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「思考と直覚」直覚と信仰の言語定義(十二) 「思考」を踏み台として直覚へ至る思考方法を学ぶものにとって、言語定義を最初に学ぶことは思考過程に非常に重要となります。何故なら、信仰の教本や聖書・経文の類の中では「有無・虚実・始まりと終末・瞬間や永遠」等々の言葉が度々表れますが、少なくとも世界理法の真相を捉えることを目的にするならば、信仰上の言語定義と形而上の言語定義の違いを前提にしなければ、「直覚の顔相」を捉えることに誤謬が生じます。此処では先ず信仰上の「虚」を取り上げます。神教の教本には度々「虚」を人間が意識上に創りあげた神を虚の神として説いていますが、虚に相対するものは実、無に相対するものは有であり、宗教では虚を人間の思考が生んだ架空の作品ととっているようです。無の定義に関しては在りしものに対立する無窮の不存在と考えているように捉えます。対して「直覚」が捉える「虚」と「無」は「実相」の存在其のものが「虚相」に由来する、「虚相」も亦「実相」して在る。数学が虚数から結果を導くように虚は「無存在」ではなく結果を出す以上は「在るもの」として定義します。亦、「無」は「有」に相対するものですが「有」なきところに「無」は存在し得ず、亦、「無」なきところに「有」も存在し得ません。現代物理学が宇宙の法則のなかで「無」から「存在粒子」が産まれるとした理論は、「無」をも「在る」とする根拠にはなります。それ故に「思考と直覚」は「無である存在」乃至「虚である実在」を何れも「在るものである」と定義します。詰まるところ「無なきところに有なし」「虚なきところに実なし」、有無・虚実を離れての「完全体」などただ「空ろ」だと云えますが此のことを観相の仕方によりけりですが「空観」と捉え「理法」の根拠にすることも無謀だとも言えないことは承知して定義しています。
2014年12月30日
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「思考と直覚」直覚と信仰(十一) 仮に、「思考」を踏み台として直覚へ至る思考方法を学び、「直覚への期待」を膨らませ自己の内精神の深層に沈潜さすことがもどかしく、自己の問いへの答え即ち結果のみ求めるのであれば、其の人間は直覚へ至る思考方法を学ぶことも不必要であり、哲学的な問答を避ける事が出来ます。史上信仰される宗教はそれぞれに教義があり、出来上がった結論を付与してくれるからです。宗教はそれぞれに教義が異なっているにしても自己の教義を此れこそが「真理」だという結論を持っています。更には其の主張するところの説得的な論理を構成しています。しかし、其れ等も宗教においては補助的な要素に過ぎず、究極的には結果である真理を疑義を挟まず鵜呑みにすることが求められ、究極的には結果である真理を疑うことを許容することはあり得ません。其れ故、信じられる人間は幸いで疑問を挟む人間は罪深き者となりますが、自殺にさえ追い詰められた人間には、素朴に信じられれば最高の叡智であることは疑いを挟めない事実であり「其の人間」にとっては世界理法の真相とも捉えきれる強力なパワーを秘めていることは疑義を挟めない事実であり否定することはできえません。
2014年12月29日
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「閑話休題」一神教と直覚霊知(18)最終章 一神教であれ多神教であれ其の信仰の源は、人間の精神の不完全性が欲する人間精神の内奥に眠る霊性の叫びです。物質的で感覚的な世界法則に従った通常一般生活に於いては意識されることもないものが、物質的で感覚的な世界から自己に何らかの行動を起こすのに支障を被った時、感情の起伏によりて呼び覚ませる人間精神特有の内奥に眠る霊性の叫びです。其の求めるものが物質的で感覚的な世界には無い以上「信仰」に依らざるを得ない訳です。此のことは「信仰」が確信に至れば、直覚霊知の確信にも当て嵌まります。其の求める「確信」とは自己の精神にある言語を解すること、一切の我執を無くし無色透明にした内精神、自らの創造体である唯一無二の絶対の意識・精神・意思存在の「世界理法」の根源としての「有」を理解し同調する自己の精神、自己を全体の中に融け入らせる自己を離れたとはいえ存在を認識する自分、永遠無窮を確信をにまで高めた自分、一瞬無限に感応した自分、一の全体に感応した自分、一切の物質的で感覚的な世界に影響されない自分、最終的には自己の存在をさえ離れた「世界理法」の根源としての「有」を理解し同調したときに「直覚霊知」は「真の覚り」を手中にすることを得ます。人間が此の世に生を受けた以上此の認識を持つことも許されるでしょう。人気ブログランキングへ
2014年12月29日
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「閑話休題」一神教と直覚霊知(17) 一神教の数ある教えで、「神」を真実在の流れとしているものがあります。是丈は直覚霊知が「世界理法」の根源としての「有」を理解する限り合点がするわけにはいきません。そもそも「世界の造物主或いは在るもの全般の創造主」は光の根源であり時間及び空間に於いても其の創世者であるべき存在です。其処に人間の時間観念を持ち込むことは許されないことは自明の理でしょう。仮に「神の時間」を表現するとすれば「永遠の瞬間乃至世界法則を次元的に超えた流れのない完全体」と捉えるべきです。一神教は神を人間の次元で捉えるべきではないし捉え得るにしても其の教義の出処を吟味すべきです。神の実相を理解しようとするならば「神」とは唯一無二の絶対の意識・精神・意思存在の「世界理法」の根源としての「有」を理解し同調すること、「神」を真実在の流れとするのは「完全体」の不滅である絶対精神の様態の延長としての人間の霊性が持ち込んだものであることを理解し、解釈することが必要です。一神教の教えの中にたとえ人間が「完全体」の不滅である絶対精神の様態の延長として在るにしても神に単に従属する様態を「神」其のものに例えることは許されません。人気ブログランキングへ
2014年12月28日
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「閑話休題」一神教と直覚霊知(16) 一神教の数ある教えの中には、生命を捨てざれば命を得ずとして「神」の前に自己の全ての全身全霊である生命をも捧げ尽くすことを求め、神との出会いを説くものがあります。此のことは信仰する上では当然あるべき姿でしょう。信仰とは神の愛を受け入れるためには代償を支払うのを基とします。神の愛(アガペー)は人間の我欲・我執に離れたところにあるのですから信心するものは此のことを当然のように受け入れます。但し、生命を捧げ尽くすことを説くところの「預言」に偽、乃至誤謬が紛れ込むことがあれば、結果は悲惨なものになるでしょう。信仰に救いを求める人間は此のことを何時も念頭に置くことは間違いを犯さずにいるには必須のものとなります。「直覚霊知」に於いても其の危険性はあるにしても、自らの創造体である唯一無二の絶対の意識・精神・意思存在の「世界理法」の根源としての「有」を理解し同調することを基とすることから他からの影響を極力排除することは出来得ます。但し、「生命を捨てざれば命を得ず」の言辞は「直覚霊知」に於いても同様に唯一無二の絶対の意識・精神・意思存在の「世界理法」の根源としての「有」を理解し同調することを基とする限りにおいては同意します。然し乍ら、直覚霊知が「世界理法」の根源としての「有」を理解する限りには完全体が其れを要求することはありえません。其れを要求するのは「完全体」の不滅である絶対精神の様態の延長としての人間の霊性が持ち込んだもので、転生に対して不浄を業火で滅すということも人間側から捉えている視線ですが、直覚霊知は転生を観相するものですから前世の不浄や記憶が消滅しなければ再生が無いことは此処に敢えて述べておきます。人気ブログランキングへ
2014年12月27日
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「閑話休題」一神教と直覚霊知(15) 一部に一神教では人間存在として神に霊性を委託された限りには、自己の仮相物である神ではなく、教典説くところの虚でもなく偽でもない真相の神との一体化を訴えるものも見受けます。其れ故に自己の本性が神を出発としている限りにおいては、不可能を可能とする全知全能の模範に従って自己の本性を現実化せよと云います。其れが人間本心の本性だというわけなのでしょう。そこには一切の縛り縛られることのない自由自在な人間が全体への捧げ尽くす奉仕を通じて、自己の中に無限大の自由を獲得することが出来るといいます。求めることなく与え尽くす神の愛に自己も生きるのが一大循環していると現代の一神教が教える形象に融け入り其の愛に同化することを求心するのが真の愛に生きるのだと述べ、幸せを求めるには無条件に湧き上がる本心本性のの無為の声に耳を傾けろと説き、神ながらの無為・無欲・無我・無心・全託の生き方を薦めています。対して「直覚霊知」では創造体である唯一無二の絶対の意識・精神・意思存在の「世界理法」の根源としての「有」を理解し同調するに及んでは、人間精神の深層に眠る生前霊魂の独立性の意義とその「転生流転」を解読することを基とします。まして、創造意識すら不問とする完全体、善悪・醜美・無為・無我・愛欲等の全ての要素を網羅する存在が人間の霊性に同化することは有り得ないことですが、人間精神の深層に眠る霊魂が創造意識すら不問とする完全体に同調して感応することは否定しません。其のためには人間の死に切り方が一つの命題として課されることになるでしょう。人気ブログランキングへ
2014年12月26日
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「閑話休題」一神教と直覚霊知(14) 一神教は多神教を非難するときに其れ等が人間の感覚的で物質的な意識が、自然の荘厳さへの畏敬に対して意識的に創造した「虚」の神だと言います。然し乍ら、虚の相対するものは無ではありません。虚に相対するものは実相であり、人間の意識が捉えている限りにおいては感覚的で物質的な精神の深層で共鳴するところがあれば其の人間には実相として現出しているのであり一概に非難することは出来ません。其処に人間の欲望や野望等の恣意が作用しているときには「虚の神」というよりは人間自身の作為が生み出す「実相」に相対する「虚相」だとして偽神であると非難すべきでしょう。神の実相は人間の意識では捉えられない以上、其処に人間の恣意的な思考は持ち込むことは許されないと解釈できます。たとえ、感覚的で物質的な精神の深層で共鳴するところのものが其処に人間の欲望や野望等の恣意が作用していないならば、観音信仰に於けるが如く如何なる形姿を纏うことも否定することは出来ません。此のことは「直覚霊知」を修養する人間が意識的にしろ精神集中して内精神の深層にある霊性を追求するのに架空の形姿を纏わせたものを利用するのに相似しています。「直覚霊知」を修養する段階が高まったときに現出する霊性が如何なる形姿を纏わせたものであっても、たとえ「観音の形姿」であっても其れを否定することは許されません。其れより何より「観音(梵名アヴァローキテーシュヴァラ)」はava(遍く)+lokita(見る)+??vara(自在者)玄奘三蔵による訳では「観自在菩薩」です。即ち形姿は其の人間にはあらゆる形姿をとることが可能であり自在です。それ故に一概に偽神だと否定することは「直覚霊知」を志す人間は其れを誤謬だと決め付けることは慎まなければなりません。人気ブログランキングへ
2014年12月25日
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「閑話休題」一神教と直覚霊知(13) 一神教が説くように人間が神に何がしらの働きを仕掛けてとしても「無限」の創造体である神が人間個々の精神に「絶対創造主である存在」の言語的応答が得られないのは史上に現れたとされる真の預言者(神の言葉を解する云わば通訳)でない以上当然のことです。例えば、人間の胎児が母に話しかけても言葉としては答えが帰ってこない様に。其のことは胎盤に生きる胎児が母の使用する言葉を未だ知らないからです。だからと言って胎児が母親の喜怒哀楽を感知することは不可能事ではないでしょう。母親も自分が身籠った胎児には少なからず無関心であるとも言えません。然し乍ら、何億の卵を生む生物の親が其々の卵の意識を気にすることがないように、絶対創造主である存在が人間個々の意識に干渉して何らかの行動を起こすことはあり得ないことは言わずもがなです。それでも産み出された子は親を意識して成長します。此れが「直覚霊知」が捉える信仰の在り方だと云えますが、神に奇跡を委託する人間には拒否反応が起こるのも信仰故の常道であるでしょう。但し、生命取り分け人間精神が神の様態の延長としてある限りにおいては、自己の意識・精神・意思存在が創造体である唯一無二の絶対の意識・精神・意思存在の「世界理法」の根源としての「有」を理解し同調するに及んでは、人間精神の深層に眠る霊魂の意義と「不生不死」を解読出来る可能性も無しにしも非ずとはいえます。人気ブログランキングへ
2014年12月24日
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「思考と直覚」直覚への期待(十) 人間が人生を送る中で、自らの思考を深めて、人生について或いは自分自身がいかに生きるべきかについてなにものかを得たいと求めて哲学や信仰を探求することは一般的に考えても数多くいるはずです。然し乍ら、好奇心だけで此等のことを学び始めても人間は大抵の場合挫折することが多い。何故かと言えば、哲学も信仰も思考することではなく「信念」を求めているからです。だが、信念とは思考を巡らすだけでは答えを与えてくれません。ましてや、自己が人間として生命を懐き何処に行き着くのかの答えなどは思考を巡らすだけでは到底行き着くことの出来ない課題となるでしょう。思考を巡らすだけでは、生命の起源は何か、大宇宙内の空間は何に満たされ其の粒子は何なのかというような科学によっては答えられるべき問題でないのは現時の段階では明らかです。先例にある如く多くの才ある若者が哲学にも信仰にも答えを見つけ出す事が出来なく夭折しています。それが世界理法としての万有の真相であるものを「思考」のみで解決することの困難さを示しています。宗教はいざ知らず哲学だけでは人間の行き着くところ、ましてや、人生の予め出来上がった答えは用意はしていないからです。此処に思考を離れた存在としての「直覚への期待」が膨らみ、答えを見つけ出す可能性を秘めていることに気付かされることになります。
2014年12月23日
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「閑話休題」一神教と直覚霊知(12) 一般には何(いず)れの一神教も神を「一の全体」と説きます。此のことは「直覚霊知」が究極的に捉えんとする「世界理法」の根源としての「有」にも当て嵌まります。真の神或いは絶対存在は独孤としてあり、人間の精神内に起こるような対立や差別が完全体としてあるので起きようがありません。しかし、一神教が神を自由自在な存在として其の行動や行為を為すことを前提にしているのに対して、「直覚霊知」が究極的に捉えんとする「世界理法」の根源としての「有」では「一の全体」としての絶対存在である完全体には因もなければ果もないことから自由其のものの概念を必要としないし、あり得ないことです。不完全なものにこそ自由への願望や必要性があり、其れ故人間には「束縛からの解放」としての自由が求められ尊重されるのです。一部の一神教のような人間に束縛制限をはたす神を唯一無二の絶対存在と捉えるならば、神から人間に何かの働きがけをするとは考え難い。人間が其の意識にある精神の解放を求めるにしても神に対しては何の働きがけもないことでしょう。但し、人間が有であり創造体である唯一無二の絶対の意識・精神・意思存在の様態の延長としてある限りのものとして、世界理法の深層にある愛や自由を知り其れに従うことが「世界内存在」の絶対の意識・精神・意思に同調して自己の内に自由や愛を手の内にすることになります。仏教哲学の祖シッダルタが言うところの「涅槃」を生前に獲得していることからも鑑みて永世の霊魂の安らぎを得ることは可能事なのです。人気ブログランキングへ
2014年12月22日
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「閑話休題」一神教と直覚霊知(11) 通常一般的には何(いず)れの一神教も神を表象するのに「神の無限」の重層即ち螺旋構造や入れ子構造を説きます。然し乍ら、「無限」とは感覚的には「限界を持たない」というだけの単純に理解できそうな概念であるが、一方では有限な世界しか知りえないと思われる人間にとっては、無限というものが一体どういうことであるのかを厳密に理解することは非常に難しい問題を含んでいる。ただ有限の対比の無限、例えば循環ならば無限の循環を想像できますが、其処には運動原理や時間要素を持ち込まなくてはなりません。一神教が真に神の無限の重層を絶対比較対象にするもののない完全存在と捉えるならば「無限」は神にとっての完全体としての不完全性を意味します。無限とは有限が在る処にのみ存在するのであって絶対存在の完全性からは有限及び無限を含有するものにしても其のことに絶離するものに人間の身勝手さが慮る外感覚的で物質的な形姿を超えた「有」であるものを唯一無二の絶対の意識・精神・意思存在に人間性を加味したものであるといえます。其れ故「世界理法」の根源としての「有」には「無」なきが故に有限の反語である「無限」は存在しえません。絶対存在其のものが有であり「無限」と「有限」の創造体であり唯一無二の絶対の意識・精神・意思存在だからです。人気ブログランキングへ
2014年12月21日
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「閑話休題」一神教と直覚霊知(10) 一神教にあって興味深いのは、八百万の神々を信仰する中にあって、天照大御神を全ての光の根源、存在を産みだした与え尽くす光源として捉える日本独自ともいえる神道の史的理解の変遷です。此処では神の付与の意思と精神の根元を天照大御神として全ての光(存在の根元)を旧教云うところのヤーウェ(Yahweh)、旧約聖書におけるイスラエル民族の神。天地万物の創造者、宇宙の支配者、人類の救済者で、唯一絶対の神エホバ的な存在として近似の神と解き明かしています。旧教(ヘブライ教)の内容には大天使やサタンをも創造者ヤーウェの産物ですから、日本の八百万の神々を創造したのが天照大御神だとして、道祖神等を別として同様に捉えれば一神教だとも言えなくもありません。然し乍ら、何れにしても創造神に人間が愛を注ぎ込ぎこんだ報いを求めるのは「信仰」の信仰たる所以に帰します。「直覚霊知」が究極的に捉えんとする「世界理法」の根源としての「有」である唯一無二の絶対の意識・精神・意思存在は自らの存在其のものは認識すればこそ此処の人間の意識内容に関心があろう筈もなく、ましてや其の絶対意識に報償論が入り込む余地は無いのですが、人間が絶対存在の様態の延長としての存在、内精神に深層にある霊性は「絶対意識」に触れることに自己存在の有り様を求め其の理法に従えば、自ら沸き起こる存在への目覚めが「愛」を呼び起こして至福の世界をもたらしてくれることは否定できません。但し、全ては人間からの能動の霊性から起こるものであって世界理法」の根源としての「有」である唯一無二の絶対の意識・精神・意思存在が人間に働きがけていることではないことも認識すべきです。人気ブログランキングへ
2014年12月20日
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「閑話休題」一神教と直覚霊知(9) 現代的に再構築された一神教が対象として捉えている「神」が、絶対存在的な精神面から捕らえて神の意思が向かう方向性は絶えず順流として循環していると説いています。時間観念はともかくも「神の徳性」は「与える心」であって、神に何かの報償を求めるのは人間の身勝手さが成さしめるものであり、真実の神の恩恵である人間の本性に立ち返って神の付与の意思と精神を理解し、与える心と人間存在の本源的な真実の心を持つ事こそが神の助けにあづかる秘訣であると述べます。此の考えを「直覚霊知」を修養する人間は、世界の根源としての「有」である意識・精神・意思を唯一無二の「世界理法」は、決して何かの報償を人間が求めても「世界理法」としての「絶対有」が答えてくれる筈もないことは承知しておくべきです。其れは人間が「世界理法」としての「絶対有」の根源の意思である性状を全く知らないからを知らないことからくる誤謬です。世界存在の「一の全体」としての根元有は当然に宇宙存在にある一切のものを認識していますが、其れは人間が考察するような外感覚を持ち込むような認識ではなく自らの存在を認識することすら認識しない「完全なる認識体」と云えます。其れ故、人間は「存在有」の様態の延長としてある限りの自己の認識が「絶対有」に帰すことを認識し、其の生命や精神の宿ることを深く心に刻みつけ、内精神に深層にある霊性を鑑み自己の愛を「絶対有」に帰すことで満たす事こそが「歓喜(カンギ)」となります。人気ブログランキングへ
2014年12月19日
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「閑話休題」一神教と直覚霊知(8) 現代において一神教が対象として捉えている「神」は「唯一の絶対神」と説き、外感覚的で物質的な世界から人間が発展成長させた言葉、人間の創造した言語が齎した諸々の神は「無」を超えた偽り「虚」と説いています。人間が其の外覚的意識にある言葉を持って創造して自己本位に信じ自己本位に鵜呑みにしている神だといいます。まさに其れは言葉が持つ虚像の神であって「無存在そのもの」だというのです。人間が其の意識にある頭にある言葉の中で創造し、自然法則を神に則し、神罰や救済、対立や差別を神性に持ち込み、更には多神教に至っては虚の極みだと言い、前世や現生及び後生は神にあっては虚ろいであって、其れが如何に巧みに言色されていても「虚神」だと断言しています。此の根本原理には完璧な「一の全体」を直覚する「直覚霊知」においても当て嵌まります。但し、人間に「世界存在」が与えせしめた前世や現生及び後生の理法までをも否定するものでないことは「直覚霊知」を修養する人間には重要な認識要素であることは心していることが必要となります。人気ブログランキングへ
2014年12月18日
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「閑話休題」一神教と直覚霊知(7) 現代的な解釈では、信仰が対象として捉えている「神」を捉えて、絶対神を信仰する立場から、神を称して全体と部分、部分と部分を切り分けて区別することが出来る事など絶対に不可能な、無限の重層及び入れ子の構造、無限の螺旋構造、無限の循環構造を説いています。即ち完璧な「一の全体」を表現かしていますが、其処に「運動概念」を取り入れているのは人間の観想概念であって実相を表現しているとは思えません。其れ等は大宇宙の法則ではあっても、其の法則に一切の影響を受け得ない、世界の創造の根源の要素に対する過小評価としか捉え切れません。旧教(ユダヤ教)の説くが如く「光あれ」の存在は其れ等の法則から離れた存在であり、常に世界と同化してはいても「人間的な認識を離れ」認識することさえ不要な存在であると「直覚霊知」が囁きます。真の絶対存在とは世界の法則からは離れた存在であり而も其の法則そのものの様態であると云えるのが創造の極みである筈でしょう。絶対意識には「自己認識」すら必要性を認めないほど完全性が備わっているのです。但し、人間が其の意識にある真相に目覚めて感応し、人間の最高の喜びである「愛」に触れることは可能です。人気ブログランキングへ
2014年12月17日
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「閑話休題」一神教と直覚霊知(6) 信仰が対象として捉えている「神」の概念では、相対の概念を持ち込むことは許されない。現代科学が宇宙内に捉える或る物質存在が無に帰すことがあるなどは相対の概念であり、唯一無二の絶対創造の神の概念にはあり得ないとしています。比較上の差別・分別を実体の無い「虚」と捉えるのです。「無と有」さえ相対的なものから産み出された幻想であり「虚実」だという訳です。此れは大乗仏教の祖である龍樹(ナーガールジュナ)の哲学にも相通ずる考えです。相対とは或る因が有っていなければ浮上せず、その果は因に相対してのみ存在するとした考察です。此の虚実主義を信仰に持ち込むことは非常な危険性を秘めています。「虚無」を世界全体の理法に持ち込むこと自体「虚」を「実有」にさえ当て嵌めかねないからです。「虚」は「空」でもなく「無」でさえない虚空無縁の架空に想定された実体を伴わない將に人間の悲嘆感が産みだした幻想だと言えます。「虚」は「空」でもなく「無」でもない虚空無縁の架空に想定された実体を伴わない將に人間の悲嘆感が産みだした幻想の賜物です。「虚」は「直覚霊知」が探求するところの「世界理法」の根源である「絶対有」から見れば將に無きところの存在です。無きところの存在とは人間の悲嘆を顕す語彙だとも言えます。人気ブログランキングへ
2014年12月16日
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「閑話休題」一神教と直覚霊知(4) 信仰が対象として捉えている「神」の概念に、「真実の神」には正邪・善悪・高位低位・真と偽・光と闇・生と死・整合性の不調和が存在することはあり得ず、無限の「全徳」の光輝に包まれ、正・善・高貴・真・光・生・整合性の調和だけが一大循環していると説くものも見受けられますが、其れ故対抗するものとしての世界に邪・悪・低位・偽・闇・死・整合性の不調和は神とは別の存在が齎しているとでも解釈しているのでしょうが、宇宙の法則さえを超える存在、全能なるものに欠けているものがあること自体を認めることは不条理です。ましてや、無限の存在が一大循環していると述べるのは「全能の神」らしからぬ人間感覚的な転生を持ち込み「神性」に誤謬を犯させかねません。絶対なる全体存在の「有」を認証するならば邪・悪・低位・偽・闇・死・整合性の不調和さえも神には或いは直覚霊知が探求するところの「世界理法」の根源である「絶対有」には当然に有っていなければなく欠損は許されません。「全徳」の光輝が絶対意識ならば其のことの克服を条件として人間に与えせしめ人間に至福を用意している。言い換えれば、人間自身が何処に向かわなければいけないかの目的意識も直覚霊知を探求すればあながち観相することも無謀だとも言えないでしょう。人気ブログランキングへ
2014年12月15日
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「閑話休題」一神教と直覚霊知(3) 直覚霊知が探求するところの「世界理法」の根源である「絶対有」とは、一切の原因即ち相対するものがなく全体其のものだということです。仮に相対するモノがあるとすれば其のモノも絶対意思・絶対意識・絶対精神から出ていることになり不合理です。此れを絶対神への信仰面から一般には一切の対立がないと表現しています。相対の両端に分かれて対立するのは人間の思い込みによって想像された虚像だというわけです。正邪・善悪・高位低位・真と偽・光と闇・生と死・整合性の不調和は全てが人間の想像の産物であり、此れを無から産まれ無に帰る「実相無き虚」と捉えていることになります。「真の神」は尽きない無限のモノの「一大循環」だと表現していますが如何なものでしょう。一神教の求める神が、誕生という始まりがなく、死滅という終わりがない存在として、永遠不滅で永久無窮の実在であるならば「一大循環」などという次元的制約の表現は表現は矛盾します。一神教の捉える神にしろ、直覚霊知が探求するところの「世界理法」の根源である「絶対有」も次元を持ち込んだ「循環」という表現は不適切であることは言わずもないことです。人気ブログランキングへ
2014年12月14日
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「閑話休題」一神教と直覚霊知(2) 一神教の求める神が唯一無二であって他者の存在を認めないのは、他に因を求めなし他からの干渉を一切受けない根源の要素だからです。それ故に「時間」や「空間」といった三次元的なもの四次元的なものからは隔絶された「一の存在」です。此のことは「直覚霊知」が探求するところの「世界理法」の根源である「絶対有」言い換えれば、絶対意思・絶対意識・絶対精神を持つ存在にも当て嵌まります。其のことから導かれる答えは、当然に「不朽」であるのですが、一神教の求める神の立場からは、「誕生という始まりがなく、死滅という終わりがない存在」として、たぶんに求める神に人間様態の生命の観点を持ち込み、時間的・次元的制限を受ける人間の行き着く限界からは「永遠不滅で永久無窮の実在」を持ち込ませます。しかし、「直覚霊知」が探求するところの「世界理法」の根源である「絶対有」は絶対意思・絶対意識・絶対精神を持つ「世界理法」の根源なわけですから「誕生という始まりがなく、死滅という終わり」をあらしめ、また時間的・次元的制限を世界に負わしめるのも絶対意思・絶対意識・絶対精神から出ている絶対認識(人間の認識と違い、完全体として認識すらあり得ない)なのですから人間の世界観を「絶対有」に当て嵌めようとすること自体に無理があります。人気ブログランキングへ
2014年12月13日
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「閑話休題」一神教と直覚霊知(1) 世界或いは其の根源の存在を、信仰のモデルとして「一神教における神」と直覚霊知が捉えんとする「究極の理法の存在」を項目ごとに比較検討することが、信仰が対象としている「神」と直覚霊知が捉えんとする「有」としての存在の互いの違いが解釈的に容易になると思えるので以降に掲げておきます。最初に掲げられる第一の命題は、根源的要素として一神教の求める神が唯一無二であって他者の存在を認めない。真の存在即ち宇宙内外であれ独在していると主張していることです。此のことは「直覚霊知」の探求の目的とするのが「一切の原因」に由来しない世界の根源としての「有」である意識・精神・意思を唯一無二の「世界理法」と捉えることと、此の面では相似していることを顕しています。人気ブログランキングへ
2014年12月12日
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「思考と直覚」直覚の顔相の別面(九) 人間の思考が孤立してあると考えるのは誤謬でしょう。本来的に人間は自然との結び付きなしには自然観は生じないし、母から産まれないで人間独孤で誕生しない限り社会からの影響は拒みきれないし社会観も生じません。世界は此れは此れ、あれはあれと独立してあるのではなく、あらゆる事柄が統一的に、言い換えれば、自然も社会をも含めた世界を全体として統一されたところに「思考」が成り立っていることになります。此の根本原理に従って考察するのが学問の根本ともされ、ときには探求の浮沈が生じてきた哲学です。対して其の「思考」の成り立ちを踏まえて、自らを其れ等の自然観や社会観から影響をあたえるようなものを排除して自己の内精神の深層に踏み込み自己の霊性を鑑みて其処から世界の絶対意識に耳を傾け其の創造に由来する世界理法の真相に迫ろうとするのが「直覚の顔相」の別面と捉えることは困難があるにしても先人の例がある限りは可能な筈です。
2014年12月11日
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「思考と直覚」直覚の顔相(八) 通常生活一般にあって、人間の顔の表情は自分が鏡面に対している時、対者のいるとき、それぞれに表情は様々に変化しています。顔というものは対手によって喜怒哀楽様々な表現をします。其れならば、「直覚」はどの様な対手に向かっているのかが重要です。世にある学問は何らかの意味で人間の通常生活に関わってきますが、「直覚」は人間の生活というよりは人間自身が宇宙内世界である地球に何のために生成され何処に行き着くのかということに関わっています。直覚の顔相の一は、人間の人生に向かった自分自身の鏡像です。人生とは何か、自分の人生は生きるに価するものであるのか、はたまた無駄なもので破棄していいものなのか、否、人生とは面白可笑しく生きればそれでいい、それとも、人間として生まれる限りは何らかの目的があり其れに捧げられた人生のみが真実の人生であろうかに対して、一連の思考過程に答えを持っています。但し、物理化学における素粒子の構造の問いに答えるようには「絶対存在」の様態の延長であるかぎりの人間には「問い=答え」は望みえません。だとしても「絶対存在」の様態の延長であるかぎりにおいて其の意識に同調することは人間が持つ言葉の中に或いは内精神の深層に眠る霊性に求めることによって、其の真相を「直覚」によって探求することは不可能事ではないはずです。
2014年12月09日
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「思考と直覚」直覚とは何か(七) 私こと世界理法の真実だと結論付ける程ではないにせよ内精神の深層では感応しているものはありますが、私事の「直覚」の結論付けを聞かされても、人間それぞれに思考法も異なれば、内精神の深層に眠る霊性も異なっています。其れ故、自己の内精神に捉えた「直覚」の結論付けを説明しても、此れから「直覚」への志を持つ人間には不適切に考えます。何故なら「直覚」は思考で捉えるものではなく、思考を通しての方法論的発展の先に存在するからです。私同様の「直覚」の結論付けについて同様の体験をした人間ならば朧気ながら賛同してくれるでしょうが、多くの人は多種多様の直覚への道程がある別の見解を見て其のような筈はないと思うかの何れかでしょう。そこで直覚知に至る多種多様の道程に至る思考法が重要視され結論付ける程ではないにせよ、其の道程が説明できれば「直覚知」其のものではなくても其の意味するもの、其の定義付けを解って貰えることにはなるでしょう。
2014年12月08日
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「思考と直覚」直覚とは何か(六) 直覚とは何かという問いは、今日に置ける段階に至っても、専門分野の違いもあって、決定的な答えが用意されていないことから、宗教を含む専門分野によって多種多様な側面からの語られ方がなされます。歴史的な美術館へいくと神像ひとつ捉えてみても多種多様で「同一の神」でさえ幾つもの顔を持っていますが、それと同様に同じ語彙であるはずの「直覚」も同一には呼称されていても其の内容は千差万別で統一されていないのが現状です。先史の達人が自己の探求を通して、此れこそが「直覚」であり世界理法の真実だと主張し、他の達人が別面から新たな世界理法の真実を主張することは歴史が示しています。勿論のこと、著者自身も此れこそが「直覚」であり世界理法の真実だと結論付ける程ではないにせよ内精神の深層では感応しているものはあります。そうでなければ、「直覚とは何か」の問いに答える以上、説明のしようがなく、更には自分の納得したものが披瀝できないことになります。
2014年12月08日
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「思考と直覚」直覚とは何か(五) 今取り上げているのは宗教的意味合いを持った直覚、先達の達人を否定することが許されない「サトリ」ではないのですから、先人が論理的に積み上げ後代に伝えた答えには満足しないで、新たに自らに其の問いを発し、其の問いを自らに課し、自らの探求によって「直覚知」を求めることが、現代に至るまで繰り返し行われてきました。其のような先人の思考努力の結果、「直覚」は其の長い歴史的発展過程ので、次次に人間の新しい局面を切り開き、其の思考過程も明らかになり、豊かに深くなってきています。それ故に、「直覚とは何か」という問いは、今日に置ける段階に至っても、専門分野の違いもあって、決定的な答えが用意されておらず、各自が各々の思考法から内精神の深層を探求し続け、其の思考を離れたところの存在を見つけなければなりません。
2014年12月07日
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「思考と直覚」直覚とは何か(四) 宗教的な色彩を帯びないで論理学的に直覚を追うには「瞑想」による自己を虚しうしたところによる「空観」ではなく、何故そういうことが起こるのか、なにゆえ人間に其のような思考が必要とされるのか物事の前提そのまた前提へ更に遡ることが必要となり、中途半端なところでの妥協は許されません。此の事こそが究極の論拠であり、世界理法に照らし合わせて誰もが疑問を差し挟めない段階に達するまで自己の思考を追求し続け、内精神の深層を探求し続けなければ、所謂、世界の不朽の絶対存在及び絶対意思や絶対意識更には絶対愛を「直覚」を通して自己の内精神が捉える「直覚知」にまみえることはありえません。然し乍ら、いにしえの達人が自分自身の探求を通して、此れこそが究極の真理として結論付けたものも、後世紀には別の達人が覆すことは歴史を見ても解ります。其れ故、究極の論拠を求めた結論を更に掘り崩して、更に深い根拠を求める作業が史上繰り返し行われ現在に至るも尚行われることになります。
2014年12月06日
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「思考と直覚」直覚とは何か(三) 論理学的に直覚を追うには哲学的な思考を巡らさなければ、修練を積み心を「空」にすることの解釈の論拠に立ち位置が見付からず困ることになります。小乗仏教からは偽経と呼称される「大乗仏教」も初期段階では始祖とされる龍樹は、宗教というよりはシッダルタを正覚者として認識し自己の哲学の先達として捉えています。其れ故ナーガールジュナの思想は「仏教哲学」というよりは釈尊の認識論を追求した哲学者であるとしても誤謬ではないでしょう。とはいえ、ここで課題となるのが「哲学」の語彙です。哲学は何かという問いは通常生活を送る人間のみならず、史上の大哲学者さえ繰り返し発してきたし現在にあっても自分自身に向かって此の問を発し続けています。何故そういうことが起こるのか、なにゆえ人間に其のような思考が必要とされるのか物事の根本へ更に根本へと遡るにしたっがって、内精神に眠る深層の根底に達し、霊的性格を伴う「直覚」を得て、其処から自らの体系を築くものであるといえます。
2014年12月05日
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「思考と直覚」直覚とは何か(二) どの様な言葉であれ言語には其の語彙があります。其の言語を初めて聞く人間は、まず、其の言語の意味する定義或いはどの様な分野かの説明を求めます。思考は、心の中で自発的につくられた観念が、時間の経過とともにそれぞれが連鎖し変遷する「心的過程」のひとつと言うことが出来、人間は常に何かを思考していると言えます。人間は、一旦眼にしたものを言語化して記憶し、それを後に記憶から取り出して別な体験からそれを関連付けることができます。それは経験に裏打ちされた過去の情報にも当て嵌まります。このような後天的な学習で得た情報を使ってなにかしらを判断することが思考であり、これは人間のみが獲得した特質と言えるのですが、其れとは全く対角に位置しているのが論理学でいうところの「直覚」です。直覚とは逆に思考をしないために特別な修練を積み心を「空」にするところに位置している「何か」です。それゆえ、思考とは「何か」は分類学上多種多様な説明が可能です。しかし、修練を積み心を「空」にするところに位置している「何か」を説明することは「直覚」を得るための方法論的な説明は可能ですが、霊的性格を伴う「直覚」を定義するには非常な困難が待ち構えています。
2014年12月03日
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「思考と直覚」直覚とは何か(一) 誰か或る人が「直覚」とは何かと問う場合、其の人間は既に曖昧であろうとなかろうと、たぶんに宗教的にしても「哲学の道」に足を踏み入れようとしています。ところが此の「哲学の道」が各人各様捉えどころのない道であって人間夫々の感性によって多肢多様に枝分かれしています。或る人間は「直覚」とは「神性」に感応するものと考えます。他の人間は仏教哲学的な精神修養から生み出される「観相」だとも捉えます。否、唯物論や社会主義からも其れが否定的であっても実証が可能である、はたまた、社会科学や自然科学からにおいても深く学ぶのには「直覚」は必須のものであることは認証します。「直覚」をもう少し噛み砕いて言えば、通常生活における天的な閃き又は霊感と捉えても全然間違っているとも言えません。実際のところ「直覚」は「思考」とは対辺にあり、思考なきところにこそ存在する。思考の働きが存在しない意識の空白に浮かぶ無意識の目覚め、仏教云うところの「空観」に依拠していることを顕しています。
2014年12月03日
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「思考と直覚」思考とは何か(三) 人に「思考とは何か」の問いに答えること自体が既に問題対処法を立ち上げる心の経過や其の操作である「思考」を用いています。人々が誰かに何ごとかを問うのは、自己の疑問を問うのですが、其れは全く知らないから問うのではない。全く知らなければ其の物事を問える筈もありません。其の物事に問うてみようとする気持ちがある限り当人も思考を働かせています。曖昧だが知っている疑問を自分の思考では明らかでない事柄の究明を求めているのです。そこで問うた人間が解ったと思えるのは、自分が予め持っていた「知識」と思考が合致したときです。其れ故、思考を持って説明する側から言えば、問うている人の持っている知識の程度に合わせて、其れを展開し、足らぬところを補い、深め、高めれば分からせることが出来ます。ところが「直覚」は思考とは違い人間の内的精神が対象とする心象・観念・概念の霊性的な結果であり「知識と思考」からは離れた存在です。云わば自己自身の内的な素養や霊性であり其れに至る「思考法」即ち思考を離れた境涯への「思考」なき思考「霊魂の囁き」を知る経緯を示すしか方策はありません。
2014年12月02日
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「思考と直覚」思考とは何か(二) 人に「思考とは何か」と問われて、其れに短い言葉では言い表せないもどかしさに気付かされます。思考(Thinking)は辞書的には考えや思いを巡らせる行動であり、結論を導き出すなど何かしら一定の状態に達しようとする過程において、筋道や方法など模索する精神の活動だとされています。一般的には人間だけが持つ言葉の内的作用によって、推理し概念及び判断を行うこととされています。亦、神学的には神の思惟の延長にある限りとしての心の働きとされることもありますが、ここでは、「直覚」に対比するものとしての「思考」を論理的側面から、心理学的な定義である「思考」を思想や問題対処法を立ち上げる心の経過や其の操作、即ち、人間の内的精神が対象とする心象・観念・概念の現象への対処法を基底として「思考」を捉えています。
2014年12月01日
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