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作品> 「草枕」・1906年(明治39年)7月26日から8月9日までの間に書き上げられた。・レッツシング「ハンブルク演劇論」 「憐れ」・・・キーワード。・外国の「憐れ」というコンセプトを表現しようとした。それを引用しようとした。・「憐れ」・・・日本の「人情」から・・・「非人情」。・憐れ・・・人情と同義。・人間は、「人間」を人情を加えずに見ることができるか?・漱石の回答として。「人情が動かないで人情は分からない」。・淡々とした文体ではない。・文末「それだ! それだ!・・・人情が動いている。人間が感情を顕している。矛盾がある」。・小説の中に、結論的には、・涙をこぼす。・画家。彼はよく見ていて、多情に感じている存在である。漱石が言っていることは矛盾をいっている。働きを止めることができない。冷静に考えれば有り得ないこと、初めからいっている。・作家はうそを言っている。非人情に眺める事などできない。・憐れを感じる。強い感情。非人情は何処から来たか?・「平家の後裔のみ」の意味。どうして書いたか。注釈が付けられない箇所がある。・憐れの意味。・長良の乙女。鏡が池。アンチン清姫はタブーに逆らう話。・宮本研。・汽車・・・ぱっと別れる。余韻がない。徒歩で別れるのとは違う。・文明開化すると人間は孤独になる。チャップリンの映画にもある。・神経衰弱にもなる。・孤独とは何か?・ヴァーチャルの世界になっている中で、人間はどうなるか。・急激な変化・・・汽車がシンボルとして使っている。・削り落していく。能の凄いところ。一振りすると百年経過している。・漱石が狙った通りにはいかなかった。・旅をしているとき辛くてもあとから冷静に眺められるようになる。なると絵になる。・大いに感動するときに感動すべきだ。・旅を何のために使ったか。・漱石は、まともな作家かどうか。論理の欠点が出た作品ではないか。・森田草平に対する漱石の書簡。漱石には分かっていない。説明になっていない。・「草枕」ではありえないことを言っている。・「こころ」・・・表面以上に暗い作品。ことが済めば後でどうしようもないと言っている。漱石には妥協がある。クッションをつけている。・非人情は白けている。白けている人間。嫌な奴になる。・非人情をなぜ書くか。・那美さん。村人は冷たい仕打ち。下世話に書いていないだけ。女の運命。救いようのない世界。寺に行く。切羽詰っている。画家も追い込まれている。・画家の中に過去の自分を那美さんは見ている。那美さんが何でちょっかいを出すのか。その理由を書かないか。それを隠している。・小説の面白さは行間にある。問い詰めていく。理由の説明がつかない。・周囲と合わない。荒野に一人で立つ。・曠野・地震があって二人がパッと離れる。・自分の思いを絵にしたい。小説にしたい。・「わが感じたる物象をわが感じたるままの趣を添えて、画布の上に淋漓として生道させる」。心の内側を言っている。・幻覚のままで、この世の呼吸を引き取るときに、・・・ 「夢十夜」「一夜」。・男と女が分かれる。・・・「汽車」は人情を断ち切る。非人情。・非人情にはなっていない。白けたままでは生きていけない。その時々で違う。・画家も何時も非人情ではない。・那美さんと若い坊さん・・・那美さんはからかったのか、すてばちになったのか、分からない。解釈の問題。どちらでもよい。・読者に応じて変わる。読む人によって違う解釈になるように書く。・追い込まれると一線を越えるかどうか問題ではない。・画家と那美さんの関係?二人の関係を書いていない。・どちらの読み方もできるように書いている。・無意識の演技。・メガネをかけて見ている。本当のことを書いていない。二人の関係を書かない。・地震での二人の態度。暗示している。・書いている側の読み方が違う。作家がどのようにして如何に作品を書くか。・プロセスを書いている。・朔太郎「ねこまち」。・画家が如何に絵を描くかというのが「草枕」である。情感を描くか。・漱石は、頭の中で整理がついていない。・森田草平は「草枕」について。二人の点を繋いでストーリーになる。書いた人が場面重視、ストーリー軽視である。・結末で説明しないといけないと考えている。説明が矛盾している。小説はストーリーか? ・場面のこと。一点。
2021.08.31
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個人的には右と左の両の手がなければ困る。二本の手が合わさって、モノを運ぶし、両手で色んな役割を果たしている。もし片方の手しかなければどんなにか不自由だろうか。数え上げたら限がないくらいにあるだろう。片手で受けられる水の量は少しでしかないが両手を合わせて、喉を潤す水を得ることもできる。互いに助け合ってモノを為すことができている。 ・然し、社会には、一人には片方の手しかない。それは自分の意志を示す時に使われるものだ。賛成か反対かだし、イエスかノーであろう。社会では他人の手と協力しなければ、水道の水も自分の片手では満足した水を得ることができない。他人の片手と自分の片手を合わせて水を飲まねばならない。独りでは生きていけない。プラスとマイナスと世の中にはあるが、プラスだけでは、この社会は成立しない。マイナスを引き受ける者がいる。そして成立し秩序づけられてもいる。 ・へ2・・・個人としては、円満に生きるとことができても、社会ではそうはいかないだろう。自分だけで社会がある訳ではない。他人と協力しなければならない。自分の意志通りにはならない。我慢し、忍耐し、待たなければならない。賛成ばかりでは社会は捩じれてしまうだろう。反対する者がいて、確りその主張を聞かなければならない。どんなときにも、どちらかの手を上げて選択しなければならない。もう一つの手は、人生の終わりに白旗を揚げる時にしか使えないのだ。
2021.08.31
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道の駅。菊水。父娘の犬その名ハートとソウルは、荒れ野に捨てられ、何マイルも歩き、一夜の宿と食物を探す途中、飢えたコヨーテの群れに出くわしてしまった。ハートは娘の為に、死ぬまで闘う決意をしたのだ。ハートは泥にまみれ、スポンジのようにずぶ濡れのまま、水溜りに傷を冷やそうとして丸まった姿で発見された。どれだけの死闘があったのかは誰も見ていないが、腹部と後脚がズタズタで、胸部と首にも牙に噛まれた穴があった。激痛と大量出血のため、息も絶え絶えの、ショック状態であった。ソウルからコヨーテの目を離させて、ハートは死にもの狂いで闘った。挫けるこころを奮い立たせて、コヨーテの執拗な欲望と闘った。ハートの必死の執念なしには、娘の生命は救えなかったに違いない。レスキュー隊に病院に運ばれたハートの側からソウルは一時も離れようとはしなかった。子犬のソウルは、ひとりで圧倒的な敵と闘う父親ハートをどんな思いで見ていただろうか。そして学んだはずだ。「自分たちは、いのちがけで助け合うのだ」と。動物の利他的行動なしには、「種」は生き残れないだろう。
2021.08.31
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万里の長城。・山海関は現存する万里の長城の最東端で、北は燕山山脈で、南は渤海に臨んでいる。一頭の巨大な竜に喩えられたりする。甘粛省から山海生まで延々6000キロの巨竜でもある。 ・駒田信二「中国の歴史を歩く」は、彼の39年ぶりの重慶という旅でもあった。山海関城の東門から東南約7キロに、望夫石という山の上に孟姜女廟があるらしい。180段の石段を登り山頂の前殿に泥塑の孟姜女像が祭られているという。 長 城 何 連 連 連 連 三 千 里 辺 城 多 健 少 内 舎 多 寡 婦 君 独 不 見 長 城 下 死 人 骸 骨 相 トウ柱(支柱の意) (陳琳「飲馬長城窟行」) ・へ2・・・敦煌の洞窟から発見された中から 孟 姜 女 杞 梁 妻 一 去 燕 山 更 不 帰 造 得 寒 衣 無 人 送 不 免 自 家 送 征 衣 杞梁は春秋時代の斉の人。その妻が戦死した夫を思って泣くと、そのこころに感じて城が崩れたという言い伝えがある。長城築城のために何万、何十万もの若者が犠牲になっただろうし、その妻たちもいた。無数の孟姜女がいたのだろう。山海関の孟姜女伝説もある。 築城の人夫として駆り出された男の妻が夫の身を案じて冬着をととのえてはるばる工事現場まで夫を尋ねたが、夫は過酷な労役にたえられず、すでに死んでいた。そのことを知った妻は、悲しみのあまりに長城のもとで泣きくずれた。すると、にわかに雷鳴がとどろき、長城の壁が崩れ落ちて、そこから夫の遺骸があらわれた。妻はその遺骸を抱いて、海に身を投げて死んだ。 ・あるいは事実ではないかもしれないが、しかしこれは真実なのだろう。時代の無情があり、人々には赤い血が流れる夫婦愛であり、ひとの愛情があったのだ。 ・へ2・・・それこそ濃密な人間の触れ合いがあったのではないだろうか。自然はあくまでも厳しく、圧政は苛酷であればある程、人間は気高く、どこまでも崇高になりえただろう。
2021.08.31
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道の駅。学問のないのは国民の責任ではない。寧ろ教育しない国家に責任がある。個人に過重な責務ばかり負わせている。お前が悪い。勉強できないのはお前の所為だ。努力しないから悪い。させないようにしてはいないか。貧乏なのは貧乏にした政府が責任がないわけではない。戦争もそうだろう。国民が戦争せよと言っただろうか。そう仕向けたのは誰だろう。戦前も戦後も学問がない国家が、この国に云えないだろうか。・悲しいかな、事実は事実だ。広い視野と深い洞察力が、学問の根幹にある理念だ。それをさせなかった社会は、社会ではない。人間を素直にさせない社会は、必ず破綻するだろう。卑劣な国家が勝つような世界になれば国際社会は破滅するだろう。他国を侵略して植民地にして恥じない国家は、学問のない社会だ。知識があって哲学がないからだ。・へ2・・・真の学問がない。教養がない。私たちにないもの、それは学問だ。
2021.08.31
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バイブリー。子どもの頃貰った玩具の砂時計を思い出す。すーっと落ちていく砂と時間がひとつになってみえた。砂と時間とそれを見ている自分と。中学の友人の妻が出産して、彼と生まれた新生児室で初めて赤ん坊をみたとき、友人が、「ぼくたちも、こんな風に、親たちから見られたことがあるのだろうな」と呟いたが、それが強い印象として残っている。対象物をみているものが時間とともに逆転して行く。不思議な感情だった。・友人のその赤ん坊の名付け親になった。「未央」と云うその子は、その後立派に育って留学し、アメリカ人と結婚して子供が生まれたと聴く。時の経つのは早い。消えていく砂を見詰めていたころの私は、時間を見ていたのだろうか。 ・へ2・・・すべてが夢のように過ぎたようでもある。いつか私自身も一粒の砂になり、砂時計の中で、下に流れていくのだろう。そして、誰かに見られる。砂と見る人の間には時間が絶えず流れてもいる。これからすこし遅くなったが、明るい日差しの中をウオーングしてくる。愉しく生きていル時間が自分の時間でもある。
2021.08.31
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ボートン・オン・ザ・ウオーター。ある部分では過敏にある部分では鈍感になってきている。それがどこなのか精確に把握できなくなる。それほど単純なシステムではない人間のこころとからだの仕組みではある。まだ夏バテというのには早い気がするが、少しフットワークが悪い気がする。朝晩涼しくなり、気持ちも良いのに、これではつまらない。でも心や体は正直だ。つまり自己過信しているところがあるに違いない。これは専門家でないと分からない。客観的に観察できないし、科学の知識もわずかでしかない。 ・いつもの朝のように思えるが、どこか違う。それに精確に気付いてはいない。違うということだけは知っている。それも一つの知識ではあるが。日頃気にしている肺機能の低下がある。恐らく若いころの何割かだろう。
2021.08.31
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玉名~菊水。九州新幹線ができてかなりになるが、一度もl乗車する機会がない。車が便利だからでもあるが、そのチャンスがない。高校を卒業して、寝台車みずほで鹿児島本線に乗り上京したが、玉名や博多を通過している。縁があって自分の人生の大方を過ごしてきた。父母や、親戚の人たちや知人たちとも、生きている間にあうこともあるまい。それが私の人生でもぁるのだろう。この猛暑の中で墓参りをしてきたが、いつまで続けられるかわからない。無理をしないことが、長続きの常識でもある。そう心がけているつもりだが、ついむきになる性格がある。まだやれると無理をするのは年寄りの「冷や水」と云う。自分にも嘘をつくというのが長寿の秘訣と聞いたことがあった。適当にやることだ。「八割出来て、できたとする」。実は、80%としかできていないが、「今日は、よくできた」と自分に嘘をつくというのだ。腹八分目で満足した、OKとする。簡単に言うが、小人にはできないかも知れない。腹がでかい。 ・小さいことにこせこせしない。莫迦が利口のふりをしても、笑って遣る。おおらかに生きるということは、生真面目では出来ない。人は日々老いるのであり、同じようには遣れなくなる、それでも「よし」とする。人から馬鹿にされても、一々怒ったりはしない。自分に適応できるルールを自分のために創って遣っている。天に恥じないこととは、真理から逃げることではない。 ・へ2・・・無理に古典を現代に当て嵌めようとするから無茶な解釈もするのだ。自分の頭で翻訳する努力を惜しんではならない。と思う。ひとには保湿力がなければならない。それを自分で考えて補って遣らねばならない。解かる人には解かって貰える信じることも必要だ。それこそ自滅しないために何をすべきか、それが問題だ。
2021.08.31
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玉名~菊水IC お気に入りのドライブコースだ。40年以上往復している。親しい人がいれば人生は愉しく、充実するだろう。親友がいれば、人生が悲しければ、どれほど才能があり、財宝があろうとすべてが空虚になる。財産や、社会的地位や、権力がなくても、親しい人がいればいい。自分の気持ちが通じる相手がいれば、生きる意欲も湧いてくるだろう。しかし、人と親しくなるのには、そう簡単ではない障害がいくつもあるだろう。本当に、親しくなるためには、そのひとが心理的に自立していなければならない。甘えや依存性は親しさの障害にもなる。自分が好きになることも必要な要件だ。自分を嫌いな人は他人も嫌いになるからだ。いつもイライラしていたら、親しい関係は築けない。そして、アイデンティティがなければならない。「自分は自分、他人は他人」という安定した心理状態もいるだろう。自己蔑視しているひとは、他人を愛することが出来ないだろう。しかも、人は誰でも親しくなることを望んでいるわけではないことだ。ヒステリー性格や、功利的人や、ナルシストや、ギャンブル依存症もいるだろう。これらを分析するのは、精神分析学者に任せるとして、意外と難しいことは、誰でも経験することでもある。しかし、他人と親しくすることは、それは空気や、水や、食事と同じように生きて行くことには不可欠なことであろう。巨万の富を築いても、ひとりの親しいもののいない人生など悲しいだけだろう。即ち、親しさとはそれにふさわしい自分の内に情緒的成熟が前提条件であることを意味しているのだろう。さて、いま九州学院と鹿児島実業の高校野球であるが、九州勢同士だが、西南戦争以来因縁の対決があっている。好試合である。けんそうのl
2021.08.31
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高瀬大橋と菊池川。玉名~菊水IC. 私の故郷の風景は、父母たちのお墓と風と光と自然でしかない。最近まで、自分で運転していたので、車の窓から撮影することもできなかったが、妻が運転することが増えている。娘も免許証を持っているが、させないのは妻だ。妻は運転が好きでもある。福岡に転居してから40年くらいになるが、ひとり、また一人と亡くなり、10年くらい前から墓参りくらいしか帰省していない。 ・どうやら、このパンデミックは、人生被害でもあるj。それは世界中の人たちが同じ運命であり、ダメージの違いだろぅj。富の分配を恣にする巨悪が蔓延っている。国家権力も彼らの召使でしかない。悲劇は繰り返されている。2011.3.11.日本人は、その体験を生かしえているだろうか。人災の認識が欠如している気がしてならない。災害は次々にあるが、教訓は学んではいない。 ・へ2・・・案となく売らしているjだけででゃないだろうか。東京五輪も。、柳の下の泥鰌ではないだろうか。そして、このパンデミックでどうしようもないはめになったようだ。政治家は相変わらずのノータリンらしい。物欲の塊らしい。金毘羅船ふね。
2021.08.31
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菊池川。玉名に住んでいたころが、夢のよぅでもぁる。温泉と川釣りと、おまけに妻子までついてきた。現実に今できないことをどれだけ考えても仕方がない。若い時のように夢を見てもそれはそれだけで終わるだろう。出来ることを真剣に考えられるかだろう。真剣になるとは決着を付けることではない。結論を先に出すことでもない。結論は出ないことばかりだ。少なくとも将来に向けて決断することはできない。自分のエリアを間違えないことだ。できることとできないことがある。できることをやらないことが問題だ。与えられた役務を果たすことだ。それは単に職務のことではない。 ・それは知ることでけではなく、判ることでもある。自分の役務とは何かを問うことでもある。天に恥じないことをしなければならないということだ。当り前のことをせよ、でもある。能力のないものが、能力以上のことはできない。自分が何ができるか、問うて見るべきだ。科学的認識を持たねばならないのはそのためでもある。 ・へ2・・・間違えようもない道を迷うことはない。私たちの前には決められた道がある。この社会の出来事くらい理解できるだけの脳を、人間は持って生まれてきた。それを使えばいい。先人たちの造った道がある。然し、その道には実態がない。
2021.08.30
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玉名市。「遊び」と云うと、「大人の遊び」と云う風に聴こえないでもないが、そういう意味ではない。いつも何かと戦っているのは、その必要がある時であって、そうでない時もある。いつも裃を着ているわけにはいかない。誰も一生戦っているわけでもない。硬軟を持ち合わせていなければ乗り越えないものもあると思う。なにが「遊び」になるのだろうか。「ハンドルのあそび」がないと、上手く運転できなくなる。自分らしく生きるということは、個性をもつことであり、「遊びこころ」をどう活かすかだ。・西欧の美のベースはシンメトリーだという。日本の美意識は、それとは少し違う。微妙なバランスの上に成り立つ「美」だ。勿論これは一般論に過ぎない。それだけよくいえば繊細なのだろう。シンメトリーに対する人間本来の美的感覚はみなあるからでもある。バランス感覚の中で生まれる遊びもあるのではないだろうか。ドイツに行った時、整然とした都市の美しさに見惚れたが、同じ色の屋根や同型の建物に埋もれた煉瓦の世界を不思議に思わないでもなかった。つまり古い建物でも人間は新しい科学や心を持つ人たちなのだろうと。・へ2・・・文化によって「遊び」の意味も違うのだろう。勿論個性による世界観もある。私は日々を闘っているのではなく遊んでいるとおもっている。だから続けられることもあると。ヒエラルヒーの社会で、真面目にやってはいられないことも多い。期待されない人間にはそれなりの、活き方もある。と思っているからだろう。だが誰にも軽蔑されたくはないだけだ。
2021.08.30
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玉名ラーメン・雲龍軒。どれほど威容を誇る巨大な象だろうと「牙」のない象は、「大きい」だけでしかない。象は普段は温和で大人しい生き物であるが、いざという時には、地響きを上げて突進してくる。自分の死に場所を知っていて、人知れずいなくなるのだと聴いたことがある。巨大な身体を持つ物はそれだけ優位に生きて来られた。それは肉食獣から身を守ることができたからだ。その分、毎日せっせと草を食べていなければならなくなった。食べ続ける生涯だろう。そうして巨大化し、生き延びても来られた。 ・私たち個人にも、それぞれ個性があるように、生きていられるには、それだけ特質がなければならない。活かしてくれるものがなければならない。先ず自分の体であり脳であり、環境でもある。前提条件とするそれらのものは複雑で、それこそ単純な存在ではないだけだ。そして人間の歴史がある。社会環境とも言うべきものがある。これも刻々と社会状況が変化している。自分の特徴を客観的に捉えられなければ、「コンパスのない人生」を生きて行くことにもなりかねない。 ・へ2・・・コペルニクス的転換を感じているだろうか。時々、その針を見失う。針は大きく振れるからだ。他人を信じないのは、自分を信じないとは違う。自分を信じるから、他人は自分ほどには信じられないだけだ。他力本願が本義ではない。誰にも頼らないと自覚して生きることだろう。他人と協力することは、人間には必要な条件でもある。そうして生き延びてきたからでもある。一人の社会はない。他との共同社会で形成されている環境に生きている。自分の特徴を忘れていた。ひとりでこつこつ努力してきたのだ。視えるものはみな先生であった。
2021.08.30
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高瀬大橋。ひとは勝手なことをいう。だから時々お灸も据えられる。そんなに熱いなら止めたらと婆ちゃんに言ったら、それがいいのだといわれた。男のような体をしていたが、激しい肉体労働で体中を痛めていたようだ。腰が曲がり、苦しそうでもあった。そこまでやらなくてもと思ったものだが、働き者は死ぬまで傷めた体に苦しんでいた。 ・母は、床ずれになり、痛がっていたが、最期は穏やかな顔をして死んだ。脳からごくろうさまの脳内ホルモンが出るらしい。そこまで自分もかんばれるだろうかとその時思った。天から阿弥陀如来がその時迎えに来るという絵画があるらしい。貴族たちの信仰だった仏教が、大衆のものになったのは、字が読めなくても極楽へ行けるという信仰からだった。 ・へ2・・・そういえば中世のキリスト教徒も、ほとんどの人が聖書さえ読めなかったという。それでも熱心な信仰ができたのは、信じる心があったからだろう。声聞弟子ということばが仏教にもある。国家権力にすり寄って、仏教もひとびとの心を捉まえることが出来なくなったのだろう。つい、虫のいいことをしようとする。その時は誤魔化せても長続きはしない。
2021.08.30
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菊池川。市民を対象にした文学講座でテーマが「作家の全小説を読む」という自由企画を2005年から受講したが、講師は40年間日本文学を研究されてきた市民教育にも熱心な文学部教授だった。然も無料の講座だった。受講者は20数人だった。今年の4月からは30数人になったが、教授は定年退職になったので、12月で最終講座をされたので先日講師と受講者でお別れ会をした。 ・これまで、何の脈絡もない乱雑な読み方をしてきた文学だった。作家がどんな考えで作品を書いたかなど考慮したこともなかった。そして一人の作家の全部の作品を読むという発想さえなかった。文学部の学生でもない一般の市民に、教養以上にどれだけの内容を話せばいいのか講師は迷われながら講義をされていたに違いないが、毎回、資料を準備され、講義の前には必ず読み直しをされていたようだ。いつも読み直して解ったことがあると言われていた。 ・へ2・・・一年で、100講座を受ける猛者の先輩が、こんな先生は他にはありませんと。点を線にするということはいつも思っているが難しい課題だ。ハイレベルでレベルの違いすぎる講座を受講したが、それでも、自分の頭で考えることだと毎回言われた。それがこの国に生まれ育った日本人の言葉を知っている国文の意味でもあると。定年になり、何をしようかと思っていた時に、実にタイムリーな時間を持てたことを感謝する。
2021.08.30
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菊池川。人の人生は、その人の世界観で決められる。自由を抑圧されていた時代もあり、狭い世界に押し込められていた人たちも多い。現在の私たちでさえ、パーフェクトとはいえないが、強い意志を以って、自由でありたいと闘うことはできる。成果を得ることのできる人は未だ僅かな人でしかないだけだ。欲望の社会にあって真摯で生きることは容易ではない。困難なのではなく、難しい。 ・知識の偏狭が齎している社会は今に始まった現象ではない。社会的地位のあるものが、地位を得ると、その地位に埋没して没落する。その成功ゆえに没落するから。安楽が人間を怠惰にする。貧しいから、ただ豊かになろうとするのではない。物質と精神は同じではない。見せかけの社会に、踊るものは精神も荒廃してしまう。 ・へ2・・・今、自分に何ができるだろうか?そのことを普遍的な論理で理解することのできる必要があるだろう。それが自分にできている訳ではない。何を学ぶか。何ができるか。自分に問うことができるか。自分の脳をどこへ連れて行くか?
2021.08.30
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菊池川。今度この場所に帰ってくることがあれば、どんなことがあるのだろうか。それまでに何が起きているのだろうか。浦島太郎さんになっているかもしれない。太平楽を続けたいが、そうはいかない。終わらない命はない。 最近の事件で・・・猫を解剖し、人間も解剖したいなら、勉強して医学部へ行けばいいのだ。なぜ弁護士の親は、他人を殺す前に俺を解剖しろといわなかったのだろうか、16歳に100万円も持たせる意味はない。 ・しかも弁護士の親が、何もできないというのは情けない。世間に対してお詫びのしようもあるまい。殺された高校生や親たちが、可哀想だ。罪を憎んでひとを恨まずというが、これはその心境になるまで時間がかかりそうだ。しでかして後で後悔しても遅い。自分の体を張って犯罪を防ごうとする気持ちがない社会は、いつまでも犯罪は増え続けるだろう。 ・へ2・・・他人を殺すことは、自分を殺すことでもある。その社会規範を弁護士は社会的使命にしているのであり、できなければその資格はない。脳の病気かもしれないが、殺されたものの身になるべきだ。一つ間違えば、どんなことにもなる。それは恐ろしいことだ。そしていつかわが身にも起きるだろう。
2021.08.30
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過ぎてしまえば、何のこともない。残影が残っていたとしても夢の切れ端でしかない。栄光も露と消えた自殺もある。なんでそんなことをするのかと問われても、答えてはくれない。そして日本ではまだそういう人たちがいるということだ。しかも世界に誇るべき科学者だったそうだ。本当だろうか。そんなひとが。死者に鞭打つようなことだろう。 ・佳人薄命というのがあるが、善人は早死にするだろうか。そんな善人なら願い下げだ。才能を伸ばすことも難しさh言うまでもない。36歳で京大の教授になった超エリートだったそうだ。なぜ小保方氏の片棒を担ぐようなことをしたのか。それは本人でないと誰にもわかるまい。もう死の美学もないが、一寸したことで折れてしまうひといる。 ・へ2・・・誰も絶望してしまうようなことを乗り越える人もいる。不屈の精神と世に称えられる人たちもいる。ひとは、その時々で運命と戦い、自分の力を発揮できるかだ。一日は24時間でしかない。皆平等にその時間を生きている。疲れたら、眠ればいいのだ。腹が減れば食べる。年を取れば、黙っていても老化現象がある。近道を歩こうとせず、我が道を行けばいいのだろう。
2021.08.30
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遠景 三ノ岳(左)と金峰山(右)。環境と機能性との対立は極限まで高まる。「人」としての生きようを再発見させる人間らしさの空間の創造はあるのだろうか。この人間環境というスペースは奇妙な荒廃したエリアでしかない。恐らくどこでも、生物は巨大な石と鉄に囲まれる。そういう貧しい発想しかないところにどこまでも現代の私たちは、空漠とした未来しかない。自然環境と機能性とが軋轢をもたねばならないところに、この社会の発想の限界がある。三次元や重力を超越して、社会のあらゆる呪縛と闘うべきだ。しかも「対立」からではなく、「融合」をも視野に入れるべきだろう。少し、現実離れした話ができるのも、いまだからできることだろう。人が道具として扱われようとするとき、ヒトの悲鳴が巻き起こる。その悲しみを誰もとめられなくなる。
2021.08.30
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こうして呼吸して、物を見ているし、私は思惟しているが、それが自分の血液とどうかかわるのだろうか。脳内物質や、免疫や、血糖を上げているものが、自分の思考と行動とどうつながるのだろうか。怒りや悲しみが、沸き上がり、そしてどこかへ消えていく。時間とはなんと壮大な装置なのだろうか。音楽流れているが、それが心を動かしてもいる。破滅へだろうか。 ・生命を脅かされてそして恐怖の中で死んでいかなければならなかった人たちが、どれだけ多くいただろうか。20世紀には1億人の戦死者や犠牲者がいたという。敵と味方では愛国者と悪魔の意味が反対になる。原爆を落とした兵士は果たして英雄だろうか。違う。核兵器を造った科学者は科学者ではない。 ・へ2・・・宗教さえ戦争の道具になった。 世にあるものは、善でも悪でもない。それを人のために使うかどうかだ。使い方次第。見込みは外れることもある。その外れた時、どのような態度をとるかで、その人の人品も評価される。決して上手くいった時ではない。
2021.08.30
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国家の利害が対立して戦争にもなるが、それは回避できない問題でもない。回避するかしないかだ。日本には中国人も韓国人もかなり滞在している。戦争となれば大混乱だろう。一変する暮らしがある。然し、戦争にならないとは限らない。だから平和憲法だった筈だが、いまだに論理を尽くす努力をしない。戦争すべきではないという人が必要なのだろう。知識人はいつも臆病だ。しなければならない人が臆病でしかない。誰が悪いというのではない。戦争はしないと初めから云えば好いだけだ。それこそ尊崇する相手が違うだろう。 ・また国境線でもめている。島は人間すべてのものであり、誰のものでもない。 ・へ2・・・それこそくるくる変わる世情がある。嘘があり、虚偽もあるのだろう。それがすぐには明らかにされない。いつも遅れて明らかになる。混乱するから・・・といわれるが、自分たちの立場のためではないか。国民は中々利口にならない。それはそうさせないからでしかない。殺し合い死んでしまえば遅いのだ。 国家行為で戦争は起きるのでありそれを操るものがいる。いつも陰に隠れて正体を現そうはしない連中だ。邪な彼らはいつの時代にもいる。それは人の心の中にもいる。疲れ果てているときにひとを暗闇の中に引きずり込もうとするのだ。
2021.08.30
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玉名より熊本・金峰山方面。・何が美しく見えるかは簡単ではない。人間の意識は単純ではないことを示している。隣国の韓国でも中国でもないものが、やはりあるのだろう。中国を旅行して水を飲むことができなかった。飲んだら腹痛を起こすだろうとあったからだ。勿論それは中国だけではない。他国も同じだ。日本人が日ごろ飲んでいるものと成分が違うものがあるからだ。 ・へ2・・・ひとがそこの土地の水に適応しているからでもある。だから日本国内でも水が変わるといわれる。旅立つときには水に・・・と言われた。元気な若者の、老人ではまた違うらしい。環境に適応できるレセプターや柔軟性が違うのだろう。 ・富士山をみて美しいと思うのが誰でも同じかというとそうではない。何とも思わない人たちがいるということだ。仏像をみれば手を合わせる日本人は多いだろうが、西欧人から見れば単なる美術品でしかない。或いはその以下でものでしかないかもしれない。異教徒の仏像でしかない。 ・へ2・・・先日出かけた白川水源郷の水辺で何とも言えない水の風景であるが、少なくとも私には癒しの場だが、外国人にはそうは見えないかもしれない。湧水が流れているだけの風景でしかないかもしれない。どちらが正しい訳でもない。そう見えてしまうということだ。もしかしたら、西欧人のこどもで近くにボールでもあれば投げ入れて遊ぶかもしれない。それを責めることができるだろうか。朝青竜も同じではないだろうか。文化の違いがあるのだろう。日本人の文化を侮辱しているわけではない。
2021.08.30
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菊池川を挟んで向こう側は玉名市である。この付近で卒業してしばらく住んでいた。よく川釣りを楽しんだ。妻のl祖先の墓地があり、毎年お盆にお参りに来る。住んでいた隣に妻の家があり、義父や義母には、大変お世話になったこともある。金栗四三氏の故郷でもある。ドラマで「とつけむにゃ」がある。毎年、福岡に転居してから、玉名にお盆と正月には来ていた。このラーメン店のすぐ近くで、よくごちそうになった思い出がある。今年は家族で久しぶり食べてきた。これだけ情報が多様で複雑になると、その中で活きて行くための情報収集も徒なるものも多くなる。油断すると自分の本来の意図と違う方向を歩いていたりもする。全体を把握して措かないと、取り返しが利かないままになるかも知れない。自分のからだの中で起きているミクロの世界を全部わかっているわけではない。寧ろ何も知らない。 ・自分の生命を守るということが如何に難しいことかということが、サイエンスが教えてくれるが、それは翻訳された本を読む限り、自分の理解できる範囲でしかない。何故生物は、寿命があるのだろうか?この謎に、ヒトは取組み続けている。私たちはそれを、例えば、熊本の水前寺公園の湧水を飲むように大阿蘇の大地に降った雨水が、長い年月をかけて地下水となり濾過されながら届く湧水を俟たねばならない。 ・へ2・・・そしてそれを知ったからといってどうなるものでもないが、個人の世界だけで、死にたくはない。何故生命は死ななければならないのだろうか。宗教では解決できない問題がある。恐らくそれで来世や彼の世を想像したのだろう。年をとるとすべての人が必ず死んでしまうことが、必要な理由があるということでもある。それこそこの世界の激しい変化の中で活きていかねばならない生命の宿命であり戦略でもあるのだ。
2021.08.30
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菊池川の河口近く、左に見える大木の畔に妻の両親の墓所がある。サイエンスとは、何だろうか。般若心経は、なぜ、不生不滅等というのだろう。決定論的に言われることは多い。高千穂で聴いた神話や、天孫降臨にしても、なぜ現実とフィクションを操ろうとするのか。仕組まれた社会が、どうもサイエンスとは違う。 ・生物の種の違いによる生命の最大寿命の違いはどこから来るのだろう。ガラパゴスゾウガメが170年で、ヒトは、これまで確認された最大寿命は122年である。猫や犬などは、自分たちがどれだけ生きるかさえ知らないでいる。偉大な学者たちでさえ、自分の寿命さえ知らないで平気で暮らしている。ほんの一部のサイエンスを知っていたとしても、目の前の死に抗うことさえできない。 ・へ2・・・ああだ、こうだというだけで、音声ループのように直ぐに忘れている。自分にいま大事なものは何ですか?何を優先すべきですか。死んでしまってからでは遅い。巧妙に仕組まれた細胞には死があるように、社会にも狡猾な人間たちの罠がある。何故それを安易に信用するのだろうか。現実と虚偽を操る人間の企みを見破らねばならない。
2021.08.29
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菊池川。一つの社会は、ある一つの全体として評価せねばならない。その弱点をぼかしたり、その暗い側面を触れることを拒んだりしてはならない。ある文明がいかにして一体性を保ち、進化し、存続しているかを理解するかだろう。 サタンが西洋文化圏で、決定的に重要な位置を占めるのは12世紀から13世紀頃のことに過ぎない。ましてや悪魔にまつわる強迫神経症的な恐るべきイマジネールが確立するのは、さらに遅い中世末期である。こうした現象は、神学的かつ宗教的な領域のみを出来事として把握すべきでない。これも一つの文化の表象だからだ。 ヨーロッパは、当時言語も文化がバラバラだったのは、自らの独自性を確立しようとしたバベルの塔でしかなかったか。教皇庁と強大な諸王国は悪魔と地獄とを発明したという事実を、大して重要ではない宗教上の現象とみなすわけには行かない。絢爛たるサタンのイメージを練り上げた思考システムの誕生こそ、西洋の活力が飛躍的に増大したことと密接につながるのだ。 すなわち「中世の秋」は、近代の幕開けを告げる「西洋の春」でもあったのだ。何の為にサタンがあるかは、よく考えれば解かることだろう。それほど、頭の良いひとが滅多にいない代わりにその逆もいないだろう。あとは、自分の想像力の問題だ。
2021.08.29
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菊池川。玉名。落ち目になると不思議と暗い話ばかりが増えていくようだ。たいしたことでもないのに大袈裟に云いたがることもある。これまでやってきたことが、できそうもない気持にもなってくる。耐えられない人生はないのであり、それができないときは終わりなのだろう。腹をくくっていかなければならないのは、これからばかりではなく、これまでも何度もあったのだ。それが、豪く大仰にも見えてしまう。高齢化社会を迎えて、これまでのようにはいかなくなる。そういう時代に、不適応な人物が国のリーダーでいいのだろうか。少なくとタフな精神を持った人物であり、苦難を抱えて平然として立ち向かう情熱ぐらい持った人であって欲しい。 ・何ができるのか、何ができないかではなく、できることを一つ一つ積み上げるような忍耐力のあるリーダーはいないだろうか。自分の権力奪取に凝り固まったようなことでは困る。大局を把握できるだけの見識も必要だ。党利党略で、この複雑怪奇な国際社会を乗り越えることはできない。確り国政のかじ取りをしなければ百年の計を誤るだろう。また「空白の10年」のような轍を踏むことがあれば、日本は後進国の仲間入りをすることになる。 ・へ2・・・いよいよ時代は、減数分裂だろう。日本の未来を担う若者の教育こそ何よりも大切であり、それを優先すべきだ。それこそ、「教育、教育、そして教育」。記憶力ではなく、創造力が問われる。クリエイティブ・インパルスだ!!
2021.08.29
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植木~玉名 208号線。学習することによって脳が膨張する。筋力トレーニングによって筋肉が大きくなるように。一つのことが他のことにも波及していく。ウオーキングや講座に行くのも、ツアーも健康だから行ける。その私の健康というのは、病気もちの健康で、客観的に健康といえるものではないが。まあQOLの範囲ではある。学習も個人的なコンセプトでしかない。高気圧と低気圧の区別は、周囲との気圧の差でしかない。健康といえるかどうか、自分のレベルでしかない。 ・学習しなければ委縮する脳でもある。脳は生きているから、人間も生きている。一時も休むことなく働いている。食べること、寝ること、運動すること。人間の基本に為る活動は、更に学習することでもある。昨夜、新しく古本屋さんが出来たので、のぞいてきたら「食べるな、危険!」という本を見つけて立ち読みして来た。調べたら、図書館にもあるらしいので、借りて来ようと思う。 ・へ2・・・色んな知識も読んですぐに忘れてしまう。知識は忘れる。だから体験することが大事でもある。脳は学習するが、単に知識だけでは役に立たない。活かす努力をすることだ。気の済むまでウオーキングをするつもりでいるが、自分の学習も続けねばならないと思っている。継続は力なりだ。
2021.08.29
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植木付近。福岡IC~植木IC そこから国道3号線を熊本市内に向かい国道沿いの北区に父母の墓所がある。今年は、清掃をしてくれる人がいなかったと見えて、雑草があったので、周囲をみんなで奇麗にした。真昼でもぁり、35℃を超えていたようだ。大き目の水缶がすぐなくなった。以前は人家もない畑だったが、どうやら周囲に住宅が建ち、畑も消えてきた。 ・昼になったので、いつもの回転寿司で、食事をしたが、これから玉名市に行くので、ついでに玉名ラーメンを食べようというので、お寿司は、軽く済ませた。北区から、植木に戻り、そこから玉名市に向かうが、14キロくらいだ。妻の父母の場所は、菊池川の河口近くのところにある。西南戦争の激戦地である田原坂の古戦場が途中にある。お盆には長雨だったが、8月下旬になってこの猛暑であるj。 ・へ2・・・福岡市に、熊本から40年前に就職のため転居して以来、なんどこれまで往復しただろうか。墓参りを口実にして、あちこち観光したが、だんだん体力が持たなくなり、今年は、墓参りばかりである。それでも10年ぶりに玉名ラーメンを食べてきた。
2021.08.29
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植木町 すいかの里 道の駅。ここでお墓にあげる献花を買うことのしている。スイカを探したがいいものがなかったのであきらめた。自宅を10時前に出たので、遅くなったが、お盆を過ぎていたが週末で車は多かったようだ。連休の時大雨になり今年のお盆の帰省もパンデミックの影響で、非常事態宣言が出たりして、どこも自粛していたらしい。やっぱり東京五輪の開催は裏目に出たのではないだろうか。菅政権の目論見は外れたのだろう。それだけ日本経済の思惑も後退せざるを得ないが、もともとオリンピックを食い物にするからだ。 ・スポーツは楽しみだが、それは遊びでありゲームだからでもある。プロが生まれスポーツを営利の目的にするのは、五輪の精神ではない。カネをかけず、営利に走らず、人間の体を愛するやりかたはいくらでもある。メダルをに拘るのはオリンピック精神ではない。大人たちが汚いものにしているj。金メダルもメッキでしかない。 ・へ2・・・社会が汚れているから、人間たちの心も歪むのだろう。純真さの少年たちが増えても来る。勝てば何でもするという。学問が蔑ろにされる。権力は、ついに権威を踏みにじるようになるj。先生たちが学生に尊敬されないで、学生の向上心もない。官僚が権力者の忖度ばかりするようになれば、国家の悲劇になりかねなくなるだろう。
2021.08.29
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少しは脳を活動的にして過ごしたいものだ。まあ思うようにはなかなかだが、その気がある。寒の戻りはあるとしても、眠っている神経を叩き起こして、「休眠打破」しなければならない。何でもリセットしてやり直そう。これからの1クールは、どんなものにするかは自分次第でもある。まあ、嘘のないものにしたい。そう単純ではないが。 ・「無」から「有」を生み出すことはできないだろうか。併し無機質から有機質は生まれたというジャンプがあったのが、ヒトの誕生ではないだろうか。輪廻を断ち切ることが「悟り」であるという。物事の背後にあるのはただ事でないものがあるのではないだろうか。それを見つけねば何事も始まらないかも知れない。それは、何らかの決意が要るのではないだろうか。 ・へ2・・・脳を守ることは、活かすことでしかできない。
2021.08.28
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玉名のラーメン。ひとは狭い世界にいながら、何と考える愉しみがあるのは素晴らしい。どこにいようと他人に拘束されない自由がある。然し、自分でそう思っているだけかも知れないが・・・。それでも、神に似せて創られたという人間が「ネオテニー」だとか、「誤ってできた」だとか。まるで出来損ないの動物のようだ。成る程、思い当たることも多いので寧ろ面白いと思うのは、私が「ネオテニー」だからであろう。指摘される特徴が私の性格のようでもあるからだ。家畜犬にしても、オオカミのまるで幼形成熟だという。愛犬家が多い訳だ。なぜ女性が「赤ちゃんのような男」が好きなのかもわかる気がする。いつか、真夏も過ぎて行くだろう。少し朝晩が涼しくなったようだ。私は、すべてをリセットできたかはわからないが、兎に角やり直しのつもりでいる。勿論解放されている訳ではない。この社会で生きていくのを止める積もりもない。秋がそこまで来ており、夜空の向こうには素敵な明日は待たないが紅葉くらいは見られるだろう。それこそ、「考える」には何とゆたかな世界だろうか。
2021.08.28
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ひとは狭い世界にいながら、何と考える愉しみがあるのは素晴らしい。どこにいようと他人に拘束されない自由がある。然し、自分でそう思っているだけかも知れないが・・・。それでも、神に似せて創られたという人間が「ネオテニー」だとか、「誤ってできた」だとか。まるで出来損ないの動物のようだ。成る程、思い当たることも多いので寧ろ面白いと思うのは、私が「ネオテニー」だからであろう。指摘される特徴が私の性格のようでもあるからだ。家畜犬にしても、オオカミのまるで幼形成熟だという。愛犬家が多い訳だ。なぜ女性が「赤ちゃんのような男」が好きなのかもわかる気がする。いつか、真夏も過ぎて行くだろう。少し朝晩が涼しくなったようだ。私は、すべてをリセットできたかはわからないが、兎に角やり直しのつもりでいる。勿論解放されている訳ではない。この社会で生きていくのを止める積もりもない。秋がそこまで来ており、夜空の向こうには素敵な明日は待たないが紅葉くらいは見られるだろう。それこそ、「考える」には何とゆたかな世界だろうか。
2021.08.28
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生物の多様性は言うまでもないが、生命という営みはルーツをたどれば皆同じ生命の誕生につながっている。宇宙のごみから、またゴミに戻るとすれば、それこそ物質全体に帰結することになる。宇宙の中ではそれは4%に過ぎないと分かったが、これも現代科学が言っていることに過ぎない。もっと宇宙は違う存在かもしれないのだ。或いは変化し続けてもいる。 ・私の存在もやがて死んでいくのであり、遠い未来に形はないのだろうが、何かの粒子くらいにはなっているかもしれない。人は風景を見ているが、風景も見ている。自分も見ているが、自分も見られているというが、それは相手が大きすぎてみえない存在でもあるのだろう。私は猫を見ているが、猫は自分が人間から見られていることを意識はしていないだろう。人間も同じだ。 ・へ2・・・ヒューマンスケールしか知らない人間には、この世界はそれだけの存在でしかないが、それはほんの小さなサイズで見ているに過ぎない。桁の違う宇宙があるということだろう。ミクロやマクロの世界を知らないで生きているが、自分のエリアの中でしかない。それでも宇宙と繋がっていると思うと、自分の存在も違って見えてくる。
2021.08.28
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お盆の時は、ああ雨で交通機関が乱れていたので行けなかったが、やっと今日は家族で出かけられそうだ。それこそドライブを兼ねて、毎年の恒例行事でもある。まだ免許証があるが、運転も半分は妻子がしている。熊本市と玉名市と二か所を周りこれまで、ついでにあちこち観光もしてきたが、今年は、その気分にはならない。恐らく、混んでもいないだろう。 ・思えばパンデミックで、この1年8カ月はアブノーマルな日常を体験してきた。どうら体調うおかしくなってい。2011.3.11.で味わった喪失感もぁる。日本人の未来になにか不吉なものが感じられるからだろうか。毎日のように小さな地震があることもある。2020東京五輪も果たして成功といえるだろうか。日本の政治家たちの振る舞いが気になる。 ・へ2・・・後悔がないといえば嘘だろう。思ったことの何もできなかった。軽蔑されても仕方がないが、それでも悲しくなるわけではない。裁判官に生涯後悔するぞと脅したという組長は、どんな人生だったのだろうか。アウトローにも色々ある。満足も恨みも人間には千差万別だ。誰がいいか悪いかでもない。一年に一度だけどl、墓の前で一年を振り返ってみたい。
2021.08.28
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言語には、社会性がある。継承性、象徴性、分節性、そして恣意性がある。恣意性は個人が自分の意志で自由に使っていることだ。これ社会的・観念的言語である<ランゲ>と個別的・現実的言語である<パロール>がある。後者は音声のこと。戦後言葉が乱れていると言われてきた。女学生が男のようなことばを使うとか、女性語が正しくつかわれていないというような指摘でもある。中世(鎌倉・室町時代)でも<女房詞>というのがあって「群書類従」などでは、宮廷では使われていたそうだ。これらは身分制度が厳しい時代で、女性が蔑視されていた背景がある。男と女の使う言葉が区別された。主従関係にもある。 ・がんじがらめに規制された社会の中で言葉は使われていた。その名残を私たちは日常的に使用している。それが上記のような慣習を生んでもいる。男らしさや女らしさが社会的文化的性のジェンダーでもある。生物学的な性のことではない。講演会のレジュメを引用させて貰うと、以下の記述がある。 「女性が「女ことば」を使うのはそのひとが「女だから」と考えられた。このように、アイデンテイテイをその人にあらかじめ備わている属性のようにとらえて、人はそれぞれの属性のもとづいて言語行為を行うという考えをもつように強制されていた。(本質主義)」。 文学も上記のような流れの中でジェンダーを登場人物のことばとして使って来た。然し最近の女性が男ことばと言われて来たジェンダーの境界を乗り越えきているのは、それだけ男女の境界がなくなりつつある現象ではないだろうか。それはことばが社会性を持つ現われでもある。
2021.08.27
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庶民が起こした戦争ではない。そのために子供たちは殺されている。無知や貧困や、飢餓もある。なぜそういうことになるのか、ひとびとは訳が分からないまま、死ななければならないとしたら、なんと悲しい現実だろうか。そういう目に自分がならないとも限らない。超エリートの自殺だってある。腐ったほうが負けなのだろうか。全てが必ずしも自分の思うようにならないのが現実でもある。 ・広島の原爆投下は、練りに練ってなされた作戦であった。殺す側と殺される側の立場が裏表である。アメリカの民主主義とは自分たちのためのものでしかない。他国を踏み躙るのは許されるのだ。焼夷弾で火災を起こせば火あぶりとおなじだ。続けられている戦争で、中東の子供たちの心も歪んできているのではないだろうか。それが世界を不幸にする原因になるかもしれない。 ・へ2・・・何かが起きるがそれは、そうなるための歴史の集積でもあるだろう。ひとびとは自分たちの冒している数々の罪に気付かないでいる。イスラエルは、自分たちの民族が生き残ることしか考えていない。それは危険な考えだ。もしより強い敵に遭遇すれば、自分たちが滅ぼされてしまうからだ。自愛だけでは生きていけないことを知るべきだ。
2021.08.27
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ホーリー・トリニティ教会。自分らしく生きること、そして自分に相応しく生きて死ぬこと。それほど身近に死を感じている訳ではないが。こうして、朝起きて、朝食の準備ができて、自分の目標にしている自己管理に記載する数値目標が達成できていると鳥渡達成感もある。そして、睡眠も充分取れたし、何とか平穏に一日がスタートできそうだという。そうした感情が好きだ。ここまでこれたこととか、今年を越えて、来年を迎えられそうだという感謝もある。何とか今年も病院通いは、昨日で最後になり、来年また早々に行くことになったが。 ・その悦びをどれだけつたえられているだろうか。歪んだ心が内在していない訳ではない企みのある社会で活きている。向かうところがどんな世界だろうか。それ次第でもある。この時代というのは、ある軌跡の中の瞬間でしかない。私たちは知っている。今という時間の刹那でしかないことを。 ・へ2・・・自分の時間は他人には視えているようで、みえてはいない。窓をかけていても風くらいしか入ってはこない。自分の耕した畑に花を咲かせるしかない。アプリボワゼ。自分の記憶の磐に刻んだ夢のつづきを思い浮かべるだけでもいい。 人間には可視光線しか見えていない。それ以外光線はいくつもあるが人の目には見えない。科学の目でがそれを見れるようになったが、まだ見ることのできないものが96%も宇宙に溢れている。 科学者たちの翻訳なしには庶民には理解することもできないことばかりだが、それでも精一杯、この世界を知ろうとする意欲だけはある。太古からこれまでそのための並々ならない努力がされて知る21世紀の科学がある。人体実験ではないが、知識の集積があって初めてサイエンスもある。振り回されている日本の科学者たちは自分たちの愚かさを反省すべきだ。そして出直すべきだろう。功を焦り過ぎる人たちの尻を追うべきではない。真の科学とは何か思い出すべきだ。
2021.08.27
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ミヤコドリ。ひとは勝手なことをいう。だから時々お灸も据えられる。そんなに熱いなら止めたらと婆ちゃんに言ったら、それがいいのだといわれた。男のような体をしていたが、激しい肉体労働で体中を痛めていたようだ。腰が曲がり、苦しそうでもあった。そこまでやらなくてもと思ったものだが、働き者は死ぬまで傷めた体に苦しんでいた。 ・母は、床ずれになり、痛がっていたが、最期は穏やかな顔をして死んだ。脳からごくろうさまの脳内ホルモンが出るらしい。そこまで自分もかんばれるだろうかとその時思った。天から阿弥陀如来がその時迎えに来るという絵画があるらしい。貴族たちの信仰だった仏教が、大衆のものになったのは、字が読めなくても極楽へ行けるという信仰からだった。 ・へ2・・・そういえば中世のキリスト教徒も、ほとんどの人が聖書さえ読めなかったという。それでも熱心な信仰ができたのは、信じる心があったからだろう。声聞弟子ということばが仏教にもある。国家権力にすり寄って、仏教もひとびとの心を捉まえることが出来なくなったのだろう。つい、虫のいいことをしようとする。その時は誤魔化せても長続きはしない。
2021.08.27
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哀しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなる。無意識に動いている感情が身体に表現されている。自分の性質を自分で勘違いして、思い込みがある。自分は弱い人間だと思っている人が本当は太い神経だったりする。思いもよらないことが世の中にはよくある。その場に連れていく自分のモードをコントロールすることは重要でもある。脳と身体は一体ではなく必ずしもコントロールされてはいない。エイリアンハンドもあるくらいだ。 ・ウオーキングを始めて、脳と身体が違うことに気付いた。気紛れな性格だが、身体が歩けという。もう止めようという脳に対して、身体が動いている。末梢神経が鈍くなりかけれいたが、歩くようになって改善したし、色々からだの変化があったようだ。悪くではないのは、これまでが間違っていたのだろう。加齢はどうしようもないが、身体を動かすことは遣ればできるものがある。それが大事なのだろう。知識は増えたが人間の体は動かなくなり、その分病気も増えたのだ。他人に頼って知識を得ていたが、自分の見識にはならない。 ・へ2・・・どこまで自覚的に行動できるだろうか。モードを切り替えられるかだ。脳と身体を一致させられるか。どれはできない相談なのだろう。それでも脳内ホルモンを出させて楽しく生きることが長生きできるコツではないだろうか。ここまでウオーキングを続けられたのもモードの切り替えができたからだろう。一つのモードのキーばかり叩いていては長続きできない。自分の心の窓から見えるものは、そこまで移動させないと見えないかも知れない。
2021.08.27
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「城のある町にて」・非人情。高いところから見る。・梶井のユーモア。・気持ちをモノにする。表現できるか。深刻なものほど滑稽である。・死なれた妹のことを書いているのに滑稽に書く。・妹の死が背景にある。・人間でなく虫で表現する。比喩で表現する。・鮮烈さ。イメージ。・昼と夜。昼の顔、夜の顔。・三島好みの作品。・梶井・・・子供に還ることで洗浄になる。自然に同化しようとする。・洗濯する女性・・・水がこぼれる・・・少年のころを思い出す。・絵画風に描かれている。・太宰治「葉」。構成法は太宰好み。・死んだ妹のことを書こうとしたのに、書かない。死の反照としての生を書いている。妹の死が潜伏している。・気付かないように書いている。もともと作家は、手の内を見せようとしない。・「太郎と街」・「そして彼は心が清く洗われるのを感じた」。観念ではなく、レトリック。・漱石「文鳥」のパクリ。「チン、チン」「チン、チン」という音で表現する。・康成「伊豆の踊り子」のイメージがある。少女が真っ裸で飛び出してくる。・「舞姫」鴎外。黄なる面。差別される民。差別される踊り子。・梶井は川端を読んでいた。川端的に書いている。相互に影響された。レトリックの感化しあった作品でもある。・信子の手の傷。・聴覚表現。・断片的に書いている。ストーリー性はない。一面、一面を描いている。若さとは何と厄介なステージだろう。自分で傷付いてしまう。傲慢でナイーブで柔らかすぎて壊れ易い。爆弾を抱えているようで、 遣りきれない。 そして深刻な問題ほどこっけいさをはらんでいる。
2021.08.27
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寝ることと食べることが脳を最大限に引き出す重要なポイントである。「サーカディアンリズム」と呼ばれる生体時計からの命令でリズムを刻んでいる。最低体温で目覚め、最高体温に達すると眠くなる。長年の習慣で生体時計のベースは昼間起きていて、夜寝るようにできている。いちばん目が覚めているのは午前10時から12時までくらいで、14時くらいには眠くもなる。交通事故等もこの時間帯に多いようだ。メラトニンは、覚醒14~16時間後に出てくるホルモンで睡眠に関連しており、抗酸化作用、リズム調整作用、性的成熟の抑制作用がある。老化を防ぐこと、抗がん作用があるとされ、眠気をもたらすはたらきがある。 ・高齢者で日中の受光量が増えると、夜間のメラトニン分泌が増えて、睡眠の質が改善したという研究があるようだ。メラトニンは目覚めて、14~16時間後に暗くならないと出てこないので、夜になっても明るくしておくと、すとんと分泌量が減るのだという。朝の光も重要な意味をもっている。朝の光の中にセロトニンのはたらきを高める作用があり、精神を安定させるという。セロトニンは、こころを穏やかにする神経伝達物質でもある。 ・へ2・・・夜遅くまで起きていることや、朝の光を浴びないことが、健康に良くないことくらいは一般的な常識だろうが、それが脳にどれだけの影響があり、やがてホルモンにダメージを与えて、それが<がん>を発症させるスイッチを入れることにもなる。どうしても、そういう生活をしなけれならない人がいるかも知れないが、これにも対抗策はあるに違いない。どうしたら、よりよい環境をつくれるのか、その努力を最低限はすべきなのだろう。自業自得では始まらないのではないだろうか、そう自戒をこめておもっている。
2021.08.27
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文化レベルの端的な形態は、老人が尊重されているか、がある。日本には姥捨て山という悪しき歴史があり、また人の命は軽く扱われた。西欧でも人命権をカネで買ったりしたし、それこそ人権が叫ばれたのはそうではなかったからでもある。敬老と言いながら、果たして老人たちは尊敬されているだろうか。自殺が多いのは老人でもある。生活ができなくなり、見捨てられた老人たちがいる。経済が厳しくなると先ず弱いものたちが、そのしわ寄せを受ける。 ・声なき声と言われたが、我慢強い老人たちが黙って耐えていることを忘れてはならない。自分が一番に福祉を受けなければならないと言わないからだ。誰も自分が生活が苦しいと言わないのだ。そんな風通しのいい社会でもない。他人から侮れまいとする気持ちがある。軽蔑されたくはないのだ。 ・へ2・・・この社会は健康な人たちで形成された社会であり、それは弱者でもない。思いやる気持ちは、自分で経験しないと解からないことが多い。恵まれた環境で、優秀な才能をひけらかすエリートたちが、老人たちの心の奥まで解からないことはあるに違いない。
2021.08.27
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和白干潟。 大谷翔平が41号を久しぶりに打ちましたね。明日は、墓参りで熊本に家族で出かけるつもりですj。生物は、内と外との境界を次第に変えながら、自分自身を変えてゆくシステムを持っている。発生の初期のステップでは、細胞分裂をさせ内側を膨張させる活動で外に向かうシステムを取る。やがて膨張が止まり最期は、必ず自己崩壊して死ぬ。これは外からの指令や命令がなくても、個体は勝手に成長し、勝手に死んでいる。就中生物の根幹でもある。その形質の1クールの空間を生物と呼ぶ。オートポイエティック・システムを生命発生から絶対に手離さずに遺伝させて来ているのが、生命の由来でもある。
2021.08.27
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「うそつき進化論」の中の「ソーシャル・ポーカー」 あなたの顔・・・は、一冊の本のようなもの。 人はそこから異様なことを 読み取ってしまうかもしれません。 (シェイクスピア「マクベス」)「心はその持ち主が子孫を残す可能性を少しでも高めようと努力している。自己欺瞞は多くの場合、生存競争を勝ち抜く為に役立っている。自分が自分の心にだまされて暮らしていると考えなければならないとしたら、私たちはどうしようもなく不安になるのも当然だろう」「意識という鏡は、目に心地よい像を映して私たちの注意を引きつけおき、無意識にこっそり自分の利益になるように人間関係を操るに任せる。そうすれば私たちが良心の疼きや罪悪感に煩わされることはない」から。ニコラス・ハンフリーは、社会の中の人と人との関わり合いを「チェスゲーム」に喩えている。どちらも相手を出し抜く為にどのような策略を用いるかによって進み方が決まる。私たちの人生をかけて、この社会的「ゲーム」に臨んでもいる。奇妙なことにこのゲームは、私たち自身が参加していることに気付いていないとき、もっともうまく進むようにできている。なんて皮肉なんだ。男も女も、一番美しく輝く時には岩蔭に隠れていて、段々夢が破れてゆくころにそこから出てくる。 ひとの顔は、こころの鏡のようにあるだろう。
2021.08.26
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ゴールデンロック人びとが日本文学を愛さなくなったのは何故だろうか。学生が、文学部離れを始めたのはいまに始まったことではない。殊に国文は、女性の牙城になり、そして芥川賞など、女性の進出が久しい。公立大学の文学部としても珍しい存在であったが、それも怪しくなった。文学部の公開講座も無くなってしまった。日本文学は日本の文化であり、それを棄てることでもある。 ・大学も留学生を受け入れ、国文は片隅に追いやられた。名物文学講座も消えた。福岡県内の殆どの大学の公開講座を受けている猛者のひとの話では、名実ともに最高の講座という評価をしていた。それが無くなるのは寂しい。 ・へ2・・・訳のわからない文学が、横行している。日本文学が、世界的なメジャーに為れないのは、そのスケールにあるのではないだろうか。世界の共感をえるための人間性の深度の問題があるのではないだろうか。思想の深さでもある。何が間違っていたのだろうか。日本人は日本語を失うのだろうか。ことばは文化であり、それは自分の文化を喪うことだ。それは生き残るためのコストだろうか。考えなければならない。
2021.08.26
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何度も繰り返しながら、その違いを感じなければ意味がない。何度「真剣さ」を言いながらも、その時々で意味も違うこと知らねばならない。同じであって同じではない。それだから「新鮮さ」も違う。真剣らしく書いても、真剣さが無い時がある。ことばだけで言行一致していない。自分でなければその「真剣さ」が違いが解からない。それを教えてくれるのが日々のモリタリングしている自己管理の数値だろう。自分を甘やかしてしまう利己的な遺伝子がある。 ・聖書を甘く見てはならない。それは人間の長い歴史の智慧があるからだ。それは積み上げられ蓄積されたものだ。単なる個人のものではない。凡人はすぐに日常の中で真剣さや、新鮮さを見失う。リセットして、修正しなければそれこそ東北関東大震災の巨大津波の乗り越えてきた(過去の津波を前提に造られた)虚妄の堤防でしかない。狭い視野の学者のいうことを信じた報いでもあるだろう。 ・へ2・・・戦後造られた原発を安易に利用していた側にも問題がある。初めて起きた原発事故ではない。過信がすべてを台無しにもする。東京電力はそのために瓦解しようとしている。それだけではない日本の原発の関係者も消される運命だ。そして政府も国民も失うものは小さくはない。ダムにできた亀裂は、致命傷にもなる。核を甘く見た証拠だからだ。
2021.08.26
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「不生不滅」も「不垢不浄」も、一般的な常識から言えば間違いとしか言いようがないが、視点を換えれば、必ずしもそうとばかりは言えない。すべては正しいといえるだろう。正しいがそればかりではない。現実社会では、「正」と、そうでないものと区別しなければ社会は成り立たないためでもある。小石を集めて行けば、すぐに小さな山もできるし、毎日歩いて、一日の歩数を積算していけば、一生の裡にどれだけ歩くことになるか解らない。 ・一つのことを追及していけば、色んなものにぶつかる。理解できることが理解できるに過ぎないが、それでも面白い。自分の一日の食事と排泄をドラスティックに数ヶ月でも調査したら、何かが解かるだろう。解かるにはそれだけの知識も必要だが。何を遣るかでもある。徒に視えることが徒ではなく、利益に視えるものが徒なことはよくある。自分の一日の血圧や血糖を測定し、それを毎日続けることが、現在の自分の健康状態を知ることになるが、それがすべてのひとに必要なのではないだけだ。 ・へ2・・・悟りたい訳ではないが、なぜ「観自在」なのだろうと思ったのがきっかけだ。突き詰めていけば世界観があり、宇宙観もある。一概に正しくないとは言えない。そこには人が考えた証拠がある。私にも私の思慮がある。一つのことを遣り通すことは難しいことだ。たいていショートしてしまう。
2021.08.26
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<作品>「光と風と夢」・代表作。芥川賞候補。落選した理由が解からない。当時の軍国主義の雰囲気があった。・賛否の分かれる作品。・吉田健一は高い評価。・第十五回芥川賞選評では、川端と室生が賞賛したが、他の委員が評価しなかった。横光は触れてもいない。時代背景と、作品には斬新さがある。・平凡な日常を描いており、面白くない。散漫で焦点が定まらないとの厳しい評価があるが、小説とは事件ばかりを扱っているわけではない。描き方次第。殺人や突拍子もないことだけが小説ではない。皮相ではなく、その深さにある。視点の面白さ。斬新さである。・中村光夫は、「欠点があって、否定的なものでも、却って長所にもなる」と言った。時局に受け入れられない。作品は、300ページに及ぶ長編の作品であり、当然散漫な部分もあり、新しい形式が受け入れられなかった。・川端は流石に鋭い視点で「受賞しないのは訳が解からないと評した。横光は、その反対。・中島は、英文学に進むと思われていた人物で、英語にも漢文にも通じていた。何故そうしなかったのか。時代がそれを許さないと思ったのだろうか。時代の身に迫るものが臆病にしたのだろうか。それが挫折するエリートを描いている。皮肉。・吉田は、漱石、鴎外に次ぐ作家として中島を評価した。・翻訳英語は、スラスラと読める日本語になっている。・英語や中国語を理解できる能力に優れている作家は、日本の作家には、そうはいない。・「文学は文章」である。・「文学と筋」についての議論があり、芥川と谷崎の間で論争があった。芥川は、筋(ストーリー)は要らない。その後自殺した。・谷崎は、小説は筋(ストーリー)である。・この作品の結末の描写で、鴎外の「阿部一族」最後の切腹の前に、「風鈴が鳴り」、「ヤンマが一匹とまっている」など、連想させるものがある。・この作品に初めに、友人の父の死の描写があるが、カフカの作品のような箇所がある。・無名の人の死と有名な作家の死が同等に書かれている。上下の関係ではない。フレームが最初からできており、それが最後の描写のフレームに繋がっている。
2021.08.26
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・「山月記」の李徴にも通じている。・作家としてではなく、生活者としても描かれ両方を中島敦は書きたかったのではないか。・ありのままを、それこそ小説(ストーリー)にならないものを敢えて小説にしようとしたのではないか。どうでもいいようなことを書いている。それが寧ろ小説ではないか。・散漫になっているのは、敢えてそうしているのではないか。・ムダなものが、むしろ必要である。・300枚も書いたのは、それが欠点であるが長所にもなる。判ってそれを書いている。中島の狙いはそこにある。・欠点になることを敢えて書いている。それが長所になることもあると言いたいのではないか。・退屈のように視えてそうではない。それが日常でもある。・当時の日本人で欧米人を理解できる作家だった。・題名は当初「タンタラの死」。語り部。著名な語り部として。・「光と風と夢」の題名に付いて、出版社から変更を勧められた中島は、納得していたかどうか分からない。・触れている箇所は一箇所しかない。「明るい光と風の中に」・作品を短縮したのは時局もある。(昭和15年に書かれた)。芥川賞どころではなかった。・その頃何故こんな作品を書いたのか。・国策に副わないとも言えない。当時の空気のようなもの。当時の人でなければ解らない正直な感想もある。・この作品と時局の問題は、未解決のままで、いつまでもおそらく解らないだろう。・安岡章太郎。・当時の流行の「告白」を漱石、鴎外、中島は嫌った。資料を重視した。・作家ステーブンスンに託して中島の想いを書いている。そこが魅力にもなる。客観的に書いては面白くない。・「李徴」の中にも中島の想いが表現されている。中島の小説に対する思いを書いている。・名を為しと思いながら想いを遂げることができない。・芸術家と市民の意識の違い。・「山月記」李徴。・ディケンズとフローベルの違い。・作家と一般人。一般人がもっと大人である。・中島の中にも、作家よりも一般人が大人という考えがある。・作家として作家を書くだけでは買う、島民の姿を同等に書く。・人間の苦悩。・余分なものも敢えて書く。・一人の人間の顔を色んな角度から描く。・文学・・・ふつうのこと。一般人のことを書く。・年々年をとると愚かになる。不安の様子。・中島は自分のことかスティーブンスンのことか解らなくなっているところがある。・「牛肉と馬鈴薯」 「死を驚けない」・道・・・比喩、象徴的表現として。・「熱帯の白い道」・中島の頭の中に「鴎外」いた。・吾は誰か。・ドッペルゲンゲル・仮面から素面になって書いている。その瞬間、欠点が美点にもなる。・自己否定。これから書くものが重要。過去の作品はどうでもよい。自分の過去を否定したくなる。・「檸檬」調和が治まらなくなり爆発する。「虎になる」。・最後に「阿部一族」のさわりを遣っている。・作家の死で終わっていない。「終わりは始まり」死はおさまりがつかない。「細雪」ゆきこの下痢で終わる。結末で、終わらせたくない。穏やかに終わらせたくない感情がある。・「死と生」・単純には読めない。フレームが最初と最後にある。
2021.08.26
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どうも一番幸せの時は知らない間に過ぎるものらしい。気付かない内が華なのかも知らない。痛くも痒くもない健やかな瞬間には無頓着で鈍感で平気のままだ。一番輝いている時自分ではそれと気付かずにいる。それだから余計に美しいのであろう。他人を恨んだりするのは苦悩し、苦痛を感じるからだろう。差別されたり、搾取されたり、酷い目に遇って、心が捩れてくる。誰も好きな異性と結ばれる訳ではない。寧ろ大抵騙し騙される。強い者が何時も勝つとは限らないがいつも好きな女を手に入れてしまう。利己的な遺伝子がそうさせる。生物は移動して死ぬ。より住み易い地を求めて止まない。言葉が真意を伝えるのには時間が掛かるものだ。若い内は何時もそうである。
2021.08.26
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