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いま、長野県ではスペシャルオリンピックスが行われています。パラリンピックのときはもう少し注目されたような気がしますが、この大会のことは全国のニュースではあまり採り上げていないですね。いうなれば知的障害者のスポーツ大会だから、僕も誘われるかと思ったけれどスポーツ音痴と思われたのでしょうか?ホストタウンと言って、国ごとに各地の自治体で受け入れてお世話をしています。県内各地に設けられた中継イベント会場の大型画面を通じて、選手との交流にかかわってきた多くの人が見守り、声援を送っているとのことです。
2005.02.27
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以前にも紹介したことがあるが、僕たちは「市民フォーラム現代人(イマジン)」というグループをつくっている。名前のゆらいなどから、ときどき危ないグループ視されることもあるが、じつは単なる自己啓発をしあっている仲間でしかない。互いの得意とする分野を出し合って、それを自分の活動にフィルドバックして活かしてゆこうということだ。いうなれば誰でもやっている「井戸端会議」といったところだろう。その仲間うちでここ数年とくに力を入れて学んできたものが、地域に根付いている伝承文化だ。ときには酒もはいるが、いつもは湯茶で…たとえば盆踊りなども、歴史を追って観察してみると、単なる地区民の娯楽だけではなく、宗教的意味合いがあったり、男女を引き合わせる出会いの場であったりする。支配体制へのひそかな意趣返しということもある。昨年も、伊那谷の小村にのこる村歌舞伎をこのなかで紹介したが、大鹿歌舞伎の起源などをあらためて書いてみたい。民俗学者の柳田国男は農村歌舞伎について次のようにいっている。歌舞伎の元祖が出雲のお国と云ふ念仏踊の徒であった如く、下品の衆生をしてワザクレ(たわむれ)の中に菩提の種を求めしめる為に此の如き勧進をするものと、少くも表面には称へてをったものである。昔風の入たちが、芝居と云へば必ず勧善懲悪をせねばならぬ様に考へたのも、由つて来る所は甚だ久しいものである。(『俗聖沿革史』)柳田は、「ワザクレつまりたわむれの中に菩提」を求めた「念仏踊」にその発生のもとがあり、それゆえに歌舞伎の世界観の本流が「勧善懲悪」にあったことはいまも変わりがなく、あそびのなかに信仰や、倫理観を求めた、といっている。そしてこの歌舞伎を、京の都から全国のムラやマチに伝播させていったのは、「生活を計るに急であった盆憎」いわゆる「低級なる』勧進聖、食い詰め坊主たちであったという。その伝播を受け入れたのは、勧請するための財政的余裕のあった「養蚕」のさかんな地、いまでは過疎地となった山間地の人々であったのだ。織物の原料として絹は高級なものであり、養蚕は農家の現金収入の大きな柱として、つい40年ほど前までは日本の国策事業として盛んに行われていた。諏訪地方は製糸工場が集まり、増産に増産をめざした過酷な労働が女工哀史がうまれる下地にもなった。信州伊那谷はそこに繭を供給する、まさに養蚕地帯であり、その労働のあいまに、伊那や下伊那を中心にした谷間の奥まった地域に、人形浄瑠璃や歌舞伎が受け入れられ、地区民によって育てられてきた。南北朝時代(一三四四頃)、後醍醐天皇の第8皇子宗良親王が隠棲した里が大鹿であり、平家から落ちた流れのつよい地域でありながら、南朝に属した鎌倉物の演じ物を中心とする歌舞伎が、より歓迎され演じ続けられた「謎」の鍵はここにあった。このように、字や文化を探ってゆくことで土俗の歴史のひもを解いてゆくことができる。こんな、なんの得にもならない茶飲み話も、時代をひきつぐことのひとつだと思う。下につづきます
2005.02.26
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上からのつづきです農村に伝わり発展してきた芸能は、プロの役者が専門的に行うのではなく、村人たちが参加して演じられてきたわけだが、なぜ歌舞伎だったのかというと、歌舞伎はもともと「変身願望」から興ったものであり、変身することによりそれまでの氏身分から解放された気持ちを味わっていたわけだ。歌舞伎の元祖は「出雲の阿国」という女性だったが、女の阿国が男の真似をして刀をさして、種々の物真似をした“男装性”は、当時におけるひとつの「解放」を意味していた。農村歌舞伎もその延長線上にあり、農民たちは歌舞伎のなかでは武士や高貴な身分に変身して、いっときの願望を叶え、その昔、武士だったであろう祖先たちの生活をしのぶこともあったのだろう。「義経千本桜」を演じるときには、義経や弁慶にもなることができた。祭で歌舞伎を演じるハレの時間、そして演目を練習する普段のケの時間においても、一時の変身願望をかなえながら、地域の文化を継承したり、育てていたわけだ。この農村歌舞伎ばかりでなく、この地方の、先に峠さえないどん詰まりの集落にさまざまな伝承芸能や文化が息づいている。いや、いたといってもいいのかもしれない。わが家の庭からお馴染みの景色あらためて、このような堅苦しい文章を書くのには理由がある。いま、なかば力ずくで進められている市町村合併は、あらためて、字や小字を奪い、小さなつながりを断ち切ることで効率を高めることにある。いわば、高山に張り付くように生き延びてきたこれらの文化が絶滅の危機に瀕しているのだ。たとえば、長谷村奥地に“浦”という集落がある。すぐ目の前が南アルプスの山頂という絶景だが高冷地である。今では、集落ではなくなったというほうが正確かも知れない。現在住んでいる人は、ほとんどが都会から田舎暮らしを求めて移り住んだ人たちで、個の点在だからだ。この地区の名、“浦”は“壇ノ浦”の浦に通じて、壇ノ浦から落ちのびた平家の落人たちが住み着いて名付けられている。そこでも「赤旗まつり」という特異な行事がつい近年まで行われてきていた。“赤旗”といっても、政党のそれではなく、平家の赤旗で、歴史が違う。地区名には、このように歴史的背景からつけられたものが多く、地区名を調べるとその土地や人々の背景が推測できる。また、深い歴史的背景があるから、地区民は生活に多少の不便があっても自分の住む地域を守ろうとしてきた。大きな地域をつくり、効率化するということは、稀少植物の上をブルトーザーでならす、あるいは開墾して化学肥料で広い農地にするようなもので、細々と生き延びてきた伝承的な生活を一変させてしまうことにつながる。たびたびいうが、文化はムダがあってこそ成り立つ。遊びのないモノに豊穣な文化は醗酵しない。採算だけを追っていては生き残れない。お茶を飲むのに、わざわざお手前が必要だろうか。コップで足りるのではないだろうか。わざわざ不便な山奥に人が住む必要があるのだろうか。役場の近くに集合住宅でもつくって、そこに越してもらえばすむのではないだろうか。効率一辺倒とはそういうことである。そのようなところまで考えたうえで、文化の整地をすすめようというのだろうか。
2005.02.25
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男にとって中学生時代という年代は、不良になりたがる時期かも知れない。村の中学校で社会科を教えていたY先生が近所の寺に下宿をしていた。Y先生は、新婚だったと思う。美人の奥さんで、訪ねて行くと抹茶と薄い羊羹を出してくれた。僕は手みやげに、家からこっそりと米や卵を持ちだして先生のところに遊びに行った。もちろん、先生よりお茶。いや、羊羹。いえ、お茶を入れているときの奥さんの手つきが好きだったのだと思う。米や卵は「父が持ってゆけといいました」と嘘をついた。僕の家は、村では比較的大きな農家で、米は2つの大きな蔵にわけて入っていて、鶏も数十羽を庭で飼っていたので、少しぐらい持ちだしても気づかれることはなかった。先生は空気銃を持っていた。その頃はまだ銃規制も緩やかだった時代、僕も当然のように興味をもった。先生はこともあろうに、寺の庭で空き缶などを標的に銃を撃たしてくれた。現在そんなことをする教師がいたら大問題となることだろうが、当時は村人が見ても特別注意されることもなかった。たびたび空き缶で練習すると、つぎには生き物を撃ちたくなった。しかし、先生はそれは許してくれなかった。僕はどうしても生きているものを撃ってみたかった。悪い心がムクムクと芽生えた。銃の在処は知っていた。ある日、Y先生の留守をみはからって寺を訪ね、奥さんに「先生から許可をとってありますから…」と、嘘をついて、空気銃を持ちだした。鉛の弾は町の金物店で、この日のために買っておいた。里山にはたくさん鳥がいるので、それを目当てに林の中に入った。腕には少々自信があった。狙った鳥に弾が当たり、木から転がり落ちて、バタバタと苦しむ姿に始めは胸がグリグリ痛んだ。しかし、3羽、4羽となるとだんだん射撃を楽しむ気分になってきたことだ。狂人に銃を持たせると危ないと思ったのはこの時だ。誰でもこのように変われる。この頃の大人たちは、動物を平気で殺せた。兎や鶏、ときには山羊を食べるには、自分で殺すのがあたり前の時代だったわけだ。それでも、自分が可愛がり飼っていた兎や山羊が殺されるのは嫌で、抵抗をした。祭が近づき、兎を殺すという朝、連れて学校に行ったこともある。儚い抵抗も1,2回のことだ。兎も料理されて鍋に入ってしまえば、哀しかったことも忘れてがぶりついた。仕留めた鳥をもって寺に帰ると玄関にY先生の靴があった。(しまった、先生が帰っている。)と思ったが、しかたがない。叱られるのを覚悟で、獲物と空気銃を持って家の中に入った。何となく気配はあるのに、Y先生も奥さんも居間にいなかった。奧の方からなにかの音が聞こえた。耳を澄ますと、うめき声のようだった。よく理解できないままに、そこに僕が居てはいけないという感じを直感した。僕は空気銃をテーブルの上に置き、ぬき足さし足でその場を立ち去った。次の日、学校に行くと先生と顔を合わせた。小さな学校なので会わないわけにはいかなかったのだ。Y先生は僕を認めると、ハッーっと拳骨に息を吹きかける仕草をした。そして、ニヤリと笑い、おとがめはそれだけで済んだ。少し自慢すると、Y先生から教わる社会科は大好きで当時の成績はかなり良かった。親が通知票を見て、英語や数学がこのくらい出来ればどんな学校でも行けるのに…、と嘆いたが、そのころから好きな先生の教科しか勉強しなかった。数年前に、そのY先生の名前を新聞の訃報覧に見つけた。斎場が近かったので、香典をもって参列しに行った。美しかった奥さんはすっかりおばあちゃんに変わっていたが、「あら、mskクン、懐かしいわ。昔の面影がまだあるわね」と、40年も会っていなかったのにちゃんと覚えていてくれた。ちょっとあの頃の出来事が甦った。奧のほうで聞こえたうめき声、あれは……、いやいや、ただの腹痛だったのかも知れない。だとしたら、僕が逃げ出したのはやっぱり卑怯だったのだろうか…。 僕のふるさとも、合併問題で揺れている。大きな自治体としてみんな一緒になったらラクになる、というのは幻想だと思う。鎮守の森も、無人となった寺も、宇津木の薬師堂も、村歌舞伎も、福寿草の群生地も、巫女淵の伝説も、平家の落人伝説も、木地師たちの残した痕跡も見知らぬ人にでも「コンニチワ」と大きな声で挨拶する村の子どもたちも、村のおいしいパン工場も村人たちが営々と積み重ねてきたコミュニティーがあったからこそ、いまも光っている。大きな自治体となって、本当に末端まで血が通う行政ができるのだろうか?みんなが声をかけあう関係を保てるのだろうか?いまなら、まだ間に合う。ちからを合わせれば、ちいさくたって生きてゆける。
2005.02.24
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上田市の信濃デッサン館・無言館と言えば、戦没画学生の遺した絵画を展示している美術館として知られている。昨年は、うるとびーずさん一家や苺さんらと僕も訪れている。その窪島誠一郎館主が、夭折画家の作品が並ぶデッサン館が所蔵する3人の画家の計165点(5000万円相当)の絵画を都内のオークション会社に売却したという。1930年代に米国で活動した野田英夫らの作品で、窪島館主が19歳の頃から集め続けたいわば「分身」ともいえる絵だ。信濃デッサン館・無言館は来館者減がつづき、経営状態が悪化したため両館の存続のため、79年の開館以来初めて作品を手放すことになったということだ。信濃デッサン館 窪島館主は、野田の生涯を本にまとめたり、米国での住居を記念館として残したりするために、42回にわたり渡米し、作品はデッサン館の専用室に並べたほどだという。売却した野田作品は62点のうちの51点。このほか、多毛津忠蔵、ジャック山崎の作品も含め、売却点数は所蔵総数の7分の1に当たるという。両館は年間4000万円かかる運営費に対し、数百万円の赤字が毎年続いている状況。昨年のデッサン館の入場者は1万8000人で、盛況時の90年代初頭に比べ半減し、戦没画学生慰霊美術館として話題を集めた無言館も、客足が遠のきつつある。職員数も最多時の9人から現在は5人に減らし、不足分は窪島館主が著書出版や講演で賄っているというが、個人館の現状は厳しく、一時は閉鎖も考えたという。しかし、デッサン館は無言館へとつながる一連の活動の原点。自己表現の喜びや深く凝縮された魂の尊さを訴え続ける窪島館主は数年悩み抜いた末、所蔵品の売却で運営継続を決意したとのこと。オークションは5月の予定。窪島館主は「身を切られる思いだったが、自分がこの地でできることをやり遂げたい」と話していた。(信濃毎日新聞) 画学生が出征前に描いた恋人の像も多いとのことだが、両館とも上田市のひとつの顔ともなっているのに、こんなところにこそ行政の支援はできなかったのだろうか。昨年訪れたときも、個人館ということで案内板も不十分だった記憶にある。明確なコンセプトをもった優れた美術館だけに、きちんと運営できる手だてを講じてもらいたいものだ。まだ見に行ってない皆さん、ぜひ訪れて貰いたい美術館です。きっと感じるものがあるはずです。 上田市へのご意見mayor@city.ueda.nagano.jpにメッセージを入れましょう。
2005.02.22
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alex99さん>「憂国」というよりは、「憂世界」「憂地球」というべきでは?僕も、alex99さんの仰るように「憂国」というよりは、「憂世界」「憂地球」という視点で考えるほうがいいかなと思っています。今や、どの国も一国だけで維持していけなくなっていますから…。北朝鮮など半鎖国状態の国も、いずれは軌道修正せざるを得なくなるし、アメリカの一人勝ちも無くなるでしょう。それぞれの国が否応でも関連し合って生きてゆくか、世界が滅びるか…。>日本はそのものは、そこまでひどい国でもないですよ。>それに、まだ、それほどひどく道を間違えてもいませんよ。現時点の相対的な見方ということで言えば、そのようにも考えられると思います。例えば、内戦にあけくれる現在のアフリカ諸国や暴力の収まらないイラクなどとくらべたら、はるかに恵まれているでしょう。そして、繁栄日本を築いてきたalex99さんの世代の方々が、世界と比較しても、過去の日本と比較しても、現在の到達点を是とする気持はよく理解できます。それでも、さだまさしのメッセージに共感する余地はあり、僕等そして下の世代では、いいようのない不安感や危機感をもっている人は多いと思います。戦禍に逃げまどうアフリカやイラクの子どもたちの眼の光りと、本当の飢えを知らない、日本の子どもたちの眼の光りの違い。子どもたちの視線に映しだされる“希望”という未来像への“想い”の違いなんだろうと思います。「まだ、それほどひどく道を間違えてもいない」とは、僕も思いたい。確かに日本という国に住む人々は、世界のなかで経済的にも治安面でも、恵まれたなかにいることは否定しません。しかし、それが一人ひとりの幸福感に繋がっているんだろうか。と、ふっと思うことがあります。もしかしたら、日本という社会も、薄氷の上に乗って漂っているだけではないだろうか、という危機感を抱いている人は僕だけではないと思っています。先の震災で、家が潰れたり傾いてしまった新潟の知人がおりますが、震災を境にいかに平和な生活が脆弱なものであったかという手紙を寄せています。雪降ろしに追われる住む家のこと、これからの勤めのこと、社会に頼っていては救われないことがいかに多いことかと…。結局は日本という恵まれた経済国家も、彼ら一人ひとりの生活までは救えない。最近のニュースでは、IT関連企業絡みのものが連日のように報じられていますが、土にも、機械油にまみれることなく、市場原理とやらのみで勝ち負けに分けられ、膨大な富が一方に流れ込んでゆく社会。福祉など、効率化できないはずのものまで、市場原理に委ねて、競争を迫る社会。こんな社会につきすすもうとする進路に、いささかの疑問を抱くこと、これは大事ではないかと思うのです。過当競争の社会から、自分が振り落とされないことに精一杯で、他人の不幸にまで眼がゆくゆとりのない社会をつくっていいのか、今、せっせと進めている政策はこのように思えてならないのです。かつて、理論上は、東京の土地の値段でアメリカ全土が買えるという虚構の時代がありました。しかし、それはあくまで虚構の世界であって、現実には不可能なことはいうまでもありません。が、そのうえで日本中が踊っていました。この先、IT企業がどんなに力をつけようと、土と格闘したり油にまみれて働く仕事が不必要になることはありません。しかし、今の日本はこうした実業では食えない(効率一辺倒な)社会に歩みを早めています。なりふれかまわぬ弱肉強食の競争社会は、いままでような雇用関係を不可能にし、巷にあふれるフリーターの子どもたちは、いずれ老境に入ってゆく我々の世代は、これから先の10年、20年後のことを考えるといったいどうなるのかという不安に苛まれるのです。50年、100年後の日本はあり得るのかと…。今、現在の他国との比較では測れない「憂国」の心情は、実は僕のなかにも大きく巣くっているのです。
2005.02.21
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「憂国」という言葉は、三島由紀夫が好んで使かい、彼の命日を「憂国忌」と名付けたことから、右翼系の言葉としてとらえられるふしがつよい。しかし、田中康夫と浅田彰の「憂国呆談」や有田芳生も使っているように、右翼用語ではない。国は無くても人はあるが、人なくして国はないから、国を愛するということも人を愛することの延長にあって真の「憂国」といえるのだと、僕は思う。さて、さだまさしが書いた〈風に立つライオン〉には、「僕」というモデルがいる。僕は、宮崎医科大学に勤める柴田拡一郎氏である。氏は子供の頃からシュバイツァーに憧れていて、ケニアヘ巡回医療の医師として赴いたという。詩というより手紙の一節のような内容だが、紹介してみよう。「風に立つライオン」 さだまさし突然の手紙には驚いたけど嬉しかった何より君が僕を怨んでいなかったということがこれから此処で過ごす僕の毎日の大切なよりどころになります ありがとう ありがとうナイロビで迎える三度目の四月が来て今更千鳥ケ淵で昔君と見た夜桜が恋しくて故郷ではなく東京の桜が恋しいということが自分でもおかしい位です おかしい位です三年の間あちらこちらを廻りその感動を君と分けたいと思ったことが沢山ありましたビクトリア湖の朝焼け 一〇〇万羽のフラミンゴが一斉に翔び発つ時 暗くなる空やキリマンジャロの白い雪 草原の象のシルエット何より僕の患者たちの 瞳の美しさこの偉大な自然の中で病いと向かい合えば神様について ヒトについて 考えるものですねやはり僕たちの国は残念だけれど何か大切な処で道を間違えたようですね去年のクリスマスは国境近くの村で過ごしましたこんな処にもサンタクロースはやって来ます 去年は僕でした闇の中ではじける彼等の祈りと激しいリズム南十字星 満天の星 そして天の川診療所に集まる人々は病気だけれど少なくとも心は僕より健康なのですよ僕はやはり来てよかったと思っています辛くないと言えば嘘になるけど しあわせですあなたや日本を捨てた訳ではなく僕は「現在」を生きることに思い上がりたくないのです空を切り裂いて落下する滝のように僕はよどみない生命を生きたいキリマンジャロの白い雪 それを支える紺碧の空僕は風に向かって立つライオンでありたいくれぐれも皆さんによろしくお伝えください最後になりましたが あなたの幸福を心から遠くから いつも祈っていますおめでとう さようならこの歌ができたことにより、〈風に立つライオン〉という言葉はさまざまな使われ方をして、活動が広がっていった。さだまさしは、アフリカと対比して日本社会の文明批判をしている。現実のアフリカとくらべると、ややロマンチシズムが過ぎるかとも思うが、一面では彼の予言通りに文明の病はいっそう深刻度を増していると思う。〈風に立つライオン〉が作られたのは87年、おりしも日本経済がバブル化しだした頃だ。「『現在』を生きることに思い上がりたくない」というセリフにはだから実感がある。けれどアフリカに行ってゼロから再スタートしても、後進国がとりあえず目指すゴールは物質文明であり、巨大な欠乏が埋められるまで、日本と同じように近代化が繰り返されることになる。ここで、さだまさしがした文明批判が、単なる過去を懐かしむことに終わっては、彼の「憂国」はセンチメンタルなものとして終わってしまうが、彼の予言したように文明が、いっそうの病根を深めているという現状に思い至れば、彼の「憂国」は正しく反映されることになるだろう。日本が「大切な処で道を間違えた」というのは、昔の日本は良かったということであるが、これだけで終わっては何の意味もない。これからの日本がどうあるべきか、道が間違っていたとすればどのように修正すべきかは、われわれみんながかんがえてゆくべきことなんだろうと思う。
2005.02.20
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という川柳があるが、妻から電話。「今日の昼間、家に帰ってきたの?」「いや、どうして?」「ああ、やっぱり入られたんだ」聞くと、家の中の様子がヘンだという。あちらこちらのトビラが開いているという。家に帰ってみると、なるほど普段開けることのない帯戸まで半開きだし、タンスの上段が開けてある。これは完全に空き巣である。息子が借りてきてあったDVDが何枚か失くなっているという。小銭を入れてあった貯金箱の底の栓が抜いてあった。中に幾ら入っていたのかはわからないが、せいぜい千円か2千円程度であろう。被害はそれだけである。わが家に現金など無い。無いから置いてない。娘は家にいないから下着を盗まれるということもない。それにしても敵もさるもの、妻の下着には手もつけてないようだ。それはそうだろう、小錦のはくようなパンツ持っていっても雑巾にしかならない。はるか昔に僕があげたネックレスのケースも開けてあった、しかし盗られてないという。眼の高いドロちゃんだ、安物だということがただちに見抜かれてしまった。リボンさんの家だったら本物がザクザクだろうに…。家を出るときに開けてあったカーテンは全部引いてくれてあった。床も汚れていないから、靴を脱いで上がったのだろう、律儀なドロちゃんだ。しかしだねー、タンスの下のほうには数千万円のタンス預金が入っていたのに…。鏡台の引き出しには、ン十カラットのダイヤの指輪があったのに…。と、言いたいが、情けないことにそんな高価なものはどこを探してもないのだ。せっかく入ってくれても、手間賃にもならず気の毒でまぬけなドロちゃんだ。カードはいつも妻が持ち歩いているから、それも盗まれることはない。持ち歩くのは、万一盗まれたら、わが家の乏しい残高を知られるのが恥ずかしいからという理由だけなんだから、なにをかいわんやだ。僕の家は田舎にあり、知らない人が通ればすぐにわかるようなところなので、勝手口の鍵をしてなかった。していて、ガラスでも破られたほうが被害が大きかっただろう。以前は、猛犬ともいえない犬を飼っていて、勝手口につないであったので少しは安心していた。しかし、犬が死んでしまってからは、まあ大丈夫だろうとタカを括っていた。盗まれたものが息子のDVDとなればきっとアノ系だろう、若いドロちゃんだな。とりあえず、交番に届けて警邏してもらうことにした。「良かったですね、盗られるものがなくて…」と、若いお巡りさんに同情されてしまったが、できれば数億円盗られたと言ってみたかったのに。奧の方から、「どうせなら、ウチの粗大ゴミ盗っていって欲しかったのに」と、聞こえたような気がしたが、空耳? ということで、「小林とむぼ展」の、案内状の制作が遅れて、やきもきするメイルが山ほど入ってくる。いいわけもできず、すっきりとスマートに作りたいのだが、あれもこれもと入れたい注文が多い。もう、見た目よりだいぶ大変なんだから…。皆さんに見てもらえるものをと、必死発止で仕上げた。その傍らでは、「旬」のメンバーが集まり、がやがやと新春号の発送作業に追われている。イライラが募っている僕は、彼らを「うるさいから、向こうに行って作業しろ」と、無慈悲にも寒い部屋に追い払って、ようやく作業が先ほどほぼ完了。さ~て、ようやく身体が空いた。何をしよう。急にカイホウされると戸惑ってしまうなー。とりあえず、家のセキュリティーでも考えよう。あっ、ドロちゃん。何度来てくれてもわが家は貧乏だからムダだよ。それに、今度は鍵をちゃんとしておくからね。見つけたら、お巡りさんに言いつけちゃうからね。ねっ!こんなのでは役に立ちそうもないなー
2005.02.19
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先日、バレンタインデーというものがあったそうだ。今年はありがたいことにチョコレートが一つも届かなかった。(と、スネてみる)。いやー、正直にいうとあまり高価なものを貰っても困る。第一自分の口に入るかと言えば、事務所に訪ねてくるK君などに「ほら、ほらバレンタインデーチョコ」などとちょっと自慢すると、お前がそんなに食べたら身に毒だといって持っていってしまうのだ。きっと、家に帰ってから、「ほら、バレンタインチョコもらっちゃってさー…」なんてつまらない演技でもするのだろう。だから貰ってもどうせ食べるわけでないから、困るのだ。それに、1ヶ月後のことを考えると、なおさら……。とはいっても、義理チョコの一欠片も届かないというのは淋しいのではないか。皆さん、きっと沢山届いて迷惑だろうからと遠慮しているんだろうか、タレントでもあるまいに…。という冗談はさておいて、愛する娘からジャケットが送られてきたんだから贅沢は言えない、もつべきは娘だね。可愛いよ、愛しているよ、娘だったら何とでも言える。その娘も、もう25歳。お肌の曲がりかど、番茶も玉露の一滴だ。なのにもしかしたら、バレンタインデーにプレゼントする相手がいなくて、しかたなく父親の洋服を選んでミエをはっていたのではないだろうか。そういえばデザインがいやに若々しいし、少し袖が長い。ちょっと心配になってきた。 靴だから男選るより慎重に 平野コズエなんて川柳があったが、娘が帰宅しているときに、男選びは車選び、女選びは洋服選びのポイントがコツになるというようなことを話してみたことがある。つまりいい男を選ぼうと思えば、いい車をみつけるチェックを参考にすればいい。 一、丈夫で長持ちすること。 一、事故のときの安全性。 一、必要なときにスピードが出る。 一、しかもブレーキがきくこと。 一、さほど年式は関係のないこと。(あるていど古いくらいが、こなれていていい) 一、居住性がいいこと。 一、燃料をくわないこと。 一、いざというときには、高く売り払うことができる。一番言いたかった「乗り心地」のことまでは控えたが、こういう眼で男を選んでくれたら、親としても安心できる。で話題のついでに、女選びの方も考えてみた。これは洋服選びをチェックポイントにするといいということになった。 一、着やすく、肌ざわりがよいこと。 一、冬暖かく、夏涼しい。 一、新鮮で、外見がいいこと。 一、個性的であること。 一、着用する本人の欠点をカバーしてくれること。 一、さめない、飽きない色であること。 一、多様性があること。 一、少々乱暴にあつかっても、すぐ型くずれがしないこと。もっとも、これは数々の失敗例を体験したり、ごく身近で見てきているから言えること、これらが全てそろった女は、ン十年前のお前のお母さん以外見あたらなかったよ(と、しておこう。コワイから…)。こんな話をトクトクとしているところへ、K君が訪れた。なぜかこの手の話しになると、どこからともなく現れる。「なに、丈夫で長持ち、ブレーキがきいて燃料をくわないだと。アホいうな、こんな男は甲斐性も色気もない、二宮金次郎が腰ぬけになったみたいな奴だよ。男はブレーキがきかず、燃料もガバガバくうような奴が出世するんだ、自分の胸に手を当ててみてもわからんか」と、えらい強気だ。「そういえば一理あるかなぁ」と僕も逆らわないことにした。たしかに、僕は丈夫で燃費もそこそこいいほうだと思っているが、からきし甲斐性がない。それにしても、と思う。近ごろの男女関係は混沌として、女が洋服を選ぶように男を選び、男は車を選ぶごとき感じで女を選んでいるような気がしてならないのだが…。娘よ、お前のお母さんのような撤だけは踏むではないぞよ。 追伸、そういえば一つだけ「これは本命チョコです」とわざわざ断って届きましたよ。捨てる神あれば、拾う神ありで…。いえ、御歳70ン歳の方ですが、もうこうなれば誰でも…。
2005.02.17
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鶴彬(つるあきら)のことは前にも紹介しましたが、昨日今日と「重信川の岸辺から」のsowonさんが紹介してくれています。「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」「高粱(こうりゃん)の実りへ戦車と靴の鋲(びょう)」「屍(しかばね)のゐないニュース映画で勇ましい」などの作品を発表しますが、その直後に治安維持法違反で、東京の野方署に留置され、翌年、赤痢に感染、勾留を解かれないまま病院で亡くなります。特高に虐殺された小林多喜二と同じ享年29歳でした。 健康そのものだった鶴彬が、検挙されて間もなく獄中で赤痢にかかったわけですが、赤痢菌を注射されたという疑いが強くもたれています。凶作の村から村へ娘買ひ塹壕で読む妹を売る手紙みな肺で死ぬる女工の募集札修身にない孝行で淫売婦など、当時の世相を鋭く捉え、このような句を書いただけで拷問を受け獄死しなければならなかったわけです。あとは今日のsowonさんの日記でお読みください。
2005.02.16
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今日から木曽の山口村が、中津川市と合併し消滅することになる。合併というが、事実上は中津川市に吸収併合されたにすぎず、身売りした格好だ。この経緯については、すでにさまざまな形で語られてきたので今更蒸し返すようなことはしないが、島崎藤村の「夜明け前」を生んだ木曽・馬込宿として親しまれてきた地域だけに残念でならない。もちろん、信州から岐阜に観光資源をひとつ取られてしまうなどという、小さなことを言っているのではない。平成の大合併は、ひとつひとつの行政単位を大きくして行政の効率化をはかることが一義にあげられているが、事実上は市町村を減らし国の地方交付金を減らすことが主目的だ。ようは、“無い袖は振れない”ということだが、「交付金を減らしたい」と言わずに効率化だけを言うから余計な混乱を持ち込むことになる。お金がないなら、無いなりの方法を考えればいいのである。効率化志向は文化にとってはとんでもない劇薬となるのだが、そのことにあまりにも無頓着ではないだろうか。一見、ムダごとこそが文化で、文化こそが人々に生きる力を与えるということが、なぜ理解できないのだろうか…。生産効率だけを考えるなら、一軒家を捨てさせ、みんな集合住宅に住まわせ、団地と併設して工場地帯もつくればいい。農業も国家的に管理し、地域にあった作付けをして分業化すれば効率があがるだろう。実は、こうした方法は自動車や家電などに代表される工業分野では地球的規模ですすめられている。その結果、安くて高品質な製品が生み出されることにはなったが、ニートやフリーターと呼ばれる、大量の将来の失業者予備軍を生み出している。いま高成長に浮かれている中国など(文字通り)発展途上国も、やがて深刻な矛盾と直面してゆくことになろう。小さな自治体には、長い歴史の中で育まれてきた文化があり、それにより地域が有機的に保たれてきたものがたくさんある。長野県境の交通不便な村々には、実に味わい深い伝統芸能やコミュニティーがある。それらが、ここ10~20年ほどの間に危機的状況に陥っている。経済的効率化とは、ムダなものを捨てるということだ。ムダこそが文化の原点だという視点を忘れては、いずれ日本全体が自分たちのアイディンティティを失い、無味乾燥した社会に変わってしまうことになるだろう。山口村の中津川市への吸収併合は、その始まりの一歩だと思う。
2005.02.13
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僕は青春時代に、自分の若さというものを憎んでいたのかも知れない。今、思い返してみても20歳代の頃の自分は厄介なものだったと思う。冬から春への脱皮に、どうしてこんなにも手間がかかったのか。小椋佳の「シクラメンのかほり」の歌詞のように、身構えながら話す憶病さがいつも身に付いていた。そのくせ、人恋しくていつも誰かに片恋していたような気がする。この年代になって、冬から春にむかう季節には、青春とひき替えに、僕には何にものにも替えがたい宝物のようになった。花が咲き、緋もうせんの上で空を見上げながら花見ができたら、大抵のことを捨ててもいい。その怠惰な時間は何ものにも替えがたいと思いながら、そんな時間が持てるのは、せいぜい年に1、2回のことである。この数年、遠くから高遠公園の桜を眺めることを欠かしたことがない。青春時代には、花のピンクがまぶしすぎて、避けて歩いたような気がする。いや、見るのが怖かったのかもしれない。清楚な少女のように咲いた花びらが、やがてひらひら舞い落ちる頃になると、にわかにあらぬ妄想が湧き起こり、妄想の中でなんども少女を汚してしまう予感がした。そんな妄想の快感に酔いながら、妄想に翻弄される不潔な自分を憎んでいた。好きだった女の子とすれ違うとき、妄想の中味を見透かされているようで、視線を避けて足早に通り過ぎた。馬鹿なことをしていたものだ。いつしか眼に入る景色が普通のものになり、花の季節などに興味をもつことも忘れ、人並みに恋をして青年から中年の時代を過ごした。そして、この頃になって、あらためて花の下がいいなと思う。公園からすこし外れた土手に腰を下ろし、ワンカップを舐め、イカの足を囓りながら花を見つめる。運のいい時には、コップの中に花びらが入ってくる。泣きたいような一瞬だ。その頃は、桜の花は春の陽気にかすんで、眠気を誘うが、夕なずむ花を見ていると、なにか妖気がこもっているようで、背筋がゾクゾクっと寒くなるような時がある。このゾクゾクのときがまたいい。できれば隣に女ともだちでもいて、ほのかな熱を寄せあえればこれ以上の贅沢はないだろう。酔ってその人の膝枕とまではいわないが、時間がほんの一瞬でもそこで止まってくれれば、その時間は極楽になる。若かったあの頃、春を前にして悩んだり、自分を憎んだり、それなりに苦しんだりしておいて、本当によかったと思う。それがあったらこそ、今のように、春を楽しむことができると思うからだ。春を待ち遠しく楽しむことができるのだ。今、人生の半ばも越えて、自分がとしを取ったとは思わないが、一つだけはっきり思うことがある。それは、春になると、あと何年、こんな気持で花見ができるかなということである。なにも人生を悟った気持ちで言うわけではない。ただ、春という季節が、自分の中で、だんだん大事なものになってきているのは確かなのだ。よくいう、花は桜木、人は武士というのは好きじやない。そんないさぎよさは僕には向かない。ダラダラと、桜咲く季節を大切に生きたい。 この春には、「小林とむぼ作品展」を当地で行われるのを機に、4月24日に銀河集会(オフ会)を計画しました。どうぞ、ご予定を!
2005.02.11
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荷物が届きました、息子にとられてしまいそうな若々しいジャケットです。Bに一足早いプレゼントということらしいのです。alex99さん同様、いやalex99さんのような女性遍歴のまったくない僕は、女性からプレゼントを貰うなどということはあまりありません。せいぜい年に数回、お酒とか…、衣類とか…。僕の服装のセンスが悪いのはこのプレゼントのせいです(なんてこと、ないよ)。ということで、衣類をプレゼントしてくれるということは、僕の身体の構造をある程度知っている人ということになります。ちなみに、ここ数年妻が僕の衣類を買ってきたことはありません(まぁ、忘れられても無理がありませんが…)。ということで、少し離れて暮らしている娘からのプレゼントなのです。(もちろん、娘だって小学校5年の冬休みに一緒に風呂に入ったのを最後に、知らないはずですよ)親代々の挨拶下手といいましょうか、僕の血筋は身内同士に対して「ありがとう」とか「ごめんなさい」という、基本的な言葉がすなおに表現できない家庭でした。これは、生家が村の庄屋という(貧乏な)旧家だったこともあって、家長は挨拶をされてから応えるという因習(?)が身についていたのです。僕も身内に対しての表現がどうも下手なんです。「愛している」などと言う言葉は結婚以来、玄関から中では使ったことがありません。ところが、子どもたちの代になると、これが僕の子どもかと思うほどすなおに言葉を使っています(本当に、僕の子なんだろうか?)。このすなおに「ありがとう」とか「ごめんね」とか口にできることは、我が子ながら、いいなと思います。でも、僕が教えたわけではないんですね。何かあって謝る、あるいは特別なにがなくても、自分から「ごめんね」って、すぐ言えることは、素敵ですし、親として羨ましいと思うことがあります。もし僕がこの素直さで「ごめんね」って、過去に何度か妻に言えていたら、今頃、少しはいい夫でいられたことでしょう。死ぬときには、ぜひまとめて言いたいと思っています。われわれから上の世代は「謝ることは男らしくないこと」という錯覚がありましたが、alex99さんは楽天のなかでときどき「ごめんね」と素直に言っています。これも目から鱗でした。実際には「ごめんね」と言えることは、とても勇気がいることですね。これを素直に言える人は勇気のある人だと思います。自分が間違っているとわかったら、すぐ素直に謝ることができる。これは、大事なことだと思います。何が悲しいといって素直に“その一言”が言えなかったがために、大切な人を失ってしまう、これはとっても悲しいことではないかな。僕も、何度そのチャンスを逃してきたことでしょう。今では、すこし素直になりましたから、娘に携帯で「ありがとう」と言いました。ついでに、「ジャケットに合うズボンも欲しいなー」と付け加えて…。サッカー・北朝鮮戦日本が勝ったんですね! おめでとう。でも、この試合内容、きわどいねー。向こうに行ったときどうなることやら…。まっ、ともかくおつかれさま。
2005.02.09
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中央アルプス・西駒ヶ岳に降り積もった雪が少しずつ溶け、何年もかかって地中をくぐり、中腹に湧きだしているところがあります。それらを集めて小黒川という清流となり市内に流れ込んでいます。僕等のグループで市内の河川の水質調査をしたことがあります。そのときのデータでは、小黒川の下流部でさえ市営水道の水より良い結果がでています。 ちなみに、市営水道の水も都市部の水と比べたらはるかに美味しく生でがぶ飲みしても腹をこわすということはありません。無数の伏流水を集める小黒川の水は、それよりもむはるかに美しく、また地下の岩石をくぐり抜けるあいだにより磨かれて地表に現れるといいます。その中でも、一ヵ所だけミネラル分が多く含まれるという湧き水があります。昨日は、その水を汲みに行ってきました。 この泉が流れ込む先は小さな湿原になっていて、春には沢山のガマ蛙が集まり乱交パーティーをしています。春蘭なども群生していますから、動植物にも好まれている水なのでしょう。昔々、この近くには三滝という修験場があって、行者が修行をしていたそうです。行者が伝えた蕎麦の種を地域でつくるようになって、信州蕎麦が生まれ広まったということになっていますが、このての伝説は各地にありますから、真偽のほどはわかりません。道すがら、猿やリスなどの動物がひなたぼっこをしています。その付近からは、南アルプスの山並みがきれいに望めますが、きむちゃん216さんのサイトで紹介していますので、そちらで見てください。ということで、水の由来を書きましたが、なぜ書いたのか、わかる人だけにわかるごく内輪のレポートでした。
2005.02.07
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皆さんご心配なくちゃんと生きておりますちょっとやりあげなければならない事が山積していますあまり更新しないと死んだと思われてしまいそうですからとりあえず書き込みをします片付けをしていたら古いノートがでてきました文学青年をきどっていた頃の雑記帳ですパラパラと捲ってみたらこんな詩を書きつづってありましたとんと記憶にありません自分で書いたのだろうか誰かの詩を書き写したのだろうかまだ川柳に手を染める前ですから情けないほど甘ったるい言葉で埋められています* かつて僕には恋人がいた牧歌的な風景のなかで僕は君を見つめ君は僕を見つめていたあの頃僕たちはどんな話をしていたのだろう六月の雨のなか花菖蒲の小道を歩きながらどんな夢を語りあったのだろう夏の日山の上の公園へむかった僕の中古の愛車にはクーラーがついていなかったから蒸風呂のように暑かったけれど化粧のくずれを気にしながらも君は不平ひとつ言わなかったあの頃僕には君がふさわしく君には僕がふさわしかったしかし いま僕のそばに君はいないあの頃の僕たちの赤い糸はどこで切れてしまったのだろうそんなことを思いながら僕は真冬の寒さにふるえている真夜中にしんしんと降る雪を見ている僕はいま愛が欲しい暗闇を照らす明かりのような春の雨のようにしめやかな静かに互いを高めあうそんな愛が欲しいいぬ
2005.02.05
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俺の言葉に泣いた奴が一人俺を恨んでいる奴が一人それでも本当に俺を忘れないでいてくれる奴が一人俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれる奴が一人みんな併せて、たった一人 宅島徳光「くちなしの花」宅島徳光は慶応大学の学生でしたが、第13期海軍飛行予備学生、いわゆる特攻隊に招集され終戦の直前、24歳で死にました。昭和20年4月、本土から出撃したものです。敵艦とあう前に海上で墜落したのか、艦砲射撃で墜とされたのかは定かでありません。しかし、犬死だったといって過言でないでしょう。彼は、恋人につぎのような手紙を書いて旅立ったため、一部では憂国の戦士のようにいわれていますが、実は恋人のことを誰よりも深く愛し、涙でこの別れの詩を書いていました。惜別の辞はっきり言う。俺はお前を愛している。しかし、俺の心は、今ではお前より大切なものを蔵するようになった。それはお前のように優しい乙女の住む国のことである。俺は昨日、静かな黄昏の田畑の中で、顔も見えない遠くから、パイロットの俺たちに頭を下げてくれた子供たちのいじらしさに、強く胸を打たれた。もし、それがお前に対する愛よりも遙かに強いものだといったら、お前は怒るだろうか。否、お前は俺の心を理解してくれるだろう。ほんとうに、あのように可愛い子供たちのためなら、命も決して惜しくはない。自我の強い俺のような男には、信仰というものがもてない。だから、このような自分の感動を行為の源泉として持ち続けていかねば生きて行けないことも、お前は解ってくれるだろう。俺の心にある、この宝を持って、俺は死にたい。と手紙には書いたのですが、実は涙にかすれた上の詩がそっと遺されていたのです。誰にでも本音と建前はあり、きれい事と塗炭の言葉があります。自分のために生き、自分のために死ぬ、こんな単純な願いが叶う世界であって欲しい。それが、恋人の幸せでもあるのですから…。勝手ながら、事情がありまして皆さんのところになかなかお伺いできません。サイト更新もとぎれるかも知れません。あしからず…。風を引かないように…。
2005.02.02
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西欧男性と日本女性とのあいだにしばしばゆき違いを生じさせるものに飲酒があるそうだ。洋画のシーンでよくあるが、男の部屋(あるいはその逆)で、女性に「Is anything drunk?(何か飲みますか?)」などと言い、しばらくあとにはたいがいラブシーンへとすすむパターン。僕は映画だからの必然性だと思っていた。西欧事情に詳しい人に聞いてみたら、西欧では、たとえば男が一人で住んでいる部屋を女性が訪ねて、一緒にワインでも飲めばそのあとのベッドを約束したものと見なされるということだった(本当?)。僕は、コミュニケーションに酒が入るのは日常的なのだが、そのたびにフルコースをおつき合いしていたら、とても身がもたない。日本人でよかった(残念だという気持もすこしはあるが…)。そういえば、以前に外国人の女性とワインを頂き、そのまま帰したのだが、あれはとっても失礼なことだったのだろうか?「It was happy tonight」とサッサと帰っていったのだが…。リンク友だちには外国暮らしに慣れた方々がいるから、お訪ねしたい。「えー、西欧人男性とお酒をご一緒したことありますか? そのあとは…?」外国を飛び回っているscot五郎さんやalex99さんなどはきっと、お酒がなくてもそんなコミュニケーションが頻繁だったことだろう、と推察するが、さて…。この近郊にも温泉施設がたくさんできて、入浴にいくと外国人入浴客と混浴?することがある。近郊に青年海外協力隊の訓練施設があるので、西欧からも青年たちがきているのだ。みんな日本の習慣を理解して、堂々としている。(何を?って…、カマトト)江戸時代での銭湯は混浴だったから、文字どおり老若男女が一緒に入っていた。黒船に乗ってペリーが日本に来たとき、この習俗を“日本人は淫乱な人種”と記しているそうだが、そんな見方こそ淫乱だと思う。だいいち、西欧人はクワハウスを淫乱の場として利用しているのだろうか。昔は、人前でキスをする行為のほうが淫乱だと思ったのだが、今では日本の若者にもよく見られるようになったから、やはりこれは、習慣として定着してきたのだろうか。日本種は外来種に弱いからなー。このように土地土地の習慣によって、文化はさまざまに変化するし、人の生き方によっても見方が変わるのは当然だ。多様な文化が、多様な価値観によってゆるやかに共存できることが、いちばん幸せなんだろうと思う。この楽天内でも、意見の異なる問題になると見境なく噛みつく駄犬がいるが、狭量ぶりを晒して、ホント気の毒なことだと思う。えー、ところであなた。こんど僕の部屋でワインでもご一緒しませんか。(ちがう、ちがう。手をあげたのはむくつけき男ばかりとは…)
2005.02.01
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