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昨日の日記から先に読んでください 夢二はどのような気持でこの絵を描いたのだろう 店は評判が好かったのですが、いろく不始末から売る作品が無くなり立ち行かずにいたときに店の品薄を埋めてくれたのが、当時十八、九の少年だった東郷青児さんでした。 しかし、人づてに聞いた話から、夢二は私と東郷青児さんとの間を疑がい、旅先の富山にいた夢二は私を富山に呼びつけました。 夢二はそこで画会の準備中でした。東郷青児さんと私が親しいという話しを、笠井姉(彦乃)から聞いたと興奮し、泊の近くの海岸で私を責めました。 一晩中、九寸五分(の釘)を私につきつけて海岸をひき廻し、顔も五寸ほど切りました。雨で濡れたお召縮緬は足にからみ歩けず、倒れ込むと髪の毛を握って立たすので、毛がすっぽりと抜けて、銅銭程のはげが幾つも出来たました。虐めるだけ虐めて少し気が収まったのでしょうか、夜がしらんで来ましたので宿の温泉場へかえりました。 宿では皆が心配して、探しに出る所でした。血まみれの私をみて驚いて、別室に入れ休ませられましたが、夢二はそれでも再三部屋を覗いては、包み隠さずに云えと私を責めました。 そのまま午後になり、夢二は「気が休まればいいのだから謝れ」と言いますので、「申し訳ありませんでした」と、私がその様にいいますと、急に猛り狂い、短刀で私の左腕を刺しました。 短刀は骨にまで通ったため抜けず、血が止るまでハンケチで縛って止血し、友人を電話で呼ぶ始末でした。しかし、夢二もその人も刀が抜けず、最後には私が自分で抜きました。 その友人は夢二の頭を抑えつけて私に詑びさせ、夢二もようやく冷静になりました。そして、そのまま鉢巻姿で、一気に百五十枚ほどの画を二日程で描き上げ、画会は盛会に開くことができました。 人が静養を奨めてくれましたが、夢二は私を連れて帰京し、その医者通いにも、人をつける有様でした。大正四年のことでした。 港屋の名義はいつか夢二の名に替わり、店には笠井姉が居るようになったので、私は店を退いて高田の方に移りました。そこではチコと婆やが権利をもち、私は戸籍にも認められぬこととなりました。一番苦しかった時期です。 たまきによると、笠井彦乃はこの頃には港屋に入り浸っていたということでした。しかし、なぜ本郷あたりまで出かけてたり、京都に逃げなければならなかったかというと、日本橋の港屋の近くには彦乃の父親のやっている紙問屋があり、彦乃は父親から厳しく交際をとがめられていたのです。 夢二は、彦乃と暮らす準備のため京都に行きます。この時、たまきが子どもの不二彦を夢二の元に送り届けたことは先に書きました。 この間の経緯を幾人かの回想録などから調べてみると、たまきと彦乃のあいだには壮絶な駆け引きがあったのてではないかと、僕には思えるのです。たまきが可愛い子どもを夢二のもとに送ったときの心境を考えると、僕には不憫を感じてなりません。
2004.11.28
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まるまる茸さんやっぱり男は身勝手で、女はしたたかだなぁ...子供の頃から、気を引きたい相手に対して、どんなふうに接したらいいかを本能で知ってる。大人になるに従って、その術に磨きがかかる。さらに愛情を一人占めするために、外堀を埋めることも忘れない(^^;) すごいなぁ...たまきと彦乃、立場が逆転してたらどうだったんだろう。奥さんの立場としては、たまきのように口うるさくなるのは当然といえば当然だもの。結ばれるのが難しい恋は、余計に燃えますよね。一緒に生活を始めた熱々の二人が、現実に向き合ってどんなふうになっていくんだろう...生活をしていくことと、恋愛をしていることとのギャップに、幻滅したりするのかなぁ? 楽しみだわ。ちょっと意地悪な見方だけど(^^;)苺1500さん (彦乃が)父親の愛を得るために義母と競うということはないのではないかと思います。私は全く同じ状況だったのですが、父が私を一番愛してくれていると信じて疑いませんでしたよ。義母との間に何故子供が出来たのか今も不思議です。(ー.^)やっぱり彦乃は天性の愛されるタイプだったのではないでしょうか。 夢二は京都で彦乃と暮らし始めました。 夢二にしては、真剣に愛した女であったから、しばらくは幸福なひとときを過ごすのであったが、ここまでのたまきの状態が気がかりです。夢二が、たまきからどのように彦乃に乗り換えていったかを、たまきの証言から追ってみましょう。 尚、語り言葉をそのまま文章化してあり、すこし読みにくいので、僕の手で加筆添削してあります。以下、たまきの回想をもとにしたものです。 正月の五日に約束してあった画会のために岡山へゆきましたが、夢二は旅先で姿を隠してしまい、ようやくのことで料理屋から探し出し、開会できました。 岡山は夢二の故郷で、墓参もすまして、大阪に出た時には、私はもう足腰も立たぬばかりに疲れ果ていました。それでも、文楽だの道頓堀の見物など連れ歩かれた時なども、一人では歩けず女中さんの世話になってやっと身を支える程でした。 それから京都に行き柊屋に泊りました。玄関側の小室に通され、宿帳づけしてから祇園に行きました。 十時頃帰ると家中の方々が御出迎えして、大きな部屋に案内されました。奥の大広間には宮様の御真筆の額掛物、床には白木蓮が生けられてありました。財布は軽いし、心配で眠られぬ一夜を過ごしたのです。 朝になると、女主人のおふみさんが見え、昨日は亡娘の一周忌の墓参のため留守をしていて、失礼を申しわけありませんでしたとの事でした。私も心配を話すと、昨日命日だった娘が、とても先生を好きで、先生の室があるとて案内されました。 そこには、夢二のものが細大漏さず集めてあるのに驚きました。この日記をみて下さい、之も世に出したいといわれ、その娘さんに逢うような気持ちで其日記を預って帰りました。娘さんは若くて舞鶴心中をなさった不幸な人でした。 娘の供養だと、とてももてなして貰い、一週間程おりました。その間、夢二は私を置いて先斗町へ人りびたりでした。 途中名古屋で会をすませて帰京し、五月には亀原(雑司谷)に移りました。初夏には那須へ旅でました。留守はチコ(二男不二彦)には婆やをつけて残しました。 私は旅先で三ヵ月の流産をしましたので宿に残され、夢二は福島ヘ一人立ち、八月末に帰京しました。 東京に帰ると、突然に夢二は約束した女があると言って離縁状を渡されました。私には自活させるといって、日本橋の呉服橋通りに店を開きました。それが港屋でした。 ところがいつか京都に行くと言っていた話は立消えとなり、店へ夢ニが入り込んで来て、他のいろいろな作品も売ることとなり、始めの約束も崩れてゆきました。 そこへ笠井さんが現われ、親しくなりました。 明日の日記につづきます
2004.11.26
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雪の日の息子と娘子どもだと思っていた娘ももう25歳になる。その娘から食事を誘われて久し振りに仕事を早く切り上げた。といっても、8時を過ぎていたが…。娘はある大型店にある宝飾チェーン店の店長をしている。といっても、下には3人しかいないから単なるチーフといった役割だろう。店が隣県にあるので、2ヵ月に1度くらいは家に帰ってくる。帰ってくると仕事のあれこれを思い切り話して、話し終えると充電充電といって、次の日の昼近くまでぐっすりと寝てから、再び職場に戻るというのが普通のパターンだ。以前、DVについて書いたことがある。僕は、妻にたいして手をあげたことはない(フェミニストではない。単に、相手のほうが強そうだからだ)。しかし、幼児期から小学生頃までは子どもの尻を叩いたことはよくある。暴力は良くないというが、言葉だけでわからない年代というものもあり、人格が形成される幼児期にはケースバイケースで体罰もありだと思っている。ただ、むやみやたらには叩かない、明らかに他人への迷惑や悪戯が過ぎると認識したときに、パンツを脱がせ手形がつくほど叩く。直接的な暴力ではないが、妻も相当なものだ。息子たちとは高校を卒業するまで、激しく喧嘩していた。妻の場合は感情的に泣きながら怒るのだから迫力が違う。その頃になると僕が仲裁役だ。もちろん、叱ったあと抱きしめるのも妻の役割で、何か要領がいいなー、と感心したものだ。子どもが成長する課程で、2度の反抗期があるという。振り返ってみると、その1度目のときを僕が担当し、度目には妻が担当していたように思う。結果論的なことでいうと、子育ては理屈ではないと思う。いい子に育てようと思って、育児書などを読破してもまず無意味だろう。いい学校、いい大学くらいまではそれで成功するかも知れない。しかし、社会に適応してゆくためには人間同士の体温や社会での不条理を身体で覚えなかったら、現実への順応性の低い人間になってしまうのではないだろうか。最近、ネットのなかを徘徊する頭でっかちの青年(?)たちを見ていてそう思う。自己弁護的ではあるが、僕も子育てのなかでずいぶん反面教師を演じてきた。演じたといっても、それは無意識のなかでのことではあるが…。高校生のときに娘を叩いたことがある。ボーイフレンドを家につれてきたときのことである。その日は僕の文芸仲間が家で句会をしていた。娘は、ボーイフレンドを自分の部屋に連れて行った。高校生の男女が個室で二人だけになる。これはイエローカードである。暫くして彼氏が帰ったあと、娘に注意をしたら僕の来客がいたことなどを理由に強く反抗した。(胸に手をあてる余裕が無くなっていた)僕はカッとなって娘を叩いた。娘に手をあげたことはほとんど無かったので、娘もショックを受けたようだった。次の日、いささか行き過ぎたと反省した僕は、手紙を書いて娘の机の上に置いた。詫びの気持ちと一緒に、青年期の男の性衝動は自分でコントロールできないこともあるというような、異性とのつきあい方などを書いた。後から思えばよけいなことではあったが、ともかくも口ではまともに伝えられそうもなかったからだ。翌日、娘からの返信が僕の机の上に置いてあった。信頼してくれていると思った親に信じてもらえなかったのが悲しいというようなことが書いてあった。愛知県の大学に行くことになって、初めてのひとり暮らしが始まる晩、寂しいと泣きながら電話をしてきたが1ヵ月も経つと、何人も友達ができて学生生活を謳歌していた。そんな甘くホロ苦い思い出もあったが、大学を出て勤めてからの娘はだいぶ頼もしくなった。大学に行かせてもらった分は返したいと、妻になにがしを渡しているようだ。昨日は、お父さんのかわりにお母さんに結婚指輪といって渡していた。「どうせ、お父さんからは一生もらえないだろうから…」とのたまっていた。そう、僕は偶像崇拝はしない性格なのだ。どうせ自分の店のノルマもあってのことだろうが妻は喜んでいた、単純なものだ。そんなわけで、今日は僕へのプレゼントという意味なのか、居酒屋で家族で一杯やってきた。もちろん(?)娘の奢りだ。この娘もいい歳になってきたから、いつ彼氏を連れてきてもおかしくない。いつまでこんなふうにしていられるのだろう……。
2004.11.25
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ポンボさん 両者とも、埼玉新聞にも掲載されていました。転記するかどうするか、迷って取ってはあるんです。地方紙って同じ記事が載るもんなんですね。(2004/11/24 06:52 PM) 「憲法を語る」という特集は(多分)共同通信社が配信した記事だと思います。したがって、共同通信社と契約している新聞社であればどこが掲載しても不思議ではありません。実はこの特集では、後藤田正晴氏、中曽根康弘氏、小沢一郎氏の3人が答えています。alex99さんより、中曽根康弘元総理がどのように語っているか知りたいとのご希望ですので紹介します。とすると、小沢一郎氏の意見も紹介しないといけませんかね。基本的には3人とも保守本流で憲法を改定を肯定する人、だから護憲派という意見も紹介するべきでしょうが、それについては「九条の会」などのHPでご覧ください。ご承知のように、新聞記事の部分引用については許されているのですが、転載は特別な事情がないかぎり許可されていません。しかし、いわゆる元祖改憲論者のような中曽根氏の発言を部分的にだけ紹介したのでは、都合の良いところだけ利用するとの謗りがまぬがれませんので、あえて全文を紹介します。したがって、コイズミ的超拡大解釈ですが、このところの憲法論議の資料としての引用ということで、「信濃毎日新聞」さん、大目にお願いします。なお、関連記事などもっと詳しく知りたい方は信濃毎日新聞社〒380-8546 長野市南県町657 TEL 026-236-3000にお申し込みください。国家像や文化を前文に現内閣は戦略・発想力欠落■最近の憲法改正論議の高まりをどう見るか。 「歴史的な自然成長力というものが国民的機運を促進している。世論調査をみると、若い人たちが改憲に非常に熱心になってきた。六十、七十歳の老人が消極的だ。若い人が目覚めてきているということは日本の将来に向かって非常に心強い」 「東西冷戦が終わって米国体系、ソ運体系、第三勢力体系が崩れ、散乱の時代となって、ナショナリズム(民族・国家主義)とかアイデンティテー(存在意識)を強調していく時代になったことが日本人も分かってきた。だから改憲論が強くなってきた。これは自然の成長だ」■現憲法で守るべき点と変えるべき点は。 「民主主義的な政治構成、自由、人権の擁護は守るべき要素だ」「直すべきはまず前文。日本の歴史的、伝統的個性、文化の重要性、明治憲法と昭和憲法の歴史的意味、意義を認めて前文を作ろうということだね。過去、現在、未来の国家像を盛り込むべきだ。第一条に主権在民の日本の象徴的元首として天皇制を位置付ける」 「平和と同時に文化を強く訴えていくべきだ。文化は価値を創造することだから、そういう積極的行為を理想として強く掲げたらいい」■文化明な価値とは。 「天皇制を維持してきたこと。文化の問題としては、わび、さび、もののあわれという価値を日本人は世界で初めて摘出した民族でしょう。われわれの精神明なバックボーンになっている」■「愛国心」を前文に盛り込む主張もあるが。 「あえて愛国心という言葉は使う必要はないと思うね。それは教育基本法の問題だ」■九条はどう扱うか。 「一項は不戦条約のようなものだからこのまま残し、二項に自衛のための防衛軍の存在、三項で国連や国際機関による平和や人道・人権のための協力行為への参加、最後に首相、国会による文民統制を掲げたらいいだろう。集団的自衛権は(現行)憲法上行使できる。改正する場合には、もちろんそれは入る」■その他の改正点は。 「首相公選、非常事態の規定、憲法裁判所の設置、憲法改正の手続きを今よりやさしくすることが要点だ」■改憲論議の行方をどう見るか。 「来年の十一月以降、自民党、民主党が改憲草案を発表すると憲法問題の処理が政治日程に上ってくる。(改憲発議は両院で)三分の二(の賛成)を必要とするから政党間の連合とか、場合によっては大連立もあリ得る。しかし、それには数年かかるだろう」 「改正内容も大事だが、改正自体が非常に重要な要素だ。内容は小異を捨てて大同について三分の二をつくる方向で各党が考えることが大事だ」■日米同盟と国連中心主義のバランスをどう保つべきか。 実質的には日米同盟が主で、国連は国際貢献の意味で役立っている」■小泉内閣の対米姿勢の評価は。 「日米同盟に忠実にやっていこうとしてブッシュ大統領に評価されている。けれどもニ十一世紀の国家像とか国家戦略、外交・安保戦略、中長期的な発想力が欠落している。日米同盟は臨床的対応しかやっていない。(根本的な)病理学がない。それは次の政権で直していかないといかんね」 「われわれの時代は戦争で戦い占領の屈辱に耐えて一日も早く占領政策から脱却しようと真剣勝負であった。今の連中は歴史観と宗教性が足りない。われわれには山川木悉皆(しっかい)成仏という仏教的思想体系が体にこもっている。戦争体験で死生観というものも出てきた」■自衛隊のイラク派遣期限が十二月で切れる。 「大きな変化がない限り、やはり延長して国際貢献するのが適当だ。(派遣について)私は賛成だし、支持している」■日米関係の今後は。 日本が核武装しない限り、核防護面において日米同盟は続けていかなければならない。米国が日米同盟をやめるとか、日本を核で守ることをやめるという段階になると、安保体制や日米同盟の再検討という問題が起こるだろう。ただ、そういう時は当分来ないね。だから現状を改良していくということだろう」■米軍再編問題をどう見ているか。 「米国は欧州をもう重視しない。欧州からは兵力を引いていく、その代わり、日本から(中東の)湾岸に至るまでの戦略体系をこれから構築する。そのために日本の位置が非常に重要なものに変わってきた。だから(極東から中東までの)『不安定の弧』の軍事戦略の一つのセンターを座間に持ってきたいという形になってきている」「今まで日米安保条約は日本の専守防衛に役立たせるためにあった。だから極東条項もあった。当時、敵と考えられていた共産主義・ソ連は崩壊した。そして敵はテロになってきた。日本もそれに即応した体系変換を行わなけれぱならない。十二月までにつくる防衛大綱に入れ込んでいかなければならない段階だ」■在日米軍の活動範囲が極東を超える、との指摘もあるが。 「世界的貢献に自衛隊をどう役立てるか、という問題が出てくるだろう。日本も国益を十分に考えた上で自主的な政策転換を考えなくてはいけない。自衛隊も改編が必要だ。湾岸戦争で米国が使ったような精密破壊兵器とか近代兵器の体系に移動しなければいけないし、朝鮮半島や台湾問題を考え、それにも対応するだけの防衛の備えを持ってなければならない」中曽根さんらしい発言ですが、現実味を帯びてくると昔よりかなり慎重になってきた印象を受けます。ポイントになりそうな部分を、僕が太字にしてみましたが、あえてコメントはしないでおきましょう。 竹久夢二考については、少しのあいだ休ませてください。 お楽しみに!
2004.11.24
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信濃毎日新聞(2004.11.23)信濃毎日新聞(2004.11.23)に「憲法を語る」が連載されています。先日の中曽根元総理につづいて、今日の紙面では、後藤田正晴元副総理が憲法・自衛隊イラク派遣について明快に語っています。一部ですが、主要部分を引用してご紹介しましょう。全文をご希望の方は、信濃毎日新聞社〒380-8546 長野市南県町657 TEL 026-236-3000にお問い合わせください。平和・不戦の精神変えず自衛隊イラク派遣は矛盾■憲法改正論議についての見解は。「権力を立法、行政、司法の三権に分立して、相侵さざる仕組みや運営のやリ方を決めたのが憲法だ。国民の立場に立ち権力行使の勝手を許さない。これが一番の根底にある。そういう意味で時の政権を握った人間が勝手に変えることがあってはならない」■解釈が限界では。「憲法は安定性が必要だ。しかし、世の中の変化が激しく柔軟な解釈では間に合わないときには改正するべきだ。あまりいいかげんな解釈をすると憲法に対する国民の信頼感がなくなる。」「日本の先行きが内外ともに混沌としている。焦ってやりだすと国論を二分する事態もあり得る。よほど慎重にやらないといけない。■どこを変えるか。 「改正する時は、前文から全部やれ。だが、これだけ憲法の恩恵を受けた国民が世界に皆無だ。戦後約六十年、文字通り平和を享受して国民の安全が守りれた。だから、この憲法のいいところは必ず残せ、ということだ。それは国民主権、民主主義、そして平和主義、国際協調主義だ」■九条はどう変える。 二項(戦争放棄)は変えてはいけない。ただ、二項(戦力不保持と交戦権否認)はちょっと書きすぎている。交戦権の否定は、自然権を否定する面がある。相手が攻めてきた時にどうするのか。当然国民は銃を持って立ち上がる。これは国家の正当防衛権だから交戦権は自然権として持ってしかるべきものだ。従って二項は変えていい。その代わり、日本の領域外では武力行使は絶対に行わない、これを一項に入れる。自衛隊をきちんと国の機関として置く。国際貢献は大いにやるべし。■自衛隊イラク派遣と憲法の関係は。「派遣は間遣いだ。武力行使はしない、戦闘地域には入らないと言っているが、自衛隊機が米軍の兵士をクウェートからイラクの前線へ輸送することが武力行使と一体にならないなんて(解釈は)どこから出てくるんだ。牽強(けんきょう)付会の議論だ。サマワがどうして戦闘地域でないのか。イラク全土が戦闘地域だ。そんなところにいつまでも自衛隊を置くのは論理の矛盾だ。小泉(純一郎)君は、戦争を知らない。まったく知識がない」■派遣延長すべきか。「非常に悩ましいところだ。来年一月の選挙が終われば正式な政府ができる。本当はそれから派遣すべきだ。だとすれば、期限が来たらやはり引き揚げるというのが一つの手かなとも思う。 今の自衛隊は何もやっていない。水の供給といっても、キャンプの中でイラクの民衆が取りに来て分けているだけだ。だから本当は(活動内容を)検証しないといけない。どんな成果をあげたのか具体的に説明してもらわないといけない」■現状への懸念は。 「戦争はいったん決めると、とことん行くまでやってしまう。太平洋戦争開戦時、僕は陸軍の下級将校だったが、無理な戦争を始めたなと思った。サイパンが落ちたときに手を上げるべきだったができず、沖縄まで行った。しかし有効な反撃ができない。毎日毎日前線が下がってくる。こんな戦を何でやるんだと本当に思ったな。それでもやめられないんだ。 日中戦争もそう。撤兵の判断ができなかった。イラクもそうなるよ。今度続いて行ったら引き揚げの理由がなくなる。(大義名分がなく)『無名の師』といわれたシベリア出兵の失敗を学ぶべきだ」■集団的自衛権の行使をどう考えるか。 「駄目です。こんなのをやったらアメリカに地球の裏側まで連れて行かれる」■米軍再編の対応は。 「国政の最大課題だが、アメリカがアフリカの東海岸、中東までにらんで指示をする司令部を日本に持ってくるという。しかし、日米安保条約は極東地域が限界だ。まったく間違っている」 「一九九六年の橋本龍太郎首相・クリントン大統領の会談で安保条約における日米協力の範囲をアジア・太平洋に広げてしまった。推進したのは外務省だ。日本は周辺事態を決められない。世界の軍事情勢を握っている米国が決める。日本はついて行かざるを得ない」■憲法の前文、九条以外で見直すべき点は。 「公共の福祉の制限規定があまりにラフだ。権力者によって公共の福祉の名の下に活動を制限される。もう少し具体的に書かないと言論の自由まで抑制される恐れがあリ得る」後藤田正晴元副総理ごとうだ・まさはる 東大卒。警察庁長官、官房長官、副総理など歴任。 現職中はあまり良いイメージをもっていませんでしたが、こんな人がいることが自民党の強みでもあったのですね。
2004.11.23
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hiyokitiさん ついつい たまきさんの肩をもってしまうひよです(*^_^*)ここに夢二が居たら喧嘩を売ってしまいそう(笑)です・・・。誰か止めてください。 竹久夢二の研究者などによると、夢二が真剣に愛した女は、たまきではなく笠井彦乃だというのが定説として言われています。たまきは性格が強く、夢二にあれこれ口うるさく性格もあわないため、喧嘩ばかりしていました。それにひきかえ、彦乃はひかえめで夢二に安らぎを与える存在であったようです。そのような理由から、夢二は彦乃へ傾倒してゆき、彦乃の早世ということもあり夢二の絵の儚げと重なり、印象としてたまきに分が悪かったようです。ここで読んでくださっている人は、どちらかというとたまき擁護派が多いようですが、どのようにスポットを当てるかによってイメーシは変わるものと思われます。僕は、一般の風評とはすこし別の角度から書いてみようと思っただけです…。笠井彦乃は日本橋の老舗紙問屋の一人娘で、女子美術学校日本画科の生徒でした。父親は彦乃を可愛がっていましたが、妻を亡くし再婚しています。子ども時代の彦乃は、父親からはとてもいい子であったようです。女の子を美術学校に入れるなど、裕福な家庭とはいえ当時としては破格の待遇といえましょう。ちょっと意地悪く考察してみましょう。彦乃が父親にとっていい子であったのは、愛情を継母と争っていたためとも考えられます。そのため、子どもの頃から父親にとりいる術を身につけていたのではないかと―。夢二と出会った頃、大人になりかけていた彦乃にとっての関心は父親ではなく、当時一流の人気画家であった夢二への憧れへと向いたのです。内心、たまきを邪険に思っていた夢二に、頻繁に港屋に訪れる彦乃は不遜ないい方をすれば、猫に鰹節状態だったとも言えましょう。彦乃が父親の愛情を確保するために身につけた術は夢二に向けられ、夢二にとっても心地の良いものだったにちがいありません。夢二が、たまきの浮気を疑い嫉妬したというできごとは、結婚後すぐに始まっていますが、港屋に入ってからもしばしば疑っています。そして最も強く疑ったのが、東郷青児との仲でした。東郷青児は独特の美人画家として活躍した人ですが、港屋に出入りしていた頃はまだ17歳でした。たまきは東郷青児に目をかけてやり、可愛がっていました。夢二はこの東郷と妻たまきとの仲を疑ったのです。たまきとしては、才能のある青年に目をかけたのは事実ですが、夢二が異常に嫉妬深い性格であることは、これまでの行いから知り抜いていたはずです。東郷青児と怪しげな関係になっていたら、どうどうと目をかけるなどということはできなかったはずです。あくまでも推測ですが、噂の出所は頻繁に港屋に訪れていた彦乃からではなかったかと思われます。事実、このことがより夢二を彦乃に向かわせることになったのです。東郷青児は、のちに19歳の女性との心中未遂を始め、数々の女性たちと浮き名を流すなどドンファンぶりでも有名ですが、この頃はまだ大人になりきっていない年代です。後には夢二とも親しく交流をもっています。 岸たまき 笠井彦乃 彦乃とは毎日でも会いたい夢二でしたが、彦乃の父親は夢二との交際を固く禁じます。夢二も、たまきに快く思えない感情を抱いていました。とうとうふたりは駆け落ちを決意します。大正5年11月、夢二はひとりで京都に行き護王神社横の堀内清方に身を寄せます。たまきは、京都に行ったまま帰らない夢二に業を煮やし一計を案じます。12月に、子どもの不二彦を京都に送り届けます。子どもが手元にいればたまらなくなって帰るだろうと思ったのでしょう。ところが、夢二は家を借りそのまま不二彦とともに暮らし始めます。不二彦を連れ室津に旅をしたりしています。そして、大正6年4月、高台寺に居を移します。転居を重ねた事情は住所を身内のものにわかりにくくしたものと考えられます。そしてこの年の6月、笠井彦乃が京都に来て一緒に暮らし始めました。いきなりふたりで駆け落ちするのではなく、周到な準備をして決行したことが窺われます。不可思議かな、男と女……。
2004.11.22
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楓。。さん >二人はすぐには深い関係になっていません。理由は後で書きます。わぁ、楽しみです。私も本名で呼ばれることが少ない人生です(笑) この頃になるとたまき絵を見る力が付いていたものと思われます。夢二になにかとアドバイスすることもあったようです。しかし、夢二の芸術家として扶持はつねにその先を見て悩んでいたのです。夢二が芸術仲間のM氏と交わした手紙のなかに興味深い箇所があります。以下、M氏に出した手紙より一部を引用します。君は芸術家と家庭―女といふことを言った。芸術とか天才とかいふ名のもとに、その妻や子を犠牲にする権能がどこにある。僕らは春の夢のやうな空気に包まれて、女をこしらへ、子供をこしらへてしまったのだ。若かったのだから今更、どうもなりはしない。然し、いつまでこうした生活が続くだらう。いつまで、我等の作が文壇の一角を占めて居られよう、全ての係累を捨てゝ勉強しなければ駄目だ。人生は空想ぢゃない。といふようなことを君はしみじみと語った。その時、僕の芸術も自覚すべき時が来たことを話した。すると君は、僕の顔を睨むように見つめて、その天分をもって、君はいつまで挿絵を画いてゐるんだろう。僕が若松町に居た時、君が見せた油絵は拙づかったけれど、忘れられない。何故、君は油絵を捨てたんだ、と君は思入った様で話した。その時僕は、今の所、僕は、絵の内部感傷を発想するには、敢えて油絵を要しない。これから僕のやってゆく挿絵―無声詩で沢山だ、僕は日本の某々画伯の如く、予備した顔料をもって、予備した色とコムポジションを膨大なコムバスに塗りたてる健全派の意気を持たない。僕の単純な官能は単純な線で思ふまゝに表白出来得ると、その時、君に答へた。今にして考へと見ると、僕はその頃、芸術といふ言葉にあまり多くの尊敬を拂ってゐなかった。寝食を忘れて油絵を画くほどヂレッタントではなかった。一枚の傑作を画きあげるよりも、一日を少女と語り暮らした方がよかったのだ。(後略) 『夏の巻』の終わりにより夢二は、自分の芸術についてのたまきのアドバイスを鬱陶しく思っていました。夢二に芸術家としての定着と、ようやく得られた安定した生活を守りたいというのは、たまきからしてみれば当然のことではあったのでしょう。しかし、夢二にはそんな生活は自分の求めるものではなく、港屋に現れた彦乃と、歌うように美術を語り、普遍する芸術のいかがわしさを説くことのほうが、どれほど人生を豊かにしてくれるのかと思っていたと思います。それまで、芸者買いや吉原通いも相変わらずの夢二でしたが、彦乃の直向きな瞳に出会ってからは、初恋を覚えた少年のように浮き立っていたのでしょう。夢二らしいといおうか、らしくないといおうか、とにかく純愛的な恋をしてしまったのです。どんな女たらしの男でも、自分が心底大切にしたいと思った女は簡単には抱けないものだったのでしょう。彦乃との交際を親に固く禁じられ、たまきから生活の安定を迫られる(夢二にとっては)息苦しい1年ほどの月日を経て、始めて彦乃を抱いています。そこからは、しばらく後にふたりはすべてを捨てて、京都への駆け落ちを決行するのですが、その間に菊富士ホテルまでの逢瀬がつづいていたものと思われます。
2004.11.20
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今日は息子の招待で、ボジョレーヌーボのでるパーティーとやらに行ってきましたよ。生牡蠣、キャビア、エスカルゴ、訳のわからない豪華な飽食料理がいっぱいあって、フランスの外貨稼ぎに貢献してきましたよ。それにしても、ボジョレーヌーボって、日本では千円以下のテーブルワインと同程度のものだね、正直言って。あんにものをありがたがる人々の気が知れない。まあ、息子のサイフだからあまり文句を言ってはいけないけれど…。 秀0430さんのサイトでのすれ違い、結論はともかく、騒動もほぼ終結い近づいて来たようですね。しかし、忌憚無く言わせてもらえばBBSの雑言はとことん言葉遊びの世界ですね。もっとも国会も似たようなものだけれど…。この間イラク全土で、そして現在までファルージャで行なわれ、これから世界で起きるだろうできごとは、法律はもとより人間が過去の犠牲を礎にコツコツ築いてきた暗黙のルールを木っ端みじんにしかねないことだってことを、皆さんいったいどれほど自覚して語っているんだろうと思うね。今、死にゆく人々に、他国の法律やルールの解釈がなんの意味をもつのだろう。テロリストと国家の間に厳密な線引きなどできないよ。国家といえど人間の都合でできた集合体に過ぎない。いうなれば人間が生きるための便宜、あるいは地形的に同居した人々から発展したきた集団にすぎないと思うよ。国連や国際的機関も、大きくはそのはしくれ組織だ。本音のところでは、弱者の味方などにはなっていない。エゴのたてまえ集団をとりあえずの衣で装っているに過ぎない。あえていう。虐げられた人々が衝動的・散発的に恨みを晴らすのがテロで、計画的・効率的に大虐殺を実行するのが国家としたら、そこに善悪の、正否の、どんな理屈付けをしても結論は無意味でしかないでしょう。イラクはもちろん、アフガニスタン、パレスチナ、チェチェン、バルカン半島、アフリカ各地、等々で殺され虐げられている人々にとっての願いは、どんな高邁な理念や屁理屈より、今の食べ物であり、今の寝る場所であり、ほんのささやかな平和、家族の安全だと思うよ。少なくとも彼らの、生物としての存在を否定されている状態が少しでも改善したら、テロなどという、効率も印象も悪い方法を使う輩は激減するでしょうよ。ネット間での数々の主張や能書きが、数分の1でも彼らの苦しみを緩和でき、共感してあげる建設的なものであればまだ救われる。わが政府もしかり、その同調者もしかり、どんな屁理屈をこね回してみても、単に血税を垂れ流して同盟国とやらのご機嫌をとっているにすぎない。そんな余力があったらすぐに新潟に回すべきだよ。イラクに行っている自衛隊も期限の切れる12月などは絶好の撤退時期じゃあないかな。イラクはアメリカが最後まで責任をもって復興させるか、すぐに撤退するかどちらかしかないでしょう。いずれにしても、イラク侵攻に踏み切ったツケは、大きな犠牲をともなってこれから数十年はついて回るでしょうね。もう眠い、今夜は寝ちゃおう。
2004.11.19
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苺1500さん菊坂ホテルでしたか?わたし菊水と覚えていました。いろんな当時の作家が逗留というか、住み着いていた所ですよね。msk222すみません、勘違いしていました。菊坂にあった「菊富士(きくふじ)ホテル」でした。本郷の旅館街には修学旅行で泊まったことのある人もいると思います。いかがわしい連れ込み旅館というものではなくて、文人などが泊まった(どのように使ったかは別として)きちんとした旅館でした。「菊水」はお風呂ですね。懐かしいナー、「菊水湯」という銭湯があって、僕もよく入りに行きました。近くに樋口一葉の生家がありました。念のため「菊富士ホテル」を調べてみました。 東京都文京区本郷菊坂に、かつて「菊富士ホテル」というホテルがありました。 大正から昭和10年代後半にかけて、数多くの著名な文学者、芸術家、学者、思想家たちが、数ヵ月、あるいは数年にわたって滞在し、ここを舞台に数々のエピソードを残しました。有名出版社の入社試験にこのホテルのことが出題されたこともあったといいます。 宿泊者の顔ぶれは、竹久夢二、大杉栄、菊池寛、谷崎潤一郎、尾崎士郎、宇野千代、宇野浩二、直木三十五、三木清、広津和郎、正宗白鳥、宮本百合子、石川淳、坂口安吾、…といった、当時を代表する、そうそうたる人々でした。chappi-chappiさん 日曜日にNHK教育テレビで、「黒船」という歌と舞踊をやっていました。始まる前に、夢二の「黒船や」と書いてある絵が解説されていました。黄色い着物を着たたまきの絵ですね。「最初の夫人」と言っていましたから、後に何人か続くのだな、と想像しました。msk222『黒船屋』を描いたときのモデルは佐々木かねよ、お葉といいます。お葉は楽天仲間のサラMさんが芝居のなかで演じたそうですね。NHKの解説が「最初の夫人」と言っていましたか、夢二は正式にはたまきと結婚しただけですから、彦乃もお葉も愛人ですね。『黒船屋』のモデルもお葉ですが、実際は彦乃を想って描いたものでしょう。NHKさん、訂正してください。 大正3年、竹久夢二は東京の日本橋に自らがデザインした商品を販売する店を開きました。店主にはたまきがなっています。この頃は、創作に打ち込んでいたため仕事も多く、夢二も広く世間に知られるようになっていました。店は夢二ファンで賑わいをみせ繁盛していました。その店に、足繁く通う一人の女性。女子美術学校の学生であった笠井彦乃です。日本橋の老舗紙問屋の一人娘で、18歳でした。夢二とひき合うものがあったのか、単なる夢二の浮気心だったのかはわかりません。夢二のほうから声をかけ、たちまち親しくなります。夢二32歳のときですから、ひとまわり歳の差があります。美しかったたまきも生活に追われてきた34歳、この時代は現代と較べればおよそ10歳くらいはプラスして考えたほうが妥当かも知れません。創作に打ち込んでいた夢二はたちまち彦乃の若々しく知的な姿にのめりこんでゆきます。ここで、勝手ながら僕の推測で書きますが、二人はすぐには深い関係になっていません。理由は後で書きます。有名画家の夢二と彦乃の恋は周囲に知られることとなります。彦乃の父親は、夢二との交際を禁じました。たまきやお島さんとの交際に際しては、家族にも堂々と交際を申し入れるという大胆な夢二でしたが、さすがここではそうはゆきません。当然、ふたりの交際は深く沈んだものになってゆきました。ふたりは、互いに符丁で呼びあっています。夢二は彦乃を「しの」または「山」と呼び、彦乃は夢二を「川」と呼んで手紙を交わしています。こうした抑圧された恋は、なおのこと燃え上がり、ふたりは人目を忍んだ逢瀬を重ねます。ふたりは大正5年の5月22日に結ばれます。先ほど推測と書きましたが、実は夢二は交際の様子を記録に書き残しているのです。〈池之端に出て、岩崎の裏道からまた大学の門に出た。しづかにさようならをした。ほんとになにげなくシーは門の内へ、ヒーは左に折れた。そこにお家騒動でもありさうな門がある。まだあったのだ……〉 この頃、本郷の菊富士ホテルなどを利用した記録がのこっていますが、日本橋から本郷までは相当の距離があります。しかし、日本橋―神田―上野―湯島―本郷あたりは人目を忍んで歩くには好適地です。湯島天神あたりから東大の三四郎池を抜け菊坂までには格好なポイントが幾つもあり、ほどよく汗ばんだ肌を休めるには本郷の静かな旅館街はおあつらえむきだったことでしょう。何でこんなに詳しいかとお思いでしょう。実は僕は青春時代に本郷に住んでいたので、このコースは慣れ親しんでいるのです。もちろん、夢二のような浮いた体験は一度も、たぶん、ありませんでしたが…。さて、ここまで書くのに一苦労です。人差し指の先まで血が死んで爪は黒ずんで、ズキズキしています。この後はつづきとします。 君ゆえにの絵に注目してください。これは彦乃をモデルにしたものと思われます。背景に上野寛永寺が描かれていますから、たぶん東大敷地内からスケッチしたものでしょう。赤門を抜けるとすぐに菊坂となります。
2004.11.18
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夢二のアルバムより左の指先を車のドアに挟んでしまいました、あ痛ったた…。いま初心者コースでキーボードに向かっています。しばらく長い文は書けそうにありません。少し年表で追ってみましょう。夢二は、早稲田にあった絵はがきやのつるやの麗人として学生たちに人気のあったと岸たまきとの結婚に成功したのが24歳のときです。この経緯については先に書きました。その翌年25歳の時、長男虹之助が誕生します。そして夢二26歳のときにはたまきと協議離婚します。もっともこれは周囲の者たちが仕組んだ離婚劇ですが、たまきにとってはそのまま別れた方が幸せだったのかも知れません。そして、再会したたまきと同棲、連れだって訪れた銚子で、お島さんに恋したのが夢二27歳のときです。28歳の時にお島さんへの失恋を知り『宵待草』が作詞されます。この年、交流のあった幸徳秋水らが処刑されています。そこからしばらくは夢二も落ち着いて作品作りに没頭しています。大正3年31歳までの夢二はつぎつぎと新しい作品を生み出し売れっ子作家として名を成してゆきます。大正3年、日本橋呉服町に趣味の店港屋を開店します。ここはすべて夢二がデザインして造られた店で、夢二の絵や作品が置かれた、いうなれば夢二専門店です。現在でも日本橋にありますが、当然当時の店とはだいぶ趣が違います。その港屋にひんぱんに訪れるようになったのが、後に一緒に暮らすことになる笠井彦乃です。彦乃は夢二が最も愛した女といわれていますが…。
2004.11.17
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親の許可がとれたとは思えませんが、お島さんとは幾度かの逢瀬を重ねた夢二ですが、お島さんは婚約者のあった身です。翌年、再び銚子に訪れたときにはお島さんの姿は見えませんでした。夢二は自分が訪れるのが遅かったのかと嘆き、「♪待てど暮らせど来ぬ人を~……」の「宵待草」の詞をつくります。娘が拐かされると心配した親がさっさと結婚させたのか、妻子ある夢二との泥沼に落ちこむ前に見切りをつけたのかさだかではありませんが、夢二の前から去ったお島さんでした。捨てられた(?)腹立ちか、その後の夢二は吉原の赤線、つまり身と心を使う職業女性のもとに入れ込みます。生活が成り立たなくなったたまきは、夢二の本の出版元の洛陽堂と交渉して月40円を生活費として送られる約束をして大森に家をもちます。夢二は上野クラブというアパート(今でいうちょっといいマンション)に越します。子供の不二彦が病弱で医者にかかりっぱなしということもあったり、約束のお金が半分しか届かないなどで、たまきはとうとう大森の家を閉め、身の回りのものだけもって上野クラブを訪れますが、それを怒った夢二はそのまま出かけて3日も帰らないのでした。たまきは子供を連れて、今は兄夫婦の物になっている絵はがきやのつるやの別宅の小店に一時世話になります。そこにはたまきの母親がいたからです。落ち着いてから、小さな家を借りてようやく母子の生活ができると思ったら、そこにひょっこりと夢二か現れ、「すまなかった、もう一度救ってくれ」と頭を下げるのでした。どうやら吉原での女遊びで、すべてを使い果たしたあげく上野クラブの家賃や、遊興費を踏み倒して逃げてきたようなのです。踏んだり蹴ったりそのままのような、たまきの苦労はつづきます。 ファルージャ壊滅、街に数百の遺体 米軍とイラク暫定政府が攻撃を続けているイラク中部ファルージャに、イラク赤新月(赤十字)社は13日、医師らでつくる緊急援助団をファルージャに派遣した。援助団は、水や食料などを積んだトラック5台と救急車3台で市内に入ったが、米軍は「危険すぎる」と市街地での活動を拒否した。このため、ユーフラテス川をはさんで市街地の対岸にある米軍占領地域の総合病院で待機し、市街地入りを求めて米軍と交渉を続けている。 援助団によると、市街地の様子は病院からも見えるという。バグダッドの本部に入った連絡では、市街地では銃声が続き、家屋はほとんどが破壊されている。路上のあちこちに遺体が放置されている。野犬が遺体を食べる姿も目撃された。電気、水道の供給は止まっているという。 ファルージャ在住のアリ・アッバス医師は12日、「何百もの遺体が街に横たわっているが、だれも手を出せない。水も食料も電気もなく治療もできない。助けを求めたい」とカタールの衛星テレビ局アルジャジーラの電話取材に叫んだ。 赤新月社のアハマド・ナセル災害対策部長は14日、朝日新聞の電話取材に「状況は破滅的だ。援助活動に入れるよう、戦闘を1時間でも止めてほしい。そして、国際社会の助けを強く求めたい」と話した。 asahi.com(11/14 22:43) 111111に近い人ということで、カレンダープレゼントはhiyokitiさんとポンボさんということにさせていただきます。111113 2004-11-16 21:41:11 ポンボさん 111112 2004-11-16 21:28:24 ***.ad.jp 111111 2004-11-16 21:11:16 *.ocn.ne.jp 111110 2004-11-16 20:59:30 hiyokitiさん
2004.11.16
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デジタル姫さんのところで最近の電話セールスの迷惑かげんについて書いている。これには僕も大いに感じている。わが事務所には、2回線3本の電話番号が入っている。こちらの都合もおかまいなしに電話がかかってくる。「こちらNTTのボソボソ…」「KDDの○○です、社長さんはいらっしゃいますか」「いません、出かけています」と、言って切ると、別の電話が鳴る。「NTTの○○です、社長さんはいらっしゃいますか」「さっき、いないっていったではないですか!」「えー、お電話するのは始めてですが…」たしか、この電話番号にははじめてでも、同じ人の声で、同じ人が受けている。まあ、仕事だからしかたがないといえばそれまでだが、こんなに電話の営業って儲かるものなんだろうか。先日は直接尋ねてきた。まもなくIP電話になるので、機器を点検しますと…。点検の後、これらの電話機ではいずれ使えなくなるか、機能がダメになるので替えてください、ついては……。とパンフレットを出して勧められる。それが高い高い、何年間も、毎月何万も払わなければならない仕組みになっている。IPにして電話代が安くなるメリットなどどこにもない。「これはサギだ!」と直感したが、名刺にはれっきとした「NTT代理店○○株式会社」とある。結局、1時間以上も大切な時間を潰されてお引き取り願ったが、こんなサギ商法が全国で行われているんだろうか。念のため116でNTTに問い合わせてみた。「IP電話になっても、いままでの電話機が使えなくなるということはありません。そのような営業があったら、NTTに直接依頼しますからとお断りしてください」とのことだ。IP電話といっても、電話局の事情であって受益者は便宜性だけ考えて決めればいいことだ。たしかに、同じ電話局同士の電話代は無料とか、海外通話も格段に安い。だから便利ではあるが、電話番号が割り当てられたものしか使えなかったり、市外局番からインプットしなければならないなど不便な面もある。ともかく、 IP電話にしたからといって電話機を替える必要はない、ということはたしかだ。 まもなくこのサイトが1のぞろ目になりますね。カキコミしてくださっているお馴染みさんで、111111に一番近い人に来年のきれいなカレンダーでも差し上げましょう。挑戦してみてください。
2004.11.15
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銚子の浜でお島さんとであうたまきは、牛込の倉島という夫婦の二階に移り住みました。ところが、ここでまた運命の悪戯が始まるのです。たまきは牛込に住み、そこから牛込にあった東洋幼稚園に通い始めました。倉島家は大きな家で、二階には幾つかの部屋があり、下宿屋として間貸ししていました。ある日曜日に、その部屋のひとつに長髪の青年が一人越してきました。帰宅したたまきとその青年とバッタリあって、お互いに驚きの声をあげました。その青年は、竹久夢二でした。たまきも、夢二が憎くて別れたわけではありませんでしたから、せっかく別々の部屋を借りたのに、住むのは同じ部屋ということになるのに何の躊躇もありませんでした。夢二は、たまきに職業婦人になるのをやめて二人の間にできた子どもの母親になって欲しいと懇願しました。もうすぐ卒業というたまきでしたが、卒業を諦めて九州に預けてあった子供を迎えに行くのでした。復縁した家族三人は、麹町山元町に移り居を定めました。絵が売れるようになっていた夢二家には学生だった神近市子が食客兼お手伝いさんとして住み込んでいます。神近は一年ほど一緒に住みましたが、後に学資を出してくれる人ができて出てゆきます。神近市子は津田英学塾(現・津田塾大学)に通う傍ら、平塚らいてうの)「青鞜」を発行した青鞜社に加入しています。その後は東京日日新聞社の記者として大杉栄や辻隆(つじじゅん)と知り合い次第に社会主義思想に共鳴し、アナーキズムに接近した小説、評論を発表しています。戦後は女性解放運動に努めたりしながら、社会党左派から衆議院議員選挙に当選して、売春防止法などの制定につとめています。ちなみにネットのなかでもときどき「アナーキズム」という言葉がでてきて、無政府主義者というテロリスト的なとらえかたをされていますが、一切の政治的、社会的権力を否定して、個人の完全な自由と独立を望む、という考え方が基本だったと思います。(正確に説明できているかな、間違っていたら補足を願います)このことから窺われるように、竹久夢二は平民新聞に絵や川柳を寄稿するなど、反体制運動につかず離れず関わっていました。神近市子が家を出てから、竹久家族は千葉の銚子に行き一夏を過ごしますが、ここでまた夢二の病気が始まります。浜辺で知り合った美人姉妹の妹、お島さんに恋をしてしまうのです。夢二はお島さんの家に行き、自分と交際させて欲しいと両親に訴えます。そのために、たまきと事実上の復縁をしたのにもかかわらず、籍は戻していません。夢二、芸術家とはいえちょっと身勝手ですね。ただし、この頃の時代背景というものがいくぶん影響していたのかも知れません。大正デモクラシーの波に乗って、いちぶでは進歩的な女性たちの性の開放もすすんでいた時代です。神近市子も複数の恋愛騒動を起こしていますし、辻潤を捨てて大杉栄に走った伊藤野枝などなど、華々しい相関関係が乱舞していました。 米国の「忠犬」と言わないで ブレア首相が会見で ワシントンのホワイトハウスで12日、会見するブレア英首相=AP 米主導のイラク戦争に参加した英国のブレア首相は、ブッシュ米大統領の「プードル(忠犬)」か。米英首脳会談後の共同記者会見で12日、英紙記者から大統領に対し、そんな質問が飛んだ。聞き終わる前に割って入った首相は、「『はい』と答えないで」。笑いで包まれるなか、大統領は「英国民を守る義務を果たすために決断した」と代弁し、「(首相は)強くて有能」「偉大な思想家」と持ち上げた。 英国ではイラク戦争とともに、ブレア政権の人気が落ちている。イラク中部ファルージャへの総攻撃に英軍が参加し、死傷者も相次ぎ、政権への風当たりは強い。来年に総選挙をひかえ、ブレア首相は支持率回復に躍起。記者会見でも「我々は米国の同盟国だからテロと闘っているのではない。テロとの闘いに信念があるからこそ、米国の同盟国なのだ」と弁明した。 (11/14 10:47) ブレアが忠犬なら、小泉は何犬でしょうか。どなたかが妄動犬ポチと名付けていましたが…。
2004.11.14
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今日は「議論」について少し手前味噌の話しをしよう。僕が「ひまじんさろん」というとぼけた名前をつけたのは少し由来がある。今から20年ほど前のバブル経済の絶頂期、地元の山麓に拡がる広大な平地林を潰してゴルフ場にするという計画がもちあがった。ゴルフ場を観光やリゾート地の切り札として、市の財政も潤わせようという、当時の日本各地で行われていたパターンであった。少し違ったのは、立案者が県外の大資本ではなく市の有力企業だということもあって、市は計画に乗り気だった。そこの社長はやり手若手の成長企業として頭角を現しており、地元の自然を県外のゼネコンに蹂躙される前に、地元資本で理想的なゴルフ場を造ろうと呼びかけ、市の職員も推進に向けて積極的だった。立案者の地元財界人と、市役所担当課のトップに立っていた人とが用地買収や計画の推進に立ち回っていた。これに対して、山林の地主や市民の多数が参加して反対運動が立ち上った。こうした場合のおきまりのコースとして、両者は感情的な対立へと進んでいった。反対運動の切り崩しのためのドロドロした噂も乱れ飛んだ(内容についてはまだ記憶に生々しいが、僕の周囲に関係者が多いので伏せておこう)。このときに、環境問題に関心のあった僕たち有志は「ゴルフ場を考える市民フォーラム」を計画して、ゴルフ場の推進役と反対者たちも招いて討論会を開いた。「市民フォーラム」は大会場を円卓方式にして、発言が公平になるよう1人2分間ルールを設けて議論を交わした。賛成反対双方から資料も提出され、午前から始まった議論は夕方暗くなるまで白熱した議論が続いた。推進役の社長も市の担当者も、もちろん反対派の大学教授や地権者たちも熱弁を振るった。ここでは、市民も聴衆として参加して、共感する意見には拍手がわき起こった。ゴルフ場を造った場合のメリットとデメリットの資料が双方から出され、それらを元に議論が進んだため、発言は力が込められていたが、感情的に罵倒しあうということはなかった。終了した後は、双方ともに言い終えた満足感が漂っていたように僕らには思えた。翌日の新聞には「ゴルフ場の賛否、朝までテレビ市民版」というような記事で大きくとりあげられ話題になった。この「市民フォーラム」を計画し運営した当時の青年達によって、「市民フォーラム現代人」というグループが生まれ、その後、市の大きな問題に対して「市民フォーラム」を開いたり、市民オンブズマンや提言などをするようになった。グループメンバーから、さまざまな市民運動や活動家が育ち、多彩な市民運動が存在する土地としては、こうしたグループの多い県内でも有数なところとされている。その後もゴルフ場計画は続いていたが、バブルの崩壊とともにしぼんでゆき、計画は撤回された。立案した財界人はその後一転し、ゴルフ場に投入するはずだった(?)資金を使って、自分の会社を環境適応型企業へと大きく舵をとり、森林公園のなかに職場があり、自社製品を提供するレストランや美術館を広い敷地内に建てるなど、環境企業のモデルのような優良企業へと育て上げていった。したたかだと思ったのは、あのときの「市民フォーラム」で、反対派の対案として出した、平地林の生かし方のアイディアが随所に取り入れられて、企業づくりに取り入れられていることである。「あのままゴルフ場をつくらなくて正解だった」と述懐していたことを、人づてに聞いた。その会社は、現在ではこの地区のトップクラスの優良企業として繁栄し、観光バスでの見学もひきを切らない。先日は、田中知事がバスガイドをつとめて訪れて話題になっていた。そのときに、市の職員としてゴルフ場推進役として八面六臂に働き、反対派と口角泡を飛ばしやりあった元課長は現在では退職して、今ではなんと、地域の川の自然や景観を守る会のリーダーとして活躍している。その会には、反対派に入っていた人達も何人か混じっている。やはり、ゴルフ場問題で環境への影響などを勉強したことが、その後の宗旨替えになったようである。そのときの「市民フォーラム」に参加した他の人達も、大学の研究者になったりユニークな起業家になったりと活躍している人が多い。僕らはいまだ細々と当時のメンバー等と「市民フォーラム現代人」というグループ続けているが、いまは月に2度ほど、それぞれの成果を持ち寄って語り合うだけの屁理屈人たちのサロンとなっている。それでも地元で政治的な出来事がおきると市やマスコミから実力以上にマークされて、そのつどこそばゆく苦笑するのである。ちなみに、「現代人」と書いて「イマジン」と読ませる。僕らは自分たちのことを「ヒマジン」と揶揄しあい、飲み会のたびに唾を飛ばし合いながら、泣かず飛ばずの傷をなめ合っている。 ファルージャのことを思いながら、「イマジン」を聴いている。人間にとって過去とはなんだろう。なんて反省のできない動物だろうか、と思う…。Imagine Imagine there's no Heaven it's easy if you try No Hell below us Above us only skyImagine all the people Living for todayImagine there's no countries It isn't hard to do Nothing to kill or die for And no religion too Imagine all the people Living life in peace You may say I'm a dreamer But I'm not the only one I hope someday you'll join us And the world will live as oneimagine no possessions I wonder if you can No need for greed or hunger A brotherhood of man Imagine all the people Sharing all the world You may say I'm a dreamer But I'm not the only one I hope someday you'll join us And the world will be as one イマジン想像してごらん天国なんてないんだ簡単なことだよ地獄だってないのさ僕らの上にあるのは空だけなんだ想像してごらんみんな、現世のためだけに生きるんだ想像してごらん国家なんてないんだ難しいことじゃない何かのために人を殺したり、死ぬことはないんだ宗教だっていらないさ想像してごらん誰もが平和に暮らす世界を想像してごらん人々が世界を共に分かちあうのを想像してごらん所有しないってことを君にできるかな強欲も飢餓もなくなる人はみな兄弟なんだから僕は夢想家だろうかいや、僕だけじゃないはずだいつの日か君も僕らと手をつなぎ世界が一つになればいいのに
2004.11.13
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世界は凍るノーテンキな日記を書いているうちにとうとうファルージャへの無差別攻撃を開始してしまった。イラク傀儡政府の要請というお題目で、アメリカは大々的な殺戮作戦を強行しているのであるが、いったいどこまで愚かな道を突き進むのであろうか。この殺戮によって、またまた幾つのパンドラの箱を開けたのだろうか。今回の攻撃の最大の目的だったのは、テロリストの指導者ザルカウィとその一派の殲滅だという。しかし彼はとっくの昔にファルージャを離れ、別の地に潜伏しているという。そもそもザルカウィなる人物にテロリストを束ね動かすほどの力があるのだろうか。〈幽霊の正体見たり枯れ尾花〉という、大量破壊兵器と同じ結果になりはしないだろうか。とにかく、それでもアメリカは抜け空の都市に向けて攻撃を始めた。テロリストと区別が不能ということで、戦闘に参加が可能と思われる年代の男たちの脱出を許さなかったため、その家族たちも残ったままだという。戦闘が始まったら家族や一般市民、子どもたちはみんなアメリカに対する戦闘員とみなされるのであろう。イラクの安定のためには、新政権樹立を妨げる武装勢力を排除したいとする動機には一分の理があることは認めよう。しかし、そのために一般市民をまるごと巻き添えに殺戮するという作戦は、殺戮のための戦争ゲームとしか思えない。イラク戦争はベトナム化し、最終的にはアメリカは得るものなく撤退せざるを得なくなるという見方もあるようだが、あのベトナム戦争よりはるかに深刻な後遺症を残すのではないかと懸念せざるを得ない。むしろ、半世紀以上の紛争となったパレスチナ問題の地球規模化したものと同列になることさえ考えられる。ベトナム戦争も、アメリカが敗退してから現在の復興まで至までに、周辺諸国まで巻き込んだ大混乱を経験しなければならなかった。隣国カンボジアをあげるまでもなく、戦争による軍事政権や暴力の置きみやげは、人間としてあるべき理性を失わさせ、とてつもない悲劇を引き起こした。このイラクで行われている虐殺が、誇り高いイスラム諸国の人々の血にいっそう火をつけてしまうことにはならないだろうか。クルド人などこれまで虐げられてきた小民族の多発的蜂起など、紛争の拡大につながらないだろうか。イラクで飛び散った血は、新たなテロリストとして世界中に拡散することはないのだろうか。イスラム諸国に一層つよい原理主義宗教がはびこることにならないだろうか。衰弱した身体が病気になりやすいように、虐げられ痛めつけられている世界の紛争地に、いままで眠っていた予想もつかない地球の病が湧きたってこないと、誰か保証できるのだろうか。今日のうるとびーずさんの日記に「ある大学生の怒り」として、ファルージャに住むイラク人学生からのメールが翻訳して紹介されている。詳しくは、リンクされているサイトに飛んで読んで戴きたいが、その一部をここで転載して紹介しよう。家をぺしゃんこにされて,赤ん坊の息子を殺された男性が,死んだ赤ん坊をカメラの前で抱いてこう言っていた。「これがザルカウィだ。これがザルカウィだ,間違いない。じゃなきゃ殺すもんか。」毎日(ラマダーンの)断食があける日没の祈りを終え,モスクから戻ったばかりの若い男性は,ご両親や兄弟姉妹が食卓について,彼を待って食事を始めるはずだったのに,家に帰ってみたら,ご両親も兄弟姉妹も死んでいた。全員だ。家が爆撃されて,みんな下敷きになった・・・昨日,バグダードで教会が2軒爆弾でやられた。そのときファルージャでは戦闘の真っ最中,それも総力戦だ。この町を,テロ行為で非難することが,今日でもまだ可能なのか?ザルカウィは自分の身を守るので精一杯なんじゃないのか?あなたがこれを読んで,あなたの家やオフィスの静けさを楽しんでいるとき,ファルージャの人々は死につつある,燃えつつある,叫んでいる。12,000人の兵士たちは訓練を受けていて,彼らを殺すために送られた。彼らは誇りを持っていたということ以外には,占領されることを受け入れなかったということの以外には,名誉ある生を誓い名誉ある死を誓ったこと以外には,罪は犯していないのに。窓を閉めて,あなたの生活に戻って,楽しんでください。夜はゆっくり寝てくださいね。僕たちのことなど考えていただくに及びません。政府に訴えようなんて考えていただかなくてもけっこうです。ファルージャの人々は殺されつつある「悪い人々」でしかなく,あなたがたは僕たちを解放しているのだから。レッド・アメリカ,万歳。khalid jarrar @ 11:19 PM / 7:24 PM*translated by: nofrills, 11 November 2004 朝日新聞社が23、24の両日実施した全国世論調査によると、12月に期限切れを迎えるイラクへの自衛隊派遣をめぐり、63%の人が派遣の延長に反対だと答えた。小泉首相が臨時国会の答弁で、改めてイラク戦争を正当化したことには「納得できない」が67%を占めた。内閣支持率は38%で、改造後の緊急調査の45%から下落。不支持率も35%から43%に増え、再び不支持が支持を上回った。 イラクに派遣中の自衛隊をめぐっては、23日(日本時間)に宿営地のサマワで着弾事件が発生。与党は派遣延長に前向きだが、自民、公明各支持層でも反対がそれぞれ49、46%で賛成を上回った。小泉首相が12日開会の臨時国会で改めて「米国などによる武力行使を支持したのは正しかった」などと発言したことについて、「納得できる」は18%にとどまった。
2004.11.12
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話しが前後しますが、夢二とたまきは東京江戸川区の中里町に、3間ほどしかない小さな家を借りて住んでいました。生活は苦しく、夜はランプもないなかで蝋燭1本をたよりに過ごすという暮らしでした。ときおり本の装丁などでお金が入りましたが、夢二は金が入るとそのまま出かけ、ほとんど使い果たして帰ってくるというありさまでした。たまきの実家、枝光の父親が東京見物だといって出かけてきました。たまきのたっての頼みに何度も生活費を用立てていた父親でしたから、東京見物を口実に少しは返済して欲しいと思っていたようです。竹久夢二という名前だけは少しは知られるようになっていました。夢二夫婦の家に4、5日滞在して、父親は娘を連れ戻そうと決意しました。家庭の呈を為していないことがあからさまに見えてしまったのです。父親は、たまきと子どもを無理に枝光に連れ帰りました。兄夫婦とも連絡し合っていたのでしょう。夫婦のあずかり知らぬ間に、偽造の印鑑を押した離婚届が提出されることになりました。たまきは突然の展開に驚き苦しみ、枝光の町をさまよい歩きました。歩き疲れて、偶然目に付いたキリスト教会に飛び込みました。これがたまきがクリスチャンになったきっかけです。 東京で離籍届けを出してくるようにと父親に厳命され、子どもを置いて上京したたまきでしたが、東京についたたまきがまずしたことは、神田三崎町の教会を訪れ洗礼を受けることでした。神にすがることで、この呪われたかの運命から解放されかも知れないと考えたのでしょうか。離籍届けを出すと熱心に教会に通い出したたまきですが、教会の牧師の座をめぐってのゴタゴタをみることになり、信仰に身をおく気持も薄れてゆきました。以後は、クリスチャンではあっても、熱心な活動はなかったようです。たまきが自立のために開いたつるやは兄の手に渡っておりました。生活の道を探るため、幼稚園の保母になる決意をして勉強を始めました。何件もの伝習所にかけもちで通い、朝から夜中まで勉強をしながらようやく、牛込の東洋幼稚園というところに勤め始めました。まだ資格もないたまきでしたが、しばらくすると主任をまかされるなど責任のある仕事についてゆきました。幼稚園の仕事が忙しくなり、通うのに都合の良い牛込の倉島という夫婦の二階に移り住みました。ところが、ここでまた運命の悪戯が始まるのです。遅くなりました。つづきはまたあとで…。
2004.11.11
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赤衣の女夢子>私は前々から、ドメステイクバイオレンスと言うものが信じられないと言うかなじめないと言うか。男の人が女の人に手をあげるなんて。でも事実あるんですね。友達の一人がダンナになぐられたことがあるもの。私なら絶対許さないわ。毎日剣道の防具かなぎなたの防具をつけてわざと、アピールしてやるけど。ハハハ…。ドメステイクバイオレンスを信じられないというのは幸せな証拠、結構なことです。自分より弱いと思うものに暴力を振るう男、いや女でもそうですが最低です。このように書いても、ほとんどの人は「自分は該当しない」と思っているでしょう。しかし、暴力とは単に腕力を振るうことだけではありません。言葉の暴力、ペンによる暴力、そしてネットのなかでの言論に対する圧殺行為も一種の暴力でしょうね。学校のイジメが問題になって久しいのですが、近年の校内暴力事件でもっとも問題な部分が、無意識の加担です。確信的ないじめっ子は、何らかの動機があってイジメにはいるわけで、調べてみるとその子も一種の被害者であることが多いようです。家庭不和の反動が子どもに現れるとか、幼児期の性的虐待とか、肉親による暴力の転嫁とかさまざまありましょう。そんな虐げられた子が、自分より弱い相手に暴力を振るうというケースが多く、そこに至る原因が推定しやすいものです。しかし無意識の加担は、家ではとくに問題がないのに、いじめっ子の暴力に便乗したり、助けるべくところで見て見ぬふりをとおしてしまうといったケースで見受けられます。原因のはっきりしない病気は治しにくいものです。一種の社会的病気とでもいうのでしょうか、現代社会のなかでは多いようです。ネットでもよくあります。掲示板などにステハン(一時的な便宜ハンドルネーム)で便乗的に書き込む煽り系。便乗イジメ、自分では気づかないネット病とでもいうものに取り憑かれているのでしょう。さて、前置きが長くなりましたが、夢二の再開です。夢二がたまきの美貌に惹かれ、強引ともいえる手法で口説き落としたことは前に書いた通りです。夢二もまだ24、5歳の頃でした。時代的にも、ジェンダーの差別意識が強かったとはいえ、夢二のたまきへの暴力はサドスティクなものでした。芸術家には得てして社会性に欠ける人がいるのは常識ともいえますが、ことに無頼派作家といわれた石川淳、坂口安吾、織田作之助、太宰治などは、元祖無頼系作家として有名です。先に書いた、石川啄木、そして尾崎放哉、種田山頭火、『火宅の人』の壇一雄もこの部類に入るのでしょう。社会の規範に馴染めずに、地の底をはいずり回りながら作品をものしていったわけです。夢二もまさにそのひとりであったわけです。たまきへの暴力は、腕力での直接的な暴力もありますが、こころの暴力ともいえるものも平行して進んでゆきました。その端的なものが、たまきと訪れた銚子でのお島さんへの恋、愛人として暮らした彦乃との恋とすすんでいったわけです。ああ、恋とは罪深きもの、されど懐かしきものなり…。このところ、野暮用のため続いて書くことができませんでした。夢二考まだまだつづきます。
2004.11.10
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msk222さん>失礼かもしれませんが、一言。>これだけの話を展開されているのなら、今回の中越地震といった自衛隊の災害時派遣の現状をいれて話されるべきではないですか?根本的には現在でも完全ではありません。とおっしゃっていますが、どういった点で不完全なのか、という点がはっきりしませんし。という質問をいただきました。IDが無くても、誠意をくみ取ることのできる質問ですので、僕の知識の範囲で対応しましょう。まずお断りしておかなければならないのは、僕がなぜこの議論を始めたかというと「自衛隊批判をしたいが為、自衛隊を見る事ができなかったにもかかわらず自衛隊批判をした」という人の、HPへのクレームのつけかたがあまり順当なものではないと思ったからです。自衛隊の災害出動にも触れておりますが、自衛隊問題の専門家ではありませんので中越地震への対応について僕が語るのは適当ではありません。しかし、せっかくの機会ですので、わかる範囲で、一般論として書いてみようと思います。もちろん、内容に責任をもつものではありません。今度の中越地震に際しては、発生3時間後に新潟県知事から自衛隊に出動要請がでて、阪神大震災時より広く素早く行動できています。被災地での主な活動、ライフラインといわれる水道やガス、電気などが使えなくなった地域での給水や食事を提供する給食支援、崩落した現場や倒壊した家の人命救助、そして医療活動などが行われています。また、被災者の搬送や仮設テントや仮設の入浴設備なども設営して、被災者の受け入れをしています。これだけの仕事をあげてみても、大災害における自衛隊の役割は大きく、胸をなでおろした人も大勢いることでしょう。と、ここまでは成果の実例です。素人判断なりに考えられる問題は、緊急時の災害復旧にかかる運用規定と費用効果です。まだ、中越地震の被害総額ははっきりしておりませんが、政府筋の試算では、台風23号などと重なる被害が拡大中で被害総額は2兆円規模という巨額なものに膨らむとの見方がされています。ちなみに自衛隊維持に投入される予算は、年間約5兆円です。「国民の生命と財産を守る」ためにこれだけの巨費を使っているのですから、費用効果だけを考えると、今度のようなときにはもっと大活躍できても良さそうとも思えます。しかし、費用効果ほどは組織が生かし切れていないという印象をもちます。活動の限界は自衛隊のなかでも認めるところです。その理由は、自衛隊は基本的には軍事行動を目的に装備されています。災害救助などは現状ではあくまで二次的なものなのです。被災者にあてたテントなど数日の滞在には便利でも、半年、1年という長期生活には不向きです。多量の土砂を片付けるブルトーザーのかわりに戦車を使うわけにはいきません。それと、要請のあった仕事について緊急避難的に行動するのが原則ですから、自衛隊の判断だけで救助活動は法的にできにくい仕組みになっています。これは、自衛隊の位置づけや存在の規定が付け焼き刃的に決められてきたということにもよるものでしょう。今度も、テント設営や仮設道路や橋などを考えると、各方面隊が回り持ちで即応体制をとっている施設科(工兵)などが大きな力を発揮すべきですが、現在、その主力はイラクに出動しています。交代して帰国したばかりの1隊は即応は無理とのことです。陸上自衛隊は多数の輸送ヘリコプターをもっています。小回りのきくヘリと空自の輸送航空団と協同運用したいところですが、現実には協同運用のノウハウがないとのことです。陸自には戦車を輸送するための大型トレーラー車が多数あり、自走が難しいブルドーザーなど民間の建設機材を大量輸送すれば、崩落地の復旧には大きな力を発揮できると思われますが、これも現在は法的にできないことになっています。(攻撃を受けた場合の)軍事行動以外に使えないことになっているのです。と、報道などから僕の知る範囲の問題点をあげてみました。再度おことわりしますが専門家ではありませんので、細かい点では不正確な部分があるかも知れません。ここからは余談になりますが、この際、僕ならこうしたいという私案ものべてみます。単なる私案ですが、さまざまな案を広く国民のあいだで議論して、合意できるものは実現してゆけば良いのではないでしょうか。「陸上自衛隊」抜本改組私案です陸上自衛隊の状態を、大災害出動を主に法も装備も整備して「自衛隊災害救助部隊」とする。日本の地形上、哨戒活動など軍事的な役割は空・海自衛隊が果たしてゆけるでしょう。陸自は起きる確率の高い災害出動への体制を整えたほうが、現実的。「国境なき医師団」にならって、「国境なき災害救助隊」への改組という提案もあるようです。国内が安定しているときで海外に大災害などがあって、要請があったときには「国境なき災害救助隊」が救援にでかけるような体制ができれば、こじつけのイラク派兵などよりよほど海外諸国からの印象度も良くなり、軍隊をもつより平和貢献になるのではないでしょうか。まあ、これは僕の絵空ごとですが、皆さんはそれぞれに自衛隊がどうあれば日本にとっての国益に合致するかお考えください。そうした意見がつもって、少しずつ国も動いてゆくものかも知れません。以上、これは本論とは大幅に脱線した文章です。この内容について責任をもつものではありませんし、内容についてこれ以上お答えするつもりはございません。あしからず…。
2004.11.09
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kimdongsungさんのサイトの掲示板での書き込みについて、長くなりますのでこちらに書きます。以後、某S氏さんはこちらの掲示板にご返事ください。自衛隊が軍隊であるかないか、憲法違反であるかないか、等についてはさまざまな人がさまざまな見解を述べており、現在は専門家でさえ絶対にこうであるという断定をできる状態にないのが現状です。しかし、解釈はどのようにもできます。感じるままに言えば客観的に見て、外見は明らかに軍隊です。しかし、国権に責任をもたなければならない人は、憲法との整合性から軍隊だとは口に出せない状態にある、ということでしょう。極論すればふとした過ちでできちゃった私生児が自衛隊とも喩えられますが、私生児も今や世界で第3位という膨大な軍事費をあてがわれる組織になっています。こんなに税金を使っているのに、大災害などのときくらい活用しなければもったいないでしょう。しかし、海外派兵など捨て金に等しいことに使っては困る、というのは僕の考え方です。もちろん、自衛隊に対してはそれだけでない様々な考え方があるのを承知しています。様々な考え方があって、そのどの主張も一概に否定するものではありません。kimdongsungさんの考え方も、某S氏さんの考え方についても主張することについては尊重します。それらをどのように位置づけていくのかは、これから国民の合意の元に決めてゆくことで、ここで合意の行方を論ずるつもりはありません。某S氏さんは、kimdongsungさんの、下記の発言とその信憑性を問題にして貴重な時間を費やしてきたわけですね。>阪神大震災の被災者として言わせてもらえば>今のままの自衛隊では、ほとんどお役に立ちません。kimdongsungさんや某S氏さんが阪神大震災の被災者であるかどうかは、この論点からはどうでもいいことなのです。被災者であろうとなかろうと、本質を論じることはできます。kimdongsungさんの述べた発言は、当時の自分の感じた体験からこんどの新潟地震について述べたもので、あくまでも個人としての見解でしょう。僕が体験した、阪神大震災では自衛隊が活躍したという発言とは、正反対の感触かも知れませんが、実はどこをとらえて発言したかによって一致するのです。阪神大震災が起きたのは1995年1月17日5時46分頃です。某S氏さん>資料を見る限り自衛隊側の指揮命令系統に混乱は見られません。震災時、関西を管轄する中部方面隊・約2万6千人は地震発生から43分後の6時半には「部隊の全部を行動可能な態勢に置く」という第三種非常勤務態勢に移り出動命令を今か今かと待っていました。8時10分には逆に自衛隊側からの要請督促があったが、通信が途絶し「早急に応援を要請しなくてはと考えていたが、決断に踏み切るだけの詳しい情報がなかった」と貝原知事は語っているように「革新自治体」兵庫県の反応はあまりに鈍く、それから約2時間決断できずにいた。兵庫県知事がようやく自衛隊に出動要請したのは地震発生から4時間13分後の10時であった。問題なのは当時神戸市が「革新自治体」であった事ですかね。首相も今は見る影もない弱小政党の老いぼれだったし。恣意的感情がたぶんに込められた文章ですが、事実関係についてはそのように僕も確認しています。ただし、要請の遅れは「革新自治体」で村山首相だったからという面より、自衛隊をここで使うべきかどうかがきちんと整っていなかったために、決断できなかったともとれます。判断力の鈍さもあったのでしょうが、それだけ自衛隊の役割をあいまいにしていたツケがでたということでしょう。僕はここではその責任の所在を問うつもりはありません。ここからが本論です。いずれにしても、地震発生から4時間以上の空白時間がありました。この間に建物の下敷きになったり、火災が発生したりと、被災地区すべてが大混乱の状態にありました。もし狭い範囲の被害であれば助かったかも知れない人、早く助け出せば死なずにすんだ人も大勢いたことでしょう。僕らも、テレビに映る広い範囲のあちらこちらから煙があがる光景を見ていて、これだけの規模になると消防だけではとても手に負えないのではないか、なぜここですぐに自衛隊を出さないのかと歯がゆく思って見ていたものです。僕が指摘した指揮系統の乱れとは、自衛隊だけを指すものではなく、国、県、自治体、すべてについてです。想定外の出来事とはいえ、これこそ一刻も猶予のない初動体制が求められていたはずです。後日、すぐに出動できなかった事情を知り、今さらながらあいまいのままの自衛隊運用の不備を思い知りました。憲法上の制約や、自衛隊が育つ過程でのねじまげながらのムリな解釈。諸々の事情ははどうであれ、あの時点ではただちに被災地に展開して欲しかった。しかし、責任のある人たちは躊躇が先立ってしまったわけで、そういった意味で責任の所在も問われて当然だったはずです。当時、マスコミや国民のなかには「なぜ自衛隊はすぐに助けに行かなかったのか」という非難の論調がたくさんありました。初動展開という意味でいえば、僕もkimdongsungさんと同様に役立たずを憤りました。その後の活動は目で見て納得しています。そして、なぜ初動展開が遅れたのかを知り、大規模災害時における自衛隊の運用条件の不備を知ったのです。根本的には現在でも完全ではありません。だから、kimdongsungさんが述べた、「阪神大震災の(直後神戸にいた)被災者として言わせてもらえば、今のまま(軍隊としても災害出動への責任もあいまいなまま)の自衛隊では、(緊急事態に即対応を期待しても)ほとんどお役に立ちません。」と述べたのは、言葉足らずの観はあったものの、僕も同感できます。某S氏さんも当時、自衛隊が(要請しなかったため)すぐに展開できなかったことの被災者としての慚愧を感じていたはずです。この日記の中で、すべての人が日記の内容に一文字一句責任をもって書くなどということはまずないというのが普通です。むしろそのときの生の感情を書くからこそ面白く読めると僕は思っています。それが、楽天日記の人気の秘密でもあると思っています。ことのほか自衛隊に思い入れがある某S氏さんが「今のままの自衛隊では、ほとんどお役に立ちません。」という発言に、生真面目に異論を唱えたいという気持は理解できます。しかし異論に対して、kimdongsungさんが明確な答えをしぶったとしても、一国の首相ならともかく、一民間人として、答える答えないは自由というものです。むしろ、非生産的な議論で人生を浪費する無為を僕は思ってしまうのです。なお、僕も貴重な時間を費やしてこの問題を書きましたが、この議論を発展させるつもりはありません。ご意見があればbbsにお書き下さい。ただし、とくに返事が必要と思ったこと以外は伺いおくだけにさせていただきます。また、ログイン無しの書き込みについては、捨てハン(一時的、あるいは便宜的なハンドルネーム)と区別ができないのでご返事しませんのでご了解ください。
2004.11.08
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このところ、事務所脇の水路に大物が数匹遡上している。上から見るとアマゴ(山女魚)らしいが、40センチは超えている。このところも、アマゴと岩魚を釣り上げているが、ほぼ25センチ前後だったから、これは挑戦しないわけにはいかない。竿を出すがなかなか食いつかない。そこで、ミミズ数匹をまとめて針にかけて大物の口元に流れ着くように上から流してみた。口元にきても大物はしばらく様子を窺っているようだった。悠然と泳いでいる。僕は餌を少し揺らしてやった。「パクッ!」とくわえる感触があった。よし、来た!グッっと竿をあわせると、ゆらりと竿がしなった。まるで川底の大石にかかった感じだ。大物は、反転して水面に姿を見せた。大きい!まるで海の魚か、鮭のようだ。するとそのまま川下に向かって下りだした。竿が思い切りしなる。しかし、容赦なくそのまま泳いで行くとプチーンと糸が外れ、手元が軽くなった。バレてしまったのだ。竿を上げてみると、針が伸びきっていた。これでも鱒釣り用の強い針だったのに…。僕も、いよいよファイトが湧いてきた。針をもう2まわり上のものにして、ハリスも1.5号にした。これなら切れることはないだろう。それから1時間、次の大物がかかった。思ったとおり今度は切れない。しかし、竿はグイグイしなり暴れまくっている。ベルで妻を呼び、竿を持たせてタモ(網)をもってきた。さっき取り逃がしたものよりさらに大物だ。しかたない少し弱るまでファイトするしかない。すると、一直線に上流に泳ぎだしたと思ったら、反動をつけるように下流に向かって下りだした。竿は大きい円から、絞るように小さな円となって手元近くまで曲がった。すると、バキッ!と音がしてこんどは竿が折れてしまった。軽くなると、大物はザバーッと身をくねらせて川下に泳いでいってしまった。竿先から、仕掛けごともっていかれた。先日買ったばかりの竿が一発でダメになった。敵ながらあっぱれである。さて、ここで諦めては男がすたる。まだしばらくは産卵期のため遡上してくるはずだ。ちなみに釣れるのはすべてオスだ。アマゴも岩魚も混じるがなぜメスがいないのだろう。“逃がした魚は大きい”とよく言う。しかし、本当に大きかったんだから。そのうちに必ず釣り上げて、ここに証拠写真を掲載するつもりだから、乞う、ご期待。 くじらはいないよ
2004.11.07
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>そのたった一通の手紙で、たまきは結婚を決意するのでしたそうなのですか!たった1通で!まさに「心を惹きつける手紙」だったのでしょうね・・・。(hiyokitiさん) 破れた水車小屋たまきに一目惚れして求婚した夢二でしたが、彼の一途さはその後あらわれるどの女性に対しても同じようにひたむきなものでした。夢二は早稲田実業学校(現・早稲田大学)時代に左翼思想に傾倒していたふしがあります。日本の社会主義活動の中央機関誌『光』には、さかんに反戦の絵を描いていました。また『平民新聞』※に風刺的コマ絵を連載し、幽冥路(ゆめじ)の筆名で川柳の連作も発表しています。夢二はその後コピーライターや作詞にも才能を発揮しますが、この頃書いていた川柳で短い文章で簡潔に表現する手法を学んでいたのでしょう。もちろん、川柳家がすべて、優れたコピーを書くわけではありません(トホホ…)。上記の画「破れた水車小屋」は結婚した翌年に描いたものです。夢二とたまきの、小さな部屋での新婚生活が始まりました。読売新聞に入社し、安定した収入が得られるものと思って安心したたまきですが、この頃から夢二の悪癖に気づきます。夢二は異常に嫉妬深い性格でした。近所の学生が飼っている犬がたまきになついたのは、学生と仲良くなったからに違いないと責めたり、会社の友だちを連れてきても親しく話しをすると後からののしるのでした。この頃、会社の主任と折り合いが悪くなり、とうとう新聞社を辞めてしまいました。たまきは妊娠していました。たちまち生活が苦しくなりましたが、夢二の才能を買う友だち数人が家の世話をしたり、夢二が画業で立てるようにと、皆で支えてくれる私設後援会のようなグループができました。夢二も喜び、画を学びに行きました。友だち達は、妊娠しているたまきを助け、家事なども手伝ってくれました。しかしこのことがまた、たまきをより苦しませることになるのです。夢二は、自分の留守中に友だちがたまきに親切にしたことを邪推し、たまきに焼火箸をくっつけたり、妊娠中の腹に乗ったりと折檻をしたのです。それを見かねた友だちがとりなすと、一層嫉妬の炎を燃やすのでした。それでも友だちたちは夢二夫婦を助け、ようやく長男の虹之助が生まれました。友人たちは「僕たちがこれ以上出しゃばると君たちの平和を壊すから、そろそろ退散する」と、善意の支援体制は終わることになりました。この頃になると夢二の名は知られるようになっていましたが、家計は貧しくたまきの着物を質に入れてようやく生活をするといった按配でした。とうとう親子三人は、九州に住む竹久両親を頼って九州の枝光に行きました。しかし、枝光は夢二の仕事を満足させる土地ではありませんでした。すぐに夢二ひとりで上京し、知人の二階に間借りしました。この知人がクリスチャンだったことから、夢二は神の存在を知ることになりました。嫉妬すると妻たまきに、いわゆるドメスティックバイオレンスともいえる暴力を振るう夢二でしたが、優しいときにはとことん優しく、宗教に触れているときにも純粋無垢のようになるという一面をもっているのでした。そして、夢二の病気が発症しはじめるのでした。そう、好意を寄せる女性ができると物思う人となり、一途な恋猫のような放浪が始まるのです。さて、その数々は少しずつ書くことにしましょう。 ※平民新聞明治期の社会主義新聞。[1]週刊「平民新聞」1903年(明治36)11月15日~1905年1月29日。「万朝報」を退社した堺利彦,幸徳秋水らが発行し,社会主義運動の最初の機関紙的役割を果たした。石川三四郎,西川光二郎らが参加。発行所は東京府有楽町の平民社。だいたい,タブロイド判8ページだて。英文欄は,斯波貞吉,安部磯雄が担当,挿絵は平福百穂と小川芋銭が協力した。第53号に「共産党宣言」を訳載し,しばしば発売禁止にあい,ついに発行停止となり全紙面赤刷りの第64号で廃刊。[2]日刊「平民新聞」1907年1月15日~4月14日。1906年11月「新紀元」派と「光」派が合同して再興した平民社から発行された。1907年1月に結成された日本社会党の機関紙として,社会主義思想の大衆のなかへの浸透を目的として編集された。今日の新聞の大きさで,創刊号の12ページ以外はすべて4ページだて。日本社会党結社禁止後の4月13日に発行禁止となり,翌日の第75号で廃刊。
2004.11.06
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黒船屋は代表作ですねこのようなスタイルの着想はたまきをモデルにしたことから始まります。夢二の最初の妻、岸たまきはその美貌ゆえに夢二の心をとらえましたが、たまきにとって夢二との出会いは幸薄い人生を決定づけるものとなるのでした。夢二式と呼ばれる儚げな女性たち、そう撫で方で目のぱっちりと大きな演歌の世界に住むような女性は岸たまきそのものだったのです。早稲田の学生たちが毎日のようにたまきの開いた絵はがき店に訪れ、つぎつぎに求愛したのですが、夢二は求愛するそぶりを見せませんでした。たまきの店のために大学野球の絵を描き、絵はがきやプロマイドの仕入れ先を探しては、取引ができるように手配しました。そうして、頃合いをみて、たまきの兄夫婦に自分の戸籍抄本をつけて、妹さんを僕にくださいと申し出たのでした。夢二はまだ学生で年下でした。たまきも、たまきの母も乗り気にはなれませんでしたが、兄嫁は、たまきの店のために熱心に応援してくれる立派な青年として、すっかり惚れ込んでしまったのです。もしかしたら、兄嫁のほうが夢二に惹かれたのかもしれません。そこから夢二はたまきに恋文を送り続けます。兄嫁も、たまきに結婚するように勧めます。手紙をもらってもはじめは封を開こうとしなかったたまきですが、つぎつぎと溜まってゆく手紙をとうとう開いてしまったのです。そのたった一通の手紙で、たまきは結婚を決意するのでした。夢二は、絵の才能もすぐれていましたが文才もあったのです。といって、文章が上手というだけではなく、心を惹きつける手紙を書いたのでした。ここで、興ざめながら僕の推測で解説をします。夢二はとても惚れやすい性格の男でした。一度好きになると一途に熱情を傾けるのが常です。たまきを手に入れようという姑息な計算はなく、自分の愛した女は自分のものになるのが当然という、傲慢ともいえる情熱で迫ったのでしょう。捨て身の情熱には、たまきのような受け身型の女性は弱いのです。そして、兄の家に世話になっているという負目も、夢二との結婚の決意を後押ししたのでしょう。ともかくも、六畳一間の新婚生活が始まったのです。この頃の夢二は早稲田文学の姉妹編少年文庫の編集をしていました。結婚の報告を島村抱月にしにゆきます。島村抱月は劇作家・演出家として早稲田演劇をリードしていました。女優の草分けともいえる松井須磨子とのロマンスで有名ですね。夢二はほどなく、「読売新聞」に入り挿絵と文を書くことになります。月給15円だったといいますが、当時の大学出の月給が13円だったといいますから、才能を認められたということでしょう。一見順風満帆の船出とも見えますが、ここからたまきの泥沼のような哀しみが始まるのです。そろそろ僕も疲れてきましたので、つづきはのちほど…。それにしてもブッシュが当選して、小泉政権も安泰というところでしょうか。幸薄いのはたまきばかりではなさそうです。環境税をふくむ消費税20パーセントなどという検討もされているようですが、嗚呼……。
2004.11.05
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「いさかいの後」という絵です。岸たまきを描いたものでしょう。すみません、今日からデスマス調で書きます。昨日の日記から少し戻って、岸たまきとの出会いから書こうと思います。そう思っていたら、サラMさんから掲示板にカキコミがありました。横顔の美しい人(プロフィールに横顔の写真入り)だと思ったら、夢二の愛人の役を演じたことがあるといいます。女優さんやっていたことあるのかな!? (困ったいい加減なことが書けなくなった…。 ^^;)明治40年、夢二24歳の時に岸たまきと結婚しています。岸たまきとの出会いが、いわゆる夢二風美人画のきっかけになり、夢二が飛躍するきっかけをあたえた女性です。岸たまきは画家と結婚しましたが、わずかな結婚生活で夫を亡くしています。24歳で未亡人になったたまきは兄の家をたよって上京し、早稲田鶴巻町に絵はがき店つるやを開店しました。早稲田大学の近くということもあり、絵はがき店つるやはたまきが驚くほど客が押し寄せました。ところが、たまきは素人商売、売るべき絵はがきがあまりなく、一日の売り上げをもって夜買い出しにいって、次の日の昼間売るというありさまでした。実は、学生たちが客となって押し寄せたのは、たまきが当時の女性としてはとびぬけて美人だったからで、絵はがきにかこつけて学生たちが店に押し寄せたのです。早稲田の学生さんは当時もけっこう軟派だったんですね。店を出して5日目に、長髪の異様な青年が訪れたとたまきは回想録に書いています。その青年が夢二でした。店にあまり売るはがきがないのを見てとった夢二は、たまきにもちかけます。「僕が早慶戦の絵はがきを描いてあげるから、それを売りなさい。」そういって、毎日野球のスケッチをして持ってきました。当時は大学野球全盛の頃、早稲田が勝つと学生たちはむしろ旗をたてて都の西北を高らかに歌って町中を歩き回ったといいます。これを読んでも後輩の皆さん嘆くことはありません、慶応が勝てばやっぱり同様だったようですから…。大学野球は、学生だけでなく一般市民にも人気があったわけです。当然、たまきの絵はがき店は流行りました。夢二は、プロマイドや芸者の絵はがきなどの仕入れ先を教え、たまきの心に取り入ってゆきます。店が流行り出すと美人のたまきゆえ、青年達はつぎつぎに求愛し求婚したといいます。なかには大きなダイヤの指輪を贈った留学生もいて、たまきは困惑します。ここで当然、夢二がでてきます。夢二の求婚のしかたは他の青年達と少しちがっていました。と、夜もふけてきました。今日は疲れたので、どのように求婚したのかはまた後で書くことにします。おやすみなさい。
2004.11.04
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♪待てど暮らせど来ぬ人を―で始まる竹久夢二の作詞した「宵待草」は、千葉県の銚子でつくられている。千葉県銚子の海鹿島に(元)妻のたまきと避暑をしていた夢二は、ある日、浜辺を散歩していて美しい姉妹をみつけた。夢二の女癖についてはつと知られているところだから、あとはもうご想像のとおり。姉妹について調べたところ、姉はすでに結婚していて、妹は独身であったが婚約者がいた。彼は、ぜひ妹と交際させて欲しいと彼女たちの実家を訪れている。このへんが僕ら並みの男の心臓とはとはちがう、夢二の夢二たるところであろう。妹の名はお島さん。高名な画家の申し出とはいえ、家族は困惑したことであろう。その場で交際が成立したのかどうかは僕は知らない。だいいち、一度は離婚したとはいえ妻のたまきを同行していたのである。諦めることのできなかった夢二は翌年の夏、ひとりで海鹿島を訪れた。しかしそこには彼女の姿はなく、月見草がぽつねんと咲いているだけだった。そこでできたのが、♪待てど暮らせど来ぬ人を~、の「宵待草」である。転んでもただでは起きない、男性諸君もここを見習わなければならない。竹久夢二については、いまだにファンも多く、その素性については知られすぎている人である。また夢二の女性遍歴もまたよく知られている。女性にたいしてはまことにウブで不器用な僕が、ほかにも夢二から学ぶべきものがあるかどうか、すこし探索してみよう。夢二ファンの方々にとっては、「チャウ、チャウ、わたしの夢二はこうなんだよ」…、ということも多々あろうかと思う、どうぞご指摘いただきたい。では、つれづれなるままのmsk的きまぐれ夢二論をお笑いください。 夢二のアトリエには、数人の美女たちが出入りしていたという。モデルになってもらう口実などで誘ったのだろうか…。誰か、僕の写真のモデルになりませんか? あっ、10歳~80歳くらいまで年齢は問いませんが、美女にかぎります。
2004.11.03
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こんどの香田証生さんの拉致事件について、政府は始めから殺されることを前提に動いているとしか見えなかった。香田さんの行動の妥当性の是非とは別に、自国民の生命に対して小泉政権がどのように考えているかが、はっきり示されたものだと思う。ただ、この事件は政府だけを責めていればいいというものではない。われわれ一人ひとりも考えなければならない問題を提起されている。僕も、先日の日記に香田さんの行動を軽率で無謀だったと書いた。アンマンのホテルのフロント係は「バグダッドは危険なので、やめたほうがいい」と止めたが、香田さんは「それは分かっている。でも行きたい」と強く言い張ったと言うことだから、彼の中には何か期するものがあったのだろう。彼がどのような動機をもっていたのかを語られる機会は、今となっては永遠に無くなってしまった。生きていれば、これまでの経験がどれほど生かされたのかもしれない若い死を心から悼む。正直に吐露すると、僕はこの事件の第一報を聞いたときには腹立たしい気分になったことは確かだ。拉致した犯人は勿論、香田さんにもだ。新潟で大惨事が起きているさなかに何という馬鹿な…、という気持だ。楽天日記を読むと、僕と同じように考えた人が少なからずいたようだ。しかし、冷静に考えてみればこの事件と新潟の地震とはまったく別のもので、重なったからといって、この事件に腹を立てるのは検討ちがいというものだ。しかし、小泉首相もわれわれ多くの凡人も、ひとときなりは見当違いの苛立ちをもってしまった。それが、小泉首相の彼を見捨てるような発言にもつながってしまったとも思う。そして一瞬でも、こんな時に拉致される彼にも非がある、と感じた僕自身も責められなければならない。今日、沖縄出身の青年とこの事件について話しているとき、沖縄県民の本土人への複雑な心境について語ってくれた。沖縄県民の多くは、日本の本土人より占領しているアメリカ人を信用しているところがあると言うのだ。たしかに駐留米兵による犯罪や差別的態度には、何度も泣かされはらわたが煮えくりかえる思いをしてきたという。しかし、アメリカ軍に理不尽や乱暴であって、政策にはあまり裏表がなく、国家として筋を通そうとする。日本政府は言葉は親切そうでも、言葉の裏では何を考えているかわからない不気味さや、いつか裏切るのではないかという不信感が消えないという。今度の事件にしても、口とはうらはらに本気で救出しようなどと思っていなかったのではないかと、沖縄県人ならみんな思うでしょう、と語っていた。沖縄の年配者は先の大戦で、攻めてきたアメリカ軍より、日本軍に背後から裏切られたり殺された記憶が強くのこっているという。自分が沖縄を離れるとき祖母に「本土人には気をつけるように…」としっかり釘をさされたそうだ。かつて琉球王朝は、ほとんど武器をもたずに長い栄華を誇っていた。しかし、薩摩にあれやこれや難癖をつけられ、結局は武力により蹂躙されて併合への道を辿った。だから沖縄県人の鹿児島嫌いという空気は、今でもかなり強いという。さように僕たちにとってははるか昔のことでも、本土に生まれ育った日本人たちには思いもよらない怨念が生き続けているという教訓は、さまざまな面で当てはまるのではないだろうか。信頼を得るには長い歳月がかかる。イラク人は総じて親日家だと思いこんでいたが、これもこれまで先人たちが薄紙を積むように重ねてきた努力の結果であったが、ここ1、2年ほどの日本の姿勢で、かなり様相を変えてしまったのではないだろうか。あるいは恨みにさえ変えているのかも知れない。その恨みの矛先が、すぐにテロという行動に結びつかないまでも、僕たちの子どもや孫、子孫の代までつづき、矛先が向けられないという保証は誰ができるのであろうか。政府は、そこまで考えて政策の舵をとってくれているのであろうか。ともあれ香田さんを殺したのは、直接にはイラク武装勢力を名乗る無法者であったのかも知れないが、彼らに殺す口実を与え、早々に交渉の余地無しと首を刎ねるようし向けたのはいったい誰であろう。その誰かに全権を委ねているのは、結局自分たち一人ひとりではないだろうか。
2004.11.02
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フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』という百科事典がある。「ウィキペディアは自由にご利用頂ける百科事典です。現在、ウィキペディア日本語版には約81295本の記事があります。基本方針に賛同して頂けるなら、どなたでも記事を投稿したり編集したりすることが出来ます。」と書いてあるように、これは違うのではないかという項目は、自分で編集して再掲載してもらえるという優れた機能をもっている。もちろん、意味は汎用性をもつものでなくてはならないし、内容に責任をもつ必要もあるので、勝手でトンチンカンな解釈をそのまま掲載するわけにはいかない。試みに僕も、「川柳」という項目を編集してみた。すると、今まで誤解の多かった内容で説明されていたものが、すっきりと本来の意味として変えることができた。これだったら、時代にあった「百科事典」として進化してゆくことができるはずだ。皆さんも、お気に入りにリンクされることをお薦めしたい。 今日はミドル英二さんの日記のようになったなー。
2004.11.01
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