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「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言うことについて、従来の通説とはまったく違う推論によって解決をはかる為に、4月11日には、現状の通説と反論の状況を調べて検討して、邪馬台国はどこにあったのか?(その84)「邪馬壹國」が正しいのか?「邪馬臺國」が正しいのか?その1魏志倭人伝に書かれた不彌国と一大國(壱岐)の規模を示す戸数の単位が、伊都国などが「戸」であるのに対して「家」であることから、それは不彌国等が渡来人が多く住む国で、住居が伊都国などと違い中国式であり、神功皇后のお産を助けた医師がいたり、奴国だとされる須玖岡本遺跡で発掘された青銅鏡などの製造の技術指導を行った技術者たちが、ここに住んでいたので、区別する目的で用語を使い分けたのではないかと書いた。そして4月12日には、実は倭国の人達は現代の人達が考えるよりもはるかに上手に漢字を使う人達で、(恐らくは魏志倭人伝や後漢書でほのめかしているように中国から渡って来た渡来人で)中国の漢字の読みに地域や時代により「上古音」や「漢音」及び「呉音」があるように、倭国独特の漢字の読みがあり、また、倭国には中国の使者が常駐するくらい交流が深かったのだから、(外交とは一方通行ではなく双方向であるはずなので)倭人も相当数中国に渡っており、魏志倭人伝を編纂した陳寿や後漢書倭伝を書いた范曄は、不確かな言い伝えではなく、それらの倭人を呼んで、聞きながら倭国の様子を書いたのだと書いた。(魏志倭人伝は不彌國までは中国の使者の復命書(出張報告書)を元に書いており正確なのに、 投馬國と邪馬台国は測量技術を持たない倭人に聞いて書いたので、 方角と距離を書いた不彌國までとは違い、日数で書かざるを得なかった。)邪馬台国はどこにあったのか?(その85)「邪馬壹國」が正しいのか?「邪馬臺國」が正しいのか?その2ただ、上記の仮説が成立するには、「倭音(僕の作った仮称)」が流通するほど人数がいないと、小人数では成立しない。それを今日は検討する。その前に本当にそんなことが有るのだろうかと思う人の為に、古来から日本には漢字を使いながら、中国人にはまずそうは読めない読み方が多いことを示す。それは固有名詞(特に地名や人名)に多い。陳寿に自分の国を漢字で書いてみせた倭人が書いた「邪馬壹國」=「やまと國」と同じである。例えば、「飛鳥」は中国人には全く「あすか」とは読めない。でも既に奈良時代にはこの読みが成立しており、急には普及するはずが無いので発生はもっと前?他にも斑鳩(いかるが)や隼人(はやと)なんかもそうである。「隼」=(はやぶさ)は訓読みである。古事記を読むともっとぞろぞろ出てくる。古事記は漢字を使っているけれども、漢文とは少し違う。歌なんかは万葉仮名を使う。「久羅下」を「くらげ」と読める中国人はいないと思う。こう言う文化は10年や20年でできるものではない。なので、倭人は神代文字を持たなかったのではなく、漢字を使えるので必要なかったのである。ただ、小人数では世の中には普及しない。ある程度の人数が共通認識をもって使う必要がある。なので、倭国には相当数の渡来人が居て、彼らは倭人の言葉を漢字で表す必要性から、こんな使い方、「倭音」を発明したのだと思う。その結果、「邪馬壹國」=「やまと國」と言う使い方が生まれたのである。じゃぁそんなにたくさんの渡来人が倭国に居たのか?記紀神話に証拠が載っている。「天津神」である。いやあれは神話ではと言う人は、頭が固い。「天」の反対語は「地」である。だから「天津神」の反対は「地」が付くはずなのに、実際は「国津神」である。ならば、天津神とは渡来人で、国津神とは倭人だと考えるのは自然な話であり、僕が勝手に思いついたものではなく、過去には偉い先生方も同じように考えている。それをちょっと調べてみた。 「天津神=渡来人」説は、近代以降の日本思想史の中で何度も登場してきたテーマで、学者・思想家・民俗学者・宗教家など、立場の異なる人々がそれぞれの理由で主張してきた。ここでは、代表的な人物とその論の特徴を体系的にまとめる。天津神=渡来人説を唱えた主な人物とその背景1.白鳥庫吉(しらとり くらきち)時期:明治〜昭和初期の東洋史学者主張の要点:(1)記紀神話の天津神は「外来の支配者層」を象徴すると考えた。(2)特に天孫降臨は、北方系(ツングース系)民族の南下・渡来を神話化したものと解釈。(3)天皇家の起源を「北方騎馬民族」と結びつける先駆的な議論を展開。白鳥は学術的に慎重な人物でしたが、天津神を「純粋な日本土着神」とは見なさず、外来文化の影響を強調した点で重要です。 2.江上波夫(えがみ なみお) ―騎馬民族征服王朝説時期:戦後の東洋史学者主張の要点:(1)5世紀頃、北方騎馬民族が日本列島に渡来し、支配層となったとする説。(2)記紀神話の天津神・天孫降臨は、この征服王朝の到来を神話化したものと解釈。(3)天皇家のルーツを外来のエリート層に求めた。江上説は現在では支持が減っていますが、「天津神=渡来支配層」というイメージを広めた点で非常に影響力がありました。 3.折口信夫(おりくち しのぶ) ―民俗学的アプローチ主張の要点:(1)天津神は「まれびと(客人神)」の系譜に属し、外部から来訪する神として理解できる。(2)これは必ずしも「渡来人=外国人」という意味ではないが、 “外から来る存在”としての天津神像を強調した。折口は民族移動よりも「神の来訪」という宗教的構造に注目したタイプ。 4.梅原猛(うめはら たけし) ―日本文化の外来性を強調主張の要点:(1)日本神話には大陸文化の影響が強く、天津神はその象徴。(2)特に天孫降臨は、大陸系の支配者層の到来を反映した可能性があるとした。梅原は大胆な仮説を多く提示した思想家で、学界の定説とは距離がありますが、天津神外来説を一般読者に広めた功績は大きい。5.古代史研究の一部(民間学者・新古代史系)「天孫族=渡来系」「国津神=縄文系」という二元論を唱える人々が多い。例:天孫族=朝鮮半島南部からの渡来人 国津神=縄文的土着勢力これは学術的には慎重に扱われますが、民間研究では根強い人気があります。つまり記紀神話における「天津神」を渡来人だと考えている人は多い。そして僕はもっと奇抜な説を思いついてしまった。ただ、これはあくまでも「思いつき」なので根拠は全くなく、ほぼ眉唾なので注意。でも、面白いので読んで欲しい。記紀神話には「国譲り」、「天孫降臨」、「神武東征」と日本成立までの流れを書いているが、この順番はどう考えてもおかしい。島根で国を譲ってもらったのに、わざわざ宮崎に天から下りて来て、あげくの果てに、その宮崎から奈良に向かって進軍して、奈良に都を開いて日本ができる。何でそうなるの?順番間違ってない?島根で国を譲ってもらったら島根に天から降りて来ればいいじゃん!国を譲ってもらったのならば、再度奈良に進軍する必要は無いじゃん?そこで僕が考えたのが、纏向遺跡は元々は「太田遺跡」と呼ばれていて、そこは昔は出雲の太田田根子が住んでおり、彼は目の前の三輪山に祀られた事代主命(大物主)を祀っていた。またそばにある箸墓は事代主命の奥様のやまとももそ姫のお墓である。じゃぁ、ここは本当は出雲の国だったのではないか?古事記によれば、大国主命は島根の出雲で兄神達に2回も殺され(そうになり)、母神に助けられて、木の国(紀ノ國)へ逃げる。そこでも兄神達に追いかけられて危なくなり、さらに奥の須佐之男命の元に逃げる。そこで須佐之男命から試練を与えられて、それをスセリヒメの助けを得てクリアーして、スセリヒメをお嫁さんにもらって新しい国を作り、兄神達を滅ぼす。うん?紀ノ國?和歌山県じゃん。その奥?吉野じゃん。そこから先には纏向が有るじゃん。地図を見ると、付近の山には「出雲」と書いてあるし。さらに少し離れた吉野川の流域には、宇陀市榛原石田があって、そこは昔は「伊那佐」と呼ばれたらしい。今でも伊那佐文化センターが有る。え?国譲りが有った場所は「伊那佐の小濱」では?昔は川の縁の砂浜も「小濱」と言ったらしい。国譲りの際に事代主命は魚釣りをしていたと書かれているが、日本書紀の一書では鳥を捕まえに行っていたと書かれている。もしかして国譲りの場所はここだったのでは?だって古事記には「稲佐の小浜」ではなく、「伊那佐の小濱」と書いてあるもの。そう考えると「国譲り」、「天孫降臨」、「神武東征」の順番を、「天孫降臨」、「神武東征」、「国譲り」の順番に変えれば、つじつまが合うのでは?ただ人名(神名)は少し変える必要があるけれど。天孫降臨とは倭国大乱で狗奴国=出雲の勢力に殺されそうになった天孫が、鹿児島あたりに居た強力な隼人達に助けを求めて、鹿児島と宮崎の付近に落ちのびたのであり、宮崎から攻めて行った崇神天皇が、吉野川のほとりで大国主命に国譲りを迫り、大国主命が、「まぁしょうがないから譲るけれども、生まれ故郷の島根に引退するので大きな館を作ってね」と言って、島根に出雲大社を作ってもらって引退したのなら、全部つじつまが合うじゃん。事代主命は国譲りの際に隠れた(死んだ)と言う人もいるけれど、日本書紀等には神武天皇に可愛がられた(重用された)とも書かれているし、何よりも神武天皇は「事代主の娘」である「媛蹈鞴五十鈴姫」をお嫁さんにもらっている。もし崇神東征が本当ならば、出雲を滅ぼしたのではなくて、臣下にした(国譲り)のだと思う。ただ、神武東征について考えているうちに違う可能性も見つけてしまった。上に宮崎から攻め上ったのを「崇神天皇」にしたのは、記紀神話では、「始馭天下之天皇(はつくにしらす-すめらみこと=最初に国土を統治した天皇)」が、神武天皇と崇神天皇の2人いるからである。そのせいで通説では神武天皇と欠史八代の天皇達は非実在の人物とされており、実際の最初の天皇は崇神天皇だろうとされているのである。じゃぁ神武東征とは何なのか?日本書紀をよく読んでみた。神武天皇が東征をするきっかけとなった塩土の爺との会話を書いてみる。<日本書紀原文>自天祖降跡以逮于今一百七十九萬二千四百七十餘歲。而遼邈之地、猶未霑於王澤、遂使邑有君・村有長・各自分疆用相凌躒。抑又聞於鹽土老翁、曰『 東有美地、靑山四周、其中亦有乘天磐船而飛降者。』余謂、彼地必當足以恢弘大業・光宅天下、蓋六合之中心乎。(途中略) 是年也、太歲甲寅。<意訳>天孫が降臨されてから、百七十九万ニ千四百七十余年になる。しかし遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。さてまた塩土(シオツツ)の翁に聞くと、東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟(いわふね)に乗って、とび降ってきた者がある』と言うのです。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。(途中略) この年は太歳の甲寅(たいさいのきのえとら )である。これが神武東征のきっかけなんだけれども、「まだ王の恵みが及ばず」と言うのは、ようは攻めて行って自分の支配下に置きたいなと言うのを偉そうに言っているだけで、理由にはなっていない。ただ、えー?と思ったのは「この年は太歳の甲寅である。」と言う部分。神武天皇の即位年を「辛酉年」と考えて明治6年に「紀元節」が設けられて、「紀元2600年」が祝われたのだが、さすがに神武天皇やその後の欠史八代の天皇が100歳を超える長寿であり、欠史八代の天皇は名前と系譜だけで事績がほぼ無く実在が怪しすぎて、現代ではよほどの変人でなければ、これを信じる人はいない。でも、この神武天皇の東征のきっかけになったエピソードもそうなのだろうか?実は僕は変なことに気がついてしまった。古事記や日本書紀の元になった、この辺のエピソードって「口伝」だよなと。「口伝」で代々伝わるうちに、いくつかのエピソードがこんがらがったのでは?だから「国譲り」、「天孫降臨」、「神武東征」の順番になってしまったり、100歳を超える人間ができてしまったのでは?じゃぁ、このエピソードは何なのか?もしかしてこれって神武天皇ではなく「秦の始皇帝」が言ったのでは?このエピソードの細かな部分は日本に合わせて多少変わっているが、塩土の爺とは徐福のことで、東の良い土地とは日本のことなのでは?日本書紀にする際に、そんなこととは知らない編纂者たちが日本に合わせて修正したので、いかにも宮崎から奈良に向かったように書かれているが、塩土の爺すなわち徐福で、神武天皇すなわち秦の始皇帝と考えると面白い。それは太歳の甲寅(たいさいのきのえとら )と言う紀年である。これって秦の始皇帝の即位年じゃん!もしかして史記に書かれた秦の始皇帝と徐福のエピソードそのままなのでは?ただ、口伝で代々伝わるうちに他のエピソード(崇神天皇の九州から奈良への進軍)等と混ざり、変になってしまってはいるけれど、天津神=渡来人が倭国に来たきっかけの話なのでは?また、そう考えると、奴国にあふれていた渡来人=天津神は秦から渡って来た人達の子孫では?奴国に居た渡来人は、徐福とその一行の子孫なのでは?子孫は倭人と交わり、多くなっていったと考えれば「倭音」が発生していたと考えられるなぁ。そして神武天皇の即位年の「辛酉年」はそれよりもずっと後のことになる。紀元前660年はまだ秦の始皇帝も居ないから。もちろんこれは「妄想」なんだけれども、面白い仮説を思いついちゃった。太歳の甲寅(たいさいのきのえとら )が秦の始皇帝の即位年だと気がついた人はいないと思う。でも考えたら、紀年に「太歳の」とわざわざ付けているのはここだけなんだよな。他の所ではつけていない。そう考えると、この「妄想」はもしかするのかも?ただ、太歳紀年は木星の周期が厳密には12年ではなく、干支の12年からは少しずれるので、漢以降には修正されており、太歳の甲寅が秦の始皇帝の即位年なのは古い紀年法なので注意。何の証拠も無いけれども。こう考えると夢が有って良いと思う。歴史って面白い。
April 14, 2026
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昨日は「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言う論争について、現在の通説と状況を書いたのだが、最後に不彌國の規模を示す単位が、他の国たとえば伊都国が「戸」なのに何故か不彌国と一大國(壱岐)は「家」が使われており、もしかすると、ここが渡来人が多く住む場所で、住居の構造が他の場所のように竪穴式住居ではなく中国式の家だったせいかもしれないと書いた。そして、もしそうならば、倭国には従来考えていたよりもはるかに多くの渡来人が住み、それが、「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言う答えにつながるかもと、自信はないけれども、今日のブログで書くと書いた。まずは「史書」に対する認識が邪馬台国研究家にあっては間違っていると書きたい。邪馬台国研究家の多くは、魏志倭人伝を小説のように考えがちだと思う。史書は国家事業であって小説ではない。例えば魏志倭人伝をその中に含む「三国志」は史書である。対して日本人が三国志と混同して読んでいる「三国志演義」は小説であり歴史書ではない。例えば「三国志演義」は蜀の劉備や孔明を正義として書き、魏の曹操は敵役である。でも三国志では比較的公平に書かれている。魏から禅譲されてあとをついだ西晋の皇帝の命令によって書かれた本なのにである。事実、三国志の編者の陳寿は父親が蜀の役人だったので、「魏を悪く書くのではないか」と疑われて、一時クビになりそうになっている。なのに比較的公平に書かれていると言うことは立派な歴史書だと言うことである。そのような「お役所の命令によって書かれた本」は個人だけではできない。僕はお役所に提出する報告書を書いたことがあるので、多少は知っている。お役所では、係長と部下が作った原稿が大臣の元に届くまでには、係長→補佐→課長→担当部長→総務部長→局長→審議官→大臣とチェックが続き、世の中に出るに際しては、さらにパブリックコメントの募集が有り、ものによっては(例えば予算や法律に関わるもの)は国会で審議・採決される。なので「間違った文章」が世の中に出ると言うのはよほどのことである。但し、書写の際の誤写は有りうる。でも有名な物は書写も複数あるので、比較検討すればまぁ間違いない。なので魏志倭人伝が「書かれた段階で間違っていた」と言うのはほぼ無い。その後、誤写によって変わったと言うことは有りうる。何故このようなことを書いたかと言うと、「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言うような、誤写による間違いならば有りうるかと思うのだけれども、文章そのものの間違いなどはあり得ないと言うことを言いたいのである。例えば、世の中の学者先生には「邪馬台国」と「女王国」を同じだと考えている変な人がいる。これはあり得ないと思う。原文を読むとすぐに分かる。<原文> (前略) 南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次日彌馬升次日彌馬獲支次日奴佳鞮可七萬餘戸自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國(後略)魏志倭人伝の中で「邪馬壹國」と言う言葉が使われているのはここ1回だけである。よく魏志倭人伝に書かれている特徴と○○地方は合致していると言う人がいるが、ウソである。たいていは「倭地」についての記載や「女王国」についての記載であって、「邪馬壹國」についての記載ではない。そのせいで都合が悪いから学者先生は「邪馬台国」と「女王国」を同じだと主張するのである。でも魏志倭人伝を含む三国志が史書つまり国家事業だと考えると話は変わって来ると思う。上の原文を読むと「邪馬壹國」と「女王國」はたった41文字しか離れておらず、恐らくは竹簡などに書かれた場合には同時に目に入るはずである。そして原文アンダーラインから、女王は邪馬台国に住んでいると読める。チェックするお役人は必ず質問するはずである。女王は邪馬台国に住んでいるのではないのか?何故邪馬壹國とは書かずに女王國と書くのか?お役人ならば当然の質問である。ぼくでもそう質問する。ここでちゃんと答えられないとクビである。なので、「邪馬壹國」と「女王國」はちゃんと理由が有って使い分けているのだと思う。僕は邪馬壹國とは、伊都国や奴国及び女王國とその傍らの国を含む連合国なのだと考えている。なので、上の原文は、まず女王は邪馬台国の女王であり邪馬台国に住んでいると書き、次に邪馬台国と言っても広いので、さらに邪馬台国の中を詳しく書くと、女王の直轄地である女王国と、伊都国などの女王国の北側の国及び女王国の傍らの国が有るが、伊都国などの女王国の北側の国は多少は戸数や道里くらいは書けるが、女王国の傍らの国については名前くらいしか書けないと書いているのだと思っている。つまり世の中の人達の言う「邪馬台国への行程」と言うのは実は狗邪韓国までで、ここで既に「邪馬壹國」には到達しており、(邪馬台国が日本中あちこちに候補地が有るのはこのせいかも?)実際はみんなが主張している卑弥呼の居場所への行程は、「女王国への行程」と言うのが正しいのである。そう考えると陳寿は倭国に関して相当に詳しかったと言うことが分かる。何故詳しかったのか?恐らくは魏志倭人伝を書いた陳寿や、後漢書倭伝を書いた范曄は、中国に居た倭人に聞きながら魏志倭人伝や後漢書倭伝を書いたのだと思う。なので、魏志倭人伝は、中国から倭国に実際に来ていた使者の復命書(出張の報告書)を元に書いたり、使者に実際に聞いて書いたので不彌國まではかなり詳しく、方向や距離が書かれており、使者たちが実際には行っていない投馬國や邪馬台国については,距離などを科学的に測定する技術を持たない倭人に聞きながら書いたので、行程の方法と日数で書くというみんなが疑問に思う書き方になっているのである。昨日書いた、倭国には従来考えていたよりもはるかに多くの渡来人が住んでいたと言うのが、正しいならばそう考えるのが普通である。もしそんなに多くの渡来人が倭国に居たのならば、当然交流と言うのは双方向性があるので、中国の中心部まで倭人が来ていてもおかしくはなく、倭人がそばまで来ているならば、陳寿や范曄は迷うことなく呼ぶだろう。想像をたくましくして書くよりも、本人に聞いた方が速いからである。そう考える理由が魏志倭人伝と後漢書には書かれている。両書とも「倭人の由来」について、中国から日本に渡った人達の子孫ではないかと書いているからである。恐らく、目の前で説明してくれている倭人が中国語を流ちょうに話し、その生活態度などが中国人そっくりだったのだろう。なので、陳寿や范曄は彼らが中国人の子孫だと思ったからだろうと思う。後漢書には下のように書かれている。<原文>會稽海外有東鯷人分為二十餘國又有夷洲及澶洲傳言秦始皇造方士徐福将童男女數千人入海求蓬萊神仙不得徐福畏誅不敢還遂止此洲出出相承有數萬家人民時至會稽市會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絶遠不可往來<意訳>会稽郡の海外に東鯷人がいる。分かれて二十余国を作っている。また、夷洲と澶洲がある。こう言い伝えられている。秦の始皇帝は方士徐福を派遣し子供の男女数千人を率いて海に入り、蓬菜神仙を求めさせたが出来なかった。徐福は罪に問われるのをおそれ、敢えて帰らず、ついにこの島に止まった。代々受け継がれて数万戸がある。その人民が時おり会稽の市にやってくる。会稽東冶県の人で、海に入り、風に流されて澶洲に着いた者がいるが所在地はあまりにも遠く、往来することはできない。つまり范曄は、目の前の倭人があまりに中国人に似ているので、秦の始皇帝に命じられて日本に渡った子供の男女数千人の子孫かもしれないと考えたので、わざわざ「史記」に書かれている徐福のエピソードを書いているのである。もし范曄の目の前に倭人が居て、その倭人が中国人に似ていなければ、伝説にすぎない徐福のエピソードをわざわざ後漢書に載せることは無いと思う。読んだお役人や皇帝が必ずそのことを質問するからである。そしてお役人や皇帝も、確かに中国に来ている倭人は中国人に似ていると思っているから、それを「面白い仮説」だと考えて、そのまま載せることを許可したのだろう。魏志倭人伝も同様である。<原文>男子無大小 皆黥面文身自古以來其使詣中國皆自稱大夫夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害今倭水人好沉没捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以為飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差計其道里當在會稽東治之東<意訳>男子はおとな、子供の区別無く、みな顔と体に入れ墨している。いにしえより以来、その使者が中国に来たときには、みな自ら大夫と称した。夏后(王朝)の少康の子は、会稽に領地を与えられると髪を切り体に入れ墨して蛟龍の害を避けた。今、倭の水人は、沈没して魚や蛤を捕ることを好み、入れ墨はまた(少康の子と同様に)大魚や水鳥を追い払うためであったが、後にはしだいに飾りとなった。諸国の入れ墨はそれぞれ異なって、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったり、身分の尊卑によっても違いがある。その(女王国までの)道のりを計算すると、まさに夏后の少康の子が治めた会稽の東の地のその東にある。つまり陳寿も倭人は中国人と似ているが、特に夏后の少康の子が治めた会稽の東の地に住む中国人と似ており、そこの中国人は倭人同様に水に入った際におぼれたりするのを避ける為に入れ墨をしているので、彼らが夏后の少康の子が治めた会稽の東の地のその東から海を渡って行った人達の子孫だろうと考えて書いているのだと思う。そうでなければわざわざ三国志とは無関係なエピソードを(倭人の為に)書くはずが無い。当時の中国人にとって倭人は野蛮人だと考えられており、その倭人の由来に紙面を割く必要は無いからである。ただ中国人の子孫ならば、書くだけの価値があると考えたのだろう。そう考えると、倭国には相当な数の渡来人やその子孫がいたのだろう。その場合面白い仮説が考えられる。よく日本には神代文字が見つからないと言われる。これはもし渡来人が多かったのならば漢字を使っていたからではないだろうか?つまり日本独自の文字を作る必要が無かったからである。たださすがに日本古来からの独自の日本語を記すには不便だと思う。その時にはどうしたのだろうか?僕は古事記を読めばそれが分かると思う。古事記は漢字を使いながら、その音だけを使用して日本独自の言葉を記している。やがてその手法は発展して、後世には「ひらがな」や「カタカナ」が生まれている。また、日本人は「訓読み」と言うのを発明している。訓読みとは何か?調べてみると次のように書かれている。訓読みとは、*漢字の意味に対応させて当てた日本語固有の読み方(和語の読み)*のことで、音読み(中国由来の音に基づく読み)と対になります。例えば「山」の訓読みは「やま」、「川」は「かわ」で、単独語や和語の語彙の中で多く用いられます。なお、訓読みの発生した年代ははっきりとはしていない。もしかすると奴国の時代には既に「訓読みのような物」が発生していたのではないだろうか?それが「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言うことの答えである。漢字の読みには「上古音」や「漢音」及び「呉音」など地域や時代によって違う読み方が有る。奴国の時代には「訓読み」はさすがにまだ無かったと思うが、中国から渡って来た人達の子孫が居たのならば、「倭音」とも呼ぶべき倭国独特の漢字の読み方がすでに発生していたのではないだろうか?そして陳寿に自分の国の名前を説明した倭人は、「邪馬壹國」と書いて説明しており、陳寿はそれを正確に(中国ではそうは読まないのに)「やまと國」として記録したのではないだろうか?中国では「壹」と言う字は数字であって、「たい」とは読まない。数字の「壱」であって、音は「い」である。(ちょっと今の日本のひらがなでは書けない)では何故現代の人達が「邪馬台国」と言うかと言えば、後漢書以降の中国の史書に「邪馬臺國」と書いてあるからである。<後漢書原文>倭在韓東南大海中依山為居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王出出傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)楽浪郡微去其國萬二千里去其西北界狗邪韓國七千餘里其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同<意訳>倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住する。およそ百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイと言う音のなまりである)。楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里、その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地はおおむね会稽東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近いため法や習俗の多くは同じである。この後漢書の記載が諸悪の根源である。「邪馬臺國」と書いたのは後漢書が最初で、(上の原文中に(案今名邪摩惟音之訛也)と書いているのは後世の唐の李賢の書いた注で、 後漢書そのものの記述ではありません。 彼は魏志倭人伝の「邪馬壹國」と言うのは、 今(唐の時代)の日本の国名である「大和(やまと)と比べると、 「邪摩惟(やまい)又は(やまゆい)」としか読めず、 「邪馬臺國」と言うのはなまっているのではないか?と注を書いたのだと 多くの人は解釈しています。)僕は逆だと思っていますが、後漢書倭伝を書いた范曄は、目の前で倭国について話している倭人が「やまと國」と言っているのに、魏志倭人伝では「邪馬壹國」と書いているが、(後漢書は「後漢書なのに三国志より後に完成している」ので范曄は魏志倭人伝を読んでます。)これはおかしいと「邪馬壹國」を「邪馬臺國」に直したのだと思います。つまり范曄は魏志倭人伝の「邪馬壹國」と言うのは、書写の際の誤りのせいだと思ったのです。はたしてそうでしょうか?陳寿(233~297年)の時代と范曄(398空~46年)の時代はそれほど離れてはいません。150年くらいです。まだ三国志の原本や正しいと言える写本が残っていたのではないでしょうか?秦の時代には焚書坑儒と言って、都合の悪い本は燃やしていましたが、范曄の時代南朝宋にはそんな必要は無かったと思います。ではどうしてなのか?中国に渡った倭人の違いだと思います。倭国大乱のせいで、中国に渡る倭人に変化が有ったのだと思います。陳寿の前で説明した倭人は「邪馬壹國」を「やまと國」と呼ぶ立場の人で、范曄の前で話した倭人は「邪馬壹國」が狗奴国により滅ぼされた後の人だったのでは?つまり「邪馬壹國」を「やまと國」と読めない人だったのでは?そこで上に書いた「倭音」です。「倭音」は倭国大乱前後で大きく変化したのでしょう。と言うか後漢書に載っている「倭面土国」も「やまと國」なのだと考えるとそれ以前にも変化が有ったのかもしれません。本当に「倭音」があって、「邪馬壹國」は「やまと國」と読む人達がいたのか?それは現代に至るまで痕跡が残っています。日本では「豆」と書いて「とぅ」と読みます。中国では「上古音」でも「漢音」でも「呉音」でも「とぅ」とは読みません。いわゆる「訓読み」です。これは「倭音」が有ったとすると、その時代から続いているのではないでしょうか?例えば分かりやすいのが「納豆(なっとう)」です。また「豆」を含む漢字も、「とう」と読む字がたくさん有ります。「電燈(でんとう)」や「登攀(とうはん)」や「頭(とう)」などです。このように考えると、陳寿は倭人が自分達の国の名前を、「邪馬壹國」と書いて「やまと國」と読むのを、中国ではそうは読まないよとは思いながら、真面目な性格だったので、勝手に書き換えるのは許されないと考えて、倭人の書いたそのままで魏志倭人伝に記載しており、范曄の場合は倭人さえも「邪馬壹國」を「やまと國」とは読まなかったので、「邪馬臺國」と書いており、後世の史書も、既に倭人の間でも「山門」や「大和」と書くようになっていたので、「邪馬臺國」が正しいよなと言う話になっていたのだと思う。つまり、「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言うことについては、「邪馬壹國」が正しく、ただそのことは「邪馬壹國」が滅んだ段階で消え去り、恐らくは日本側も「山門」や「大和」と書くようになったので、歴史の闇の中に消えてしまったのだと思う。(「邪馬壹國」=「やまと國」が滅びたのならば何故九州の「山門」と近畿の「大和」がある? 当然その疑問はわくと思います。 それは「やまと國」が狗奴国と戦って滅びた後にも、再度復活したり、 また滅びたりを繰り返したからです。 それは日本の歴史の中で記紀にも神話として記されています。 記紀には九州と近畿の戦いが複数出てきます。 元々「やまと國」は九州に有りました。 「山門」の地名はその時代からのものです。 神武東征と言うのは実は崇神天皇の時代の話で、 狗奴国に滅ぼされたのちに復活した「やまと國」が近畿に攻め上ったのだと思います。 そのせいで近畿も「大和」を名乗るようになります。 本家は九州に有ったとしても、 主力は近畿に移ったので漢字表記を「山門」から「大和」に変えて、 「やまと國」を名乗ったのです。 中国や朝鮮には「やまと國」のネームバリューが必要だったからです。 景行天皇の九州行幸は近畿の勢力による九州の「やまと國」の復活の阻止だと思います。 既に世代が変わり、九州の「やまと國」の生き残りも力をつけて来たからです。 その後、逆に神功皇后が近畿に攻め上って再び九州の「やまと國」が政権を取り戻します。 でも継体天皇の時代に近畿の勢力は九州を圧倒して「大和」は近畿の政権の名前になります。 つまり日本の歴史は「やまと國」の分裂と興亡の歴史なのです。 また、「邪馬壹國」=「やまと國」ならば「壹与」も「とよ」と読むはずであり、 これは後世の話にもつながる。 「壹与」の治めた国は「豊の国」であり、後に分かれて豊前と豊後になる。 近畿に行った「壹与」の子孫は実在の人物でも推古天皇=豊御食炊屋比売命など多数いるし、 神話の時代には豊受(トヨウケ)大神など枚挙にいとまがない。)ところで、本当に倭国に「倭音」が生まれるほどたくさんの渡来人とその子孫が居たのかと言うことは、次回のこの続きである「その3」に書こうと思う。そうしないとこの仮説が証明できないから。
April 12, 2026
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邪馬台国論争をする人達は面白くて、くだらないことを言い争う傾向がある。ただ、それが面白い結果を生むこともあるので、一応考えてみるのが良いと思う。その代表的な例が「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのかと言う論争である。Copilot(WindowsのAIに聞いてみる。「邪馬壹國」が正しいのか「邪馬臺國」が正しいのか教えて下さい。その答えは次の通り。学術的な通説では「邪馬臺國(邪馬台国)」が原文で、写本の過程で「邪馬壹國」に誤写されたと考えられています。ただし、「邪馬壹國」こそ原文であると主張する有力な少数説(古田武彦など)も存在し、論争は完全には決着していません。1. 史料の事実:現存する最古の写本はすべて「邪馬壹國」 南宋時代の最古級写本(紹興本・紹煕本)は、例外なく「邪馬壹國」と書いています。 これは確実な史料事実です。 そのため、「壹」が原文である可能性は確かに存在するというのが、古田武彦らの立場です。 2. しかし他の中国史書は「邪馬臺國」と記す。 『後漢書』倭伝や『隋書』俀国伝など魏志倭人伝以外の中国史書は「邪馬臺」と記しています。 特に『隋書』は「魏志にいうところの邪馬臺」と明記しており、 魏志の原文が「臺」であったと理解していたことが分かります。 このため、「臺」が原文で、写本の過程で「壹」に誤写されたというのが通説です。 3. 誤写説が通説となる理由 通説が「臺 → 壹 の誤写」と判断する根拠は次の通りです。(1)臺と壹は草書体で形が似ている 写本過程で取り違えが起こりやすい。(2)他の史書が「臺」を使う 魏志以外の史書が「臺」を引用している以上、原文が「臺」であった可能性が高い。(3)「壹」は数字で国名に使うのは不自然 「臺」は宮殿・高台など高貴な意味を持つ字で、国名にふさわしい。4. しかし「壹」こそ原文とする強力な反論もある 古田武彦らの「邪馬壹國」原文説は、単なるトンデモではなく、 次のような強い論拠を持っています。 (1)三国志全巻で「臺」と「壹」の誤写例が存在しない。 → ならばここだけ誤写とするのは不自然。 (2)「臺」は魏朝の王宮にしか使わない“至高の文字” → 蛮族の国名に使うのは思想的にありえない。 (3)注釈者が「壹」に何も注を付けていない。 → 原文が「壹」であると理解していた可能性。 (4)音韻学的に「壹」は“甲類”で九州の「山門(やまと)」と整合している。 → 畿内の「大和(乙類)」とは一致しない。 このように、「壹」原文説は学術的にも十分に成立する説です。5.結論「どちらが絶対に正しい」と断言できる段階ではない。ただし、史料批判の観点では「壹」原文説が強い文献比較の観点では「臺」原文説が強いという構造になっており、論争が続くのはむしろ当然です。おぉー!AIってその辺の学者先生とは違って、むしろ人間よりもまともじゃん!色々な学説を網羅しており、何故結論が出ないかまでちゃんと説明しており、最後に今の段階では結論は出ませんよとまで言っている。学者先生はもういらないじゃん!でも、ここで終わったら僕もつまらないので研究してみた。そうすると、ある観点から見たらまったく別の理論も出ることが分かった。それは魏志倭人伝の中で国の規模を示す家の数(つまり人間の数)の単位である。魏志倭人伝の中では伊都国や奴国及び対海國(対馬の事)では「戸」で表し、不彌國と一大國(壱岐の事)では「家」を使っている。何故使い分けているのだろうか?通説では、中国史料では一般に戸 … 行政単位としての「家族集団」で、戸籍・徴税・兵役の基本単位家 … 物理的な家屋、または家族そのものだと言う説が多いのですが、しかし、三国時代の史書では「戸」と「家」が人口単位として混用される例が普通にある。とくに異民族・外国記事では、現地制度に合わせて厳密に使い分けていないことが多い。また、伊都国などが普通に「戸」を使っているのを考えると、通説ではまったく説明がつかないので、「表記の揺れ」と考える人が多いが、どのような原因で「揺れている」のか、また記載する位置が近すぎて揺れる意味が分からない。何故不彌国と一大國だけの2国なのかまったく説明できない。なのでもっと合理的な説明が必要である。そう考えた時にふと思いついたのが、不彌國が今の宇美市付近ならば、日本書紀等に書かれた神功皇后伝説の場所と同じだと言う事。もちろん神功皇后は伝説上の人なので、証拠にはならないのであるが、伝説とは言っても根も葉もない架空のことは、なかなか言い伝えにはならないのだと思う。何かきっかけになるようなことが有ったのではないか?そう考えると、面白い仮説に達する。宇美市の名前の由来が、神功皇后がここで応神天皇をお産みになったことではなく、元々ここは不彌国だったから、その音が残っていて宇美市になったのではないかと思うのである。何故、神功皇后がここで応神天皇を産んだのか?それは、ここに有名な技術力を持った産婦人科医師がいたからではないか?神功皇后が腰に石を巻いて三韓征伐に行ったと言うのは、彼女の応神天皇のお産が難産だったことの比喩だからではないか?つまり宇美市=不彌國付近には中国からやって来た医師がいたからではないか?そう思いつくのである。そして何故そんな高名な医師がここに居たかと言えば、別に慈善事業で野蛮人(倭人)を助けようと思って来ていたわけではなく、ここには中国からたくさんの渡来人が渡って来ていた、渡来人の居留地が有って、その人達の要請が有ったからからではないか?つまり不彌国と言うのは中国からの渡来人の国だったのではないか?(事実、奴国の中心地である須玖岡本遺跡がすぐ傍に有り、 そこでは銅鏡の鋳型などが見つかり、また重さを計る秤なども見つかっており、 当時としては有力なテクノタウンが有ったことが発掘調査により分かっており、 技術を指導する中国からの渡来人がそこにいたことが容易に想像できるのである。)なので、倭人の竪穴式住居とは違い、中国式の家がたくさん有ったので、伊都国などの倭人の国の家の数は「戸」、不彌國の中国式の家の数は「家」と表現したのではないか?そう思うのである。ではその証拠は有るのか?実は、魏志倭人伝や後漢書を読むと、倭国には学者先生が想像するよりもはるかに多くの渡来人が居たと考えさせる記述があり、逆に学者先生の想像するよりはるかに多くの倭人が中国に渡っていたと考えられる根拠が、ちゃんと書いてあるのである。そしてそれがもし本当ならば、魏志倭人伝に於いて、不彌國までは方角と距離をちゃんと書いてあるのに、投馬國と邪馬台国からは日数で書かれている理由が分かるし、「邪馬壹國」と「邪馬臺國」のどちらが正しいのかが分かるのである。それは明日、その2で書く。
April 11, 2026
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トランジスタ技術の2026年4月号を見ていたら、面白いことを書いていたので、実験してみました。トランジスターにはNPN型とPNP型がありますが、どちらもエミッターとコレクターは同じ半導体で、ベースを挟んだ構造になっていますが、だれでも一度はエミッターとコレクターが同じ半導体ならば、入れ替えても動作するんじゃないか?と考えるものです。僕も中学生の頃にそう考えたのですが、当時はそれを確かめようにも測定器なども持っておらず、いつかはやってみようと思っていながら、時の流れの中で忘れてしまっていました。それがトランジスタ技術と言う権威ある雑誌の中で、堂々と書かれていたので驚きました。あれは中学生だから許される疑問であって、大人はそんなことは考えてはいけないのではと思っていたからです。でも、やっぱり試してみたいのですよね。なのでやってみました。昔の僕ならばブレッドボードに増幅回路を組んで、その入出力をオシロスコープで見るなんて考えるのでしょうけれども、そこはもう大人になって、ずるがしこくなっているので、もっと簡単な方法を考えます。そう、昔のテスターとは違い、今のテスターはHFEを直読できるのです。つまり、ただテスターの測定用の穴に差し込むだけ。さっそくやってみました。テストしてみたのは、2N3567とS8050と2SC1815のごくありふれた3つのトランジスター。まずは2N3567。フェアチャイルドの汎用トランジスター。おぉー!HFE=2だ。ただ正常につないだ場合の1/80しかない。でも、小さいけれどもちゃんと増幅機能が有る。トランジスター技術に書いてある通りだ。次はS8050。中華のラジオなんかでよく使われているトランジスター。えー!逆接続しても、HFEが20もある。昔の、僕が子供の頃のトランジスターとかわらないじゃん。うまく使えば使えるかも?最後は2SC1815。言わずと知れた東芝の世界標準と言える優秀なトランジスタートランジスター技術に書いてあったHFEの値とほぼ同じだ。それでもHFE=7ならばギリギリ増幅が可能かもしれない。ただトランジスター技術に書いてあったけれども、コレクターとエミッターは製造過程が違い、ベースは薄くて、高周波性能などを高める為に対称的にはなっていないので、どうしてもHFEは逆に接続した場合は小さくなってしまう。それはトランジスターの構造を見ると分かる。下にプレーナー型のトランジスターの構造概念を載せる。トランジスター技術にも、この図を載せれば簡単に説明できたと思うのだけれども、本の場合は著作権などの難しい制約が有るので無理なんだろうと思う。基本的にはN型やP型の半導体を作る場合に、シリコン(Si)の結晶にリン等の不純物を混ぜる必要が有るのだが、不純物をかき混ぜて作るのではなく、ガス状にした不純物をしみ込ませてつくるのである。例えば上の図であれば、N型半導体は真性半導体(Si)にリンのイオンなどを拡散して作る。拡散とは、ようはしみ込ませるのである。そうしてできたコレクター(N型半導体)の表面を熱酸化して固いシリコン酸化膜を作る。その表面にフォトエッチング(ようは写真のように焼き付けた部分を溶かして穴をあける)により、むき出しになった部分にホウ素イオンを拡散してP型半導体を作る。これがベースになる。そのベースの表面にまたシリコン酸化膜を作り、フォトエッチングで穴を開けて、またリンイオンなどを拡散してN型半導体を作る。それがエミッターになる。こんな感じである。当然図を見ると分かるようにコレクターとエミッターでは大きさもでき方も違うので、ベースとの間の性質も違っており、同等にはならない。なのでHFEは当然違って当たり前なのである。またトランジスター技術にはHFE以外にも諸特性、特に耐電圧なんかも違うと書いてあった。そりゃそうだと思う。上の図を見ると分かるようにエミッターは張り付けたわけではなく、拡散によりできた層。当然厚さも違うし、不純物の量なんかも違うはず。多分、かなり弱いのだと思う。なので、実験する分には面白いので良いのだけれども、実用にはならないのだと思う。(トランジスター技術には特殊な使用例ではわざと使う例もあると書いてある。)まぁ中学生時代の疑問と言うか、やりたかった実験が60年後にできて良かった。これからも色々と昔やりたかった実験をやるかな?
April 9, 2026
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愛天堂の店舗販売が今日(4月5日)までで終わるので行って来た。店舗販売が終わると言うことは、お姉さんの顔を見られるのも今日限りだから。お姉さんは相変わらず忙しそうに頑張っていた。お姉さんも年とったなぁ。と思う。僕が初めて愛天堂に行った時には、お姉さんは日本に来たばかりで、多分20代初めくらいの若くてちょっと細いお姉さんだった。お店はまだ小さくて、陳列棚も無く、ほぼジャンクと言える部品を箱に入れて、床に直接置いていた。確かここだったと思う。秋葉原の端っこで、末広町から神田明神に行く途中の蔵前橋通りから入った所。写真のように細長いお店で、一番奥にガラスケースが有って、お姉さんはそこにいた。僕は何故愛天堂に行ったかと言うと、ノートパソコンの冷陰極管が欲しかったから。ノートパソコンの液晶パネルの光源は、今はLEDだけれども当時は冷陰極管しか無かった。冷陰極管は簡単に言えば細長い蛍光灯のような物で、インバーターによって、これから発生した光を導光板で画面全体に導き、液晶のバックライトにしていたのである。多分、当時はと言うか今でも、日本で冷陰極管を売っていたのは愛天堂だけだった。と言うか普通の人は液晶パネルを分解する人なんていなかったと思う。(冷陰極管が切れた液晶画面は、光源が無いのでうっすらと見えるので分かる。 お金に余裕がある場合は2個1にして他のジャンクノートから液晶パネルを取って使い、 お金が無い場合は冷陰極管を外して取り換えていた。)冷陰極管はインバーターで点灯するので、また液晶パネルの大きさに合わないと入らないので、規格・仕様を合わせないといけないのだけれども、なんせお姉さんも若くて、(多分こわいおじさんに見えていたと思うので)上手く必要な冷陰極管を見つけるのは難しく、僕も結構苦労して必要な冷陰極管を探した。お姉さんもイヤな奴だなぁと思ったに違いない。でもお姉さんも日本に慣れて、扱う部品も増え、そのうちに末広町に店舗を移して、愛天堂は大きくなった。ここにはよく通った。と言うのも、会社の定期が使えるようになり、タダで通えたから。昔は定期券は必要な区間だけしか買ってはダメで、通勤以外に使うと怒られたのだが、この頃から差額を自分で払うのなら、通勤区間より長い区間を買っても良いと言う時代になり、地下鉄はうまいことに、同じ値段の最長区間で(つまり自腹無しで)買えたからである。このワイゼムビル時代に愛天堂は他の日本の電子部品販売店ではできないことをやった。DSPラジオのキットを安く販売したのである。当時秋月等の他のお店でDSPラジオのキットを買うと、「何だこれ?」程度の物でさえも6000円はしたが、愛天堂では2000円前後で買えたので、しかも僕らがラジオ作りを始めた頃には夢だった「海外の短波放送が聞けるラジオ」を自分で作れるのがうれしくてたくさん買った。当時は僕もまだ働いていたので、奥さんには内緒で買うお小遣いが有ったからである。出来上がったラジオでオーストラリアの放送が聞こえた時には本当に感動した。(もう今では放送していない。)だって僕らが子供の頃にはBCLと言って、短波の外国語放送を聞くのが流行っていた。でも外国語放送を聞けるようなラジオは高いし、貧乏な我が家では到底買えないし、裕福な友人たちはアマチュア無線をやっていて、その設備で聞けたのだけど、僕には買えないし、何よりもアパート住まいなのでアンテナが張れないし。まぁだから、大人になってやっと子供の頃の夢がかなえられた感じがしてうれしかった。そう言う意味では愛天堂は僕にとっては大事なお店だったのだと思う。なので4月5日に店舗販売を終えると聞いて、行ったのである。僕と同じような人が結構いたみたいで、お店は人でいっぱいだった。じーさんが多い。でも、若い人もそれなりにいる。お店の入口付近では、素性の良く分からない部品がたくさん並べられていて、「詰め放題199円」セールをやっていた。実は先週にも来て、その時には7セグLEDやラジオのIFTなんかを箱いっぱい詰め込んだんだけれども、今日はちょっといい物が有って、多分他の人は分らないようだったので、僕が独占的に買ったものが下の写真。特に良かったのがK-443Aの基板。(通販では現在売り切れて売っていない。)K-443AはフルバンドDSPなのだけれども、単体では使いづらい。なので基板があれば、(そのまま使っても良いのだけれども)基板を改造してオリジナルラジオが造れるので、ぜひやってみたいと思っていたのだけれども、もう今では売り切れてないし、有ったとしても高いので、199円詰め放題で入手できたのはうれしいのである。またトランジスターも安かったので目いっぱい買った。詰め放題なので。S9018はfTが800MHzもあるしHfeは300以上もある高周波用のトランジスターで使いやすい。S9014も感覚的には2SC1815とほぼ同じように使えるので用途が広いのでお得。そして青い小さなトランスは6石スーパーの低周波増幅部に使われているトランスである。(50%と書かれたビニール袋は手元に有った空袋を流用したもので、元々は袋無しだった。 つまりトランスはこんだけあっても、トランジスター等の他の物と合わせて199円)なので、簡単なアンプを作る際には使える。この写真の部品が「詰め放題」で199円なのだからお得だったと思う。まぁそんな感じで色々と買って、お姉さんに挨拶をして、帰途についたのだが、せっかく片道2時間もかけて来たので、途中駅の秋葉原に寄ったら歩行者天国をやっていた。かってこの付近の交差点で、痛ましい事件があって、しばらくは歩行者天国も中止されていたのだけれども、ようやく再開されて、今ではかっての賑わいを取り戻している。写真下の右手の三角形の外壁はドン・キホーテで、8階にはAKB48劇場が有り、僕は何回も入口までは行ったのだけれども、中には勇気が無くて入れなかった。最近のテレビを見ていると、前田敦子や板野友美などが「ママ」としてテレビに出るようになっており、時代の流れを感じるのだけれども、人間ってしぶといなぁ。愛天堂のお姉さんも幸せになって欲しいな。
April 6, 2026
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本当は3月5日にもわの会のイベントが有って江の島巡りをするはずだったんだけれども、腰と足が動かなくなって欠席したので、先月は書けなかった。なので久しぶりのわの会。4月2日のわの会は、京浜急行の逗子葉山駅に集合して、逗子と葉山のお寺や神社と名所旧跡を巡った。ルートは下の地図の通り。腰と足はまだ完全ではなかったので、この4.5kmは辛かった。最初は京浜急行逗子葉山駅を出てすぐの仲町橋。ちょうど桜が満開で、田越川の岸辺の桜は満開だった。体調が万全だったら幸せだったのに。葉山は保養地として有名で、ここでは徳富蘆花なども住み、ここで不如帰等を執筆している。その顕彰碑が有った。僕の頭の中の徳富蘆花は自由人で、若干反体制的な人で、大山巌の奥さんの捨松を勝手に悪者にした、ひどい奴な感じが有る。まぁ小説なんだから仕方ないけれど。この橋がかかる田越川沿いの道はかっては相模湾で採れた魚を江戸に運ぶ重要な道だった。ガイドさんがそれを上手に説明してくれた。魚荷の道と呼ばれる。三浦半島の折れ目的な地形で、山の間を縫うように東京湾に抜ける。海を大回りしなくても良いと言うメリットもあるけれども、魚は腐りやすいので、短い日数で江戸に届けられることが大きかったんだろうなと思う。少し下流に行くと田越橋が有る。この橋は欄干部分が湾曲したように変な形に曲がっているのだけれども、明治時代からそうだったんだ。さらに下流に向かう途中に六代御前の墓がある。入口に碑が建てられ、そこを中に入って行くと、一段高くなった所に欅に囲まれた墓がある。実は六代御前を殺したのは北条時政で、頼朝は文覚上人の嘆願を受けて許している。このように、一般には「源平の戦い」と言うのに、源頼朝は義仲や義経と言う同じ源氏を滅ぼし、壇の浦で平家を滅ぼしたのは(義経を除けば)ほとんどが坂東平氏つまり平氏である。だから「源平の戦い」と言うのは話を面白くするための脚色であって、内容は源氏同士、平氏同士の戦いも多くあり、単純な源氏と平家の戦いではなかったのだと思う。と言うか北条時政は、最後は源氏を滅ぼしてしまうんだよな。歴史って一部の人達の勝手な解釈で、事実とは違う見方が定着して、一般の人はそれを信じてしまうので、政治的な目的に利用されやすいのだと思う。田越川の河口には富士見橋がかかっている。富士見橋から河口に向かう途中に徳富蘆花が住んでいた柳屋跡があり、蘆花の碑が立っている。さらに河口を目指すと、現在河口付近は工事中で、付近には石原裕次郎の碑が有ったらしいのだけれども見当たらない。対岸には鳴鶴公園が有り、この付近は鐙摺(あぶずり)浜と言う。海岸沿いは険しい崖で、地名は、馬具の「あぶみ(鐙)」を「摺る(こする)」ような急斜面・崖地形に由来するらしい。近くには有名な鐙摺の不整合が有る。いわゆるプレートテクトニクスによる地殻変動による海側の地形の圧力によるもので、伊豆半島なんかはかっては太平洋上の海底火山が日本に押し寄せて来て、日本と合体して伊豆半島になったと言われているように、ここも長い年月の中で、かっての海底が押し上げられて、またぶつかってこうなったのだろう。でも有名なわりにメンテナンスがなされていない。逗子市は貧乏で、水道施設さえも困窮しているらしいから仕方ないと思う。脇を見ると旗立山が有る。知らないと見過ごしてしまうような海岸沿いの小さな山だが、三浦一族の歴史と言うか鎌倉幕府創成期を考えると重要な場所である。そして、実はこの付近には面白い場所もある。鎌倉殿の13年(NHK大河ドラマ)で、北条政子が頼朝の浮気相手の隠れた館を攻めて、壊してしまう「後妻打ち(うわなりうち)」と言うエピソードが有ったが、その舞台がここである。ガイドさんが説明してくれた。女って恐ろしいと思う。付近に小さなお寺と神社がある。海宝寺と須加神社である。海宝寺自体は小さなお寺さんで特に何もないのだけれども、脇に「脱衣婆」の像があり、三浦半島で有るのはここだけである。「脱衣婆」とは三途の川で「泥棒」の亡者の衣服をはぎ取るばあさんで、はぎ取った衣服は懸衣翁(けんえおう)によって衣領樹と言う大きな木に懸けられ、そのしなり具合によって罪の重さを計ると言う恐ろしい話に出てくる。また、三途の川の渡し賃「六文銭」を持たない者の衣装をはぎ取るとも言われる。なんでそんなお婆さんの像がここに有るのだろう?恐ろしい。すぐ隣に須加神社がある。同じ敷地みたいなんだけれども、バチがあたるといけないので、一旦出て、ちゃんと鳥居をくぐってお参りする。ちょっと南に進むと葉山マリーナが有る。金持ちの聖地である。思ったほどたいしたことは無い。千葉あたりにある○○センターみたい。これを建てた人は味の素の創業者らしい。像が外に有った。えー!京浜急行の社長もやっていたの?そしていまいちわからなかったのが、池田菊苗博士との関係。そもそもこの人のお母さんの鈴木ナカが葉山で採れる海藻からヨードを取りだして討ったのが、会社としてのスタートで、当時は鈴木製薬所と言い、池田菊苗博士が、四基本味である酸味(さんみ)、甘味(かんみ)、塩味(えんみ)、苦味(にがみ)とは別の成分として、うま味(グルタミン酸)を昆布から見つけたのが、学術的なスタートです。ちなみにグルタミン酸とグルタミンは名前は似ていますが別のアミノ酸で、グルタミン酸は小麦のグルテンを加水分解して得られた物から発見されたのでグルタミン酸と言う。博士はこれを何とか安価に日本人に供給できないかと模索していた時に、かっての友人の鈴木三郎助が協力してくれることになり、味の素がスタートした。うーん、博士ってやっぱり実業家には向いていないのね。次は清浄寺。清浄寺は三浦半島に多い浄土宗のお寺で、幕府の庇護を受けていたので、瓦等の紋は浄土宗の「月影杏葉」紋ではなく「三つ葉葵」である。境内には徳本上人の六字名号塔もある。次は相福寺。ここも浄土宗のお寺で、右側の本尊はガイドさんが見せてくれた秘仏阿弥陀如来(十夜仏)で、本山の鎌倉光明寺から賜ったものだそう。次は長徳寺。臨済宗のお寺で、本尊の毘沙門天像は行基の作だと言われています。三浦義澄の守護神だとされています。なお、ここは森戸六郎重行の城の杜戸城が有った所だと言われています。最後に森戸海岸から江の島や富士山を見て見たかったのですが雨で見えませんでした。森戸海岸から森戸神社に行くには、みそぎ橋を渡って行きます。この橋を渡れば、僕の汚れた心もきれいになるのであろうか?森戸神社に行きます。神社の裏手から海に出ます。少し離れますが、龍神宮遥拝所が有ります。遠く、葉山灯台や菜島鳥居も見えます。こうしてみると、三浦一族のエピソードは海や海沿いの山に関わるものが多く、三浦一族は海人族だったんだなと思います。きっと僕の考える通り三浦一族は、九州から四国を経て海沿いに北上して来た一族が、尾張に本拠地を構え、伝説ではあるけれど、ヤマトタケルノミコトのように東を目指して来た尾張の一族のうち、一部はこの地に残った(他のグループは鹿島へ進んだ)のが三浦一族の先祖なのだろうか?ならば三浦と言うのは本来は「御浦」であり、熱田神宮と縁が深いのだろうと思う。そのせいで、三浦一族は存亡をかけて、熱田神宮の宮司の娘の子である源頼朝を助けて、鎌倉幕府の元をつくり、源氏を滅ぼした北条氏に立ち向かって、逆に宝地合戦で負けて滅びてしまったのだろうか?だって、尾張(東海市)の砂浜と同じ名前の「横須賀」と言う地名が残っているんだもの。でも横須賀の人は尾張(東海市)にも横須賀と言う地名が有るのを知らないのだろうな。ヤマトタケルについてもっと調べなければ。
April 3, 2026
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