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2008年09月30日
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カテゴリ: 小松帯刀
だびでさん、初めまして、やまももです。

 先月(8月)の拙ブログに 「瀬野富吉氏の『幻の宰相 小松帯刀伝』について」 という拙文を書きましたが、今日(9月30日)になって、同拙文にだびでさんから「『幻の宰相 小松帯刀伝』は10月に宮帯出版社から再版されるそうです。定価は1995円だそうです」とのコメントを寄せせていただきました。貴重な情報をありがとうございました。なお、いただいたコメントに株式会社・宮帯出版社のHPのURL http://www.miyaobi.com/ も付記して下さっていますが、そのHPの近刊案内に瀬野富吉氏の同書も紹介がされていますね。

 それで、だびでさんから瀬野富吉著『幻の宰相 小松帯刀伝』に関するコメントをいただき、同書に小松帯刀と英国留学生との関係が書かれてあったことを思い出しました。なお、9月28日放映のNHK大河ドラマ「篤姫」第39回目「薩摩燃ゆ」で薩英戦争の交戦の模様と鹿児島の街を焼かれて嘆き悲しむ小松帯刀(瑛太)が描かれていましたが、実際の小松帯刀は薩英戦争後に薩摩藩の家老として藩を戦争の痛手から回復させるためにつぎつぎと手を打っていますが、その一つが留学生派遣だったのですね。それで、瀬野富吉著『幻の宰相 小松帯刀伝』に基づいて英国留学生派遣の経緯について下に要約して紹介したいと思います。

 瀬野富吉著『幻の宰相 小松帯刀伝』によりますと、「 薩摩藩で欧米先進国へ留学生を派遣することは、島津斉彬の構想であった」 そうですが、「斉彬が急死したことで、計画は一時挫折」してしまいます。しかし、「 文久三年(一八六三年)七月の薩英戦争によって、西洋の文明が進歩していて、武器も精巧であることを痛感した薩摩では、英国と和平が成立すると、彼と親交を結んで文物の輸入、科学技術を導入しようとする気運が起」 ります。そんな時に、長崎にいた五代才助(後の五代友厚)が 「海外留学生派遣の建言書を作成して藩庁に上申」 したので、小松たちはこれを採り上げ実施に移すことになったそうです。

「自発的に英艦の捕虜となって横浜に連れ去られた」 そうですが 、「その後講和が成立したので、英領事より釈放され」 いましたが、 「このころ長崎の英国商人トーマス・グラバーと懇意になって」 、そのときに留学生派遣の構想を話したことが小松帯刀の耳に入ったそうです。すなわち 「たまたま家老小松帯刀が汽船購入や通商関係でグラバーに会ったので、五代の話が出る。ここで小松と五代ほ再び会うことになった。五代は小松に亡命のいきさつを話し、罪を謝するので、小松は脱藩罪赦免を藩公に許してもらうことにしたのである。/五代が抱いている留学生派遣の構想は、帯刀もグラバーに依頼していたことで、全く意見が一致したので、これを藩庁で具体化させるため、五代の意見を上申書として起草し、藩庁に上申するように勧め」 たそうです。なお、 「小松は造士館掛で教育の責任者であり、御改革御内用掛と御勝手方掛りで予算決定の責任者でもあるから、留学生の費用も薩藩の費用を充てることができ」 たとのことです。

 こうして 「元治元年十一月下旬、英国留学生派遣の裁可が藩主父子よりおり」、同年3月22日に「英国留学生十九名を載せた『オースタライエン号』は羽島沖を出帆して香港に向かった」 そうです。

若き薩摩の群像

 なお、鹿児島中央駅前にこの薩摩藩英国留学生をモチーフにした「若き薩摩の群像」という像があり、五代友厚(後に大阪商工業の基礎を作る)、森有礼(初代文部大臣となり文教の発展に力を尽くす)、寺島宗則(外務卿となって外交で活躍)、村橋久成(北海道開拓使となり、サッポロビールの生みの親となる)、長沢鼎(米国に渡り、カリフォルニアで広大な葡萄園を経営し日本人ワイン王と呼ばれる)等17名の若き姿を見ることが出来ます。しかし、薩摩藩から英国に派遣された留学生は19名で、一緒に薩摩藩から派遣された高見弥一(土佐藩出身)、堀孝之(長崎県人)の両名の姿はこの群像の中に見ることは出来ません。なぜなのでしょうか。なお、 「若き薩摩の群像を完成させる会」 のHP中の 「『若き薩摩の群像』から外された2人のプロフィール」





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最終更新日  2008年09月30日 23時36分25秒
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