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二つの心を持つ何となく巧く行っていると思っていた自分のからだが突然狂ってきた。どうも思うようにいかない厄介な相手に戻った感じだ。心と体。寧ろ脳とからだなのだろうが、マッチングできない。ちぐはぐになってしまった。どこかからだの異変があるのだろうか。気に為ることはあり過ぎるくらいある。一々考えていたら、悪い方向を向いてしまう。ひとつ綻んでくると途端に、可笑しくなってしまうから人間は怖い。 ・取り返しの効かないことにもなる。それが怖い。人の死もそういう悪い偶然の重なりでもあるのだろう。死なずに済んだのではないかと、父や義父のことを考えたりする。或いは他の人にもある。周囲に医学知識があれば、助かる命もあるのではないだろうか。加齢も初めての経験であり、自分ではわかないことばかりだ。我慢して好いものとしてはいけないものがある。 ・へ2・・・或る医学ガイドを読んでいて、「病気に対する最大の武器は知識である」というフレーズを読んで、これだと思った。無知だから、間違ったこともする。専門書も解らない時には聴いてくれる専門医もいたからできた。それが、其のガイドブックが無くなり、聴いてくれる担当医も遠くになってしまった。それが現実でもある。本当に必要なものが、そばにない。自分が聴いて解るくらいの知識が必要だし、そのための勉強も聴いてくれる専門医も必要だがいないのだ。そして、それは病気だけではない。私たちは、自分の命をどうして守ればいいだろうか。 脳の右半球と左半球は、それぞれ支配範囲が決まっていて、身体の縦半分に割った反対側が概ねそれに相当するが顔は少し異なる。だから、右足を伸ばすのは左脳であり、左足は右脳が支配している。そして全体として統括するのは通常は左脳である。エイリアンハンドは、そのコントロールが混乱して起きる。 脳が果たすべき最大の役割は自分が属している有機体を生かし、繁栄させることである。脳の構成と働きの大部分は食物を見つける、SEX,わが身を守る事であり、基本的要求を満たすべく身体の各部分を調整することに一生の大半は費やされている。
2015.02.28
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誰もみな、少し違うだけの人生を生きている。同じ人はいないだけだ。歩くのは危険が伴うがそんなことは構っておれない。ひとは外に出て歩くことで自分の運命を切り拓いても来た。人生にリスクはつきものだといえる。これではだめだと思えばやり直すだけだ。それが失敗でも仕方がない。何度かそういう経験をしたから慎重になった。そしたら考え過ぎて行き詰まりもした。そして数年前、また方向転換した。何も利口である必要はないのだ。少数点以下が何位であろうと、それが何だろうか? ・誰も、私の評価をするつもりはないのだ。自分の自身の評価が何であろうと無関係なのだ。誰も私に聖人になれと期待してもいないし、命令もしていない。思い込んでいるのは自分自身でしかない。私はこどものころ、自分で言うのも可笑しいくらい内気だった。それはいまなら原因がわかる。環境と素質がそうさせたのだろう。しかしそれが自分では大いなる悩みであったし、内気を克服することが大きな課題だった。それは自分の個性であってどうしようもないことだと気づいたら楽になった。 ・自分が普通の人間だと気づくまでにハードルがいくつかあるのだろう。それを一生超えられないひとがいる。引っ返して来れば何でもない。跳びこえるまでやり直せばいいのだ。静かな雨が降っていて部屋にいて気がつかなかったが、少し濡れながら歩いてきた。ひとは歩いて脳を解放したのではないか。くよくよ考えてもいい考えは浮かばないのではないか。自分を縛りあげるようなことばかりしている。自己卑下していては、明日は来ないだろう。 ・へ2・・・余計なことを考えるから不幸になるのではないか。自分以外のことを心配していればいいのだ。自分のことは何とかなる。ちゃんと守ってくれる自分の脳がある。目がさめれば一瞬にして、数十万か、数百万の情報を処理してくれる。もしアメリカ人に生まれていたら、それなりの生き方をしただろうし、他の国でも同じだろう。いまの日本人の私の世界観や価値観でものこととを判断しているに過ぎない。グランドサークルを見てきたが、そのスケールの大きさに驚嘆するが、別の世界遺産を見ても感動してきた。21世紀入りそれまでとは違う宇宙観がある。同じ日本人が人工衛星に乗ってもいる。90分間で地球を一周している時代でもある。上から見たらみんな小さい球体の表面にいるドットでしかない。
2015.02.28
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好きな本を読んだり、好きな動物園だったり、お喋りをするとか、わけのわからない計算をしているときとか、ブログでもいい左脳の活動に没頭していると不安や落ち込みを忘れられるらしい。グルメやギャンブルや、身の破滅を趣味すると先は短くなる。50歩100歩だが。要するに左脳の活動に熱中すると右脳の情緒的反応が抑制されるので深い悲嘆が和らぐのだ。 ・感情に寄り添うタイプのセラピーは、煮えたぎる鍋にふたをするようなものだ。聞こえはいいが危険でもある。寧ろ感情を外に出してやることだ。 ・へ2・・・「なぜだかわからないけど好き」と感じるのはただ無知だからではなく、評価しているのが分析的な左脳ではなく右脳がしているからだ。合理的な判断で品物を選んでいるのではなく、購買行動は衝動の現象でしかない。煽るような商売がされるからでもある。自分の行動が不合理かもしれないというのはとりわけ左脳には受け入れ難くなる。行動を合理的に説明したいという欲求は生存と大きく関わっている。 人類は狩の集団から政党まで、専ら複雑な社会構造を形成し、それを機能させることでここまで進歩したのだろう。集団を機能させるには信頼が不可欠でもある。
2015.02.28
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知るだけ損 医学知識があったとしても、今の自分のからだの状態を客観的にどれだけ把握できているのだろうと思う。勿論は私にはできないし、それだけのツールも知識もない。毎朝起きて、自己管理表を記入するために、血圧や血糖のチェックをしている。今朝の血糖が高いのは、思い当たる処がある。必ずある。からだは正直だ。現在のからだの状態は昨日までの私の健康管理の結果である。 ・恐らく、これまでの数年間以上の様ざまの累積がある。なにか大きなダメージを選択してはいないだろうか。簡易検査だけでは気休めでしかない。一つの病気は大丈夫でも、他は何千、何万とあるリスクを無視している。変な話だ、健常者ほど命が危ないのだ。現代はリスキーな社会であり、安心などできるものではない。松田選手ではないが、体を鍛えていても、安心はできない。 ・へ2・・・自分の今のからだの状態を知りたいが、稚拙な道具でしか調べられない。勿論高価な医療器具はあるのだろうが、高価だろうし、普及もしていない。指に針を刺して検査している。毎月の病院でも注射針で血を採取して検査をする。何とも野蛮だ。自分のからだで何が起きているのか関心のない人間は、命の尊さもわからない。 >伊勢うどん。
2015.02.28
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「あるがままの現存在は、意味も目標もなく、不可避的に回帰し、無に終わることもない。すなわち「永遠回帰」。これがニヒリズムの極限の形式である。すなわち無が(「無意味なも の」が)永遠に!」 自分の気持ちがはっきりしなくても行動することはできる。寧ろ人間は直感で行動しているのだ。周囲では、無数の出来事が起きている私の意識に上っているのはほんの一部でしかない。つかの間のエネルギー変化でしかないのであり、なんの印象さえ残さないで消えてしまう。右脳では、一時的な感情の変化が現れても、左脳では意識にされることない刺激でしかない。自分ではその原因がわからないまま、思わぬときに、なぜいらいらしたり、理由なく憂鬱な気分がしたりするのだろうか。それは左右脳が、そんな中途半端な刺激が原因でもある。殊に左脳の働きが停滞状態で、お天気屋の相棒をコントロールできる信号を送れないとき、気分の動揺が起きやすいという。 不安や落ち込みを忘れられるには左脳を夢中にさせることだ。
2015.02.28
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人間というその有限性にもかかわらず、窮極的にはこの真理に接近しうるという可能性を信じて疑わない。何故か。ニイチェ「力への意志」の中で、 「真理とは、それがなければある種の生物が生きられないような誤謬のことである。生きることにとっての価値が最終的な決定を下す。」 「もっとも固く信じられてきたいくつかのアプリオリな「真理」は、わたしにとってはーーとりあえずの仮定である。たとえば因果律。それは非常によく仕込まれた信仰の習慣で、それを信じなければ種族が没落するだろうとほど、身についてしまっている。」ニイチェがいう「真理」とは、主として認識論的真理である。 「AはAである]「あるものがAであり、同時にAでないということはありえない」「あるものがAでなく、同時にAでないものでもないということはありえない」 「わたしがただわたし自身としてしかいきられないことのー論理面への反映である。」ハイデッガーはニイチェを「力への意志」の思想を「存在に優先するものとして存在者全体を思惟する」ところの「形而上学の完成者」と見做している。ニイチェに於けるニヒリズムの真理の虚構性、力への意志と並んで難解は「同じことの永遠回帰」の思想である。
2015.02.28
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視点の根拠 日本経済が、最下層の人々の犠牲の上に成り立っているのは、それこそ国家が成立して以来といっても過言ではない。飢饉になれば飢え死にする人々が居り、戦争になれば真っ先に殺された。それは兵士に為るのは経済的弱者の人たちでもあったからだ。多くの犠牲者はいつも最下層でもある。先の戦争でも兵站さえない戦争を強いた国家でもある。人間軽視の伝統がある。 ・原発は最終処分場が決まってもいないまま54基も建設された。六ヶ所村は中間処分場でしかない。3.11福島第一原発の事故で、まだ放射線は放出されており、汚染された土地の回復の見込みもない。そしてできるのだろうか。数十年もかかるとすれば、被災者にとって喪われた時間は、取り返しの効かない時間にもなる。東京電力は、何を根拠に再出発といえるのだろうか。 ・へ2・・・原発事故の最前線で働いている人たち、命がけの仕事に従事している。それは犠牲者に為らないとも限らない。ベトナム戦争でも、アメリカの貧しい人びとの子どもたちが最前線で兵士になったといわれる。容は変わってもそれは、最下層の人たちでもある。日本でも戦時中朝鮮から強制的に連れて来られた人々が炭鉱で過酷な労働をしたという。戦後ロシアに抑留された日本人も不当な扱いを受けたという。世界中で、人間は根拠もなしに差別をしている。原発は、最終処理の方法も決まらないままだ。
2015.02.28
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狂気の時代 自分の中に狂気があるのを自分では気づかないのかもしれない。それはオーバーな表現だろうか。それこそテレビ時代を無防備に日常の暮らしの中に溶け込ませている。誰もが遣っている事をしているから常識があるとは言えない。アメリカ人を歴史的にも好戦的な国民だと思ってきたが、日本も誰がどうのではなく、戦前は、まともな神経ではいられなかったのだろう。 ・それこそ、最近6年余日本文学の講義を受けているが、日本の知識人とは狭い世界にいたのだろうと思わないではいられない。文学ばかりではないのは、それは言われなくても判る。作家にはそれをサポートした愛読者の多くが大衆でもある。国家が狂い、国民も狂いだすのだ。それを生みだすものがあるとしても、ミームはそれを培養するものがなければならない。 ・へ2・・・何が狂気と言えるのか?それを見極めることは、なかなか容易ではない。過去でしかわからないのが歴史の過酷な現実でもある。そしていつも見誤って来た。その呪縛から逃れられないらしい。
2015.02.28
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メゾ・スコピック マクロ・スコピックとミクロ・スコピックとの間で物事は存在している。その双方の見方が大切である。よく言われるように、「木をみて森を見ない」ことになりがちだ。宇宙の膨張を見る望遠鏡と、極致の組成物質を発見しようとする顕微鏡の違いがある。この中間的な見方をメゾ・スコピックと呼ぶ。 ・それにしても、私たちの時代認識の「空白」は永過ぎるのではないだろうか。ものには限度があり、ポイント・オブ・ノーリターンがある。生命の限界は如何ともし難いが、人間社会は何とでもある。それを決めるのは人間自身。どうも日本人の目はミクロに偏りがちだが、巨視的な側面が欠落しがちである。眼鏡のように遠近両用というわけにはいかない。それにしても日本人の政治感覚が短絡的ではないだろうか。それと民主党の頼りなさも脆弱な組織を窺わせている。石田三成軍の寄せ集め集団のようなものだろう。 ・へ2・・・オフィスレス時代を前にして、他人に頼らない個人の能力が試される時代が来ようとしており、自立の準備がされ始めているのではないか。小さく固まって力を発揮していた日本人たちが、ばらばらにされようとしている。「お盆の上に撒かれた砂である中国人」の砂としての自立心や自己主張の個性がなければならなくなるだろう。それに耐えられるものだけが、これからのマクロとミクロの間に存在理由を持つことになる。 先ほどの続き、左右脳の支配関係が混乱すると、情報の行き来が中途半端名状態 ・脈絡のない言葉がふと口を突いて出たり、 ・説明のつかない感情に襲われたり、 ・何かを取り違えるといったつまらないミスをする。脳の奥深くギクシャクしているのだからその多くは、左右脳のコミュニケーションがうまくとれない。(コミュニケーション不全)。 「あの人が何となく気に入らない。どこかと尋ねられたら困るけれど」・・・右脳がわかっているのに左脳がはっきり意識ができないケース。 「何かいやなことが起きている気がするがうまく表現できない」・・・左脳が感知していても右脳が受け止められないケース。つづく2
2015.02.28
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倫敦塔」「カーライル博物館」・ロンドン留学の時。・家の内と外の世界。世界が違う。・20世紀の世界に対して批判的だった漱石。・昔の人への共感。・漱石は、ロンドンの現実世界に嫌悪感を持つ。・文化批判。・「草枕」では「鉄道」を嫌う。「倫敦塔」では、西欧の文化を嫌う。・漱石「学友」・・・カーライルが出てくる。幻想。カーライルの真似をしたくなるようなひとだった。真似をするのを嫌っていた漱石らしくない。それだけ尊敬していた。・漱石の後年は真似ることを嫌った。対照的な人物として登場している。そういう時代があったという意味。稀有なところ。それだけカーライルに感じていた。・変人でも生きていける。・変人カーライルの外の世界・・・に共鳴した漱石と同じ。外には出てこない。・漱石は、狂人扱いされたことがあった。・漱石は模倣嫌い。病的なくらい。・コピーを戒める。自分に警鐘を鳴らしている。・新版の全集にしかない。「学友」はない。・ドラロッシュの絵。・「倫敦塔」 最後のシーン。対照コントラストを使う。戯けたことをいう。ぞっとする恐怖を狙っている。・マクベスの「門を叩く」シーン。小説の技法として漱石は使う。惨たらしい場面。・漱石の書き込みがある。・「人間と悪魔」。突然のノックで立ち直る。悪魔の心になっているのがノックの音で人間の心に戻る。「趣味の遺伝」。効果を狙っている。このときには、漱石は作家の目が育っている。・「戯けた歌」によって効果を狙っている。文学理論に通じている。手の内を証している。・太宰の作品にもある。・創作技法「恐怖」を際立たせる効果を狙っている。・「肝心要」になることは作家は言わない。・「マクベスの幽霊」に触れている。
2015.02.28
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言語には、社会性がある。継承性、象徴性、分節性、そして恣意性がある。恣意性は個人が自分の意志で自由に使っていることだ。これは昨日講演会で知ったが、社会的・観念的言語である<ランゲ>と個別的・現実的言語である<パロール>がある。後者は音声のこと。戦後言葉が乱れていると言われてきた。女学生が男のようなことばを使うとか、女性語が正しくつかわれていないというような指摘でもある。中世(鎌倉・室町時代)でも<女房詞>というのがあって「群書類従」などでは、宮廷では使われていたそうだ。これらは身分制度が厳しい時代で、女性が蔑視されていた背景がある。男と女の使う言葉が区別された。主従関係にもある。 ・がんじがらめに規制された社会の中で言葉は使われていた。その名残を私たちは日常的に使用している。それが上記のような慣習を生んでもいる。男らしさや女らしさが社会的文化的性のジェンダーでもある。生物学的な性のことではない。昨日講演会のレジュメを引用させて貰うと、以下の記述がある。 「女性が「女ことば」を使うのはそのひとが「女だから」と考えられた。このように、アイデンテイテイをその人にあらかじめ備わている属性のようにとらえて、人はそれぞれの属性のもとづいて言語行為を行うという考えをもつように強制されていた。(本質主義)」。 文学も上記のような流れの中でジェンダーを登場人物のことばとして使って来た。然し最近の女性が男ことばと言われて来たジェンダーの境界を乗り越えきているのは、それだけ男女の境界がなくなりつつある現象ではないだろうか。それはことばが社会性を持つ現われでもある。 重要なことは、女の言語行為というものが、「女ことば」という枠からはるかにあふれだすほど豊かなものであるということだ。それが正当な日本語として認知されるまでつづけなければならないということでもある。
2015.02.28
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眠っている間の脳はどのような働きをしているのだろうか。個人差があるとしても、自分の脳の働きには興味がある。睡眠の質が悪くなっているのではないかと、日頃思うことがある。何故そうなるのだろうか。睡眠が学習にもたらす影響は大きいし、重要な役割を果たしているに違いない。SW睡眠の間に、海馬から大脳皮質に伝達が起こり、これが安定した長期記憶になる。だからレム睡眠は一旦大脳皮質に移った知識を強めるために必要であり、SW睡眠はまず情報を海馬から移すために必要だという。 ・ある研究では、新しい技術と知識の習得は、ひと晩の睡眠の後に向上し、さらにその後の数日のあいだ、毎晩充分な睡眠をとる限り向上するという。最初の晩の睡眠をすっぽかしたら、その埋め合わせは絶対に出来ないらしい。つまり、記憶をインテリゲートするためには最初の睡眠と記憶を外せないのだ。はたしてどれくらいの睡眠が必要なのだろうか。勿論個人差があるとしても自分のことは知りたいところだ。 ・へ2・・・6時間以上睡眠しないと学習促進効果のレム睡眠が得られないらしい。とても、それだけ長く眠っていないだろう。宣言型・非宣言型の記憶の双方にSW睡眠とレム睡眠は殆んど新しい仕事の学習に重要な役割を果たしている。目覚めている時の意識的な視点と普通に意識的にアクセスできない脳の部位にある記憶が同じことをしている可能性がある。記憶は、同じ情景でも一人一人違う見方をするものだ。それは自分で見たいと思うものをみているからだろう。
2015.02.28
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日本人から「謙虚さ」や「健気さ」がなくなってきているのではないか。ひたむきな心情もなくなってきた。勝っても負けた人のことを思いやるだけの心配りがあったのではないだろうか。勝てばそれでいいという人間が増えてきて世の中がギスギズしてきた。商品価値のないものには見向きもしない商業主義に毒されてしまった。「献身」や「愛」が蔑まれている。優しい娘がいなくなってきた。それは社会が人間の大切なものを忘れてきたからだ。 ・手っ取り早いものだけを優先している。街が汚れても自分で掃除しようとはしない。街を闊歩する「謙虚」「健気」な人たちだろうか。かって、日本人の特質は何だっただろうか?貧しい父母を尊敬し、奢らない謙遜を旨としてはいなかっただろうか。優勝したからと言ってビールを掛け合ってばか騒ぎなどしなかっただろう。訳の分からないことを言ってはしゃぐ奴もいなかった。 ・へ2・・・イチローは野球は天才かも知れないが、飽くまでもそれはゲームであり、アメリカ社会で日本人の地位向上にどれだけ貢献しているのだろうか。どうも日本で騒がれているほどとは思えない。アメリカ社会で、日本人が受けている差別に対してどれだけのことをしているのだろうか。日本の戦後復興は、世界から「奇跡」と言われた時もあったが、いつかそれも変わる。桜の散るようにあっという間に時季は過ぎて行くのだ。
2015.02.28
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ホモサピエンス 左脳・・・計算、意志を伝える、計画。右脳・・・穏やかで情緒的、恐怖や悲しみの感情、または漠然とした悲観主義。 左脳に障害があると残った障害がそれほどでもないのに、まるで人生が終わったように振る舞う。損傷を受けた左脳が右脳をコントロールできなくなるため人生を悲観的に捉えて右脳的見方が支配的になる。 反対に右脳がだめになると、本当は耐え難い苦しみを味わっているのに、全く動じず、楽観的で「それくらい何さ」と快活な態度を保つという。右脳が損傷し、自らの現状を把握できない状態が極端になると、身体の麻痺や、場合によっては失明しても気づかないことがある。疾病失認と呼ばれる。 左右脳の結婚生活、パートナー。支配権を持たないはずのパートナーが、相手を飛び越えてやろうとすると本能のままに行動してしまう。「そのつもりなかったのに、ついやってしまった」というのは、だいたいこのケースだ。 つづく
2015.02.28
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白い薔薇のSophie Scholl 1921年5月9日、ゾフィーはコッハー河畔の小さな町フォルヒテンベルクで生まれた。1943年(21歳) 2月18日 大学内で兄ハンスとビラ6号を撒いている発見され逮捕2月22日 民族裁判所にて死刑判決 17時 ミュンヘン・シュターデルハイム刑務所内で斬首 帝国勤労動員を経て、ようやく大学で学ぶことができるようになった1942年5月初め、ゾフィーはミュンヘンへ移った。ハンスは親しい友人たちを彼女に紹介し、彼ら主催の読書会にも招待する。白バラのビラがミュンヘンの街に現れたのはこの1ヶ月後だが、最初からゾフィーが白バラに関わっていたかどうかはわかっていない。1943年2月18日、兄妹は大学構内で1000枚以上のビラを撒いた後にいったん外に出たが、残りも全て撒いてトランクを空にしなければならないと、急いで構内へ戻り、階段を駆け上がり残りのビラを玄関ホールに撒いた。その様子を用務員に目撃・通報されナチスの秘密警察に逮捕されてしまった。そこからのゾフィーの処刑までの5日間。 処刑の前に兄妹が両親とシュターデルハイム刑務所で面会できたことはまったくの幸運だった。ハンスは囚人服を着ていたが、ゾフィーは自分の服で、絶えず微笑みを浮かべ、ハンスが断った甘いものを嬉しそうに食べた。「あらそう、いただくわ、私はまだお昼を全然食べてないのよ」。(『白バラは散らず』P.110/インゲ・ショル・内垣啓一訳/未来社) 私はもう一度、すっかり同じことをやるでしょう。 考え方のまちがっているのは私ではなく、あなたがたの方なのですから。
2015.02.28
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・グリア細胞・・・脳内の電気活動を同調したり増幅の役割。・シナプス間隙。・脳全体の10% ニューロン。・セロトニン・・・「幸せの物質」。・MRI 磁気共鳴映像法。・CT コンピュータの断層撮影法。・ドーパミン。快楽物質。・アセチルコリン(Ach) 注意、学習、記憶。・ノルアドレナリン・・・快楽の中枢。・エンケファリンとエンドルフィン・・・一種の麻酔薬で痛みを和らげ、ストレスを減じ、海の上に浮かんでいるような感覚を引き起こす。
2015.02.28
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>今年のひな壇。 大学の講座で、一番面白いのが脳の話だろう。いわゆる頭がいいというのは、その基礎となる脳機能にある。遺伝的な素因については、生物(人)をとりまく生育環境が脳の機能に重要な役割を果すことが分かってきている。そして、脳の発達にプラスの影響力としての環境要因がある。そのポイントとなるのが、 ・外界からの正常な感覚入力 ・刺激の多い豊かな環境 ・運動 ・子育て行動 などが重要。視覚や言語機能等からの情報の獲得には臨界期と呼ばれる感受性の高い時期が存在し、その時期に適切な刺激が入力されないと、正常な機能が成立しない ことが知られている。また、記憶の形成に重要な海馬は、大人になってからも神経細胞の増殖が、豊かな感情下で可能であることが報告されている。学習能力の向上が見込める。それと、興味深いのは、「子育て行動」だろう。よく仔の世話をする母親から育てられた仔は、恐がりがなくストレスに対しても良好な反応を示すとされる。逆に幼少期に虐待を受けた仔が親になり、子どもに虐待を加えるケースが多いことが指摘されている。習慣的な運動がストレスホルモンの設定値を低下させストレスの刺激に対応するという。
2015.02.28
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同じ写真を載せたりする。ちゃんと管理できていない。整理できないのは頭が悪い。整頓もある。この冬は、近所の和白干潟の野鳥たちが、気晴らしを助けてくれた。クロツラヘラサギもミヤコドリも、そろそろいなくなってしまうだろう。 ・稚貝まで法規制のない和白干潟からごっそり採っている業者集団がおり、それを有明海に持っていくのではないかという噂をしている。死の干潟になってしまう日は近いのだろう。それを待っている人たちもいるに違いない。底生生物たちがいなくなり、無酸素の干潟には餌が無くなり、渡り鳥たちも来なくなってしまう。寂しいがそれが現実だろう。 ・へ2・・・和白干潟を守る会200人くらいが活動しているが、市長は動かないようだ。弱いものは見逃されてしまうだろう。経済の法則が優先した社会でもある。博多湾もいつまであるかわからない。 サイコパスは、冷淡、いばり屋で、嘘つき、良心が痛まず、リスクを冒したがる。右脳の扁桃体に機能異常が見られる。他人が苦しんでいてもビクともしない。そんな人物像を見かける。
2015.02.28
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「脳と心の地形図」"Mapping The Mind" Rita Carterより、 アスベルガー症候群、自閉症患者に映る世界は、異質でまとまりがない。うまく周囲とコミュニケーションがとれないし、場合によっては、全くできない。ー共感の欠如ー他人は自分と異なる世界観をもっているかもしれないことを直観で理解できない。「相手の身になって」考えられない。自閉症は遺伝性が強い病気である。自閉症の本質は、コミュニケーション欠損症ー感情や信念、知識を他者と分かち合うことができない。ー 他人の心を察する能力は「心の理論」と呼ばれている。 自閉症の子供は、自分の欲求に制限を加えることが解らない。欲しいと思ったら矢も楯もたまらずすぐに手を出してしまう。何故なら、「他人の心」というコンセプトが元から存在しない。Page212ー アスベルガー症候群は、300人に一人(男)の確率で存在。決まりごとに異常なほど執着し、収集して分類する趣味に全身全霊を傾ける。人付き合いはからきしだめで、人間の弱さをネタにしたジョークを聞いても笑えないし、噂話に興味を持たない。誰も興味のない話題を何時間でも喋り続けたり、いつまでも他人の家に長居していやがられたり、他の人が話している目の前で居眠りする。ただ幸いなことに、本人は平気で、他人が自分のことをどう考えるか意識しない。自閉症気味の人は、一人でいるほうが気楽だが、それでいて社会的なしきたりを守らなければならないという気持ちが強く、結婚して家庭を持つ人もいる。ただどんなものにしろ親密な関係は、相手の心を察してやれるかどうかが基本になる。だからアスベルガーとの結婚は、相手の心、関係が根本的に間違っているという思いが強くなる。
2015.02.28
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どんな最期かで、その人の評価も違う。信長も、秀吉も、そして家康も日本人らしいのだろう。色んな評価があって当然であるが、なにをみるかで極端な見解にもなる。人生の敗北者なのかどうかもある。根底には、時代背景があり、それはやはり無知と貧困があると思う。20世紀の終わりに、宇宙観が激変したが、そのことを私は数年前に知っただけである。科学の最先端は、それを知る人たちのものでしかなかったからだ。知識とはそんなものだ。 ・このブログを初めて、9年になるが、そろそろこれも限界かも知れない。次のステージがあるかどうか、スペースがあるかどうか次第でもある。ないかも知れないしあるかもしれない。偶然の気紛れが待つのだろう。明日のことに悩まないことにしている。それを考えるだけの余裕もない。あることをして終わるしかないと思うからだ。ここまで私を活かしてくれたものがあり、それには感謝するしかない。ストレスがあり、リラックスもしてきた。できたからやれたのであり、日本人たちがそれほどrichも恵まれているのでもない。ふつうにやってきた。 ・へ2・・・四季のように生きて来れたのはその社会や環境がある。犠牲もあれば努力もあるけれど、まあそれも個性の内だろう。いつ枯葉になってもおかしくはない。人生を自己評価してグラフにしてみるというレクチャーがあったことがあるが、これは中々冷静に客観視することの難しさもある。10年間くらいを区切り目にして、考えてみると、少なくとも定年後にしてきたことは、確かに自分なりのゴールデンタイムだったのかもしれない。、リタイヤと同時に教育入院して、リフレッシュしてスタートした。薬餌療法と食事制限とウオーキングをやりながら、ハワイからこの前のアメリカ西部までツアーもしてきた。過ぎてしまえば皆夢でしかない。
2015.02.28
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因果律であり、いまの自分の状態が不満ではない。不当な評価もされたのだろうが、それはそれで理由もある。独断と偏見でされたものを重く見ることはない。正しく見てくれる人に対する感謝の気持ちはある。寧ろ優しくしてもらった人が多いくらいだ。不肖の息子でもあったからしてもらったことが過剰でもある。いいたいことはまだあるが他人のためにしていることもない。こうして風に吹かれていたい。 ・日曜の真昼に草枕温泉の露天風呂に入ったら、太陽の日差しで、閉じた目の央が真っ赤に見えた。もう春の強い光が感じられた。湯船の中でしばし天国気分を味わった。母が無くなって、父が定年になり、一年間くらい九州のあちことをドライブしたが、温泉巡りをしたものだった。あの時も、この快楽は長くは続くまいと思っていた。 ・へ2・・・生きる時間とは何だろうか。脳の中にある父母や伯父たちや友人たちは、いつも鮮やかによみがえる。 生きている実感がするというのはそうあるのではない。そしてそれを意識していなければならない。
2015.02.28
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「この物静かな婦人は、20世紀中期のうちで、もっとも大きな問題の一つ・・・人間による環 境汚染・・に対して、あらゆるところに住む人びとの関心をよびさましたのである。」これ は、1964年4月14日、レイチェル・カーソンが56歳で死んだ時の追悼演説の一節だ。 いま、環境汚染の問題を語るとき、彼女の「沈黙の春」を抜きにすることはできない。 「・・・シュバイツァー博士のさまざまな著作の中で、私たちはその語句の哲学的な解釈に触れるかもしれません。しかし、私たちにとっても、「生命への畏敬」に対する最も正しい理解は、彼の場合にそうであったように、個人的な経験によってもたらされます。それは予期しない時に、野性の生物を突然見かけることであったり、ペットと一緒にいる時のあ る種の経験であったりするでしょう。それが何であれ、それは私たちを自分自身の外へ連れ出す何ものかであり、そしてまた私たちに他の生命の存在を気づかせる何ものかであ ります。・・・」 数年前に、彼女の著書"The Sense Of Wonder "を本屋で見つけて感動した。 ・「潮風の下で」(1941) ・「われらをめぐる海」(1951) ・「海辺」(1955) ・「沈黙の海」(1962) ・「センス・オブ・ワンダー」(1965) 彼女が書き残したものは、彼女の周到で緻密な調査研究、逆境や妨害に直面した時の勇気であり、そして何よりも詩人としての天賦の優れた才能を物語っている。科学と文学を融合させた資質の高さでもある。
2015.02.28
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右脳への蝉脱ができないでいる。 ホルモン回路はD方向を指向して熟睡できません。 どうも狂ってます・・・この社会。今に始まったことではないが。 先端科学を学びたい、何と貧弱な文化。何という遅れた社会。 せめて、先端の本を読んで死にたい。躓いてばかり 長生きするだけの人生でいいわけがない。 娘がひな壇を押し入れから出して飾るらしい。組み立て式なので手伝いをしなければならないようだ。
2015.02.28
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シェイクスピアでも、チャーチルでも、ゲーテやカントでもなく、モンテニュでもパスカルでもない。自分の身近な人だけしかその名前は通じないが、その誰かさんがいった言葉が心に強いインパクトになることがある。そんないい言葉が必ずあるだろう。「ああ、誰かさん、いいこというな!」、と感心したら、それは自分だけの「永遠のいいことば」になる。 あるひとの「わたしの動物園」 熊 に ま た が り 熊にまたがり屁をこけば りんどうの花散りゆけり 熊にまたがり空見れば おれはアホかと思わるる マ サ シ ゲ 千早の城でな 正成さんは 真瓜うり かぶりもて ぼちぼち行こか と言やはりましてん 奥さん薙刀せたろうて 紀州ネルの腰巻しめて 連れもて行こら と言やはりましてん 葛城山に雲が出て 寄せ手の兵隊傘さした 正成さんは ぴっちゃりこ 何だか愉快になってきた。口に出して読んでいたら、そうしたら、このはるかな世界は、き っと自分のものになる。いい言葉になる。
2015.02.28
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それこそ高山病で救急車で運ばれて忘れられないクスコになってしまったが、転んでもただでは起きないというか、それだけインパクトもあったわけで、しぶとく目に焼き付けてきたものがある。もう帰国して4日も過ぎようとしているが、日常に戻るのが勿体無いような気持ちさえする。それと私の遺伝子は高地には向いていない体質らしい。 ・スイスも駄目ねと言われてしまった。くそっ、あと世界遺産の行きたいところがないわけではない。行けなくとも日本がある。酸素の多いところでないと生きていけないらしい。己を知らなければ生きてはいけない。まあ、これまで生きてこれたのだから文句はないが。欲張りにならずにいることが必要でもあるのだろう。 ・へ2・・・ノット ノーマルでもあるのだろう。 ただだからアブノーマルではない。草臥れればしばらく休息して、元気が出ればまたぞろ動き出すだろう。尺取り虫のように自分の世界を這いずり周るしかない。 それこそ、まだツアーの感想といっても好いも悪いもない。せいこうゆえにぼつらくもある。だからうまくいかないほうがいいのだ。好きな人と結婚して幸福とは限らない。却って絶望もするのではないだろうか。しないほうが自分のためでもあると思う。愛される人間は愛されない人間よりも豊かな人生が保証されるわけではない。
2015.02.28
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加齢とともにミトコンドリアのゲノム・DNAに変異が蓄積する。殊にゲノムの複製に重要な1千塩基対より特定のDNA断片に変異の集中。若い内は惹起せず高齢者に5%~50%の確率で惹起。ミトコンドリアのDNAは、核のDNAと異なりヒストンのようなタンパク質による保護が無いため変異の確率が10~20倍高い。せっかちマウスは短命でのろまの亀が長生きなのはミトコンドリアの活性酸素の放出と無縁ではない。大食いは大量の活性酸素を作り出し動脈硬化と老化を早める。複製のエラー・ミスマッチが発ガンと結びつく。体のメンテナンスは、常に点検を怠らず傷ついた部分を修理しなければならない。手当てをしないと家屋のメンテと同じで怠ると木造家屋も崩壊。パーツも大事にしないと修復できない運命だ。 生殖に到るまで個体差が少ないのは子孫を残す為だ。生殖との係わりが希薄になると多様な個体差を生じてくる。熱力学第二法則のエントロピー増大:生物を含む全ての物質は劣化を免れない。 PALE BLUE DOT ”A vision of the human future in space ” ”pale blue dot ”の地球が何時か太陽に呑み込まれ、或いは、r=10mm なるかも知れないが・・・。 存 在 理 由 「問題の所在」は何か。意義があり。沿革・構成要件の総論があり。そして存在理由がある。企業も生きているのだ。遺伝子からみれば人体は道具である。脳も精密マシーンでしかない。感情も化学作用で喜怒哀楽がある。どれだけの情報を持っているかで未来は決定される。情報能力のない個体は生き残れない運命だ。蚯蚓でさえ移動しなければ同じ環境で生き残れないことを知っている。遺伝子にプログラムされているからだ。シンメトリーな異性を好み優れた子孫を残そうとして、仕組まれたDNAが遠い数十億年の彼方から来ている。 存在理由のないものは、この世界では消えていくしかない。
2015.02.28
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敗北の日常 テーマをもっていることは大切なことだろう。それが、実現可能であり、自分にとってプラス思考であれば、生甲斐にもなる。だらりだらりとしているから何もできなくなる。毎日歩いていると、歩くのが楽しくなるが、恐らく、苦しくなる時が来る。その時それをどう乗り越えることができるかだろう。病気をしたり、怪我をしたりしてどうしてもできない時があるだろう。問題はそのあとだろう。いつも「ハイ」ではいられない。暗いモードのときもある。それにどう対処できるかだろう。 ・最初はわずかな差でしかない。それはライフスタイルと言うまでには相当時間の経過が必要だ。そして、良いことはすぐに苦しくなり、息が続かない。我慢してどこまでやれるかではないだろうか。ひとつのことをやれれば、次もやれる自信がつくだろう。できなければ挫折する。その挫折感もどこまで自覚できているかだろう。人の人格の形成はそうして積み上げられていく。そうした経歴はその人性質になり、そう簡単には変わらないだろう。そのひとの体型や態度が示すものはその成果でもある。 ・へ2・・・それこそ、一日の始まりは無からではない。これまでも自分の生活を引きずっており、昨日の続きの延長でもある。自律神経は生まれてからこれまでも歴史をそのまま刻もうとするだろう。脳は置かれた環境から自由であろうとするが、すぐに縛りあげられる。束の間のまどろみの中で私の脳は何かの口実はないかを探している。何も弁解できない日常が来る。そしていつまでもテーマを探している。
2015.02.28
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レファレンスコレクション世界が複雑化していく中で、そのツゥールがどうかが問われるようになって いる。記録情報源からさまざまな情報や文献を効率よく求めるには、その手がかりとして役立つ適切なツゥールを選び、それを活用するための知識と探 索技術を身に付けることだろう。学生と研究者の違いは、ツゥールの差でもあ る。昔は、資料も手近なものしか入らず大したことのできない環境であった が、現在は違う。できないのは自分の遣り方や、意欲の問題でもある。また情報量が違うだろう。論語も、日本文学や日本史も一分野でしかない。レファレンスブックには、豊富な情報を得ることができる可能性がある。問 題はそのガイドであろう。どこかで読んだことがある。「いいジャーナリストは、こまかいことは、知らなくていい、何か課題を見つけたとき、どこをあたればよいかを考えるこ とのできる人間だと。」 人間は、「準拠枠」の中で生きているがその枠組みがみえなければ、本当は何もできない。潰されるだけだろう。その枠組みがいつも問題だ。
2015.02.28
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進化的アルゴリズム人は贅沢なことができると結局は身のためにならないものだ。余計な金があると遣いたくなり、碌な事をしない。美味いものを食べたい。遊びたい。欲望の趣くままをしたいと思いかねない。この社会は怠惰な人間を創らないように仕組まれた社会だが、それでも例外的な人間がいて、社会ルールに反したことをしてあるべき義務を逃れようとするものがいる。天網恢恢疎にして洩らさずだが、卑劣に甘い汁を吸う人間はどこにでもいる。他人を陥れて恥じない。 ・砂糖に群がる蟻さんのような人間はいる。寧ろ欲望を煽って稼いでいる商売が何と多いことだろうか。相撲社会をいつまでも残そうという根性が解からないし、暴力団もあれだけ警察がキャンペーンを張っているのに、なくならないのは何かある。裏があるのだ。表と裏のある社会だし、本音と建前のある国際社会でもある。キリスト教会が何をしてきたか、ダーウィンは怖くて「種の起源」の発表さえできなかったくらいだ。 ・へ2・・・正しいことを言えなかった時代は長い。そのことを忘れてはならない。科学は、昔から有ったのではない。ダーウィンの業績はだからこそ意味があるのだ。ごろりと変わった。自己批判しない人間は駄目になる。進化を遂げたのは其れが出来たからでもある。裸になり、貧乏して、本当の自分に戻って考えることだ。それができるひとは恵まれていると言えなくもない。
2015.02.28
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世の中のあり難く「方丈記・伊勢記」を読んでいる。鴨長明は十代後半に「みなしご」の境遇になり、激動の時代に生きていかなければならなかった。安元の大火、治承の辻風、養和の飢饉の続発と都は混乱の極になっていく。保元・平治の乱という平氏打倒の不穏な空気が背景にある。長明は、和歌と音楽を志しておのが人生を懸けた。世の中が平家から源氏へ大きく切りかわったころだ。「伊勢記」に見られるのは長明の精神の所産でもあることだ。 すべて、世の中のありにくく、我が身とすみかとのはかなく、あだなるさま、また、かくのごとし。・・・ また、いきほひあるものは、貪欲ふかく、独身なるものは、人に軽めらる。財あれば、おそれ多く、貧しければ、恨み切なり。人をたのめば、身、他の有なり。人をはぐくめば、心、恩愛につかはる。世に従へば、身、苦し。従はねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心をやすむべし。 長明のこころの健やかさを感じる。現代に対する緊迫感を日頃感じている。もう現役を過ぎたが、その観念を払しょくできない。この時代の平穏ならざる雰囲気があるからだろう。いつ窮地に追い込まれないとも限らない。世の中のスピードに付いていけなくなりつつあるのだろう。暮らしの中で、自分の見える光明の射す場所も少なくなっているのだろうか。
2015.02.28
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孔子は、姓は孔。名は丘。字は仲尼。三歳で父を亡くし、母に育てられた。貧乏暮らし。15歳で学問に志して、30歳で学問で独り立ちした。論語は紀元前の人のことばであるが、教育者であり偉大な哲学者。日本の思想に多大の影響を与えたが、徳川幕府はこれを愚民政策に利用した。 「君子が己の身を持するに敬を以ってして過失のないように努め、人との交際に恭を以ってして礼に合うようにしたならば、天下の人が皆己を敬愛して兄弟と同じように温かい心で接してくれ、世 界中の人が皆兄弟となるのである」。 子曰、飯疏食、飲水、曲肱而枕之、楽亦在其中矣。不義而富且貴、於我如浮雲。 南方熊楠の著書より。「古事記の遠呂智は、書記に大蛇と有り、和名称に蛇和名倍美一名久知奈波 、日本紀私記に云、乎呂知(おろち)と有り、今俗には小く尋常なるを久知奈波と云ひ、較 大なるを幣昆(へび)と云ひ、猶大なるを宇波婆美と云ひ、極て大なる蛇(じゃ)と云也。遠 呂智とは、俗に蛇と云許りなるをぞ云けむ云々」。
2015.02.28
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史書とは、大事なところは寡黙である。それは史書だけではない。一番気にしているとこ ろは書かないからだ。孫子の兵法も分かりやすいのだろう。だから誰にでも熟知できた。孫子を知っていたからと言って実戦でどう使うかなのだろう。そこは寡黙である。誰にでもわかる ような秘密を明かすはずがない。みな真似をしてしまえば兵法にはならない。要か解釈にあ る。英雄は黙っていても理屈は後でならどうのようでも作ってくれただろう。勝ち残ったから それだけの理由があったはずだと思えば何にでも化けてしまう。白でも黒でもどっちにでもな る。敵か味方かの違いだけだ。毛沢東だって今の中国では評価が以前とまったく違っている。 冷静に考えれば正しいことばかりしていない。金正恩も同じだろう。ブナの最北限は北海道らしい。なじみの深いブナの林が、北海道まで広がっている。日本はブナの林が拡がる場所でもあるのだろう。落葉広葉樹の森が、一人の人間のゼネレーションに匹敵している気がする。
2015.02.27
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人間社会と違い科学の世界は、次々に多くの知識を手に入れつつある。リンクできないのは何故だろうか? 科学は、人間たちの暮らしの一手段でしかないからだろうか。捩れた社会が齎すものは破滅でしかない気がしてならない。山野を走りまわっていたころの体しかまだ種としてヒトは持っていない。女と男にしても脳は、その特徴をいまだに遺伝子として継承している。然し、いつか主客は逆転するのではないだろうか。その時まで、ヒトが存在しているかという疑問があるが・・・。 ・生物は奇跡ではない。只地球上の生物たちは運がよかったのは確かだろう。火星も当初はそのチャンスがあったが、環境に抗するまでの時間がなかったのだ。生き延びるためには更に大きなチャンスが必要だったのだろう。ヒトがどれだけ生き延びることができるのだろうか。飽くなき関心がある。生まれて死ぬまでの間に感じてきたものが、単なる知識の集積ではなく、知識を超えた何かがあることを感じている。それを安易に口に出したくはない。 ・へ2・・・未来は、科学者たちだけのものではない。一人の人間も類としての人類に繋がっている。私たち個々人は一人ではない。善人もいれば悪人もいる。健気な人もいれば、邪な奴もいる。その総体が人間の姿であり、種としてのヒトの存在である。男でもなく、女だけでもない。脳というシステムを持った生物であり、社会的動物である。地球も生物が死滅した火星のようになる日が来るだろうか。そしてやがて火星に行くだろう。 地球はやがて太陽に飲み込まれてしまう。生命は旅立たなければ破滅だからだ。科学がデッドロックを乗り越えられるだろうか。酸素のない宇宙ではこれまでの常識は通用しない。
2015.02.27
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われわれは、ある激しい潮流のなかで、日々狭まる自由の領域の侵食を懸念している。それは、憲 法的常識とされた自明性が形骸化していることに他ならない。即ち、数次の安保闘争が、日本国憲 法に見合うだけの理想の精神を、我がものにすることができなかったからでもある。すべてがあまりに不充分なものであった。原因は、市民革命というスキルがなかったからだ。 現在の、「体たらく」は実にそのことに尽きるだろう。憲法理念の自明性を完全に失っていた時代に生まれたものの宿命でもあっただろう。それを安保闘争で解析できなかったのは、学者たちが如何に無能であったかを暴露するものだ。その反省がされないまま、現在の「体たらく」があるが、責任は旧世代にあることは間違いない。その弱味につけこもうとする陰謀が顕在化しだしている。それが憲法改正論議と言われるものでも ある。 憲法的な、それが「堤防」であるとすれば、決壊しようとしている。巧妙な家康が、 大坂城を攻めた時のように内堀外堀が埋められるのだろう。 憲法的理念の自明性を完全に見失ったものが、始めるべきことではない。できもしないことを人ま ねで補おうとは呆れた所業だろう。また、日本は、愚かな政治家の愚行を目にすることになるだろう。これから、われわれは、何を決意しなければならないだろうか。 戦わなければならないのはいつも目の前にあるのではない。
2015.02.27
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ゲーテとベート-ヴェン ゲーテは63歳、ベートーヴェンは42歳の時に出逢った。ゲーテは、ベートーヴェンを「これほど集中力がつよく、これほど精力的で、これほど心情の深い芸術家に、わたしは まだお目にかかったことはない」と評した。 二人の性格を象徴するエピソードが有名だ。ベートーヴェンはゲーテの腕を取って歩いていた。その時、道の向こうから、オーストリアの皇后と取巻きが現れた。ベートーヴェンが、ゲーテに囁いた。 「このまま、彼らの方が私たちに道を譲るべきです。断じて私たちが譲ってはいけません」。ゲーテは、彼の言うことを訊かず、帽子をとって、道のかたわらに身を寄せた。ベートーヴェンは、鳥渡肩をすくめてから、悠然と道の中央を歩きつづけ、彼らの真中を突破した。 皇后の前で、鳥渡帽子に触れただけだった。 貴族たちは、礼儀正しく道をあけて、丁寧に挨拶した。ベートーヴェンは立ち止まってゲーテを待った。ベートーヴェンは「私がこうしてあなたをお待ちするのは、あなたがそれに相応しい方だか らです。あなたは、ああいう人たちにあまりに丁寧すぎました。」あとまだ会話はつづくが、ふたりの個性がよく現れていて面白い。偉大なふたりの芸 術家は、惑星がすれ違うように出会い、お互いに相手を人間的には好きになれず、それ ぞれの軌道を進んだ。萩本欽一(73歳)が、駒大仏教学部に、この四月からボケ防止で入学するらしい。それこそ向学心といえるかどうかは、それは知らないが、しようとすることは間違いではないのだろう。さっさと芸能界をやめればもっとすっきりするのだろう。すべてを捨ててこそ浮かぶ瀬もある。
2015.02.27
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先端科学が日進月歩を加速させて、これまでの固定観念では、もはや通用しない。殊に脳科学が種としてのヒトのこれまでの認識を変化させようとしている。記憶がどうして形成され、忘却していくのか。脳と記憶の関係は、五感の感覚情報と大脳皮質と海馬と扁桃体の相関関係であり、個性もそこから来る。指や腕を組んで、ハムレットタイプとドン・キホーテタイプを脳の入出力検査も面白かった。初めてではないが、確かに自分で納得のいくところはある。 ・因みには私は両方ともハムレットタイプだ。学習型人工知能のから、むしろ人間の脳へのアプローチが始まっているようだ。若しかしたら、天才はつくれるかもしれない。脳をうまく使えば可能なのではないだろうか。デジタル脳を知らなかったに過ぎない。核兵器を造るよりも安全で確実な社会システムを構築することもできるだろう。それができる人材を育成すればいいのだ。脳の有効な活用の可能性だ。 ・へ2・・・まあいうほど簡単ではないにしろ、怠け者の脳を働かせるには、脳をもっと知るべきだし、デジタル脳を活性化するしかない。ボイジャー1号のあとにつづく宇宙へのチャレンジを忘れたくない。 愚かな政府によって、前途ある若者たちの命が流れることがある。誰の命も尊いが、漫画やゲームのように思い込む連中が増えているのも、この社会のひずみから来るのだろう。果てしなくつづく政治腐敗も必ず原因がある。平然とくびをすげ替え、責任転嫁ばかりしている。同じ穴の狢たちが甘い汁を吸おうとばかりしている。金の集まるような政治制度でもある。国会議員はみな年金受給者にすればいいのだ。
2015.02.27
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写真は、去年のもので、今年の分はまだできていない。私たちがペルーツアーに行ってきたばかりで、昼間誰もいなくなると、5匹のいえ猫たちからどんなことをされるかわからないからでもある。最後のチャンスで、今朝からしたいと娘が言っていたが、居間は片づけるものがいっぱいあるから。 ・なんでもこれまで毎年してきたので、ひな壇を出して飾らないと妻子は気が済まないらしい。去年亡くなった義母が長女が生まれたとき祝い贈ってくれたもので、親戚の人たちを妻の実家に呼んで盛大なひな祭りをしてくれたが、その思い出の品でもある。そのあと、私たちは熊本から福岡へ転居した。 ・へ2・・・一年に一度しか出さないひな壇でもあるが、ひな人形は昔と同じ顔をしている。ここ数年で猫たちの玩具になって傷んだところもあるが、私は特別の感情はわかないけれど、妻子はまた別らしい。
2015.02.27
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クスコ郊外のサクサイワマン、プカプカラ遺跡。毎年6.24頃にはクスコ インテイ・ライミ(太陽の祭り)が大規模に開催されるようだ。ペルーに行く前は、予備知識が乏しいこともあり、あまり関心が湧かなかったが、行ってみたら俄然関心がわいてきた。ペルーは長い植民地時代があり、人々はその間のインカ帝国のプライドを取り戻そうデモしているようだが、白人との混血が主流にもなっているし、カソリックの国家でもある。どこか観光的産業の匂いもするが、遺跡は残っている。 ・石の文化というのはそれだけ堅固なものでもある。マチュピチュ遺跡には石を利用した石垣や段々畑が、いまだに美しい姿を見せている。農耕地や山崩れを防ぐために建設された優れた構築物でもある。マチュピチュ遺跡は8つのカミノ・デル・インカ(インカ道)が全国に張り巡らされていたようだ。それはクスコやボリビアまで続いていた。 ・へ2・・・どうも狭いイマジネーションでは追いつかない。想像を委縮させようとばかりする勉強しかしてこなかったことがある。教育が社会の歯車になることしか考えてこなかったからだ。国家権力に逆らうような土性骨の有る人間を避けてきたからだろう。国会でも議論を見ていると腹が立つ。
2015.02.27
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学習する脳 学習することによって脳が膨張する。筋力トレーニングによって筋肉が大きくなるように。一つのことが他のことにも波及していく。ウオーキングや講座に行くのも、ツアーも健康だから行ける。その私の健康というのは、病気もちの健康で、客観的に健康といえるものではないが。まあQOLの範囲ではある。学習も個人的なコンセプトでしかない。高気圧と低気圧の区別は、周囲との気圧の差でしかない。健康といえるかどうか、自分のレベルでしかない。 ・学習しなければ委縮する脳でもある。脳は生きているから、人間も生きている。一時も休むことなく働いている。食べること、寝ること、運動すること。人間の基本に為る活動は、更に学習することでもある。昨夜、新しく古本屋さんが出来たので、のぞいてきたら「食べるな、危険!」という本を見つけて立ち読みして来た。調べたら、図書館にもあるらしいので、借りて来ようと思う。 ・へ2・・・色んな知識も読んですぐに忘れてしまう。知識は忘れる。だから体験することが大事でもある。脳は学習するが、単に知識だけでは役に立たない。活かす努力をすることだ。気の済むまでウオーキングをするつもりでいるが、自分の学習も続けねばならないと思っている。継続は力なりだ。
2015.02.27
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>グースネック<作品>「彷徨」(習作)、「裸像を盗む男」(習作)、「鼠」(習作)、「カツフエ・ラーヴェン」(習作)・梶井の習作群。自分と他人の関係を書いている。自と他がテーマである。「他対自」・死んだ妹を想う。自分をどう思うか。他人との関係を書かない作家。・日記との関係が重要。・矢野潔は実名を避けている。・「檸檬」・・ポーに傾倒した。同じように、結末にポイントがある。・伏せられた名前がある。渡辺・矢野と自分。・「日記」143ページ以下。・何のために習作が書かれたかの意味がわからないと関心が希薄になる。他人と自分の関係ではない。・人間がどこにもいない。・梶井は何を描こうとしたか。 「彷徨」(習作)、・同じものが二つある。書き直している。繰り返している。・はじめはモノトーク。・比喩として書くのが上手い。「手に砂が付いている。」詩的。詩になっている。正岡子規が始めた。「目で見たものをそのまま写す」。写生。梶井の特徴でもある。写生文。変容していく。心理を目に見るようにモノ化したのが漱石。・梶井と太宰との相違。太宰は、梶井を真似た。梶井のパクリがある。・すっきりしたもの・・・。晴朗な空気。太宰との違いがある。三島は梶井は好きで太宰は嫌った。・小説は判り易いとダメになる。・辿り着くべき結末。方向・ベクトル。容の違った反復。「檸檬」の爆弾がない。「檸檬」で成功し、ここではうまくいっていない。・梶井にとって、善悪が重要ではない。モラルで書いていない。・直哉の場合は、好悪=善悪と一体化している。・美・・・惹きつけられる。・この段階であるとどまっている。 「裸像を盗む男」(習作)、・他人と自分との関係。・標題を納得させるものがない。・肝心なことができていない。・暗示されている3人について書きたかった。書きたかったが、書かなかった。目指しているものが違う。本人と意図したものが違う。散文詩から散文(小説)他人の評価と自分の評価が相違している。・丸善が出てくる。「檸檬」にも出てくる。・金・借金・・・拘り。分からない。人間を支配しているもの。説明できていないもの。まだ「檸檬」・・までにはここではたどり着いていない。散文詩のレベルにとどまったが、多くの作家たちは散文と見做した。三島に影響を与えたなど。・梶井は自分の良さに気付いていない。堀辰雄・梶井の違い。 「鼠」(習作)、・「愛撫」・・と相対している。「愛撫」の着想がある。ねこ。猫に対する鼠。この作品が下敷きになっている。・完成された作品。ただ「愛撫」の方が文学としては優れている。当時は、梶井は、より小さいものに関心があった。レトリックを磨いた作品。・みるべき作品になっている。結末の選び方が上手くいっていない。良質な作品を残しながら、結末だけがうまくいっていないのではないか。・注目していい作品である。 「カツフエ・ラーヴェン」(習作) ・親しいRと敵対するSとの間の私を書きたかった。自分を脅かす存在がいる。・Sという存在。脅かすものではない。書かれなかった後が問題。完成していない。・Raven(からす)・卑屈な自分を許せない。・腕力・・暴力。に対する人類。檸檬に書かれていないものを書こうとしていたが、・・・。・中野重治「歌のわかれ、鑿」佐野の無礼は許せるが、それを許す自分が許せない。・ジュリアン・ソレル・・赤と黒。軍人か僧侶か。「罪と罰」自尊について書いている。・梶井の拘り・・・自尊。漱石や志賀直哉の影響を受けている。三島を評価している。・他人への拘り。立っているところが漱石と同じ。対人関係が漱石のテーマ。「道草」と「明暗」に、梶井は辿り着いていない。・詩・・私の感情を書くもの。私でありながら普遍性をもつ。私小説ではない。プロの作家が梶井を評価する傾向がある。本格的な小説は、むしろプロの作家たちには関心がない傾向がある。
2015.02.27
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アラン・ポーの作品は、人間のもつ天邪鬼を書いている。どうして危ない方を選ぶのだろうか。自分の本心を隠してしまっている。水面下の厖大な潜在意識を知らないし、自分がどのようにして女性に惹きつけられるのか、まだよくわかっていない。手に負えないようなものに憧れるのは何故だろうか。どうも自分が本当に生きていたいのか、死にたいのかよくわからないでいる。漠然としたことが判っているから、解かったつもりでいるだけではないだろうか。 ・態々、懼れていることをしようとしているのではないだろうか。歩くことで右脳を活性化できるというが、それを充分活かせているとも思えないし、肉体が健康であることと脳と相関関係をどこまで理解しているだろうか。どれだけ脳を良い環境に措いたところで素晴らしいアイデアが生まれるとは限らない。その場の状況次第だろう。すべてが過去に変質して行くのではないだろうか。 ・へ2・・・リスクを背負わないと何故、出来ないことが多いのだろうか。理想は理想でしかなく、現実は余りにも多くの課題を抱えている。何かが足りない人ばかりではないだろうか。それでも社会的な役割を演じてもいる。アメリカ政府の代表者がオバマ大統領というのも或る意味で面白いというか、悲しいというかアイロニカルな現象でもある。そうなっているからそうなるのだろうが、表と裏が遠過ぎる気がする。
2015.02.27
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中島敦「光と風と夢」・代表作。芥川賞候補。落選した理由が解からない。当時の軍国主義の雰囲気があった。・賛否の分かれる作品。・吉田健一は高い評価。・第十五回芥川賞選評では、川端と室生が賞賛したが、他の委員が評価しなかった。横光は触れてもいない。時代背景と、作品には斬新さがある。・平凡な日常を描いており、面白くない。散漫で焦点が定まらないとの厳しい評価があるが、小説とは事件ばかりを扱っているわけではない。描き方次第。殺人や突拍子もないことだけが小説ではない。皮相ではなく、その深さにある。視点の面白さ。斬新さ。・中村光夫は、「欠点があって、否定的なものでも、却って長所にもなる」と言った。時局に受け入れられない。作品は、300ページに及ぶ長編の作品であり、当然散漫な部分もあり、新しい形式が受け入れられなかった。・川端は流石に鋭い視点で「受賞しないのは訳が解からないと評した。横光は、その反対。・中島は、英文学に進むと思われていた人物で、英語にも漢文にも通じていた。何故そうしなかったのか。時代がそれを許さないと思ったのだろうか。時代の身に迫るものが臆病にしたのだろうか。それが挫折するエリートを描いている。皮肉。・吉田は、漱石、鴎外に次ぐ作家として中島を評価した。・翻訳英語は、スラスラと読める日本語になっている。・英語や中国語を理解できる能力に優れている作家は、日本の作家には、そうはいない。・「文学は文章」である。・「文学と筋」についての議論があり、芥川と谷崎の間で論争があった。芥川は、筋(ストーリー)は要らない。その後自殺した。・谷崎は、小説は筋(ストーリー)である。・この作品の結末の描写で、鴎外の「阿部一族」最後の切腹の前に、「風鈴が鳴り」、「ヤンマが一匹とまっている」など、連想させるものがある。・この作品に初めに、友人の父の死の描写があるが、カフカの作品のような箇所がある。・無名の人の死と有名な作家の死が同等に書かれている。上下の関係ではない。フレームが最初からできており、それが最後の描写のフレームに繋がっている。・「山月記」の李徴にも通じている。・作家としてではなく、生活者としても描かれ両方を中島敦は書きたかったのではないか。・ありのままを、それこそ小説(ストーリー)にならないものを敢えて小説にしようとしたのではないか。どうでもいいようなことを書いている。それが寧ろ小説ではないか。・散漫になっているのは、敢えてそうしているのではないか。・ムダなものが、むしろ必要である。・300枚も書いたのは、それが欠点であるが長所にもなる。判ってそれを書いている。中島の狙いはそこにある。・欠点になることを敢えて書いている。それが長所になることもあると言いたいのではないか。・退屈のように視えてそうではない。それが日常でもある。・当時の日本人で欧米人を理解できる作家だった。・「タンタラの死」。語り部。著名な語り部として。・「光と風と夢」の題名に付いて、出版社から変更を勧められた中島は、納得していたかどうか。・触れている箇所は一箇所しかない。「明るい光と風の中に」・作品を短縮したのは時局もある。(昭和15年に書かれた)。芥川賞どころではなかった。・その頃何故こんな作品を書いたのか。・国策に副わないとも言えない。当時の空気のようなもの。当時の人でなければ解らない正直な感想もある。・この作品と時局の問題は、未解決のままで、いつまでもおそらく解らないだろう。・安岡章太郎。・当時の流行の「告白」を漱石、鴎外、中島は嫌った。資料を重視した。・作家スティーブンスンに託して中島の想いを書いている。そこが魅力にもなる。客観的に書いては面白くない。・「李徴」の中にも中島の想いが表現されている。中島の小説に対する思いを書いている。・名を為しと思いながら想いを遂げることができない。・芸術家と市民の意識の違い。・「山月記」李徴。・ディケンズとフローベルの違い。・作家と一般人。一般人がもっと大人である。・中島の中にも、作家よりも一般人が大人という考えがある。・作家として作家を書くだけでは買う、島民の姿を同等に書く。・人間の苦悩。・余分なものも敢えて書く。・一人の人間の顔を色んな角度から描く。・文学・・・ふつうのこと。一般人のことを書く。・年々年をとると愚かになる。不安の様子。・中島は自分のことかスティーブンスンのことか解らなくなっているところがある。・「牛肉と馬鈴薯」 「死を驚けない」・道・・・比喩、象徴的表現として。・「熱帯の白い道」・中島の頭の中に「鴎外」いた。・吾は誰か。・ドッペルゲンゲル ・仮面から素面になって書いている。その瞬間、欠点が美点にもなる。・自己否定。これから書くものが重要。過去の作品はどうでもよい。自分の過去を否定したくなる。・「檸檬」調和が治まらなくなり爆発する。「虎になる」。・最後に「阿部一族」のさわりを遣っている。・作家の死で終わっていない。「終わりは始まり」死はおさまりがつかない。「細雪」ゆきこの下痢で終わる。結末で、終わらせたくない。穏やかに終わらせたくない感情がある。・「死と生」・単純には読めない。フレームが最初と最後にある。
2015.02.27
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明治半ばの作家の状況を「表現苦時代」と呼び、「欧土のノベルを凌駕せしめん」と坪内逍遥は書いたが、女性にとっては、その創作以上に社会的な軋轢と闘わねばならなかった。平田由美「女性表現の明治史」の副題は、一葉以前とある。その中で、「某老博士の女子教育論」を掲載している「文学は人の思想を高尚優美ならしめ其の品格を卓越ならしむるの効能ありと雖も、思想を高尚にし心情を優美ならしむるのみを以て女子教育の目的と見做すは大いなる誤謬なり。女子の本分は善良なる家庭の王となり聡明なる子女の母となるにあり、・・・要するに女子をして文学を学ばしめたる結果は、生意気となり・・・家政嫌ひとなり、甚だしき良人嫌ひとなり結婚嫌ひとなり終には痩意地を張て独立の世渡りを為すが如きことあるに至るべきなり。(読売「婦人と文学」1891・6・9) これが、当時の女性小説家に対する批判者の一般的な認識である。女性が書く小説というも のが、このような状況の中で樋口一葉が小説を書いたということであろう。勿論、社会的環境は、改善されたことは言うまでも無いが、まだ、少なくとも meme としては、無意識の底に はあるだろう。その亡霊がじめじめした夏の夜には、時として出てくる気がする。ショックな のはこの本を照会してくれたのが、日本人と結婚している台湾の女性だということだろう。 日本の女性よりも高い見識で、文学書や評論を解釈する「外からの眼」をもつ人たちがいるこ とだ。
2015.02.27
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ユルゲン・アショフは、いう。 「生理学的な変数を測定するとそれが変数であれ、最高値と最低値があるのが普通である」と。ロンドン大学インペリアルカレッジの実験では、ヒトの体温は・・・最低値は午前4~6時。最高値は、12~14時。 其の差は、平均1度であったという。 私たちが何故眠るのかはよく解っていない。 「睡眠」の研究は、クライトマン「睡眠と覚醒」以来様々な分野で研究がさ れているが、ヒトのフリーランリズムを調べるには、ヒトがある程度の光を必要するという事実を見逃してはならないといわれる。 非常に稀な病気であるが、プリオンタンパクの異常が関係していて、まった く眠れない状態が6~30ヶ月つづき最終的には死亡する。昏迷、体重減 少、内分泌系の崩壊などの症状が進行する。 米国の100万人を超す研究では、 睡眠時間4時間未満になると死亡率が上昇する傾向があること。 最も生存率が高かったのは、7時間。 逆に、8時間以上の人の内、一部の人は病気を抱える可能性が高い。 少なくとも睡眠時間が長過ぎるのは病気の存在を反映するらしい。6~7時 間が最適なのだろうが、時間だけではなく、眠り「質」もあるだろう。Non-24 は、シンドロームとして指摘されるが、これからの課題でもある。
2015.02.27
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まじめな人間が損をする社会ではないか、という疑問を持っている。そうあって欲しくはないが、裏切られてきたのは事実だろう。ことの大小はあるとしても、真面目な人が現実社会の中で苦しんでいるのを視ている。今回の大学入試のインターネットに投稿された問題は根が深い問題でもある。これまでも不正な手段で合格した人間がいるのではなかろうか。解らないだけではないだろうか。中国の「科挙」の時代から、入試制度は学生たちを苦しめている。それもそれが合理的なものだろうか。 ・まじめな人間が、努力しても報われるとは限らないかもしれない。公平、公正というのは理想であって、現実ではないのではないか。疑問はある。権力者の子どもだからと後継者にもなる。不公平な社会があり、現在の入試が果たして公正で、間違いのない制度といえるだろうか。それはまたも建前のことでしかないだろうか。できる筈がないと思われることが起きている。人がかかわることで不正が無いとは言えない。 へ2・・・大相撲の八百長にしても、昔からあったのではないか。公に為らないだけでないか。これほど科学の力が高度になっているのに、未だに入試がペーパーテストだけで合否を決めているのは、可笑しな話だ。大学に入学したからといって、それが何だろうか。こうして当然のように誤解が氾濫し、人間の価値を疑わせるようなことが世の中には多過ぎる。
2015.02.27
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自分のオリジナルを創造しようと腐心しているが。思うようにはいかない。行かなくて当り前なのであって、簡単にいけば苦労はない。巧くやるひとがこの社会では成功者でもある。他人に気づかれないようにしている。自分のものだと主張もする。嘘とみなされない程度に狡猾でもあるのだろう。一緒に遊んでいた人が博士になり、あるいは犯罪者にもなる。偶然という気紛れは人間の運命を左右する。 ・日頃の運動も数日しか効果がないらしい。常に運動をしなければならない。それが嫌ならメタボリックシンドロームに還るしかない。生きることは苦労を続けることでもある。ダメと思えばダメになる。流れに抗いながらどこまで遣れるかでしかない。 この社会的ヒーローは必要ではない。安倍さんがそれほど優秀だとは思えない。なれのはてかどうかはよくしらないが、なにかのはじめと結果なのだろう。ヒーローになろうとして、太陽に向かって落っこちてしまう。その残骸がのこるだけだろう。
2015.02.27
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PCに入れていたものが、それがすべて僅かなミスのため一瞬で消えた。分かってはいたが、なってみるとショックだし、これが最初でもないから余計辛い。諦めるしかない。また出直してできるところからする。 ・懲りないことばかりしている。ことを為す事のむずかしさだ。どうでもいいことしかできないでいる。自分にはどんなに価値があっても他人には無価値もある。誰からも毎日2万歩をやれといわれたわけではないがつづけている。一日3時間ウオーキングをしてきたが、辞めた方がいいとは思わないし、それだけの効果もないとはいえないと思う。 ・へ2・・・どれだけ長生きできたとしても、どんな意味があるだろうか。それは私の問題でしかない。健康寿命でいたいがそうできるという保証はない。文学講座がなくなり、少し手持無沙汰でいる。チーズは消えてしまった。ねずみになって探さねばならないが・・・。 川崎の少年の殺害容疑の3人の少年が逮捕または逮捕されようとしているが、ゲーム理論で、囚人のジレンマが重要な課題だというのを思い出した。尋問の専門家にかかれば共犯行為があったとしたら何れ犯行は解明されるだろう。
2015.02.27
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或る大学の学生の書いた講義memoの整理は未整理のまま。考えながら喋るのも書くのも難しいが、日本語は解り難い。混乱することが多いが、自分の脳のフィルターにかけるしかない。 成長は老化である。若い女性の絵とおばさんの絵は錯覚である!講師が、一般的にだが、先ずボキャに乏しいし、学生が日本語の常識が余りないとすれば、脳では不完全燃焼するだろう。大学の講義を聞くだけフラストレーションが蓄積するだけだろう。中学・高校・大学と進学する教育システムはもう時代遅れだが、それに無理に押し込められる学生は可哀想だ。それに適応できる学生は寧ろ何にでも適応するのではないだろうか。どうも、型にはめられすぎる人間だけが増え棲みやすい社会とすれば、フレキシブルな発想は生まれないのではないか。表現力の乏しい講師と、関心の持てない学生とのミスマッチは、悲劇だ。お互いに意欲を失くしてしまうだろう。延々と続くノートをみていると疲れる。要点を述べて、自分で調べろの方がまだいいのではないか。 権威や権力を否定して時代は少しずつ変化していく。そして劇的な変化もある。戦前と戦後のように。ある歴史的な事件によって、反転も暗転もある。その逆もあるのだろうが、中々見極めることはその時は難しい。過去を振り返って解かることが多いし、それが歴史でもある。悲劇が喜劇になって終幕してさっぱりと忘れられることもある。トラウマになり忘れられない人たちもいる。成功<ゆえに>没落する人たち。 信じていたことが覆ってしまうのは、必ずしも楽しいものではない、むしろその反対が多いだろう。然し東京電力はババを引いたのではない。彼らの責任は小さくはない。原発は見直されるきっかけになっただろうが、そのために平穏な日常を奪われた人たちや、これから何時まで続くか解らない不安な生活が待っている人たちも沢山いる。経営者たちの虚ろな弁解を聴いていると、金融機関からカネを借りて損害賠償するというが、カネで償えないものもある。
2015.02.27
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薄氷を踏んで一つ厄介なことがあれば、忽ち暮らしも暗転してしまう。いつも元気な妻が、今年はインフルエンザになり、また花粉症もあるが今夜は咳で苦しんでいる。そばで寝ている気もしなくなり起きてきたが、それはそれ誰も同じだが、一寸先は闇だ。 ・妻の資産家の娘の従妹が数年前に50歳台の肺癌で死んだがそれこそ親に逆らって大恋愛で結婚し、子供もできてやっと親たちと和解して、両親も老後を娘の家族の近くで暮らしたいと、わざわざ隣地に土地を買って家も新築して住み始めた矢先のことだった。従妹が亡くなり、そしてあっという間もなく両親も亡くなってしまった。そのひとは終末医療を受けながら、孫の顔が見たいと言い続けて、ついにその願いを叶えて死んだという。 ・へ2・・・そのひとを結婚する前に紹介されたことがあるが、それこそ誰からも愛されるような素直で美しい少女だった。強く印象に残っている。福岡で家の近所になり、時々会うことがあったが、まさかこんなことになるとは思わなかった。
2015.02.27
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イスラム教では、宗教的行為に信仰告白と、礼拝、断食、喜捨、巡礼の五行がある。よく知られているのはモスクの礼拝と、ラマダンの断食、メッカ巡礼だろう。信仰告白は「アッラー のほかに神なし。マホメットはアッラーの使徒なり」と唱え、一日五度の礼拝の時にこれを唱えることだ。この信仰告白は二人以上の証人の前で唱え、認められたならばイスラム教徒とさ れる。儀式などはない。この簡便さがイスラム教の拡大の要因でもある。 ・「喜捨」とは宗教税の一種であり財産の2.5%ほどを支払うとされる。通常匿名で徴収された金銭は貧困者、病人に与えられる。しかしこれは慈善ではない。宗教的行為の一つであ る。アッラーの定めた掟でもあるのだ。だから外国人から金銭や物をもらうのも、その外国人に喜捨をさせることだと解釈される。すなわち相手に善行を積ませることだから、金銭や物を もらっても感謝する必要はないとし、むしろかえって相手から感謝されるべき宗教的行為なの だ。どうも「砂漠の民」の思考は先ほど書いた強盗といい、相当わたしたちの常識を超えてい るようにみえるが、はたしてどちらが正しいと言えるのだろうか。私たちの学んだものの多く は欧米思想の道徳観であるだろう。 ・日本仏教は、亜流としての日本的仏教に過ぎない。はたして仏教そ れ自体が世界宗教と言えるだろうか。どうもよくわからない。はたしてムハンマドの無学文盲だったということは彼の存在の障害ではなかったのだ。
2015.02.27
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