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子どものころ、デパートに行くということは、特別のことだった。いい服を着せられ、5階のおもちゃ売り場に行くと、そこは夢の世界だった。良質で高価な品物が、定価で売られている。店員はよく訓練され、最上の接客をしてくれる。そういう空気がデパートから消失したのはいつからだろう。おそらくバブル崩壊後くらいから、デパートの売り上げは落ちてきたのだろうが、イトーヨーカ堂や長崎屋という大規模スーパーに人びとは行くようになった。そこでは、デパートのような紳士服、婦人服も売られていたが、品質は少し劣り、値段は安かった。数字の末尾が980円というのが不文律のように値札が下がっていた。そして青山、アオキなどの紳士服専門店、ユニクロ、外食産業。もうデパートで買うものも、食べるものもない。しかし、そういう状況でも、デパートは何とか悪戦苦闘していた。専門店のスペースを取り、売り場面積の切り売りを始め、全国うまいもの市を頻繁に開催し、一階はすべてブランドショップで埋め尽くした。が、ブランド品がほしい人びとは、直営店かネットか郊外のアウトレット店で、購入するようになる。もはやデパートの包装紙の特別感もなくなった。お中元、お歳暮という贈答文化の衰退もあった。今日、生まれ故郷のデパートが閉店する。藤丸さん、丸井さん、棒二さんとどこでもそうだが、敬称つきで呼ばなければならないような雰囲気を持っていた大規模百貨店が、とうとう大都市札幌以外からすべて姿を消すことになる。消えてしまったね消えてゆくんだね時が流れていく時が移っていく少し泣きたくなるちょっと悲しくなる少し泣きたくなるちょっと寂しくなる(吉田拓郎 『消えてゆくもの』)子どものころ、九州に家族旅行に行ったことがある。あれが、自分の最大の家族旅行だった。福岡でも、宮崎でも、鹿児島でも、「どこに行きたい?」と聞かれ、「デパート!」と元気に答えると、両親は苦笑していた。
2023.01.31
政府はやっとコロナを季節性インフル並みの5類に引き下げることを決めた。「遅きに失する」という言葉があるが、その典型である。去年の1月にこんな記事を書いていた。→ インフルエンザ並み。別に先見の明を誇るつもりはない。そんなことはみんな分かっていたのだ。ちょっと一部引用しておこう。――― 国民的実感として、コロナで大騒ぎして、飲食店が休業したり、無理にテレワークをさせらりたりすることに辟易し始めたのではないか。マスコミの論調も完全にそうで、「専門家」と称する人たちも「ロックダウン」ではなく「社会生活を持続させた上での感染対策」と口をそろえる。以前とはエラい違いである。ワクチン、治療薬などが現れた今、コロナはちょっとタチの悪いインフルエンザ程度になったのではないか。というわけで、たっぷり1年は、遅れたのだ。その理由は、日本医師会である。自分の同級生が三代目の院長を務める病院は、藪医者で、普段はほとんど患者がいない。ところが、いち早く発熱外来、PCR検査などの受け入れ体制を作り、世間では5億、いや、10億儲けたという噂がしきりである。そういうところもある一方で、ほとんどのクリニックでは、マスコミに煽られた世間の人と同じく、「コロナ恐い」と思い込み、「熱がある人は、来るな」という対応を取っていた。どちらにしても開業医の集まりである日本医師会は、自民党にとって大きな力を持つ圧力団体で、その意向に逆らうことはできない。しかし、一方、経済界からは、マスコミがいまだに「行動制限」と名づける「自粛要請」や、原油高、円安、半導体不足で、疲弊してきている。ここで、景気のカンフル剤として、「コロナ5類移行、行動制限なしに」という政策が喉から手が出るほど、ほしかったのだ。結局、自ら考える能力のない現政権は、両者の綱引きの様子を見て、経済界の側になびいたということだろうと思う。一年前よりもさらに患者数は増え、これだけ増えるといくら致死率がインフル並みとはいえ、死亡者数も過去最高を更新している現在、5類移行を決めるのは、あまりいいタイミングではなかった。やるなら、一年前だったと思う。ワクチン、特効薬等は一年前からすでにあったし、患者数などからいっても、その方が効果的だった。景気の面でも、やはり「遅きに失する」ことになるだろう。「賃上げ、賃上げ」と声高に叫び、ユニクロなどは大胆な賃上げに踏み切るが、あれはグローバル企業が、アメリカやヨーロッパの社員の賃金に合わせたのであり、予定の行動を時流に乗せただけである。同じく、グローバル企業のトヨタなども賃上げはするだろうが、中小企業は企業間物価を製品価格に半分程度しか反映できていない。儲けが半分になっているのに、賃上げをするわけにはいかない。どちらにしても、何をいまさら、と思う国民は少なくないはずだ。
2023.01.28
ホモ・サピエンス、すなわち、人間の本質を「知」であり、また「理性」であるとする人間観は、デカルトの「我思う、故に我あり」から、カントの『純粋理性批判』を経て、フォイエルバッハの「神が人間を作ったのではない。人間が、その姿に似せて神を作ったのだ」という「無神論」へと逢着する。「ホモ・サピエンス」という人間観は、理性絶対主義をもたらした。人間存在はまずもって「理性」であり、極端に言えば、身体はなくてもアタマさえあれば、人間はその本質を具現できる。そして、理性絶対主義とともに、キリスト教の神は絶対でなくなった。自然災害は、壮大な計画に基づく神の意志とされたが、人間は理性によって、乗り越える経験を重ねた。業病とされた病の特効薬が開発され、生産性は上がり、飢餓で死ぬ者も減っていった。人間を救済するのは、もはや神ではなく人類自身であると、考えられるようになった。一方、同時に、人間の本質を、理性ではなくもっと別のところに見ようとする哲学的思考は『(音楽の精神からの)悲劇の誕生』を著わしたフリードリッヒ・ニーチェにすでに始まり、デュルタイの「生の哲学」、「知性」ではなく「身体性」を重視したフランス現象学、さらにはハイデガー、サルトルの無神論的実存主義へと続いていく。そして、理性の産物である科学が、第一次大戦では大量殺戮兵器を、第二次大戦では原子爆弾を、その後も原発を、また科学の産物である先進国の豊かな物質文明による環境破壊や気候変動を引き起こす事態を目の当たりにして、先駆的哲学者たちに続いて、一般大衆(といっても、決して無知蒙昧な大衆ではなく、十分に「啓蒙」された大衆)までが、科学と、その礎である「人間=理性(ホモ・サピエンス」という人間観を疑い始めるに至る。しかし、問題は、社会制度が、人間の本質を理性とする在り様に大きく変わってしまったことだ。フランス百科全書派に始まる啓蒙主義は、市民革命を生み、学校制度を作り上げていく。その学校制度は、今でも知性第一主義を貫き、遅れた先進国では激烈な学歴社会が「制度」としてできあがってしまっている。大学教育が、大衆化した今は、問題視されるのは学歴ではなく「学校歴」であり、「Fラン大学」にしか入れないということは、間違いなく学校歴社会カーストの下位者であるということだ。「問題解決能力」と言おうが、「問題設定能力」と言おうが、社会生活を送っていく上で、求められているのは「頭の良さ」であることは間違いなく、その上での「コミュニケーション・スキル」や「協調性」なのだ。いや、「同情心」すら、「アタマの悪い」人の同情心は、ただ押しつけがましく、迷惑なだけだ。そういう社会に生きていながら、我々は人間の本質としての「頭の良さ」を信用していない。人間の頭など、たかが知れている、と哲学者たちは考えている。彼らが、大学で哲学を教える人間として生活していけるのは、間違いなく、ある種の「頭の良さ」なのだが、それはそれである。では、その中で、我々は人間をどう考え始めたのか。それは次項に譲りたい。
2023.01.26
家事や、仕事や、いろいろな趣味で忙しくなってきているのに、残念ながら体力がそれに追いついていかない。ここで、ほぼ毎朝、1,2時間かけて、いろいろなことを書いてきたが、どうも途切れ途切れ、断続的になってしまうことになりそうだ。これよりも、面白いことがたくさんありすぎる。誰が見ているというわけでもないのだから、それでいいのじゃないか。さっきまで「哲学論考」のカテゴリーで「人間論(2)ホモ・サピエンスの凋落」という文章を綴っていたのだが、どうにも面倒で1000字くらいのところで、下書き保存してしまった。これは「演劇的人間」という自分の今の人間観にまでつなげていきたいのだが、今週中は、とても無理だろう。というわけで、まあ、「休筆」などというと大袈裟だが、断続的に、時間の余裕があるときに、ポツポツと綴っていくことにする。今朝は、いつものように、サラダとピザとコーヒーの朝食。これから、雪かきかな。車の周りだけにして、後はまた人に頼むか。
2023.01.24
エイムオフとは、意図的に狙いを中心から外して射つ技術だ。フィールドなどで用いられる。アンマークド(距離表示のない)では、大体45mなどという予測をして、射つ。1本目は12時3点。つまり、予測の45mよりは2、3mくらいは短い。この場合、サイトを直すやり方もあるが、多くは6時3点を狙って2射目を射つ。計算上は、それで真ん中を射抜くはずだ。とまあ、技術基礎論みたいなことを書いたのだが、自分の場合は、普段からエイムオフの射になっている。フィールドと違って、距離は18mで変わらないのだが、いつも7時7点近辺で射つ。なぜ、そうなるのかはターゲットパニックという面倒な現象を説明しなければならないのだが、面倒だからやめておく。エイムオフで大事な点は、身体が緩まないようにすることだ。普段と違う場所を狙うので、そちらに意識が行きすぎて、張りが緩むと大きく外す。次に、最後に押し手を動かさないことである。これも下を狙う場合は、ついつい最後に押し手を上げる(しゃくる)感じになってしまいがちだ。自分が、気をつけているのも、まさにその2点だ。張りが緩まないためには、十分引いて、引きながら離す(カスケードだから、ボタンを離すと発射する)。押し手は、弓が飛び出すままにしておき、弓が落ちるにまかせる。そうやって射てば、7時7点でも、真ん中を射抜く快感は味わえる。いや、サイト調整して真ん中狙って射てば?というふうに思うだろうが、できない。なぜできないかは、面倒だから書かない。今日は、昼過ぎにスーパーでみかんを買ってから(また、1箱なくなりそうだ)、射場に。多分2時間は射てそうだ。
2023.01.22
自分の予想は阿炎の連覇。ここまでの取り口は圧勝である。今日、貴景勝戦だが、やはり一気にもっていく相撲になりそうだ。二番手は豊昇龍。体重も150kg近くになったが、相変わらず速い。三番手は大栄翔。これも速攻の押し相撲だ。などという予想を5日目で書いたのだが、阿炎と豊昇龍は7勝7敗。千秋楽に勝ち越しを賭ける。大栄翔は昨日、琴勝峰に敗れ9勝5敗。度外れもいい加減にしろ、と言いたいくらいの外し方である。これが競馬の予想屋だったら、明日から客がつかなくなる。3敗で並んだ大関貴景勝と前頭13枚目の琴勝峰が結びの一番。相撲を見ない人には分からない話だが、ここ数年、千秋楽の取組みは14日目の取組み終了後、「割を崩す」形で決定される。「割を崩す」とは、今場所であれば、従来なら、千秋楽結びの一番は最も地位の高い二人、今場所なら貴景勝と関脇筆頭の若隆景の対戦が自動的に組まれていたが、そうなると琴勝峰が三役陣との対戦なしで、12勝で優勝などという事態が起こりかねない。それは「競技」としては、あまりにも不公平だし、優勝の価値も下がる。若隆景、若元春の兄弟三役は、昨日見事な相撲で勝ち越しを決め、来場所でも兄弟三役が見られる。怪我で一日だけ休んだ豊昇龍は、左足がまだ全然治っていないようで、今日も苦しい展開になりそうだ。前半、絶好調の阿炎は6日目からの4連敗。押し相撲は、一度調子が狂うと、負けが続く。四つ相撲の本格派、十両朝乃山が、十両で13勝、優勝も決め、今日勝てば十両一場所で通過し、幕の内に上がりそうだ。元来、自分は四つ相撲が好きだ。飛んだり、はねたり、かわしたりせず、がっぷり四つになってからの引きつけあい、寄り切る、投げる、それこそが相撲の醍醐味だ。輪島ー北の湖戦は、そういう相撲だった。先場所、大関から陥落し、関脇となった正代は関脇でも8敗。先々場所大関陥落の御嶽海の後をついているかのような地位の下がり方である。その御嶽海は、三枚目でまた負け越し。次の横綱候補の二人が、大関に上がることもないだろう。一時代を築きかけた力士たちが凋落していく。それも、相撲の見所の一つではある。長く大相撲を見ていると、力士それぞれの栄枯盛衰がよく分かる。今場所引退した37歳、隠岐の海も、若いころは大関候補と数年言われていたが、とうとうそこには手が届かなかった。しかし、そこから十年以上幕の内に留まり、若手の壁であり続けた。評価は十分出来る。というわけで、結びの一番だけではなく、いろいろと見所が多い千秋楽である。
2023.01.22
木曜が休業日で、火曜に仕事が始まった途端の5連休。一昨日は、妻に付き合って、デパートの催事場での新春茶会。毎年恒例なのだが、今年はそれほどの賑わいではなかった。やはり、コロナと高齢化が原因だろう。華道展を見て、案内されたのは三席目で、前方の座席。道具や軸がよく見える上席である。自分も妻も、どこかで習ったわけでもないが、おもての茶会に出続けているうちに、いつも券を買う方が気を遣ってくれたらしい。亡くなった母は、造園家としても有名な小堀遠州を開祖とする「遠州流」の免許皆伝で、よくお茶を点てていた。それで妻は、自然に作法を覚えたらしい。「お茶は楽しく、おいしく」というのが母の口癖で、自分は作法など何も知らない。「おいしく」という点から言えば、茶会の茶はそれほどおいしくない。点て方の問題ではなく、そもそも非常に高いお茶という訳ではないのだ。それでも、観光地でよく出る色だけついているような抹茶よりは余程おいしい。何でもかんでも「抹茶味」というのが流行っているが、あれも本当にお茶を飲む人は大体、嫌いである。コーヒー通は決してコーヒー味のクッキーなど食べないのと同じだろう。毎日3,4杯コーヒーを飲む自分はコーヒー味の何とかは気にならないが、年に数回しか抹茶を嗜むこともないのに、抹茶味の何とかは大嫌いだ。昨日は家でまったりと思ったが、駅ピアノに再び。今回は駅はガラガラで観客もいず、気楽に上手く弾けた。結局、ピアノも弓も自分の腕前以上のことはできないのだ。高速が通ったが、それでも新幹線駅には40分はかかる。それで3分ちょっとの曲を2曲弾いてくる。帰りがけに、道の駅でいつものアップルパイ、クレソンなどを買う。贅沢と言えばそうかもしれないが、ほとんどお金はかかっていない。昨夜は久々に焼きそば。ホットプレートで、豚肉、海老、キャベツ、玉葱、ピーマンと一緒に焼く。「息子は昔、ヤキソソバと言ってたね」などと他愛ないことを話ながら、これも久々のビール。正月用のが1ケース残っている。まあ、連休前半はこんな具合に過ぎた。今日は午前中は雪かき。午後から弓か健康麻雀に。あるいは、夜に妻が行きたがっているピアノバーに行きますか。【追記】健康麻雀には行ったが、弓とピアノバーは行かなかった。
2023.01.21
と、今のところは思っているのだが、どうなるか。まあ、少し弓関係の事務仕事があるし、吹雪かないうちに、もう一度駅ピアノと妻が言い出すかもしれない。大体、そんなところかな。
2023.01.20
古来、人間とはどういう存在なのか、つまり、人間の「本質」を問うことは、哲学の王道であった。イデア論(プラトン)は、人間を、イデア(理想)の世界から脱落したもの、しかし、その世界の記憶を持つ者とした。これは、人間を「神の似姿」としたキリスト教的人間論と相俟って、西欧哲学の長い伝統の最初に現れた人間観である。アリストテレスは、現実の人間を見て、「ポリス(政治)的動物」だとしたが、現在の政治哲学の第一章には必ずこのことへの言及があり、国家・社会から会社・家族など、あらゆる集団の中での人間の行為を論ずるときの、暗黙の前提となっている。現実の人間の向こう側に「理想」を見ようとするプラトンの人間観は、ギリシア芸術において、具現化していく。いくつもの人間の理想的姿態が、絵画に描かれ、石に刻まれた。他方、人間の「現実」にこそ、その本質があるとするアリストテレス的人間観は、愚かな人間の滅亡を描くギリシア悲劇や、その愚かさを笑う喜劇として芸術化されていく。このような簡単な俯瞰から、ホモ・サピエンスというおなじみの「人間観」を眺めたとき、それがプラトンの系譜に属すことは明らかだ。しかし、同時にそれはキリスト教の「神の似姿」という人間観の逆倒である。フィエルバッハが喝破したように、ホモ・サピエンス(理性的人間)に似せて「神々」は作られたのであり、理性の中に「真」は無論のこと、「善」も「美」も宿るのである。より正確に言えば、「善」「美」は「真」の一側面にすぎず、「真」ならざる「善」も、「真」ならざる「美」もあり得ないのだ。この人間観が、どのように生まれたのかは、ルネサンス以降の西欧史を見れば十分なので、ここでは割愛するが、一つだけ強調したいのは、それが「特殊西欧的」現象なのであり、そのことだけをもっても「普遍性」を欠く、偏った見方だということだ。ここで誕生した「人間中心主義」が、大量殺戮戦争を可能にし、環境問題を引き起こしたのである。次項では、ホモ・サピエンスという人間観の凋落について論ずる。
2023.01.20
昨日は、退勤後スーパーに寄り、今年最後になるかもしれないミカンを箱で買い(大体毎年7,8箱は消費する)、射場に寄った。一昨日、あまりに早く目覚め、睡眠不足だったので30射だけ、というつもり。結果は279。5エンド表で8点を射ち、280には届かなかったが、試合でも279は射てたので、案外、これでいけそうな気がしてきた。相変わらず7時7点くらいについたところでエイムオフで射つのだが、仮に真ん中につけても、ピタッとつくわけじゃないのだから、理屈は同じである。帰って、相撲を見た、というかほぼ全取組みの間昼寝。昨夜も9時台には入眠して、睡眠不足は解消。今日は、2時間。その後、健康麻雀に。
2023.01.18
久しぶりの勤務からの帰途、何気なくテレビをつけていたら、北海道では去年と比べて、電気代が7万から14万に、というような話題だった。すべて、オール電化の住宅らしい。オール電化は、もし7万だとすれば、そう高くはない。我が家の、先月の灯油代は5万くらい。電気代金は15,000円ほどだから、ちょっと高いが、それで家中に寒いところがなくなるのなら、と思ってオール電化の住宅購入した人も多いのだろう。しかし、14万となると年金生活者にはつらい。勤めていれば、「冬季暖房手当」という名目で、確か10万くらいの手当があったが、年金にはそんなものはない。夫婦二人暮らしの年金は平均で20万。そのうち14万が電気料金で消えていけば、年金だけでは暮らせない。我が家の暖房は、FFストーブが7台。そのうち2台(1階、2階の居間)はほぼオールシーズン、24時間フル稼働。ピアノ室と妻の寝室の2台は時々稼働。3台(子ども部屋2室、3階)はほとんど使わない。冬場は冷蔵庫代わりになっている。トイレはパネル式がほぼ24時間。脱衣室もヒーターで入浴前1時間程度。玄関はファンヒータを朝に3時間。まあ、そんな具合なのだが、オール電化の床暖房と比べると、温度差が大きい。窓はすべてシャノンのペアガラスで、さらに内窓も何カ所かあるのだが、今どきの高気密住宅ではない。住宅全体を魔法瓶のように断熱材で包み込み、それだけだと結露がすごいので、強制換気システムをつけるのが、最近の北海道の住宅設計のスタンダードだが、その前の時代のものだ。個別暖房なので、同じ居間の中でも結構な温度差がある。最近、朝起きると、くしゃみと鼻水がすごくて悩まされていた。今朝は、起きた途端、居間のFFの温度を23℃から25℃に上げ、パジャマの上から暖パン、厚めのポロシャツ、セーターを着込んで、新聞を取りに行くときに玄関のファンヒーターを点け、台所で昨夜のビーフシチューの鍋を洗い、自分の朝食、昼食、妻の昼食用サンドイッチ、妻の朝食用のサラダを作り、それを食べながらPCに向かっているが、今のところ大丈夫だ。くしゃみも鼻水もない。これから、天鳳を1回打って、居間の掃除。そうこうするうちに、妻が起き出すから、コーヒーを新しく淹れなおして、妻の朝食に付き合う。9時出勤予定。
2023.01.18
昨日から始業だが、自分は、火水木の人なので、今日から仕事。2年のプリント準備(課題の解答)は書いたのだが、3年の2クラスは何も準備していない。まあ、問題集の問題を刷って、生徒が解答している時間に自分も解答すればいい。授業は2,3,4の3連続。朝にちょっと早く出かけて、コピーを回すことにする。共通テスト問題は、結局、細かい字を読むのが苦痛で、解いていない。が、問題文はマトモだった。小説は梅崎春生。受験生には共感できないかもしれないが、良質の文章だ。24連休は、多分、勤めてから初めてではないか。この間、ピアノを弾き、弓を射ち、麻雀を打ち、病院に行き、レンタルDVDで、医療モノの海外ドラマを見、家事も結構真面目にやり……というふうに過ごした。仕事が始まり、ちょっと嬉しいような気分だ。今朝はまだまだ時間があるから、これから「天鳳」でも。
2023.01.17
土曜日は、練習後、友人とお茶する予定の妻をデパートに送ってから、性懲りもなく健康麻雀に。行ったのが2時だったから、空いてるかな?と思ったら、幸い一人入れる卓があった。1位と3位。最後は危うくラスだったが、確か3900を上がって切り抜ける。四暗刻の聴牌をしてしまって、ドラの東を切った放銃が痛かったが、あれは降りるのが正解とは思わない。ただ、ドラの処理が遅れた。対子が一つ暗刻になったところで、切っておくべきだった。「天鳳」はその日まで7連続1位と絶好調だったが、その後3連続ラス。昨日は3連続2位と同じ順位が妙に続く。やはり、相手の河への注意が足りない。実際に誰かが打っているリアル麻雀なのだが、やはり、非対面だとつい油断する。こちらは、まだまだ修行が足りない。
2023.01.17
一昨日の月例会。HBCでは3本に1本は赤が出るような状態で、これはもうどうしようもないな、と思い、土曜日、急遽カスケードをまたもや取り出した。完全な付け焼き刃なので、点数の期待は初めからしていなかった。10-9-9の後、9-7-7。最悪のスタートとなった。その後も7点を2回も出したが、「8点は射ってないもんね!」と空威張り。途中10-10-10があり、何とか270ぎりぎりかな、と思った最終の3本で8点。結局270ジャストで終わった。ただ、自分としては、よくもここまで挽回できたね、という感じ。10点は9本だったことになる。エイミングは7時7点くらいにしか付かない。そこで、身体を張って、緩まないことだけに気をつけて、エイヤ!と放す。それでもまだ右上に行くので、途中サイトを完全に、そこに合わせた。もし、真ん中にサイトが付けば、1時の7点か6点くらいまで行ってしまうだろう。2回目は、ズル射ちに更に徹した。7時6点でも構わない、とにかく緩まないこと、引き手に意識を集中し、引きながら放すことに集中した。結果は279。8点1本ですんだ。10-10-10をまた射った。ハンデ戦で2位。ハンデなしでも2位。まだ、そのくらいの位置にはいられる。もう今年は69歳、来年は70歳だ。これ以上、射を変えても、辛いだけである。「ズル射ちでいいじゃない!」と強く思った。ズル射ちで、自己記録更新!今年の目標が決まった。
2023.01.17
昨日、共通テスト一日目。どこかの会場で、5秒から1分早く試験終了としてしまい、受験生全員が再試験対象となった。5秒や1分で、結果が変わるとも思えないのだが、まあ、妥当な措置なのだろう。自分の大学入試は、もう50年も前のことだ。共通一次試験が始まったのは、その数年後くらいで、国立大学は一期校、二期校に分かれていた。旧帝大や、一橋、横国、金沢などが一期校で、山形、弘前などが二期校。大体は、一期校に落ちれば二期校に回り、それもダメなら私立、という非常に分かりやすい「序列」が付けられていた。自分は街中の旧校舎で試験を受け、石炭ストーブが熱くてかなわなかった記憶があるが、その100人もいた部屋の合格者は自分と妻だけだった。その「序列」を「是正」するという目的で始まったのが、共通一次試験、それを引き継いだのが大学入試センター試験、そして3年前からの共通テストとなるわけだが、結局、大学の「序列」はさらに細分化される結果となった。そもそも人間は「序列」を付けずにはいられないのである。マークシートという試験形式は、数万人が受ける試験としては便利だが、精度は低い。その得点力と学力は必ずしも相関しない。現代文の問題で本文の要旨を100字で書くのと、①~⑤から一つ選ぶのでは、そもそも難易度がまったく違う。選択なら、旧帝大クラスの受験生は間違えない。が、それでは困るので、間違うような「罠」を選択肢文に仕掛けるようになる。「要旨」は一番正確に捉えているが、ちょっとした部分に間違いをさりげなく書いておく。予備校は、その「罠」を見抜く力を教え込み、そこは間違わなくなるが、では、自力で要旨を書けるかと言えば、書けなくなる。それが分かっているから、旧帝大は二次試験でたっぷりと書かせる。東大なんかは、二次の比率が4倍。共通テストのちょっとした間違いなどは、記述を一題しっかり書けば逆転できる。ところが、レベルの低い国立大は、受験生を集めるために、二次の比率を下げる。教育大などは二次比率が1割、あるいはゼロ。そういう人間が、指導書に頼り切って教壇に立つ。しかし、まあ、そういう話はいい。今朝は、細かすぎる新聞の活字を追って、どういう問題だったのかを一通りは見ておこうと思う。結局、解くことになるが、自慢じゃないがこの試験で間違ったことは一度もない。そうでなければ、教師なんてやってられない。
2023.01.15
24連休などと喜んでいたのだが、来週の火曜日から新学期。すっかり、仕事のことは忘れて、遊んでばかりの冬休みだった。ピアノ、弓、麻雀。自分の遊びは、主にこの3つで、共通点は、上手くなるための努力、である。ホイジンガーは、人間を「遊戯的人間(ホモ=ルーデンス)」と定義したが、この20日くらい、自分はまさにそれだった。弓は、とにかく10点を狙えるように、という発想を変えて、エイミングの中で10点についたコンマ数秒の時間を「瞬間」とは考えず、その中で、慌てず、じっくり、引いて放す射にたどり着いた。そんなこと、当たり前じゃないか、と思われるかもしれないが、おそらくアーチャーなら分かる感覚だと思う。ピアノは、ファジルサイは速度108では大体弾けるから、これを4ずつ上げていき、最終的に116で弾ければOKだ。できれば120。毎日3回は弾いている。『トロイメライ』は真逆の曲調で、ゆっくり和音を優しく弾く。毎日、1時間半くらいは弾く。麻雀は、絶好調で1位を7回連続で取った。こちらは、最終的にトップ、でなければ2位、悪くてもラスを引かないこと。そのための、最高効率の打牌、状況把握力、ベタ降りか、半降りで回るか、全ツッパでいくかを的確に判断すること。上がっても降っても、もう前とは違う次の状況になる。そこをまた素早く把握していく。「麻雀をやると認知症防止になる」というのは、数字合わせや点数計算のレベルの話だ。強くなろうと思ったら、アタマはフル回転である。今日は共通テスト。明日、新聞の小さな字を苦労して読んで、解くのが仕事始めになるだろう。いや、その前に、2年の休み前の課題の解答を先ほど書いたところ。まあ、仕事の努力もまた「遊戯的」ではある。
2023.01.14
横綱が休場し、貴景勝の一人大関の初場所。何だか寂しい感じだが、これが意外なほど盛り上がっている。コロナの制限もかなり緩和され、声援が飛び、弓取り式では「よいしょう!」の掛け声が響く。やはり、大相撲はこうでなくちゃいけない。中日新聞の『はやわざ御免』という、第52代横綱で、名横綱千代の富士の師匠だった北の富士が書くコラムが面白い。軽妙洒脱の見本のような文章だ。ネットにも毎日、場所中は掲載され、そこにコメントを入れてから、ここを書くというのが、このところの朝の日課。さて、序盤5日目が終わったところでの、主な力士の勝敗は、大関 貴景勝 4-1関脇 若隆景 2-3 豊昇龍 4-1 高安 1-4 正代 1-4小結 霧馬山 3-2 若元春 2-3前頭 大栄翔 4-1 阿炎 5-0 琴勝峰 5-0など。あと一人全勝はいるのだが、面倒なので、省略。自分の予想は阿炎の連覇。ここまでの取り口は圧勝である。今日、貴景勝戦だが、やはり一気にもっていく相撲になりそうだ。二番手は豊昇龍。体重も150kg近くになったが、相変わらず速い。三番手は大栄翔。これも速攻の押し相撲だ。彼らのような駆け上がっていく力士もいれば、正代、御嶽海のような、かつては大関にまで上り詰め、横綱に手がかかりそうだったのに、今は見る影もないほど弱い力士もいる。まあ、当たるも八卦、という素人予想だが、千秋楽、どうなっていることか、楽しみではある。
2023.01.13
グランドピアノを買った時、息子がお祝いにと贈ってくれたのが、昔ながらのネジ巻きのメトロノーム。今どきは、スマホにもそういうアプリがあり、無料なのだが、やはり、自分たちの世代にはネジ巻きがいい。昨日は、ピアノの先生が来て、二人ともレッスン。妻は月2、自分は月1のペースだが、二人まとめての時は我が家にお越し願う。大御所の先生だと、そういう時のレッスン料は3倍だそうだが、まあ、若手の演奏家だし、普段と同じで勘弁してもらっている。ファジルサイの展開部の速度が遅いという指摘。弾きだしは120近くで弾いているが、展開部でそれが100くらいに落ちているという。先生のスマホに合わせてみると、確かに。レッスン料は普段と同じの代わりに、と言ってはなんだが、レッスン後、大体昼食を一緒に食べる。昨日は4時に、我が家から2時間はかかる町で、ソロコンクールに出るクラリネットの中学生の伴奏の合わせがあるそうで、1時半過ぎくらいに出ればいいから時間の余裕はある。それで、沖縄からいただいた紅豚のしゃぶしゃぶということにした。葱はもちろん弓友からいただいた下仁田葱。二人だと200gも食べればいいところだが、大体600gくらい3人で食べた。さすがに若い。その後、妻がお茶を点て、白松が羊羹の栗と、七福神の和三盆。先生は、かなり迷って「恵比寿」を選ぶ。「商売繁盛」の神様。まあ、生徒が増えるといいのだが。地方都市で、演奏だけで食べていける人は一人もいない。夕食後、半分酔った状態で弾くと、とてもじゃないが、120では展開部は弾けない。108ならと思ったが、これも苦しい。しかも108では、導入部が何ともかったるい。ああ、これはダメだな、と思って今日から思い切って100くらいから展開部をしっかり弾く練習をすることにした。これは、ちょっと真面目にやらないと、発表会に間に合わない。息子のメトロノームをフル活用せねば。
2023.01.13
麻雀は、3人の相手との勝負だから、いつも勝てるわけではない、というのは知ってはいるが、昨日の前半二半荘は、散々だった。高い手のダマテンをした途端の放銃、リーチして放銃、降りたはずの放銃、とほとんど自分一人で振って、1万点割れの4位、4位。相手は雀婆の中では、比較的強いのだが、それにしても酷かった。後半二半荘は、やっと運が巡ってきて1位、1位。ぶっちぎり、という訳でもなかったが、比較的余裕をもっての1位だった。もう少し「天鳳」で鍛える必要がある。このところ、なかなか1位が取れない。いろいろと細かな技術を勉強する段階にきたようだ。
2023.01.12
明日、我が家で夫婦でレッスン。前回よりは少しはましになったが、まだまだなので、午前中は、じっくり弾き込むことにする。最初は強く、ゆっくり。次は曲想をつけて、という具合に、トロイメライとファジルサイを。それでも、1時間は練習しない。それから、今日は健康麻雀。前回はよかったが、どうだろうか?少し、天鳳でも負けなくはなってきている。11時から3時まで。お弁当のサンドウィッチはもう作った。弓の方は、今日はお休みだ。
2023.01.11
昨日は、胃カメラと採血検査。まず、胃カメラは少し鼻から喉への通路が狭く、いつもそこがきついのだが、もう慣れた。自分も画像を見ながら、医師が説明しながら、映していく。「食道はまったく大丈夫だね」、「ああ、胃もね。この前、どこにリンパ腫あったか分からないくらいきれいだね」、「十二指腸もOK」。こちらは素人だから、画像を見ても、何も分からないのだが、とりあえず安心する。もう、ここ3回くらいは、念のため組織を取って、調べるということもなくなっている。「ピロリ菌がいないリンパ腫が治った場合、ほぼ再発はないし、胃がんになる確率もほとんどないから、胃の方はもう心配ないですね。まあ、だけど年1回くらいは」と言って、来年の予約も入れてきた。次は、泌尿器科。PSA値、というのは前立腺肥大の徴候を示すのだが、これが高いと、前立腺癌のリスクも高い。今回は5.7くらい。ずっと4点台だったから、ちょっと跳ね上がった。自分の場合、もうどちらにしても「癌」という診断は出ているのだが、数値の上昇は、癌の進行を示す可能性がある。この数字が現状維持か微増なら、生検はいいかな、と思っていた。「先生、この数字だと、生検やった方がいいですか?それともするべきだと、と思いますか?」「うーん、やるべきですね」「分かりました。それじゃ、やります」一応、専門家なのだから、医師の支持には基本的に従う。ただし、専門家としての能力が明らかに低い場合は別だ。このドクターは基本的には有能で、信頼できる。「生検」自体は、きついが、それで死ぬことはないから、まあ、しょうがないかな、と思った。「ただ、ですね~」と何だか言いにくそうだ。「今、ほら、コロナがまたすごくて、病院全体で緊急性のない手術は後回しなんです。それで、すぐってわけには」「ああ、いいですよ。ボクの場合、緊急性はないってことですね?」「まあ、そうなんです」「それじゃ、次回、日取りの相談ってことでいいですか。来月、消化器の方に来て、薬出してもらうんで」「ああ、それでいいです」というわけで、「生検」もやはり念のため、ということのようだ。できれば、3月に、ということでお願いした。4月は新学期、仕事を休むのはちょっと、という時期だ。午後から、かかりつけ医に。昨日は病院のハシゴだった。
2023.01.11
胃にモルト型リンパ腫という癌ができ、放射線治療をしたのが、4年前。それ以来、年に1回は胃カメラでチェックしてもらっている。当時、腕利きの医者がやってくれたのだが、幸い発見が早く、3年で「寛解」と言われた。胃カメラの場合は、昨夜9時以降は絶食。大腸カメラだと、大量の下剤を飲まなければならないのだが、それと比べると、まあ、どうということこもない。それから、泌尿器科に回り、採血のPSA値を見て、前立腺生検検査をするかどうか決める。前回の生検で「ぎりぎり癌、治療未満」という微妙な診断。それでも癌は癌なので、ドクターは治療はともかく生検は毎年、と言っているが、あれは予想以上にきつい。前回は薬疹が出て、苦しかった。やるとしても、3月にしたい。4.0未満がOKのPSA値は多分、5はない。整形のドクターは6を越えているが、そのくらいじゃ何の心配もないといって生検はやっていないそうだ。だから、自分としては5未満なら、生検は先延ばしして、半年に一度PSA値を確認してはどうか、とドクターに相談しようと思っている。ともあれ、自分の身体のことは自分では分からないのだから、年に1回くらい総合病院で検査するのも、しょうがないことだ。
2023.01.10
妻は、ピアノバーに行きたがっていて、電話してみたら日曜日は定休日だった。残念。自分は最初からフォーク居酒屋に行く予定だったから、久しぶりに二人で。元日を除いて12月からずっと営業していて、前日までは結構客も入ったそうだが、昨夜は自分たち二人だけだった。マスターやママと四方山話をしながら、時々弾いて歌う、という感じだったが、妻も発表会の『糸』を弾いた。まあ、他の客もいないし、という感じ。マスターがギターで合わせてくれて、ちょっとしたセッションになる。自分もその前にファジルサイの、自分バージョンを。盛り上がる部分を短調で一度弾いてから、メジャーに戻してフィナーレにという構成で大体固まってきたのだが、「これ、先生には内緒で、本番当日にやるつもり」と言ったら、面白がる。もう帰ろうか、というところにDさんが来て、「Dさん。この前の『ジャッ、ジャ、ジャ、ジャ、ジャ、ジャ!・・・っていうの『フライミートゥムーン』じゃない?」「うん、それそれ」「楽譜買って、今練習中だから、この次に」「あ、最後のところね、ジャ、ジャ、ジャ、ジャ・・・って昇っていく感じで頼むね」「了解です!」。ジャ、ジャ、ジャだけで、自分も「フライミートゥムーン」だとよく分かったね、と思うのだが、パラパラと弾いただけで、練習はまだしていない。また、「宿題」を抱えて帰った。風呂に入って出ると11時半。高齢者には十分「夜遊び」である。
2023.01.09
「本当に、ここ数年では一番の初日だったと思える熱戦続きでした。特に、私が見入ってしまったのは、玉鷲ー霧馬山戦。スローで見てもなんとも言えない微妙な勝負、長い物言いの評議、「取り直し」という審判長の言葉を聞くと同時の大拍手。ああ、これが大相撲だよな、と思わせられる一番。取り直し戦もまた、同じような土俵際の逆転。しかし、今度は間違いなく、玉鷲。いい相撲を見、いい解説を聞きました。」・・・と、先ほど、中日新聞のWEB SITE『北の富士はやわざ御免』にコメントを入れた。初日は、本当に熱戦が続き、館内も湧いていた。まだ、「声援」は自粛しているようだが、マスク越しなんだし、もういいじゃないかと思う。今場所は、面白くなる。できる限り、テレビ観戦をしたいが、本当は両国に1泊2日でいいから、行きたいくらいだ。が、予定も結構詰まっていて、無理だなぁ。
2023.01.09
スポーツ観戦の中で、一番見ているのは相撲かもしれない。去年は、ワールドカップで大騒ぎだったが、日本戦すらほとんど見ていない。野球は、大谷が出る試合だけ。WBCは、大谷もダルビッシュも出るようなので、見たい。なぜ、相撲がいいのか考えてみると、まず、「巨人、大鵬、卵焼き」の世代として生まれたことが大きい。子どものころは、近所や校庭で円を描いて、相撲を取っていた。それから、1場所15日、年6場所という長さがちょうどいい。15日間で、先場所なら阿炎の初優勝、高安の去年だけで三度目の優勝挑戦もかなわず、大関陥落の御嶽海が関脇で負け越し、後を追うように正代の大関陥落など、見所が満載だった。それと同時に、北の富士の解説が楽しい。半分くらい惚けている感じなのだが、時々鋭い指摘をする。ただ一点、足りないのは「ヒール」(悪役)の存在だ。輪島に対する北の湖、最近では白鵬のような、強いヒールがいるときは、面白さが倍増する。しかし、今場所は横綱不在、大関一人、関脇・小結が8人という群雄割拠状態。これはこれで楽しみだ。
2023.01.08
選手権の申請点が昨年ベストの555。昨日、点取りをやってみたら、554だった。ここ数年、少しずつシーズンベストが落ちてゆく。やはり、歳のせいなのか。そう考えると、諦めもつく。しかし、昨日は60射中、8点は2本だけで、自分としては納得のいく射だった。少しずつだが、エイミング範囲が狭くはなってきている。HBCリリーサーがやっとしっくりくる感じになった。今日も昼からちょっと射ってくる予定だが、さて、どうなることやら。
2023.01.08
この論考の最後に、私自身の死について、私はどういうイメージを持ち、どう考えているかについて、書いておこう。「人は一人では生きられない」という言葉がある。この言葉は、真実、というより事実だ。生きている限り、我々は直接、間接を問わず、他者と関わっているからである。もちろん、「直接」と「間接」では、質的にまったく違うのだが、それはここでは問題ではない。同じ「哲学論考」で「他者論」を書いているので、そちらを参照してほしい。今、言いたいのは、現代では「人は一人では死ねない」ということだ。そうでなければ、「孤独死」があれほど騒がれることもない。もし、人が、戸籍というものもなく、死んだらたたいまち煙のように消え失せていく存在だとしたら、「人は一人で死ねる」。しかし実際のところ、現代の密集した都市生活では、遺体は腐乱し強烈な悪臭を放つし、死亡届を出さない限り、税金を督促され、年金は支給され続ける。「近代」という時代が、そういうシステムを作り上げた。医師の死亡診断書がなければ、人は死んだことにならない。もちろん、確か十年以上、完全な消息不明状態が続けば、法的に死んだことにできるが、それは遺族への配慮である。既婚者なら、残された夫や妻は再婚もできないし、子どもは相続もできない。つまり、「近代」という時代が、人を一人で生きることも死ぬこともできなくしたのだ。そのことが、「死」の絶対的孤独を覆い隠しているのではないかと、私は考える。「私」の「死」を、他者がとって代わることはできない。「私」の「死」は常に孤独であり、それ以外の在り方はない。たとえ、心中だろうが、集団自殺だろうが、私の死の絶対的孤独は変わらない。我々は、それを忘れがちな世界に生きている。そして、さらに「死」は「絶対的無」であることも、「近代」が我々に突きつける真実である。「死後の世界」を見てきた、という類いの本が時々出版されるが、あれは臨死体験下の脳の活動が映し出すヴィジョン(幻影)であり、脳活動が本当に止まれば、我々はいかなるヴィジョンも見られない。だからこそ、「脳死」は「人の死」なのだ。近代科学とその成果の中で生きる人間が、それでもなお「宗教」による「救済」を信じるのは、前近代の残滓でしかない。つまり、「死」とは「絶対的孤独」の中で迎える「絶対的無」である、と私は考える。それは、誰にとっても妥当する普遍的真理なのだ。さて、そう考えたとき、いつ死んでも、確率論的にはおかしくはない年齢まで生きてきた私にとって、問題は「死」ではない。そういう状況で、どう生きるかの方が、私にとって「絶対的」に重要である。なぜなら、「私」は「私」の「意志」によって、それが成就するかどうかは別として、今日一日をどう生きるかを決定できるからだ。「今日」をどう遊び暮らすか、と考えるのは、ハイデガーの言うように「非本来的」存在の在り方なのではない。ハイデガーが、フライブルク大学の学長就任演説で、ナチス擁護を語ったのも、彼の「本来的」在り方だったのである。それは、人間存在の本来性からの逸脱であり、「世人」の愚かな在り方だというなら、責任逃れと誹られても仕方がないではないか。我々は、自身の「死」に責任など持てない。なぜなら、それはいかなる他者とも代置不可能な「孤独」であり、それが起こった後にはすべてが「無」であり、死者自身は悲しむことも、償うこともできないからだ。「責任」は、私が今日どう生きるかについて、考え、行動することにしかない。しかし、その責任は分かち合うことはできる。あるいは、その成果や喜びは、と言ってもいい。つまり、「私」のこれまでの、そして今日の生き方は、誰かの生と豊かにつながり、強く結ばれる可能性に開かれている。もし、「死」がそこに関わるとしたら、その生も、誰の責任というわけでもなく、突然絶たれてしまうことがあることを、時々は考えながら、今日の一日を生きる、ということだろう。了。
2023.01.07
今朝は、トーストを半枚。トラピストバターと苺ジャムを塗った。トラピストバターはいつのまにか、一缶1,300円ほどに値上げしている。トラピスト修道会という、厳格な戒律で知られる男子修道会の屋台骨を支える製品だが、いつのまにか市民の愛用品ではなく観光土産品になってしまった。修道士たちもなかなかしたたかだ。だが、雪印バターの三倍はおいしいから、できればこれがいい。今回は、娘と息子にそれぞれ年末に送ったときに、我が家にもといって買ったもの。まあ、1年に1度の贅沢品だ。それと、カールレーモンのソーセージ。檸檬とパセリが練り込んでいて、息子の好物だ。これも、いただきもので、普段はスーパーで一番安いウィンナーを買っている。ピーマンが悪くなりかけていたので、それにピザ用のチーズを詰めて、一緒にフライパンで焼いた。サラダは、レタス、胡瓜、ミニトマト、とお節の残りの金柑。内容は普段と変わらないのだが、いい材料なので、丁寧に作った。今日は、これから整形に診察券を出しに行く。いい加減、ネット予約とかにしてほしいのだが、患者はそれが出来ない高齢者が多い。朝の6時から並んで、診察券を出すと、順番がつき、行けば順番の早い方から診察がある。大体、朝6時半ころ出して、10番台。11時ころ行くとちょうどいい。一桁の順番には滅多にならない。2週間に1回、腰と膝の注射。薬は、痛み止めと痛風予防薬。今回は、風邪薬も頼む。足が吊った時、魔法のように効くツムラ68番もここからだが、こちらはまだ売るほどある。湿布も十分残っている。さて、着替えて行きますか。
2023.01.06
健康麻雀は1位、2位、1位。2位も3万点プラスで、上出来だった。ベタ降りもしっかりできたし、勝負手は真っ向からいけた。何度かそれで放銃したが、結果はよかった。この打ち方で負けることもあるだろうが、それはそれでいい。ピアノも、「ゆっくり、強く」。麻雀に行く前と、帰ってから、今日は2回弾いたが、しっかりと弾けた。この速度で、あと3回くらいやれば、ミスタッチは減りそうな気がする。日曜までは、この練習方法で。何事も、やはり、基本に戻って丁寧にやることだな、と思った。仕事も、家事も、弓も然り。今年の目標は、「今できることを、きちんと丁寧に」ということにした。手帳にも書いておこう。
2023.01.05
今日は「打ち初め」。といっても、健康麻雀は昨日から開いており、自分にとっての、ということだ。ネット麻雀「天鳳」は二段に昇格してから、一進一退、いや一進二退くらいで、負けが込んでいる。このままでいくと、降格しそうだ。他家の捨て牌への注意が疎かになっている。多分、弓も、ピアノも、麻雀も、あるいはライブ居酒屋も、自分は「飽きて」きている。悪い癖だ。ある程度上手くなると「飽きる」。分かってはいるが、そうやって生きてきたから、治らない。嫌いになるのではない。単に飽きる。そういう時は、基本に戻るしかないことも分かっている。生活全般の見直しが必要だ。
2023.01.05
慣れてしまったからかもしれない。最近、ファジルサイがどんどん下手になっていく。何とかしないといけない。速度を落として、正しく、強く弾くという練習が必要だ。一日三回は最低その練習が必要だ。時間ではなく、回数である。我慢して練習曲のように、数日弾くと、また弾けるようになる、というのが自分の経験則である。。
2023.01.05
なかなか黄色に3本が入らない。まあ、しかし、今年も無事に弓を射てた。それで、いいじゃないか。選手権も、雪道の運転は心配だが、高速をフルに使い、出場することに決めた。出るからには勝ちたいが、そこにそれほどのこだわりはない。出られるだけで、十分なのだ。今年も、去年よりは少し点数は落ちるだろう。「射」も、自分のスタイルは変わりそうもない。
2023.01.05
ほとんどの現代日本人は無宗教か、そうでなければ変な宗教にハマっているような印象があるが、最近はコロナで仏事もやらなくなりつつあるらしい。樹木葬とか散骨などの葬儀を望む人も増えつつある。また、経済的事情による「直葬」も増加している。「死」を人生のストーリーのエンディングと捉え、そこに至るまでの「終活」が、盛んに言われている。いかに、自分が死んだ後、相続トラブルなどが起こらないようにするかというのが、主な内容のようだ。100万円とか200万円の死亡保障保険もよくCMで見るが、「せめて、お葬式代くらいはねぇ」というのが「殺し」文句である。まあ、冗談ではないのだが、「死」という個人にとってはどう対峙すればいいか分からない問題を、社会システムの中にうまく嵌め込んでいる、というのが現代の日本人の姿だ。ハイデガーは、「死」が「現存在の絶対的不可能性」だということを忘れるために、「非本来的な遊興に耽る」「世人」(Das Man)を批判したが、現代日本人は「終活」「死亡保険」などで、「死」もまた「リスク」の一つであり、それに正しく備えることが「生」の意義であるかのように振る舞っている。これは、ハイデガーの「世人」の姿だし、イリイチが言った現代社会の「医療化」の一つの側面なのかもしれない。自分の両親もそうだったが、多くの日本人は病院で死ぬ。その直後から、「死」についての社会的システムが駆動し、死亡診断書を受け取った遺族は、葬儀屋に連絡を取り、霊安室から遺体を移す。それも今は自宅よりも葬儀場の方が多いという。「葬儀屋」にとっては「死」は、「真心を込めて」云々のコマーシャルフレーズを言おうが言うまいが、結局のところ商売の種であり、幾つかのメニューから遺族は応分の葬儀スタイルを選ぶことになる。やがて、遺体は火葬場で焼かれ、納骨される。この一連の流れがスムースに進むことが、あたかも「死」に対する正しい扱いであり、そのために、死者本人が生前から、自らの「死」が正しく扱われないことのリスクに備える「終活」をしなければならない。そこには、キリスト教に見られる「救済」も、仏教に見られる「転生」もない。現代社会において「死」は、ある意味で「商品化」されているのだ。それは、宗教的儀式を行う場合でも変わらず、「坊主丸儲け」という言葉が示すとおり、「死」を独占的に取り扱うことのできる宗教は、信者の死こそが利益の源泉なのである。そのことをやや意地悪く言えば、現代人は「死」をその本来性において受け止めないために、それを「商品化」しているのだということになる。逆説的に言えば、「死」に備える「終活」に熱心であればあるほど、彼らは自分の「死」を忘れていられる。それでは、自分自身は、自分の「死」を、今、どのように考えているのか。次項をもってこの論考を締めくくりたい。
2023.01.05
正月料理も、大体は消化し、今朝はコーヒーとピザという朝の定番。まだ、オードブルのハムなど日もちがしそうなものは冷蔵庫にあるが、どうも手が出ない。さすがに飽きた。今日は、「射場開き・射ち初め」である。10時からだが、その前に居間の掃除。妻の積立NISAが今年から出来るので、銀行員がその商品を勧めに来る。自分はいないが、居間くらいは掃除しておかないといけない。ちゃんとは射てないのだが、右の弓も持っていくことにした。健康麻雀も今日からだが、射場開きと重なるし、「打ち初め」の方はは明日にした。11時前に行って、しっかり駐車場を確保して、久々にフルタイム5時間打ってくる予定だ。それで「歌い初め」は明後日。まあ、こちらの方は新しく練習した曲はないのだが、レパートリーの中で、まだ歌ってない曲も結構あるので、初披露を一曲くらいは。あまり定番なので誰も歌わない『人生を語らず』にしようかと思っている。でなければ『ファイト』。大学時代の悪友からリクエストのあった『永遠の嘘をついてくれ』もいい。そういうわけで、今年も、遊んで暮らしているのだが、明後日はあまりありがたくない「病院始め」もあった。整形。来週は10日は胃カメラ、前立腺の採血検査。かかりつけ医にもその週に行かないと。そうこうしているうちに「仕事始め」だ。
2023.01.04
昨日は雪かきもそこそこに、妻の駅ピアノデビューで、新幹線駅に。自分は、帯広の遠征の時、道の駅で一度経験している。車で、無料高速を使って30分。12時過ぎに着いた。練習でもなく、漫然と弾いている先客がいたが、10分ほど待って、自分たちの番に。最初に、自分がファジルサイ。これが酷い出来だった。今まで外したことのないところを外す。あれ?という感じだったが、とにもかくにも弾き続けた。途中で、これはもうダメだな、と思い、完全オリジナルバージョンに移行。ファジルサイではなく、誰の編曲か分からなくなっていく。最後も、盛り上がる部分を、短調で通し、今までやったことのないフィナーレを弾いた。集まってきた人たちは、まあ、そんなことは分からないから、拍手、拍手。次は、シューマンの「鬼ごっこ」という小品。アンコールの感じだった。妻は、中島みゆき「糸」。思ったよりずっと上手く弾けてる。あれ、オレより本番強いじゃん!という感じだ。皆、知っている曲なので、これもいい反響だった。ちょうど列車が到着し、大分、観客が増えてきて、後から弾きそうな人もいるみたいなので、ここで自分たちは終了。帰りに、道の駅に寄ってアップルパイを、と思ったらまだ閉まっていた。諦めずに、国道沿いの本店に寄ったら開いていて、無事買えた。丸亀でうどん。海老と薩摩芋の天麩羅をつけた。帰宅すると、雪がすごい。やりかけの雪かきを終わらせ、お互いに撮ったビデオを見ると、自分は本当に普段は外しもしない音を外しまくっている。それを、ごまかしつつ、もはや何の曲だか分からなくして、聴衆を煙に巻いて終了。しかし、ファジルサイよりももっとジャズっぽく弾いたので、なんだ?あの爺さん、と思ったのか、足を止める人も多かった。妻は、逆に練習よりも、ずっと上手く、無難に弾いていた。子どもたちや友人にビデオをラインで送ると、大好評だった。また行こうか? うん! やはり、発表会のステージの前に何度か行って、舞台映えのする弾き方を覚えた方がいいな。妻はお花やお茶、自分は弓、麻雀と趣味のジャンルが違うのだが、ピアノは一緒にやれる。それは、それですごく楽しい。
2023.01.04
年末年始の疲れは、やや回復したが、昨日、腰を痛めてしまった。雪が積もっていたので、ちょっと掻こうかと思い、玄関の雪かきに手を伸ばした途端、ギクッときた。まあ、たいしたこともないかと思い、そのまま外に。思ったよりも、雪は深くて、といってもせいぜい5cmというところだが、一通り掻いたが、それがさらに悪化させた。妻から、新幹線駅のピアノ弾いてこようか、という提案があったが、ちょっとドライブするのはきつかったので、パス。今朝もやや痛む。昨日から、電子マッサージをフル稼働させ、夜は湿布もして寝たのだが、少し痛い。といっても、昨日も家ではピアノも弾けたから、今日は出かけてみようかと思う。妻は、3月の発表会に向けて、ステージ度胸をつけておきたいようだ。自分は、帯広でも弾いてきたし、もともと本番には強い方なので、まあ、行かなくてもいいのだが、ついでにどこかでランチというのも悪くないから、何とか今日は行きたいと思っている。箱根の復路は、見られるだけ見て、後は録画しておけばいい。
2023.01.03
今年は早くも1日から疲れている。ちょっと回復するまで、天鳳やここはオヤスミに。
2023.01.02
昨夜は、楽しかった。息子の嫁さんのご両親と自分たち4人だったが、札幌の娘一家、鹿児島の息子一家、そしてタイに新婚旅行中の嫁さんの弟夫婦とラインのビデオ通話がつながり、大いに盛り上がった。いい時代になったものだ。札幌と鹿児島は同時につながり、我が家としては全家族が、昨年夏以来、一堂に会した気分だった。
2023.01.01
1月1日の日記を読み直してみたら、新たな1年の抱負を書いたのは、2019年が最後だった。その後は、「何を、今さら、抱負を述べるような歳でもなし」というようなことが書かれている。今や、新たに何かを始めるというよりは、去年と変わらない毎日というのが、心からの願いだ。コロナはあれだけの感染者数を出してはいるが、その1/10だった去年とはうって変わり、成田空港は人で溢れ、故郷への帰省もすごい混み方だ。致死率が違う、とは言うが、それが去年は10倍あったわけではない。感染者数が増えれば、志望者数も増え、年末は一日として過去最高だった。だから、もう一度対策を強化せよ、と言いたいのではない。その逆である。去年、一昨年の専門家とマスコミが作り上げた必要以上の社会不安について、その責任を追及せよということだ。また、それに踊らされた、多くの日本人も同様である。むしろ、今、庶民を襲うのは、物価高、スタグフレーションであり、これはコロナとは比べものにならないほど、恐ろしい。このまま、体感的に10%、20%物価が上がれば、今は賃上げ、賃上げと騒いでいるが、企業は人件費の抑制に走ることは目に見えている。ここ20年で、日本人の平均賃金は先進国の最低レベルまで落ち込んだが、それは国力の低下を反映している。この事実が変わらない限り、賃金は上がらない。上がらないどころか、雇用は派遣、パートなどの非正規への移行がますます進行し、平均賃金はむしろ下がる可能性が強い。そうなったのは、コロナ騒ぎの奇妙な一体感の中で、サービス・飲食業を中心に自分で稼ぐことを忘れたからだ。政府は補助金を出し続け、そこに甘える。テレワークが進み、おそらくそれは解雇規制の大幅な緩和をもたらすだろう。顔の見えない人間の首は切りやすい。自分もかろうじてその一人だが、年金で何とかやっていける高齢者も減り続けるだろう。なにしろ新米高齢者であればあるほど、受給額は低くなっていく。団塊の世代は、あと10年もすれば半数以上がこの世から退場する。そうなれば、年金受給額の平均もかなり下がっていく。年金が高齢者の家計を支えられなくなる日は、意外に近いかもしれない。そういう中で、無力な高齢者の一人として、心底願うのは、「去年と分からない今年」である。
2023.01.01
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