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1時~3時。最後に60射。277-278=555 8点4本、10点19本。まずまずかな。HBCの使い方が少し分かってきた。
2021.02.28
今日は卒業式。職分的には、出席の必要はないのだが、それでも2年間教えた生徒たちの門出の日だ。顔だけは出して、祝ってやりたい。自分は高校、大学時代、卒業式というものに、ほとんど意義を見いだしてこなかった。そんなものは単なる通過儀礼であって、それ以上の意味はないだろうと考えていた。実際、中学校では答辞だったが、高校の卒業式には出席せず、親元に帰ってごろごろしていたら、卒業証書が郵送されてきた。一ヶ月の下宿代がもったないな、と思ったのである。大学は、よく覚えていない。娘の卒業式には行き、息子の卒業式にも行った。やはり、親としていろいろな思いがあった。娘は学位記をもらい、一人だけ中央の通路から自席に戻って、あれ、間違った?と舌を出していた。息子の卒論指導の女性教授は「大分、日本語の文章が書けるようになりました」と。今の子どもたちは、儀式に何の疑問も持たず、緊張して証書をもらい、友達と別れを惜しみ、先生方と一緒に涙する。自分は、卒業式に涙がこみ上げるなどという経験はないのだが、まあ、「おめでとう。よくがんばったね」の一言くらいはかけてやることにしている。
2021.02.28
昨日は射場で1時間ほど。HBC、レフティ。とにかくしっかりエイミングしてから、押し引きの伸びを確かめつつカチッと鳴らし、後は、正しい方向へと引くこと。これだけである。シンプルに射つのが、実は一番いいのだが、難しい。だから練習意図をしっかりもって1本1本を射つことが大切だ。今日も2時間ほど射場に行く予定。
2021.02.27
昨日は、息子の36歳の誕生日。自分たちからみると、「え?もう36歳なのか・・・」という感じである。まあ、親にとって、子どもはいつまでも子どもなのだから、そういうものなのだろう。36歳といえば、もう「いい大人」と言われる年齢だ。確かに、現代社会は「成人期」が延び、30歳くらいだという心理学者も現れてきたが、さすがに36歳はもう若者ではない。しかし、息子は3年前、教員として今の大学の入学式に行った時、受付で学生の方に案内されたそうで、それ以前はコンビニで煙草を買えば、身分証明書の提示を求められたり、出張先の居酒屋で「学校、もう終わったの?」と聞かれたりと、いろいろな逸話がある。娘の方の孫は「ニンニ!(息子をこう呼んでいる)誕生日、おめでとう。ニンニ、三歳になったの?プップクプー!!」と訳の分からないボイスメールを送っていた。それで、自分もちょっと悪ノリして、吉田拓郎の「いくつになってもHAPPY BIRTHDAY」をピアノで歌って送った。「おお、吉田拓郎か。懐かしい」と息子から返事が来たが、2007年に「つまごい」で行われた「拓郎、かぐや姫」のコンサートの中の一曲だった。♪ 誕生日がやってきた祝おうよ、今日の日をよかったね、元気だねおめでとうを贈りましょういくつになっても、ハッピーバースデイ・トゥ・ユーいくつになっても、ハッピーバースデイ・トゥ・ユーまあ、こんなどうでもいいような歌詞の他愛ない歌。コード進行も、スリーコード+マイナーのいかにも70年的なのどかな感じだ。
2021.02.27
毎年、文藝春秋社から出ている『日本の論点』を買っているが、ここ10年くらいで、編集がはっきり変わってきた。それ以前は、ある一つのテーマに対して、賛成論者、反対論者の主張が並べてあり、小論文の教材として格好の本だった。自分がそれに気づいたのは95年度版あたりからだったが、予備校講師などもそうだった。灯台もと暗し、で当の出版社が「小論文に必須」と広告を打ち始めたのは2000年を過ぎた辺りからだったろうか。ところが、震災の直後あたりからだろうか、両論並立をやめ、ほとんど一方的な、右寄りの主張ばかりが並ぶようになった。例の「小論文に」という広告はそれでも続けていたが、とてもこれじゃ「必須」などと言えない。もうとっくに生徒に薦めることはなくなっている。それでも、最近のトピックになった事柄について、コンパクトにまとめて分かりやすく伝えているのは確かなので、購入はしている。『現代用語の基礎知識』は、網羅的で、各項目の説明が短すぎる。事実のみを伝えるという感じで、主張がない。いずれにしても、こういう類の本はひと頃と比べるとまったく売れなくなっているらしい。その根本的原因は、「社会」が半径5km以内の生活圏社会と、ネット上でどこまでも広がるように見えながら、実は前近代の農村よりひどい差別的言説にあふれているバーチャルなムラ社会に分かれ、共同体意識が希薄になっていることだろう。かつて吉本隆明は「共同幻想論」を主張したが、それは「共同」が自明だったころの話であり、もはやそれが幻想だということは、誰しもが分かっている時代なのかもしれない。
2021.02.26
このところ、三階射場や、インドア射場で、右用のサイバーテックを持ち出し、射っていたが、やはりエイミングがちょっとでも長くなると体幹が震えだし、どうにも狙うことができない。HBCでやってみると、切れは速いのだが、それでも狙って射つというところまではとてもじゃないが、いかない。まだ、あきらめてはいないが、しばらくはレフティ継続だな、と思っている。アウトドアも近いので、今は、エイミングと身体を大きく使って射つことを心がけている。まず、HBCの場合、しっかりエイミングしてから、カチッと鳴らす。それから、後はなるべくズレがないようにはするが、それよりも引き手の肘、押し手など身体の一番遠いところを意識する。小さくかがまるのではなく、大きく広がってリリースを待つ、と言ったらいいだろうか。20-12で三連的の一つだけに3本射つ。昨日はノックを一つ壊したが、上中下と射っていくのはそのたびに押し手の角度が変わり、どうしても基本を忘れやすい。今日も射場が開くから、妻を歯医者に送って、その帰りがけに小一時間できればいい。
2021.02.26
前項の最後に書いた「責任」。日本語では「責任を取る」といえば、何かよからぬことをして辞職するというニュアンスだ。また、字面だけみると「任を責めらる」と読め、誰か上の者の命令を受け、それを果たすことを意味するように思われる。 しかし、この言葉の元来の意味は「呼びかけに応えること」である。英語の、respondは「返事をする、反応する」の意味で、その名詞responsibilityが「責任」と訳された。あるいはドイツ語のVerantboldungでも同じである。つまり、「責任」とはキリスト教文化の「呼びかけに応える」という意味の語が、儒教文化の「上の者の命令を果たす」意味に翻訳されたのである。現代日本語のうち、重要な語句、例えば「自由」「平等」「権利」「義務」などは、元来日本社会になかった概念であり、明治期になって「脱亜入欧」の文化政策に先立ち、福沢諭吉などの知識人が作った「西欧語の翻訳漢語」なのだ。そこに大きな誤解が生ずる。例えば「個人主義」と「利己主義」を取り違えるような愚かな誤解だ。resposibilityで「呼びかける者」とはもちろん「神」である。「良心に従って」とは、実は内在化したキリスト教の神に従うことだ。もちろん西欧でも意味の拡大と変容は起こり、社会や仕事に対する「責任」という意味が出てきて、そうなると「仕事の責任」という日本語と、それほど意味は違わなくなる。大事なのは、仕事を「呼びかけられて、それに応じた」ものと考えるのか、そういう自覚はまるでなくて、とにかく「仕事」だからしなければならないと考えているだけなのか、という違いだ。前者の自覚があるものは「責任」を果たすし、後者なら「責任逃れ」を懸命にするだろう。もちろん、仕事は食べるためにしなければならない。家族を養い、子どもに十分な教育を与えるために、しなければならない。しかし、自分の場合、そういう仕事はもう完了した。年金と多少の現金資産のおかげで、食べるためなら、別に仕事をしなくてもいい。食べるだけでなく、多少はぜいたくもできる。この歳になって、生活のために仕事をしなければ、という境遇でなくて本当に幸運だった。だから、今している仕事は「呼びかけに応えている」つもりである。もちろん「神」というわけではなく、目の前の人たちの呼びかけである。そういう意味での「責任」は十分に理解している。
2021.02.25
なんだかんだ言っても、やはり気にしていたのか。次年度の仕事が決定し、何となく胸のつかえが降りた気がする。大筋は今年度と同じ。つまり、非常勤ではなく、准常勤講師ということになった。これで、2年目の特別延長ということになる。まあ、ありがたい話だ。今年65歳を迎えた同僚は非常勤になる。授業は少し変わって、1~3年特進の現代文。多分、3学年をすべて担当するのは初めてだ。自分としては、高校の1~3年でどのレベルからどのレベルまで読解力が上がるのかの手応えが感じられるので、ありがたい。1年は古典の新人と2時間TTになった。まあ、ちょっと面倒をみてね、ということだ。公立中学で8年ほど経験がある教え子なので、そこはすぐさま了承した。生徒の時は、さほどできるわけではなかったが、努力家で素直な生徒だったことを覚えている。その他に3年生の特講。ここは受験直結なので、何をやるかもはっきりしているし、自分が一番得意なところである。センター試験では、過去に数回全道1位になったこともある。2年間、教えるわけだから、この学年も何とかしたい。勤務時間は名目20時間。1年50週として1000時間。賃金は最低時給の2倍弱くらいだろうか。実質を計算してみると、(授業と特講10時間+教科会等1時間)×35週+夏期冬期の講習20時間=405時間叱られそうだが、意外に実質が多かった。もちろん、実際はこれに準備、採点、作問等の時間が入る。だから、おそらく200時間くらいはプラスになるだろう。特に入試問題は、ほとんどすべて自分が実質的にはチェックし、どうしても必要な場合は、設問を作り変える。今回、非常勤でなくなったのは、これが最大の理由だったようだが、自分としてはそれが一番抜けたかった仕事だ。また、カリキュラムや特進などの委員会に一応名前が入る。これも、できればやりたくなかった。つまり、今、仕事としてやりたいのは、実は授業だけなのだ。だから、非常勤でもかまわなかった。わがままを承知で言うのだが、出来の悪い生徒でも、仕事なのだからきっちり面倒は見る。しかし、出来の悪い教員の面倒は見きれないし見る義理もないなぁ、というのが本音である。それは、本人が自覚して努力するほかないのだが、世の中で「先生」と呼ばれる人種ほど、自分の出来の悪さを受け入れることができない人種はいない。しかし、自分にそういう期待があるのなら、それに応えることが、「責任」という言葉の正しい理解ではないかと考える。何だか、歳を取ると、人間がまるくなったな。
2021.02.25
カレンダーを見ながら、勘定したら今年度の授業は、試験を除けば、あと13時間。3月は10時間だ。何とか今年度もうまく乗り切った。この歳になれば、1年1年がそういう感じで、仕事の長期的目標など立てられない。来年度は非常勤ならおそらく7~10時間くらいだろう。再来年度になると、もう分からない。なんだかんだいって、仕事人間なのかもしれないが、できれば70歳くらいまで教壇に立っていたい。いずれにしても、終わりはそう遠くないのだし、ここで、自分の職業生活を振り返るような駄文を綴るのも悪くない。
2021.02.24
昨日は、午前中1時間ほど射場。右で射てる弓は今のところサイバーテックのみ。これが同じ強さでもドローイングが楽。どうやら、震える前に離せるが、やはり次第に狙い込むようには、どうしてもなってしまう。そうなると震えが増幅し、狙うどころではなくなる。その前に、ボタンを解除すればいいのだが、なかなか安定しない。半回転、さらにリムを緩めてポンドダウン。それでもうまくいかず、左でまた射ってみたりしたが、ふと思いついてHBCを試してみた。最初は、ほとんど暴発と紙一重の速い切れ方だったが、次第に落ち着いてくる。震えはあるが、むしろこの方が諦めて引き続けるしかないから、いいように思った。最後の15本で点取りをしてみる。10点3本、8点2本、7点1本でマイナス1。134。これなら、スタートとしてはまずまず。少し心配したが、押し手、つまり左手の肩の痛みはない。もう少しポンドダウンして、自宅近射でいいから、右射ちを試してみたい。ものになるかどうか。
2021.02.24
昨日は、射場で息子に電話をもらって、20本くらいしか射てなかった。帰ってから自宅で。射場で思いついたのは、「切る射」なら、ひょっとしたら右射ちでもいけるんじゃないか、ということ。開き直ってパンチングだと分かって射つのなら、身体が震える前に放せばいい。4年前、頸椎の手術をしたのだが、それ以来、右で射てなくなった。手術以前は引くことさえできなくなったのだが、リハビリ後は引くには引けるが、保持できなくなった。保持しようとすると身体が震える。それでやむなくレフティに転向した。元々、右で射っていたときも、ややパンチング気味の射で、とにかくエイミングがついたら、ずれないうちに射っていた。だからトリガーのフェザータッチは必須だったのである。レフティで本格的にトリガーレスに取り組み始めたのだが、なかなかモノにならない。それで、今季はカスケードを持ち出したり、あれこれとやっていた。右でも以前よりは大分、押し手の保持ができるようになったのだが、さすがにトリガーレスで「切れるのを待つ」ような射は無理だ。試しに自宅でカスケードでやってみたら、ついてからちょっとの間は保持できる。その間に指を放してやればいい。弓は、初めてシングルで1300を超えたサイバーテック。もう15年も前のことである。ドローウェイトは今のレフティのフェノームより2ポンドくらいは落ちるようだ。40ポンドぎりぎりくらいか。3,40本は射てる。今日は、それを持ち出して、射場に行ってこようと考えている。実際、インドアでどのくらい中るものなのか。やってみないとまったく分からない。
2021.02.23
昨日、息子から電話。来年度からの准教授が正式に決まったそうだ。以前、外部の第三者委員会で業績や社会貢献活動の審査があって、それは問題なくパス。後は、内部の教授会での承認が残っていたが、それも通って、学部長からの内示があったという。思ったより早かった。地元の短大で助教5年、講師2年、遠くの4年制大学に移って講師3年、息子は「苦節10年」と言っていたが、まあ、36歳での准教授は若い方だろう。年収が5,60万増えるそうだ。専門学校での外部講師も依頼され、ほぼ決まっている。合わせて100万くらいの収入増。孫の幼稚園代くらいにはなるだろう。まだ、2歳なので子育て支援対象外である。数日前に、「まだ正式じゃないんだけど」という連絡はもらっていて、妻とお祝いに寿司でもと思ったら、営業時間に間に合わなかった。それで回転寿司に行ったのだが、いずれ、もう少しちゃんと祝いたい。ステーキかな。さて、自分の方はというと、次年度からは非常勤講師ということになりそうな感じである。今の准常勤講師という職位は65歳までで、1年特別延長の形になっている。さらに1年というのは、なかなか難しいだろう。いずれにしても65歳になり、フル年金になったので、再雇用がなくても仕方がないところなのだが、非常勤はある。別に、そこまで今の職位にしがみつくこともない。もっと気楽な立場はかえってありがたい。まあ、月に数万は収入減になるが、それもたいしたことでもない。学校種は違うが、同じ教員職で、息子は上から二番目、自分はカーストの最下位ということになる。もちろん、そういうのもなかなか楽しい気分なのだ。ただ、どういう立場であれ、自分は、もう少し「教える」ということには執着があるらしい。
2021.02.23
「安い、早い、うまい」といえば、ほかならぬ某牛丼チェーンのキャッチコピーだが、ここ20年くらい、「やすっ、はやっ、うまっ」という言い方が定着してきた。文法的に言えば、形容詞のク活用の語について、「うまい」という終止形を語幹のみで言い切る形である。ここ20年と言ったが、実は平安の昔からある用法で、「あな、かま」(「かま」は「かまし」=うるさいの語幹。「し、しずかに!」ほどの意味)などの用例が枕草子などにも見える。シク活用の形容詞には見られない。「さびしい」を「さびし」という言い方はあまり見ないし、「さび」なら名詞になってしまう。そもそも「さびし」は古語としてはそれで終止形であり、「語幹」と同じである。なんだか高校の文法講義みたいになったが、シク活用語は「悲しい」「うれしい」「いとしい」などの心情語が多い。心情語ではない、単なる「状況語」を短縮化していくと、そこに「驚き」などの心情が加わることになる。「形容詞の語幹用法は、詠嘆」というのは大学入試古文の必須知識だ。問題は現代において、心情表現がほとんど見られなくなったことの方だろう。最近の子どもは「うれしい」とも「悲しい」とも「嘆かわしい」とも、あまり言わない。代わりに「やばい」「やばっ」が多用される。言葉がなくなると、それが示すものもなくなる。他者への共感、賞賛、あるいは自身への羞恥などは失われていく時代なのかもしれない。それは、「ヤバッ」ではないかな。
2021.02.22
いや、ひどかった。274-270=244これなら、ちょっと覚えの早い初心者にも勝てないようなスコアだ。この先、どうするか、真剣に考えないといけない。もうスコアはあきらめて、サンデーアーチャーを楽しむか、もう少し足掻いてみるか・・・サンデーアーチャーなら、別の趣味を何とかしないとね。
2021.02.22
入試や何かで、前半は射場に行けず。木・金・土は行けたのだが、それがさっぱり中らない。中らないとなると、もう何をやってもさっぱりダメで、リリーサージプシーの他にも、矢を取っ替え引っ替えなど、ジタバタし通しだった。昨日、苦し紛れで、「切れる射」を諦め、「切る射」に徹することにした。リリーサーはカスケード。元来、トリガーレスではないのだから、トリガーをちゃんと使って射つ、という考えてみれば当たり前の射ちかた。ただ、エイミングをちゃんとつけることと、とにかく緩まないことだけを考えた。矢もFATBOYに。できるだけ10点を食いたいし、今の腕だと9点のラインにかかる「セーフ!」の射もほしい。最後に50射。10点15本、8点1本。10点率30%、8点率0.5%。まあ、だいたい278~9くらいのところだろうか。8点がなければ280。とにかく、射はラクチンである。めいっぱい引いても切れず、さらに引くということがないのだから、当然なのだ。さらに引く前に、切ってしまう。他に気をつけたのは、射ったあと、押し手で弓をつかまないこと。トルクを回避したい。今日の試合は、この射のスタイルで通してみようと考えている。狙い込んでいくと、ピクッとなるのだが、そうならないように適当なところで妥協して射つのが大事だ。
2021.02.21
例のオリンピック委員会の会長は「女性が入ると会議が長い」という、どうしようもない失言で辞任に追い込まれ、新たに元オリンピアンの女性大臣が、その職に就くことになった。大臣はもちろん辞めて、今朝の報道だと離党までするらしい。どうせあと4ヶ月くらいのことであり、急場なのだからそこまでしなくてもと思うのだが、マスコミの論調はそうでもない。オリンピックの「不偏不党」という理念に、特定の党の議員は合わないのだそうだ。そんなにヒイヒイ言わなくてもいいじゃないか(あ、これも女性差別かな?いや、そんなことはない。男もヒイヒイ言うヤツもいるんだし)と思うのだ。そもそもオリンピックが「不偏不党」的に行われたことなど、一度もない。それは極めて政治色の強いイベントであったことは歴史が示すとおりだ。冷戦の時代、モスクワのオリンピックにほとんどの西欧諸国は参加をボイコットしたし、ロサンゼルスにはソ連を始めとした東欧諸国は不参加だった。「アスリートファースト」とかいう理念も大いに疑わしい。近代オリンピックの本質は、壮大なスペクタクル、あるいは商業的「見世物」である。それでいいじゃないかと自分は思う。無観客はまだいいとしても、テレビ中継のないオリンピックなど、誰も関心を持たないだろう。ここにも大きな誤解があって、関心が強いからテレビで中継するというよりは、テレビ中継が大きな国民的関心を呼ぶのである。マスコミは、オリンピックに向けてアスリートのさまざまなストーリーを垂れ流し続け、一般国民はそれで今まで見たこともなかった競技にも興味を持つようになり、そこで日の丸が揚がると、「鳥肌が立った」(お化けでもみたのか?と突っ込みたくなる物の言い方だ)と感動するのだ。その果ての「アスリートファースト」である。しかし、オリンピックという4年に一度の壮大な「見世物」が東京で開催されるのだから、ぜひ見たいではないか。まだ、コロナのことで、今のところは開催に否定的な世論の方が強いようだが、ワクチン接種が始まって、おそらく開催否定論は急速にしぼんでいくにちがいない。実際、北半球の多くの国では、冬の終わりとともにコロナは終息に向かっていくだろう。インフルエンザと同じ理屈だ。さらにワクチン接種の心理的効果も手伝って、開催が決まれば、今度はちょっとでも感染者が増えると、オリンピックが開催できなくなっていいのかという脅迫めいた世論が起こり、自粛警察が今度は大義名分、錦の御旗を手に入れ、盛んに活動するだろう。まあ、コロナとオリンピックの狂詩曲的二重奏の中で今年の前半は過ぎていくのだと思う。
2021.02.20
昨日は、ピアノの体験教室に行った妻を迎えに行き、昼食。いつもの寿司屋に電話してみると、残念ながら昼の営業は終わっていた。まあ、仕方がないから、回転寿司に。そうまずくはないところ。久しぶりに、外での食事だったが、時間帯も遅かったのもあり、客は自分たち以外に二組。それでも、今はいい方なのだろう。帰宅すると3時。おやつにショコエクレアと紅茶。それから、射場に。日曜日以来の久々の射場練習だったが、全然中らない。しょうがないから、最後は20-12とカスケードという組み合わせに戻し、6本射ちで点取り。5エンドで初の8点、しかも2本。273。今日も午前中に練習。明日も練習して、今季最後の月例会が明後日。何とかシーズンベストを射ちたいのだが、どうなることか。ポンドアップが失敗だったかもしれない。今日、朝のうちに半回転戻して元のポンドにすることにした。
2021.02.19
昨日、自分にとっては少し懸案だったことが、二つ解決した。めでたい。一つは仕事上のことで、もう一つは家族のことである。両方とも、人にとってはたいしたことでもないが、とにかく安心したのは確かなのだから、心に引っかかっていたものらしい。今日は、9時までに出勤して、三年生の指導と授業。昼にピアノの体験教室に行く妻を迎えに行って、久しぶりに外でランチ。帰宅後、これも三日ぶりに射場に。
2021.02.18
団塊の世代は、「戦争を知らない子どもたち」であり、先行する世代とは決定的に違う。そして、高度経済成長期の生活がどんどん豊かになる経験は、「自我形成」が行われる思春期以降のことだ。このあたりは、物心ついたときにはもうテレビや自家用車が我が家にやってきた自分たちポスト団塊と呼ばれる世代とは大きく違う。大学進学率はまだ20%弱で、終身雇用、年功序列賃金制度が当たり前の世代だ。「護送船団方式」、というのは銀行をすべて守るかつての日本の金融財政政策の名称だが、この世代は全体が「護送船団方式」で守られてきている。よほどの失敗をしなければ、ほどほどの生活が保障されていたのである。大卒初任給が5万くらいのスタートで、ベースアップでどんどん給与は上がり続け、自分のころは10万を超えていた。それが、10年もない期間で起こったのだから、若い世代にはちょっとイメージできないだろう。それから40年経って、やっと今20万くらいだろうか。ちなみに、自分の初任給は大学院修了だったから12万と少しだった。その圧倒的人口ボリュームのために、消費のいつも中核にいた世代で、それは今も変わらない。テレビのコマーシャルの変遷を見れば、そのことがよく分かる。昔は車、家電、住宅、栄養ドリンクだったが、今は老人用紙おむつ、健康食品であふれている。週刊誌も、この世代が職場の中心だったころは、社会問題や給料、働き方などだったが、いまや一番好まれるテーマは年金、終活、墓じまい、相続などだ。また、この世代は徹底的に無宗教である。オウム真理教のサリン事件以来、多くの日本人は宗教には妙な人たちしか近寄らなくなっていると考えている。宗教的行事、特に葬儀は、この世代から「樹木葬」「家族葬」など、宗教臭の薄いものに変わっていく。ある意味で、無神論の世代とも言えるだろう。要するに、この世代は、現世における「パラダイス」を経験できた極めて幸福な世代なのだ。生活は右肩上がりに豊かさを増し、それを奪う戦争などの不幸は起こらなかった。だから、宗教的救済を必要としなかったし、その幸福を奪う可能性のあるものには、本能的に強く反発する。それは自らが老後になっても変わらない。「老い」はライフステージの終末なのだが、そのことにすらこの世代は反発する。アンチエイジングが流行り、いつまでも若々しいことが価値となる。確かに、いかにも年寄り臭い年寄りは街から姿を消した。しかし、コロナがつきつけたのは、この世代にとっては自らの死の可能性(それは必然性なのだが、彼らの多くはそう受け取っていない)であった。スウェーデンでは、高齢者の治療を放棄しているという。高齢者の死は必然であり、それを延命すれば、社会福祉国家の根幹が壊れるという、冷徹な合理主義がそこには見て取れる。また、キリスト教文化圏やイスラム文化圏では、まだ宗教は自分の死に意味を与えてくれるものであり続けている。この世代にとって、「死」は現世のパラダイスの終焉である。彼らは、その可能性を奪う「病」を徹底的に忌避する。一連の健康ブームは彼らのそうしたメンタリティの反映といってよい。だから、コロナに関しても危機意識は過剰なほど強い。初期のころ、マスクが市場から姿を消したのも、主として時間と金のある彼らに起因する。現役世代は、仕事でドラッグストアに長蛇の列を作る余裕などないが、彼らは、テレビの報道に容易に煽られて、何時間でも並び、何軒にでも出かけていく。これも当然だが、テレビ、新聞、週刊誌などの旧メディアは、その視聴者、読者である彼らに訴求する報道を選択する。視聴率や販売数を上げたければ、よりセンセーショナルな見出しをつける。「冬には死者10万人に!?」。一応「?」つきだが、これを電車の中吊りに一番大きな活字で書く。加えて、ネットの新メディアは真偽のほどはどうでもよく、ただただ煽るだけの記事があふれる。実は、一番多く読まれるのは、週刊誌の発売前の有料記事や、夕刊紙などの発売後の無料記事なのだが、それが恣意的解釈を加えられ、SNSで拡散される。そうなると、団塊の世代だけでなく、その下の世代がそれを読み始める。そうしていくうちに、団塊ジュニアより下の世代もまた、団塊の価値観を知らず知らずのうちに内面化していく。自分は、この一連のコロナ騒動に一貫して批判的立場でものを言ってきたが、それはポスト団塊という団塊と団塊ジュニアの中間世代に属するからこそなのかもしれない。おそらく、ワクチン摂取が始まり、新規感染者数が落ち着いてくれば、コロナ騒動は「終息」する。もちろん、決して「収束」ではないし、ましてや「人類がコロナに打ち克った証」などではない。それは、多少は科学の力も借りた集団感染によって感染流行が収まるという自然のプロセスにすぎない。ただ、その時メディアは、決してそうは言わない。「コロナに打ち勝ち、日本人の平均寿命は100歳に!」などという記事が今年のうちに電車の中吊りで多くの人目を引くことになるだろう。(この項、終わり)
2021.02.17
今朝は、4時起き。というのも年に1回、定時に出勤しなければならない入試の日だ。荒天が予想されているが、今のところ、雪も雨も風もたいしたことはない。7時過ぎには、出かけることにする。朝食をまず作る。先日、まずまずのイチゴジャムを買ってきたので、トーストにバターと一緒に塗る。「バム」。60年代に、まだ若い小説家だった井上ひさしが、自分が小学校高学年だったが、「これはなかなか美味い!」と書いていたのを、母親が読み、やってみたらとても美味しかった。それ以来、今でも時々食べるから、自分にとってはこれも「おふくろの味」の一つなのかもしれない。朝はパンと決めているが、それは高校の寮生活で習慣化された。大学の時に、コーヒーが加わった。あとは、レタスとトマトときゅうりのサラダ、ハムエッグ。これは妻の分も作っておく。我が家は、朝食だけは別々。この時間は、自分しか起きていない。春になれば、夜明けを待って練習に行くことになるが、この季節は特にやることもないので、こうやってPCに雑文を綴るのが日課だ。別にSNSでの交流を求めていないから、純粋に自分の日々の思いやできごとを、備忘録代わりに。まだ、時間があるから「コロナという社会病理」を完成させるか、それとももう一度寝るか、ビミョー~~。
2021.02.16
コロナが日本社会にもたらしたのが、これまで社会構造の上では多数者であり、加害者とされそうだった高齢者が、一転被害者へと転換するという奇妙な事態だった。もちろん、高齢者の独居老人は増え続けており、少額の年金、孤独と貧困に苦しむ高齢者たちを、従来においても現在においても加害者呼ばわりするつもりはない。彼らは、言葉は悪いかもしれないが、団塊の負け組である。そして現役世代は、自分たちもそういう老年が待っていると思っている。悪いのは、ごく一部の本当の意味での富裕層と、決して富裕層とはいえないが、例の老後2000万円問題も難なくクリアしているアッパーミドル層である。彼らは十分な退職金、企業年金、厚生年金、場合によっては天下り再就職など、経済的には一生困ることにはなりそうもない恵まれた環境にある。彼らは概して高学歴で、職場の出世競争の勝ち組であり、幹部社員として退職し、子どもたちも概して高学歴、就職超氷河期でも、一流企業に就職している。そういう彼らに対する社会的批判が起こりそうだったのは、例の「上級国民」事件であり、週刊誌は免許も返納せず、重大な事故を起こし、しかも運転ミスを認めない元公務員を叩きにに叩いた。彼らに対する「ルサンチマン」は大きく膨らみ、爆発寸前になっていた。初めて、年金を減額するという措置も取られたし、大企業の退職金は年々下がり、いまや2000万円を切りそうなところまできている。団塊ジュニアたちには、自分の親のような恵まれた老後は保障されていない。そんな中で、コロナのパンデミックが起こり、高齢者は「お年寄り」と尊称で呼ばれ、無自覚な若者が高齢者の命を危険にさらすと批判された。テレビや新聞のマスメディアは、無条件にこの言説を支持し、連日「専門家」を連れてきては繰り返した。もはやテレビは旧メディアであり、ワイドショーなる疑似情報番組を見るのも、暇で、金はあるがやることのない高齢者である。彼らはそこで自分たちの「命」が脅かされているのだと、簡単に洗脳されるのだが、それには理由がある。団塊世代ほど現世への執着の強い世代、死ぬことを恐れる世代はいないのである。今日はこのことを論じようと思ったのだが、また次回に。
2021.02.15
一昨日、昨日の練習で、トライアンフの矢が使えそうな感じになった。ただし、トリガーレスやカーターとの組み合わせはダメで、SPOT FOGのフェザータッチとの相性がいい。昨日の練習では、3射×4回を1セットとして、5セット。つまりは60射である。このくらいだとまだ覚えていられる。8点7本、10点17本、残り36本が9点である。+10、つまり550点。今の自分としてはまずまず。矢が太く、しかも重いので、もう少しポンドアップしてスパインを合うように。半回転。まだ足りないが、これは徐々にでないと身体がついていかない。多分43,4ポンドになった。最終的には目一杯締めて、47,8ポンドまで持っていきたいのだが、間に合うかどうか。ポンドアップの後は、矢がバラつき始めたが、これはよくあることで、リムを少し慣らさないといけない。ただ、センターを狙える感じは出てきた。ドローウェイトが弱いと、押し手、引き手ともどうとでも動くので、かえって一定性を保つのは難しい。強いと余裕がなくなり、引く角度、押す角度がどんどん狭くなり、フォームが一定する。今までは、ちょっと弱すぎたようだ。少し射ったところで昨日は終了。今日はこれから整形の診察券を出しに行く。腰も何とか持ちそうなので、整形は二週間に一回ということにした。
2021.02.15
昨日、今日と朝寝坊。といっても起床が7時半くらいだから、普通なのだが、最近は4時くらいだったから、随分と朝寝坊した気分だ。そういうわけで、ここで駄文を綴る時間もなくなり、明日からどうなるか。
2021.02.14
昨日、弓に行っている間、妻が雛を飾った。元々、娘のために亡くなった父が買ってくれた八段飾りの久月、プラス一段が三歌人であることも気に入った。当時としてはかなり高価なものだったが、今や、八段を飾る気力はなく、「お内裏様とお雛様」が二人並んで、ということになっている。それでも、右近の橘、左近の桜、雪洞、牛車などを前に飾ると、座卓の表面積分くらいは十分とるのだが、今回は玄関間に座卓を出して飾ってみた。そう広くもない我が家の玄関は、それでいっぱいになる。まあ、まだ外玄関を開け、靴を脱ぎ、玄関間でスリッパを履くくらいのスペースもあり、玄関脇のトイレのドアも、階段に通じるドアもぶつからずに開くのだが、ファンヒーターだけは二階階段下の玄関間に移した。全体を暖めるの時間がかかるだろう。弓を持って移動するのもなかなか大変だが、それも何とかなる。妻は、「やはりダメだ、ばあちゃんの部屋(我が家では今でもこういう言い方をする)に移す」と言い出しているが、今朝、階段に通じるドアを開けてファンヒーターをつけてみた。今までのようにはいかないが、「う、寒い!」という温度ではなく、ほどほどに暖められている。このままでもいいんじゃないか。しかし、まあ、雛飾りに関しては、自分は戦力外だから、妻の意向のままに。今では「八段なんか買ったのはパパとじいちゃんなんだから」と妻だけでなく、娘にも責められる。それは敢えて否定しないけどね。
2021.02.12
この論考も4回目となったが、自分の中でまだすっきりとした結論は見えていない。今回は、「若者=無症状、高齢者=重症化」という図式から考えてみたい。この図式はさらに、「若者=無自覚な加害者、高齢者=被害者」という図式に展開していく。では、コロナ以前はどうだったのか。「若者=非正規、不十分な社会保障、見えない将来」「高齢者=十分な社会保障(年金)、逃げ切り世代」という図式だったのではないか。もちろん、高齢者のすべてが十分な年金をもらっているわけではなく、主として公務員や大企業の退職者、つまり団塊の世代の中の勝ち組のことを言っている。同じ団塊の世代でも、国民年金だけの高齢者や、中小企業退職者、自営がうまくいかなかった人など、22万円の年金で5万は毎月不足するから2000万円は必要と言われても、端からそんなことは無理という人もいる。それは、若者の中で学生時代に起業し、年収1億以上の人がいるのと同様で、話はあくまでも平均的なところでのことだ。だから、GoToでお得な旅行に出かけた中心は、ほどほどの金と時間のある高齢者世代だったはずだ。しかし、コロナ下にあって叩かれるのは高齢者ではなく、安くて近い街の居酒屋で、それこそ若者らしく集まってワイワイ騒いでいる輩であった。つまり、コロナ以前、社会構造的には「加害者」であった高齢者たちは、コロナを機に「被害者」へと転ずることができたのである。「高齢者ほど重症化しやすい」という言説は、よく考えれば「肺炎」など呼吸器疾患ではすべて当てはまることで、コロナだから、というわけではない。もっと極端に言えば、「高齢者ほど死にやすい」のであり、その責任を若者に取れというのは無茶苦茶な話だ。そして団塊の世代は、「団塊」(ボリュームゾーン)であるがために、今でも消費の主役の座から退場しておらず、投票率も高いのでこの世代の不利益になる政策は絶対に支持されない。つまり、政治も経済も、この世代の言うままであり、ポスト団塊(自分はまさにこの世代だが)に属する現首相、前首相も、多少は全世代型社会福祉というような若者に向けた政策を掲げてはいるが、基本的には年金支給額を維持し、定年制の延長など高齢者予備軍の再雇用政策に熱心である。要は、社会的富の配分で、相対的に得をしてきた高齢者への批判が高まってきたところに、このコロナが起こり、その批判はすっかり「高齢者=重症化」という図式の中で打ち消されていったのではないか、というのが自分の見解である。そして、そのことは現在の高齢者の「死生観」の問題と深く関わるのではないかと、自分は考えているが、この項は次回で。どうもこの論考は終わりそうもない。
2021.02.12
もはや、仕事3日、休日4日という生活スタイルがすっかり身に馴染んでしまい、「連休」を期待するような気持ちも、正直なところ、ない。今日が祝日で休みなので、5連休になる。もうそうなると、時間を持て余すだけである。まあ、「貧乏性」というべきだろう。今日は、一日弓。SPOT FOGと新たなトライアンフでどこまで射てるか。後は近所のスーパーが5%引きなので、妻と買い出しに行く。昨日、授業後に3年生の小論文指導。どうも、うまく書けるようにならない。それで、明日、指導を追加することにした。これでうまくいけばいいのだが・・・指導の経験上、文章は鉄棒の「逆上がり」と一緒で、突然クルリと回れるようになる。そういえば、娘の方の孫は二ヶ月くらい前送られてきた動画で、クルリと逆上がりができるようになっていて、驚いた。先日、チョコレートと一緒に送られてきた塗り絵はひどい出来だったが、まあ、逆上がりができるんだからいいか、と我ながらおかしな理屈をつけて納得したのだった。そういうわけで、5連休にはならなかったが、それはそれでいいのである。やはり、「小人閑居にして不善を為す」という古諺は正しい。
2021.02.11
昔、「IT革命」を施政方針演説で「イット革命」と読み上げたオツムの悪い首相が、今は、JOCの会長をしていて、その発言をめぐって世間は喧しい。ラグビー協会の時のことだったらしいが、「女性は競争意識が強いから、我も我もと手を挙げる」てその結果「会議が長くなり閉口した」という。今のJOCの女性委員は「わきまえている」からそんなことはないそうだ。まさに突っ込みどころ満載の「女性蔑視発言」なのだが、批判する側も、どうも根本的なところを間違っている気がしてならない。それは「会議が長くなることは悪いことなのか?」ということだ。重大な問題について決定をする会議が、何の意見の対立もなくシャンシャンで決まってしまい、その結果、国民がひどい目に遭うという経験を我々はしてこなかったのか?百家争鳴、我も我もと手を挙げる、というのは民主的な会議の理想型である。もちろん、議論の本筋から外れたおかしなことを言う人間は必ずいて、それは男性だろうが女性だろうが、困った人たちである。この発言に対して、「私自身はわきまえない女性でいたい!」と元の初の女性防衛大臣は威勢のよい批判発言した(と本人だけは思っているらしい)のだが、彼女は幕僚が居並ぶ就任式に、網タイツにスカート、ハイヒールというまさに「わきまえない」服装で登場した。「ば~か、お前はわきまえろ!」と思ったのは、自分だけだろうか?そして「こういう差別発言」をその場で批判しないJOC理事たちの資質まで問題にするようなコメンテーターがいて、外国ではそんなことはないですよね?と外人コメンテーターにふると「いや、偉い人の発言をなかなかその場で諫めることは少ないです」と言われ、何も言えなくなった。ざまーみろと思った。相も変わらぬ「西欧崇拝主義者」である。JOC会長は、謝罪会見で差別発言であったことは謝罪し、「会議の本筋をわきまえない発言をするのは男性にも女性にもいるというのが正しい言い方でした。それよりも会議が長くなることを、悪いことであるかのように言ったのは、民主主義を否定しかねない重大な問題発言であり、まことに申し訳ございませんでした」とでも言えばよかったのである。今日の教科会は、もう入試問題検討は終わったから、欠席。やっぱり立場をわきまえないとね。
2021.02.10
今日と明日は仕事。今日は2年の現代文+古典+特講。明日は2年古典。木曜日からは5連休。といっても、金曜日あたりに3年生の小論文があるかもしれないので、実際はそうはならない。しかし、こちらのサービスとしてやる指導と、時間割で決められたMUSTの仕事は全く違う。ただ、教員の仕事というのは、このあたりの線引きが難しい。例えば、今は高校でも「学級通信」などというものを出す教師もいる。それが支配的な人物だと、ほかのクラスの教師も「学級通信」を出さねばならない雰囲気になる。そうすると、ボランティアかサービスでやるはずの仕事が、MUSTの仕事として義務化する。教員ほど、自らの本来の仕事から逃げまくる職業人もいないので、授業よりそちらがメインになる。部活動がいい例だ。しかも悪いことに、そちらが本来の仕事と勘違いして定年まで過ごすバカもいる。まあ、それはいい。自分はMUSTだろうがサービスだろうが、「やりたい仕事をやっている」気分がある。そういうと「気分」などという当てにならない言葉と非難する人もいるだろうが、「上機嫌」であることは本質的に大切なことだ。世の中に、家族に、周りの人に文句ばかり言って生きている「不機嫌」な人間たちが、碌に批判精神もなく、権威に同調し、権力に迎合し、「自粛」「自粛」とバカの一つ覚えみたいに叫んでいる。というわけで、午前は機嫌良く射ち、午後から夜まで機嫌良く働いてくることにしようかな。あ、その前に、機嫌良く雪かき・・・とはならないなぁ。
2021.02.09
昨日は息子の二歳の娘の誕生日。朝に忘れずにメール。夜に電話。ラインの調子が悪くて、普通の電話に途中から切り替えた。どうも、家のWI-FIが不調なことが多い。光にするか、会社を変えるか、まあ、もう少し様子を見てからに。孫娘は元気いっぱいで、何やら踊っている、というか、跳びはね、くるくる回っている。出産は予定より早くて、心配したし、言葉も少し遅かったが、今は次々に言葉があふれてくる時期だ。4月から、幼稚園だそうで、昔とは違って幼保一元化の中で、保育園との青田買い競争が激しい。二歳児がオムツをつけたまま幼稚園に通う時代である。昨日、息子はその幼稚園協会での講演。うまくやってきたようだ。息子の結婚式に来てくれた友人は去年、中国地方の大学を辞職。学生募集業務が過酷だったという。大学院に戻ったが、コロナでほとんど通えず、丸々1年引きこもりのような生活をして、4月から息子の隣県の大学への就職が決まったという。めでたい。また、行き来できるだろう。息子の方は、どうやら准教授になれそうな感じだという。もはや、親がどうこうということはなく、自分の力で道を開き始めている。娘も同様だ。どこかの時点で、開業も考えているらしい。娘の孫の方も、この前また仮面ライダーの新しいベルト(何が違うんだか、見てもまったく分からない)を買ってもらい、「剣舞」?を披露していた。目つきがあまりよくない、はは。後は、こちらが子どもたちに依存せず、適度な距離で仲良くやっていくことが大切だ。そのためには、まず身体の健康。それから経済的な意味での健康。たまに会ったら、ご馳走してやり、孫に何か買ってやれるような、ちょっとした余裕があれば、それでいいし、ありがたいことに、現在はそんなふうにやれている。
2021.02.08
見ての通りの惨敗。一回目は8点が1本だけだったが、2回目は4本+7点1本。昨日の8点率からいっても7点が余計だった。こうなると点数は出てこない。カスケードで通したが、次回に向けてはHBC。ドローレングスを短くして、フックまでが長いHBCに合わせて練習予定。
2021.02.08
若いころは、いろいろ頼まれて、家庭教師や予備校、全国模試の作問など、わりとおおっぴらに副業をしていた。最近は、副業もセカンドジョブとかいって、奨励されているようだが、以前はそうではなかった。しかし、勤務時間以外に仕事に拘束されることはないと考えていたから、いろいろなところで教えていた。経済的にはそれで随分助かったのである。多いときは手取り月収の半分以上稼いでいた。今でもお声がかからないわけではないのだが、さすがに夜の仕事はきついので、引き受けない。その必要も、ありがたいことに、あまりない。最近、車を一台にして、妻の送迎が多くなっている。ピアノも習いたいと言う。バスや電車でということもできるが、車があり時間があるから送迎が可能なときは、できるだけしている。やっぱり軽自動車でも買おうか、という話が先日出た。二台目は、年間乗っても3000kmくらいなのだが、ないとやはり不便といえば不便。妻はいろいろ計算して、それよりもタクシーを使う方がいいということに。しかし、さすがに外出を全部タクシーにすると、軽自動車の費用を上回るので、自分が送迎するときは1000円の「送迎手当」をもらうことになった。一昨日は、デパートの呉服店などに行ったので、さっそくありがたくいただいた。昨日もお茶の会があり、着物を着て出かける。試合が終わったらすぐ帰ってきて、送迎。運転手の「お仕事」をするなんて、夢にも思わなかったから、こういう副業も悪くない。まあ、家庭内のお金が回るだけで、我が家としてはまったく潤わないのだけどね。
2021.02.08
うっかり間違えていて、連休は今日までだったことに、昨日気づいた。いつもなら金・土・日・月の4連休。こうなったのには理由があって、授業7時間+特講なので、曜日、時間の希望を出せる。それで、授業、特講とも火・水・木という希望を出しておいたら、そうなったのである。まあ、大分気を遣ってもらった。できれば、次年度もこの体制でいきたい。というわけで本来月曜日は休みだが、明日は3年生の小論文指導と新カリキュラム委員会。そこには名前が入ったので、出ないわけにもいかない。長年やってきた仕事なので要点は分かっているし、そういう人間が少なくなってきている。そういうわけで、今週は3連休。しかし、木曜日が祝日なので来週は5連休だ。まあ、また3年生の指導を入れるから、そうはならないかもしれないが。今月は祝日や入試(こちらは出勤)の関係で、後半の授業日は週2日。来週は4時間+特講3時間でいつも通りだが、その翌週は3時間、翌々週は3時間+特講1時間。3月は全部で8時間。これで今年度の授業は終了だ。
2021.02.07
昨日は1時前から3時ころまで、わりとびっしりと練習。最初は一人だったが的紙は1枚で3本射ち。結局3回点取り。1回目 54-57-54-56-57=278(8)2回目 54-55-53-55-57=275(10)3回目 54-56-54-56-55=275(7) *( )は10点ま、アベレージですね、という感じ。あと10本射てば、8点率、10点率が分かると思い、追加10射。10-9-9-9-9-9-8-9-9-9だった。ちょうど100射。8点率は8%。10点率は26%。4本に1本は10点だ。あとは、8点がなくなれば、280近くまでアベレージは上がる。特に2回目は8点5本と散々だった。これがなくなればいいのだが、なにをどうすればいいのか。一つは、エイミング時点から引きつつ、身体の動きを最小にしようとすること。もう一つは、顔がどうしても突っ込むので、最後の段階でふっと顔を引くようにすること。その瞬間に切れる。① しっかり10点についてからカチッとボタンを押す。② その後は、なるべく下がらないように引き続ける。ピープの上下のゆがみを最小にする。③ 最後はちょっと顔を引く。まあ、そんな感じで今日の試合には臨みたい。試合は午前中。
2021.02.07
連休2日目。今日は午前中に火曜日の特講の予習。共通テストの評論で、「妖怪」がテーマの面白い文章だ。もう解いているのだが、読解過程をきっちり説明するには、もう一度丹念に読むところから始めなければならない。弓は昼前後に。明日が試合だが、特に課題はなく、普通の練習をすればいい。カスケードはカチッのあとではなく、カチッと鳴らすところまでの身体動作が重要である。意識はその辺に。カスケードで「切れる射」を明日の試合では。家事は特にやることもない。風呂の掃除くらい?家具店にでかけてソファ前のテーブルを買い換えようかとも思うが、ちょっと面倒だ。それよりは、スーパーの衣料品のセールなのでセーターを一枚いいのがあったらと思っている。これから二度寝。
2021.02.06
コロナの騒ぎが起こって、1年と少し。連日、今日の感染者数が報道され、クラスターが起これば、病院名、施設名などは原則公表となる。これも、よく分からないのだが、飲食店などは公表されず、クラスターが完全に把握できている場合、病院名等も公表されない。報道の翌日は、ワイドショーに「専門家」が登場し、数字が高い場合は、このまま進むと「医療崩壊が起こる、いや、もう起こっている」と脅迫めいたコメントをまき散らし、数字が、今のように下がってきている場合でも、「いや、重症者数は増えている」とか「ここで気を緩めると、また第4波でもっと大変なことになる」と言う。かくして、日本中がコロナ、コロナの大合唱という異例の1年間が過ぎた。今は、ワクチン接種が予定通り進むはずがない、変異ウィルスにワクチンは効かない、オリンピックまでに収束などあり得ない、などの言説が横行している。一体、これは何のだろうかと考えながら、この1年を過ごしてきた。もちろん、GoToでお得な旅行も楽しんだし、コロナで仕事を失うという悲惨なことにもなっていない。そういう被害を被らない無責任な立場だから、いい加減なことを言うと思われても困るのだが、この騒ぎは異常であると考えざるを得ない理由はいくつもある。まず、コロナウィルスはインフルエンザウィルスを完全に抑え込んでいて、インフルの感染率は、平年の1000分の1だという。年間1万人の死者も限りなくゼロに近い。大目に見ても、日本のコロナ死者数は、こも1年間でその70%であり、なぜインフルの時に、今日の感染者数などを挙げて大騒ぎしなかったのかが疑問だ。次に、ほかの理由で死ぬ人はいくらでもいて、肺炎では年間10万人。ガンや脳卒中ではもっと多いだろう。なぜ、コロナでの死者数だけが連日「これまで最多」「火曜日としては最多」などと、「最多」というそれこそ「殺し文句」をつけて声高に言われるのだろう。危機を煽り、「大変だ、大変だ」という言説が受け入れられる社会の土壌は不健全である。自分は、ナチスの言説がなぜ当時最も「民主的な」憲法を持っていたドイツであれほど広まったのかということを連想してしまう。社会に暮らす普通の人々に、自分でも言語化できない大きな不満が滞留しているとき、デマは大きく拡散していくというのは社会心理学のもはや古典的定説だが、それがある程度今回の場合もあてはまるのではないだろうかと思われる。その不満の具体的内容を、次回、指摘することとしたい。
2021.02.06
昨日、評議員をしている福祉施設から電話が入り、任期が切れたが、継続してお願いしたいとのことだった。まあ、年に1度のことでもあり、社会貢献といえばこれも一種の貢献なので引き受けることとした。もちろん完全に無償。2歳までの乳児を預かる養護施設で、昔は本当に親が養育できない事情を抱えて、ということだったが、今は二グレクトなどの育児放棄が多い。少子化なのに、子どもは大事にされない。東京では保育園が建つと、騒音で迷惑、地価が下がると主張する住民の反対運動で建設が頓挫した。現代は、家族コミュニティの崩壊過程にあるのだろうが、それは子どもを大事にしない社会の到来でもある。いや、大事にされる子どもとそうでない子どもの二極分化がここでも進んでいると言う方が正確かもしれない。だが、大事にすると言っても、それは「親」にとって大事なだけで、社会にとって大事とは決して思っていない親も多く、そういう親が学校のクレーマーとなる。年に1回、ベビーベッドで寝ている赤ちゃんの顔を見ながら、会議室に行くのだが、いつもなんとも言えない思いになる。
2021.02.05
歳を取ると、眠り続ける力もなくなるらしく、冬でも最近は4時ころ目が覚める。とりあえず、起きてストーブの温度を上げ(24℃を26℃に)、牛乳とパンと簡単なサラダで朝食。それから昨日のコーヒーを温め直して。録画してまだ半分しか見ていない、水曜日の『刑事コロンボ』の続きを見ながら。今朝は、それから22年度以降の新カリキュラムの案に目を通す。もはや、現役ではないのだが、教頭の依頼で、今年は一応括弧書きで委員会メンバーに入っている。全体を俯瞰して見なければならないのだが、普通の教員はこれができない。要は自分の教科しか見られない。いくつかの問題点を付箋に書いて、貼っておく。それを提出すれば、自分としては括弧書きのお仕事はおしまい、そこから先は専任で議論すればいい。カリキュラムは学校の土台で、アイデンティティの根源だという意識が、大体のところでは希薄である。これを書いたら、もう一度寝直す。今日は休みなので、昼寝もできるが、妻をデパートに送って、それから弓の練習という午前の予定なので、もう一眠りしておいてもいい。
2021.02.05
北国は、雪が降ると、その除雪が最優先事項になる。昨日も朝の時点では練習に、と思っていたら、玄関を開けると思ったより雪が深い。これはダメだ、と思い、出勤前は雪かき。向かいのご主人は、自分が退勤し帰宅した3時ころ、仕事を抜け出して、雪かきに帰ってきた。同じ再雇用なのだが、向こうはフルタイム。ご苦労様、である。今朝もそこそこ積もっているが、もう気力がない。たいしたことなければ自分でやるが、ダメそうならいつもの人を頼むつもりだ。今日は、いつもだと昼を挟むが、3年の授業はないので、昼まで。1時半には退勤帰宅。その後今日こそ練習に。朝のうちは、仕事と家事。
2021.02.04
昨日は、出勤前に射場で6,70本。最初はカスケードでこれは271。10点9本、8点8本と大荒れの出来。次にSTANやSPOT FOGを持ち出したが全然ダメ。最後にHBCで試してみると、半分は10点に。9点もギリギリの縁ではなく、真ん中に近い。5回くらい射ったが、多分142,3は出た感じ。カスケードはベガスシュートに行ったとき100ドルで買った。円が100円していない時代。STANは確か8千円くらい、SPOT FOGも1万円はしない。だから3本合わせてもHBCの方が高い。やっぱり値段か、と思ったときに、そういえばHBCは数年前、今や全日常連の若いアーチャーから1万円で譲り受けたことを思い出す。やっぱり、リリーサーは値段ではないのだ、はは。今日も出勤前に1時間くらい。HBCを試す予定だ。
2021.02.03
一枚の写真がある。自分が室内なのになにやら分厚いオーバーコートを着、毛糸のマフラーを巻き、空弓を引いている。狙っているのは、高校生の息子で「やられた~~!」という言葉が、聞こえてきそうなノリのよさだ。もう20年ほど前の写真で、あのころは携帯で撮影して、それをDPEで焼いてもらったような気がする。昨日は2日の節分。恵方巻とかいう得体の知れない巻寿司がもう15年も前から定着したが、あんな1本の巻寿司を、北北西だかを向いて、飲み込むような食べ方は嫌いだ。巻寿司は、ちゃんときれいに一口大に切りそろえて、綺麗な皿に並べておくのがおくのがいい。何だか、一気飲みみたいで下品ではないか。というわけで、単に落花生を家中に妻と巻いた。結構本気で「鬼は外~。福は内~!」と叫ぶ。あまり巻くと回収が大変なので、せいぜい一部屋に2,3個。三階などは巻いたそばから拾って歩く。祖父母がいたときは、子どもたちが必死に豆だのチョコだのみかんだのを拾い、500円玉入りのおひねりを一つずつ巻いてくれた。その時に、自分は悪ノリして、前述のような鬼の格好を初めてしたのだが、4歳くらいだった息子はビエビエ泣きわめき、二つ上の娘は怯えながらも、ポツリと一言「パパ・・・」と呟いた。写真は、それから10年後に節分の思い出をふざけて再現した一枚。娘の家では、旦那さんが年男なので娘が鬼に。孫にハイチュウをぶつけられ痛かったと。息子のところは、昨日は幼稚園協会の講演をしたそうで、忙しく、豆まきは今日に、と息子のたっての願い。息子も年男で、鬼にはなれず、飼い猫を鬼に見立てて豆をぶつけるそうだが、猫にはいい迷惑である。何かと年休行事の多い我が家だが、それは子どもたちの家族にも継承されているようだ。
2021.02.03
さっき、2月と3月の授業時間等を数えてみた。もちろん、それ以外にも試験作成、採点、受験生二次指導などがあるが、まあ、ミニマムの労働時間である。2ヶ月で26時間。それに、さっきのいろいろを加えてもだいたい50時間だ。これで、週20時間のみなし労働なのだから、割のいい仕事ではあるのだろう。まあ、せいぜい一生懸命やろうとは思っている。昨日の時点で、今週の準備は終わっている。今週は、朝に試験作成の予定。
2021.02.02
コロナは、確かに世界的にパンデミックといっていい状況だが、東アジアでは、ヨーロッパやアメリカほどではない。人種、衛生意識、生活習慣・・・いろいろなものがファクターXとして論議されたが、まだよく分かっていない。しかし、確かなのは日本では感染者数、死者数が極端に少ないということだ。しかし、この感染者数の少なさは、PCR検査を極力抑制したからであり、今思えば、比較にならないほどの少ない数の第一波の時に、「学校閉鎖」など極端な措置を取ったのは完全に間違いだった。死亡するほとんどは高齢者である。PCR検査の少なさは、ひょっとして街中にはコロナ患者が無数にいるのではないかという恐怖心と政府への不信を生んだ。一方、若年層はほとんどが無症状ということも次第に分かってきた。無症状なら別にかまわない、と考えるのは不道徳でも何でもなく、むしろ当たり前の反応だったと思う。マスコミは、たとえ若い人は無症状でも、家にいるおじいちゃん、おばあちゃんが感染して重症化して、悪くすると命を落とすのだから、自制してほしいと盛んに報道した。しかし、三世代同居家族は、今や地方都市でもほとんどない。首都圏なら、若者も圧倒的に単身世帯である。彼らが、見も知らぬ高齢者を気遣って、街に出るのを「自粛」するとしたら、何かがおかしいと思った方がいい。高齢者の重症化率が高いというのも、もちろん他の病気と比べたデータとしてなら納得できるが、本当にそうなのか。インフルエンザ、季節性肺炎、脳卒中などと比べて本当にものすごく高いのか。「コロナ」→「パンデミック」→「多くの若い人は無症状だが、高齢者は重症化して死に至りやすい」→「医療が逼迫し、やがて崩壊する」→「だから、欧米並みの都市封鎖が必要だが、日本人は民度が高いから自粛で対応可能」という虚偽を交えた言説がテレビで垂れ流される。巷では「医療従事者への感謝」と「差別」が並行する。「国民がみな我慢しているのだから、一律給付を」というバカな経済評論家が現れる。この前まで「GoTo」をお得に使うにはどうしたらいいかをしゃべり散らしていた人だ。言ってみれば、支離滅裂な状況に日本社会は陥っているのだ。どこかの時点でコロナが指定感染症から外れれば、こんなことは起こらなかっただろう。コロナは隔離措置をある程度取れば、民間のクリニックでも診ることができ、初期症状であってもアビガンを投与して、重症化は防げる、と(1)で書いた医師は主張していた。今、罰則を加えた特措法が決まったが、「罰則」を言うなら、なぜ「人前でのマスク着用」を義務化し、罰則を設けなかったのか。交通違反並みの反則金であっても効果はかなりあっただろう。喫煙者にはそれができたのだから、できないはずはなかった。しかし、問題の根本はそこにはないと、自分は考える。むしろコロナの病理に冒されているのは、「日本社会」なのだと思う。その点を次回で論じたい。
2021.02.02
昨夜はステーキ。和牛の安い肉があったというので、久々に。最近はステーキソースではなく、雪塩とワサビ菜漬けをかけて食べる。伊勢で松阪牛を食べて以来のマイブーム。ところが、和牛といっても安い肉はやっぱり安い肉で、固くてダメだった。これならオージービーフと変わらない。といってもステーキは好物で、ペロッと食べたのである。どうせ、せいぜい月一回の贅沢なら、今度は高くても名のある国産牛でということになる。今日は、去年以来ドクターの手術で休院していた整形が再開。新聞に告知が載っていた。朝にいつものように診察券を出し、順番をもらい、大体いい頃合いにもう一度出かける。ネット予約が主流の時代に面倒だが、確実なシステムである。その後、デパートに美味いもの展がきていて、いつもの沖縄の蜂蜜を。それから、これも久しぶりだがホテルランチに、という予定。ランチは天丼定食にしておこうかと思っている。すき焼き定食もあるのだが、昨日も牛だったしな。
2021.02.01
今朝、右の肘のあたりが、明らかに筋肉痛。原因は弓かな、と思ったが、違った。雪かきである。このところ三日連続で、朝に10cm程度の雪が積もっており、家の前をかいた。庭や歩道部分にはね上げるのだが、その時にかなり腕力がいる。年の割には腕力はあるつもりだったが、弓で押し手を保つのとはまた別の筋力が必要だ。弓の筋力は、普段使わないと分かっていたのだが、普段の筋力となると、本当に使わない。冗談で「チョークより重いモノは持ったことがない」などと言うのだが、洒落にならなくなってきた。ジムにでも通うか・・・・
2021.02.01
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