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一昨日、昨日と2時間くらいずつ射場に。とにかくエイミングを真ん中につけたい。今の症状は、①フルドロー→アンカリング→ピーピング(なんだか覗き魔みたいだが、ピープからサイトを通して、的を覗くこと)→エイミングこの段階で心がけているのは、あまり押し手がセンターからズレないこと。最終的には押し手で、センターを固定することはできる。②エイミング→リリースここで下がる。リリースするためには、さらに引く。引くと下がる。しょうがないから下がったところからでも、矢は少し上に行くようにサイトを調節している。ずっとこれで射っていたが、やはりビッタリ真ん中にドットをつけて、それが動くことなく、あるいは動いてもせめて10点か9点の中、という状態で射たないと、これ以上の向上はないように思われる。それで、いろいろとやってみた。一昨日は、まずピープ位置を少しずつ下げてみた。あまり効果はない。次にドローレングスを伸ばしてみた。ウォール位置とカムの両方。確かにエイミング後、さらに引く余地が、身体の筋肉的に短くなる方が弓は動きにくい。これで、少しは改善した。9点6時くらいにはついて、それ以上下がらないところで発射できる。にしても、下がる。昨日は、そもそも上に、9点12時くらいで固定してから、最後のドローに入るようにしてみた。すると盛大に下がる。センターを通り越して下がっていく。結局9点6時くらいのところで発射する。前と同じだ。やはりターゲットパニックかもしれない。真ん中につけることを心が拒絶する状態。しかし、前にもっとひどいのを体験しているのだが、それとは違うような気もする。前のは、的に矢が入らないくらいひどかったのだが、今のは少なくとも9点平均くらいには矢は収まる。最後に、引けば下がるのだったら、押したらどうなる?と思って、最後のリリースまでを、押すことを意識してやってみた。なかなか切れないので、リリーサーのトラベルを短くした。これだと少なくとも今までより下がらない。サイトをそのままにしておくと、矢は12時8点くらいのところに集まる。まだ、ど真中ではないが、少なくともその付近でリリースできる。もちろん慣れていないので失敗もあるが、最後の9射ほどは、すべて10点の付近に中った。リリースするために、さらに「引く」、のではなく「押す」。今までやったことのない射ち方である。最後に、ほんの少しだけ「引く」力も借りると、リリースはさほど苦しくない。苦しくても、矢は逸れない。どうやら、出口が見えたかもしれない。
2019.01.31
若い人たちの中で、嫌消費世代と呼ばれる人たちが増えているという。嫌消費世代は大都市と地方ではやや色合いが違うが、まず地方の若者たちについて。彼らは、地域に生まれ、地域の教育を受け、地域で就職している。大都市の難関大学には行っていない。大卒であっても、地方私立大のことが多い。それで地元に帰って就職している。中小の会社か公務員、医療、福祉など、地域では安定した職業に就いている。ネットで世界中とつながってはいるが、彼らの基本的生活圏はローカルであ。職場にも中学校や高校の先輩、後輩はいるし、親もいる。収入は、もちろん一部上場企業のように高くなく、可処分所得も少ない。が、親と同居している場合も多いし、同居していなくとも、家賃は安い。彼らは、消費についてそれほど強い欲求を持っていないように見える。もちろんフローが少ないので、支出も抑制せざるを得ないという面は否定できないが、地方の顔のわかる地域で暮らしている彼らは、相変わらず、どこそこの家の、誰々ちゃんであり、少なくとも不相応な消費で自己を大きく見せる必要はないのだ。そして、中学や高校の同級生とのつながりは、今も持っていて、どこかに出かけても、大都市の「群衆」のようではない。彼らのライフスタイルは幾分、高度経済成長前の日本のそれに似ている。国際化、グローバリゼーションは彼らの生活とは、少なくとも意識の上では無縁だ。ここでは、まだまだローカルな世界が根強く残っていて、消費も匿名性の自由があるわけでもない。この項は、少し分けて書いていこう。
2019.01.30
試合では、昔のように緊張することはまったくなかった。60射、8点が4本、7点が1本。10点は14本。まあ、直近の練習の感じよりは10点低いが、そんなものかなと思う。試合でつかんだのは、エイミングからリリースまでの間がゆったりと取れたこと。「切れない」という不安はほぼなかった。無理に切ることもなかった。この「間」で射てれば、50mもOKだなと思いながら、射っていた。それで点数がこうなのは、エイミングが10点についていないから、という理由しかない。それをどうつけるかが、インドア後半の唯一の課題だ。ターゲットパニックには違いないが、少なくともメンタルの要素は少ない気がする。どこかの筋肉、関節の動きが足りないのだと思う。仕事は来週から、非常に楽になる。今でも楽なのだが、その三分の一くらいの感じ。課題を克服するには、これ以上ない好条件だ。
2019.01.29
昨日の試合。273 275で予選ラウンドをぎりぎりで通過。まあ、アベレージということだ。決勝の初戦は137で敗戦。予選の1回目と決勝の7点が痛かったが、それがなかったとしても、そう大差はなかった。試合で少しつかめたことがあるので、今週はそれを追求したい。3月いっぱいはアウトドアを意識した練習だ。
2019.01.28
消費者としての「私」は、できるだけ安く、便利にモノを買うことを、自分の当然の権利と考える。そしてそれを社会に平然と要求する。コンビニは、自分のほしい品物を切らすことなく24時間開いていなければならないし、ネット通販で購入したモノは、指定の日時に必ず届けられなければならない。もし、それが叶えられなければ、「私」はひどいクレーマーになることもある。指定の時間に10分でも遅れれば、宅配業者は罵詈雑言を浴びせかけられることになるし、品切れの多いコンビニの客がいきなりキレることもあるだろう。一方、労働者としての「私」は、消費者のどんな無茶な要求にも全力で応えなければならない。コンビニ店主の「私」は24時間店を開け続けるために、バイトの欠勤があれば夜中にでもレジに立たなければならないし、宅配業者の「私」は、指定時間より早く着いてしまった場合でも、時間が来るまで待機していなければならない。指定時間より早くチャイムを鳴らして怒鳴られることだってあるからだ。だから、労働者としての「私」は、そういう辛い仕事をなるべく選択しなくていいように子どもの時から努力する。いい大学に行って、社会の底辺で働くようなことにならないようにする。そうだ、医師という資格なら高収入は約束されている。つまり、消費者として一生の間厚遇され続けるのだ。かくして国立大学の医学部はどこも最難関となる。職業の価値は端的にカネであり、どのくらいの生涯収入を得られるかである。学歴競争に敗れた者たちも、それなりの身の処し方を学習していく。正規雇用の名前につられて、とんでもないブラック会社に就職でもしたら大変だ。いっそ、それくらいなら賃金は安くても気楽な「派遣社員」の方がいい。親の家に住み続ければ、住居費もかからない。ただし、年齢が重なっても収入は増えず、親がいなくなったらどうするのかと考えると少し不安だ。もちろん家庭を持つことなどとても考えられない。しかし、一人分の「消費」なら今のままでもそこそこの贅沢もできるのだ。自分は世間でよく話題になるヒッキーなんかじゃないし、まあ、自立してはいるのだ。こうして、今、日本中で、消費者としての「私」と労働者としての「私」が、もはや修復しがたいほどの分裂を引き起こしている。自由でフラットな消費を叶えるために、不自由きわまりない労働を強いられるか、低賃金に甘んじて生きるか、そのどちらかを選択することになる。前者を選べば、仕事のストレスは極限化する。後者を選べば、消費の快楽のある部分は断念せざるを得ない。どちらも反動があって、消費者としての「私」のエゴはますます強大化していく。この分裂の果てに、どういう社会が待っているのかを思うと暗澹たる気持ちになるのだが、一人一人の人間をみると、消費者・労働者としての「私」のバランスを上手に取り、幸福な人生を送る人もまだまだ決して少なくはない。次回は最後にそういう人たちの姿を描いてみよう。ある意味で、それは現代の消費者の理想像かもしれない。
2019.01.27
今季インドアの初めの試合は、520台だった。30射270という点数が遠かった。昨日の練習は60射。10点20本、8点1本で559。550という、今季の目標は試合を含めて、何度かクリアした。次は560、570というところだが、ここは壁が高い。ここにきて、ターゲットパニック的な症状があり、それを持ち越したままの今季最後の公認試合が明日。何とか今の射を射てれば、それでいいと思っている。7時8点くらいにいつもついていてドットが、6時9点の縁くらいにつくようには改善はしてきた。決して10点を狙ってはいないのだが、それでも狙って10点に入れるという感覚が少しある。まあ、楽しみの半分は孫に会いに行くことなので、試合は気楽に楽しむことにした。
2019.01.26
消費によって手軽に得られる全能感を己の人格の核としてしまった人間は、その正反対の感情、己の力の不足を痛感させられる労働は耐え難い。だから、三か月で辞めてしまう。もちろん、これはややデフォルメされた一部の人の話であり、多くの人は次第に消費の全能感を断念する方向へと向かう。だが、それは強烈なノスタルジーとして、その人の中にくすぶり続ける。そういう中で、新自由主義による労働の変質という事態が、今生じている。このことについては、改めて別の項で論じるつもりだが、典型的なのは「派遣」というここ十年ほどで定着した労働形態だ。派遣労働者は、派遣先の職場の社員ではない。つまり、正規の社員とは違う。にもかかわらず、賃金格差があることが今は問題化しているが、それは問題の本質ではないと思う。「派遣」は、一定期間後そこからいなくなることが最初から分かっているから、職場の人間関係から自由である。また、職業的技能を磨くことを期待されていない。もともと、今の手持ちの技能で勤まるところにしか派遣されないのだ。もし、その職場が嫌になれば、すぐに辞められる。その場合でも、派遣の登録は抹消されない。失業給付期間が終わったころ、また別の職場に派遣される。また、派遣会社はすぐ別の人間を派遣するので、彼が辞めても仕事が滞ることはない。つまり、労働に必要な人間的諸力、忍耐力とコミュニケーション能力がかなり低くても、派遣労働なら可能なのだ。また、派遣労働において最大の問題と思われるのが、賃金であることも、隠された意味を持っている。彼らは、単にカネを得るために労働しているからこそ、賃金の低さだけが問題として意識されるのだ。誤解ないように言っておくが、現政府の働き方改革法案の中の同一賃金同一労働という考え方には、筆者は賛成である。同じ仕事なら、派遣と正社員は同じ賃金であるべきだ。ただ、ほとんどの場合、労働の質は大きく違う。しかし、そもそも働くということは、「社会やその中の誰かに役立つ」ことではなかったのか。それこそが労働の本質であり、だからこそ「職業に貴賤なし」だったのではないのか。今の労働はカネを得るための手段という意味しか持っていない。だから、なるべく面倒な手間は避けたいのだ。例えばテレワークなら、在宅で与えられた分量をこなせばいい。別にスーツ姿も必要ないし、仕事をするのが夜中でも昼間でも構わない。つまり、仕事から「社会性」が欠落したのである。どれだけカネを稼げるかが、仕事を計る唯一の価値の指標になってしまった。
2019.01.25
さて、「消費」は自由と全能感をいとも簡単に手に入れる契機へと変質していったのだが、これに比べると、労働はさほど楽なことではない。まず、労働市場の状況がある。それが悪ければ、高学歴の持ち主も正規の仕事に就けない。そういう時代が長く続いた。今の30代から40代にかけての相当数が、不本意ながら非正規の仕事に就いている。年齢の問題もある。若ければ仕事を得るフィールドは広いが、高齢者となると、相当専門的な技能を持っていて、そのフィールドで仕事をするか、そうでなければ、仕事を選ぶなどとは言ってられず、何でも構わず働くか、ということになる。政府は財政的理由で定年を引き上げようとしているから、高齢者が文字通り「老骨に鞭打って」働く時代になりつつある。家族の問題がある。専業主婦が仕事に出るなら、子どもはまだ小さいのか、それとももうある程度の年齢なのかは大きな要素だ。小さくても子供の面倒をみてくれる親がいるのか、それとも介護を要する親がいるのか。そもそも自分はどんな仕事がしたいのか、という、ある程度深い自己理解に基づくより本質的な問題もある。つまり、労働は、消費の自由に比べて、その開始の時点ですでに個人的・社会的な様々な要素を考えなければならない。そして働き始めたあとも、本当はこういう仕事は自分に向いていなかったとか、職場の人間関係に押しつぶされそうだとか、とんでもないブラック企業で長時間、低賃金であるとか・・・自分の意に沿わないさまざまなことがあるのが普通なのだ。そこまで酷い労働環境でないとしても、毎日定時に出勤し、働くこと自体が、そう楽なことではない、というのは、厚生年金が出るくらいの期間、働いた経験があれば、誰でも分かることだろう。青少年期を、消費の自由に浸りきって過ごした若者が、一年もしないうちに職場を去ることが結構多い理由は、やむにやまれぬ場合、ひどい職場でどうみても辞めるのが正解の場合もあるのだろうが、多くは労働の本質である、ある種の面倒くささに耐えられなくなったからだと思われる。労働は、消費に比べて非常に面倒くさい。消費なら、いつでも、どこでも、好きな場所でできるのだが、労働は時間と空間、そして様々な社会的諸関係に拘束され、しかもその中で忍耐力やコミュニケーション力などの自身の人間的諸力が、いつも必要なのだ。全能感どころか、たいていの人は労働において自分の力の及ばなさを毎日味わい、そのことに慣れていくことで、耐えるのである。しかし、従来、この労働の場が人格の核心を育てていたのだ。ところが、消費することを人格の核心部分にしてしまった人間には、それができない。
2019.01.24
高度経済成長は、地元に密着した商店を潰し、代わりに比較的広い地域にスーパーを生んだ。しかし、この時点でも、スーパーの店主も店員も近所の誰それであり、それゆえ「消費」にも弱くなったとはいえ、一定の地域の拘束があったが、その状況が一変したのがモータリゼーションの時代の到来とともに、郊外の大型スーパーができたことが始まりだったように思う。圧倒的資本力で、メーカーや市場から安く商品を仕入れ、大量に並べる。「流通革命」「消費革命」が起こったのである。70年代のダイエーがその旗手だった。地域の小さな店はこぞって大型店の出店に反対し、政治もその声に応える大型店舗出店法という規制を作ったが、誰も「消費」の質が変わることまでは予見しなかった。ローカルなものの喪失が始まったのである。もはや、大型店が対象とする顧客の地域が広がりすぎて、店長も店員もどこの誰か分からなくなったし、客同士も顔見知りの割合はぐんと減った。何をどれだけ買おうが、見とがめられたりはしなくなった。そして、現在のネット通販では、もはや売り手と買い手の表情すら見えない。完全に匿名化した「自由」な消費の時代になったのである。消費者すなわちお客様は「神様」であり、どんな嫌な奴でもカネさえ払えば何でも買えるという全能感を手にすることができる。この経験で「消費者」という人格が形成されてきて、やがてそれが全人格の核となっていく。人は何をするかではなく、何を買うかによって価値づけられるという幻想が、ブランド・ブームを呼んだ。自分の月収をはるかに超えるバッグや服やアクセサリーをローンで買う。数十万のヴィトンを持ち歩く女性が、1DKに住んでいる。ヨーロッパの階級社会では決して起こらないことが日本では当たり前になった。一昔前なら、「あなたの社会的地位にはふさわしくない」と売り手に言われるような買い物が可能になったのである。そして現在は、皮肉なことに、みなが競ってブランドを求めることによって、ブランドはブランドでなくなってしまった。社会の上位5%の階層が所持していいような品物を、みんなが持ち歩けば、当然そうなる。果ては、アウトレットのブランド店などという形容矛盾の見本みたいな商売が出現した。【練習日誌】昨日は退勤後2時間。HBC277、STAN279。どちらもそこそこだ。少しピープの位置を下げてみた。下につく度合いがやや緩和したかもしれない。今日は完全休日。明日が最終練習になりそうだ。
2019.01.23
今回の3連休は、試合と練習以外は、大半の時間をスポーツ観戦で過ごした。全豪オープンと全日本卓球選手権。それから、上位が負け続けて興味がなくなってしまったが、相撲。テニスも卓球も昔ちょっとかじった程度で、今は全然していない、というかやっても身体がついていかないだろう。錦織と大坂は驚異的な粘りの逆転で勝ち、凄かった。やはり男子のスピードと技術は、女子のそれとは比べ物にならないが、男女ともトップのプレーヤーは凄い。その一言だ。ただ、テニスは長い。錦織の試合はフルセットの末のタイブレークまでもつれて5時間。もちろん間に昼寝をしたり、相撲の上位戦を視たり、ニュースを視たりしながら、それでもまだやっている。卓球はテニスに比べて展開が早く、勝敗が決するまで30分くらい。こちらの方がテレビ向きかもしれない。ダブルスもシングルスも準決、決勝をほぼすべて見た。よくスポーツを観て、「勇気をもらった」とか「力をもらった」とか簡単に言うが、そういう気はしない。プロの技量の凄さにただただ圧倒されるだけで、そこから「力をもらう」なんてあつかましい、と思う。それだけ歳を取ったのかもしれないが、スター選手に「同一化」するというセルフ・ディフェンス・メカニズム(防衛機制)、すなわち弱い自己を守り、維持する補償作用が必要なくなるくらいまでは、成熟したということかもしれない。【練習日誌】昨日は2時間、6射ずつ区切って小休止という試合モード。一回目277、2回目280で、去年より少しはよくなったが、このあたりでまた頭打ちの感もある。今季は550くらいまでは、と思っていたが、その段階よりは一つ上がった気がする。うまくいけば560は出そうだが、2本に1本10点が出て、8点はゼロという570のレベルはまだ相当遠い。
2019.01.22
昨日は、278-281-280。一応今季ベスト。3回目はSTANで射ってみた。1,2回目は8点が2本ずつ。3回目はゼロだった。来週の試合はHBCでやってみようかと思う。相変わらずセンターにつけられず、6時か7時の8点・9点の境目くらいを狙っている。これでは毎回エイムオフ状態だ。ひょっとすると一種のターゲットパニックかもしれないが、これを修正している余裕はない。今季の最後のテーマになるだろう。
2019.01.21
しばらくの間、消費、つまりカネでモノを買うという我々の日常が、我々の「心性(メンタリティ)」にどういう影響を与えるかを考察してみたい。その前に、まず、「消費」行動の質が、ここ五十年くらいで大きく変質したことを挙げておく。おそらく、自分は、今のようでなかった「消費」行動を経験した最後の世代だろうと思うのだ。子どものころのお小遣いは、毎日5円から10円になり、やがて1か月300円、500円となっていったように記憶する。買い物をするのは、近所の商店。今でもそこのおじさんのことをよく覚えている。子ども相手の飴玉、駄菓子、おもちゃなどと、豆腐や油揚げなどの食品、日用品が、3畳くらいの狭くて暗い物置小屋のような店舗に並んでいた。大人も子どもも、特定の顔の見える人間に、カネを出してモノを買っていたのだ。そんなことはしたこともなかったが、もし自分が5円玉や10円玉でなく、百円札などで買い物をしたら「どうしたの?そんなお金」ととがめられていただろう。妻の子ども時代の記憶でも、おつかいに行き、肉屋で普段買わないような上質の肉を買おうとすると「これはお宅に売るものじゃない」と断られた経験があるという。つまり「消費」は、いろいろな眼差しにさらされ、決してカネさえあれば何でも買えるという状況ではなかったのである。「消費」には地域の拘束があった。決して自由ではなかった。この状況が一変するのは、1970年代の高度経済成長から80年代のバブル経済に至る過程においてであった。
2019.01.20
子育てを終え、孫ももうすぐ二人に、定年後再雇用も今の形ではあと1年、もうすぐ年金がフル支給という自分の立場から、好き勝手なことを書いてきたが、結論めいたことを書いて、この項を一応閉じることとしたい。日本の学校は日本社会の構造の中にあり、社会と同様に、個人がそこからはみ出して生きることに対して、極めて不寛容である。そういう中で、学校という組織からはみ出して生きる姿を見せてくれる教師もたまにはいて、そういう教師に出会えることは僥倖である。「はみ出す」というと、反権力的な人物像を想起するかもしれないが、そうではない。まず「知識」の量の問題だ。普通の教師ではあり得ないくらいの博識の教師は、少なくとも成績の良い生徒からは尊敬される。その上で、教えることへの情熱と努力が授業に現れる教師であれば、それは理想像に近い。ただ、学校という現場では、そういう教師が生まれる可能性は非常に低い。授業がブラックボックスであり続ける限り、生徒以外の誰も彼の素晴らしさを分からないからだ。生徒は3年で入れ替わるし、職場も公立なら数年おきの転勤で変わっていく。そもそも高校の教育を受けるだけの素養のない生徒が集まる教育困難校であれば、いくらいい授業をしても生徒にすら評価されない。私立の進学実績のある学校なら、理想の教師は誕生しやすいが、教育方針が変れば、そういう教師は居場所を失う。自分の出身校がまさにそういうことになった。受験実績が上がらなくなり、生活指導や部活動に力を入れだし、管理職も生徒指導に力を入れる教師がつくようになり、中学を持たない3年間の高校としては、全国で有数の進学実績があったのだが、中高一貫校になった今、学力はむしろ下がり、地元の公立トップ校にすら負けている。卒業生としては、情けないというほかない。かくして、いくつかの例外を除いては、日本の小中高の中では、教師が正しく専門職としての自己を実現することができる可能性は限りなく低い、という結論になってしまうのだ。
2019.01.19
点取りではなく、3射×3回を1セットとして、昨日は8セット。つまり72射ということだ。17は10点、5は8点。やはり275くらいがアベレージという点数だ。8点を射つパターンが次第に固まってきた。なかなか切れない時に、それでもがんばって切る時がほとんど。6時8点。これを回避する方法を、今、模索中。まず、降ろすのが前提なのだが、3射だとせいぜい1回。で、降ろした後、リリーサーをSTANに替えるというのが一つの方法。こちらはカチッと鳴ってから、切れないということがない。むしろ速すぎるのが問題で、だからこそSTANで30射は通せないのだが、緊急避難用ならOKだろう。1射目で切れなかったら、その回はすべてSTANで射つのがいいだろう。より根本的には、切れない時は、ほぼ例外なく狙いすぎであり、顔が突っ込んでいる。だから逆に少し顔を引いて、ピープを遠目にする。そこからもう一度。切るためのイメージは自分の中で作り上げつつあるので、もう、ここからそれほど悪くはならないように思う。明日の練習でこの辺りを、練磨したい。
2019.01.18
現在の教師にとって、最も悩ましいのは保護者のクレームへの対応である。ここにも大きな勘違いがある。教育はサービス産業ではないのだから、クレーム対応の方法論は全く違うということだ。学校は確かに人間を育てる場だが、学校だけがその場ではない。それ以前に、人間は家庭で育つ。それに比べれば、学校の力は非常に小さい。まず、そのことの自覚から出発すべきだ。実際、自分が生徒の両親よりも大きな子どもへの影響力を持っていると勘違いしている教員は、特に小学校で多い。本当は、せいぜいマイナスの影響にならないように気をつけるくらいでいいのだが、そうは思わない。マイナスの影響力は、教員であっても非常に強い。例えば、いじめはほとんどのケースで教員がそのサインを出しているのだが、そのことにまったく気づいていない。話を戻そう。子どもの人格形成に最も影響するのは家庭だ。家庭は一面で社会から隔てられているが、基本的には社会的存在である。だからその時代の社会の在り方に、家族の在り方は大きく規定される。そうだとしたら、学校が、特に義務教育の学校が生徒に与えることのできるものは、ごくごく限られているというべきだ。たかだか一教師が、生徒の人生に何らかの影響を与えられると考えること自体がおこがましい。保護者の意向は十分にくみ取らなければならないが、学校という集団教育の限界を常に意識すべきだ。例えば、「うちの子は素直じゃないところがあるので、学校の方でもよろしく」などという保護者の要求に対しては、「学校は子どもの人格を全面的に形成する場ではありませんので、そういうことは家庭でお願いします」と撥ねつけるべきだ。ただ、教師がひねくれていれば、生徒もそれにならう可能性も十分ある。せいぜい「素直でない大人」のモデルを提示しないように気をつけるくらいしかできない。保護者の要求で最も重要視すべきなのは「先生の授業は、どうも集中できていないようで、いつもざわざわしているようですね」というようなクレームである。これは、学校が生徒に与えることのできる本質的なことについての正当なクレームだからだ。これをいい加減にしておいて、道徳性も人格形成もあったものではない。それ以外に、非常識なクレームも今は非常に多いらしい。「運動会でビリになって子どもが泣いている。どうしてくれる」「給食が不味くて食べられない。どうしてくれる」等々。こういう理不尽なクレームには毅然として対応すべきだ。「そんなわけのわからないことを言うのであれば、登校しなくても結構です」というのが、唯一の対応である。電話やアポなしの来校が頻発して、業務に支障をきたすようなら「威力業務妨害」ということになる。校内暴力もそうだが、学校は犯罪に対応する機能は備えていない。クレームについては、すべてに対応するのではなく、対応しない領野があるとまず知るべきだ。それから、すべてのクレームを電話でも対面でも録音すること。あらかじめそれを保護者に告げておくこと。内容によって対応のレベルを決めておくこと。HR担任→学年主任→生活指導主任→教頭など。すべてを学級担任が対応し、しかもその内容を誰も知らないというようなケースが最悪である。こじれにこじれてから、周りの知る所となるが、そうなったらもう修正不能だ。
2019.01.17
少し、今までの議論から外れて、最近話題になっている、教師のブラック労働について。自分が子どもの時は、教師という仕事は低賃金だったが、楽な仕事に見えた。夏休みなどの長期休みには職員室はがらんとしていたし、放課後も5時になればそうだった。低賃金の方は、田中角栄の時代、人材確保法が施行され、ある程度解消した。校長の給与は市役所の課長職、場合によっては部長職程度にはなる。労働時間の方は、自宅研修が廃止され、夏休みなどもなくなり、毎日、部活動などで終電ぎりぎり、土曜・日曜もないという教師が多く、さすがに内部からブラックだとの批判が上がっている。かなりの割合の教員が過労死ラインを超えた残業をしている。公立校の場合は、給与特別措置法によって、教師の仕事の特殊性を考え、4%の教職調整手当が一律に支給され、その代り残業手当は支払われていない。この4%の意味は、普段は定時に退勤していても、何か起これば、深夜まで学校に残ったり、家庭訪問したりということがあるから、ということだっただろう。私立校も多くは4%の手当てを払い、公立に準じているとしていた。しかし、私立校教員は当然のごとく公務員ではないので、特措法の対象外である。つまり、彼らには民間と同じく残業手当が支払わなければならない。狡猾な経営者は、そのことをあえて無視し、世間知らずの教員は公立と同じなんだからしょうがないと思わされてきた。しかし、さすがに最近は私学教員も気づき始めてきているようだ。しかしながら、非常におかしなことは、この現状を労使双方が変えようとしないことだ。確かに一部の教師たちがSNS等で声を上げ始めてはいる。しかし、その抜本的改善策は政府も言わないし、日教組も積極的な闘争テーマとはしていないように見える。つまり、現状を是とするのが、大勢なのだ。なぜ、こうなるのか。労働時間の管理は、教師の労働の質を管理することにつながっていく。所定労働時間内で、生徒がどれだけの知識を身につけたかが、教師の業績として問われる。本論では教師の本来業務とは考えていない体育系部活動であっても、地区大会での勝敗、上位大会への進出などが教師の力量とみなされる。学習は、生徒にとっては必ずしもやりたいことではないが、部活動は、自主的活動なのだから、参加は自由であり、やりたい者だけが集まってくる。それを、下校時間までという同じ条件下で指導すれば、自ずと指導の質がものを言う。多くの教師は、勉強の方ではたいしたことはないのだが、自身の部活動歴においても、ほとんど実績がない場合が多い。インターハイや国体に出場経験がある者などほとんどいない。いても、彼自身が土日もないような状態で練習した結果、出場したという経験を持っている。いきおい、放課後の下校時間を越えて、また休校日でも部活動をすることになる。本来、教師の労働時間を管理すべき管理職(校長、教頭)も、その意識はなく、また、せいぜいが地区大会で勝つくらいのことでも、他校の校長に自慢できることなので、過度の部活動を黙認する。ある部がそういう活動をして、ある程度の実績を挙げると、他の部もそういう活動をしたいという声が上がってくる。生徒、保護者、同僚などなど、有形無形の圧力が顧問の教師にかかる。顧問の教師は、自分の本来業務が授業や担任業務だという意識もなく、また、そこに自信もないので、仕方なく他の部活動に合わせることになる。特にたちが悪いのは保護者の圧力だ。習い事は金がかかるが、部活動は無料だ。手に負えなくなって来つつある我が子を、結構遅い時間まで面倒見てくれる部活動はありがたい。中には、長期休暇に部活動の休みを設けると、クレーマーと化す保護者もいるという。かくして部活動を中心とした教員のブラックな労働環境ができあがるが、それを支えているのは、まず第一に自らの仕事の本質が分からず、そこで努力することを無意識的に回避する教員自身であり、次にその構造をまったく理解しない管理職であり、最後に子育てを半ば他人に預けてしまいたい多忙で怠惰な保護者である。最近になってようやく、部活動をやりたくもないのに押しつけられる若い教員の声が上がりつつあるが、制度としての給与特別措置法が廃され、教員にも残業手当を支払うという当然の仕組みができない限り、この状況は変わらない。もし、新たな制度ができあがれば、つまり部活動に制限がかかるようになれば、一部の「部活・命」の教員が全力で反発する。彼らにとっては、それはアイデンティティの喪失に直結するからだ。また、一部の教師は残業代目当てに、中身のない部活動を延々とすることになるだろう。そうなると、教育財政がもたなくなる。つまり制度の現状は、政府にとっても、労働組合にとっても、保護者にとっても、何より教師自身にとって、都合がいいのだと言わざるを得ない。
2019.01.16
夜の祭りに出かけ、そこで餅まきがあった。餅が降ってきて、屈んだとたん、仰向けに転んだ。前から痛めていた左足の外側、腰から下の部分に力が入らず、立ち上がれない。屈んだまま、それでも二つ餅を拾って、全部終わってから妻を呼び、抱えて起こしてもらった。少し痛んだが、歩けることは歩けるので、40kmほど運転して帰ってきた。湿布を貼って寝たが、今朝もまだ少し痛い。二月になったら、仕事がさらに楽になるから、整形に行ってちゃんとみてもらうことにした。基本的に体重を落とさなければならない。あと、7,8kg。楽な仕事の形態になってからまた少し太った。車は10km/L台の平均燃費が、12km/L台に。やはり、高速などの低地走行では18km/Lくらいにはなりそうだ。運転も楽で、いい買い物をしたと思った。【練習日誌】昨日は、午前に2時間ほど。一昨日の試合後半ほどではないが、まあ、中る。6回連続10点があった。意識すべきポイントは固まってきた。押し4引き6の感じでリリースまでもっていくと、わりとすんなり切れる。こういうのは、その人の内部意識の問題というほかない。やっとレフティでもその段階に届いたようだ。今日は実質的な仕事始め。練習は足次第。
2019.01.15
一回目は8点2本、10点5本で273。いつも通りよくなかった。それで二回目に例によってSTANにリリーサーを変更した。これがさらによくなくて、10-9-8 ・ 10-9-7=53。やはり、ダメでもHBCで通すことにして2エンドは56。その後57-58-59と尻上がりによくなり、283。一応、今季のベストだった。なにがよくなったかというと、ドローイングしてほぼセンターにつくようなところでさらに引くと、カチッと鳴り、そこから力のバランスを崩さないように押し引きを。すると、適切な「間」でリリース・・・こういう射が多くなった。後は点数ではなく、その「間」だけを考えて射っていた。後半の2エンド目以降は確か8点は1本。10-10-10が4回あった。10点は17本という計算になる。この「間」を身体的な記憶として定着させることができるかどうかだ。
2019.01.14
昨日は、妻の着物道楽につきあって茶会に。亡くなった母が、何枚もいい着物を持っていて、一通り茶道もやっていた人だったので、妻もそうなった。自分は、そういう世界にはまるで縁がないのだが、抹茶の美味しさは分かる。昨日のは、抹茶自体は普通か、ちょっとは上等な方だったが、点て方は下手くそだった。あんなに粉を残しては台無しである。お菓子は美味かった。昼は、なじみのすし屋に。土曜だったので、ランチメニューはなくて、いつものお任せにした。いつもと同じく、美味しいがちょっと高い。なにしろ再雇用給与+年金の生活だから、そうそう贅沢もできない。しかし、たまにちょっといい服や着物を着てでかけ、美味しいものを食べて帰ってくるのは気分転換にはなる。スーパーに買い物にでかけるのとはまるで違う。長いと思っていた休みも明日まで。あと1年ちょっとは、こういう生活が無事続けばいい。
2019.01.13
まず、授業評価のシステムを導入することが、どうしようもない教師を排除して、学校を本来の姿に戻す第一歩だろう。改善するのではなく、排除する、のである。彼らの改善の見込みは限りなくゼロに近いのだから。もちろん授業評価の中心は生徒だが、すべての授業を録画し、無作為に抽出したいくつかの授業について、専門家も評価を行う。それから評価を昇給・給与に反映すること。現在もある職制を、数段階に細分化する。教諭、准教諭、講師、准講師、助教のように「先生」と呼ばれる人に職位をつける。大学と似ているが、違うのは研究業績ではなく、授業評価の積み上げで職位が決まることだ。評価が数年よければ職位も上がり、同じ職位にとどまっても昇給する。悪ければ降給もあり得る。それでもダメな教員はかなりいるから、解雇する。教員には特別な解雇規定が必要になるかもしれないが、職務遂行能力が著しく低いのは立派に解雇理由として成立するので、運用で何とかなるかもしれない。あるいは、教員はすべて雇用契約を毎年更新するということでもいい。こういうシステムを導入すると、素質のある教師はますます努力し、腕を上げることになる。ほどほどの者は、何とか現状を維持する。ダメな教師は何をどうやってもダメなのだから、教壇から去るほかなくなる。そんなことができるはずがないだろう、と思う向きもあろうが、現にそのシステムは予備校や塾で機能している。これを徹底すれば、学級崩壊もブラック労働もなくなる。しかし、当の教師自身が大反対するだろう。彼らは評価されるくらいなら、ブラック労働でも厭わない、というくらいのメンタリティの持ち主なのだ。そして、何より望ましいのは学校が授業中心主義になることだ。そもそも授業すら満足にできない教員が、食育とか道徳とか部活動とか、そういうことに血眼になるのは本末転倒なのだ。食育はアウトソーシングすればいい。部活動は、学校の活動とは別の場で行うべきだ。道徳に至っては、問題外である。集団教育のルールさえ、きちっと守らせればいい。授業中の私語は厳しく禁ずる。それができない生徒は、出席させない。その一点さえ徹底すれば、学級崩壊など起きるはずがない。教員の主たる職務が授業になれば、会議などに延々と時間を費やすこともなくなるだろう。授業時間以外は、原則的に授業準備に充てる。それはどこでやってもいいのだから、高校は裁量労働制でいい。また、そのくらいの給与を保障しないと、能力のある人材は集まらない。中学校では、生徒も落第させることが必要になってくる。義務教育だからといって、一日も登校しない生徒を卒業させるのは、本人にとってよくない。こういう政策がもし実現すれば、高校進学率、大学進学率はともに下がるだろう。それでいい。高校全入、大学入試も私立大学の大半が定員割れで全入という現状がどうかしているのだ。非正規雇用の問題と外国人労働者拡大の問題がしきりに議論されているが、教育の問題がそことリンクされるべきである。そもそも分数の計算もできない能力の人間が中学を落第もせず、高校に行くことがおかしいのだ。大学で一次方程式を補講することがおかしい。その話と、大学は卒業したのに非正規の仕事にしか就けないということは、関連する。断っておくが、これは差別ではない。能力に応じた教育を受ける機会は保障されなければならないが、能力からかけ離れた教育を受けさせるべきではないと言っているのだ。日本で働いている外国人労働者に、所得税、住民税や消費税などをすべて日本人と同様に課していながら、地方参政権しか与えていない・・・こういうことを差別というのである。
2019.01.12
かくして、学力がなく、向上心もない人間が教師となって、独善性を己の人格として血肉化していく教師が誕生することになるが、それを固定化する仕組みが、さらに学校にはある。それは評価の非対称性という仕組みだ。教師は日々生徒を評価するが、その教師を評価する人間は、事実上いない。管理職がいるではないか、と思うかもしれないが、彼らはそのような職務を実質上はしていない。また、彼ら自身も、現場でいい教師だったわけでもない。むしろ、うまくいかない現場を離れたくて管理職になったのだ。もし管理職が教師を評価しようとし始めると、教職員組合は全力で反対するだろう。これが普通の会社員ならば、年度ごとにその業績はきっちりと評価される。評価が積み上げられれば管理職になる。彼自身の仕事のレベルが高いので、部下をきっちり評価できる、というのが、まあ、原則としては少なくともある。通常、評価から免れるのは非正規のアルバイトなどの互換性の高い仕事だ。これはマニュアル化された仕事で、誰でもできる。いや、それでさえも事実上評価されている。仕事のできないバイトは、すぐに交代させられるのだ。そのことに異論はもちろんあるが、ここでは議論しない。要は、教員は正規の就労でありながら、彼の業務を誰も評価しないのだ。特に、教師の本来業務である授業は、まったく評価をされない聖域なのだ。「学級王国」という言葉があるが、教師は王様であり、民である生徒は教師を批判する言葉を持たない。特に、小学校など年齢が低くなればなるほどそうなる。これが高校生くらいになると、アイツの授業はダメだから内職してる方がましだよということになり、それを叱ろうものなら、そういうんだったら聞くに値する授業しろよ、となる。自分が高校生の時はそういう空気が確かにあった。が、それも一部の進学校の話であり、高校全入が必然的にもたらした教育困難校ではそうはならない。そこでは暴力的威嚇で管理する能力が教師に求められ、その本質は刑務官とそう変わらない。いや、刑務官の方が職業的専門家であり、システマティックに業務分担ができているので、教師のようにひどいことにはならない。娘が通っていた公立校は地域のトップ校だったが、長期休暇中の進学講習の教師名を明らかにしていなかった。ハズレの教師に当たってしまえば、行かなければいいだけの話だ。さすがに受講を強要するようなことはなかった。しかし、どうせそうなら、予め教師名をつけて講習参加の申し込みをさせればいいではないか、という至極当然の要求が通らない。思い余って妻がPTAで要求したら、しぶしぶではあったがそうなった。ただし、それは娘の在学中のことで、卒業後に元に戻された。今は、進学校ですらこんな状況である。能力の低い人間たちの団結力は高い。自分たちに不利益になるようなことから、仲間をいつも全力で守ろうとする。授業評価の話になると、いつも出てくるのは「教師が生徒に媚びるようになる」という反論だ。馬鹿じゃないかと思う。中身もなくて、生徒のご機嫌ばかり取っている授業が、最初の数時間はともかく、一年を通して生徒から高い評価を得られると思っているのか。そういう教師に限って、生徒に媚びへつらうか、威張り散らすかのどちらかだ。もし、生徒がどのレベル・年齢であっても教師の授業を評価する機会を持ち、教師がその結果で彼の仕事を評価されるのであれば、教師の独善性はかなりの部分改善される可能性がある。しかし、先述の通り、教師は全力でそれを拒絶するだろう。なぜなら、その評価に彼の不勉強、学力の低さ、方法の未熟さなどがすべて露呈されるからだ。まして、その評価が昇給・賞与に反映されるということになれば、彼らはスト権を使ってでも阻止にかかるだろう。この評価の非対称性は、教師という職業の本質的問題なのだ。
2019.01.11
引くだけのエイミングから、さらに押して、引くというリリースに。今は、もう一歩進んで、最後の押し引きを同時に、かつ同量に、というエイミング→リリースに取り組んでいる。4日の射ち初めから、6日連続での練習。一回に72射程度、2時間くらい。時間は少ないが、密度は濃かった。今日も同じ程度の時間が確保できればいいのだが、初出勤で、多分退勤は3時くらいになるだろうか。そこから、射場に寄って2時間確保できればありがたい。目指すべき射の方向性は、ようやく固まりつつあるので、後はインドアシーズン、3月までで、いかに精度を上げるかだ。点数や試合結果には目標を置かずにやっていきたい。
2019.01.10
教師の職業的人格を一言で言い表せば「独善性」である。もともと独善的な人間が、教師という職業を目指すことが多い。彼らは、すでに大学入試において底辺の国公立大学である教育大学にしか入れなかったのだから、自らの「権力意志」が企業や公務員の世界では満たされないだろう、ということはうすうす知っている。「権力意志」は人を支配したいという欲求に突き動かされるものだから、支配できそうな人間がうようよいる学校という場は、彼らにとって格好の職場と思える。しかも、いまだに残っている教師=聖職論という神話が、彼らの隠れた動機を都合よくすり替えてくれる。人を育てる教師という仕事はこの上なく尊い、というわけだが、教える内容の理解すらおぼつかない人間が人を育てられるわけはない。「あの先生のおかげで今の私がある」というような素晴らしい教師は、小学校から大学院まで通っても、せいぜいが一人か二人。残り多数は、「あいつのせいで随分余計な苦労をさせられた」という苦い思い出となるか、まったく記憶にも残っていないか、である。勉強もせずに前者のような教師になれると思うこと自体が愚かなのだが、それを助長しているのが、ひところ流行った「学園ドラマ」である。ろくに見てもいないのだが、熱心な視聴者であっても、例えば金八先生が、授業の準備を一生懸命している姿が放映されたことはないだろう。彼らの職業選択に影響を与えたのは、デューイでもペスタロッチでも『エミール』でもなく、学園ドラマなのだ。以上のような構造を把握できれば、もう少しましな教師になってもよさそうなのだが、残念ながら自覚のかけらもない。せいぜいが現実はそれほど生徒にも慕われず、反動的に「いくら嫌われても、自分は教師として厳しく接する」という姿勢に転ずるだけだ。さらに教師という仕事自体が彼らの「独善性」を日々助長する。教師が板書すれば、クラスの全員がノートに書き写す。指名すれば、教科書を読み、宿題を出せば必死にやってきて、期日を守って提出する。こういう一連の経験が彼らの「独善性」を助長する。自分が何を板書するか、誰に指名するか、どういう宿題を出すか、についての自己反省はなく、それができない生徒を「厳しく指導」することが、自分の仕事だと思っている。「先生の言うことだから、聞け」というのが彼らの最大の理論であり、聞く価値があることを、それにふさわしいやり方で話しているのかどうかについては一切頓着しない。こういう日々を数年過ごせば、最初はそうでなかった少数の教師も「独善性」を己の人格の核とする。「習い性となる」という古い言葉は正しい。
2019.01.09
昨日は、72射。3射×3回をセットとして8セット。その時の中りよりも、射型だけを意識して3回終わったところで、改良のポイントを一つ考えて、次のセットを。途中、バラつきの原因は押し手が不安定であるということに思い至り、フルドローからさらに押す、ということを。次に、押して切るのではなく、最後の押しの後にさらに引く。最後の3射はそれがうまくいった。今日の練習はここから。
2019.01.08
何回かこのテーマで書いてみたいと思う。実際に自分が経験した話をいくつか。・ある小学校教師は、漢字や送り仮名、そもそも日本語としての間違いが1回につき10ヶ所はある「学級だより」を平然と配付し続けていた。・ある高校教師は、東京芸大の音楽学科が教育大の特音よりレベルが低いと思っていた。・別の高校教師は、自分の教科で、今年のセンター試験で160点取れた、と得々と話していた。・別の高校教師は、指導書をコピーしたものをノートにきれいに貼り付けて授業をしていた。・別の高校教師は、入試問題を盗作した。しかも間違えている解答を正解としていた。とまあ、挙げていくときりがないのだが、彼らの共通点は、全員が教育大学卒業ということだ。もちろん、例外はいるし、自分の高校時代の先生にも、教育大卒で素晴らしい授業をする人はいた。しかし概して、教育大卒の教師は勉強ができない。そしてそのことに全くと言っていいほど自覚がない。さらに悪いことに、エリート意識みたいなものさえ持っている。自覚がないから勉強しない。高校はもちろん、中学校、小学校でも、指導書がなければ教科書の問題すら解けない教師は結構いる。勉強ができないことが、いろいろな問題を生む。まず、自分の領域は勉強以外のことだと固く信じて疑わない教師が幅を利かせる。彼らは部活動や担任としてのクラスの強圧的統制が自分のプロとしての仕事だと思っている。しかし、そもそも授業がダメで、他のことはOKという人間が「先生」として居座り続けることができるのがおかしい。子どもはいろいろなことを言語化できないだけで、先生をよく見ている。自分が小学生のころ、やたらと生徒を殴る担任がいた。体育の研究授業があり、その教師は何度も本番前に練習の授業をした。確か跳び箱の授業だった。練習授業で、彼が小学4年生に要求したのは、秒刻みの動きだった。その研究授業がどうなったか、覚えてはいないが、後になってあいつは本当に馬鹿だったのだな、と思ったことはよく覚えている。軍隊のように一糸乱れぬ授業を、彼は目指していたのだ。教員養成系大学の卒業者の教師は○○会のような同窓組織を作り、それは次の人事についての圧力団体となっている。外様の教師、それも教育大学よりもレベルの高い大学、つまりほとんどの国公立大学の出身者は、地方に行かされ、管理職にもなかなかなれない。彼らは無意識的に勉強のできる同僚を嫌う。勉強ができないのに、勉強しているふりをするのは大好きで、教科研究会や先に述べたような研究授業などは盛んに行い、仲間内での相互称賛ごっこに明け暮れる。しかし、そんなことより、勉強ができない教師の最大の問題と思うのは、彼らは「何を教えるか」ではなく「どう教えるか」がすべてだと思っていることだ。「何を」については、すべて既定のことなのだ。それは指導書に書いてある。しかも不勉強なので、学習指導要領が改定され、その内容が一新しても、彼らは異口同音に、「現場を知らない文科省の役人が勝手にいじった」と不平不満をたらたら言い、その価値を学ばず、旧態依然とした授業を行う。結局のところ、新しい勉強をしたくないだけだ。彼らは「勝手にいじった文科省の役人」が、彼らが逆立ちしても入れない大学の卒業生であることを、ことさらに無視している。現場は現場であり、そこを管理する部門と同列であるはずがないのだ。「どう」についても、指導書に書いてある程度のハウツー的なものしか持ち合わせていない。あるいは、それすら学ばず、「経験」の中で得たハウツーがすべてだと思っている。つまり、何をどう教えるかについて、彼らは何の勉強もせず、せいぜい指導書のコピーをノートに貼るくらいの「勉強」をして、教壇に立っている。どこにも「専門性」はないし、専門家としての自覚もない。特に小学校の教師は、一般の大学ではほぼ免許も取れない現状の制度下では、教育大学卒業の教師の独壇場となる。後は、その教育大学にすら入れなかった教員養成学部のある私立大学卒業の教師しかほぼいない。その教養のレベルの低さは驚くばかりだ。基本的な読み書きができない。新聞やまともな本は読まない。そうでなければ、誤字だらけの学級通信など作らない。辞書すら引けないのだ。「学級崩壊」が話題になって久しいが、その大きな原因の一つが、小学校、中学校の教師の質の問題だと、自分は考えている。質の低い教師の多くが、国公立大学の中で最もレベルの低いところに位置する教員養成系大学の出身なのだ。
2019.01.07
弓は、そもそもそれほど体力を要しないスポーツだ。息が切れることもないし、それぞれの体力に合わせた調整ができる。強い弓はいろいろな点で有利だが、自分の限界以上に強くすると、逆効果である。おそらく一番必要な筋力は背筋力であるが、昨日の練習で痛感したのは足腰の鍛錬不足。弓に行く前に、孫のおもちゃやベビー椅子、チャイルドシートなどを三階に運んだが、一階から三階まで5往復くらいすると、すでに相当きつい。妻は毎日足踏みをしているが、見習って昨日からやっている。膝を上げて100歩の足踏みをすると、息が弾み、うっすら汗ばむ。これを1日2,3回は、と思っている。昨日の練習では、後半になるとやはりしっかりと立てていない感じがした。男性の健康寿命は72歳くらいだというが、健康診断では、大きな問題はない。まず、あと5年、60台は現役で競技を続けたい。もちろん仕事もそこまでは続けたい。その後は、大きな試合を目標にするというよりは、射自体を楽しむような感じで。できたら、75歳までは元気に射場にいるのが目標。今日の練習課題は、意味のある射を続けること。ただ、惰性で射つのではなく、いろいろなことを確認しながら、小さな変更を一つずつ試していきたい。
2019.01.06
3階射場で5m近射はしていたが、インドア射場は一週間ぶり。一応、安全祈願をして、射ち始める。最初は4時8点。かなりトラベルを長くしたが、まだ切れるのが早い。途中でHBXを試したら、10-10-10が2回。HBXは慣れてくると、不安定になってしまった。再びHBCに戻して10-10-9が3,4回は出た。HBCも、もう少しトラベルを長くして切りにくくするのがいいようだ。エイミングもセンター付近につくことが多くなった。切れなければ、引くほかない。引けばエイミングが安定するということなのか。今日から、また通常の練習に入る。
2019.01.05
近所の同年代の人たちから聞いてはいたが、子供夫婦がやってきて孫と遊ぶのも、こちらが歳を取るにしたがって、結構疲れるものだ。特別な料理を作ったり、家の散らかり方がすごいので片づけたり、買い物に出たり、ととにかく生活の活動量が多い。結果として生活全体の「消費」もすごい。燃えるごみは20Lのものが5袋、物置にある。カン・ビン・ペットボトルは3袋、今日出せるプラスチック・ビニールは2袋、という具合だ。「正月疲れ」とは、そういうことだろう。ちょっと前なら、それでも今日あたりが初出勤。年の初めから疲労が蓄積する。今は、昨日の夕方あたりから、疲れを取ることに専念し、片づけものは後回しにして、とにかく寝る、食事は残りものですます等々・・・それなりに対応できる。なにしろ休みはまだ2週間近くある。楽しいことの疲れは、すぐに取れる。疲れを取って、また楽しいことに向かおうとする気持ちがあるからだ。今日は射ち初め。これはこれで楽しみである。
2019.01.04
先ほど、娘夫婦と孫が帰って、明日から日常に戻ることになる。今年の年越しも、楽しく、賑やかに過ごすことができた。孫は昨年10月以来だが、この時期の成長は早い。家にいる間に、じゃんけんとか隠れん坊とか、いろいろ真似事のようにするようになった。語彙が数日の間に大分増えたような気がする。来年はどんな年越しになるのか。やがては夫婦二人でということになり、最後は一人でということになるのだろうか。そのあたりは考えても仕方がないのだが、どういうことになったにしても楽しい幸せな思い出だけは残るのだから、それでいい。とにかく、楽しい年末年始だった。
2019.01.03
「平成最後の~~」というフレーズは、いささか食傷気味だ。どちらかというと、元号反対論者である。書類に年月日を入れる場合は、極力西暦を使用する。平成・昭和・大正などと最初から三択になっていて選ぶ場合は、おとなしく○を付けるのだから、決して過激な反対論者というわけではない。「平成」とはどういう時代だったのか、をテレビや新聞が盛んに取り上げるが、それはバブル崩壊以降の「失われた20年と震災後」はどうだったのか、というのと同じ話だ。元号が社会を作るはずもなく、社会が元号を作るのだから。しかし、自分の人生が三つの元号に渡ることなど、想像もしていなかった。「昭和」生まれというのは、そのうち自分が子供のころ抱いていた「明治」という大昔のイメージで見られることになるのだろうと思う。「昭和なんてスマホもなかったんだって」「いや、それどころかテレビだって最初はなかったんだよ」「それから、みんな現金を財布に入れていたみたいだね」などということに、どうもなりそうな感じだ。新しい元号がどうなるかについては、まったく興味がない。昭和は西暦から25を引く。平成は西暦に12を足す。新しい元号は西暦から18を引く。面倒だが、元号換算が必要な時は、そうするほかないが、覚えていられそうもない。しかも、西暦年の途中で元号は変わるから、今でも昭和元年は何月から始まったのかもわからないし、平成元年も確か1月だったように記憶するが、不確かである。なぜ、こんな面倒な習慣を残しておきたいのか、理解に苦しむ。「万世一系」などということは誰も本当だとは思っていないが、皇国何年の方がまだましだ。天皇が「国民統合の象徴」というなら、元号は要らないのではないだろうか。もちろん、この現憲法の天皇の規定に、決して反対ではない。「元首」とすべきではないと思うが、かといって天皇制廃止論にも与しない。現在の天皇は、平和な時代を象徴する天皇だった。立派な人間だと思う。自分の仕事に自分なりの意味付けをして、倦まずたゆまず果たし続けた。他の時代は分からないが、おそらく稀に見る素晴らしい人格の天皇であったという評価が定着するだろう。しかし、それと元号とはまったく別次元の話である。
2019.01.02
これを書いているのは、実は年末だが、1月1日の予定稿としておきたい。ほとんど読者などいない日記で、自分の備忘録として書いているだけなので、別に予定稿とする必然性もないのだが、やはりそうだとしても、元日の記事にしておきたい。小学生が、年末に宿題の日記の正月分を書きためるような気分だ。1.仕事仕事は今と変わらないが、そのレベルを上げる。このことに尽きるだろう。どんな仕事でも準備が必要で、その準備をさぼらずしっかりやるだけだ。収入的には、年金が減らされない程度、ごくわずかだが、手を抜いてやっても楽しくない。しっかりやれば、その成果は自分で実感できる。幸い、職場の人間関係も良好で、どうしようもない人間もいるのだが、それを指導する立場ではもうないのだから放っておけばいい。いい仲間も相変わらずいる。そのつながりは大切にしたい。2.弓これは、もう競技点数ではなく、楽しむことを最優先に。点数の追求は楽しいのだが、度が過ぎると苦しくなる。そこまでの要求を自分に課さないことが大事だ。練習は、夏場に休養日をきちんと取ること。身体能力を維持するための練習を加えること。ウォーミングアップ、クールダウンをきちんとすること。3.家族家族については、夫婦二人暮らしを健康で楽しく。現在、楽しいのは十分楽しいのだが、これからの問題は健康だ。弓の他に体を適度に使うことを。歩くのが一番かなと思う。妻の健康に気を遣うこと。生活の単位が夫婦なのだから、いろいろなものを増やさず、むしろ整理していく方向で。終活ではないが、子どもたちに、何がどこにあるかはちゃんと教えておこう。子どもたちの家族との交流をできるだけ多く。孫も二人になることだし、会いにいく機会も増えるだろう。息子は遠いのだが、里帰り出産なので、その間は嫁の家も近いので、何日かに一度くらい、生まれてくる孫には会えるだろう。4.その他たまには真面目に、いろいろな問題について論じること。それはここでやっていきたい。特に論じたいのは「教師論」。ブラックと言われ出して2年ほどだが、その職業的特性と人格的変容について。それから仕事や、消費、家族などについての社会論。自分の思想的立場は近代個人主義であり、実存主義だ。それはもう古い思想なのだが、いまさら転向する必然性もない。政治思想的にはリベラリズムであり、現在の日本の政治の方向とは逆ではあるが、来年度からの幼児教育・保育の無償化、その後の高等教育の一部無償化については、条件付きで賛成である。現政権も、ガチガチの新自由主義ではない。保守主義としても、それほどしっかりとした思想はどうもなさそうに思う。それが救いではある。
2019.01.01
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