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この楽天広場には音楽には一家言をもっている人が何人もいるようだ。僕のリンク友だちでも、志穂音さんが先日も辛口のコンサート評を書いていたし、ぼちぼちさん、うるとびーずさん、とむぼさん、69'n rollさん、chappi-chappiさんあたりは生で聴いたことのある人もいるが、セミプロクラスのようだ。幻泉館 主人さん、 CAT-Oさん、harry's cafe店主さん、秀さんらは評論家並みの耳をもっていそうだ。まりぃジョー・さん、まるまる茸さん、楓さん等はカラオケ名人だと睨んでいる。夢子さん、まき~♪さんは子守歌名人だろう、きっと。いや、きりがないから書かないけれど、まだうるさそうな人がいる。はっきりいえることは、リンク仲間のうちでは僕がいちばん音痴の部類だろう。しいて言えば、alex99さんやミドル英二さんあたりが僕の仲間になってくれそうな気がするが、隠れた才能ということもあるから、油断はできない。ということで、僕が書く音楽ネタはあまり真剣に読まないこと。間違っても専門用語などでつっこまないで欲しい。 *ときに、したくもない拍手を強要されることがある。僕が、いちばん腹立たしく思うのはカラオケのあるスナックで、見ず知らずの人の唄う歌に拍手をしなければならないときだ。空いている店で、せっかくママといい話しをしているのに後からドヤドヤと入ってきたやつらが、つぎつぎと唄いだし、こちらにまでマイクを渡すのだ。お金を払ってまで、なんで騒音を聞かなければならないんだと不愉快きわまりないのだが、たいがい聴きたくない権利にはみんな無頓着だ。おまけに、拍手まで催促してくるのだ。バッキャロー(とまでは言わずに退散するけれど…サ)逆に、拍手をしてはいけないときにどうしてもしたくなることがある。その、思わず手を叩きたくなるところで、僕がつねづね不思議に思うことがある。たとえばクラシックのコソサート。交響曲の演奏が始まり、まずは第一楽章、続いて第二楽章、そして第三楽章と進んで行くわけだが、楽章と楽章の間では、誰も拍手をしない。民謡もそうだが、ジャズやニューミュージック、ロックなどでは、最初から手拍子をすることがあるのになぜだろう。べつに禁じられているわけではないと思うが、音楽鑑賞の礼儀として、楽章と楽章の合間では拍手をしないしきたりになっているということなんだろうか。僕はピアノ演奏を聴きに行って、一楽章が終わった時に思わず手を叩いてしまったことがある。演奏が良かったので手が出てしまったのだが、周囲から冷たい視線を感じた。どうして叩いちゃいけないのかなあとふっと考える。葬儀の時、友人などが弔辞を読むことがある。その時もまず拍手はしない。おめでたい席ではないのだから当然といえば当然だが、時としてその弔辞がとても感動的で、その言葉に思わず手を叩きたくなることもある。実は、一度だけだがそんな経験があった。尊敬していた知人の葬式でのことだ。知人の数十年来だったという親友が別れの言葉を述べたとき、参列者の中から力強く拍手が聞こえてきた。なかには批判的な目で、その拍手の主に視線を投げる人もいた。しかし、弔辞を読んだ人と同じように、故人とながい友情を重ねたのだろうと見うけられるその人は、頬に伝わる涙をぬぐおうともせず毅然として手を叩きつづけた。その姿をみて、僕もおもわずこみ上げるものがあり、つられて手を叩いてしまった。拍手は所詮しきたりとしてのルールからできたものだが、僕は自然の感情から湧き起こる拍手を大事にしたい。自分の感情にしたがって手を叩きたい。ちょっと忙しいので、2、3日日記の更新ができないかも知れません。・・・見捨てないでね。
2005.03.29
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最近は人間よりおりこうな犬もいるようです僕は川柳作家などと呼ばれることがあるが「作家」という呼び名はこそばゆい。せいぜい、「川柳人」あるいは「柳人」と呼ばれるほうがいい、と思っている。「作家」とは、まがりなりにも“その道でメシを食えている人”に冠せられる呼び名だろう。たとえば、タレントなどのだす本のほとんどが“ゴーストライター”と呼ばれる人たちの作品だ。タレントから聞き書きして、たっぷりとライターの文才で肉付けした本が、ときには大ヒットしても、名義貸ししたタレントがもてはやされるだけで、ライターは契約した対価しか貰えない。もちろん、「実は、あれは僕が書いたんです」などと名乗り出たら<ルール違反、その世界ではメシが食えなくことだってある。それほど努力をしていても、ライターはライターであって「作家」ではないのだ。それなのに、臆面もなく「川柳作家」などと自ら名乗っている心臓がいるのが、この世界。そんな軽薄な作家を「センセイ」などともちあげる人もいる、スゴイ世界にいるんです、僕は―。しかし、それにもましてスゴイのが、昨日まで土建屋や中小企業の成り上がりだった地方議員。ヤクザのような人まで、センセイと呼ばれてしまう世界なんですね。さて、ひさしぶりに問題発言をするぞー、っと!!僕が自分の川柳仲間によく言う言葉。「ものごとを平面的にしか見られなかったら川柳やる資格がないよ」。ちょっと我慢して聞いて欲しい。たとえば、円すいと三角すいがあるとする。これを仮に横から見れば、ふたつとも二等辺三角形に見えるから、どちらが円すいで、どちらが三角すいだか、見わけはつかないはずだ。しかし次に、下あるいは上から見れば、片方は円だし、もう片方は正三角形だから、自分たちの目は正確に、どちらが円すいか三角すいか見わけられる。これを、ひとつの方向から見ただけでは、その立体の正しい形はわからないということを、誰でも小学校か中学校で学んだはずだ。葬式の席で泣いている未亡人にいたく同情して、もらい泣きする。その未亡人が、家に帰ったら、亡くなった人の生命保険証を必死に探している姿や、若いツバメと電話で将来を語り合っている姿まで、想像して書くのが川柳。もちろん、哀しみの人の、それからの人生や生活設計にまで思いやって書くのも川柳。人もものごとも、すべてが、一面だけではないんだね。こんな単純なことが、政治の世界では見えなくなるから不思議だ。身内の恥を言いたくはないけれど、今の長野県議会は新聞で書かれた情報でしか、政治を見ていないのではないのだろうか。その音頭とりになっているのが「信濃毎日新聞」なんだから、ちょっと困ってしまう。僕も「信毎」の記者や論説委員に知り合いがいる。以前に、イラクで拉致された安田純平さんも「信毎」の記者だったけれど、みんな真面目で正義感がつよい、優秀な人たちばかりだと思う。ところが、県政に関わる今の紙面を見ると、オーナーの意向とか、デスクの感情が優先されてしまっている、としか思えない。対田中知事報道においては、ある体制の思惑に乗った意図的な紙面がまかり通っているんだなー。「信毎」といえば、かつては軍部を批判する論陣でも平気で張った、桐生悠々のような、骨のある筆をもっていたはずだ。いまは、提灯記事の温床だった記者室を無くしてしまった、知事憎しの感情で書いているようにしか思えないな。記者室で大本営発表の記事ばかりに頼っていたら、それこそ報道は腐ってしまう。それにしても、「信毎ゴシップ報道」に意を強くした“虎の威県議会”は、田中知事が提案した予算案や人事案をことごとく否決して、知事に責任があるなどと吠えまくっているけれど、その否定理由を見るとまったく平面でしかものを見ていないことがわかる。象の足や尻尾に触って、わかったようなことを言っているようにしか見えないね、まったく。よほど軽薄な川柳作家センセイたちだって、もう少しはマシな目をもっているよ。僕だって、田中康夫方式がすべて理想などとは思わない。もっとゆっくりやってもいいのでは…、と思うところが沢山ある。例えば、県の公共施設の徹底した禁煙指令も、せめて喫煙室か屋上くらいでは吸わせてあげてもいいんじゃないか、と煙草を吸わない身でも同情してしまう。ただ、“時代を変えてゆく”ということは、一旦決めたことはそのくらい徹底した決意でないとすぐにリバウンドしてしまう、ダイエット経験のある人ならわかるでしょう。木製ガードレールがコスト高だから予算カット、ということだって、使うのは主要観光地だけで、しかも、つかいみちの乏しかった間伐材の利用ということで始めた実験的な試みだったはずだ。一流といわれる企業は、どんなところでも研究費用には莫大な予算をつぎ込んでいる。それが商品化され、大量に流通してようやくペイできる。鉄筋を入れた木材系ガードレールもそうだと思う、こんなのはイロハだ。研究者や関連した人たちの意欲を削ぐようなことが将来どんな結果になるか…。ダメなら、事業を始める前にストップをかけるのが、責任ある方法ではないのかな。従事している彼らに路頭に迷えとでも?警察官の大幅増員要求に対して、県職員を派遣して事務的なことなど、代替えできることは県職が兼職するという方式も簡単に否決されてしまったけれど、安易に警察官の増員や、公務員の削減をせずに、つかえる場所で使うことで県職員の見識も広がるし、警察も助かる。“都の職員を自衛隊に―”というどこかの案より、ずっとましなアイデアだと、僕は思うけれどね。水道業者のメモ問題。知事のクビをとったかに大騒ぎしているけれど、新聞も内容まで正確に書いて欲しいね。メモは、“特定の業者に仕事をまわせ”といった印象で扱われているけれど、“県内の業者でできる工事は、なるべく県内業者に落札できるようにして欲しい”というのは、正当でごく当たり前の要望だと思うよ。それを、知事側近の利益誘導のように言い散らかすのは悪意でしかないな。風邪を引くような“虚弱体質”な人は副知事として認めないは笑止だね。今度は自分が風邪で欠席したら、否決した県議たちも辞めるべきだね。知事の、住民票問題。山口村越県合併問題。そして、スキー王国キャンペーン、その他諸々、これらも長くなるから書かないけれど、これとて僕には十分理解できる行動だった。もし、県議の皆さんでこの問題で論争したい人があったら申し出て貰いたい、喜んで受けてたつよ。ただ匿名のゴミみたいのが出てきてもダメ、こちらも身体ひとつだから。このように書くと、僕が無条件に田中知事シンパだと決めつける輩がいるかも知れない。しかし、記憶にある人もいると思うけれど、民主党のシャドー内閣問題では、僕も厳しく批判したように、どこかの宗教のように、教祖様のいうことは絶対正しいなどという立派な信者には、僕はならない。正しくない方向と思えば、「王さまの耳はロバの耳、裸の王さまみっともないゾ」とだって、いつでも言うつもりなんだな。だから、正しいことは正しいと、あえて言う。付和雷同、徒党を組んで知事の前に画鋲を撒いて歩くような県議たち、みっともないぞ! 僕も、たまには、こんな話しもするけれど、すぐに軟派な話題に戻ってしまうから、まあお許しを―。
2005.03.27
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一つの学年、ひとつのクラスがあれば優等生が存在する。勉強もスポーツもできて、おまけに先生の信頼も厚い。そして、そのひき立て役の劣等生やガキ大将も存在して、ときには先生を悩ませる。僕はそのへんに位置するのだが、まあ、多くの人たちはその中間に入って、ほどほどにうまくやっているのだろう。 中学生のとき、彼女も優等生タイプの人間だった。ほどほどに利発な姿形をしていて、どんなに難しい方程式も魔法みたいに解くことができたし、しまらないホームルームも彼女が発言すれば、たちまち建設的な方向に話しがまとまってしまうという感じだった。僕からみればまさにパーフェクトな優等生だった。 ただ優等生が物語の主人公にはならないように、彼女の存在感は僕にはなんとなく希薄だった。僕にとって彼女は、難しい宿題の答えを教えてもらうときだけの、便利な存在でしかなかった。 その彼女が、ここ1週間以上も学校を休んでいた。 家が近いということだけで先生に命じられ、僕が彼女の家にお見舞いに行くことになった。優等生の、それもすました女の子の家に行くのはだれだっていやだろう。僕だって気がすすまないが仕方がない。いつだってそういうソンな役は僕に回ってくるのだ。 彼女のお父さんは小学校の校長先生で、彼女の家は僕等ガキ大将たちにはどこか敷居の高いイメージだった。しかし訪れてみると、彼女の家はごく普通の家だったし、応対に出たお母さんは意外と優しそうな人だった。 彼女は思ったより元気そうで、僕にはどこが悪いのか、さっぱりわからなかった。あたり前の挨拶と、いくつかの連絡を終えると僕たちの会話はまったく途絶えてしまった。 僕は彼女の本棚に目をやった。本棚にはレコードが並んでいて、ショパンのピアノ名曲集とか、メンデルスゾーン、ブラームス、チャイコフスキーなど学校の音楽室にあるような、いかにも彼女らしいレコードが並んでいた。「すごいんだねー、やっぱり優等生は違うよ」と、口に滑らせてしまった。「どれでもかけていいよ」と不機嫌そうに彼女が言った。 その中に混じって、岡林信康のLPが一枚あったので僕はそれをターンテーブルにのせた。スピーカーから「永遠の翼」とか「今夜は朝まで踊りましょ」の曲が流れ始めた。「やっぱり、それをかけると思った」と彼女はぽつりと言った。「僕は落ちこぼれだからさー、こういうアウトローのが好きなんだ」「私だって、本当は落ちこぼれよ。だって…」と、突然意外なことを喋りだした。 「わたし、べつにどこも悪くないのよ。……ただ、いやになっちやったの。みんなわたしが完璧な人だと思っている。先生まで…。でもそれがすごい苦痛でイヤなの。あなたには信じられないでしょうけど、あたしにも悩みや心配事やらがたくさんあるのよ……」なにか泣き出しそうな声だった。もう少ししやべらせると泣いてしまうような気がした。 僕は「よくわかるさ」と言ってみたが、じつは、彼女に悩み事があるなんてさっぱりわからなかった。とにかく、最近図書館で読んで仕入れたばかりの言葉を言ってみた。「でもね、太宰治が何かの作品の中で、人間三百六十五日、なんの心配もない日が半日でもあったなら、それは幸せな人間だっていっているよ。つまりさ、だれにだって心配事やら悩みやらはある。そういうことさ」 僕は八方美人のお調子者、人を慰めるのがわりと得意なのだ。「ありがとう、そうよね。でもそれ太宰のなんて作品?」「『堕落論』だったかなー」「『堕落論』は坂口安吾よ!」 やっと彼女が少し笑って「誰だってその人の悩みがあり、もちろん優等生だって……」と微笑んだ。「岡林信康には岡林信康の悩みがある、ましてや劣等生だって…」僕はそうつづけて、二人して笑った。 彼女は次の日から学校に来た。 おかげでホームルームはいつものようにピリリと引きしまったものになった。放課後、僕が帰ろうとしていると、彼女は前日に僕が言った太宰治の言葉が『ヴイヨンの妻』からの引用ではないかと言った。「『堕落論』なんて、昨日はわざと間違えたんでしょ」「……どうしてわかったの」「だって、わたし優等生なのよ」 あんなに嫌がった優等生というレッテルを自分から認めた。 なんだか、そのときから劣等生の僕と優等生の彼女には、同志的連帯感が生まれたような気がした。 その数年後、彼女は東大を受験したが滑って、僕の行きたかった二流大学は大学紛争で閉鎖されて、僕たちは晴れて落ちこぼれ仲間になった。しかし、それからン十年後、彼女は僕を裏切って、しっかりと東大出の大学教授の奥さんに収まっている。僕はいまだにしがない落ちこぼれの零細企業主。同志としての絆はすっかり風化してしまった。
2005.03.26
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親しくしている後輩がふらりと訪れた。彼は四〇歳になるがまだ独身で、地方新聞社の記者をしている。僕の知り合いの女性としばらくつきあっていたが、いつしか別れてしまった。 彼女に別れた理由を訪ねたことがある。真面目で正義感の強い人なのだが、いつも忙しいばかりの生活で、たまに逢っても、私から魂が離れているようにぼんやりと遠くばかり眺めているのだという。それが淋しくて、とうとう彼女から別れを切り出したというのだ。 彼が僕のところに訪れるときは、きっと何か語りたいことがあるときだ。彼を馴染みのBARに誘った。何となく疲れた表情で彼は語りだした。 彼によると、取材の用事があって昔住んでいたT町まで足を伸ばしたそうだ。そこは、彼のかつてのガールフレソドが住んでいた町だった。おそらく彼女はもう結婚して家にはいないだろうけれど、せっかくきたのだから彼女の家を一目見たい……。それで訪ねて行ったのだそうだ。 ところが、家のあった場所には何もなく、ただの更地になっていただけだった。不審に思った彼が近所の人に尋ねたところ、思いがけない答えが返ってきたという。 何でも、彼女のお兄さんがノイローゼで、ある夜、自分の家に放火してしまったというのだ。その火事で兄さんは焼死、焼け残された母親は町はずれのアパートで仮住まいをしているという。 嫁いでいたかつてのガールフレソドは、それをきっかけに夫婦仲がうまく行かなくなり離縁して、今は老いた母親のもとに身を寄せていると、その人は教えてくれた。「この時間なら、近くのスーパーでレジを打ってるはずだよ」 という言葉を聞いて、彼はやもたてもたまらなくなり、そのスーパーに飛び込んだという。 見回すと、確かにあの彼女が、店の端っこでレジを打っていた。昔の面影はあったけれど、やつれ疲れた表情がこびりついたように彼女から生気を奪っていた。 考える間もなくスーパーに飛び込んだ彼だったが、その姿を見た瞬間、立ち辣んでしまったという。結局、彼は声をかけないまま戻ってきてしまった。彼は絞り出すように僕に言った。「彼女、俺に会ったら嬉しかったんだろうか。それとも、今の姿を俺に見られるのを嫌がったんだろうか。俺が黙って帰って来てしまったことが、よかったんだろうか、悪かったんだろうか……」 彼は思い詰めた少年のような表情で、僕に問いかけてきた。もちろん、僕にその女性の気持がわかるわけはないから、ただしい答えなど用意できなかった。答えにはなっていないかも知れなかったが、感じたままに言った。「たぶん、君には会いたくなかったと思うよ。でも、彼女を救ってあげられるのは君だけかも知れない……」 そのとき彼の表情が、ふっと和らぎ明るくなったような気がした。そして、意を決したように僕のほうを向いた。「近いうちに会いに行きます!」 僕に挑みかからんばかりに毅然と言いきった。
2005.03.25
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既報したように4月16日~5月8日まで信州「駒ヶ根高原美術館」で、5月14日~20日まで桐生市・有鄰館で、小林とむぼ作品展が行われます。制作したチラシをマスコミ各社に案内したところ、以下の各社が後援してくれるという連絡をくれています。案内状やチラシはすでに印刷済みなので、掲載できませんが紹介だけしておきましょう。ご後援くださるマスコミ各社信濃毎日新聞社、長野日報社、伊那毎日新聞社、SBC信越放送、TSBテレビ信州、ABN長野朝日放送です。地元ミニコミ誌でも、紹介されはじめております。ということで、4月24日の銀河集会(オフ会)に参加してくださる方には案内状を送りますので、メッセージボックスに連絡を入れてください。とむぼさんを直接知らない人でもOKです。握手券(?)つきです。
2005.03.24
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僕は父の薦める高校を受験せずに、家からいちばん近い隣町のT高校を受けることにした。 父が僕に受験させようとしていた学校は、家からバスで1時間ほどの距離にあった進学校のI高校で、兄も、従兄弟達もほとんどI高校から大学に進学していた。父は当然のように僕にもそのコースを歩むように強要した。 ところが、僕は親の期待に反して勉強が好きではなかった。ガリ勉たちが通うI高校より、のびのびとできる地元のT高校に行きたいと思っていた。理由は簡単だ、小学校から一緒だった村の友達のほとんどがT高校へ進学し、そして僕がひそかに憧れていたU子もT高校を受験することになっていたからだ。 兄も弟も父の期待通りに優等生に育っており、僕にもそのコースに従うよう常日ごろから重圧をかけられていた。勉強嫌いの僕は家に居づらく、家には暗い雰囲気が漂っていたから、親に逆らうことが暗雲を払拭するかの気持で僕は強く抵抗した。 「お前は自分の将来を舐めているんか!」 顔を真っ赤にして叱っていた父も、僕の差し出した通知票をみて諦めずにはいられなかった。進学の査定に重要な中学3年前期の成績がさっぱりだったからだ。I高校に行くのは学年で2,3人、とても届く成績ではなかった。T高校に行きたかった僕は受験勉強のフリをして、司馬遼太郎の『龍馬が行く』などの小説ばかり読んで過ごしていたのだから当然といえば当然だった。サボタージュ作戦(?)は、見事成功し、T高校を受験できることになった。 父はガッカリしたがそれっきり何もいわなかった。しかし、母に向かって「いったい、昌樹にどんな教育をしたんだ」と厳しく叱っては責めた。母は申しわけなさそうに僕をかばって、なにかと父の機嫌をとっていた。小さい頃から本に熱中するクセは母から授かったのだから、母も責任を感じたのかも知れない。思い出すと今でも胸がキュンとなる。 家にいる時とは対照的に、希望の学校に進学できた僕は学校ではいつも明るく振る舞った。 高校での部活で鍛えたこともあり、遠距離走では学年でも上位にランクされ、卓球部でも活躍した。僕は、2年生の後半からは卓球部のキャップテンを努めていた。インターハイが近づくと練習に明け暮れ、めざましい成績はあげなかったが、学内では人気者だったような気がする。 その2年生の冬が終わり、卒業式近く校庭の梅が遅い花をつけはじめた頃、そのでき事が起こった。 部活を終え帰ろうとしていたときに、憧れだったU子が突然僕を呼びにきた。 「昌樹くん、ちょっときて欲しいんだ」 憧れてはいたけれど、その頃の僕は、女の子へ強く興味をもっていた自分への反動で、その子にはいつもつっけんどんにしていた。 異性のことを考えただけで、下半身がすぐにコチコチに膨張してしまうのは、きっと僕がこんなことばかり考えるのは異常体質のせいではないかと、淫らな自分に嫌悪し、好きな子を避けるという悪循環をしていた。淫らといえば何のことはない、同級生の男子たちはみんな同じような状態だったということを、後で知ったのだが…。 とにかく僕は言われるままに、半分ほのかな期待を抱きながらU子のあとについていった。 校庭のすみにはプールがあり、その奥にはひっそりと花壇があった。いつもは誰もいないその場所に、先輩の桜井さんが一人で立っていた。用事があったのは桜井さんなのか。 3年生の桜井さんは、憧れの子と同じ華道クラブにいた一年先輩で、ときどき僕たちに差し入れをしてくれたり、試合の応援にきてくれていた。 桜井さんは僕よりも背が高く美人だった。胸も大きく、160センチしかない僕からは、とても大人に見えた。先輩というよりお姉さんの雰囲気で、僕はあまり話しをしたこともなかった。桜井さんと僕は5mも離れて向きあった。僕を連れてきたU子は遠くからそっと見ていた。 桜井さんが、「ありがとう…」と、目配せをするとU子は僕を置いて行ってしまった。すると桜井さんはゆっくり僕に近づいてきた。「用ってなに…」 僕は強がって言いった。桜井さんは暫く黙っていた。 夕陽が山の稜線ギリギリに傾き、最後の輝きをみせてきれいだった。僕は桜井さんの顔が見れなくて、夕陽に浮かぶテニスコートのシルエットを見ていた。ラケットに夕陽が反射して、時々キラキラ光っていた。 「用がないなら戻るから…」 なんとなく大人の世界に迷い込んだようで、僕は逃げ出したくなった。その時だった。「昌樹クン。私は昌樹クンとこの学校で出逢えてよかったと思っているよ。もう私、卒業するから一度だけ想いでを残しておきたいの…」 ドキッドキッと心臓の音が聞こえた。気持をそらそうとテニスコートを追いかけたが、いつの間にかテニス部員もいなくなり、風でゆれるネットだけが、時々キラキラ光っている。音楽室からこぼれてきてた合唱部の歌声も聞こえなくなった。 6時のチャイムが遠くで鳴ると、桜井さんは僕のすぐ前まできた。僕は全身が固くなって動くことすらできなかった。 桜井さんは急に優しくなり、僕の冷たい右手を、セーラー服の上から胸のあたりに乗せ、その上から自分の手を重ね押し当てた。 桜井さんの胸は温かく、僕はあっけにとられ全身が固く硬直して、心臓は高鳴り指先を動かすこともできなかった。 全身の血が頭に上りつめてしまうようなできごとは一瞬おわり、夕陽のせいか何なのかわからないほど赤く上気した桜井さんの表情が一気に崩れた。涙顔になった桜井さんは「じゃあ、元気でね」っと言うと、あっけにとられる僕をのこして教室のほうに駆けて行った。僕はそのうしろ姿を狐につままれたように見送った。 桜井さんは卒業後どこに行ったのかどうしているかまったくわからなかった。思い出すたびにその右掌がほてった。僕の憧れのU子はいっそう僕から遠い存在になっていった。 その後、学校のあった場所へ行ってみたが、学校は別の場所に移転し、跡地は公園になっていた。景色はすっかり変ってしまったが、木曽駒ヶ岳に沈む夕陽はあの時と同じように、公園になったその場所をオレンジ色に浮かびあがらせていた。フィクション、フィクション。本気にするでないよ!とはいっても、まったくの作り事だけでもないのはたしかで…。
2005.03.23
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坂の上で教会と並び、お城のように少女の通う高校はあった。 少女はひたすら包みこむような優しい「父」のもとで成長し、王子さまとの出会いを夢見る十五歳になっていた。 僕と少女はあるイベントをきっかけに知り合い、学校近くの駐車場に車を停めて、彼女の下校を待つようになった。スキップをするように駆けてくる少女を横に乗せ、郊外へと連れだす僕は、彼女にとっての王子さまだったのかも知れない。 まだ早春、二月初めの肌寒い日、二人は森につづく喫茶店で向かい合っていた。少女がオーダーしたのはココアクリーム。 ココアの上には生クリームがのっている。少女は少し緊張していたのかココア口にして顔をあげると、生クリームが鼻の頭についていて、それがとても可愛かった。 少女は女ばかりの三姉妹の末っ子で、僕のことをお兄ちゃんのように慕っていた。少女にとっての男性は、父であり兄であり、優しく慈悲にみちた日だまりのような安心感に満ちた王子さまだったのだろう。僕もなるべくその期待に応えるよう努力していた。 それが一気に崩れたのは、流星群が訪れるという夜の空を見にでかけたドライブの時だった。冷たい春の風が吹きつけていた空の下には諏訪湖が一望できる展望台だった。暗闇に浮かぶ銀河のような夜景を眺めながら小半時、寒いと身を寄せる少女を僕は思いきり抱き締めた。 そこからは成り行きでしかなく、僕の理性は沸点を超え、少女がそれをどのように受けとめているのかまでは思いもおよばなかった。少女のそよ風のような抵抗は、春の強風の前には一瞬の抗いでしかない。僕の瞳は燃えさかるような光を放ち、少女のすべてのなかに吸い込まれていった。 少女の視界をふさぎ、唇をふさぎ、少女はもう何も見ることも息をすることもできず、なすがまま僕を受け入れていた。激しい心臓の音だけが互いの胸のあいだでこだました。遥か下界では森の木々を風が抜け、わさわさと枝の揺れる音が聞こえた。 その日からしばらくして「もう会えない」と言ったのは、少女の方だった。「嘘だろ?」 電話のこちらで、僕は無邪気に応える。「あんまりびっくりさせるなよ」 その電話の向こうで、少女の歯が力夕力夕震えている空気が伝わり、それが冗談でないことを僕は知る。喉がツーンと痛くなって、涙がじわりと盛り上がる。「どうして?」 無言の少女に、僕はそれが本当であることを悟る。認めたくなくて受話器を握り締める。「テストの成績が悪くて、もっと勉強しないと…」 ようやく絞りだすように、つくりごととわかる言葉が途切れ途切れに電話線を伝わってくる。「勉強の邪魔はしないよ」 僕の必死の懇願がつづく。少女は電話口で闇からの風を痛いほど頬に受け、僕に抱きしめられたことを思い出しているのだろうか。それは少女が初めて感じた「男」の恐さだったのだろう。「さようなら」 少女の胸の中で渦巻いていたその言葉を口にする。少女がしゃくりあげるように泣きだす様子が電話の向こうから伝わってくる。ひと呼吸の塩辛い時間ののち、少女が受話器を置く音が耳に届いた。 それから一週間ほど後、僕は少女に別れの手紙を書いた。「あの夜、一人で酒を飲みながら君のことを思い出して泣きました」 それは少女が初めて感じた「男」の弱さだったのかも知れない。 僕は「男」として、少女のありとあらゆる神経を昂ぶらせて少女を悩ませたのだろう。少女にはそれに立ち向かうだけの勇気も決心も、まだ芽生えてはいなかったのだろう。「男」と「父」との違い、「兄」と男との違い。 そうして、僕は少女のこころのなかにある、男への期待を見抜けなかった。 その恋ともいえぬ出来事をきっかけに、少女は明らかに「男」と「父」の違いを知ったことだろう。王子さまは「父」や「兄」ではなくて「男」であったことを…。 そして、もう二度と王子さまの住む童話の森には戻れないということも。 ある事情があって、少年期の恋物語を書いています。自分で経験したことであればラクですが、想像のなかで組み立てるのは難しいとねつくづく感じています。その一部をここで紹介しいるのですが、この間書いたなかで明らかに嘘っぱちとわかるのは、どのストーリーでしょうか。自分で書くときには、虚の世界に入り込んでしまうものですから。
2005.03.22
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ドーパミン、セロトニンなど、人間は脳のなかに麻薬の何千倍もの快楽感覚をひきおこす物質をかくしているそうです。なんでそんなに強烈すぎるものをじっと持っているのか、まだよく解っていないようです。そのうえ、人間の脳は85%以上が眠ったままの手つかずです。予備というには多すぎる気がしますが、優秀といわれる皆さんは、この予備の部分を有効に使っておられるんでしょうね。僕の頭の倉庫にはねずみが走り回っています。その隅っこには致死量をはるかにこえる快楽物質が無造作に転がっている、ようなんです。これらがなんらかの拍子に、ほどよい刺激をうけて動き出すのが“春のめざめ”というべきなんでしょうね。人間における初恋というのは、快楽物質御本体のお目ざめということなんです。オリジンとか、子供という名のクローンだとか、お父さんとかお母さんとか、ふるさととか、記憶とか、春とか死とか。そういう何らかの刺激を受けて快楽物質が流れ出す。そんなときに恋心とか、自分をコントロールしずらい予期せぬ衝動が湧き起こります。そしてそれを、ひとつには文化といいます。 恋というのは、相手の文化に自分の文化をかさねたいという願望であり、本当にだいじな仕事なんですね。僕ははじめそれに気づかず、ただおろおろと、うろたえときめき、舞い上がるだけでした。それで、すてきな人たちにいくども逢いながら、愚かにも幾度となくはぐれていきました。悔いはないけれど、切ない気分は消えません。そんなわけで、自分の文化を伝えあえる相手に初めて出会ったときが、“初恋”と呼ぶんです。今年もあるのかな、初恋。したへどうぞ
2005.03.21
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ドニーズ・ジャレ 鈴木 孝 訳殺してあげましょうね あなたをやさしく確実にわたしの心はあなたをまもなく埋めるための草々でいっぱいもうあなたはいつもの顔をしあなたの眼はみどり色の眼でしかないのねあなたの手は手でしかないのね殺してあげましょうね あなたを
2005.03.20
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春になると、花粉症やら、肝機能低下やら、お馴染みの病気が見受けられるが「恋患い」も春に多い病気かも知れない。恋は一種の病気である。要するに一時的な精神錯乱状態だが、昔からこれにつける薬はない。本人たちがこの病気を患っている分にはどうってこともないが、ときと場合によっては結構ハタ迷惑なこともある。以下、僕の20代だった頃の体験。「Oさんてどんな人ですか?」そう僕に訊いたのは、会社の後輩の女子社員であった。彼女はどうやら僕の同期のOに関心を持ったらしい。今の僕なら、「あ、あれは最低! やめときなさい」と足を引っ張るところだが、当時は意に反してフェアプレイをモットーとするスポーツ青年だったから、「そうだなあ、結構好い奴だよ。仕事も出来るしね。酒もバクチも限度をわきまえてるし…」なんて、かなり無理して、好意的に答えておいた。結局彼等は間もなく結婚したのだが、ある日Oが僕に「お前、ウチのが結婚前に俺のこと聞きに行ったら、ボロクソにけなしたそうだな」と言うのだ。僕は開いた口がふさがらなかった。僕の冷静にして的確な、それもかなりサービスを込めたOに対する評価は、当時Oを「わたしの王子様」と思い込んでいた彼女にとって、酷い悪口に聞こえたらしい。その時の彼女にしてみれば、「うん、彼は最高! 男の中の男! 流石に君は眼が高いね」なんて答えが返ってくるものと期待していたのだろうか。アホらしい。そんな事言えるか!イイ女が、みすみすトンビにさらわれてゆくのを見ている身にもなってみろってんだ。 仕事を終えて会社の仲間たちとある飲み屋に入った時のことだ。先客の中に一組のカップルがいた。女の方はこれも僕の後輩だったが、当時彼女は社内のある男と熱烈な恋愛中という噂で、周囲の誰もが二人は近く結婚するものと信じていた。ところが、その夜の彼女の相手は「噂の彼」ではなかった。しかもかなり親密な雰囲気なのである。「ン? これはどうなってんだ」我々は見てはいけないものを見たような気分になって黙り込んでしまった。こういう時の対応はなかなか難しいものだが、結局我々は、「まあ、それはそれで良いか」という感じで、二人を無視するフリをしながら酒を飲んだのだった。さて翌日、昼休みをしていた僕のところへ例の女性がツカツカと近寄って来た。何だか目が吊り上って大変な剣幕である。そして思いつめたような切り口上で、「昨夜は失礼しました。ワタシ、あの人と結婚します」と訊きもしないことを一方的に宣言した。その上、呆気にとられている僕に向って、「ゆうべの先輩達、本当に感じ悪かったわ。もしわたしが男だったら、ブン殴ってやりたいくらい…」などと勝手なゴタクを並べると、サッと振り返って立ち去っていった。「バーカー 何を一人で興奮してるんだ。テメエが誰と結婚しようと、俺の知ったことか!」と言い返す間もなかった。この二人の女性は、いずれも一流大学出身のいわゆる「才女」達である。才女も恋の病いに罹ると、イチコロで馬鹿オンナに変わってしまうのだ。「そういう自分だって女に惚れたことがあるだろう。サアどうなんだ」と言われれば、確かにある。その時は、今思い出しても自分で赤面するような、愚かな行動をとったような気がする。でも、そんな恥ずかしい事は、ひとさまの読むところには書かないのだ。春の病気にはご用心、ご用心!
2005.03.18
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クロネコというのは、わが町にあるうどん屋である。たぶん80歳近いであろう老夫婦がふたりで営業している。メニューも多く、単価も安いし、味もそこそこだ。しかし、それはともかくこの店構えが気に入ってちょくちょく訪れる。実は近くに友人のうどん屋があって、その手前おお手を降っては行きにくいのだが、とにかくこの店は安いのである。味は、もちろん友人の店のほうが旨い(とは思う)。(もし、これを読んでいたらとくに強調していたと伝えて欲しいノダ。)大正ロマンが漂うような…、と言いたいがよくぞ倒れずにもっているなぁ、という店である。いや、やや昔風の盛りつけだが、いかにも年季の入った飽きのこないつくりで、コシの強さはかけるが本当は友人の店とダシの良さは遜色がない(あ~、言っちゃった)。この建物が面白い。床にビールビンでも置こうものなら歩行者ほどの速度で転がり出すほど傾いている。客席にはコタツがあって、ちょっと知らない人とは相席しにくい雰囲気もある。だって、足を伸ばしたら前の人の足の間まで届いてしまいそうだから…。二階の丸窓がまたいい風情だ。昔、遊郭でもあったのだろうか、夢二が連れのおんなと窓から顔を出してもおかしくないような雰囲気さえある。ここのおやじさんも、自分が営業できなくなったらこの店もお終いにするつもりだという。 ヨーロッパに行くと100年どころか、数百年も同じところで営業しているというレストランもあるのだから、日本にもこんな店があっていいがとも思うが、木造建築は火事にあったらひとたまりもないので、長い歳月を無事にいるということが難しいのだろう。こんな古い建物に目がいくようになったということは、僕もそのようになってきたということなんだろうか。<
2005.03.17
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日本放送株をめぐるライブドアとフジテレビの攻防が大詰めに迫っているようだ。日本放送と言えばなんといってもオールナイトニッポン、昔はこの深夜放送を聴きながら仕事をしていたこともあって、とても思い入れの深いものがある。フジテレビはサンケイグループという偏見もあって、あまり見ることはないがK-1だけは見る。僕は、この攻防戦に関心がないわけではないが、どちらに肩をもつという気にはなれない。堀江氏という若者がこれほど巨額な金を動かすことができるというのもたいしたものだというより、不可思議な世の中になったという気分が先に立ってしまう。所詮は、額に汗した金が動いているわけではないというしらけたものが先に立ってしまうのである。さりとて、既得権の保身になりふり構わぬ姿をさらしているフジテレビ・日本放送側の対応をみていると、これも素直に声援してあげたいという気分にもなれないでいる。この攻防についてのモヤモヤした気分を、シャルドネさんが日記の「お金と有効需要」で、わかりやすく解いているのでぜひ読んでみてもらいたい。
2005.03.17
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以前にトンという柴犬混じりの雑種を飼っていた。夜の川に魚獲りに連れて行き行方不明になって、数日さまよった後に、車に撥ねられた。親切な女の子が、路傍にうずくまっているトンをみつけ動物病院まで連れて行き、治療してくれた。首に付けていた鑑札プレートで身元を調べてくれ、役所をとおして知らせがあった。結局、その傷がもとで死んでしまったのだが、このトンは僕の行くところにはどこにでもついてきたがり、魚とりにも必ずついてきていた。魚とりに出かけるときに、トンはポーチを身体につけており、獲った魚はそのポーチに入れて運んでくれていたのだ。調べものをしていたら、そのトンについて書いた文章がでてきた。*我が人生を振り返ると、つくづく罪深く生きてきたものと思う。我が家に「トン」という名の八歳になるメスの柴犬の雑種がいる。僕が帰宅すると、ちぎれるほど尻尾を振って迎えてくれるのだが、ここ暫く、僕が通り過ぎても犬小屋から上目づかいに一瞥の眼を向けるだけで、無視していた。僕は、犬からベタベタされるのは好まない。従って、そっけなくされるのは結構であるのだが、こんどばかりは少々気になっていた。というのは、その犬を拾ってきた我が娘まで、ロを聴いてくれないのだ。まあ、しかたないとは思うが……。実は数日前、そのトンから一匹の子犬が産まれた。焦げ茶色で、太ったネズミほどの大きさであった。相手の目星はだいたいついていた。近所にオスのコリー犬がいるのだが、犬にだって恋をする犬利(?)があったっていいのだろうと、ときどきは鎖を放してやっていた。その家と、我が家の間には、犬の逢う瀬にはピッタリのリンゴ園があり、どうやらそこでできてしまったのだ。わが家は、妻一人、子供三人、猫二匹、犬一匹、魚数匹という家族であり、もう動物を増やす余裕はない。そこで、妻に子犬の始末を命じたのだが、「犬を放し飼いにしたからいけない。言わないことじゃない、私は捨てるなんて絶体イヤ!」と、以前、母性の権利を主張して、犬の避妊手術を反対したのに、今度は三角の目で抵抗した。「犬だって運動する権利がある。もういい、頼まん!」僕は、トンを子犬から見えないところまで連れてゆき繋いだ。とって返し、まだ目の開かない子犬を買物袋に入れた。子犬は母犬の乳房を求め、クークーと鳴いた。バイクの篭に入れると、まっしぐらに1キロほど離れた河川敷へと走った。そこからの僕は鬼であった。罪悪感が胸底から湧きあがるなか、夢中で子犬の命を奪い、埋葬した。その辺に咲いていた野花をありったけ手向け、家に帰った。トンは僕を見つけると狂ったように走り寄り、自分の小屋に飛び込むとわが子を探し、中に敷いてあった布団などをみんな引っ張り出した。その姿を見て、僕は一層わが罪にさいなまれ、涙がでそうになった。バイクを目一杯ふかし家をでた。その日から、家に帰っても、犬も娘もロを間いてくれない。「ジツ」と上目づかいに、僕の顔を見つめるだけである。それから二週間たったが、ようやく平静に戻ってきたようだ。僕が帰宅するとトンは以前と同じように尻尾を振って出迎えるようになった。娘も、子犬のことなどすっかり忘れて、車で友達の家まで送れ、小遣いが足りないなど賑やかになった。しかし、僕の胸には今だあの時の罪悪感が鋭く突き刺さり、回復しないままズキズキ痛んでいる。おまけに明日は胃検診とやらで酒も飲めない。
2005.03.16
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愛するとは 少年を抜けること愛するとは 永遠を停めること愛するとは 大人への扉を力いっぱい押しひらくこと 組み付き身をよじらせて抵抗する少女に僕は夢中でしがみつき抱きしめていた。少女もいつしかなすがまま天井を見つめていて、タイムカウントをとるように時間は過ぎていった。 その抱きすくめた時間は一、二分だったのかも知れない。あるいは二〇分にも三〇分にも感じて、ふっとわれに返ったときには少女の表情にも、うっすらとなにかはにかみの色が浮かんでいた。居間からつづく庭先には、びっくりするような青空がまぶしく、蝉の聲とともに広がっていった。 夏休みのある日、僕の家に遊びに来たその少女と鬼ゴッコのような遊びをしていたのだ。ふざけあって、きゃあきゃあはしやぎながら、少女をつかまえた弾みの出来事だった。僕も少女も、とっさに初めて知ってふしぎな知覚を感じて、びっくりしていた。一瞬の風に庭のひまわりやラベンダーの青が、一斉に揺れた。 その時のその快活な少女の、少しはにかんだような上気した表情を今も憶えている。だけど、その後その少女と遊んだ記憶はない。なぜ彼女と二人でそのように遊んでいたのか、どうしても想いだせない。 その瞬間は二人とも笑ってごまかしたけれども、予期すらしなかった大人への扉が押し聞かれたことによって、まさに子供の時代は終わりを告げたことを知らねばならなかった。 中学生になるまで、具体的に性を意識したことのなかった僕は、そのできごとの瞬間から、二度と同じように遊ぶわけにはいかないことを覚った。子どもの時間に終わりが来なければならないとは、何て残酷なことだろう。 男の子同士、女の子同士、そして男の子と女の子、いずれの友情にせよ、それは本来少年の時間そのものだ。子供部屋の二段ベッドが片付けられ、いつか蜜月を抱き合って眠るダブルベッドに変わって行くように、淡い友情は少年たちの時間であり、恋愛は大人の時間と変わってゆくものであるかもしれない。 けれども僕は、いまでも恋愛の中に、どうしても友情のようなものが内包していなければ、恋愛として感じることができないたちなのだ。それが、友達に対するような気持ちのプラトニック・ラヴにせよ、すべてをわかち合い許し合った大人の恋愛にせよ、その底に何かロマンティックな少年じみたストイシズムが潜んでいなければ、エロティシズムすら感じることができない。 これはあるいは、自分の恋愛観へのいいわけかも知れない。いい年をして、プラットニックな恋愛観で肉欲を包んでいるだけなのかも知れない。 ひとり縁側で爪を切りながら、苦笑いをしている。詩へのモードを構築中……。
2005.03.15
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少年の日 佐藤春夫I野ゆき山ゆき海辺ゆき真ひるの丘べ花を敷きつぶら瞳の君ゆえにうれいは青し空よりも。2影おおき林をたどり夢ふかきみ瞳を恋いあたたかき真昼の丘べ花を敷き、あわれ若き日。3君が瞳はつぶらにて君が心は知りがたし。君をはなれて唯ひとり月夜の海に石を投ぐ。4君は夜な夜な毛糸編む銀の編み俸に編む糸はかぐろなる糸あかき糸そのラムプ敷き誰がものぞ。佐藤春夫は、詩人・小説家・評論家であり、1892年(明治25年)に和歌山県に生まれています。中学在学中に「明星」「スバル」などに短歌を寄稿していました。それが縁で与謝野鉄幹らの知遇を得ています。慶大の同級に堀口大学がいます。外国の名詩を読むと堀口大学が翻訳しているものが多いですね。同郷の大石誠之助が大逆事件に連座して刑死したときに『愚者の死』を発表しています。師と仰ぐ森鴎外の『意地』を批評して評論家としても評価を得ていました。幻想的短編『西班牙犬の家』、取り立てて何も起こらない土地での怠慢に満ちた生活を繊細な筆致で綴った『田園の憂欝』などを発表しています。幻想・耽美かつ洒脱なおかしみを湛えた作品を多数発表しています。
2005.03.14
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信州は広く山脈によって区切られているので、県民性や風習も地域によってずいぶん違います。先日、川柳関係の大先輩が亡くなって、葬式に参列してきました。県の川柳界に長く貢献のあった方だったので、川柳人も大勢出席していました。葬儀場での焼香の後「灰寄せ」と言うセレモニーに出るように言われました。実は、僕の地域は「灰寄せ」という言葉はないのです。たぶん精進落としことだろうと思っていましたら、やはり精進落としのように、親しい人たちが故人を偲ぶための宴でした。それにしても、100人以上も出席していたのでしょうか。伊那地方でも精進落としはあります。ここでの「灰寄せ」でちょっと驚いたのは、ひとりひとりに結婚式のような膳がつき、大きな袋に引き出物までついていたことです。伊那地方では、こんなに丁寧な精進落としはないからです。ちなみに、わが伊那地方でも葬式のやりかたは地域によって少しずつ違いますが、おおむね簡略化されていて、香典の相場は隣組で2千円、知り合い程度のつきあいの場合は3千円、あとは仕事とか、親戚であるとか、ごく親しい人であるとかによって金額が変わってきます。特別な関係の場合をのぞき、普通に親しい程度だと5千円くらいなものでしょう。実は、それまでのつきあいを考えて、伊那地方並みの金額を包んでいったものですから、家に帰って引き出物を開けてみて当惑してしまいました。そこでの灰寄せセレモニーでの料理も、結婚式と見まごうほど豪華で立派なものでした。ちなみに伊那地方は、テーブルごとに大皿に料理が盛られているほかは、お煮かけうどんや手巻き寿司などがでて振る舞われます。精進落としに刺身などもでますが、大皿でとりまわしで一人ひとりの膳がつくところは無いと思います。香典返しはお茶だけというケースが多く、あとは香典の額によって喪主側がべつにお返しをしているようです。そのような地域にいるので、引き出物(土産?)についていた品物に驚いてしまいました。お菓子やおこわ、団子はともかく、品物を選べるカタログまでついているのです。それだけで、持っていった香典の額をはるかに超えてしまいそうです。料理などを入れたら、セレモニーホールの会場費などは別にして、一人あたり2万前後かかっているのではないでしょうか。冠婚葬祭は地域の伝承や風習に根ざしてつくられてきたものですから、一概にどの方法が良くて、どれが悪いとはいえません。その地域で育てられてきた習慣によって行われてきたのでしょう。その地方に詳しい人に聞いたら、少し大きい葬式なら5百万円前後の費用は覚悟しておかなければならないと言っていました。ということは、僕のように貧乏人では、その地域に住んだら、まともには葬式も出せないことになります。結婚式なら、ある程度の出費を予想して積み立てることもできます。しかし、葬式になる日はあまり事前には予想しません。突然にお葬式などということは、常にあり得ることです。そんなときに、あるていど香典でまかなえるとしても、いきなり数百万円という出費を迫られたら…。う~ん。冠婚葬祭について、僕はセレモニーを華美にすることが供養であったり、はなむけだという考え方より、その中味が大切だという方向に行くべきではないかと思います。沢山のご馳走がなくても故人を偲ぶことができるし、結婚も、こころのこもった披露宴であれば、ささやかであっても十分祝福はできるはずです。もちろん一概にその地域の習慣を否定するものではありません。ただ、沢山の料理や品物が欲しくて参列しているわけではなかったので、ちょっともったいないなーという感じを抱きました。さて、皆さんの地域はいかがでしょう。
2005.03.13
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内なる詩心をひきだす都合があって、まど・みちおの詩を読んでいて、気になる詩がでてきました。ミミズひとりでもつれることが できますひとりでもつれてくることが ありますひとりでもつれてみることが ありますあんまりかんたんな ものですからじぶんが…で ちきゅうまでが…この詩に関連して、中村桂子さんが興味深いことを述べていますから紹介しましょう。えーと、中村桂子といってもご存じない人もいますね。東京大学の理学系の大学院を出ていますから、きっと頭のいい人なんでしょうね。国立予防衛生研究所を皮切りに早稲田などの教授やさまざまな研究所を歴任して、「JT生命誌研究館」の館長をしている人です。JTというのが少しひっかかりますがそれはともかくとして、科学者はつきつめると科学の発展に疑問をもつようになるようです。***生きていることのふしぎに興味を持って研究を続けているうちに、科学および科学技術のありようがどこかおかしいと疑問を技つようになりました。科学研究は人好きです。ふしぎが少しづつ解きほぐされるのが楽しいのです。地球上のあらゆる生きものがDNAを基本物資としている仲間だということがわかった時には興奮しました。イヌも友だち、アリだってタンポポだって仲間だという気分ではいましたけれど、それはあくまでも気分です。調べてみたら本当にそうだということがわかってきたのですから、やっぱりそうだったんだと納得しました。その後の研究で、体の形づくりにはたらく遺伝子がムシでもトリでもヒトでも同じだということもわかり、ますます楽しくなってきました。ところが、研究はだんだんに、生きものを機械のように捉え、それを分解して構造やはたらきを徹底的に調べよう、そうすれば生きもののことはわかるという方向へ進んで行ったのです。しかも、機械ですから調子が悪くなった時には部品を取り替えればいいじやないかということで、医療もそちらに向かっています。なんだかおかしい。生きものは自然の一つであり、もちろん私たち人間もその中にいます。そこで、私はどうしてここにいるのかと問うて見たら、あたりまえのことですが、両親あってのものだということに思いあたりました。生きものは、長い長い時間が産み出したものだ、しかも皆がお互いに関係し合いながら生き続けてきたのだという、日常感覚でみればすぐわかることを改めて思い出したというだけのことです。そこで、「生命誌」という新しい考え方で仕事を始めたのです。生きものが語ってくれる歴史物語に耳を傾けよう。その物語は、宇宙誕生から始まる長い長い物語です。生きものを産み出した地球は宇宙の中で生まれたのですから。生きものを機械として分析していく場合に必要なのは、数式や法則です。けれども生きものが語る物語を読もうとしたら、必要なのは「言葉」。生命誌は言葉を求める研究でもあります。まどさんは、自然の中のさまざまなものを見つめます。カもノミもアリもオオバコも……その一つ一つをいとおしみ、その特徴を表わすことばを並べていくと、そこからはいつも「いのち」「自然」「宇宙」が見えてきます。「大むかしの水に自然に生きものたちが生まれでたように、生きものたちのいのちに自然にゆめが生まれでて、ゆめには自然にこえが生まれでて、こえには自然に言葉が生まれでて……」という気持ちがあるので、まどさんの言葉は、「しぜんに」いのちや自然や宇宙につながるのでしょう。
2005.03.12
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sowonさんの切れのある日記はいつも勉強になって、楽しみにしている。もっと、大勢に読んでもらいたい内容がいつもキリリと書かれている。今日の読んでびっくり~自民党改憲案「前文」の文案参考例~ もそうだ。もっとも『週刊金曜日』からの引用ではあるが、タイムリー記事を紹介してくれていて、ありがたい。自民党の憲法調査会のおそまつさには、これでも日本の第一党かと恥ずかしくなる。以前は、「憲法前文は読んでも意味がわからない」という発言をした委員がいたが、この程度の国語力でなぜ、改憲草案を書けるのかまことに解せない。改正することにより、より現在の憲法の不備を補完できる完璧なものにできるのなら、僕も「憲法改正」に賛成したいが、こんなおバカさんたちに任せていたのではガタガタになってしまうのではないか。まさか、皆さんはこんなのが出てきても承知することはないでしょうねー。
2005.03.11
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鳥にも禁欲の聖週間があるのですね森の小枝で思索に耽っていますその小さなレンズににんげん界が映っていて彼女は〈品性〉を探しています諦めきった刹那 ついに判決のように叫びました (松永伍一・鳥の夢より) 頭のなかの引っ越しをしています。幸い空き室がいっぱいあるので「詩」のモードをつめこんでみようと思いますしばらく しばらく ………。できるかな、ひっこし。
2005.03.10
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仲間で、「伊那谷の民族と思想」という本を読んで学びあっているということは以前に書いたが、そのなかで本多勝一について学ぶ機会があった。本多といえば、今は『週間金曜日』を主宰しているが、『朝日』の記者時代から鋭い筆致で知られている。彼は、この伊那谷の生まれである。『週間金曜日』の立ち上げのときに少し手伝ったことがあるが、田中康夫擁立にあたっては彼と対立した。彼の書くものをすべて肯定しているというわけではないが、学ぶべき著書は多い。本多勝一のルポルタージュにはきわだった特色がある。それは、ベトナム・ソンミ村を通して、アメリカの残虐性を浮き彫りにしていった『殺す側の論理』という書名に象徴されるような、いわゆる「……側の論理」という言葉で表現される、「自然と人間」をめぐる二つの「側」、たとえば「開発された側」と「開発する側」といういわば二分法によって、それぞれの論理とその病理を暴く方法が一貫してとられている。そしてその場合、つねに、小さき者、弱き者、被支配者、被害者でありつづけてきた民衆の「側」の不遇を書き、その病理の根源を構造的に明らかにしてゆくという作業におかれている。弱者に対する彼の思い入れは、ときとして反発を呼び、自称右翼たちからの脅迫にさらされてきているが、体制への反骨心は揺るぎない。この執拗なまでの「小さき者」の「側」に立ちつづけ、ふるいたつことを訴えつづけてきた情熱の秘密は、実は、本多勝一自身の少年期に刻まれた、不遇な原体験に孕まれているのではないだろうか、というのがこのときのテーマであった。それは、「美しい祖国」にも記されているように、二人の幼い妹の病死と不治の病魔におそわれるという悲劇の体験のなかに宿らされていった、と解釈される。「母と父」という自伝的回想のなかで、次のように記している。 あれは私が小学校二年のときだった。 八月のお盆をすぎてまもない夏の日、満二歳の晃子は発熱し、下痢をはじめた。近くの家の、晃子よりー、二歳年長の女児が下痢になって、ほとんど絶望状態に陥りながら助かったばかりでもあり、晃子も疫痢ではないかと、父母はすぐに気付いた。 助かったその女児を看た近所の医者にみせると、やはり疫痢だと診断された。だが、当時の最善の処理とは、何だったのだろうか。のちのちまでも、いや、生涯の終りまで怒りと恨みをこめて父が慨嘆しつづけたその「馬鹿医者の殺人療法」によれば、たとえばヒマシ油は厳禁され、水を与えてはならず、あまりに欲しがったら、唇をぬらすていどにせよ、と命ぜられた。激しい下痢によって水分が失われる幼児の身体に水を禁ずるということは、確かに今考えてみても、「馬鹿医者の殺人療法」ではないだろうか。そしていまひとりの妹も、「生まれてまもなく重症の黄疸に陥り、母と父の必死の看護の末に助かったが、やがてこの子は脳性マヒによる重度身体障害者になって」、今日にいたっている、という不幸な体験を刻み抱えていったのであろう。だからこそ、より一層「小さき者」への不遇が理解でき、それへの怒りが鋭い筆を握らせていったともいえる。(下につづきます)
2005.03.09
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(上からのつづきです) そして一方、少年の日の本多の自由で愉しい遊びを通して豊かな情操を育んでくれた、信州伊那谷の天竜川べりに棲息していた小動植物の群れの、今日における「沈黙」の風景も、本多にとって、そして今日の少年たちのことを思うとき、感情が爆発してゆくのだった。その病理について、本多は「わが故郷」のなかで、次のように指摘している。 そのようににぎやかだった大自然が、あの「高度成長政策」開始のころから、急速に滅ぼされはじめた。それは物理的・化学的の両面作戦ですすんだ。物理的とは、さらに増大した大小のダムのほか、工事で河原の砂利が大量採取されるのと、護岸工事の進行だ。 淀みや瀬や淵がなくなって、コンクリートで一定の流れに固定されたプラスチック=モデルのような川に、どうして魚が住みつけようか。 しかし何といっても、最後のトドメは「化学的」すなわち農薬や工場廃水による汚染である。本多の「わが故郷・伊那谷」はもちろんのこと、日本の故郷の原風景は死滅していったのである。それは、少年のみずみずしい情操を育む遊びの土壌を喪失させられていったことを意味する。創迫力と情操を失った青少年たちの精神や感情の奇形は、やがて今日のさまざまな「暴力」を生んでいるのである。砂防ダム、宅地開発行為ら、僕等が過度な自然への干渉に反対してきているのは、単なる過去への郷愁などではない。さりげなく触れあってきた自然とのかかわりが、人々の情操にも安定感を与えてきたのではないかという仮定が、つぎつぎと実証されつつあるという恐怖感を、ひしひしと感じているからである。
2005.03.08
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といっても、とむぼさんの剥製を展示するわけではありません。4月16日~5月8日まで、「駒ヶ根高原美術館」で、5月14日~20日まで桐生市「有鄰館」で作品展が開かれます。ということで、とんぼさんのサイトに紹介されていますが、案内状などをつくりました。彼女の手になる作品の不可思議な訴求力は、多くの著名な方々やプロの芸術家もファンとして惹きつける力をもっています。と、プレッシャーをかけてと…。でも、誇張ではないですよ。ということで、24日に銀河集会(オフ会)を行います。当日はたぶん思わぬ人や、楽しい趣向が用意されていると思います。お出かけください。会場の都合などがありますからご希望者は事前にご連絡ください。僕あてにメールで連絡ください。ただし、泥酔者といれずみ、そして身元不明の方はお断りしております。では、桜の咲くころに…。
2005.03.07
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イラクの武装勢力に拉致されていたイタリア人記者スグレナさんが解放されたあと、米軍により銃撃され、スグレナさん救出にあたった情報部員が楯になり射殺されスグレナさん自身も肩を撃たれ、他の情報部員も負傷した、というニュースは大きくとりあげられている。このためにイタリア軍のイラクからの撤退にまで発展するかも知れない情勢になっているようだ。米軍の発表では、車列が検問を無視して走行したため銃撃したということだったが、後にスグレナさん等の証言により、警告もなしに突然集中的に数百発の銃弾を浴びたということが明らかになった。予想される見方としては、自動車による自爆攻撃かも知れないと恐れた米軍が先制攻撃をしたのだろうが、それが運悪くスグレナさんの乗った車列だったというところだろう。久しぶりにイラク情勢を書いたのは、この事件に怒っているイタリア国民に共鳴したから、というようなものではない。彼女や、せっかく救出したのに自らが犠牲になった情報部員にはこころから同情はするが、戦場ではこのような悲劇や間違いは日常的に起こり得ることである。今度はたまたまアメリカに加担していたイタリアの人が犠牲になったから、大騒ぎになったのだが、イラク市民は日常的にこのような危険に遭遇している。冷静にこの事件から読み取れるものを考えてみよう。アメリカは、イラクに対してこの事件と同じように、不確かな情報をもとに予防的先制攻撃を仕掛けた。そのことによりイラクのパンドラの蓋を開けてしまったような状態にしてしまったために、イラクから引くに引けない無秩序世界をつくりあげてしまった。銃撃されたのが、たまたま注目されていたイタリア人記者であり生存していたために、この事実が大きく報道されることになったが、もし全員死んでいたらどうなったであろう。果たして、「検問を無視して突破したから銃撃した」と発表しただろうか。以前にも、武装勢力に襲撃されて亡くなったというケースが何度か発表されている。それがすべて正しかったのか疑わしい。僕はこの事件から、やはり車に銃撃を受け射殺された外務省の奧参事官の事件や、橋田・小川さんが殺されたケースが思い出されてならない。奧参事官が銃撃された現場では、奇妙なことに空薬莢などの証拠物品がきれいに無くなっていたという。死人に口なしである。そして、それよりそら怖ろしいことに、イラク人や民間人の乗った車が銃撃されてもいまではニュースにもならない。いったい、どのくらいこのような銃撃が行われているのだろう。この事件でわかったことは、アメリカ軍にとって不審と感じる動くものは当然のように銃撃される、という事実である。橋田さんとともに殺されたジャーナリストの小川功太郎さんが、事件の数日前に友人に宛てたメールには次のような記述がある。特にファルージャという町での米軍の蛮行は目に余るものがあります。スナイパーが面白半分に通行人や子供を撃ち殺し、町は手当たり次第に空爆、でも報道規制があまりに厳しいため、こうした現実は町から命がけで逃げ出してきた避難民の証言でしか伝えられません。2週間で1000人近い人が死んでる。これはもう戦争というより虐殺です。罪のない無実の人間を殺す、これこそテロ以外に何者でもないと思う。今のイラクは秩序とはほど遠い、文字通り何でもありの危険な国になっている。派遣された自衛隊が安全だといっても、武装したうえに他国軍隊に守って貰っているだけのことで、もし安全を言うなら休暇には、私服を着て街中を散歩し、バクダットあたりまでドライブをしている、という日常風景が見られてこそ「安全」といえるのではないだろうか。とはいっても、世界がイラクをこのまま見捨てたら、この先一層とんでもない無秩序体制となりかねない。パンドラの箱を開けてあるのである。アメリカができることは、軽はずみな先制攻撃を誠心誠意イラク国民に詫びて、文字通り民主的な国家として出発できるように手助けすることである。このさい国連にも詫びて、世界の手を借りるのもしかたがないだろう。イラク攻撃強硬論者だった仕掛け人のひとり、ラムズフェルド米国防長官が責任をとって年内に辞任するようだ。辞任したらイラクにいって民主国家にするためのボランティアでも何でもするべきだろう。そのくらいの責任はある。ブッシュ大統領も、任期が切れたら同様に最後までイラクが民主化するまでお手伝いをするべきだろう。あれほどイラクの民主化のために信念と情熱をもっていたのだから成就させるべきだ。もちろん、頑丈な米車でいいから安全なイラク国内は車で移動してもらいたい。誤った政策をとって、イラク国民に未曾有の困難を押しつけてしまったのだから、せめて最後まで命をかけて責任をとってもらいたい。自国、他国の大勢の若者には、自分の命令で命をかけさせているのであるから。
2005.03.06
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40歳を過ぎてから、もうこのまま独身でいるのかなと思っていたのに、突然に結婚することになったと言ってきた女性がいます。僕と特別親しいというわけでもないのに、何か心境の変化でもあったのでしょうか。それとも誰かに話してみたいということなのですかね。このときの僕の感情。ちょっと不思議な気分なんですね。それまで気にもとめずにいた人で、ピクリとも異性を意識したことがなかったのですから、結婚しようとしまいと別に関係ないはずなんです。それなのに、なぜか遠くのほうでジェラシーのようなものが湧いてくるんです。いえ、相手の男にですよ。その女性は、「自分でもまさかと思っていたけれど、やっぱり結婚することになりました」って、言うときの顔が、ほんのり上気していて色っぽいんです。何のへんてつもないと思っていた女性を、このように変えてしまう男に、負けたと思ったんですね。あぁ、このひとは今その結婚相手のことを考えているな…と。それで、その相手ってどんな人だいっと、聞かれるのを待ちかまえているようなんですね。ムクムクと意地悪な気分が高まって、その問いとは別の質問をしてみることにしました。―そう、良かったね。ところで今までどうして結婚しなかったの? もっとピチピチして賞味頃のときがあったはずなのに。―そうねー、20歳から24歳までのころは「いつ結婚する?」って言われ、それから27歳頃までは「結婚したくないの?」って言われ、30過ぎたら「なぜ、結婚しないの?」って言われたんですよ。そして、35歳を過ぎたとたんに「どうして結婚しなかったの?」って、過去形で言われるのよ。それまで、あまり結婚願望がなかったけれど、過去形になってから、なんとなく落ち着かなくなって…、弱気になったということかな…。ということだ。ところで誰からも結婚のことを聞かれなかった歳があるそうです。そう、28歳、29歳。これは周囲の心配り、優しさなんでしょうね、きっと。それだけ微妙な歳だということでしょうか。最近は男女とも結婚しない人が増えているようですが、この理由は何でしょう。自立する女性が増えたということがよく言われます。自立すると結婚を必要としないのでしょうか。当然、結婚するからには子どもをつくるということ大きな目標ですし、つくらないまでもSEXでのスキンシップがあるということは、大きな要素になるわけです。しかし、今は独身でもみんなこれに足りているということなのかなー。そういえば、この結婚することになった女性も、以前と較べどことなく肌の艶がいいような気がします。おのれ、しらばっくれていたなと…。まあ、僕が怒ることでもないのですが、とにかくおめでとうさんということで…。
2005.03.05
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バレンタインデーが過ぎ去ると、恐怖のホワイトデーというものが待っている。それで思い出したのだが、もう10数年前のサントリーのCMが印象に残っている。僕はあまりテレビを観る習慣がないが、仕事柄もあってCMは注意深く見る。そのCMの文句が、「ハートをあげるからダイヤをちょうだい」というものだった。CMの女性が持っていたのは、ハート型の大きめなチョコレート。なかに洋酒が入っているものだったような気がする。しかし、ハート型のチョコレートに見合うダイヤとなると、夜店でも探さないとないだろう、と思ったものだ。印象に残っているCMの言葉は、昔発表されているのに意外に古さを感じないものだ。つぎのCMはいつ頃のものかわかりますか?「知性の差が顔に出るらしいよ……困ったね」これは桃井かおりが、なんと1978年頃やっていた角川文庫のCMで、これと同じ頃に「君の瞳は100万ボルト」なんてのもあった。アンネという生理用品の会社のCMも印象に残っている。「ぼくは男にも生理があるべきだと思う」誰がやっていたか忘れたが、この言葉は印象的だった。「色つきの女でいてくれよ」なんてのは1982年だから、知らないひとも多いのかも知れない。「私はこれで会社を辞めました」という、禁煙パイポのCM、まだ禁煙パイポはあるのだろうか? こりは1984年だから、もう20年以上にもなるわけだ。好きなCMでは、宮沢リエの「すったもんだがありまして」というのも可愛かった。たしか、貴乃花との破局後に登場したので、よけいタイムリーな印象にのこったのかも知れない。これは1994年。山本容子の「美しい50代が増えると日本は変わると思う」というのも印象的だった。1996年だから、僕はまだ40代の頃だが、おお、今や50代というのは捨てたモノではないではないかと思ったモノだ。年代を失念したが、「育児しない男を、父とは呼ばない」というのもあって、そうか、父ではないのかと寂しいおもいをさせられたCMもあったりして、CMも読みようによってはなかなか時代をとらえていて面白いものだ。しっかり降りましたね、雪
2005.03.04
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ひなまつりといえば胸が痛むことがある。娘がうまれて初めて迎えた三月、妻の母親が雛人形を買ってくれるといってきた。母親は山形県に住んでいた。遠いのでそちらには行けないのでお金を送るから、見繕って好きなのを買ってあげなさい。と言って、数十万というお金をくれた。独立して、仕事を始めてから数年を経ていたが、自営業というのはなかなかやり繰りが厳しいのである。会社の経理を預かっていた妻は、かねてから僕の欲しがっていた仕事の道具にそれをあてさせて貰おうと、言った。そのかわり、娘がものごころつくころまでに、ちゃんとしたお雛様を買ってあげること、という提案をもちだした。もう、僕は喜んでその提案に乗った。2、3年頑張れば、そのくらいなんとでもなるだろうという気持ちだった。ところが、3年経っても、5年経っても、借りた金が余剰金としてでてくることがなかった。自分たちが取らなくても、暮れには社員のボーナスを払わなければならない。年内に溜まっていた借金も清算しなければならない。そして、確定申告の税金を払えば青息吐息、とても雛人形どころの状態ではなかった。それからン十年、もらい物の小さなお雛様だけは(どこかに)ある。娘も、親の仕事貧乏は知っていたから、一度も大きいお雛様が欲しいとねだったことはない。 内心、家を新築したらと思ってはいたが、家が建ったときには費用の補助を約束してくれていた父は癌で亡くなっていて、予定より大きなローンを抱えることになったため、やはり雛人形どころではなくなった。その娘ももう25歳。いまさら雛人形という歳ではないが、せめていい内裏様でも見つけて欲しいと願っている。が、その様子は伺われない。親ばかでいうが、どちらかといえば僕に似ているからブスではないはずだ。性格だって、部屋の片づけはちょっとラフだったが、決定的な死角は見あたらない。それどころか、いつでも親のことを気にかけているから、好きになった相手にだって同じようにできるはずだ。どうやらこれは、僕が雛人形を買ってあげなかった怨念が取り憑いてしまったのだろうか。彼氏探しをするどころか、今日は店長会議だ、明日からは展示会だ、とあちこちを飛び回っている。いや、それとも、突然つれてきて驚かせるつもりなんだろうか。ここ数年は、ひな祭りの日には懺悔の気持ちで過ごすことになってしまった。今夜は雪が降っている。朝までにはだいぶ積もるのだろう。娘は今頃、独りでひな祭りの晩を過ごしているのだろうか、それとも…。
2005.03.03
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という言葉があります。「女になる」というのは、初潮を迎えたときとかSEXの初体験を終えたときにいう、たぶんに肉体的なものをそしていることが多いような気がしますが、さていかがでしょう。では「閉経」したら女でなくなるのか、異性体験がずっとなければ女ではないかと問われれば、「う~ん」やっぱり、女は女だよなー…、と。これに対して「男になる」というのは精神的な部分が多いと思います。だから誰でも「男」になれるかといえば、そうはいかないわけです。形の上では男とか、動物学的(?)に男というのはあるでしょうが…。歌手の谷村新司が言っていました。「男になる」ためには、最低五つの必要かつ十分な条件を満たしていなければなりません。として、その条件とは、・まず最初は、独りぼっちが好きである。 嫌われているのとは、違います。誰からも相手にされず、 独りになってしまっているというのではないんです。自ら 進んで独りになる、独りぼっちが好きであること。・二つめは、行動力がある。・三つめ、秘密をひとつ持っている。・四つめ、見果てぬ夢を持っている。 ここまでは、まず頷けます。最後のひとつ、これが難関です。 どういうことかというと、・家出をする勇気がある。 ここで、たいがいの人が挫折してしまうんです。僕も、一晩二晩ならありますが、捜索願を出されるほど長くしたことはありません。独りは好きだし、行動力もあるほうだろうし、夢も持っている、秘密も少しはある。でも、家出はできない。ポイントは、ここです。この点、猫の牡はエライなーと思うことがあります。1、2週間も家出して、帰ってこないこともあるんです。
2005.03.01
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