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まもなく、1のぞろ目になりますね。お馴染みさんで、111111に一番近い人にきれいなカレンダーでも差し上げましょう。挑戦してみてください。 まもなく紅葉も終わりますね。 ふるさと長谷村の自然も冬支度を始めていました。
2004.10.31
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武装グループに拘束された香田証生さんが殺害された。宿泊していたホテル従業員の制止を振り切ってイラク入りしたという報道が正しいとすれば、自殺行為に等しかったということになる。事件の被害者にムチ打つようなことは言いたくないが、今のイラクに入るには彼の行動はあまりにも無謀過ぎたということだろう。それにしてても、武装グループが、「自衛隊を撤退させなければ殺害する」と言っているのに、首相がただちに「テロには屈しない!自衛隊は撤退させない。」と言い放ったということは、「どうぞ殺してください」という、処刑宣告にも等しかったのではないだろうか。また、サンケイ新聞では自衛隊の増派も検討と、反抗グループの神経を逆撫でするような記事もでていると聞いた。新潟地震へ自衛隊を増派するとの誤報ではないだろうかと耳を疑った。他の問題での小泉首相なら「国民もいろいろ、政府もいろいろ」と、のらりくらりと時間稼ぎをしただろうに、自国民の生死をわける重要な発言をこうもあっさり言い切るものなのだろうか―。香田さんはバックパッカーという、いわゆる貧乏旅行、リュックサックを背負っての一人旅をつづけていたらしい。世界のどこでも、気持が通じ合えば何とかなるという安易な判断でイラク入りしたことが事件につながったのであろう。理想としては世界中が安心して旅行できるようになって欲しい。しかし理想は理想、現実も直視しながら求めなければならない。今となっては彼の冥福を祈るしかないのが残念だ。彼の行動について、家族を責める論調が目に付いたが、これ以上彼の家族への馬鹿なバッシングは止めて欲しい。どのような事情であれ家族を失った気持ちを自分の立場と置き換えて考えてみて欲しい。香田さんの判断を、軽率で無謀ということは誰にでも言うことができる。少なくとも香田さんが、われわれの利害に関係がないからだ。しかし、アメリカに引きずられてイラク開戦を支持した日本政府は軽率で無謀ではなかっただろうか。大量破壊兵器を持っていると断定して、国連の決定を置き去りにしたままパンドラの箱を開けて、イラクを収拾のつかない混乱のなかに巻き込んでしまったアメリカを後押ししてきたことは、軽率で無謀ではなかったろうか。香田さんの無謀は、若干の関係者を巻き込み、自分の命によって咎められたことになる。しかも、イラク戦争によって安全になったどころか、一層危険地帯が増えたことを身をもって示してくれたことになる。政府の無謀は、決定を支持した人々のみにかかわらず、すべての国民を巻き込んで悪化の一途を辿っている。たとえば世界の治安の悪化、原油の高騰、イラク市民の死者は十万人を超えたという報道もある。これらの失態はいったい何によって咎められるのであろうか。(続報)香田さんが殺害されたとの報道は、二転三転しましたが日本政府の情報がいかにアメリカ頼りだったかというお粗末ぶりも明らかになり、腹立たしいかぎりです。 尚、この事件について先にイラクで拘束された経験をもつ安田純平さんからのメールが入っています。 拘束された先輩(?)としての、とても納得できる内容です。 少し長いのと、準私信扱いなので読みたい人は、僕宛の私書箱に本メールのアドレスを入れてください。転送致します。楽天私書箱は文字数制限で一度に送れないので、ご容赦ください。
2004.10.30
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今日の北浦真澄さんの日記に刮目した。>被災者を上から眺め、「彼等の為に自分になにかできるはず」と、思い上がってはいないだろうか。>「なにかができる」ことが優れていて「なにもできない」事を劣っているとして、あらゆる現場における「救済活動」を、「能力の問題」に摺り替えてはいけない。それは真実ではないばかりか、被災者を二重に打ちのめす、奢り高ぶった思想である。前にも書いたが、僕は阪神大震災がおきた2日後の夜、友人知人に呼びかけて集めた物資や募金をワンボックスカーに詰めるだけ積んで神戸に向かった。京都からは、救援に向かう他の車と列になりパトカーの先導で、倒れた高速道路の脇の湾曲した道路を数時間走って神戸についた。神戸の知人、西宮の知人等に頼って避難所にもそれらを届けたが、果たして物資がどれほど役だつのかと考えるとまことにこころもとなかった。道路は渋滞しており、倒壊した家屋の付近には被災者たちが焚火をしていたが、積んでいた荷物はあまりに少なく、平等に渡すなどということはとてもムリなことだった。これは自己満足でしかなかったのではないかという自責の念に襲われたものだ。つぎに訪れたのは1ヶ月ちかくたって、市民グループの仲間で炊き出しの道具と、建築やサービスの専門家たちを募ってでかけた。炊き出しも2ヵ所の予定が1ヵ所しかできなかったが、結局、自分たちの身に同じ災害がおきたらどのように対処すべきかということを学ぶことだけだったような気がする。どの避難所も物資は溢れていたが、使われそうもない衣類や始末に困ったものを提出したのではないかというようなものが多かった。やはり役立つものは募金だろう。どのようにでも役立てることができる。そして、メンタルな面ではないだろうか。あるところで、高校生くらいのボランティアの女の子が被災者を叱りつけているところにも出会ったが、ボランティアはやってあげるものではなく、やらせて貰うものである。被災者を上から眺め、援助をしてあげるという姿勢は、北浦真澄さんがいみじくものべた、被災者を二重に打ちのめす、奢り高ぶった思想である。天災は、いつ自分たちと立場が入れ替わらないとも限らない。そのためにもやらせてもらうのである。そして、やらせてもらったボランティア体験は万一の時にはかならず自分のために役立つ。これから冬に向かって仮設住宅などの手配もされているようだが、長野県も空いている県営住宅を無償で地震被災者に提供することを決めた。隣県として当然のことだろう活用してほしい。そのさい、ペットも飼い主にとっては人間同然の大切な家族であろうし、何よりも傷ついたこころを癒やしてくれるカウンセラーのようなものだから、同居を許すべきであろう。そして、国に被災地の復旧を強く働きかけて、一刻もはやく戻れるようにする、彼らは言葉とはうらはらに細かい配慮まではしないものである。復旧のメドがついたら、われわれも来客としてたびたび被災地を訪れ、泊まらせていただき復興ぶりを学ばせてもらうことであろう。僕は、遠距離という関係もあって阪神大震災の被災地にはあまり行けなかったが、それでもこれまで10回ほどは訪れて様子を見てきている。経過を見ることで、何が有効で何が不要だったかがわかる。神戸ではねそのつど人々のエネルギーと、のど元過ぎればという両面を感じて帰ってくる。目で見てきたことは今度のようなことが自分の地域でおきたら役立つはずである。 イラクで人質になった青年は、詳しいことが分からないから、適切ではないかも知れないが、あえて言わせてもらうとあまりにも軽率で無謀な行動だったと思う。しかし、政府はあらゆる可能性を排除せずに救出に全力をあげてもらいたい。イラクに過激な武装組織をここまで育てたのも米国に盲従し、こじつけのイラク戦争へ荷担して、結果的に安全どころかいっそうの混乱国家にしてしまったことにそもそもの原因があるのだから…。また、青年の家族への脅迫まがいな電話などが殺到しているそうだが、これも見当違いな盲動だ。彼が迷惑をかけたとしても、その鬱憤を家族に向けるのでは、野蛮人とまるで変わらない行動だと思う。家族に突然舞い込んだ災難に、いやがらせをしようと湧いて出るなどとは、ウジムシ同然である。「恥を知れ!」といってもムシケラには通じないかも知れないが…。この事件についてNinjaCatさんが日記で書いていることに同意したいな。もちろん、またこんな甘い見通しは世界では通用しないとお叱りを受けるのは承知で書くが、常識に縛られているうちは何も変らない。ざれごとを述べて一生を送ることになる。
2004.10.28
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新潟県中越地震の発生から5日目の27日、同県長岡市妙見町の土砂崩れ現場で、母子3人が乗っていたワゴン車から男児が救出された。総務省消防庁によると、母親も生存している。地震から92時間ぶりの救出劇となった。 車に乗っていたのは、同県小出町中原の主婦、皆川貴子さん(39)と長女真優ちゃん(3)、長男優太ちゃん(2)。 (asahi com) ということでしたが、優太ちゃんが救出されたあとお母さんは亡くなられてしまいました。真優ちゃんもまだ救出できていません。もう1日早く見つけることができたら助かったかも知れないと思うと残念です。 隣県ということもあって、新潟には友人・知人がたくさんいます。今日も、十日町市にいる文芸仲間にお見舞いをかねての電話で様子をお聞きしました。ことに古い建物に被害が大きく、道路も亀裂などがあって交通網はかなり不自由だということです。心配されていたことですが、精神的なショックから抱えている病状を悪化させる人が多く、病院はどこも混み合っていて医師の疲労も大変なものと想像されます。水、電気、ガスなどのライフラインは比較的すみやかに復旧し、最低限の生活は確保できているとのことです。しかし、山間部で孤立している地域の様子や、家屋の倒壊などで住む家を失った人達のための手当、避難所の状態は劣悪で、ことに汚れたトイレに慣れない人たちはそのことで病気になる人もいるようです。物資にとくに不自由しているということは聞きませんでしたが、これから避難所生活などが長くなるにしたがって不足するものがでてくる可能性もあるでしょう。様子がはっきりしてきたら、ボランティア派遣などの準備にもとりかかろうと思います。今は評論家でいることより、とにかく困っている人たちのためにすべての力を注ぐべきでしょう。
2004.10.27
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新潟中越地方を襲った地震は被害の実態が明らかになるにつれすさまじい惨状が見えてきました。対策については、先の阪神大震災などの教訓を生かしてなるべく緊急にできる手を打っていただきたいと願うものです。阪神大震災のときには僕も救援物資を募って大型ワゴン車で神戸入りしましたが、今度は土砂崩れがひどくて交通網も広範囲で寸断されていますので、血気はやった行動は避けた方がよいでしょう。車を持ち込んでも交通渋滞をひきおこし、現地の足手まといになる可能性が高いのです。阪神大震災のときにも使える道が少なく、4、5キロの距離を3時間もかけて移動した経験があります。長野県では、衣料などの緊急物資のほか義援金を集めて送る手配をしていますので、とりあえずは義援金などで役立てていただくようにして、これから冬に向けて仮設住宅などでの炊き出しや、生活支援のためのさまざまなボランティア活動を立ち上げを呼びかけたいと思います。先の震災の経験しましたが、物資は意外に集まるものです。支援物資が分けきれず倉庫に山積みになったまま、野菜や果物が腐ったままというところも幾つか見かけました。必要なものは飲料水や食料などと、安心して眠ることのできる部屋などです。それと、応援に駆けつけるボランティアたちの励ましです。僕たちもさまざまな職種の仲間に呼びかけ、神戸での炊き出しを数回しましたが、喜ばれたのは美容師さんの散髪サービスや高校生の女の子などの被災者との対話など、メンタルなサービス活動でした。ホームスティーとして現地から被災者を受け入れるということも有効でしょう。全壊・半壊家屋は被害状況が一目してわかりますが、一見大丈夫そうな家も中に入ってみると大補強をしないと危険な状態になっている場合があります。これらの応急補修や家具などの運び出しなどの力仕事がいります。そしてこれからの大仕事として、除雪が予想されます。除雪作業は力と根気のいる仕事です。お年寄りしか住まない家などは手助けが必要です。自衛隊もこんなときこそ活用されるべきでしょう。阪神大震災のときも活躍していましたが、この中越地震は地滑り地帯での道路確保など、より危険と隣り合わせた作業を行わなければなりません。サマワの部隊を引き上げてでも、ただちに本土防衛に努めるべきでしょう。各地で募金活動も始まると思います。募金でお願いしたいのは、新聞社や県など所在のはっきりしたところに募金するようにしましょう。すでに募金詐欺が発生しているようですが、かならずいかがわしい団体がでてくるものです。善意がムダにならないように、心したいものです。新潟県中越地震の被災者の方々に皆様の支援をお願いします!
2004.10.26
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オフ会参加のみなさん、そのほかのみなさんありがとう。青空の下で楽しいワイン(僕はほとんど飲ませていただけませんでした)。美味しい料理、みなさんよかったですね。遅れていった僕は、トホホでしたが…。ネットで文章での会話と、肉声での会話はまた違って新たな一面をみせていただいたようで楽しかったです。お別れのハグをしてくれた○さん、ハハハまたこんどもお願いね。今日はそのひとりをご案内して商談商談ということで、よい話しになりました。もう家に着いた頃ですか。地震の被害にあわれた方々に申しわけないと思いながら、賑やかなひとときを過ごしてしまいました。衷心よりお見舞い申し上げます。今日は、うちわの文章のみで失礼します。
2004.10.25
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あやしい空地震は新潟長岡付近が震源ですか。皆さんの地域はいかがだったでしょうか。こちらは震度2(これは古い言いかたですか)くらいで、たいしたことはありませんでした。今日はちょっとしたイベントがあって、少しアルコールが入っています。タリバン議論についてさまざまなご意見ありがとうございます。こうした政治的な話題になると alex99さんとすれ違いになるのはなぜでしょう。日記での話題というより、このことについて感じたことを書いてみようと思います。このサイトを立ち上げて間もなくイラク戦争が始まるかどうかという話題で、さまざまなサイトで話題になりました。そのときに、僕は戦争にすることに反対の立場で日記を書いていたのですが、その頃から掲示板が賑やかになり、戦争になるのもしかたがないという人達との論戦のようなことをしたことがあります。まだ、ネット初心者だったため最初はひとつひとつに応対していたのですが、そのうちに交わることのない平行線の議論をしていることに気付きました。政治の問題は、よほどはっきりしたもの以外は数学と違ってひとつの答えというより、いくつかの選択肢のなかからよりベターを選ぶしかないからです。また、政治的対立が起こる場合は、見る角度により必ず評価が異なると思ったからです。それ以来、モットで議論をするために設けた板は別にして、このような日記は自分の意見を吐露するだけでいいのではないかと思うようになりました。それに対して掲示板でさまざまな意見があったとしても、このような見方、このような考え方もありますよ、という参考意見として拝見することでいいのではと思っています。だからご意見に対してのお礼もかねて返事をすることがあっても、大議論に発展させようという考えはまったくありません。先の文芸論議などとちがって政治論議は、日記で議論したことが実際に政治の世界で活かされるということはまずないからです。ただ、意見をのべることで自分のなかで整理する、異論を咀嚼検討してみるということだけです。現実問題として、現場を知らない身にとっては専門家のような答えを自分にだせるはずがないからです。こんどの中村哲医師の話題も、講演があった内容のなかの印象に残ったぶぶんを自分の感想をこめて書いたということでしかなかったのです。そうした姿勢は、議論をより深めたいという人やあるいは結論まで導きたいという人にはもの足りないことでしょう。しかし、自分としては多角的にものを考えることで、少しでも自分のなかに残せるものがあればよしと考えていますので、これからもそのスタイルで行くことになるでしょう。明日は、以前から気のあった人たち数人とのオフ会。大きな地震が起きたようですが楽しんできます。
2004.10.23
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だんだんさんから、つぎのような疑義をいただきましたので、僕の及ぶ範囲でお答えしたいと思います。初めてここの日記を拝見させて頂きました。興味深い議論だったので、少し意見させて頂きます。私はイスラム教・タリバンに疑問を持っています。もともとイスラム教に対しては「あーすごい宗教的なんだ」としか思っていなかったのですが、タリバンが出てきてから「イスラム教ってこんなんだっけ?」と思うようになりました。多分日本人の半分は私と同じような思いを抱いているのではないかと思います。人をたくさん殺し、女性の人権を認めない。これは宗教なのでしょうか・・・?なんの為にイスラム教は存在しているのでしょう。タリバンはオウム教と同等としか思えません。イスラム教にの中に「聖戦」というものがあると聞きましたが、タリバンはその意味を誤解されているように思えてなりません。「聖戦」というものは人を殺してでも自由を勝ち取る。だから英雄なんだ。テレビで少年がそう言っていました。やりきれない気持ちになりました。確かに昔はそうだったのかもしれないけど、今は時代が違う。決して人を殺さずに戦わずに、自由を勝ち取るのが英雄なんだよ、って言いたくなりました。イスラム教の割礼や女性差別は、昔から存在していたそうですが、今は時代が違います。今の時代に昔の時代を持ち込むのはどうなんでしょう。価値観の食い違いがありすぎます。タリバンは昔のイスラム教を現在に無理矢理持ち込んできているような気がします。今になってガンジーの凄さが改めてわかりました。タリバンもガンジーを見習えばいいのに・・・。なんかめちゃくちゃな感じになっちゃってすいません。宗教って難しいです。でも、タリバンは決して許されるべきではありません。だって日本にタリバンみたいな組織があったらみんな怒るでしょう。なのにイスラム教がある地域ではどうして「文化だから」で済まされるのでしょう。タリバンはイスラム教を利用しているだけです。長い文章になるので、日記のほうでご返事させて頂きます。タリバンに対しての疑問は、たぶん日本人の半分どころか大多数が感じていることでしょう。僕も、あなたと同じように感じていました。そして、いまどのように好意的に理解しようとしても認めたくない行為があることも、あなたと同様です。そのうえで、あえて中村哲医師の伝えようとする真意を、僕の理解なりに述べたいと思います。もちろん、これはあなたにタリバンを認めて欲しいということではありません。このような考え方もあるということで、読み捨てていただければ結構です。alex99さんも、田中宇氏の「アフガン報告」を引用して、下記のようにのべておられます。タリバンは支配地域に厳格に解釈されたイスラム法を施行し、女性はすべて外で働くことを禁じられ、女子校、女子カレッジが閉鎖された。女性は全身をベールで覆わなければならず、犯罪者には石投げ刑や手足切断といった公開処刑が行われるようになった。カブールの宗教警察は、女性が働くことを医療分野をのぞき全面的に禁止した。ほとんどの教師が女性だったため、これは小学校の閉鎖も意味した。タリバンは外国人女性をも排除しようとしたため、これまでアフガン経済の多くを支えてきた国連団体やNGO組織も妨害を受けた。タリバンは、アフガニスタンの二十年にわたる内戦の荒廃と崩壊が生んだ第二世代である。彼らは難民キャンプと戦場の往復の中で成長し、近代的な社会システムや教育を経験していない。そのため彼らは近代的な政治機構を形成する能力がないばかりか、その意思もないように見える。タリバンは政権掌握後も、経済を回復し、市民生活を改善するための措置をほとんどとっていないという。------ここまで田中宇氏、以下はalex99さん私自身が見たテレビのルポでも、女性の教育が禁止されたので、元教師の女性がタリバンに隠れて女の子を集めて極秘の女子教育をしていました。それにテレビ局の女子アナウンサーも職を追われ、タリバンが逃げた後、数年ぶりにテレビでニュースを読んでいました。バーミヤンの岩石に彫り込まれた巨大仏像を破壊し、博物館のヘレニズム彫刻など世界的に貴重なものを破壊し売り飛ばしたのもタリバン。全部が悪いとは言えませんが、毛沢東の文化大革命での紅衛兵を思わせる蛮行が多かったと思います。と書いておりますが、書いてあることはほぼ事実だと思います。なのになぜ中村哲医師がタリバンを擁護するような発言をしたのか。もちろん中村哲医師はタリバンとは何の関係もありません。ソ連と戦ったアフガニスタン国民の困窮ぶりを看過することができず、ペシャワール会という医療救援組織をつくり、アフガン入りしてもう20年以上になります。HPにも紹介されている一節を引用します。「誰もが行きたがらない所に行き、誰もがやりたがらないことをする」 ペシャワール会は中村哲医師のパキスタンでの医療活動を支援する目的で結成され、1984年より現地活動を開始しました現在パキスタン北西辺境州・アフガニスタンに1病院と4診療所を運営して、年間約16万人の患者診療を行っています加えて2000年夏より、戦乱についで今世紀最悪の干ばつに見舞われたアフガニスタンの村々で、約1000カ所以上の水源(井戸、カレーズ)確保作業を継続しています2001年10月からアフガニスタン空爆の中、緊急食糧援助を行ないましたこの時に寄せられた「アフガンいのちの基金」をもとに、医療事業、水源確保事業、農業計画から成る「緑の大地計画」を継続し2003年3月より長期的な灌漑計画を始めました これを日本では約12500人のペシャワール会会員が支えています 中村医師の無私な活躍ぶりはたびたびテレビなどでも報道されていますから、ご覧になった人も少なくないと思いますが、現在ではアフガニスタンの人々に神様より立派な人というくらいに信頼されています。20年もアフガニスタンの民衆のなかにいて事情を熟知しているはずの、その中村医師がなぜ、あのタリバンを擁護するようなことを言うのかと誰もがいぶかしむと思います。先の日記のなかでも少し触れていますが、アフガニスタンという国はシシルクロードの交点にもあたる要衝だったことから、昔から勢力争いなどの戦禍が絶えなかった地域です。ソ連がアフガニスタンに戦争を仕掛けたのも、軍事的にも政治的にも傘下に欲しい地域だったからです。恒常的な戦禍のもとで人々の暮らしは荒び疲弊しきっていました。力のある部族は民兵を雇い、民衆のうえにあぐらをかいており、巷には盗賊やかっぱらいも横行し、人々は武器で守り、その武器でよそのものを盗りに行くというような、絶望的な環境のなかに人々がいたわけです。一見平和にみえるのも、一部権力者の強権的な下であったり、都市部の裕福な人々の姿であって、大多数を占める農村部や山岳地帯の人々は置き去りにされてたわけです。そのようななかに台頭してきたのがタリバンだったわけです。厳しい戒律の原理主義イスラム教のもとに、文盲であまり教育を受けたことのない人々に彼らなりの病院や寺小屋風学校をつくり、男子たちを教育しました。そのタリバンは〈無知〉だった民衆のこころをつかみ、またたく間に旧勢力を駆逐してしまいました。そして、ますます原理主義宗教へと傾いていったわけです。ことに、旧文明の廃棄と女性への教育廃止、犯罪者の厳罰など、世界中から非難されるような原理イスラム教の政治を実行しました。そして、旧文化破壊や、都市部の人々への原理イスラム化への強制が報道されていたからとくにひどく感じていました。しかし、アフガニスタンの民衆のなかにはひたひたと浸透してゆきました。それは、厳罰主義の政治が理由のひとつかも知れませんが、もっと強い理由は、民衆にとって極端な不平等や不条理が蔓延していた、それ以前の暮らしよりはまだマシということだったのでしょう。自分たちを苦しめてきた権力者(という偏見もあったでしょう)を駆逐し、し放題だった犯罪を一掃したという功績は、他国から酷い宗教といわれても、アフガン民衆にとってタリバンは過去の権力者たちよりは、まだ救いのあるものだったのでしょう。その結果が、原理宗教の浸透とともに、彼らにとって解放者たる聖戦の戦士へのあこがれを育てていったわけです。だから、タリバン構成メンバーはごく一部の狂信的な人々だけではなく、アフガンでは普通の民衆も加わっていったのです。そのなかには「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の影」の気持で、それを助長させたこともあったのでしょう。中村医師も、このへんのところを見ていたから、アフガニスタンを治めることができるのは、この時点ではタリバンでしかないと思ったのでしょう。そして、医師の周囲にいる村人や患者にも、タリバンに所属しているという人々がいて、彼らなりのモラルを示していたわけです。たとえば、ドイツでは悪名高いヒットラー率いるナチス党がありましたが、全盛期にはドイツの国民たちはこぞって党員になろうとしたわけです。中国の紅衛兵にも子ども達がなだれをうって参加したわけです。そのように、人々が参加する理由は教義の善し悪しより、少しでも時の権力のなか安全を求めたり、ときの流れに感化されることのほうが大きいのでしょう。人間は自分の常識を基準に善悪を判断します。例えばライオンがシマウマを殺してもサバンナでは常識なのです。アフガンの常識は、文明国の常識を超えたところにあったともも言えるのです。このような状況下にあったアフガニスタンで、タリバンがアルカイダと結託してよからぬことをたくらんでいる、という日本などの報道は一方的で正しくないのではないか、タリバンにもこのような(アフガン人にとって)平和を保つ良いこともあった。と語っているのだと思います。少なくとも、タリバンが日本にテロ行為をする可能性は無いに等しかったわけです。アメリカに盲従さえしなければ…。僕の日記でも、タリバンの悪い面を書いておらなかったために、タリバン信奉者のように感じられたのだと思いますが、悪い面はこれまでの報道で誰もが知っているとおりで、あえて書くまでもないと判断したのです。つまり、アフガニスタンの状態は、日本や欧米諸国で生活している尺度では測れない状態にある。テロリストといわれる人々も、人に犯罪的テロの素地があってなるのではなく、未来への展望が見いだせない劣悪の環境が、彼らをつくり育てているという面が強く、無くすには叩くより、テロを生まない環境をつくってゆくしかないということで、中村医師も活躍しているわけだと思うのです。あくまで、これまでのアフガニスタンではという限定での、僕の主観で話しているわけです。女性への抑圧問題も、割礼に象徴されるイスラム教(一部キリスト教も含む)の過ちも、一気に解決ということは難しく、気の遠くなる努力の元に改善されてゆくことでしょう。あるいは人類が滅びるまでつづくのかも知れません。以上、はがゆいお答えですが、あくまで僕の立場で、あえて中村医師の思いを想像して述べてみました。あなたが感じている不条理は正しいし、ことに弱い人々が苦しめられることへの憤りの気持ちはこれからももちつづけてください。
2004.10.22
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すさまじい台風で、各地で大被害がでているようですね。皆様のところはだいじょうぶだったでしょうか。被害にあわれたかたには衷心よりお見舞い申し上げます。こちらも、小さな川が氾濫して浸水したところや、電車の横転事故などがあったようですが、僕のところは何もなくどしゃ降りの雨が過ぎてゆきました。 ところで、大雨のあとは良く釣れます。窓から竿をだしたら15分ほどで4尾あがりました。左の躰か黒い方が岩魚、白い方がアマゴですね。今日は何で食べましょうか。
2004.10.21
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さつまいも、そろそろ掘らなくては…。女性への割礼の実態について議論が噴出しています。この非人道的な習慣について、無くしたいとする運動が行われているということも知りました。僕らが、声をあげてもどうなるものでもないでしょうが、このような習慣が無くなってゆくことを願うしかありません。この日記に、たくさんの反響がありました。話題が話題だけに声にしにくいかも知れないと考えていたのは僕の認識の甘さでした。それぞれ、(あたりまえだが)とても真面目に反応してくれて嬉しかったですね。そのなかで、ちょっと気になった書き込みの部分を抽出してみました。うるとびーずさんそこまでして男性が守りたいものは何なんでしょうね。決して女性自身を守るためとは思えません。楓。。さん私がみたテレビは陰部封鎖の場合でしたが、こんな酷いことも言ってました。このことにより女性が性交痛に泣き叫ぶ様が処女性を思わせて男どもが好むのだと。ばっきゃろー!!!!!!出産直前に縫っていた部分を開くのですが、それが遅れるととても危険です。(ふつうでも開陰切開するぐらいなのに)はぁ~。男ってやつぁ~。ぼちぼち7203さん陰核切除に関しては約10年前に江坂のウィメンズセンターで、セッションがあり、講師は落合さんだったと記憶しますが、知りました。以来、世界情勢のニュースなどを見る時は該当国の男性、国民を見る目が自分では変わったように思います。文盲率とか、注意するようになりましたね。。イスラムでは、女性は飛行機に搭乗する際、夫か父親の承諾書がいるそうで、これは家畜と同じなんだそうです。ふう。ポンボさん アフガニスタンの戦争前、つまり911より前に、国連に(割礼廃止の)署名を送る運動がネットの世界で世界規模であったんですよ。アフガニスタンの女性の割礼を止めようというので。結局戦争?になって、タリバンが勢力小さくなったから、たぶん、改善されているのだろうけれど。小林とむぼ こと 唯乃葉羽さん これは、命と一緒で人間の尊厳にかかわる問題なのに、とても難しい問題に思える。人間も、経済的な利益に前には物と同じになるのだと、認めたくは無い。男社会の傲慢に対しての憤りについては、僕としてはちょっと筋違いかという思いもあります。しかし、長い人類の歴史や習慣は、男の傲慢によって作られてきた面が多いということは素直に認めざるを得ないところです。このような不条理な習慣が、広く世界中で行われていたということはまったくもって驚きですが、人間そのものも、この自然界では最大の不条理と考えればあり得ることと認めざるを得ません。よく書くことですが、不条理があるということは、不条理に甘んじろということではありません。不条理の幅を無くす努力が必要だということです。戦争も、人身売買も、こうした酷い習慣も、少しでも無くそうという気持をもちつづけることが大切だといえます。世の男性を代表して、ひとことだけお断りしておきたいのは、たしかに男はSEXに対してどん欲な面はあります。たわいもない快楽を好んで求めるDNAは誰もが潜在しているものです。それと同時に普通は、自己をコントロールする理性ももちあわせているものです。自分が守るべきものを犠牲にしてまで快楽だけを優先する人は、ごく希な欠陥人間だと申してよいでしょう。愛情とSEXは基本的には一体のものです。女性への割礼も、言われているような男の身勝手だけで行われてきたとは思いたくはありませんが、これこそ宗教のなかの無知のなせるわざでしょう。宗教は、ひとのこころを救うものであってこそ本来の役割を果たしているのではないでしょうか。紛争の火種になったり、宗教指導者たちの利便に要するものであるうちは、エセ宗教だと声を大きくして言いたいのです。しかし、宗教もけっきょくは人がつくりだした理念だということも忘れてはなりません。なお、僕もイスラム圏の男性と結婚した女性を数人知っていますが、割礼を受けたということは聞いたことがありません。こんど会ったら確認してみたいと思います。また、このへんの事情について北浦真澄さんの日記に詳しく書いてありますから、ぜひお読みください。 明日で楽天日記まる2年になります。読者がいなくては続かなかったでしょうね、感謝します。先頃、アフガニスタンで医療支援活動をつづける中村哲医師の講演「アフガニスタンから日本を視る」が近隣の町でありました。アフガニスタンでの活動はもう20年にもなるそうです。ここ数日、主にイスラム諸国で行われている「割礼」が話題になっていますが、イスラムとはなにかイスラム諸国にとって宗教はどんな役割を果たしているのか、中村哲さんの話しのなかからも考えてみました。アフガニスタンといえばタリバン、タリバンはアメリカにビン・ラディンを庇ったということでテロ組織のように思われていますが、タリバーンというのは「神学生」という意味で、農村の普通の人々がメンバーだということで、日本でカルト集団のように報道されているのは誤りということです。タリバンがオサマ・ビンラディンをかくまったのは、彼が旧ソビエトと戦ったということと、異国から来た客は丁寧にもてなすのがアフガンの伝統だということだけだったのです。その客人をアメリカに引き渡すのはとんでもない非礼なこと、と普通のアフガン人は思っていたためとんでもない悲劇に巻き込まれることになったといいます。しかし、だからといってアフガンでのアラブ人に対する感情は良いとはいえないとのことです。 保守的なイスラム教徒と思われ、外国では評判の悪いタリバンでしたが、かの国ではそれまで、軍閥による抗争が絶えず、必要なものは攻撃して獲るというような強盗被害があとを絶たなかったといいます。そのため、診療所ですら機関銃で警護しなければならなかったということです。タリバンが国をまとめてから治安もよくなり、人々の暮らしも平穏になりつつあったときのアメリカによる戦争で、ふたたび大ダメージを受けてしまったということです。宗教や習俗が、すべて良いということではないが、アフガンのような荒んだ地域をまとめるには、けっきょく宗教と現地の状況に即した教育しかないのではとも語っていました。アフガンの農村では、イスラム教の指導者(村の長老がなる)が寺子屋を開いて、子どもたちに字の読み書きを教え、コーランの暗誦させます。コーランには、人が人としてなすべき道徳や、日常生活の決まりが書かれてあります。そして、幼いころから大人と一緒に働いて仕事を覚えます。それがアフガニスタンという国の農村における教育です。教育を授けるのは村の長老たちですから、かならずしもすべて合理的なものではないのもまた当然のことです。古く陳腐な習慣が残るのも現状ではしかたがないことだといいます。先進国からみると、とんでもないと思われる習慣などがのこっているのも、現地では最低限生きるための知恵であったり、伝承されてきた約束事であったりするわけで、一気に変えるのはむずかしいだろうということです。たとえば、タリバンは外出する女性に、ブルカ(チャドル)の着用を義務づけていました。これが欧米の人権活動家には女性抑圧の最たるものと映っていました。しかし、ブルカ着用は農村部での常識で、農村出身者が多いタリバンは農村の常識を都市部で強制していたにすぎないということです。よく国連のユニセフなどがこのような状況を見て、「なんたる教育の貧困」と、学校を建設し、教育を施そうとします。しかし、もしすべての農村に学校を建設し、子どもたちに先進国なみの教育を施したら、学校を卒業した途端に村を捨て都会へ流れてしまい、ほとんどの村が過疎で空っぽになることが予想されるといいます。教育を通じて豊かな都会の生活を知るからです。また、ユニセフなどの援助団体に寄せられる募金の9割は、組織の維持のために使われ、残りの1割しか難民に使われませんが、中村医師の所属するペシャワール会へ寄せられる募金の9割が実際の援助に使われているということです。アフガニスタンの子どもたちで教育を受けることができるのはまだ恵まれた子どもたちだともいえます。多くの子どもたちは、餓死しないために働くことが精一杯なのが実情だといいます。こんなアフガニスタンで、どんな山奥の村に行っても、広島・長崎に原爆が投下されたことを知らない人はいません。アフガン人たちは、自分たちの国を侵略したロシア・イギリスと戦った日本に好意を持っているといいます。もっとも、日本についての正確な知識はほとんどなく、真顔で「日本まで歩いてどのくらいかかるのか」と聞かれたこともあるといいます。 そのため、アフガン人の間に外国人排斥の動きがあっても、日本人は例外とされてきたそうです。しかし、米国の攻撃に日本が協力を表明したことから、アフガン人の親日度が急激に下がったことは間違いないということです。アメリカにおける同時多発テロ事件をきっかけにした、アフガン、イラクへの武力攻撃は、終わりの始まりだと思っているそうです。テロに走らざるを得ない状況を拡散することにより、経済的繁栄と安全が両立する社会が成り立たなくなったといいます。日本もアメリカと共同歩調をとるかぎりは、少し貧しくなっても安全に平和で暮らせる社会か、豊かだけれども危険と隣り合わせの社会のどちらかを選択しなければならなくなったと思うとしています。
2004.10.20
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写真は取り替えました。誤解のなきように―。割礼について、alex99さんがコメントをしてくれました。>イスラムでは成人に達しようとする女性は、割礼の手術を受けます。性器の一部(クリトリスを中心に)を切除され、鎖陰のように縫われてしまいます。快感を感じて不実な行為に走っては生けないからと言う理由です。手術が失敗して死亡する女性もいます。>この風習に反対する運動の先頭には、ソマリア出身のスーパーモデル、ワスリ・ディリーがいます。>イスラムの女性は、みな強制的に半ば宦官の様にされる・・・と言ってもいいかもしれません。>イスラム教徒の男性との結婚も考え物かも知れませんね。少年時代に読んだ本などから、世界的に割礼という儀式がイスラムやユダヤ、そしてキリスト教の一部にあることは知っていましたが、男児の包皮の先を切るいわゆる宗教的な包茎手術と思いこんでいました。女児への手術のことは儀式としての形式的なことと勝手に思いこんでいたものですから、まさかこんな酷いことが行われているとは知りませんでした。ちょっとネットで調べてみました。女性性器切除 Female Genital Mutilation, FGM1.スンナ割礼 クリトリスの包皮と先(柔らかい部分)の除去。陰部閉鎖は行わない場合がおおい。2.切除・クリトリス切除 クリトリスと外陰部、ときには外生殖器の隣接部分の除去。地域によっては、膣が切られる。3.陰部封鎖(ファラオニック割礼) クリトリスと大陰唇・小陰唇を除去した後、外陰部の両側を膣の上で閉じる。その際に、尿や月経血を出すための小さな穴を残しておく。FGMの施術を受け、現在、FGM廃絶の廃絶の国際運動をおこなっているワリス(1999)によると、アフリカ大陸を中心に約28カ国の地域でおこなわれ、国連の推定では毎年200万人の女性(少女)が、この手術の対象者となり、過去にFGMを受けた女性は累計で13億人になるという。 男性器への割礼は、成人包茎や感染症の予防などという面で多少の意義は認められますが、女性器への割礼の意義は、宗教的なものとしても身勝手な男論理の最たるものとしか考えられませんね。尻軽女を妻にもった愚かな宗教指導者が思いついたとしても、それが宗教全体の教えになるとは驚きです。ことに女性は(僕の認識では)、快感という性欲→SEX→愛情という流れより、愛情→SEX→快感性欲という方向に進むほうが圧倒的多数を占めるのではないでしょうか(確証はありません)。もし僕の感じ方が正しいとしたら、宗教で行うべきは愛情というモラルを最優先に指導すべきだと思うのですが、ウ~ン…。イスラム国としては、欧米先進国に近い風土をもつトルコでは割礼をお祭りとして行っているようですね。トルコのHPでは男児割礼のことしか紹介されていませんが、女児にも行われているのでしょうか。人間の習俗については、その地域にいなければ理解できないことが多く、日本にいてその非を簡単に断ずることはできませんが、それにしても、おぞましきは狂った道徳観念…ですね。道徳を強制する世界が、正しき良き世界であったという例を知りません。
2004.10.19
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僕に釣られた気の毒な山女魚たち前にも書きましたが、僕の事務所脇を流れる水路には1キロほど上流にあるわき水から流れ込んでいます。いま、天竜川から山女魚や岩魚が産卵のために遡ってきて、事務所脇でひとやすみします。水温によりますが、天気が良く水温が暖かめ(15度くらい)になると餌をよく食べますので事務所の窓から釣り竿をだします。あの会社は遊んでばかりいると思われそうなので、竿を出すのは年に数回だけです。 これはアマゴ? 卵を抱え丸々と太っています。昨日あがったのは、22~26センチくらいの食べ頃が6尾。こんなことをして遊んでばかりいるとおもうでしょう、ところが夕方の30分くらいの釣果ですよ。毎日こんなに釣れたら漁師になりますが、釣れるのは年に数日だけで、水温によっては口元に餌を投げても見向きもしません、気まぐれなものです。寒くなるにしたがって顔をみせる魚は大きくなり、ときには40センチ以上の大物も昇ってきます。このくらいになると餌を投げても見向きもしません、簡単に釣り餌に食いつかない注意深さがあったから大きくなったのでしょう。1ヶ月ほど前には、岩魚が大きな蛙を捉えたところを目撃しました。最近はこのへんも川鵜という鳥が営巣するようになって、魚影が極端に薄くなりました。川鵜は1羽が1日に数キロも魚を食べるといいますから、地元の漁業組合も頭を痛めています。川鵜はもともと海沿いの河川に棲む鳥ですが、海ちかくの生息環境が悪化していることがうかがわれます。山女魚も40センチクラスの大物が姿をみせるようになると、信州もいっそう冷え込んで、川に流れこんだ落ち葉が魚たちの姿を隠してしまいます。雪が降るくらい寒くなると魚はほとんど姿を見せず、この地方も長い冬にはいります。
2004.10.18
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花屋さん、勝手に撮ってゴメンナサイ楽天友だちのCAT-Oさんから美輪明宏について書いた日記に熱烈ラブコールを書いたところ、美輪明宏の主演した「黒蜥蜴」のビデオを送っていただいた。はじめにお断りしておくが、僕にはそのケはないからおすぎとピーコが言い寄ってもだめだよ。とは冗談だが、ビデオのなかで婉然と微笑む若い頃の美輪の色気にはむせそうになった。彼のSEXはどんなボジションか知らないが、女性達は美輪明宏をどのように見ているのだろう。美輪明宏とはまったく関係ないが、中国の歴史のなかにしばしば宦官(かんがん)という人々がでてくる。宦官とは去勢した男性で、大人しく使いやすいということで宮廷では重宝したようだ。宮廷内の女官たちとの不純異性交遊をさまたげるという意味もあったのかな。宦官で有名な人には、『史記』を表した司馬遷がいるが、彼は48歳という年齢で刑罰のために切られたので宦官としては遅かったわけだ。なぜ、切られたかというと武帝に逆らった友人の李陵を司馬遷が弁護したため、その怒りに触れ宮刑を受けたのだ。 性器を切り取るという残虐な刑罰は司馬遷に苦しみと恥辱を与え、人生観を一変させたという。その2年後、屈辱を耐えつつ宦官として宮廷に赴いて中書令となり、『史記』の執筆に全力を傾けた。彼は一時は自殺を考えたというが、『史記』の完成のためだけに生き長らえようという悲壮な決意で記したという。皮肉にも、この事件が司馬遷の筆に一層の深みと重みを与え、『史記』を不滅の史書たらしめたということである。この宦官という手法は、刑罰だけでなく貧しい人々が宦官として子どもを宮廷に差し出し、なにがしかの冨を得たというようなケースと、漢民族が異民族の捕虜を去勢して使役に使ったというように古代中国では日常的に行っていたようである。幸いにも日本にはこの制度が伝わらなかったから良かったが、もし日本で死刑制度を廃止するようなことがあったら、検討されるかもしれない。凶悪な性犯罪には死刑より犯罪抑止効果があるような気がするが、こんなことを言ってもし自分がその立場になったらどうしよう。
2004.10.17
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寺山修司は芸術活動をキャッチボール「対話」としてとらえていた。寺山は屈折した天才少年のまま大人になったといってもいいだろう。少年たちがプロ野球に夢をもち憧れたように、寺山もまた野球の話題にしばしば熱中することがあった。誰もが対等に話し合える(場)の芽生えが、文芸のつくりごとの短歌であり、戯曲であり、演劇でもあった。しかし、そこに確実にあったのは寺山修司独特の独創であり、焦土と化した日本の復興過程で、人々の飢えと恐慌のさなかにあったとき、寺山や唐十郎などのおとな少年たちは自分たちの創意にうち興じながら、懸命に独自の創作世界を作りあげていった。物質的な飢えすら、彼らはたくましい生のエネルギ一に変え得たのではないだろうか。ひとつの時代がもたらした飢えた荒野をいち早く耕しはじめたのは、実は大人たちではなく少年のこころであったのである。寺山の時代のまんが雑誌として、少年たちに夢を与えつづけた少年倶楽部には、その後の「少年マガジソ」や「少年サソデー」に見られるようなある種の暗さを伴った作品はなかった。飢えた荒野で、少年たちは活字に飢え、幼年倶楽部の一字一句を見逃がすまいとして隅から隅まで注意深く読んだのだろう。重くつらい病気をもった人が、ときとして健康な人よりも明かるいという事実にしばしば出会うことがあるが、当時の飢えた少年たちもそれと良く似た状態にあったのではないだろうか。あるいはあの時代の少年たちの瞳には、現代社会の少年たちより希望という小さな光をしっかり捉えていたのではないだろうか。この時代が、決っして避けられない必然の下に暗い様相を帯びているとは思えなかった。悲劇的ではあったが、悲劇そのものではなかった。だから「ニーチェの時代には悲劇的なものを求めることが英雄的であったのに対し、すでに悲劇的なものが予め与えられている現代では、幸福を求める行為以外にニーチェの説いた感情の高い密度を保証するものはない」(ボッシュ・われら不条理の子)とさえ思ったのである。(「戦後詩」より)物質的に飢えた少年の心は飢えを満たす夢に満ちていたのだ。だから寺山修司はこの時代に対しても、ひどく楽天的である。楽天的であるということは、この黄昏の時代を無視しているということでは決っしてなく、少年時代に形成したあくなき自我への信仰とそのたくましさが、この世を見下しながら自在に「行為」を産んでいるということなのである。「家出のすすめ」などもその典型で、単純に言ってみれば「家」や「国家」といった血族へ繋がるものへの離縁状であり、寺山修司の作品のなかに良く「母殺し」や「父殺し」の話が出てくるのがうなずかれるのである。そして脱出したら再び元の所へ帰るな!とは寺山修司十年来の呪文であった。自分の生き方は創意工夫することにより、いかようにも「多彩な幸福」を求めることができるのだという寺山の持論は、彼の驚くべき多彩な才能をとおして、当時の本当の少年たちつまり僕たちの人生論ともなっていったのである。しかし、その寺山修司が47歳で早世し、その後の狂乱ともいえる、経済至上主義の一本に奔流のように社会が流れ込んでゆくにしたがって、寺山のとなえた「多彩な幸福」は、しばし効率の悪いものとして社会の流れからはずされていったのである。 なんとなく締まりの悪い文章で、寺山修司考のしめくくりとします
2004.10.16
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100本の薔薇、あなたに贈ります寺山修司は「寺山セツの伝記」という歌をつくっている。そのなかでは、「亡き母…」と母親を亡き者にしているが、実は母親は健在だった。彼の作品が、いかに虚構と現実のあいだを揺れながら生まれていたのかがわかる。寺山セツの伝記亡き母の其赤な櫛で挽きやれは山鳩の羽毛抜けやまぬなり亡き母の位牌の其のわが指紋さみしくほぐれゆく夜ならむトラホーム洗ひし水を捨てにゆく其赤な椿咲くところまで念仏も嫁入り道具のひとつにて満月の夜の川渡り来る大正二年刊行津軽行刑文人買人桃太は わが父村境の春や錆びたる捨て車輪ふるさとまとめて花いちもんめ鋸の熟き歯をもてわが挽きし夜のひまはりつひに 首無し濁流に捨て来し燃ゆる畳珠沙華あかきを何の生贅とせむ子守唄義歯もて唄ひくれし母死して炉辺に義歯をのこせり灰作るために縄焼きつつあればふいにかなしも農の要りほ寺山修司の死後、母親・ハツの奔走によって青森県三沢市に「寺山修司記念館」が建てられている。IMG SRC="http://plaza.rakuten.co.jp/img/user/32/05/2793205/873.gif" width="29" height="27" alt="くもり">
2004.10.15
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懲りもせず寺山修司がまだつづくのです寺山修司と永山則夫の境遇は似ているのにもかかわらず、寺山がまがりなりにも真っ直ぐに、ありあまる才能を開花させていったのにはやはり家族というものの存在が大きかったと思う。父親への憎悪と共感にはやや冷めたものがあったようだが、母親へのそれは、こころなしか温かさがある。寺山の回顧する伝記を読むにつけよりくっきりと印象づけられた。 汽笛私は一九三五年十二月十日に青森県の北海岸の小駅で生まれた。しかし戸籍上では、翌三六年貢十日に生まれたことになっている。この三十日間のアリバイについて聞き乱すと、私の母は「おまえは走っている汽車のなかで生まれたから、出生地があいまいなのだ」と冗談めかして言うのだった。実際、私の父は移動の多い地方警察の刑事であり、私が生まれたのは「転勤」のさなかなのであった。だが、私が汽車のなかで生まれたというのは本当ではなかった。北国の十二月と言えば猛烈にさむかったし、暖房のなかった時代の蒸気汽車に出産間近の母が乗ったりする訳がなかったからである。それでも、私は「走っている汽車の中で生まれた」と言う個人的な伝説にひどく執着するようになっていた。 自分がいかに一所不住の思想にとり憑かれているかについて語ったあとで、私ほきまって、「何しろ、おれの故郷は汽車の中だからな」とつけ加えたものだった。『日本週報』を購読していた父は、刑事のくせにアルコール中毒だった。家へ帰ってきてもほとんど無口で、私に声をかけてくれることなどまるでなかった。仕事にだけは異常に熱心で、思想犯として捕まえた大学教授の顔に、平気でにごった唾をかけたりしたそうである。私は、荒野しか見えない一軒家の壁に吊られた父の拳銃にさわるのが好きであった。それは、どんな書物よりもずっしりとした重量感があった。父はときどきそれを解体して掃除していたが、組立て終るとあたりかまわず狙いをさだめてみるのだった。その銃口は、ときに私の胸許に向けられることもあったし、ときには雪におおわれた荒野に向けられることもあった。今も私に忘れられないのはある夜、拳銃掃除を終った父の銃口が、まるで冗談のように神棚に向けられたまま動かなくなったことだった。びっくりした母が、真青になってその手から拳銃を奪いとって「あなた、何するの」とふるえ声で言った。神棚には天皇陛下の写真が飾られてあったのである。昭和天皇は、当時の左翼インテリゲンチャにとっては口にするのも忌まわしいという人が多かったと思う。マッカーサーによって戦勝国への戦争責任を免罪されたことは、国内においては逆に罪を背負って生きつづけなければならなかったわけだ。寺山の、昭和天皇への複雑な感情も、天皇の名の下に権力の走狗として働いてきた父の言動を暴くことによって語られている。
2004.10.14
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ネットで知り合ったもの同士が集団自殺したというニュースはちょっと衝撃的であった。僕にも情死願望はあるなどと冗談では言っていたけれど、ネットで知り合ったからといって簡単に死ねるわけではない。この事件に対しての反応は人それぞれだろう。「甘ったれるんじゃない」「命を軽んじるな!」「死ぬきになれば何だってできるだろう」「勝手に死ねば」「死ぬのなら、迷惑をかけないように」……etc。「自殺サイト」を調べてみた。誰でも、一度や二度死ねるものなら死にたいと思ったことがあるだろうが、すぐにでも死にたい人がこんなにひしめいているとは…。「ハーメルンの笛吹伝説」ではないが、動物も何らかの原因で集団自殺することがある。多くは地球の中で、なんらかのバランス異常をきたした兆候かも知れない。笛吹伝説を知らない人のために簡単に説明すると、ネズミが大発生して困った住民が、ネズミを退治してくれるという笛吹男に成功報酬を約束して依頼した。さっそく男が笛を吹くと、すべてのネズミは男についていって、海に飛び込んでしまった。ネズミが退治されると、住民は約束の報酬をホゴにして男に払わなかった。男は黙って笛を吹いて出て行った。すると、村の子供たちをみんな男の後についてどこかに行ってしまった。このような寓話だったと思うが、日本という社会もこのような寓話があてはまる何かが始まっているようにも思う。自殺ネットの掲示板には、寂しさや、死にたいという声がひしめいている。勝手ながら一部を無断引用させて貰った。■「死にたい。」「死にたい。」「死にたい。」「死にたい。」「死にたい。」「死にたい。」「死にたい。」最近なぜか最後に出てくる。「死にたくない・・・。」本当に思ってるのはどっちなの? ■死ねたら どんなに楽か・・・今日も意味のない一日が過ぎてゆくもう苦痛も絶望もましてや希望なんてない。ただ息をしているだけの人間なんて早く消えてしまえばいい。 ■疲れた 18年間しか生きてないけどもう人生に疲れた親にプレッシャーをかけられっぱなしの日々兄達と比較されつづけて・・・もう疲れたよ私の心の叫びなんて誰にも届いてないSOSを出していることすらもわかんないだろう誰も私のことなんか気にとめていないのだはやく、楽になって何も考えたくない ■屑 僕は人間の屑だ。生きていても仕方がない。後は死あるのみ。 ■笑っちゃうよね souka kauso [削除] ああ、笑う。笑えてくる。無様なあたし。とことん無様なあたし。笑いしかでてこない。笑うことしか出来ない。でも、それでいいのよ。さあ、笑いなさい。笑うことだけがあたしの存在価値。あははははあたしって馬鹿な人。あははははははははははははあと、ちょっと。もう少しだけ。 ■寂しい気持ちが・・・ おさまらない。誰かに側にいて欲しくて・・・でもこんな自分を愛してくれる人なんて見つかるわけなくて・・・夜になると苦しいです。ネットの友達との糸が、どれだけ細いか・・・くっきり見えてしまう。寂しい・・・こんな気持ちをいつまで抱えてられるかな。病院に行く勇気がないよー・・・ ■前は躊躇してた。迷いがあった。でも今はどうでもいい。だって、あたしは受け入れられない存在なんだし。だったら要らないって事だね。もういいや。もういい。さよなら ■この世が 無くなって欲しい壊れて 全てが 無のままで在って欲しい今から~∞ そうなって欲しい 欲しい某国さん大阪の上空に〇〇を投下して下さい・・・・・ ■疲れた・・・・ 何時まで生きれば許される?何処まで行けば放してくれる?この手足に付いた枷は・・・何時無くなるのだろう?付いたまま 付けたまま 水の中深く沈んでいきたい・・・これは許される夢?それとも許されざる夢?どっち? ■出る言葉はありがとうだけ 空を見てたらなんだか自分が小さく感じてまた飛び降りてみた・・・でも友人に助けられた・・・腕を切っただけですんだ・・・こんなボクでも友人は必要だと言ってくれたありがとう最高の苦しみを・・・ありがとう・・・まだボクは生きていていいのかな・・・? 死を想うぶんだけ、生も想ってみることだね。太陽の下に出てみることだね。朝のこない夜はない。生きていれば、いつかはいいことだってめぐってくる、約束するよ。 引用文の該当者で、無断引用を抗議する気持があるなら僕あてにメールを入れて欲しい。じっくりと聞こうではないか。もちろん、返信できる宛先もお忘れ無く。
2004.10.13
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俳句・川柳のつづきで、alex99さんのサイトでBBSともどもとても真剣に取り組んでいただき、感動ものでした。悲しむべきかな僕は語学力はちちんぷいぷい、まことに乏しくて、同じレベルで理解することはできません。それで僕なりの感想と見解をのべてみます。外国から渡来した方々で、能や狂言、禅、陶芸など、日本文化に熱心に取り組んでい留人は少なくありません。その人たちが、下手な日本人より文化の奥義を掴んでいるのではないかと思うことがしばしばあります。信州にも、廃業寸前の蔵本にはいり、美味しい日本酒を開発して蔵本を見事に再建した若い米国女性(セーラ・マリ・カミングスさん)がいます。これらは日本文化の優れたものを下地に、因習にとらわれない異文化的発想で取り組んだからこそ成功した例だと思いました。alex99さんのサイトで皆さんの俳句の名訳は、英語俳句としてはきわめて優れた英訳だろうと思います。僕は英語にまったく弱いのですが、>An ancient pond>A frog jumps in>The sound....>An ancient pond>A frog jumps in>The silenceなどの英訳には、おもわずうなってしまいました。英語の Spelling も、さまざまな展開があって面白いですね。 chant が「chant verse詩を吟じる」になったり Chanthaburi 「おんどり(rooster, cock)、陰茎」になったりとは恐れ入りました。これだったら、英語俳句も限りなく真性俳句に迫るものと思われ、部分的には下手な日本の俳句文化を超えるかも知れません。そのうえで、あえて注釈します。これは川柳の英訳にもつながることですが、言い切ると、日本で認識している短詩文芸と完璧に同じレベルでの英語俳句や英語川柳は存在できないでしょう。例えば、大相撲で朝青龍が横綱を極めましたがどこかに違和感が残っています。この程度のことかも知れませんが、根底にある Soul や Spirits といった俳句・川柳文化の精神の部分を超えるのは現実的に難しいと思います。俳句の言葉を投げ出したあとの空間、川柳の〈いわずもがな〉行間で語るといった、きわめてファジーで日本人的伝達法(「イヤ~ン」は「イイわ」の同意語であるような)が、英語でどのようにつくり、理解が可能になるだろうかと―。俳句も川柳も、一定のレベルになると〈説明句〉をヤボまたは下手な句とみなします。つまり名訳の Calm「静寂」という単語がすでに〈説明〉になってしまうのです。俳句も川柳も、人々の脳裏にある了解事項、精神を意識して、言葉を投げかける文芸で、そのセンスを競っています。ためしに、拙句の「月までの距離とくちびるまでの距離」をあげてみます。英語オンチですので正確には訳せないかも知れません。 Distance by the moon and Distance to a lipとでも言うのでしょうか。これを欧米の人に聞かせた場合、作者の意図がどの程度伝わるのでしょうか。恥ずかしながら、自句自解で〈好きな人が目の前にいるのに、そのくちびるが月までの距離ほど遠く感じてしまう、嗚呼〉とは理解されないのではないでしょうか。Kiss をそのあとの関係につながる入り口とする日本文化と、挨拶として Kiss を行う欧米文化の違いを、すべて理解したうえで作ったとしても受け取る文化の違いで、意図とはちがったものとして解釈されてしまいます。相撲や囲碁などのゲームは、最後には勝ち負けを判定できればいいのですが、短詩文芸は「余韻や言葉の空間、行間の伝達といったファジーな要素を楽しむ」文化だけに、それらしいものをつくることまではできても、本質的なところまで入り込むのは現実的にはとても難しいことではないかと、僕は思ってしまいます。だいいち、僕の川柳は日本人の妻にさえ伝わらないことがたびたびですから(ようするに下手ということですが…。)。しかし、日本文化を外国語で理解したり楽しんでくれる人が増えることは両手をあげて大歓迎です。
2004.10.12
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寺山修司の短歌より寺山修司を書いていて、寺山の俳句をきっかけに、川柳・俳句境界論になってしまいました。しかしalex99さんの巧みな質問とフォローもあって、おもわぬ収穫が得られたと思っております。この件に関してはalex99さんに心から感謝します。さて、寺山論(?)がまだ中途半端になってしまった。元に戻ろう。寺山修司は、連続射殺犯の永山則夫に執着し関心を寄せていた。それは、永山の生い立ちがどこか寺山の生い立ちと重なるところによるのだろう。これまでも書いてきたように、寺山は親から捨てられたと自覚して育っていた。しかし彼の母親は、寺山を捨てたわけではなく生活を立てるために子どもから離れざるを得ない事情があった。それゆえ、寺山は母への憎しみとともに恋慕も募らせていたのだろう。理屈では、母親のことを理解していたのだ。ゆえに、永山に自分を重ねて、執着したのだろう。永山の心情をこと細かに分析している。これに対して永山は反発していたが僕には寺山の分析のほうが正しく永山をとらえていたと思う。その一部を引用する。いまから思えば、永山則夫ほ「かくれんぼ」をしていたのではないだろうか? 殺人事件を犯したあとで、彼は凶器の西独製レームRG10型ピストルと、米国レミントン製ハイスピードの22口径ショート型弾丸とを、横浜市内の神社境内に埋めた。そのときから、彼の生甲斐はかくれることになったのである。はじめのうち、彼はかくれんぼの鬼は刑事だと思っていた。だから、「もういいかい」と呼びかけることもなく、雑踏の中にまぎれて自分をさがしにくる私服刑事をさえ用心していればよかった。だが、月日がたつにつれて鬼は刑事でも国家権力でもなく、もっと抽象的な歴史であるということがわかりはじめてきた。彼をとらえようとするのは「くもりの日」であったり、「休日に近い日」であったり、三畳間のアパートのうす汚れた壁にかかった的をめがけて飛ぶダーツ(投げ矢)だったりした。彼は、もしかしたら自分自身が鬼であるかもしれないと、感じたときどれほど戦慄を感じたことだろう。わびしいバーテン仕事を終わって帰ってきた、アパートのガスレンジでワカメの味噌汁をわかすとき、靴下を洗濯しながら若山富三郎の人斬り数え唄を「ひとが斬りてぇヒイフウミイ」と口ずさむとき、ふいに「見つけた!」という声がじぶんの中からきこえてくる。じぶんの中に、鬼がいる限りは、かくれんぼを終らせようとしたらじぶん自身を終らせることしかほかに方法がないのか。自殺。ふと、拝軽海峡を渡ったときの暗いデッキの上で見た濁流が思いうかぶ。あのとき、レイソコートのポケットの中で手にふれたもの……汚れたハンカチ、ウインストンの空箱。「この世のほかの土地」にもニシン場はあるだろうか? 長い長い冬の終りの小学校教科書、青森と函館とのあいだの地理的「海峡」をこえた、狂気の黒潮。「全世界を見た者でも、彼等の落ちつかない心の中に、未知の世界を蔵しているであろう」(レミ・ド・グールモン)。かくれんぼが一生終わらない恐怖から、くらくらと目まいしてデッキの手すりにつかまる。はたるの光、まどのゆき。(『幸福論』より)寺山は、永山を肯定してはいないがいささかの共感はあったのかも知れない。永山が究極の犯罪者として堕ちてゆく必然性を指摘している。情念→犯罪→エロスという、寺山にとっての三角関数で永山をとらえ、そこから跳ね返る影像のなかに自分自身もみていたのであろう。
2004.10.11
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※9日の日記よりつづいています。alex99さん msk222さんの返事があるまでに、川柳について、ネットで調べてみたけれど、形式についての説明はあったけれど、私の心に染みいるまでの納得の行く説明は無かった。極めて表面的なものばかり。もっと大切なのは、俳句と川柳の本質・精神について、説明しているものがなかったこと。それを msk222さんは、いとも簡単に、私の心情的?疑問を汲み取って、十二分な回答をくれました。う~~ん、これは本物! そう思いました。それに、これからは、俳句・川柳を、目からウロコの後では、まるっきり違った視点で、眼鏡を新調したような・・・、そんな世界で解釈できるような気がする。msk222さんたぶん、俳人や川柳人のなかには、「いや違う、これこれだってある」とさまざまな理屈を持ちだす人もいるでしょう。しかし、強弁すればそれらはおしなべてローカルルールです。その人の周囲では通用しても普遍的には通用しえないルールです。領土問題を考えてみてください。ひとつの小さな島をめぐって争うとき、みんな自国に有利な解釈で争います。「わが国の大陸棚にあるからわが領土」「境界線のこちら側だからこちらのもの」と…、国境も領土も、もともとは人間の力関係や都合で決められたものですが、とりあえず国際法などで客観的に判断してゆくしかありません。俳句も川柳も、自分の都合だけで主張していても、ダメです。客観者が誰でも認められる説明こそ必要だと思います。alex99さんは、短詩文芸者たちにとっての解答を先回りして理解くださったと、僕は思います。bjkeikoさん 第一生命が募集している「サラリーマン川柳」は ネットでも本でも楽しめます。世相や時代の流れを反映して面白いですね。シティリビングが始めた「OL川柳」も本音爆裂で痛快!みんな思ってることは同じだなって笑いながら 気分転換できます。(msk222さんが)俳人が俳句とおもって川柳もどきを書いたり、川柳人が俳句もどきの句を書いたりして、いっそうわかりにくくなっているのが実情です。といいますが、専門の方までがそうとなると 素人にはますます難しいですね。msk222小学生にレベルに俳句を作らせても川柳をつくらせても、出てくるものはただの575の言葉だけです。この延長で、俳句作者も川柳作者もうろ覚えのルールで無意識に作っている人が多いのです。野原で三角ベースをしている子どもたちが、野球と答えたりソフトボールと答えたりということと同じなのです。しかし、プロ野球をみてソフトボールだとは言わないように、あるレベルになれば区分けが可能だと思います。bjkeikoさん川柳には季語があっても無くてもよいと聞きましたが、季語がないのはすべて川柳だと言えるのでしょうか?msk222季語は俳句の約束事です。では、川柳は使わないかというと使います。ただ、季語として使うのではありません。日本語の多くはほとんど季語で分類されているのではないかと思うほどたくさんありますから、それを避けていたら川柳など書けなくなってしまいます。月や桜はもちろん、山下達郎という名前でさえ季語ですから…。bjkeikoさん >山下達郎という名前でさえ季語……ひゃ~ びっくり!クリスマス・イブで冬でしょうか?高気圧ガールというのもあるし。。。。謎!しかも 8文字ですが・・・・・・・季語は年々増殖しているのですね。msk222さんそして、俳句でも無季俳句というように、季節を意識しない作品もありますから、季語がないことが即、川柳とはいいません。入れものが無い両手で受ける 放哉足のうら洗へば白くなる 放哉分け入っても分け入っても青い山 山頭火これらは季語がなくても俳句です。On My Ownさん>そうすると、俳句は情景や自然現象を扱い、川柳は人間社会の下世話な観察を扱う、という乱暴な解釈でもいいんですか? 俳句は哲学、川柳は文学というような印象を持ってましたが。 alex99さん msk222さんの上記の説明では>俳句の主体は「モノ」を写生し、作者の感慨を込めて表現します。川柳は、俳諧本来の「こっけいや穿ち」をひきづっています。「人情の機微」を表現することから発展してきたもの、人の「コト」が主体だと思ってください。(そのことから)俳句は、自然(モノ)を詠い、川柳は、人間の心象風景(コト)を詠う・・・と言う風に、まとめて了解しましたが。この私の了解がもし、正しければ、川柳において、必ずしも『下世話』が要件でも無いと思います。例えば、上記の寺山修司の『かくれんぼ 三つ数えて 冬を知る』という句ですが、この句は、下世話な言葉づかいでもなく、その句の内容は、川柳的に解釈すれば、深い精神性の世界を描いていると思います。もし、この句を『ああ、知らない間に、冬の気配が忍び寄ってきた』という『季節感』としてだけ受け止めれば、『俳句』になるのではないでしょうか?msk222さんそうですね。俳句は、余韻を大事にしますから、読んだらあとは屁理屈をいわずに句の余韻を楽しみなさい、という姿勢なのですね。だから、俳人が川柳を読むと、お喋りが過ぎると感じる人が多いと思います。たー0227さん私は『川柳』を『爆笑俳句』『ニヤリ俳句』だと思っていたんです。ときどき面白みがない「川柳」を見かけて疑問でしたが、そういうわけだったんですね。サラリーマン川柳は大好きです。alex99さん日本人のほとんどが川柳を誤解していたのではないでしょうか?時実新子という女性川柳作家が、性をも大胆に題材にしたすごい表現・感覚の情念の世界を詠った川柳を作っているということは知っています。今NHKの教育テレビで川柳の講座を持っていますが。短歌界の俵万智さんのような存在なのでしょうか?彼女の川柳は、まだほとんど知らないんですが、滑稽味が中心の川柳では無いようです。msk222さん実を言うと、僕は時実新子師に直接指導を受けていた時代もあります。いまでは離れていますが、その川柳思想には今も私淑している部分が多々あります。ただこのことを言うと「だからあいつは…」という、狭い了見で色づけしたがる人達がいて残念です。彼女は正しく現代の川柳を文学的地位にひきあげた最大の功労者です。もちろん彼女への批判や罵声もありますが、それは川柳以外のことでしょう。彼女の好き嫌いは別にして、今はそこから派生したり、文芸としてかかわった人達が各地で影響し合って、新しい飛躍をめざしています。僕の今思い出せる時実新子の若いときの作品のなかから、alex99さんの好みそそうな句を紹介しましょう。愛咬やはるかはるかに桜散る凶暴な愛が欲しいの煙突よわたしは遊女よ昼の灯をともし月の夜は撓(しな)いつづける竹の橋西洋の男に抱かれ脱げる靴もちろん、このようなイロっぽい句ばかりでなくいちめんの椿の中に椿落つ何だ何だと大きな月が昇りくるというような、男女ごととはまったく違う句もたくさんあります。何万句もあるものですからあげ切れませんが…。あえて付け加えると、現在では時実新子の時代から新しい局面に入りつつあると言ってもいいでしょう。alex99さん川柳・俳句と関係無く、今日のNHK教育の短歌の番組を何げなく観ていたのですが(NHK教育は面白い!)、『字余り』について、『確信犯的なクロスオーバー』についてと同じ様なコメントがありましたので。『形式破りなのは承知での勢いのある字余りは、かえって迫力・思い入れが分かり、効果がある』ぼんやり聴いていたので、私趣味なりの『意訳』ですが・・・。でも、なるほど! と思いました。形式にこだわり、形式の中に安住することより、あえて形式を無視する勢い・思いは、わかる人にはわかるし、異様の魅力になる・・・と。msk222さんそのとおりですね。ただ、技術の未熟から形式を無視しているのはただの怠慢でしかありません。ここでは、これ以外ないというときに、破調(異形)は許されるのです。川柳人には、馬鹿正直にどんな場合でも575以外は認めないという堅物もなかにはおりますが、それも勉強不足ゆえの堅物と申していいでしょう。olive2004さん作った本人が川柳だといえば川柳、俳句といえば俳句でしょう。alex99さんとも言えるのですが、自然の写生か? または人情の機微か? と言うポイントで俳句か川柳かに分ける客観的な評価はあるでしょうね。msk222さんはい、今や俳句と川柳は作者名でしか区別がつかないと主張する人も少なくありません。しかし、この主張はどこか自己弁護的であり、大事なところから「逃げている」いい方だと僕は思います。川柳人がつくっても俳句。俳人がつくっても川柳ということもあります。ただ、川柳的解釈も俳句的解釈もできる句というものがありますから、これらは作者の所属するジャンルで分けるしかないと思いますが、それでもいままで語ってきたように考えてみれば作品の分類はしやすいと思います。しかし、自分の句を、俳人が川柳だとか川柳人が俳句だとは言いたくないと思いますが…。olive2004さん明日は上野市で芭蕉生誕360年 世界俳諧フュージョンてのがあります、アメリカとかイギリスの俳句協会から来た人が連句を行うそうですが、英語の俳句ってのがあるくらいですからね。alex99さん以下は私の独断と偏見ですが、ご容赦下さい。『古池や 蛙とびこむ 水の音』これを様々人が様々に英訳していますが、私から言わせれば、全くダメです。とても俳句になんかなっていません。そもそも俳句とは、日本語でなければ成り立たない文芸です。日本語は膠着語という語族に入っています。朝鮮語・トルコ語・フィンランド語・エストニア語・マジャール語(ハンガリー語)などが、この語族だと思いますが。しかも、単語がカバーする意味があいまいで、同音以後が多い。こういう言語でないと俳句は不可能だと思います。ただし、日本の俳句の英訳は意味がありませんが、はじめから英語で作る俳句はそれなりのスタイルを成立させることが出来るかも知れません。あくまで可能性の問題ですが。できれば、msk222さんのご意見もいただきたいと思います。msk222さん僕は、言語学については弱いので、そちら側からは正確には答えられません。感覚的にいうと、俳句の味わいは日本という風土と言葉があってこそのものだと思います。英語俳句が作られていますが、日本から外にでた場合は、俳句もどきになると僕は思います。たとえば熱帯地方で、冬の季語の俳句をつくっても実感がない。アメリカで豆腐に甘みをつけてソフトクリームのように食べているのをテレビで見たことがありますが、あれは豆腐でも豆腐料理とはいいがたい。俳句の優れた味わいどころは、言葉を放ったあとの空間です。英語で日本語と同じ空気を生みだせるかどうか、僕には疑問です。川柳の場合は、基本的には意味(コト)の伝達ですから英語でも作りやすいような気がします。alex99さん そうですよね。私も上で英語のHAIKUは『全然ダメ』と頭から否定しています。英語だと、明晰すぎるので、意味の輪郭がクッキリとしすぎて、余韻が残らない、意味の幅出しが全然出来ない、ファジーな味を出せない。それに何よりも、言葉のつながり方が違いますよね。明日の日記で、いろんな『古池や』の英訳を例示してみます。この問答も、一応ここで一区切りにしますが必要に応じてまた書かせてもらいます。alex99さんと語り合えたのはとっても有益でした。自分の中でもどかしく揺れていた「川柳・俳句」の姿もはっきり表明できました。これからは迷うことなく語ってゆきます。
2004.10.10
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川柳と俳句についての考察について、alex99さんとBBSで交わした問答を一本に纏めてみました。僕の発言に不穏当だったり、言葉足らずの部分もありましたから、若干の追加や補正があります。お読みくださると、僕の考えている川柳と俳句の姿がすっきりとご理解いただけるとおもいます。alex99さん昔、私の母が大阪の郊外で一人ぽつんと立っていた寺山修司を認めたそうです。驚いて彼を見つめていると、寺山の方も『ほう!私を知っているのか?』という風に母を見返したそうです。戸山町には住んだことがあります。戸山ヶ原は昔は陸軍の演習場でした。msk222さん『かくれんぼ 三つ数えて 冬になる』は寺山修司の作です。実は、寺山は川柳文芸を軽蔑していたのです。でも、寺山が俳句だと思って書いたこの句は川柳ですね。alex99さんmsk222さんはそう感じますか?私はまさしく俳句・・・と感じるのですが。北国の子どもが、かくれんぼうをしていて、鬼になって目を開いてみたら、もちろん、みんなは隠れてしまって、見慣れた風景の中なのに人気が全く無い。日暮れの影のような世界の中に、ゾクッとと寒い冬の冷気が初めて感じられる。そんな風に、ただ素朴に読んでいたのですが。それまで、子ども同士の無邪気に楽しい世界が、突如反転して、寂寥の孤独の世界が出現する。季節感は単に道具であって、ふとかいま見えた人間世界の深淵をうたったものでもあるのではないでしょうか?ここには川柳独特のエスプリが無いと思うのですが、川柳だというmsk222さんの視点を教えて下さい。俳句と川柳の境目について、興味深いので。msk222さん俳句の主体は「モノ」を写生し、作者の感慨を込めて表現します。川柳は、付け句が独立したものですが、俳諧本来の「こっけいや穿ち」をひきづっています。「人情の機微」を表現することから発展してきたもの、人の「コト」が主体だと思ってください。alex99さん私も誤解していました。そうなんですか。それにしても、川柳は誤解されることの多い芸術ですね。新聞の投稿川柳などは滑稽味・エスプリが中心のようですから、すっかり誤解していました。msk222さん誤解の原因は、日本の文化人や新聞などが、無条件に短歌・俳句を芸術的文芸、川柳を低俗な文芸と決めつけている無理解にもよることが主な原因です。それと同時に、川柳をしている人たちの多くが、ボケ予防で標語のような575を作っているか、川柳界だけで行われている大会で入賞することに血眼になって、一般の人達への啓蒙する努力があまりにも少ないことによります。ご承知のように、多大な啓蒙ということでは時実新子がひとりその役割を果たしてきたといって過言でない状態でしたが、現在はようやく短歌・俳句にまけない作品を書く新しいタイプの川柳人が増えてきていると思います。alex99さんモノとコトのちがいを意識において、これから俳句と川柳を読んでゆきたいと思いますが(俳句と川柳の本を二・三冊ずつ読んだだけで、たしなんだこともなくこう言うのも僭越ですが)、なかなかモノとコトの仕分けが難しそうです。例えば、芭蕉の『行く春を 近江の人と 惜しみける』(だったでしょうか?)などは、近江の桃源郷的な風景が思い浮かび、モノだとは思うのですが、芭蕉の近江との関係や感慨を考えるとコトの方もあるかと・・・。いい句は、俳句にしろ川柳にしろ、クロスオーバーを含有しているかもしれませんね。msk222さんそうです、所詮は人間がつくるわけですから、モノとコトが入り交じって明確にわけることは難しいことが多いのです。そして、まったく同じ作品でも俳人の解釈と川柳人の解釈では異なることがあります。alex99さんが『かくれんぼ三つ数えて冬になる』の冬を季節の冬ではなく、心象の冬と読んでくれたのには嬉しくなりました。それが川柳の「読み」だからです。俳句的解釈では、「季節の冬」そのものとして解釈すべきだと思います。人は季節の冬からもさまざまな感興を抱きます。僕がこの句を川柳だと述べたのは、寺山は俳句として書いたつもりでも、意味はalex99さんが解釈したような情景を込めて詠んだことがうかがわれるからです。この場合、季節の冬は「モノ」、心象の冬は「コト」と考えてよいでしょう。『行く春を近江の人と惜しみける』これは芭蕉が、近江の春が過ぎてゆく様子を惜しみながら近江の人と良い季節を愛でている様子を句にしたものですね。感嘆は、コトではありますが、見た情景(季節=モノ)をそのまま心に映して詠んでいます。普遍的な共感をきれいに纏めて、一種の風景画の趣があります。こうした自然や季節の移ろい、つまり「モノ」から働きかけられる感興を俳句は詠んできました。山頭火や尾崎放哉などの俳句はきわめて川柳的イメージで作品を書いていますが、やはり「モノ」からの働きかけによって書いている場合が多いのです。放哉の「咳をしてもひとり」は放哉の、病苦の憂いと孤独感がひしひしと伝わる名句です。独白を見事に表現していますが、表現はストレートで捻りはありません。そして、季語がなくても冬を感じさせます。「夏でも咳きはするよ」という人もいるでしょうが、俳句的には冬なのです。ちなみに年中でている月は秋の季語です。川柳人は、「モノ」を感情の比喩として置いています(川柳人の中でも、区分けがわからずに書いている人も少なくありませんが…)。「モノ」は「コト」を表現するための舞台仕掛けでしかないのです。僕の句で「チューリップ指で開いてみたりして」というのがあります。作者の創作意図は、この句から、花の美しさとそれを化学的に観察する人…、といった光景ではなく、きっと読者はもっと淫らな想像に進むのではないだろうか、という姑息な計算の元にチューリップという花を使っています。この句でいえばチューリップは句の柱ではなく、読者のみだらな心をひきだすための道具なのです。一応お断りしますが、このように解説するのを「自句自解」といって仲間内からは軽蔑されます。しかしここでは創作意図を理解していただくためにあえて説明しましたが…。alex99さんいい句は、俳句にしろ川柳にしろ、クロスオーバーを含有しているかもしれませんね。msk222さんそのような面もありますし、俳人も川柳人も新境地を開拓するためにお互いの国境をつい越える(あるいは確信犯的に越えたがっている)フシもありますから…。紛争地、あるいは男女の仲と同じですね。これ以上は越えてはいけないと思っても、その先にあるいい思いを手に入れたくてつい越えてしまう。後は野となれ山となれ…。alex99さんなるほど!と、深く納得致しました。私の感想として(生意気なのは承知ですが)『なんだ! 川柳界の方々は、今までちょっと怠慢だったんじゃないの? 川柳って、こんなに深い人間性の精神世界に踏み込める可能性のある文芸なのに、今までもっぱら滑稽味ばかりに走ってしまい、結果的に川柳の地位を低くしてしまったのじゃありませんか?』というものです。重ねていいますが、生意気な言葉ではあるのですが。msk222さんおっしゃる通りです。僕も含めて(多分これを読んでいる川柳人もですよ)まだまだ努力が足りないと思っています。しかし、マスコミなどでお手軽五七五をすべて川柳として宣伝してくれているものですから(苦笑)alex99さん 私はどちらかというと俳句より、『精神川柳』(私の勝手な造語です)に興味が向きます。発句するのは、俳句の方がどちらかというと、易しそうな気がするのですが。msk222さん俳句と川柳の比較は、囲碁と将棋がどちらが深いかと比較するようなものですが、川柳は俳句に負けない文芸としての下地、表現の可能性をもっていると思います。俳句は、写生しただけでも一応の形になります。川柳は、一句のなかでもメビウスの輪のように常識の反転が必要になります。吉川英治は小説家の前は川柳作家でしたが、その作品からそのへんを見てください。貧乏のあまりのはてに笑い合ひ柳原涙の痕や酒のしみ貧乏も行き着くところにいくと「ほら、米びつなのに空気しか入っていないよ」と笑ってしまう哀感。そして柳原の古着の句、ちなみに柳原というのは神田川の土手添いで古着屋の町として知られていましたが、そこの古着屋の店先に吊るされた衣類のしみの痕に、人間ドラマを見ているわけです。朝までの炭つぐ紙の白さかなの紙とは筆のすすまない原稿用紙のことです。英二は炭コタツででも暖をとりながら原稿を書いていたのかも知れません。分かりやすい句をあげましたが、俳句との違いが感じられるでしょうか。alex99さん これらの句の俳句とのちがいはわかります。それに付け足しですが、俳句は、対象としての自然界を観察したあと、一応自分の内的世界にそれを取り込みますが、また、それを自然界の対象に返す・・・様な気がします。いつまでも、心の中にとどめて、感慨に耽る事は無い。何か、禅のような。一方、川柳は自然界に限らず社会の状況などから感興・感慨を感じますが、その感慨・感興は心の中で、具体的なものとして定着する。うまく表現できませんが。msk222さんそのとおりですね。俳句は入るのは簡単だけれど、極めるのは一筋縄ではゆかない。碁盤で五目並べや囲碁のまねごとは誰でもすぐに出来ますが、プロの棋士との差は蟻と象ほどもあります。盆栽の木と自然の木と似ていても、その道の人から見れば歴然とした差があるのでしょう。俳句は季語がありますから形にしやすい。3分の1は始めからできているわけです。それに言葉を添えれば一丁あがりです。だから、季語を知っている知的水準をもっている人なら誰でも、教養として俳句をたしなめるわけです。しかし、添えることばの取り合わせのセンスで、俳人としての力の差が見えます。川柳は、課題句は別にして、何もない白紙からの出発になり多少の機知や想像力(妄想力?)巧みな着地というものが必要というように、始めから一定の技術が必要ですから、俳句よりはとっつきにくい面があります。しかし、俳句ほど言葉遣いの制約がありませんから、表現法や題材にはことかきません。alex99さん俳句では、季語という下駄を履かせてくれるから、それにとりあえず写生をすればいいから、入門レベルの義務教育?までは、だれでも割合に楽に進学?できる。しかし、それからの奧がメチャ深いし、とらえどころが無い世界だから、それからはガリ勉ではダメで、禅修行のような、これという進歩を簡単には自覚できない、世界に入ることになる。一方、川柳は、感覚ではなく説明だから、即物的に解答がモロに出る世界だから、お互いに頭のキレで勝負をせざるを得ないという、逃げが利かないキビシイ世界。そう解釈してみました。msk222さんそうは言っても、俳句も川柳もたかが五七五の言葉遊びです。文芸人の自己満足、ひとりよがりの言葉のダスターですが、ムダごとこそが文化で日本語遊びの高雅なところです。俳人も川柳人も、言葉の組み合わせが表すところの先をみて、「ウン、ウン」と頷いているといったところでしょう。alex99さんのサイトに「俳句は哲学、川柳は文学」ではないかという書き込みがありましたが、わかりやすい視点ですね。俳句は意味をもたずに、そこに表れる情景を愛でる。川柳は情景をてがかりに意味を探る、というところでしょか。ただ、意味とは形の見えるものだけではありません。説明できない「何となく不可思議な…」というモノノケ的なことも含めてですが…。 つづきます
2004.10.09
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alex99さん>桑原武夫が『俳句は第二芸術である』と言い切って物議をかもしましたが、そうすると、寺山修司は『川柳は第三芸術だ』と言わなければならなかったのかな?まさにそのとおりで、第三芸術以下という認識だったと思います。現在でも、川柳の一片としか触れていない文化人のほとんどは、そんな認識ではないでしょうか。alex99さん>実は、寺山は川柳文芸を軽蔑していたのです。>でも、寺山が俳句だと思って書いたこの句は川柳ですね。(註・msk)-----msk222さんはそう感じますか?私はまさしく俳句・・・と感じるのですが。北国の子どもが、かくれんぼうをしていて、鬼になって目を開いてみたら、もちろん、みんなは隠れてしまって、見慣れた風景の中なのに人気が全く無い。日暮れの影のような世界の中に、ゾクッとと寒い冬の冷気が初めて感じられる。そんな風に、ただ素朴に読んでいたのですが。それまで、子ども同士の無邪気に楽しい世界が、突如反転して、寂寥の孤独の世界が出現する。季節感は単に道具であって、ふとかいま見えた人間世界の深淵をうたったものでもあるのではないでしょうか?ここには川柳独特のエスプリが無いと思うのですが、川柳だというmsk222さんの視点を教えて下さい。よくぞ聞いてくれました。俳句も川柳も、俳諧を源にする文芸です。俳句は芭蕉の「芭風」、正岡子規の「写生論」によって、芸術的高みに至ったとされています。俳句の主体は「モノ」を写生し、作者の感慨を込めて表現します。川柳は、付け句が独立したものですが、俳諧本来の「こっけいや穿ち」をひきづっています。「人情の機微」を表現することから発展してきたもの、人の「コト」が主体だと思ってください。懸賞投句の長い「狂句」時代、新聞など大衆読者に迎合する、一読明快な句が喜ばれる傾向があったため、面白おかしくエスプリの効いたもの(だけ)が川柳と思いこまれてしまっているのですが、日常の「人情の機微」は、面白おかしいだけでないことを考えれば、ご理解いただけると思います。alex99さんが寺山の『かくれんぼ 三つ数えて 冬になる』を、みごとに解読していますが、この感情の機微の表現こそが広義の「穿ち」であり、川柳の舞台であると僕たちは考えているのです。もっとも、表現は日々革新されていますから、現在はこれだけでは説明が足りない部分はありますが…。ことに最近は俳句と川柳のクロスオーバーが激しくなっていますから、俳人が俳句とおもって川柳もどきを書いたり、川柳人が俳句もどきの句を書いたりして、いっそうわかりにくくなっているのが実情です。寺山の句は川柳の範疇です。また、能と狂言にたとえている人もいますから、参考にしてみてください。 俳句=能(侘び・寂び) 川柳=狂言(かろみ・笑い・遊び・風刺)Mドングリさん>ふるさとまとめて花いちもんめ このフレーズは寺山修司のものだったんですか、まさに川柳なんだけど・・・と思います。寺山的フレーズですが、わらべうたですね。むしろ、寺山に影響を与えたのかも知れません。童謡の「花いちもんめ」は全国的にさまざまな歌詞、調べのパターンで歌われているようです。僕はこの歌を聞くと母を思いだします。小さい頃、よく母がくちづさんでいたのですが、幼かった僕に歌ってくれたものなのか、自分をなぐさめるために歌っていたものなのかははっきりと思い起こせません。ただ、その姿がとても哀しく淋しげだったことが脳裏に焼き付いています。僕が高校生だったとき、母が脳血栓で倒れました。命はとりとめましたが機能障害がのこり、ひとりでリハビリにつとめていました。そんなときにも、ひとりごとのように口ずさんでいたのがわらべうた「花いちもんめ」です。その後、東映の伊藤俊也監督が、老人の痴呆をモチーフに「花いちもんめ」という映画を作って、僕の記憶を言い当てられたようで驚いたものです。偶然ですが、伊藤監督とは現在親交があります。 花いちもんめふるさとまとめて 花いちもんめふるさとまとめて 花いちもんめとなりのおばさん ちょっとおいで鬼がこわくて 行かれませんお釜かぶって ちょっとおいでそれでもこわくて 行かれませんふとんかぶって ちょとおいでそれでもこわくて いかれませんそれはよくよく どの子がほしい?あの子がほしいあの子じゃわからんこの子がほしいこの子じゃわからんまるくなって 相談しよう○○ちゃんがほして××ちゃんがほしいじゃんけん ぽんじゃんけん ぽん勝ってうれしい 花いちもんめ負けてくやしい 花いちもんめ大人になってから、母に「花いちもんめ」のことを尋ねたことがあります。歌は母が子どもの頃から歌っていたといいます。調べてみたら、江戸時代の伝承歌が大正末期から昭和のはじめにかけて形を整え、はやりだしたようです。この時代は世界的に紛争や小競り合いが絶えず、日本でも軍靴の音が高まり暗く重い時代へと歩をすすめていた時代でしたね。Mドングリさんの教えてくれた、「クリック20世紀」にこんな事件のことが書いてありました。1930/04/13 岩ノ坂もらい子殺し発覚 (殺害41人/板橋の細民部落)4月、東京郊外の板橋町岩ノ坂で、41人ものもらい子殺しが発覚した。同月13日、この地区に住む作業員の内縁の妻が、もらい子を誤って乳房で窒息死させたと医師のところを訪ねた。死因に疑いを持った医師が板橋署に届け出たのがきっかけだった。同署が調べてみると、岩ノ坂では1年間に30人の乳児の変死があった。同署は同地区の大勢の人を取り調べ、おそるべき事件が明るみに出た。同地区は貧しい人たちが集まっていたところで、多くの乳児がもらわれてきた。この子たちの多くは、裕福な家庭の夫人・令嬢の不義の子だった。当時は中絶が認められておらず、生まれてきた子は里子に出されるか産院などを通じ、養育費付きで他人に譲られた。そうした乳児たちの行き先の1つが岩ノ坂だった。赤子をもらった者は数日間は育てるが、食べ物を与えず殺してしまった。育ったときは、男は鉱山に、女は遊郭に売っていた。この事件の結末ははっきりしないが、罪を問われたのは1人だけだったという。 読売新聞社 「読む年表・20世紀と昭和天皇」よりここでこのような話題をあげたのは、寺山修司も戦後でしたが、これに似た時代背景のなかにあった子どもだったからです。思想的な影響があったかも知れません。 ご質問に答えてalex99さん>ただ、モノとコトのちがいを意識において、これから俳句と川柳を読んでゆきたいと思いますが(俳句と川柳の本を二・三冊ずつ読んだだけで、たしなんだこともなくこう言うのも僭越ですが)、なかなかモノとコトの仕分けが難しそうです。>例えば、芭蕉の『行く春を 近江の人と 惜しみける』(だったでしょうか?)などは、近江の桃源郷的な風景が思い浮かび、モノだとは思うのですが、芭蕉の近江との関係や感慨を考えるとコトの方もあるかと・・・。そうです、所詮は人間がつくるわけですから、モノとコトを明確にわけることはできにくいものです。ただ、まったく同じ作品でも俳人の解釈と川柳人の解釈では異なることがあります。alex99さんが寺山の『かくれんぼ三つ数えて冬になる』の冬を季節の冬ではなく、心象の冬と読んだのには嬉しくなりました。それが川柳の読みだからです。俳句的には、季節の冬そのもので解釈すべきだと思います。僕がこの句を川柳だと述べたのは、寺山は俳句として書いたつもりでも、意味はalex99さんが解釈した情景を込めて詠んだことは疑いもないからです。この場合、季節の冬はモノ、心象の冬はコトと理解してよいでしょう。『行く春を近江の人と惜しみける』これは芭蕉が、近江の人と近江の春が過ぎてゆく様子を惜しみながら愛でている様子ですね。感嘆は、コトではありますが、見た情景(季節)をそのまま心に映して詠んでいます。普遍的な共感をきれいに纏めて、一種の風景画の趣があります。こうした自然や季節の移ろい、モノから働きかけられる感興を俳句は詠んできました。山頭火の俳句などはきわめて川柳にちかいものを書いていますが、やはりモノからの働きかけによって書いている場合がほとんどです。川柳人は、モノを見ても感情の比喩として置いています(川柳人の中でも、区分けがわからずに書いている人もいるのが現状ですが…)。モノはコトを表現するの単なる道具なのです。たとえば、僕の句で「チューリップ指で開いてみたりして」というのがありますが、普通の感性をもつ人ならこの句から、花の美しさとそれを観察する人、といった光景より、もっと淫らな想像に進むのではないだろうか、という姑息な計算の元にチューリップという花を題材に使っています。この句でいえば、花は句の柱ではなく、作者のみだらな心の動きがポイントなのです。一応お断りしますが、このように解説するのを「自句自解」といって仲間内からは軽蔑されます。ここでは、説明のためにあえて自解しています。>いい句は、俳句にしろ川柳にしろ、クロスオーバーを含有しているかもしれませんね。そのような面もありますし、俳人も川柳人も新境地を開拓するためにお互いの国境をつい越える(あるいは確信犯的に越えたがっている)フシもありますから…。紛争地、あるいは男女の仲と同じですね。これ以上は越えてはいけないと思っても、いい思いをしたくてつい越えてしまう。後は野となれ山となれ…。
2004.10.08
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タイトルは寺山修司の短歌唐十郎の記述のなかで書いた寺山修司の劇団について少し触れなければならない。1967年、32歳のときに、イラストレーターの横尾忠則らと前衛劇団「天井桟敷」を結成している。実はこのときに横尾のデザインしたサイケデリックなポスターを知人が制作していた関係で手にとって見たことがある。シルクスクリーンという手刷りの印刷で、一枚一枚つくっていたのだが、その印刷を担当していた人物に可愛がってもらっていた。その仕事場では横尾の指示にしたがって、摺られた版画的ポスターは番号がつけられて、規格外品はすべて裁断して焼くように指示された。……余談だが、僕はその作品の一枚を手中にしている。「天井桟敷」の第1回公演は美輪明宏を主演に「青森県のせむし男」が上演された。翌年には、アメリカ国務省の招きで米国の前衛演劇を視察し、これを皮切りに天井桟敷は、イスラエル、ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、ポーランド、イラン、英国などからつぎつぎに招待されるようになっていった。事件が起こったのは、1969年の12月12日、唐十郎率いる「状況劇場」の「ヘアー」の初日の開演祝いに、寺山から葬式用の花輪が送り届けたられた。これは、寺山一流のジョークであったのだが、怒った唐たち「状況劇場」劇団員たちが「天井桟敷」前に押しかけ、そのうちに「状況劇場」劇団員たちと総勢20人余りによる大乱闘となってしまったのである。この騒動で寺山、唐を含めた9人が暴力行為現行犯で逮捕され拘留された。事情聴取で唐は「天井桟敷の方で、こちらが殴り込みにいったと勘違いしたらしい。我々の競争相手は天井桟敷なんかではなく、俳優座だ」と言い、寺山は「彼とは脚本や作品を見てやったこともあるし、近くで公演するからといって敵対意識なんてとんでもない」と、すれ違いとなったが、この騒動が「天井桟敷」と「状況劇場」をいっそう世間に知らしめることになった。寺山は、「建物としての『劇場』は演劇にとっての牢獄である」と打ち上げ、天井桟敷の演劇と現実を融合させるべく〈市街劇〉という手法を試みた。天井桟敷の第12回公演の「市街劇・人力飛行機ソロモン」は新宿一帯をで上演された。唐十郎の「状況劇場」も花園神社境内を追われたのを機に、新宿西口公園に「紅テント」をおったてた「怪人二十面相の手口事件」は先に書いたとおりである。 書き殴りにつき、乱高下ご容赦
2004.10.07
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alex99さん>『かくれんぼ 三つ数えて 冬になる』>>私はこの句が好きです。今日はちょっと休憩しましょう。BBSのなかに書きましたが、寺山修司は川柳という文芸を軽蔑していました。何を隠そう、実は川柳人の多くも「川柳」を軽蔑しないまでも忸怩たる気分でながめているところがあるのです。某「生保」で主催していて、多くの人たちに人気のあるサラリーマン川柳の優秀作を紹介しましょう。 コストダウンさけぶあんたがコスト高 女房が腹でしてみるだっちゅうの 恋人がいるかと聞かれ「はい いります」面白いですね、一読明快スカッと笑えます。しかし、このようなダジャレや語呂合わせの句だけが川柳だと思われていることに、川柳作者の多くは眉ひそめ顔をしかめているのです。では、それならばその人たちがどんな句を作っているかと思うでしょうね。ところが、そうした川柳作者たちが一所懸命つくった作品が、寺山修司にかかればボロクソに、「文芸と呼ぶのもおこがましい」と切り捨てられているのです。僕も川柳人ですから、内心穏やかならざるおもいがありますが、寺山の主張に頷かざるを得ないとしばし感じています。僕が読んでも面白くもおかしくもない川柳が多いのですから…。その理由を書くと、川柳仲間から八分にされかねませんのでこれ以上は書きませんが、川柳人の書く作品の多くが一般の方々のみならず、他文芸にかかわる方々の魅力を欠くものになっていたことを認めざるを得ないと、僕は思っています。もちろん、川柳人たちも手をこまねいているわけではありません。川柳文芸としての特長を活かした魅力的な作品もどんどん生み出されています。そんな作品をこのサイトでも紹介してきています。たとえば、こんな句はみなさんいかがですか。花の名を呼ばれ「ハイ」と立ちあがる 河瀬芳子話しが脇道に逸れましたが、僕からいわせると寺山修司の作品の多くがとても川柳的なのです。川柳の大きな特長のひとつは〈人間探求・穿った見方〉です。こうした意味で、五七五ではなくても、作品に川柳を感じます。一部を紹介しましょう。幸福についての七つの詩よりポケットを探したって駄目です空を見上げたって涙ぐんで手紙を書いたって駄目です郵便局に日曜日があるように幸福にだって休暇があるのですから大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ 新しき仏壇買ひに行きしまま行くえ不明のおとうとと鳥 桃の木は桃の言葉で羨むやわれら母子の声の休暇 村境の春や錆びたる捨て車輪ふるさとまとめて花いちもんめ 第三歌集「田園に死す」より
2004.10.06
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寺山修司に「わたしのイソップ」という長い詩がある。7章に分けて書いてあるが、その一部を引用してみよう。彼の詩才とともに、想像を現実に変えてゆく思想がかいま見えて面白い。わたしのイソップ1肖像画にまちがって髭を描いてしまったので仕方なく髭を生やすことにした門番を雇ってしまったので門を作ることにした一生はすべてあべこべでわたしのための墓穴を掘り終わったらすこし位早くても死ぬつもりである情婦ができたらから情事にふけり海水パンツを買ったから夏が突然やってくる子供の頃からいつでもこうだっただがときどき悲しんでいるのに悲しいことが起こらなかったり半鐘をたたいているのに火事が起こらなかったりすることがあると、わたしはどうしたらいいかわからなくなってしまうのだだから革命について考えるときもズボン吊りをあげたりさげたりしてばかりいるのである寺山の歌集『空には本』の後記で書いている言葉が、つよく印象に残っている。戦争が終わったときは十歳であり〈僕たちが自分の周囲になにか新しいものを求めようとしたとしても一体何が僕たちに残されていただろうか。見わたすかぎり、そこここには「あまりに多くのものが死に絶えて」しまっていて、僕らの友人たちは手あたりしだいに拾っては、これではない、これは僕の求めていたものではない、と芽ぐみはじめた森のなかを猟りあっていた。しかし新しいものがありすぎる以上、捨てられた瓦石がありすぎる以上、僕もまた「今少しばかりのこっているものを」粗末にすることができなかった。のびすぎた僕の身長がシャツのなかへかくれたがるように、若さが僕に様式という枷を必要とした〉「今少しばかりのこっているもの」とは短歌定型詩のことであり、その形式を継ぐことによってなにもない戦後の飢えたる荒野から出発宣言をしたのである。翻って、僕らの短詩文芸を考えるとき、飽食のなかにどのようなハングリーを求めたらいいのだろうと、しばし黙考せざるを得ない。
2004.10.05
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寺山修司は、18歳のときにネフローゼを発病し一時は重篤な病状にまですすんだ。そのため、22歳頃まで病院が住所のような生活を送っている。この闘病生活中に本を読み漁り、歌を作った。病院は寺山にとってまたとない学舎であり、貴重な充電場所ともなった。その放電が始まると、寺山の20歳代はまさに疾風のように才能を開花させていった。彼の年表をもとに、寺山の20歳代を追ってみよう。昭和32年21歳のときには、病状の小康をみて「砒素とブルース」「祖国喪失」「記憶する生」「蚪蜴の時代」など作歌している。寺山の才能を買った中井英夫の好意で、第一作品集『われに五月を』(作品社)が刊行された。22歳になると、小康状態となり、病院と新宿・歌舞伎町界隈を行ったり来たりの生活が始まった。第一歌集『空には本』(的場書房)を刊行。入院中に覚えた賭博とボクシングに熱中するようになった。退院するが、定まった住所はなく、知人宅を泊まり歩く生活であった。23歳、谷川俊太郎のすすめで放送のための劇を書き始める。『中村一郎』(RKB毎日放送)にて民放祭大賞を受賞。歌舞伎、能の評論を書いていた堂本正樹らと集団「鳥」を組織。このころ、ライト兄弟の伝記、飛行の原理に興味を持ち熱中する。24歳のときに書いた放送劇『大人狩り』(RKB毎日放送)が革命と暴力を煽動するものとして福岡県議会で取り上げられ、公安の取り調べをうけている。浅利慶太の演出する劇団四季に三幕劇『血は立ったまま眠っている』を書く。ジャズ映画実験室「ジュース」を山名雅之、金森馨らと組織し、16ミリ実験映画『猫学Catllogy』を演出。 この時代はジャズ喫茶に入りびたり、コルトレーン、マルなどを好む。八木正生、猪股猛らとジャズと詩朗読の結合を草月アートセンターを中心に試演。舞踏手・土方巽と出会う。 言語と肉体の結合を試み、『贋ランボー伝』『直立猿人』など発表。篠田正浩の長編映画第一作『乾いた潮』のシナリオを書く。「文学界」に小説『人間実験室』を書く。初めてのテレビドラマシナリオ『Q』を書き、ねずみ1000匹を出演させる。松竹映画女優・九条映子と結婚。安保闘争の年であった。この年「寺山修司論」を書いた國學院大学生・岸上大作が12月に首つり自殺する。昭和36年、25歳のとき、ファイティング原田と知り合い、ボクシング評論を書き始める。 文学座アトリエにて『白夜』上演(荒川哲生演出)、土方巽・黛敏郎らとの六人のアヴァンギャルドの会にて『猿飼育法』上演。塚本邦雄の短歌に強く刺激され、『塚本邦雄論』を書き始める。「現代詩」に長編叙事詩『李庚順』連載。第二歌集『血と麦』(白玉出版)刊行。昭和37年、26歳。人形のための実験劇『狂人教育』(ひとみ座)公演。 帰郷して恐山にのぼり、巫女の口寄せに興味をもつ。放送叙事詩『恐山』を書く。 関西学院大学生だった山野浩一と出会い、競馬場通い多くなる。テレビドラマ『一匹』(NHK、和田勉演出)書く。唐十郎と出会う。昭和38年、27歳。大学にて『家出のすすめ』を講演してまわり、『現代の青春論』(三一出版)にまとめる。谷川俊太郎、佐々木幸綱との共同制作詩『祭』試作する。 LFで『ダイナマイク』というドキュメンタリー番組を担当し、インタビュー・たずね人・詩朗読・犯罪レポートなどのコラージュで1年間続ける。担当は中村朗。この年、犬を飼う。映画『私生活』の中のブリジット・バルドーの役名をとって「ジル」と名づける。昭和39年、28歳。第三歌集『田園に死す』(白玉出版)刊行。塚本邦雄・岡井隆らと青年歌人を組織する。 戯曲集『血は立ったまま眠っている』(思想社)、評論集『遊撃とその誇り』(三一出版)刊行。放送詩劇『山姥』(NHK制作)でイタリア賞グランプリを受賞。放送詩劇『大礼服』(CBC制作)で芸術祭奨励賞を受賞。東邦ジムのアトム畑井を知り、境遇に興味を抱く。彼は「自分を捨てた母が、テレビに映って殴られているわが子を見れば、かわいそうだと思って名乗り出てくれると思ってボクサーになった」と言っている。昭和40年、29歳。放送のための叙事詩『犬神の女』で第一回久保田万太郎賞を受賞。中平卓馬を出会い、彼のすすめで「現代の眼」に長編小説『あゝ荒野』の連載を始める。村上一郎のすすめで『戦後詩』を書き下ろす。 「芸術生活」に空想旅行記『魔の年』を連載する。シンザン、三冠馬となる。古川益雄と出会う。『戦争は知らない』を作詞する。 早稲田大学劇団「仲間」が『血は立ったまま眠っている』を上演。演出をした東由多可と出会う。テレビインタビュー番組『あなたは……』(担当・萩本晴彦)で芸術祭奨励賞を受賞。昭和41年、30歳。放送のための叙事詩『コメットイケヤ』(NHK制作・湯浅譲二音楽)でイタリア賞グランプリを受賞。読み疲れするほどの活躍ぶりである。
2004.10.04
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寺山は、自分にこのような境遇を強いる、父を憎み母を恨みながらも、その裏側では家族への愛おしき憧れをほの抱いていた。しかし、家族を追い込んだのは戦前の国家権力であったとし、復讐としての犯罪的妄想を文学の中で表現していった。寺山の、文章や詩、そして自分の主宰するアングラ劇団「天井桟敷」のために書き下ろした戯曲では、母を苛めた以上の激しさをもって「法」「秩序」への挑戦をしていった。それが寺山の国家への復讐であった。寺山の文学作品、ことに短歌は母を苛める拷問道具としてのエロスと同時に、みずみずしい叙情のわき出す清水口のようなエロスといった、相反する姿をもっている。これが、寺山作品にわれわれを誘い虜にするポイントにもなっているのだが、彼の心の中で絞り出すカタルシスの滴が、さまざまな作品として湧出しているからだと、僕は思う。寺山の描き出す世界は、人間のひとつの本質をあぶり出している。子どもたちは、愛にあふれた親たちから生まれたものではなく、世の不条理そのものによって産み落とされたものであり、年頃の娘は、その不条理にふたたびおなじものを追加することを強制されるために行く嫁入りに、ひとかけらの希望があるわけではない。父や母は老いだけが彼ら彼女らを待っており、老人たちには姥捨山しか心よく受け入れてくれるところはない。過去は、きまって現在にしつこく返済を迫ってくる借金取りであり、未来はされに積算されていくその勘定書である。昭和28年(1953)17歳 全国学生俳句会議を組織。俳句研究社の後援を得て俳句大会を主催。柳田国男、戦時中の新興俳句運動に興味を抱く。俳句雑誌「牧羊神」への参加者100人を超す。高校は皆勤だが欠課275時間。このころより実作の他に論文も書き始める。昭和29年(1954)18歳 青森歌舞伎座の好意と母の仕送りで早稲田大学に入学。大学へはほとんど行かず、シュペングラーの「西欧の没落」に心酔。夏休みに奈良へ旅行し、橋本多佳子、山口誓子を訪ねる。中城ふみ子の短歌に刺激されて『チェホフ祭』50首を作り、第二回短歌研究新人賞を受賞。冬、ネフローゼを発病する。昭和30年(1955)19歳 西大久保中央病院に生活保護法にて入院。詩劇グループ「ガラスの髭」を組織し、早稲田大学緑の詩祭の旗揚げ公演の戯曲「失われた領分」を書いた。これが戯曲第一作となる(『櫂詩劇作品集』に収録)。出演者には山口洋子、河野典生らがいた。同時上演が文学座アトリエの谷川俊太郎『白鳥の湖』であった。 病状悪化し、面会謝絶となる。昭和31年(1956)20歳 絶対安静続く。スペイン市民戦争文献、ロートレアモン詩書、南北、秋成、カフカなどを読み過ごす。同病室の韓国人に賭博、競馬を習う。マルクス「経済学・哲学ノート」を読む。
2004.10.03
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イチロー選手と楽天メンテナンスでUPできませーん!寺山の母への複雑な恋慕を書いてきたが、「家」「国家」とかかわる、家族の関係を述べているので紹介したい。やや難しいいいまわしだが、このなかに父や母、そして国家への寺山の心情が強くあらわれている。私の犯罪へのあこがれは、はじめは父への反逆として生まれた。父は地方警察の刑事(特高刑事・筆者)であり、少年だった私の見ている前で毎夜、示威的に拳銃の磨き掃除をするのだった。F・ローデルは「法は諸科学の中のキルリー鳥だ」と書いているが、キルリー鳥はいつでも後ろ向きに飛ぶことをやめなかった鳥でり、法もまた古来の原則や先例を墨守して「革新を悪とし旧套を徳としてきた」のである。私は、なぜか父が好きでなかった。北国のどんよりとした空、窓からは荒涼とした田畑しか見えないみずぼらしい一軒家――そして、暴力的で嫉妬深い父はいつか私を「家」から追放するだろう、という不安。母がいるのに、物置で一人手淫にふける父の孤高。それは一口で言えば、家庭帝国主義に君臨する唯一者であり、もう一つの「法」を司る黒い制服の中年男なのであった。(中略)だが、少年時代の私は、たかだか古本屋で二、三の少年倶楽部を万引きしているまに「父を食う」機会を失ってしまった。私より先に、私の父を殺して食って父の力の一部分を併合してしまったのは、国家権力だったのである。第二次世界大戦の名のもとに、父は国家の祭に色を添え、私はその肉の一片にもありつけぬままに、追放されるべき「家」の崩壊に立会い、たった一人の母親とも生き別れをしなければならぬ羽目に追いこまれた。私に残された復讐は、せめて父と同一化してしまった国家の「法」――そのキルリー鳥に威嚇の発砲をすることでしかなくなってしまったのである。だが、犯罪が私にとって「食いそこなった父の肉」を追慕することでしかない限り、そりはキルリー鳥と同じように「後ろ向きに飛ぶこと」でしかないだろう。ふりむくことは、歴史的な弁明がともなう。それはたかだか「特定少数の利益」と「秩序という名の習慣的な惰性」に奉仕している法への反抗であり、それを個人的(または集団的)に犯すことである。たとえ殺人でさえも、それが政治的行為と重複しない限りは「法」の被支配者の問題でしかないことは自明であった。(「犯罪的想像力」エロス的詩学への八〇〇〇字より)と述べている。ちょっとおどろおどしくまわりくどい書き方なので、伝わりにくいかも知れないが、この言葉の中に、寺山の、父・母・自分の位置関係と、屈折した愛憎の想いがくみとれる。 また、あした
2004.10.02
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寺山修司の慕情先にも書いたが、寺山は作品の中で何度も父を殺し、母を殺し貶めている。作品に書くことで彼のカタルシスがなされ自立していったといっていいだろう。父母を憎み、父母のふるさとを憎むことは、実は彼の父母へのこだわりであり愛情の裏返しでもあったのであろう。作品にあらわれているナイーブな情景は、憎しみだけのなかからは生まれ得ない。切れない血族を憎しみ抜くなかから、彼の予感しえない愛情が生まれて出でたということだろう。昨日書いた、寺山の語った大間義夫のエピソードは、大間義夫の母親への思慕の深さを語ることによって、彼自身の母親への想いを表出させようとしたのであろう。憎しみのなかから生まれた愛情は、母親への一種の恋情でもある。その恋情は憎悪とも背中あわせであり、自分のこころのなかで母を苛めることでいっそうつのらせているのである。その心理は寺山の語りのなかからも証明できる。一人だけで暮らすことが不可能になり、福祉事務所から人が来て、私を親類のもとにあずけさせることになったのはその年(1949・13才 筆者註)の冬だ。私が家を去る日、ふと思いついて畳をめくってみると、そこには母のへそくりも成田山の守護札もなくて、ただ一冊の春本があった。私はそれを、福祉事務所の人にかくして学校の鞄の中にしまいこみ、夜汽車の中でひとりで読んだ。それは、怖ろしい「わが読書」のはじまりであったが、しかし、十三歳の私にはいささか難解すぎたとも言える。私は汽車の中で、その春本のなかの、意味不明のところにすべて、ハツという名をはめてみた。ハツというのは、私の母の戸籍上の本名である。「いきなり腰にてをかけて引き寄せ、しなやかな内腿に手を入れて、新芽のような柔らかい彼女のハツに指をいれた。するとハツは、あれ! と身もだえしたが、そのままハツをくねらせると、だんだんハツになると見えて、ハツは腿の色も灼けつくように情熱を帯びてくるのだった。そこで、時分はよしとハツのよくのびた片足をあげて、半ば後ろからハツをのぞませ、二三度ハツをハツしてから、ぐっと一息にハツすると、さしものハツもハツで充分だったので、苦もなくハツまですべりこんだ、その刹那……さすがにハツに馴れたハツも思わず「ハッ!」と熱い息をはいて、すぐにハツをハツしてハツハツとハツするハツにぐいぐいとハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツハツ 魂の母殺し 泣き笑う声かハツハツハツハツハツ ハツハツハツハツハツ 雨に嵐にまた降る雪に つばさも傷むか 迷ひ鳥 知らぬ他国の 山越え野越え ながす涙も母成ればこそ」ここの語りも、どこまでが事実で、どこからがフィクションなのか明らかでない。彼は猥褻文の中で母を苛めながら、さめざめと泣いていたのであろう。昭和26年(1951)4月、15歳。青森高校に入学。学校新聞、および文学部に所属。雑誌「青蛾」を発行する。昭和27年(1952)、青森県高校文学部会議を京武久美、近藤昭一、塩谷律子らと組織。詩誌「魚類の薔薇」を編集発行。伝統の検証を旗印に全国の高校生に呼びかけて、十代の俳句雑誌「牧羊神」を編集創刊する。季刊で12号まで続けた。この雑誌を通じて中村草田男、西東三鬼、山口誓子らと出会う。この年において、すでに普通の高校生ではなくなっている。 つづきます
2004.10.01
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