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午前に仙台駅でDC(ディスティネーション・キャンペーン)のイベントをやっていた。来年10月から本イベントで、プレキャンペーンが1年前の今年10月からスタートする。地域、旅、乗り物。単純にこれらが好きだから、眺めるだけでもウキウキする。観光パンフなどの展示を、歩き回って眺めていた。甲冑を眺めていたら、「着てみませんか」と言われて慌てて「今日は良いです。重いでしょうね」と答えたら、紙でできているんだよ、と。城下町白石の展示コーナーだ。宮城県内だけではい。世界遺産本登録を控えた平泉のコーナーもある。4種類のパンフを全部集めて、電車の中で集中的に読み込んだ。1 平泉 奥州藤原氏が築いた極楽浄土の地(平泉町発行と思われる。携帯用ガイドマップ)2 平泉 日本史の舞台(同上。写真を多用した魅力的なパンフ)3 黄金王国夢紀行 岩手県南の自然・歴史・ふれあい選りすぐりガイドマップ (黄金王国推進委員会(一関観光協会)。周遊の旅に好適)4 平泉の文化遺産を世界遺産へ(岩手県教育委員会)最後のパンフは、平泉の歴史と世界遺産の意義を極めて要領よく、しかも読みやすくまとめている。一般にガイドマップの中には、短視眼的にスポットの説明だけで、歴史のダイナミズムや周辺との関係、交通アクセスさえわかりにくいものも少なくない。このパンフは、おそらく世界遺産に向けた機運情勢が主目的だと思うが、観光パンフとしても十二分に活用できる。一番良いと思うのは、現在の平泉の空撮写真と12世紀の平泉想定図を並べて説明してくれる点。歴史とは何かを気づかせてくれる。資料の作り方としても世界遺産級?の素晴らしさだ。県教委の方々の熱意と誇りが伝わるようだ。唯一残念なのは改訂が06年3月だそうで、最新になっていないこと。是非、最新版には、今春開業した仙台空港アクセス鉄道もPRしていただきたい。最終ページにある仙台空港のピクトグラムの位置が、多賀城あたりにあるようにも見えて、あれれ、という感じも。平泉が日本人の文化史に大きな意義を持つ世界級の遺産であることは疑いない。そして、世界の注目を集め、来訪者を迎えるに際しては仙台空港が世界との窓口になる。岩手県南、南三陸、松島、仙台、と東北の良さを世界に示す大きな契機だ。平泉世界遺産は東北全体で盛り上げたい。折しも仙台・宮城DCもスタート。来年は世界遺産登録とDCで、岩手・宮城の観光新世紀。いざ発進!■岩手県サイト(世界遺産関係)■関連する過去の記事 骨寺村荘園遺跡(07年2月26日) 都市平泉の予想図(07年1月28日) 平泉への道(06年1月11日) 義経伝説と東北の歴史ロマン(05年12月8日)
2007.09.30
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岩手県金ケ崎町は、町名を構成する「ケ」の文字について、小さい字で表示する場合も見られるが、1年余の調査を経て、改めて大きな「ケ」で統一すると発表した、という。9月28日の岩手日報記事だ。全国の自治体に聞いたら、14自治体中10は小さな「ヶ」を採用しているそうだ。この問題は、当ジャーナルでも調べたところだが、もともと、片仮名としての「ケ」の大文字小文字という議論ではないのだ。ただし、現在の実務上混乱はあるだろう。具体的に言えばワープロで文字を表現するときに、どちらでやるのか。いずれにしても統一してもう悩まない、ということなら、それで良かろう。■関連する過去の記事 旭ヶ丘などの表記「ケ」を考える(07年8月3日) 宮城・悩みの地名あれこれ(07年6月9日)
2007.09.29
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読売新聞9月27日の県内版(仙台圏)に、東北大学が世界に誇る八木・宇田アンテナは、「日本十大発明」に数えられている、という説明があった。そもそも「日本十大発明」とは何だろう。世界3大発明なら聞いたことがあるが。 勝手に想像するに、人力車、カップラーメン、味の素、ボンカレー、ウオークマン、カラオケ、パパ好み(!)、ハラキリ、ゲイシャ、十七条憲法、根回し(?)...結構難しい。とりあえず1つは仙台ゆかりの発明があるということらしい。あるサイトで日本十大発明が並べてあった。うま味、アドレナリン、ビタミンB1、写真伝送方式、養殖真珠、木製人力織機、MK磁石鋼、邦文タイプライター、KS鋼、八木アンテナ仙台ゆかりは2つも入っていた。これは誇らしいことだと思う。
2007.09.28
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しばらく前から調子の悪かったウォッシュレットを交換しました。部品交換でも対応できたのですが、3万5千掛かって、しかも他の部品も水漏れの影響で危なく、部品保存の10年の期限も切れるので、などと言われて思い切って買い換えました。コストをケチって、量販店から買い、自分で取り付けたので、実は心配です。配管も自分ですから。水漏れしないかどうか。画像は家の裏に打ち捨てられた先代のウォッシュレット君。11年間ありがとう。ところで、最近家の電化製品が足並みをそろえたように、みんな調子を崩している。ちょうど時期なのだろうか。1 食器洗い機 どういう訳かフタを閉めても作動しない。これまで2回ほどサービスマンに来てもらいました。2日前に来てもらって、しばらくはこのままで良いと言われたが...2 食堂の照明 半年ほど前から点いたり消えたり。インバータの不具合のようだ。3 夫婦仲 ここ14年になるが、相当前からヒビが入っているので、逆に長持ちしそう。
2007.09.27
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昨日(火曜日)は秋らしい一日。連休はいまだ残暑が厳しかったが、やっと爽やかな秋空。雲も秋の気配。風が吹いて来て、季節の変わりを感じます。私は夏の暑いのが大の苦手。北国生まれなもので。今年の夏は大変でしたね。(そして冬には寒いのが苦手と主張するはず。)実は1週間前に足を負傷しまして、一時は歩行困難に陥っていました。まだ痛みは残りますがなんとか通常歩行できるに至りました。回復バンザイ。右足ふくらはぎに肉離れを起こしたようです。何でもなく普通に歩いているときに、グサッと来たのです。前に進もうにも脚がついてこないもどかしさに、心もグサッと来て、ああ年とはこのことか、と気分は既に晩秋の気配でした。写真は朝の我が家の庭。日差しが、秋、です。
2007.09.26
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寛政5年(1793年)11月27日、牡鹿郡石巻港から、24反帆、800石積みの若宮丸が、藩米332俵と木材を積んで江戸へ向け出帆した。しかし磐城の塩屋崎沖で南の逆風に遭い、北へ漂流すること約半年、翌年6月に乗組員16人が辛くも到着したのは魯領(ロシア領)オンデレイツ島であった。 一行は10か月ほど厚遇を受けた後、翌1795年4月に、病死した平兵衛以外の15人はロシア本国に船で送られる。オホーツク、ヤクーツク、イルコーツカに順次移される。イルコーツカでは、先年漂着してそのまま居残ってニコライと称していた伊勢の国の新蔵という者が通訳をしたという。 1803年にモスクワを経て帝都ペトルブルカに送られ、皇帝アレキサンドル一世に謁見を許される。この時一行は10人で皇帝は帰化を認めたが、津太夫、儀兵衛、左平、多十郎の4名が帰国を希望し、政府の好意により軍艦ナデシタ号によって南米を経て無事長崎に送還された。 漂流者一行は、寛政5年11月から、文化元年(1804年)9月まで12年をかけて世界一周をして奇跡の生還をしたのである。 この事件は帰国後の記録として「環海異聞」に著されている。 多十郎の墓は室浜の入口に建てられているが外の3名の墓碑は土に埋もれてしまったようだ。寒風沢の加藤家仏壇に津太夫の母の位牌があり供養されているそうだ。 林子平が海国兵談を完成したのは1791年、寛政の改革の松平定信は版木を没収して焼いた。日本は躍起になって海外に目をつぶろうとしていた時だ。 後にジョン万次郎(嘉永3年(1850年)漂流)は、アメリカの捕鯨船に助けられて帰国したが、ペリー黒船来航(1853年)直後の事情から、幕臣となるまで厚遇された。実は島国日本からの漂流民は17世紀から相当多数が外国に保護されている。まさに林子平が言ったように、江戸から唐オランダまで境目のない水路なのだ。 漂流民を受け入れた強国は、日本に国交を求めに漂流民を護送までしてくれたのだ。しかし、ジョン万次郎の時代は別として、以前の漂流民の帰還は幕府にとって迷惑だったに違いない。また漂流民を手みやげに通商を迫る外国使節はことごとく追い返した。大黒屋光太夫とラクスマン(1792年)、米国のモリソン号(1837年)などの例のとおり。 若宮丸漂流民4名を乗せたナデシタ号では、ロシアの使節レザノフが貿易を要求した。幕府は漂流民は受け取ったものの使節は追い返した。 思いもしない異国の地を歩き、何とか故郷に戻った4人の心中はどうだったろうか。 林子平や高野長英のような先覚者を輩出し、さかのぼれば藩命を懸けて支倉常長を遠くローマに向かわせた仙台。ここに偶然ながら日本人初の世界一周を果たした人々がいた。そして時代はそれにフタをかぶせようとした。 画期的な偉業なのにこれまで知られることの少なかった若宮丸漂流民。彼らの足跡と生きた時代のことを、仙台・宮城の貴重な史実として我々は学び取るべきでないだろうか。■資料 ○若宮丸漂流の事(塩竃市ホームページ) ○多十郎の墓・漂流記念碑(東松島市観光協会) ○菊地勝之助『仙台事物起原考〔再編復刻版〕』1995年、株式会社ヨークベニマル(原著は昭和39年発行(郵辨社)。復刻はヨークベニマル仙台古内店開設記念の非売品) ○初めて世界一周した日本人(株式会社のびる屋さん) ○石巻若宮丸漂流民の会 ○津太夫の世界一周記 ○井沢元彦『攘夷と護憲 歴史比較の日本原論』徳間書店、2004年
2007.09.25
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我が家の居間の壁にクイズが貼り出された。写真で問題文が読めるでしょうか。上の娘が出した問題で、この隣にはメモ帳がピンで留められており、10月4日までにクイズの答えを書いて応募すると、優秀者の成績発表があるのだそうです。他人に聞くズルは禁止で、小学生だけは(妹のこと)大人に聞いてもいいとのこと。早速応募しましょう!それにしても第4問は難問。論理クイズで昔は得意だったけれど、どうするんだったか。ちなみに問題文の「小父山」はオジサンと読むようです。ところでこのクイズ、10歳の娘の「仕返し」です。何日か前に娘に挑戦状と題して3問のクイズを出してやったからです。スッキリ答えられなかったようで、こんな形で反応が来ました。それでも、7歳の妹も考えられる問題を織り交ぜたのは、さすがにお姉さんです。(親バカ ← クイズで娘とコミュニケーションの淋しいオジサン)
2007.09.24
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東北運輸局が毎月管内の新車新規登録台数を発表している。経済活動の1つの主要指標として注目されるのだが、最新の本年8月分を見ていて、気になった。青森県だけが、乗用車(3・5ナンバー)の新車新規登録台数1,583台よりも、軽自動車の1,643台の方が多い。なお統計の構成は、乗用車、貨物(1・4ナンバー)、小型二輪、その他(バスなど)、軽自動車。軽自動車には軽トラも含まれるだろうから、「軽自動車」の選好度合いを絶対数で比較するなら相手は「乗用車」で良いとは言い切れない。あくまで軽自動車が多いという目安として、「乗用車」を上回るかどうかの点を見ているもの。さらに言えば、これは新車の登録台数だから、中古車の登録状況、そしてストックとしての保有状況もみれば、さらに選好状況がわかるかも知れない。また、世帯で何台持っているか、営業用と自家用車との関係も興味深い。全国的には例によって北陸地方が世帯当たり保有台数が多いようだが、東北でも山形県などは全国上位だ(資料)。所得や事業所統計とも相関するかも知れないが、年齢構成や地域交通事情に相当左右されるだろう。統計に戻るが、管内合計では乗用車12,536台、軽自動車9,932台。全般的には8か月連続で、前年同月比マイナスなのだが、乗用車のうち小型(5ナンバー)は23か月連続減だが、普通車(3ナンバー)が6か月ぶりに増加し、しかも各県で増加しているのが特徴的だ。青森県でも、普通車はなんと43.3%増加の589台とすごい。軽自動車は減少しているのだが、それでも上記のように青森だけが乗用車全体よりも多い。なぜだろう。経済的な県民性か。それともリンゴ農家が軽トラックを数多く持っているとか...平成18年度分の統計を見ると(東北運輸局資料)、次のとおり。単位は台。---------- 乗用車 軽自動車青森 24,891 29,638岩手 24,789 24,621宮城 55,982 41,280秋田 23,040 23,700山形 28,361 26,074福島 47,775 36,184管内 204,838 181,497全国 3,019,838 2,030,570----------岩手もギリギリだが、秋田と青森で軽自動車が上回っている。この状況は何に由来するのだろう。有意な解釈ができるかどうか、全国の都道府県のデータを見ようと思ったが、国土交通省で月例や年次のデータをまとめていると思うのだが、すぐには見つけられなかった。そこで各地方運輸局のホームページを見て、青森のように軽自動車が乗用車を上回る都道府県を探した。----------○中国運輸局(7月) 鳥取(乗958 軽1,113) 島根(乗1,300 軽1,655) 岡山(乗3,269 軽3,386) 山口(乗2,800 軽3,037)----------つまり、中国では広島以外は軽自動車が多い。管内全体では乗用車が多いのだが。また、中国運輸局では保有車両数も公表しており(同じく7月分)、鳥取、島根の2県で軽自動車が乗用車を上回っていた。他に見つかったのは九州。ここは新規登録ではなくて、保有台数だ。軽自動車が乗用車を上回る現象の県は次のとおり。----------○九州運輸局(平成19年3月末の保有台数) 佐賀(乗272,599 軽290,633) 長崎(乗373,874 軽451,393) 宮崎(乗380,516 軽421,438) 鹿児島(乗543,186 軽611,611)----------と言うわけで、福岡、熊本、大分以外が該当した。
2007.09.23
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子どもが行きたがるので住宅展示場へ。空気で膨らませる巨大なクマさんの中に入って、ポンポンとジャンプして飛び回るのが好きだからだ。洗剤などの景品ももらえるので損はない。ジュースやお菓子もいただける。展示住宅にはさほど興味はないのだが、「月刊住まいの情報」をもらったのでビックリした。あの廃刊したはずの...カラーの雑誌形式になって、編集は株式会社アドスタッフ、発行は河北新報社。アドスタッフさんのサイトを見ると、2月からリニューアル発行しているとのことだ。古田さんももちろん登場しておられる。■関連する過去の記事 住まいの情報廃刊(06年12月4日)
2007.09.22
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NHKニュースによると、薬莱山ろくでは、ソバが花盛り。清楚な白い花が高原の秋風にそよいでいるそうな。加美富士とも呼ばれる薬莱山のふもとではソバの栽培が盛んで、山麓の「やくらいガーデン」でも地元の農家に委託して2ヘクタールの畑でソバを栽培。いま満開の時期を迎えているのだ。ところで先日乗ったバスには、「高速バスで仙台←→やくらい」というビラが下げてあって、こういうものは必ず1枚もらう性格なので、いま眺めている。1日1往復で、所要時間が1時間37分。片道1200円(小児600円)だ。現地(やくらいガーデン)には1037着(土日祝は1137着)、1550発だ。特典として「薬師の湯」や「やくらいガーデン」が半額、など。ビラには、東北一のコスモスフェア、コスモスまつり、などの触れ込みも書かれている。秋の薬莱山も良かろう。でもやっぱり自家用車になるだろうな。
2007.09.22
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何とも痛ましい事故だ。どう見ても見通しの良い道路なのに、通学途中の何の落ち度もない子供達が犠牲になった。逮捕された容疑者は、よそ見運転をして、気が付いたら目の前に子供が居た、と供述したという。南陽市赤湯の20日の事故だ。何度も言い古されたことだが、車は走る凶器だ。それを意識して運転していなければならない。常に。もちろん四六時中、オレは凶器を運転していると認識し続けよというわけではない。具体的には、車間距離、ブレーキ、安全確認、速度制限順守などだ。さらに、仮に眠くなったら休む、などのことも当然に責任のうちだ。習慣として身につけているべきことだし、身につけていれば、そんなに高度な注意義務でもないのだ。これをしない一部のドライバーがいて、そして事故を起こすのだ。本当に許せないと思う。私はこう思っている。車を運転する以上、ある種の危険は不可避に惹起する可能性はつきまとう。しかし、被害事故はともかく、加害はほとんどの場合、主体的に防げる。防げないとしたら、不可抗力だろう。予期せぬ飛び出し、とか。改めて日ごろの道路交通事情に思いを致すと、事故を起こしても仕方ないような運転をする車の実に多いこと。
2007.09.21
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仙台の名は、千代城や千体仏に由来するのが定説だ。さらにさかのぼって鎌倉時代以降、他の地域と同様に、広瀬川の内側の山手という意味で川内(かわうち)と称され、こを音読して千体、千代などの表記につながった、とされる(藤原相之助氏など)。また、アイヌ語に求める見解もあり、セプナイ(広い川の意)、セムナイ(崖の川)などとする説もある。さらに、朝鮮語に求める見解もある。霞野を意味するセングダングイから仙台の音が生まれたと見る(土佐林義雄氏)。
2007.09.20
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政宗が江戸の柳生宗矩邸を訪れたときに出された酒のおいしさに、この杜氏を招きたいと柳生に頼み込んだ。柳生は大和国榧森の雲野氏を名乗る浪人、諸白屋又五郎を派遣してくれた。又五郎は慶長13年(1608年)仙台に来て、御城定詰御酒御用に任命される。そして、榧森又右衛門と名乗らせ、帯刀を許し十人扶持を与えた。政宗の命で仙台城御太鼓部屋の崖下(三の丸)に御酒倉を建てた。現在の博物館の裏の空き地である。明治八年まで御城御用御酒屋の看板が掲げられていた。酒倉で醸造された酒の種類がすごい。夏氷酒、伊丹酒、南蛮酒、忍冬酒、桑酒、延令固本酒、葡萄酒、琵琶酒、泡盛酒、味醂酎、みかん酒、砂糖泡盛酒、菊酒、揚梅酒、いちご酒、みぞれ酒、しそ酒、焼酎なおし、梅酒、榧酒、疝気薬酒、白梅酒、竜眼酒、白酒、豆淋酒、甘露酒、当座玉子酒...戦地に携帯する印籠酒も作っていた。明治十年に少しばかり残っていた印籠酒に熱湯を入れてかき回したら、1升から2升の酒ができたという。このようなインスタント酒の製法は、今は伝わっていない。■文献 逸見英夫、伊達泰宗『独眼竜政宗の素顔』宝文堂、1996年■関連する過去の日記 清水門跡(07年7月13日)
2007.09.19
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夜来の雨が弱くなったが、さめざめと降り続いている。こういうのを蕭々たる雨というのか。かえって週明けの朝の空しさをかき立てる。気晴らしに歩いたり自転車で行ったりするのも一法なのだが、雨100%だから、それもできない。関係ないが下の娘も重苦しい感じで、起きるのがイヤだ、とバタバタしていた。1階に下りてきたのに、ソファーで横になって粘っている。
2007.09.18
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山形市長は市川氏が再選。ところで得票数を見て驚いた。5万票で当選だ。投票率31.36%と過去最低。有権者が20万人だから、4分の1(接戦の場合の再選挙の水準)は得票したと見ることもできるが、それにしても県都の市長が5万票とは、淋しい。今回の市長選挙は自民が自主投票を決めたこともあって、関心も盛り上がりもなかったのだろう。齋藤知事の誕生や参院選での民主勝利なども背景に有ろうが、政治団体なかんずく政党の意義と役割を考えさせられる結果だ。一時の宮城や秋田の政界地図にも似ている面もあるように感じる。合併後の酒田市長選挙で阿部市長が4万3千票(有権者96千人、投票率72.44%)だったことと比較したい。阿部氏も当初は優勢が予想されたが、対立候補で民主が推薦した関東の裁判所書記官の方は25千票を集めた。善戦だと言えるし、批判を集められたという点で選挙の形をなした選挙だったと言えるのでないか。投票率でいえば、全国的には知事選挙でも20%台はあるし(先月の埼玉知事選27.67%)、市長選挙でも20%台はある。山形市長選だけを悪く書いてしまったが、先月の盛岡市長選は再選した谷藤市長が5万8千票(有権者23万5千人)、投票率30.94%だった。対立候補は何度も挑戦しているが組織のないおなじみ立候補者で政策的盛り上がりもなかったようだ。こちらは民主党が独自候補擁立を模索しながら果たせなかった。その意味では山形市長選と正逆だ。無投票という事態は招かない共産党の姿勢に、拍手を送りたくなる。しかし、最近では「選挙に無駄なコストをかけるな」式の論調も堂々なされるようになってきた。日本の地方選挙はどうなっていくのだろうか。
2007.09.17
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白河と棚倉を結ぶJRバス路線白棚線(はくほうせん)は全国でも珍しいバス専用道路を走るバス路線だ。1916年(大正5年)から44年(昭和19年)まで鉄路が敷かれたが、レールが戦争資材に調達されて営業中止。戦後も鉄道復活の声があったが、路盤跡を自動車専用道路としてバス輸送する方式が採用され、1957年に白棚高速線として開通。かつての路盤は舗装され、また所々に行き違いの待避所を設けた。後に名神高速を走る国鉄バス名神高速線が開業したことで(1964年)、高速の2字を削除して「白棚線」と改称したが、元祖「高速」バスである。現在の白棚線バスは専用道と国道289線を交互に走り抜け、高校生などに利用されている。私の持っている東北広域道路地図を見ると、289号線(棚倉街道)に寄り添うように併走する道が見える。これがそうなのだろう。一般車や人は通行禁止とされた田園地帯のバス専用道。面白そうだ。一度行ってみたい。ところで私が昭和60年頃に見た宮城県の地図にも、登米郡あたりに「宮城交通バス専用線」とかいう活字を2箇所ほど見た記憶がある。かつての仙北鉄道の敷地をバス専用にしていたのだろう。昭和60年頃に実際に専用線として走行していたのか、「跡地」の意味だったのかは覚えていないが。■参考 福島県高等学校歴史地理・公民科(社会科)研究会編『福島県の歴史散歩』山川出版社、2007年
2007.09.16
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秋なのに結構暑い。下の子と散歩したら汗をかいた。庭にはヒラヒラと蝶々さんが飛んでくる。キアゲハ、だと思う。パタパタして、間もなく飛び去った。
2007.09.15
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第10回作並温泉感謝デーというチラシを見ている。500名様に、7つの温泉で使えるペア入浴手形が当たるという。ところでチラシの裏には「回文かるた」が紹介されている。回文の里づくり実行委員会が発行し、1000円で売っているそうだが、カードの例として次のような回文が出ている(一部カードが重なって見えないので想像も交えて)。桜 開くさなんだかワンマン、若旦那くどくどと 届く毒なるほど、短い回文も結構面白いものだ。そこで、わが編集部も挑戦。バスに乗っていた10分足らずの間に考えてみた。良い仙台男性よ素晴らしいシラバス夜寝るよ
2007.09.15
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後継総裁には福田康夫元官房長官の線が強まったという。なるほど。やっぱり出てきたか。谷垣氏も支援に回り、額賀氏も出馬断念となりそう。あとは麻生太郎氏だが、出馬の正式表明を今日(14日)に延ばして福田氏の動向と党内情勢を読んでいるのだろう。解散すべきとの世論が6割に達する(毎日新聞)という中で、次の内閣は選挙管理内閣とも言われるが、やはり手堅い福田氏を求める声が出てきたわけだ。
2007.09.14
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手元にある宮城県の観光パンフレットには、3~4ページに、「巡る」と銘打って、松島をはじめとして東照宮、輪王寺、竹駒神社などが紹介されている。このページに紹介されている松島の夕景は、大高森だろう。美しい。こういう物を見ると、理由なく単純に突き動かされるときがある。明日の早朝に大高森に出かけようか。
2007.09.13
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退陣表明した首相のことを、「安部」と書くケースが結構散見されます。ニフティのページで注目ワードもそうだ。「安倍」ですね。正しくは。ところで、安倍総理の父君の晋太郎氏は、例の青森の津軽古代文明に関連した偽作事件に関連して、安倍一族の由緒ある神社を訪れたこともあるという。そして、今回の辞任表明。前九年の戦いで活躍した宗任、貞任らはどう見ているのか。
2007.09.13
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What a Poor End ! 何とも貧しく実り少ない退路であることよ。会期中、しかも所信表明を行ったばかり。脱税疑惑が浮上した矢先の辞意表明。参院選挙や内閣改造での虚勢は何だったのか。こんな辞め方では地方の自民組織はやるせないだろう。何だったのか、と。非常に情けない末路だ。国民みんなに、情けなさ、徒労感が充満しているだろう。私も呆れてしまって、声が出ない。こんな総理総裁だったのか。それがわかったことが収穫と言えなくもないが、それに費やした貴重な時間は戻らない。自民党はそのことを国民に対して大いに恥じねばならない。
2007.09.12
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蕎麦めぐり山形路、山形路を行く、などのように「○○じ」という言い方がある。「家路」もそうだ。もともと日本では道のことを「ち」と言ったそうだ。巷(ちまた)も道の股の意味。一音節の「ち」に接頭辞の「み」をつけてできたのが「みち」である。佐佐木隆『日本の神話・伝説を読む 声から文字へ』岩波書店、2007年
2007.09.10
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9時過ぎに下の娘と出発して、仙台空港へ。仙台空港祭のアクセス線記念フリー切符を買ってあったので、仙台駅からもスイスイ。10時前に空港ターミナルビルに着いたが、体験飛行は案の定いっぱい。午後の部も随分並んでいた。(写真は帰りに仙台空港駅ホームで。顔を切り抜いたので変ですが、わが2番目の娘。)仙台空港祭には2年前に行った(その時の日記)。普段は行かない航空大学校の食堂で親娘3人でお昼を食べたのが思い出。あの頃は何かと父親に付いてきた娘たちも最近は反応が悪い。何とか下の子だけは付いてきてくれたのだが。記念フリー切符を見せるとターミナルビルの1階でジュースがもらえる。1枚余っているこども券は、ジュースコーナーのところで、切符を持っていない親子に差し上げた。ビルをまわって見て、11時ころの仙台空港発の電車で戻ってきた。電車はかなり混んでいた。エアリのある杜せきのした駅で結構乗降も多い。仙台駅で乗り換えの時間にお菓子を買ったりして、結局12時頃には家に着いていた。てな訳で実質滞在時間は1時間ほど。娘もお祭りの雰囲気を味わえたかどうか。体験したことと言えば、海上保安庁のマスコット「うーみん」とジャンケンで勝って携帯クリーナーをもらったくらい。このマスコットはパーしか出せないので簡単にチョキで勝てるのだけど、小さい子だと真面目にグーを出したりしていた。この画像は、フリー切符とジャンケンの景品。アクセス線は片道400円(小人200円)、フリー切符は大人500円、小人250円だから、お得。小人1枚は他にあげたけれど、それでも我が家の親子2人で通常運賃は往復で合計1200円だから(アクセス線部分だけ)、結局お得だったことになる。2年前はエプロンを歩いたりした。館腰からバスで航空大学校に入ったから。今はアクセス鉄道で快適。祭りに行ってきたという実感が薄のは、ほとんど屋外に出なかったから、というのもあると思う。仙台空港は本当に便利になった、と実感した。
2007.09.09
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遠野を歩いてみた。といっても実際に行ったのではない。美しい写真に、民話や神仏など遠野の民俗の取材記がふんだんに納められた本のページをめくっていったのだ。加藤敬『民話の神・仏に出会う里 遠野』学習研究社 1996年遠野は1度だけ訪れた。伝承園、カッパ渕、千葉家住宅などを見た。子供が歩き出した頃の夏だから、9年前だ。マップをながめると、何だかもう数回も訪れたような気になってくる。高田から遠野盆地に入り、宿は宮古だったので国道340号を川井村に抜けた。遠野を出て峠を越え、小国川沿いに車を走らせているとき、なんだか不思議な感覚に陥ったものだ。たまにすれ違う対向車。ルームミラーに流れ去る道路脇の風景。なんでもない午後の光景なのだが、同じ場所を何度かめぐっているような気がする。すっかり寝入っている妻子を運びながら、私はあるミステリーのモチーフを考えていたのだった。あのとき、しっかりと書き留めておけば佳作が成ったかもしれぬ。■関連する過去の日記 遠野の石の不思議(07年8月28日) 遠野への思い(06年6月30日)
2007.09.08
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我が家に標語が出ました。温暖化について調べた娘の作のようです。風呂を2日に1回にする、という大胆な提案。朝シャンなんて誰もやっていないけど。
2007.09.07
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今朝の日記にも情けない私の事情を書いたが、今夜はさらに情けない失態だった。台風迫る仙台は国分町で会合。9時前に解散して電車に乗ったは良いが、乗り過ごした。それも、座席に座ったのではない、吊革につかまったまま乗り過ごすという情けなさ。乗り過ごしたのが2駅分だったのが不幸中の幸い。歩いて戻ろうかと思いつつ、台風直前のなま暖かい風を嫌ってホームに座っていた。ところがなかなか反対行きの電車が来ない。とうとう10時台まで待って、何とか。帰宅は10時半。思い切り疲れた。それにしても、立ったまま寝てしまって乗り過ごすなんて、オジサンの鏡のような行動が自分もできるとは、誇らしいやら情けないやら。2駅で済んだだけラッキーと思おう。
2007.09.06
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昨夜は台風接近の雨。バラバラと降ったかと思うとピタリと止む。変な天候だが、自転車を置いてバスで帰った。今朝のこと家の裏を見たら、アレアレ自転車がある。誰かが持ってきてくれたのか。そうではない、昨日は朝車で行ったのだった。そんなことも忘れている。情けない。
2007.09.06
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NHK福島のローカルニュースで報じられた。日銀福島支店は今夏の猛暑が、家電製品売上げや海水浴客増などプラスの影響を与えたと分析している、と。半信半疑に思いながら、日銀福島支店のサイトを訪れた。福島県金融経済概況(8月分)個人消費で家電製品の販売や観光地の人出が堅調に推移した。特に猛暑の影響でエアコンや扇風機などの家電製品や水着などの夏物の衣料品の売上げが伸長。また、県内外からの海水浴客も増加した。これらを猛暑というキーワードでくくって報道しているらしい。本当は、例年の夏の気温を比較しながら、本当に猛暑で消費行動が定式化されるかなど検証するべきだろうと思うが。猛暑と経済を本当に論じるなら。さらに言えば、猛暑のマイナス面はどうなんだろう。プラスかどうか一概に言えないと思う。エアコンと海水浴。増えました。暑いから。まあ、わかりやすくて良いのだけど。(日銀レポートにケチを付ける意図ではありません。)
2007.09.05
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仙台弁の代表とも言えるのがコレ。「んざねはぐ」は物事に骨が折れて難儀すること、という意味だろう。私は岩手県の旧仙台藩領で生まれだが、地元でも使われていた。音としては「うざねはぐ」が近いように思うが、「う」か「ん」かその中間音か、よくわからない。ところが盛岡では使わないのだという。代わりに「へっちょはぐ」「せっちょはぐ」と表現し、三戸郡や九戸郡では「うざねはぐ」が通じるという。ちなみに、怠けることを仙台では「かばねやむ」というが、盛岡は「せっこぐ」というそうだ(盛岡タイムス記事)。さて、その「ん(う)ざねはぐ」の語源だ。諸説あるようだ。(1)沼地や海岸で泥地を渉るのに用いた「うざに」と称する幅の広い一種の木製下駄(田下駄)があった。これで泥の上を歩行はできるが極めて難渋するので、難儀することを「うざにはく」と言った。(2)前九年の役の頃源の頼義義家親子が安倍頼時貞任を討伐した際に、「うざに」を履いて深雪の奥羽の山野を難儀して越えたことから。(3)身実(うさね)を吐く、すなわち己の精魂を出し尽くすの意(藤原相之助氏:過去の日記)。(4)浜荻の「うざね」の解(喉仏の骨)から、喉仏を吐くこと、すなわち骨を折ると同類の比喩的表現(小林好日博士)。(編集部注:浜荻のうざねの意味がわからなかったが、例えば南部弁で喉仏を「うざね」というようだ。青森県資料)(5)憂さ音(うさね)吐く、の意味。■出典 菊地勝之助『仙台事物起原考〔再編復刻版〕』1995年、株式会社ヨークベニマル(原著は昭和39年発行(郵辨社)。復刻はヨークベニマル仙台古内店開設記念の非売品)なおこの本では「うざにはく」として解説されています。
2007.09.05
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子供のストレス発散に久々に県民の森に行った。日曜の朝のこと。北側の神谷沢に降りる道路(青少年の森の入口のある道路)を通ったら、こんな看板が出ていた。それはともかく、この道を降りていくと、岩切城跡入口という看板がある。岩切城、そして周辺の仙台北東部に多く存する古城跡について以下の通り整理して記す。〔岩切城(高森城)〕文治5年(1189年)頼朝が平泉を滅ぼした後、建久6年(1195年)3月重臣伊沢左近将監家景を奥州留守職に任じ、高森城に居城させた。伊沢氏は後に留守氏を称し、岩切六郷の地頭となる。南北朝の戦乱では幾度か争奪の的となり、室町期には再び伊沢氏が領有し歴代の居城とした。のち、伊達氏の支配に属し、元亀元年(1570年)に利府城に移され岩切城は廃された。東西5百メートル、南北400メートル。本丸(現在の高森山公園か)、二の丸、三の丸に別れ、大手は東の神谷沢と推定されている。〔化粧坂城〕岩切の若宮から一部神谷沢にまたがる。東西110メートル、南北200名採るの低地の城で、晴宗三男で留守氏に入嗣した伊達上野介政景取立の要害とされる。〔稲荷館〕稲荷西の阿部氏屋敷の裏に見える稲荷神社付近の水田に残る平城の跡。〔東光寺城〕東光寺背後の高さ40メートルほどの雑木林の頂上部に東西80メートルの細い平場がある(現在墓地と駐車場となっているところか)。ここが防塁の中心と思われ、土濠跡もみられる。「仙台領古城書士」には城主は余目某、家景の家臣とある。古記に曰く、国分盛重に三男三女あり、その三女余目氏に嫁ぐこれ也とある。観応2年(1351年)岩切城に籠もった足利四探題の一人畠山氏が、これを攻撃する同じく四探題の一人吉良氏との間に熾烈な合戦(岩切城の決戦)を展開、吉良方の大勝に終わる。この時畠山方に味方した地方豪族が伊沢氏や余目氏。余目氏は留守氏の麾下に属した留守一族。余目氏はその時「余目城」に籠もったと記すものがあり、余目城は東光寺城を指すのではないかとされる。〔笹森城〕城主鶴谷治部とされる。鶴谷氏は国分氏の重臣で永禄年間に国分14代宗政の妹が鶴谷盛勝の妻になっている。鶴谷治部は天正年間の城主。のち政宗に召し出され、跡を継いだ子の佐伝次は病死。佐伝次の子彦太夫が二歳で跡を継ぎ、後に竹谷村(高城)に移る。留守氏の高森城(岩切城)と対峙する国境に位置した関係で小競り合いを繰り返したと思われる。「奥羽永慶軍記」によれば、国分氏は本城を松森城とし城主伊達三河守盛重は輝宗の弟(政宗の叔父)。盛重には恩賞がないことから政宗を恨んだともされ、逆心から夜討ちをかけるとの陰謀があると聞いた政宗は討伐軍を送る。急襲を受けた松森城は大騒ぎとなり、郎党の朴沢、古内、鶴谷などが防戦したが敗れ、盛重は常陸の佐竹氏に亡命し、国分氏は滅亡した。〔小鶴城〕現在の新田三丁目、国分氏家臣の逸見氏の居城とされる。■参考 新しい杜の都づくり宮城野区協議会・宮城野区役所 企画編集『岩切』新しい杜の都づくり宮城野区協議会、1996年(宮城野区サイトにも出ている)■関連する過去の記事 ○岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) ○松森城(鶴ヶ城)について(07年6月10日)
2007.09.04
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安倍改造内閣にまたもや汚点。閣僚が政治的失策ならともかく自らの情けない汚点で辞任に追い込まれるとは、全く残念な事だ。 遠藤氏は3日午前に辞任。在任期間は戦後2番目の短さだそうだが、1番目は宮城の国会議員、あの「3日大臣」、故長谷川峻だ。88年竹下改造内閣で法務大臣。しかしリクルート献金問題で辞任した。いつまでも話題にされることになろう。 県の監査のタイミングがどうだとか、いろいろあるようだが、とにかく農水省の補助金の不正な受給が明るみになった。そうである以上農水大臣はもとより、閣僚に相応しくないというには十分すぎる。これで、短期間大臣の金銀メダルを山形・宮城両県の大臣が占めた、というわけだ。ところで、県会議員のあの人はまだ辞めていないのか。比べれば遠藤さんの方がよっぽど潔い?と言えないかい。
2007.09.03
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仙台藩の刑場は最初は城下の琵琶首(花壇)に置かれ、その片平丁寄りの根本東側に裁許所、後改めて評定所が設けられた。江戸、鹿児島と共に、日本三評定所である。次いで、この地が罪人を刑罰する場所ともなった。その後評定所内の処刑場は寛文6年(1666年)に、広瀬河原に近い米ヶ袋的場付近に移る。なお牢舎も米ヶ袋鍛冶屋前丁(東北大農学研究所の地)に置かれた。更に24,5年経った元禄2、3年頃に処刑場は七北田に移り、七北田刑場と呼ばれる。現在の七北田橋の南方県道筋の丘の上である。当時、士分の処刑は牢舎前で斬罪または切腹を執行し、士分以下の凡下扶持人や百姓町人は七北田刑場、乞食非人は小泉で処刑されたようだ。士分でも重罪囚は凡下に身を落として七北田刑場で執行したという。凡下でも親や主人を殺害した重罪人は芭蕉の辻で3日間晒した。更に重罪のものは竹鋸と称して、主人を箱に入れて通行人に箱から出ている首を挽かせた。引廻しは、処刑日が決まると牢前に呼び出し、町同心が科書を読み聞かせ、非人が罪状を書いた紙旗と捨札とを持って七北田刑場に送るもの。行列順は、先頭に非人2人が六尺棒を持ち、2番目に非人1人が白衣で捨札を持ち、3番目の者が白衣帯刀で抜身朱鑓2本を持ち、4番目に馬乗の囚人。7番目に南北組与力検使正副2人が騎乗。引廻しの順路は、片平丁、弾正横丁、北目町、染師町、猿牽丁、土樋、姉歯横丁、荒町、南鍛冶町、茶畑、連坊、六道の辻(ガード)、東四番丁、新伝馬町、大町、肴町、立町、本材木町、北材木町、国分町、二日町、北鍛冶町、通町、北八番丁、新坂通、北山町、堤町を経て、刑場に向かう。この町筋は寺院所在の町を主にし、侍丁や商人町を加えたもので、「寺廻り」と称し仙台藩特有のものだったという。堤町から数丁行くと左側に「新助壇」という所があり、囚人は馬から下ろされて望む物を食わせる習慣があった。さらに奥州街道を下ると左側に青笹不動が祀られており、囚人に柄杓で末期の水を飲ませた。七北田刑場の2、3丁手前の「くらすみ橋」で家族のものと最後の対面を許されたという。刑死者の葬儀と墓碑は旧藩時代には許可されなかったが、七北田刑場前に常念仏堂があって供養することは許されていた。5代藩主吉村夫人長松院の遺言によって延享2年(1745年)頃建てられたもので、七北田街道に沿い刑場を中心に南北に建てられた。南に河南堂、北に河北堂、共に単層三間四面の萱葺きの堂。刑の執行の最も多かった日は天保11年10月29日で、獄門17人、打ち首2人。刑死者の塚碑を秘かに刑場付近に建てる者もあり、見逃されたようである。出典 菊地勝之助『仙台事物起原考〔再編復刻版〕』1995年、株式会社ヨークベニマル(原著は昭和39年発行(郵辨社)。復刻はヨークベニマル仙台古内店開設記念の非売品)
2007.09.03
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いつしかアクセス7万をいただきました。訪問頂いた皆様に感謝申し上げます。ブログも2年ほど続いています。仙台・宮城・東北について記事のメモ、データの整理、考えのまとめ、などのノート代わりにやっていますが、皆さんに読んでもらえるというのもブログの良さです。無理が来ればそこでストップしますが、それまでよろしければまたご訪問下さい。9月2日朝 おだずまジャーナル編集長 小田島 樹成 Odazuma Journal
2007.09.02
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朝仕事の後久しぶりにゆっくり河北新報を(紙で)読んだ。スポーツ面で、小山の危険球退場が今季両リーグ通算20度目(17人目)とある。ということは、と思って目を記事の上の方に転じると、ドミンゴの退場処分が「今季両リーグ通算19度目(16人目)」と。しかしドミンゴのセットポジションについては審判も厳しすぎるような気がする。打者を幻惑していないと思うが、とりあえず判断だから仕方がない。審判としても一旦ボークを宣告すれば、その後に甘くすることもできないだろうし。気になるのはドミンゴ本人もだが、チーム全体に「変な試合」のイメージが残らないか。気持ちを切り替えよう。大量得点で連勝した後だから、手放しのベタホメよりも、ちょっとした曇りがあった方が、気を引き締めて今日に臨める。そう考えよう。
2007.09.02
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仙台に煉瓦造り建築をもたらしたのは、煉瓦職人の植木留吉だ。日本で初めて煉瓦を焼いたのは伊豆の代官江川太郎左衛門で、その子の江川英敏が元治元年(1864年)に東京で反射炉を建設するために舟方村(北区堀船)で焼き始めた。この舟方村出身の職人植木留吉が仙台に煉瓦造りの技術を伝えたのである。植木は宮城県監獄の水野重教に招かれ、仙台産初の煉瓦が明治13年にできる。囚人に煉瓦製造を指導したあと、植木は独立して元河原町字中河原(長町移転前の南警察署の裏)に、仙台初の煉瓦工場を建設した。仙台初の煉瓦建築は仙台警察署。続いて裁判所、大学、民間の建築も普及した。野蒜築港にも関わるなど、仙台初のレンガ技術者として仙台・宮城の近代化に大きな功績があったといえる。明治22年9月11日、増水した広瀬川に煉瓦工場はたちまち孤立し、妻と養女ら家族3人と雇い人3人を乗せた救助の小舟が転覆し、帰らぬ人となる悲劇があったそうだ。また、あるサイトを見ていたら、植木瓦店さん(木町)がご子孫にあたるとか。宮城県瓦工事業組合の理事長として、震災対策にも力を入れておられるようです。■参考 市川正巳監修『博学紀行宮城県』福武書店、1983年 ほか
2007.09.01
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