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といっても、来る年も多難な年には変わりないでしょう。ますます、予測もつかないことが起きるでしょう。それでも希望をもちたいですね。この楽天日記でのおつきあいありがとう
2004.12.31
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下の文章は、「たけくらべ」の最終章です。一葉は、遊び仲間だった子どもたちそれぞれが大人に旅立ってゆく姿を描いて、「たけくらべ」の筆を置いています。このなかで、美登利が突然に近所のガキたちと遊ぶのを拒む描写がでてきます。この「たけくらべ」を学校の図書館で読んだのか、教科書にでてきたのか記憶が鮮明でありませんが、当時は美登利の初潮をにおわせるものとして(教わったのか)読んでいました。また、幾人かが「たけくらべ」を解説した中でも「少女から女にかわる初潮の様子を初々しくとらえている」と書いていました。ところが、一葉の日記や「たけくらべ」などを平行して読んでいるうちに、あるいは初潮説にわずかなひっかかりを感じました。そこで、「たけくらべ」の解説を引っ張り出してみたら、ありますね。やはり最近の研究では見解が分かれているようです。このことを書いている文献もありました。「たけくらべ」は美登利が突然不機嫌になり人間が変貌するところで終わっているのであるが、この変貌の理由として「初潮説」が定説で異論は全くなかった。ところが佐多稲子氏が「たけくらべ解釈へのひとつの疑問」(昭60/5群像(60/10講談社刊「月の宴」に収載))で大胆にも「初店説」を展開し人々を驚かした。直ちに前田愛氏が「美登利のためにーたけくらべ佐多説を読んでー」(群像60/7)で反論し、ここに大論争を巻き起こしたのである。この論争は決着を見ていないが、作家達は多く佐多説を支持し、学者研究家は従来の説を支持する人が多いようである。(平成13年7月クレス出版刊高橋俊夫編「樋口一葉たけくらべ作品論集」) 美登利は彼日を始めにして生れかはりしやうの身の振舞、用ある折は廓(くるわ)の姉のもとにこそ通へ、かけても町に遊ぶ事をせず、友達さびしがりて誘ひにと行けば今に今にと空約束はてし無く、さしもに中よしなりけれど正太とさへに親しまず、いつも恥かしげに顔のみ赫(あから)めて筆やの店に手踊(ておどり)の活発さは再び見るに難くなりける、人は怪しがりて病ひの故かと危ぶむもあれども母親一人ほほ笑みては、今にお侠(きゃん)の本性は現はれまする、これは中休みと理由(わけ)ありげに言はれて、知らぬ者には何の事とも思はれず、女らしう温順(おとな)しう成つたと褒めるもあれば折角の面白い子を種なしにしたと誹(そし)るもあり、表町は俄に火の消えしやう淋しくなりて、正太が美音(びおん)も聞く事稀(まれ)に、唯夜な夜なの弓張提燈(ゆみはりちょうちん)、あれは日がけの集めとしるく土手(どて)を行く影そぞろ寒(さぶ)げに、折ふし供する三五郎の声のみ伺時(いつ)に変らず滑稽(おどけ)ては聞えぬ。 龍華寺の信如が我が宗の修業の庭に立出(たちい)づる風説(うわさ)をも美登利は絶えて聞かざりき、有りし意地をば其ままに封じ込めて、此処しばらくの怪(あや)しの現象(さま)に我れを我れとも思はれず、唯何事も恥かしうのみありけるに、或る霜の朝水仙の作り花を格子門(こうしもん)の外より差入れ置きし者のおりけり、誰れの仕業と知るよし無けれど、美登利は何ゆゑとかく懐かしき思ひにて違ひ棚の一輪ざしに入れて淋しく清き姿をめでけるが、聞くともなしに伝へ聞く其明けの日は倍加が何がしの学林(がくりん)に袖の色かへぬべき当日なりしとぞ。 なぜ、“初潮”か“初店”かで、このような論争になったのかというと、樋口一葉の純潔説も必ずしも見方が一致していないからです。過去には、一葉は生涯純潔を守った人とされ、一葉研究の第一人者塩田良平氏始め多くの研究者はこの立場をとっていましたが、塩田氏と並ぶ研究家である和田芳恵氏などは懐疑的立場を取っています。そして苺さんが指摘されたように、瀬戸内寂聴著「わたしの樋口一葉」で、半井桃水との関係で、桃水側の文献では月15円(当時では大金で、一葉一家なら月10円で暮らせたという)を数回に亘り一葉に与えていたという事が書いてあり、一葉の日記ではこれを一貫して否定していますが、当時桃水は経済的に苦況にあったにもかかわらずお金を与えているということは、両者に関係がなかった筈はないとしています。また久佐賀義孝についても、援助を申し込んだら妾になれと云われ断った、と日記で久佐賀を貶していますが、久佐賀側の文献には15円渡したことが載っていたとのことで、久佐賀ほどのくせ者がただで金を渡す筈がないとしています。一葉は、一面ではしたたかな女性とで、またそのような女性でなければ「にごりえ」は書けなかったのではないかと書いています。僕は、したたかであったという説にはやや疑問をもつものですが、何もなかったとかと考えると、少なくとも桃水との間では“あった”と思います。一葉が桃水と別れた理由のひとつには、桃水が他の女性とのあいだに子どもができたとの噂に、一葉がかたくなにこだわったことから推測されます。(桃水ならありえる)と一葉が強く思ったということが、その裏付けだといったら軽率でしょうか。そのようなことから「たけくらべ」の美登利の変貌の理由として、定説となっていた「初潮説」へ、佐多稲子氏が「たけくらべ解釈へのひとつの疑問」であげた「初店説」ともつながっています。僕は、したたかな一葉ということからではなく“理不尽な性にしばられる女性”への理解・解放を志向し始めた一葉のなかに、自らの経験が下敷きとしてあったのではないかと思い始めたのです。「たけくらべ」のなかで、14歳の美登利が“初潮”があったことくらいで、顔を赤らめて、それまでの遊び友だちの前に出たがらないとは、考えにくく、このなかででてくる母親とも当然ながら実の母親ではありません。「母親一人ほほ笑みては、今にお侠(おてんばのこと)の本性は現はれまする」というなかの、母親とは廓を仕切るやり手婆ということを考えると、「(もう女になったから)もうすぐ女郎として媚びを売ることができるようになるよ」と、いうセリフだと考えることができます。一葉は「たけくらべ」でじっと押さえて表現しましたが、それは、一葉の密かに抱えていた〈やりきれない怒り〉とも重なっていたのではないかと思います。丸山福山町に移ってからの、銘酒屋で躯を売って暮らす女性達への眼差しからも、一葉のなかにひたひたと湧き起こる〈理不尽な差別からの解放〉をどのように達成できるかに悩んでいたふしが伺われます。彼女たちの職をとりあげることが、ただちに解放に繋がるものではなく、根底から変えてゆかなかったら解放されることはない、ということを身をもって知ったから、運動を模索しはじめたのだろう。と考えると、“美登利の憂鬱”も、もっと根が深いところにあったのではないかと、思うようになったのです。 つたない、「樋口一葉の恋」を 読んでいただきありがとうございました。来年こそ、よい年になって欲しいつくづくと…。
2004.12.30
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それにしても…。インドネシア・スマトラ沖地震・津波の死者は、被災者が数百万人、死者は7万人を超える恐れも出てきた。とのことだが、こんなときこそ人道復興支援が必要になる。この災害の規模はイラクなど目ではない。ただちに、日本ができる最大限の救援活動をするべきだろう。この災害については、すでに大勢の人が書いているのであらためては触れない。しかし、ひとつ心しなければならないことは、今回は大きな自然災害だが、これからは複合的災害、今まで人類が直面したことのないような大きな災害が起きる可能性があるということだ。これまでも、地球の酸素などの大供給地だった熱帯雨林などをどんどん伐採してきた。マングローブで炭を焼いてきた。これらの最大の消費地は日本だ。今は、世界の工場になりつつある中国では、すさまじい勢いで環境破壊がすすんでいる。どのような形で訪れるかはわからないが、これらのしっぺ返しはどこかで受けなければならないし、あるいはジワリジワリと始まっているかも知れない。イラクや新潟の惨状に目を奪われていたところに、さらに追い打ちをかけるような大災害で2004年を閉じようとしているが、本当に明るい未来が開けて欲しいものだ。こんな月並みなことしか書けないのが歯がゆい。 テスト 業務連絡「旬」を待っていてくださっている皆さん、今日発送しました。年末はメール便が混んでいるので、お手元に届くのは年明けになってしまうかも知れません。あしからず…。
2004.12.29
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まだまだ仕事が終わりません。年賀状も書いてありません。えーと、年賀状を交換してくださる方住所は私書箱のほうにお願いします。
2004.12.25
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こんな日に、こんなさびしい文章ですみません 一葉は最晩年になって一躍評価を受け、有名にはなりましたが、原稿料の収入はあまり入っておらず窮乏は続いておりました。晩年の一葉を数回訪問して「下層社会の救済」について話し合った(話し合った相手は一人だけでなく複数の名前がでてくるが、僕はまだきちんと調べてありません)副島八十六は、一葉の葬儀に駆けつけその様子を日記に書いています。 十一月二十三日(曇又晴) 早朝本郷福山町一葉女史の葬儀に会す。恰も出棺せんとする間際なりき。先導二人、博文館寄贈花一対、燈灯一対、位牌次に女史の妹くに子。次に伊東夏子及婦人二三名腕車に乗ず。四五のものは輿の前後左右に散在粛々として進む。(中略)余は道々思へらく今此葬儀中担夫、人足、車夫等の営業者を除く時は真実葬儀に列するもの親戚知友を合して僅かに十有余名に過ぎず。洵(まこと)に寂々寥々仮令裏店の貧乏人の葬式といへども此れより簡なることはあるべからず。如何に思ひ直すとも文名四方に揚り奇才江湖たる一葉女史の葬儀とは信じ得べからず(後略)一葉の葬儀が大層寂しいものになった背景には、内輪にしたいという妹邦子の考えがありました。森鴎外は陸軍軍医の制服に騎乗姿での参列を申し出たましたが、邦子から丁重に断られています。立派な葬儀を出そうにも先立つものがなかったのです。娘にペンをとられるために共に苦労をつづけた母のたきは、一葉が死んで一年余の明治31年2月4日、過労の為65才で娘の後を追っています。たきの死後、妹くにを博文館の大橋乙羽が自宅に引き取り住まわせています。妹くには母の死後丸山福山町の家を引き払い、樋口家の力になっていた西村釧之助の世話で吉江政次を入り婿にして結婚し、西村釧之助の文房具店を譲り受け、平穏な生活を続けられるようになります。くには 一葉が死ぬとき破り捨てるように言い残した日記も大事に保存整理し、一葉の草稿などの保存に努め、明治45年に出版された本格全集に、くにの希望により初めて日記を収録公開します。日記は大きな反響を呼び、一葉の名声を不朽のものにするのでした。 一葉の名がきちんと世に認知されたことを見届けるかのように、くには大正15年7月1日に52才で世を去りました。瀬戸内寂聴は書いています。『(前略)やはり人間の才能の分量というものはもう決まっておりまして、早死にする人は早死にする時点で持っているものを全部出しきって死んでいるような気がするんですね。(中略)一葉は、作品の数は少ないけれども、明治以後の日本の若い文壇の中で、女ではただ一人の職業作家として成功しました。……だって一葉は生きているときにあれだけ認められて死んだじゃないか、もって瞑すべしだと思うんです。』(瀬戸内寂聴 わたしの樋口一葉より 小学館)そして一葉の亡くなった五年後、明治三十四年、与謝野晶子は「みだれ髪」を刊行し、因襲や制度の抑圧を超えて、女性自身の声で愛と官能を大胆に、そして華やかに歌いあげました。さらに十年後、平塚らいてうをリ-ダ-とする女性たちによって日本最初の手になるフェミニズム雑誌「青鞘」が刊行されました。「元始女性は太陽であった」という平塚らいてうの言葉はまさに新しい時代の女性たちの登場を予感させるものでしたが、一葉がもし生きていたら平塚らの運動はまた違ったものになっていたのかも知れません。一葉は「たけくらべ」のなかで、美登利や少年達の瑞々しい思春期を描いて、将来を予感させるところで物語を終えています。またの美登利の14歳の不機嫌を書いています。僕が中学生のときに読んだ「たけくらべ」では初潮を予感させるものとして読みましたが、その後の解釈では、店あげで処女喪失の不機嫌を書いていたのではないかという解釈もされています。いずれ時間がとれたら、解読をこころみたいと思います。
2004.12.24
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一葉は丸山福山町に移ってきてからの十数ヶ月間に「おおつごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」と矢継ぎ早に作品を発表し、いずれも高い評価を受けています。そして、辛口の評論で鳴らしていた『めざまし草』の大物三人「三人冗語」で森鴎外・幸田露伴・斎藤緑雨の三人が一葉の才能をそろって絶賛します。なかでも文壇きっての皮肉屋として知られていた斉藤緑雨の評価は高く、自ら何度も一葉を訪問し、何かとアドバイスもしています。一葉も緑雨のなかに自分の性格に共通する思想性を感じ、自分のめざす文学の理解者と認めていましたが、一定の距離を置いて緑雨に自分の本音までをさらけ出すことはありませんでした。恋淡き一葉が、半井桃水と決別した直接のきっかけは、萩の舎の主宰中島歌子の強いアドバイスによるものですが、実は、一葉は桃水が別の女性を妊娠させたという噂を耳にして失望していたのです。そして、吉原や銘酒屋に通う男たち、久佐賀等との触れあいは、一葉に一種の男性不信の根を潜在させてしまったのかも知れません。ところが、桃水の妊娠事件はのちに事実誤認だったということがわかりますが、桃水がつよく否定しなかったこともあり一葉のなかに生まれた不信感は消えませんでした。一葉晩期に近い日記に、「我れは女なり、いかにおもへることありとも、そは世に行ふべき事か、あらぬか」(「みづの上」日記 明治29.2.20)と書いています。いつしか陽もおち執筆もままならない暗闇のなかで、文机に頬杖をついて、一葉は女であることの懐疑に思いをめぐらす。夢の中では、自分の考えを自由に言ったり理解して貰えるのに、現実の世では言ってはならない事や、言えない事があまりに多すぎる。自分の思いを真に理解してくれる友がいないのは自分が女だからだろうか、と一葉は自問するのでした。少女時代に、女に学問は不要とされた母の意見。女世帯であることの生活の苦しみ、女ゆえに数々の夢を捨てざるを得なかったこれまでの道程、常に女であること、人であることの意味を問い直してみる一葉でした。この頃、一葉の作品が下層社会の女性を主人公に生き生きと描かれていることに感興を抱いた副島八十六が訪ねます。そこで一葉のなかに芽生えつつある女に生まれたゆえの貧しさや理不尽を聞かされた副島は、一葉とともに「下層社会の女性の救済」について何度か話し合いをもちます。一葉は貧困ゆえに身売りさせられる女性たちを救済することはできないかと、そのための事業を考えはじめます。平塚らいてうらの手になる「青鞘」など女性解放運動のはじまる実に10年も前のことですが、まだ一葉には事業を立ち上げるための資力もありませんでした。この頃は、一葉奇跡の14ヶ月といわれ、薄暗く貧しい環境の中から、つぎつぎと名作が生み出されますが、夕鶴のつうをみるかのごとく鬼神が乗り移ったかのように書き続け、そして名声を聞きつけてさまざまな人々が押し寄せるように一葉を訪ねています。なかには自作品の添削を申し出るものや、恋文を届けるものなど、僕の力では整理し切れません。一葉は自分のできる範囲でそれらにも精一杯応えていますが、対応がぞんざいだと不満を漏らす輩までおります。そんな生活のなかでしだいに体力が消耗されていったのです。そうしているうちに、春になると一葉に病の兆候が現れ始めました、肺結核です。7月には亡父の八年忌に妹くにと築地本願寺に墓参したとの記述がありますが、7月22日で日記は途切れております。一葉もいよいよ耐えられなくなって、8月上旬に診察を受けますが町医者からは手遅れと言われます。そんななかでも来客はつづきます。10月には病気のことを聞きつけた森鴎外等の紹介で、名医青山胤通の往診を受けますが、すでになすすべもなく絶望を告げられるのでした。11月3日、『文学界』の仲間等が見舞いに来て励ましますが「此次ぎあなたが御出になる時には私は何に成って居りませうか、石にでも成って居りませう」と力無く答えたといいます。明治29年11月23日。一葉は24歳7ヶ月の命を閉じました。けなげにも美しい一生でした。
2004.12.23
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明治27年、5月1日、一葉は竜泉寺の店を兼ねた家から、本郷丸山福山町に転居しました。23才の時でした。あらためてもの書きに専念するため、生活費を借金しての出直しでした。このあたりで天啓顕真術会の久佐賀義孝との出会いなどをしていますが、一葉のなかにひとつの開き直りの心境があったものと思われます。一葉一家が転居した丸山福山町は本郷台地の崖下に開けた新開地で、主に砲兵工廠の職工たちを相手にする銘酒屋が並んでいました。銘酒屋とは酌婦がいて酒を飲ませる店ですが、店の奥や二階では売春も行われていた私娼館です。現在でいえば風俗店といったところでしょうが、少しグレてしまったり、てっとり早くお金を手にしたくて軽いノリで華やかなネオン街に入る現在の風俗嬢たちと少し違うのは、農村の冷害で泣く泣く身売りせざるを得なかった娘や、大黒柱が倒れてたちゆかなくなった家計のため身を堕とす妻女など、わけありの女性たちが多かったことです。戦前のプロレタリア川柳作家鶴彬(つるあきら)が、 修身にない孝行で淫売婦 玉ノ井に模範女工のなれの果てなどという川柳を書いたため捕らえられ、拷問のため獄死していますが、一葉の時代には吉原のように公的に認知されていた高級(?)な遊び場の下層に、このような不幸を背負った女性たちを吸収して成り立っていた青線と呼ばれる男達の性欲の掃き溜めの場が存在していたのです。一葉には貧しさへの共感があったのでしょう、銘酒屋の酌婦たちとも親しく言葉を交わし、ときには恋文の代筆を頼まれたりしています。この代筆作業により、彼女たちの哀しくも過酷な生活を肌で知ることになります。相変わらずの貧窮生活でしたが、最下層に生きる人々の人生の一端を垣間見ることで、一時は萩の舎のような歌門を起こし、名をあげ身をおこすことに執着したこともある一葉でしたが、だんだんとその意欲も薄れ、小説の執筆へと向かわせることになりました。文字通り躰で生きている女性たちとの生活体験は、和歌のきれい事の世界をはるかにはみ出すものであり、和歌では自分の思いを表現し得ないと思ったのでしょう。 「ひかる源氏の物がたりはいみじき物なれど、おなじ女子の筆すさび也」 「今千歳ののちに今のよの詞をもて今の世のさまをうつし置きたるをあなあやし」と日記「しのぶぐさ」に書いています。このころの日記には、お金への執着の為ではなく、自分には書くべき使命があるとか達観した一葉の創作態度が感じさせる記述がかかれています。貧乏ながら、一葉宅は『文学界』同人たちの文学サロンとなり、文学青年達が出入りしていました。一葉は彼等との文学談義を通して、外国文学の事情や新しい文学の潮流を知ることになり、刺激を受け、ますます創作活動へと力が注がれてゆきます。その成果として「やみ夜」「大つごもり」「たけくらべ」と結実してゆきました。そして、自伝的要素に加え、銘酒屋の酌婦や狂女をモチーフにした「にごりえ」を発表すると、作品は激賞され一躍脚光を浴びてゆくのでした。しかしその一方で、作品の真意を読まれずに、女が俗情の世界を書いたということだけでもてはやす風潮を、一葉は冷めた思いで眺めているのでした。このことから一葉は自分が女であること、そして性差ゆえの差別と貧苦を生む社会への懐疑が芽生えはじめているのでしたが、一葉に残された時間が少なくなってきているとをまだ知りません。
2004.12.22
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alex99さん一葉の意識とか教養とか意地(のようなもの)とかは、ひょっとしたら【士族意識】と深く結びついていたのかも知れないと思いついたのです。そう言う観点から一葉を論じた評伝を読んだことが無いのです。吉原から遠くない処に浅草寺がある 一葉から、「(男女の)交際抜きの援助」でなんとか考えてくれないかと再度求められた久佐賀ですが、こちらも負けてはいません。「交わりの情を以て」月十五円の援助をするから援助交際でどうか、と言う提案をもちかけます。これに対して、一葉も、交際抜きの食事をするくらいまでなら、と虚々実々のやりとりを1年近くもつづけています。この頃は日記も途絶えますから、面会したことまではあったのでしょうが、情を通じるといったところまであったのかどうかについては記録にありません。研究者は、一葉が久佐賀を拒み通したという説がほとんどですが、あえて推測を加えますと、この頃の一葉の日記に大きな空白期間があります。一葉が日記に残したくない交渉もあるいはあったのではないかと…。それにしても、たしかにお金に困窮して思案の果てに、いかさま師のような男に近づいたのは無謀ですが、足元につけこんで、金で女性の心身を支配しようとするねちっこい男もいけ好かない。結局、久佐賀との交渉は決裂しますが、もし成立していたら樋口一葉は別のイメージの作家として広まったことでしょう。一葉にこのようなかけひきの術を教えたものは何か。それは「たけくらべ」のなかに表れています。物語の中に、流しの太夫が三味線を弾きながら歌って通るのを、駄菓子屋で餓鬼どもと遊んでいた美登利が呼び寄せて、袂におひねりを放り込んで「明烏」を歌わせるという場面があります。年端もいかない子供が、ごく自然にチップを与えて、旅芸人に気持ちよく唄わせるという行為を一葉は、駄菓子を売りながら観察していたのです。こんな子供がいとも簡単に人の気持ちを引き寄せてみせるのに、大人の私が…、と考えても不思議ではありません。と同時に、一葉の中には、恋心は美しくありたいとする意識が伺われます。「たけくらべ」のなかの「信如と美登利のであい」の、勝ち気な美登利のときめきは一葉のなかにかつてあった、桃水への思いから導き出された情景のようにも思えます。信如が雨の日に大黒屋寮の前を通りかかったとき鼻緒が切れてしまった。美登利が障子の中硝子から「あれ、誰れか鼻緒を切った人がある」と切れ端をつかみ出てきた。しかし「それと見るより美登利の顔は赤うなりて、どのやうの大事にでも逢ひしように、胸の動悸の早くうつを、人の見るかと背後の見られて、恐る恐る門の傍へ寄れば、信如もふっと振返りて、これも無言に脇を流るゝ冷や汗、裸足になりて逃げ出したき思ひなり。」(たけくらべ十二)結局信如も美登利も立ちすくむだけで美登利が母親に呼ばれて奥に引っ込むと信如もすごすごと立ち去る。後には紅入り友禅の切れ端が残された。五月、一葉一家は十ヶ月だけで荒物屋を閉じ、本郷の丸山福山町へ転居し、執筆を再開します。まもなく『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』を次々と発表します。このへんが、一葉の並みの人間とは違う強さだとつくづく感じます。
2004.12.21
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丸山福山町に移るまでの約9ヶ月間、一葉は筆を断って母や妹とともに荒物兼駄菓子店の商いに専念しています。このわずかな経験が一葉にとって大きな充電期間になりました。しかし、この頃の一葉はわずか22歳、現在ならほんの小娘です。「たけくらべ」の舞台は一葉の店近くの比較的狭い範囲が舞台です。そこに登場する人物は実在に近いものが多く、大黒屋は「松大黒楼」、太夫は「大巻」で、その妹が主人公の美登利のモデルになった女の子であっただろうといわれています。美登利のモデルになった女の子の姉は、吉原大黒楼という遊郭の御職、つまりナンバーワン花魁だったので、周りの者や客が気を遣って妹の美登利に小遣いをあげて、おべっかをつかったのでしょう。あるいは妹といわれていますが、当時は生活のためにものごころつかない女の子を手放し、遊女屋で客がとれるまで育てるというようなこともありましたから、義妹というようなものだったのかも知れません。いわゆる世間摺れしたこまっしゃくれた女の子だったことが伺われます。一方、花魁のもとに通ってお大臣遊びができたのは、大店の道楽息子とか、大物政治家や官吏、いかさま起業家など、人様の金を扱う金離れのよい男たちがほとんどだったのでしょう。汗水流した金では女あそびはしにくいものです。(想像ですが…)美登利といえば、そういう小遣いを貰いつけていますから、ありがとうも言わずに受けとります。その金で美登利は近所の洟垂れ小僧どもに、一葉の駄菓子屋にあるものを買っては配ったわけです。そのようなわけで遊び仲間のなかでは、ちょっとしたガキ大将的存在だったのでしょう。しかし、この子も年齢がくるとわが身を商品として店にあがらなくてはなりません。そんな背景があって『たけくらべ』のものがたりに独特のペーソス与えています。一葉はそれまで貧乏をしていても、男にわが身を売って稼いだという経験をしたわけではなく、いわば世間知らずだったわけですが、ほんの小娘の美登利(モデル)のなかに、逆らえない不条理や、したたかさを見たことでしょう。『たけくらべ』のなかにある重層性はこのようなところから生まれたのではないかと考えられます。それにしても一葉自身は、男が「おんなを買う」という、遊郭の仕組みを近松や西鶴の本で知るほかはなかったのに、吉原という当時では特別な地区に住んだことで、身近に女の不条理と、女にとって「性」も哀しくもひとつの武器であるということを実感したことでしょう。そして、一葉自身にもその「武器」を使うことになるかも知れない出来事が起こります。明治二十七年の一月、一葉の店の向かい側に同業の店が開店します。そのことにより、もともとみすぼらしい一葉の店はたちまち客足が途絶え、商売が行き詰まりました。ここで一葉の二月の日記に突然に謎の男、久佐賀義孝の名前が出てきます。久佐賀義孝という男は易者です。天啓顕真術会という会を主宰し、新聞広告なども派手に出したりして政財界人にも顧客が多く羽振りが良かった男です。現在でも、本を出すなどもてはやされて巨万の富を築いている占い師がいますが、政財界人には意外に困ったときの占い頼りというカモネギの人もいるようです。一葉はこの久佐賀をたずねて、千円の借用を申し入れます。今で言えば一千万円くらいという金額でしょうか。借金を申しいれるにあたって一葉は久佐賀に自らの過去や内面的な閲歴を虚実取り混ぜて書き、「おもしろくをかしくさわやかにいさましく世の荒波をこぎわたらん」と思うに至ったと「日記」に書いています。そのために事業を始めたいから資金を貸してくれと申し出たのです。当然ながら久佐賀は一旦断りますが、後から追っかけるように「貴女の身体は小生に御任せ被下積りなるや否や」と、手紙をよこします。「相談に乗ろう、しかし妾になってもらうことが私の条件だがそれでもいいか」、というようなことを持ちかけるのです。一葉はこれに腹をたてて「日記」の中では久佐賀のことをあしざまに書いていますが、さりとて提案をきっぱり拒絶していません。久佐賀をいなしながら、可能性を探っているのです。一葉もかけひきの術を覚えてきたのでしょうか。一葉はこの千円で、自分が育ってきた萩の舎塾のようなものを開きたかったのではないかと言われていますが、今となってはすべては謎です。他にも二十二宮人丸という怪しげな人物のところにも尋ねようとしていますから、よほど困窮し、開き直っていたことが伺われます。もしここで久佐賀の誘いに負けて妥協していたら、お札にはならずにワイドショー的な話題になっていたことでしょう。
2004.12.20
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半井桃水に辛い別れをした一葉は背水の思いで創作にとりかかりはじめます。一葉は、すぐ上の兄虎之助をモチーフに陶工職人の話しとして書き始めました。これは以前に桃水に職工を題材に書いたらどうかと与えられていた命題を練り直したものです。一葉の次兄虎之助は、一時は父から勘当を受けるほど気ままに生きていましたが、その頃には薩摩焼の絵付けの世界に入り、名をなしていました。虎之助に教えを受けたり、図書館で資料をあさり著作に励んだ結果、「うもれ木」が完成しました。一葉は完成した原稿を萩の舎の先輩の田辺龍子のもとへ持ってゆき見てもらいました。一通り目を通した龍子は作品の完成度の高さを認め、一葉の原稿を雑誌『都の花』にとりついでみることを約束しました。これが転機になったのか、山梨の『甲陽新報』から小説執筆依頼が入り、『都の花』に持ち込んだ田辺龍子から「うもれ木」は一枚二十五銭の原稿料で掲載されることになったがいいか、との葉書が届きました。余談になりますが、一葉の母はこの葉書を担保に知人から六円を借りています。そして山梨の『甲陽新報』に掲載された小説「経つくえ」の原稿料もほとんど借金の返済に消え、樋口家の貧しさほとんど改善されることがありませんでした。「うもれ木」は一葉のそれまでの作風を脱し、人の生き様や葛藤を生々しく描いた小説で、発表されるとたちまち注目を集めました。そのなかでも、これをきっかけに『文学界』の同人たちとの交流が始まったことで、新しい文学の潮流や外国文学に目を開かされていったのです。桃水との別離は一葉にとって、文字通り転機になっていったのです。しかし、一葉の名前は知られてきましたが、文筆で生計を立てるということは容易ではありませんでした。一葉と家族は、家財道具や一張羅の晴着を売って資金を作り、台東区竜泉寺に店を借り、荒物兼駄菓子店を開きました。客はおもに子供たちでした。ここで見聞きした経験が名作『たけくらべ』の下地になったのです。店は吉原の直ぐ近くで、吉原方面への通路には人力車が頻繁に通っていました。一葉の日記に「夜我が門通る車の数をかぞへしに十分間に七十五輛成けり」とあり、「たけくらべ」にも情景としてこの記述が出てきます。客は多くても付近の子供たちばかりでしたから利益は薄く、郭内の仕立物の内職なども受けてやり繰りをしましたがどうしても収支のバランスをとることができませんでした。結局は商売をやめることにし、また方々で借金をして元の菊坂に近い丸山福山町の借家に移っています。
2004.12.18
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一葉は、自分の小説に欠けている俗情とは何かを考えていました。しかし、それは本などから読む知識としてもので、俗情のなかに自分を置いて経験しようというものではありませんでした。あくまで、他からえるものに求めようとしていたのです。桃水は一葉の小説家になる最初の手ほどきをした人ですが、ある日一葉から情死をする心持とはどんなものであろうか、という問をかけられたというそうです。その時桃水は、「私とても情死の経験はないから、何ういふ心持であるか、それをお答へする事は出来ぬ、唯斯んな人間が斯うした義理に迫ったなら、如何さま死ぬ気になるであろうと、読者に思わせれば好いのである、近松でも馬琴でも情死の経験はなかった筈」と答えています。一葉の死後、日記を含めた一葉の作品をまとめ、「一葉全集」を刊行した馬場胡蝶によれば、一葉の小説は明治27年の暮れから、文体、着想ともに一段の進歩を見せたそうです。思想も変わったが、特に文体が溌溂として来たといっています。これは、西鶴の好色本や「日本永代蔵」「世間胸算用」のような町人ものを読んだ結果だろうと言っていますが、桃水とのことがあったかには触れていせん。この「西鶴全集」は平田禿木が一葉に貸してあげたものということですから、これらの本を一心に読んで“情”を学ぼうとする一葉がいじましくもあります。一葉にとっての不幸(?)は、俗情を身体で覚えるのではなく知識として識ろうとしたことではなかったのでしょうか。桃水が文壇に一石を投じる意気込みで創刊した雑誌『武蔵野』に一葉は「闇桜」を発表し、二号に「たま襷」、三号に「五月雨」と順調に作品を発表していました。しかし、一葉を売り出すために創刊したような『武蔵野』は売上げが伸びず、三号をもって廃刊に追い込まれてしまいました。またしても、書いたものがお金にならないことに焦りを感じた一葉は、桃水以外の記者に見てもらおうと、作品を友人に託したりしています。桃水も自分の力で一葉を世に出すことに限界を感じて、読売新聞の小説記者であった人気作家の尾崎紅葉に一葉を会わせる段取りをつけています。そしてこの頃、一葉を追い打ちするように悩ませるできごとがつぎつぎと起こります。それは、一葉の通う萩の舎社中の仲間たちにの嫉妬に似た誹謗中傷に因をなします。萩の舎社中に通っていたのは、いわゆる上流階級の女性たちでしたから、上品を是としていました。あらかさまに非難はしないまでも、桃水のもとに通う一葉にあらぬ噂をたつのは自然の成り行きだったのかも知れません。萩の舎社中では「一葉はやくざ小説家の食ひものになる」、「桃水が一葉を妻だと言いふらしている」というような風評が流れていました。それを知った萩の舎主宰の中島歌子は、萩の舎社の名誉のためにも一葉に桃水と別れることを強くすすめます。一葉は萩の舎に通う親友の伊東夏子にも相談しますが、伊東夏子も文学のためにも別れることをすすめ、一葉は桃水との絶交を決意するのでした。一葉は桃水に、二人の仲が疑われていることなどを話し、交友関係を絶つことを申し出ます。一葉は桃水がお膳立てしてくれた尾崎紅葉との面会も断り、泣きながら失意のうちに帰宅します。しかしこのことがあって、一葉のなかには一層深く屈折したかたちで桃水への想いが残ることになったようです。 桃水と袂を分かった一年後に、桃水のところで優しくもてなされた出来事などをモチーフにした「雪の日」を『文学界』に発表していることなどから伺われます。※伊東夏子は、日本橋の商家の娘(妾腹)で、母が萩の舎で和歌を学んでいたことから、自らも11歳で入塾しています。一葉とは同年で、名前も同じ夏子であったため、萩の舎では「い夏ちゃん」、「ひ夏ちゃん」と呼ばれていました。また、一葉は一応士族ではあったが、萩の舎に集まる上流子女からは下層扱いされていたため、「ひ夏」、「い夏」、田中みの子と3人で平民組を名乗って結束していました。 TEST無言館にて
2004.12.16
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苺1500さん 寂聴さんによると、桃水からお金を受け取っているから、何もなかったとは思えない。いや、あるはず・・・というようなことを書いていますが勘ぐりでしょうか。彼女は全てそちらに結び付けますからね。 一葉は桃水のもとに通いながら、一心に小説を書きつづけます。しかし、一葉の小説は桃水からすれば生硬でそのままでは読めないものでした。いうなれば、一葉は落ちぶれていたとはいえ士族の娘という気位があったのでしょう。また、生々しい恋愛経験があったわけでもありません。ひたすら、家のため家族のために生きているなかで書き上げる物語は、よくいえば純文学的なものにならざるを得ません。一方、半井桃水は新聞社の小説記者として、大衆受けする小説を求めてきた人です。新聞小説といえば、その人気によって新聞の売れゆきに大いに影響を与えます。連続であっても、毎日の一話一話が歯切れ良く大衆を満足させるものでなければなりません。あえていえば媚びを売るかの場面も必要になってゆくのです。一葉の根底にある、総体としてじっくりと読ませるものと、場面場面が日替わりで面白く読める小説とは相容れないところがあるほうがむしろ自然です。しかし、一葉からすればこころの底には半井桃水への想いがあり、矛盾したものを抱きながら書き続けていたのでしょう。今度こそはと、桃水に渡した小説は、朝日新聞東京支局の主筆の小宮山即真居士に渡されました。桃水は小宮山の力に頼って小説の掲載を実現させようとしていました。小説の結果を心待ちにしていた夏子のもとに桃水から連絡が入ります。ところが結果はおもわしいものではありませんでした。新聞掲載はおろか、内容についても酷評がされたのです。その主なものは、当世向きではなく大衆に受け入れられないだろう。もっと戯作っぽく書くようにというものでした。18、9歳の一葉が、マスメディアの本音と建て前の違いを理解できなかったのは無理もありませんが、まだそれだけ筆が硬かったのでしょう。精一杯書いたのに新聞小説に合わない、ということはお金にならないという結果に、夏子の落胆は尋常なものではありませんでした。新橋から九段へ至るお濠端沿いの帰り道はさながら夢遊病者のように歩き帰ったと、日記に生々しく書かれています。桃水にひたすら頼る夏子(一葉)の姿に、桃水もまた憎からず思うはずもありません。桃水もいずれは夏子と助け、いずれは結ばれることを真剣に考えていたと思われます。明治25年、夏子はようやく書き上げた初作『闇桜』の草稿を持って、おりからの雪のなかを麹町の桃水のもとへ人力車で急ぎます。その日、桃水は同人雑誌「武蔵野」の刊行を夏子に告げます。夏子の『闇桜』を創刊号に載せるというのです。このことによってはじめて作品が世に出るきっかけになるのです。この頃の一葉に日記には、桃水のことで埋まっています。桃水もまた夏子(一葉)の才能に惹かれ、思い入れを深めてゆきました。『闇桜』をのせた「武蔵野」は桃水の自費出版で出されています。そして、明治25年3月に、桃水は一葉の住む菊坂に近い西片町に転居します。ここからが、寂聴さんならずとも人々の推測の分かれるところですが、夢二などだったら近くに住めばすぐに同棲、あるいは通い合う深い仲へと突き進んでいったことでしょう。しかし、桃水には文学的才能は買うものの、一気に男女の仲にすすむほどの色香は一葉に感じていなかったと思われます。小説家としての才能を認め、自分を頼ってくれるいじらしさを思いながらも、ひとつ手前でとどまる冷静さをもちつづけていたのではないでしょうか。実は、このへんから一葉にとっての転機が訪れます。
2004.12.15
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プロを目指した夏子ですが、何度投稿してみてもなかなか目がでません。妹邦子の友人を介して、悩んでいる夏子に紹介されたのが半井桃水です。桃水は、夏子の文体をみてひとめで看破します。和歌を勉強し、江戸文学を読んでいた夏子の文章は硬すぎたのです。また、色っぽさのかけらもありませんでした。桃水は夏子に、自分は大衆受けのする小説ばかり書いているが、それは本意ではなく弟妹父母を養うためだった、と語り、売るためには大衆受けをする俗情を出さなければだめだとアドバイスします。生活のために小説家を志す夏子は素直に共感し、指導を約束してくれた桃水に感激し、憧れを抱きます。さっそく桃水の指導が始まりました。夏子の草稿を読んだ桃水は「文章も結構でしたが少し結構過て新聞や雑誌には如何かと思はれました。其の上趣向が宜しくないので…」と、さんざんな評価でした。萩の舎で王朝文学の古典を学んだ夏子の文章は、格調高いものではありましたが、大衆受けする小説とは遠いものでした。書いてすぐお金になるように、桃水は通俗小説の作法を夏子に教えます。これ以後、夏子は萩の舎のけいこの合間に、ひんぱんに桃水を訪れ、書いたものを桃水に見てもらいます。そして、書き直しては添削をくり返すという修業を重ねています。桃水も小説の材料にかねてから自分が温めていたものを与え、どのようにすれば面白い小説が書けるかと、趣向や筋立てに重点をおいた指導をしています。樋口一葉は桃水に尊敬と憧れの気持を抱いていましたが、日記によると艶めいた関係はありません。若い女性が立派な成人男子のもとに通っていたのに、はがゆくおもう方もいることでしょう。しかし、この頃の一般人の貞操観念は比較的固かったものと思われます。このしばらく後には、華やかな自由主義思想の高まりとともに、きらびやかな男女関係が花開いてゆくのですが、それには少しの歳月を待たなければなりません。
2004.12.14
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樋口一葉は貧苦と闘いながら、25歳という若さで死んだため男性にかかわる話題は多くありません。代表的な名前は半井桃水(なからいとうすい)、久佐賀義孝、横山源之助などであり、そのなかでも桃水には樋口夏子(一葉)も憎からずと思っていたし、桃水もまた一葉を可愛がり、世に出そうと骨折っていました。このへんの一葉の心理的な綾までよく知られているのは、十六歳のときから書きつづけ「若葉かげ」と名付けられた詳細な日記があるからです。一葉は、この日記は自分の死後焼き捨てるようにと遺言を残しましたが、妹の邦子がこれに背き、秘匿していたのです。邦子は日記だけでなく、小説の草稿、反古や手紙の下書等にいたるまで一葉の書いたものすべて大切に保管していました。邦子なしには、現在もてはやされる樋口一葉はなかったことでしょう。さて、一葉の恋愛ですが、妹の友人から紹介された「東京朝日新聞」の「小説記者」だった半井桃水に始めてあったときに、一目惚れに近い印象を抱いたようです。桃水に会った頃から樋口一葉の日記「若葉かげ」は始まっています。「君はとしの頃三十ばかりにやおはすらん。姿形など 取立ててしるし置かんもいと無礼なれど(中略)色いと白く面おだやかに少し笑み給えるさま、誠に三才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈は世の人にすぐ れて高く、肉豊かにこえ給へば、まことに見上る様になん」と書いています。一葉(この頃は夏子)は、桃水に対してプラトニックの恋愛感情を抱いていました。下級士族の娘として育った夏子は利発な女の子でしたが、女に学問は不要との母の意見で、小学校四級卒業までで退学し、父の計らいで小石川の中島歌子の歌塾「萩の舎」へ入門しています。夏子14歳のときのことです。歌塾とは、古典的な和歌を教えていた塾です。ここでの教養が夏子に文学的素養を身につけさせたと同時に、あまりにも古典的な文法を身につけたため、それから離れるためにのちに相当な苦労も背負うことになります。夏子が17歳の時に、則義は事業に失敗し、その心労などがたたり失意のうちに亡くなります。夏子には父の決めた婚約者がいました。恩人の真下専之丞の妾腹の孫で、早稲田専門学校で法律を学んでいた渋谷三郎です。父にすれば彼の将来を見込んでのことでしたが、則義の病没後、母滝子が結婚話をはっきりさせたいと申し出ると、三郎は「しばし待ってください。猶よく父兄とも相談して」とその日は帰りましたが、後日に人を立てて、婚約に際して高額な結納金を要求してきたのでした。ていのいい婚約解消の言葉だったのでしょう。男が結納金を持ってくるのならともかく、娘に結納金を請求するとはなんたることと、母親は立腹して、この婚約は破談になりました。夏子にすれば、こんな男とは破談になって正解といえるでしょう。しかし、父親のいない樋口家は困窮のなかに堕ちこんでゆきます。そこで、夏子は小説を書いて金にしようと考えます。女流プロ作家を目指したわけです。
2004.12.13
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竹久夢二を書いていて、東京・本郷の菊坂という地名がでてきました。僕は18歳から6年間ほど本郷3丁目に住んでいました。菊坂はそこから目と鼻の先でしたから、よく散歩したコースです。とても静かで、入り組んだ住宅街でした。その菊坂に樋口一葉の生家跡がありました。その場所が現在、どのようになっているのかは判りませんが、本郷をめぐる文学者たちのふしぎな縁に胸をときめかしたものです。樋口一葉といえば「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「大つごもり」「わかれ道」の5つの小説と「日記」がとくに優れた作品として認められていますが、今の文章と比べると文語体やセンテンスの長さが読みにくいので、実際に全部の小説を読んだ人は少ないのではないでしょうか。僕も、「たけくらべ」と「にごりえ」は読んだ記憶がありますが、中学生くらいだったものですから、果たして原文で読んだものなのか口語訳を読んだものなのか定かでありません。ご承知のように一葉は20歳から小説を書き始め、25歳という若さで亡くなっています。生活のためとはいえ、この5年ほどの間に書いた小説か20数編、そして「日記」と信じられないほどの才能を発揮しています。先に紹介した数人の男性作家たち、太宰治、寺山修司、そして竹久夢二などが破天荒で破滅的な人生を送ったのに比べ、あまりにもつつましく清廉な人生を送った一葉ですが、一葉にも恋愛がありました。地元にいない娘の部屋を僕の書斎代わりに使っています。娘は学生時代文学部だったので、部屋の本棚に学生時代の資料か埋まっていて、とても便利です。そのなかから、樋口一葉の恋を牽いてみようと思いますが、さて思うように出てくるでしょうか。こんどは、ごく短い紙数のものになるでしょう。では、またのちほど…。
2004.12.12
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たまきが夢二が死んだあと、富士見高原病院を訪れ、夢二が世話になったお礼に三ヶ月ほど黙って下働きをしていったというエピソードはけなげで、ちょっといい話しでしたが、その行動によってたまきは夢二を自分の胸の中に取り戻せたと感じていたのかも知れません。夢二のように多彩な女性と関係がもてたことは、男として幸福なことだったんのでしょうか。アメリカのある億万長者が「事業でもそうだが、わたとは失敗が嫌いだ。だから、失敗した結婚はすぐ解消して、なんどでもやり直すのだ。」と言っていましたが、解消するたびに負債が嵩んでいくような気がしてなりません。かたやフランスのジャーナリストの言葉に、男女の結婚観について、とても肯ける言葉かあります。「独り者は孤独を避けるために女を求める。結婚した男は差しむかいを避けるために社交を求める。」言えてますね。日本の落語のなかに、女の側から語った結婚観に面白いものがありました。“お前さん何であんな亭主といっしょになっているんだい、見込みがあんのかい”“あるもんか、あんな奴”“じゃあ、なぜ一緒にいるんだヨォ”“だって、寒いもン”おあとがよろしいようで…。
2004.12.11
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はからずも、小泉内閣が無謀な自衛隊の派遣延長を決めたがみらいさんの日記に、戦禍を語り継ぐ集い「高遠菜穂子 イラクの真実を語る」という記事が載っている。そのなかで、高遠さんが元気に活動されている様子を伺われて嬉しかった。日記に紹介されている高遠菜穂子さんのブログ「イラク・ホープ・ダイアリー」で、再開した彼女の活動の様子が書かれている。イラク内部の情報については、マスコミが目隠しされた状態にあるが、ここには現地の市民から送られてきた情報も入っており、イラクの今を知るうえで貴重なサイトだ。彼女の、11月13日の日記のなかより、一部を紹介しよう。悲劇は日常的に起こる。ある家族が車で移動中に米兵2人に止められた。2人の米兵は英語で家族に「車から降りろ!」と怒鳴った。英語のわからない家族は車から降りない。一人の米兵が後部座席のドアを開け、座っていた娘の腕を引っ張り引きずり出そうとした。運転していた親父は焦って米兵を撃ち殺した。それを見たもう一人の米兵が親父を撃ち殺した。それを見た息子がその米兵を撃ち殺した。この話を聞かせてくれたファルージャの住民は「死んだ理由はあるけれど、死ぬべき理由はどこにもない」と言った。恐怖に怯えていたか、イラク人を人間とみなしていなかったか、英語を話さない下等動物と思っていたか、彼ら米兵は銃を向けて威嚇した。そこにわかり合おうとする試みも誤解を解こうとする余裕もありはしない。こんな話が毎日いたるところで起きていた。スンニトライアングルという言葉はもう死語だ。攻撃するのに都合のいい言葉に過ぎない。日々変わっていく情勢に翻弄されているイラク人に、メディアがこの言葉をいまだに使い続けているなんて申し訳なくて言えない。外国人武装勢力も、あくまでも「ファルージャ被害者の会」のようなムジャヒディンのことも、全部まとめて「武装勢力」とするのはひどすぎる。武装勢力を捕らえたという映像を見るけど、不信に思った私はイラクに電話をかけまくった。あれは100%民間人だとイラク人は言っている。ファルージャ総合病院にいた人たちはおそらく、従業員と近所の人だ。病院という病院をすべて占拠、そして破壊していったら誰が手当をするの?国境も何も封鎖して誰が援助に入るの?武器を持っていないファルージャの民間人に取っては、米軍が最大の「外国人武装勢力」だ。外国人武装グループが人質を処刑するようになって、ジャーナリストやNGOが激減して、もぬけのカラになった所でタイミングよく米軍の「包囲攻撃」。どっちのやっていることもイラク人を苦しめるだけ。なんでそんなに連携プレーでイラク人を苦しめるの?イラク人は助けを受けることも、果ては水や食料を受けることも、雨期に入って寒さをしのぐ防寒具も受けられないままでいろと言うのだろうか?「武装勢力」よりはるかに多い人々は「多少の犠牲はしかたない」という言葉で片付けると言うのだろうか?「包囲」って恐ろしいっていうことをやっとわかってもらえただろうか?それでもまだ、「人道支援を進めるためにはこの軍事作戦が必要だ」と言うのだろうか?もう誰も死なないでほしい。米兵も、イラク人も、誰も彼も。「11月22日 ファルージャの写真」
2004.12.10
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みらい0614さん このシリーズ、楽しく拝見していました。富士見高原病院の建物が、この状態で残っていることにビックリしました。写真を見る限り、かなり荒れているようにも見えますが、放置されているのか保存されているのか?近所にこのような建物があったら、ちょっと怖いな・・とも。msk222さんが実際に足を運ばれて撮影なさったのですか?本筋と無関係の質問で、ごめんなさい。 沢たまきと笠井彦乃 富士見高原療養所は現在は「JA長野厚生連富士見高原病院」という総合病院に生まれ変わっています。 その敷地のなかに現在も富士見高原療養所の病棟の一部と文学者たちが療養した部屋が残っているということです。残念ながら僕はまだ訪れたことがありませんが、車で1時間ほどの場所なのでそのうちに足を伸ばしてみようと思っています。 来年あたりのオフ会の見学コースに入れてもいいですね。 病院のHPに「「高原療養所と文学者・芸術家の関わり」として、夢二が入院した経緯と、そのエピソードが書かれていますから、引用してご紹介しましょう。 茫洋として力ない瞳で遠くを見つめ、哀愁といいようのない甘美さを合わせもつ女性を描いて、大正時代一世を風靡したという挿絵画家の竹久夢二は昭和9年にこの療養所で結核のため死去している。晩年の夢二は悲惨であった。昭和に入り仕事面でも下降線をたどると同時に、もともと生活破綻者的要素をもった彼は、家庭もなく、孤独の中に身をおいていたのである。 夢二の人生には三人の女性(たまき・彦乃・お葉)がいたが、そのいずれとも、まともに家庭をもつことはできなかった。唯一の正式に結婚した岸たまきとの間には三人子供がいたが、夢二が彦乃という女性に走ったことで、家庭は崩壊する。 昭和8年アメリカ・ヨーロッパをめぐる旅行から帰国した時には、既にかなり重い肺結核に侵されていた。看病する人も、入院する費用もないといったありさまであった。見かねて救いの手を差しのべたのが旧友正木不如丘である。東京まで往診に来た彼は、ひとりアトリエでせきこんでいる夢二をそのまま富士見に連れてきてしまったのだ。昭和9年正月、真冬の寒い日のことだった。すでに病状の悪化はひどく、回復の望みは薄かったようである。 正木は夢二のために特別室を用意し手厚く看護したと言われている。専任看護婦の話では家族が面会に訪ねて来ても「逢いたくない、帰してくれ」と決して逢おうとはしなかった夢二だが、死の前日には「身内のものがひとりもきてくれないのが口惜しい」といって涙を流したという。昭和9年9月1日、家族も縁者も姿を見せず、ただ病院の人たちだけに見まもられて51年の生涯を閉じた。 その年の10月のなかばすぎ、ひとりの婦人が療養所を訪ねて「夢二がお世話になりました。そのお礼になんでもおてつだいしたいのですが」と、正木院長にもうしでる。それから3カ月ちかくのあいだ、この女性は、患者たちが使ってよごれた、寝具のしたてなおしなど、だれもが好んでしようとはせぬ仕事をしつづけた。かの女がたち去ってからはじめて、病院の職員たちは、この人が故人のかつての妻の岸たまき(他万喜)であると、院長から教えられたという。夢二入院のことは、他万喜は洩れ聞いてはいたが、かつての夫の死は、新聞記事でようやく知ったのであった。 病院を解説した正木不如丘についても紹介されていますから、あわせてお読みください。正木不如丘(まさき ふじょきゅう)明治20年(1887) 2月26日~昭和37年(1962) 7月30日小説家・医学博士。長野県長野市に生まれる(本籍は上田市)本名:正木俊二。父は長野師範学校の教頭であった。大正2年、東京大学医学部卒業。成績優秀で恩賜の銀時計を受けた。福島の県立病院院長を経てパリのパスツール研究所に留学。帰国後、慶應大学医学部内科助教授となり、かたわら朝日新聞に『診療簿余白』(大11.8/25 - 9/12)を連載して好評を博した。つづいて『三十前』『木賊の秋』『思われ人』などを発表。 日本の探偵小説の勃興に伴い、専門知識を利用した医学ミステリ『髑髏の思ひ出』『県立病院の幽霊』(大15)なども書いている。 医学部内における対立から大学を出て富士見高原療養所へ赴任を決意。ただ僻地で総合病院を運営するには、あまりに無理があった。医者や看護婦に給料が払えず、正木は仕方なく出版社から依頼される原稿を次々とやっつけ仕事でかたつけ、その印税の大半を診療所の経営に充てていたという。結局、診療所は間もなく潰れてしまったが、正木は留学時代にスイスで視察見学した『結核療養所(サナトリウム)』を、ここ富士見の地に開設しようと思い立つ。そして診療所の借金を個人で肩代わりし、何とか病院を維持したのである。昭和4年には慶應大学医学部を辞め富士見高原療養所所長に専念し、次第に彼の「高原のサナトリウム」は全国的に知名度を上げて行く。しかし、漸く療養所の経営が安定した頃書かれた『果樹園春秋』(「ロック」昭23年)を最後に彼は創作の筆を絶ってしまう。 昭和の初めから30余年にわたり、結核治療と富士見高原療養所のために彼は人生の全てを捧げる。そして、結核が既に「過去の病気」となりつつあった昭和30年代末、まるでその使命を終えたかのように、75年の生涯を静かに閉じたのであった。 苦難の時代に書き殴られた彼の作品数は膨大で40冊以上が刊行されているが、文学的評価は必ずしも 高くはない。単なるディレッタント作家という評価しか与えられずに、後世に残るような傑作が書かれることは残念ながらなかった。 ただ、食べ物や渓流釣りに関するユーモアあふれる軽妙なエッセイや学生時代から続けた俳句は、たいへん味わい深いものがあり、その穏やかな文面からは彼の誠実で真摯な人柄が偲ばれる。 苺1500さん う~ん。色んなことを考えさせられますね。ずーっと辿ってきて、結局憎めない人間です。破滅型人間と、創作または異性との間の深い関係。細く長く着実に、というのより、やっぱり逆の方が面白いもんね。自分の傍にいたら別として。
2004.12.09
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お葉と、正式ではないにしろ三度目の所帯をもった夢二です。年の離れたお葉は夢二を「パパ」と呼び、優れたモデルとして夢二の作品づくりにずいぶん協力しましたが、創作時間以外は、外で遊ぶという夢二の生活が変わるものではありませんでした。これまで夢二を身勝手なダメ男の見本のように書いてきました。事実、病的ともいえるほど貞操観念のない生き方をした夢二でしたが、あえて深読みをさせてもらうと、このような生活と引き替えに「夢二式」と称される絵が生まれていったものでしょう。都はるみの歌ではありませんが「♪芸のためなら女房も泣かす~」という身勝手さは、広く芸術家のなかに潜在している資質なのかも知れません。僕の知る範囲では、四方八方品行方正ですぐれた作品を創る人はいても、そのような人に、艶のある作品を創る人はとんと思い当たりません。社会的規範として、彼の生き方は褒められるものではありませんが、心身を削りながら創作の養分は自分の破滅的な生き方のなかにこそある、と夢二は密に思っていたに違いありません。お葉と暮らして4年、また夢二の病癖が再発します。山田順子という女性に入れ込んでしまいます。それまでの暮らしぶりで、すっかり夢二に愛想をつかしていたお葉はこれ幸いと家を出てしまいます。その山田順子とは3ヶ月ほどつきあっただけで別れています。その後の夢二の周辺には特定の女性名は現れません。その理由は、先日の日記その16 おんなぐせ で福田蘭童氏が回想している文章から十分に伺うことができます。余談ですが、お葉は後に医師と結婚して幸せな晩年を送ったといわれています。夢二は45歳で母、48歳で父を、相次いで亡くします。その後は、榛名美術研究所建設を宣言するなど精力的に芸術活動に邁進します。そして、48歳のときに渡米し、6月カルフォルニアに着きます。翌年には欧州各地を巡遊しています。50歳の9月にドイツより帰国、そのすぐ11月には台湾に渡りますが、さすがにムリがたたったのでしょう。台湾で病を得て帰国し、病の床に就きます。結核でした。病気のため、「榛名美術研究所建設」は頓挫することとなりました。現在も残る富士見高原病院の建物 東京で療養するも病の状態は芳しくなく、昭和9年の1月、51歳のときに信州富士見高原療養所に入所します。療養所は鮮烈な空気の中にあります。「富士見高原療養所」は知る人ぞ知る有名な病院ですが、あらためて簡単に説明しておきましょう。療養所には当時の文化人たちが何人も療養しています。堀辰雄とその婚約者、横溝正史なども入院していたことがあります。文化人たちの病院という存在だったのは、初代院長の正木不如丘(まさきふじょきゅう)が、小説家としても活躍しており、その執筆で得た収入によって病院経営を補っていたところによります。高潔な人柄だったといわれています。「富士見高原療養所」を一躍有名にしたのは、療養所を舞台にした久米正雄の小説『月よりの使者』、堀辰雄の原作をもとに製作された映画 『風立ちぬ』などのヒットにもよります。『風立ちぬ』は山口百恵と三浦友和が主演しています。現在は経営主体は代わっていますが、夢二の療養していた部屋やベッドなどはそのまま残されていると聞きます。あれほど大勢の女性に愛された夢二ですが、看病に訪れる人もなく「富士見高原療養所」に入院して8ヶ月あまりを過ごした、8月に手にしていたスケッチブックに「日に日にかっこうの啼く音はおほかた哀し」の歌を遺し、9月1日の早朝、看護の人々(病院関係者)に「ありがとう」と言ったのが最期となり、5時40分に静に息を引き取りました。 この絵は、富士見病院に入所しているときに描いたといわれています。ベニヤ状の板に書き殴りに等しい絵ですが、もし病気のなかで描いたとすれば頷くことができます。しかし、夢二の絵してはタッチに荒さが感じられますから贋作の可能性もかなりあると僕は思っています。ある画廊をしていた友人にぼくが無償で譲り受け、現在、わが居間の壁に飾られていますが、だれか鑑定できますか? ながながと夢二の乱行におつきあいくださいましてありがとうございました。彼とのつきあいも疲れましたから(苦笑)、暫くは日記もゆっくりと更新したいと思います。
2004.12.08
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竹久夢二を書いていて、女性の異性観について少し気になったことがあるので書いてみよう。最近、僕にはあまりピンと来ないがヨン様ブームというものがあるらしく、何人もの人が日記のテーマに採り上げていた。ヨン様追っかけ女性たちの熱狂ぶりに、おおむね冷めた論評が多いように思うが、僕にはみらい0614さんの日記にあった子育てが一段落した女性が陥りやすい「空の巣症候群」の向かった先…というような分析に説得力を感じた。しかし、今はたまたまヨン様だが、ついこの間まではベッカム様で、その前はディカプリオ様だったような…。そのいずれもマスメディアが率先してブームをつくりあげて、その後を雌鶏(失礼)たちが追っかけているという図式ではないだろうか。たぶん、ヨン様ブームも一過性のものになるだろうが、韓流ということで考えれば悪いことではないだろう。韓国とは長い間ギクシャクした関係が続いていたから、この韓国ブームで、相手国への視野が広がり相互理解が深まれば、意義があるといえるのではないだろうか。もっとも、あのギラギラとヨン様だけを見つめている女性たちが、背景の韓国文化にまで視線を拡げていくかどうかはわからないが…。ブームはブームとして、一般論として中年女性たちの異性への志向、異性観として考えてみたい。ヨン様が『冬ソナ』で有名になった俳優だから好きになったのか、それとも彼が例え有名でなくても、あの優しそうな笑顔があれば好きになったのだろうか。一般論として、動物としての女属は優性学的に優れた異性種を選択する。ヨン様も少なくとも見た目は優性種に入るだろう。筋肉も隆々としたムキムキマンだったし…。竹久夢二の場合は、有名な画家というだけで必ずしも美男子ではなかった。しかしヨン様とて、自宅に帰ってからもソフトな笑顔で通せるかと考えると、それは期待できないだろう。年齢と共に筋肉が落ちるのも簡単だ。しっかり笑顔を鍛えられている(?)皇族ならともかく、穏やかなつくり笑顔をとおすことは大変な努力がいるものである。「好きになる」ということは理屈ではない、と言う人があるが、まったく理屈抜きに人を好きになれるのだろうか。竹久夢二の前に現れ彼を愛した女性たちは、おしなべて不幸を背負うことになった。こうなると、優性種を選ぶという動物学的女属の法則に反することになる。前の、ベッカム様やヨン様が、たとえば追っかけの女性たちのなかから一人選んだとして、その女性は幸せになれるのだろうか。厚い胸に抱かれるひとときは、それなりに幸せの絶頂感を味わえるかも知れない。しかし、幸せの絶頂感が高ければ高いほど、深い谷底が底を覗かせているというのが、僕のようなヤボ思考のものが通常考える男女間の公式だ。こうして考えているうちにある疑いが浮かんできた。あの追っかけ女性たちは本当はヨン様を愛しているのではなく「誰かを夢中で愛している」という、自分を楽しんでいるだけなのではないだろうか。帰国するヨン様を韓国まで追っかけて嬌声をあげているが「まだ、誰かに夢中になれる」自分を確認し、写真集にうっとりする自分を確認して「よし、まだ行けるぞ!」と気合いを入れているのかも知れない、と思ってしまっうのだが如何だろうか。ヨン様が好きだという年代は、氷川きよしのファンとほぼ同年代だろうか。氷川きよしのなかにかつてあんなに可愛かったわが子の姿を探して愛する。少女時代にはグループサウンドやジャニーズを追っかけ、子育てに一段落したところに現れたベッカム様ヨン様が、彼女たちの心の虚空を埋めている姿を、世の亭主たちはただ唖然と見つめているというところだろう。これは、虚空を埋める努力を怠ってきたわれわれ男どもに責任の大きな部分はあるのだろうが、はるか昔にどんなに愛した女性が妻であっても、それを持続するなどは至難の業だと思う(僕だけかな?)。男どもは、こんなことでいちいち目くじらを立てるより、ブームが過ぎ去るのを静観しているだけでいいのではないかと、きょうは妙に歯切れのわるい自分だったりして…。
2004.12.07
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カフェーの女これでもかというほど、夢二への憧れをぶち壊すような文章をだらだらと続けてきましたが、そろそろまとめの段階に入ろうと思います。しかし、竹久夢二の女性関係は今まで書いてきた人たちだけでなくまだまだ枚挙にいとまがありません。夢二と交友のあった随筆家の福田蘭童氏が回想している文章に、あまねく夢二の女性関係の姿がつまびらかにされていますので、最後に紹介しておきましょう。 昨年の夏、雪江と名乗る女性がたずねてきた。三十数年前、雪坊、雪坊、と呼んでいた夢二の愛人なのだ。そのころ夢二は松原に住んでいた。松沢の精神病院からちょっと南側の小高い雑木林のなかに山小屋風の家があった。門のない夢二の家だ。玄関には大和絵が描いてある杉戸があり、その上に「港屋」と彫ってある扁額がかかげてあった。そのとなりが四畳半の日本間で、そこの板戸をあけると十畳ほどの板の間があった。ここが夢二の画室であり、天井から大きな支那ちょうちんがぶらさがっていた。 夢二はちょうちんの下で、筆をなめなめ抒情画を描いていたのだが、そのまわりには常に十六才から十九才ぐらいまでの女性がたむろしていた。人形づくりの娘、弓場の娘、指圧師の娘、結髪屋の娘などなど。そのうちいちばん年少者が雪坊であった。が、どの娘たちも父が亡くなり母の手によって育てられているものばかりであった。 その画室をのぞけるのは、息子の不二彦君と、弟子の大岩保君と、医師の岡田道一さんと、わたしぐらいなものであった。夢二は娘妬心がふかくて、男性に女性をとられるのを極度におそれていた風であった。 夢二はときどきわたしの家へ父(青木繁)の画を見にきたし、わたしも一週に二日ぐらいは夢二の家に泊っていた。ときには一緒に旅に出た。 ある日、上州の赤城山へのぼったことがあった。西条八十、松岡譲、直木三十五、麻生豊、小松清、田中比左良などと山つつじを見に行ったのである。 あくる日、新聞社の招待で前橋の料亭へ行った。おきまりの芸者がきたが、その中に一七、八の見しい妓がまじっていた。夢二は色紙にホオズキの絵を描いて、その娘に渡して夜の約束をしたのだったが、他の芸者達にも画を描いて歓心を買っているうちに、西条八十が、その妓を連れて伊香保へ逃げてしまった。夢二は口惜しがったが後の祭であった。(中略)夢二は色紙に「人生旅人」と白技きの文字を書いたほどの旅行ずきであったが、待合へ遊びに行くのも好きであった。東北からの帰り途、池之端の待合「こうもり」へ行ったことがある。彼は座敷の金屏風に全裸の舞妓を二日がかりで描きあげたが、いまその屏風はどうなっているのだろう。日本橋の待合へも遊びに行った。カネがなくなると兜町で店を張っている岡野知十とかいう人のところへ金借りにいった。わたしが使いである。岡野さんは夢ニファンだったので、金を貸してくれたし、待合の費用もときどきもってくれた。芳町にリン弥という若い芸妓がいた。小柄で細っそりした身体つきで、夢二好みの顔をしていた。夢二はこの妓を愛しはじめた。待合で泊ると、カネがかかるし、岡野さんにもあまり無理は云えぬので、彼はリン弥が座敷をすませたあと、松原の家へ呼びよせることに成功した。深夜に彼女はやってきたが、寝るところと云えば四畳半の日本間しかない。画室では伜の不二彦が寝ているし、女中部屋では「雪坊」がクリクリした目を光らせているので、四畳半で一緒に寝るよりほか方法がなかった。二枚の布団を敷き夢二とわたしがリン弥を中にして寝たのであった。かつて夢二は京都に住み、ザコ寝の昧を知っていたが、夢二よりも若いわたしはゴロ寝の経験はなかったので、リン弥の身体から発散する白粉とビンツケ油の匂いで寝つかれなかった。夢二は夢二で、リン弥の寝返りに溜息をつくばかりであった。こうした往来が数年つづいているとき、とつぜんH子という少女があらわれた。ぽっちやりとした色白の娘であった。彼女は少女雑誌の編集員であり、さし画を貰いにやってきたのである。夢二はすぐに好きになり、彼女と会える時間をのばすために、さし画をすぐには渡さなかった。H子は黙ってそれを我慢した。その姿はいじらしかった。わたしは彼女に同情をよせた、やがてH子はわたしを慕うようになった。彼女は北千佳の二軒長屋に佳んでいた。母と弟と三人暮らしであった。わたしは独身だったので、H子の母親から公然と交際することを許された。日曜日には荒川の土堤を散歩したり、逗子や葉山へも遊びに行ったことがあった。ところがある日、H子の母親から手紙が舞いこんだ。H子が失跡してしまったからすぐ米てくれという文面であった。わたしは急いで北千佳へ行ってみると、H子の母親は涙ながらに三日ほど帰宅しないといった。雑誌社へ問い合わせてみたところ、夢二の家へ画の催促に行ったきり戻らぬという返事があったと云う。そこで、わたしは桧原の夢二の家へ行ってみた。三日ほど前、家を出たきり帰らぬという、雪坊の返事であった。夢二が彼女を連れだしたことは確かだったが、どこへ行ったのかさっぱり見当がつかなかった。それから二、三日してH子は母親の元へ悄然として帰ってきた。夢二の誘惑にまけて筑波山麓の旅館にいたことを告げた。母親は泣いた。わたしは何も言わなかった。それっきり、夢二の家を訪ねることをやめにした。H子は外出を禁じられてしまった。そして間もなく夢二はアメリカ行きの貨物船に乗りこんだ。夢二にとってH子は最後の恋人であり、失恋の最後ともなったのであった。このあたりのエピソードはお葉が家を出たあとのことでしょう。それにしても、単に女癖とかたづけるには語弊がありそうな、おそるべきエネルギーです。若いお葉との愛の暮らしは長くは続きませんでした。20才あまりの年の差ということもありましょうが、1年あまりの夢二との暮らしで、お葉は夢二の性癖にすっかり愛想をつかしたのでしょう。夢二の画房には、まるでスペアを取り替えるように若い女性が出入りしていました。それでも、夢二が人生をともにしようとしてもいいと考えたのは、たまき、彦乃、お葉の三人だったと言われています。しかし、どの程度本気で生活を考えていたのかはいぶかしいものです。 夢二はよく待合いで遊んだ
2004.12.05
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苺1500さん え~~~お葉のあとは順子・・・どこまでもつづくぅ。もうしらない。といいたいところだけど、また読まされてしまう事に。どうしてくれるのよ。そうだそうだポンボさんに並んで追求するぞ。物書きは「自分」をどこかに置き去りにしてはならないのであります!ブツブツ。M本当にいいかげんにしたらどうですか、と言いたくなりますが、これだけつぎつぎと恋を求めることのできる性格が少しうらやましくも…。 画房小景 お葉 モデルとして夢二の前にあらわれたお葉(かねよ)でしたが、少女にしては華やかな異性交遊もあったようです。モデルとなりながら、夢二をパパと呼び、あっけらかんと自分の恋愛を語ってきかせるかねよに夢二は惹かれてゆきます。夢二がお葉に接近していたときの手紙があります。府下田端三一四青木政吉氏方永井かねよ様 (封表)本郷夢ニ (封裏)今日はそなたのためにもずゐぷん印象のふかい日であった。私にしてもそなたの心のうごきかたをかなりはっきりわかっていぢらしいともかあいゝとも思ったものを。だけれどもそなたの言ったやうに、あれでよかった、あの青年に逢ったために私の心もたいへんあかるくなったし、あの男とそなたどの間の物語(ロマンス)もたいへん気持よく聞くことが出来るやうになったからね。お前も充分に愛してゐたのだから、あの時、胸のおどったことも、私には想像も出来るし、同情も出来る。ただ、そのためにお前のこれからの生活がくるしくなったり、不幸になったりしないやうに私のためにもそなたのためにも祈ってゐようね。お前の此後の身の上について、私はずゐぶん愉快な幸福なことを考へてゐる。そして、お前が、お前の心もからだもだんく私のものになって来て、それからもっと成長して、私の好きな理想的な女になるやうに願ってゐるし、すべての責任を持つことが出来るとおもふ。ほんどにお前は、好い児だ。だがまだ、年のわりに知りすぎてゐることや知らなすぎてゐることがたくさんある、それはだんだんわかっても来るし、賢いをしてはつめいなお前は、すぐに立派な女になれるとおもふ。すてばちになったり、自分の身をさげしんではいけないよ。ほんとに自分を愛する人だけが人をも深く愛することが出来るものなのだ。おまへは生れも好いし、育ちもわるくない。ただいままでの境遇がおまへに不用のものを教へたかもしれない。しかしその仕事がまたお前をたいへんわかりの好い娘にしたこともほんたうだ、だからやっぱりどんな境遇も運命もお前のためにむだではなかったのだよ。ほんたうに信じておくれ。私にはお前の持ってゐるものの中で一番好いものを知ってゐる、お前はほんとに好い子なんだよ、だからその他のことは何も持たないでも、知らないでも、お前を愛する心にかはりはない。だからお前は私のまへにはすっかり子供になって、すなほな心で、いつもはだかのままでゐるやうな心持ちでいるんだよ、いいかえ。私を信じておくれ。私はお前をどんなに立派な女に出来るか、そして、そのために私は幸福でゐられるんだから。いま頃はもう、御母様のそばでしずかに寝てゐるんだろうね。おやすみ 夢二かね代様たまきにはあれほど強気にあたっていた夢二ですが、お葉の若さにはすっかり魂を奪われている夢二です。あの手この手で、彼女に取り入ろうとしている様子が少し微笑ましくもあります。
2004.12.04
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ポンボさん こういう関係、mskさん、記述がお好きなのか、関係がお好きなのか...私、いらいらしてしまう。非日本的なのかもしれないけれど...やっぱり元に戻って、惚れるってのは、恐ろしいことなのだ! お葉をモデルにして描いた「黒船屋」先にも書きましたが、本郷・菊富士ホテルにはさまざまな文人が逗留していましたから、ときには異色の掘り出し物を手に入れることもできます。彦乃と別れさせられた夢二は、こころに傷を負ったまま菊富士ホテルに滞在していましたが、生活はしなければなりません。新たに絵を描こうとした夢二の前に現れたのは佐々木カネヨことお葉です。夢二はカネヨと会ったときに、カネヨがあまりにも自分のイメージする美人像と近いので驚きます。お葉とはカネヨに夢二がつけた別名です。お葉の本名は佐々木兼代。幼少の時を秋田県河辺町で過ごしたカネヨはその後上京し、12才の時に美術学校のモデルになっています。美しく可愛い少女だったため、さまざまな高名画家にモデルとして乞われます。伊藤晴雨や藤島武二のモデルとしても有名でしたが、十代の少女がどのような経過で伊藤晴雨のモデルになったのでしょう。晴雨といえば縛り絵で知られています。裸の女性が縄にグリグリと縛られている画風を得意とした画家でした。ともかくもカネヨが夢二の前に現れたのは16才の時でした。 夢二は独自の美人画を描いてヒットさせている当時の流行画家でしたが、彼はモデルなしには画を描けませんでした。あるいはモデルというより「女」ともいえるのでしょう。画学生だった笠井彦乃との恋、京都への逃避行、彦乃との世をさけた生活も切り裂かれて失望の底にあったところにモデルとして現れたのがお葉でした。自分の絵から抜け出たようなお葉に夢二は驚き、そして強烈に創作意欲をかき立てられたのです。モデルとしての才能もあたのでしょう、お葉は夢二の好みを敏感に感じとり、夢二の画境に火をつけるようなポーズをとりました。夢二もまたお葉を自分の理想の女性に近づけようと、かんざしから履物に至るまで細かく創案製作して身につけさせています。名作と言われる「黒船屋」はお葉をモデルに生まれました。佐々木カネヨは「夢二式美人」のお葉として再生したのです。翌年の1月16日、彦乃は順天堂病院で死去します。まだ25才という若さでした。翌、大正10年6月、夢二は田端のお葉の家に移り住み同棲を始めます。夢二38才、お葉18才のときのことでした。そして、夢二41才、お葉21才の時の秋、お葉は家出をして藤島武二家にかくまわれますがやがて戻っています。しかし、翌年山田順子が現れてお葉は家を出ます。お葉は後に市井の人と結婚して平凡で幸せな人生を送りますが、ここまでの過程には当然さまざまなドラマがあったわけです。そのへんのエピソードはまたつづきということで…。
2004.12.03
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chappi-chappiさん>絵はほにゃほにゃなのに、けっこうやるもんですね。大阪だったら、頭すこ~んとわって脳みそストローでちゅーちゅー吸ったるところです。 ここまで、たまきの証言や何人かの残した文章から夢二のたまきとの生活を僕なりにあぶりだしてみました。そのなかの一つ、夢二と親交のあった版画家の恩地孝四郎夫人の恩地のぶさんの証言の一部を紹介しましょう。 竹久夢二さんのことですか、そう、あの人は古きよき時代に、思いきり気ままーっぱいに生きた方ですよ。あの頃のことを思い出すと、何んといいますか、随分遠い感じですね。 私が夢二さんに会ったのは、私が十九のときでした。当時、私は女子美術に人った頃でした。主人の恩地の姉が女学校の英語の先生でしたので、そんなつながりで婚約していましたが、ある日一緒にはじめて竹久家を訪ねました。恩地は夢二さんの画を見に行くだけだったんじやないかと思います。夢二さんの画が好きだったんですね。 夢二さんの画と恩地、仕事はたしか、大正二年の『どんたく』の装幀がはじめてじやないかと思います。洛陽堂から出た『夢二画集』なんか手伝って、スケッチをしています。 竹久家には若い人たち、とくに若い女子美術の学生さんたちが、いつもいましたね。そのなかには、のちに二度目の夫人になった人もいましたよ。 はじめの奥さんは、九段の絵ハガキ屋つる屋の主人の妹さんで、早稲田大学の前にその支店がありましてね、そこの店で店番していた人でした。夢二描くところの美人でした。なんでも早稲田の学生だった夢二さんが、夢中になって通い詰めたそうです。―あとで、その奥さんに聞いた話ですけど、毎日のように店にきて、その人の顔をジロジロみては帰るので、少し気味が悪くなり、といいますのは肩までかかるような長髪の夢二さんが気味がわるくなったのでしょう。或る日、「あなたの長髪はきらいですよ」と言うと、翌日、すっかりスマートになった頭髪であらわれ、それから―ということだったそうです。 勝気な人だったんですね。若くて美人で、流行画家の奥さん。若い画家の卵の方もずい分と来ていました。 その奥さんと反対に、夢二という人は憂鬱な人、という感じを身体いっぱいにもっていた人です。だけど、何か強いものをもっている人、という印象を与える人でしたね。 二人の性格の相異、不幸な結婚生活ですよ。 夫人は齢も夢二より上だったし、少し理屈っぽい人でした。性格のちがい、夫婦にとって、これほど不幸なことはありませんね。お互が不幸だったんですね。それぞれに適した人を得ていたら、家庭的な悩み、夢二さんもそれから解放されて、もっともっと仕事ができたんじやないんですか。 私たち夫婦が夢二家に行くと、その日に限ったことではないんでしょうが、いつも夫婦喧嘩をやっていましたよ。 そして最後の別れ話の折など、守屋東さんが心配されていました。そうそう、若き日の神近市子さんが、かつて夢二家に下宿していて、そこか津田英語塾に通っていましたね。 最近なくなられた高名な小説家の夫人について、面白い話があるんですよ。彼女はすごい夢ニファンでして、夢二描くところの女性とすっかり同じ姿―髪から、リボン、そして着物まで同じという熱のいれようでした。 あれはいつだったか、そうそう岸田劉生さん方のヒューザン会の日ですよ。私たちとともに行ったことがありました。夢二さんの顔をみたいというのでね。 ところが夢二さんという人は顔の浅黒い、とても美男子なんていえる人じゃないんです。彼女はいわゆる。“面食い”なの。それが見てがっかり。いろんなことがありました。 夢二さんのことでは、ときには迷惑をかけられた人がいるんじゃないですか。 もうあのような時代が来ないんじゃないでしょうか。夫婦して自由を楽しんだりして、そして好きなことをやって。今の若い人たちの自由、放縦とはちがいますよ。 恩地証言では、性格の不一致をあげているが、夢二の女性に対する不誠実な生き方はむしろ、夢二の病的な性癖にあったと僕は思います。 これはともかく、笠井彦乃との京都での生活はふたりにとって、烈々の恋だったわりには穏やかに過ぎたかに思えましたが、彦乃の生活も休まるものではなかったようです。 夢二は彦乃を愛しましたが、生来もった女癖はやみません。かつて覚えたお座敷遊びにも毎日のように繰り出し、たちまち生活に行き詰まってしまいます。 彦乃にとって憧れの夢二との生活も辛労の多いものにかわってゆき、とうとう身体を壊し、病をもってしまいました。 ふたりで暮らし始めてやく1年、京都別府町の町中田病院に入院します。そのためには費用も入ります。逃げた家であったけれど、援助をこう手紙を出したことから、居場所を父に知られるところとなり、駆けつけた父によってつれられて、京都の東山病院に転院させられます。 彦乃との仲を切り裂かれた夢二は東京に帰り、先の証言をした中野の恩地孝四郎方に身を寄せ、しばらく後には本郷の菊富士ホテルに居を移します。 彦乃は東山病院で小康を得たものの一向に病状は回復せず、東京お茶の水の順天堂医院に入院します。皮肉にも、この病院と本郷菊富士ホテルは歩いて20分くらいでしょうか、目と鼻の先にあります。 この頃、菊富士ホテルで夢二のモデルをつとめることになったのは、佐々木佐々木カ子ヨ(カネヨ)です。のちに夢二がお葉と名づけた女性です。 菊富士ホテルにて、お葉(撮影・夢二)
2004.12.02
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