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いま、半世紀を生花ひとすじできた人の、50年の仕事をまとめた本をつくっている。生花にもさまざまな流派があるが、結局のところはいかにその花のもっている自然の美しさをひきだすかだろうな、と写真を眺めながら編集にいそしんでいる。この人の本も年内に発行してあげなければならない。といいながら、ちらっと眼にとまった本にあった、青山俊薫さんの言葉が気になった。青山俊薫さんなどと気軽に書いているが、5歳のときに長野県塩尻市のお寺に仏門に入った尼僧で、いまは愛知県にお住まいで、有名人でもある。短い文章なので紹介したい。鬼は私 仏も私その人の顔を見ただけでうれしくなってしまう人がいる。その人がそこにいるというだけで、心がやすらかになる人がいる。その人が部屋に人ってきたというだけで、イライラした気分になってしまう人がいる。その人が仲間に加わったと間いただけで、みんなを暗い気分にする人がいる。ちょっと待って! それは私のこと。私の中にも同じ思いが動いている。あっという間に仏さまも飛び出せば、鬼も飛び出す。私の中の仏が相手の中から仏をひっぱり出し、私の中の鬼が相手の中の鬼をひっぱり出しているだけ。「福は内、鬼は外」なんて、他人事みたいに叫んでいるけれど、それは私のことだったんだ。冷たい雪の中で静かにほほえんでいる節分草を見ていると、そのことに気づく。はい、反省!
2005.11.30
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当然の事ながら、宮沢賢治もひとりの男であり生理としての性欲もあった。賢治は性に対して自律的であったが、それゆえに好奇心も強かった。性にたいする欲望は無理に抑えれば抑えようとするほど高まるものだ。性欲を封印することは欺瞞であることは賢治もこころの中で意識はしていたが、しかし賢治は、自らの宗教観と、妹・トシを通して描く清らしく純潔であってほしい女性観をもっていた。しかし、自らの意志とは関係なく、内から湧き出る欲望にはしばしば眩惑されていた。迫り来る性欲に耐え難くなると、ペンと紙をもって詩を書き殴った。果たしてペンで性欲を抑えることができたのであろうか。賢治は親友の藤原嘉藤治にこう語ったことがある。「性欲の乱費は、君自殺だよ、いい仕事はできないよ。瞳だけでいいじやないか、触れてみなくたっていいよ。性愛の土壇場までいかなくてもいいのだよ。(略)おれは、たまらなくなると野原へ飛び出すよ。雲にだって女性はいるよ。(略)君、風だって、甘いことばをささやいてくれるよ」 (森荘已池『宮沢賢治の肖像』)森佐一は、賢治が性欲に襲われた時「手帳とペンシルとを持って、夜でも暁でも、たちまち気圏の底に、ぽとしぎ(よだか)のように飛び出すのであった」という。 (森・同書)確かに、賢治の詩には性欲を「自然」に対するものへと変形・昇華させたものが多い。 第四梯形 青い抱擁衝動や 明るい雨の中のみたされない何か きれいにそらに溶けてゆく 日本の九月の気圏です 一本木野 わたくしは森やのはらのこひびと 芦のあひだをがさがさ行けば つつましく折られたみどりいろの通信は いつかぽけつとにはひつてゐるし はやしのくらいとこをあるいてゐると 三日月がたのくちびるのあとで 肱やずぼんがいつぱいになるただ、後年の賢治はそうした考えを少しづつ変えてゆく。昭和六年、賢治は森にいう。「禁欲は、けっきょく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病気になったのです。(略)何か大きないいことがあるという、功利的な考えからやったのですが、まるっきりムダでした」 (森・回書)性欲を他のものに転化しようとして、しかしそれがムダであったと賢治は述べている。男にとって、女性の生理同様に少年期から青年期の性欲は抑えようとしても、こころのなかだけで抑制できるものではない。恋人によって満たされる男はごくまれな存在で、ほとんどの男は鬱々と性描写のある雑誌や写真(現在ではAVやグラビアか)をたよりに、妄想の中で自らの欲望をやりすごしている。トシがこころのなかにあるうちは賢治は、そうした手法にたよることを拒否していた。賢治の描く理想の女性として、妹のトシが前提にある以上、自らを汚すことは妹への冒涜ともとっていたのだろう。トシの死後、一年あまりたってようやく、禁欲的であることへ解放のきざしが見え始める。トシ以外の女性を意識しはじめたのである。 昨夜は「信州岩波講座」伊那版の準備会で、岩波書店の専務取締役だった今井さん、信州大学の学長だった森本先生、博報堂役員だった山岸さん等と二次会まで議論・痛飲。みなさん、僕より1回り2回り年上なのにもかかわらず、活字文化の再生論になると少年の瞳を輝かせ、まことに元気。これらの人たちと力をあわせて、活字文化を再生させる試みにチャレンジしてゆきます。南信・木曽(まもなく近くなります)の方で、仲間に入ろうという活字好きの元気な人募集します。お気軽にメールください。
2005.11.28
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姉歯建築士(千葉県市川市)、こんなのが1級かよ。とにかく彼と、熊本県の木村建設(熊本県八代市)という最悪コンビが建てたホテルがわが町にもあるということで案じていたら、案の定だった。このホテルの構造計算書も偽造だったことが明らかになって、にわかにホテル周辺が賑やかになった。このホテルはまだ新しく、当市では最大規模、しかも宿泊料が朝食付き5000円台からと安いので人気があった。このため、小さなホテルが何軒か営業閉鎖に追い込まれた。僕はあまり都会都会した宿は好きでない。しかしそれでも遠くから訪れた友人を泊めたことが何度かある。街で飲んだあと、送り届けるのにラクだというのが理由だったが…。それが、コレである。当然のことながら、このホテルの営業は休止されるだろう。補強工事をするのか取り壊されるのか…、こうした大きな建物が何かの理由でつまづいたときは、街にとっても一気に危機が訪れる。経済のことではない、それまで街の中心的機能を担っていた場所が、突然スラム化する畏れがあるのだ。スラム化しないまでも、街としての目立つ場所が皮膚癌のように壊死するわけだから、はなはだバランスが悪くなる。こうした現象はデパートなど大型店が、なんらかの理由で撤退したときにもよくおこる。日本各地の、中小都市を訪れるとよく感じることだが、シャッターが閉じられたまま閑散としている大きな建物や、閉鎖されたコンビニ跡などをみかけるが、あれは街をとても寒々とした風景にしている。効率・機能ということで、何でも大型化したり集約化したりするが、そうした施設は動いているときには快適であるかも知れないが、いったん躓くと再生不可能な都市システムとなる可能性がある。たとえば、上下水道や電気などライフラインといわれる施設はことにそうだ。ひとつの街すべてを賄うような終末処理場も、都市に水を供給するダムも、原発などにたよる電力も、そこで何らかな重大事故が起これば、そのシステムにたよる都市機能は壊滅的な打撃を受けることになる。今まではたまたまウンが良かっただけだ。コンクリート構造物の寿命は50年から60年といわれている。昭和30年代以降に、急激に日本国コンクリート列島に邁進してきたわれわれだが、これからつぎつぎに寿命さしかかってくるわけだ。今まで元気だったオジサンが勃起不全になるどころの話ではない。寝たきりか、はては老衰を迎えるのだ。元気な人がいつまでも元気でありつづけられるわけがない。これは何事にも通じる。かつて日本列島を不沈空母だといったおバカさんがいたが、われわれ団塊の世代が消え去ってしまう頃、日本コンクリート列島そのものが長崎の「軍艦島」のようになってしまうのではないだろうか。
2005.11.25
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音彦さん>Mドングリさん>トシさんといえば、アメユジュトテチテケンジャ>という呪文のような…はじめまして。音彦といいます。花巻に生まれ育つ者です。当地でも授業で音読したのですが、上手い子は普通の会話の様にその呪文を読みますよ~。方言を話すように書き表すことって難しいんですよ。その「アメユジュ~」もちょっと感じが違いますもん。でも、呪文ですか(^_^;)ははは・・Mドングリさんが呪文のように感じた言葉はトシが賢治に向かって言った「あめゆじゆとてちてけんじや」は、岩手・花巻の方言で「雨雪とってきて下さい」ということばです。次に、この言葉のでてくる詩を紹介しましょう。 永訣の朝けふのうちにとほくへいってしまふわたくしのいもうとよみぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ (あめゆじゆとてちてけんじや)うすあかくいっそう陰惨な雲からみぞれはびちよびちよふってくる (あめゆじゆとてちてけんじや)青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついたこれらふたつのかけた陶椀におまへがたべるあめゆきをとらうとしてわたくしはまがつたてつぽうだまのやうにこのくらいみぞれのなかに飛びだした (あめゆじゆとてちてけんじや)蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲からみぞれはびちよびちよ沈んでくるああとし子死ぬといふいまごろになってわたくしをいつしやうあかるくするためにこんなさっぱりした雪のひとわんをおまへはわたくしにたのんだのだありがたうわたくしのけなげないもうとよこの賢治の詩の中にでてくる(あめゆじゆとてちてけんじや)病臥にあり、熱の中にあった妹に「あめゆじゆとてちてけんじゃ」(雨雪とってきて下さい)と頼まれた賢治は、「まがつたてつぽうだまのやうに/このくらいみぞれのなかに飛びだした」。妹の死に臨んで、兄としてのいたわりは、その悲しみを浄化できたのだろうか。妹トシの死 トシが病臥していたのは、八畳の部屋で、窓が高く小さく、暗く陰気で、その上すきま風が入るので、一年中屏風を立て、蚊帳をつるしていた。七月に下根子、桜の別宅へ移った時は、暗さからの解放感にトシもほっとしたが、寒さや道の悪さ、食糧運搬の不便さなどから11月19日に自宅の病室へ戻ることになった。トシは、あっちへいくとおらあ死ぬんちや。寒くて暗くて厭な家だもな」とつぶやいたという。トシの予感どおり一週間後に死を迎えることになった。27日は朝からみぞれの降る寒い日であった。看護婦がトシの脈をはかると、10秒に2つしか打たない。知らせを受けた賢治は、すぐ医師に連絡したが、医師は危険な状態であることを家人に告げる。家中が緊張している中、トシはみぞれを兄にとってきてもらって食べ、そえられた松の針で激しく頬を刺し、「ああいい、さっぱりした。まるで林のながさきたよだ」と喜ぶ。父は思わず、「とし子、ずいぶん病気ばかりしてひどかったな。こんど生まれてくるときは、また人になんぞ生まれてくるなよ」と慰めるのだった。トシは「こんど生まれてくるたて、こんどはこたにわりやのごとばかりで、くるしまなあよに生まれてくる」(こんど生まれてくるときは、こんなに自分のことばかりで(皆が)苦しまないように生まれてきます)と答えるのだった。夜、母の手で食事したあと、突然耳がごうと鳴って聞こえなくなり、呼吸がとまり、脈が打たなくなる。賢治はトシの耳もとへ口を寄せ、南無妙法蓮華経と大きな声で叫ぶ。トシは二度うなずくようにしてから、息をひきとった。午後八時半である。賢治は押し入れをあけて頭を突っ込み、おうおう泣き、母はトシの足元の布団に泣きくずれ、シゲとクニは抱き合って泣いた。岩田ヤスが「泣かさるんだ、泣かさるんだ」(泣くのはもっともだ、泣いた方がいいんだ)といい、母は「ヤスさん、トシさんをおよめさんにしないでくやしい」と号泣した。やがて、賢治はひざにトシの頭をのせ、乱れもつれた黒髪を火箸でゴシゴシすいた。賢治は「松の針」でほんたうにおまへはひとりでいかうとするかわたくしにいつしよに行けとたのんでくれ泣いてわたくしにさう言ってくれといい、「無声慟哭」では、信仰を一つにするたったひとりのみちづれのわたくしがあかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふときおまへはひとりどこへ行かうとするのだと歌っている。歳も近く、家族の中で異端な生活を送っている賢治にとって、たった1人の理解者であり、恋人以上の存在だった妹を喪ったという、悲嘆の叫びが伝わってくる。布団をかぶって号泣したという賢治が、詩の題名をあえて「無声」としたことの意味も考えてみるべきだろう。賢治はその後の半年間、詩を書かなかった。そして、翌年六月に書いた「風林」では、とし子とし子野原へ来ればまた風の中に立てばきつとおまへをおもひだすと書き、「白い鳥」では、二疋の大きな白い鳥が鋭くかなしく啼きかはしながらしめった朝の日光を飛んでゐるそれはわたくしのいもうとだ死んだわたくしのいもうとだ兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐるとまで書いている。賢治にとって妹トシがどれほどかけがえのない存在だったのかがわかる。(資料・『校本全集』第一四巻、山内修編著「宮澤賢治」)
2005.11.24
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亡くなった友人の家族から、友人の書籍を貰ってくれないかという申し出があった。出かけてみると、大きな書架2つに全集や文芸ものなどゆうに2、3000冊以上はあろうかぎっしりと詰まっている。彼は多趣味だったが、とくに文学には造詣が深かった。家族によると本代だけはどんなに貧乏してもケチらなかったという。作家の署名入りの本も数十冊はあろうか、しかし残念なことに全体に薄黄色くなっている。彼はヘビースモーカーだった。健康のために禁煙するくらいだったら死んだ方がいい、“肺癌で死ねたら本望”というのが彼の美学だったが、肺ガンでなく血管系で死んだ。これとて無関係ではあるまい。僕など買いたくても、つい買えなかったものもあったが、手にとって見ているうちに個人でもらうのが惜しくなった。これをまとめて、どこか公的な場所に置けないものだろうか。必要なときに、誰でも借りられることができる場所で、引き受けてくれないだろうか。そのようなことを考えて、家族に提案した。Mさんにお任せしますから、考えてみてください。家族がもっていても宝のもちぐされです、からという。皆さんに、良い知恵があったら教えてください。僕も、こころあたりにあたってみるつもりですが…。
2005.11.20
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賢治が女性を見るときには、常に妹のトシの存在がフィルターのように存在している。岩手病院で、看護婦・高橋ミネに恋したときは18歳、男にとってもっとも異性を求める年代である。いうなれば看護婦という職業を離れた高橋ミネがどんな性格で、どんな人柄であったとしても、容姿やナースという特殊な設定だけで、まだ少年の残る賢治にとっては理想の女性と映ったのであろう。しかし、少し冷静になって女性をみたとき比較するのはやはりトシの存在だったろう。トシは賢治のすぐ下の妹であったが、幼い頃から優れて利発で家族からも愛されていた。賢治さえ上級学校(大学)への進学が認められなかったのに、トシは日本女子大に進学している。日本女子大は、当時の子女の進める学校としては最も上級とされていた。しかし、トシにとって大学は必ずしも自分の考えるような理想の学舎ではなかった。自分の思いとのギャップの悩みを賢治に相談している。賢治がトシを(妹として)愛しむように、トシもまた兄・賢治を慕っていた。賢治の、この妹に対する接し方はまるで恋人かそれ以上であったとも言われ、そんなところから近親相姦説までとる研究者があるほどだ。しかし、賢治のトシへの“想い”は純粋に無辜のものだったろうし、自らそう思いこもうとつとめていたフシがある。悪戯好きで、ある意味で腕白だった賢治が、初恋に破れて以後はあまり女性に興味を示さなかったかに見える。子供の頃から仏教への信仰心に厚かったため、賢治に真面目で堅物な人物像を結びつけて語られることが多いが、当然ながら賢治の女性観はこのトシへの想いと無関係ではない。後年、教師時代になると、賢治も春画や性書に興味をもっていたエピソードが友人等によってしばし語られている。トシの存在がなければ賢治も普通の男だったはずだ。賢治が、妹・トシへ抱く想いは、当然ながら男としての欲望とは遠ざけて考えなければならなかった。それのよすがが、信仰であり、倫理観であり、トシの死後しばらく賢治がとらわれつづけたトラウマでもあろう。妹のトシは病弱で、日本女子大を欠席気味であったが、優秀な成績を認められて特例の卒業を許されている。大正9年9月、母校花巻高等女学校教諭心得となり、英語と家事を担当していた。翌年の4月、校長から依頼され、上京して女子大のつてを頼りに教員捜しに歩き回っている間に風邪をひき、それ以後再び病臥の身となった。(佐藤隆房『宮沢賢治』)8月、東京にいた賢治はトシ病の報を受け帰郷するが、トシの病状は一進一退のままだった。賢治が郷里花巻の農学校に就職した頃のことを妹のシゲは次のようにいう。「兄は、学校から帰ると、いろいろ学校のできごとを、としさんの病床で面白おかしく話しておりました。思いがけなく髪をのばし、油もつけたり、茶目っ気が出てきました。としさんの病気や父との口論で、まるで暗かった家の中が明るくなり、家中が何となくくつろいだ気持ちになりました」(森荘已池『宮沢賢治の肖像』)妹が病気だといって、東京から帰ってきて郷里に職場を求めてしまうのだから、賢治のトシへの“想い”はやはり相当のものだったのだろう。この頃の詩に「恋と病熱」がある。 けふはぽくのたましひは病み 鳥さへ正視ができない あいつはちやうどいまごろから つめたい青銅の病室で 透明薔薇の火に燃される ほんたうにけれども妹よ けふはぼくもあんまりひどいから やなぎの花もとらないこの詩に「恋と熱病」と名付けた真意はなんだろう。「松の針」には、 おまへがあんなにねつに燃され あせやいたみでもだえてゐるとき わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐたとある。「ほかのひと」とは誰かなのかはわからない。しかし、ほかのひとのことを考えることを、トシへの裏切りの気持と重ねているところに、賢治の妹への複雑な想いの深さがある。
2005.11.16
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中学(今の高校にあたる)を卒業した賢治は、その四月、鼻炎の手術をした。手術後、高熱がつづき、発疹チフスの疑いがあるということでその治療のため、入院生活がつづいた。このとき、すでに肺結核の初期症状が現れていたのではないかとも言われている。賢治の看病にあたっていた父もまた倒れ、賢治とともに看病を受けている。賢治は、このとき自分のために倒れた父への負い目があり、それが賢治の進路にも微妙な影響を与えて行くことになる。それはともかく、入院中のこのときに賢治は片思いの初恋をする。賢治の初恋の相手は岩手病院の看護婦であった。 十秒の碧きひかりの去りたれば かなしく われ はまた窓に向く可愛いではないか。賢治の片恋の相手は、賢治の手首を手にとり、彼の脈拍を十秒だけ数えるということだけなのであるが、賢治にとってその十秒は天にものぼらん心地だったのだろう。2ヶ月近くの賢治は五月末頃に退院。その後、上級校への進学を父親に認められず、家業の店番、母の養蚕の手伝いなどをしながら、悶々とした日々をおくる。賢治の初恋の相手は岩手病院の看護婦であったが、退院してからも彼女のことは頭から去らなかった。 桑つみて きみをおもへば エナメルの 雲はてしなく 北にながるゝ きみ恋ひて くもくらき日を あひつぎて 道化祭の山車は行きたり 神楽殿のぼれば鳥のなきどよみ いよよに君を恋ひわたるかもこの看護婦について、賢治と同じ当時18歳の高橋ミネさんという人だったという説がある。ミネは岩手県紫波郡日詰町の出身で、この人と結婚したいと、退院してきた賢治が父母に話したとき、父は、「まだお互いに若すぎる……」と、許可しなかった。その後、「あれはひどく早成なところがあって、困ったんじゃ……」と、嘆いてみせた(川原仁左衛門・著『宮沢賢治の肖像』)この説に対して佐藤勝治氏は反論している。「高橋ミネさんは当時確かに岩手病院に勤務してはいたが、何よりも年齢が違う。賢治は「同年」といっているのにミネさんは明治26年7月生まれ(賢治は29年8月生まれ)、それに賢治は翌年の春、高農入学後に再び岩手病院を訪ね、もう一度その看護婦にそれとなく遭っているのだが、高橋ミネさんは賢治の退院後まもなく、新設の札幌鉄道病院に長期出張していて、再び岩手病院を訪ねたときは既にいなかった」 (「火のごとくきみをおもへど-文語詩「丘」解説・賢治の初恋」)しかし、賢治の初恋がこの岩手病院であり、そこの看護婦であったことは事実で、高橋ミネという名前であったのかどうか、名前が特定されなくてもいいだろう。賢治の想いに相手の女性が応えたという記録はない。想いに気付いたかどうか、看護婦が患者の脈をとるのは仕事のひとつであって、脈をとるたびに患者がときめいていても、それに応えているわけもない。この恋について賢治は「文語詩篇」ノートに(初恋)と記しており、文語詩「公子」の下書稿1では次のように表現している。 父母のゆるさぬもゆゑ きみわれと 年も同じく ともに尚 はたちにみたず われはなほ なすこと多く きみが辺は 雲のかなた わが父は わが病ごと こたびの いたづきを得ぬ 火のごとくきみをおもへど わが父にそむきかねたりその他にもこの初恋を歌った文語詩がいくつか残されている。それだけ、賢治にとってはこの恋は強くこころに残り、大切な経験であったということだろう。
2005.11.15
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荒井徹さんの葬式には、彼の好きだったフラメンコギターの調べが流れ、みんな終始穏やかな笑顔を浮かべていた、ように見えた。しかし、誰かが一言彼の破天荒な想いで語り出すと、「バカだなー」、といいながらみんな目が潤んでいた。口々に、「なんて要領のいいヤツだ。自分だけみんなに泣いてもらって…、香典ドロボウ」などと、悪口を言い合った。たまたま会葬にきた見知らぬ女性がいると、「オッ!」という顔をして勝手な妄想をしあっていた。もう、あそこには僕に思いきり悪態をついてくれる荒井徹はいない。 「旬」は製本所に入ったまままだ出てきません。今週末か来週には発送できる予定です。
2005.11.14
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川柳の仲間が死んだ。今、僕が代表をしているグループの創立会員のひとりだ。とてつもない我が儘な男だけれど、とてつもなく味わいのある男だった。今夜が通夜。明日には葬式。彼の遺言で、派手な葬式はせず彼の店で行う。葬式の後は「精進落としは、俺の悪口を肴に楽しくやってくれ」という、遺言を果たしてあげなくばなるまい。葬儀は午後2時、そうそう彼の名前は荒井徹。彼の作品の一部を紹介しよう。人妻の手の湿り気や密漁者哀ばかり寄るからとても狭いシーソー水番のあなたはひとり わたくしもみごもりやすし別誂えのオルゴール色失せし部屋に春雷血が少し死者生者どちらが希薄川ん中末筆ながら斧は両手で握ること
2005.11.12
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ドキュメンタリー映画「こんばんは」が完成してもう2年ほどになるのだろうか、ようやく当地でも自主上映された。この映画のことは、楽天広場の友人が以前に紹介していたので興味をもっていた。なぜ「こんばんは」と言うと、映画の舞台が夜間中学だからだ。墨田区立花中、生徒の平均年齢はなんと69歳だ。なぜこんな年になって? と思う人もいると思うが、こんな年だからみんな真剣に学んでいるともいえる。夜間中学は戦後、経済的理由などから義務教育すら受けられなかった子供を救済するために発足した。それが昭和40年代には、戦争の混乱期に勉強できなかった中高年者とともに、在日のひとたち、引き上げや残留孤児で日本語教育が必要な人たちやその家族。50年代に入ると、登校拒否で学校に行かなかった人たちや、日本人と結婚した定住外国人などが通って日本語などを勉強している。というように、日本の歴史的流れ、そのなかからはじき出されている弱者の存在を色濃く反映している学校だ。しかし、社会的には弱者に属する人たちなのに、この学校に通う人たちはとても明るい。たとえば、小学校5年生から不登校になった少年、しんちゃんが出てくるのだが、この学校に入ってからようやく笑うことができるようになった。自分のおじいさんほどの同級生たちと給食を食べられるようになり、同じような都内にある学校8校連合の運動会では選手として走るようになる。学校が、学問はもちろん、人を人として育てる役割を果たしているということでは、この夜間中学は教育の原点ともいえる。それと同時にここに通う生徒は、過去の歴史の被害者であったり、日本のひた走ってきた競争社会からはじかれた人たちという、歴史・社会的な証言者でもある。この映画では、42年間にわたり国語を教えてきたという見城慶和先生を通して描かれている場面が多いが、この映画を紹介した友人も教師として登場している。森監督が自ら机を並べ、2年の歳月をかけ夜間中学の素顔を追い続けたというドキュメンタリー映画なので、金八先生のドラマのような派手な場面はない。しかし、全編を通してさまざまなことを考えさせられ、ひとつの希望を抱かされもする、優れた映画だと思う。ここで試写の一部を観ることができますからクリックしてみてください。
2005.11.10
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賢治の生い立ちを書いた書物などによると、中学時代の賢治は国語や地理が得意であったが、体操と数学が苦手だったという。運動神経が鈍く、ボールを投げるかっこうは女の子そっくり、逆あがりもできない賢治は軍人あがりの体操教師のなぶりものになっていたそうだ。寄宿舎生活では、上級生の命令をよくきくいい子で、ランプみがきや部屋の掃除を文句もいわずニコニコとしていた。このエピソードを、子供のころから仏教の教えを受けて育った賢治にとっては「人のために尽くす」ことは当然のことだった、と賢治研究の書物などには書いてあるが僕はちがうと思う。一見いい子を装っていたのであって、自分を虐める教師に対して反撃の下地をつくっていたのである。少年たちにとって運動神経が鈍いということはガキ大将の条件としては決定的に不利である。ましてや、この頃の賢治は遠足や郊外散歩に出かける時には必ず愛用の金づちを一丁腰にぶらさげていた、陰気くさい学者少年。岩石の採集が趣味であった賢治の机の引き出しや押入れには、石ころがたくさんあったという。実は僕も中学時代には鉱物クラブに在籍していたが、岩石は地球生成の秘密が詰まっている宇宙のようなものだ。石をカチ割って結晶や成分を分析したりして、地球のルーツへ夢を馳せるというものだから、よくお年寄りがする、石の形や模様を愛でる銘石趣味とはまったく別のものだ。こんな変な少年であったから、仲間はずれにされても不思議ではなかったがこの鉱物探査が、賢治を自然の中に誘う結果となり、自然に鉱物や植物に詳しく親しみをもつと同時に、健脚の少年へと変えていったわけだ。逆上がりができなくても、もの知りで、頭が良く、足の強いということで仲間達から一目置かれるほどになった賢治は、ついに弁論大会で「先生は先生らしししくしろ」という演説をぶったり、横柄な教師に対しての排撃運動の黒幕になったりと、反骨精神を発揮し始めたのである。じっと、この日を待っていたフシがあるのだ。このため、賢治にそそのかされた4、5年生とともに学校付属の宿舎の退寮を命じられ、北山清養院ヘ下宿することになったのである。
2005.11.08
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署長さんは今日も魚捕りをしているかな… ようちゃん2号さん >最近読んだ本の中に宮沢賢治の『毒もみのすきな所長さん』というのが出てきました。>宮沢賢治の童話の中では異色なのでしょうか。この作品は賢治の書いたもののなかではあまり知られていない部類ですから、これを読んだということはようちゃん2号さんは相当の賢治通だと思います。この物語は、法を破る者を取り締まるべき警察署長が禁を破って、毒モミを使って魚を捕ることが大好きだったという物語でしたね。賢治の作品としては、やや大人向きで異質に読めるかも知れませんが、本質的には賢治の思想をよく具現している作品です。法の番人が法を犯すのですからけしからんということになるのでしょうが、賢治はなんでも法律で厳しく取り締まってしまうのはいかがなものか、警察署長でさえ、「好きなこと」には禁を破ることだってあるんだよ。と、世の中を杓子定規に生きる人たちを諭す、あるいは皮肉っているわけです。とかく賢治を神格化したがるムキもありますが、賢治は童話などを自分の心のカタルシス(心の浄化)として書いています。彼が37歳で死ぬ間際、父親が賢治の原稿の山について「これをどうしたいのか」と、暗に本にして世に出そうかと問いかけています。しかし賢治は「これらは、私の心の迷いから書いたものですから…」と答えています。つまり、道徳的な「雨ニモマケズ」も、数々の少年の心をもった童話なども、賢治のなかで果たし得なかった理想へのジレンマがあったからこそ生まれたのではないか、というのが僕の推測です。『毒もみのすきな署長さん』は最後には死刑になろうとするところで終わるのですから、ほのぼのとした少年童話からすると異色とも感じられますが、賢治の当時の鬱積した心境からするとごく自然な物語だと思います。賢治の書いたもののには、他にもこれと同類のものがあります。>日記でのご返事ありがとうございます。>『毒もみのすきな所長さん』→『毒もみの好きな署長さん』でした。>読んだ本の中に取り上げられていたのです。>平然と白状して、裁判に掛けられて死刑と決まり、いよいよ首を切り落とされる時になって、署長は笑って、>「ああ、面白かった。おれはもう、毒もみのことときたら、まったく夢中なんだ。いよいよこんどは、地獄で毒もみをやるかな。」で、>「みんなはすっかり感服しました」>で終るということでした。>(昔、読んだことがあったかもしれません)タイトルは『毒もみのすきな署長さん』ですね。しかし、この頃宮澤賢治自身もタイトルを変えて書いていることがありますから、これで絶対と断言はできません。賢治がこよなく愛した妹に対する手紙にも、トシ、敏、敏子などと使い分けていますし、ときには誤字もありました。『毒もみのすきな署長さん』は短編でしたが、署長シリーズでは『税務署長の冒険』という物語があります。これは童話というより、大人向きの探偵小説の趣があります。村長や村会議員はもちろん、学校長まで村ぐるみで密造酒をつくっているなかに税務署長が変装までして忍び込んでいって、結局は村人たちみんなが捕まってしまうのですが、季節の変わり目の匂いに税務署長も村長も頷きあうという、のどかな締めくくりで終わっています。これなども、国という規則のなかで役職に忠実であろうとする官吏、翻弄されながらしたたかに生きようとする国民(村民)、しかし結局は権力に抗えることなく屈してゆく庶民といった生き様を賢治の目でシリアスに捉えていたのではないでしょうか。『毒もみ…』もそうですが、安易にメデタシの締めくくりにするのではなく、賢治のなかでかなわぬ理想への現実を書いているとも僕には思えます。賢治の書くものは、きれい事だけで終わらせないシリアスさがあるのではないでしょうか。
2005.11.07
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今日、午前中は弟に山荘案内ついでに中ア山腹の紅葉を観に行ってきました。人っこ一人いない静寂のなかに、ハラハラと散るモミジ。その下にはなんとクリタケの群生が…。僕が宮澤賢治になんとなく親しみを感じて頓着してみたくなったのは、生意気で不遜を承知であえて言わせてもらうと、自分の中に賢治的生臭さが同居していると感じるからだ。然し残念ながら決定的に賢治と違うのは、僕には賢治のような詩心はないし文才もない。賢治の厭世的生臭さという部分でのみ、はなはだ共感するのだ。だから、賢治のように書くことはできないが、賢治がどのような心境で童話や詩を書いていたのかはわかる。いや、正確にはわかるような気がする、ということだ。昔のことだから書くのだが、僕には恥さらしの部分を少なからず持っている。たとえば、高校時代に柔道部の部室に入り込んで、彼らの柔道着に小便を振りかけたことがある。そして、合宿の炊き出しの釜のなかに蛇を入れたのも僕である。最初の動機は、僕の所属していた卓球部と隣あわせだった柔道部との壁に覗き穴を見つけたのが原因だった。卓球部は半数は女子部員だったから、当然ながらその更衣室付近に穴があった。また、練習場の体育館を柔道部と半分づつわけあって使っていたこともあり、ときどきピンポン球が柔道部の畳のうえにまで転がってゆくのであるが、それをわざと隠して拾いに行く女子部員を困らせていたのも柔道部のワルガキたちであった。そこで卓球部のキャップテンとしての僕は、力の差はいかんともし難かったのでかわりの報復として、かの行状に及んだのである。ちなみに小便をかけても、汗の臭いとかわらないため蛙の面に小便状態で効き目がなかった。さすが蛇はわかったはずだが、炊事当番がこっそりと始末をしたとみえて大騒ぎにはならなかった。その頃の因縁の柔道部員のひとりは、教師となって母校にいる。同窓会担当責任者なので役員の僕とはときどき酒席を同席するが、まだ打ち明けてはない。もう一人は、今では親友なので話したが、「卓球部にはかわいい娘が多かったので、イジワルをしたくてしかたなかった」と、僕の報復を容認してくれている。もっとももうン十年も昔の話だから時効というものだろうが…。なぜこんな昔の悪戯を長々と書いたかというと、宮澤賢治もかなり悪質な悪戯の痕跡がいくつもあり、それもなかなか陰湿だったからだ。宮澤賢治の人柄をあらわすように言われている「雨ニモマケズ」は、彼が結核に倒れた病状で書いているが、一種の懺悔の詩ともいえる。賢治がこのようであったということではなく、 サウイフモノニ ワタシハ ナリタイという願望だったのである。もちろん、彼の女性観もホンネと願望の狭間で揺れていたことが、僕には感じられる。雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ慾ハナク決シテ瞋ラズイツモシヅカニワラツテヰル一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベアラユルコトヲジブンヲカンジヨウニ入レズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ東ニ病氣ノコドモアレバ行ツテ看病シテヤリ西ニツカレタ母アレバ行ツテソノ稻ノ束ヲ負ヒ南ニ死ニサウナ人アレバ行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ北ニケンクワヤソシヨウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒヒドリノトキハナミダヲナガシサムサノナツハオロオロアルキミンナニデクノボートヨバレホメラレモセズクニモサレズサウイフモノニワタシハナリタイ 南無無邊行菩薩 南無上行菩薩 南無多寳如来南 無 妙 法 蓮 華 経 南無釈迦牟尼佛 南無浄行菩薩 南無安立行菩薩
2005.11.06
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