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息子夫婦の長女、自分たちにとっての二番目の孫はもうすぐ一歳だ。向こうでは、お餅を踏ませて祝うらしい。娘夫婦の長男、初孫は三歳と三月。昨日もビデオ通話で話したが、すっかり仮面ライダーにはまっている。三月初旬、娘夫婦が息子夫婦のところに行くという話だった。北と南。羽田で乗り継ぎ一日がかりである。そういうのもいいだろう。「じいちゃんばあちゃんも行く?」「ううん、ちょっと無理かな」妻の腰がまだそこまでは治っていないし、こちらも最終試験等で忙しいところだ。あと一週間遅いと、何とかなるのだが、娘の旦那の東京出張を利用して行くので、日程は動かない。まあ、いつになるかはわからないが、次の機会に。長男の娘から見れば「従兄」、長女の長男から見れば「従妹」・・・日本語は難しい。まあ、どっちも自分たちからは「孫」だ。
2020.01.31
昨日の最終練習。9-9-8のようなスコアの連続だった。これは、もう認めざるを得ない。ターゲットパニックの再発である。狙ったとたん、10点からスーッと下がり、18mだと的の下まで。何とか修正しようとしているうちに発射してしまう。これでは中るはずがない。右の時は、2年かかった。左はどのくらいかかるのか。ターゲットパニックとはターゲットを狙えなくなる心理的な病気だ。アーチェリーのイップスである。とにかく、選手権は出るほかないが、後はしばらく弓から離れる。最低1週間は弓も見ないで生活する。それから的を貼らない近射を少しずつ。1日10射くらいから。それを一か月。今のところわかっている治療法はそれしかない。さらに、昨日、ちょっとむきになってなって射ったので、左肩も炎症を起こしているようだ。今日は整形なので、ついでに診てもらうが、こちらの方は、たいしたことではないだろう。まあ、仕事も忙しくなるし、次年度に向けての準備もあるから、ちょうどいいといえばちょうどいい。自分の中では、インドアシーズンは終了。アウトドアと、より自由なセミリタイア生活にむけて準備をいろいろとして過ごす2月になりそうだ。
2020.01.31
「ひょっとして、結構厳しめに育てられた?」「はい・・・」「そういう人は、発想を自由にって言われても困るでしょ?」「そうなんです、それが一番ダメで」「だったらね、自分で型を最初に作っちゃうといいよ」「?」「例えば、今の問題なら」学校生活で私たちは~~~が当たり前だと思っている。そう決めつけるのは教師の側で、決めつけられるのは生徒の側だ。生徒にとっては、そのような決めつけによってーーーーという弊害が生まれる。また、教師にとっても=====ということになってしまいがちだ。「こうやってさ、中身は未定のままでいいから、「枠」を決めてしまうの。そうすれば、何か中身が浮かんでこない?」「ああ、授業は静かに聞くものだ、とか?」「あ、それ面白いね。そうだよね、だけど静かに聞いてればそれでいいってわけでもないでしょ?」「質問もしにくいし・・・」「そうそう。教師だって、生徒が理解しているかどうか、実は分からないよね」こんなふうにマンツーマンで指導するとたっぷり一時間。
2020.01.30
日曜日の選手権に向けて、今週は昨日と明日、二回しか射場では練習できない。家でもなかなか難しいだろう。今の射はもう抜本的には変わらないので、その中でなるべくいいパフォーマンスを目指すほかない。バランス重視、エイミングは大体、というところで妥協した。何とか明日は2,3時間練習したいところだが、難しいかもしれない。
2020.01.29
大学受験生を相手に、仕事をしているが、センター試験も終わり、二次試験出願、二月末の二次試験準備という時期になった。一年間で自分が最も時間を仕事に費やすのはこの時期である。今朝も4時に起きて、二次の小論文、総合問題の解答の評価と添削を2時間。中には、試験時間180分という総合問題もあり、これは見るのに1時間程度かかった。今日は10時からびっしりと二時間の授業を除けば、マンツーマンの学習指導となる。長い文章を書かせる問題では、集団指導では無理だ。文章はやはり人によって違うからだ。あくまで、その人の持っている力から始めないと伸ばせない。センター試験の自己採点結果も出て、自分の担当の現代文部分の平均点は82.5。表を見る限りでは、上から二番目。公立トップ校より5点以上いい。まずまずかな、と思う。国語全体でも7点くらいいい。これは上から5番目。自分の担当した仕事はきっちりできたと思う。今年は問題文が読みやすく、設問も簡単だった。来年の大学入試共通テストは、記述は見送られたが、それ以外はまだ判然としない。現役生の二次対策はこの一か月でしなければならない。できる限り付き合うのが毎年のことで、特に二月からは家庭学習期間で、授業がなくなる。生徒の希望に全部応えると、収拾がつかなくなる。それで、自分の指導可能な時間を提示しておいて、後は先着順に指導時間をを決めていく。ここから三週間は、毎朝二時間は準備に費やすことになるだろう。きついが、嫌ではない。
2020.01.29
月曜日は、授業を入れず、休日としてもらっている。遠征に行くと、試合後すぐ帰路につくのはもう体力的にもきつく、もう一泊したいというわがままな理由からだ。週20時間という規定なので、ある程度はそういうわがままもきくのだ。来年度からは、非常勤なので、さらに金曜日を休みにしたいと思っている。火・水・木で10時間程度の授業・講習というのが、セミリタイアの身としては、ちょうどいい。その代り、給与は大学生のアルバイト並み、といっても今までと大して変わらない。昨日は月曜日だったが、休日出勤。目を通してほしいと頼まれた書類があったのと、生徒の小論文指導。かかりつけ医に行って、そのまま出勤した。2時間程度。1月になって、金曜日の夜8時までの大学受験講習もなくなったので、かなり楽な勤務になっている。まあ、その代り、2月からは、3年の授業はなくなり、生徒は家庭学習期間に入るが、二次試験に向けての個人指導が始まる。こちらの方は、生徒と時間を約束して、一回1時間程度。多分今年は5人くらいだ。生徒も必死なので、できる限り時間は取ってやるようにしている。過去問を解かせ、こちらも丁寧に解いてきて、解説する。旺文社から『大学入試問題正解 国語』というシリーズが年度版で出るが、あの本の正解はあてにならない。まだ、旺文社模試というのがあったころ、そこの作問委員をしていたから、内実はよく分かっている。超短期のやっつけ仕事で、複数での検討もせず、正解をでっちあげる。はっきり誤答といえる解答も多い。生徒の依頼を、すげなく断っても別に業務違反ではない。あくまでもボランティアである。しかし、2年、3年と現代文を担当し、その中で、文章の読み方、記述問題の解き方をみっちりと教えてきたのだから、ここで生徒が小論文や二次対策を頼んできて、それを断る気はない。「顔の見える共同体の中の人格的応答関係」というのが、『「私」の個人主義』というシリーズで書いた結論だが、「それ、時間外だから」と言って断るのは、まさに主義に反することなのだ。
2020.01.28
昨日は、午前中は試合。午後から大阪女子マラソン。オリンピック代表候補が一人入れ替わった。女子マラソンは解説がうるさい。増田明美の「細かすぎる解説」というのも、もう聞き飽きた。競技自体の楽しさを減殺するような解説は、どのスポーツでも聞いていてうんざりする。かといって、解説者がファンと同じレベルというのも、意味がない。なかなか難しい仕事だ。三階で12本射ってから、次は大相撲。解説は北の富士、舞の海。このコンビの解説は絶妙だ。北の富士の大雑把さが、舞の海の細かさをたしなめる感じで、会話が弾む。北の富士が何を言うのか忘れてしまうような場面もあり、笑ってしまう。優勝の徳勝龍は、引退した稀勢の里や大関陥落の豪栄道と同期だそうで、正直名前も知らなかったベテラン力士だ。優勝インタビューは軽妙なしゃべりで、頭の良さを感じた。多分、ファンが増え、人気力士になるだろう。33歳はもう力士としては峠を越しているのだろうが、「世代交代」の波は、思わぬ古参力士に押しとどめられたかっこうである。来場所は、頑張って、せめて三役には上がってほしい。「もう33歳じゃなくて、まだ33歳と思って頑張ります」という、会場をどっと沸かせたインタビューの最後の一言。「こっちは今年、その倍だぜ」とつい思ってしまった。
2020.01.27
277-273-275。見事にアベレージ通りの結果。今週はあまり練習できないが、とにかく少しでもいい結果が出るよう、二回の練習をこなしたい。
2020.01.27
昨日は、午前中に練習。HBC,SPOT・FOGの両方をとっかえひっかえしながら。中りは、大して変りないが、SPOT・FOGの方が、射のバランスが若干いい。いったん帰宅して昼食。今日は妻と地元のピアニストのコンサートの予定だったが、まだ15分くらいしか座っていられないということで、断念。代わりに、昨日借りてきた「火火」という日本映画をみる。朝ドラ「スカーレット」と同じ、信楽焼の女性陶芸家、神山清子をモデルにした映画。「スカーレット」の放映で知って、妻も前々から見たがっていたので借りてきた。冒頭、聞き覚えのある「アメージング・グレイス」が流れる。りりぃだ。もう10年も前に小さな会場のコンサートに行って、楽屋まで訪ね、大学生のころ買った『たまねぎ』というLPにサインしてもらった。晩年は、役者として映画やテレビに出ていたが、数年前に亡くなった。何だか、不思議な気持ちだった。主演は田中裕子。映画自体は、信楽焼の女性陶芸家というより、息子を白血病で亡くす母が骨髄バンクを立ち上げるというのがメインストーリー。映画としては、残念ながら今一つだった。それから、再度射場に。1時間。SPOT・FOGで50射ほど。9点の縁は数本あったが、赤は出なかった。今日の試合はこれでいこうかと思う。後半、若干10点率が上がった。帰宅して、大相撲。徳勝龍が勝ち、貴景勝は朝乃山に敗れ、今場所はどちらにしても平幕優勝となった。自分の事前予想は、期待を込めて朝乃山の12勝3敗での優勝だったが、見事に外れた。徳勝龍は誰も予想していなかっただろう。今日、正代が勝ち、貴景勝が意地を見せ、徳勝龍に勝つと2敗での決定戦。そういう展開を期待している。不覚にも、結びの三番前から寝てしまい、気づくとニュースが流れ、妻が台所に立っていた。最近は居間のソファで、ついうとうとというのが多い。見なかった三番はさっき録画していたダイジェストで見た。やはり、豪栄道は来場所の復帰も難しいかもしれないと思わせる相撲だった。
2020.01.26
昨日は、胃カメラの検査に。出張帰りのドクターの飛行機が遅れて、1時間遅れで検査。やはり、最初の手術で切除したところはもう何でもなかったが、糜爛(びらん)しているところを2か所切除して精検に。次の診察は、2月上旬。精検の結果が中心だ。こちらの方は、まあ、想定内のことで、特に「混沌」というわけではない。混沌としてきたのは、初場所の優勝の行方だ。幕尻の徳勝龍と、熊本出身の正代が1敗で、今日が直接対決。熊本には弓の大会で時々お世話になるし、特に大会会場の宇土が正代の出身地なので、勝ってほしいのだが、徳勝龍のあの農夫然とした飄々とした表情もいい。「幕尻だから、自分には取りこぼしはない」という人を食ったようなコメントもなかなかだ。大関の貴景勝が二敗で、こちらにも優勝のチャンスはあるが、今日の朝乃山、明日の豪栄道(こちらは未定で徳勝龍戦も組まれるかも、と新聞で読んだ)と、取組み相手の方に肩入れしている。朝乃山はここから二連勝しないと10勝に届かず、そうなると再来場所の大関は実現しそうもないし、豪栄道は大関陥落が決まったが、来場所の関脇からの復活をしてほしい。あの相撲の型は好きだ。横綱二人はまた来場所出てくるだろうが、できれば序盤で星を落とし、またまた休場、そのうち引退ということになってほしい。特に、白鵬の相撲はすべて嫌いである。立ち合い、張り手、懸賞金を受け取る所作、何から何まで品格に欠ける。まあ、そのあたりはプロレスと同じでベビーフェイスと悪役で興行が面白くなるのだろうが、それは相撲興行には不可欠のことではない。閑話休題混沌としてきていることがもう一つあって、それは現在の職場の状況だ。現在のトップが三月で交代することになった。その後の状況によって、自分はどうしようかとかなり考え、妻とも話した。今のところの結論は、したい仕事ができるなら続けようということである。やめるという選択肢はある。それでも十分生活は成り立つから、これは経済的問題ではない。生きがいの問題だ。
2020.01.25
昨日は、11時台に退勤。12時から1時間ちょっと練習。HBCでのベストショットを探しながら、射った。まず、身体が開いてしまうフォロースルーは、射つ時に微妙にセンターの左側にドットが動くので、その戻しを無意識にやっていることが多い、と気づいた。だとしたら、それ自体は矢の方向の調整なのだから、悪いわけではない。根本的には、押し手をしっかり押して、左にずれないように準備することしか対策はない。ドローイング→アンカリングの後で、エイミングを一度する。ここで、単に付けるのではなく、どの方向に引けばズレが出ないかを確認する。そこからほんの少し肘を矯めて、ドローイングを再び始める。その時にカチッと鳴るのが一番いい。鳴っても、気にせず引き続けることはできるようになった。あくまで徐々に引く力を増量していく。リリース。押し手は残る。これが理想の射型だ。1エンドに1本くらいしかできない。今日は午後からは時間があるので、三階射場でこれをせめて2本に1本にできるように。
2020.01.24
今週は、月曜日にかかりつけ医に、木曜日は整形、今日は胃カメラ検査。一週間に三回も医者にかかると、何だか少し気も滅入ってくるのは、仕方ない。10年前は、医者にかかるのは年に1,2回。インフルの予防注射とか、そういうことしかなかった。やはり、体は年々衰えてきている。この5年ほどで、老眼鏡が手放せなくなったし、長い文章を読むのも、正直、きつくなってきているのだが、仕事上しょうがないことも多い。まあ、そうやって段々衰えていくのだろうが、少しは先延ばしにしたい。70歳までは、仕事もしていたいし、弓の試合にも出ていたい。
2020.01.24
(9)家族「的」人間関係の構築 我々は現代の社会において「家族的」人間関係を構築していかなければ、共同性を失ってしまう。 「家族」自体は、核家族であり、一つの家族は子育てが一段落し、子どもたちが社会に出て新たな核家族を形成したところでその役割を終え、後は夫婦二人のどちらもが健康であれば、その終焉まで穏やかに続いていくだろう。幸い、私は今、その段階にあるのだが、いずれどちらかが介護を必要とする時が来るだろう。その時は、施設に入るというのが、夫婦の約束事である。 そして、その施設を選ぶ際に、介護の程度にもよるだろうが、他の入居者と擬制的家族関係が取り結べるような状況があるかどうかは大きなポイントである。 若い独身者なら、先述のように、気の合う友人たちと先述のようなシェアハウスという住居形態の中に入ってみるというのも、擬制的家族関係を取り結ぶ上で効果のあるやり方だ。個の空間と時間がしっかり確保できた上での共同性の確保、というのがこれからの社会の住居のテーマになるだろう。幸い、人口減少社会においては、空き家が続出するから、基本的に地価も下がり、家賃も下がる。少し経済的に余裕のある子どものいない中年層の夫婦、あるいは独身者が、シェアハウス向きに改装して、副業としてのシェアハウス事業を行う、といったビジネスモデルは地方中核都市でも十分成立するのではないか。(10)共同体に属さない個人 個人は共同体の中で生きなければ、生の実感を得ることは難しい。たとえ、その中でマージナルマン、いわば「外れ者」として生きていたとしても、どの共同体にも属さず、テレビとSNSだけで社会とつながっているように思うことが錯覚であるのは、当の本人が一番よく知っている。そういう生には「虚しさ」という感情がつきまとうからだ。 「引きこもり」、「閉じこもり」の最大の問題はそこにあるだろう。世の中には奇特な人がいて、そういう分断された個人を集めて新たな「共同体」を作ってくれる場合もある。もし、そういう場があるのなら思い切って出かけるべきだ。 家族の中で引きこもっている場合なら、共同体としての家族の再構築が課題になる。しかし、これはなかなか難しい。親に依存しながら、親を虐待しているような生き方の出口は見えないのだ。親も歳を取れば、家族を再構築する力はもう残っていないし、依存し虐待する子どもには、その在り方でしか家族という共同体を保持できなくなっているからだ。虐待は犯罪なのだから、子どもを犯罪者として社会的に隔離するほか方法はないだろう。しかし、親の方も依存され、虐待されてもなお、家族共同体を維持していこうとする場合も多い。 逆に言えば、こういう悲惨な共同体であっても、それでも個人は共同体に属していることを選ぶ。つまり、個人は錯覚であれ、犯罪者としてであれ、何らかの共同体に属さなければ、生きていけない。(11)個人にとっての新しい共同体の形 個人にとっての共同体とは、「そこで個人が個人として生きられる場」と端的に定義できる。 個人は一人だが、その場には複数の個人がいる。しかも、その集まりは多分に偶然性によっており、何らかの目的のために必然的にそこに集まったというわけではない。 そこで、お互いの顔と名前、職業、年齢など一通りのことは分かっているが、プライバシーは尊重される。共同体の共同性を維持するための、最低限の仕事はある。シェアハウスの例でいえば、ゴミだしや居間の掃除の当番、年に一度の全員での大掃除、そこで新年を迎える場合の雑煮つくりなどが考えられる。 こういう擬制的家族は、子育てを除いた家族の機能の多くを果たし、適度な年齢差があれば、一人前になった子どもたちとその親世代に似た擬制的家族構成も可能である。 もちろん、そこでは家族に特有のしがらみ、軋轢も年を経れば生じる。メンバーの入れ替わりもでてくるだろうが、中心的メンバー(シェハウスのオーナー)が変わらなければ、ある種の「家風」のようなものまで醸成されてくるかもしれない。(12)個人の選択 個人主義は、個人が生き方を主体的に選択することを、至上の価値とする。上に述べたような擬制的家族の形態の中に入り、疑似共同体の中で生きるか(もちろん、そこには一定のリスクと不自由がある)、あくまでも一人の個人として、社会に対峙して生きるか(そこには共同体に属さないことからくる不安や落ち着きのなさがある)。そのどちらを選ぶかは、個人の自由であり、その選択肢以外の解を見つける自由ももちろんある。 私個人について言えば、今のところその選択をする必要がない。仮に妻に先立たれたとしても、そういう選択をするかどうか分からない。おそらく適当な施設を見つけて入居するだろうが、その時に擬制家族的な雰囲気は選択条件の一つとはなるだろう。しかし、できることなら、そういう選択をすることなく、人生を終えたいとは思っている。
2020.01.23
昨日はSPOT・FOGを持ち、揚々と射場に。ところが、全然中らない。10点はおろか、9点にも入らない。理由はすぐ思い当った。狙いを小さくし過ぎて、射のフォーム自体も小さくなってしまっていた。しかもトラベルが短すぎて、パンチングに。今までも通ってきた道である。これでは、ダメだ、と思い。HBCに変更。とにかく大きな射を。最後のところでは57、58が連続し、まずまずの状態になったところで終了。ちょっとの間、SPOT・FOGで夢を見させてもらったが、最後は悪夢になり、目が覚めた。やはり「楽して中る弓はない」のである。
2020.01.22
(6)共同体の原点は家族である 共同体とは地縁・血縁集団をその原型とするが、近代日本はその両方とも、共同体としての求心力を失わせる方向にあった。 まず、都市化という現象の中で、地縁共同体が消滅寸前になっている。住居の高層マンション化がなおいっそうその傾向に拍車をかけた。今や、「向こう三軒両隣」というような近所づきあいがあるのは珍しい。隣家で葬儀があっても、素知らぬ顔というのも珍しくない。「村八分」という言葉は、いくら嫌な奴でも、葬儀と火事だけは地域で協力して行うという地縁共同体の最低限の絆を意味していたが、最近は、葬儀は家族葬で、火事は類焼保険で、ということになっている。 それでもなお、家族という血縁共同体はかろうじて残っている。0歳児からの保育という子育て機能の外部化があるとしても、家族は依然として共同体であり、その最後の砦となるだろう。 しかし、その家族共同体も盤石の基盤ではもはやない。離婚率の上昇、シングルマザー、独居老人等々、家族共同体の危機や消滅はもはやニュースにもならないほど常態化している。(7)人は共同性の中で生きる それにもかかわらず、私が共同体の原点を「家族」とするのは、いろいろな擬制的家族の形態が現れ始めているからだ。例えば、高齢者のサービス付き高齢者住宅、いわゆるサ高住は、独居老人たちが集まり、擬制的家族構成を作っている。それぞれの個室で寝起きしていても、食事の時間には居間に集まり、日々の大部分をそこで過ごす人も多い。 あるいは若い人たちの間で急速に広まっているシェアハウス。一般の家族向け住宅に見知らぬ者同士が集まって住むのは、経済的理由も大きいかもしれないが、そこに家族的繋がりを求めているメンタリティがある。 もはや会社は、「家族的経営」などできないのだから、自分たちで家族的人間関係を築くほかない。 そうしてまでも、人は共同性を求めるのである。(8)SNSでは共同性は実現しない 今、これを書いている私は、妻が起きてくる時間までの暇つぶしをしているというのが、一番正確な言い方だろう。 もし、この日記の熱心な読者がいるとしても(多分いないだろうし、むしろ、そうであってほしい)、私はその人との共同性を求めない。なぜなら、どこの誰とも分からないからだ。 SNSが共同体たりえないのは、まさにその「匿名性」の故であり、それはSNSの他では得難い利点だし、同時に限界である。いくらツイートしようが、そこには人格的応答関係はない。誰とも分からない誰かと、やりとりするなどということは原理的に不可能なのだ。しかし、よく考えれば分かることだが、それは「本」という古いメディアの作者と読者の関係と原理的には同じことである。我々は著者名とその内容しか分からず、原則的に著者と顔見知りになるということはない。 我々は常に顔の見える誰かにものを言うのであり、その誰かは私の顔を見てものを言うのだ。人格的応答関係は、そこにしか発生しない。 そうでないSNSは、発信することはできても、一時期盛んに言われてはいたが、インタラクティブにはならない。家族や友人とLINEでやりとりすることと、SNSでコメントをもらいそれに応えることとは、全く違うことである。前者は顔の見える人間関係の延長線上にあるが、後者は単にコミュニケーションの擬態であるにすぎない。
2020.01.22
最近、大相撲をよく見る。これも時間があるからなのだが、幕内の全取り組みをずっとソファに寝そべって見ることが多い。暇な奴め、と思うだろうが、庶民には金のかからない暇つぶしが必要なのだ。大鵬・柏戸時代から、家にテレビがやってきて、子どものころは「相撲」は結構人気のある「遊び」だった。何しろ金のかかる道具がいらない。地面にいびつな円を描けば、それが土俵になる。昨日は炎鵬が豪栄道に勝ち、大関陥落は避けられないようだ。高安の復帰もなくなった。正代が一敗でトップ。敗れた貴景勝は二敗。自分の予想では貴景勝の三敗での優勝だが、分からない。今年中に白鵬、鶴竜の二横綱は引退するだろう。自分は差別主義者ではないが、大相撲のグローバル化には反対である。やはり、相撲は国技館で興行される国技という意味の記号を背負っている。国際競技にはなり得ない。今や日本も外国人からみるとそう魅力的な稼ぎ場所でもなくなってきているから、モンゴル旋風はもう起こらないだろう。できるだけ今年の早い時期に、妻と大相撲観戦をするというのが、今年の楽しみの一つである。
2020.01.21
(1)個人と共同体 Ⅰ「なぜ、人を殺してはいけないのか」で書いた通り、私は個人主義者であると同時に、共同体主義者でもある。 「個人」と「共同体」は二者択一の地平にはない。「個人」は「共同体」の中で誕生する。正確に言えば、人間は共同体の中で育ち、やがて個人となるが、最終的に自分が共同体の一員であることを強く自覚する。 もし、生まれた時から「個人」であるとすれば、共同体とは個人間の契約に基づく社会であるという、社会契約説は正しい。しかし、実際は共同体の中から、個人は胚胎するのだ。「私」という人格の最も外側の被膜は「共同体」であり、核心的な内側の被膜は「個人」である。「私」はすでに「共同体」の価値を内面化してしまっており、そのコードに従って生きる。(2)剥き出しのままの「個人」 ところが、現代の状況は少し前とはまったく異なると言うべきだ。今、「個人」はいかなる共同体の被膜にも保護されず、いわば剥き出しのまま、「社会」に「たった一人で」置かれることが多い。ここで、「社会」というのは、所謂「近代社会」のことであり、特定の目的を持った集団のことだ。 「共同体」とは、近代以前からあった地縁・血縁による人々の結びつきのことであり、「個人」-「共同体」-「社会」という順番に外周円を作るようにして、我々の生きるフィールドは構成されていた。少なくとも20世紀まではそうだったように思う。それが今世紀以降、共同体は消滅の一途をたどっている。 「個人」が剥き出しのまま、社会に「たった一人で」置かれる、とは「個人」-「社会」という生きるフィールドの構成になってしまっているということである。ここでは「個人」は「社会」に保護されるというのは、例外的なことである。(3)「社会」は「個人」を排除する 「社会」は特定の目的達成のために形成される集団であるから、その目的に役立たない「個人」を排除する。 会社の中で、役に立たない人間は解雇されるし、資本主義の中で役立たない会社も排除される。「目的社会」では、その目的達成に寄与しない人間に関心を払わないし、もしそういう人間が混入すれば排除するメカニズムを備えている。 「個人」は「集団」の目的を達成するための手段であり、手段である限りは代置可能である。より性能のいい手段は、劣った手段を淘汰する。(4)「個人」は「社会」を利用して生きる このことを個人の側からみると、自分が社会集団の目的に資することだけを人生の意味とする人もたまにはいるだろう。しかし、ほとんどの人は自分の全人格を会社に捧げるような生き方は選択しない。 やがて年老いてゆけば、健康を損なえば、あるいは新たなシステムに適応できなければ、社会が自分を排除することは、ちょっと考えれば誰にでも分かることだからだ。 自分がその集団の目的にどの程度寄与するかは、労働の貨幣価値として明確に示される。個人はその価値に見合う分だけ、労働を提供すればいい。そこで得た金銭と余った時間は、個人の楽しみのために使うだろう。会社に週40時間の自分の時間を差し出すのは、個人が生きるためであり、それ以上の時間、能力を提供する必要はない。会社が自分を手段化するなら、自分も会社を手段としてみればいいのだ。(5)目的集団を疑似共同体とする。 今、余った時間を個人の楽しみに使う、と言ったが、ではその楽しみとは何か。個人の純粋な孤独な楽しみもあるだろう。しかし、たいていの楽しみは他者との交流の中に見出される。 その際、特定の目的のための集団であっても、以前は疑似共同体的な側面を持っていて、そこに楽しみを見出すこともできなくはなかった。昔は会社で遠足があったり運動会があったりしたと聞く。自分の職場でも、グループでスキーに行ったり、テニスをしたり、ということはあったが、ここ30年くらいはそういうこともなくなった。その30年は「リストラ」に始まり、「勝ち組」「負け組」、そして「正規」「非正規」という目的集団が疑似共同体的な仮面をかなぐり捨て、目的のそぐわない人間を排除し、あるいは目的に少ししか貢献しない人間の価値を冷徹に査定しつつ、己の本性を露わにした時期であった。 結局、利益目的集団の中では、その目的達成に貢献する力が職場内の地位や給与に反映されていく。仲間意識があったとしても、それは一時的なもので、職場を離れればもはや他人としかいえなくなる。現代の日本社会では、「正規」も「非正規」も仲よく社内行事に、などという光景はありえないだろう。 この30年の動きは、終身雇用制が崩壊していく過程であり、その中で会社や役所は疑似共同体としての役割を果たそうとしなくなってきている。元来、会社などの近代集団の成立自体が、共同体とは正反対のベクトルを向いているのだから、これはこれとして、ある意味では正常な変化なのだ。
2020.01.21
昨日は射場は閉鎖日。それで三階で近射。午前1回、午後2回で60射くらい。もうフォームの方向性は決まったので、何とか4mでも18mを射っている気分でできないかと工夫した。といっても簡単な話で、レンズサイトのドットと同じくらいの直径の黒丸を、マジックでセンターに描いただけ。このドットが狙った時に隠れるなら、一応センターにエイミングがついたという想定。これが、なかなか難しい。隠れたところからさらに引くと、黒丸が上に現れる。つまり、下がっていく。それを何とか持ちこたえようとしているうちに、発射というパターンだ。それなら、発射までの時間は短ければ短いほどいいので、さらにトラベルを短くする。指が触れれば落ちるくらいまでにしても、引いた時には圧がかかるので、触れたら落ちるわけではない。一応、このトラベル設定で、今日は午後に練習予定。退勤後、3時くらいに出かけたい。
2020.01.21
昨日は、スポーツ三昧の一日。朝はいつものようにトースト、コーヒー、ヨーグルト。妻と久々に買い物に出て、食料品を。ついでにセーターと裏起毛のトレーナーを買った。帰ってきてから、射場に11時くらいに。最初から、今日は点取りをしながら、と考えていた。2回。279-278。ともに8点が1本ずつ。10-10-10が1回ずつ。どうも一昨日のようにはいかない。何がダメなのかも判然としない。まあ、いいかと思い帰宅。昼食。買ってきた出来合いのナポリタンに、玉ねぎ、ピーマン、ウィンナーをバターで炒めたのを足して、二人で分けた。それから全国総合駅伝男子の中継をソファで寝転びながら見た。広島を走る中学生から社会人までの47km。もう20年以上前に、隣の子どもが出た。確か30位台後半でタスキを受けて、つないだ時は47位。それでも地域では有名な選手だったのだが、やはり全国レベルは高い。彼は今、勤務の傍ら、パラリンピックの伴走者などもやっている。途中でウトウトしてしまったが、見終ったところで、再度射場に。午前の結果がどうにも面白くない。押し手がちゃんと押せてなかったような気がしてきた。試射をしてから点取り。280。やはり8点1本、10-10-10一回。もう少し10点率が上がらないとダメだ。その後何回か射ったが、その時は10-10-9が多い。点を取り出すと、フォームチェックがおろそかになってしまう。まだ、このフォームが身についていない証拠だ。帰ってから、大相撲。遠藤ー炎鵬戦。炎鵬が粘り強くくるくる土俵を回り、遠藤は最後に疲れて押し出された。遠藤は二敗となり、炎鵬は星を五分にした。今場所は面白い。高安は大関復帰が絶望的。豪栄道の大関陥落も目前だ。来場所は貴景勝の一人大関で、今場所優勝すれば綱取りの場所だ。ということは再来場所は大関不在か、それとも朝乃山がふんばって大関に上がっているか。どちらにしても休場の白鵬、鶴竜が来場所復帰しても、どうやら居場所はなさそうである。二人とも引退は時間の問題だろう。今日は午前中はかかりつけ医に。妻と二人分の薬をもらってくる。三階で少しだけ射つかもしれない。
2020.01.20
それほど大きな問題もなく、センター試験が終了した。予備校等のサイトでは、設問分析や、平均点予想など、毎年恒例の内容が早くも掲載されている。仕事柄、国語の問題は毎年解くが、年々新聞の小さな活字では辛くなってきていて、最近は問題を印刷してからということが多い。ページ数がすごいので学校で。それでも、今年は時間もあるので、目をしょぼしょぼさせながら、古文と漢文は解いた。評論、小説は今日。問題文はさっと読んだが、難しくない。例年、古文はセンターの中で一番難しく、平均点も低いのだが、今年は易しかった。河合塾予想の120点くらいがいいところだろう。ひょっとするとプラス5点くらいまであるかもしれない。息子は今年も試験官の仕事が当たって、大変だったようだ。それでも2日間で結構な手当てが出るから、まあ、若いうちはいいじゃないかと思う。時給にすれば5000円くらいだろう。考えてみると、1990年から30年に渡って行われてきたセンター試験、その前の1979年から11年間の共通一次試験、この41年間は自分の職業生活と大体重なる。自分の大学入試は1973年で、勤め始めたのは1980年だ。自分の大学入試の時は、各大学の個別試験だけがあり、五教科すべての試験があった。社会は2科目、理科は1科目。片平の旧キャンパスの古い教室で受けたが、60人ほどいたその教室で受かったのは確か3人だったと後から分かった。職業生活も終わりか近いのだが、多分最後まで来年度からの大学入学共通テストも解き続けるだろう。いや、最近流行の脳トレより、よほど頭を使うから、仕事を完全に離れた後も解き続けるかもしれない。しかし、その時に今までのように全問正解ができるかは、ちょっと自信がない。
2020.01.20
昨日は、11時から14時まで。2時間たっぷり練習。本数は数えていないが、多分100本はオーバーしている。課題は明確で、SPOT・FOGでいかに安定的に狙い、射つか。18mはやはり近射とは違い、遠い。この感覚を近射で味わうためには、的を小さくしなければダメだ。明日、工夫をしてみる。最初と途中でMが2本。いずれも、ちょっと押し手を緩めたつもりが、完全に引き戻され、誤射してしまったもの。試合でこれが出ると致命的である。それ以外は、8点が3本。1本は暴発に近い。あと2本は、フォームが崩れた。そういう射はかなりあったが、それ以外は9点の縁あたりで助かっている。が、これは8点になっても文句は言えないくらいダメな射だ。そういうダメな射は二つのタイプに分かれる。まず、近射では出なかった、射った後押し手が開く崩れ。押し手を保持する意識が飛ぶとそうなる。次に暴発に近い射は、フルドロー前に発射してしまう。ちょっと押し手を弱めて、のはずが、1cmくらい戻ってしまい、そこから引き直す時に出やすい。押し手の力を弱める感覚の一定化が必要。傍目ではほとんど戻っていないくらい数ミリ戻るところ(いわゆるバレーのところ)で、エイミングをしっかりし、親指を置き、さらに引き、親指を折り始める。10点率が一番高いのは、こういう感覚で射てた時だ。3本のうち1本、あるいは2本はそういう射ができている。スコアで最も多かったのは10-9-9、次いで10-10-9。9-9-9はそれほどはなく、10-10-10は4、5回くらい。おそらく285をちょっと切るくらいのペースの射にはなっている。SPOT・FOGを使って一週間だが、まずまずのところだと思う。昨日、射ちすぎたので、今日は射場で少ない本数をゆっくり射つ予定。練習ポイントは、押し手を緩めてからリリースまでの動作の一定化と、その後の押し手を保持したままのフォロースルー。
2020.01.19
(10)個人性と共同性の間に我々は生きている 「人を殺してはいけない」は現状を見る限り仮言命法であるが、我々はその仮言命法をどういう場合にでも妥当する定言命法にするための努力を重ねてきた、とも言える。先述のように多くのキリスト教圏の先進国では死刑を廃止している。また、反戦、反原子力は現代の政治の大きな抵抗運動たり続けている。 個人にとって「死」は「私」の終焉であり、それは不可避ではあるが、できることなら訪れてほしくない。私の命は、私にとって文字通り「掛け替えのない」ものであり、代置不可能なのである。それは、現代の人間疎外の状況にあって、私が誰にでも代置可能な仕事をして、気晴らしとしてのなんの価値もない娯楽に興じていたとしても、変わらない。 だから、私が私の死を、まして誰かに殺されることを望むなどということはあり得ない。もし、私が自殺したくなるのであれば、そのように追い詰めた犯人がいるはずであり、許しがたいのはその犯人だ。 私は、できる限り長く私であり続けたいし、そのためには多くに人々の支えが必要である。私には、医者が必要だし、家族が必要である。先生が必要だし、友人が必要だ。それが、私という「個人」の生き方である。つまり、「個人」は「共同性」の中に生き、その中で生かされる。 だから、私からその共同性を奪う者がいてはならない。つまり、誰であっても殺されてはならない。(11)他者は私との共同性の中に生きる この事態を、私の側から離れて、私を支えてくれる人の側から見ると、彼らにとって私は彼らを支える共同性の一部である。私は彼らの患者であり、家族であり、生徒である。彼らから見て、己の共同性の一角をなしている私の存在はやはり奪われてはならないものの一つだ。だからこそ、私は自殺してはならない。 つまり、「私」と「人々」とは、ともに生きることを支え合うという関係性の中にあり、お互いにとってお互いが不可欠なのだ。(12)なぜ、人を殺してはいけないのか なぜならば、彼らは、たとえ見ず知らずの人であったとしても、その人もまた私の生を支える共同性の中にいるからだ。 簡単に言えば、どんな人も私の一部であり、彼らが殺されることは、私の命の一部が不当に奪われることになるからだ。 それは個体としての生物である人間の最も際立った特徴である。他の生物なら「共食い」もするし、「種」を保存するための集団自殺もする。しかし、人間としての「私」は、「私」をできる限り長く保存するために、他の個体が私とともに生きることを必要とするのだ。 だから、私は他の誰のためでもなく、他ならぬ私自身のために人を殺してはならないのであり、それはどのような状況下でも妥当する。もちろん私の命を目前で奪おうとするものを殺すのは正当防衛として認められるが、それでも私は、できるだけ彼に致死的なダメージを与えないように配慮するだろう。私が銃を持っていて、その心得が多少ともあれば、急所は避けるだろう。なぜなら、彼もまた私との共同性の中を生きる一人だからだ。 ここにおいて、「殺してはならない」はもはや仮言命法ではなく、定言命法となるのだ。しかし、それは絶えず保持しなければ、すぐさま仮言命法に頽落してしまうような脆弱な定言命法である。 例えば、先述の障害者殺傷事件を引き起こした植田を死刑にしてしまえ、と多くの人は思うことだろう。その時に、植田が自己の一部だと考える人はごく少数の者だ。しかし、自分の中に、たとえわずかであっても、ある種の差別感情があることは誰であっても否定できない。もしそうなら、植田はデフォルメされた自分の一部である。(13)おわりに 個人主義者である私は、同時に共同体主義者である。できれば、私のためにその共同体が長く持続してほしいし、そのためにも私も、共同体のために長く持続したい。 次回は、この「共同体」とは何かについて考えてみたい。
2020.01.18
昨日は射場は開かない日なので、三階で50射ほど。病院に行く前の午前と、帰宅した午後に分けて。練習目標はリリースの一定化。どこで、リリースに向けて、どう引き始めたら一番中るか。まず、道具をちょっといじった。6倍のレンズサイトの外周にオレンジのサイズの同じ円形の蛍光テープを貼る。これだと、外周がくっきり見えて同心円がより分かりやすい。それから、射法が変わったので、自作の簡易グリップ、とっいっても単にドアストッパーを加工して、グリップに貼りつけただけなのだが、それを外した。弓が下がることを解消しようとしたのだが、もうエイミングからさほど下がらないので、いいだろうと判断した。元来、弓はオリジナルのままが一番スペックを引き出しやすい。外しても特に変わることはなかった。最後にボウスリングをフィンガータイプから、弓に輪をつけておくものに変更。グリップする押し手をなるべくフリーの状態にするという狙い。それだけいじって、的紙を換えて、練習。現在の射のポイントは、1.フルドローからわずかに押し手の力を弱め、引き手の方向を確認する。レットオフの高いところでやるので、そのままの体勢は維持できる。2.そこから本格的なエイミング。押し手で、完全にセンターに付ける。4mでもこれは難しい。どうしても少し動き続けるし、やはりやや下にはつきやすい。3.そこから引き手でフルドローにもっていく。その時、押し手を適度に抜き、開く感じ。引くことでやや下についていたセンターピンが中心に上がる。また、この時点で微細な動きも静まるのが理想だ。4.その過程のどこかで(というのは曖昧な表現だが、今のところそうとしかいいようがない。理想は本当のフルドローの直前の時点がいい)、親指の付け根をトリガーに置く。5.切れるのを待ちながら、さらにゆっくりと引く。最後の動作はスローモーション再生のように、ゆっくりと。すると大体は切れるのが30%くらい。6.切れない場合、親指をゆっくりと折り曲げていく。単に曲げるだけで、トリガーに触れないようにする。これで100%切れる。7.フォロースルーは開き気味の押し手を残し、弓が落ちることを意識する。全体として、絶対緩まないようにというガチガチの状態で射って、バランスを崩すという以前の射とは全く違う射になった。むしろ、今やっているのはわずかに緩んだ状態から、引き切る動作をエイミングとともに始め、引き切ったところでリリースする射。この方が、確実に切れるし、射の安定感が違う。つまり再現性が高い。どこでトリガーに親指の付け根を置くかが、最も微妙で難しい。早すぎると引き切らないうちに射ってしまう。遅すぎると、親指を折れば切れるが、あまり気持ち良くない。精度も微妙に外れることが多い。4mだと左右はまったく出なくなった。上下はやはり穴ひとつ分、つまり1cmくらいの最大誤差。18m先では、9点の縁か下手をすると8点かもしれない。親指を置いたところからは、特に「ゆっくり」に気をつける。「繊細なタッチ」が必要なところだ。今日は、早めの昼食を適当に食べて(多分カップ麺)、射場でじっくり確認したい。点取りはなし。それをやると一射一射の動作に注意がいかなくなる。
2020.01.18
昨日は、妻と整形に11時くらいに。妻の方は、何とかぎっくり腰を乗り切ったが、まだ普通の状態とは言えない。車の座席を倒し、フラットにして横になって運んだ。そもそも、我が家の車は、妻が腰を痛めた時に、横になって病院まで乗せていける、というのが必要条件で、そこから車を選ぶから、選択肢は少ない。その条件だと、中型のSUVが中心になる。最近、ちょっといいかなと思うのはライトエース、タウンエース。5ナンバーの商用車で、後席を倒すと広大なフラットな空間になる。車中泊はしないのだが、車中泊仕様のものも一部ディーラーでは販売している。早く、メーカーモデルに付け加えてほしい。今の車は気に入っているが、全幅1840が何としても大きすぎる。最近はそれでも入庫可能な立体駐車場が増えてきているので、駐車には困らないのだが。前は軽のワンボックスと乗用を二台持っていたが、定年を機に一台でいいだろうということになり、息子に乗用の方をあげてからしばらくして買った。軽自動車は、子どもの頃、最初に我が家に来た車がマツダキャロルだったので、愛着がある。小さなエンジンで健気に頑張る所がいじらしくて好きだ。ただ、ロングドライブはやはり疲れるし、冬道はとても遠征など行く気にならない。音もすごい。妻と大声で話さないと会話にならない。マンションを買った娘夫婦には、その前に乗っていた普通車をあげたのだが、もういい加減古いので、今のを買い替える時に、もう一度あげようかとも思っている。その時の候補がタウン(ライト)エース。中古の程度のいいもので構わない。どちらにしても、今の車にあと3年くらいは乗ろうかなとは思う。
2020.01.18
昨日は午後出勤だったので、10時半ころから1時間射場に。やはり、先日のようにはうまくいかない。10点率は高いが、時折7点、8点のミスが出る。ミスの原因と対策。(1)なかなか切れないためのミス① → まず引き戻して、やりなおす。 どうしても狙いすぎるとそうなるし、引き手をもう一度最後に引く時に詰まった感じになるとダメだ。全体として射が早くなったので、一回は引き戻せる。(2)なかなか切れないためのミス② → トリガーの親指をゆっくり折り曲げる。 今は親指の付け根をトリガーに置き、そこから引くと切れる。切れない場合、親指をゆっくりと折っていくと、切れる。ただし、少し動くので、10点率は下がる。(3)引き切れない時点で発射するミス → トリガーに親指を置くタイミングを一定化する。 このミスは12時9点で止まってくれることが多いのだが、トリガータイミングが速すぎるので起こる。だから、トリガー始動のきっかけである親指の付け根を置く動作をいつも一定化することがすべて。ベストは、本当にあと数ミリくらいのところでしっかり置くタイミング。その時の10点率が最も高い。(1)(2)と(3)は裏表の関係だが、8点に行きやすいのは(1)(2)の場合なので、(3)のミスが出ないようにしつつ、すぐ発射するトリガータイミングを覚え込ませるのが、今後の課題だ。もしもすぐ発射しなければ、引き戻すというのが原則。これなら二回引き戻せるかもしれない。明日、十分時間をかけて練習予定。
2020.01.17
本当はもっと早くと思っていたが、妻の腰の状態が大分回復したので、我が家は昨日、鏡開き。夕食はお雑煮だった。我が家の雑煮は東北風。しみ豆腐や芋がら人参、鶏肉などたっぷりの具に、三つ葉、焼いた餅、いくらのしょうゆ漬けなどをのせていただく。自分の母はそもそもあまり雑煮などを作らなかったが、作ったとしても関西風のあっさりしたものだった。今では、たっぷり具沢山の雑煮がとてもおいしい。昨日で今週の仕事は無事に終わり、今日は、新年初めての整形。
2020.01.17
(5)「命」をめぐる混乱 「殺すな」は、事実上は、普遍妥当性を持たない仮言命法である。にもかかわらず、我々はそれを禁忌とし、許されざる悪徳と感じている。それはなぜか。 キリスト教では「汝、殺すなかれ」は十戒の一つであり、仏教では「殺生」といい、人どころか、動物全般を殺すことすら禁じている。 俗に「命ほど大事なものはない」といい、また自ら命を絶とうとする人に「生きていれば何でもできる」という。さらに「一人の命は地球よりも重たい」とさえいう。 つまり、多くの我々にとっては「殺すな」は定言命法として受け取られているのだ。だからこそ「核兵器廃絶」は、それこそ命をかけての政治運動になり得るし、「死刑廃止論」も根強い。しかし、一方で「安楽死」を認める思想も進歩的な思想と思われている。 「尊厳死」と「安楽死」はまったく違う概念だが、医療当事者にとっては、延命を中止して死期を迎えさせることも、より積極的にこれ以上の苦痛を感じさせないために致死量のモルヒネを投与するのも、同じく「殺す」ことではないのか。(6)「同意されない場合、人を殺してはならない」という仮言命法 以上のことから、どうやら我々は上記のような仮言命法を、定言命法であるかのように勘違いしているらしいことが分かる。同意を得ていれば、「尊厳死」は認められるだろうし、場合によっては「安楽死」も認められる。 つまり、「命」に関する決定は、その命を生きる個人に完全に属すると我々は考えているようだ。これは個人の自己決定をどこまでも尊重する「近代個人主義」の考え方である。戦争も、死刑も、殺される本人が同意していないのだから、してはならない。事故死や災害死も本人の同意があらかじめあるはずがないのだから、それをできる限り未然に防ぐ努力は、政治や企業の義務である。かくして自動ブレーキはその装着を義務化され、そのために大衆車の値段が100万くらい高くなっても、文句は出てこない。津波が来ても大丈夫なような防潮堤を作ることに数百億かかっても、同様である。(7)命はその人の「命」である 「何を当たり前のことを」と、ここでも思われるだろうが、この考えを延長していけば、その命をどう生きるかについてもその人の自由である、ということになる。それは、その命を終わらせることについてもだ。 例えば、あらかじめリビングウィルとして、延命治療をしないでほしいという意思を明確にしておけば、そうなる。 しかし、そうだとすれば、自殺は「してはいけないこと」ではなくなるのか。(8)「自殺させてはいけない」と「自殺してはいけない」 この二つの命題には明らかな相違があるように見えるが、実のところ同じことから出来している。 前者は「自殺」を一種の「他殺」としてみる見方だ。「いじめ」や「過労」で自殺に「追い込まれた」人に対して、社会は決して「自殺するべきではなかった」という断罪を行わない。むしろそこに追い込んだ学校や企業に鋭い批判の眼差しを向ける。そこにあるのは、「自殺」という自己決定を行った個人に対する肯定や否定ではなく、そのような自己決定を余儀なくした「周囲」に対する断罪である。 では、「自殺してはいけない」という言葉を我々は誰に向かって発するのか。それは、自殺してしまった人にではない。まさにそこに向かう人、そういうことをしかねない人に向かってである。そこには、「私たちがあなたを支えるから、自殺などしてはいけない」という含意がある。(9)命はその人の「命」ではない 上のような事態を考えると、我々は命はその人だけのものではなく、周りの人たち自身がその人とともにしているもの、と考えているらしい。このことは、特に家族間では強く感じられる。 家族の命を守るためなら、たいていの人は相当のことをするだろう。それは、自分の命が家族によって支えられていることをよく知っているからだ。 家族を少し延長して考えれば、見ず知らずの人でも、その命が無慈悲に奪われてしまうことに我々は平然としていられない。災害であれ、犯罪であれ、それを奪う者に対して強い憤りを感じることがある。 それは、実はその人の命が、自分は全く自覚していなかったとしても、自分の命を支える命であったからにほかならない。
2020.01.16
相撲は、また白鵬が休場。鶴竜は三敗目。豪栄道は勝ち越しは難しいようだ。いずれも三十代。朝乃山や貴景勝などの台頭著しい力士は二十代。どうやら、今場所は世代交代の始まりとなりそうだ。世代交代は、徐々に起こってくるのだろうが、傍目にはやや唐突に生じたような印象を与える。季節の変化と似ている。鴨長明が千年も前に「春は突然やってくるのではない。冬の間に春の予兆があるのだ」というようなことを書いているが、その通りなのだ。職業人としての自分も、これはかなり自覚的にそうしたのだが、世代交代をして、これから徐々にフェードアウトしていくところだ。家庭人としての自分たちは、核家族なので世代交代も何もないのだが、それでも子どもたちがそれぞれ新たな家庭を営み、孫も一人ずついて、いつのまにか、孫に会うのが楽しみな祖父と祖母になっている。自分たちにとって、子育ては完全に終了した。アーチャーとしての自分は、10年ほど前がピークで、全日の試合にも何度か出られたのだが、今はとても無理な話である。ただ、こちらの方は、若い人がなかなか入らず、協会がいつまで維持できるだろうかと思う。スポーツに限らず、人口減少社会の日本では、世代交代がうまくいかないという場面はあちこちで起こっている。中小企業は後継者がいないため、続々と廃業せざるを得ない。依然として、団塊世代は人口のボリュームゾーンで、消費の中心世代であり続けている。テレビのコマーシャルは、介護用品、健康食品ばかりだ。自分はポスト・団塊と言われる世代である。実際にそうするわけではないが、団塊世代がフェードアウトしていく様を、いわば「看取る」世代なのだろう。
2020.01.16
(1)はじめに 大学、大学院で曲がりなりにも哲学、倫理学を学び、その後、高校で現代文や倫理を教えてきた者として、思想的には未熟だが、とにもかくにも、自分の考えを書き遺しておきたい。こういう思いが強くなったのは、間違いなく歳を取ったせいであり、「自己とは思考の総体である」と考える近代個人主義者としては、その「自己」をどこかに保存しておきたくなる。 この稿は、半分、いや9割がた遊びで書いている他のカテゴリーとは、違う。朝の暇つぶしとして、日々雑感、練習日誌などの駄文を書き連ねることももちろん継続したいので、本稿がどれくらい書けるかは分からない。(2)人を殺すのは珍しくない 最初のテーマは「なぜ人を殺してはいけないか」という大きなものである。 そんなこと当たり前じゃないか、と言う人に問うてみたい。では、その罪を犯す人がなぜこんなにあふれかえるほどいるのか。直接の殺人だけではない。当人を自殺に追い込むような言動、危険性を認識しながら、利潤追求を優先したための事故死、災害死等々、我々の社会は常に人を殺している。それどころか、ある面では人を殺すことで成り立っている。(3)相模原事件に思う 相模原で45人の障害者を殺傷した元職員の植田は、「障害者は生きる価値がない」という信念らしきものに突き動かされていたようだ。当然、事件は大きく報道され、報道された事実の衝撃にとどまらず、障害者遺族が被害者名を明らかにすることを拒まざるを得ないような「障害者差別」の社会病理についての考察が行なわれるようになった。 一方、ネット上は、植田を支持する匿名の書き込みに溢れている。とにかく、この事件は大きな衝撃を与えたし、筆者がこの問題を最初に考察する動機ともなった。(4)人を殺してはならないは、「定言命法」か。 カントは道徳命題を「定言命法」と「仮言命法」に二分した。「仮言命法」とは「・・・・の条件の下では~~~してはならない(しなければいけない)」というもので、例えば「先生に叱られるから、勉強を怠けてはならない」というのも「大学に受かりたいから、勉強しなければならない」というのも「仮言命法」にであり、もしその条件がなければ「勉強をすること」はいかなる道徳的価値も持ち得ないことになる。 これに対して「定言命法」とはいかなる条件の下でも「~~~するな(せよ)」という道徳的命令である。従ってそれはいつでも「道徳的価値」を有し、「~~するな」ということをなすのは「悪」であり、「~~せよ」ということをなすのは「善」である。 それでは「人を殺すな」というのは「定言命法」なのか。それに対する答を、現代日本社会は明確に出している。日本には死刑制度があり、それの是非は今は置くとして、とにかく国家権力が個人の生命を奪うことを法的に許容する事態はあるのだ。つまり、日本では一定の条件の下では、人を殺していいことになっている。それは近代国家日本の成立以前からのことだ。 一方、西欧先進国を中心に死刑廃止をしている国は多い。キリスト教の「汝殺すなかれ」は定言命法であるかのようだ。しかし、そのほとんどの国家は国としての交戦権を認めている。つまり、戦争で人を殺すのは、国家が個人に与えた使命であり、それを数多く行った者は、英雄として褒賞される。ここでも一定条件の下、殺人は正当化される。 つまり、「人を殺してはいけない」は、現代世界の実相から見れば、数多くある「仮言命法」の一つにすぎない。 もし、「汝殺すなかれ」が仮言命法にすぎなければ、この世のあらゆる善悪は絶対的なものではなく、すべてが相対的なものになる。殺してもいい場合、時代があり、そうでない場合、時代があるというだけのことになるだろう。
2020.01.15
今日は、9時半出勤。現代文と倫理を2コマ連続でこなして、早めに退勤。倫理は「汝殺すなかれ」は定言命法か、仮言命法か、というテーマでのディスカッション。ちょうど今、書きかけている原稿のテーマでもある。帰りがけに、少しだけ軽油が値下がりしていたので、給油。リッター123円。それにしても、高くなった。以前、ディーゼル車に乗っていた時は、リッター80円くらいだったように記憶している。帰ってから、昼食。妻がちょうど食べ終わったところで、腰の調子は大分回復した。一安心。2時半ころ、射場に。今日は最後の30射で点取り。57-58-58-58-57=288左での練習新記録。技術的には、まずきっちり押してエイミング。それが、前よりもしっかり狙えるようになったのが大きい。それから、少し押し手の力を抜き、さらに引き手の肩の力を抜き、背中で引っ張る。SPOT・FOG。10-10-10が3回。8点はゼロ。これも初めてだ。次に練習する明後日には、「あれ?おかしいな、こんなはずでは」ということもよくある。長くやっていると、そういうことが分かってくる。それなら、いい結果が出た今日のうちに、祝杯をと考えた。歳を取れば、自分で自分を祝うようにしないといけない。何しろ祝うことより悼むことの方が多いのが普通なのだ。鮭トバ(燻製)とオリオンビールで、相撲を見ながら一杯。ディスカッションもうまくいったし、自己新記録も出て、祝うべき一日だった。
2020.01.14
一月も中旬で仕事始めというのも、何だかなぁ、という気がしないでもないのだが、冬期休暇はきっちりと18日間、その間職場には一度も顔を出さなかった。妻の腰は、少しずつ良くなっていて、まだ座って食事はとれないが、階段はどうやら大丈夫になった。昨日は、冷蔵庫の鮭や肉を作り置きしたので、今日は冷凍ごはんをチンとすれば、何とかなる。昼にはお握りもあるから、食事の心配はない。今朝は一階の掃除をしてから出勤予定。ここ数日、体調が悪かったが、昨日たっぷりと昼寝もしたし、今朝も6時くらいまで、10時間近くベッドにいたから、大分回復した。今日は3,4限なので、1時半には帰宅。体調が良ければ、3時くらいから射場に出かけようかと思っている。
2020.01.14
275-273=548いつものアベレージ。結局SPOT・FOGを試してみた。途中いい感じにもなるのだが、持続しない。今日はサイトレンズを右用のとまるごと交換してみる。4倍から6倍になるのでかなり違う感覚になるだろう。妻の容態次第だが、一応練習予定。
2020.01.13
妻が二日前からちょっと大変である。何とかベッドから起き上がることはできるのだが、それ以上のことは無理だ。昨日は弓の試合・新年会だったが、あたふたと帰宅した。少しずつはよくなっているようだが、前回の経験ではあと2日くらいかかるだろう。こうなると、こちらもあたふたせず、じっくりと構えた方がいい。一階と二階の往復が多くなる。食事を運んだり、下げたり。とにかく、今日はそんな一日にまたなりそうだ。起きたら少し回復しているといいのだが。
2020.01.13
昨日の時点で、今日のSPOT・FOGはあきらめた。確かにスパスパ切れるのだが、切れるところが一定しないためか、やはり8点率が高すぎる。10-10-10も数回あったが、これはもう少し修行が必要なのだと実感した。今日の記録会はHBCで。SPOT・FOGを試してよかった部分を生かしたい。つまり、最後のエイミングの前にやや押し手を緩め(肘を矯めるというよりはもう少し弱い)、それから最後の引きでリリースをする点。これでどれだけ8点率がましになるか分からないが、ともかく切れるのに苦労しても今日はやってみたい。
2020.01.12
ドイツの美術史家、アビ・ヴァールブルクの言った言葉だそうだ。面白いのは、英語では「GOD IS IN DETAILS」という英語よりも、「DEVIL IS IN DETAILS」という方が有名な諺で、日本のことわざで言えば「画竜点睛を欠く」、最後の詰めが甘いと物事は失敗するというほどの意味である。昨日の練習は、午前中、妻と整形、デパート、銀行の記帳二件などに行った後で、三階射場で。出かける前も少し射ったから、合計は60射くらい。フルドローから肘を矯めることで、わずかに緩む。その緩みの状態を保持したまま、エイミングし、再びフルドローまで引く。エイミングのズレは最小化される。それでも微調整して、再びセンターエイミングとし、そこからリリースに向かう。リリースは親指をトリガーの周りに添えて、決して握るという意識なしに、引く。リリース。これまでも、散々経験してきたことだが、身体の末梢の方に意識がいくと、ろくなことはない。例えばリリースの指、グリップの掌など、そこを意識の中心にしてしまうと、肝心の体幹の保持がおろそかになる。それで、まず腰の下、所謂「臍下丹田」に力を込め、弓をできるだけ平行を保って上げ、そこから息を吸いつつドローイングを始めること。最後の引きは、指を意識せず、肩甲骨の動きを意識すること。そして、リリース前から、リリース後のフォロースルーを意識すること。それをやったら、4mの距離でも精度が上がることが確認できた。なにしろ12時9点のライン上の同じところに穴が開き続ける。(18mのサイトのまま射っているのでそうなる)だから、自分の今の格言は「神は細部に宿らない」なのだ。そういえば、アビ・ヴァールブルクも「神は細部に宿る」の後、こう書いている。「普通は美術であれ、あるいは音楽や文学であれ、あらゆる芸術で優先されるのはいつでも作品「全体」の価値である。だから、たとえ「神は細部に宿る」ことがあったとしても、その「細部」は最終的には「全体」に統合されなくてはならない」今日は午後からの射場練習。午前中は妻と買い物の予定なので、数回三階で射つ。射場にも右の弓を持ち込んで、左12射、右3射のペースで5セットくらいの予定。さて神は細部に宿るのか、全体に宿るのか、それともどこにも宿らないのか。18mではやってみないと分からない。
2020.01.11
「趣味編」というより「弓編」と言った方がいいくらい、弓はもう生活の一部だ。点数の方は、この歳では段々落ちてくるのだろうと思ってはいる。しかし、去年はわずかでも点数は一昨年よりもよかったから、今年も去年よりアップしたい。インドアの方は、今年も出場基準点は射てて、選手権が近いが、その予選で560が目標。中心を狙って射抜くことができれば難しくない点数だ。右で射っていたときは、その点数が基準で、そこより何点上積みできるかが問題だったのだが、左ではまだ出ていない点数だ。アウトドアは660点。50mで330を安定的に射てれば、十分可能なのだが、これも近いようで遠い目標だ。練習の量は十分確保できるのだが、問題は「質」だと思っている。改善すべきテーマを、1週間かひと月くらいのスパンで達成していくような練習。それができればいい。ただし、その間は点数が出ないことを覚悟する必要がある。これがなかなかできないのだ。今年は、「質の高い練習」がテーマになる。妻は、自分の母親譲りの着道楽で、生け花や茶会に着物で出かけるのが楽しいようだ。こちらは、たまには茶会につきあって一服いただいたりはするのだが、ほとんどの場合は送迎だけ。共通の趣味は「旅行」。腰の調子次第だが、段々回復してきたので、今年は国内の旅行を考えている。一つは尾道。これは医療ツアーを兼ねて。もう一つは東京で相撲観戦、歌舞伎見物などを。息子夫婦と孫が出張研究を兼ねて出てくる予定もあるので、その折に合わせたい。後は熊本。一昨年行った弓の試合もあり、その間で九州、特に宮崎方面には行ってみたい。もちろん孫のいる鹿児島も。道内旅行は車でということになるが、道産子なのに道北には行ったことがない。天売、焼尻など、夏はいいかもしれない。フルムーンパスという手もある。あるいは積丹のあたり。洞窟があり、船で行けるそうだ。まあ、行きたい旅行を全部というわけにもいかないが、時間は去年よりもさらに余裕はある。もう一つ考えているのは麻雀。最近は認知症予防も兼ねた高齢者を対象にしたサークルなどがあり、結構流行っているらしい。妻はほとんど初心者なので、教室から参加ということも考えている。自分は学生の時は、たっぷり遊んだ。全自動の麻雀卓も買うかもしれない。さらに電子ピアノの購入を本気で考えている。娘が転居と同時に孫に買ってやったのだが、これがなかなかいい感じだ。もう指はちゃんと動かなくなっているが、弾けないことはない。毎月、一曲仕上げるくらいならちょっと時間があれば可能だ。せっかくの余生なのだから、健康寿命をできるだけ長く保って、生活を楽しみたいと思う。
2020.01.10
持ち出してきたSPOT・FOG。親指型のトリガーリリーサーで、確か数年前、東京出張の時、新大久保で買ってきた。7千円くらいで、3万弱が普通の値段のリリーサーの中では抜群に安い。構造は極めてシンプルだが、持ち味というか、それがとてもいいので買った。そのSPOT・FOGをトラベル最小に調整して、昨日は12:30~16:00まで射場に。さすがに射ちすぎて、左肩が痛かった。モーラステープを二枚貼って寝たら、痛みは治まっている。最初の30射だけ点取りをしてみた。結果は274。自分としては変わり映えのしない点数だが、内容が違った。10点12本、9点12本、8点6本という内訳。275くらいの時は、10点7本、8点2本くらいで、他全部9点というのが多い。8点は前半に集中した。出だしが9-8-8、次が10-10-9。10-8-8とか10-10-8もあった。8点は、射っていてミスだという感じが分かる。エイミング不十分、肘の矯めすぎなどいくつかのミスに分かれるが、以前のように切れなくて苦し紛れに射つミスはなくなった。射った後で押し手が開くこともない。最後の方は疲れて、集中力が切れたが、インドア60射なら何とかなりそうな気がする。土曜日に練習、日曜日に記録会と続くので、今日は射つとしてもほどほどに。何しろ昨日は午前も自宅近射を50本ほどしたから、合計150本は越えている。昔ならそれがほぼ毎日だったがさすがに今は苦しい。自宅近射では、右でも射っているが、少し身体の震えが小さくなってきている。前は4mの的を射抜けなかったが、今は10点には入る感じだ。これもリハビリと考えて、15本射ったら3本は右という割合で射っている。引き手の抜けは、さすがに右の方が段違いにいい。これから、6:30に整形に診察券を出し、妻と治療後、デパートに行く予定。昼からはゴロゴロ過ごそうと思う。
2020.01.10
まさか、自分が一つの仕事を、人より2年長い定年まで勤め、さらに再雇用となり、65歳の年度まで勤め、また来年度も非常勤として勤め続けるとは、思いもしなかった。そもそも、その仕事が目標だったわけでも、夢だったわけでもない。そこらへんに転がっていたから、就職したのである。そのあたりは、別稿で書きかけている。前に書いた通り、次年度からは非常勤講師という教員カーストの最下位の職分になる。校長、学園理事を退任して4年目だから、まあこれは「職業的余生」のようなものだ。意外なことに、「教えること」が面白いとは、勤めてすぐに感じ始めた。特に受験生に教えることは好きだし、得意分野だと思っている。それをずっとやってきた。「非常勤」の立場では、それだけが仕事になる。部活動や校務分掌など教員の雑務など一切ない。生徒募集業務もマネジメントもない。一時間、一時間の授業をしっかりこなすことだけが職務だ。後は、例年のように志望理由書、小論文、二次の個別試験などの個人指導を、時間のある放課後や昼休みに。これは完全なボランティアで、頼まれたら引き受けることにはしている。本来専任教員の仕事だが、生徒も自分の将来がかかるのだから、誰にでも頼むわけではない。信頼にはやはり応えるべきだ。ただし、来年度からは、指定校推薦で、最初から合格が約束されている生徒の小論文などは引き受けないことにした。倍率の結構ある公募制推薦や、国公立の二次試験など、こちらも真剣に教えなければ不合格になるようなところだけをカバーする。今年度の2年生の現代文をやっているので、来年度はそうするからね、と今から告知?している。そういうわけで、週に10時間程度、3日間。おそらく古典を含めて担当することになるだろう。夜8時までの受験講習も一つは担当する。できれば、3年がいいのだが、2年になりそうだ。3年は担任が国語の主任になる予定なので、担任で教科講習を担当しないと、生徒が信用しなくなる。大学の15年ほど後輩になり、優秀で労を惜しまないタイプだ。そういう配慮もマネジメント職的なもので、もう無縁なのだが、分かっていて配慮しないわけにもいかない。現校長にはすでに話を通している。ただ、3年の現代文だけは担当しないわけにいかないだろう。なにしろ、校長時代の最後の1年間を除き、新任1年目からすべてやってきた授業である。もちろん「古典」も時代によってその評価は変化するのだが、「現代文」は「現代」についての「文章」だから、時代が変われば素材も変わる。同じ出版社の教科書でも10年前とは違う文章が載っている。特に「評論」、「随想」の部分は変化が激しい。「小説」は、さほど変わらない。一方「古典」は「十年一日」で、ほとんど変化はない。だから、教える方としては、「古典」は楽だが、同じことの繰り返しはつまらない。しかし、久しぶりなので、これはこれで結構面白いかもしれない。そういうわけで、「仕事」はやりたいことだけを選んでやれて、しかもわずかだが収入もある。計算上は時給3000円ほどだが、それで十分だ。夏冬春の長期休暇も、講習をこなせばすべてフルに休めるのだから、恵まれた仕事の環境である。
2020.01.10
「アンインテンチョナル・ショット」というのが、自分の前々からの理想の射だ。つまり、トリガーだろうがトリガーレスだろうが、意識的にリリーサーを切りにはいかない。昨日は、とにかくエイミングをセンターで維持し、じっと切れるのを待つ練習から始めた。これはなかなか辛い。そこで分かったのは、エイミングがセンターから逸れ始め、修正しようとした瞬間が最も切れやすいタイミングだということ。顔向けをわずかに変えて、同心円を維持する。引きの方向を微調整してセンターを維持する。押し手をさらにベタ押しにして下がらないようにする、等々。そういう瞬間にリリーサーが切れる。しかし、よく考えてみると、修正の瞬間、目いっぱいのドローイングは、ほんの少しだけ緩むのではないか。だとすると18m先の10点は、たとえエイミングがピッタリついていても射抜けない。ましてピッタリつけてなんかいないのだから、下手をすると8点だ。右で射っていた時は、トリガーのトラベルを最小にして、「触れたら落ちる」くらいの調整をしていた。エイミングが付いたタイミングにトラベルに親指を置く。すると、ずれないうちに発射する。今は、ドローイングの後、少し肘を矯めている。そこからさらに引いてセンターにつけ、カチッを確認し、そこからエイミングを維持し、ひたすら切れる瞬間を待つ。アンインテンショナル・ショット。だから、このショットはどれだけエイミングを長く保持できるかが重要だ。とにかく、人が2本射つ間に1本半くらいしか射てない。たいてい射線に一番長くとどまっていることが多い。ちょっと気分転換にトリガー、今回はスポットフォッグに換えてみた。形状の関係でドローレングスが伸びるが、構わず矯め肘で。やはりトラベル最小設定なので、握るというより親指を置いたら切れる。最初は暴発もあったが、慣れてくると割合上手く切れる。だが、段々切れるタイミングが予測できるようになる。それでいいようなものだが、実際は予測すると、調節するようになる。調節すると緩みが生じてくる。ふと思いついて、エイミングを肘を矯めている時に完璧に付けて(その方が付けやすい)、それから指を置いてフルドローに持っていった。するとほぼフルドローが完成したときに切れる。これはいいかもしれないと思って、しばらくやってみた。少なくともフルドローに持っていくプロセス中に切れるので、緩むことはない。しかも置いたら、ほぼ切れる。問題はフルドロー前に切れる可能性だ。そうなると、ちょっとずつポンド数の違う弓で射っているのと同じことになり、上下にばらつく。だから、少しトラベルを長くしたり、長すぎてまた短くしたりした。しかし、とにかくフォロースルーは一定しており、付いた時点からコンマ数秒でいつも切れる。つまり、発射を完全にコントロールできる。インテンショナル・ショットだ。一日の練習で、北極から南極に移動したかのように射が変わったが、インテンショナル・ショットが18mでも通用するのかどうか、今日は射場で試してくる。
2020.01.09
昨日は朝から雪の予報だったが、思いのほか気温が高く、雨。特にすることもなく、三階の掃除、片づけをしながら時々、弓という一日だった。何射か射ったところで、ふと気づいたのだが、雨音がしない。上がったのかな、と思って窓を覗くと、みぞれになっていた。「あめゆきとてちてけんじゃ」(雨雪を取ってきてください)宮沢賢治の『慟哭の朝』で繰り返される、高熱で喘ぎの間から、かすかに聞こえた妹の言葉だ。「あめゆき」は岩手県の方言で「みぞれ」のことだそうだ。「みぞれ」は何か暗い、不安げな気持ちとともに歌われることの多い季語だが、自分の駄句は、ただ雨音がしなくなったのはなぜかな、という軽い日常の延長線上の感慨にすぎない。「見下ろせば霙は雨となり落ちる」三階の窓から見ると、一階の辺りでではもう雨状の水滴が落ちている。自宅は丘の上で、やはり街場とは気温が2度くらい違うらしい。三階だと、微妙にまた低いのだろうか。
2020.01.09
まだコンパウンドに転向して間もないころ。とにかく、フォームを安定させようとして、朝に一時間、退勤後二時間くらい射場に通い詰めた時期があった。昨日は、午前中一階の掃除をしてから、三階で近射。30射ほど。午後から射場に出かけ、3時間ほど射った。途中までは何とか狙いを維持し、肩甲骨に意識を集中させて射つことができたが、後半段々狙いが下につくようになってしまった。それでも時々10点を射抜くのは、射の瞬間に押し手を無意識に跳ね上げることで、矢の方向を調整しているのだと分かった。フォロースルーで身体が開いたようになる時はそれ。たまたまうまくいくこともあるが、長続きしない射である。ずっとそれで去年まではやっていた。射場では100射くらい。左足に坐骨神経痛が出始めたが、それでも止めずに射ち続けた。帰るとさすがに疲れ果て、ぬるい湯にゆっくり浸かり、左足を揉み、上がってからモーラステープを二枚貼る。9時くらいには寝つき、起きたのが5時半。8時間も通して眠ったのは最近では珍しく、やはり身体が疲れていたのかと思う。坐骨神経痛もどうやらなくなったようだ。今日は三階射場で、できるだけ多く射ちたい。早くしっかり狙って射つという感覚を固定させたい。久しぶりに三階のストーブを稼働させることにしよう。
2020.01.08
まだ両親が健在だったころ、自分たちは二階、両親は一階という所謂二世帯住宅で暮らしていた。正月七日に、朝のんびりと起きると、鍋が階段の途中に置いてある。母がつくった七草粥だ。それを持って上がり、子どもたちと一緒にいただいた。多分、普段の朝食としては物足りないのだが、おせち料理で、胃もたれ気味だったので、七草粥はことのほか美味しかった。そういうことは、妻も引き継いでくれて、毎年のことになっている。今はスーパーで七草粥セットを売っているので、つくるのは簡単。昨日は夜に。さすがに夕食としてはシンプルすぎるから、それに海老のてんぷら、鶏の唐揚げが加わる。鶏肉は残ったお雑煮用のものだ。七草粥を食べて、正月が終わったなと実感する。鹿児島の息子の嫁さんからライン。向こうでも七草粥を食べたそうで、写真が送られてきた。「初めて作ってみました」と。母ー妻ー息子の嫁。考えてみると、この三人は血がつながっているわけではない。それが七草粥でつながっている。何だか不思議な気持ちだ。
2020.01.08
国会議員の誰それが、300万の収賄だとか、他に5人ほどもらっている議員がいると贈賄側は言っているだとか、連日この問題でマスコミは賑わしい。ことの本質を考えてみたい。IRとは何なのか。IRとは、カジノのほかホテルや劇場、国際会議場や展示会場などのMICE施設、ショッピングモールなどが集まった複合的な施設のこと。Integrated Resortの頭文字の略で、統合型リゾートとも呼ばれる。という説明をJTBのHPから拾ってきた。もはや、日本はグローバル競争を勝ち抜く力を持っていない。エネルギー資源もないのに、原子力発電を主要な電源ベースと位置づけ、風力などの自然エネルギー発電は、ヨーロッパなどから技術的に大きく後れをとっている。そうかといって、ITや金融が世界最先端というわけでもない。賃金は、非正規雇用の増大で国際的に見れば、安くなったとはいえ、発展途上国の比ではない。だから、工業製品の輸出も自動車頼みで、それも早晩、電気自動車が普及すれば、アドバンテージはほぼなくなる。賃金をさらに下げて、再び輸出大国を目指そうにも、生産年齢人口は減る一方だ。やがて近い時期に、20歳以上の人口の8割が40歳以上になるらしい。この人たちの賃金を下げれば、ほとんどの国民は老後に備えるなどということは考えられなくなる。つまりは、八方塞がりなのだ。しかし、日本には西欧文化圏から見れば、非常に魅力的な観光資源があり、インバウンド収入は飛躍的に増加している。ここにIRを作れば、一気に主要産業化できるだろう。雇用も創出できるし、そのために小学校からの英語教育が、効果を生むだろう。なにしろ、英語で道案内くらいできなければ、IR従業員は外国人ばかりになるだろうから。以上が現政権の目論見である。それに対して野党は、ギャンブル依存症云々という極めて視野狭窄的な反対論しか主張できない。ギャンブル依存症についていえば、別にIRでなくてもパチンコや公営ギャンブルで身を持ち崩す人たちは現にたくさんいるし、IRができてもその割合が大幅に増えるとはいえない。パチンコ屋を埋め尽くすのは、どう見てもスーツとネクタイ姿のホワイトカラーではない。そういう人たちがドレスコードのあるカジノに頻繁に行くとは思えない。仮にそういう人たちの溜まり場になるような、ガラの悪いカジノになれば、そこでリゾートライフを過ごそうという外国の富裕層はいなくなるだろう。では、カジノ抜きでIRが成立するかというと、それも非常に疑問だ。日本の観光資源は点在しており、元来、周遊型の観光が最適な環境なのだ。初めて日本を訪れた人は、とりあえず、若い人なら東京のオタク文化の聖地秋葉原、年配者なら京都などの伝統文化観光に行くだろうし、ちょっと足を延ばして金沢、雪のない東南アジアからは北海道等々、少なくとも二、三回は訪れてみたい観光地に恵まれている。しかも民泊で、LCCで来日するバックパッカーにも対応している。わざわざ、IR施設の劇場などに行かなくても、歌舞伎座や大相撲観戦など、魅力的な観光資源はいくらでもある。国際会議や展示場なら、首都圏などにすでに十分な施設がある。では、なぜIRなのか。一つはオリンピックと同じで、土木建設業界が潤うからだ。彼らは、施設が出来上がった後、それが利潤を生むかどうかなどには一向に頓着しない。とにかく壮大な施設なら、その建設で、莫大な利益を手にできると考えるだけだ。そういうところに、過疎に悩む地方公共団体の税金と一向に赤字から脱却できない国税を、少なからず注ぎ込むくらいなら、老朽化したインフラの再構築に使うべきだ。もう一つは、新たな搾取の構造ができるからである。先述の通り、ブルーカラーにはIRは敷居が高い。しかし、働き方改革で、余暇の増えた中流ホワイトカラーのお金がIRに流れ込む可能性は否定できない。何しろ、彼らは、大学入学共通テストのせいで、まともな文章を読んで大学に入ってきていない世代である。文化的には極めて低いレベルの教養しか持ち合わせていない中流層は、カジノくらいしか余暇の過ごし方を思いつかない。そこに一部の富裕な年金生活者が加わる可能性もある。身体が動けば、ゴルフ三昧もいいかもしれないが、そうでなければ、彼らもやはりカジノに吸い込まれていくだろう。つまり、IRができたとしてもそれほどインバウンド収入は増加しないし、辛うじて残っていた中流の個人資産を搾り取るだけの結果に終わる。そうなると、日本人は外国人労働者と変わらない極めて安価な労働にしか就けなくなり、治安は悪化し、国家財務の赤字を実は支えてきた日本人の個人資産は消失し、日本の国際信用力は地に落ちる。赤字国債の買い手は中央銀行しかなくなる。円を刷れば刷るほど、その価値は下がり、ひどいインフレが日本でも起こりかねない。もう一度言うが、IRに反対するのはギャンブル依存症が増えるからなどという浅薄な理由ではない。事業そのものの展望が見えず、失敗した場合のリスクがあまりにも大きいからである。
2020.01.07
正月にに新たな目標を立てるというような歳ではないのだが、とりあえず。仕事は、年度で変わるのだが、次年度は年金フル支給が始まるので、非常勤講師という職分だ。今でも、年金の職域加算部分がカットされており、これが年間20数万ほどある。それが支給され、妻も基礎年金の支給が3月から。同時に扶養手当相当の加給年金がストップとなり、振替加算が数千円。それでも、標準世帯年金平均よりは多少は多めの年金が入り、例の老後2千万円問題の時、標準世帯で毎月不足するという額(その補填に2千万円の資産が必要という試算だった)は我が家ではほぼゼロだ。そこに非常勤の収入が入る。出る方は、いきなり増えた介護保険料が大きいが、ふるさと納税を3件分くらいはできるくらい、所得税と住民税を払うことになる。だから、おそらく普段の生活は二人の年金分で維持できるだろう。来年度からの年金だけで、64歳の時の年金+給料くらいの年金収入はあるだろう。つまり、働く分は+αのオマケという感じになりそうだ。ということは、何かあれば、仕事はいつでも辞められる。しかし、実際はあと5年、70歳くらいまでは続けたい。これがあるとフローは、日々の生活だけなら赤字決算にならないし、単にお金だけの問題でもない。そういうわけで、お金に関しては特に目標はない。少しでも有利なカード決済や出資金積立で、超低金利時代でもいくらかの利子が得られれば十分だ。ざっとの計算では年に5,6万くらい節約になる。無駄に贅沢する気もないが、本気で節約しなければならないというわけでもない。我が家の老後資金に関しては、フローは平均よりちょっとはいい程度。ストックもそんな感じだ。ということは、どこからどう見ても「中流」である。「一億総中流」と呼ばれた時代に育ち、一転して「格差社会」という状況の中で、老後を迎えた。歳を経るごとにやせ細っていく「中流」の端っこに、どうやら自分たちの居場所は確保できるようだ。
2020.01.07
今日は、暇に飽かせて、三階で近射50本ほど。意識したのは肩甲骨。この前から少し肘を矯めている。ドローイングしてすぐ肘を矯める。するとさらに後ろに引ける。エイミングしたところで、意識するのは肩甲骨の動きだけ。握る指や引き手の肘は一切意識しない。どういう動きなのかが把握できないのだが、とにかくカチッと鳴って、さらに肩甲骨だけを意識し、センターを維持するようにすると、リリースできる。18mのサイトの位置のままだと大体、12時9点のゾーンのセンター付近に中る。とにかくそれだけで2回に分けて、計50射ほど。明日は射場が開くので、この確認を。18mだと、射ってみないと、できるかどうかは分からない。
2020.01.06
一昨日が射ち初め。昨日は今年の初練習。一貫して心がけたのは、10点についたまま、引き、離すこと。この「引き」から「離す」までの間に、狙いが下がっていく。いろいろな方法を試す。① 引く方向② 肘ではなく肩甲骨で引く③ 押しの方向④ グリップ位置⑤ 後傾姿勢等々。なかなかうまくいかないが、とにかくそれを探すしかない。うまくいくと、1時8点に。いかないと6時9点。たまに10点。今までは10点ならいいや、と思ってしまったが、そうではなく1時8点こそ価値ある8点なのだ。真ん中を狙えた証拠なのである。今日は射場はお休み。かかりつけ医に行って薬をもらい、帰りにホームセンターでヤスリを買ってくる予定。後は3階射場で何本か射ちたい。今日のテーマは②、つまり肩甲骨で引くことだ。
2020.01.06
4日夜。孫も帰り、なにか物寂しくもあり、妻が娘に電話した。すぐには出なかったので、そのうち折り返しが来るだろうと思って切る。じゃあ、息子の方はいるかなと思い、今度は自分が電話。すぐに出たが、息子はまだ研究室。何でも学生向きの「幼稚園教育実習の手引き」を作成しているそうで、向こうでは、すっかり幼児教育の専門家としてやっているらしい。大学院ではJ・デューイの思想研究だったのだが、それで飯が食える人は日本では数人しかいないだろう。自分も修論のテーマは『後期ニーチェのニヒリズム』だったが、今は全然無関係の仕事である。息子の方が大学で教えているだけ恵まれている。とはいえ、「手引き」は200ページもあるのだという。そのうち、娘が妻の電話に折り返してきた。突然、思いついて、妻と自分のスマホを近づけ「息子と娘の孫」のビデオ通話をやってみた。「にんに!」と孫は叫んでいる。息子がこちらに来たとき、宴会でギター片手で歌い、自分は手拍子をして歩き回っている動画が、孫は大好きで、何度も見ている。それで「歌って」というリクエストをしたらしいが、さすがに職場では無理で、後日動画を送るという約束になった。北と南の姉弟が、父と母のそれぞれのスマホを介して、ビデオ通話する。予想もできなかったことが、現実にできるようになった。閑話休題正月に撮りためたテレビ番組で一番面白かったのが「プレバト」。主に俳句のエンターテインメント番組だが、視聴率も高いようだ。それで、駄句を二つ考えたので『俳文』という新たなカテゴリーを作った。これで二つ目だが、これで終わるかもしれない。駄句は作れるが、たくさん作る気もしないのだ。
2020.01.06
今回、娘の孫は30日、母親と飛行機でやってきて、4日、一日遅れでやってきた娘の旦那と親子三人でやはり飛行機で帰った。大体、夏場は車で正月は飛行機でやってくる。三歳になったので、大人とほとんど変わらない料金。それでも、車の事故やJRの遅延も多い冬場は、飛行機が一番いい。YS11はすっかりなくなり、確かスウェーデンのボルボ社の機体だ。さて、風呂の話。赤ちゃんのころは、風呂に浸けてやることもあったが、最近は風呂に孫と一緒にということはなくなっていた。どういう風の吹きまわしか、「じいちゃんとお風呂入る?」「うん」ということで30日に入った。頭を洗われるのがイヤなのだが、シャワーキャップを被せてやると「顔隠せば怖くない」と本人が言い、何とかなった。体を洗う前に一回、頭を洗う前に一回、その後一回、都合三回湯船に浸かる。そのたびにゾウさんのじょうろなどで遊ぶ。風呂から出してやり、娘を呼ぶ。娘が体を拭いてやったりしている間に、湯を熱くして、といっても、いつもよりは随分とぬるめの湯なのだが、ゆっくりと入り、さっと洗ってから自分は出る。孫は味をしめたのか、1日と3日もご指名がかかり、一緒に風呂に。赤ちゃんの時のような乳臭い匂いではないが、幼児独特の匂いがわずかに残っている湯にゆったりと浸っていると、何だか嬉しいような気がした。
2020.01.05
昨日は、予定通り孫と娘と妻と自分で新幹線に乗ってきた。娘の旦那は車で到着駅に先回り。リレー号が20分。乗り換えて新幹線はわずか12分。大人三人で8000円弱。安くはないミニ旅行だ。まあ、喜んでいたからいいだろう。夜はいつもの焼肉屋に。代替わりして息子さんが経営しているが、肉が妙に油っぽく、オーダーの品を出すタイミングは外すし、それでいて値段は上がっている。「ああ、ここももう駄目だな」と思った。時々行っていたローストビーフが美味しかった店も、代替わりして明らかに味が落ちた。30年来のつきあいのある地元の予備校経営者も、息子が帰ってきてからどうも評判がよくない。妻の知り合いの地元で手広くやっているスタンド経営者も、息子に社長を譲ってから、客足が落ちているように思える。やはり、二代目というのは難しいのだろうか。会社でも自営業でも、一代で立ち上げて、それで一生食べ続けていくというのは10人に1人くらいしかいないそうで、それを親子二代で成長させていくというのは至難の業なのだろう。自分のようなサラリーマンなら、後を継がせるも何もない。子どもたちに身につけてやれるのは教育だけで、日本のような学校歴社会では、やはりランクの高い大学卒の学歴だけだ。まさか二人とも大学院に行くとは思いもしなかったのだが、それでもその学歴はマイナスにはなっていない。それ以外の生きる力は、コミュニケーション力とか、仕事を完遂する力とか、他人を頼る力とか、いろいろあるが、それは家庭だけでは身につかないものだ。さて、今朝の一便で娘夫婦と孫は帰る。寂しい気もするが、滞在中、具合が悪くなったりもせず、正月を無事に過ごせたので、ほっとした気分もある。今日から夫婦二人の生活のペースに戻る。正月休みの疲れをとるため、ここ一週間くらいはゆっくりと休みたい、というのも変な話ではある。
2020.01.04
昨日は、午前中、寒かったが孫と雪遊び。坂を娘の旦那さんが作ったが、孫はビビッてそりは3回だけ。後は、そりに乗って近所を半周。その後、「じいちゃんと散歩する」と主張し、二人で近所を一周。途中で遊歩道の除雪機で引っかかり、ややしばらく見学。それから、今度はやや雪深い、といっても孫の膝くらいの高さのところで、雪山を作ったり、雪玉を作ったり。それでも十分楽しいようで、成果物のやや大きい雪玉を持って帰ると主張。それを片手で持ち、もう片手で孫の手を引き帰宅。普通に歩けば数分のところを、たっぷり30分はかかって帰ってきた。午後は娘の同級生が斜め隣の実家に帰っているので、娘と孫が行ってきた。お兄ちゃんたちに遊んでもらって、上機嫌だった。その間、残った三人はゆっくり昼寝。その前に三階で3本だけ今年の初射ちを。全部10点を外した。夜はおせちも食べつくし、お煮しめなど。いつものように宴会状態で、獺祭や薩摩焼酎、サッポロクラシックなど、ちゃんぽんで飲んだので、すっかり酔いが回り、電気も消さないで寝ていた。今日は、孫の体調次第だが、新幹線に乗ってこようと計画している。といっても一駅分だけ。駅に行って、新幹線の駅までリレー列車で。その後、孫にとっては初新幹線。到着駅まで、娘の旦那が車を走らせ、帰りは車で、という予定。というわけで、生活の中心が孫となり、やたらと主張する小さな暴君のご意向にできる限り応えてやっている。まあ、4,5日だから何とかもつのだが、それでも腰の痛み止めを飲み、モーラステープを貼って、文字通り「老骨に鞭打つ」正月だ。
2020.01.03
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