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先月までは夏時間で午前7時から掃除でしたが、今月から寒い間は午前8時からの掃除になり、昨日は余裕をもって出かけることができました。中山道太田宿・旅籠旧小松屋(吉田家住宅)の月1回の清掃に行ってきました。会員は60名位ぐらいいますが、掃除に出てくる方は大体15名ぐらいです。月1回のわらじの会の例会も兼ねています。昨日は会長さんから承久の乱の説明がありました。ちょうど「鎌倉殿の13人」で武家(鎌倉幕府)と朝廷が戦った最初の戦いが当地であったという事でした、当市は朝廷側につき敗北しました。隣の市は木曽川を挟んで幕府について勝利したという内容。当地には畠山と言う名字があります。清掃と例会は1時間ぐらいで終わりました。・・・・・・・今日はハロウィン。古代ケルト人が秋の収穫を祝った行事ですが、今では日本でもお祭りになりました。隣の市まで買い物に出かけたところロビーに恐竜が飾ってありました。富山でもティラノザウルスなど恐竜と会いましたが、なんだか今年は恐竜と縁があるようです。↑メガロサウルストリケラトプス↓やはりメモしてこないといけませんね。これからメモ用紙を持参することにします。
2022年10月31日
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いよいよ富山旅行記も今日が最終回です。昨日の続きで富山市科学博物館からこちらは「とやま・空間の旅」のコーナーです。他にもプラネタリウムの部屋等がありましたが、寄らずに富山市博物館を後にしました。その後、呉羽丘陵に移動しました。富山市民俗民芸村には売薬資料館や民芸館・民芸合掌館など9つの博物館が点在しています。私たちは呉羽山公園展望台へ行く事にしました。駐車場に車を入れて山道を登りましたが、頂上まで車で上がってきた人もいました。頂上には立山を指さす佐伯有頼の像が建っていました。右手は立山を指さし、左手には白鷹が止まっていました。立山開山伝説には次のように載っています。「逃げた白鷹を追って山に入った有頼は熊に出会う。矢で熊を射り、洞窟にたどり着くとそこには胸に矢の刺さった阿弥陀如来がいらした。阿弥陀如来は有頼に人々が立山にお参りできるように説き、有頼はその通り立山を開山した。」(ネットから拝借)立山連峰は霞んでいたので、写真にはあまり鮮明に写りませんでしたが、肉眼ではよくわかりました。何となくわかりますか?北陸新幹線はこの時間には走ってませんでした。立山連峰と佐伯有頼の像の説明↓今回の富山旅行はこれで終えることにして帰途に就くことにしました。途中ひるがの高原サービスエリアで昼食を食べるために立ち寄りましたが、この日は日曜日でお天気も良く、行きとは大違いで大勢の観光客で駐車場は満車でした。私はカツカレーを食べました。地元のお肉が柔らかくて美味しかったです。高速を利用して、途中休憩も入れて2時間半で帰宅。長らく富山旅行にお付き合いしていただきありがとうございました。(完)
2022年10月30日
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富山きときと空港からホテルへ戻り一休み。そして夜はぶらぶらと街を歩きましたが、土曜日の夜と言う事で、先日のパブは店の外のテラス席まで若者でいっぱい。入ることができないので路地の奥まで歩いてにぎやかな居酒屋へ入りましたが、ここも若者で一杯。両隣の若者たちは山盛りの大皿の揚げ物を食べて飲んで注文してはまた食べて飲んで注文してを繰り返し、いったい身体のどこへ消えていくんだろうと思うほど。これが若さと言うものなのかと思い知ることに。私たちは焼きそばとお好み焼きを半分こして食べただけ。若者に圧倒されてお酒も各自1杯だけで早々に帰りました。翌朝、最終日(日曜日)のホテルビュッフェです。市内環状の電車が車と一緒に走っていました。色違いの市内電車がまたすぐやって来ました。そうこうしているうちに富山市科学博物館に到着。ここは富山の自然と科学をテーマにした博物館です。入口にブウマンゾウの標本が2体展示されてました。大沢野地域で発見されたブウマンゾウの第3臼歯です。では「とやま・時間の旅」を巡って来ましょう。こちらはマスコット的存在の動く恐竜模型の「ティラちゃん」、ティラノザウルスです。このボタンを押すと大きな叫び声をあげて大きな口を開けます。歯が鋭くて怖かったです。標本もありました。相方は体重を計っていました。地球上で計る体重よりも月では6分の1ぐらいの体重になります。火星では3分の1ぐらいの体重になります。木星では約2.5倍の体重になります。土星では約0.9倍ぐらいの体重になるそうです。頭蓋骨が展示されていました。富山市科学博物館はもう少し続きます。(つづく)次回はいよいよ旅行記の最終回です。
2022年10月29日
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次に向かったのは高志の国文学館(こしのくに文学館)です。大伴家持や堀田善衛、藤子不二雄A, 藤子・F・不二雄など文学から漫画、アニメまで富山ゆかりの作家や作品の魅力を大勢紹介してありました。また最先端技術を用いた仕掛けや映像などを大きな部屋で楽しんできました。万葉集を楽しめるコーナーもありました。すぐ裏にフランス料理のレストランがあったので昼食をとりたいと座って待ちましたが、お客さんが食事中でいつになるかわからないと言われて次の目的地に行く事にしました。そして着いた所は富山きときと空港です。富山では「きときと」という言葉が結構使われていました。「新鮮・いきいきとしている」と言う意味なんだそうです。空港も新鮮で生き生きしているんでしょうね、きっと。国内線ロビーをぶらぶらしてから空港内が見える喫茶店へ。ハムサンドとアップルパイを食べ相方は富山ブラックサイダーも。飛行機は朝と夕方の2便だけ管制塔も暇そうやっとプロペラ機が近づいてくる音がしましたが、向こうの方に着陸。こちらのヘリも人の移動はあるんですが、一向に動く気配はなし。ところが三脚にカメラを取り付けた人や長くて大きな望遠レンズを付けた人達が屋上に大勢集まってきました。全体的に男性が多かったです。皆さん話しながら何かを待っている様子。飛行機は夕方5時半過ぎしか来ないのでおかしいなと思いながらも私たちは次の場所へ移動しました。夜になってホテルのテレビで自衛隊機が空港で緊急の救急訓練を行った事を知りました。次に向かったのは富山市ガラス美術館。ガラス芸術の盛んな富山の象徴的なミュージアム。設計は東京オリンピックスタジアムを設計した隈研吾氏。6階まで吹き抜けが続き解放感抜群でした。木がふんだんに使われていました。1階の木の作品エレベーターで6階へ。廊下に展示されていました。ところが、撮影はここまででした。館内の作品は撮影はできても個人的または家庭内での楽しみに使うだけでウェブサイト、ブログやSNS等インターネットで発信することは禁止するという注意書きがしてありました。それで残念ですが、ここには載せられません。6階から下へ芸術家のガラス作品を見ながら降りてきて2階のカフェで一休み。では次の目的地に向かいましょう。(つづく)
2022年10月28日
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馬場家の西門です。裏に当たる西門・西塀は昭和初期まで神通川に面して、蔵から海へ運搬する玄関口として利用されていました。こちらが神通川に面した馬場家の西門立派な門を見上げて駐車場へ戻る途中でパブを発見。馬場家の米蔵が「コボ ブリュー パブ」に改装されていました。チェコ出身のコチャスさんが醸造して、スロバキア出身のピロスさんが店長を務めています。KOBO Brew Pubの内部伝統的なチェコの醸造スタイルで造る富山生まれのブリューパブ。常時9種類のクラフトビールを楽しめます。店内にはクラフトビール醸造施設がありクラフトビールを作る様子が見えました。外国の4種類のビールを試飲しました。テイスティングセットは1400円でした。ソーセージやポテトなどのおつまみもありました。壁には外国人が描いた楽しい絵がありました。午前中にほろ酔い気分でいい気持ちになりましたが、運転手がいるので大丈夫。次は岩瀬だけという三角どら焼きで有名な大塚屋製菓店。三角どら焼き以外にも黒砂糖の昔懐かしいお菓子を数種類買ってきました。一人でせっせと食べてしまいました。美味しかったのでもっと買ってくれば良かったと思います。そこから富山港展望台まで歩きました。北前船の時代に港の守護神として船方衆の尊敬を集めた荒木町金刀比羅神社の境内に建つ「常夜燈」をモデルにデザインされています。当時は「常夜燈」が燈台の役目を果たしていました。ここはエレベーターが付いていないので、20m上にある展望室まで歩いて階段を上がりました。これが結構きつかったです。足腰の痛かった相方にはもっと辛かったでしょう。富山港鳥瞰図と展望台からの写真の比較です。では次の目的地に向かいましょう。(つづく)
2022年10月27日
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4日目の朝は廻船問屋群がある岩瀬地区を訪れました。先ずは北前船廻船問屋「森家」です。国指定重要文化財になっています。1878年に建築され、貴重な材料が使われた板戸や梁など贅沢な造りになっています。幕末から明治にかけて栄えた豪商の財力を感じました。岩瀬の住民(元気なおばあちゃん)が案内してくれました。岩瀬地域観光ボランティアガイドさんです。天井板が龍に見えると言われ、何枚も写しましたが、見えますか?前座敷(店座敷)は商談の部屋として使われました。森家の当主の肖像画が掛けられていました。角に柱がないけれど、ガラス戸は何十年経っても開け閉めが簡単で傾かないとの事↓森家の当主は後に東京へ出て行かれたそうです。↑土蔵のこて絵が素晴らしかったです。↓玄関から建物の裏まで通じる土間廊下を私たちは裏から表まで通ってきました。そして森家を見学した後、表の大町通りに出ました。船のモニュメントがありました。昔はこういう船で海運をつかさどっていたんでしょうね。次に旧馬場家住宅へ行きました。こちらも江戸から明治にかけて北前船交易で栄えた北前船主・廻船問屋の住宅です。国の登録有形文化財です。大富豪がうかがえる金庫の数々↓縁側の板は松材で細く見えましたが、実際は幅広の板に溝が彫ってありました。座敷が一番格式が高く仏間、前座敷の順に低くなり、天井板も座敷の白木の板が格式高く、仏間は漆塗りの天井でした。座敷の天井板は屋久杉。明治時代、洋風に改造し天井を高くしました。写真の女性は馬場はるさん。この女性は富山の教育を発展させた方です。15歳の時、8代当主の息子(のちの9代当主道久)の妻となりました。当時33歳で夫に先立たれ一家を支える立場となり、はるさんは馬場家を守ると同時に社会貢献も積極的に行いました。旧制外山高等学校(現在の富山大学人文学部・理学部)設立のため、総額160万円(現在の10億~20億円程度)寄付しました。他にもラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の旧蔵書も寄付、現在の「ヘルン文庫」(富山大学附属図書館内)として広く活用されています。高校の跡地は現在馬場記念公園となっています。卒業生は様々な分野で活躍する優秀な人材を多く輩出しました。33畳の大広間(富山ではオイと呼ぶ)以前は複数の部屋に区切られていましたが、修復工事で江戸時代の頃の広さに復元されました。左奥に写っている囲炉裏も復元されました。昭和初期増築の水回り。ステンドグラスやダイヤガラス、結晶ガラスなどモダンな装飾が随所に施されていました。風呂は檜張りの板に天窓と勾配のある天井。壁を伝って水が落ちるようにするためです。書院欄間は扇面型四君子の板欄間。四君子とは「梅・竹・蘭・聞く」の総称で君子のように気品があり、高潔とされました。昭和初期に増築された新座敷の建具の桟は細く、面取りされた繊細な造りでした。2階の窓からの眺め旧神通川が見えました。昭和初期まで家の裏側は神通川に面して船と蔵との間で荷物の搬出入がすぐに行えました。天上の梁は松材で綺麗に鉋(かんな)が掛けられているのは修復工事で復元されたもの。鉋が掛けられておらず、削り跡が残っているのは江戸時代のもの。土蔵土間通路は約30mあります。ではいい所へ移動しましょう。(つづく)
2022年10月26日
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昨日は10月の読み聞かせボランティア「ポンポロロン」の活動で「はつらつ」の時間に小学校4年生の3つのクラスで読み聞かせをして来ました。私は4年3組で「きっとどこかに」と「でんごんでーす」の2冊の絵本の読み聞かせをしました。クラスに入って挨拶と自己紹介をしてから始めました。男の子と女の子の2人に「きっとどこかに」の本を持ってページをめくってもらいながら感情を込めて読み聞かせをしました。みんな静かにしんみりしながら聞いてくれました。右側に立ってらっしゃるのはクラス担任の先生です。絵本の字が小さいので、前もって文章を書き写していきました。男の子と女の子は私が話す言葉に合わせて真剣にページをめくってくれました。読み終わって感想を聞いてみると、「子犬が可哀そうだった」「女の子に子犬がひろわれて本当に良かった」「どうなるかと心配したけれど、最後にいいお話になってほっとした」と答えてくれました。2冊目はがらりと雰囲気を変えて楽しいお話を登場人物(鳥さんたち)の声を変えて伝言するのを読んでみました。みんな真剣に聞いてくれましたが、今度はみんなクスクス、ゲラゲラ大声を出して笑ってくれました。この本も感想を聞くと、「とっても面白かった」「みんなでこれから伝言ゲームをやってみようよ。」と数人の男の子たちが口々に言い出して大いに盛り上がって終わることができました。子供たちは純真で素直な反応をしてくれて本当に嬉しかったです。最後にクラスの全員で「今日はありがとうございました」と大声で感謝の言葉を伝えてくれました。読み聞かせの前と後で校長室に入り教頭先生も交えて地域の事を話し合いました。「ポンポロロン」の活動を長く続けていくにはやはりコミュニティの人たちの協力が欠かせないという事や、他にも朝夕子供達の登下校の見守り活動を地域の人達でこれからも続けていこうと思っていることなどを話し合いました。先日は新聞社の取材がありましたが、今度はテレビ局の取材もあるそうです。こうして10月の読み聞かせ活動を終えて気持よく自宅へ帰りました。
2022年10月25日
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ここでまた旅行記を中断して…昨日(10月23日)は「ぎふワールド・ローズガーデン」内で開催されている「モロッコヴィレッジ」の最終日でした。そこで相方を誘ってモロッコヴィレッジへ行ってきました。本場モロッコの職人さん、音楽家、料理人によるモロッコの手工芸や音楽を体験し、スーク(市場)でムスンメン(モロッコ風クレープ)を試食してきました。アフリカ大陸の北西に位置するモロッコの地に思いをはせて楽しい時間を過ごしてきました。そしてもう一つ、私はにじいろ会のストラップを持っていきました。モロッコの人達にも交通安全を訴えたかったからです。この男性は日本語、英語どちらもわからず、スマホの機能を使って、私がスマホに話した内容を翻訳して、何とかわかってくれました。そして家族と友達にあげたいと5個持っていかれました。向こうの男性も2個持っていかれました。ちょうど虹がかかりました。私がさえりんさんが20歳の時に横断歩道で交通事故にあい天に召されたという話をしたらお二人とも真剣に耳を傾けてくれました。そして通訳さんが来たので、お二人に正確に通訳してもらいました。お二人は車を運転する時も歩いている時も交通事故を起こさないように気を付けると言ってくれました。そして本日二度目のお茶を頂きました。民族音楽を演奏していた音楽家全員にもストラップを1個ずつお渡ししました。この方達にも内容を説明してストラップをプレゼントしました。二人とも「ありがとう。気を付けます。」と答えてくれました。この女性は銀細工のキーホルダーを親切にプレゼントしてくれました。彼にもストラップをプレゼントしました。民族衣装に身を付けた女性お二人にも英語で必死にコミュニケーションをとって交通事故で天に召されたという事を話したら本当に交通事故は怖いね、お気の毒ですねとそれぞれが答えてくれました。そして左の女性はアルガンオイルをリーズナブルなお値段にしてくれ、右の女性も民芸品のボールペンをプレゼントしてくれました。こちらのお店の女性にも内容を説明してストラップをプレゼントしました。こちらの男性にもプレゼントしました。私の小さいこと!これで持って行ったすべてのストラップがなくなりました。こんなにモロッコの人達に気にいってもらえるのならもっとたくさん持って行けばよかったと思いました。その後、会場で古田岐阜県知事とまたお会いしました。モロッコガーデン・オープン式典で一緒に写真を撮って頂いたので、ミーハーな私はまた図々しくお声をかけて「式典の時にお写真を撮って頂きましたが、今日もまた一緒にお写真を撮って頂けますか?」と聞いたところ、「はい、何度でもいいですよ。」と快くおっしゃって記念撮影をしていただきました。こちらは国際交流協会の事務局で一緒に働いてたお友達とモロッコガーデン・オープン式典の日以来再会したので記念撮影をしました。こちらの友人も式典以来、再会しましたので一緒に記念撮影をしました。モロッコの人達はとてもフレンドリーで本当に楽しい時間が過ごせました。お土産を手に帰りました。PS) 昨日はモロッコヴィレッジの最終日でカーペットからテント、展示品、備品まで全てモロッコへコンテナに詰め込み輸送されるそうです。そして今日は皆さん、モロッコへ帰られるそうです。モロッコの皆さんにお会いできて本当に良かったです。
2022年10月24日
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旅行記に戻ります。富岩水上ラインに乗って「水のエレベーター」中島閘門を体験した後は富山県美術館を訪れました。先ずテラス席でベーグルと野菜が主役のランチを食べて結構ボリュームがありました。その後、美術館の方へ移動。ちょうど開館5周年記念の「西洋絵画400年の旅」(珠玉の東京富士美術館コレクション展)を開催中でした。残念ながら館内は撮影禁止。1.歴史画、肖像画、風景画、静物画、2.物語・現実、幻想の世界へ、光と色彩の饗宴、フォルムと空間等、83点が展示されていました。すべての作品の前にはロープが張ってあり絵画を近くで見ようと顔や手をロープよりも前に出すと女性係員が注意をしに来るほど厳しかったです。唯一撮影できたのは外のこのコーナーだけでした。オノマトペの屋上がありました。最近、俳句の番組でよく「オノマトペ」を使った俳句が出てきますね。屋上からは立山連峰が見えました。他の階には展示室、アトリエ、ギャラリーなどがあり、ピカソやミロ、ロートレック、藤田嗣二などの作品がありました。この部屋はコレクション作品で写真撮影OK。国内外の20世紀美術やポスター、椅子などの作品が展示されていました。一旦ホテルに戻り休憩。夜はまた富山駅まで歩いて居酒屋さんで海鮮三昧。白えびの天麩羅が美味しかったです。富山では白えび三昧でした。(ちょっと焦点が合ってませんでした)4日目の朝食ビュッフェです。さあ、これから岩瀬町歩きに出かけましょう。(つづく)
2022年10月23日
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ここでまた旅行記は一休みして・・・昨日10月21日は約180年前に中山道太田宿脇本陣で55歳で亡くなられた播隆上人の命日でした。朝7時に祐泉寺の東、播隆上人の墓前に草鞋の会(わらじの会)のメンバーが集合し、祐泉寺のお坊様にお経を勤めて頂きました。そして各自が順に焼香しました。(友人が写真を撮ってくれていました)祐泉寺には墓碑と南無阿弥陀仏と刻んだ名号碑、名号軸、護持仏があります。庶民と共に生きた聖(ひじり)の一人である播隆上人の墓碑と名号碑の前でわらじの会の皆さんで法要をしました。 播隆上人は作家、新田次郎氏が播隆上人を描いた「槍ヶ岳開山」で一躍有名になりました。播隆上人は浄土宗の僧で山岳修行の道に入られました。笠ヶ岳の再興、槍ヶ岳を開山し、5回登っておられます。各地に「南無阿弥陀仏」の名号碑(現在82基確認)や名号軸を残しています。墓は祐泉寺のほか、播隆開山の正道院(岐阜市)、一心寺(揖斐川町)、富山市の生誕地の4カ所にあります。・・・・・旅行記が続きチャンスがなかったのでここで庭の金木犀を紹介します。今年もまた甘い香りが部屋の中まで漂って来てしばらくの間いい香りがしていました。そして今年は柿が豊作です。と言ってもこれ渋柿なんです。しばらく置いておくと熟して甘くなるので、それから頂きます。・・・最後は先日ローズガーデンで開催されたモロッコガーデンのオープン式典で市長と並んで写った写真を友人に頂きました。(向かって左が私です)お粗末さまでした。
2022年10月22日
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まず富岩運河誕生の背景について少し紹介します。※「かつて神通川は氾濫することが多く、街は頻繁に浸水被害を受けていました。明治34年(1901年)蛇行区間の西側に細い水路を設けて水の流れを広げる工事を開始、その後大正11年(1922年)頃には工事によって水路が本流となり、現在の神通川となりました。市街地には広大な廃川地が残り、近代都市としての発展を遂げました。そこで富山駅北から東岩瀬港の間に「富岸運河」を開削し、堀った土砂で神通川の廃川地を埋め立てる工事をして昭和10年(1935年)使用開始となりました。昭和10年(1935年)富岩運河の中央に上流と下流の推移差2.5mを調節する中島閘門を設置。これにより富山駅北と現在の富山港が水路で結ばれ船による資材運搬が非常に便利になり、運河沿いに一大工業地帯ができ、戦後の復興期に活況を呈しました。しかし、高度経済成長とともに物流が変わり、富岩運河の埋め立て計画も浮上しましたが、今では街づくりに活用しています。運河の途中に、昭和の土木構造物としてある中島閘門は全国発の国の重要文化財に指定されました。」(※ 頂いたリーフレットを参照)さて、約7㎞の運河クルーズ「富岩水上ライン」に乗って出発した私たちは富岩運河の上流側と下流側の2.5mもの水位差を調節するパナマ運河方式を体験しました。ヨーロッパで中世から近代にかけて発達した水運技術を取り入れたパナマ運河方式です。船に乗ったまま川の水がどんどん減っていきます。こんなに減りました。高低差2.5mです。なお、閘室の深さは6.27mです。(全長86m、幅9.09m)双扉式の門扉が開き始めました。門扉が完全に開きました。そこを船が通航しました。こちらは船尾の方です↓門扉が閉まりました。これで今まで来た向こうの川とは2.5m低くなりました。(帰りはその反対で閘門が開閉して船に乗ったまま川の水がどんどん入って2.5m高くなっていき元の川の高さに戻って通行して帰ってきました。)ここでも青鷺が全く動かずにひなたぼっこここで希望者は船を下りて見学しました。足の痛い相方だけ船に残りました。ちょっと読みにくいと思いますが、初めに書いたようなことが書いてありました。閘門の操作室です。船がやってきました。ここで閘門の開閉をします。男性が一人で働いてました。こちらの黒い機械は昔の物で現在はその奥にある操作盤で操作してました。こちらの家では昔、閘門の開閉をする人が家族で生活していたので居間や台所、お風呂やトイレなどが当時のまま残されていました。同じように帰りは川の水が2.5m上がって船が通航して元に戻ってきました。往復70分の運河クルーズでした。ここで皆さん記念写真を撮ってました。近くには有名なシェフの経営するレストランがありましたが、普段着では入りにくい雰囲気でしたし、カジュアルなお店は満員で外まで並んでいたので車で次の目的地に向かう事にしました。(つづく)
2022年10月21日
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遊覧船に乗って松川をクルーズした後は、甘味処でゆっくりと休憩をして元気を取り戻し、富山市役所まで歩いて、地上約70mの展望塔に上がって市街地を360度ぐるりと眺めました。市役所の中はとても近代的でお洒落な建物でした。展望塔からは立山連峰が綺麗に見えました。街中に富山城址公園も見えました。↓赤、白、ピンク色の彼岸花が咲いていました。市役所から富山城址公園の駐車場まで歩いて戻り、そこから富岩(ふがん)運河公園まで車で走りました。木陰の下の駐車場に車を入れてから、乗船場までかなり歩かなければなりませんでした。やっと向こうの方に乗船場が見えてきました。ちょうど船が出た後で、次の出発時間まで約1時間近く待たされました。この辺りは川風がとても強く吹いていました。この船に乗ります。いよいよ富岩水上ラインに乗って約70分間のクルーズに出発です。向こう岸の丸い物は富山の丸薬を象徴しているそうです。向こうの方に中島閘門が見えてきました。ここで私達は貴重な体験をすることになります。さて、それはどんな体験でしょう。それは明日に続きます。(つづく)
2022年10月20日
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では松川遊覧船に乗って30分間の歴史クルーズに出発しましょう。4月上旬は「日本さくら名所100選」に選ばれている華やかな桜のトンネルがくぐれるそうですが、秋なので堤防には赤い彼岸花が群生していました。もう少しすれば桜の葉が紅葉して綺麗なことでしょう。富山県はガラス工芸が盛んです。橋にはステンドグラスがはめ込まれていました。アザミの花でしょうか。こちらのステンドグラスは立山連峰橋の下をくぐりました。※ 日本一の船橋・神通川船橋は慶長11年(1606年)それまでは船の渡しだったこの場所に前田利長が船橋を架橋しました。当時は舟同士をいくつも繋いでその上に板を敷いた形式の橋でした。日本最大規模で「越中富山の名所」と言われたこの橋は明治15年(1882年)に木橋と架け替えられました。現在は当時の面影をしのぶように船の形のデザインが施された橋となっています。(※ リーフレット参照)寛政年間からの常夜灯も残っていました。行きも帰りも青鷺が微動だにしませんでした。これはガス燈の名残だそうです。現在は使っていません。ちょうど橋の上を市電が走っていきました。この橋は頑丈そうにできていました。船は引き返し、乗船場も通り過ぎました。ここで船を止め、川の魚に餌やりをしました。たくさん集まって来て餌を食べるのであちらこちらで水しぶきが上がりましたが、魚がわかりますでしょうか?今度は桜が咲く頃に来るといいわねと言いながら船を降りたのでした。(桜が咲く頃の遊覧船の様子)しばらくしてから次の船が出ていきました。私達は茶店で船を眺めながら休憩をして相方は富山城抹茶パフェを私はきな粉わらび餅とお抹茶を頂きました。とっても美味しかったです。ではここから数分歩いて富山市役所展望塔に上がることにしましょう。(つづく)
2022年10月19日
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旅行記に戻ります。3日目は富山市内の近い所を観光することにしました。先ず向かったのは富山城址、今は石垣しか残っていません。入口に前田正甫公の銅像が建っていました。富山城の石垣が残されています。石垣の石は不ぞろいでした。これは福知山城に行った時にも思いました。(墓石まで使ってありましたから)富山市郷土博物館はその日は閉館していました。翌日富山まつりがあったので準備されていたのかも?残念!佐々成政や富山前田家ゆかりの富山城の歴史を映像や模型を使って紹介してあるそうです。富山城跡は城址公園として整備され、市民の憩いの場となっています。富山城址内をどんどん奥へ歩いていくとかつての富山城の船着き場に出ます。遊覧船に乗る前に松川茶屋の中に併設されている滝廉太郎記念館に立ち寄りました。↓ 父・滝義弘と富山の事が説明してありました。滝廉太郎とかかわりの深い人物が紹介されていました。↑中央はドイツから帰って療養中に親友鈴木毅一と。右は3人組の親友で、その右の人物はロシア生まれのドイツ人哲学者、ラファエル・フォン・ケーベル博士で東京音楽大学でピアノと音楽理論を教えた人。↓滝廉太郎の両親と家族↓音楽学校時代の3人 ↓「荒城の月」と富山城について最後にもう一度、作曲中の滝廉太郎の彫像とオルガンを見てさあこれから松川遊覧船に乗って富山城を守った神通川の名残の松川をゆったり遊覧して来ましょう。川の右側には近代的なビルがたくさん立ち並んでいます。蛇行した神通川の氾濫をなくすために神通川の流れをまっすぐに伸ばす工事が行われた際、掘った土を運搬して埋めた土地の上にどんどん新しいビルが建ち並んでいったそうです。富山市役所も主な会社のビルもそうだったようです。では船頭さんの解説を聞きながらこれから約30分の歴史クルーズに行ってきます。(つづく)
2022年10月18日
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昨日(10月16日)3年ぶりに開催された太田宿・中山道まつりの姫道中を見に出かけました。14代将軍徳川家茂に嫁がれた皇女和宮様を中心に歴代の将軍に嫁がれた5人のお姫様が武士や奴を先導に姫道中をしました。お姫様出立前にお姫様による餅投げがありました。余り数をたくさん投げなかったんですが、ちょうど目の前に落ちた紅白餅の赤い餅を運よくゲットできました。笙や笛で雅楽の演奏をしながらお姫様方を先導しました。皇女和宮様が見えてきました。林家住宅前に5人のお姫様が勢揃い。林家住宅は中山道51番目の宿場町で江戸時代の脇本陣があった家で国指定重要文化財です。それに先立って火縄銃の実演がお姫様の出立前と途中の休憩時間にありました。順番に撃ったり、全員そろって撃ったりしましたが、その音がもの凄い迫力で、カメラを持つ手が思わずビックリしてぶれてしまいました。こちらは大蛇伝説とかいう龍神の舞でした。若い衆の迫力がまたすごかったです。激しい龍神様の動きに合わせて御神火太鼓の迫力ある演奏がありました。この後、楽市楽座へ寄って柿、ミカン、干し芋、揚げ餅団子などを買って帰りました。昨日もいいお天気で暑いぐらいでした。
2022年10月17日
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昨日はぎふワールド・ローズガーデンで開催されたモロッコガーデンオープニングセレモニーに出席しました。秋薔薇の最盛期で会場までの道路が混雑すると予想されるので時間に余裕をもってお越しくださいと案内状に書いてあったので早めに出かけ、先に到着していたお友達とモロッコの人を交えて楽しく話をしていました。その前に、セレモニー会場入り口で金属探知機による所持品検査と鞄などの中を確認する手荷物検査があり、私は金属探知機で引っかかりました。ドレスのスリットが目の毒と思い途中をピンで止めたからです。すぐにOKサインが出て無事に入場できました。約6,000品種、20,000株の薔薇は満開で綺麗でしたが、写真が多くなりますので省きます。機会があれば後日載せますね。式典は撮影禁止でした。昨日は気温が30度近くになり、陽射しが強く式典の間、陽の光を直接浴びてそれはそれは暑かったです。モロッコ側は大臣、大使、長官が臨席され、日本は寛仁親王妃信子殿下が臨席されたので写真をSNSに載せることは禁止しますと何度も放送がありました。寛仁親王妃信子殿下が臨席されたYahooニュース私服の警察官と刑事が大勢立って警戒していました。他にも日本モロッコ協会会長、モロッコ王国名誉領事、参議院議員、外務省中東アフリカ局参事官、県知事、県議長、両市長、その他来賓も多かったので、なるほどなとうなづけました。式典後テープカットがモロッコガーデンのオープンとモロッコヴィレッジのブースオープンと2回あり、来賓がどちらも見学して、妃殿下がお帰りの車に乗られるまで私たちは身動きができずに待たされ、その後自由に見学して回れるようになりました。高い所から入れたお茶が美味しかったです。↑赤い円錐型の蓋の下にはナッツとくるみがあり頂きました。モロッコ音楽を演奏してくれた方々実はモロッコガーデン内には薔薇の花やハーブ類が植えられていました。後日載せるかもしれませんが、今日は省きます。モロッコの食べ物紹介で頂いて食べましたが、とても美味しかったです。国際交流協会の皆さんと名誉会長と一緒に国際交流協会会長も一緒に当日のMCを担当したアナウンサーとモロッコ王国名誉領事、県知事、市長と一緒に最後はおまけで私と古田県知事のツーショット。テレビやSNSで毎日見ない日はないのですが、直接お話をしたのは初めてです。「モロッコの衣装ですか?」と聞かれました。式典の後、自宅に戻り衣装を変えて、夕方東京の先生の社交ダンスのレッスンに出かけたのでした。朝からハードスケジュールで少し疲れました。記録として載せておきます。今朝の朝日新聞の記事です。中日新聞です。読売新聞岐阜版です。岐阜新聞です。こちらはお友達に頂いた画像です。モロッコの文化や工芸がよくわかると思いました。
2022年10月16日
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高岡古城公園からホテルへ戻って休憩し、富山は新鮮な魚が食べられますが、夜はお肉料理が食べたくなり街へ繰り出しました。ホテルで紹介してもらって、お店に電話をかけると「お待ちしておりますので是非お越しくださいと」大歓迎。それもそのはず、平日の夜なので外国人の女性が二人だけ。私達は2組目でした。(土曜日の夜に出かけたらお店の外のテラス席まで若者たちで満席でした。)居酒屋と言うよりはパブと言う感じ。イタリアンレストランともちょっと違う感じ。トマトとバジルのパスタを半分こしてビールとジンジャーエールで乾杯!相方はハンバーグとポテトフライを私はフィレステーキとハンバーグを半分もらって満足してホテルに戻りました。ホテルに戻るまでの道すがらその昔、富山は薬売りで有名でした。こういう格好で各地に薬を売りに出かけてましたね。富山駅です。市内を走る電車です。朝から晩まで大勢の乗客が利用しています。道路には市電の線路があり車と電車が信号で調節されて走っていました。市内電車、セントラム(市内電車環状線)ポートラム(主に富山湊線)が運行されています。駅前を歩いてホテルに戻りました。3日目のビュッフェの朝食です。入口で消毒をして手袋をはめて食べたいものをとります。朝はこんな色の市内電車が走っていました。富山駅前は歩車分離式信号になっています。それではこれから富山城址の観光に出かけましょう。(つづく)
2022年10月15日
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氷見市へ行った帰りに高岡市へ寄り道をして、高岡古城公園を訪れました。中心市街地に約21万平方メートルという東京ドーム約4.5倍の広大な面積があります。これだけ広くては方向音痴の私が駐車場まで戻ってこれないかもしれないので足の痛い相方に付き合ってもらったのです。ここは慶長14年(1609年)に加賀前田家2代当主、前田利長公が築いた高岡城があった地で城跡が公園として整備されています。(高岡大仏から南外濠の橋まで約200mで4分の距離です)※ 前田利長公は1585年から13年間守山城の城主でしたが、利家公の後を継ぎ藩主となり7年後に隠居して富山城に移りました。しかし大火で城が消失したため、この地に高岡城を作りました。設計はキリシタン大名で築城の名手、高山右近と伝承されています。入城して5年で利長公は亡くなり廃城となりました。明治になり、城跡が消失しそうになりましたが、公園指定の請願書を出し、保存運動をして、城跡は高岡古城公園として残りました。(上記はリーフレットを参照)3つの水濠に囲まれて、濠は築城時のまま残されています。カミツキガメもたくさん泳いでいたので餌をあげないようにと注意書きがされてました。鯉やカルガモを見ながらしばらく休憩して広い公園を散策し始めました。コウボネの黄色い花がたくさん咲いてました。朝陽橋を渡りました。ここから上り坂を上がっていきました。そして今度は道を下ると、朝陽の滝と聖観音菩薩がありました。高岡は銅器が伝統産業なので、公園には日展作家などの彫刻のブロンズ像があちこちにたくさん設置されていました。屋根の上には金の鳳凰がいました。実は二人とも足元の悪い階段をかなり下りて駐車場とは反対側に出てしまったので、また階段を登って引き返したのでした。私一人だったらこの広い公園で途方に暮れたことでしょう。足元には彼岸花や藪蘭(リリオペ)が自然のままたくさん生えていました。ちょっと見えにくいですが、加賀前田家2代当主、前田利長の銅像です。他にも見所はたくさんありましたが、石段を上ったり下ったりして足腰に痛みが出ている相方が心配でこの辺で帰ることにしました。私も歩き過ぎて腰が痛くなってきましたしね。これで高岡市から富山市のホテルに直行です。(つづく)PS) 昨夜は第19回坪内逍遥大賞の授賞式があり、翻訳家で演劇評論家の松岡和子さんが来市され、授賞式がありました。記念事業として「逍遥訳と松岡訳で楽しむシェイクスピア劇の世界」があり、シェイクスピア劇のリーディングを内田健司さん、周本絵梨香さん、高橋英希さんの3人の役者さん達が演じてくれました。その後、松岡和子さんと役者さん達3名のトークを楽しんできました。(画像はすべて友人から頂きました)2時間楽しい時間を過ごしてきました。ちなみに歴代坪内逍遥大賞受賞者は第1回 六代目中村歌右衛門第2回 島田正吾第3回 加藤道子第4回 前進座第5回 野村万作 第6回 小沢昭一 第7回 仲代達矢第8回 中村雀右衛門第9回 二代目水谷八重子第10回 九代目松本幸四郎第11回 観世榮夫第13回十五代目片岡仁左衛門第14回四世宗家家元花柳壽輔第15回 吉永小百合第16回 渡辺美佐子第17回 北川悦吏子第18回 白石加代子(敬称略)の皆さんです。
2022年10月14日
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旅も2日目の途中ですが、ここらでまたもや一息入れてもらいましょう。9月半ばに金婚式を迎え、10月上旬の誕生日で後期高齢者の仲間入りをした相方。先日の富山旅行でも夜な夜なせっせと1本のクラフトテープを3等分に切っていましたが、自宅に戻ってから花編みをせっせとしていました。切った分だけ全て花編みを完成させました。そしてそれを1本1本4.5㎝の長さに今日までに約400本分切りそろえました。ここからは私とバトンたちして最後の仕上げまで私が引き受けて袋詰めまでして完成です。今日90個分袋詰めできました。さて、旅行前から腰と右足が痛くて整体院で鍼を打って電気を通してもらいましたが、旅行中は湿布とエレキバンを貼っていました。家に帰ってからはそれに加えてお灸も朝、昼、晩とやらせてもらっています。誕生日が過ぎたので、新しい保険証を持って地元の大きな総合病院を受診すると、脊柱管狭窄症だとわかりました。次回MRI検査を受ける予定です。病院でもらった薬を飲んで、毎日湿布とお灸を続けています。今回後期高齢者の保険証の管理は県が行うという事を初めて知りました。そして次々と誕生日プレゼントが届きました。ミラ君からは「アイスとワッフルケーキ」をノア君からはおばあちゃん(ママのお母様)と作った栗きんとんを。次男家族からは「こがねはるか」を長女家族からは「千疋屋のプレミアムアイス」をそして長男家族からは大塚博堂のCDを3枚テニス仲間のお姉様方からも次々とスイーツが届きました。スイーツは私も御相伴に預かります。CDは毎日聴かせてもらってます。みんなどうもありがとうございました。そして誕生日の夜は二人だけで祝いました。天橋立で買ってきたスパークリングワインを飲みながら・・・いい気分でこれからもどうぞよろしくお願いします。・・・・・一昨日愛知に住む娘から送られてきた夕陽と雲が余りにも素晴らしかったのでここで載せたいと思います。見られた方もあるかと思いますが、どうぞご覧ください。いいかがでしたでしょうか。自然は時に素晴らしい光景を見せてくれますね。
2022年10月13日
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富山湾のクルーズを終え、新鮮な魚料理を食べた後、相方が行きたかった氷見市潮風ギャラリーへ到着。藤子不二雄Aアートコレクション展をやってました。ギャラリー入り口には代表作のキャラクターがたくさん描かれていました。1階は写真撮影が禁止でした。藤子不二雄A氏の漫画の原本がたくさん展示されていました。色使いや筆のタッチの細かいところまでよくわかりました。2階は撮影OKでした。相方はこの漫画もあの漫画もそろえて持っていたと懐かしそうに眺めていました。記念に写真を撮りました。「ひみぼうず」君もいました。こちらは入ったばかりはこんな暗い画面ですが、カメラのフラッシュをたくといろんな絵が出てきました。やはり「ひみぼうず」くんも藤子不二雄A氏が故郷氷見市のキャラクターとして作り出されたんですね。こちらも楽しいコーナーでした。動画のスピードが速いのでキャラクターがあっという間に走り去ってしまいました。写真を撮るのは難しかったです。実は私たち二人はこうして立っていただけです。「ココロのスキマ、お埋めします喪黒福造」と書いてあります。そして私たちはこんな風に変身しました。相方は満足できたようでした。せっかくここまで来たのだからと藤子不二雄A氏の実家、光禅寺にも行ってきました。境内には藤子不二雄A氏の漫画のキャラクターが並んでいました。藤子不二雄A氏はこの寺の長男として生まれましたが、お寺は継がずに、東京へ出て後に漫画家として有名になった方達が住んでいたトキワ荘に住んだのです。弟さんがいらっしゃるので跡を継がれたのではないでしょうか。お寺はひっそりとしていたので門から足を踏み入れることはせず、写真だけ撮らせていただきました。では次の場所に行くことにしましょう。(つづく)
2022年10月12日
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富山旅行2日目になりました。ホテルのビュッフェで朝食を済ませ富山市から高岡市を通過して氷見市に入りました。氷見市は藤子不二雄A氏の生まれ故郷なので、街中にたくさんの作品のキャラクターが並んでいます。これは「笑うセールスマン」の喪黒福造です。やっと氷見港に到着です。カラフルな傘が綺麗でした。氷見観光遊覧船で氷見沖クルージングができるという運行案内の看板があったので乗ることにしました。ところが、ここからがさあ大変!ここですぐに乗れると思っていたら、一旦国道に出て大きな橋を渡った向こう側に乗り場があるという事でそちらに向かって走りました。(船乗り場はこの橋の向こうのずーっと奥の左の方にあります)足が痛い相方はこんなことなら車で来れば良かったと言うし、船の出航時間は午前11時の次はもう午後1時しかないと聞いて何としてでも11時のに乗りたい一心で必死でした。ところが、11時の出航に間に合ってやれやれ乗れると思ったら、船頭さんに「あの建物でチケットを買ってライフジャケットをもらって来て下さい。」と言われ、あわててひみ岸壁市場の一番奥まで走って行き販売機でチケットを買い、ライフジャケットを2人分抱えて戻ってくると、かなり時間がオーバーしていました。その間我慢強く待って下さっていた乗客の皆さんに最敬礼をして「お待たせして申し訳ありませんでした」と平謝りしました。やっとのことで出航しました。そして約30分で氷見沖をクルージングしてきました。カモメに見送られて向こうの方に立山連峰が見えるはずでしたが、頂上は雲に覆われて、靄がかかって残念ながらクリアに見えませんでした。島の左奥の方から少しだけ見えますか?山あいから雲が沸き上がっています。富山湾の海と立山連峰の写真をたくさん撮ったんですが、お見せするほど鮮明ではなかったので省きます。ガイドさんの説明をメモしてくれば良かったのですが、聞き流してしまったので、記憶を辿ってみると、※新元号「令和」の出典は万葉集の「梅花の歌」序文にありますが、「令和」を含む序文を記したのは大伴旅人です。(大伴旅人の子供が有名な大伴家持です)富山の国司をしていた頃の住居跡や、織田信長や豊臣秀吉が訪れたという島などが船から見えました。(相方から「オヤジはいつも手帳を持参して大事な事はメモしていたぞ。」と言われてしまいました。義父は詩を書いたり散文を書いていましたので)船はかなり沖に出ました。向こうの浮きがある所が定置網がかけてある場所です。富山の新鮮な魚は定置網漁で獲れた魚を毎朝市場へ出荷するんだそうです。相方は最後尾に座っていました。これで富山沖を1周してきました。岸壁ではたくさんのカモメが迎えてくれました。その後、新鮮な魚料理が食べられる氷見岸壁市場で昼食にしました。私は氷見漬けチラシ定食を相方は氷見刺し身定食を頂きました。自家製つみれ汁も美味しかったです。まるまげ祭りの顔はめをしてみました。氷見市のマスコットキャラクター「ひみぼうず」くん春夏秋冬の氷見市の紹介をスクリーンで流してたので、椅子に座ってしばらく観てきました。そしていよいよ今回の旅行で相方が見たかった藤子不二雄A氏のギャラリーへこれから向かいます。(つづく)
2022年10月11日
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10月2日(日)の有松天満社の秋季大祭でペコちゃんも山車曳き運行に参加しました。貴重な体験ができて良かったね。これはからくり唐子人形が書いた書です。上手に書けてますよね。ペコちゃんはお祓いをしてもらいました。なんて手が大きいんでしょう!こちらが秋季大祭の有松天満社です。大変賑わっていますね。私も有松に滞在中、その頃はまだ母親が生存中でしたので、延命祈願に参拝したことがあります。境内は誰もいなくてひっそりとしていましたが、秋季大祭はこんなに賑わうんですね。手に止まっても痛くなかったですか?これで有松天満社の秋季大祭を終わります。明日からまた旅行記の続きを載せますね。
2022年10月10日
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ちょうど1週間前の10月2日(日)に有松天満社の秋季大祭で山車曳き運行がありました。山車の下にはタイヤはついてないので持ち上げて引きずりながら回転させたそうで、皆さんの力強い山車曳きの様子をご覧ください。男衆が舵をとっています。いかがでしたでしょうか。その場にいなくても見ているだけで迫力が伝わってきますよね。すれ違うのもぎりぎりだったそうです。それにしても見物客が大勢いたこと!三密どころではなかったですね。屋外だから良かったけれど。有松天満社の秋季大祭はもう1回だけ続きます。(つづく)
2022年10月09日
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旅行記の途中ですが、1日目の旅が終わったのでここでちょっと気分転換をしましょう。武下さん制作、10月のカレンダーです。スマホではなくプリンターから取り込めたんですが、重なった上部が不明瞭になってしまいました。「 やればできる自信をもつこと 真っ白な心で 」と書いてあります。次に10月2日(日)の前夜と当日に1週間、時間を戻しましょう。前夜、すなわち10月1日(土)の事です。夜はお練りがあったそうですが、残念ながら写真が撮れなかったそうです。そして10月2日(日)の有松天満社の秋季大祭当日です。200年以上使用されてきた大幕(正面幕)この新しい大幕の刺繍はベンツSクラス1台分だそうです。なお勇壮な山車曳き運行の様子は明日載せますね。(つづく)
2022年10月08日
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高岡山・瑞龍寺の山門を出るとドラえもんが運転手をしている幸福行きのバスが止まっていました。すぐ隣で龍の形のどら焼きを売っていましたので、二人とも粒あん入りを買って車の中で食べました。次に向かったのはここ、高岡大仏です。高岡銅器のシンボルです。高さが約16mある巨大な青銅製の大仏です。木造製の大仏が大火で焼失したので高岡銅器の技を駆使して、約30年の歳月をかけて建立されました。ちょうど交通安全のたすきをかけてらっしゃいました。台座下の回廊には焼失を免れたご尊顔を拝顔できました。消失を免れたご尊顔台座の下の回廊をぐるりと回って展示物を見てきました。そして高岡市から富山市に移動して富山駅前のホテルにチェックインしました。バス、トイレは隣の部屋にあります。部屋で少し休憩してから富山駅内の北陸新幹線改札口直結の場所に有名店が多数出店してました。そこの一店で新鮮ないくら丼と白えびの天丼を注文。私は余分に白えびの刺身と冷酒を注文。白えびの刺身は甘くて美味しかったですし、立山という銘柄の冷酒も美味しかったです。1合を一人で平らげました。どちらも美味しかったので大満足。いい気分でホテルに戻ったのでした。その夜、私は写真をPCに取り込んでブログに載せるとすべて横向きになるので色々と格闘しました。相方は早々に寝てしまいましたが、夜中の1時頃に起きて朝までテレビをつけながらにじいろ会のストラップを切っていたそうです。富山1日目はこうして終わったのでした。(つづく)
2022年10月07日
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菅沼合掌造り集落と相倉合掌造り集落から高岡市に向けて国道を走りました。標識に大型車両は80キロ、普通車は100キロと書いてあり、車がビュンビュン抜かして走って行きます。私達は安全運転でゆっくり走りましたが、こんな国道を初めて走りました。高岡市街に入り車の中から前方を撮りました。そして着いたのは高岡山瑞龍寺。今回は写真をたくさん省きましたが、それでも30枚ほどありますのでご了承ください。雨が降っていたので暗く写りました。ここ瑞龍寺は富山県唯一の国宝として有名です。加賀藩2代藩主・前田利長の菩提寺で、3代藩主・前田利常が名工の一人である山上善右衛嘉広に建築を命ぜられ約20年の歳月をかけて建立しました。山門、仏殿、法堂が国宝に指定され、総門、禅堂、高廊下、回廊、大茶堂は重要文化財に指定されています。では総門(重要文化財)から入りましょう。山門(国宝)が見えます。天保2年(1645年)に建立され、場所を変えて建て直しましたが、1746年火災で焼失、1820年に竣工しました。左右に金剛力士像を安置し、楼上には釈迦如来、十六羅漢を祀ってあります。向かって右左山門をくぐると右側に大庫裡(重要文化財)正面に仏殿(国宝)左側に禅堂仏殿(国宝)は1659年に建立されました。山上善右衛門の力作の一つで総欅造りです。仏殿の中の写真はリーフレットから拝借しました。仏殿を囲むように左右対称に回廊が作られているので、右側からぐるっと回りました。大庫裡(重要文化財)で調理配膳と寺務運営を行います。天上が漆喰で曲線になり結露に配慮してあります。正面に韋駄天尊増が祀られています。浄財をして許しをもらい写しました。延命地蔵菩薩様にも浄財をして相方の腰と足の痛みが軽減しますようにとお参りしました。その後、法堂(国宝)へ参拝しました。1655年~1657年の竣工で境内一の総檜造りの大建築。二代目藩主前田利長の位牌が安置されています。各天井には狩野康信の四季の百花草が描かれ、欄間には高岡と言う地名の由来となった鳳凰が刻まれています。法堂の中の写真はリーフレットから拝借しました。法堂の参拝を終え、左側の回廊を戻りました。向こうの方に、石廟(県指定文化財)が祀られ前田利長公、利家公、織田信長公、同室正覚院、織田信忠公の分骨廟がありました。禅堂(重要文化財)座禅修行だけでなく食事、睡眠もとれる生活空間。烏枢沙摩(うすさま)明王が祀られていました。これで高岡山瑞龍寺の参拝を終え山門から出ました。相方は山門までは歩いてそこでずーっと待っていました。私が全ての仏様にお参りしてくると、足の痛みがなくなったと言ってすたすた歩いていきました。ほんのしばらくの間だけですが、「苦しい時の〇頼み」の効果はあったようです。(つづく)
2022年10月06日
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菅沼合掌造り集落の次に向かったのが相倉合掌集落でした。相倉合掌造り集落は五箇山の中でも最大の合掌集落で、20棟の合掌造り家屋に4棟の茅葺家屋を含む24棟の茅葺建造物に加え、数多くの建造物が良好な状態で現存しています。(参考文献:南砺市世界遺産マスタープラン)外は厳しい自然環境に耐えうる強固な造り、中は家庭内産業の工場空間と生活空間を兼ねた合理的で機能的な造りで豊かな自然環境と農村風景とも非常にマッチして「日本の原風景」と高く評価されています。雨が本格的に降ってきました。相方は車に残り、私は一人傘をさして見学に行きました。稲刈り後の懐かしい風景です。実は下にこの標識が立っていたので一人で山の上の方にどんどん登っていきました。辺りに人は誰もいなくて、少々心細かったんですが、ここまで来たのだからと気力を振り絞ってフーフー言いながら山を登っていきました。しかし結局、相倉集落は全く何も見えず今来た道を引き返して山を下りたのでした。下に降りても霧雨で遠くまでは見渡せませんでした。稲架掛け(ハザ掛け)の昔懐かしい田園風景2階の窓から人形がのぞいていました。この真っ黒な花はワレモコウではないような?ガマの穂でもないような?ちょっとわかりませんでした。相倉合掌集落を一周してきました。この頃には観光客は一人もいなくなりました。車で待っていた相方と茶店に入りなめこ蕎麦と月見そばを食べたのでした。次第に雨脚が強くなった中を歩いて山の上で冷えてしまった身体が温まりました。この売店でブラックサイダーを飲んで美味しかったのでお土産に買いました。醤油と黒コショウが入ってピリッとした大人の味です。山の上から降りて行くときは霧雨で前が見えないほどでした。ホテルのチェックインの時間にはまだ余裕があったので、高岡方面へナビを入れてそちらへ。高岡市は元加賀藩の城下町です。(つづく)余談ですが、天皇陛下は学生時代に地理研究会の研修旅行で、相倉合掌造り集落へ来村し宿泊されたそうです。その折の事を1991年(平成3年)の宮中歌会始で「森」のお題で歌われました。また秋篠宮皇嗣殿下も学生時代に相倉へ来村し宿泊されたそうです。民宿で「私は、世界で三カ所好きなところがあります。その中の一つがこの五箇山なんですよ。」と仰ったそうです。また妃殿下とお二人で宿泊された際には、「九年前は一人で来ました。今回は二人で来ました。この次は子供を連れて来たいと思います。」とお話になられ、その後、実際に何度もご家族でお越しになったそうです。
2022年10月05日
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旅行中、持参したノートパソコンに写真が取り込めず、旅先から文章だけ載せましたが、帰宅して使い慣れたデスクトップに550枚の写真を取り込みましたので、これからまた振り出しに戻って走行距離570キロの富山の旅を振り返ります。9月28日(水)朝8時に自宅を出発。東海環状自動車道から東海北陸自動車道に乗り、北陸自動車道に入り、一路富山を目指しました。ところが、あいにくこの日はお天気が悪く霧が深くて山の上は雲海が広がってあまり遠くまで見渡せませんでした。途中2回の休憩をとりましたが、平日で雨も降り出し、お天気が悪いのでこの時間帯に車は少なかったです。最初に着いたのは菅沼合掌造り集落。この日、相方は腰と右足の痛みがひどく車から一歩も出ずに待っていてくれました。方向音痴の私は一人とぼとぼ山道を進み、集落を写真に撮りながらぐるっと散策してきたのでした。山道を歩いていくと左側に菅沼合掌造り集落が見えてきました。ここから集落の方へ降りていきました。すぐそばを庄川が流れています。庄川右岸に9棟の合掌造りを始め土蔵や板倉などの伝統的な建物と田畑が点在しています。江戸時代末期から明治時代に建造されたものが多く、古くは400年前のものもあります。両手を合わせ合掌している形に似ているのでこの名前が付いたと言われています。規模が小さいながらも、住民は生活してらっしゃいますので、民俗館だけでなく土産物店、喫茶店もありました。この集落は江戸時代、隔絶されていたので、今でも秘境の雰囲気が残っていました。↓ これはお手洗い豪雪に耐えられるように急こう配の茅葺で切妻屋根をしています。↑土産物店で民芸品を売ってました。↓菅沼合掌造り集落をぐるりと一周してきました。五箇山は富山県南部で岐阜県と隣接している南砺市内にありますが、5つの谷の間に集落があるので五箇山と呼ばれるようになりました。岐阜県の白川郷と比べるとこぢんまりとして静かです。江戸時代には養蚕や和紙製造が盛んでした。ユネスコの世界文化遺産に登録されているのは五箇山のうち、菅沼(すがぬま)と相倉(あいのくら)の2つの合掌造り集落だけですが、岐阜県の白川郷とともに1995年12月9日に登録されました。それでは次の目的地である相倉へ向かいましょう。(つづく)
2022年10月04日
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昨日朝食後、ホテルをチェックアウトして富山市民俗民芸村経由で山頂付近の呉羽山公園展望台へ行き、富山市街や立山連峰の眺望を楽しみました。そこには富岩水上ラインのガイドさんに聞いたお話しに出てきた佐伯有頼少年の像が建っていました。その後、富山市科学博物館へ向かいました。プラネタリウムの時間までは待てないのでマンモスやクジラの標本を見ながら館内を見学してもう十分満足できたので午前中で富山観光を終え、高速道路をスイスイ走り、途中ひるがの高原PAで昼食を済ませましたが、行きとは違いお天気も良く日曜日と言う事で観光客も多く、駐車場はほぼ満車でした。そしてもう1カ所、PAへ立ち寄り美味しい高原牛乳のソフトクリームを食べ、午後3時頃には自宅に到着できました。途中渋滞もなく快適なドライブでした。これで4泊5日の富山旅行を終えたのでした。走行距離は570キロ。前回天橋立に行った時は781キロでしたので210キロほど少なかったですが、特に運転手は神経を使って疲れたことと思います。お疲れさまでした。そしてご苦労様でした。帰ってから片づけものと洗濯をした途端、二人とも緊張がゆるんで夕方まで少しの間、熟睡しました。旅行中たくさん写真を撮ってきましたので、後日また写真付きの旅行記を載せたいと思います。自宅に帰ると、旅行中にブロ友の咲くや姫さんから地元の珍しい「れんこんめん」が届いていました。ごちそうさまです。優しいお心遣いに感謝します。PS) 自宅に戻って写真を取り込みました。
2022年10月03日
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9月も終わり10月になりました。昨日訪れたのは北前船廻船問屋「森家」とお隣の旧馬場家住宅です。岩瀬大町通りには多くの旧家が残っています。2軒の旧家を見学した後、旧馬場家住宅の米蔵を改装したコボブルーパブでビールを4種類試飲して昼前にいい気持ちになってしまいました。向かいの和菓子大塚屋で伝統を守り続ける三角どら焼きなど甘いものを色々と買いました。その後、富山港展望台まで歩いて101段の階段を上るのは少々つらかったです。富山湾の眺めは素晴らしかったですが。次に高志(こし)の国文学館を訪れました。富山県出身の小説家、漫画家、映画監督などが大勢紹介されていました。所蔵された本がたくさん展示されていました。その後、富山きときと空港へ直行。ここでランチを済ませ、お土産を買いました。飛行機が見たくて空港4階の展望デッキへ。しかし、飛行機は夕方しか来ないのでヘリコプターを3機見ただけです。しかし、望遠レンズを付けたカメラを持った人や三脚を立てたカメラマンがやけに多かったです。夜のニュースで自衛隊の救急医療の訓練をやっていたので、これが目当てだったのかもしれません。最後に富山市ガラス美術館へ行きました。繊細なガラス作品がたくさん展示されていました。フラッシュなしの撮影は許されましたが、それをSNSに載せることは禁止すると書いてありましたので残念ですが、写真を載せることはできません。いつもよりも遅くホテルに戻り午後8時過ぎに夕食に出かけました。土曜日の夜ということでどこのお店も満員。仕方なくお好み焼きと焼きそばを食べに行きましたが、両隣の若者たちの食べっぷりの良さと飲みっぷりの良さに呆気にとられて驚いてしまいました。PS) 自宅に戻って取り込んだ写真です。
2022年10月02日
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今日はホテルから近い所を車で回りました。はじめは路面電車に乗っていこうと思いましたが、電車を降りてから相方が歩くのが大変なので結局車で行くことにしました。最初に訪れたのは富山城址公園です。富山城址公園には富山城が建っていて堀や石垣などに当時の面影があり、中に入れば富山市郷土博物館があるのですが、あいにく休館日で残念でした。ここで気軽に声をかけてきた女性がいました。自転車に乗った明るい方でよく見るともうひとり男性がそばについてらっしゃいました。聞けば、観光ガイドの練習をしているんだとか。そこから少し歩いて松川遊覧船に乗って30分間の歴史クルーズをしてきました。するとまた先ほどの女性と男性のほかにもう一人女性が一緒に私たちの船に乗船されました。5人でクルーズをしましたが、どうも観光ガイドの勉強の一環のような感じでした。松川茶屋でおいしいパフェと抹茶を頂いてきました。茶店には滝廉太郎の写真、彫像、オルガンなどの展示がしてありました。滝廉太郎は「荒城の月」を作曲しましたね。その後、少し歩いて地上約70mの富山市役所の展望塔へ上って遠くの立山連峰や富山湾、市街地を一望してきました。次に車で富岩運河環水公園に行き、この日2回目の船、富岸水上ラインに乗って7キロの運河クルーズを70分体験してきました。中島閘門で最大水位佐2.5mの水のエレベーター、パナマ運河と同じ珍しい体験をしてきました。その後、富山県美術館へ行き遅いランチを食べ、開館5周年記念の「西洋絵画400年の旅」を鑑賞。歴史画、肖像画、風景画、静物画、その他東京富士美術館コレクション展を鑑賞してきました。屋上庭園、楽しい「オノマトペの屋上」では親子連れが遊んでいました。そして夕方ホテルに帰ったのでした。夜はまた富山駅に出かけて夕食。気持ちよくなってホテルに戻りました。PS) 昨夜落語の三遊亭円楽さんが亡くなられたことを知りましたが、実は作朝私たちの社交ダンスの大先生が亡くなられたことを知りました。以前毎朝散歩をされてた名古屋の大きな公園(鶴舞公園)の花の写真を毎日優しいお言葉を添えて数枚送ってくださってた方です。生前故郷に帰りたいと話されてた通り、今日お骨になってふるさと宮崎に帰られます。ご冥福をお祈りします。PS) 自宅に戻って取り込んだ写真です。
2022年10月01日
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