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夕陽の中に 時刻がたてば何時とはなく 忘られて行くみにくさである だが・・・ 夕べの空がひととき茜に燃ると 青葉の中に揉み入りたいような 衝動が起きて来る ああ・・・ 今はなべてのものから引はなされ ひたすらにあらむとする みにくさである ~或る病者のうたえる~ハンセン病患者の記録である「近現代日本ハンセン病問題資料集成<戦後編>第4巻」の中で見つけた。迂闊にも最初「みにくさ」とあるのを「たみくさ」と読んでしまっていた。たんに患者の感慨なのだろうと思ったのだ。そして、ふと字面を読み直して、「みにくさ」と書かれているのに気付き、ショックを覚えた。ひとりの詩人のふかい悲哀を、唯、素通りしてしまおうとしていた自分の愚かさにに愕然とした。恐らく、私も含めて、患者以外のひとには、その耐え難い苦悩に耐えられず、こころの目を閉じてしまうのだろう。人間は、それを耐え抜いたひとだけが得られるこころの輝きがあるに違いない。それは、凡人には、覗き見ることの出来ない「世界」でもあるだろう。
2021.05.31
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ワルザザートのホテル。西田は「経験するというのは事実其儘に知るの意である」という。「善の研究」をそのまま読もうとしたが、一歩後退して解説書を読むことにした。西田は、かって果敢に自己を西欧思想に解放しようとしたが、西欧の思想家たちは、東洋思想の中にはいって来ようとしない。ハイデッガーもふくめて、自国の哲学的伝統から自由になって、東洋思想の深淵に真剣に踏み込もうとしないのは、これは何れ世界の不幸に繋がるのではないだろうか。この世界が、偏頗な構造であることは認めざるを得ない。それは、われわれの常識の直観が物事を分析するやりかたというものは非常にひとを誤りやすくしていることであろう。直接真実を知ろうと探究者が「原書」を読もうとしても正しい理解をするだけの能力がない場合が多いだろう。間違った翻訳書を読んでも原書の理解にはならない。正しい「置き換え」や「翻訳」ができないと誤るだろう。まさに、西欧と東洋の思想は、その哲学の現場で凍結されたままなのではないか。私たちは、ある焦燥感に悩まされ続けている。それは、共存しなければ生き残れないという命題を抱えていることだ。西欧や東洋を無視しては、これから何も成立しないという、現実があるだろう。
2021.05.31
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どこからでも批判はできる。もともとそんなに立派でもないのが私たちの住む社会だ。教育にしろ、医療にしろ、問題はいくつもある。それをどう改善しようとしているだろうか?多くは困難なものばかりだ。解決する能力があるだろうか?問題をアウフペーベンしているものが誰かによって違うだろう。動かすものが、ご都合主義であれば、恣意的なものになる。それが国家権力だからといって、決して正義とは限らない。教育も医療も、そして政治であれば尚更、人も、物も時間もかかることばかりだろう。少しづつであればみえるものもあるし、触ることもできるかも知れないが、横に広がると見失うものだ。巨大化して、ことが大きくなり過ぎると「自己責任」にされがちだ。生活習慣病がそうだろう。大きな問題にしたのは、基本的な教育や医療に対する政治の貧困だ。一見リべラルなアメリカ人の中流社会の家庭に見られる権威主義的パーソナリティの特徴が、刺激的で面白い。(Th.アドルノ他「権威主義的パーソナリティ」)キレイなものだけが生き残る世界にしようとするのではないか。人間たちがもしそう思うのだとしたら、やがて、未来への選択肢をますます狭めてくるに相違ない。そして、「ノーチョイス」になるだろう。その傾向が、エリート社会にはみられるのではないか。ひとびとを囲い込もうとする企みが始まっている。彼らは棄てるしか知らない。ゴミは消去しようとするだろう。誰も痛みを感じないようにすればいい。アンケート調査が意味するものは最大公約数の人間の意識の調査でしかない。人間たちは、物扱いされようとしているのではないか、と思う。限界まで。準拠枠の中でしかない。そのうち選択を誤るのだ。なんでもない詰まらないことで。迷っている間に時は過ぎてしまう。いつも。こうしてここにいることも、それほどうまくやったのではなく、失敗の連続でしかなく。挫折の成れの果て。それを言い繕うとする。うまくいくはずがない人生でしかない。
2021.05.31
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RNA合成はDNA上のプロモーターから始まり、termination signal で終わる。一連の活動の終結シグナルは、どのように発現するのか。それは難しい課題でもある。自分でなければ分からない微妙なからだの働きをどう理解しているかだろう。自律神経まで把握しているわけでもないし、採血や検尿して初めて知る免疫の状態もある。何と暢気に暮らしているだろうか。 ・中島敦の「風物抄」は、彼が赴任した当時の南洋の植民地での巡回の様子を書いているようだ。当時、官吏たちが島民に接していたかが書かれている。どのように観察した旅行記でもある。知らない土地で、自分がどのように感じたのか、それは底が浅く感違いが多いのだ。観察は、絵日記に過ぎない。 ・へ2・・・ヒトの人生も1クールに過ぎない。終結シグナルがあれば一生も終りになる。自分の暮らしに精一杯で、他人のことまで手が回らない。脚光を浴びるから輝いて見えるのであり、それが無くなれば、色褪せても来る。只の人になるというのは、意外としんどい。大衆という名の多くの人たちはそれに耐えている。
2021.05.31
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ワルザザートのホテル。生まれて、肺呼吸をしたときから人生の旅は始まるが、やがて自分を発見し、それからどれだけ視野を拡げられるかでもある。昨夜のダークマタ-の話は面白いと思った。雑誌のニュートンを読んでいたが、ひとは、次々に新しい発見をしながら、ここまで来たという感じがする。それは個人としての自分だけの世界ではなく、類的存在としてヒトの進化のことでもある。この世で起きている事のほんの僅かのスペースしか知らないが、それでも21世紀に生きている恩恵を感じる。 ・ひとは物質を発見し続けてきたが、それでもまだほんの一部しか知っていないことを改めて思った。ダークマタ-という星間物質は光学的に観測できないだけでしかない。それと同じように、この社会には、自力で光っていないだけで存在している多くのものがある。それが、あって成り立っている世界であるのかもしれないからだ。まだ未知のものが溢れているのだから、知らねばならないことはある。 ・へ2・・・人は、人生で何を発見できるかでもある。それは考えるのを止めてしまえば終わる。終わりたい人もいるかもしれないが、私にとっての新しい発見は、人生そのものでもあるだろう。ダークマタ-の存在まで、自分の脳をつれていけるかだ。今朝の福岡市の気温は22℃になっている。放射冷却もあるのだろう。秋めいてきた。本当に自分にとって価値ある一日にできるかだ。
2021.05.31
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僅かな個人の幸運はあるとしても他に楽しむことと言えば、それほどあるわけでもない。だから楽しめることは大切にしたいと思う。ネガテッブ・マインドに負けないために、生きる知恵が必要だ。自分なりの真の楽しみのためには、マイロードがなければならない。個人の受容体には、自分しか開けられないカギがあるのだろう。そのメカニズムを知らねばならない。それが現代という時代に生きるものが知った得難い知識でもあるのだろうと思う。 ・過去の人は、現代を見ることができずに散っていったのであり、私たちは大いなる恩恵の中で生きているというべきだろう。そして、未来に憧れてもいる。限られた時間の中で、この光を楽しむかけがえのない瞬間を喜ばずして、何をかいわんやであろう。どれだけ苦しみながら他人は生きているのだろうか。それは想像することしか知りえない。その人も喜怒哀楽はそのひとのものだからだ。苦しみや怒りの中から、ひとはより深く、喜びや楽しみを得るのだろう。易々と生きる者にはその感動を知ることはない。世の中をして軽佻浮薄であるものはそれだけの世の中である。 ・へ2・・・自然を深く愛する者は、より深く喜びを味わうのではないだろうか。苦労したものには、深い眠りがあり、深い水底を蹴って、水面高く、飛び上がることができるに違いない。深い悩みは、人間をより思慮深くする。
2021.05.31
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ワルザザートのホテル。山東京伝「優曇華物語」の随所の「趣向」を弟子の曲亭馬琴「南総里見八犬伝」が如何に換骨奪胎したか。・馬琴の勧善懲悪批判に焦点を当てた文学史に就いて。・「小説神髄」や鴎外、露伴、芥川、安吾、漱石からの視点。(馬琴の勧善懲悪)をどのようにとらえていたのか?・レジュメによって、いくつかの文章を紹介された。・逍遥は馬琴に嵌まっていた。・鴎外の馬琴観。・露伴の馬琴観。・龍之介の馬琴観。そのまま肯定していない。・安吾の勧善懲悪批判。・漱石の馬琴観。漱石の勧善懲悪に対する考え方は、明治以前のそれとは異なっている。その作家の持つその人の勧善懲悪であって世間と違うものがあって当然だと言う。自分の良心に恥ずかしぬ様に勧善懲悪をやりたい。・大正5年。アイシュタインの相対性理論について寺田寅彦が、漱石の家で説明して聴かせたらしいが、「先生には解らないだろう」寅彦はいったという。漱石は、理系の頭をしていたが解らなかっただろうとのこと。・梶井も理系の頭だった。だから漱石も梶井も緻密なところがある。・漢文にも数学的なところがあり、それは両者ともよく理解できたのではないだろうか。・鳩山元首相も工学出身。・善悪をいうのは人間だけである。自然界にはない。勝手な世界観でもある。・to be or not to be that is question.
2021.05.31
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ワルザザートのホテル。何がフレキシブルなのかは、かなり厄介だろう。他人を客観的に評価できるのも相当なキャリアが要る。どれだけ多くの経験をしようと学習をしようと、社会的事実を理解できないものは理解できないに違いない。学歴でも知能でもない。小鳥を卵から育てたことのある人は、小鳥が初めて巣から離れたとまり木まで飛ぶのをみて、驚嘆したであろう。 うまれてすぐに、何の経験もなくても、小鳥は空間を認識し運動の経過を予見している。知的動物である人間には、長い成長の過程で、欠落した多くの感性があるに相違ない。だがその代わりにフレキシブルな思考が進化を齎している。然し、これは、遣うか遣わないかの問題でもあるだろう。固定観念が、やがて自分の存在を深みに沈めてしまうことを思い知るだろうそうしないためには、どうすべきであるかは、自己責任の時代では個人の問題でしかない。簡単に絶望してしまうべきではない。ひとには生まれつき生き残るためのフレキシブルな能力があるのだ。
2021.05.31
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ワルザザートのホテル。規範的家族が、漸次社会の変動で揺らぎ出してかなり時間の経過があるが、それは中々目に見える容ではない。OCWも本格的に稼動し始めたようだ。どうやらその兆しが見えている。あとは津波のように、荒波を受けることになる。おそらく、たいていのことは理解できるだろう。それは、多くは出す側により多くの負担になるが、それはまだそういう時代でしかないから仕方がないだろう。寧ろ研究者が、これまで怠惰であったのだ。Creer des liens ?だってそうだろう。狭い井底の蛙でいるから、いつまでも通説としての翻訳ができないのであろう。人間の脳の知的能力を一番強く妨害しているのは人間自身だ。真実を懼れるから間違いを取り返しのつかない高みにまで押し上げてしまう。無知を恥じることはない。無知なのは個人だけの責任ではないだろう。教育者も責任があるだろう。分かる奴に分かれば良いというのは、それこそ莫迦でもできることではないか。我輩とか、余は、とか言っていた時代と少しも変わらない。それこそ、中学生でも分かるように講義すればいいのだ。専門用語でしか説明のできないことなどそれこそこの世の中にそうあるとは思えない。陪審制度も、一般人が判決するとなれば、専門用語だけでは通用しない。研究者が下りていくのではない。寧ろその逆だろう。研究者が現実を知ることになる。
2021.05.31
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ワルザザートのホテル。事象は過ぎ去るものである。賢人はそのことを教えている。どんな小さな夢も、大きな夢もそれは破れるのだろう。夢もイメージでしかなく、それは沸き立つ泡でもある。ひとも風景も何れは消える。あのいつも若々しい生気もすべてを枯らす時が来るのだ。この世は信じられないことばかりある。どんな一生も、やがて最後の一年になり、ひと月になり、一日になって終るのだろう。 ・四馬の譬えのように、わかるものにはわかる。ひとの抱く夢は破れるのだろう。それが破れないとしたら夢ではないのだ。夢を勘違いしてしまうからだ。本当は、ひとはリアルを知らないのだろう。自分の世界を見ているに過ぎない。それは脳が創っている幻影でしかない。やがてヘイフリックの限界がある。 ・へ2・・・これまで、どれだけ懐かしい人たちと別れただろうか。人と出会いそして別れていかなければならない。みんなそのことを知っているが、見ようとはしない。逢えない悲しみを味わいたいとは思わないからだ。それは自分の体の一部が消えていくような悲しみでもある。白髪になっていく自分の顔など見たくはない。次々に夢を創り出しそれを追いかけるだけだ。
2021.05.31
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カスバ街道。寺子屋は近世になって生まれた初等教育である。近世は、謂わば寺小屋時代といえる。状況は違うが学ぶ姿勢は変わらない。今まで、「KEIO-OCW」 の政治学講義一覧を観ていた。メモより・「権威をたたえ、それに服従しようとする。しかし同時に彼は、自ら権威であろうと願い他のものを服従させようと願う」 SM的権威主義。・宗教改革は、「人間に対する教会の支配を排除したのではなく、寧ろ従来のものと別の形態による支配に代えただけだ。」 ( ウェーバー )・戦争で人殺しを楽しむ者と、われわれとの道徳心に大きな開きがあるという考えは「正常」という概念を支える幻想に過ぎない。虐待された子どもは、虐待する親になる。残虐行為を減らすためには、暴力に埋もれた叫び声に耳を傾けることのできるようにならねばならない。戦争という盲目的な儀礼から抜け出す唯一の方法は、怒りの代わりに悲しみを学ぶことである。 (サム・キーンより)・「他者の悲しみにやさしい文化を創らねば、平和はない。」(野田正彰より)・「ある人は、他の人々が彼に対し臣民たる態度をとるがゆえに王である。ところが彼らは彼が王であるがゆえに自分たちは臣民であると信じている。」(資本論より)・「紛争こそは、政治の本質である。政治に従事する人びとは、皆一律の闘争に従事している。弾丸の戦いでない場合にも投票の戦いに、軍隊の戦いでない場合にも修辞の戦いに、戦略の戦いでない場合にも説得の戦いに従事しているのだ。」(丸山真男「政治の世界」)
2021.05.31
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ワルザザートのホテル。今から100年前、科学者たちは数学と物理学に基づいて、この世界をより精密に記述できるものと期待していた。しかし20世紀の初めの20年間でこの希望は打ち砕かれた。物理系を記述する精度にも限界がることを示した。探れば探るほど、われわれの科学的世界観は曖昧さという土壌に根ざしていることが明らかになってくる。 ・有名な量子力学の不確定性とは、たとえば電子などの位置と速度とを、同時に、任意の精度で測定できないことをしめている。こうして、完全な記述という概念そのものが、決して実現できない幻想だということが明らかになった。解らないことが分かったのでは科学ではない。現実世界の押し付けでしかないからだ。 ・生まれてからいつも新鮮な感動を受けている訳ではない。その反対のようがずっと多い人生には違いない。それでもめげないでいられるのは、その感動があるからでもある。どうしようもなくなったとき、なにか救われる思いがしたことは何度もある。不思議とそういう思いに連れて行くものが自分の中にあったのかも知れない。それは無意識にそうしていたのではないだろうか。何か海を見たくなるとか、花を見たくなるとか、そのひとによってちがうのだろうが、なにかそういうものが力をくれる。ネガティブ・マインドになろうとしたとき、脳がそうさせてくれるのかも知れない。
2021.05.31
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渡辺洋三の「憲法問題の考え方」という読んでいるが、「あとがき」によれば、1967年1月とあるから、早や48年間を経過したわけだが、指摘は正鵠を得たものだと思う。優れた学者の見識は、48年経っても色褪せない。降って湧いたような議論ではない。これこそ憲法問題の所在を、広く一般市民に訴えたいという学者の念願に沿うものなのだろう。 私が大学の公開講座に関心をもったのが、最初の講座を受講してからだ。その時の講座の素晴らしさは、眠い目を一瞬にして開かせる感動だった。講座名は「機械文明の中の人間」だった。以前にも紹介したが、分子生物学がこれから注目されるだろうといわれた。まさにその通りになった。DNAやMRNAの話をされたが、先見性のある話だったと思う。そのことを、思い出している。 現在のメディアで、真面目な憲法論議がされているだろうか。アメリカナイズされた市場経済の論理だけが席捲しているのではないだろうか。御用学者たちを払拭してまともな議論のできる研究者はいなくなっただろうか。まことに情けない事態ではないだろうか。働き手のいない農地が泣いているのではないか。基本的人権の抑圧が始まっているんではないか。アメリカと結びついて再軍備体制をすすめ、そのための天皇制の復活強化や、他方において国民の抵抗を排除しようという政策が進行している。まさに憲法改正はそのことを如実に示すものではないだろうか。 骨のある学者が消えて行ってしまっただろうか。優柔不断な輩が残った大学など存在価値はない。国民が真に求めているのは、問題の所在を明らかにして見せることであり、必要な大学・研究者とは、憲法改正論議の矛盾を解析し、その「予見の正しさ」を国民に示して見せることではないだろうか。
2021.05.31
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ワルザザートのホテル。若いころにする旅はどこへ行っても面白い。みんなが大切にしてくれるし、感受性も豊かだからガンガン心にも響いてくる。そして傷つきやすいこともある。もっとできれば若い時に旅をしてみたかったが、そのチャンスが余りなかった。時代もあるのだろう。外国に目がいくまで心の余裕もなかった気がする。目先の課題で塞がっていたこともある。 ・要領が余りよくなかったのは、やり方が分からなかったこともある。何を誰に訊けばいいのか知らなかった。そして、上には、その上がいて、さらにいくつかの上がある社会が、辟易した。組織は自分たちのためにあるのではなく、もっと違うところにあり、エリートの為れなければ疎外される世界でもある。それこそ期待されない人間たちでしかないのだろう。一部の人たちのための教育がされていた。 ・へ2・・・いつの間にか、老いぼれてしまったけれど、戦争体験はない。あるとすれば敗戦後の体験だろう。安倍首相もその戦争体験がない年齢でもある。おそらく第二次世界大戦も自分が戦争に負けたとは思っていないだろう。そして司令官になっても、兵隊で戦場で死ぬことはない。昔の参謀たちもそうだったように、飢えで死ぬことはない人たちだ。ベトナム戦争で死んだアメリカ兵たちも、田舎の青年が多かったと聴く。観光ツアーで、8つの世界遺産を見にインドへ行く準備をしているが、平和な時代で好かった。
2021.05.31
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歴史を見ていくと、現代社会も。あまり科学の進歩のようにとても思えない。60年日米安保改定からどれだけ改善されただろうか。勿論それは、日本サイドから見た視点でしかない。アメリカから見れば、また違うのだろう。日本の再軍備や軍事力の強化は、彼らには予定通りでもある。東西冷戦の顕在化が、大国の軍事力増強に拍車をかけている。世界のリスクは、ここ数年の間に高まっている。 ・それこそ日本本土の沖縄基地化がすすめられているのではないだろうか。国防の名のもとに軍事化がひそかに進められているのではないだろうか。自衛隊の活動は、最早憲法の9条の戦争放棄の概念を超えている。なし崩しにされている自民党の政策は、かって戦前にたどった皇国史観の再現ではないのだろうか。民主主義の問題は、大衆の利益や要求を見極めることであるが、それが無視され始めた。 ・へ2・・・菅政権がまずしたことが日本学術会魏の6人の選任拒否であったが、露骨な学問の自治への介入でもある。戦時中の言論の自由への弾圧の反省として組織された学術会議でもある。それこそ、このパンデミックで、政府には科学に対する対応能力がないことが示されたが、専門家の意見を聞かなければ何もできないでいる。御用学者のアドバイスで乗り切れる事態ではない。学問を蔑ろにしてきた報いでもある。
2021.05.31
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ワルザザートのホテル。叙事詩は、ひとの営みの歴史を物語っている。日々の暮らしで、忘れている何かがあるだろう。それが何かに触れて私たちに語りかけてくるが、それを聞こうとしないのかも知れない。それでも、学ぶ価値はあるだろう。例えば、シンガポールは小さな国だが、世界の縮図でもある。国家の過去も未来もある。耳を清ませば聞えてくる物があるだろう。ナイトサファリで、ヒトの太古を想像することが出来るように、シンガポールの多民族社会は、これからのアジアを示しているかもしれない。運命共同体の地球が見えてくる。世界でもっとも長い物語である「マハーバーラタ」は、何かを伝えようとしているだろう。それを知ることがいま求められているのではないか。サンスクリット語で書かれた韻文の原典は18万行あるという。情報が氾濫する時代にあってこの書は人生の指針を与えてくれるかも知れない。何でも省略しようとして、道を見失っているのではないか。それこそ、全方位で未来に繋がる「偉大なコード」を真剣に探さねばならない。
2021.05.31
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何処へ行くのにも自分の足で歩いていけなければならなかったが、それが忍耐力をつけたし、からだも鍛えたのだろう。汗を掻いた後にのむ水が甘かったように、苦労して分かるものもある。野原を裸足で歩いて怪我をしたが、その爽快さは忘れられない。右足と左足を交互に動かしているだけだが、二足歩行で立って歩けるまで種としてヒトの可能性は他の動物と変わりはなかった。 ・努力をすることが明日を開くのであり、それをしなくなれば終わる。絶望してしまえばおしまいになる。努力して暮らして行くことが生きることだとすればそれは苦厄なのだろうか。苦痛としか思えない人生もあるのかもしれない。他人からどうのといわれる筋合いはない。自分で満足できる生涯にすべきだろう。 ・へ2・・・従兄の葬儀の時、従兄の娘の家族が千葉から来ていて、その子供が高校生でサッカーのレギュラーらしかった。夢を追いかけている目をしていた。その夢がかなうかどうかわからないが、努力をしてほしいと思う。従兄のもう一人の息子は、甲子園に出場した。プロにはなれなかったが、今でもタフな男だ。娘の夫は、夢を叶えさせたいと言っていた。
2021.05.31
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ワルザザートのホテル。今私たちの常識では、とても考えられないことが未来にはあるに違いない。何ができてできないのか。解ったものではない。少なくともいいことばかりではあるまい。人の吐き出す息も、食べた物次第である。汚れていく川や空気が、人間の心や体に良いわけがない。戦後聴いた美空ひばりの歌が、ラジオの深夜便で流れている。子どもだったひばりがいつか大人に為り、やがて病気になって52歳で死んでしまったが、もうこうして思い出の曲になった。年代は余り私と変わらない。 ・毎日のように美空ひばりの歌を聴いていた気がする。それも忘れている。英語の歌も歌っていたようだ。結構巧い英語の発音だ。確かに発声や歌の天才であったのだろう。私たちと同時代人でもあったには違いない。母と同じくらいの若さで死んだとこともある。その年齢を自分は過ぎている。好いばかりではないが、楽しいこともある。それを知らないで死んだ人は多いに違いない。 ・へ2・・・そして、また私たちはまた恐怖や不安を愛してしまう。
2021.05.31
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やはりモンゴルの歴史は、壮大だ。中世の暗黒時代を読んで人間の残酷さを思ったが、モンゴル軍の殺戮の遣り方も無残としかいいようがない。それでも強かに生きて来た人類とは何ぞや、といいたくもなる。チンギス・ハーンから、世界制覇のための長い遠征と時間の経過と激しい無数の虐殺があり、長い戦いの果てに、フビライがついにアジアの最強の男になる。 しかし、フビライには各地のハンを招集したクリルタイで公式に大ハンの称号をうけ、正統の大ハンになったのではなかった。それぞれが広大な領土をもつハン国は、独自の道を歩みだしていた。かってのチンギス・ハーンの統合された帝国ではなかった。ペルシャに侵攻したフレグの大遠征が、大ハーンの名においておこなわれた帝国最後の軍事遠征であった。 フビライは、実質には大ハンではなかった。現実にはキプチャク・ハン国とチャガタイ・ハン国は、フビライの手から離れていたのだ。フビライの頭は中国統治で充たされていた。中国におけるモンゴル人は略数十万人で、中国人は数千万人に達していた。非中国人による露骨な人種差別政策によって成立したのだ。
2021.05.31
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ワルザザートのホテル。猫を観ていると、今しかないのだと思う。どんなに昨日まで可愛がられていたとしても、過去は過去でしかない。人間のような記憶装置がないこともある。今ある状況がすべてなのだろう。餌を呉れるのか呉れないのかしかない。それでも生きていられるかどうかだ。常に限界があり、それ以上は先に進まない。じっと待っている。食べられる時に食べるしかないという追い込まれた環境が猫たちにはある。3匹の仔猫たちをガラス戸を隔てたたった数メートルの近くにいるが、別世界の次元で生きている。 ・猫も人間もルーツを探れば同じ祖先になる。どこかで分かれただけだ。上も下もない。戦略が分けた選択でしかない。今しかないという現実は、同じだろう。だが記憶力を持つ人間の選択は有利な形質だ。広い視野をもっていることになるからでもある。情報や選択肢を余計に持っているものが勝利もする。そこでじっと待つよりも動いた方がはるかに多くの選択をすることができる。だが、間違いも起こすだろう。 ・へ2・・・今だけに集中する集中力は、天才に特有のものでもある。それは動物の勘に似ている。思考がなくても正解を引き出しもする。一撃で猫は鼠を殺す事ができる。鼠は一瞬に死ぬ。一瞬に苦しまずに死ぬという能力は、鼠の遺伝子に組み込まれている。誰に教わらなくても、自分の目でみて多くの知識を手に入れる仔猫たちは活きる上で何をしなければならないかを凄いスピードで学んでいるに違いない。
2021.05.30
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モロッコでみた月。生まれおちる場所が違えば出自も違う。親の投資を得られない子もいる。その人にとって学ぶことがなんであるかで違う運命かもしれない。体の弱い者が野を歩き海を渡ることはできないし、体を鍛えることもできないだろう。虐げられた子が他人を愛するなど並大抵ではできないだろう。それは試練であった。何がその人にとって学ぶことになるかは時と場所でも違うだろう。相手も選ばねばならない。 それにしても間の悪いことが多いことだろう。波長が合わずに折角のチャンスを逃すこともいくつもあるに違いない。どれだけ聞いておかなければならないことを両親から訊きそびれただろうか。そして両親の亡くなった年齢に達しようとしている自分を思うと切なくもなる。 これから何をしようというのだろうか。黙っていればいいだけではないだろうか。所詮それだけのことではないか。より豊かな大地に育ち、より多く陽ざしを浴びた者が大きく育つだけではないだろうか。大風が吹けばなぎ倒されるだけではないか。より多くエネルギーをもつものが高みに達し、より遠くへ行くだろう。人間の努力とは何なのだろうか? 病をえて入院し、広い中庭のベンチでよく考えていたものだ。もし悪性ならば命にかかわり死ぬだろう。この風景を微塵も変えることができはしない。生き延びることができたとしても、何ができるだろうか。生物は少しも変わらず生きて営みを続けている。どれだけ喜怒哀楽があったとしても、ただそれだけの営みでしかない。 未練を残さないようにするために何をすべきだろうか。それを考えるべきだろう。学ぶべき時を逸してはならない。死は常に付き纏う衣服のようなものだ。
2021.05.30
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上を向いても、下を向いても、あるいはどこを向いても自分が分かるわけではなく、比較しても仕方がない。運が悪いとか、色々悩んでみても仕方がない。自分は自分であり、自分の準拠枠の中である。時代もある。これまでめぐりあったひとたちは自分の判断でしかない。良かったとおもえば好かったと思える。周囲の人たちに迷惑をかけているつもりはないが、それは自分だけの考えでしかない。これまでリタイヤした後楽しく遣って来たつもりでいる。勝手にやらせてくれる社会的環境があるからできる。それはいえるのだろう。これでいいとは思っていないが、文化についての知識の蓄積は必要だと思う。気持ちは独りでいても孤独ではない。
2021.05.30
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カスバ街道。NHKで数年前「山椒魚の生態」を遣っていた。井伏鱒二の小説を読んだことがあるが大半忘れた。生態は実に面白い。そして、人生を見るような思いがした。狭い部屋でよく生きれるものだと思っていたが、繁殖の為に精力的な旅をするとは知らなかった。体型が実に滑稽だし、醜いけど水の中を歩く姿は、生気が溢れているようだった。人間よりもはるかに遠い過去から生きている。小さい目でどのようにこの世界が見えているのだろうか。そして僅かな場所でしか生息できないとしたら、いつか絶滅するだろう。ヒトは今も多くの種を殺しており、いつかヒトと言う種もその為に報復の憂き目に遭うのではないか。そんな気がする。グロテスクで、狭い世界で生きている山椒魚の生態に、何かほっとしたものを見た気がした。
2021.05.30
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アメリカが超大国になったのは、情報をより多く集め吸収したからだろう。色んな人種が集まり知識を得たからでもある。偏った情報では先見を得ることは難しい。中国の歴史をそのことを教えてもいる。喩え栄えた時代があったとしても、いつかは衰退もする。時代の本流は様々な変動を経過するからである。敵が味方になり、味方が敵にもなって淘汰を繰り返している。かっての欧州がそうであり、やがてUSAも同じ運命を経過するだろう。 ・私たちがいま目にしている光景も時の流れによって変化していくだろう。10年もたてば見違えるようになるに違いない。束の間の時を垣間見ているだけなのかも知れない。これからも多くの情報を集めることができ、人の集まる場所が、より力を得ることになるだろう。偶然の重なりが、新たな都市を形成するに違いない。そこは何処になるのだろうか。 ・へ2・・・大学にひとを導く求心力が無くなりつつあることは、大学の価値を低下させているだろう。或いは存在理由がなくなるのではないだろうか。そういう予感がする。もう既に死に体になろうとしている。それは教授たちに次代を担う価値がなくなりつつあるからでもあるだろう。先見性をなくしたものに誰が、意味を見出すだろうか。問われているのは、存在理由だろう。 既成概念が崩れ出しているがその足音をどこまで気付いているだろうか。確り観察すれば理解できるはずだが、それができないでいる人は多いのだろう。日本語もいつまで使えるかわからない。消えていくかもしれない。人口が半減すると言われているが、それを食い止めるだけのことができるだろうか。やればできるが、しなければできない。
2021.05.30
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十三佛真言に梵語があり、ネット調べて見たら、読経があったりして興味がわいた。ウオーキングの時に、冊子を持参して覚え始めたら面白くなったこともある。紹介されている本を取り寄せて見るつもりでいる。あれもこれもやっていてはおそらく全部中途半端になる。頭の整理が出来なくてもテストがあるわけではない。それにしても、日本語ではないこの呪文を覚えたのだろうか。 ・あまり現実の世界に役立ちそうにないことで努力を惜しまないでいた人たちがいたのだろう。自分がどれだけ研鑽したとしても、他人は知らないだろうし、ほんの一部の人たちしかその努力を理解してくれなかったのではないだろうか。畏敬とはそうした人たちに相応しい言葉だ。 ・へ2・・・時々自分でも何をしているかわからないことがあるが、利益社会と反対方向のことをしているとしても構わない。蟻のように。そして犀のように。 山で遊んでいてあっという間に周囲が真っ暗になって、自分の足音が響いて、誰かいるように思ったら、恐怖感を覚えてどうしようもなかった経験がある。ひとの恐怖心というのは、経験して初めてわかるものがある。ある勇気をもたないと恐怖心に勝てなくなると思う。
2021.05.30
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梅干を作ろうと思ったが、いつの間にか梅酒になってしまった。しかも梅3キロ。どうも政治家が脇が甘いだけではなく、国民が殆んどそうなのではないだろうか。公務員もそうだし、老舗の若社長の謝罪会見のささやき女将といい、何とも笑止な事件が多いことだろうか。誰が見ても、遣れそうにないことを、裸の王様のように滑稽なことをしでかしている。政治家たちは、どこまで現場を知っているのだろうか。自衛隊の実態を知り抜いているだろうか。経済の最先端でなにがあっているのか、医学の現場や、最先端の分子生物学をどこまで理解しているのだろうか、それで、日本の未来を担うシステムが構築できらだろうか。 ・政党間の争いや、自分たちの政治生命をかけた闘いしか知らないのではないだろうか。次元の低いことで国費を浪費してはいないか。麻生太郎のいう消費税10%の引上げも、それをやったら、また何かあれば同じように他の増税を繰り返すのではないだろうか?つまり、歯止めにはならないものでしかない。要するに方便としての政策に過ぎない。小泉の言うとおりに政治は動いただろうか。安倍は後始末をさせられただけではないのか。福田内閣も、さしたるビジョンがある訳では無さろうである。 ・へ2・・・世界から動かされることはあっても、日本が世界を動かしたことはあるだろうか。受け身だけでは必ず、世界の隅に追いやられてしまうだろう。これからはまさしくビジョンのない論理は通用しない。他人の眼ばかり気にせず、自分に何ができるのか、この10年くらいは、必死になって、それを考えるべきではないだろうか。
2021.05.30
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どうも小細工が多過ぎるのではないだろうか。あれもダメこれもどうだと言っていては、話は進まないだけだろう。何がしたいのか分からない交渉をするから、成果が上がらない。こちらの思惑ばかり、いっているのでは、外交交渉などできる筈がない。数年で成果の上がらない外交官は引き上げるべきだろう。いつまで北朝鮮と交渉しているのだろうか。六か国交渉も形ばかりの交渉でしかない。元々成果などあがる筈がない。こちらにアイデアがないからだ。睨みあって解決ができるなら、もう既にできているのだろう。 ・期限を切ってできなければ出直すべきだろう。何故当事者能力のないひとが交渉に当たるのだろうか。政治家が一線で交渉しないだろうか。やる気がないからだろう。そのうち、北朝鮮のミサイルが日本に飛んでくるのではないだろうか。北朝鮮が先ずやるのは日本だろう。その日本がいつまでも間の抜けた交渉を遣っている。 ・へ2・・・小細工に対する批判も当らないことはあるかもしれない。裏と表のある国際政治があるからだ。 然し姑息な手段は結局は遠回りになる。深謀遠慮のない出来事が多すぎる。
2021.05.30
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人生何が待っているか分かったものではない。受験のとき風邪を引いたし、アイロニカルな出来事がいくつもあった。どうも自分の人生だが、好いことばかりではない。平坦な道ばかりではない。何故こんな目に遭わなければならないのか、そういうことだってあった。それでも我慢できないようなことはなかった。ひとの最期には快楽物質が出るという。これはヒトばかりではないのだろう。 ・生命のシステムには報酬系が用意されている。自分で自分を造ったひとはいない。どこかの馬の骨でしかない。綺麗も汚いもない。誰かが食材を作り、それを料理して、食べたものが井の中に入り、消化して、栄養源になり、それを巧くエネルギーにしてくれている。その排泄物を、清掃してくれる人たちもいる。一人では生きていけない。
2021.05.30
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事実を確認し記録することであり、それをサイエンスすることであり、さらにそれを創作することが、私たちの文明を支えてきた。遣り方は、如何に普遍的論理でなされているかの違いでしかない。社会的ステータスでことは評価もされるが、大抵は埋もれてしまう。稚拙や挫折を懼れることはない。日本は孤独な国家だという指摘は、それは確かに当たっているのだろう。それを自覚しない日本人いないに違いない。日本語の難しさはそれこそ自縛でもある。 ・正しい日本語さえ解かっていない。自分に都合の好いように遣っている。文明や文化をどう視るか。日本史に定説が無いというのもお国柄だ。漢字や仏教や他国の知恵や道具を利用して文化にしてきたのだから。歴史を知ることさえできないで、科学も創作もない。みんなだれもいつも門前の小僧で終わってしまう。日本史ぐらいものして貰いたいが、エゴイストばかりでは困る。 ・へ2・・・学者たちが姑息なのではないだろうか。他人や他国の力を利用とばかりしている。それこそ他力本願でしかない。元々そんなことばかり考えていたお国柄だ。それこそ、イギリス→ドイツ→アメリカ、の次が中国では、余りに情けない気がする。
2021.05.30
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食物を食べなければ、ひとはすぐに死んでしまう。空腹だけではなく、体が酸化してしまうからだ。食べることの意味は深い。個体が存在するから、ものを考えることができる。病気になって、初めて知った知識がある。それまでもっていたものは智慧ではなかった気がする。ヒトのしている事は、反対のことをして知る知識が重要なのではないだろうか。男が女性を理解するように。女が男性を理解して初めて解かるものがあると思う。 ・反対は必ずしもその反対ではない。裏と表もある。自分と他人との境界が、理解できなければ自分の人生もぼやけてしまう。このまま眠ってしまおうかと一度思ったが、やはりブログを書いている。昨日も、夜雨が降ると一旦思って、家でのんびりするつもりだったが、外に出たら、雨がやんでいた。恐らく二年前、否、一年前なら、歩く気がしなかったのではないだろうか。体が自然に動いた。自分の意識だけで、自分のからだやこころは動いていない。 ・へ2・・・自分ひとりで生きているつもりでいるが、はたしてそうだろうか?確かに死にたくないから活きているが、本当に生きているだろうか。「死とは何か」、本当に理解しているのだろうか?それは「他人の死」ではなく、「自分の死」のことである。自分で解かっていると思っているものが、本当は解かっていないかもしれない。この呪縛は中々消えない。 このまえまで書くことがメインだったが、写真が暴走し始めている。右脳と左脳のように主導権を争っている。食物を食べなければ、ひとはすぐに死んでしまう。空腹だけではなく、体が酸化してしまうからだ。食べることの意味は深い。個体が存在するから、ものを考えることができる。病気になって、初めて知った知識がある。それまでもっていたものは智慧ではなかった気がする。ヒトのしている事は、反対のことをして知る知識が重要なのではないだろうか。男が女性を理解するように。女が男性を理解して初めて解かるものがあると思う。 ・反対は必ずしもその反対ではない。裏と表もある。自分と他人との境界が、理解できなければ自分の人生もぼやけてしまう。このまま眠ってしまおうかと一度思ったが、やはりブログを書いている。昨日も、夜雨が降ると一旦思って、家でのんびりするつもりだったが、外に出たら、雨がやんでいた。恐らく二年前、否、一年前なら、歩く気がしなかったのではないだろうか。体が自然に動いた。自分の意識だけで、自分のからだやこころは動いていない。 ・へ2・・・自分ひとりで生きているつもりでいるが、はたしてそうだろうか?確かに死にたくないから活きているが、本当に生きているだろうか。「死とは何か」、本当に理解しているのだろうか?それは「他人の死」ではなく、「自分の死」のことである。自分で解かっていると思っているものが、本当は解かっていないかもしれない。この呪縛は中々消えない。 このまえまで書くことがメインだったが、写真が暴走し始めている。右脳と左脳のように主導権を争っている。
2021.05.30
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モロッコ。なにごともそれほど急ぐことはない。まだ終わろうとしているのではない。それでも漱石は「明暗」を書き終わることができなかった。計算間違いだろうか。もっと生きているつもりだったのだろう。最長の小説を書こうとしたらしい。あまりゆっくりしていると自分の計画通りには行かなくなる。然し、それは漱石ばかりではない。人間はみなそうかも知れない。明日自分が死ぬことを知っていた人は中々いないのではないだろうか。それを感じだとしても他人には伝えられないのかも知れないが。慌てるからしくじるし、余計なことをしてしまう。それでもゆっくりしていると時間がなくなってもしまう。コツコツ何かをしている時が愉しいという自覚があるだろうか。それはやりたいことをしているからだろうし、それが目的をかなえるからだろう。 ・ウオーキングをしていて思うのは、子供たちや少年たちが軽やかにと歩いていることだ。何と素晴らしいだろうか。赤ん坊が<あんよ>をしているのもほのぼのする。種としてのヒトが手に入れた二足歩行は、多くの恵みをヒトに与えた。その恩恵を私たちは日ごろ味わい楽しんでもいる。這い這いから立ち上がり、そして杖に頼るようにもなるだろう。人間の姿は、容にすれば、4-2-3 だとスフィンクスはいう。人は自分たちを偉大な生物だというが、そうだろうか? ・へ2・・・ゆっくり、し過ぎたり、急ぎ過ぎては、間違いばかり。思えば自分の願望と反対のことばかりして、時間の無駄遣いばかり。地球上だけでなく、宇宙空間までゴミをばら撒いている。自分たちの生きるスペースを汚している。傲りですべてを台無しにもする。
2021.05.30
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どこからでも批判はできる。もともとそんなに立派でもないのが私たちの住む社会だ。教育にしろ、医療にしろ、問題はいくつもある。それをどう改善しようとしているだろうか?多くは困難なものばかりだ。解決する能力があるだろうか?問題をアウフペーベンしているものが誰かによって違うだろう。動かすものが、ご都合主義であれば、恣意的なものになる。それが国家権力だからといって、決して正義とは限らない。教育も医療も、そして政治であれば尚更、人も、物も時間もかかることばかりだろう。少しづつであればみえるものもあるし、触ることもできるかも知れないが、横に広がると見失うものだ。巨大化して、ことが大きくなり過ぎると「自己責任」にされがちだ。生活習慣病がそうだろう。大きな問題にしたのは、基本的な教育や医療に対する政治の貧困だ。一見リべラルなアメリカ人の中流社会の家庭に見られる権威主義的パーソナリティの特徴が、刺激的で面白い。(Th.アドルノ他「権威主義的パーソナリティ」)キレイなものだけが生き残る世界にしようとするのではないか。人間たちがもしそう思うのだとしたら、やがて、未来への選択肢をますます狭めてくるに相違ない。そして、「ノーチョイス」になるだろう。その傾向が、エリート社会にはみられるのではないか。ひとびとを囲い込もうとする企みが始まっている。彼らは棄てるしか知らない。ゴミは消去しようとするだろう。誰も痛みを感じないようにすればいい。アンケート調査が意味するものは最大公約数の人間の意識の調査でしかない。人間たちは、物扱いされようとしているのではないか、と思う。限界まで。準拠枠の中でしかない。そのうち選択を誤るのだ。なんでもない詰まらないことで。迷っている間に時は過ぎてしまう。いつも。こうしてここにいることも、それほどうまくやったのではなく、失敗の連続でしかなく。挫折の成れの果て。それを言い繕うとする。うまくいくはずがない人生でしかない。
2021.05.30
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エルフード~ワルザザート。今どこへも行けないパンデミックでもあり、自粛をしながら過去の写真を楽しんでいる。僅かな個人の幸運はあるとしても他に楽しむことと言えば、それほどあるわけでもない。だから楽しめることは大切にしたいと思う。ネガテッブ・マインドに負けないために、生きる知恵が必要だ。自分なりの真の楽しみのためには、マイロードがなければならない。個人の受容体には、自分しか開けられないカギがあるのだろう。そのメカニズムを知らねばならない。それが現代という時代に生きるものが知った得難い知識でもあるのだろうと思う。 ・過去の人は、現代を見ることができずに散っていったのであり、私たちは大いなる恩恵の中で生きているというべきだろう。そして、未来に憧れてもいる。限られた時間の中で、この光を楽しむかけがえのない瞬間を喜ばずして、何をかいわんやであろう。どれだけ苦しみながら他人は生きているのだろうか。それは想像することしか知りえない。その人も喜怒哀楽はそのひとのものだからだ。苦しみや怒りの中から、ひとはより深く、喜びや楽しみを得るのだろう。易々と生きる者にはその感動を知ることはない。世の中をして軽佻浮薄であるものはそれだけの世の中である。 ・へ2・・・自然を深く愛する者は、より深く喜びを味わうのではないだろうか。苦労したものには、深い眠りがあり、深い水底を蹴って、水面高く、飛び上がることができるに違いない。深い悩みは、人間をより思慮深くする。 建築家のレクチャーは、自分で設計されて、実際その住宅に住んでいる人たちとの触れ合いを通じてユニークな設計をされていた。カフェで講義がされるというのも好かった。頭に詰め込む話ではない。日本の住宅は、もともと30年くらいしか持たない。木造で湿気の多い島国というだけではない。社会的な環境もある。銀行は家ではなく人に対してローンを組むが、欧米は家に対してローンを出すのだそうだ。家が100年でも朽廃しないように建設する。30年かかって住宅ローンを払って、やっとローンが終わったと思っていると、その家が価値がないというのは騙されたような気持にもなる。そろそろ日本でも発想の転換が必要だ。
2021.05.30
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カスバ街道。ひとは見かけではない。そうはイイながら、意外とくだらない判断をしてしまう。そして見損なったとあとで思うものだ。あの時、その意味を解していたら・・・尋ねたいことがあったとしても、すでに過去のことでしかない。毎日同じ場所を歩いているが、それが同じに見えるときと、そうでない時がある。見ていて見ていないことに気付く。いつもいっている「・・・ながむる人の心にぞ住む」なのだろう。 ・「住する」ということばが、仏陀の修行の中によく出てくる」。そこで暮らすということだが、意味が深い。どうも私たちは、住していて住してはいないようだ。私の住所はあるが、それは仮の居住でしかない。いつ死んでしまうかわからないし、転居もする。追い出されることもあれば、逃げ出すこともあるだけだろう。そこで人間らしくあるだろうか。ある縁があってインドツアーをすることになった。福岡から上海、そして明日の未明にニューデリーに到着の予定である。 ・へ2・・・今朝は、ラジオ体操くらいして、出発の午後まで、のんびりしたい。家庭菜園をしていて、これから胡瓜がどんどん実をつけるし、ミニトマトも実が大きくなり出したところで、一番楽しい時期である。普段何の手伝いもしない娘たちに水を遣るように頼んでいるがどうも頼りない。枯らしてしまうかもしれない。得てしてこんなことになる。4.20に苗を植えたが、これも無駄になりかねない。
2021.05.30
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エルフード~ワルザザート。ひとはしばしば愛から野心へ移行するものである。しかし、野心から愛へ戻ることはない」(ラ・ロシュフコーの「マクシム」)戦争・飢餓・パニック・大災害などの極度の社会的混乱は、恐怖・疑心・自信喪失・無気力・狂乱の状態を惹起する。そこにあるのは意味など存在しない狂気であろう。然もそれは、コトの一つでしかなく単なる事象でしかない。ヘーゲル的な見方に立てばコトそのもの。コトとは、次のようなモノを指す・事由、事宜、事理・事実、事況、事情、事象、事態・事件、事故、事変・事例、事項、事務、事業ものの世界とは、客体としてのものと、事物化されたコトで成立つ。「こころ」の多様性とは、・こころは、知・情・意の根本の働き・思考、志、思惟、思慮・中心・根本・思い遣り、情け・趣向、工夫 etc感知・認識・思考の能力を意味している。想像力を豊かにし、知性を活性化することでもある。デカルトの「コギト・エルゴ・スム」が出てきたので、まあそのあたりの本であろう。それほど興味はないが、面白いフレーズが出てきた。「青春とは、絶えざる陶酔のことである。即ち、それは理性の熱に浮かされた状態なのだ。」「おおかたの女性たちの才智は、自分の理性よりも自分の幻想を強めるのに役立っているだろう。」
2021.05.29
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日々は移ろうものである。何かを残そうとしても消えるものでしかない。容あるものは消えるのであろう。束の間の感動を言うしかない。それでいいと思い到るまで、旅を止めようとはしないものたちである。宇宙も丸い輪のようなものの繰り返しなのかもしれないが、やがて終わりが来るのではないかという観念を棄て去れない。旅に病んで夢は枯野を駆け巡る。芭蕉は本当は何者だったのだろうか。私たちの遺伝子は、簡単ではない。 ・旅する人もいれば、そこから離れようとしない人もいる。そこで植物のように死んでも本望なのだろう。迷う人もいれば、信念を貫いていくひとも潔いのだろう。ひと筆で書いて迷わない人はいるのだろう。それが自分であると主張もしている。そして人は誰でもないのだ。地球の生物は、動物だろうと植物だろう微生物だろうと、やがては宇宙のゴミでしかない。 ・へ2・・・物質が宇宙では主人公ではない。自分が主人公でいられるのは、それはイメージでしかない。多次元の宇宙が存在しているのだろう。どこまでも旅は続くのだ。
2021.05.29
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講座で、スポーツ行動診断検査(DISC.4)というテストをしたが、スポーツ(運動)についての考え方や問題点を調べるテストらしい。45の設問に答えていくものだ。九州大学健康科学センターの作成によるものだ。講師はそのメンバーらしい。態度・信念・規範信念という項目があり、評点を合計して判定する。それを今やっていた。自己判定は、私の場合は、3-2-3(スポーツ意識の判定表)。総合判定基準によれば、準典型のE型。スポーツ(運動)の意識と行動の水準が高いそうだ。 ・へ2・・・でこぼこの運動能力がある。毎日歩いているから、脚力は多少あるが、上半身が衰えている。それをこれから何とかしたい。心を明るくするのは体が健やかでなければならないからでもある。
2021.05.29
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本当にいいたいことをズバリ言うことは難しい。云おうとする裏側にあるものは複雑だ。どうとでもいえる。いえばいうほど真実から遠のくと感じてしまう。正直であろうとすればするほど嘘にもなる。そうだとすると自分の知恵や知識も自分の無知の延長でしかないのだろう。この世に断定することもできるものはあるのだろうか。自分の確信しているものも怪しくなる。連想するものは一定してはいない。その時々で違いもする。 ・権威のありそうなものは実はそうではないかも知れない。ヒエラルヒーの頂点に真実があるのではない。求めているものは何なのだろうか?何れは逆転の発想に敗れるのではないのだろうか。立ち止まろうとしない現実には限界がある。蒙眛がそこにある。 ・へ2・・・人の人生もある意味、終わらない物語を生きている。私たちは秋にしか運動会はなかったけれど、そしてそれは親戚の人たちや、いつも食べられない御馳走があり、みんなからちやほやされて楽しかったりした。私の周囲にも世界観も価値観も違う人間たちばかりになるのだろうか。
2021.05.29
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トルコ。1590年、秀吉の命令で、家康は江戸に転封させられた。関が原の戦いの10年前だ。当時江戸は、寒村だった。城内からは、見渡す限りの葦の原がつづく湿地帯で雨が降れば一面水浸しになるような荒涼とした荒地だった。家康の武将たちは、その有様に未来への希望を見出すことができず絶望した。併し、家康は違う。城の修繕も新築もしない。そして、荒れた城の本格的な築城も、江戸の町づくりも、着手したのは関が原の戦いのあとである。家康はこの時期、関東一帯を歩き回ったという。その調査は、後年の検地・知行割・町割などの政策に活かされた。そして、家康は、「関東平野」という希望を見出したのだ。肥沃、温暖、豊かな水だ。そして、利根川との闘いが始まる。何が、財宝かは、隠されている。「真実は隠されている。」それを探さねばならない。家康が遣ったことは、特別のことではない。データをとり検証したのだ。当前のことをしただけだろう。安易に手にはいるものは、すぐ消滅してしまうだろう。形のあるものはいつかは壊れてしまう。大火を経験した江戸幕府が、森林保護の管理を遣ったことが、日本の緑を、他国の都市に比較して残存させたという。未だ、隠された真実に学ぶべきことは多いのではないか。
2021.05.29
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モロッコ。「安心させてくれる神話より、動かしがたい真実を受けいれる方が、ずっといい」とセーガンは言った。こころの自由な人が、いつも平穏ではいられない。だが、自由である方がいい。まわりに逆らって生きることは、過酷だが、誰かが通る道だろう。それは、釣り糸になる人がいなければ、希望という「魚」を釣り上げることはできないだろう。法学の研究では、通説と多数説と少数説と判例があり、学説があり、そして自説を述べる。そんなものだ。それが現実だ。それでないと評価がないのだから。
2021.05.29
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カスバ街道。日本のもつ独自性、特殊性とは、それは欧米とまったく異なる文化ではなく、むしろ大きく異なる一方でほとんど広範に似通った面をもっている。19世紀後半に日本が門戸を開いて以来、西欧人による安易な日本見聞録が出回ったことで、多くの誤解を生んだといえる。日本の社会は、明治以後組織や構造面で西欧を手本にして勧められたのであり、多くの面で似通っているはずだからだ。 ・寧ろ西欧と日本の比較文明論的研究が遅れた結果、その対話の変則性が生じていた。今や多くの点でまともな研究がされているようだ。日本と西欧との比較は、近代化の成功の側面に限らない。大正期の民主化の頓挫も、1930年代の軍事政権の成立など、日本の失敗や危機も、同時代のファシズムの一変種と見られがちだ。日本研究とは評価されるようなものは多くはない。 ・へ2・・・飽くまでも「・・・見聞録」でしかないのは、日本からみた西欧も同じだ。何故かといえば、多くは軍事、経済面の戦略が先行するからであろう。こうして学術面の著述が遅れたといえそうだ。日本の近代化が文字通り西欧のそれと同じではない。近代化の独自なパターンが何を意味するかを西欧の研究者はどこまで把握しているのだろうか。未だ綿密な研究が為されねばならないだろう。
2021.05.29
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世の中に天才あれど懼れるな。たとえ小たるといえど、我は我なりの気概あれ。ひとたるに王道はない。不屈のみ。先ず謙虚たれ。己を知り、独歩あるのみ。たとえ非才なるも懼れるな努力あれば、なるものはなるべし。君子であろうとなかろうと、そんなことが問題ではない。自分で決めたことを遣るだけだ。天命などあるはずない。自分のエリアを知れ。自分の人生を、生かすも殺すも己次第。この社会は、天才のためにあるのではない。天才は凡人のためにあるだろう。ケセラセラ・・・だ。そうして多くの人は、自分の役割をちゃんと果たしてきた。いま憎悪あれど、何れ知るだろう、共存なき所に、未来はない。嘆くなかれ、ひとは豊かではないか。感謝のみ。只、平和を守り、自由のために生きて、我が身を惜しむな。志高く、わが道を行くは、愉快というべし。P.S.芭蕉の旅を思い、司馬遷を思うと北し、西しの意味を考えざるを得ない。近代までの日本人にとってこの島国は宇宙であったのであろう。然し、中国でさえその領土は、大陸と言えども、世界ではなかった。中華と信じた民でしかない。東洋は、自然に恵まれて、よくこころを鍛えようとしたが、科学に重きを置かなかった報いが、人びとを苦しめる原因にもなったのであろうか。華僑となって世界に住む場所を求める所以であろうか。日本人も、最早芭蕉の句を、重んじなくなってしまったが、「わびやさび」で惑わされることはないかも知れない。彼の旅は、確かに他国を旅したのではない。裏山を彷徨っただけだろうか。確かに内面の旅は奥行きあるかも知れないが、司馬遷が、「西し、・・・」というのに、比較すれば確かにスケールが小さく見える。司馬遷が宮刑の屈辱を代償にして、ともかく死罪を免れてその後大赦によって出獄し、中書令となるのは、その志の思いを遂げようとしたからだという。
2021.05.29
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成人期の代謝位相から老化のプロセスはホルモン指向による。老人期の代謝位相への移行は、成人期後期に見られる相対的副腎皮質ホルモン過剰により隠蔽されているが、嗜好の変化が進行すると言われる。加齢による予備力の不足した膵臓B細胞は、インスリン分泌亢進と肥満はついに解糖系亢進までフォローできず、インスリンの作用不全を引き起こし、インスリン非依存型糖尿病の代謝位相の発現となるらしい。即ち老人期に対する、過食や肥満及びレム睡眠などの抑制刺激が再三に亘り加えられると早期に、老化にシフトすることになる。成人期に充分な余力をもっているかが問題だ。予備力の乏しいまま老人期の代謝位相にシフトすると成人病を乗越えられなくなる。それは、老人になってからの問題ではなく、寧ろ成人以前の問題であろう。利巧な女性が、老人に眼を向けるのは、生物学的なネガティブ・フィードバック機構であり、すべての生物に厳存するホメオスタシスが関わるかも知れないと思う。ホルモンの本態的作用について、蛋白質の同化と異化の促進作用という相反する二相の作用に対して方向を決定するのがインスリンだという。ホルモン作用を決定するのは、分泌細胞ではなく代謝位相にある。老人期の代謝位相を考えるべきは早いに越したことはない。
2021.05.29
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道は遠い。実はそう思いたいだけだ。直ぐ近くに解はある。それを知りながら、知らないふりをして活きていかねばならない。呆けまいとするから余計呆けてしまう。幸福になろうとし過ぎて転んでしまう。人は利巧過ぎても失敗する。あるいはそのサクセス「ゆえに」没落する。一つのことで成功すれば、大抵「それで」終わることばかり。いくつも幸運をもつべきではないと、人びとは思っているかもしれない。教えや教訓とはそうした歴史の智慧の集積でもある。 ・人の為す事は小さい。小さい砂粒が寄せ集まって広大な砂浜にも砂漠にもなる。汀にいる。それとも空気さえない月面のような世界。エントロピーの法則は、生命の存在をいつまでも許さない。種としてのヒトは、宇宙の実験台でしかない。その痕跡を見つけることさえできなくなる。 ・へ2・・・呆けて死ぬ方が好い。人体は消えて炭素になる。千の風にもなりしない。無から有が生じ、そして無に還る。死が怖いのでも、暗闇が怖いのでもない。幻想に溺れる方が怖い。自分の時間を味わうことができない方がもっと怖い。半分呆けてきたが、なかなかこれもいい。
2021.05.29
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どうしなければならないか、それは事実を事実として観察すれば解ることだ。どんな国際社会だろうか。世界はすでに21世紀になって16年経過している。それでも愚か者の国家のままが余りにも多すぎる。核の廃絶を世界は願っているのに、核を自分たちの愚かな主張をするために 開発をしようとさえしている。誰も反対しないのではあるまいできないのだろう。それはどうしてだろうか。勇気がないだけだろうか。 ・正当防衛もあれば、緊急避難もある。個人の人権尊重が無視されて成り立つ国家が存在している。拉致被害者も、或いは日本という地獄から救済してやるというものだったのだろうか。それは余りにも身勝手な考えだ。第二次世界大戦からもう71年経過しようとしているが、いまだに戦争からの解放がされない。それは自分たちが正しいという主張が罷り通るからだ。 ・へ2・・・そんなことをしてはいけないという人がいなくなると暴走してしまう。そんなリーダーを造ってはならないのは歴史の教訓でもある。 独裁者は愚か者の証明でもある。間違った国家をどれだけ外見をよくしてもただのごみの山でしかない。万里の長城はなんの世界遺産だろうか。
2021.05.29
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モロッコ。寝ることと食べることが脳を最大限に引き出す重要なポイントである。「サーカディアンリズム」と呼ばれる生体時計からの命令でリズムを刻んでいるそうだ。最低体温で目覚め、最高体温に達すると眠くなる。長年の習慣で生体時計のベースは昼間起きていて、夜寝るようにできている。いちばん目が覚めているのは午前10時から12時までくらいで、14時くらいには眠くもなる。交通事故等もこの時間帯に多いようだ。メラトニンは、覚醒14~16時間後に出てくるホルモンで睡眠に関連しており、抗酸化作用、リズム調整作用、性的成熟の抑制作用がある。老化を防ぐこと、抗がん作用あるとされ、眠気をもたらすはたらきがある。 ・高齢者で日中の受光量が増えると、夜間のメラトニン分泌が増えて、睡眠の質が改善したという研究があるようだ。メラトニンは目覚めて、14~16時間後に暗くならないと出てこないので、夜になっても明るくしておくと、すとんと分泌量が減るのだという。(文春5月号神山潤著「国民よ、脳のためにもっと眠れ」より)朝の光も重要な意味をもっている。朝の光の中にセロトニンのはたらきを高める作用があり、精神を安定させるという。セロトニンは、こころを穏やかにする神経伝達物質でもある。 ・へ2・・・夜遅くまで起きていることや、朝の光を浴びないことが、健康に良くないことくらいは一般的な常識だろうが、それが脳にどれだけの影響があり、やがてホルモンにダメージを与えて、それが<がん>を発症させるスイッチを入れることにもなる。どうしても、そういう生活をしなけれならない人がいるかも知れないが、これにも対抗策はあるに違いない。どうしたら、よりよい環境をつくれるのか、その努力を最低限はすべきなのだろう。
2021.05.29
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前半(「白雪姫のポストモダン」)は、おとぎ話から猥雑なポストモダンのテクストへの流れの講義があり、同作品の内容の解説。アメリカでも難解だといわれている作品のようだ。白雪姫のパロデイ的作品として描かれている。アメリカで「枯渇の文学」と呼ばれた時代背景があり、新しい物語ができないといわれたなかで、古い物語に目を向けたものだ。当時のアメリカの政治的背景がある。60年代の父権喪失がある。 雪白姫の悲哀と不満。「馬みたいに乗られっぱなしはもううんざり!」housewife をもじった horsewife になっている。然も自立する新しいヒロインではない雪白姫である。神話に呪縛されたまま話は進行する。 雪白姫は天空に昇る 英雄たちは新たな主義を求めて出立する やれやれ ドナルド・バーセルミ「雪白姫」柳瀬尚紀訳) ・後半は、シルビア・プラス「ベル・ジャー」。50年代アメリカのマカーシー旋風の嵐が吹き荒れていた。「ライ麦畑で捕まって」の女性版ということができる作品。bell Jar とは(釣り鐘状のガラス器)のことで、当時も女性に対する重くのしかかる抑圧的な状況を象徴している。前回のイギリスのジェイン・オースティンも、作品は匿名で出版された。それだけ女性は飾りものでしかなかった。アメリカの女性差別もある。シルビア・プラスも自殺している。自伝ではないが、ヒロインのエスターは精神病院に入れられおり、当時精神病院でされていた電気ショックを怖がっているのが印象的だ。彼女の経歴と重なっている。果たしてエスターはラストで回復したのだろうか。講師は疑問だと言われていた。解釈が分かれている。 ・へ2・・・プラスが評価されたのは80年代になってからだ。ベル・ジャーは幻想ではなかったということであろうか。美しい英語で書かれていると講師は言っていた。女性詩人でもある。今日も少し無理をしないで部屋で休養していたいと思っている。何10枚目かのこの講座の修了証を貰った。
2021.05.29
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和白干潟。バイデン大統領も前大統領とあまり違いはないのだろう。違うといいたいだけかもしれない。もともとアメリカの政府機関は同じでもある。大統領のタイプの違いがあるだけだ。共和党も民主党も同じ穴の狢でもある。アメリカの大国主義は、いつも平和志向ではない。むしろ戦争を仕掛けてきた。黒船来航以来、腐れ縁でもある。 ・日本史は、世界史の一つでしかないが、日本人の史観は、おそらく簡単には理解されないだろう。丁髷や芸者だって、日本人だって本当に理解できているわけではない。なぜ剣をもって武士はいなければならなかったのだろうか。いつも戦争をしていたわけではない。貴族たちは、遊んで一生を過ごしたのだろうか。テレビの見過ぎのような短絡的な人間が増えていけば、この国の未来は危ない。 ・へ2・・・ゴルフの好きな政治家が、トップになるようでは国家では、国民は泣く目になる。老人には明日はないのであり、明日を決めるのは、明日に生きる者たちでなければならない。香港市も、新疆ウイグルもチベットも、ミャンマーもタイも、北朝鮮も韓国も、アメリカの非白人も、そして日本人の大衆も悪政に苦しんでいる。
2021.05.29
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ミヤコドリ。能ある鷹は爪を隠すというが、あまり周囲から天才だといわれていると妬まれる。他人の口ほど怖いものはない。目立とうとすると、叩かれるのが常だ。もともと世間は嫉妬深い。間抜けな人生ほど尊ばれる。叙勲叙勲と浮かれている人ほどKYなのだろう。世の中を軽く見ていると寂しい運命が待つことになりかねない。。それは、「からだ」は正直だということだ。少なくとも自分のからだは、虚偽ではない。嘘もつかない。こころは振れても、からだは単純ではないが素直ではある。それを日々体感している。ひとは努力しないから、その反撃に遭う。努力しないものは早死にもする。それは優しい社会ではないからでもある。問題の所在を教えない。 ・自己責任の法則。多少甘く見ていたが、それは案外しんどい。からだを動かす事だって、怪我でもして動けなくなれば解るが、こころだけでは1mmだって動けないのだ。死にたくなくても人は死ぬ。愛しても愛さなくてもひとはいきているし、死ぬ時は死ぬ。時間も止められない。使わなければ足も手も動かなくなるだろう。先月から一日3万歩を歩いている。一日1万歩増やしただけで違いがある。これが厄介だ。 ・へ2・・・然し厄介な分だけ、数値が改善しているので、それを続けた方が良さそうなのだ。遣り過ぎても壊れることだってある。頂上がどこかは解らない。誰にも解らないのは自分のからだの状態でもある。テストが出来ない。「お前は馬鹿だ」と自分のからだから言われている気がする。いつまで経ってもわからないのかと。当分一生懸命ウオーキングするしかない。
2021.05.29
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この前の講座の時に毎年、刷新される文庫本を買って1年間読み続けているという講師の話に、「神曲」を読んでみようという気になり、部分的には何度か読んでいるが、大抵忘れている。 ・いつまでも活字が読めるとは限らない。目も悪くなっている。そう思うとこれまでとは違う想いがある。何の障害もなく遣れる時は、何とも思わないが、できないとなるとその有難さが解かる。ただ呼吸をすることでさえ、一息ごとに苦しい人もいる。夜も眠れない痛みを持つ人もいる。健やかに生きるということが損なわれて痛感するのは遅いのだ。鞭を入れられて走るのは誰にでもできる。 ・へ2・・・教師もいれば、反面教師もいる。そのどちらで学んでも、あとは自分の視野と洞察力のパワーがどれだけあるかの差だろう。ああだ、こうだと言われて気付くようなことなら、手遅れだ。「神曲」も今だから理解できることを探してみようとおもう。。斜陽の国の大臣の美学なのだろうか。国民を軽視し過ぎた果ての世迷言かは知らない。これまでの明治維新からの日本人たちの行く末は、甘くはない。因果応報。したことの責任はある。
2021.05.29
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