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こんな記事があった。甲府市の保育園で、50代の女性保育士が、園児の指しゃぶりをやめさせようと指にカラシを塗った。保育所は不適切を認め、山梨県は行政指導をした、というのだ。毎日新聞で見たが、地元紙の報道も見た。(山梨日日新聞記事)報道されるのだから重大な事なのだろう。親はもちろん園内的にも隠れてやっているのかも知れないし、また、0歳児だというから、強制的にやるほどの必要もないと言うべきなのだろう。しかし、と思う。別な風に私は考えた。実は我が2番目の子は7歳になったが、今でも指しゃぶりを卒業していない。寝る前に必ずやる。指も口も大きくなったから、チュパチュパとすごい音を立てている。1歳を過ぎて保育所に入れた頃に、一度薬局で指しゃぶり防止の薬なるものを買った事がある。マニキュアのようなもので、一度使ったが、指をなめては泣き叫んで眠りに入れない我が子がかわいそうで、すぐやめたように思う。そしたら、保育所の先生が、そんなのがあるんですか、ちょっと見せてくれませんか、というので「薬」を保育所に見せたことがある。もちろん、保育所で塗って下さい、と頼んだわけではなく、先生の勉強のためだったと思う。普通は自然に治るというが、この子はかなり遅い方だと思うし、歯並びに影響必至なので、何とかすべきだろう。コトバで説明しているが、意に介さない。2番目となると、親も変に大人になって、焦りが薄れているのかも知れない。もし、保育士さんが指しゃぶり防止作戦をいっしょにやってみよう、となれば、親としても喜んだだろう。祖母などは、昔は指にカラシ塗ったモノだと言うが、健康に支障のない範囲でいっしょに子育てに取り組めれば、これほどありがたいことはない。昨今の学校や幼稚園、保育所の風潮で気になる事がある。うちの子どもたちも保育所時代はちょっとした怪我でも必ず状況説明とお詫びが、保育士さんから必ずノートに書いてあった。我が子の事だから、状況を教えて頂くのは大変結構なことだが、何もわざわざ、と恐縮することさえある。いちいち報告しないとウルサい親がいるのかな、と想像してしまう。こういうことは最悪のケースを想定する方に横並びするから、過剰サービスで統一する、つまりどんな些細なケースでも迅速に報告する、ということになる。保育士の先生方も、もちろん子どものためにやってくれるのだが、いつしか親の顔色を見て形骸化してしまわないか、と余計な心配までしてしまう。子ども同士けんかしたり、遊んで転んでどこか打ったり、なんてのは家庭でも公園でも当然ある事だ。事情で家で見られずにお願いしているのだし、病院に連れ込んだような時以外は、先生も大変だから連絡なくても良いですよ、とついつい思ってしまう。また、病院に連れて行ってもらうのも、本来は親の努めだから、緊急とは言え、そこまで申し訳ないという思いもある。(このセンスは妻とは微妙に違うらしい。)頼んでもいないのに家庭に無断で何をしたんだ、とばかりに、保育士の一挙手一投足にモノを言う親もいる。正しい保育の仕方がどうこう、とか言い出すのなら自分で育てればいいだろう。かと思えば、箸の持ち方から生活指導まで保育園任せで平気な親さえいる。そんな中で、預けられた範囲で文句の言われないことばかりやればいいという萎縮の発想でなく、親の顔色なんか関係ない、いま目の前にいる子を育てたい、という自由闊達でのびやかな発想だとしたら、私は逆にすばらしく、またさわやかな一陣の風のような印象さえ感じる。今回の件は県の監査での指摘だという(山梨日日の記事)。うがって見るが、監査の成果欲しさに飛びついたようにも感じられる。新聞も安易に乗っているのじゃないか。願わくは、カラシが本当に危害になるのかどうか。血が出るほどしゃぶっているのを見かねての「矯正」だというが、親との連絡は本当になかったのか。監査の過程で保育園側はどう説明したのか。このあたりの説明が欲しいと、私は思う。もっとも今回のは、ある種の密室性を感じるから、当の保育士も批判を受けて当然だろうけどね。カラシ事件を肯定的に論じているこんなヤツは、日本全国おそらく私だけだろう。
2007.08.31
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よく検証して欲しい。オーロラビジョンがどうとか言っているようだが、もともと詰めが甘かったのだろう。競技団体にはありがちだ。国体はじめ各種競技大会をめぐって、施設整備や運営費助成など、各地で問題が生じてきた。真に競技力向上だけなら良いが、時としてヨコシマなモチーフが入り込んでしまうのが、競技団体の体質だ。公的助成は当然と思っているし。これに大会開催を切望する地元の意向も加わっているのだろう。構図は基本的にどこでも同じ。本当によく検証して欲しい。
2007.08.31
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船形山神社(船形山権現社、升沢権現とも)は大和町の奥深く、船形東麓、升沢の内水面試験場の付近にある。その神体である15センチの金銅仏が研究者によって注目された。古代中国の北魏時代の遺品と共通点が多く、百済の聖明王が仏像と教典を献じて我が国に仏教が伝来した欽明7年(538年)頃の製作と思われる。我が国現存最古の仏像は、飛鳥仏と呼ばれる百済仏教のもので、北魏から朝鮮の百済に伝えられたものが我が国に入ったものだ。丈六釈迦如来像(605年)、法隆寺金堂釈迦三尊像(623年)などとされている。しかし、船形山神社の菩薩立像はこれらより更に時代を遡るのではないか、というのである。5月1日には、奇祭「梵天ばやい」の神事が行われる。一帯の旧修験信仰の名残りとして、田の神を迎える梵天行事をとどめている。升沢14地区が、八十八夜を前に合同して田の神を迎える行事で、年に一度の御開帳に合わせ、神体を祠へ据える日だ。宮司以外誰も知らぬ地中に埋めてある神体を、宮司が土から出して、その湿り具合で1年の天候を占ってみせるという。そして梵天の御幣を奪い合う。奪い合った梵天は自町まで持ち帰ると同地区の稲が豊作になるといわれる。今は参拝者全員に割って配られている。(大和町HPに写真と解説)(このサイトにも写真と解説)この最古かも知れぬ仏像が一体どうやって北境の地で秘仏とされたか。それは、菩薩像が多賀城にあったからではないか。多賀城には百済との関連が何点か見いだされている。日本書紀には、百済滅亡前後に王家を初めとする亡命民が多数現在の滋賀県に多数渡り、琵琶湖の東の地に多賀神社を祀った。陸奥の鎮守府多賀柵の開府にも多賀神社が勧請された。また百済人の子孫良弁(ろうべん)が観音寺を開基したが、観音寺(多賀城廃寺)が官寺として多賀城創建と同一計画の下に造営されたと考えられている。太宰府建設には百済亡命者が中心となったと言われるが、太宰府の観世音寺(観音寺と同義)の伽藍配置と多賀城廃寺の配置も同一で、百済文化と多賀城の関連は改めて着目すべきである。(参考:多賀城市HP)多賀城から50キロほどの升沢に百済式の菩薩像があることは見逃せない。東北には10例ほどの古代渡来の金銅仏が伝えられるが、いずれも独尊の小像である。しかし船形山神社の菩薩像だけは、背の柄から察すると一光三尊像の左脇侍だったらしい。頭の柄も頭光用だったろう。これを三尊像に復元すると、韓国の国宝である6世紀後半のものに似るが、それより一回り大きく高さ50センチ以上になる。我が国では法隆寺の釈迦如来及脇侍(きょうじ)像が最も古いが(628年)、これも脇侍は13.6センチ。船形山神社の仏像を持てるものは、相当な地位のものだったはずだ。そして、飛鳥仏(7世紀)より古い6世紀後半の様式であることからすれば、次のような推測ができるのではないか。百済(滅亡は660年)最後の王の義慈王の子で、日本に人質として留まったのが禅広王が。そして、多賀城の二代目の主である陸奥国守百済王(くだらのこにきし)敬福(きょうふく)は禅広王の曾孫だ。義慈王から王家の未来を託されたのではないか。託された仏像の片割れが、今に在る船形山の菩薩像なのではないか。さらに、これを裏付けるものとして、升沢の古老は、船形山神社の御神体はもと多賀城の殿様が祀っていたものが、宮床の寺に流れてきた、との口碑を伝える。また、「女神が熊谷と瀬戸という男に追われて升沢に逃れ、農夫が隠してやると、女神は菩薩になった、とも。多賀城側にも伝説がある。南宮(なんご)の色ノ御前社に女神が居た。隣村の山王社の神に恋慕されたが、嫌って逃げ、升沢の船形山で助けられそこの神となった。菩薩の逃走ルートは古代の多賀城と黒川を結ぶ古道だろう。熊谷や瀬戸は特定の村落に多い。また同工異曲の説話が菩薩の足取りにあたる集落に残る。敬福は天平21年(749年)に小田郡から日本初の産金の大事業を成し遂げたが、その技術者も百済の渡来人だった。聖武天皇により大特進を得た敬福が次の任地に去るとき、護持仏としていた三尊像を、観音寺(多賀城廃寺)か南宮神社(色ノ御前社)に寄進したと考えられないか。■参考 深野稔生『宮城山遊び山語り〈栗駒・船形編〉』無明舎出版、1999年
2007.08.30
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今日の試合は絶対良い試合になるだろう。岩隈は気合い入れて来るはず。エースの意地だ。だが、家の事情でフルスタに行けない。ああ残念。悔しい。
2007.08.29
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遠野の石と呼ばれる不思議な石があるそうだ。角閃石(かくせんせき)という種類で、半永久的に放射される高効率遠赤外線により熱の浸透を早める働きや、水の活性浄化、優れた鮮度保持性、脱臭性を有するため、炊飯、煮物・焼き物等の調理やウイスキーの水割りなどの嗜好に特に活用されている、と(遠野市ホームページ 遠野の石 角閃石)この石、天然のセラミックスで、すごいパワーを持っている。ある本には次のように紹介されていた。----------抗菌性について。角閃石粉末を検水に添加して24時間置くと、大腸菌は98%、黄色ブドウ球状菌は96%減少。浴槽に沈めれば毎日湯を替えずに済む。風呂についていえば、遠赤外線を放つから低温でも温まり、燃料の節約にもなる。脱臭性もあり、水道水に石を入れれば、弱アルカリ性のミネラルウォーターに大変身。花瓶に入れれば花も長持ち。野菜や果物などは触れさせておくだけで鮮度が保てるという。----------■出典 みちのく研究会(社団法人東北建設協会内)『元気が出る東北』ごま書房、1995年こんな素晴らしい石があるのか。さすがは遠野だ。石の粒子を織り込んで、体を温めて脱臭効果もあるという寝具も商品化されているようだ。買う気はないが楽天市場でチョイと見てみると、角閃石とゲルマニウムボールがセットになった温浴剤の商品として、600gで1万円程度で売っている。地元商工会のページには、地元企業の商品として、2.5cm3のキューブが4個で1,800円というのが紹介されている。料理やお茶、水割りなどに活用できそうだ。これなら、買ってみたい。(結局安さだけで比較したケチ根性丸出しですが...)10年ぶりに遠野に行って、おみやげに買って帰りたい。
2007.08.28
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律令国家は国名を付けることから領土拡張の第一歩を開始する。白河以北の広大な山野は、文字通りの「道の奥」なので「陸奥」と名付けたが、発音はなぜか「ムツ」と呼んだ。古代ポリネシア語で、先端とか岬などを「ムツ」というから、それが黒潮に乗って上陸したのだろうとの説もある。----------一力一夫氏の文章だ。出典:市川正巳監修『博学紀行宮城県』福武書店、1983年ちなみに青森県の「むつ市」は、気風や町民感情の異なる大湊と田名部の両町合併で、いったんは「大湊田名部市」とし、その1年後(昭和35年)に日本最初のひらがな地名である現市名となる。古来の東北の呼称、陸奥湾を抱く下北半島の中心地であることから採用。ひらがなにしたのは、「陸奥」が当て字だったから、という。
2007.08.27
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県民の森は泉区、宮城野区、利府町、富谷町にまたがる憩いのエリア。中央公園とアスレチックコースは我が家の子供達のストレス発散の場。お金もかからず自然にも親しめるのでよく行きます。とはいえ今年の夏は暑過ぎて、しばらく行っていません。鶴ケ丘口と中央公園の間の散策路も歩いてみたいと思っていますが、とりあえず車で通りかかったので写真だけ撮りました。ところで団地名や町名は「鶴が丘」だが、この入り口は「鶴ケ丘口」と呼ぶようだ。県のHPによると、バス停名も「鶴ケ丘口」としているが、宮城交通のHPでは「県民の森鶴が丘口」だった。どうでもいいようなことですが、この「が」と「ケ」のことなら勉強しましたので、何でも聞いて下さい!(過去の日記 旭ヶ丘などの表記「ケ」を考える(2007年8月3日))■シリーズ仙台百景 以前の記事です。こんな企画で100枚まで続けるのが目標です。 ○一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) ○風の環(シリーズ仙台百景 23)(07年7月7日) ○冷やし中華の龍亭(シリーズ仙台百景 22)(07年6月29日) ○県民の森(シリーズ仙台百景 21)(07年4月8日) ○数字の練習ボード?(シリーズ仙台百景 20)(07年3月25日) ○半田屋一番町に進出!(シリーズ仙台百景 19)(07年3月1日) ○仙台百景画像散歩(その18 撮影成功!霊気のトンネル)(07年2月6日) ○仙台百景画像散歩(その17 変な漢字の看板)(07年1月28日) ○仙台百景画像散歩(その16 駅前東宝ビル)(07年1月13日) ○仙台百景画像散歩(その15 空から見た仙台)(06年12月29日) ○仙台百景画像散歩(その14 光のページェント)(06年12月13日) ○仙台百景画像散歩(その13 東京スター銀行)(06年11月30日) ○仙台百景画像散歩(その12 建設ラッシュ再来?)(06年11月10日) ○仙台百景画像散歩(その11 E721系電車)(06年7月25日) ○仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) ○仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) ○仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) ○仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) ○仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) ○仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) ○仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) ○仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) ○仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) ○仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2007.08.26
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県外の友人から手紙をもらった。差出人住所が、A市C町D字Eの何番地となっている。なるほど合併して町が市になったのだ。以前はB郡C町D字E... という表記だったはずだ。よく考えてみると、今回の合併でも自分の住所の表記が変わった人は多かろう。そして、表記の長くなったケースも短くなったケースもあると思われる。友人の場合は端的に「B郡」を「A市」に置き換えるだけで長さは特に変わらない。宮城県内で例を挙げると、このように旧郡名を新市名にリプレースして長さが特に変わらないのが、登米市。「登米郡迫町佐沼字...」が「登米市迫町佐沼字...」となる。更に言えば、この場合旧郡名と新市名が同じだから、わかりやすいとも言える。これを第1類型としよう。第2類型は、短くなる場合。つまり、B郡C町D字... を一気にA市D字... としてしまうパターン。東松島市がそうだ。「桃生郡鳴瀬町小野字...」が「東松島市小野字...」となる。第1類型と第2類型の中間にあるのが、栗原市のパターン。「栗原郡一迫町真坂字...」が「栗原市一迫真坂字...」となる。新市名の後に旧町村名が続くという点では第1類型なのだが、C町の「町」の字句を表示しないことから、CDといういわば1つの字名を新しく創設したと見れば、第2類型とも言える。大崎市も同様だ。複雑なのは石巻市で、第1類型と第2類型が地域(旧町)ごとにバラバラ。旧石巻市の分は変わらないが、旧河北町の場合は、「石巻市相野谷字...」となり、旧町名を省略する第2類型。これに対して、例えば旧北上町は「石巻市北上町十三浜字...」と表記する第1類型。第3類型は逆に長くなる場合だ。今回の合併の例では、南三陸町。「本吉郡歌津町字伊里前...」が「本吉郡南三陸町歌津字伊里前...」となる。旧町名を残すという意味では第1類型なのだが、市にならずに郡名が残るために、全体ではワンフレーズ分が長くなるのだ。これとは違う経緯をたどって長くなった例もある。かつての秋保町。「名取郡秋保町湯元字...」だったのを「仙台市秋保町湯元字...」と旧町名を残した。つまりは上記で言う第1類型だ。しかし間もなく指定都市となり「仙台市太白区秋保町湯元字...」と長たらしくなった。私は個人的には極力短い方が良いと思う。第2類型の東松島市が良い。短さという点と、もう1つは、旧町名にこだわる必要がないと思うからだ。親しみなれた旧町名というだろうが、中には戦後の合併でたかだか50年しか存在しないものも少なくない。合併の際の旧町の為政者のプライドや悪平等意識で、「名を残す」という「実績」だけに執着して大局を見ないことが、個人的には嫌である。極論すれば、レニングラードやスターリングラードみたいなものだ。いずれの都市名も消滅した。もっとも、地名というのは為政者の意図で決まることも多い。仙台も政宗が考案して、長い年月を経てすっかり定着していると言えるだろう。要は民意と歴史の支持が与えられているか。冗談で考えたが、例えば亘理市が誕生したとしよう。「亘理市亘理町逢隈...」はくどくて何か変。また「亘理市山元町坂元字..」も変だ。現在の山元町は山下と坂元の合成地名で昭和の合併時に便宜上考案されたものだろうから、より広域に合併すれば、残す必要もない。個人的感覚では、だが。だから、東松島市のやり方は良いが、例えば「登米市津山町柳津字本町...」は、ちょっと。津山も合成地名だったし、長い歴史の支持を受けるものと思いたくない。「登米市柳津字本町」でスッキリするのに。個人的感覚、だが。参考 宮城県ホームページ(市町村合併関係 住所表示)
2007.08.25
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昨夜のサヨナラ負けは仕事帰りに自転車乗りながらラジオを聴いていたときだった。あっけない負け方だが、1つの節目と考えるしかない。エラー連発するときもある。守護神が打たれるときもある。当然ありうることが起きるのだ、という教訓だ。同一カード負け越しは痛いが、今日から絶対2勝、あわよくば3勝したい。初戦田中がカギだ。ところで、岩隈と克則コーチのことが話題になっている。今朝の河北では、ベンチにもどらないのを高校の先輩の克則コーチが諭した、という「やさしい」説明だ。エラーがらみで早々に降板させられたエースの無念さが根底にあるのだろう。でも、それもあることだ。エースを立てても攻守が冴えない、こんなこと有ってはならん、と逆にチームの教訓にして、頑張っていこう。みんな勝ちたい、勝つために頑張っているのだから。
2007.08.24
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下の娘が小さい足の指の付け根に、これまた小さいウオノメができている。祖母が家にある絆創膏(スピール膏というやつだろう)を付けてくれたが、最後の1枚だったので、子供と一緒に薬局に出かけて液体のウオノメコロリを買った。ウオノメと書いたが、イボかも知れない。店頭にはイボコロリも陳列されていた。いずれもサリチル酸で、早速家で娘の足にガラス棒で塗ってやりながら、懐かしいニオイに昔を思い出した。私は中学の頃からイボが多くなり、高校から大学にかけてが「最盛期」だった。普通は手足の甲の部分に出るのだそうだが、手のひらや手足の指先にまで発生して、本のページをめくるにも苦労するほどだった。指先のヤツは角質化して感覚もないから、風呂上がりに自分で爪切りでスパスパ切ってやったりした。高校の頃に何度か病院にも行った。そのうち大人になると消えるんだろう、治そうとするとインターフェロンでもダメだね、と言われながらも、塗り薬や貼り薬をもらった。でも増殖は止まらなかった。皮膚科の通院に付き合ってくれた女の同級生に、これ子供に遺伝するの、と聞かれたときは我ながら情けなかった。仙台に来てからは、もう諦めていたけど、仕事をし出してからある時一念発起して大学病院に通い、液体窒素で「焼く」療法をやったり、イボの根っこに何やら薬品を注射したりもした。数が多いので実験台に好適だったようだ。窒素もサービスだよと言われて、先生に箇所か分量を少なく書いてもらったこともある。サービスが過ぎたのか、健全な皮膚まで焼かれたこともあった。薬品の注射は、足の指の付け根辺りに甲の側から針を刺すので、骨に当たるような気がして、耐え難く痛かった。イボの「ふもと」から斜め方向に根っこに向けて射し込むのだが、針が弾けて飛んだこともあった。液体窒素や注射の後は、歩くのも苦しいほどだった。それからハトムギを飲みなさいと言われて、買って飲んだし、イボ取り地蔵さんにもお参りした。イボコロリの話に戻るが、高校生の頃に自分でよく塗っていた。当時は水色っぽい小さな紙の箱に入っていたような気がする。今のは、ウオノメコロリもイボコロリも、オレンジ色の美しいパッケージだ。かれこれ30カ所くらいはあったイボだが、25歳くらいだったろうか、ある時を境に増殖を止めて、あとは1年くらいで綺麗になくなった。関係はないと思うが、その頃から以前飲めなかったコーヒーが飲めるようになり、またいくら食べても太らなかったのが、徐々に体重が増えだした。一時は俺の体はどうなるのだろうと心配もして、こんな異物がサッパリなくなったらどんなにか楽だろう、と夢見たのだが、イザ夢が真実になってしまうと、その有り難さを感じる力もすぐに衰えてしまった。本当に、人間とは「有り難さ」を忘れる動物だ。我が子の足にウオノメコロリを塗ってやりながら、この子が無駄な悩みを持つようにならねば良いが、と思いつつ、こんなことを思い出している。
2007.08.23
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古代の碑を3基数え上げたもの。1つはわが多賀城市市川の多賀城の碑(壺の碑)。天平宝字6年(762年)12月朔日の日付が刻まれている。他は、那須国造の碑(栃木県)。文武天皇4年(700年)に没した那須国造韋提の頌徳費。もう1つは、多胡の碑(群馬県)。和銅4年(711年)に片岡など三郡から三百戸を割いて多胡郡を置いた際に建てたもの。■出典 菊地勝之助『名数みやぎ郷土小事典』宝文堂出版、1973年
2007.08.22
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国道45号線を走ると旧津山町の北上川沿いに「日本三柳津虚空蔵」とかいう看板があった。今でも有ると思うが、三「柳津」とは何処なのだろう、と思っていた。四五代聖武天皇の神亀3年(726年)に、行基菩薩が東国各地を巡錫し布教した時、本吉郡柳津に立ち寄り、大土ヶ森に一堂を建てて一尺あまりの虚空蔵を刻んで納めた。これが現在に伝わる本尊であり、本尊の前に立つ大黒天と毘沙門天は弘法大師の作という。その後元和元年(1615年)に大土ヶ森の頂から山麓に移し、柳津山興福寺、今は福満山宝性院と号す。日本三柳津虚空蔵堂は、他に奥州会津柳津円蔵寺、常州村松柳津日光寺(茨城県)の虚空蔵堂である。■出典 菊地勝之助『名数みやぎ郷土小事典』宝文堂出版、1973年さて、この際同書をもとにわが仙台・宮城にかかわる寺社仏閣関係の三大名数を整理しよう。○日本の三山寺 七北田の山ノ寺、近江の石山寺、羽前の立石寺。 山ノ寺は竜門山洞雲寺と号する古刹。慶雲元年(706年)釈定慧(藤原鎌足の子)が開山、のちに慈覚大師が中興。本尊は盧舎那仏で大師が唐の青竜寺から招来したものという。大師が本尊を安置したときから山ノ寺と称したという。 近江の石山寺は観月の勝地で、良弁の開基。羽前の立石寺は円仁の開基で、東北地方で天台宗随一の巨刹で、奥のほそ道でも有名な山寺。 七北田の山ノ寺は、これら石山寺、岩山寺に対して、砂山寺をもって知られる。○日本の三蔵王 栗原市旧花山村の金峰山花山寺(かざんじ)に安置されていた蔵王権現。平泉藤原氏時代の頃から、金峰山寺(奈良県)と三仏寺(鳥取県)のそれと共に、日本の三蔵王として名高い。 花山寺には役(えん)の行者小角(おづの)の作と伝えられる国宝の閻浮檀金(えんぶだんごん)の像が安置されていたが、戦後盗難に遭い行方不明。○日本の三弥勒寺 登米市旧中田町の長徳山弥勒寺。真言宗に属し、日本三弥勒の1つとされる本尊は二尺七寸の座像で、空海が安置したという。33年目の開帳期でないと拝することができない。 他の三弥勒は、神奈川県足柄郡上秦野の弥勒寺で頼朝夫人が臨産の時祈願した。また、秋田県角館の弥勒寺で、清原武衡・家衡の首を埋めたとされる。○日本の三不動尊 登米市旧津山町の横山不動尊。成田不動尊(千葉県)、菅谷(すがたに)不動尊(新潟県)とともに、日本三不動尊。 横山不動尊は白魚山大徳寺境内にあり、一尺八寸の天竺渡来の不動明王を腹籠にした一丈六尺の不動尊が安置され、弘法大師の作という。保元年間百済の国から水戸辺浜に着いた不動明王の尊像を祀ったという縁起。大徳寺ははじめ明王山金剛寺で真言の道場として創建し、葛西時代に曹洞宗となり、現号に。門前の小川はウグイの生息地。○日本の三大稲荷 岩沼の竹駒神社。京都伏見の稲荷神社。笠間(茨城)の稲荷神社。 竹駒神社は仁明天皇の承和9年(842年)に小野篁が陸奥守として多賀国府に赴任する際に、京都伏見の稲荷明神に参拝し傍らに現れた白狐を請うて旅についた。途中岩沼を通った際に白狐が武隈の森に入ったので、ここに社殿を建てて勅許を得て武隈明神を祀った。○日本の黄檗宗三叢林 黄檗宗は禅宗臨済宗の一分派で明の黄檗山万福寺の僧隠元が来日して広めた宗派。黄檗宗の寺院で日本の三叢林(道場)とされる名刹が、仙台茂ヶ崎の大年寺、山口県萩市の護国山東光寺(元禄4年開山)、鳥取市の広禅寺(元禄6年開山)。 大年寺山は昔の茂ヶ崎城跡に4代藩主綱村の元禄8年に京都宇治の黄檗山万福寺の末寺として建立。下総国牛島の弘福寺住職鉄牛和尚を招いて開山始祖とし、両足山大年寺と称した。宇治の本山万福寺に擬して建造された伽藍は壮麗、山中の堂塔二十余宇が建ち並び黄檗宗日本三叢林の第一位とされた。仙台藩からは一門格の待遇を受け寺領二百石を附せられた。○奥州の三八幡 奥州には源氏の守り神である八幡宮が多く勧請されている。大崎市旧田尻町の大崎八万社、栗原市旧栗駒町の営ケ岡(たむろがおか)八幡宮、岩手県奥州市の胆沢八幡宮の三社を奥州三八幡という。 大崎八幡社は後冷泉帝の天喜5年(1057年)に源義家によって創建されたと伝える。頼義、義家父子が安倍貞任を討ったとき糧食に乏しく飢渇に苦しんだが、義家が一夜八幡様の夢を見たので、陣頭に社壇を設けて勝利を祈願し、小松の柵(田尻)を攻め、逃げるを追って遠く衣川や厨川の柵をも陥れた。 そして凱旋の際に、大崎、営ケ岡、胆沢の3社に武具等を奉納して祀ったのである。 営ケ岡八幡宮は、延暦年間に田村麻呂が東征の際に勧請した。その後上記の通り頼義義家父子が凱旋の際に奉納した甲冑が今も保存されている。営岡(屯岡)の名称は田村将軍がここに屯(たむろ)して蝦夷と対陣したことから生じたという。 田尻の大崎八幡は後に仙台藩祖政宗公によって仙台に奉遷されて今に至る。○奥州の三観音 延暦15年(796年)坂上田村麻呂が陸奥出羽の按察使となり陸奥守を兼ねて鎮守将軍、翌年には征夷大将軍になった。この際に奥州の7カ所に観音像を安置したのが、奥州七所観音。そのうち、篦嶽(ののだけ)観音、牧山観音、富山観音を後世に奥州の三観音として尊崇した。 篦嶽観音は、篦嶽山上の無夷山篦峰寺に祀られる観音堂。延暦12年に田村麻呂が巨魁悪路王等をこの地神楽岡に討ち、後勅命により護持した十一面観音を祀ったと伝えられる。 牧山観音は田村麻呂が延暦11年に牧山の地に大嶽丸等の豪族を討伐した際に、今の梅渓寺の地に堂宇を建立して、後に霊峯山梅渓寺を建立したという。 富山観音は大同年中に田村麻呂の勧請で手樽富山に富春山大迎山寺大悲閣を建立して千手観音を祀った。藩政時代に政宗公の長女五郎八姫が堂宇を建立し堂内に田村麻呂の像が配置されたという。○東奥の三霊地 霊島金華山、出羽三山、南部の恐山。 金華山は5つの峯、68嶺、48渓谷から成り、山には千古未だ斧を入れない老樹巨木が鬱蒼と茂り、至る所に奇岩怪石があり、鹿や猿が戯れる仙境である。中腹には黄金山神社が祀られ、神域は崇巌、社殿堂塔の結構は壮麗を極める。
2007.08.21
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あれ、え~と何を言いたいのかな、と2秒ほど考え込んだ。何のことはないオヤジギャグ風なのですが、考え込ませるということで、なるほど一時停止の効果はバッチリというところでしょうか。■シリーズ仙台百景 以前の記事です。こんな企画で100枚まで続けるのが目標です。 ○風の環(シリーズ仙台百景 23)(07年7月7日) ○冷やし中華の龍亭(シリーズ仙台百景 22)(07年6月29日) ○県民の森(シリーズ仙台百景 21)(07年4月8日) ○数字の練習ボード?(シリーズ仙台百景 20)(07年3月25日) ○半田屋一番町に進出!(シリーズ仙台百景 19)(07年3月1日) ○仙台百景画像散歩(その18 撮影成功!霊気のトンネル)(07年2月6日) ○仙台百景画像散歩(その17 変な漢字の看板)(07年1月28日) ○仙台百景画像散歩(その16 駅前東宝ビル)(07年1月13日) ○仙台百景画像散歩(その15 空から見た仙台)(06年12月29日) ○仙台百景画像散歩(その14 光のページェント)(06年12月13日) ○仙台百景画像散歩(その13 東京スター銀行)(06年11月30日) ○仙台百景画像散歩(その12 建設ラッシュ再来?)(06年11月10日) ○仙台百景画像散歩(その11 E721系電車)(06年7月25日) ○仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) ○仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) ○仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) ○仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) ○仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) ○仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) ○仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) ○仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) ○仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) ○仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2007.08.20
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夏休み最後のホームだが、娘たちは水泳大会の疲れなどから誘いに乗らない。意を決して単独でフルスタへ。自転車で1時間かかろうが、選手も頑張っているから当然だ、と意気込む。フルスタ手前でにわか雨に遭い、20分ほど避難。球場に入ったら、黒い雨雲に夕陽が当たって、なにやら異様な空模様が見えた。試合は定刻30分遅れ。永井と大隣の好投で引き締まった好ゲーム。というか、大隣の方はイーグルスが好機に打てないから助けた面が多い。初回、3回と走者を置いて山崎の不発が心配だった。毎回走者を出しながら適時打が出ない。それでも高須、直人、そしてホセにも守備で美技が続出! テンポ良く進んだが、5回裏に四球の嶋を直人がバントで送り、高須が何と今季第1号の2ランホームラン。イーグルスが攻勢に試合を進める。6回裏も代わった藤岡に満塁とするが嶋の右翼フライも辻の好返球で本塁封殺。8回には城所に第1号を許す。しかし流れを渡さない。ピッチャーが安定しているからだ。8回途中から有銘、9回は小山で2-1堂々の勝利。今シーズンの素晴らしい小山を初めて目にした。来て良かった。最後はプチ劇場かなと思わせたが、終わりよければすべてよし。ところで画像は途中に出てきた子供達の愛らしい応援。この子達は試合直前にスタジアムの脇を歩きながら、自負心と責任感だろう、周りの大人に、お疲れ様です、などと声をかけていた。ガンバってね、と言ったが、ウチの下の娘くらいの子たち。一生懸命応援している姿に打たれた。そして、やっぱり子供達と来たかったな、と思った。イルミネーションも見せたかった。もちろん何より勝ち試合を一緒に喜びたかった。さあ、夢というのは存在する限りその姿を追うものだ。プレーオフ、もちろんあきらめない。2勝1敗ペースで行こう。次は岩隈が回避となると、山村か。あるいは朝井の前倒しか。頑張れイーグルス。みんながついているぞ。
2007.08.19
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藩政時代の仙台は藩内に牢屋(獄所)を2カ所に置いた。仙台藩の刑制は、士罪としては、牢前の斬罪、牢前の切腹、その身屋敷にて切腹、遠流(おんる)江島、近流田代・網地・長渡、他国追放、その他日数牢舎など、十数種の刑罪があった。これらのうち士分及び重罪に関する詮議はまず花壇の裁許所で評定役が行った。1カ所は城下の牢屋で、初め片平丁に置かれ、人切り場は琵琶首にあったが、寛文6年に米ヶ袋に移され、さらに元禄3年には七北田の市名坂に移転。仙台地方に住む士や町人の火罪、磔、獄門、切捨などの処刑はそこで行った。もう1つは江刺郡岩谷堂の牢獄。仙台以外の奥郡地方の在任の入牢処刑等はそこで行った。■出典 菊地勝之助『名数みやぎ郷土小事典』宝文堂出版、1973年
2007.08.19
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良い響きの名前だ。松原街道とは、塩竃街道の別称で、原町から燕沢までの松並木の美しいあたりを指していう。■仙台市市民センター資料(松原街道)■宮城野区役所 地元学の会のページ原町から比丘尼坂に至る街道の両側に、見事な松並木が続いていた。伊達政宗公が植えたといわれ、樹齢300年以上、幹周が5mのものもあった。戦時中は、松の木の幹は輸送船用材に、松の根からは松根油をとるため、近くの住民から人力を徴用して松の根を掘り出し、鶴ヶ谷方面で採油作業をしたらしい。戦後、搬出されなかった松は放置されたままで、家庭の燃料として切られ、最後には松の根まで燃料にされてしまった。---------- まず見事な並木だったっちゃ。 そんな見事な松も戦時中(昭和17年頃)ガソリン不足で、松根油(しょうこんゆ)を採る為に、ほとんど伐採されて、昔の面影は全く残っていません。 根回り2メートルくらいあったので、持って来れなかった。その辺さ、ごろごろ、してたんだよ。 終戦後、松の木は塩竃の造船所に運んで行ったらしいよ。残った松の根っこは道路の舗装の時、埋められたんだ。----------これは地元の方のことばだ。■出典 地元学の会『松原街道にそったまち ひがしせんだい 東仙台一丁目~五丁目・松岡町』みやぎの区民協議会(宮城野区役所)、2005年同書からもう1つ。---------- 松原街道踏切の近くに根元亜炭屋(今の根元自動車)さんがあって、その向かいに大沼茶屋がありました。今でいう、ドライブインだね。 当時は、馬車の往来が盛んで馬車引きの休憩の場所でした。疲れたときは、牛や馬を休ませ、餌をやり、馬方は酒を飲んだり、うどんを食べたて一休み、気分が良くなった馬方は馬車の上で寝てしまい、馬はそのまま家まで帰っていったとか。 この辺からは、遮るものが無かったから、泉ヶ岳や六丁の目まで見渡せました。まず、松並木はあるし、景色も良いし、まるで絵を見ているようだったネェ。----------そんな風景を目にしたかった。松のある街道、日本人の意識の根底にある美的感覚を呼び覚ます。そんな松原街道ですが、今は新道や鉄道で分断された。坂下交差点からガス局前交差点に出る県道は新幹線の下をアンダーパスするが、ちょうどその新幹線ガード下からラジオ塔の南側を回って現在の利府街道に合流する細い旧道がある。これが昔の松原街道筋だ。原町からの旧街道とつなげてみると、アンダーパスをはさんできれいにつながっている。茶屋をながめながら、案内、比丘尼坂、燕沢へとゆっくり松原街道を歩いてみたいものだ。■関連する過去の記事(おくのほそ道・街道 関連) ○「おくのほそ道」を楽に読む方法(07年3月19日) ○芭蕉最北の地 象潟(06年12月24日) ○松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月05日) ○多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) ○多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) ○岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) ○平泉への道(06年1月11日) ◎仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年03月22日) ○燕沢の名前(06年03月17日) ○芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) ○古代東北の理解(06年5月31日)
2007.08.18
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江戸時代に天下の大々名とされた前田家、島津家、伊達家を称して「三柄大名」とした。加賀藩前田家は百万石と最高の禄高を持つので、「高柄」(たかがら)と称した。薩摩藩島津家は源頼朝の落胤として名家だったので「家柄」(いえがら)。そして、領土が広く豊饒で国の富める仙台藩は「国柄」(くにがら)と称された。伊達家は62万石の禄高だが、本石米の主産地として名実ともに豊かな国で、実収は150とも200とも推定される。■出典 菊地勝之助『名数みやぎ郷土小事典』宝文堂出版、1973年
2007.08.17
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8月16日、わが東北は74年間保持した大いなる最高記録を失った。国内最高気温だ。午後2時台に多治見市と熊谷市で、それぞれ40.9度を記録したことによる。小さい頃から覚えていて絶対に忘れない、別に自慢と言うほどではないが東北人の心にすっかり定着して、いわば体の一部のようなものだ。日本一暑いのは東北の山形なのサ、と。早速日本一が消えたことも残念がる記事が出ている(山形新聞)。それもそうでしょう。1933年7月25日午後3時に山形地方気象台で40.8度を記録した。南西風によるフェーン現象で、山々に囲まれた地形が猛暑を招いた。山形新聞は「街頭のアスフアルトは融け、(中略)荷馬車の馬が心臓麻痺でも起しさうな酷熱」と伝えた。7月25日を「かき氷の日」としている(日本かき氷協会)のは山形での最高気温記録の日にちなんでいるという。さて、山形市役所のホームページを見てみた。有ります、この記載が。間に合って良かった。市政要覧の山形市の概要のところに、----------気象 昭和8年7月25日 40.8℃を記録(日本最高気温)----------とありました。この「日本最高気温」のフレーズは、市職員によって涙ながらに消されるのでしょう。本当に淋しいと思う。いわき市が日本一面積の広い市を誇っていたのが近年座を奪われたことにも、何か似たような感傷を覚える。いや、それでも誇りを持って進もう、頑張れ東北!(あんまり気にすることじゃないのだけど...)■関連する過去の記事 いわき市の誇りは永遠に(07年4月26日)
2007.08.16
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明治の東北本線開通時の仙台駅の位置論争について。----------日本鉄道会社は仙台停車場の位置を宮城野原の榴岡下にすると発表した。これに反対したのが松平正直知事。松平は駅を東六番丁(現在地)に置くことを主張し、一大論争となった。知事の意見は「市街の中心に鉄道を通さなければ利用客も貨物もみな岩切や長町にとられる。」日本鉄道側は駅舎位置変更の費用3万円を地元で負担するよう要求。松平知事は仙台区議会にはかり地元負担を議決させる。東京在住の仙台出身者たちは宮城野駅案に賛成だった。在住者の代表として佐藤郁二郎が選ばれて仙台に戻り、市の有力者に働きかけた。「東六番丁駅の便利さは一時的なもので、将来駅を移転するようになるだろう。せっかく3万円を投資するなら繁華街と宮城野の間に軽便鉄道でも建設すればいい。古い市街にこだわらず新駅を中心に新しい街をつくればいい。」宮城野派は区議会の議決は不当と訴えを起こし、日本鉄道側は地元負担金を差し戻した。結局は東六番丁案が通り、3万円の資金は知事と市民有志が準備した。----------と、以上の説明がある。■市川正巳監修『博学紀行宮城県』福武書店、1983年宮城野派が移転に反対した理由は記載がない。旧城下を分断することに反対なのか、それとも草刈らのように企業経営と租税のあり方によるのか。■関連する過去の日記 ○仙台駅の位置について・続々(06年7月15日) ○仙台駅のはなし・続(06年7月11日) ○仙台駅のはなし(06年7月10日) ○宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2007.08.16
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昨日(14日)のニュースだが、13日に浜松市の国道1号バイパスで大型バイクを運転していたツーリング中の50代の会社員が中央分離帯に接触、右足をひざ下から切断したが、気付かず約2キロ走行していたという。これを聞いて思いだした。たぶん高校の頃だが、ある人が車を運転中右腕を窓から車外に出して運転していたら、対向車か中央分離帯か何かに腕をもぎ取られた。しかし気付かずに運転を続け、しばらくして腕の先が無いことに気付いてビックリした、という話。ニュースなのか創作なのか定かではない。今で言う都市伝説の類だったのだろうか。高速で風を切って運転していると、意外と気が付かない者かな、と変に納得してしまう話だった。ちょうど岩手県にも高速道路が開通した頃で、この話が高速道路と関係があるかどうか知らないが、私の記憶には何となく高速道路とセットになったイメージで残っている。ところで、今朝のTVで高木美保さんが同様の事を、小さい頃に聞かされた話として語っていた。一瞬にもぎ取られると血管の切り口も引き締まって血も出ないのだ、と随分リアルな解説もあった。だから車から手を出してはダメだよと親に言われた、とか。おそらく基となったニュースは同じなのだろう。高木さんは私と同年代。(今調べたら、実は僕よりお姉さんですね。)高木さんが親に聞いた時点がニュースとしてタイムリーだったとすれば、私がこの話を聞いたのはやや遅れて何年か後だったのだろう。実は私もこのような話を聞いたためか、腕を窓の外に垂らして運転はしないようにしてきた。もっとも窓を開けることも少ないが。逆に腕を出していた鮮明な記憶もある。小学生の頃、親戚の人が東京に帰るときに、祖父と一緒に乗せてもらった。車はブルーバード、途中お昼を食べた大田原の店の構造やメニューを覚えている。子供ながらにも、貴重な体験だから忘れられないのだ。我が家にトラックはあっても乗用車はなかった。後部座席の左側に座って、ひとり満悦していたのだろう。外に腕を出して外から手のひらでパンパンとボディーを叩いた記憶がある。栃木県内で工事かなにかで随分遅くなってしまい、行け行け、という感じで叩いたのだと思う。こんな事を思い出した。きょうは仙台で観測以来最高の37.2度だそうだ。プール合宿で真っ黒のシャネルズ状態の上の娘と、仙台市宮城野図書館に行ったが、冷房された図書館の中がとても快適に感じられた。行く途中の車内は、地球温暖化を心配する娘の提案でエアコンを切った。さらに実験的に窓を閉めたものだから5分もすると汗ダラダラ。窓を開けると、体温より高い外気も涼しく感じられた。
2007.08.15
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仙台市交通局が地下鉄駅のエスカレーターを緊急点検したら、勾当台公園駅に一部破損があり部品を交換したという。川崎駅での足の指を切断した事故を受けてのことだ。迅速な点検と対処は評価すべきだ。河北新報の記事の写真では、立て板の破損の溝が削れていたもので、これなら他でも見たことがありそうだが、そのことがかえって安心感を与えると思う。今回の川崎市の事故では、12日午前の事故直後に連絡を受けた区役所が翌朝まで川崎市への報告をしないでいたことも分かった。エスカレーターの管理は川崎市だ。業者任せの管理体制と官僚組織の悪い面が出た形だが、今回のような報道を聞くと、私はいつも思う。自分の家だったらどうするだろうか。自分の子供の安全に関わることだったら暢気にしているだろうか。管理職でも平職でも誰でも良い、一度半日かけて施設をじっくり見て回ると良い。「気づき」の感性力の問題だ。もちろん報道に至らないような大部分の場合は誰かの「気づき」で未然に事故に至らないのだと思いたいが。製造者、設置者、管理受託者などみんなが感性力を持たずに人任せで形だけの体制だとしたら、本当に怖い。ふじみ野プール事故を思い出す。■過去の記事 再びプール事故を考える(2006年8月11日) ふじみ野市プール死亡事故を考える(06年8月3日)
2007.08.15
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今日の仙台は最高気温が34度の予想。毎日こう暑いと、元々硬い頭脳が、今度は溶解しそうで、何も考えられなくなる。1週間くらい前に読んだ記事で、なぜか溶けそうな頭の片隅に引っ掛かっていることがある。地球の大きさは直径4万キロメートル。200年前にフランス人が6年をかけて子午線を三角測量した。北極からパリを経由して赤道までの距離を測量し、その千万分の1をもって1メートルと決めた。ご苦労さんでした。さて現在ではメートルの単位は、「光が真空中を299,792,458分の1秒の間に進む距離」とされているのだそうだ。子供の頃は「メートル原器」という写真を見た記憶があるが、今は違うようだ。ところで、その約3億分の1秒だが、なぜこんな「切れの良い数字」なのだろうか、と気になっているのだ。地球の円周が4万キロメートル、というのはフランス人がそう決めたから、自ずとわかる。正確にはちょっと違うのだが、それはどうでも良い。光が1メートルを進む距離が、秒で表現すると、ほぼ3億秒とピッタリ出るのは、なぜなのか。つまり、光は1秒間にほぼ3億メートル(30万キロメートル)進むということなのだ。ちなみに1秒の定義は、昔は地球の自転速度から割り求めたが、現在ではセシウム133原子の何とか、というやたら難しい定義だそうだ。現在のメートルの定義に表れる「3億秒分の1」の「切れの良さ」は、単なる偶然ということでいいのだろうか。考えようにも、わからない。外では蝉が鳴き出した。
2007.08.14
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古代社会では法と秩序を守るために一種の秘密結社が機能する。例えばアフリカの未開社会では成人の儀式に先立って一定期間男達が隔離された秘密の場所で老人達から割礼を受ける。いわば一種の生まれ変わりを果たすのだ。またある部族では、誰かが死ぬと、豹になりすました誰かが、部族民を威嚇し、秩序を破る者を夜中に襲い殺すという。非常時の警察力として機能するというわけだ。男鹿半島のナマハゲは、小正月に青年が恐ろしい面を付け、簑をまとい、木で作った刃物をもって、箱に小物を入れてカラカラ鳴らしながら家を回って子供をおどす。仮面、異装、武器、ガラガラなどは未開民族の秘密結社につきもの。そして、小正月は古い年の死と新年の再生の日。ナマハゲは原始的な秘密結社の名残と思われる。■参考 海野弘『秘密結社の世界史』平凡社(平凡社新書315)、2006年
2007.08.13
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昨日の試合、秋田大会を勝ち上がった金足農業の先発左腕がトルネードというので、ちょっとTV見ていたら、打球を直撃して倒れた。あっ!と思わず声を上げた。しかし次の瞬間、ピッチャーは頭の脇に落ちているボールに気が付いて左手でつかんで一塁へ送球し、打者を封殺。ふたたびうずくまってしまった。意識はあるのだろうか、と心配したが、それにしても見事な処理だった。替わった投手が四球連発で大崩れしそうに思ったが、要所を締めてバックも堅守。引き締まった良い試合になった。選抜準優勝のビッグネームを相手に、よくぞ頑張った。今朝の新聞には雑草軍団の名があったが、大舞台で本領を発揮できたのではないだろうか。ご苦労様。
2007.08.12
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東北大学病院の眼科診療施設工事の契約問題が報じられている。本来は入札に付すべきものを3分割して随意契約。しかも実際の工事費は契約額を大幅に超えていた、という杜撰な実態のようだ。契約額と工事費に2千万円ほどの差額があるという奇妙な事情は、そもそも工事費の全体を大学が契約して支出するのではなく、差額分を大学と建設業者を仲介した医療機器会社が負担することになったからだ。そして、差額が生じたのは、教授がスペースを広げたいなどと追加要請をして工事費が膨らんだからだとされるし、医療機器会社も会社としてではなく担当者個人が差額負担を請け負ったのだという。随分と「柔軟な」処理が行われたようだ。さらに、公表が義務づけられる契約内容を1年近く伏せていたなどの問題もある。院長等が昨日午後記者会見したが、当の眼科教授は出張で連絡が取れないとか。大学病院は経緯を説明する責任があるのは当然だ。その一番は、もちろん当事者の教授。国立大学法人となって良い面はない、との嘆きをよく聞く。組織の各部門から見れば、予算の総枠も減り、使い切りもできなくなった、などの実態はあるのだろう。しかし全体として効率化を図るものと考えて行かなければならない。大学が国立だろうが私立だろうが、教授の私物ではないのだから、個人の考えだけで振る舞われては困る。学問の自由は研究教育の中身のことだ。昔の東京芸大のバイオリン事件も思い出すが、どうも大学人には世間の常識が欠ける人が少なくないようだ。
2007.08.11
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設立2年目となる宮城・山形両県の交流議員連盟の総会が9日、山形で開かれた。産業振興のほか、08年秋の仙台・宮城デスティネーションキャンペーンを視野に、地域資源を生かした交流手法を検討。医療・福祉分野の資源の相互活用や交通ネットワーク機能整備の促進についても協議していくことを申し合わせた。(山形新聞HP記事)連盟には両県議会の全議員が加盟しているという。協議課題も上記のように多彩だ。多彩と言えば、総会では、飲酒運転で摘発され、県議会の辞職勧告に従わずに議員を続けている村山隆議員(東村山郡区選出)の除名の提案もあり、全会一致で可決された。全議員加盟というから、つまり村山議員も加盟していたが、全会一致で除名された、ということなのだろう。どういう議事進行だったか興味もわくが、わざわざ加盟しておいて全会一致しかも隣の県の議員にまで仲間はずれにされるという、絵に描いたような恥を晒しておられる。朝青龍以上に恐縮してしまうのが常人の意識だろうが、どうやら相当な人物だ。編集長予想の「90日居座り論」も空振り。辞職のタイミングを見ている、などという観測はどこ吹く風で、いつまでも居座るお考えらしい。先月末には齋藤知事が山形県のイメージダウンで旅行客キャンセルも発生した、と怒りを表明した(山形県HP記者会見7月27日)。齋藤知事によると、レピュテーショナル・リスクの顕在化現象だそうで、山形県発展のために適切な対応をせよ、つまり辞職せよ、と村山氏に求めている。県議会の威信低下も懸念される。手詰まり感から、宮城県議会も巻き込んでの新手の一矢を放った、というところか。私は議会が懲罰として除名処分(地方自治法135条)を科してもいいと思うのだが、そうしていないのは、除名処分は相当謙抑的に運用されるべきで、この程度では発動できないとの前提なのだろう。たしかに議会が懲罰の名の下に選挙結果を政治的に歪めるようなことは困る。しかし、議会事務局が慎重に検討した結果だとは思うが、社会の情勢や県民意識を考えれば十分可能だと思う。取消訴訟になれば、部分社会を超えて一般市民法秩序という、例の法理で判断するのだろうか。一般市民法秩序でも指導的地位にある者の飲酒運転を免職とするのは、決して過重ではない。■関連する過去の記事 村山県議問題を考える(07年7月11日) 東北 時の人(07年6月27日) 山形県議会議員の飲酒運転問題を考える(07年5月25日)
2007.08.10
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今日も蒸し暑い仙台。仕事で市内を回る。タフな交渉ごとで、本当にウンザリなのだが、事前に思い切りウンザリしておいた成果だろうか、2件とも意外とスンナリ友好的に一歩進んだように感じている。冷房の効いた屋内から外に出ると、メガネは曇って、蝉の声が体を包み込んでくる。世間話で、今日も暑いですね、蝉の声がすごくて、などと言ったら、あら仙台も蝉が鳴くなんて良いところが残っているのですね、と言われた。そういう見方もあるか。この方は先週アフリカを用事で訪問されたそうで、外は仙台ぐらい(!)蒸し暑いが、マラリア予防のため18度以下に空調された室内にいたのだそうだ。ところで、蝉の鳴く中、僕は移動のために、普段は滅多に乗らないタクシーのお世話になった。助手席シートの後ろ側に後部座席から読めるように運転手さんのプロフィールが書いてある。出身、趣味、生年月日、など。生年月日は、僕の父親と4日違いだ。生年は同じだから、つまりは同い年の運転手さんだった。そのことを思わず口にしそうになったが、自制してこう言った。「育英は勝っていますか」。すると運転手さん、ラジオのスイッチに左手を伸ばしながら、2対0で勝ってるよ、でも今日はエラーが多いね、などと説明してくれる。なんだ、ついさっきまで聴いていたようだ。僕の父親も野球が好きだった。この季節なら高校野球を見聴きしているはずだ。今はもう会えない父親のことを思い出していた。次の信号待ちで、運転手さんが左手を伸ばして今度は携帯を手にする。何か連絡でもしているのかと思ったら、携帯を開いて僕の方に見せてくれる。テレビの野球中継を見せてくれたのだ。何もそこまで良いですよ、と思ったが、父親の有り難さだから、見せてもらった。ちょうど仙台育英の佐藤投手が153キロの速球で三振を取った場面を見た。七夕は忙しかったですか、と聞くと、200万人は出たようだがあまり関係ないね。観光客はあちこち移動しないし、バス客も多い。仙台駅前に入って30分40分待つより流しの方が着実だし、などと言われる。駅前タクシープールに入るのは、月三千円で自由に入れるのだそうだが、まず行かないそうだ。駅前に付けるのは勤勉でないタクシー。運転手さんは一日300キロ走るのだそうだ。基準が判らないが、随分長い距離ですねと話した。七夕飾りの話。暑さの話。正味10分も乗っていないと思うが、何か楽に世間話をさせてもらった気分だった。69歳の元気な運転手さんだった。今日の仙台、暑かったが最高気温は31.6度(仙台管区気象台アメダス)。思ったより気温は低かった。
2007.08.09
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昨日(8日)のニュースでは参院選で選ばれた話題の新人議員の臨時国会初登庁のインタビューを流していた。晴れやかな気持ちで答える言葉には、それぞれの人物が伺えて興味深い。例えば、ヒゲの隊長のビリーじゃなくて佐藤正久氏は「国会という新たな戦場で戦う」とか話して敬礼していた(言葉は正確に覚えていない。以下同じ)。川田龍平さんは「衆参同じでは意味がない」。横峯さんは「やっぱり数の論理だけで好き放題決めるというやり方はダメ」。丸山弁護士は「安倍首相は年下。言うべき事は言いますよ」という趣旨を話していた。さてそれでは東北の選挙区選出の先生方を何人か。松浦氏(秋田選挙区) 「国会議員の仲間入りをして気の引き締まる思い。県民からいただいた票の重さを実感している。選挙で訴えた格差問題の是正や雇用、農業の問題に取り組みたい。本県は自殺率が高く、自殺予防にも積極的に取り組みたい」。(さきがけWEBから)舟山氏(山形選挙区) 「(国会議事堂の)厳かな雰囲気の中で、気持ちを新たにしてスタートを切りたい。このバッジの重さは、県民一人一人の思いであることを実感している。それを、きちんと背負って頑張っていきたい。」(山形新聞HPから)平山氏(青森選挙区) 「思い期待と責任があると思うので身の引き締まる思い」(青森テレビHPニュースから)森氏(福島選挙区) 「(国会には)弁護士、金融庁時代に何度も来ているが、本日からは県民の思いを背負っての登院。責任の重さを感じている」(福島中央テレビHPニュース)金子氏(同) 「重い責任を負って門をくぐった。大きな期待にきちんと応えられるようしっかりと仕事をしていきたい」(同上)今野東さんの言葉が探せなかったのが、ちょっと残念。氏のHPには「与野党逆転した参議院で、思いっきり良い仕事をします」とある。
2007.08.09
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平成の大合併で「町」「村」の数はだいぶ減った。現在宮城県では、22町1村である。ところで「町」を「まち」と読むか「ちょう」と読むかは、自治体ごとに決められており一律ではない。例えば平成18年1月誕生と最も新しい「町」である美里町は「みさとまち」、その次に新しい南三陸町(平成17年10月)は「ちょう」と読む。これらは合併協議の中で新町名とその読み方を定めている。今は栗原市となった旧栗原郡9町(ほかに1村)のうち、「ちょう」と読むのが6町、「まち」は栗駒、高清水、一迫の3町であった。後者の3町は町名が訓読みだから「まち」で自然なような気もするが、かといって築館や若柳も訓読みなのに「ちょう」と読むのだから、音読み訓読みで分かれているわけでもない。海岸寄りに「ちょう」が多く山沿いが「まち」だとする俗説もあったが、そうでもない。いずれも合併で消滅したが、鳴子(ちょう)、北上(まち)の例をあげればわかる。また、東日本に「まち」、西日本に「ちょう」が多いとされるが、宮城県内では混在している。そもそも明治の市町村制の施行の際は全国一律に「まち」と読ませたそうだ。これが戦後になってから、各町がみずからの地名と「町」の語を一体の固有名詞と考えて「Aマチ」「Bチョウ」などと呼び方を決め始めたということだ。結局決め手がないので、もう「覚える」しかない。普通の人は別にどうでも良いけど、公の場での発言や放送関係は正しく読むべきだろう。昔、八木山の東北放送会館にレコードコンサートにお邪魔したことがあるが、アナウンサーのためなのだろう、壁に県内の町の読み方を整理した小さな紙が貼ってあったのを覚えている。平成の合併(昭和60年代の仙台市の合併を含む)の前の県内61町の読み方を分けると、 「まち」 23カ所 「ちょう」 38カ所となっていた。先に触れたように全国的には東が「まち」で西が「ちょう」。例えば、東北では青森、秋田、山形、福島の各県ですべて「まち」と読んでいた。西日本では20府県がすべて「ちょう」と読み、混在する県でも「まち」と読む町数は少ない。ついでに言うと「村」は「むら」と読むのが一般だが、中国、四国、九州、沖縄で「そん」と読ませる場合が多い。青森や秋田のように、県内すべて「まち」なら、アナウンサーも苦労はしないだろう。宮城県の場合は、東日本に属するのに「ちょう」が多かったわけで(岩手県も同様)、ちょっと例外的とも言える。昭和の合併で合成地名なども登場したため、自治体としての呼称を、明治以前から形成された共同体としての「まち・むら」と区別する意味で「ちょう・そん」と公称したのではないか、との説明もあり、なるほどと思う。合併後の現在、22町の読み方は次のようになった。 「まち」 12カ所 「ちょう」10カ所やっぱり拮抗している。
2007.08.08
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岩隈準完投に小山が抑える。打線も打つべき時に決める。リックと嶋が印象的。これでは負けるはずがない。今はイーグルスの良い形が出ている。残り47試合、2勝1敗ペースで行けば30勝15敗と引き分け2試合程度。現在の借金9を返済してなお勝率を引き上げられるわけです。もちろん、まだまだシーズンは長いですから、現在の好調も維持できるかどうかわかりません。だから、まず当面はこの2勝1敗ペースで頑張って、最終的に5割確保を死守するのです。5割を達成してもAクラスの保証はありませんが、現時点の目標は5割、そして最終盤になってターゲットが絞られると思います。さて、当面2勝1敗ペースで行くためには、同一カード初戦は絶対取ること。今日の岩隈は良かった。次のホームでのマリーンズ戦の頭は田中で勝ちに行くでしょう。この2投手を軸として、あとは明日先発の朝井、前回意地を見せた永井あたりが試合を作る。ドミンゴ、山村、有銘も先発でいいように思います。打線が効果的に援護して、投打が上手く噛み合ってくれれば。今月は噛み合うような感じがしています。それいけ~ イーグルス! 今年のチーム目標はまだまだ達成可能だぞ~! ホントに。
2007.08.07
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東北を蔑視する言葉。河北新報の題号の由来でもある。旧盛岡藩出身の平民宰相原敬は、自らを「一山」と号した。私も小学校の先生に教えられた。東北を蔑む言葉だが、自らその表現を伝えるわが東北人には、中央中心の日本の見方に対する明確な外交意識を想起させる言葉でもある。この蔑称はどのように生まれたのか。戊辰戦争で官軍が発したとも言われるが、実証されていない。今のところ『近事評論』の記事「白河以北一山百文」(1878年8月23日)を起源とみるのが最も信頼できる説だ。----------往来で日本地図を開き各地の土人形を並べて、「白河以北一山百文」と泣き叫ぶ売り子。聞けば、西南の人形は飛ぶように売れるが、東北地方はたたき売りでもしないと売れない。それが悲しくて泣いているという。そこで、こう諭した。治乱盛衰は天の道、今は人気がある西南もいつ廃れるかわからない。やがて東北の人形が大いに売れる日も来るだろう。すると、売り子は納得したと見え、泣くのをやめて、再び大声で叫んだ。「白河以北一山百文」と。----------ところで1897年創刊の河北新報は、実業家一力健治郎が経営難に陥った進歩党系の「東北日報」を引き継ぐに当たって、「白河以北一山百文」をもじって題号にした、ということになっている。しかし、陸羯南(7月23日の日記参照)が主筆であった新聞「日本」によれば、東京朝日新聞の村山龍平による東北日報の買収話に反発した仙台の進歩党員らが、金満家の一力に立て直しを依頼し、「こがね新聞」と改題することで引き続き進歩党系の機関誌にしようとした。その後名称は河北新報と変えられた。ここで著者は、当時は必ずしも東北の自己認識が「白河以北一山百文」に収斂されていたわけではなく、むしろ「こがね(黄金)」なる可能性の連想を抱いていたことを指摘している。■出典 河西英通『続・東北 異境と原境のあいだ』中央公論新社(中公新書1889)、2007年この著書は、前著(7月23日の日記参照)東北の後進的な像はどのように生成されどう変わっていくのか、精神構造における「東北」を明らかにするため、徹底的に資料文献を博捜して明らかにする。ものすごい力作だ。
2007.08.07
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東北のドライブマップを読んでいて気付いたのだが、百名山の飯豊山は、新潟、山形、福島の3県にまたがると思っていたら、山頂周辺までの登山路が盲腸線のように福島県域になっている。地図には「飯豊山頂は会津の山 強引な県境に注目」と書いています。飯豊山神社も山頂と、ふもとの喜多方市(旧山都町)とにあります。昔から地域の信仰と深く結びついていたようです。明治の廃藩置県で旧会津藩領の一部を新潟県に組み込む際に、参詣路を福島県分に残したもののようです。ちなみに、福島県の観光マップ(ウラが全県地図)で確認すると、本当にヒゲのように県境が伸びていました。
2007.08.06
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ちょっと前のニュースだが、7月30日米下院が、いわゆる従軍慰安婦問題の公式謝罪を日本政府に求める決議を採択した。 読売新聞社説(1日)は、誤った歴史の一人歩きが心配だ、と述べる。曰く、日米は民主主義や人権擁護の価値観を共有しているが、誤った歴史認識には明確に反論すべきである。慰安婦問題については、女子挺身隊が政府による慰安婦狩りだと一部新聞が事実と異なる情報を振りまいた経緯がある。河野官房長官談話(93年)も誤解を広めた。しかし強制連行を裏付ける資料は存在しない。強制性の説明もないまま決議を当然視する論調が展開される。「慰安」施設は旧日本軍に特有のものではない。今回の決議の背景には中国系の反日団体の動きがある。日本の外交当局は誤解を解く努力が足りない。 さて、産経の論調。曰く、性的奴隷などの語を用いて理性のかけらもない決議は、米議会の愚かな選択だ。第一何を証拠に20世紀最大の人身売買と断定するのか。慰安婦決議をきっかけに日本で反米感情が高まれば、日米同盟も危うくなる。それを喜ぶのは誰か、米議会人は胸に手を当てて考えるべきだ。 この下院決議だが、日本の参院選への影響を考慮して本会議採決は引き延ばされた。また、翌日にはアジア太平洋地域の安定やテロとの戦いに関する日本の役割についての謝意を示す決議も採択されたという。慰安婦決議の提案者のホンダ議員も謝意決議の共同提案者だ。バランスをとる狙い(産経記事)だそうだ。 最後に朝日。日本政府は93年の河野官房長官談話で旧日本軍の関与を認め謝罪した。これを受けてアジア女性基金を設立し、償い金と首相名のおわびの手紙を渡した。米側がこうした取組を評価しないのは残念だ。しかし、これだけ糾弾されるのは日本にも原因がある。河野談話は強制性を認めた公式見解なのに、その後一部政治家やメディアが河野談話を否定したり攻撃したりした。その勢力の1人が安倍首相だ。米国内には日本が戦前の価値観を引きずっているとの懸念があり、安倍首相の登場が警戒感を高めた。さらに、国会議員らが反論広告をワシントンポスト紙に掲載したことが、歴史をゆがめる日本の試みとみられて、決定的になった。慰安婦問題で旧日本軍を言語することは、自由や人権という両国が共有する価値観に反することを首相は知るべきだ。 朝日も一頃とはずいぶん論調が変わったものだ。米国特有の価値観だから、などと冷静で客観的な視点を提供するなど、随分変わったとも感じた。教科書問題で韓国を怒らせたとき、私は学生時代だった。それでも、前2紙と全く異なるのは、旧日本軍の関与と強制性を認めていることに立脚している。その上で、政府の対応を批判するから、批判の内容も違ってくる。朝日は、謝罪が足りないと言い、産経は、事実誤認の説明が足りない、ということになる。例えば、ワシントンポスト紙広告についても、産経は一定の努力とし、朝日は失策だった、と評価も全く分かれる。わが政府の対応は今のところ当たらず障らずのようだ。安倍首相は、訪米した際に自分の考えや政府の対応を説明してきたが、残念だ、と述べた。官邸は箝口令を引いたという。今回の下院決議は前から動きがあったことで、米国の政治の文脈では、国内勢力の反映と対外的な駆け引きの中で発生する、それ自体は通常の作用なのだろう。真に受けて、それなら原爆投下はどうなのか、などと躍起になるのは、筋違いだろう。しかし、と思う。いわゆる外交努力に帰責することは実践的に正しいとおもうが、対外関係ではなく日本国民の意識を考えると、この問題の本質は手続き論ではない。日本として何をどう主張すればいいのか。日本人の代表が総理大臣だから(法的な正統性はともかくとして)、総理大臣がはっきり考えを述べるべきものだ、と思う。国民が合意するその「考え」が、ないのだ。あやふやな対応に終始し、ひたすら米国や中国との距離関係の相対論の中で発想する。それでは、何十年たっても同じなのだ。
2007.08.05
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暑さを吹き飛ばそうと?躍起になって今日三度目の日記。先日の日記(07年7月24日)に掲げた近くの空きロット。今日見たら、なぜか売約済みのシールがなかった。単にはがれたのか、実は解約になったのか。
2007.08.04
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午後3時ですが、今日は高温多湿の蒸し風呂状態。2度ほど外に出ましたが、今は家でボーっとしています。夕方に町内の夏祭り。それまでの辛抱。実は昨日は、おばんでガス作戦でフルスタ(名前変わるの?)に行くつもりだった。たまりまくった仕事をサッサと切り上げでイザ参戦、と思いきやドンドン仕事が舞い込む上に日中は別用件でロック状態。これでは何ともならん、いや田中のフルスタは貴重だ、仕事は残せばいいだけだ、とファン魂が盛り上がり、7時に仕事を切り上げ(実は、残したまま)出発。しかしラジオを聞くと、あれあれ途中経過は0-5になっている。さんざん悩んだ挙げ句、家庭の事情も思い出して、結局帰宅した。暑苦しい日に、試合でストレスたまっては困るな、という気持ちも正直あったし。帰宅は自転車だ。不徳のファンだが、最低限の務めとばかりに、ラジオのイヤホンを耳にしながら。そしたら、だ。2アウトからの見事な連打。とあるスーパーの前で、思い切り自転車が倒れそうになるくらい、よろめいてしまった。ヤッター。4-5。この勢いなら絶対逆転できる。帰宅して風呂でラジオを聴いているときに、みごと逆転。強いぞ、チームの力、無形の力だ。田中が神の子というだけでなく、それに相応しい実力を出しているのだ。序盤の失点は痛いが、味方の援護の後は抑えたところが、実力だ。本当は最初から抑えれば文句なしだが、野球はチームのスポーツ。投打がかみ合ってこそ。図らずもこれを実証できた。いい試合だった。強いぞイーグルス。有銘と山村も立派だったが、秘かに、ではなく大いに注目するのは、小山投手。申し訳ないけど以前は登板イコール打たれるという感じ。四球で塁を差し上げて打たれる。昨夜も、内心ヒヤヒヤしたが、自信もって対応できているのだろう。当分はこれで安泰と期待。さあ、今夜はドミンゴさん。打線は昨日休んだ山崎に期待しましょう。私は夏祭りで暴れますから、キングは豪快に花火を打ち上げてくれ~~ あ、ラジオ持って行こう、と。
2007.08.04
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奥州三名湯という言い方がある。飯坂、秋保、鳴子の三湯だ。いずれも歴史が古く、湯量も豊富で温泉も良い。ところで、全国的に温泉の「名数」では筆頭格は、日本三大温泉と称される、別府、湯布院、伊東だろうか。また、日本三古湯の白浜、有馬、道後。日本書紀にも出ているから、もう神話の世界だ。林羅山の三名湯は、有馬、草津、下呂。ドリフの「いい湯だな」は登別、草津、白浜、別府、とこれは4つのようだ。他にも、箱根七湯、別府八湯、美作三湯などがある。近くでは塩原十一湯も。東北では、栗駒五湯。駒の湯、湯浜、湯ノ倉、温湯、須川、と3県にまたがる。
2007.08.04
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旭ヶ丘や桜ヶ岡公園の「ヶ」が大文字(ケ)か小文字(ヶ)か、また仙台市立学校は「旭丘小学校」「榴岡小学校」と表記するのだが、「ヶ」や「が」は要らないのか、など悩み出すと止まらない。そこで寝苦しい夏の深夜(もう1時だ)の悩みを解決すべく、アカデミックな説明を勉強した。1 桜ヶ岡などの「ケ」は何者かそもそも榴ヶ岡などと呼ぶ場合の「ケ」は、片仮名の「ケ」と一見同形だが(もちろん本稿でも片仮名の文字を使って表示している)、全く別個の漢字である「个」(部首:ぼう・たてぼう、音読みはカ・コ、訓読みナシ、JIS:5024)の字体の1つである。「个」は中国では現在も常用されているし、我が国でも明治まで普通に使われていた。この漢字は私も知っていた。最近の改正前の民法では「催告ハ六个月内ニ裁判上ノ請求...」(第153条)などと表記していた。口語体に改正した後は「六箇月以内に」を用いている。ちなみに法令一般には「六月以内に」と表現するようだが。「異体字研究資料集成」第5巻の内の「省文纂攷」(松本愚山、享和3年(1803年))に、「个箇。古作个。後人多様個字。此間、俗作ケ者非。」とある。同書第10巻の内の「俗字略字」(黒柳薫、明治43年)には、「音モ義モ同ジクシテ略字視セラルルモノ。箇个。個个」とある。「个」は、箇や個より以前に生まれた漢字だが、これらと同様に物を数える場合の語である。読みは「こ」・「か」だが、現在の日常用語でも「いっこ、にこ」「いっかしょ、にかしょ」と発音するとおりである。この漢字「个」は、その音を借用して、「か」「こ」の音を示す送り仮名としても使われた。そして、この送り仮名慣用が根強く現代に残ったのである。これに反して、同形の片仮名「ケ」は、「け」の音を持つ漢字「介」を字音として省画作字されたものであり、当然ながら現在では「け」の音しかない。(実はちょっと複雑である。現在は片仮名「ケ」は唯一「け」の音だが、一時期は片仮名の中に「ケ」を「か」の音にあてる使い方もあった。平安初期以来漢文訓点の送り仮名に漢字の一部分を用いて発達したのが片仮名である。片とは、漢字の片方ないし不完全部分の意味だ。いつの時点からか、別な発生ルートで「か」の音にあてる片仮名「ケ」が混入していたということだそうだ。現在では後記するように片仮名は公式に一音一字体に定められて、このような混乱はない。)以上のことから、桜ヶ岡の「ケ」は片仮名の「ケ」ではなく、漢字の「个」の音「か」を借用してその異字体を用いたものだ。従って、もともと「さくらけおか」だったなどという訳では勿論ない。「桜が岡」の送り仮名部分である「が」に、送り仮名慣用として漢字「个」の身代わり「ケ」を表記したのだ。なお、「さくらがおか」のように濁点のある「が」と読むのは、上代日本語には清音しかなく濁音が発生してからも濁点を打たなかった伝統による。2 現代の表記の混乱について青葉区の桜ヶ岡公園(西公園)は、明治8年の開設で、桜岡公園または本柳町公園と公称されていた。明治35年に東公園として榴岡公園が設けられて以来、西公園と通称され、現在では地下鉄東西線開通を視野に入れて再整備計画がある(仙台市HP西公園再整備事業)。「桜ヶ岡」なる表記は、「桜岡」という漢語風の雅名と、「さくらがおか」という日本的呼び方を調整するために、送り仮名「ケ」(片仮名ではない)を取り付けて表記するようになったものだ。ここで送り仮名とは、漢文を訓読するために(縦書きの)右方に書き添えた仮名である。送り仮名の助けを使わずに堂々と漢語風に表記するのなら「桜岡」とすべきなのだろう。ちなみに、地名に漢語風の雅名が多いのには由緒があって、和銅6年(713年)元明天皇が、諸国郡郷の名は好き字(漢字2文字)をつけよと詔した事に始まるそうだ。現代では片仮名の「ケ」と同一視されてしまった送り仮名「ケ」を表記して混乱や誤発音(さくらけおか?)を招くよりは、堂々と漢語風の表記をするのがよい、という考えも筋が通っている。仙台市の市立学校の表記がこうなのは、このような考えに依っていたのではないだろうか。あるいは、送り仮名「ケ」の混乱を回避するという点では同じだが、むしろ平仮名の「が」を用いて、「榴が岡」「米が袋」などと表記する方針もある(小倉博『仙台』、大正13年)。困るのは、漢字である「ケ」(个)についての知識がないのにかかわらず、「ケ」を使うのが何となく尤もらしく由緒があるようだから使う、などという無意味な発想だろう。現在の片仮名の字体が正式に一音一字に確定統一されたのは明治33年の文部省令であり、この時点で、同形別字である「ケ」(片仮名)と「ケ」(漢字の个)の同在混乱を避けるために、従来の送り仮名「ケ」(漢字)を「か」の発音に当てる用法は廃止されても良かったのだろう。多くの人が送り仮名「ケ」が漢字「个」のことだと知識がない以上、現代の「桜ヶ岡」式の表記は問題を含んでいるというべきだろう。(最後の評価にわたる部分は下記文献の執筆者の見解。おだずまジャーナル編集長は、う~ん、どうだろう。「ケ」が大文字小文字?なんて言い出すほど低レベルでしたから(汗)。梅原市長なら当然に漢語風を採用なのだろうか。「七ヶ浜」の表記はダメ、ということでしょう。)■参考 仙台市民図書館編(編者種部金蔵)『要説宮城の郷土誌』宝文堂出版、1983年(前回、前々回も書きましたが、本当にすばらしい文献です。)■関連する過去の記事 宮城・悩みの地名あれこれ(07年6月9日)
2007.08.03
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梅雨明けパワー全開。強いイーグルスの復活で8月はバリバリ勝つぞ。昨夜の朝井投手は、アッパレだ。勿論いつかはやってくれると確信していたが初完封。近鉄時代からいつかはエースと思っていたが、本当に一皮むけて成長しました。カーブもスライダーもフォークも速球も、武器が豊か。イーグルス最若年の若武者だったが、田中の加入で更に奮起したのでしょうか。今年は本当に良いです。さあ、今日は一場さんだ。岩隈完全(たぶん)復活、朝井の完全独り立ち、こうなれば一場の復活がカギですよ。イーグルスの8月攻勢のキーポイント。明日のホームは田中でしょうから、n連勝も見えてくる。頑張れ一場。打線も援護よろしく。
2007.08.02
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もともと七夕祭りは全国にある伝統的な民俗行事で、仙台固有のものではない。今日の竹飾りのスタイルや、五色の短冊にをつける風習も、元禄頃に江戸の町々で行われたもので、これが他の地方と同様に仙台にも移入された。明治以後、時代の変化で多くは廃絶したが、仙台では、肝心の祭りの信仰面は空洞化したが、形式面を存続しつつ、しかも観光資源の最たるものとしてデラックスなものに仕立て上げた。昨年(平成18年)の仙台七夕の観光客入込数は、2,140千人だ。近年は減少傾向にあり、また松島海岸(3,711千人)、光のページェント(2,600千人)には届かないが、いまなお仙台の大きな観光イベントだ(データは平成18年観光統計概要、平成19年7月)。1 我が国の七夕祭りの成り立ち本来我が国の七夕祭りは農を主体とした人間生活に密着したものだった。「七夕」という外来の中国語を「たなばた」と日本語読みしていることが、古来の民俗信仰の本体があったことを示す。この信仰を母体として、その中から盆行事の部分が仏教によって抽出・包摂し去られ、更に中国伝来の乞巧奠(きこうてん)という星祭りが合体・ミックスされた。我が国では毎年2回の満月の日、すなわち旧暦正月と7月の15日は、祖霊を祀る最高潮の日とされた。そして、正月の七草の日と7月7日は祭りの準備に入る斉日(いわいび)であった。旧暦7月7日はちょうど稲が開花期に入るとともに、風水害や病虫害の季節で、豊作を神々に祈るほかなかった。7日の早朝、禊をして身心を清め、祖霊を祀るお盆の行事に入った。これが農耕文化とともに始まった七夕の起源だ。日を定めて帰ってくる祖霊に、山海の幸と新しく織った御衣を捧げる。御衣は選ばれた棚機女(たなばたつめ)たちが、機家(はたや)の棚機(たなばた。機の構造上棚があるからこう呼ぶ。)で織り上げたものである。各地の機織沼などの伝説はこの七夕信仰の名残であり、宮城県内でも潟沼(大崎市鳴子)、化女沼(大崎市宮沢)、機織沼(登米市錦織)など。現在、葉竹にさげる紙衣も、女子の針仕事の上達を願う意だけではなく、元々は神に捧げる御衣の意味を持つものである。この七夕に引き続く祖霊の祭は、今では七夕と分離せられ全くの仏教行事となった。いうなれば仏教が民間信仰を部分的に接収したものである。元来個人の精神的解脱のための仏教と、霊魂や黄泉の国を信じる民俗信仰とは、互いに相容れるものではなかったが、だからこそ仏教が祖霊の祭りを主管するもの(葬式仏教)に変形しなければ大衆に浸透できなかった。こうして、お盆行事の部分が巧妙に仏教の担当するものとされた。中国から外来した「星祭」又は「乞巧奠(きこうてん)」について。太古漢水のほとりに織女があり、父王は牽牛を婿に迎えたが、織女は機織りを怠るようになったので父王は怒って牽牛を漢水の対岸に追放した。そして年に一度7月7日の夕だけ会いに来ることを許した。この地上の説話が、空に流れる天漢(あまのがわ、銀河)のヴェガ(織女座)とアルタイル(牽牛座)に移して考えられるようになる。詩経の大東章に、既に擬人化されたこれら二星が現れている。二星が視覚的に最も接近する陰暦7月7日夜、これを祭って技芸の上達を願う行事が乞巧奠である。乞巧奠が我が国に伝来したのは奈良時代の頃。孝謙天皇の天平勝宝7年(755年)に初めて乞巧奠を行ったとある(「公事根源」)。最初は宮廷行事として清涼殿の東庭で行われ、梶の葉に金の針を七本通し、別に七つの孔をあけて五色の糸をよりあわせて通し、庭に和金を立てかけ、天皇が二星会合をご覧になったと伝えられる。七夕祭りは江戸時代に入って「五節句」に数えられ、全国的に一層盛んになった。ちなみに、五節句とは、(1)人日(じんじつ。正月7日、七種(ななくさ)粥)、(2)上巳(じょうし。3月の初の巳の日、後に3日。桃の節句)、(3)端午(5月5日)、(4)七夕(しちせき)、(5)重陽(9月9日)。この頃から竹飾りも現れ、元禄頃からは短冊や吹き流しもつけるようになった。葉竹は稲とともに本来熱帯植物であり、正月の門松と同様に、神の降臨のよりどころを示す。短冊は四手(神事のしめ縄に垂れ下げる紙)の変形といわれる。2 仙台の七夕江戸風の七夕が仙台にも取り入れられた。6代宗村の時から一日繰り上げ旧暦7月6日の宵に行われた。6日夕方から笹竹を飾り手芸の上達を願い、また農家では田の神の乗り馬として七夕馬(藁馬)を作って屋根に上げるなどして豊作を祖霊に祈った。7日朝には、仙台では広瀬川に笹を流して、水を浴び洗い物をした。これが七日浴(なぬかび)や七日盆と呼ばれたが、本来は盆祭りに入る準備の禊ぎであった。明治維新や新暦採用で全国的に祭りは衰微し、東京でも明治中期にはほとんど見られなくなる。仙台でも、大正末期の七夕祭りは幕末当時のものに到底及ぶところではない(仙台昔語電狸翁夜話、伊藤清次郎)。また仙台繁昌記(富田廣重、大正5年)には「肴町や常盤丁の遊郭では思ひ思ひの意匠を凝らして人目を惹き」とある。仙台の竹飾りの目玉である薬玉(くすだま)も昭和10年頃に花街の人々の工夫で出現したものである。ちなみに東京でも同様の事情があり、永井荷風の日記(断腸亭日記)の大正7年の記事にも、「赤坂の妓窩(ぎか)林家の屋上に七夕の笹竹立てられ願の意図の風になびけるを見たり。旧年の風習今は唯妓窩に残るのみ。」と嘆いている。花街の人たちが七夕の竹飾りを棄てることなく守り継いできたことは重要な意味を持つことである。忍従の生活を強いられたこの人たちは、いずれも貧窮の農村の出身であり、ふるさとへの切実でひたむきな祈りを込めて、毎年竹飾りを作り続けた。さればこそ、純粋な七夕飾りの精神が脈々と保持されたのである。昭和2年、大町五丁目の商店界が七夕復興を提唱し、翌3年の東北産業博覧会開催の気運に乗って、仙台協賛会(観光協会の前身)、商工会議所、商店街を糾合し、旧暦から新暦の月遅れ(中暦と呼ばれる。ちなみに平塚は新暦。)の8月6日を期して、今日の仙台七夕が始められた。戦前戦後の中断を経て、昭和21年にはあり合わせの乏しい紙で工夫された七夕飾りが、市民の傷心にさまざまの反応をもたらした。翌22年は両陛下を迎えた(8月5日)のを機に本格的に復活。翌年には七夕協賛会が生まれ、今日の豪華絢爛なショー七夕になる。3 附言出典文献(後記)の執筆者も語っておられるが、仙台の商業主義ショー七夕に、無理して伝統的な箔付けをしようとして、藩政時代に仙台商人が七夕祭りを守ったなどと説明する向きもあるそうだ。しかし、華やかなショー七夕を豊かさの現代感覚だけでもって捉えてしまっては、きびしい自然条件の中で農耕に苦難を伴ったわが民族の素朴な信仰として始まった祭を理解できない。むしろ、花街の人たちが祈りを込めて守った竹飾りにこそ現代的な意味があるのではないか、とも思う。現在の観光七夕は、それはそれで美しい。しかし、祭りの意味を深く問うてみるとき、仙台を象徴する祭りと自称するからこそ、表面の華美さや経済効果なる側面だけでなく、その本体は何なのだろうか。また、祭りの主体が人間だとするならば、我々市民が何を願う祭りなのか、仙台は何を守ってきたのか、などについて深く考えさせられる。文献の執筆者の次のことばが心に残る。「旧物が一掃されたとき、人心は過去を顧みることをしないで、未来を夢見るものです。しかし、やがてその反動期が来て、再び古いもののへの郷愁に目ざめるが、その時復活するものは、もとの姿ではあり得ないのです。」最近の市政でも感じることだ。形だけの復古で、浅はかな満足に陥っていないか。■出典 仙台市民図書館編(編者種部金蔵)『要説宮城の郷土誌』宝文堂出版、1983年(ほとんど写し書きのようになってしまいました。前回も書きましたが、本当にすばらしい文献です。)■関連する過去の記事 仙台の花街(07年2月10日) 仙台七夕の由来(06年8月9日)
2007.08.01
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