに石川自転車道を走るのもよい。 お近くの方もご都合が許せば、是非いらして下さい。(家近健二の気まぐれ絵画作品展) 今日は、本来は友人5人組のウオークの日で山の辺の道を歩く予定であったのですが、天気予報が雨ということで昨日のうちに順延を決定、11月1日に仕切り直しといたしました。 そんなことで、若草関連の友人に関系する記事といたしました。
2019.10.25
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(承前) 坂越港から旧街道を抜けて千種川に出たところで前頁は終わりましたので、そこから始めます。 なお、ここでお断りして置きますが、この銀輪散歩は16日と17日の2回にわたる銀輪散歩でありました。当該2回の銀輪散歩はその一部で重なる部分があったりする関係で、記事構成上スッキリしたものにするため、便宜的に恰も1回の銀輪散歩であったかのように編集していますので、ご了承願います。 因みに、赤穂城、花岳寺、赤穂海浜公園までが16日の写真により構成、伊和都比売神社以降は17日の写真により構成されています。(坂越橋) 千種川左岸沿いの道に出ると、上流側に旧坂越橋の人道橋、その上流に国道250号が通る坂越大橋が見え、下流側には坂越橋が見える。 どちらを渡るか、それとも渡らずに左岸沿いの道を下流方向へ赤穂大橋まで走るかと一瞬迷ったが、右岸側を見ると河川敷に自転車道のような道があるのに気付く。その道を走ろうと、上の写真に写っている坂越橋を渡って右岸沿いの道に出ることにする。坂越橋を渡って川沿いの道を取らず、そのまま直進すれば、JR赤穂線・坂越駅に突き当たるが、その道は取らない。 坂越橋を渡って右岸沿いの道・国道250号を下流側へ走る。河川敷の道への入口を探しながらの走りである。 ほどなく進入路が見つかり、河川敷の道へ。(千種川・河川敷サイクリングロード) 車との並走がないだけでも気が楽になるが、景色もよし、河川敷の道は快適である。(同上) 赤穂大橋が近づいて来る。(赤穂大橋)(赤穂大橋付近から千種川上流方向を望む。) 赤穂大橋で地上に上がり、ひとまず播州赤穂駅へと戻る。 しかし、まだ時間が早いので、駅の北側を探索してみることに。駅前の国道250号を西方向へ。赤穂線の踏切を渡り北上すると、大きな幟がはためいている。荒神社という文字が目に入る。祭が近日中にあるのだろうか。荒神社があると思しき方向へ、幟と「御神燈」とある提灯を頼りに銀輪を走らせる。(塩屋荒神社) するとありました。塩屋荒神社。(同上・拝殿) 主祭神は素盞嗚尊。 創建の経緯などは定かではないようだが、塩屋村の大庄屋であった濱野屋の古文書には「当神社ハ兵庫県赤穂郡塩屋村字荒神ニ鎮座セル無資格ニシテ皇極天皇ノ御宇秦河勝公自ラ須盞鳴尊ノ神像ヲ造リ五穀ノ神トシテ勧請セラレタル古社ニシテ延宝三乙卯年四月社頭一宇再興シ寛政十二庚申年三月荒神社一宇再興セリ」とあるとのこと。 ここでも秦河勝が登場。 大避神社の祭神が秦河勝で、その墓だと伝えられるものが生島にあるのだから、荒神社の起源が彼と結びついていて不思議はないということではある。(塩屋荒神社屋台行事の説明碑) 上の説明によると、今年の祭は10月20日(日)のよう。三日後である。13日(日)に大避神社の祭があり、荒神社の祭は20日(日)。両神社の祭日の狭間にやって来てしまったという次第。 立派な屋台が繰り出され、見ごたえのある勇壮な祭のようである。 「そう言えば・・」と、伊和都比売神社でも拝殿横の神輿の格納庫を開扉して、中の物を外に並べる作業をされている人が居られたのを何時間か前に目にしたことを思い出したのでありました。10月は神社は何処もみな祭のようです。 その10月の異称が神無月とはこれ如何にである。 尤も、「神無し月」という意味ではなく「神の月」という意味なのだという説明もあるから、それなら納得である。 いや、そもそも、この異称は本来旧暦の10月に対するものである。現在の太陽暦でいう10月は、旧暦では概ね8月下旬から9月中旬に該当する。旧暦の10月は今の暦では11月中旬から12月上旬。そもそも神無月と今の10月を同時期のものとして議論をしても無意味なのでした(笑)。 周辺を当てもなく銀輪で「徘徊」するが、これといった発見もなし。 駅前に再び戻り、もう一度、千種川の河川敷を走ってみることにする。 国道250号を東へ。千種川河川敷に到着。上流方向へ走る。(坂越橋) 先程渡った坂越橋を反対の角度から撮影。 更に上流へ。旧坂越橋だという人道橋の下にやって来た。(旧坂越橋・人道橋) 対岸に見える、左右の山の間が旧街道が通っている場所。 先程、坂越港の方から走って来た道は、この谷筋であったかなどと思いながら眺めやる。こちらへやって来るまでは、坂越港から千種川に抜ける道は山越えの道であると覚悟していたので、それが平坦な、というか緩い勾配の山峡の道であったので、拍子抜けしたのでもありました。(坂越大橋) 更に上流の坂越大橋の近くまでやって来た。 自転車の先10mほどのところで黒っぽい虫のようなものが草叢に逃げ込むのが見えた。 何度かそれが繰り返されるうちに、それが蟹であることに気が付く。 淀川の河川敷自転車道で見掛けた蟹はクロベンケイガニだったかと思うが、それと同じ種類の蟹かもしれない。ただ、淀川の蟹はそんなに素早くは逃げず、撮影を許してくれたから、違う種類の蟹かもしれない。(坂越大橋付近) 川の中洲に生えた荻(ススキかも知れないが、こちら側の岸辺には荻が多く生えていたので、荻である可能性が高いかと。)の穂群が川面にその影を映して、いい雰囲気を醸していたので、カメラを向けてみました。(千種川の荻の群れ)(同上)(同上) もう少し上流までと思ったが、雨がパラつき出したので、播州赤穂駅前へと引き返すこととしました。 銀輪散歩これにて終了であります。(完)<参考>銀輪万葉・兵庫県篇 赤穂・坂越銀輪散歩(その1)(その2)(その3)
2019.10.24
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(承前) 前頁は坂越湾にやって来た処で終わりましたので、そこから始めます。 先ず、今後のルート地図です。(ルート概略地図<その2>) 坂越湾に沿った突堤の道を走る。(坂越湾 左は生島、奥は家島、右は黒崎、赤穂御崎) 湾沿いの道にこんな碑がありました。(小倉御前之碑) 小倉御前というお方のことは存じ上げなかったが、後亀山天皇の皇子とのこと。詳しくは下掲副碑の説明をお読み下さい。(同上・副碑)※クリックすると大きいサイズの写真が開きます。<参考>小倉宮恒敦・Wikipedia 更に進むと、あったのがこの碑。(天然記念物生島樹林の碑) 向かいの島、生島(「いきしま」とよむ。)の叢林が天然記念物に指定されているようです。(生島) 万葉歌(万葉集巻12-3164)に登場する「鳴島」がこの生島のことだという説もあるということは前頁で触れました。 これに関してもう少し付言すると、金ヶ崎の南海上にある小島、君島の古名が鳴島で、その由来は東方に仲良く並んでいる唐荷島三島に対して、孤独を嘆いて泣いているから、と地元の人たちは云い伝えているとのこと。 生島は釜崎の半島に東側を遮られているから、生島からは唐荷島は見えない。すると唐荷島を羨んで嘆くこともないから、鳴島(泣き島)という名前であったという説明がつかない。 という事で、君島説に軍配が上がってしまうのであるが、生島から家島諸島はよく見えるから、こちらは家島諸島から(つまり「家」から)遠く離れて孤独を嘆いているのだ、という理屈も言えるではないか。或は、秦河勝の墓があるということに関係付ければ、その死を悼んで泣いているのだと言ってもよい。地元で古名が鳴島であったという伝承がないのは、単にそれが途絶えてしまっただけという訳である。 まあ、生島は、後ほど触れるように、秦河勝の墓があり、樹林が天然記念物に指定されるなど、十分に注目される島になっているから、万葉の「鳴島」は、そういったものが何もない君島に譲ってあげた方がいいとも言えますかね。(生島と君島の位置関係) 左手に坂越港が見えている。(坂越港) はい、坂越港です。 向かいの生島が波よけになっている天然の良港。(同上) 生島には大避神社のお旅所がある。(大避神社お旅所) この後向かった大避神社の参道に居られた男性からお聞きしたことだが、13日には神社のお祭りがあったそうで、神社から神様をお乗せした神輿が舟でこのお旅所に運ばれ、しばしご滞在の後、還御されるとのこと。夜には篝火を焚いて、という盛大なお祭りのようです。 で、大避神社へと向かいます。(大避神社) 神門前の道を左に上がったところに展望広場があり、そこに駐輪できるとお聞きしたので、先ずそこに向かう。(船岡園展望広場の碑) 駐輪して、ロックし、煙草を一服。 生島や坂越港を見下ろすが高度が低いので、上の碑の写真のようには見えない。もう少し高い場所に行かなければならないかと、そのまま、ハイキング道を上り始める。神社の方に戻るつもりであったのに、そのことはすっかり忘れ去っていました。 そして、帰り道も展望広場から自転車に乗って一気に走り下ってしまったので、大避神社は門前の写真を撮っただけで、ご挨拶せずにやり過ごしてしまうことになったのでした。大避の 名にこそあるか 門前を よそのみ見つつ 過ぎけり我は (避家持) 上記歌の解釈は如何様にもあれ、「大避」は「大酒」でもあるからと、下戸のヤカモチが怖気づいてこれを避けた訳ではないので、念のため付言して置きます(笑)。 大避神社は秦河勝を主祭神とする神社。 秦河勝さんにご挨拶できぬままやり過ごしたことは、ヤカモチとしても残念無念のことであったのです。 ということで、大避神社については、下記参考をご覧下さい。 向かいの生島には秦河勝の墓があるそうだが、島全体が大避神社の神域となっていて人の立ち入りを禁止しているから、どのような墓なのか確かめようもないが、遠目からは島そのものが前方後円墳のようにも見える。 秦河勝は渡来人で聖徳太子の側近として活躍するが、太子の死後、太子の息子・山背大兄王とその一族を攻め滅ぼした蘇我入鹿の迫害を受け、難波浦から船で脱出、ここ坂越浦に漂着、大避大明神となったということが世阿弥の「風姿花伝」に書かれているそうだ。<参考>大避神社・Wikipedia世阿弥著「風姿花伝」第四神儀伝(岩波文庫)より抜粋「かの河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子に仕へ奉り、この藝をば子孫に傳へ、化人跡を留めぬによりて、攝津國難波浦より、うつぼ舟に乗りて、風に任せて西海に出づ。播磨國、越坂浦に着く。浦人舟を上げて見れば、形、人に變れり。諸人に憑き祟りて奇瑞をなす。即ち、神と崇めて、國豊なり。大きに荒るると書きて、大荒(おほさけ)大明神と名附く。」(2019.11.2.追記)(世阿弥「風姿花伝」岩波文庫)(さこし歴史と自然の森 ウオーキングマップ)(船岡十三景案内板) 大避神社のある丘の背後は茶臼山と宝珠山になっていて、船岡園という公園があり、ハイキングコースも整備されている。 少し上ると児島高徳の墓。 児島高徳と言えば、「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡無きにしも非ず」であるが、彼の詩のこの下りを知ったのは小学生低学年の頃だったと思う。父から聞いたのが最初で、語呂がいいのですぐに頭に入って来たが、正確な意味を知るのは、もう少し後のことであったかと思う。<参考>児島高徳・Wikipedia(児島高徳墓) 墓の後ろにあった碑は「備後三郎の碑」。 備後三郎とは何者?(備後三郎の碑) 碑文を見ると、児島高徳の通称が備後三郎ということのよう。 児島高徳は南朝の忠臣であるが、戦いに敗れて妙見寺に退隠、剃髪して僧となり義清房志純と号した。彼の最後がどうであったかは記録に残されていないが、此処に墓があることに鑑みればこの寺で最期を迎えたのであろう。というようなことが記されている。 そして、こんな解説文的なものが、墓を挟んで碑と反対側に建てられていました。(同上・副碑) 備後三郎碑の副碑、説明碑というのでもなさそう。上段は碑の本文部分を書きとめてあるから、碑を見上げて内容を読み取るのは首が疲れるであろうから、こちらでどうぞという趣旨であるか。下段はこれを読み下し文にしたもの。 掲示の趣旨はよくは分らぬが、上段末尾にある「明治四十三年五月十三日 兒島贈従三位舊趾保存會名誉會員 奥藤研造謹撰」とある中の「奥藤研造」という名前は記憶して置いていただきたい。 それにしても、秦河勝、小倉御前そして児島高徳、何やら似たような話になっているのは、大避大明神のまします坂越に相応しいことである。 高徳墓所の右奥に上って行くと妙見寺観音堂である。(妙見寺観音堂)(同上・説明碑) 観音堂から先への登山道はなく行き止まり。 山門の方に回ってみるが、下り道で、展望広場へと戻る道のよう。 児島高徳墓所のある場所に戻り、反対側(左側)に行ってみると、屋根のある休憩所のようなものがある場所に出た。上の船岡園十三景案内板に「縮遠居」とある場所である。ベンチがあって、生島や坂越港が眼下に見えるという場所。眺めもよいので、ここでお弁当タイムということにする。 眼下に見える生島。(眼下に見える生島 島の左端に見えるのがお旅所である。) 坂越港も一望である。(坂越港遠望) もう少し上まで上るつもりでいたが、坂越港と生島の全景写真が撮れたので、目的は達成したというもの。気が変って山を下ることにする。そもそもこれは道草であるから、深入りして余り時間を取ってはいけないのである。 ということで、展望広場に戻り、自転車(トレンクル)で一気に下る。海岸べりの道に出る。 千種川へとつながる、谷筋の旧街道を西北西へ。(旧街道・坂越の町並み) なかなか雰囲気のあるいい町並みである。 手前から奥にかけて右側の蔵のある白壁の大きな屋敷は酒蔵である。 この酒蔵の先に「坂越まち並み館」というのがあったので覗いてみた。<参考>坂越まち並み館・Wikipedia 入館するとご婦人が出て来られて、町の歴史のことや町並みのあれこれをご説明下さいました。この建物は奥藤銀行坂越支店として大正時代に建てられたものだそうだが、児島高徳墓所で見た解説碑的なものの中に、奥藤研造という名があったことを思い出す。隣の酒蔵は今もその奥藤家が経営されているとのこと。坂越は北前船の寄港地でもあったそうだから、先般の高岡市伏木ではないが、古くは大いに栄えたのであったろう。 街道を突き進むと千種川に出る。こちらに来る時に渡った千種川の上流側に出ることになる。 今日はここまで。この後は千種川銀輪散歩となりますが、続きは明日以降のこととさせていただきます。(つづく)
2019.10.23
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(承前) 赤穂城の前の道を東へ。 千種川に架かる新赤穂大橋を渡る。(新赤穂大橋・千種川上流を望む。)(同上・千種川下流を望む。奥に見える橋は赤穂海浜大橋。) 新赤穂大橋を渡って、千種川左岸(東岸)の道を下流方向へと走る。(赤穂海浜大橋から新赤穂大橋<赤い橋>を望む。) 赤穂海浜大橋は県道32号が通る橋。県道32号を渡り、更に下流へ。河口はもう間近である。(千種川河口付近) 川面が光る。 河口左側(東側)にあるのが、兵庫県立赤穂海浜公園。 入園は無料なので入ってみる。 但し、自転車での乗り入れはできないので、入口ゲート前に駐輪して徒歩での散策となる。 芝生広場の中央に大きなラグーンがある。水を舐めてみると塩辛い。海水を引き込んでいるようだ。(赤穂海浜公園) 殆ど人影がない。入口ゲート前で、散策の男性一人、若い女性の二人連れ、難破船型の滑り台で幼児を連れた若いお母さん。あとは公園の清掃などの管理をされている公園関係者がポツリ、ポツリと目にとまった程度。 ラグーンは北側と南側(南側がひと回り大きい)とに分かれていて北湖と南湖とがつながっている狭隘部に白い橋が架かっている。「であい橋」という銘板のある橋。南湖をぐるり廻って、その「であい橋」を渡って、北湖の西隣にある海洋科学館のエリアに回ってみた。 塩田の実物展示があり、塩づくり体験などができるらしい。ラグーンからの海水を水路で取り込み、ポンプアップして塩田に海水を流し込んで、昔ながらの手法で塩の製造をする仕掛けになっているようです。(赤穂海浜公園・海洋科学館の塩田展示)(同上) 茅葺屋根の建物では高濃度になった塩水を釜炊きして、塩を取りだすようになっているようですが、この日は人影もなく、そのような光景は見られませんでした。 塩田による製塩法については、小学生の社会科で習った気がするが、展示を見ながら復習であります(笑)。 遠き記憶を辿れば、流下式、入浜式、揚浜式などの言葉が浮かんで来るのではありましたが。(流下式塩田)(同上・説明板 ※写真をクリックして大きいサイズのものでお読み下さい。) 説明板の文章の漢字には全てルビがふってあるから、小学生低学年でも理解できるようにという配慮なんだろう。 さて、ヤカモチさんは理解できるかな?(笑)(入浜式塩田)(同上・説明板)(揚浜式塩田)(同上・説明板) しっかり塩田のお勉強をしたところで、海浜公園を退出。 県道32号に出て、東へ。赤穂御崎の伊和都比売神社へと向かう。 水路を渡った朝日町南交差点で右折して、県道32号とはしばしのお別れとなる。 水路沿いに南へと走る。 やがて、河口近く、右手に先程立ち寄った海浜公園の観覧車を見つつ、坂道の上りにさしかかる。大きく左にカーブする坂道を曲がり切った処にあるのが、伊和都比売神社。(伊和都比売神社)(同上・由緒) 祭神は伊和都比売大神。 伊和都比売大神は、伊勢外宮の豊受比売とも大穴牟遅神の比売神とも言われれ、御崎明神と称せられる赤穂族の祖神であるそうな。(同上・拝殿) 赤穂御崎に向かって大鳥居が建てられている。 一段低くなっている御崎側の道から振り返ると、鳥居が大空に向かって勇壮な姿。(同上・鳥居) 鳥居の右側、玉垣の内側に、海に向かってベンチが一つ設置されていて、「恋人の聖地」とか何とかと記された木札が立てられていましたが、若い女性が喜びそうな、今風な、しかし何処にでもありふれた芸のない仕掛けである。まあ、ヤカモチには関係のないことにござんす。 御崎に立って、海側を眺めると、小鳥の群れが海面すれすれに左から右へと飛んで行くのが見える。 このような飛び方は、小型の鳥が捕食者である猛禽類から身を守るためにとる行動らしい。(赤穂御崎 沖に見える島は家島諸島であろう。) 遠く家島を背景に鳥が群れ飛ぶ光景から思い浮かぶのは次の歌である。 万葉集巻4-509の歌「・・・稲日つま 浦廻を過ぎて 鳥じもの なづさひ行けば 家の島 荒磯の上に うちなびき・・・」(丹比笠麻呂)とある「家の島」が、この家島である。 中央に家島(家島本島)、東に男鹿島、西に西島、この三島を中心に大小40余の島々の集まりを家島諸島という。「播磨国風土記」では、家島諸島を総称して「伊刀島」といっている。 家島本島の真浦地区の湾入は天然の良港。古代から瀬戸内海を航行する船にとって、よき停泊地であったのだろう。 また、「家島」というその名から、「わが家」のこと、その家で待つ「わが妻」のことを思ったのでもあるか。天平8年(736年)の遣新羅使人の歌にも家島が詠われている。家島は 名にこそありけれ 海原を 我が恋ひ来つる 妹もあらなくに (万葉集巻15-3718) 上の歌は、遣新羅使一行の帰路で詠まれたもの。 往路での歌にも「・・・家島は 雲居に見えぬ 我が思へる 心和ぐやと はやく来て 見むと思ひて 大舟を 漕ぎ我が行けば 沖つ波 高く立ち来ぬ よそのみに 見つつ過ぎ行き・・・」(万葉集巻15-3627)と「家島」が登場している。尤も、歌からすると往路では家島には立ち寄らず、通り過ぎただけのようであるが。 御崎から海沿いに狭い坂道を下ると、大石名残の松の碑があった。 遣新羅使は天平8年(736年)のことであり、討ち入りの赤穂事件は元禄15年(1702年)のことで、大石内蔵助が大坂へとこの地から船出したのがその前年の元禄14年(1701年)のことであるから、965年の道のりを1~2分で歩いたことになる。(大石名残の松の碑) 花岳寺で見た「大石名残の松」はこの岩頭にあったのですな。 碑の背後、沖合に見える家島諸島の島影から視線を本土側にめぐらすと赤穂温泉の旅館・ホテルが海岸線に立ち並んでいるのが見える。(赤穂温泉) その向こうの沖合遠くに見える小島は唐荷島。 万葉では「辛荷の島」である。 今回の銀輪散歩では、この島影を見つつ走るのも楽しみの一つである。 伊和都比売神社から赤穂温泉の旅館などが立ち並ぶ坂道をうねうねと上りながら赤穂御崎灯台まで。けっこう疲れるタフな坂道。 灯台付近の高みには、かつてはアパートであったのだろうが、今は廃屋となった建物が点々とある。理容店やレストランや喫茶店など閉鎖されて荒れた感じになっている建物も。(赤穂御崎灯台) 灯台からつづら折りの坂道を下って海岸と並行して走る広い道路に出て、雲火焼展示館桃井ミュージアムへの進入路前の駐車場に隣り合っている展望台まで、ひたすらの上り坂。ここで小休止。ここから先しばらくは下り坂となる。 展望台からは、相生の岬や唐荷島がよく見える。 展望台に来て居られた地元の男性は、相生のペーロン祭の時は船の列がここからもよく見える、と仰っていました。(万葉岬と蔓島 その間の奥に見える小島は君島かと思う。) 見えている岬は万葉岬(正式な名称は金ヶ崎)かと思ったが、手前の釜崎の半島とその向こう側の万葉岬とが重なって一つの半島のように見えている。高みに見えている建物は「ホテル万葉岬」の建物で、これは向こう側の万葉岬の方にある。万葉岬には、2016年1月に銀輪散歩で訪れている。 海面に浮かんでいる筏は牡蠣の養殖筏だろう。万葉岬への道で牡蠣の直売所があったのを思い出したことによる推論である。<参考>万葉岬・山部赤人歌碑を訪ねて 2016.1.30. カメラを少し右に振ると唐荷島の島影が見える。(左から、地ノ唐荷島、中ノ唐荷島、沖ノ唐荷島) 唐荷島と言えば、山部赤人の歌である。 その題詞に「辛荷の島を過ぐる時に山部宿祢赤人の作る歌1首併せて短歌」とある歌がそれである。あぢさはふ 妹が目離(か)れて しきたへの 枕もまかず 桜皮(かには)巻き 作れる舟に ま梶貫(ぬ)き 我が漕ぎ来れば 淡路の 野島も過ぎ 印南(いなみ)つま 辛荷(からに)の島の 島の間ゆ 我家(わぎへ)を見れば 青山の そことも見えず 白雲も 千重になり来ぬ 漕ぎたむる 浦のことごと 行き隠(かく)る 島の崎々 隈も置かず 思ひそ我が来る 旅の日(け)長み (巻6-942)玉藻刈る 辛荷の島に 島廻(しまみ)する 鵜にしもあれや 家思はざらむ (巻6-943)島隠(がく)り 我が漕ぎ来れば ともしかも 大和へ上る ま熊野の舟 (巻6-944)風吹けば 波か立たむと さもらひに 都太(つだ)の細江に 浦隠(ごも)り居り (巻6-945) 展望台から道路に戻ると、桃井ミュージアムへとつながるアクセス道路が目の前に。出発前に余裕があれば立ち寄ってみようかと思っていたミュージアムではあったが、急な坂道を目の前にしてはその気も失せました。本コースが楽々の下り坂、道草コースが急な上り坂、この二つを目の前にしては、選択の余地はないだろう。本コースは県道32号に突き当たる少し手前まではずっと下り坂。快適爽快走行である。 やがて、上りとなり、県道32号に合流。 県道は上り坂がしばらく続く。(県道32号<右端>から唐荷島、家島諸島など望みつつ) やがて下り坂になり、再び上りがあって、また下りとなって海岸べりの道に出る。 前方に、アース製薬の工場が見えて来る。 もう、ほぼ海抜0mの海沿いの道となっている。 防波堤の切れ目から入江を覗いてみると。(黒崎) 湾の名は何とも知らぬが、向かいの岬が黒崎だから黒崎湾とでも呼ぶことにする。 対岸の黒崎を回り込めば、坂越湾となり、目指す坂越港もスグである。 カメラを右に振って沖を眺めると・・。(黒崎湾から黒崎、釜崎、君島、蔓島、唐荷島などを望む。)(坂越港遠望 右の島は生島) 黒崎を回り込んで坂道を下ると坂越の町である。 坂越は「さこし」とよむ。室の浦の 瀬戸の崎なる 鳴島の 磯越す波に 濡れにけるかも (万葉集巻12-3164) この歌の「鳴島(なきしま)」については、金ヶ崎(万葉岬)南海上の君島だという説と坂越湾にある生島だという説がある。君島説が有力説のようだが、坂越に来たからには、生島説を採用ということで、この地に敬意を表して置くことにする。 それはともかく、前頁掲載のルート地図の外に出てしまったようなので、本日はここまでとし、続きは、明日以降の記事にて、新しいルート地図を掲載した上で、坂越港へと向かうこととします。(つづく)
2019.10.22
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先日(10月16~17日)赤穂・坂越を銀輪散歩をした際の写真が沢山溜っていますので、遅ればせながら何回かに分けて、記事アップします。 赤穂というと、忠臣蔵であるが、勿論これが目的の銀輪散歩ではない。赤穂御崎から海岸べりを坂越港へと走るのが主目的。万葉歌のことなどを思いつつ、相生の万葉岬や唐荷島などを遠望してもみむという次第。 とは言え、一応は赤穂城跡など忠臣蔵所縁の場所にもご挨拶申し上げるのが、礼儀でもあるかと、赤穂城へと向かうことにする。(播州赤穂駅) 赤穂駅に降り立つと、観光ボランテイアの方でしょうか、赤穂義士の装束らしき法被を着た人がチラホラ。駅前には大石内蔵助の銅像も。 忠臣蔵を大河ドラマに、と書かれた横断幕も。忠臣蔵は何度も大河ドラマになっているから、個人的には「もういい」というのが率直なところ。(大石良雄像)<参考>大石良雄・Wikipedia 駅前の通りを南へ直進すると、赤穂城大手門の前に突き当たる。 ともかくも、城跡を覗いて行くことに。 大手門前の郵便ポストも忠臣蔵風でありました。いや、忠臣蔵風と言うよりは「城風」と言うべきか。(赤穂城前の郵便ポスト) 大手門を入る。(赤穂城・大手門) 門を潜った右手の小屋風の建物内に赤穂城のことなどを説明したパネル展示。これを写真掲載すれば、あれこれ書かなくていい(笑)。(赤穂城案内図)(赤穂城関係年表)(同上・大手門枡形説明板) 大手門枡形を出て、これに沿うように裏側を進むと立派な長屋門。 大石邸長屋門、とある。内蔵助の屋敷がこの位置にあったのでした。(大石邸長屋門と大石良雄宅趾の碑)(同上・説明碑) 大石内蔵助の屋敷跡が現在の赤穂大石神社ということになるのか、長屋門の南側に神社の鳥居。(赤穂大石神社・東向きの石鳥居) 南側の鳥居が正面ということになるのだろう。神門に向かっての参道両サイドに赤穂浪士の石像が立ち並んでいる。(南から入る参道) 両サイドの石像。 (左列の石像) (右列の石像) 左の列は、寺坂吉右衛門像を先頭に奥へ。右の列の先頭は、矢頭右衛門七像である。奥の神門の前に大石内蔵助像があるから、奥が先頭になるか。となれば、この両者は最後尾ということになるか。(神門から拝殿を見る)(拝殿) 大石神社を出た南東角に片岡源吾右衛門宅趾の碑。 この一画が彼の屋敷であったようです。(片岡源吾右衛門宅趾の碑)(同上・副碑) 神社を出て、本丸へと向かう。自転車は乗って走行していいのかどうか分からないので手押しのスタイルで行く。 本丸への門の手前に山鹿素行の像があった。(山鹿素行像) 山鹿素行は会津の人。会津若松を銀輪散歩した際に、その生誕地の碑を見た記憶がある。<参考>越後・会津銀輪散歩 2011.4.23.(同上・副碑) 忠臣蔵に登場する人物に関連した場所を訪ねるということは、これまでにも殆ど無かったことであり、例外としては、昨年5月に新潟県新発田市を銀輪散歩した際に、新発田城で堀部安兵衛の銅像と出会ったこと位だろうか。<参考>新発田城跡銀輪散歩 2018.5.17. 本丸へは、自転車を持ち込むこともできないとのことなので、門前の堀端に駐輪。(赤穂城・本丸門)(同上・説明碑)(手前左が本丸御殿跡、奥右手が天守台) 本丸には門が復元されているのみで、本丸御殿や天守閣は存在しない。 しかし、本丸御殿の床面が復元されている。〇〇の間、などと記した標識板が床面に貼り付けられているので往時の姿を想像することもできる。(本丸庭園説明碑)(本丸内水筋図)(本丸指図) 広大な屋敷。現存していて建物内に入ったとしたら、迷ってしまうに違いない。 縁側から庭に出て、天守台へと向かう。 天守台への石段の蹴上の高さが通常の階段の倍以上はあり、上るのが大変である。 天守台の上から本丸御殿を見下ろすと、こんな感じです。(天守台から本丸御殿、庭園を見下ろす。) 天守台から東西南北の眺望をパノラマ撮影するとこんな感じになります。(南→西→北方向)(北→東→南方向) 赤穂城を出て、城の北側にある浅野家歴代藩主の菩提寺である花岳寺もついでに覗いて行くこととする。(台雲山花岳寺)(同上・説明碑)(同上) この寺の山門は赤穂城の西門を移築したものとのこと。(同上・本堂)(同上)(大石名残の松) 大石名残の松については、この後、赤穂御崎でその碑を目にすることになるが、これは二代目で、初代は切株となって、山門脇に安置されている。(初代・名残の松) 拝観はせず、境内に少し足を踏み入れただけで退出する。 さて、道草の「立ち寄り」が長くなり過ぎました。これより、赤穂海浜公園に立ち寄った後、海岸線を坂越へと走る(下掲地図参照)、本来の銀輪散歩へと向かいます。(コース概略地図) まだまだ先は遠い。 上の地図で言えば、駅前から赤穂城まで走ったに過ぎないから、銀輪「散歩」ではなく銀輪「半歩」くらいの段階ですかね。 しかし、本日はここまでとし、つづきは明日以降の記事とします。(つづく)
2019.10.21
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本日、友人の岬麻呂氏より旅便りが届きました。 今回は、北海道は道東、10月10日から16日までの6泊7日の夫婦旅であられたよう。当初計画では、10日~13日の3泊4日の旅であったようですが、台風19号の接近による帰りの飛行機の欠航も考慮に入れて、16日の帰路便を予備に予約してお出掛けになったようです。 そして、懸念通りに台風がやって来て、予備の便による帰路となって、結果6泊7日の長い旅行となってしまわれたようです。 詳しくは、下掲の「旅・岬巡り報告244」と同写真説明をご参照下さい。(旅・岬巡り報告244&同写真説明) 以下、写真説明に掲載の写真は別途メールで送信いただいていますので、それを、順に掲載させていただきます。 写真をクリックして、フォト蔵の大きいサイズの写真でお楽しみ下さい。(釧路湿原・細岡展望台) 奥に見える遠山は、右が雄阿寒岳、左が雌阿寒岳。(屈斜路湖)(摩周湖)(阿寒湖)(釧路の夕日) 台風19号通過直後の夕暮とのこと。 丘々は、胸に手を當て 退けり。 落陽は、慈愛の色の 金のいろ。 こういう夕日を見ると、中原中也の「夕照」の一節も浮かんで来るというものであるが、台風一過とあっては、それもないか。(知床五湖<一湖>) 右手奥が羅臼岳。(オシンコシンの滝)(能取湖・サンゴ草) 真っ赤に色づくサンゴ草の最盛期は9月下旬。少し盛りも過ぎているようです。(納沙布岬)(旧国鉄・陸別駅) 今回は、ひろみの郎女さんにお渡し下さい、と北見市と釧路市のマンホールカードが同封されていましたので、早速、喫茶「ペリカンの家」で受け渡しを行いました。 北見市のマンホールカードです。 次は、釧路市のマンホールカードです。 マンホールカードとは別に、沢山のマンホール蓋の写真もメールで送って下さいました。北見市では、各種のマンホール蓋の展示がされていたようですが、詳しいことは存じ上げません。 また、旧阿寒町(現、釧路市)のマンホールなど、実際に道路上に設置された現役のマンホール蓋の写真もありました。 以下、それらをご紹介します。(北見市のマンホール)(同上) 切り絵タイプのマンホール。 ここまで凝ったものになると、もう何やらアート作品のようです。(同上)(同上)(同上) ゴールドタイプまであるとは。(同上) 次は、釧路市のマンホール。(釧路市<旧阿寒町>のマンホール)(同上) マンホール蓋はすべからく道路上に本来の機能を果たすためにあってこそ、見て楽しいのであって、展示品のようになってしまうと、それはちょっと違和感を禁じ得ないというか、興醒めな気もする。 いかにも「見て下さい。」というのは、マンホール蓋らしからぬ振舞いである。偶然に「見つけてあげる。」というのでなくてはならない、というのがヤカモチの考え方と言うか、感じ方なのであります(笑)。 手に取るなやはり野に置け蓮華草という句があるが、マンホールも同様で、 展示すなやはり道に置けマンホールなのである。 まあ、それでもこのように色々な図柄のマンホール蓋が登場し、道路を飾ってくれるのはいいことで、大いに歓迎ではあります。<参考>岬麻呂旅便りの過去記事はコチラ。 フォト蔵の岬麻呂写真集はコチラ。
2019.10.19
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本日は、銀輪散歩で見掛けた花たちをご紹介します。 先ずはフサフジウツギから。 この花は、昨年秋の5人組ウオークの際に武田尾温泉近くの武庫川べりで見掛けて、友人の蝶麻呂氏よりその名を教えていただいた花である。<参考>銀輪花散歩・花も実も 2018.11.18.(フサフジウツギ) 何やら蜘蛛らしき虫がとまっているが、これは無視下さい。(同上) この花とは約1年振りの再会であります。(同上) 次は白花の萩。(萩・白花) この萩は墓参の道で見掛けたもの。花ではないが同じく墓参の道で見掛けたものにナツメの実があります。(ナツメの実も色づいて) 次は銀輪散歩でのもの。 実が出たついでに、コナラの実も並べて置きます。(コナラの実) 丸々と太った、随分立派なコナラの実です。 褐色に色づいて、ドングリらしくなったのもありました。(同上) コナラは万葉集に登場する植物。下野(しもつけの) 三毳(みかも)の山の こ楢のす まぐはし兒ろは 誰(た)が笥(け)か持たむ (万葉集巻14-3424) <下つ毛野の三毳山のコナラのように愛らしいあの娘は、誰を夫としてその誰かさんの笥を持つのだろうか。><参考>三毳山銀輪万葉(その1) 2015.11.18.(同上) 次はケイヌビエ。(ケイヌビエ)(同上) 次はニシキギ。(ニシキギ) 世界三大紅葉樹の一つに数えられる木であるが、未だ紅葉は先のようです。この木の特徴は、若い枝に生じる翼。 この翼に着目されて、カミソリノキとも呼ばれるそうな。(同上・翼)(同上) 地味な植物が続いていますが、もっと地味な奴を。(ウメノキゴケ) これは、その名の通り、梅の木によく見られる地衣類であるが、写真のものは、桜の木に着生したウメノキゴケです。 接近してみると、何やらおどろおどろしい表情である。(同上) 花散歩と言いながら、花らしきものが続かないのがヤカモチさんの「花散歩」ですが、最後に「花らしい」花を。 アメリカデイゴの花です。 美しい花ですが、白い蕊が指のようにも見えて、白い手が伸びて来ているようで気味が悪いという人もいる。(アメリカデイゴの花) 以上、脈絡もない、毎度の銀輪花散歩でありました。
2019.10.18
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昨日(14日)、今日(15日)と、地元、河内一之宮である枚岡神社の秋まつりである。 最近は、祭り見物にも出掛けなくなりましたが、各地区の太鼓台が枚岡神社境内に集結して、祭りを盛り上げます。 詳しい様子については、少し古くなりますが、2009年10月16日の記事(下記<参考>参照)をご覧下さい。<参考>枚岡神社秋郷祭2009 2019.10.16. 今日、喫茶「ペリカンの家」さんに、先日のサイクリングの時の集合写真2種類が小生のカメラに収まっていたので、それをPCから打ち出したものを印刷してお届けすることと、先日の第213回智麻呂絵画展を印刷に打ち出したものを智麻呂邸にお届けすること、という二つの用向きのため外出した折に、東高野街道を横切ろうとすると、太鼓台が街道を南から進んで来るのが見えました。 偶々ですが、小生の住まう地区の太鼓台でありましたので、撮影してみました。それがこの写真です。(太鼓台) この枚岡神社の秋祭りの頃には決まってキンモクセイが咲き、その花の香が漂うのである。そんなことで、祭りの太鼓の音が聞こえ出すとキンモクセイの香がしたような気分になり、キンモクセイの香が流れて来ると、祭り太鼓の音が聞こえて来るような気がするという具合に、小生の中では両者は観念連合ではないが、一体不可分な「感覚連合」をなしているのである。 しかし、今年は左程にも香らないのは、気温が高めであるからだろうか。 因みに、庭のキンモクセイを見てみると、まだ殆どが蕾状態であるのでした。 このキンモクセイの木は亡き父が植木市で買い求めて来て庭に植えたものである。小生が生まれる前からだろうと思うが、わが家には、北側の庭と南側の庭にそれぞれ1本キンモクセイが植わっていた。従って、毎年枚岡の祭の頃には、キンモクセイの香が漂うという環境で小生は成長したのでありました。しかし、離れを建てた時に南側の木を伐採、次に母屋を建て替えた時に北側の木も伐採したので、以来、庭にはキンモクセイの木がないという時期が暫く続くことになる。 それを寂しく思ったものか、父が何処やらの植木市で購入したキンモクセイの若木を庭に植えたのが2006年11月24日の朝。植えた後に心筋梗塞で倒れ、父は急死。このキンモクセイは父の形見となった次第。 早いもので、それから間もなく丸13年を迎える。 その間に、2016年12月3日、母も逝ってしまった。 間もなく丸3年である。 キンモクセイは、毎年変わらずに、その香を届けてくれる。父が植えし 金木犀の 香を待てば 祭太鼓の 音もゆかしき (偐家持)父追ひて ととせののちの 三日月の 師走の夜に 母も逝きける (偐家持) (金木犀)(同上)(同上)
2019.10.15
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昨日(13日)は、台風19号による川の氾濫・決壊による洪水や土砂崩れなどが東日本各地で発生したようですが、被災地の皆さまには心よりお見舞い申し上げます。また、一方ではラグビーワールドカップ、日本チームがスコットランドを撃破、4戦全勝で決勝トーナメント進出の快挙がありました。昨夜は、ハラハラドキドキしながらのTV観戦でヤカモチも応援して居りましたが、これはまことに喜ばしいことでした。 そんなこの日でありましたが、ヤカモチにとっては、馴染みにしている喫茶店「ペリカンの家」主催の第2回サイクリングの日でもありました。 元々は、9月29日開催を予定していたのだが、都合により10月13日に変更となったもの。台風19号襲来で実施が危ぶまれたのでしたが、12日正午現在の天気予報や台風のコース予想から、翌13日は雨の心配もなさそうなので、予定通りに13日実施と決定。 近鉄奈良駅西口・奈良交番前に午前10時集合。(近鉄奈良駅西口)※奈良交番前から撮影、但し撮影日は本日ではなく9月25日。 予定よりも早い電車で来たので、集合場所到着は9時過ぎでした。近くのコンビニで昼食用にサンドイッチと野菜ジュースを購入。 コンビニを出たところで、高天交差点で二条大路を渡っているMTBとクロスバイクの二人連れの男性の姿。見覚えのある姿とMTB。遠目にも偐山頭火氏であることが分かりました。こちらは高天交差点の南西角で信号待ちをしていたので、二条大路の高天交差点東側横断歩道を渡る偐山頭火氏とはかなり離れていて、声を掛けても周囲の騒音にかき消されてしまうだろう。盛んに手を振って合図するが偐山頭火氏はこれに気付かず。後ろを走って居られた同氏のご友人がコチラに気付き手を振り返して下さいましたが、偐山頭火氏は集合場所へとまっしぐら。ご友人氏も彼を追いかけて・・。小生の居た場所は集合場所からは50~60mほど西に位置していました。 信号が青になったので、小生も集合場所へ。 奈良交番前で落ち合う。 暫くして、もう一人の別のご友人氏もMTBで到着。偐山頭火氏、ご友人の二氏とヤカモチ4名で他の参加者の到着を待つ。 10時少し前に、ペリカンの家のママさんのももの郎女さん、そのご主人のもも麻呂氏ほか参加者の皆さんが到着。 現地で気付いたことだが、集合場所の目と鼻の先にレンタルサイクル店がありました。しかし、ネットで調べて予約した店は、高天交差点を北へ渡って3分ほど行ったところにあるレンタルサイクル店。皆でそこまで歩く。 小生は小型折りたたみ自転車のトレンクル持参、偐山頭火氏とそのご友人お二人は自前の自転車にて参加であるが、他の皆さんは、レンタルサイクル利用なのである。 レンタルサイクル店で11台の電動アシスト自転車を借り、出発。 参加者は男性8名、女性7名、子ども1名の計16名である。子どものAちゃんは後部チャイルドシートに乗車。もも麻呂さんが彼女(6歳の女の子です)を乗せて運転して下さることとなった。 最後尾は偐山頭火さんに走っていただくこととして、15台の自転車が一列縦隊をなして走行という次第。先導は、コース選定者である小生ヤカモチが担当。 下見段階では、近鉄・大和西大寺を起点にというコース設定であったのだが、西大寺駅前のレンタルサイクル店ではチャイルドシート付の自転車は用意できないということが判明したので、近鉄奈良駅前を起点とすることに変更したのでありました。 そんなことで、そのレンタルサイクル店の位置を確認のため、9月25日にもう一度下見に出掛け、その折に撮ったのが上掲の「近鉄奈良駅西口」の写真であります。 変更後のコースは下記の通り。今鉄奈良駅前集合→レンタルサイクル店→平城宮趾公園(朱雀門・大極殿)→平城天皇陵→磐之媛陵→法華寺→平城宮趾公園(昼食)→西大寺→喜光寺→菅原天満宮→菅原道真産湯の池→垂仁天皇陵→唐招提寺→秋篠川自転車道(大伴旅人歌碑)→レンタルサイクル店→近鉄奈良駅前解散 地図で示せば次の通り。(コース地図)※赤線――は午前中のコース 青線――は午後からのコース レンタルサイクル店前からいよいよ出発。店のひとつ北側の路地を西へ。この道は、9月25日の2回目の下見の時に走った道である。 途中、道沿いに村田珠光所縁の寺、称名寺がある。 昨日は、門前を通り過ぎただけであったが、9月25日の下見の折には立ち寄っていますので、その折の写真を掲載して置きます。(称名寺)(同上・説明碑)(同上・本堂)(同上・門前の珠光舊跡の碑) 二条大路(国道369号)に出て、朱雀門まで。(朱雀門・これも9月25日撮影のもの) 朱雀門から平城宮趾公園を南北に縦断。 途中、大極殿を背景に、集合写真。たまたま通りかかられた若い女性二人連れのお一人にシャッターをお願いする。 遺跡資料館・売店前の昼食予定場所の広場でトイレ休憩・小休止の後、平城天皇陵へと向かう。平城天皇のことや薬子の乱のことを説明。 平城天皇陵の遥拝所前でも集合写真。 水上池に沿った道を辿って、磐之媛陵へ。 磐之媛のことや八田皇女に絡む夫・仁徳とのゴタゴタのことや、万葉集第2巻冒頭の彼女の歌4首を紹介する。 磐之媛陵のすぐ近く、水上池北東岸にある万葉歌碑の中臣女郎の歌を解説して、法華寺へ。 法華寺では、此処が元は、藤原不比等の屋敷であったこと、それを彼の娘である光明皇后が承継し、国分尼寺の総本山・法華滅罪之寺となったことや光明皇后をバックに藤原仲麻呂が政権中枢へと駆け上がって行ったこと、その後の仲麻呂の乱のことなどを簡単に触れ、境内にある万葉歌碑、山部赤人の歌を紹介。 門前土塀前のカラタチの垣根になっていたカラタチの実などを見つつ談笑したる後、平城宮趾公園に戻り、お弁当タイム。(平城宮趾公園・昼食タイムも終わりました。) 次は、西大寺。 西大寺では、自転車15台を連ねての駐輪場への進入であったので「そんな多勢なら、事前に連絡して貰わないと困る。」と入口の係員の方からイエローカードを頂戴するが、ともかくも入れて下さったので事無く済みました。 西大寺は、丁度「大茶盛」が開催中で、着物姿のご婦人の姿が目につきました。 入口の駐車場係の方がそんな多勢で云々のことを仰ったのは、大茶盛の行事が行われている日であったからかも。しかし、我々は大茶盛には無関係である。 西大寺の起源のことや中興の祖、叡尊のことなど説明。その弟子の忍性のことを話そうとするが、瞬間ど忘れで、その名が出て来ない。「弟子の何とかいう僧侶がムニャムニャ」でした(笑)。 忍性のことを描写した映画で、主人公の忍性を演じたのが狂言師・和泉元彌である。以前、この映画のことを説明しようとして、和泉元彌の名が出て来なかったことがあった。今度は、忍性のことを話そうとしたら和泉元彌の顔やその声が脳裏に浮かんで、「忍性」という言葉がかき消されてしまうという逆現象が起こったのでした。「しょう(性)」は浮かんだのでしたが、「しょう」だけでは「しよう」がないというもの。 西大寺を出て、喜光寺へ。 喜光寺には立ち寄る心算でいたが、希望者がほとんどなかったので入山はせず、門のところから本堂を覗き見るだけにする。参加者のご婦人お二人がご朱印を貰いたいと入って行かれたので、門前でそれを待つことに。 目の前の通りを「よいとまっかせ~」という太鼓を打ち鳴らす元気な子どもの声と太鼓の音と共に、小さな布団太鼓と山車が通って行きました。枚岡神社の秋郷祭の布団太鼓に較べるといかにも貧弱なものでありましたが、その枚岡神社の祭りも今日から始まりました。今日14日が宵宮、明日15日が本宮である。 それはさて置き、小さな太鼓台の列は菅原天満宮に向かっていたのかも知れないことに今気づきました。 それなのに、喜光寺の後に立ち寄る予定にしていた菅原天満宮と菅原道真産湯の池に向かうのを失念し、垂仁天皇陵へと行ってしまうミス。 途中で気が付いたが、誰からも異議が出なかったのをいいことに、そのまま進む。この辺がアバウト・ヤカモチのヤカモチたる由縁である。 垂仁天皇陵でも集合写真撮影。 日本書紀に出て来る、垂仁天皇の代でのエピソード、埴輪の話と田道間守の「ときじくのかぐのみ」の話を紹介する。 垂仁天皇陵から唐招提寺へ。 唐招提寺の山門前で扁額の文字が孝謙天皇の筆になるものなので見て置いて下さいと申し上げていると、門前歩道に15台の自転車を停めて(と言っても、手で押している状態で、駐輪している訳ではない。)いるのがいけなかったのか、拝観券を発行するブースから顔を出したお坊さんだか係の方から「そこに自転車を停めたり、立ち止まったりしてはいけない。」と注意を受ける。 最近は外国人観光客が多く、マナー違反や混雑が繰り返される所為か、寺側も些か神経過敏になっているよう。しかし、やや高圧的な物言いに聞こえたのは興醒めである。これは、西大寺に続いての「注意」でコチラが神経過敏になっていた所為でそんな風に聞こえたのかも知れない(笑)。 何にせよ、神経性〇〇というのは、「始末の悪い物」と相場が決まっている。 秋篠川に向かう。 秋篠川畔の緑地にある大伴旅人の歌碑の説明をする。 ついでに、長屋王の変や元号「令和」の出典となった梅花の宴の歌の序文の一節「初春令月 気淑風和」の説明などもする。と言うのも、この日小生が着用していたTシャツは、先般の高岡銀輪散歩の際に高岡万葉歴史館で買い求めたもので、胸に上記八文字がプリントされたものであったからです。 以上で、立ち寄り先は一応終了。 秋篠川自転車道から二条大路に入って少し行ったところにある店で売っている「鹿煎餅アイス」をどうしても食べたいという人も居たので、ここに立ち寄った後、レンタルサイクル店に。 レンタルサイクル店前で偐山頭火氏とそのご友人お二人のお三方は別行動に。自転車を大阪から運んで来た車が駐車されている平城宮趾公園へと引き返されるのだろう。 残りの我々は徒歩で、小生はトレンクルを手押ししながら、近鉄奈良駅まで。駅改札前で解散。トレンクルをたたんで収納バッグに。 帰宅は、午後4時40分頃。 第2回ペリカンの家サイクリング無事終了でありました。 今回は、先導役と説明役ということもあって、殆ど写真を撮っていませんので、8月25日の下見記事を併せご覧下さい。<参考>第2回ペリカンの家サイクリング下見 2019.8.25.<追記参考>第2回ペリカンの家サイクリング 2019.10.14.
2019.10.14
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第213回智麻呂絵画展 超大型で猛烈な台風19号が伊豆半島に上陸とか。進路にあたる地域の皆さまに於かれましてはどうぞ十分にご注意下さいませ。大きな被害が出ないことを祈ります。 そんな中ですが、昨日、智麻呂邸を訪問、新作8点を仕入れてまいりましたので、智麻呂絵画展を開催させていただきます。<参考>過去の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ フォト蔵の智麻呂絵画集アルバムはコチラ。 今回は、若草読書会メンバーである凡鬼さん、小万知さん、リチ女さん、偐山頭火さんなどがお持ち下さったものに関連した絵となります。 先ずは、栗。 先の若草読書会(9月24日)に枝つきのイガ栗を小万知さんが、枝つきでないバラのイガ栗をリチ女さんがお持ち下さいました。これらをモデルに絵にされたのが下の作品です。(栗) 以下の4点も小万知さんがお持ち下さったものです。 先ず、竜胆です。(竜胆) りんりんりんどうはこむらさき。 花がどれも蕾であったこと、ピンク色の蕾なども混じっていたことから、絵を見ただけでは、何の花か分からず、モデルご本人と対面するも・・ 「これは何の花ですか?」とヤカモチ。 「リンドウよ。」と恒郎女さん。 言われてみれば確かにリンドウであるが、ヤカモチには、上を向いて青紫色に咲いた花姿が固定観念的なイメージとして出来上がってしまっていた所為か、それともピンク色の蕾に幻惑されたためか、すぐにそれとは気付かなかったという次第。 しかし、漢字では「竜の胆」と書くので、蕾の方が「胆」らしい形であり、竜胆らしいと言うべきなのかも知れない。尤も、根が薬用に供され、それが「熊の胆」よりも苦いことから「竜の胆」と名付けられたようだから、花の姿形は関係ないのではある。 次は、フジバカマ。(藤袴) 昨年秋の嵯峨野は二尊院の境内でアサギマダラが群がりとまっていたフジバカマのことなども思い出す。 万葉人は萩だのオミナエシだのフジバカマだの小振りの花が好みであったようだが、蝶のアサギマダラも万葉人と似た好みを有しているのかも。 次はキキョウ。(桔梗) 万葉の「朝顔」は、異説もあるが、桔梗のことだとされる。 紙風船がポンと弾けるように咲く桔梗の花は何やら面白い気がする。 このようにパッと咲いて人目を引く花のことを「顔花・貌花」と呼んだようです。こいまろび 恋ひは死ぬとも いちしろく 色には出でじ 朝貌の花 (万葉集巻10-2274)言に出でて 言はばゆゆしみ 朝貌の ほには咲き出ぬ 恋もするかも (万葉集巻10-2275) 秘めたる恋の反面教師のような使われ方をして、これらの歌に対しては桔梗の花も異論があるやも知れませぬ。それ誰か あざみの歌の ごとわれを 秘めたる恋に 詠んでみよかし (桔梗郎女) 次はススキ。(ススキ)萩の花 尾花葛花 なでしこの花 女郎花 また藤袴 朝貌の花 (山上憶良 万葉集巻8ー1538) あと、ハギ、クズ、ナデシコ、オミナエシが揃えば秋の七種が勢揃いですが、代わりにクリ、リンドウもあって、これで十分に「秋」であります。 次は、凡鬼さんの冬瓜。(冬瓜) これは、凡鬼さんが栽培・収穫された冬瓜。ただどんと ありて無口に われありと ありたしわれも 冬瓜のごと (無口家持) 次は野菜たちの饗宴。(野菜たち) ぱんぱんに太ったナスは凡鬼さんがご持参、他のカボチャ、ズッキーニなどは小万知さんがご持参でした。奥の方で控えめにしているのは洋ナシでしょうか。もしそうなら、「野菜たちの饗宴」という場違いの席に迷い込んでしまった果物ということで、当惑しているみたいに見えるのも納得です。 野菜は新鮮なうちに料理して食卓に、というのが恒郎女さんの考え。 一方、心ゆくまで野菜たちを眺め、ゆっくりと絵に仕上げて行くというのが智麻呂スタイル。 花の絵と違って、野菜などの食材が絵の題材になると、仲の良いご夫婦にも、些かの軋みが生じるのでありますな(笑)。 まあ、今のところ、智麻呂さんが絵を仕上げるスピードは、幸いにも、恒郎女さんのストレスが大きくなる前には何とか間に合う程度なので、大事には至って居りませぬ(笑)。 最後は、埴輪の絵。 こういうのが題材の場合は、夫婦円満であります。 心置きなく描かれよと、恒郎女様の声もする。 これは、多分、高槻の今城塚古墳の資料館か埴輪館あたりで撮影されたものかと思うが、動物埴輪の写真を偐山頭火さんがお持ちになったものだそうです。(動物埴輪) 以上です。 本日も、ご来場、ご覧下さり、ありがとうございました。
2019.10.12
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(承前) 今回の高岡銀輪散歩の三つ目の目的である大伴家持の命日(10月5日<陰暦では8月28日>)に因んでの大伴神社参拝などが今回の記事のテーマ。 テーマは、万葉まつり、堀田善衛、大伴家持と三つあれど、銀輪散歩としてはそれら三つをまとめての、10月5日一日のひとつの散歩であります。 そのコースを地図で示せば概略以下の通りです。(高岡駅前~伏木方面の銀輪散歩コース地図) 前頁で伏木駅前の郵便ポスト上の大伴家持像の写真を掲載しましたが、同写真は、テーマ的にはこちらの記事に掲載すべきものであったかも知れません。伏木駅前には万葉歌碑の案内板がありましたが、今回は歌碑巡りが主題ではないので、立ち寄り先で出会ったもののうちのいくつかを除き、原則としてパスすることとなります。(万葉歌碑案内板) 国分浜を後にして、国道415号に出て南下。 気多神社口で右折。 国分寺跡の横を通り過ぎ、坂道を上りきると気多神社の参道前に出る。 気多神社口から国分寺跡、気多神社、大伴神社のコースは、2015年8月28日の記事にも掲載しているので、それも併せご覧下さい。<参考>高岡・氷見銀輪散歩(その3) 2015.8.28.(気多神社)(同上・本殿、拝殿) 気多神社の境内に大伴神社がある。 今回は、大伴家持を祀る大伴神社訪問が目的であるから、気多神社には用が無い。しかし、それでは大伴神社の大家さんたる気多神社のご機嫌を損ねることにもなるかと、一応ご挨拶申し上げることとしました。 大伴神社の参道下には大伴家持顕彰碑がある。これも過去記事で紹介済みであるが、大伴家持の命日・10月5日ということで、撮影、再掲載であります。(大伴家持顕彰碑)(同上・副碑) 大伴神社は顕彰碑の背後、一段高い所にある。(大伴神社) 大伴神社については、上掲参考の2015年8月28日の記事に記載の文章を引用すれば、下記の通りです。 家持生誕1200年に当たる1985年(昭和60年)に地元有志の大伴家持卿顕彰会によって建立された神社である。以前訪ねた時は建立されて10年、朱色も鮮やかな真新しい社殿であったという記憶があるが、それから20年、「年深からし神さびにけり」で、すっかり周囲の雰囲気に馴染んでいる。 この神社の祭神は大伴家持。しかし、デラシネの家持。彼には遺骨も遺品もない。それで、生誕地の奈良、越中国庁跡、越中国守館跡、彼が亡くなった地と見られる多賀城、遺骨が流された隠岐の5か所の土地の土を壺に入れたものをご神体としているそうな。 彼は延暦4年(785年)に亡くなっているから、今年は没後1234年ということになる。別に節目の年ということではないが、1、2、3、4と並ぶ面白い年回りになるということでは、特別の年とも言えると、「こじつけ」ヤカモチでありました。 大伴神社、気多神社を後にして、坂道を下る。 国道415号に戻り、南へ。高岡万葉歴史館に向かう。 万葉歴史館口の手前、東側歩道に田辺福麻呂の万葉歌碑があるのに気付く。この歌碑は過去に撮影していない筈とカメラを向ける。(田辺福麻呂万葉歌碑)奈呉の海に 舟しまし貸せ 沖に出でて 波立ち来やと 見て帰り来む (田辺史福麻呂 万葉集巻18ー4032)(奈呉の海に船をしばらく貸して下さい。沖に出て波が立って来るかと見て来ましょう。) この歌は、天平20年(748年)3月に、橘諸兄の使者として越中を訪れた田辺福麻呂をもてなすための宴を大伴家持が国守館にて催した折に、福麻呂が詠んだ歌4首のうちの1首である。 さて、その先の万葉歴史館口の西側歩道にある万葉歌碑であるが、前回訪問時のブログ記事(コチラ)では大伴家持の歌と早とちりしてしまったようですが、今回よく見ると大伴池主の方の歌でした。 「常夏」という文言から碑文をよく読まずに、家持の歌と思い込んでしまったようですが、池主にも「常夏」の文言を含む歌があるのでした。 4年も経ってから間違いに気づくとはお粗末の限りですが、改むるに憚ること勿れ、遅ればせながら過去記事に追記訂正を入れて置きます(笑)。 ということで、家持の歌と池主の歌を下に併記して置きます。立山(たちやま)に 降り置ける雪を 常夏(とこなつ)に 見れども飽かず 神(かむ)からならし (大伴家持 万葉集巻17-4001)(立山に降り積もった雪は、夏中ずっと見ていても飽きない。神の品格によるのだろう。)立山(たちやま)に 降り置ける雪の 常夏(とこなつ)に 消(け)ずてわたるは 神(かむ)ながらとそ (大伴池主 同巻17-4004)(立山に降り積もった雪が夏中ずっと消えないのは、神のご意志だというぞ。) 大伴家持と大伴池主は相互に多くの歌を贈り合っているが、これもその例で、家持の歌に池主が和したものである。 高岡万葉歴史館訪問も久しぶりのことである。(高岡万葉歴史館) 入口前がこんなに広々としていただろうか。記憶と少し印象が違うのは、拡張工事によって広くなったのかも知れない。さもなければ、ヤカモチの記憶違いということになる。 そして、玄関先の家持とその正妻・坂上大嬢の像。 この像は、実物を見るのは初めてであるが、ブロ友のあすかのそらさんや英坊3氏のブログで写真を拝見した記憶があるので、初めてという気がしない。(大伴家持・坂上大嬢像) 像の後ろには歌が刻まれているので、これも歌碑ということになるか。春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子 (大伴家持 万葉集巻19-4139)(春の苑の、紅に色づいた桃の花が、下まで照り映える道に出て立っているをとめよ。)(歌が見える角度で撮ると・・) さて、ここでもう一つのヤカモチ失敗談。 実は、二日目の5日朝、銀輪散歩に出掛けるべしでホテルで身支度をせんとして気がついたのは、入れていたと思った着替えのTシャツが一枚も入っていないということでした。 仕方なく、気温が低い場合に備えて持参していた長袖の柄物のシャツを直接羽織って外出。自転車のパンクを修繕して貰っている間に、見つけたスポーツ用品店で2枚Tシャツを購入。直ぐに着ますからとタグなど全て取り除いて貰い、店を出た先の路地でそのTシャツに着替えたのでありました。 で、それが万葉歴史館と何の関係やあるですが、館内に入ってスグの処に記念グッズが売られているコーナーがあり、そこでもTシャツが売られていたので、汗を多くかいた場合の着替え予備用にもう1枚買い求めたのでありました。 初春令月 気淑風和という、元号「令和」の原典となった梅花の宴の歌23首の序文の一節を胸にプリントしたTシャツでした。 観光バスでの団体客が入館されていて賑やかでしたが、館内展示をひと通り見学した後、庭に出て犬養先生揮毫の「立山の賦」の歌碑にご挨拶。(立山の賦万葉歌碑) 運が良ければこの歌碑の前に立って、はるか前方を見やれば雪をいただいた立山連峰の雄姿が見えるのであるが、ヤカモチは大抵は運がないと見えて、見えないことが殆ど。今回もその通りでありました。 立山の賦天離(あまざか)る 鄙(ひな)に名(な)懸(か)かす 越(こし)の中(なか) 国内(くぬち)ことごと 山はしも しじにあれども 川はしも 多(さは)に行(ゆ)けども 統(す)め神の 領(うしは)きいます 新川(にひかは)の その立山(たちやま)に 常夏(とこなつ)に 雪降り敷きて 帯(お)ばせる 片貝川(かたかひがは)の 清き瀬に 朝夕(あさよひ)ごとに 立つ霧の 思(おも)ひ過ぎめや あり通(がよ)ひ いや年のはに よそのみも 振り放(さ)け見つつ 万代(よろづよ)に 語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音(おと)のみも 名のみも聞きて 羨(とも)しぶるがね (大伴家持 万葉集巻17-4000)(<天離る>鄙に名高くておられる、越の国中に山は数々あるが、川は多く流れているが、すめ神が支配しておられる新川の郡の、その立山に、夏中ずっと雪が降り敷いて、帯としておられる片貝川の、清らかな瀬に、朝に夕に立つ霧が絶えないように、私の立山への思いが消えることはあるまい。いつまでも通い続けて、年ごとに遠くからでも振り仰ぎ見て、万代までの語り草として、まだ見ていない人にも告げよう。評判だけでも、名前を聞いただけでも、羨ましがるように。) その傍らに、こんな歌碑もありました。(大伴家持歌碑)今日(けふ)のためと 思ひて標(し)めし あしひきの 峰(を)の上(へ)の桜 かく咲きにけり (大伴家持 万葉集巻19-4151)(今日の日のためにと標をした<あしひきの>峰の上の桜は、こんなにも咲いたことだ。) 万葉歴史館の入口前にある歌碑は、大伴家持の「二上山の賦」の歌。 歌を書き出すのが面倒臭くなったので、写真だけ掲載です。(「二上山の賦」<大伴家持 万葉集巻17-3985>歌碑)<追記>面倒臭いので写真だけと記しましたが、やはり、二上山の賦はいい歌なので、下に追記させていただきます。 二上山の賦射水川(いみづかは) い行(ゆ)き巡(めぐ)れる 玉くしげ 二上山(ふたかみやま)は 春花の 咲ける盛(さか)りに 秋の葉の にほへる時に 出(い)で立ちて 振り放(さ)け見れば 神からや そこば貴(たふと)き 山からや 見が欲しからむ 統(す)め神の 裾廻(すそみ)の山の 渋谿(しぶたに)の 崎の荒磯(ありそ)に 朝なぎに 寄する白波 夕なぎに 満(み)ち来(く)る潮(しほ)の いや増しに 絶ゆることなく 古(いにしへ)ゆ 今の現(をつつ)に かくしこそ 見る人ごとに かけてしのはめ (大伴家持 万葉集巻17-3985)(射水川がめぐり流れる<玉くしげ>二上山は、春の花が満開の時に、秋の葉が色づいている時に、立ち出でて振り仰いで見ると、神の品格によってこのようにも尊いのか、山の風格のせいで見たいと思うのか。支配する神の裾を廻る山の、渋谿の崎の荒磯に、朝凪に寄せて来る白波、夕凪に満ちて来る潮のように、いよいよ益々絶えることなく、昔から今のこの目の前に、このように見る人みなが、心にかけて賞美するのだろう。) 万葉歴史館を出て、伏木中学校へと向かいますが、これは前ページ記事で紹介済みなので、省略。勝興寺へと向かいます。 勝興寺は越中国庁跡である。 前回来た時も工事中であったが、今回も未だ境内の北側部分は工事中でした。しかし、前回工事中であった唐門は工事が終わっていてその姿を現していました。(勝興寺・唐門) 唐門を潜ると、正面が本堂。(同上・本堂) 本堂の四隅に天邪鬼が居るというので、撮ってみた。 尤も、これは南東隅のもので、北東隅と北西隅は工事中の区域に入らないと撮れない位置になり、撮影できず、南西隅は裏に回ればいいだけのところ、面倒臭いと撮らず、でありました(笑)。ヤカモチ自身もどうやら天邪鬼に似たようなものであります。(南東隅の天邪鬼)<参考>勝興寺境内の写真は下記記事にも掲載されています。 高岡・氷見銀輪散歩(その2) 2015.8.27. 勝興寺を出て、伏木駅方向への坂道を下りかかったところに大伴家持像がありました。これは前回(4年前)の時には気が付かなかったのか、それともその後に建てられたものか。まだ真新しい像である。(勝興寺前の大伴家持像と歌碑) 歌碑の歌は、大伴家持が越中を去り都へ帰ることとなった時に送別の宴で詠んだ歌である。しなざかる 越に五年 住み住みて 立ち別れまく 惜しき夕かも (大伴家持 万葉集巻19-4250)(<しなざかる>越に5年住みつづけて、立ち別れ行くことの惜しい今宵よ。) では、ヤカモチも伏木を去り、高岡駅前方面へと帰ることとしよう。 立ち別れまく、というほどのことでもないし、惜しき夕でもないが、気が付けば午後2時を過ぎているのに昼食が未だであったのでした。 帰り道で最初に見つけた店で昼食にしようと、国道415号を走る。 店の名は忘れたが、中華料理の店があったので、そこで遅い昼食とする。 空腹が満たされたところで、万葉歌朗唱の様子を再度見てみようと、古城公園に向かう。 暫く拝聴観覧したる後、ホテルへと取って返す。(高岡駅前) 高岡駅前帰着が午後4時過ぎ。 早くにホテルに戻って来たのは、ラグビーの日本・サモア戦をTVで観戦応援するためでありました。前日の夜のTVで午後4時半から中継があると言っていたような気がしたからでありましたが、4時半からというのはイングランドとアルゼンチンの試合でその後に日本・サモア戦が中継されるのでありました。されば、こんな早くホテルに戻る必要もなかったのである。 しかし、戻ってしまったものは仕方がない。イングランド・アルゼンチン戦もついでに観戦することに。 まあ、これらは当日記のテーマと無関係ですから省略します。 翌6日、高岡から新高岡経由で帰途に。(新高岡駅から二上山遠望) 高岡とも暫しのお別れ。今度来るのはいつのことか。 立ち別れまく 惜しき朝かも、であります。 以上で、高岡銀輪散歩三部作完結(笑)であります。 お付き合い下さった方々に感謝。(完)
2019.10.10
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(承前) 10月5日。高岡駅前を出発。先ず、高岡大仏へと向かう。 自転車(トレンクル)を組立て、走り出すもペダルがいつになく重い。さては、と後輪を見ると空気が抜けてしまっている。 高岡大仏へと続くアーケード商店街の通りのデパート「大和」(高岡ご在住のブロ友・英坊3氏の前頁記事へのコメントによると、大和は廃店となったとのことですから、元「大和」と言うべきでしょうか。しかし、1階部分の店舗は営業しているように見えました。)の北東裏にある自転車屋さんに立ち寄り、空気入れをお借りすることに。2012年6月28日の記事(コチラ)に記載しているが、この時の高岡銀輪散歩でパンクした時に修理していただいたのがこのお店であったので、ヤカモチとしてはもう馴染みのつもりなのである(笑)。 空気が十分に入って後輪が固くなり、これでよしと出発するも、100mほど走ったら、元の木阿弥。パンクしているよう。再び、自転車屋さんへ。 ところが、店主の男性が外出してしまっていて、店主のお母様と思われるご婦人だけ。修理は店主が帰って来ないとできない、とのこと。30分位で帰って来る筈だと仰るので、トレンクルを店に預けて、ブラブラと徒歩で高岡大仏へ。(高岡大仏) 大仏の台座下内部が回廊になっていて、ぐるり周回できる。 円形回廊の裏正面の位置に仏頭が祀られている空間があり、そこに、堀田善衛自筆の詩「高岡の大佛に寄す」の額が掲示されている。 今回は、大仏が目的ではなく、この額を撮影するのが目的での立ち寄りでありました。(堀田善衛「高岡の大佛に寄す」の額) 暗い堂内での撮影なのでどうしても画像が不鮮明になる。 以前に撮っている写真の方が少しマシです。 その写真は、2012年11月11日の記事(コチラ)に掲載されています。<追記参考>堀田善衛全集(筑摩書房)第1巻所収の詩「高岡大仏寺の写真に寄す」は以下の通り。 町なかの狭きかたえに 身を寄せて薄き衣に 胸あらわ カンカンと日の照るときに 汗流しはだら雪 降りつもるとき身はふるえ はるかなる天竺よりこの北国の 片隅に来たり座せる 仏の像 坐り飽きたるさまもなく 撫肩に伏目にて 通る人をば見て守る さるにてもその日々の流れの 長さかな 茫然タリ一場ノ夢 われもまた見守られたるその一人(巻末の解題には以下のように記されている。) 高岡大仏寺の写真に寄す 『週刊文春』1960年6月13日号に発表され、この全集にはじめて収められた。(同上) この額に入っているものは原本ではなく、写しらしい。原本は隣の大仏寺に保管されているとのこと。(大仏寺本堂) 再び、自転車屋さんに戻ると自転車の修理が完了していました。二カ所にパンクがあったとのこと。 ともかくも再スタート。万葉線が走る通りに出て、伏木駅を目指す。 城光寺橋で小矢部川を渡る。 小矢部川は万葉集では射水川である。(小矢部川、城光寺橋から撮影) 氷見線・伏木駅前到着。 駅前の郵便ポストの上の小さな大伴家持像に挨拶して、暫し休憩。(伏木駅前のポストの大伴家持像) 駅前から、伏木北前船資料館へ。 この資料館の存在は夙に承知していたが、訪ねるのは今回が初めて。 堀田善衛の生家は伏木の北前船の廻船問屋である。 堀田百合子著「ただの文士―父堀田善衛のこと」(岩波書店)には「生家は鶴屋という屋号の廻船問屋でした。明治21年発行の『中越商工便覧』によれば、『伏木港本町/堀田善右ェ門/米穀兼北海道産物/諸般船荷問屋商/和洋船舶廻漕業』と記されています。」とある。 その生家は存在しないし、その跡地の所在も存じ上げないので、北前船資料館を訪ねることによって、その雰囲気だけでも感じることができるのではないか、と思った次第。<参考>堀田善衛・Wikipedia 若草読書会・ことり 2019.9.24.(伏木北前船資料館)(同上・説明板)(同上) 館内に入り、受付を済ませると男性が出て来られて、ご案内、ご説明下さいました。(同上)(同上)(同上・北前船の錨)(同上・望楼) 望楼にも上ってみることができますよ、ということであったので、狭い急な梯子段のような階段を上ってみた。(同上・望楼への登り口)(同上・望楼上り口) 3畳程度の狭い空間。 ここから、自家の船が沖合に見えると、下にそれを知らせて船を迎える準備をしたとのこと。 船が沖に見えて港に着岸するまでに1時間程度は要したので、このやり方で十分に間に合ったらしい。(同上・望楼内部)(同上・望楼からの眺め1)(同上・望楼からの眺め2)(同上・望楼からの眺め3) 伏木には、30だか40だか忘れましたが、多数の廻船問屋があったらしいが、それらの廻船問屋の引き札が展示されていました。その中に、堀田善右衛門の名が見える、鶴屋の引き札があったので撮影。 北前船航路や廻船問屋、当資料館の秋元家のこと、建物の造り、展示品などについて、色々とご説明下さったのに、小生が興味を示したのは、この引き札だけであったのは、申し訳ないことでありました(笑)。(諸廻船問屋 堀田善右衛門とある鶴屋の引き札) 鶴屋の堀田家も高台にあったようだが、この資料館の秋元家も高みにあって、港へは坂道を下ることになる。 坂道を下ると、伏木港である。 万葉埠頭の緑地に立ち寄り、海からの風に吹かれてみる。(伏木港・万葉埠頭緑地) 万葉埠頭から海沿いに北西方向に進むと国分浜海水浴場である。(国分浜) 堀田百合子著の前掲本にはこんな一文があったので、国分浜にも立ち寄った次第。 『若き日の詩人たちの肖像』は、次の一文で終わっています。 「鉛色の北の海には、立派な波が、男がこれまでに耳にしたありとあらゆる音楽の交響を高鳴らせてどうどうと寄せて来ていた。それだけで充分であった。」 鉛色の北の海は、おそらく伏木国分浜でしょう。伏木の父の生家から、歩いて10分か15分ぐらいだったと思います。半世紀以上前の私の記憶では、青々とした田んぼを一本のまっすぐな道が貫き、そこを通り過ぎると目の前に国分の海岸が広がっていました。砂浜に立ち、海を見つめると彼方にまっすぐな水平線が見渡せました。(略)水着姿で砂遊びに興じ、浜を転がり回り、砂だらけになっている私の横で、父はじっと海の向こうを見つめていました。 現在は、テトラポットの波よけが設置されていて、「彼方にまっすぐな水平線」は、砂浜からは望めない。 高岡市伏木には何度も来て居り、堀田善衛の生家が当地の廻船問屋であったということも承知していたが、今回まで、堀田善衛ゆかりのものを訪ねようという考えが浮かぶことはなかった。そんなことで、昨年・2018年が生誕100年ということで、堀田善衛展などがこちらで行われていたことも、今回、ネット検索で偶々知ったのでしたが、去年の事を知っても間に合う筈もなく、やはり鬼が笑うというものでありました。 ただ、その検索で知ったのは、伏木中学校の校歌が堀田善衛の作詞であること、その歌碑が同校の校庭にあるということ。 ということで、国分浜に寄った後、伏木中学校へと向かいました。 正確には、その前に気多神社に向かうのであるが、これはここでは省略。(伏木中学校の歌の碑) 伏木中学校の校門の脇には、万葉歌碑があり、2015年8月27日の高岡銀輪散歩の折にこれを撮影しているが、その時にはこの中学校の校歌の作詞が堀田善衛の手になるものとは知らぬことでした。<追記参考>上記の堀田善衛全集第1巻には、この伏木中学校の歌が収められて居り、同巻末の解題には下記のように記されている。 風はどこから吹いて来る――伏木中学校の歌 1966年に作者の故郷である富山県高岡市伏木の伏木中学校校歌として作詩された。<参考>高岡・氷見銀輪散歩(その2) 2015.8.27. 昔に読んだ、堀田善衛著「ゴヤ」(全4巻)が見当たらないので「はて、何処へやってしまったか」と、前に積まれた本を除けてみると、ちゃんとありました。堀田善衛が亡くなったのは1998年9月5日。もう21年も前のことになる。以来、堀田善衛の本はわが書棚の片隅にひっそりと眠ったままになっている。(堀田善衛の本)(同上) 彼の著作「定家明月記私抄」の帯を見て、気がついたこと。 藤原定家が80歳で死没していること。 堀田善衛も80歳で死没している。 ついでに、わが父も80歳の誕生日を迎えた翌日に死没している。(堀田善衛「定家明月記私抄」) 以上、関係のない話に脱線したところで、本日の記事はこれまでとします。(つづく)
2019.10.08
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10月4日~6日と高岡に出掛けて参りました。 出掛けた目的は、この3日間、万葉集の歌全4516首を出場希望者の皆さんにより、昼夜ぶっ通しのリレー形式での朗詠が行われるという、高岡万葉まつりが開催されるので、これを久々に覗いてみようと思ったこと、もう一つは、大伴家持は延暦4年(785年)8月28日に死没しているが、この日を現在の暦で換算すると10月5日になり、丁度10月5日が万葉まつりの日と重なっているということに気付いたこと、そして、もうひとつの理由は、先日の若草読書会で凡鬼さんから、堀田百合子著「ただの文士―父堀田善衛のこと」という本を貸していただいて読んだのであるが、堀田善衛は若い頃によく読んだ作家であり、懐かしく彼の事やその作品のことを思い出し、彼の出身地である高岡市伏木を訪ねてみるのもよかろうと思ったことである。<参考>若草読書会・ことり 2019.9.24. 何回かに分割しての記事になりますが、先ずは「高岡万葉まつり」の記事から。 高岡万葉まつりについては、過去の記録を調べてみると、1999年に来ていることが分かりました。従って、今回が20年ぶり、2回目ということになる。高岡には、その後もその前にも何度も来てはいるのだが、万葉まつりの時期に、というのは2回目なのであります。 初日、4日は生憎の雨で、いつもの古城公園のお堀に設営された水上舞台の上ではなく、その近くにある高岡市立体育館内に設けられたステージでの朗詠となっていました。 写真でその雰囲気をご紹介します。(高岡万葉まつり会場の高岡市立体育館) 覗いたのは夕刻近くになってからでしたが、雨の所為もあってか、館内の見物客もまばら、これでは、ステージで朗詠される方も張り合いが無いことであったかと。 翌日5日は、伏木方面へ銀輪散歩に出掛けましたが、帰途に、再び「万葉まつり」を覗いてみました。 この日は、晴れ間の広がる好天気となりましたので、会場は、例年通りの水上ステージに移動して開催されていました。(体育館は出場者の着替え室や控え室の役目に) やはり、ステージはこれでなくては雰囲気が出ない。(朗唱風景) (同上)(同上)(同上) 銀輪散歩の方は、明日以降の記事とします。(つづく)
2019.10.06
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友人・岬麻呂氏からの旅便りです。 今回は、北海道。 9月25日~28日、3泊4日の「日本の秋が始まる大雪山系(旭岳、赤岳、層雲峡)と十勝連山、富良野の初秋が目的の夫婦旅」とのことでありました。<参考>岬麻呂旅便りの過去記事はコチラ。 フォト蔵の岬麻呂写真集はコチラ。初秋と 友にし恋ひて 夫婦旅 またも来にけり 富良野やよしと (偐岬麻呂)敷島の 大和の秋の 始まりを 見むと来にけり 大雪十勝 (偐岬麻呂) 前回の旅、宮古島は13回目のご訪問と仰っていましたが、富良野も亦同じ、岬麻呂旅便りシリーズ記事でも度々に登場する、同氏の旅の定番の地であります。前々回の旅も富良野方面でした。<参考>岬麻呂旅便り241・北海道花めぐり 2019.7.16.(旅・岬巡り報告243) ※写真をクリックして大きいサイズの写真でご覧下さい。 9月25日。先ずお訪ねになったのは、富良野の麓郷の森。 ヤカモチのブログ友でもあるfurano-craftさんをお訪ねに。 旅便り241でもご紹介しましたが、歌手、EXILE‐ATSUSHIさん関連の木工作品で相変わらずお忙しくされているようです。(EXILE-ATSUSHIと刻名されているグランドピアノのレプリカ)<参考>furano-craft氏のブログはコチラ。 木力工房のホームページはコチラ。 その他のご友人を訪ねられて、新富良野プリンスホテル(3連泊)に。 地酒、温泉を楽しまれたようです。 「日が暮れると気温が急激に下がり、かなり寒い。」とのこと。 9月26日。大雪山の主峰・旭岳を望見すべくロープウェイで姿見駅へ。 「ナナカマドの紅葉は終わりを迎えていたが、冠雪した旭岳が綺麗。」(旭岳・第一展望台から)「日本の秋は此処から始まると言われる。」(旭岳・姿見の池) 富良野に戻り、遅い昼食は、ご友人のご子息が「切り盛りされている」という「トピカル」という店で。 昼食後、十勝岳・安政火口の紅葉を求めて、望岳台へ。(十勝岳・安政火口の紅葉) 麓の自衛隊演習場の大砲音すごい、とのこと。 9月27日。ホテルに訪ねて来られたご友人ご夫妻とご一緒に、旭川・上野ファーム、上川町・大雪森のガーデン、銀泉台(赤岳東斜面)、層雲峡紅葉谷と巡って、富良野に戻るとはや日は暮れて・・。(上野ファーム)(大雪森のガーデン)(赤岳・東斜面) 9月28日。ホテルの風のガーデン、ファーム冨田、鳥沼公園、麓郷展望台、占冠のアイリス伊藤ガーデンと巡って、新千歳空港。(富良野盆地の雲海)(風のガーデン)(富良野・鳥沼公園)(麓郷展望台) 以上、900kmのロングドライブを満喫されて、無事ご帰還でありました。
2019.10.03
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本日は、囲碁例会。 自宅をMTBで出発。大川べりの自転車道を走り、毛馬橋のたもとの公園にあるハシドイの木を訪ねました。 先月の4日以来ですから、ほぼ1ヶ月ぶりの訪問。 実のいくつかが茶褐色に変色し、既に弾けているものもある。(ハシドイの実) 接近してみると。(同上) 9月21日記事でご紹介した、花園中央公園のライラックの実の写真を再掲載しますので、比較してみて下さい。<参考>ライラックの実と種 2019.9.21.(ライラックの実<再掲載>) 実の割れ方は同じ。ライラックが実の尖端部が尖っているのに対してハシドイのそれはそんなでもない。 ライラックの和名がムラサキハシドイというように、両者が同じ仲間に属する植物だということが、この実の形姿からも首肯される。 実の中の種子も撮影してみました。(ハシドイの種子) これも、ライラックの種子の写真と比較してみて下さい。とてもよく似ています。(ライラックの種子<再掲載>) さて、囲碁例会です。梅田スカイビルのガーデンファイブ棟の1階の喫茶店で昼食を済ませて、5階の会場のある部屋に行く。小生が一番乗り。 間もなく、平◎氏が来場。同氏と対局中に、福麻呂氏、竹〇氏、村〇氏が来場、少し遅れて平〇氏が来場で、今日の出席者は6名。 小生の成績は、平◎氏に勝ち、竹〇氏に負け、平〇氏に勝ち、村〇氏に負けて、2勝2敗。可も無し不可も無し。 これで、今年の成績は26勝17敗。次回の10月9日は欠席する予定なので、残すところ、11月、12月の4回だけ。大きく負け越すということさえなければ、今年は勝ち越しで終われそうです。
2019.10.02
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今日は月例の墓参。 いつもの門前の言葉を拝見しているお寺の改築工事がいよいよ本格的となったようで、お堂の改装工事だけかと思っていたら、山門も建て替えとなるようで、従前の山門は跡形もなく取り払われていました。 従って、門前の言葉どころではないという次第。これは門前払い以前の問題にて「門払い」である。(工事中の寺) 道向かいの石榴も更に大きくなって。(大きくなったザクロの実) 未だ弾けてはいないので、食べ頃はもう少し先であるか。(同上)墓参なり いや高々に 石榴の実 なれど無口の 朝の道かな (偐家持) 空とのコラボはこの花も似合い。(アメジストセージ) そして、カメとシジミです。 このところ、「花」カテゴリ記事が続いているので、この辺で「花にはつきもの」の「虫」カテゴリの記事にしてみむ、という訳であります。 前ページの「似て非なるもの」を引きずっている訳ではありませんが、カメはカメでもカメムシ。(ミナミアオカメムシの幼虫) これは、ミナミアオカメムシの幼虫である。成虫になると体全体が緑色になる。カメラを向けると葉の裏側に回って身を隠してしまうので、撮影にはそこそこの時間を要しました。 墓参の帰途、畑中の道を歩いていて見つけました。こいつは野菜の若い果実や茎から汁を吸って作物を台無しにしてしまう害虫であるが、通行人ヤカモチは中立。どちらにも組しない。傍観するだけである。ということは、少しばかりウェルカメの立場ということになるか(笑)。(同上) そしてシジミ。貝のシジミではなく蝶のシジミである。 ウラギンシジミである。(ウラギンシジミ) 友人の蝶麻呂君なら、捕まえて翅を無理にも開かせて標本にしてしまうのでしょうが、仏のヤカモチ。じっと翅を開いてくれるのを待つ。(同上) しかし、何事につけ辛抱の足りないヤカモチ。ギブアップ。いや、ギブアップする前に、飛び去ってしまい、少し開いた翅の隙間を覗かせていただいただけでありました。 先月の墓参道でもウラギンシジミを見掛けたのであるが、カメラを向ける間もなく飛び去ってしまったのであったから、今回は少しばかりお近づきになれました。 今日の墓参で見掛けた虫は上の二つだけでありましたが、これでは「虫散歩」にもならないので、先月の墓参や銀輪散歩で見掛けた虫が「友情出演」します。(ショウリョウバッタ) 上のバッタにバッタリ出会ったのは先月の墓参の折。 以下は、銀輪散歩でのもの。(ハエの仲間) ライラックの実を撮影したら、たまたまそこに極小のハエがとまっていたということで、その部分をトリミングしたのが上の写真。 従って、正確には「見かけた」というのではない。 写真に撮ったら写っていたということだから、こういうのは何と言えばいいのか。「見かけなかったのに撮ってしまった」虫ですかね。 余りにも小さくて、少し離れるともう見えない大きさ。蚊よりも小さいかも。勿論、何というハエかなどは知るよしもない。ゴマのハエならぬ「ゴマのような」ハエなのである。 次はミツバチ。上のハエが普通のハエよりもずっと小さいのに対して、こちらのミツバチは普通のミツバチよりも大型でありました。 二ホンミツバチだろうと思います。(二ホンミツバチ) セイヨウミツバチと二ホンミツバチとの違いなどはよくは知らぬが、体の色が黒いのが二ホンミツバチかと思ったので、二ホンミツバチとヤカモチが言っているに過ぎません。従って、マユツバ・二ホンミツバチである可能性も否定できない(笑)。(同上) 以上、カメならぬカメ、シジミならぬシジミ、バッタモンのバッタ、ゴマのハエ、マユツバのハチと怪しげな虫の競演でありました。
2019.10.01
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