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東映フライヤーズが優勝した年はいつだったかな?
おっと、東映フライヤーズについての説明がまず必要でしょうね。1954年から1972年までパシフィックリーグに所属していたプロ野球チームの名前で、いまの日本ハムファイターズの前身ですね。ウィクペディアで調べると1962年(昭和37年)に水原茂監督の指揮の下、土橋正幸、尾崎行雄両エースを擁してパリーグで優勝し、日本シリーズでも阪神タイガースを破って日本一に輝いています。私が中学校2年生のときです。
この頃に活躍した同球団の野手陣は、毒島、青野、吉田(勝豊)、張本、山本(八郎)、西園寺、岩下、安藤等だったと記憶しています。
小学生の頃、大友柳太朗、市川右太衛門、中村錦之助たちが活躍する東映時代劇映画が大好きだった私は、野球も小学校時代はラジオで、中学校時代はテレビの野球中継でいつも東映フライヤーズを応援していました。同チームはパリーグで万年五位(万年最下位は近鉄バッファローズでした)でしたが、61年に巨人軍から水原茂を監督に迎え、62年に高校2年中退ルーキーの尾崎が加わり、内野の守備陣を青野、岩下で堅め、打撃陣は毒島、吉田、張本、山本たちで強化し、パリーグで南海フォークスと優勝を競うまでになりました。
その頃までは、中学生だった私は、家でテレビ中継を視聴するだけで我慢していましたが、東映フライヤーズがパリーグで優勝を競うようになりますと、母におねだりして森ノ宮球場に対近鉄戦、難波球場に対南海戦の野球観戦に出掛けたものです。
母は学校の教師でしたが、養命酒などをいつも愛飲しているような虚弱体質で、土曜日や日曜日は家でゆっくり休養したかったでしょうが、東映フライヤーズを熱心に応援する一人息子のためにプロ野球観戦のために大阪まで連れて行ってくれました。母はそれほど野球には関心が無かったようですが、球場観戦で「わっ、土橋投手だ、張本だ」と歓声を上げて喜ぶ息子の顔を見てきっと幸福感を味わっていたのでしょうね。それは私自身が後に人の親となって初めて気が付きいたことです。
私たち母子が森ノ宮球場に初めてプロ野球観戦に出掛けたとき、球場三塁側でネット越しに東映フライヤーズの選手たちを目の当たりにした母が、「身体が大きく顔が艶やか健康そうね」と感嘆していたのがとても印象的でした。
2回目のプロ野球観戦は、大阪難波球場でした。この球場は南海ホークスのホームグラウンドで、杉浦投手、野村捕手、広瀬野手たちが活躍していました。
しかし、東映フライヤーズが1962年秋にパリーグで優勝し、日本シリーズでも阪神タイガースを破って日本一に輝いてから、私の野球熱は急速に冷めていきました。
なお、宮部みゆきのミステリー作品『火車』の文中に、大阪人のスポーツウーマンの真智子先生が南海ホークスのダイエー買収後の大阪難波球場のことを紹介し、このミステリードラマで下記のような意外な役割を演じているのを紹介していることに驚きました。
「一九八八年に九月に、南海ホークスがダイエーに買収されて福岡に移ったでしょう。だから空いちゃったのよ、大阪球場が。取り壊しもされないまんま。いまでも残ってる。イベントの会場になったり中古車販売フェアの会場に使われたりしながらね。」
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