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昨日(30日)は、中学時代のクラスメート男女8名によるミニクラス会・佐保川ウオークでありました。 参加者は、男が木麻呂、谷麻呂、喜麻呂君と小生の4名、女が嶌郎女、大郎女、堀郎女、塩郎女さんの4名、計8名である。但し、喜麻呂君と塩郎女さんはウオーク不参加で昼食会のみの参加。 ウオーク組は午前10時近鉄奈良線新大宮駅前集合。 小生は少し早めにと9時40分頃に到着の電車に乗ったが、既に木麻呂君と大郎女さんが来て居られました。嶌郎女さんが続いて来られ、谷麻呂君、堀郎女さんの順で到着。定刻の午前10時出発。(新大宮駅前) 今回のコースは2月24日に下見をし、それをブログ記事にしているので、当該記事も参考にご覧下さい。(尤も、下見の折は自転車であり、奈良駅から先に北山十八間戸に寄り、佐保川沿いを新大宮駅へと、本番とは逆コースを走っていますので、順序が逆になっていますが。)<参考>中学同窓との第2回ウオーク下見 2019.2.24. コースを地図で示せば下掲の通り。(コース地図 ――が往路、――が復路 昼食会の場所が南蛮亭) 駅前の道を北に進み、佐保川に出る。佐保川沿いの道を東へと歩く。(佐保川沿いの道) 奈良は2、3日前に開花宣言したばかりで、まだ三分咲きか五分咲き程度であるが、木によっては、そこそこ見頃のものもある。 桜まつり、が開催されているようで、佐保川小学校の前の佐保川河川敷ではこんな光景が。(桜まつり) 対岸の人の群れよりも多い群れがこちら側にも。その群れの中を進む。人の群れが途切れたところで、先頭を歩いていた小生が振り返ると、木麻呂君の姿があるだけ。他の4人が見当たらない。 小学生のブラスバンドの演奏が始まったので、これを道端から拝聴しようと人々にまじって立ち止まっている4名。谷麻呂君などはガードレールに凭れてじっくり落ち着いて聴こうというスタイル。 予定の行程では北山十八間戸到着11時半、昼食会の南蛮亭到着12時20分なので、予定外の場所で時間を潰されてしまうと、ちとまずいのである(笑)。呼びに戻って出発を促す。 JR奈良線の踏切を渡ると、大伴坂上郎女と大伴家持の歌碑がある。 (坂上郎女歌碑) (大伴家持歌碑) 歌碑は2月24日記事に掲載のものの再掲載です。 ここで、少し歌の説明などをする。 人道橋を渡って左岸から右岸に移動。 人道橋から下流、上流を眺めた写真を撮る。同じアングルで2月24日にも撮影しているので、これと対比するためである。 わが目論みとしては、満開近い状態の写真を掲載、こんなにも咲きました、という記事仕立てにするべしであったのだが、花の盛りはままならぬもの。こんな程度でアテがはずれました(笑)。(下流側の眺め)(同上、2月24日の状態)(上流側の眺め)(同上、2月24日の状態) 山桜など満開になっているのものもありましたが・・。(これなどは満開です。) 右岸側にも坂上郎女と大伴家持の歌碑がある。 こちらの坂上郎女歌碑は、犬養孝先生の揮毫による歌碑。所謂「犬養万葉歌碑」である。 (坂上郎女歌碑) (大伴家持歌碑) そして、大仏鉄道記念公園の枝垂れ桜です。 この桜は、ヤカモチの狙い通りの対比となりました。(大仏鉄道記念公園)(同上、2月24日の状態) ここでも、長屋王の万葉歌が併記された石碑があるので、その説明などをしましたが、丁度、その石碑の前のベンチに若いカップルが座って仲良くおやつを食べていました。 そのため、我々が彼らを取り囲むような無粋な形になってしまいました。それで、その場を取り繕うため、カップルの男性に対して長屋王の歌や長屋王のことを説明するという感じの話しぶりにし、不自然でない状況を作出することにしました。すると、その男性もなかなか気の利く奴で、「そうですか。」とか「ここに長屋王の歌が刻まれているのですか。」とか反応してくれて、恰も彼ら二人を含めたグループが一時的に成立ということになって、互いに気まずいことにならなかったのは幸いでした。 まあ、それにしても無粋なオジサン、オバサンたちであったことには違いありません(笑)。お二人にお邪魔したことを詫びて、先へと進む。 更に、東へ。奈良女子大の裏手で長慶橋という名の佐保川に架かる小さな橋を渡って、北へ方向転換。(長慶橋) 長慶、と言うと、思い浮かぶのは南朝の天皇である長慶天皇と、現役の頃の部下の女子社員が一字違いの似たような姓であったこと位。同行の大郎女さんが「主人から耳にした話」としてこの橋の由来のことを「~であったような気がする。」と仰っていましたが、帰宅されて、歴史好きのご主人に確認されたのか、或はご自身でお調べになったのか、彼女からメールが来た。それによると、「先にお話したのは私の思い違い、この橋は、明治時代の市会議員で、吉村長慶という人物が寄付したもの」だとのことでありました。 一条通りに出て右折、東へ。聖武天皇陵・光明皇后陵に立ち寄る。(聖武天皇・光明皇后陵 2月24日記事からの転載) 聖武天皇と光明皇后の下記万葉歌をいくつか取り上げる。妹に恋ひ 吾(あが)の松原 見渡せば 潮干の潟に 鶴(たづ)鳴き渡る(聖武天皇 巻6-1030)(あの子を恋しく思って、逢える日はいつかと待つ―その「吾(あ)が待つ」に因む吾(あが)のの松原を見渡すと、潮の退いた干潟を鶴が鳴き渡ってゆく。)秋の田の 穂田を雁がね 暗けくに 夜のほどろにも 鳴き渡るかも(聖武天皇 巻8-1539)(穂の出た秋の田を、雁がまだ夜の明けきらない暗いなかにも鳴き渡ってゆくなあ。)橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝(え)に霜降れど いや常葉(とこは)の木(聖武天皇 巻6-1009)(橘は実までも、花までも、その葉までも、枝に霜が降ることがあっても、枯れるどころかますます栄える常緑の木である。)我が背子と 二人見ませば いくばくか この降る雪の 嬉しからまし(光明皇后 巻8-1658)(あなたと二人で見たとしたら、どれほどこの降る雪が嬉しく思えたことでしょうか。) 転害門経由で北山十八間戸へ。(転害門 2月24日記事からの転載) 約束の時間より15分遅れの11時45分に、三角屋さんに到着。 三角屋さんはお好み焼き屋のお店。県から委嘱を受けて、北山十八間戸の鍵の管理などをされている。 女将さん(小生は「吉備郎女」さんと勝手名で呼ばせていただいている。)にお声がけして、北山十八間戸の開錠と案内をお願いする。<参考>三角屋さんの写真はコチラ 北山十八間戸は一昨年の8月に一人で訪問している。その折の記事をご参照いただくこととし、詳細は省略です。<参考>叡尊墓と北山十八間戸へ 2017.8.29. 北山十八間戸の写真はコチラ 前回と違って、同行者が5名も居たからか、吉備郎女さんは、施設について詳しくご説明下さいました。(忍性上人画像) 忍性は鎌倉の極楽寺で没していて、そこに墓があるが、この近くでは、生駒の竹林寺にも分骨墓がある。<参考>竹林寺・行基墓&忍性墓 2017.7.29. 此処、北山十八間戸では忍性の命日、7月何日とか仰っていたと記憶するが、その日に般若寺の僧侶などによる供養がこの画像の前で営まれるらしい。(同上の部屋から戸外を見る) 前庭に立って、南を見ると大仏殿が見える。(左手に若草山、正面に大仏殿が見える) 吉備郎女さんにお礼申し上げて、おいとまする。 昼食場所の南蛮亭へ向かおうとしたが、旧奈良少年刑務所建物を見て置きたいという人もいたので、少し足を延ばして坂道を上る。<参考>奈良少年刑務所、奈良豆比古神社、夕日地蔵 2017.8.30. 昼食場所の南蛮亭は法蓮中町交差点のバス停の西側にある。今いる場所からは、来た道を引き返し、聖武天皇陵から更に西へ一条通りを進むことになる。徒歩23~4分位だろう。刑務所前の坂道を下っている時に、塩郎女さんから電話がある。今、南蛮亭に着いたがどの辺りに居るのか、とのこと。刑務所の前なので、12時30分までには着けると思うと返事、南蛮亭へと急ぐ。 はい、南蛮亭に到着である。 この店は、塩郎女さんに予約していただいたもの。(南蛮亭) 塩郎女さん、喜麻呂君両名に迎えられ、全8名勢揃いとなり、昼食会となりました。 まあ、あとは毎度お決まりの、とりとめもない雑談ですが、気心の知れた仲なので、自然体。ゆっくりと食事と会話を楽しみました。 予定では、2時か2時半頃の解散でしたが、店を出たのは午後3時5分でした。奈良駅まで歩き、生駒駅で皆と別れ、生駒駅近くの病院に入院している叔母(父の妹)を見舞う。 26日に脊柱管狭窄症の手術をしたばかり。幸い、手術はうまくいったよう。昨日から本格的なリハビリを開始していて、表情も明るくなっているので安心である。そんなことで、今月10日以降、毎日のように病院通いをしているヤカモチである。<参考>中学同期関係の関連記事はコチラ
2019.03.31
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(承前) 前ページの続きです。 傘松公園は籠神社前の駐車場にバスを停めて、籠神社の境内を通ってケーブル乗り場またはリフト乗り場へと向かい、そこからケーブルカーまたはリフトで上がることになる。(籠神社・神門)(同上・由緒)<参考>籠神社・Wikipedia 籠神社(古称 吉佐宮)の主祭神は彦火明命 彦火明命(ヒコホアカリノミコト)は、古事記では「天火明命(アメノホアカリノミコト)」、日本書紀では「天照国照彦火明命(アマテルクニテルヒコホアカリノミコト)」または単に「火明命(ホアカリノミコト)」と表記されるが、先代旧事本紀では「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)」とし、ヒコホアカリとニギハヤヒとは同一神としている。であるなら、わが地元の石切神社の祭神はニギハヤヒであるから、籠神社と石切神社は共に物部系、親戚筋ということにもなる。 神門脇の狛犬。 鎌倉時代のもので、重要文化財に指定されているとのこと。(左側の狛犬 吽形)(右側の狛犬 阿形)(狛犬の説明碑) 狛犬の足に傷跡というかひび割れの補修跡というか、白い部分があるが、これは岩見重太郎によって切られた痕らしい。 岩見重太郎とは薄田隼人正兼相のこと。彼は豊臣秀頼に仕えた武将。わが河内は羽曳野市にその墓がある。またまた、こちらと縁のある狛犬さんの登場でありました。<参考>薄田隼人正兼相の墓 2014.6.26. 薄田兼相・Wikipedia さて、神社の神門に入ると「境内は撮影禁止」の立て札。本殿などは従って写真で紹介することは出来ません。 神社を出て、ケーブル乗り場へと向かう途中に、奥宮の真名井神社の石漂が目にとまりましたが、団体行動とあっては、これに足を向けることは叶わぬこと。 バスの中での案内や行程の取り仕切りは、店主・ももの郎女さんのご主人である桃麻呂さんが一手に。これがなかなかユーモアに富んだ語り口で楽しく愉快、名ガイドであったのですが、ケーブルカー、リフトの乗車券の購入などのお世話も桃麻呂さんがして下さいました。(なお、ももの郎女さんのハズバンドということで桃麻呂と呼ばせていただいていますが、ヤカモチはその本名を存じ上げてはいない。同氏も小生を「ヤカモチさん」と呼ばれているので、これでいいでしょう<笑>。) 切符を受け取り、リフトで傘松公園へ。(リフト) リフトの右側はケーブルカーの路線になっていて、ケーブルカーで行く人、リフトで行く人、それぞれである。 リフトを降りたところで、下を見やるとこんな眺め。この一つ上が展望デッキになっている。(リフトと天橋立) 一つ上の展望デッキからの眺めはこんな感じ。 余り変わりませんか? リフトの架線が下に見えていることと、並行して走るケーブルカーの線路が見えている分、眺めはよりスッキリしているかと。(展望デッキからの天橋立 南方向を見ています。北側から見る天橋立です。) 所謂、「股覗き」の場所もこれと同じ高さですが、もう少し左手にあります。またのぞき、はしませんでしたが、どうしてもそれを見たいというお方は、写真を上下反転させてご覧下さい。 パノラマ撮影の写真を併せ掲載して置きます。(天橋立パノラマ写真) 下は、天橋立側の南向きから135度左に旋回した北東向きの眺めです。 若狭湾、伊根町沖合の東方海上に浮かぶ二つの小島が鳥居中央に見えます。(冠島沓島遥拝所) このサイズの写真では分かりにくいのですが、クリックして大きいサイズの写真(特大サイズか元画像サイズ)でご覧いただくと、鳥居の中央、遠くに冠島、その左側に沓島が写っています。(冠島、沓島の説明碑) ケーブルカーの麓の駅を「府中駅」、山上の駅を「傘松駅」と呼ぶそうだが、その傘松駅前には小型のバスが停まっていた。更に1kmほどウネウネと上り坂を行くと西国28番札所の成相寺があり、駅前と寺との間を往復しているようです。 そのバス道と並行してある階段道を少しばかり上った高みから眺めたのが下の写真。此処が「元祖・股覗き」の場所だそうな。(元祖・股覗きからの天橋立) この場所から成相寺までは1kmと表示されている。 少しばかり、坂を上ってみたが、寺まで行って帰って来るとして、バスの集合時間に間に合うのだろうかと考えてみて、その集合時間が聞き漏らしたのか記憶にない。ということで引き返すことに。 リフトで下山する。(下山) ここから更に下った場所で、右側の上りのリフトに乗った何人かのグループかと思われる若者の一人が、ふざけて盛んに腰を上下動させてリフトを揺らせているのが見える。どうやら一つ前の女性を怖がらせているよう。接近して来たので「コラ~ッ!」と一喝、怒鳴りつけて叱る。何処にでも馬鹿が居るものである。 「リフトは絶対に揺らさないで下さい。事故につながります。」という表示もあり、その旨のアナウンスもされているのに、何をするやらである。 彼が揺らせた直後に、ガクンと低速運転に切り替わったのは、それを感知してのものだろう。その後1~2分して再び低速運転に切り替わった瞬間があったので、ひょっとするとその馬鹿がまた揺らせたのかも知れない。 麓の府中駅に到着。前の土産物屋で適当に何品かの土産を買って店を出たところで目に入ったのがこれ。(西国第二十八番成相寺の石漂 <参考>成相寺) 奥に見える赤い旗には「ご朱印の寺大谷寺」とあるので、成相寺とは関係なさそうだが、少しだけ、と細い坂道を上って行く。(大谷寺)(同上・説明碑) 大谷寺は籠神社の神宮寺のようだが、京都市下醍醐の地にあったのが養老2年(718年)にこの地に移転して来たという。養老2年は大伴家持の生誕年。すなわち、ヤカモチのブログ上の生まれた年である。ここでも何やら縁のあるものとの出会い、面白き事にて候。(大谷寺石漂) これが本堂なんでしょう。(本堂) お堂の右脇には、こんな石碑も。(智海の板碑) 智海というのは、15世紀半ば頃、応仁の乱の時代の、大谷寺本坊大聖院の僧の名。(同上・副碑) 籠神社に戻って来ると、神門と二の鳥居との間の空間でこんな光景が。(神輿) これは、来月4月24日に開催される葵大祭のリハーサルだそうな。 神輿を覆っている白布は、神輿の支度が未だ完全ではないので、それを隠しているもののよう。神様のお渡りにて畏れ多いと白布で覆っているのではなかったのでした。 これは、同行のひろみの郎女さんが帰宅後に籠神社に電話で問い合わせされて判明したもので、小生は彼女からのメールでそれと知ったのでありました。(同上) 神輿が鳥居を出て左折、去って行くのを見送ってからバスへ。 途中、バスは海産物のお土産屋さんに立ち寄って、帰途に。 帰途のバスではビンゴゲームなどもありました。 ヤカモチも何番目かのビンゴでお米を賞品としてゲット。 最後に、ペリカンの家のアルバイトスタッフの「越の郎女さん」からのご挨拶。ももの郎女さんから皆の寄せ書きの色紙贈呈。 彼女は、富山県滑川市のご出身なので、ヤカモチは勝手名・越の郎女とお呼びしているのであるが、3月一杯で退職、保育士の資格を取るべく新しい道を歩まれるとのこと。彼女の前途に幸いあれ、であります。どうぞお元気で。ヤカモチも応援していますよ。 暗くなった午後6時58分、バスは無事、ペリカンの家の前に帰還。 向かい側の病院のの駐輪場に停めて置いたMTBで家路に。 この記事、カテゴリ「銀輪万葉」に仕分けしましたが、朝夕の自宅~ペリカンの家間だけが銀輪にて中味はバス。しかし、一部でも銀輪があれば、わが偐万葉的分類法では「銀輪万葉」に分類して差し支えないという内規になって居りますので、ご理解のほどを。 何にせよこれでペリカンの家バス旅行記事、完結であります。3日間ものお付き合い感謝です。(完)
2019.03.27
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(承前) 前ページの続きです。 丹後半島東側、若狭湾を北上、伊根へと向かいます。 喫茶・ペリカンの家の店主、ももの郎女さんが作成、参加者に配布下さった「旅のしおり」には、伊根町について「舟屋という独特の建物があることで知られています。漁業のさかんな町で伊根のブリは有名です。養殖もしています。」とあり、舟屋については「海に直接面して建てられている舟屋は二階建てになっていて、一階が舟の収納庫になっていて、舟のガレージつきの家です。約230軒あります。伊根湾は干満の差が小さく波がおだやかなので、このようなスタイルの家がつくれるそうです。」とある。 ここでは、伊根湾めぐり遊覧船に乗船の予定。 午後1時過ぎに遊覧船乗り場に到着。 乗船。カモメとトンビが観光客が投げる餌(エビ煎餅)を目当てに、船の周囲を群れ飛ぶ。(遊覧船上から)(同上)(同上)(同上) 頭上にも鳥が舞う。 カラスやハトに糞をかけられ、「クソ~ッ!」と思った経験のあるヤカモチとしては、些か糞の心配もしたのであるが、幸い今回はそのような被害はありませんでした(笑)。(同上・頭上を舞うトンビ)(同上)(同上・右手に見えているのはブリなどの養殖生簀だろうか。) 伊根湾入り口にある島、青島。 漁業の神様である恵比須様を祀る蛭子神社がある。(同上・蛭子神社の鳥居) 伊根湾をパノラマ撮影。(同上・伊根湾全景 中央が青島) 舟屋も眺めることとしましょう。 これを眺めなければ、伊根を見たとは言えないでしょう。(舟屋・手前は養殖場、それとも単なる生簀?)(同上)(同上)(同上)(同上)(同上) ふな屋というと、別役実の「ふな屋」を連想したりもする。 彼の「ふな屋」は伊根とは違って「舟屋」ではなく「鮒屋」である。 その「ふな屋」は、食材としての鮒を売っているわけではない。 鮒とお話したい人に、鮒とお話させてくれるというのが、彼の「ふな屋」なのである。彼のTVドラマ脚本「ふな屋の居る街」の冒頭のナレーションはこうである。声 夕方になると、その街の公園にふな屋がやって参ります。もっともふな屋といっても、ふなを売るわけではありません。ふなとお話したい人に、ふなとお話させてあげて、そのかわりにほんの少し、お金を頂くという商売をしている人です。 もう大昔のお話ですから、知っている人も少ないでしょうな。 はい、脱線しました。(伊根の舟屋の通り) 伊根の舟屋の通りには勿論「ふな屋」は居ないし、ブリが有名とのことでブリを読む人は居ても、サバを読む人も勿論居ないのである。なお、念のため付言すれば、ブリとお話させてくれる「ブリ屋」も勿論居ないのである。 はい、まだ少し混線しています。 このような通りをブラブラ歩いたり、銀輪散歩してみたりしたいところであったが、団体旅行とあってはそうも行かない。 午後1時58分、またバスに乗って、来た道を引き返します。通り過ぎて来た「傘松公園」へと向かいます。公園の高みから天の橋立を見下ろそうというわけであります。 しかし、今日はここまで、続きは明日にします。(つづく)
2019.03.26
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昨日(24日)は、馴染みの喫茶店「ペリカンの家」の日帰りバス旅行でした。 この喫茶店では店主、スタッフ、その家族・友人、店の常連客やその家族・友人から参加希望者を募って、日帰りバス旅行を企画して居り、今回はその3回目だそうな。 昨年も店主のももの郎女さんから誘われたものの、当日は若草読書会の日程と重なっていたので、ご辞退申し上げたのでありましたが、今年はそのような事由もなく、参加することとした次第。 朝8時15分、ペリカンの家に集合、8時30分出発ということなので、それに合わせて自宅をMTBで出発。 向かいの病院の駐輪場にMTBを駐輪し、ペリカンの家へ。 丁度、バスが到着したところでした。(ペリカンの家の前のバス)(同上) 飲み物その他の積み込み完了。 参加者は子ども数名を含み全38名。 昨年のペリカンの家サイクリングにご参加下さった飯〇ご夫妻など面識のある方も居られ、中学の同窓でブロ友でもあるひろみの郎女さんもご参加で、まあ気楽な雰囲気です。 定刻8時30分に出発。途中、キリンビール神戸工場見学の予定であったが、事故による渋滞に遭遇し、これをカットして天橋立へと走る。(車窓の風景)(同上)大江山 いく野の道の とほければ まだふみもみず 天の橋立 (小式部内侍 金葉集586 小倉百人一首60)(母の行っている丹後の国へ行くには大江山や生野を通って行かねばならず、遠いので、私はまだその辺りや天橋立を踏み通りもしていません。母からのふみも見ていません<ので、母による代作などと疑わないで欲しい。>)(注)金葉集<八代集抄本・奏覧本>のこの歌には次の言葉が添えられている。和泉式部保昌に具して丹後の国に侍りけるころ、都に歌合のありけるに、小式部内侍歌よみにとられて侍りけるを、中納言定頼つぼねのかたにまうできて、歌はいかがせさせ給ふ、丹後へ人は遣はしけむや、使はまうで来ずや、いかに心もとなくおぼすらむ、などたはぶれて立ちけるをひきとどめてよめる ここでの大江山は、京都府与謝郡の大江山説と京都市西京区の大枝山説の二説及び両者を掛けているとする説などがあるようですが、バスは与謝郡の大江山のはるか東側を通過。勿論、大江山は見えずでありましたが舞鶴大江ICという名にそれを偲びつつ、やがてトンネルを潜る。 余談になるが、万葉集にも大江山が登場する。こちらは京都市西京区の大枝山のことと考えるのが普通。丹波道(たにはぢ)の大江の山のさね葛(かづら) 絶えむの心我が思(おも)はなくに (万葉集巻12-3071)(丹波への道の大江の山のさね葛のように、絶えようなどという心は、私は持っていない。)(注)上三句は序詞。 大江山=大枝山、丹波と山城の国境の山。 老ノ坂(新・旧の峠)南方の山。 酒呑童子のことなどを思っているうちに、バスは下りに入って、宮津市域に入ったようです。 海岸べりに出て左折し、野田川を渡った辺りから、天の橋立が眼前に見えて来る。(天橋立遠望 阿蘇海側から) 時刻は、ほぼ正午。先ずは昼食である。 昼食は、江尻地区にある二反田というお店。(お食事処・二反田) 昼食の席では、万葉関連の挿画などでよく目にしたことで夙にそのお名前を存じ上げている故冨田利雄氏であるが、そのご子息ご夫妻と同席するという、嬉しい偶然もありました。 同氏の絵をご存じでないお方のために参考までにその絵を一つご紹介すると、このような絵です。万葉ファンなら同氏の絵やお名前はお馴染みではないかと思います。(吉隠悲傷・冨田利雄画伯の絵 近鉄ニュース「物語の旅」から)降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からなくに (穂積皇子 万葉集巻2-203)(降る雪よ、沢山に降るな。吉隠の猪養の岡が寒いだろうから。) 二反田の前は、宮津湾が広がる。(宮津湾) パノラマ撮影をすると・・。(同上) この後、伊根へと向かいますが、今日はこの辺りまでとします。 続きは明日に。(つづく)
2019.03.25
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本日は、大学同期の友人H君が中心メンバーとなっている大阪カジノに反対する市民の会が主催する市民集会に参加して来ました。 会場は、阪急宝塚線曽根駅下車東へ徒歩3分程度のところにある豊中アクア文化ホール。午後2時開会ですが、H君よりスタッフとしてのお手伝いも頼まれていたので、12時50分現地集合ということで出掛けました。(阪急宝塚線・曽根駅)(アクア文化ホール、左手前が中央公民館、右が文化芸術センター) 駅前で昼食を済ませてからアクア文化センターに向かう。(アクア文化ホール、北西側から)(同上、正面) スタッフの方達も順次集合、12時55分、会場ロビーにプログラムほかの書類などを搬入、スタッフの役割分担の確認などの打ち合わせ。13時30分から入場・受付開始。(入場開始後開会前の会場内) 14時開会O氏の司会進行で、主催者代表のN氏からの開会の挨拶。 続いて、カジノ実施法の国会審議で参考人証言をされた山口美和子氏からギャンブル被害者の立場からの報告。カジノに反対している下記8団体の代表からひと言ずつのご挨拶。 あかんカジノ女性アピール 大阪いちょうの会 大阪を知り・考える市民の会 カジノに反対する大阪連絡会 カジノ問題を考える大阪ネットワーク ギャンブルオンブズマン 市民のための行政を求める会 どないする大阪の未来ネット 次に議員さんや次の統一地方選挙への立候補予定者さん達が登壇して短くご挨拶。 立憲民主党からは6名、日本共産党からは8名、自由党、社会民主党からは各2名、新社会党、緑の党、無所属から各1名、計21名が登壇。 あったかファミリーによる10分程度の寸劇の後、落語家の笑福亭竹林さんが登場し、カジノなどギャンブルに関連する小話で会場を笑わせて、聴衆の肩を適度にほぐしたところで、講演2題。〇「国際カジノ企業の大阪進出の意図」 国学院大学名誉教授 横山実氏 1.カジノ導入に一番積極的なのは、日本維新の会です。 2.最後は、大阪市民と大阪府民が決めます。 3.カジノ事業者の適正な選定は困難です。 4.カジノ導入の目的である「滞在型訪日観光客の増加」は、夢洲で実現できません。 5.国際カジノ企業がターゲットにしているのは、日本人です。〇「カジノができたら、誰が得するの?誰が被害を被るの?」 大谷大学社会学部教授 滝口直子氏 ・ギャンブルにハマった人がもたらす不幸な結末 ・ギャンブルをしない多くの人が苦しむ ・ギャンブルの治療プログラムは効果があるの? ・なぜ回復の場に登場しないの? ・ギャンブルにハマるなんて、ギャンブラーが「悪い」? ・ギャンブル産業は何も害低減対策を取らないの? ・情報の提供以外にはどのような対策を産業はとっているの? ・実効性のあるギャンブル害の低減策はある ・なぜ産業は実効性のある害の低減策を実施しないの? ・問題ギャンブルの社会的コストは高い ・税金は期待できるの?雇用は期待できるの? ・誰がカジノの恩恵を受けるの? 最後に、主催者側からのお願いとしてH君からのスピーチ(西澤信善著「カジノ戦争」の紹介、署名、入会、カンパなど)があって、大阪大学名誉教授の熊谷貞俊氏の閉会のご挨拶で幕となりました。16時30分。
2019.03.23
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東石切公園でイヌビワの実が鈴なりに生っているのを見掛けました。 昨年に生った実が落ちずに残っていたということなんだろうが、このような光景は初めて目にするものである。(イヌビワ)(同上)(同上) もう少し接近してみましょう。(同上) 万葉集巻19-4164の大伴家持の歌(下記注1.参照)に登場する「ちち(知智)の実」は、銀杏説、イチジク説などもある未詳植物であるが、イヌビワの実とする説も有力である。 大伴家持のこの歌の題詞には「勇士の名を振るふことを慕(ねが)ひし歌」とあり、左注には「右二首は山上憶良臣の作りし歌(下記注2.参照)に追和せしものなり」とあるように、越中国守に任ぜられた心の高揚と名門大伴氏の惣領としての気概を吐露した歌のようだが、壮行会の宴での答礼の挨拶歌であったのだろうか。それとも、家持は病気などでへたるとやたら歌を沢山詠む傾向にあるから、これもそのような状況下で、自身を勇気づけるために詠んだのであるか(笑)。追和したという憶良の歌も、憶良が重病になった折に詠まれているから、或は、という次第。注1. 大伴家持の歌ちちの実の 父の命(みこと) ははそ葉の 母の命 おほろかに 心尽くして 思ふらむ その子なれやも ますらをや 空しくあるべき 梓弓(あづさゆみ) 末(すゑ)振(ふ)り起こし 投矢(なげや)持ち 千尋(ちひろ)射渡し 剣大刀 腰に取り佩(は)き あしひきの 八(や)つ峰(を)踏み越え さしまくる 心障(さや)らず 後(のち)の世の 語り継ぐべく 名を立つべしも (巻9-4164)(<ちちの実の>父君が、<ははそ葉の>母君が、おざなりな心遣いで思う、そんな子どもであるものか。ますらおたる者は何の手柄もなしでいいものか。梓弓の弓末を振り起こして、投げ矢を手に持って、千尋の遠くまで射通し、剣大刀を腰にさして、<あしひきの>多くの峰を踏み越え、任務完遂の志を貫いて、後世の人々が語り継ぐように、高い名を立てるべきなのだ。)反歌ますらをは名をし立つべし後の世に聞き継ぐ人も語り継ぐがね (巻9-4165)(ますらおたる者は名をこそ立てるべきである。後の世に伝え聞いた人も、それを語り継ぐように。)注2. 山上憶良の歌 士(をのこ)やも空しかるべき萬世(よろづよ)に語り継ぐべき名は立てずして (巻6-978)(男たる者、無為に終わっていいものか。後世に語り継がれるような高名を立てずして。) ウイルスに感染して、全ての梅の木が根こそぎに伐採されてしまった枚岡梅林。その枚岡梅林に咲いていた菜の花。梅の木が1本もない梅林とはこれ如何に、であるが、何年か後には再び梅が植樹されて、かつての梅林の再生を目指しているのであるから、枚岡菜畑などとは改名はしないのである。(枚岡梅林の菜の花) 花園中央公園にも、少しだけであるが、菜の花が植えられている。(花園中央公園の菜の花)(同上)(同上) 花園中央公園の黄色い花と言えば、サンシュユの花もそうである。(花園中央公園のサンシュユ)(同上)(同上) 近隣花散歩でしたが、この後に恩智川の河川敷の西洋芥子菜の群生写真や路傍のタンポポなど黄色の花の写真を掲載し続けると、ご覧になっているお方の眼底が真っ黄色に染まり、網膜や黄斑に変調を来たしてもいけませんので、この辺で打ち切りといたします。
2019.03.22
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本日、当ブログの累計アクセス数が200万に到達しました。 2007年4月29日、偶然にも中原中也生誕100年というこの日にブログを開設して以来、今日で、約12年(正確には11年10カ月と21日:4345日)になりますが、めでたく200万アクセスを数えることができました。 当ブログをご訪問下さった皆様に心から感謝申し上げます。<参考>累計アクセス数の推移 2011年 1月11日 10万アクセス 2012年12月31日 20万アクセス 2014年11月 7日 30万アクセス 2015年 6月 2日 40万アクセス 2015年10月11日 50万アクセス 2016年 2月 3日 60万アクセス 2016年 5月27日 70万アクセス 2016年 7月22日 80万アクセス 2016年 9月21日 90万アクセス 2016年11月16日 100万アクセス 2018年 2月 9日 150万アクセス 2019年 3月21日 200万アクセス(富士山) こういう時の写真に似合いのものはと、PC内の手持ちの撮影写真を探してみましたが、富士山の写真くらいしか見つかりませんでした。「一ふじ、二たか、三なすび」は初夢の目出度いものの順のようですから、まあ、あながち的外れでもないでしょう。これを少し加工して掲載することとしました。 勿論、この写真は外せませんが・・。(200万アクセス到達画面)
2019.03.21
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岬麻呂旅便り235です。 岬麻呂氏がメールで送信下さる旅の写真は、元画像を640×480のサイズに縮小して送られて来ます。 これをPCのマイピクチャの「岬麻呂旅便り用ファイル」に取り込むと共に、フォト蔵に登録(ブログ掲載前はアルバム「一時ファイル」に収納し、ブログ掲載後はアルバム「岬麻呂写真集」に収納する。)します。 その後、PCに取り込んだ写真の方は500×375のサイズに更に縮小し、このサイズの写真をブログに掲載し、同写真をフォト蔵登録の640×480サイズの写真とリンクさせます。 何故、このような面倒なことをするかと言えば、これは小生個人の好みかも知れませんが、ブログ記事の文字と写真の大きさのバランスが500×375サイズ位が丁度良いと感じるからであります。余り大きいサイズになるとブログページを開いた時に、写真だけで画面一杯になってしまって、却って見苦しいと感じるのであります。 一方、写真だけを大きいサイズで見たいという人もあることでしょうから、そういうニーズには、フォト蔵に収納の大きいサイズの写真とリンクを貼ることによって、これに応えることができる、という訳であります。(注)フォト蔵写真をそのままブログに貼るという方式を従来はとっておりました。ブロ友のビッグジョン氏やふぁみり~キャンパー氏はこの方法を採用されているようです。 この方式の難点は、写真が多くの場合、何枚かが表示されないで空白になってしまうという現象が生じることです。F5キーを押すなどしてページを開き直すと空白だった部分に正しく写真が表示されるのですが、1回ならず、何回も開き直さなければならないことがしばしばあること、フォト蔵がメンテナンス中とか何らかのトラブルに陥ると、全ての写真が表示されなくなってしまうということ、などの難点もあります。 一昨年だったか、フォト蔵はかなりの長期間そのようなトラブルに陥ったことがありりましたので、それ以来、直接に貼り付けるという方式を止めて、ブログに画像を直接登録して記事に掲載の上、フォト蔵とリンクを貼るという方式に切り替えました。 小生自身が撮影した写真は、フォト蔵では最大2048×1535サイズ(元画像※これより大きいサイズの写真は、自動的にこのサイズに縮小されて収納される。)、1024×768サイズ(特大)、624×468サイズ(中)の3サイズで収納されます。ブログ写真は、原則として中間の大きさである「特大」サイズのものとリンクさせています。 しかし、岬麻呂氏からの写真はダウンサイズで送られて来るので、フォト蔵では640×480(元画像)サイズで収納されます。従って、ブログ掲載サイズ500×375とフォト蔵収納写真のサイズ640×480とは、リンクさせても、見た目は余り有意な差が認められません。 ということで、今回は試しに、ブログ掲載も元画像の640×480サイズのまま掲載することしました。一応、フォト蔵アルバム写真とのリンクは、従来のままとしましたので、全く同サイズではありますが、写真をクリックすることで、フォト蔵写真でこれを見ることもできるようにはしています。 なお、ブログに掲載した段階で、PCの方に収納の「岬麻呂旅便り用ファイル」の写真は全て削除し、当該ファイルを空にします。これは、ブログに掲載する他の小生撮影写真なども同様です。PCを重くしないための措置でもあります。 前置きが長くなり過ぎましたが、ブログ掲載の舞台裏作業を紹介申し上げた次第。<参考>過去の岬麻呂旅便りの記事はコチラ。 岬麻呂旅便り関連のフォト蔵写真集はコチラ。 さて、本論に入ります。 今回は、四国の旅。 3月11日~14日、3泊4日の一人旅。 今年に入って、早くも5回目の旅。お元気と言うのほかありません。(旅・岬巡り報告235&写真説明 ※クリックして大きいサイズでお読み下さい。) 詳細は、上の報告と写真説明でお読み戴ければ事足りるのでありますが、それではブログ記事としては、いかにも手抜きにて、ブログ管理者の面目がイマイチ立ちませぬゆえ、以下、同氏から送られてまいりましたお写真をご紹介申し上げつつ、些かの蛇足なども付け加えさせて戴くことと致しましょう(笑)。3月11日:関西空港⇒松山空港⇒松山城⇒道後公園(湯築城跡)⇒道後温泉3月12日:松山自動車道・宇和島自動車道⇒愛南町外泊石垣の里⇒国道56号・321号⇒竜串・足摺海底館⇒足摺岬灯台⇒金剛福寺(38番札所)⇒県道27号⇒四万十市中村(石垣の里)そぞろ行く 旅なる人や 石垣の 里にうらうら 春日は照れる (偐家持)石積める 人はな絶えそ 石垣の 里の眺めの さきくあれかし (偐家持)(足摺岬)3月13日:国道441号⇒高瀬沈下橋など四万十川⇒宇和島市・遊子水荷浦の段畑⇒国安の里⇒天赦園⇒宇和島城(勝間沈下橋・四万十川)(高瀬沈下橋) 四万十川の沈下橋は懐かしい。もう10年も前のことになるが、銀輪散歩で、そのいくつかを渡ったことがある。(注)四万十川の沈下橋の写真は当ブログでも過去に掲載しています。佐田沈下橋:四万十川・高知銀輪万葉(その1) 2009.5.17.高瀬沈下橋、三里沈下橋:四万十川・高知銀輪万葉(その2) 2009.5.17. 次は、遊子水荷浦の段畑。 「ゆすみずがうらのだんばた」と読むらしいが、今回の旅の主要目的地の一つであっただけあって、確かに感動的な景観である。(遊子水荷浦の段畑)(同上) 植えられているのはジャガイモだそうな。 収穫した芋などを運ぶためのものであろう、1本のレールが敷かれているが、こんな場所での農作業。ヤカモチにはとてもできそうにない。(宇和島城)3月14日:八幡浜⇒佐田岬灯台⇒佐田港⇒国道378号⇒大洲市・長濱大橋⇒松山空港⇒関西空港(佐田岬と豊予海峡)(佐田岬灯台)(長濱大橋<可動橋>) 以上です。<追記>岬麻呂氏より追加で写真が送られてまいりましたので追補させていただきます。ビッグジョン氏からのコメント「佐田岬・・ひと泳ぎしました。」に対してのものだろうと思いますが、佐田岬の海の写真です。(佐田岬の海・伊予海側)(佐田岬の海・宇和海側)ビッグジョンさんが泳がれたのは伊予海側の方、それとも宇和海側の方でしょうか。
2019.03.19
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偐万葉・ビッグジョン篇(その38) 偐万葉シリーズ第303弾、ビッグジョン篇(その38)をお届けします。 ブロ友・ビッグジョン氏(当偐万葉シリーズでは交野歩麻呂<かたののほまろ>とお呼びしている。)とは、間もなく丸8年と10ヶ月になるという、長いお付き合いであります。<参考>過去の偐万葉・ビッグジョン篇はコチラ。 ビッグジョン7777氏のブログはコチラ。 偐家持が歩麻呂に贈りて詠める歌20首 並びに歩麻呂が詠める歌1首花よりも 葉よりも実なり こむらさき 枝垂れて秋の わが庭飾れ (偐紫田舎源氏)おほなみは 北斎極めり ささなみの 舟遊びなどせむ 家持われは (波家持)良心の うらにのっぴき ならぬわけの 清麻呂も居る 岡山なれば (和気不知麻呂)岡山に 旭川流る 旭川に 難波田(なんばだ)川の 流るるごとに (夕日家持)(注)偐万葉掲載に当たり、第5句初案「流るごとくに」を「流るるごとに」に修正。下仁田の 葱こそよしと わが背子は 十年(ととせ)交野(かたの)に それや作れる (葱原俊成)御崎馬も 都井の岬も いつ見きか 師走日向の 旅行く背子の山茱萸(さんしゅゆの 実は鈴生りに いとこみな 継ぎて歩かむ 長寿の道を (氷室歩人)(20190104いとこ会)(20190104山茱萸の実)幾山河 越えさり行けど 締切の なき国なかり 今日もあくせく (若山渇水)(本歌)幾山河 越えさり行かば 寂しさの はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく (若山牧水)卯の花の 匂ふ垣根に 忍び鳴き 五月雨降れば はばからず鳴く (偐不如帰)(本歌)郭公(ほととぎす) 忍ぶ卯月も 過ぎにしを なほ声惜しむ さみだれの空 (西行 山家集197)向島(むかひしま)の 海に生きたる 男逝く 日焼けたる笑み のこしてわれに (偐歩麻呂)悲しみの 海とやなりぬ しまなみの 泣けとごとくに とどろ寄す波 (偐歩麻呂)吹く風も 寄せ来る波も さやさやと 君待つらむぞ 波照間(はてるま)の海あらたしき 年の初めに ブロ友が どちの替え歌 詠むはうれしも (船酔王(ふなよひのおほきみ))(本歌)あらたしき 年の初めに 思ふどち い群れて居れば うれしくもあるか (道祖王(ふなどのおほきみ) 万葉集巻19-4284) 歩麻呂が詠める替え歌1首あたらしき 年の初めに いとこみな 集いていれば うれしくもあるか (歩麻呂)(20190201枚方駅前アワーズキッチン)コンドイの 浜にはならぬ ホテルなど 建ててはならぬ 許してはならぬ (竹富家持)(20190211コンドイリゾートホテル建設反対運動)それ栗と 鼠と栗鼠と 栗鼠猿を 並べてみたし やいまの村に (鼠小僧)(20190214リスザル)団栗を 持てど鼠は 栗鼠ならず 栗鼠に似たれど 栗鼠猿は猿 (栗鼠小僧)それ栗鼠は 鼠に非ず 栗鼠猿も 栗鼠には非ず 猿にあるべし (猿小僧)リストラも 近頃見ザル 聞かザルか されば言はザル リスザル我は (偐三猿)(20190214リスザル・三猿)ブログにて 鹿寄せしかと 見し背子に 行くまでもなしと 言はす薮蛇 (薮鹿家持)近々に 裏の敷地に 家が建つ 撮ればブログの ネタもザクザク (正直家持) (20190306裏の敷地に家が建つ)(注)掲載の写真はビッグジョン氏のブログからの転載です。
2019.03.16
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本日は囲碁例会の日。 この囲碁の会がいつ始まったのかと調べてみると2008年4月からのようである。ブログ記事で囲碁の会の記事の一番古いものは2008年5月7日の記事がそれであるが、その記事によると4月から活動を開始したと書かれている。 従って、間もなく結成後丸11年になる訳で、長く続いているものである。 勝敗の記録は当初は取っていなかったようで、2009年以降の記録しか残っていない。それによると、小生の昨年末までの通算成績は253勝240敗で、まあ、勝ったり負けたりと丁度良い感じと言えるようです。 本日は、竹〇氏、福麻呂氏、村〇氏、平〇氏と小生の5名が出席。小生は、福麻呂氏に負け、平〇氏に勝ち、村〇氏に負けで1勝2敗。今年に入ってからの成績は8勝6敗。従って、本日現在の通算成績は261勝246敗ということになる。 この囲碁例会は毎月第一、第二水曜日の月2回開催。雨でなければ自宅から会場の梅田スカイビルまで自転車で銀輪散歩を兼ねて出掛けるというのが、この11年間の小生の習慣、行動パターンになっている。 今日も、下の写真のように好い天気。よって、愛車のMTBによる銀輪散歩でありました。(地下鉄中央線吉田駅付近 後方の高架道路は阪神高速東大阪線) 中央大通りに向かうべしで、花園ラグビー場付近から北へと走っていると、こんな旗の列が風に翻っていました。もう随分以前から目にしてはいるのだが、写真に撮るのは今回が初めて。おそらく今年秋のラグビー・ワールドカップの試合が花園ラグビー場でも行われることに関係しての旗の列であるのでしょう。 写真後方の高架道路が阪神高速東大阪線。その下を地下鉄中央線が高架で走り、更にその下が一般道の中央大通り。これを左折して西へというのが小生・ヤカモチの通常の走行ルート。尤も、中央大通りへは、その日の気分と、途中の交差点での信号の具合で、もっと西寄りのいくつかの交差点から入る場合が多いのであるが、今日はここから中央大通りへと入りました。 大阪城公園の森ノ宮入口前はベニスモモ(紅李)の花が五分咲き程度。 遠目には早咲きの桜かと思ったが、ベニスモモという名札が幹に架かっていました。紅葉李(ベニバスモモ)又は赤葉桜(アカバザクラ)とも呼ばれるそうな。スモモの花は白のイメージだったのでスモモの花とは意外でした。昨年だったか、ベトナムはハノイからの観光客だという若い女性と言葉を交わしたのはこの花の下のことでありましたが、その時は何の花か分からず、アーモンドの花はこんな感じではないかと言ったが、アーモンドが彼女には通じなかったのでありました。(ベニスモモの花 撮影は往路ではなく復路でしました。)(同上)(同上) 「スモモもモモもモモのうち」というのは、早口言葉でしょうか。これにハナモモやベニスモモを加えて「ハナモモもベニスモモもスモモもモモもモモのうち」にすれば、難易度が増すだろうか。 前回の囲碁例会は梅園に立ち寄ったので、今回は桃園に立ち寄ることにしました。と言ってもわざわざ遠回りして寄るのではなく、毎度の通り道の脇にそれはある。前回(3月6日)は未だどの木も花を咲かせていなかったが、今日は何本かの早咲きの品種であるか、花を咲かせてそこそこ桃園らしくなっていました。(桃園 以下の桃の花は往路撮影ですが、これは復路撮影です。) 先ずは、白い桃の花。関白と言う品種らしい。(白い桃の花・・関白)(同上) 白い花では李のようで桃らしくない。桃の花は「桃色」でなくてはならないのである(笑)。(桃の花)(同上) やはり、桃はこの色に限る。 桃園の少し手前で目にしたのは、真っ赤な木瓜の花。往路で目にして、それと気付いていましたが、撮影は復路でのことでありました。(木瓜の花) 往路では、幼稚園児たちの集団がこの花の傍でシートを敷いて、お弁当を開く準備をしていたので、撮影は遠慮申し上げた次第。(同上) 梅田スカイビルに到着し、昼食&珈琲の後、里山をすこし散策。 ニワトコが花を付けていました。(ニワトコ) ニワトコの花は地味な花なので接近しないとそれとは気が付かない。(ニワトコの花)(同上)※大きいサイズの写真で見ると、カメムシかアブラムシか何かが沢山いる。 本日撮影の花の写真はここまでであるが、前回の囲碁例会の折に里山で撮影した花の写真で、ブログ未掲載のものがありますので、それらも「花散歩」ということで、ついでに掲載して置きます。 先ず、シキミの花です。(シキミの花)(同上)(同上) シキミは実の形も独特で面白いが、花は上品な美しさである。(同上) 次は草花で、タネツケバナ。 小万知さんがお好きだとか仰っていた記憶があるのですが、さて、これがタネツケバナでしょうか。間違っていたら、小万知さんからご指摘があるでしょうから、その場合は訂正させていただきます(笑)。(タネツケバナ)(同上) 以上、花散歩でありました。
2019.03.13
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第209回智麻呂絵画展 本日は、智麻呂絵画展であります。 どうぞ、ごゆるりとご覧下さいませ。<参考>過去の智麻呂絵画展は下記から。 第1回展~第100回展 第101回展~第200回展 第201回展~ フォト蔵の智麻呂絵画集アルバムはコチラ。 まずは苺の絵から。 この苺は先月3日の若草読書会にヤカモチ館長が差し入れたものでありますが、行儀よく並んで、何やら楽しい絵になっています。(苺) 次の林檎とデコポンも苺と一緒にお持ちしたもので、絵の題材にもなるかというヤカモチ館長の予想通りに、絵になりました。 デコポンがリンゴに負けじと背伸びしているようにも見えて愉快です。(林檎とデコポン) 次のヒヤシンスとカラーは小万知さんが、同じく読書会の折にお持ち下さったものです。(ヒヤシンス from 小万知さん) 正しくは、ヒヤシンスではなくヒアシンスと表記するようだが、元の名前はHyacinthus 。ギリシャ神話に登場するスパルタの王子・ヒュアキントスに由来する名前。漢字では風信子または飛信子と書く。 花言葉は「悲しみを超えた愛」。 ヒュアキントスがアポロンの投げた円盤に当って死に、その時に流した血から生まれたとされるこの花にまつわる神話から生まれた花言葉であるのでしょう。(カラー from 小万知さん) カラーはサトイモ科の花。 漢字では海芋(かいう)と書く。 海を渡って来た里芋、という意味だそうな。 襟(Collar)に似ているのでカラーかと思ったら、ヒメカイウ属の学名Callaに由来するという説もあるそうな。 花言葉は「乙女のしとやかさ」「夢のような美しさ」。 さて、絵画展も「花よりお菓子」であります。 ということでクッキー。これは、ご友人の五〇さんからの戴き物です。 それぞれのクッキーのフォルムを楽しむかのように各種並べて、しめしめと写生されている智麻呂氏の満足げなお顔が浮かんでも来ます(笑)。(クッキー from 五〇さん) そして、この時期恒例のバレンタインチョコです。 絵画展開催が遅くなった結果、ホワイトデー直前になってしまって、いささか時期遅れの感も否めませんが、今年もナナちゃんやサキちゃん、ミズキちゃん姉妹からの嬉しいチョコやクッキーが届いて、智麻呂氏の絵筆(色鉛筆)もご機嫌なのでありました。(バレンタインチョコ from サキ&ミズキちゃん)(バレンタインチョコ from ナナちゃん) 次のシーサー、何処かで目にしたような・・そうでした、もうかなり以前から智麻呂邸の玄関先に鎮座ましますシーサーであります。ヤカモチ館長推測するに、毎年沖縄に旅行されているお嬢様ご一家が、そのご旅行の折のお土産としてお持ちになり、以来長らく智麻呂邸に住みついているのが、このシーサーなんだろうと。 智麻呂氏がこのような身近な置物などを描かれる時は、多くの場合、絵のネタ不足に陥って居られるというのが相場。 シャツだとか椅子だとかケトルだとか色々な身の回りの品物がそのようにしてこれまで絵になっていますが、それらの品物たち曰く、「シーサー、お前もか。」すると、シーサー曰く、「なんくるないさ~。」(シーサー ずっと前から居着いてます) 今回も8点と作品数は少な目でありましたが、春本番はこれから、花の絵も追々に増えて、それに伴い絵画展の作品点数も増えて来ることでしょう。智麻呂画伯の「無理のない程度の、程よい頑張り」に期待しつつ、今後の絵画展も楽しみに待つことと致しましょう(笑)。 本日も、ご来場、ご覧下さり、ありがとうございました。
2019.03.11
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(承前) 昨日の記事の続篇です。 船町渡船場の入口は道路から奥まった場所にあり、アプローチの通路は両サイドに車がズラリと駐車していることが多く、うっかりしていると見落として通り過ぎてしまう。 船町渡船場に到着。(船町渡船場・入口)(同上・説明碑)(同上・渡船と木津川運河) 船町渡船場は、川幅75mの木津川運河にある渡船場。「航路」が最も短い渡船場である。木津川運河は、木津川と尻無川とを連絡するため昭和4年(1929年)に開設されたという。運河の北側の地区が鶴町、南側の地区が船町。鶴町の道路が細かくあるのに対して、船町の道路は広い道が通っているだけで路地などはない。道の両側は広大な工場である。 この船町地区には、伊丹空港の前身である木津川空港などがあったとのこと。空港跡地が大規模工場の敷地に転用されたため、細かい道路を造る必要がなかったのでしょう。(船町渡船場から木津川渡船場への道) 船町渡船場から木津川渡船場までの道の両サイドは、ずっと大規模工場である。上の写真の道路左側はラサ工業の工場、手前の道路右側は中山製鋼のそれが続く。 なお、余談ですが、鶴町の名が田辺福麻呂の万葉歌1064番に因んだものであるのと同様、この「船町」という町名は、その一つ手前の万葉歌1063番に因んだものとのこと。あり通ふ 難波の宮は 海近み 海人をとめらが 乗れる船見ゆ (田辺福麻呂 万葉集巻6-1063)(天皇が通い続ける難波の宮は海に近いので、海人おとめたちが乗っている船が見える。)船町は 難波の宮に 遠みかも 工場のみにて をとめは見えず (偐家持)(木津川渡船場・アプローチ道路) 木津川渡船場への入口前到着。 渡船乗り場はこの奥、300m余先であるから、乗り場到着までは、まだ3、4分はかかる。(同上) ここの渡船にはベンチと言うか、座れる場所が船首側にある。 乗船者は我々5人だけ。 初めて「貸切状態」となりました。 他の4人は早速に並んで「着席」。大人4人が座れる程度の「椅子」の長さである。(同上・説明碑) 男4人が並んでお行儀よく坐っている様が何となくユーモラスな感じ。船尾側から立って見ていたヤカモチさんはパチリ1枚撮りましたが、これはブログには掲載できません。 カメラの向きを船外へずらして撮った写真。新木津川大橋の写真でも掲載して置くこととしましょう。(新木津川大橋) 木津川渡船場で対岸に渡ると住之江区である。 木津川はここでは、大正区と住之江区の行政区画を分かつ境界の役割を果たしている。 渡船場で下船して南へ500m位行くと東西に走る道路・南港通りに出くわす筈、これを左折して東へ、というのが事前の地図を見つつの図上作戦でありましたが、行けどもそのような道路はない。やがて正平橋まで来てしまい、間違いに気づき引き返す。何のことはない、南港通りは高架になっていて、階段を使って、これに上がらねばならないのであった。平面交差しているという思い込みによる、間違いでした。図上作戦の盲点は「頭上」にあったという次第。 南港通りの柴谷2丁目交差点で左折、木津川に並行して走る道路を北上する。やがて見覚えのある景色が現れる。道路際の擁壁だか塀だかに楽しい絵が描かれている場所である。今回、この絵の写真は撮っていないので、ご覧になりたいお方は、下記<参考>の記事をご覧下さい。<参考>銀輪渡船場巡り 2016.8.25. 前回の2016年の銀輪渡船巡りでは、木津川渡船場の後、正平橋を渡り南下、大和川畔まで行き、大和川沿いの道から住吉大社など経由するという大回りをして、北加賀屋公園からこの絵のある場所にやって来たので、今回の歩きコースのこの部分は通っていない。2006年12月の偐山頭火氏との銀輪行でも似たような大回りをしたので同様である。従って、今回の歩きコースのうちこの部分のみが未踏。その未踏部分に「頭上」問題が潜んでいたとは、「盲点」を突かれたと言うほかない(笑)。(千本松渡船場) ともかくも千本松渡船場に到着。(同上)(川口千本松の説明碑) この千本松という名は、江戸幕府が天保3年(1832年)に港湾整備のためここに石堤を築造し、堤上に多くの松を植えたことに由来するという。 千本松は、天橋立、美保の松原と並び称されるほどの美観であったというが、今はそれを偲ばせるものは、この「千本松」という名のほかに、何とても無かりき、である。 千本松渡船場を出て、木津川沿い右岸の道を北上し、突き当りを右に入ると、落合下渡船場である。 落合下渡船場に到着。 この辺りでは、木津川は大正区と西成区との境界になっている。(落合下渡船場) 乗船待ちをしているママチャリのオジサンに話しかけて少し雑談。 桜島から徒歩で渡船場巡りをしている処で、次の落合上渡船場でこちら岸に渡り返し、大正駅まで歩いて解散だ、と申し上げると、感心して居られたが、この方も自転車でいくつかの渡船場を渡って来られたと見えて、ガラ携を取り出して、船町渡船場や甚兵衛渡船場などの撮った写真を見せて下さいました。 この後、落合上渡船場を渡るのかとお尋ねすると、「対岸に渡ったら、そのまま新今宮まで帰る」のだと仰っていました。(同上・説明碑) 最後の渡船場、落合上渡船場到着は午後5時少し前。 計画段階での想定よりも2時間程度遅い到着である。(落合上渡船場) 対岸に見える公団マンションの向こう側の道路が大正通り。 この大正通りを右(北)に行けば、解散場所のJR大正駅である。(木津川水門) 船上から木津川水門にカメラでご挨拶申し上げ、今回の渡船場めぐりウオークへの「お別れ」とする。また誰といつの日か来む押し照るや 浪速水都の渡船場めぐり (偐家持) 千島公園と公団マンションの間の通路を通って大正通りへ。大正通りを北上。途中で目にとまったレストランで珈琲休憩、本日のウオークの総括。次回のウオークは10月下旬か11月上旬の金曜日に実施することとし、山の辺の道を「距離短めにして歩く」ということに決定。 帰宅したら、スマホの万歩計では3万3千歩余になっていたから、5人組ウオークとしては過去最多の歩数となったのではないか。「距離短めに」という意見が出るのもむべなるかなであります(笑)。 以上で、「5人組ウオーク・大阪渡船場めぐり」完結であります。 5人組の3万3千余歩に最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。=完=<参考>5人組ウオーク関連の過去記事はコチラ。
2019.03.10
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昨日(3月8日)は、友人の鯨麻呂氏、草麻呂氏、蝶麻呂氏、健麻呂氏との5人組ウオークで、大阪市内の渡船場めぐりをして来ました。 5人組ウオークは、当初は不定期であったが、最近は春と秋、年2回実施することになっている。 大阪市内には渡船場が8ヶ所ある。大阪市交通局の管理・運営にて乗船料は不要。無料である。小生は、2006年12月23日には偐山頭火氏と二人で、2016年8月23日には単独で、これをめぐっているので3回目の渡船めぐりとなる。尤も、前二回は自転車で廻っているので、徒歩では初めてになる。<参考>銀輪渡船場巡り 2016.8.25. 当初は、蝶麻呂氏からこのコースの提案があり、彼と二人で銀輪渡船めぐりをする計画であったのだが、具体的な実施打ち合わせの段階になって、蝶麻呂氏から「ウオークに切り換えないか」との修正提案があり、それなら「鯨麻呂氏など他の5人組ウオークのメンバーに声掛けをして、5人組ウオークの春例会にしたらどうか」というヤカモチからの逆提案によって、今回のウオークとなった次第。 午前10時半JR桜島駅集合・出発、渡船場全8ヶ所をめぐって、JR環状線・大正駅解散の計画。 小生は、環状線・森ノ宮駅で健麻呂氏と合流、桜島駅に10時27分到着。改札前には鯨麻呂・草麻呂・蝶麻呂の3氏が既に来て居られて、全員集合。予定通りの出発となりました。(JR桜島駅)(同上・左隣はユニバーサル・スタジオ・ジャパン) USJの西側を通り、天保山渡船場へ。 その前に、コース全体略図を掲載して置きましょう。(コース全体図)※(1)天保山渡船場 (2)甚兵衛渡船場 (3)千歳渡船場 (4)船町渡船場 (5)木津川渡船場 (6)千本松渡船場 (7)落合下渡船場 (8)落合上渡船場(天保山渡船場入口付近の案内標識) 天保山渡船場に到着。 「渡船めぐり」開始であります。(天保山渡船場 背後は5号湾岸線の天保山大橋) 渡船場待合室に掲示されている運航時刻表によると、次の運航は11時。 しかし、11時直前になっても船は対岸にとまったまま。 よく見ると、対岸を出発する時刻であると注記されている。 その記載の通り、11時になると対岸の船が動き出した。(同上 こちらに向かって来る渡船・海桜号) 乗船、出発。 乗客は、我々5人組の他に自転車の人が3人ばかり。 目の前を、遊覧船のサンタマリア号が通過。 上掲の案内標識に記載のあった、ユニバーサルスタジオ前の「船のりば」に向かっているのであろう。(サンタマリア号)(同上) サンタマリア号が行き過ぎると、大阪府警・水上警察のパトロール船(巡視艇と呼ぶのか警備艇と呼ぶのか、正式名は存じ上げぬ)が間に分け入って来た。(大阪府警の船 「なにわ・東京」という船尾の表示は何であるか) 対岸の天保山に到着。3分程度の船旅でありました。 天保山公園を通り抜け、観覧車の下を南へ。地下鉄大阪港駅方向へとブラブラ歩き。 時刻は既に11時半を過ぎていたので、少し早いが目にとまった北京園という中華食堂で昼食とする。(大観覧車) 昼食後、ウオーク再開。 最初に出会ったのはクラシックカーが前庭に並び置かれている赤レンガの建物。(GLION MUSEUM)(同上) 入館はしなかったが、前庭の車などを見て行く。<参考>GLION MUSEUM・施設紹介 同上・展示車両(同上) ミュージアムはそこそこに、南東へと進む。 難波津橋、日和橋を渡り、新福崎橋へ。(新福崎橋 下は天保山運河) 新福崎橋を渡って、北東へ直進。突き当りの住吉神社の前で右折すると、突き当りに甚兵衛渡船場がある。(住吉神社) 甚兵衛渡船場に到着。(甚兵衛渡船場)(同上 川は尻無川) 甚兵衛渡船場で尻無川を渡ると、川沿いに南西に河口へと進む。 次は、千歳渡船場である。(千歳渡船場) しかし、次の運航時間までかなりの間がある。 こういう待ち時間は、計算に入れてなかったので、想定した時刻よりも、かなり遅れ気味となっている。 待合室に居ると船が通過してゆく。 大正内港へと入港するのであろう。(渡船場の前を通過して行く船) やがて渡船が対岸の人を乗せて到着。(同上) 乗船。 右舷側を、タグボートに曳航された運搬船がゆっくりと進んで行く。 白村江の戦いで、百済・倭連合軍を壊滅させた唐・新羅連合軍の軍船のような姿ではないか、などと勝手な想像をめぐらす。(タグボートに曳航されて行く運搬船) 左舷遠くを、カラフルな船が行く。(行き交う船) 下船すると、折り返してコチラ岸の人が乗り込む。 (千歳渡船場と千歳橋)(千歳渡船場説明碑) この地の町名は「鶴町」であるが、これは下記の万葉歌から名付けられたという。潮干(ふ)れば 葦辺に騒ぐ 白鶴(あしたづ)の 妻呼ぶ声は 宮もとどろに (田辺福麻呂 万葉集巻6-1064)(潮が引くと、葦辺に群れ騒ぐ鶴の妻を呼ぶ声は、宮も鳴り響くほどだ。)(注)「白鶴」は百鶴の誤りとする賀茂真淵の説に従い、「百鶴(ももたづ)」とする本もある。 この歌は1062番長歌の反歌2首のうちの1首。 1062番の歌には「・・難波の宮は いさなとり 海片付きて・・(難波の宮は海に面していて・・)」と、海の枕詞として「いさな(鯨)とり」という言葉が使われている。 今回は鯨麻呂氏もご同行であるが、上記にこじつけて言えば、この歌は同氏とも少しばかり縁のある歌と言える(笑)。 下船して、少し行った処に、千歳橋の碑があった。(千歳橋の碑)<参考>千歳橋(大阪市)・Wikipedia 鶴町小学校の東通用門の前を過ぎ、突き当りを左折、この辺りかと思われる辻を右に入ると船町渡船場である。 まだ、渡船場を三つクリアしただけであるが、本日はここまでとし、つづきは明日にさせていただきます。(つづく)
2019.03.09
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昨日(3月6日)は囲碁例会の日。 午後3時頃から雨がぱらつき出し、午後6時頃から弱い雨になるという天気予報。ザックに上衣・下衣の雨具を入れて、自転車(MTB)で出掛けることとしました。 往路は、予報通り雨は降らず。途中、大阪城の梅林に立ち寄るなど、銀輪散歩を楽しみながらというヤカモチ・スタイル。 梅田スカイビル到着は11時48分。 ガーデンファイブ棟1階の喫茶店(Bar&Cafeという表示が入口ドアの上にありましたが、これが店の名なのか、営業内容を示す表示に過ぎないのか、よくは分からぬが)で昼食。最近は此処で昼食をとることが多くなっている。 昼食後、里山を散策して、花の写真などを撮ったりしてから、5階の会場部屋へ。それでも小生が一番乗り。 暫くして、福麻呂氏が来られ、早速お手合わせ。これは小生の勝ち。終局近くに、竹〇氏が来られ、続いて平〇氏が来られた。 メンバーチェンジし、小生の2局目のお相手は竹〇氏となり、福麻呂氏は平〇氏と対局。 竹〇氏との対戦では、白模様を消すべく左辺に打ち込んだ黒石がかなりいじめられたが、無事脱出して生き、やや優勢の状況。終盤に入って、左辺の白石の裾をはねたところ、これを手抜きされて、上辺の黒2子を切り取る形で、白陣地を増やすという手を打って来られた。 手抜きだと左辺白石が死ぬ筈だが、とはねた黒石で白の陣地内に侵入、目を欠くことに成功、これで勝負あったで、小生の中押し勝ち。どうやら竹〇氏は、左辺の白石は中央の白石と繋がっているものと勘違いされていたようでした。小生も時々やるうっかりミスをされたようで、言わばこれは敵失による勝利であります。 3局目は平〇氏。終盤で勘違いして白石5子を失い、左辺の白地が大きく減少するという波乱があったものの、それまでの貯金が大きかったようで、10数目の大差で、小生の勝ち。久々に3戦全勝でした。 さて、話を往路に立ち寄った大阪城公園の梅林に戻します。 大阪城の梅林は、丁度見頃で、多くの人が観梅に来て居られました。外国人の姿も多い。(大阪城の梅園)(同上・天守閣と梅A) 梅の花も、お城にはよく似合う。(同上・天守閣と梅B)(同上) パノラマ撮影したみました。(同上) 接近して撮影したみました。(同上)(同上) 梅園を出ると、お堀を行く船が目にとまりました。乗船しているのは外国人観光客のようです。(お堀の遊覧船)※手前ではオオバンが泳いでいた。 梅園に立ち寄る前に立ち寄ったのが蓮如上人碑。 この碑は梅園の南側、高い位置にある。 梅園入口は、この蓮如の碑の前から急坂を走り下ったところにある。 蓮如の碑は、以前のブログ記事でも紹介している筈と過去記事を調べてみると、2010年2月3日の記事にそれがありました。<参考>いよいよ春です。 2010.2.3. 囲碁例会・大阪城梅林 2018.3.7.(蓮如上人碑とマイMTB) 先日(2月26日)枚方への銀輪散歩で、蓮如の息子の順興寺実従の墓に立ち寄ったので、父親の方にもご挨拶するのが、そばを通りかかった以上は、礼儀であろうと立ち寄った次第(笑)。 今回は、副碑の全文を参考までに書き出して置きましょう。(碑文)後土御門天皇ノ御代明應五年十月 本願寺第八世蓮如上人佛法弘通ノ爲ノ地ヲ石山ニトシテ一宇ノ坊舎ヲ建テラル 是レ所謂後ノ石山本願寺ナリ 當時上人自ラ述ベテ曰ク 抑當國攝州東成郡生玉ノ庄内大坂トイフ在所ハ往古ヨリイカナル約束ノアリケルニヤサンヌル明應第五ノ秋下旬ノコロヨリカリソメナカラコノ在所ヲミソメシヨリステニカクノコトク一宇ノ坊舎ヲ建立セシメ 云々ト爾来幾多ノ變遷ヲ経ト雖モ當時ノ寺跡ハ明カニ此地ニシテ上人ノ袈裟掛松ト稱スル老松ノ舊株猶存セリ 因テ此靈地ニ尊號ノ碑ヲ建テ有縁ノ道俗ト共ニ上人ノ芳躅ヲ追懐セント欲シ茲ニ其略縁ヲ誌スト云爾昭和四年五月大阪城 行幸ノ際 信者識。(同上・副碑)<参考>蓮如廟所の当ブログ記事・写真はコチラ 大阪城公園を出て日本経済新聞旧大阪本社ビルの南側路地に入ると、こんな石垣が目にとまりました。最近はこの路地を通ることが多いので、これまでに何度も目に入っている筈なのに気付きませんでした。 目に入っても見ていないものが多いのは、当面有用な視覚情報以外は自動削除するという脳の働きがあるからでしょう。この働きがあるから、人は多くの中から見たいものだけを見ることができるという訳である。(石垣) 日経新聞旧大阪本社ビルを建設する際に、地下から発見された石垣遺構を移築したものらしいが、江戸時代初期の頃の旧大和川の護岸用石垣だと推定されている。(同上・説明碑) 説明碑にある社屋北東隅に回ってみたら、確かに石垣がありました。(同上・手前の川は寝屋川、この先ですぐに大川<旧淀川>に合流する。) 午後3時過ぎに囲碁例会終了。解散。 果たして、天気予報通りに、雨がぱらつき出していました。雨具を取り出して着る程の降りではないので、そのまま走る。 少し濡れましたが、結局、合羽の出番はなし、午後4時40分帰宅。
2019.03.07
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友人・岬麻呂氏からの旅便りと写真が届きました。 前回の旅便りに続き、今回も北海道の旅。 2月27日~3月2日の3泊4日、釧路湿原の丹頂鶴と阿寒湖のフロストフラワー(氷の花)が目的の一人旅でありました。<参考>過去の岬麻呂旅便りの記事はコチラ。 岬麻呂旅便り関連のフォト蔵写真集はコチラ。 詳細は、例によって下掲の「旅・岬巡り報告234&写真説明」で、ご覧いただくこととし、同氏から送信されて参りました写真をご紹介申し上げます。(旅・岬巡り報告234&写真説明)2月27日:関西空港~釧路空港~鶴居村・鶴見台~弟子屈~摩周湖~川湯温泉(舞い降りる丹頂・鶴居伊藤タンチョウサンクチュアリ)(丹頂・つがいのダンス)(摩周湖)2月28日:屈斜路湖~風連湖~納沙布岬~R244~別海北方展望台~野付半島(オオワシとオジロワシの群れ)(オオワシとオジロワシのテイクオフ)(オジロワシ)(屈斜路湖のオオハクチョウ)(納沙布岬と海上保安庁巡視船)(野付半島のエゾシカの群れ) この日、昔のご友人との偶然の再会というハプニングと言うかサプライズと言うか、面白きこともあったそうであります。3月1日:野上峠~宇登呂・オシンコシンの滝~美幌経由・陸別町~カネラン峠~阿寒湖(知床・宇登呂の流氷)(旧国鉄陸別駅) この陸別町で入手されたという同町のマンホールカードを旅便りに同封して送って下さいましたので、その写真もご紹介して置きます。 当ブログで、各地のマンホールを紹介したりしているのをご覧になって、参考までにと送って下さったのでありました。(陸別町のマンホールカード)(阿寒湖・湖上フェスティバル「冬華美」)3月2日:地元NPO主催「白銀の阿寒湖早朝散策ツアー」に参加・フロストフラワー~双湖台~阿寒国際鶴センター~釧路空港~関西空港(阿寒湖のフロストフラワー)※<追記>上の写真はツアー主催のNPO撮影のもので、ツアーガイドさんがお持ちになって居られた写真を岬麻呂氏が撮影されたというもので、現地での当日の実写写真ではないとのことです。(同上) 全998kmのロングドライブ道東一人旅、無事完結。
2019.03.05
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Yahoo!ブログのサービスが終了する。 3月1日にYahoo!ブログマスターから、その旨の通知メールが届いた。 当ブログは楽天ブログなので、関係ないと言えば関係ないのであるが、そうも言って居られない事情が実はあるのである。 一つは、ブロ友でYahoo!ブログご利用の方がお二人、偐山頭火氏とオガクニマン氏が居られる。 もう一つは、当ブログの記事検索用目次として、Yahoo!ブログにヤフー版「偐万葉田舎家持歌集」というブログを開設していて、当該ヤフー版の記事ページを当ブログ記事内に<参考>として随所でリンクを貼っている関係で、Yahoo!ブログがサービスを停止してしまうと、それらのリンクが全て無効になってしまうことになる。 このサービス停止は今年の12月15日24時以降とのことで、それ以降はYahoo!ブログの記事は閲覧できなくなり、全ての記事データが抹消されることとなる。 これに伴い、現在、いくつかの推奨他社ブログにデータを移行できるよう、そのツールを準備中だという。 予定では、5月9日から移行ツールが提供されるとのことで、推奨されている他ブログとしては、アメーバブログ、ライブドアブログ、Seesaaブログの名があがって居り、7月上旬頃からの移行可能ブログとしては、はてなブログが示されている。 移行ツールによって、移行を希望するブロガーは、移行先のブログに自身のブログを新規開設した上で、サービス終了期限の12月15日24時より前に、自身のブログデータを移行する作業を完了させなければならない。 但し、記事の修正や新規投稿などは8月31日以降できなくなるようだから、実質的には同日までに移行しなければならないことになる。 各ブログ記事ごとの移行作業になるのか、複数または全体を一括してのより簡略な作業で移行できるのか、詳細は未だ分からない。 小生の場合は、Yahoo!ブログへの投稿記事件数は69に過ぎないから、移行そのものについての作業量はさほどに大したものにはならないのだろうと予想している。 Yahoo!ブログ記事のURLを貼り付けたリンクは移行ツールによっても、移行の対象外のようであるから、移行先の新しいブログによる当該記事のURLにリンクし直す必要があることになる。 ということは、過去記事2470余の記事に於いて、いくつあるのか知らぬが、これらに散在しているそれらリンクを貼り付けし直さなければ、当ブログ記事の当該リンク部分について、その表示が適正に機能しないということになる。 これをやるかどうかは、考え方次第であるが、やるとなると、相当に手間ヒマのかかる作業となるだろう。移行した後の作業量が膨大になると見込まれる。 Yahoo!ブログの「書庫」機能が「目次」として利用するに適していたが、推奨されている新しいブログサービスがそのようなニーズに応えられる構成になっているのかどうかも分からない。 まことに困ったことであるが、是非に及ばず、という奴である。 ブロ友の偐山頭火氏やオガクニマン氏にとっては、記事の適正表示というレベルの問題ではなく、自身のブログ自体の存続にかかわる問題だけに、より深刻で、大変なんだろうと思うが、Yahoo!ブログの今回の決定は、ヤフーだけに「ヤフーから棒」あるいは「ヤフーから暴」と言うほかない。 楽天ブログは、このようなことにならぬことを切に願うものである。 これに関連して、偐山頭火氏が開設して居られる「河内温泉大学図書館」が、いつの頃よりか別のサイトに移転して居られて、これとリンクさせている記事部分をクリックしても「Not found」の表示になってしまっていることに気がつきました。これも遡って修正措置を講じなくてはならないのですが、さて、どうしましょうか。 ブログの過去記事のメンテナンスも真剣にやるとなると、結構メンドウナンス(笑)。 ということで、只今は風見鶏の心境であります。(花園中央公園の風見鶏と鳩)卯の花の 匂ふ垣根に 霍公鳥 来鳴ける頃に 何とや決めむ (偐家持)それ夏の 青葉の風の 風まかせ 風向き見つつ 風とや行かむ (偐家持)
2019.03.04
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(承前) 五右衛門石の先の民家の庭に、白梅と紅梅が一つの木に咲いている紅白梅または源平梅とでも呼ぶべき梅の木がありました。(紅白梅)※大きいサイズか元画像でご覧いただかないと分かりにくいかと思います。 元の広い道に戻り、これを東に向かって走る。 坂道を上り切って府道33号に突き当たると、右手に見えるのが推古天皇陵。ここは、2010年2月28日の銀輪散歩の折に訪ねて記事にしているので割愛し、裏からのご挨拶だけで、仏陀寺へと向かう。<参考>2010年2月28日の太子町銀輪散歩の記事は下記参照〇太子町銀輪散策 2010.2.28.〇太子町銀輪散歩(その2) 2010.3.1.〇太子町銀輪散歩(その3) 2010.3.1.(推古天皇陵 北側から望む) 仏陀寺は、上記<参考>の2010年の折に訪ねることを忘れて、やり過ごしてしまい、そのうちに訪ねようと思ったものの、いつの間にかそのことも忘れてしまったようで、今日まで訪問を果さずにいた寺である。 仏陀寺は御陵前バス停から坂を上り、そこから右に入った細道の坂を更に上らなくてはならないので、自転車には厳しい道となる。(仏陀寺)(同上) この寺そのものが目的ではなく、蘇我倉山田石川麻呂の墓との伝承のある阿弥陀寺古墳が目当て。(蘇我倉山田石川麻呂之墳の碑) 寺の境内の仏陀寺古墳が、真偽のほどは定かではないが、古くから蘇我倉山田石川麻呂の墓であると伝承されているという。 彼は、大化の改新(乙巳の変)の蘇我入鹿暗殺に重要な役割を果す人物であるが、後に中大兄皇子と藤原鎌足の陰謀によって、謀反の疑いをかけられ自殺に追い込まれるという悲劇の人でもある。持統天皇(鵜野讃良皇女)や元明天皇(阿閇皇女)から見れば、母方の祖父であり、大津皇子や草壁皇子から見れば、母方の曽祖父である。<参考>蘇我倉山田石川麻呂・Wikipedia 桜井・倉橋池・山田寺跡銀輪散歩(その3)2015.6.6. (史蹟・仏陀寺古墳)(同上・説明碑) 仏陀寺から、来た道を引き返し、葉室公園へと向かう。(葉室公園) この公園は、大阪芸術大学のナントカ言う准教授の設計によるという説明が公園の案内看板に書かれていたが、その名前は記憶の外である。 葉室公園で小休止して、いよいよ近つ飛鳥博物館への道にとりかかる。 途中、左手の山中に、伝・蘇我蝦夷墓というのがあると地図にあったので、立ち寄るつもりでいたが、その道は、今走っている道路からは行けないことが判明。左右の丘を跨ぐ形で頭上高くに橋が架かっていて、その橋の道がアクセス道路になっているのでした。その道に入るためには大きく回り道をしなくてはならないので、訪ねることを諦め、博物館へと向かう。 というのも、既に時刻は正午を過ぎていて、早く博物館の喫茶店で昼食にありつきたかった、という正当な理由があったからなのでありました。(大阪府立近つ飛鳥博物館) はい、博物館に到着です。 随分の昔に一度来ているが、それ以来で久々の見学であります。(同上・正面玄関へのアプローチ) この建物は安藤忠雄氏の設計によるものであるが、いかにも同氏の設計らしい意匠のアプローチを進んで正面玄関入口へ。 ロビーに入って、先ず喫茶店へ。ランチタイムであります。 昼食後、受付に入館招待券を示して、パンフレットを頂き、入場。 館内は、一部の展示を除き撮影禁止なので、頂戴したパンフレットを参考までに掲載して置きます。(同上・パンフレット)(同上)(同上・館内風景) 特別展示のコーナーは撮影可とのことであったので、わが地元の東大阪市日下地区で発掘されたという古代馬の骨の展示を撮影して置きました。(古墳時代の馬の骨) 馬の骨であるが、「何処の馬の骨とも分からぬ」というのではなく、下の説明にある通り、日下遺蹟で発掘された馬の骨なのであります。(同上・説明板)<参考>日下貝塚の碑の写真掲載記事は下記。 〇旧河澄家―ゆきずりのわが小板橋 2013.2.22. 展示コーナーを出たスペースにあったのが、鹿谷寺石塔の復原模型。(鹿谷寺石塔復原模型)(同上・説明板) ここから、エレベーターで屋上に上がれるので、上がってみた。 屋上から下を覗くと、丁度、真下がエントランス。入館の際のアプローチの先に見えていた梅が眼下に見える。(エントランス前庭の梅) 屋上からスロープになっているゆるやかな階段を下って行くと、下のアプローチ通路まで降りることができる。下まで降りた処で、紅梅が美しく咲き誇っていたので、撮影することに。 望遠レンズ装着の本格的なカメラを持った何人もの人たちの姿。梅林になっているので、これらの梅を目当てに撮影に来て居られる様子。(紅梅)(同上) 目を反対方向の北に転ずると道向かいの岡辺にも梅が満開。(向かいの岡辺にも梅の花) 梅の花とその香を堪能して帰途に。 葉室公園、仏眼寺と来た道を辿り、太井川沿いの道を北へと走る。 太井川橋で左折、府道32号(美原太子線)を西へ。 太子交差点を過ぎ梅川橋へ。 この太子交差点で右折して北へと府道27号(柏原駒ヶ谷千早赤坂線)を行くと源氏三代墓と壺井八幡宮へと至るが、今回は立ち寄らない。今月30日に予定している中学同窓とのウオークは、当初はこの源氏三代墓を訪ねるコースが有力であったのだが、諸般事情があったようで、その後の女性陣の協議で佐保川コースに変更となったのである。<参考>銀輪散歩・霞立つ野の上の方に 2014.3.2. 銀輪散歩・彼方の赤土の小屋に 2014.3.3. 梅川橋で梅川を渡り、石川に架かる河南橋へ。 梅川は、西行さんの寺、弘川寺の方から流れて来る川である。 石川は、佐備川、千早川、梅川、飛鳥川などの流れを集めつつ、柏原市役所付近で大和川に合流する。(石川右岸・河南橋付近から北方向を望む) 河南橋を渡り、石川右岸の河川敷の自転車道に入る。(石川自転車道) 河南橋を渡って右(北)に山崎製パンの工場がある。そこからのものであろうパンのいい匂いが、かすかに風にまじって流れて来る。北(下流)へ。大和川との合流点まで続く石川自転車道であるが、この道は何度も走り、何度もブログで紹介している道筋なので、この辺で記事の方は切り上げることとしましょうか。 南阪奈道路の高架と羽曳野大橋の下を潜る少し手前に、土手に上がる道がある。道と言っても、正しい意味での道ではなく、人間が何度も上り下りして通ったことによって自然にできた通路。ケモノによるものなら「ケモノ道」と言うのだろうが、人間によるものであるから「ホモサピエンス道」であるか。 吾輩もホモサピエンスなので、この「ホモサ道」から土手に上がる。 上がった処で、正しい意味での土手の道を渡ると、パチンコ屋(パチンコ羽曳野123)と日帰り温泉か銭湯かその辺のカテゴリについては門外漢にてよく分からぬが、延羽の湯という施設と焼肉レストラン(「焼肉ほむら」)とがある。パチンコも焼肉も銭湯も用はなく、多分「延羽の湯」の関連だろうが、「足湯」の施設があるので、これに暫し足を浸けてみようというのである。前述の「ホモサ道」も、この足湯目当ての自転車族やウオーキング族によって自然にできあがった通路なんだろう。 足湯には先客の男性が一人居られた。 藤井寺市からママチャリでパチンコに来て、負けて帰るところだとのこと。よく来られるらしい。30分は浸からないと効能は望めない、などという彼の講釈もあったが、そんなに長くは「予の辞書にはない」ことゆゑ、「お先に失礼」と10分程度で退去仕りました。(菜の花畑) 途中に菜の花が咲き群れている場所があった。 試験的に菜の花を植えているようであるが、「これは食用ではありません。」と書かれた札が立てられているのも面白い。 以上で、太子町銀輪散歩上下全二巻完結であります。 お付き合い下さり、どうも有難うございました。
2019.03.03
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先月初めの若草読書会の折に、ひろみの郎女さんから「近つ飛鳥博物館」の入場招待券を頂戴していたので、銀輪散歩を兼ねて行って参りました。他の記事などもあって、遅い記事アップになりましたが、遅ればせながらの報告であります。 竹内街道から、近鉄南大阪線上ノ太子駅の手前で近鉄線を渡り、駅南口に出る。(上ノ太子駅前・南口)(上ノ太子駅前の竹内街道説明碑) 今回の銀輪散歩コースの太子町内のそれは、途中立ち寄った叡福寺東側の「太子・和み広場」にあった案内板「太子町観光案内」で示すのが分かりやすいでしょうから、まずその写真を掲載します。 太子・和みの広場→伝・蘇我馬子墓→葉室小宮(仏眼寺跡)→仏眼寺→五右衛門石→仏陀寺古墳(伝・蘇我倉山田石川麻呂墓)→伝・蘇我蝦夷墓→近つ飛鳥博物館、という順に走る予定。(太子町観光案内)ーー線が走ったコース ※画面をクリックすると大きいサイズに切り替わります。 駅前から河内飛鳥川を渡り、聖和団地の中へ。 団地への道は上り坂。ほぼ上り切った辺りに白梅が咲き匂っていました。(梅の花今盛りなり・・)(同上)(同上)(同上) 坂を上り切ると急な下り坂となる。 下ったところにあるのが、太子・和みの広場。 叡福寺に隣接してその東側にある。<参考>叡福寺については下記記事参照。 太子町銀輪散歩(その2) 2010.3.1.(太子・和みの広場) 広場を取り囲むようにして立っている石碑には、十七条の憲法の各条文が刻されている。従って17基ある。 全部は撮影する気はなく手近の2基だけを撮影。(十七条憲法石碑)(同上) この広場には、聖徳太子墓石室模型、松井塚古墳石棺、尼ヶ谷古墳石室基部などが展示されている。(聖徳太子墓石室模型)(同上・説明碑)(松井塚古墳石棺)(同上・説明碑)(尼ヶ谷古墳)(同上・説明碑) 太子・和みの広場の南側交差点を西に入って最初の分岐で左の狭い脇道に入って行くと、椿の巨木の下に植木家墳墓と記された石碑を伴った古い石塔がありました。どうやら、此処が馬子の墓と伝えられている場所のようである。石碑の文章には「この墳は古くから土地の人々によって蘇我馬子の塚と言い伝えられております。しかし、『建久四年古図』(西暦1193年)には妹子大臣塚(小野妹子)と記されており、真実は定かではありません」とあるから、あくまでも「伝」という訳である。(伝・蘇我馬子墓)(同・説明碑)(同上) 馬子の墓かどうかはともかく、椿の古木がどっしりと「神さびにけり」でなかなか見事である。 伝・蘇我馬子墓から府道32号に出て坂道を西へと下る。 上宮太子高校の先、梅川の支流・太井川という小さな川を渡って(仏眼寺橋<追記・訂正:正しくは平成橋でした。>)、ローソンの手前を左に入る。敏達天皇陵への入口となる小径の前を過ぎ、左にカーブしながら上りになっている坂道を行く。仏眼寺のお堂の手前の分かりにくい路地を左に入ると葉室小宮である。 小さな祠がある。この地、河内国石川郡葉室村の庄屋であった池田家の第16代当主清左衛門(藤兵衛)が、伊勢神宮に三十三回参拝したことを記念して元文2年(1737年)9月建立したものとのこと。その後、村に寄贈され、村人たちに「小宮さん」と呼ばれて大切に守られてきたようである。(葉室小宮)(葉室小宮由緒書)(仏眼上人之遺蹟碑) ここには、仏眼上人所縁の寺(仏眼寺)があったらしく、祠の傍らには西国三十三所導師仏眼上人之遺蹟と刻された石碑が建てられている。 17歳で即位した花山天皇は師僧を求めていたが、相応しい者が見つからない。そこで、神意を仰ぐべく熊野に勅使を派遣する。勅使は熊野で祈ったところ、帰京の道中でその僧に出会うであろうという熊野権現の夢告があった。そして、帰京の途次、河内国石川寺(叡福寺)に参詣した勅使の前に一人の僧が現れる。身なりはみすぼらしいが両眼から金色の光を放っていたという。この僧を京へ同道し、天皇に引き合わせる。 僧は天皇より「仏眼」という名を賜り、花山天皇が落飾して法皇となる際の戒師を務める。 仏眼は、花山法皇に徳道上人以来絶えていた三十三所観音巡礼を復興すべきであると進言。これにより仏眼上人を先達に花山法皇の三十三所巡礼が始まることとなり、後世、花山法皇を西国巡礼中興の祖と呼ぶ由縁となる。 巡礼を終えると、仏眼は熊野に参詣すると称して忽然と姿を消す。実は、仏眼は熊野権現の化身であったという次第。 仏眼を慕う花山法皇は、仏眼が最初に現れた叡福寺に近い葉室の地に師の名を冠した寺院を建立する。それが仏眼寺であるとのこと。 明治6年(1873年)の明治政府の愚策・廃仏毀釈により、仏眼寺は廃寺となるが、明治末年に、旧地の南側に再興される。(現在の仏眼寺) 出掛ける前に見たグーグル地図には、仏眼寺の東側の路地を入ったあたりに「五右衛門石」といものがあると表示されていたので、それらしき路地に入ってみたが、特段の標識もなく、それらしきものが見つからない。 地図に示された位置から見て、これではないかと撮影したのが下の写真であります。(五右衛門石とはこれか?) 五右衛門と言えば石川五右衛門しか思い浮かばないが、石川五右衛門とは何の関係もない葉室村の五右衛門さんちの石という意味の五右衛門石かも知れないので、それならこの程度でいいというものではある(笑)。 尤も、グーグル地図のクチコミでは、「その昔、太子町出身の石川五右衛門が盗みに失敗して這々の体で逃げ出し、ここまで来てようやく一息ついたが、悔しさのあまり『チキショー!!』と煙管を叩きつけたという伝承があるそうな。」とか「石川五右衛門の墓という伝承がある。」とかの書き込みがあるから、やはり、かの五右衛門さんの石のようであります(笑)。 で、石川五右衛門について調べてみると、その出生地については、伊賀国、遠江国、丹後国と並んで河内国という説もあるようです。 それによると、真田八郎と称していたが河内国石川郡山内古底にある医家(または、山内古底という医家)の養子となって、石川五右衛門と改名した、のだという。 何やら胡散臭い話となりましたが、盗人五右衛門の石だけに胡散臭いのは相応のこととご理解願い、本日はここまでとさせていただきます。 つづきは明日に。(つづく)
2019.03.02
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今日は、墓参。 墓参に出掛けようとしていた時に、ご近所のHさんから電話が入り、何やら見て貰いたい書類があり、これから持って行くがどうか、とのこと。 電話の内容から、書類の察しはついたので、簡単に済む話なので、持って来ていただくことに。予想通りのものであったので、電話で申し上げた通りのことでよいと思います、と説明。一件落着。 同氏も墓参に行くつもりであったとのことなので、一緒に行くこととした。同氏は、小生よりも9歳年長なので、子供時代に一緒に遊んだということはないが、同氏の母親と小生の祖母が従姉妹の関係ということもあって、親しくお付き合いさせていただいている仲。 H家の墓はわが家の墓から少し奥まった場所にあるが、墓の場所も近い。世間話をしながらの墓参となりました。(今日の言葉)捨てきれない 荷物の重さ まえうしろ ――種田山頭火―― 今日の門前の言葉は、珍しく山頭火の句でありました。まへうしろみぎもひだりも捨てきれぬ荷物かかへて坂道のぼる (三等蚊) こんな人も多いのでしょうな。 かく言う自分は?と時に鏡に己を映してもみるか。一つ捨て 一つ自由に なる身かな (二等蚊) H氏とご一緒の墓参であったので、写真は上の門前の言葉1枚だけ。 ということで、以前に撮ってブログ未掲載となっている鳥の写真で、記事の体裁を取り繕って置きます。 先ずは、よく見る、セキレイ。 キセキレイとハクセキレイは区別ができるが、ハクセキレイとセグロセキレイなどの区別は小生には無理。よって、以下は、皆、ハクセキレイとして置きます。(ハクセキレイ)(同上 セグロセキレイかも) 下から見上げたら白っぽく見えるからハクセキレイ、上から見下ろすと黒い背中が見えるからセグロセキレイというのでは洒落にもならぬ、であります。(同上)(同上) 次は、ルリビタキ。 これは、春日大社の森で撮ったものです。 最初は、飛んでいるところを見てカワセミかと思いましたが、嘴が小さいのと、近くに川もないのに、ということで、思い浮かんだ名前がオオルリ。 帰宅してネットで調べたらルリビタキのようでありました。(ルリビタキ)(同上)(同上)(同上) わが家の庭にも時々鳥が訪れるが、シャッターチャンスは大抵逃がしているので、写真はない。何日か前にキジバトのつがいがやって来たり、メジロやヤマガラがやって来たりもしたが、カメラを取りに二階へ上がっているうちに何処かへ行ってしまいました。 ということで、2階の洗面所の暖簾に最近とまるようになったフクロウを紹介して置きます。(2階のフクロウ) タイトルの「百鳥の・・」は誇大広告。フクロウ5羽をふくめて13羽にしかなりませんでした。<参考>墓参関連記事目次はコチラ 鳥関連の記事目次はコチラ
2019.03.01
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